新・私の本棚 大平 裕 『古代史「空白の百五十年間」の謎を解く』 第一章 2/2 補追
卑弥呼(天照大神)から神武・崇神・応神へ (PHPエディターズ・グループ)
Kindle版 公開サンプル 一頁 短評(評価外) 2022/12/20 単行本 2021/12/06 書評2024/11/26, 2024/12/08
*記事承前
文林郎は、文官、物書きであり、完全報告が勅命の任務です。旅程報告欠落を許容される事はないのです。要するに、氏の見解に従うと、裴世清は、長旅していながら報告していないと見えます。当然、同行の副官、書記、軍官ともども、揃って「斬首」です。俀国伝は、血塗られた史書となります。
今さらながら、氏の知識の欠落のほんの一部を補うとすると、「倭人伝」郡倭行程は、郡使以前の初期記事であり、伊都(倭)到着で完了です。
話は長くなりましたが、「やまと」は「邪馬臺」でも「邪馬壹」でもなく、正真正銘ヤマト<邪馬堆>だったのです。この「と」という発音の正しさは、隋使の証言だけでなく、次の唐の時代、『後漢書』の注釈者の一人である李賢(一時は唐の太子であった章懐太子、則天武后の第二子)が、「案ずるに、今は邪馬堆となずく。音の訛なり」と、「堆」と呼ぶべきと、『後漢書』に注記しています。改めてその正しいことが、証明されています。
章懐太子は、当時屈指の文筆家ですが、詩文に通じた一流の教養人であっても、史学者ではないので、七世紀唐代の隋書編纂時と同時期と見える後漢書附注は、不確かであると共に、後漢書に対して物した音韻解釋は、別途確認できない限り、無効です。
史学界の伝統的な筆法に不承不承従うと、太子は、司馬晋の陳寿とも南朝劉宋の范曄とも同時代人ではありません」西晋崩壊後南方に退避した東晋から宋齊梁陳が継承した「中原文化」残照が、北方異民族出自の隋唐による南朝公文書史料廃棄で塗りつぶされた文化断裂後台頭した太子は、北朝系文化人として尊敬されても、検証なしに「証明」は受け入れられないのです。まして、遥か彼方の「俀国」のことばなど聞いたことは無いのです。
隋使は、ヤマト<邪馬堆>という国名とともに、倭国が東西に長く、徒歩で五カ月と記していますが、これも『魏志倭人伝』の都へは水行三十日という倭国の役人の発言と合ってきます。すでに長途で方向感覚がおかしくなっていた魏の役人に対し、地図もなく、身振り手振りで東の方向を指してしまった一大率の役人の振る舞いも、理解できないわけでもありません。そこで筆者は、本書では邪馬台国をヤマト<邪馬堆>と呼称することにします。
*無縁の世界
大事なのは、「倭人伝」時代から数世紀を経て、倭には街道に牛馬の便があり、文書計算に通じた官僚体制が充実し、戸籍記帳も整ったので、広域文書行政が創業され、国の勢力範囲がようやく拡がっていた隔世でした。つまり、三世紀時点では、伊都国に中心をおいた倭にとって、東方、島外の世界は、支配の及ぶものでは無く、音信不通に近かったのですから、言わば、無縁の衆生だったのです。
というものの、竹斯国滞在中に示唆されたと見える「数ヵ月かけた移動」が、徒歩なのか、騎馬街道なのか、書かれていないので、街道道里は言いようがないのです。いや、何里と道里を言ってしまうと、十里ごとの宿場設定などの規定が強制されるので、風評に留め、道里を明記しなかったとも思えます。なにしろ、数か月単位の概数ですから、精度など問うべきではないのです。
氏の講釈の筆致で、三世紀の帯方郡使は「長旅で方向感覚が狂った」と良い面の皮です。普通の人間は、体内磁石など持っていないので、異境に行けば、自前の方位感覚は通用しないと分かっているのです。狂うべきものが無いのです。初期の往来で、道里行程記事の総日数想定の基礎となった周旋途中の滞在時、毎度、即座に確認したはずです。
仮想の(ぼんくら)応接者一大率は、あろうことか地図も土地土地に固有の方位表示も知らず、通詞も無く、身振り手振りで「東」を指したとは、合わせて、史料に記録が無い氏の臆測であり、控えられた方が良いでしょう。各地の統治者は、当然、東西南北を知悉していたのです。現代でも、中学理科の知識で晴天日一日で確立できることです。
ちなみに「倭人伝」から「引用」された都へは水行三十日との発言は、氏が中国史書書法を知らないための誤解と見え、確認できません。郡使は卑俗な「役人」で無く軍官であり、下っ端文官を起用した隋使と大違いです。
「倭人」は、郡に何度か参上して言葉が通じていたので、礼節を知ることが知られていて、郡高官を使節に任じたのですが、俀国酋長は、隋帝と張り合おうとする無礼極まる「天子」であり、皇帝の代理一行を斬首する可能性もあったので警戒したものです。
と言うことで、氏は、三世紀史書陳寿「三国志」魏志「倭人伝」も五世紀史書范曄「後漢書」東夷列伝「倭条」も、一向に理解できていないのに、後世史書を理解しようとは、はなから無理です。もっとも、隋唐代史官は、陳寿の漢文が読めなかったから、現代日本人が一読理解できなくても無理無いのです。教養不足は、東夷だけの欠点ではないのです。
◯まとめ
書紀推古紀は、隋書俀国伝を知らずに、もっともらしく創作しているため、丸ごと誤謬に陥っています。今日であれば、偽書として激しく追及されるものでしょうが、当時、隋書は知られていなかったので、「俀国伝」を古代創作したようです。
いわば、「偽書」で史論を塗りつぶすようでは、著作全体の信用を失わせるので、厳に慎むべきでしょう。
氏は、正確な時代考証を氏の労作の基礎とするよう改訂すべきでしょう。
ちなみに、ここまでの労苦に食傷して、本書の購入には到っていないのです。当方は、海女(あま)ならぬアマゾンKindleで、追加費用なしで、本書を全文購読できるのですが、読んでしまうと、自律的に指導義務が発生するので、見ないことにしています。基礎部分に大きな傷が明らかですから、そのように罰当たりな基礎の上に構築された大著は、はなから瓦解しているのです。素人が教育的指導などとは、思いあがりです。
これは、試読の功徳です。瞑目頓首。
以上
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