新・私の本棚 川村 明「九州王朝説批判」9/9 2024A
~七世紀の倭都は筑紫ではなかった サイト記事批判
2016/03/20 2018/05/05 2019/03/01 04/20 2020/06/24 2021/09/12改稿 2022/07/30 2024/10/29, 12/12
私の見立て ★★★★☆ 賢察に潜む見過ごしの伝統
*加筆再掲の弁
最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。
◯夢物語 2020/10/28 補充
以下、裴清滞在記を考察する際に、正史前例から辻褄合わせを考えます。
*王城不到達の言い分
漢使(魏使、隋使の総称)が、蕃王の王城に至らなくても違命にならない事例として、范曄「後漢書」西域伝を前例として、「裴世清は、高官(長老)に伴われて竹斯から東の海岸に着いたが、竹斯からそこに到る海峡の危険と東方遥かな目的地まで連続する岩礁が波を噛む荒海の様を聞いた上で、『風待ち、潮待ちで、半年を経てようやく安着するが、それは、幸運にも難船を免れたものに過ぎない。難所では、難破船の残骸が船人を呼んでいる』などと聞いて、恐れを成して竹斯に引き返した」とでも書けば良かったように見えます。
隋使としては裴世清なる文林郎は、行人なる文官であって武官でなく、国王接見を厳命されていたわけで無いので申し開きはできたでしょう。
帝国の威信をかけた使節派遣は、巨費を投じている事もあり、一介の最下級官吏が無謀な行程を採用する事は許されなかったと見るのです。当然ですが、隋使には、お目付役の官吏/武官が同行していたはずです。総勢百人と称するのが常です。
*武帝使節安息国訪問記の先例
漢帝の任じた漢使が、相手国の国王と会見せずに、萬餘の兵と共に国境防塞を与る「長老」に国書を渡して帰国した例もあるのですから、前例があれば、使命不達成で処刑される事は無いのです。(その際、安息国の文書使が、西方数千里の国都までの街道を短期間で疾駆往復し、国王の親書を持ち帰ったと記録されています)(班固「漢書」西域伝・安息国伝)
裴世清来訪の際に、(実行不可能な)大移動が無かったものとすると、以上の成り行きが浮かんできました。
そのような苦肉の策が、書紀編者に一切伝えられなかったため、今見て取れるような、不自然な推古紀記事になったものと見えるのです。
素人考えで恐縮ですが、ここに異議として提示します。
*下級官人派遣の背景
漢使として、最下級に近い官人が任用された背景として、蛮夷の国への漢使が、しばしば殺害されたことも関係しているようです。武帝時代に、西域諸国に初回漢使として派遣された百人規模の大人数の使節団は、潤沢な宝物を携えていたのですが、時には、問答無用で使者の首を切って宝物を奪い、地の果ての漢帝国に挑戦した例もあるのです。それも一度ならず。
俀国の場合は、それに加えて、中原の官人が荒海を不慣れな海船で越える難儀もあり、とても、初回使節に高位の官人を起用できなかったのです。要は、とても確実な生還を期せない文字通り「必死」の渡海行と思われます。
「倭人伝」のように、山東半島から安全な渡船で渡海し、以下、安全極まりない「新羅道」の内陸行程で、時点では新羅南界である海岸から、安全な渡海に身を委ねるような随一安全な行程は、倭と新羅の関係が穏便でなかったのか、新羅と黄海の航行を競っていた百済に憚ったのか、隋の体面に関わるとして、海船仕立てにこだわったのか、とにかく、内陸人なる長安/洛陽官人には、思いもよらなかったのでしょうか。我々、後世の無教養な東夷には、理解できないことなのでしょう。
〇最後の締めくくり
以上の締めくくりは、諸論者に、魏晋代にとどまらず、隋代に到る期間の瀬戸内海海上移動のとてつもない危険を伝えられていない事を反省して、多少、メリハリをつけたまでです。
私見としての「裴世清は、終始竹斯にとどまったのではないか」という論議は、変わっていません。
念のため言い添えると、以上の長口説は、魏志「倭人伝」及び隋書「俀国伝」の史料解釈の是正を述べたものであり、氏の好まれない「九州王朝説」を押しつける趣旨ではないので、ご不快であればご容赦いただきたい。
完
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コメント
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刮目天 一(はじめ)さん
今回は、気になる点に止めて、手短にします。と言うか、そのつもりで書き出します。
枕として:図(イメージ)は、見る人ごとに受け止め方が変わるので、論理主張に不向きです。数学など約束事の決まっている図(ピクチャー、ドローイング)だけが、有意義です。他人の著書の表紙の「大写し」は、貴見に対して何の意味もないものと愚考します。
まず、「考古学の成果」とおっしゃるのが、どこの誰がいつどこで発表したのかわからなくては、読者は理解に苦しむだけです。
近年NHK番組で聞いた纏向派考古学者の意見では、古代の纏向世界は、筑紫世界と終止隔絶していて、無関係/独自の発展を遂げたと言明していました。九州に王朝があったかなかったか、知ったことではない、纏向が、今日の日本の礎だという強い信念が窺え、脱帽です。
次ぎに、貴兄含めた各位が否定しようとしている「九州王朝」とは、何なんでしょうか。「古田」嫌い、辛子明太子嫌い、焼酎嫌いか。
使節蕃客を受け入れて尋問した隋は「魏晋代以来、倭は継続して中国と交流している*」と確信して、これは、文字資料を一切持たない、時代比定が自力ではできない考古学者の当て推量より、随分確かではないでしょうか。(*今回の川村氏批判で今さら気づきました)
九州王朝説が「根強い支持のある」ものとのご意見は意外ですが、誰が、何人支持していても、つまらない意見はいずれ廃れるのです。
そう、小生は、別に信念をもって「九州王朝」を支持しているのでなく、文献史学の根幹である「文献解釈は文献自体の解釈を始点とすべき」だと信じているだけです。愚公山を移す、かどうか。手桶の水を柄杓で撒いて、山火事を消せるかどうか。徒労に勤しむだけです。
そうそう、貴兄のように、手強いコメントをいただくと、小生も、日夜思案するので、脳の活動寿命が延びる気がします。謝辞に代えて、駄弁で締めます。
以上
投稿: ToYourDay | 2020年6月27日 (土) 23時11分
いつも不躾なコメントに真面目に応答していただき心より感謝いたします。コメントが長くなりすぎ、図でのご理解も考え、前回のコメントを含め拙ブログに掲載させていただいています。その中で結論として最後にも述べさせていただきましたが、当方の心情の問題でなく、九州王朝の存在は考古学の成果によって完全に否定されるという結論です。それ故、日本書紀の当方の解釈と異なる川村先生のご意見のすべてが納得できるものでないにしろ、根強い支持のある九州王朝説への批判に賛同する次第です。
一方、先生は先生で様々な知見から当方の意見とは違っていますが、当方は自身で掴んだ事実に基づく推論を提供するだけで、先生の信念を変えようなどという大それた意図は持ち合わせていないので、軽く受け流してくださいとお願いした次第です。今回も、お陰様で、だいぶ頭を整理させていただき、心より感謝いたします。また、勉強させてもらいに伺いますので、どうぞよろしくお願い致します。
投稿: 刮目天 一(はじめ) | 2020年6月27日 (土) 21時25分
刮目天 一(はじめ)さん
丁寧なコメントいただき感謝しています。負けずに丁寧に回答いたします。
いつも、貴ブログは拝見しているのですが、貴見の元になっている史料の「史料批判」が、よくわからないので、安易な批判を避けています。
今回の貴見で言えば、小生が手厳しく虚偽(フェイク)の塊と批判している著書の著者である長野氏を「古代海洋技術の専門家」と崇めているのでは、技術的な意見の評価と判断がずれているので、はなから、貴見に従うことはできません。
また、長野氏が、憶測の根拠とされている「日本書紀」は、少なくとも、当分野では、「史料として全面的には信頼できない」ので、これもまた議論の俎上には載せられません。
誠に恐縮ですが、六世紀末、ないしは、七世紀初頭、瀬戸内海を、隋から渡来した帆船が易々と航行しとする根拠はいただけなかったと考えます。
また、河内から大和に入る主流が、大和川の遡行というのも、小生の過去記事で、理詰めで否定しているので、貴見には従えません。話しの流れで言うと、数百人どころではない武装軍兵が、小型の漕ぎ船に分乗したのを、大和川の急傾斜した流れを漕ぎ上るという図は、到底あり得ないものと考えます。いかなる時も、徒歩で行軍するのが兵法の大原則であり、山があれば乗り越えるものなのです。
ちと余談めいてきますが、近隣で漕ぎ船の遡行があり得るのは、淀川のような傾斜も流れも緩やかな大河だけであり、大和川ではないのです。小生のお勧めの進軍路は、淀川を比較的大きな船で遡行して最後は木津に至り、比較的背の低いなら山を越えてね後の平城京地域に入るというものであり、以下、平地なので、特に難関は無いというものです。特に支持者のない素人談義ですが、労少なくて功の多い妙策と見ています。
折角のご意見を聞き流しているようで恐縮ですが、この批判を提示するまでに、かなり資料を読み込んでいるものとご理解ください。
次ぎに、ご教示いただいている「邪馬台国」論ですが、小生は、隋使来訪で言えば、敵の目的地は「竹斯国」であり、ここに腰を落ち着けて探偵したと隋書を読んでいるので、倭人伝誤記論などは、お呼びではないのです。
因みに、隋書は、俀国について、「魏晋代以来中国と交流を続けていた」、つまり、倭の後継と明記しているので、中国側は倭はずっと九州北部にあったと認識していたことが明示されていると考えます。
川村氏は、隋使が、「竹斯国から東に十余国を経ると海岸があるのを知った」という記事を、いつの間にか長期間を経て海上移動で河内湾岸に着いたと解釈していますが、これは、解釈でなく「創作」に属するものです。裴世清が、延々数ヵ月に上る長距離移動の顛末を、すっぽり書き漏らしたと決め込んでいるのです。
裴世清は、文林郎、つまり、図書館司書のような役所(やくどころ)であり、職業柄、公式文献の読み書きについては熟達していたので、不用意な書き漏らしなどしないのです。まして、未踏の敵地で遠路遙か移動して、困難な寧遠の任務を果たしたという一大功績を、わざわざ逆粉飾して何も書かないはずがないのです。
また、中国側が、俀国を九州北部の手近な場所でなく遠隔の地と見ていたのなら、其の地に至る行程を書き漏らすのは、皇帝命令に反する抗命であり、他ならぬ「煬帝」に対してそのような抗命をしては、ただでは済まないのです。
最悪、使節団一同全員死罪であり、皇帝の意向次第では、全員の妻子も皆殺しになるのですから、裴世清一行は抗命などせず、使命を果たしたのです。隋書を原文に忠実に解釈するというのは、そう言う読みまで突き詰めることです。
以上は、随分丁寧に突き詰めたので、できることなら、川村氏ご自身の批判を受けたい位です。
ただし、川村氏は、日本書紀という国内史料を、深く、深く読み込んで、そのように解釈する事を信念としているので、隋書は、史料解釈を必要とする外国史料に過ぎず、提示された解釈は、氏の信念に照らして、自動的に正しいことになるのですが、小生は、隋書、さらには、倭人伝しか見ていないので、川村氏の隋書解釈には同意できないのです。
貴兄は、無造作に「文献にあることをバカ正直」に信じることを蔑視されていますが、「まずは」文献を読むことに努め、外部資料は、厳格な史料批判を経て採り入れるというのが、素人の学ぶ道として、古代史学の正道と思いますので、ご意見には同意しかねます。以下、舊唐書論は、根拠不明なので同意できません。
そうそう、安本美典氏の見解を転送されていますが、同書と引用書を読む限り、氏は、自任されているように、史学の使徒であるから、安直に断言するはずはなく、「三世紀九州の言葉と後世の大和の言葉が、遠大な距離と数世紀の時間を経て、文字記録に頼らずに繋がっていると見たら、依拠されている論議が正しいと判断できる」と言っているのであり、貴見は、いろいろな制約や前提をすっ飛ばして短縮しているので、正確な引用ではないのではないかと思量します。
この点を、世にある馬頭星雲を避けて、うまく表現する方法が見当たらなかったので、回答が遅れましたが、貴兄の指摘を受けて、すぐさま同書を買い込んで、念入りに読んだ上の意見です。貴兄に不愉快な言い回しになったとしたら、それは、小生の至らぬせいであり、御寛恕下さい。この程度の論者と見限って、諦めてください。
以上、貴兄の心情と食い違うので、ご不快かも知れませんが、少なくとも、古代史分野では、「文献」を深く理解するのが、第一歩であり、たとえ、不快な見解でも、説き伏せられてみることが必要かと思います。
いや、自分はどうなのかと言われそうですが、守り切れない自戒の言葉とお考えください。当方は、一介の電気技術者骨董品であって、専門家などではなく、あちこちで素人と触れ回っているので、くれぐれも誤解しないでいただきたいものです。
以上
投稿: ToYourDay | 2020年6月27日 (土) 00時22分
その節は大変お世話になりながらご無沙汰ばかりで、申し訳ございません。弁舌爽やかなご高説でいつも勉強させてもらっています。
しかし、今回の川村先生の九州王朝説批判に賛同しており、その立場から敢えて先生のご説への異論を差し挟ませてください。
>ついでながら、六世紀末当時、「瀬戸内海航路」は影も形もなく、小型船舶による連絡経路が辛うじて繋がっていただけで、「大和」は、交信・交流に厖大な時間を要する遠隔地であるため、隋倭交流から隔離されていたでしょう。
できる
>いずれにしろ、自前の船舶、船員、操船技術で航路開拓していなければ、隋船は航行できないのです。いや、開拓していても、難業なのです。
これについては古代海洋技術の専門家長野正孝氏の『古代史の謎は「海路」で解ける』(PHP新書)によれば、すでに6世紀には雄略天皇が瀬戸内海航路の啓開を完成しており、7世紀の隋使の帆船を難波津までえい航する水主のシステムによって無事に航海できたようです。隋使が倭国攻略策を考えるのはいいご指摘ですが、難波津到着からまさか生駒山越えをするなど隋使は思いつかないでしょう。何故なら、そこで小型舟に乗り換えて河内湖から大和川を遡り、古奈良湖を経由して飛鳥京に入るルートでしょうから。その行程を詳述する気も起らないようなシナ人にとって厳しい航路だったからでしょう。だから、隋使の行程記事は川村先生のように読むのが正しいと考えています。
九州王朝説では、対外交渉のシナの記録が北部九州の倭国とのものだと信じられているようですが、それも大きな間違いだと考えています。魏志倭人伝の邪馬台国を邪馬壱国と版本では誤写したものか、原本からそう記載されていたのか正確には分かりませんが、このことと大いに関係があると思います。以前にも指摘させていただいたとおり、当時の倭人語では母音を重ねることを避けていたので、ヤマイチもヤマイという言葉も存在しないことが分かっています(安本美典「倭人語の解読」(勉誠出版))。邪馬台国の意味もヤマト王権の成立過程を解明すると判明します。ヤマコクを居城にする女王(台)の国という意味です。ヤマコクは宇佐市安心院町の宮ノ原台地のことです(和妙抄の宇佐郡野麻郷、刮目天「古代史の謎を推理する」をご参照ください)。https://blog.goo.ne.jp/katumoku10/e/e5f3c79c776262d1ae311988f7e58e3e
ぶしつけな表現で恐縮ですが、魏志倭人伝の行程記事と同じで、文献に在ることをそのままバカ正直に信じるとド壺から脱け出せないいい例だと思います。旧唐書の倭国と日本国の並列記事は新唐書で完全に訂正されているのを無視するから古代史を解明できないということもあるのだと思います。格調高い先生の論文への批判などおこがましい素人のたわごとと、軽く聞き流していただけると幸いです。大変失礼しました。
投稿: 刮目天 一(はじめ) | 2020年6月26日 (金) 09時42分