新・私の本棚 古田 武彦 「倭人伝を徹底して読む」 里程・戸数論 3/5 追訂
大塚書籍 1987年11月 ミネルヴァ書房 2010年12月
私の見立て ★★★★★ 必読書 批判するなら、まず読むべし 2020/10/30 追訂 2023/04/21 2024/05/29, 12/09
*加筆再掲の弁
最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。
〇「誤差」の意義
古田師の慎重な対応にあっても、素性が不確かな数値に不確かな計算を施した結果は「誤差」で論じられないのです。世間には、こうした不確かな計算結果を多桁表示する豪傑/大丈夫も、結構多数いますから、古田師は、むしろ、妥当な対応を心がけているのですが、それでも、感心しない言い回しが見られます。
六倍に隔絶した「道里」を論議する際に、誤差論は実は些末/無意味です。
*図上推計の不合理
近来、古田師の考察と同様に、壱岐島の現代地図から「方四百里」仮定に基づく推定を行った論者は、一里五十五㍍と見ています。
先哲の手法を無断模倣した提言を独自の所説と説くのは、非科学的、無礼ですが、かくなる暴論が世に出るのは、氏の壱岐島考証が、学術的に不安定だった事を物語っているのです。
▢「方里」小論
それはさておき、根本的で「深い」のは、韓地、壱岐島「方里」解釈です。
古田師は、まず、韓地「方里」を正方形図形と解し、後に、四辺形とみなしたと訂正しましたが、これは、依然として早計です。
「方里」に関する誤解は、「誤解した解釈の方が、すらすら分かるような気がするので、誰も陥る陥穽です。」とは言え、それに、ご自身が気がつかないとしても、身辺に数字に明るい人がいさえすれば、助言が得られたはずですが、助言が得られなかったのか、得られても、自説に反するものは耳に入らなかったのか、他人には分からないことです。
いや、そうした話は、ざらにあるので、古田師が特にどうこう言うべきものではないのです。
〇面積表記の「方田」
漢代算術教科書「九章算術」に従えば、「方」は「面積」表現です。まずは、正方形に始まり、長方形、台形、果ては、円形などの耕地の各部寸法を測量して面積を計算する計算手順、面積公式を示しています。
例えば、台形面積を得る公式は、長辺と短辺を足して二で割って、平均値を得て、これに高さをかけるのです。このような面積公式は、精緻なものと見えますが、土地測量の現場で、「台形」と診断した上で、平均を得る高度な計算を要するのです。
実は、実務上の運用は、融通無碍なのです。要は、四辺形に見立てた田地の縦方向(従)と横方向(廣)の長さの「平均」を求めて、積算すれば良いのです。いや、「平均」と見ると、何カ所か実測して平均計算するように思いがちですが、要するに、田地の中央部を見立てて、そこで、従廣の二方向を測り、かけ算すれば、一度の計測で田地面積を測量できるのです。
新規に開鑿した田地であれば、田地形状は方形であり、測量済みだから、簡短な手順で良いのですが、実際の田地の形状に個性が有ると、実務は、多少込み入って舞えますが、多少の見立て違いは数が増えれば相殺されるので、概して、そのような測量方法で、用が足りるのです。
但し、個別の耕地の面積は、「方歩」が記帳されたものと思われますが、土地台帳は、面積記帳と決まっているので、単に「歩」と書いたものと見えます。面積単位体系では、「畝」、「頃」に換算されると見えますが。ここでは、飛ばすことにします。
そのように計測された個別の田地の面積を、韓(国)なり一支(国)全体で積算すれば、それぞれの「国」の耕地面積が得られます。積算の途中で「方歩」から「方里」に換算され「方里」のなかでも、「方十里」、「方百里」、「方千里」の桁での計算が行われるはずですが、ここでは省略します。
少し復習すると、現実世界では、農地が幾何学的に厳密な図形であることはなく、また、面積測量にさほどの精度は必要ない、と言うか、別に大まかで良いので、四辺形らしい形状の農地であれば、中心部基準で縦横の概寸を測量して、「縦」(従)掛ける「横」(廣)で「面積」計算すれば、十分だったのです。むしろ、精度の高い測量をしようにも、全国各地に多桁計算を理解している「数字に強い」村役人は揃わなかったのです。
因みに、「九章算術」は、円形、扇型などの形状を例題で述べていますが、それは、例外的に現れるだけで、大半の農地は、方形で開発されていたので、すらすらと測量、記帳、面積計算できたのです。
〇国力指標としての「方里」
と言うことで、伝統的に教育されている「方」は、正方形、四辺形に限定されるものでなく、不規則な外形の領域も、収穫高に関係する「面積」(畝や頃)で表すのです。つまり、肝心なのは耕地面積であり、要は、「方里」は、土地台帳に基づいて、管轄地域の耕地面積を足し合わせたもので、地域の農業生産力、国力を直裁に表現しています。それが、例えば、韓地「方四千里」の意味です。
〇「方里」深読み~不確かな論拠の棄却 再説 2024/05/29
諸兄姉の説く「方里」精測は、難易度が高く、計数が結果を左右して、大変不安定です。
*一大条
壱岐島「方四百里」は、現代風に言うと「400平方里」です。「里」は、当然、450㍍の普通里です。
さて、記事には、島に課税対象「良田」が少ないとあります。ちなみに、「方里」は面積ですから、「道里」の普通里450㍍とは無関係です。
帯方郡文書使の対海国治からの行程で、壱岐島に上陸して一大国治までの行程は陸上を進みますが、対海国治~一大国治間の水行渡海一千里に織り込み済みであり、殊更陸行などと言わないのです。
「倭人伝」は、海を知らない中原人が手早く理解できるように書いたため、狗邪から末羅の間の三度の渡海は、中原大河に擬えた「大海」を渉るのであり、塩っぱい水流に浮かぶ洲島、中の島を渡り継ぐ渡河に擬えているのです。
ですから、細かいことは外していて、実際は、州島を横切るのに日数がかかるなどと言わないのです。もちろん、一大国治から、海岸に出て、末羅国治までの渡海も同様です。夫々、大海の海中に国治が浮かんでいるわけではないので、海港/海津から国治、国都から海港/海津までの移動は、端たであるから書かないのです。
さらに言うなら、夫々、「千余里」と書いているのは、百の位以下のはしたがあっても、道里として勘定しないと明記しているのであり、それを、爪楊枝でせせるように、殊更書き出すのは、不正確、つまり、謬りなのです。史官は、公文書記録を精確に修正するのが任務であり、それが、史実なのです。
以上の通り、当時存在しなかった壱岐島の現代地図から想到される「方里」推定は、無意味です。
*対海条
一大条論議の方が、明快なので、対海条論議はあと周りになりましたが、細かく議論するのが精確なものだとみている方もいるでしょうから、以下は、蛇足と言わないで欲しいものです。
つまり、細かい穿鑿は、重ねて無意味の追い打ちですが、対馬の現代地図から見て取れるのは、上下両島の周辺を測量するのは無意味だという確認に過ぎません。対海国治がどこにあったかは別義として、そこは、戸数数千戸相当の聚落であり、石積みの土壁隔壁で囲まれていないとしても、海岸を囲むものとは別であることは明らかです。山島ですから、海岸沿いの「道」は無く、船で行き来していたとしか見えません。
以上は、当記事で禁じ手としている現代地図から想到したのですが、狗邪国治から対海国治に至るのは、「渡海」、「水行」と称しているのに相応(ふさわ)しい港伝いの船での移動だったでしょう。
繰り返しになりますが、そのような細部の行程は、既に、水行千余里に織り込んでいたので、改めて測量などしないのです。
いや、本条の論議は、本来、一大条に同文で済むのです。
「方里」が、国治管理の耕作地の面積合計とすれば、根拠は、土地台帳の戸別農地の積算であり、改めて計算しなくても、当然、国王/国主が把握しているものです。そして、あくまで概算ですから、一の桁まで精査しなくても良い/してはならないのです。
言い換えると、「方里」は、面積単位であり、これを、次元の異なる距離単位である「道のり」の「里」、「道里」に起用するのは、重大な誤りです。いや、史学会なべて同様なのですが、そもそも、陳寿は、面積「方里」が道里の「里」と混同されないように、記法を変えているのですから、その真意に従うべきなのです。
*韓条
因みに、韓地諸国は、概算とは言え「戸数」が示されていますから、既に戸籍が導入されていて、各韓国から帯方郡に「方里」が報告され、郡が、戸数、口数と同様に、諸韓国方里を合算したものと見ます。以下、従来通り、一普通里は、450㍍、0.45㌔㍍(公里)として、概算評価を進めます。(公里は、SI単位の㌔㍍の中国語訳です)
韓国「方四千里」は、一辺一里の「方里」を四千個集めた面積なので、例えば、縦八十里(36㌔㍍)、横五十里(22.5㌔㍍)、SI単位で、810平方㌔㍍程度ですから、帯方郡に服属していたとはいえ、戸籍/土地台帳に記帳された耕作地は、まことに散在状態であったことになります。その点、山野、渓谷が多くて、耕地が少ないとしています。
韓国は、公孫氏が、帯方郡を創設して積極的に取り組むまでは、耕作地が乏しい「荒れ地」とされていたので、とても、郡として自立できる実質がなかったものと見えます。
*高麗条
強大な高句麗が「方二千里」と韓地の半分に過ぎないのは、所領が高山深谷が多く、農業不適地が大半と書かれているためであり、強力な騎馬軍団を擁した高句麗には、広大な牧草地や馬場があり、その実質的な領域面積は韓地に劣らなかったと見ますが、農地で国力を評価する中原政権には、そのような耕作不適な土地は、価値のある土地でなく、一切国力に貢献しないと見ていたのです。
*「方里」結論
中原の黄土平原は、耕作可能地が、誠に多いので、領域面積から容易に「方里」を推定できたと思われます。もちろん、中原領域では、克明な戸籍、土地台帳が普及していたので、東夷のように、臆測を重ねる必要は無かったのですが、史料の表面/字面だけ読み囓っていると、ついつい、機械的な基準適用で、判断を誤ってしまうのです。ご自愛ください。
この点、陳寿は、東夷伝諸國の領域面積から耕作地面積を推定するのは、誤解に陥るものと見て、東夷伝に「方里」を多用したものと見えます。つまり、東夷の領域は、耕作地に基づいて課税しても大した税収はないので、帯方郡、楽浪郡は、別の基準で収入を得る必要があると述べていることになるのです。(読む人が読めば明解なのです)
未完
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