新・私の本棚 「古賀達也の洛中洛外日記」 第3380話
『旧唐書』倭国伝の「四面小島、五十餘国」 2024/11/20 2024/12/10
◯はじめに
当記事は、「倭人伝」道里行程記事先行の圏外であるので言及しない予定であったが、後続の[『旧唐書』倭国伝の「東西五月行、南北三月行」]論議に疑問を呈する際、古賀氏の提示された史料解釈に対して、素人なりの見解を述べたものである。
*中国史料解釈の第一歩
まずは、中国史料の解釈は、中国史料によって進めるというのが、以下進める論議の大前提である。つまり、『旧唐書』倭国伝は、 魏志「倭人伝」、隋書「俀国伝」の先行両史を先行文献として承継している/拘束されているという認識が肝心である。
*中国小論
余談であるが、陳寿「三国志」の世界観では、「中国」は、雒陽天子の麾下にある所領、つまり、曹魏の本体であり、南方の東呉、蜀漢なる叛徒の所領は含んでいないと見える。したがって、西晋による天下統一後は、「中国」は、西晋天子の麾下にある全土となるが、西晋亡国、中原失陥後、南方に押し込められた東晋、南朝諸国は、支配下にない中原を指して「中国」と称することは憚ったと見えるのだが、調べが行きとどいていないので、確言はできない。
要するに、かくのごとく、天下の形勢が変動している以上、「中国」と書くのは、慎重であるべきであるが、西晋崩壊後の分裂を統一した大唐が全土を統一していた時代、中国は、長安天子の麾下の全土と見ても、大きな間違いはないと見える。時代時代に応じた解釈は、当然なのである。
*先行両史の確認
「倭人伝」を、正史行程記事として読み解く。「従郡至倭」解釈として、「倭人」は「帯方東南に在」って、「大海」、すなわち、『塩水「大河」』中の洲島(中之島)と「ことば」を改めて中原人の世界観に馴染むように比喩し、「水行」、すなわち、海岸に於いて「渡河」ならぬ「渡海」により渉(わた)ると新規概念を導入している。
以後、三度「水行」の後、末羅国で上陸し、以下「陸行」とだめ押しの上伊都国に到り終着すると解される。
「陸行」は、当然、自明であるから頭書はしていないが、ここは不正規の「水行」の後なので当然の「陸行」を念押ししたのである。(先行する外夷伝では「行」と書くだけで「陸行」と書いた例はないはずである)
それにしても、道里行程記事の核心部は、誠に単純明快で、簡にして要を得ていて、史官の達人の業である。いや、当時最高の専門家が、卑俗な干渉をものともせずに、多年を費やして推敲したのであるから、つまらないボロなど生じないのである。
「俀国伝」は、俀国治に到る行程が簡略であるが、先行する「倭人伝」の伊都国に到る行程が順当に承継されている。隋使は、新規行程として、山東半島海港を帆船で発し、狗邪韓国、対海国を飛ばして、一大国、壱岐に乗り着け、以後、伊都国に相当する竹斯国に到る。「倭人伝」で「末羅国~伊都国を擁する洲島」に安着したと解される。つまり、末盧国に相当する「海津」(津は、本来渡河の船着き場である
)で上陸し以下「陸行」したはずであるが、当然、自明であり、また重複するので書いていない。
もちろん、これは、実務の記録であり、正史に、郡倭道里として記録すべき行程でない。加えて、帆船移動では、掻くべき道里もない。
「俀国伝」は、当然、「倭人伝」の「大海」に依拠しているが、「倭人伝」が隠れた/自明の比喩とした「大河」は、見過ごしたとも見え、単に、「小島」としているのは、島の大小でなく「絶島」の意味のようである。
中国正史たる両史の地理観の「島」は、漢代に通じた海南島だけであり、福州東方眼前の台湾島は認識されていなかったから大小比較は無意味である。「倭人伝」では壱岐島が「一大国」であるから「九州島」の周辺に「大国」があったとなる。「本州島」、「四国島」は認識されていなかったのである。
余談はさておき、以上のように丁寧に考察すると、「四面小島」は、四囲大海の島嶼、「倭人伝」でいう「大海」「洲島」と思える。そして、当該島嶼外の世界は「井戸の外」なので、五十餘国は「井戸の中」と解される「井蛙」世界観であるが、俀国伝の「井戸」は九州北部、筑紫/竹斯止まりかもしれない。なにしろ、俀国伝によると東方に行くと最後、海岸にぶつかる(らしい)と言うだけで終止している。
以上の解釈は、諸兄姉の信奉する広域解釈のお邪魔でしょうが、ここは、中国正史の記事解釈なので、中原人なる偉大な「井蛙」の壮大な見識に従うものであり、世上に流布している東夷後裔の素人談議の解釈は、総じて早計に見受けられる。
ここは、「舊唐書」解釈であるので、先行両史書に付加した地理知識は、あくまで風聞であり、先行史料の埒外であることは言うまでもないと思う。
◯まとめ
ここで適用した手法は、古田武彦氏が「俀国伝」の隋使訪俀記録と日本書紀「推古紀」の隋使来訪記録の輻輳/相克談議の果てに想到した原則に従っているのである。曰わく、「中国史料の解釈は中国史料によって行うべきである」
以上
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