日記・コラム・つぶやき

2019年5月30日 (木)

私の意見 「いたすけ古墳」の史跡損壊 世界遺産推薦からの除外を!!

                        2019/05/30

 当記事は、世界文化遺産への登録が勧告されている「百舌鳥・古市古墳群 」の中で、「いたすけ古墳」が不適格であることを指摘し、除外すべきと考える理由を述べるものです。

 今回、丁寧に新聞、テレビから情報を収集しましたが、「いたすけ古墳」に、現代の工事用橋の遺物が包含されているのは、世界文化遺産の趣旨に反しているので、一国民として、少なくとも、当該異物は直ちに取り除くべきだと考えます。本来、史跡から排除すべき異物を含めて「史跡」としていることに問題があるのです。

 NHKの番組歴史秘話ヒストリアで、当該古墳の宅地開発事業を差し止めし、史跡としての保存に繋いだ功労者てある宮川 徏氏が橋異物を保存した趣旨が語られていて、声を上げざるを得ないと感じたものです。いや、番組を製作したNHKが、発言をそのまま報道しているということは、NHKはその主旨に賛同しているのでしょうが、当方は、一納税者として、一視聴者として、正直に「反対」と言います。

 当時遺跡として保存することは不要とされていた広大な土地に宅地造成する事業は、何ら不法な行為ではなく、そのような大規模な事業投資で、地域振興に貢献しようとした事業者は、公正な視点で見て、むしろ頌えられるべきです。

 結果として、「いたすけ古墳」が保存の価値のある史跡と新たに認定されたとしても、もともと非難すべき理由のなかった純然たる開発行為を、こともあろうに「原爆投下」に例える趣旨で世界文化遺産の一部として後世に残すのは、大変な見当違いであり、例えた方も例えられた方も大変具合が悪いと思います。
 精一杯和らげて言うと、この発言を聞いた原爆関係者は、古墳群の話題に接する度に、激しいこころの痛みを覚えるのではないかと危惧されます。それ以外にも、この発言は無用の痛みをまき散らします。

 個人的には、そのような意見は脇に置いて、「いたすけ古墳」は「百舌鳥・古市古墳群 」全体の品格を毀損するものであり、少なくとも、史跡でない後世のガラクタは速やかに撤去すべきと思うのです。今が最後の機会と思うのですがもはや手遅れかも知れません。その場合は、これが過ちによるものであって、世界文化遺産の一部でないことを示すべきです。

 手短に要約すると、このような現代遺物を取り除くことを怠っている「いたすけ古墳」は、正当な史跡とは言えないので、世界文化遺産登録から排除すべきではないかと考えるものです。

以上

2018年7月25日 (水)

今日の躓き石 王国の落日か ニコンのミラーレス

                   2018/07/25
 今回の題材は、ニコンが、公式にミラーレスカメラへの参入を表明したという記事である。
 
 「ミラーレス」とは、一眼レフの反射ミラーが「有害無益だから排除する」という意味をさすがにあからさまには言わないものの、よくよく味わうと、次第に身に染みてくる「毒」を含んでいる。
 
 そのような悪意を秘めた言葉を、公平であるべき業界団体が、そして、報道機関が広く普及させ、とうとう、業界の王者たるニコンも、プライドを捨て、白旗を挙げたようである。
 
 一眼レフのミラーボックスは、本当に駆逐されるべき過去の遺物なのだろうか。長年にわたり、ニコンの一眼レフを賛美し、支持しててきたユーザーは、どう受け取れば良いのだろうか。
 
 何とも、困ったものである。
以上

2018年3月21日 (水)

今日の躓き石 『南米民謡「花祭り」』 検索混乱の解決策

                            2018/03/21
 ここでは、余り大げさなことは言わず、「商標権」めいたものを述べる。もちろん、この曲名が商標登録されているというものではない。
 南米民謡「花祭り」のタイトルに付いて、次のように「アンデスの花祭り」と呼ぶべきであるという私見を述べているだけである。
*曲の由来
 日本で、早くから、南米民謡「花祭り」としてとして親しまれている曲は、今風に言うと、アンデスのフォルクローレを代表する曲として親しまれています。

 現地では、エル・ウマウアケーニョ(スペイン語 El Humahuaqueño)として親しまれているとのことですが、これは、アルゼンチン北部の町「ウマウアカの」(人、あるいは、もの)という意味とのことです。
 「ウマウアカの谷にお祭りが来るよ、チョリータ」と若い女性に呼びかける歌詞が、軽快な音楽に合わせて陽気に歌われているとのことです。
 (曲の由来について、ウィキペディア 「花祭り (楽曲)」を参考にしました。)
 と言うものの、一般的な日本人には、スペイン語の理解は難しいので、親しみやすい曲名を採用したのは、無理からぬ事と思います。

*仏教行事 「花祭り」
 一方、東洋の日本では、キリスト教の「カーニバル」(カルナバル)はさほど知られていなくて、「花祭り」と言えばお釈迦さまの誕生を祝う仏教の一大行事、灌仏会(かんぶつえ)に決まっているのです。

 灌仏会は、日本では毎年4月8日に行われ、参列した信者達が、甘茶を満たした灌仏桶の中央へ安置した誕生仏像(お釈迦様の赤子姿)に柄杓で甘茶を掛けて、誕生を祝うものです。

 灌仏会は、その名のように大変厳めしいものでしたが、明治時代に親しみやすい「花祭り」の呼び方がはじまり、甘茶かけが一気に広がったようです。

*折り合いの付け方
 つまり、「花祭り」は、大変聞き心地の良いタイトルですが、現代的な言い方をすると、伝統的な仏教行事の通称(商標)を無断利用したものなのです。

 このような場合、後から来たものは、誤解を防ぐために「アンデスの花祭り」五文字足すような自主的な配慮を怠らないものですが、なぜか、現在は、宗旨が違うとは言え、完全に「花祭り」が重なっていて、検索を混乱させて、大変な迷惑を掛けています

 言い古された言葉ですが、過去半世紀近い既成事実は大変重いものがありますが、未来は滔々と続いているので、このような混乱を後世に持ち越すのは申し訳ないと思います。
 今からでも遅くはないので、うまく折り合いを付けて欲しいものです。

以上

2017年12月10日 (日)

私の意見 OffTopic 科学的データの誤解・悪用(YouTube/UMG)

                 2017/12/10
 以下の議論は、古代史談義から外れているが、他山の石として参考にして頂きたい。

 なお、当ブログ筆者は、公的資格を有しない一私人であるので、ここに示された判断、意見は、権威を有しない、私的な感想である事をあらかじめご了解頂きたい。

*背景と動機の説明
 YouTubeは、一口で言うなら、世界各地の動画作家の著作した動画作品を広く公開している機構である。
 ただし、法的な事情もあって、投稿され、公開された動画作品が、他者の著作物を盗用していないか、厳重に確認する義務がある。(重罪処罰規定あり)

 ただし、著作権制度の制約として、著作物は、必ずしも、公的機関に登録されたものとは限らないので、著作権者(代理を含む)は、YouTubeに自身の著作物の権利行使の走狗とならしめるためには、自身の管理する著作物をYouTubeに登録しなければならない。

 そうした著作物は膨大であるし、YouTubeで公開されている動画著作物は、これまた膨大である。盗用検知は、人の力だけでできることでないのは、容易に理解できる。

*なぞの判定方法
 そこで、登録著作物から、一定のルールに従って、他の著作物と区別できる特徴点(当然、複数)を取り出し、動画著作物から同様のルールに従って取り出した特徴点と比較して、ある程度の頻度、回数一致した時、両著作物は同一である可能性ありと判断する電子的な検知方法を採用するのは、むしろ当然と言える。

 しかし、両者のどの程度詳細な特徴を比較して、どこまで一致したら、動画著作物が、登録著作物と同一であると判断するかは、その検知方法の設定によって、大きく動揺する、素人目にもおぼつかない手法に過ぎない。

 よって、そのようなシステムが、現にしばしば誤動作して、素人目にも誤った措置を行っているのが、大問題なのである。いや、誤動作が知られているのに、何ら是正されないのが大問題なのである。

 上にも書いたように、何らかの判定システムでできるのは、「可能性あり」の判断であり、それは、最終判断たり得ないのは明らかである。

*著作権の限界
 今回の事例では、楽曲そのものの著作権は消滅しているので、演奏の著作権(日本で言う著作隣接権)の問題である。

 動画著作物で背景音楽として引用されているものが、フルート演奏であるのに対して。登録著作物そのものは、バイオリン演奏なのである。このように、こどもにもわかる相違点が検知されていないのであるから、本件が誤動作、誤爆であるのは、自明である。

*不法な処置適用と事後通告
 ここで問題なのは、絶対的な判断基準として、客観的に有効だと検証されていない、つまり、判断基準として無効である可能性が排除されていない「科学的検知方法」の判定が、そのまま適用されている点である。

 その結果、動画著作物に対して、事前了解無しに著作権を侵害する処置を実施した後で、動画著作権者に通告され、そこではじめて、以上の手続きに対する異議を唱えることができる制度となっている。

*理性なき制度
 さて、当該動画が申立人の著作物の盗用を行っているかどうかは、結局、人の知性に基づく判断によらなければならない、と言うのが、著作権に関する判断のあるべき姿と考える。

 しかし、YouTubeは、自ら設定した検知方法の判断だけを根拠にして、無実の動画作家に対して、申立人の著作物を盗用していると決めつけて、強硬措置を発動するのである。

 以上の手順は、当方の推定であるが、今回の顕著な事例を見てわかるように、疑わしきは無罪(推定無罪)という、例えば、合衆国憲法で保障された崇高な通念に反する暴挙に過ぎない。つまり、反社会的な不法行為と見るものである。

*教訓(ここもまた、個人的な意見である)
 案件の最終判断が人の理性のものである時は、人の理性で判定するべきである。

 科学的判定手段は、現実のデータに基づくとしても、全て概算、概要によるものであり、ある程度の不確かさをはらむものである。

 そのような判定手段は、厳重な検証無しに、最終的なものとしてはならない。
 いかに精密に判断しうるデータ分析方法であっても、批判検証されないものは、科学的な判断方法ではない。

 一方当事者が、自身の目的に合うように、時として密かに調整したデータ分析は、データの客観的な分析ではなく、データの改竄、捏造により、一見科学的、客観的なデータ利用と思わせながら、実は、一方当事者の虚妄を正当化しているに過ぎないのである。 

 人ごとではないと思うので、この場に公開するものである。

以上

参考 詳細は下記参照頂きたい。
 There goes YouTube fake copyright complaint invoked by UMG

2017年3月24日 (金)

ブログ記事移動の件

                           2017年3月24日
 古代史関係の記事と「今日の躓き石」の記事が多いので、それ以外の記事を別ブログ、つまり、ここに移動します。

以上

2015年10月24日 (土)

著作権侵害の非親告主義について

                                    2015/10/24
 最近、TPPの影響で、著作権侵害が、著作権所有者以外の第三者による告発が可能となる非親告主義が採用されると報道されている。

*非登録制の陥穽
 しかし、よく考えてみると、これは大変不安定な制度である。少なくとも、著作権が登録制でない国では、危険な考え方である。
 登録制の場合、国の登録データベースを確認すれば、誰のどのような作品が著作物として登録されているか判断できるので、正確な告発が可能であるが、登録を必要としない国では、告発を受けてその内容を確認しない限り、何が著作物であるか、知りようがない場合が多いのである。
 まして、著作権は、同じ知的財産権と言っても、国内法では登録不要とされていて、特許などと異なり、登録を求めた出願に対して審査がなされるものではないので、果たして、著作権を主張している著作物が、正当なものかわからないのである。
 極端な話、当の著作物がそれ以前の著作の著作権を侵害しているかどうか、確認できないのである。
 あるいは、著作物のある部分が著作権の消滅している、あるいは、著作権の主張されない引用であっても、どの部分が著作物となっているか、わからないものである。
 非親告制を認めるなら、対象となる著作物は、しかるべき公的団体に登録され、公開データベースに登録された著作物に限定するようにして頂きたい。

*著作隣接権の混沌
 次に問題となるのは、国内法で言う著作隣接権の問題である。音楽関係で顕著なのだが、元々の作曲が古くて著作権がなくても、その曲を演奏するとその都度「著作隣接権」が発生するのである。
 例えば、どこかの交響楽団が、J. S. バッハの作品を演奏会したら、曲自体の著作権は消滅しているから誰にも使用料(ロイヤルティ)を払う必要はないが、演奏に対して著作隣接権が発生する。つまり、この演奏の録音に対して著作隣接権が発生する。本来、著作隣接権の了解なしには利用できないのである。
 しかし、元々同じ楽譜を、同様の訓練を受けた音楽家が演奏するから、同じ楽譜に基づく異なった演奏は、音声だけ聞いても区別できないことが多い。
 これを確実に区別、同定するには、各演奏毎に、識別特徴を明記して、データベス登録するのであろうか。例えば、どこそこに席が聞こえるとか、誰かがミスしたとかの特徴である。著作隣接権侵害の告発の際には、こうした具体的な演奏のデータを照合しないと、著作隣接権侵害の立証の仕様が無いのである。

 さて、今後国内法が整備されて、著作隣接権侵害が非親告制となったとして、以上のような厳密な処理なしに、司法機関が客観的な立証がされたと確認できる検出方法は存在するのだろうか。

 例えば、とあるオーケストラが、欧米の一流オーケストラの既存の録音を参考にして、極力同じ速度、強弱で演奏したとして、音声データの比較たげで両者を区別できるのだろうか。
 あるいは、先端技術を駆使して、過去の「名演奏」を分析再構成して、区別できないほどに複製再現したものに、再現著作物は不法な副生物になるのか、あるいは、新たな著作隣接権が生まれるのだろうか。いずれかの演奏の複製がどちらの著作物の複製であるか、判定できるのだろうか。大いに、疑問が湧くところである。

*結語
 後半、議論が迷走して当人が余談と自認しているが、いずれにしろ、大所高所からの議論に、素人にもわかるような、著作権固有の事情の実際的な検討が抜けていることに苦慮しているのである。

 すでにYouTubeでは、電子処理によって、曲の類似点を発見して、同一演奏だと速断するようシステムを導入しているが、類似点や一致点より、相違点の方が多くても、強引に同一音源だと決めつけるようである。現実に、誤判定が頻発している。それでも実施しているのは、YouTubeのような運営管理団体は、疑わしきは指摘し、公開を停止せよ、それを怠れば、直ちに、運営管理団体を重罪で告発するとの法律(米国法)が存在しているからである。

 著作権侵害の告発が非親告制となると、同様に、運営管理団体が、告発の義務を背負わされるのではないかと危惧する。米国法で摘発を受ける可能性のある団体は、他国で、米国法の適用外であっても、米国法に沿った行動を取らざるを得なくなる可能性がある、と指摘しておくものである。これは、国家主権の侵害とも取られかねないが、あくまで、「団体」が自己責任で行う告発であるので、非親告制での告発を認めた国は、そのような内政干渉を阻止することは困難になるのではないか、と危惧するのである。

 思うに、このような制度が導入されるのは、某大国が、自国の映画産業が所有する「不滅の名作」を(実質上)未来永劫収入源として確保することが主眼なのだから、受益者負担の原則から言うと、そうした特定の著作物を保護する制度としては、言うならば「ブレミアム著作物」として(それにふさわしい高額登録料を徴収して)登録し、堂々と特別扱いすれば良いのである。

 一私人の個人的な意見としては、米国以外の諸国は、そのような極端な見方に加勢して、無造作に国内法制を拡大すべきではないと思うのである。

以上

2015年10月17日 (土)

古田武彦氏の思い出

 古田武彦氏が亡くなられたことを毎日新聞の記事で知り、古田氏の去られる時が来たものとしみじみ感じている。

 なお、当ブログ筆者は、古田氏の著書の読者であり、その学識に親しんだものではあるが、面識はなく、思い出と言っても、当方の、一介の私人としての感慨に過ぎないことをお断りしておく。

 氏の所説は、流域面積の広い大河のように、山中の河源から大海の河口に至るまで、広く人々の目に触れ、そして肌に触れ、草花や木々に潤いを与え、時には、人を脅かす威勢を持っているものと思う。氏が去られても、氏の所説は長く残るものと感じる。

 氏の気概に感じるのは、中国唐代の魏徴の「人生意気に感ず、功名誰か復た論ぜん」と言う至言である。ただし、氏の場合、「意気」は、誰かに対して感じたものと言うより、学術的な使命感であったように思う。

 人は来たり、人は去るが、人の言葉は残るのである。

以上


 

2015年9月17日 (木)

今日の躓き石 安易な便乗商品の「罪と罰」

                                 2015/09/17
 以前、新技術告知のブレスレリースの際に、不出来な公共スローガンへの安易な便乗と言うことで批判していたのだが、今回、新製品マウスの店頭販売のニュースを見ると、堂々と「アイドリングストップ」と表示しているのには、正直言って呆れた。

 元々、「アイドリングストップ」というカタカナ言葉が、自動車の停車、待機時の無駄なエンジン運転継続の悪習を叩いて、省エネ風潮を催すという運動であったのだが、カタカナ語として造成する際に、語順の配慮を誤ったために、意味不明なスローガンになっていると言う批判があった。一言で言うと、命令文で、ストップ!アイドリングでないと呼びかけの意味がないのであった。

 そのまことに配慮不足で不出来なスローガンに、今になって一企業が安易に便乗したのは、どういうことだろう。

 でかでかと謳い上げていると言うことは、早い者勝ちで商標登録したのだろうか。それにしては、商標表示がないように見受けられる。

 更に深刻なのは、マウスの「待機時消費電力」を、意義の大きく異なるアイドリングストップと同列に表示したと言うことである。
 自動車のエンジンの待機中の燃料消費は、排気ガスの出具合やエンジン音で想定できるが、マウスの待機時消費電力は、微々たるものと感じるはずである。
 もちろん、マウスという小さな空間では、電池の持ちに影響するほどの電力消費なのだろうが、それが、大声で名乗りを上げるほどのものなのか。もし、マウスの商品生命に関わるような重大問題なら、この新製品以外のマウスは、エネルギー浪費型の度しがたい「ダメ製品」であり廃物ものなのだろうか。

 大学教授は、自身の名声を高めるために、適当なスローガンを唱えるのだろうが、分別、世間知のある立派なメーカーがその片棒を担ぐのは、どうしたことか。

 いや、実際の所、各業界の各メーカーも、チャンスがあれば、公共スローガン便乗の商標を唱えたい、もし、ただ乗りできるのだったら、儲けものと思っていることは想像に難くない。「アイドリングストップ」が事実上「廃語」になるまで便乗商品が、ほとんど出なかったのは、おそらく各メーカーで、商品化の過程で押しとどめるような、良心的な抑制が働いていたものと想像する。各企業では、こうした商標を言い立てる人がいると共に、必ず、役どころとして、言葉の護り人がいるものである。

 と言うことは、このメーカーは、昨今世評に上がっている大企業と同様に、組織として良心的な思慮が働かない会社である、と言うことだろうか。

 それにしても、恥ずかしい商品を売り出したものである。

 言うままでもないが、メーカーと連座している大学と大学教授の品位にも、大きな疑念を投げかけられているのである。

以上

2015年6月17日 (水)

今日の躓き石 校閲部を校閲する?

                                     2015/06/17
 毎度ながら、毎日新聞大阪版の話であるが、まずは、毎度ながら、スポーツ欄でのサッカーナショナルチーム監督の談話で、「サッカー人生」という失言が書き出されている。軽率な言葉選びに、まずは引っかかるが、本人が日本語でしゃべっているわけではないので、言葉の選び方がお粗末なのは、翻訳者の責任である。と言っておく。

 それよりは、定例のくらしナビ面月一掲載の校閲部のコラム「字件ですよ」で、地の書き方で選手の「野球人生」と書き出しているのが、大変気がかりである。ここは、スポーツ欄記者の書きなぐり記事でなく、「言葉の守り人」の姿勢を世に知らせる場所である。言うならば、日本全国でお手本にしている所で、これはないよ、と思うのである。
 「**人生」と言う言い方は、スポーツ欄記者固有の悪弊かと思っていたら、すでに、「言葉の守り人」の感性まで汚染されているとしたら、嘆かわしいものである。

 言葉には、日常、どんどん使って、時には、踏んだり蹴ったりして、慣れ親しむ言葉もあれば、それこそ、人生の機微を語りたい時だけに使う、とっておきの言葉がある。はっきり言って、「人生」というとっておきの言葉を、普段着に下ろして、汗や食べこぼしにまみれさせたくないのである。

 元々、誰かが英語でBaseball Lifeと言ったとしても、それを日本語で「野球人生」と言い換えて良いかどうか、考えて欲しいのである。

 ちょっと場合は違うが、ノートパソコンの充電池の持続時間を、業界のかなりの企業が「バッテリー寿命」と翻訳していて、情けない思いをしたことがある。元々、米国企業が言葉遣いに無神経で、Battery Lifeと無造作に書いていたせいであるが、それに追随する方も、よくぞ追随したものである。

 言うまでもないが、充電池の容量を使い切って空にしても、充電すればもまた満タンになって復活する。
 いや、もっと大事な話がある。人間は悲しいかな限りある寿命を生きているが、ものは元々生命(Life)がないので寿命(Life)もないのである。

 これが、英語として当然の使い方であれば、アメリカ英語の伝統を守るべき知識人の権威も地に落ちたものであるが、アメリカ人皆がこうした業界用語の良い崩しに同意しているわけではない
 アメリカのように多様性を包含する社会でも、言葉選びに無頓着な種族が、間違った言葉遣いを拡散させていることに、多くの人たちが義憤を感じているのである。アメリカにも、言葉の規範はあるのだ。

 と言うような、まねしてはならない事例を横に置くと、ここに言う「人生」は、何とも情けない言い方である。単に、自分の選手生活、監督生活といった、個人のキャリアを言うものに過ぎない。選手時代、監督時代も、普通の個人としての生き方があったはずである。

 「人生」は、その人にとって一度きりのかけがえものであり、産まれたとき、と言うより、物心ついたときから最期まで続くものであり、「**人生」と手軽に小分けにして、「穿き崩す」ものではない。 

 大事な言葉を「普段着」にしたら、大事な話をしたいとき、どうやって話すのだろうか。

 因みに、少し踏み込んで「野球人生」という言葉を新入り言葉と認めたとしたら、野球人生初、と言うのが、賢い言い方かどうかである。
 それこそ、小学校の試合でホームランを打ったことを野球人生初といい、プロとしての初ホームランを、野球人生二度目というのは、どんなものか。あるいは、高校時代に、甲子園でホームランを打ったことを野球人生初というものか。

 プロ野球の公式戦は、技術的にも、選手としての受け止め方から見ても、それ以前の全ての野球経験と段違いのものと考えるのである。それにしても、選手本人は、こうした言い方をどう思うのかである。

 言うなら、昔から言い慣わしている「プロ初」で良いのであり、言葉の言い崩しを付け足す必要はないと思うのである。

 「野球人生」という言葉は、用例案などを慎重審査の上、断固「却下」である。

 ハリルホッジ監督の「サッカー人生」との言い方も、自身の一流クラブやナショナルチームでのプロ選手として闘って以来の経験だけを言っているのであって、まさか、子供時代の路地裏サッカーから思い起こしているのではないだろう。

 読者に事実を伝えるという報道の本分に照らしても、問題の多い、軽率な言い方と思うのである。

 毎日新聞校閲部ほどの見識があれば、素人の感じる情けなさを共感して頂けると思うのである。

以上

 追記  「字件ですよ」には、読者の「ご意見、ご感想」の連絡先が書かれているが、それでは、「ご意見、ご感想」と持ち上げているものの、連絡してしまうと当方が意見を押しつけ回答を強要しているようになるので、他の記事同様、言いっ放しの道を選んでいるのである。あるいは、「クレーマー」との定評を受けるのが怖いのかも知れない。
 別の言い方をすれば、ここまでの記事全部に、都度きっちりと回答が返ってきたら、当方も、更に回答せざるを得ない。論争と言わないまでも、意見交換会になったとしたら、当方は、心身ともに忙殺されるると言うことで、万事、言いっ放しでないと、身が保たない。

2015年6月14日 (日)

今日の躓き石 台湾語の話

                                  2015/06/14
 ITmediaサイトのCOMPUTEX TAIPEI 2015の関連記事の見出しで、ふと立ち止まったのである。

COMPUTEX TAIPEI 2015:
動画で体感! 台北の会場で友好関係を築く (1/2)
台湾語で語りかけてくる彼女たちのなんと可愛らしいことよ。

 いや、記者のタイペイ現地取材だから、おそらく書いているとおりだと思うのだが、つたない聞き手に聞こえる限り、語っている言葉は、大陸国家でも採用されている中国語であり、俗に北京語、正しくは普通話といわれる言葉のように思える。記者は、裏を取って書いたのだろうか。

 台湾で、標準の言葉「国語」としているのは、もともと普通話だけであり、台湾現地の言葉である台湾語(正確には閩語(福建語)と思う)は、長年にわたり影に押しやられ、学校で教えず、テレビ、新聞でも(一部番組を除いて)使用されず、と言う状態と聞いている。
 とは言え、現地に元々住んでいた人たちにとって、台湾語は先祖以来の母国語であり、タイペイを離れた地方では、今も使われているだろうし、50代以上の高年齢層は普段の言葉として使っているだろうが、国際報道が前提のインタビューで、台湾語で話すことは、まず、あり得ないと思う。

 ITmediaに報道機関としての意識があるのであれば、是非、事実確認をお願いしたいものである。

以上

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