歴史人物談義

主として古代史談義です。

2024年10月 8日 (火)

魏志天問 1 東治之山~見落とされた史蹟の由来 三掲 1/4

                   2013/12/22  再掲 2021/03/12 2021/12/19 2024/10/07
*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

〇再掲載の弁
 今般、NHK BSPの「邪馬台国サミット 2021」([BSプレミアム] 2021年1月1日(金) 午後7~9時 NHKオンデマンドで公開中)なる特番で、世上、三国志の最高権威とみられている渡邉義浩氏が「中華書局本」という出典を隠したままで、倭人伝の「会稽東治」が正しくは「会稽東冶」であったという一種の「フェイクニュース」を高言していて、番組上で反論がなかったので、ここに、素人の調べた意見を再掲するものです。ひょっとすると、使い回しされそうなので、一連の記事を再公開します。

〇原記事
 下の記事は、魏志倭人傳に関する「素人考え」の疑問に「素人考え」の解を並べていくものです。伝聞、風評を極力減らすために、色々史料探索していますが、素人の悲しさで、調べや思いが行き届いていない点があれば、ご容赦ください。

 天問1は、
 「会稽東治」は、陳壽が参照した資料に、禹の事績の場として「東治之山」と書かれていたのが根拠であり、会稽山の位置を示したものであって、会稽郡東冶県の位置を示したものではない、のではないか、
 と言うものです。

 中國哲學書電子化計劃(中国哲学書電子化計画)では、大変ありがたいことに、太平御覧の全文をテキスト検索ができます。いや、全収録史料の全文テキスト検索ができます。(画像収録は目下進行中であり、この部分は未収録のようです)
*YES OR NO
 ちなみに、当質問は否定疑問となっているので、日本語の「はい」肯き、「いいえ」否定が、英語では、[NO]否定、[YES]肯きになると言う、文化の亀裂が表沙汰になる質問形なのですが、古田武彦氏始め、日本語の肯定「はい」は、英語で無条件に「Yes」だと勘違いしている方が多いので、ここに苦言を呈しておきます。
 とある一日、太平御覧で「東冶」を検索すると、興味深い文例が提示されました。
〇「太平御覧」 州郡部三 6 敘郡: 
應劭《漢官儀》曰: 秦用李斯議,分天下為三十六郡。凡郡:
 或以列國,陳、魯、齊、吳是也。
 或以舊邑,長沙、丹陽是也。
 或以山,太山、山陽是也。
 或以川源,西河、河東是也。
 或以所出,金城城下有金,酒泉泉味如酒,豫章章樹生庭中,雁門雁之所育是也。
 或以號令,禹合諸侯大計東冶之山會稽是也。
 京兆,絕高曰京。京,大也;十億曰兆,欲令帝京殷盈也。
 左輔右弼,蕃翊承風也。張掖,始開垂,張臂掖也。

 この部分は、秦漢代の中国の広域行政区画である「州」「郡」に関連する記事を連ねています。
 ここに提出されたのは、應劭「漢官儀」から太平御覧への引用で、「郡名」の起源、由来の記事を再録しています。
 その後段に、大要下記の意味が書かれています。(中国語は専門ではないので、誤解があればご容赦ください)

 (郡名には)号令に由来するものがある。(会稽郡は)禹が諸侯を合わせて大計した「東冶之山」から会稽と命名された。
 禹が諸侯を集めた山は、それ以前の名前を書いていない場合が多く、せいぜい「苗山」,「茅山」,「防山」などと称していますが、ここでは、たぶん固有名詞でなく「東冶之山」と書かれています。
 一瞬、会稽東冶の裏付け史料かと錯覚しそうです。速断せずに、ご注意下さい。本項後出の論議で、「東冶之山」は「東治之山」の誤解と断じています。「東冶」は漢代新作の地名なので、秦始皇帝宰相李斯が提言することはないのです。

 「漢官儀」編者應劭は、後漢高官で、三國志武帝記(曹操傳)にも登場する著名人であり、後漢書には列伝を建てられています。

*「帝京」談義 2021/12/19
 ついでながら、漢代は、皇帝居処「長安」を、「京兆」と命名したことから、「帝京」の呼称の発祥が見えます。さらについでながら、当時の大数は、十 百 千 萬の後も、十進で連なっていて、十萬を[億]と言い、十億を[兆]、十兆を「京]と言ったことが示されています。当時の[京]は、千万だったのです。
 転じて、[京]は、途方もなく大きな数とされ、天子の威光で「千万」に発展するとの展望を表して、天子の居処を「京」と称していたようです。もっとも、日本語は、それぞれの時点の中国語の用例を採集して、東夷の用語としているので、必ずしも、時点時点の中国の用語に追随しているわけではないのは、周知の筈です。

 いや、今日でも、伝統的な「正体字」文化を遵守する台湾では、日常の世界では、字画の多い「億」を避けて「万万」と言う事は珍しくないのです。一方、簡体字なる略字に[堕して]いる「中国」では、「億」は「亿」なので、直接表示しているものと推定される。

                                    未完

魏志天問 1 東治之山~見落とされた史蹟の由来 三掲 2/4

                   2013/12/22  再掲 2021/03/12 2021/12/19 2024/10/07
*加筆再掲の弁
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〇應劭「漢官儀」[承前]
 應劭「漢官儀」は、後漢最後の皇帝劉協(献帝)が、帝都洛陽から強引に拉致/遷都された長安から東還し、曹操の保護下に許に宮廷を再現しようとしたとき、王朝を構成する高官の官位と位置付け、宮廷儀礼の内容などを示す資料が、散逸していたため、代々高官で儀礼に通じていた應劭が、関連資料を渉猟して集約し、上申したものと言うことです。

 後漢末期、(三国志演義の超悪役で)有名な董卓の暴政で、帝都洛陽は破壊されて、皇帝以下の洛陽住民が、前漢末、新朝の廃絶後の後漢朝洛陽遷都により、廃都として200年近く残骸放置されて荒れ野原となっていた長安への移動を強制されたことから、後漢朝宮廷の書庫は大半が放置、廃棄され、宮廷要員の多くは、強制移動を免れても、追放か、逃散かしていたものです。

 應劭が献帝に漢官儀を献呈した時は、全10巻構成であったようですが、西晋崩壊時の異民族侵入、洛陽破壊などの影響で散逸し、あるいは、短縮版が横行して混乱していたものを、後世になって再構成したものが、「漢官六種」などに収録されています。

 史料の信頼性を確認するために、苦労して引用元を探しましたが、應劭「漢官儀」の影印版(PDF)は、中國哲學書電子化計劃から辿って、「漢官六種」PDFテキストに辿り着くことができます。

*應劭「漢官儀」
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 ここで確認した應劭「漢官儀」は、上下二巻が収録されていて、中国語素人の目では当該記事の場所を探すのに大変苦労しましたが、上巻に記載されています。なお、記載内容は、太平御覧に引用の通りです。

                                                    未完

魏志天問 1 東治之山~見落とされた史蹟の由来 三掲 3/4

                   2013/12/22  再掲 2021/03/12 2021/12/19 2024/10/07
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〇「水経注」所引 應劭「漢官儀」
 因みに、應劭「漢官儀」の当該部分は、太平御覧以外に、水經注にも引用されていて、史料の裏付けとなっています。

*水経注 四庫全書版
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 各資料の成立時期等を確認すると、
  •  漢官儀  後漢建安元年(196年)成立と伝えられています。
  •  水經注  酈道元撰 北魏代の地理書です。延昌4年(515年)頃成立と伝えられています。
  •  太平御覧 李昉等による奉勅撰、北宋太平興国8年(983年)頃成立と伝えられています。
 ここで、太平御覧と水經注は、清朝勅撰の四庫全書に収録されているので、確実な資料と確認できますが、漢官儀は、散逸による記事の不安定さも影響してか、四庫全書には収録漏れです。

 漢官儀には、太平御覧と水經注とに引用されていることが注記されていますが、当然、これは後世の書き込みです。おそらく、散逸した漢官儀の復元の際に、太平御覧と水經注が利用されたものと推定されます。この点は、「東冶之山」の信頼度評価にも影響します。何事も、簡単に結論を出さずに、色々考え合わせる必要があるということです。

〇成都異稿本「漢官儀」
 別資料として、早稲田大学図書館の古典籍データベースに収録されていて、大事な異稿です。

 出版書写事項:民国2[1913] 存古書局, 成都
 叢書の校集:孫星衍(1753-1813)  覆校:劉沢溥
 尊経蔵本  唐装 仮に「成都本」と呼ぶことにします。
 驚いたことに、成都本では「或以號令,禹合諸侯大計東治之山會稽是也。」です。

 資料継承の跡をたどってみると、水經注(北魏)、太平御覧(北宋)と、別時点で漢官儀を引用した資料が、揃って「東冶之山」としているので、多数決原理に従うなら、清朝時代の漢官儀復元編纂時の元資料も、そのように書いていた可能性が高いのです。と言うことは、成都本の校訂段階で、「東治之山」と校勘、訂正した可能性が高いということになります。
 史料考証は、多数決でなく、論理的な判断によるものだという教えのようです。

 訂正の理由は推定するしかないのですが、「東冶之山」では主旨不明であり、「東治之山」なら禹が東方統治した山、との妥当な意味が読み取れるので、合理的な判断からの校訂かとも思われます。

 当然、成都本の撰者も、歴史上の一時期に会稽郡東冶県が存在したことは知っていたと思われますが、「東冶県」の由来は、後漢成立時に、単に二字地名とするために「東冶」としたという説があり、秦の宰相李斯が、各郡を命名した際に存在しなかった地名ですから、無関係とみるべきです。

 現代は、校正不在のゴミ情報が、とにかく多数飛び回っているので、「治」、「冶」の混同例は、まま見られますが、本来、二つの文字は、意味が大きく異なるので、権威ある資料では、まず、混同されることはないのです。

 陳壽「三國志」の書かれたのは、まさしく、後漢最後の皇帝に「漢官儀」が献上されて関係者に流布した直後であり、また、許で再構築された後漢朝書庫は、順調に魏晋雒陽に継承されたと思われます。

                           未完

魏志天問 1 東治之山~見落とされた史蹟の由来 三掲 4/4

                   2013/12/22  再掲 2021/03/12 2021/12/19 2024/10/07

*加筆再掲の弁

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*三国志における「漢官儀」
 陳壽は、吟味の上で、公文書飼料を取り入れる正統派の執筆姿勢であり、漢朝儀礼の典範である漢官儀は、史官としての座右の書としていたと考えます。 
 よって、陳壽が「会稽東治」と書いたときは、会稽郡東冶県のことは考えもせず、会稽東治之山を想起していたと思われます。皇帝を含めた同時代読者も、当然、漢官儀を知っていたと思われます。
 時折触れるように、陳壽の執筆時点から笵曄の執筆時点である南朝劉宋に到る間には、西晋末の大動乱で、洛陽の西晋朝書庫は散逸し、漢官儀も劉宋に継承されていなかった可能性があります。

 会稽山近郊に生まれた笵曄には、禹の事績はなじみ深かったはずで、漢官儀を知ってさえいれば、「会稽東治」に深い感慨を持ったのでしょうが、実際は、劉宋高官の土地勘から「東冶」県と読んでしまったのでしょう。
 それだけで止まっていれば三国志の継承記事にとどまり、笵曄の不見識は知られずに済んでいたのに、ついつい才気が走って、後漢書倭人記事の最後に「会稽東冶県」と書いて、早合点の証拠を残しています。

 以上は、当方の勝手な推定であって、「漢官儀」には、元々「東冶之山」と書いてあったのかも知れませんが、それは当記事の論議に関係のない些事です。

 とにかく、素人が気づくような史料考察に対して、寡聞ながら、当否を論じた意見を見たことがないので、ここに掲示するものです。
以上

*「漢官儀」 成都本
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追記 2021/03/12
 ついでに言うと、素人考えでは、禹の「東治」は、治世の終わりに近づいた大禹が、四方で「会稽」した中で、順当に終わった(と思われる)「西治」、「北治」、「南治」に当たる三方は継承されず、直後に大禹が崩御したことから、東方、つまり、「東治」が継承されたと見えるのです。特に、難点は無いと思うので、一言述べたものです。

再追記 2024/10/08
 再追記ですが、禹は、東治だけで、他の三方では会稽などしなかったというのが、正しい史料解釈と考え直したものです。
 再追記ですが、三国鼎立時代、東呉孫政権は、独立国家として行政を行っていて、曹魏に報告などしていなかったので、東呉管内である会稽郡の行政区画の変動、東冶県の新設などは、曹魏に一切史料が残っていないのです。陳寿は、曹魏の雒陽公文書庫を参照して魏志を編纂したので会稽郡東冶県の事情を書くことは、無かったのです。
 ちなみに、遥か南の海南島は、漢代から知られていて、班固「漢書」にその地理が書かれていたので、東呉の情報欠落に関係なく、儋耳朱崖事情を書き込むことができたのです。

 古田武彦氏は、第一書『「邪馬台国」はなかった』の会稽東治論義で、陳寿が魏志倭人伝編纂において、呉志の会稽郡行政区画の異動情報を参照して、当時、東冶県を含む会稽郡南部が、建安郡として分郡していたことから、「会稽郡東冶県」は、存在しなかったとの論理を組み立てていますが、正しくは、当該情報は、陳寿の魏志編纂にあたって依拠した曹魏公文書に書かれていなかったというのが、学術的に正しい判断です。

 大局的に意義のない些末事ですが、古田師の提言に瑕疵を見つけるために、「倭人伝」史学の重鎮渡邊義浩氏まで担ぎ出して、些末事の追求に意義を感じている諸兄姉に、叮嚀な対応を行っているわけです。

                                            以上

2024年8月19日 (月)

倭人伝随想 2 倭人暦 社日で刻む「春秋農暦」1/3 三掲

             2018/07/07  2018/11/24 2024/05/08, 08/19 
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*随想のお断り
 本稿に限らず、それぞれの記事は随想と言うより、断片的な史料から歴史の流れを窺った小説創作の類いですが、本論を筋道立てるためには、そのような語られざる史実が大量に必要です。極力、史料と食い違う想定は避けたが、話の筋が優先されているので、「この挿話は、創作であり、史実と関係はありません」、とでも言うのでしょう。
 と言うことで、飛躍、こじつけは、ご容赦いただきたいのです。

□社日で刻む「春秋農暦」
*「社日」典拠
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
社日(しゃにち)は、雑節の一つで、産土神(生まれた土地の守護神)を祀る日。春と秋にあり、春のものを春社(しゅんしゃ、はるしゃ)、秋のものを秋社(しゅうしゃ、あきしゃ)ともいう。古代中国に由来し、「社」とは土地の守護神、土の神を意味する。春分または秋分に最も近い戊(つちのえ)の日が社日となる(後略)

 社日は、白川静師編纂の辞書「字通」にも記されています。
 社日(しゃじつ) 立春、立秋の後第五の戌の日。〔荊楚歳時記 、社日〕 (後略)

 また、「社」自体に、社日の意があるとされています。

 「荊楚歳時記」宋懍(劉宋) 守屋美都男:訳注 布目潮渢 中村悠一:補訂 東洋文庫 324

*社日随想
 雑節は、二十四節気、以下「節気」、に則っているので、社日は、太陽の運行に従っています。社日が今日まで伝わっているのは、一年を二分する「農暦」の風俗の片鱗が太古以来伝わっているということなのでしょう。

*太陰太陽暦
 月の満ち欠けで暦を知る「太陰暦」は、文字で書いた暦がない時代、月日を知るほぼ唯一の物差しでしたが、「太陰暦」の十二ヵ月が太陽の運行周期と一致していなくて、春分、夏至などの日付が変動するため、何年かに一度、一ヵ月まるごとの閏月を設けます。一般に「太陰暦」と呼ばれても、実際は、太陽の運行と結びついた「太陰太陽暦」であり、これを簡略に「太陰暦」と称しているのです。
 「八十八夜」、「二百十日」雑節が、立春節季に基づいているように、太陽の恵みを受ける稲作は、万事太陽に倣って進めなければならないと知られていたのです。
 一方、「太陰暦」は、海の干満、大潮小潮を知るためにも、広く重用されたのです。

*節気と農事
 節気は、日時計のような太陽観測で得られ、毎年異なる「太陰暦での節気」を基準として農務の日取りを決めて、社日の場で知らせたとみているのです。いや、各戸に文書配布して農暦を通達できたら、元日、年始の折にでも知らせられるでしょうが、当時、文書行政はないし。納付は、一般に文字を読めないので、実務の場で、徹底することが必要だったのです。

                             未完

倭人伝随想 2 倭人暦 社日で刻む「春秋農暦」2/3 三掲

             2018/07/07  2018/11/24 2024/05/08, 08/19 
*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*社日の決めごと
 村々の指導者は、節気を起点とした段取りを描いた絵を持っていて、そこには、例えば、代掻きの手順は何日後と決めているものです。毎年、通達された太陰暦の月日ごとの手順を決め、手配りを描くのです。
 かくして、稲作指導者は、春秋社日に参集した村々の指導者に田植え、収穫の段取りを徹底し、それが、村の指導者から家々に徹底されるのです。
 つまり、社日の場で、春の農耕の段取り、手配り、ないしは、秋の収穫の段取り、手配りが決まり、それぞれの家は、集団農耕の職能を担ったのです。
 あるいは、集落に掲示板があって、文字はなくとも、木に縄を巻くなどして、月と日を広く知らせていたかも知れません。

 以上、村落で共同作業を行う図式を絵解きしました。

*職能「国家」
 「国家」と書くと物々しいですが、中国古代史では、「国」は、精々一千戸程度の集落であって、文字の描く通り、隔壁で守られているものであり、それが、一つの「家」となっていたという程度でしかありません、現代語の巨大「国家」とは、別次元の概念ですので、よろしく、ご理解頂きたいものです。

 大勢の手配りが必要なのは、田植えと収穫時だけであって、それ以外の時は、それぞれの家で決めて良いから、稲作は年がら年中団体行動というわけでは無いはずです。

 さらには、後世のように、それぞれの家が、農暦と農作の要諦を掌握していれば、自主的に稲作できるでしょうが、それにしても、村落各家に職能を割り振ることによって、村落の一体感を保つ効用が絶大だったのです。

*「春秋農暦」の意義

 かくして、年二回の大行事を定めて農暦画期としましたが、この制を素人なりに「春秋農暦」と呼ぼうとしているのは、学術的な「二倍年暦」という用語が、その由来を語らないからです。

*陳寿の編纂意図
~後生東夷の臆測
 三国志編者陳寿は、「蜀漢」成都付近で生まれ育ちましたが、蜀に「春秋農暦」がなかったためか、農暦を知らず、長じて移住した晋都洛陽附近は、ほぼ麦作地帯で稲作風俗がなく、陳寿は、遂に春秋農暦の年二回の社日ごとの加齢の概念を知らなかったので魏略記事の意義が理解できず割愛したのかも知れません。あるいは、中原教養人である皇帝以下の読書人に理解されないことを懸念して、割愛したのかも知れません。

 当初稿では、そのように独りごちていましたが、以下、加筆しました。(2024/08/19)
 あるいは、元々、蜀の「春秋農暦」には加齢が結びついていなくて、それが、長江を下って、会稽付近に伝わり、更に、戦国「齊」なる東夷の世界を歴て、最終的に「日本列島」に定着したとも思えますが、いずれかの段階で、「俗」が変化したのかもわかりません。いずれにしても、文献には書き継がれていないので、後生東夷の臆測に過ぎません。
 ちなみに、「齊」の海港東莱から目前の海中山島に筏ででも渡って、一旦は、今日言う「朝鮮半島」に定着を試みたのでしょうが、洛東江が深い渓谷を刻みこんでいたため、水田稲作の根幹である灌漑水路が確保できず、水田農地開発が不可能であったため、北上経路の各地に比べて気温が低いこともあって、定住を断念し、温暖な海南の地に移住したとも見えます。遥か後世に至るまで、嶺東と呼ばれた弁韓/弁辰の地は、食糧生産が乏しく馬韓の地と比べて、貧困の地位に甘んじたのです。
 それは、後漢末期の献帝建安年間に、遼東公孫氏が不毛の地に郡制を敷こうと帯方郡を設けたとき「荒地」と呼んだので明らかなように、小白山地の彼方は、太古以来、文明の届かない荒れ地だったのです。
 帯方郡が、小白山地を越える竹嶺経路を開鑿し、郡治から狗邪に至る官道を開設したので、初めて、弁辰鉄山から郡治への鉄材輸送が開始し、この経路を利用して、海南倭地からの産物が到着するようになったので、洛東江渓谷に文明の光明が届いたのです。
 嶺東貧寒は、三世紀時点でも明らかで、郡から海津である狗邪に至る長い道程に、目覚ましい「韓国」は書かれていないのです。
 「倭人伝」に「倭地温暖」と書かれているように、暗黙の「韓地寒冷」とあわせて、韓地不毛、倭地豊穣の図が描かれているのですが、お目にとまりましたでしょうか。

*裴松之付注
の意義
 陳寿「三国志」に付注した裴松之は、長江下流の建康に退避した南朝「劉宋」の人で、稲作風俗(「風」法制と「俗」民俗)を知っていたので、倭人寿命記事に関する陳寿の見落としに気づきましたが、本文改訂は許されないので、魏略記事を付注し、示唆したのでしょう。

 倭人伝に春秋農暦が明記されていないのは、魏使を務めた帯方郡の士人が「春秋農暦」育ちであったため、当然とみたためであり、魚豢「魏略」も、特記まではできなかったのでしょう。

・補筆 2024/08/19
 但し、当然、魚豢「魏略」の採用した帯方郡志は、陳寿の薬籠中にあり、無用の蛇足と見て割愛したものと見ることができます。陳寿は、締め切りに追われて書き殴っていたのでなく、来る日も来る日も着々と推敲を重ねに重ねた上で「割愛」したのであり、裵松之は、皇帝の指示もあって、余計なお世話でゴミ記事を復活したとも見えますが、遥か遙か後世で、神のごとき明察を可能とされている後世東夷としては、陳寿本文と裴注とを分別して解釈することを求められているのです。

                             未完

倭人伝随想 2 倭人暦 社日で刻む「春秋農暦」3/3 三掲

             2018/07/07  2018/11/24 2024/05/08, 08/19 
*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*殷(商)遺風
 白川静師が殷(商)風俗と見た春秋社日は、私見では、長江下流域(後の呉越)から海岸沿いに伝わったようです。社日は稲作のための農暦であるから、その時期に稲作は商の旧邦、後の戦国齊の地に伝わっていたと見られます。

*商風廃絶

 当ブログ筆者は、のちに、旧邦であった商の一部が、西域の富を求めて中原に攻め上って武力国家を創業し、これが世紀を経て成長して天下を把握した殷(天邑商)となったと見ていますが、殷は、乾燥した中原に適さない稲作風俗を失ったようであり、殷を打倒した周は遊牧文化を持っていたので、その制はなかったようです。
 このため、中原に展開された華夏文明は、東方を「夷」とみて、その文化を排したもののように思われますが、あくまで、東都洛陽を発端とした浸透であり、鄙の民俗を根こそぎ書き替えるには至らなかったようです。

 再確認すると、殷(商)「文化」を承継したとされている周は、西戎に属する異文化を擁していたものであり、水田稲作とは、ほぼ無縁であったため、「春秋加齢」を、必ずしも周制としていなかったように見えます。

*「二倍年暦」談義

 後代、春秋時代の斉、魯を起源とする諸史料を中心に、年暦に殷の遺風「二倍年暦」が偲ばれるということですが、ここでは触れません。
 (例えば、「古賀達也の洛中洛外日記」ブログ「二倍年暦」に発表。
http://koganikki.furutasigaku.jp/koganikki/category/the-double-year-calendar/)
 先賢諸兄姉の足跡、特に、寄せられた毀誉褒貶を察すると、一つには、「二倍年暦」を字面だけ見て「誕生日に一気に二歳加齢する」と即断した野次馬が多いように見られるので、安直な誤解を正したいとして書いたものです。

*伝来の背景想到
 一方、齊から倭への伝来は、どうであったかは不明ですが、風俗、つまり「法と秩序を示す[風]及び世俗の有り様を示す[俗]の複合」の大系が伝わったようであり、集落ごとなど大所帯の移住があったと見られます。ただし、移住の実態としては、山東半島東莱から、目前の海中山島、後の馬韓南部への移住があった後、更に南方の海中山島の地に移住したと考えれば、冒険航海を必要としないので、いずれかの時代に、家財、種苗、蚕の種などを抱えた移住が行われたと思われますが、もちろん、これは、憶測であり、特に論証されたものではないのです。

 移住の時期次第ですが、殷後期以降で文字が存在していれば、ことは、「風俗」と言う必要はなく、端的に、文書記録を携えて「文化」移住したのではないかと思われます。となれば、後の戦国齊での稲作「文化」のかなりの部分が、暦制も含めて忠実に再現されたと思うのです。但し、移住後、商「文化」がどの程度継承されたかは不明です。

*謝辞
 以上、拙論の手掛かりとして、白川静師の著書を参考にさせて頂いたことに深く感謝するものです。白川静師は、漢字学の分野で比類無い業績を残されていますが、甲骨文字、金文などの古代文字史料を隈無く精査したことによる中国古代、殷周代の民俗、文化に関する思索も、大変貴重なものであり、拙論にその出典を逐一付記すれば、付記が本文を圧すると思われます。

 しかし、拙論は、論考でなく、出典に立脚した、あるいは、啓発された随想であることは明示しているので、一々書名を注記しておりません。

 この際の処置について、無作法をお詫びすると共に、拙論の趣旨を一考頂ければ幸いです。

                             この項完

2024年7月27日 (土)

新・私の本棚 番外 倉山 満 学校で習った「中国の歴史書」はデタラメばかり 1/6

日本書紀に「卑弥呼」も「邪馬台国」も出てこない本当の理由 PRESIDENT Online 2023/11/04
 私の見方 ☆☆☆☆☆ 知的なゴミ屋敷 早すぎる墓誌銘か  2024/03/16, 07/27 

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

◯はじめに
 当記事は、「プレジデントオンライン」記事ですが、倉山氏署名入りで編集者は無記名なので氏の著作として批判します。
 そもそも、「中国の歴史書」などと、途方もない大風呂敷を広げていて、先ずは、失笑します。氏がどんな内容を「学校」で習ったか、読者にはわかりませんから、勝手な独りよがりにはついて行けません。公開の場で喚く前にカウンセリングをお勧めします。

*新参者の咆吼
中国の歴史書「魏志倭人伝」(3世紀末)には、邪馬台国の女王・卑弥呼の名前が記されている。憲政史家の倉山満さんは「歴史の授業では『中国の歴史書が事実』と刷り込まれるが、実際は不正確な記述が多い。『魏志倭人伝』を聖典の如くありがたがる必要はない」という――。

 古代史学で言い尽くされていますが、ここには二千年後生の無教養な東夷が好む「欺瞞」と「誤解」が満ちあふれています。特に、事ごとに「実際」とする虚言癖に似て心身に負担をかけたのではないかと懸念されます。
 『中国の歴史書「魏志倭人伝」』なるものは実在しないのは公然、衆知です。陳寿編纂の史書「三国志」の「魏志」第三十巻の巻末を占める小伝「倭人伝」の小見出しは存在しますが、それも、「紹熙本」と呼ばれる有力史料に明記されています。そもそも、「魏志倭人伝」に「邪馬台国」は書かれていません。これも、衆知/公知の事実です。
 冒頭で、中国の歴史書を一刀両断すると宣言しておいて、実は、「魏志倭人伝」をなで回すだけというのは、何とも、みっともない腰砕けです。大丈夫でしょうか。
 以下、匿名のインタビューアーは、実際は、氏の著書から引用するだけで、これに対して、何の追記もしていません。

 「歴史の授業では『中国の歴史書が事実』と刷り込まれますが、実際は不正確な記述が多いのです。『魏志倭人伝』を聖典の如くありがたがる必要はない」と私見を述べ立てますが、「歴史の授業」が、保育園や幼稚園でない限り、「刷り込み」などされていないはずです。また、保育園、幼稚園は外しても、小学校の段階で、『中国の歴史書が事実』と刷り込もうとしても、感じばっかりでは、わけがわからないはずです。
 氏は、幼児期にどんな「おとぎ話」を読んだのでしょうか。真に受けるなら釈尊以来の偉人です。それより、そのような暴言を公開して取り返しのつかない向こう傷を拵える前に、入念な検証が必要ですが、本記事を読む限りでも、氏はかなりの智識/見識欠乏症なのに、躓いて転んだり鞭打たれたりして傷だらけ、痣(あざ)だらけになっても、一向に自覚していないようで、素人目にも痛々しいのです。

 「実際は不正確な記述が多い」の「多い」なるあいまい表現は根拠不明です。大抵は、一人、二人、多い程度で非科学的です。まして全二十四史対象となると、万を超える箇所が指摘できねば「多い」ことになりません。

 「聖典」と称しますが、何のことか、一凡人には思い至りません。それは、仏経典なのか、旧約聖書なのか、コーランなのか、何れにしろ、それぞれの宗教の信者でも、聖典に書かれていることが「歴史的事実」と信じて「有り難がっている」のは、ごく少数派に過ぎないはずです。これもまた、裏付けのない非科学的な意見です。
 アニメの街角が「聖地」と称されるなら、アニメ自体が「聖典」かも知れません。倉山氏の意識は、大部混濁しているようです。
 もちろん、氏が、「魏志倭人伝」なる二千字史料を「ありがたがる必要はない」と称するのは「私見」ですが、適度の批判は許されると思います。

 以下、引用は、適法な参照引用です。

※本稿は、倉山満『嘘だらけの日本古代史』(扶桑社新書)の一部を再編集したものです。

                            未完

新・私の本棚 番外 倉山 満 学校で習った「中国の歴史書」はデタラメばかり 2/6

日本書紀に「卑弥呼」も「邪馬台国」も出てこない本当の理由 PRESIDENT Online 2023/11/04
 私の見方 ☆☆☆☆☆ 知的なゴミ屋敷 早すぎる墓誌銘か  2024/03/16,07/27

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*承前
 率直なところ、「嘘だらけ」と自嘲しているのは「日本古代史」で、当ブログの圏外なので、本来は「猫またぎ」なのですが、当記事は、まるで関係のない「中国の歴史書」の個人的な読書観を打ちだしていて、具体例を予告している「腰巻き」共々、出版社に良心はないのかと危惧されます。「再編集」とは、不適切な字句に修正がある良心的な掲載かと期待しますが、裏切られたようです。これでは、子供達に間違った意見を押し付けないように「X」表記が必要と見えます。

*空疎な悲憤憤慨
「中国の歴史書に書かれてあることが事実」なのか
仁徳天皇を教科書で教えないなど、けしからん。
仁徳天皇といえば世界最大の古墳を造ったと私などの世代では習ったものですが、今は誰のお墓か分からんという理由で、「大仙古墳」とのみ記されます。三十代で塾講師を始めた時、「なんじゃこれは? 仁徳天皇陵は、どこに行った?」と絶句したのを思い出します。

 どんな世代か不明ですが、まさか、戦前派ではないでしょうね。随分の記憶力に感心します。「誰のお墓か分からん」などと、子供のような放言は信じられないのです。いや、氏は、自信があるのでしょうが、根拠不明の子供じみた体験に基づくご意見を賑々しく著書に書き込むのは、読者に対して迷惑ではないのでしょうか。

こういう「科学」を名乗れば何をやっても許されると信じている連中を、私は「素朴実証主義者」と呼んでおちょくっていました。「素朴」と書いて「クソ」と読みます。

 「連中」などと自嘲/謙遜いただいた上に、自虐/戯言めいたご意見を囀りまくる「素朴」な自爆発言は見ていて気の毒です。氏は、「天にツバキする」との諺を知らないのでしょうか。氏の全身は、自爆の汚物に塗れていて、とても近づくことができません。

確実な事実だけを取り出そうとしている気なのでしょうが、物語(ストーリー)が無いので、何を言っているかわかりません。歴史(ヒストリー)は物語なのですから、「何を基準に事実を描くか」が無く、思い付きで事実を羅列しても何もわかりません。

 「歴史(ヒストリー)は物語」というのは、「わかりません」との泣き言たれと合わせて、軽薄な私見であって、他人に主張するには、何の根拠にもなりません。「歴史」は、中華文明三千年の成果であって、生煮えのカタカナ語(ヒストリー)なぞ書かれていないのです。氏のように、泥まみれの取れたて「思い付き」を、貧しい認識/幼い感情論で書き殴る醜態を繰り広げていては、なにも伝わらないのです。

こんな教科書で習っていたら、「中国の歴史書に書かれてあることが事実」と刷り込まれるのは確かでしょうが。

 これは、氏の自作自演かとも見えます。何しろ、中国二十四正史に、日本に関する記事は、はしたなので、この告発は、空を切っている冤罪です。そのような「刷り込み」は、可能なのでしょうか。氏は、誹謗/弾劾されている中国歴史書で、「歴史」「事実」が、何なのか、まるで知らないでいるのでしょうか。

                            未完

新・私の本棚 番外 倉山 満 学校で習った「中国の歴史書」はデタラメばかり 3/6

日本書紀に「卑弥呼」も「邪馬台国」も出てこない本当の理由 PRESIDENT Online 2023/11/04
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*加筆再掲の弁
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*無意味な「倭人伝」批判
「魏志倭人伝」は単なる参考資料
その中国の歴史書で有名なのが、邪馬台国の女王・卑弥呼が出てくる「魏志倭人伝」です。その「魏志倭人伝」自体が卑弥呼から五十年後に書かれた、近代史家なら参考資料にもしないような、五次資料くらいの代物なのですが。

 ここで、ようやく、具体例が登場します。中国古代史料を門外漢で無教養な「近代史家」(自画自賛か?)が論じるのは無謀です。「魏志倭人伝」を「五次資料」と「絶賛」するのは意味不明です。一、二次と、どうやって数えたのか、と意味不明の暴言です。問題は、取り次ぎ回数では無いのです。物知らずの無教養な東夷、地下数千㍍の「五次人物」がなにを言うかという感じです。二千年後生の無教養な東夷の「近代史家」(自称か?)など屁の突っ張りにもならないのです。
 ちなみに「有名」なのは、二千年後生の無教養な東夷だけで、別に、中国二十四史の中で、目立つわけでもない、わずか二千字なのですが、どうして、「有名」だと思い込んだのでしょうか。

 ちなみに、この時代の「国内記録」は、一切残って「ない」ので、わずか二千字の「魏志倭人伝」が、二千年後生の無教養な東夷に「聖典」扱いされるのは、むしろ順当です。つまり、実在する確実な史料を根拠にするのは当然です。表現放棄は、「無能な著作者の最後の隠れ穴」ですが、しっぽ丸見えです。何しろ、「ないもの」は、論じようがない」のです。

実は『日本書紀』は誠実に取り組んでいます。しかも、「魏志倭人伝」の引用を、よりによって「神功皇后紀」にぶっ込んでいます。「あっちの国では、こういうふうに記録されているんだけど……」という戸惑い炸裂の紹介の仕方です。

 「日本書紀」を無造作に擬人化していますが、同書は、単独の編集者の創作でなく、当然、複数の編集者が多様な元資料を組織的編集体制でつきあわせたものですから、「誠実」にと力んだかどうか知ったことではないのです。神がかりというか、憑きものというか、「見てきたような」法螺話横溢です。空っぽな脳の炸裂は悲惨です。
 氏の書き物は、終始、文章が泳ぎまくり踊りまくりで、意味不明なのも困ったものです。「当惑」などと子供じみた泣き言を云う場合ではないのです。いや、「当惑」は、後世の凡人の片言ですから、ここで批判しては「筆の汚れ」なのでした。よく、「炸裂」を洗い清めることにします。御自分の粗相は、御自分で尻拭いして欲しいものです。

『日本書紀』の、神功皇后三十九年、四十年、四十三年の記事を、ご紹介しましょう。 以下、衆知なので省略

 書紀の当該部分は、「魏志」から原文を引いて校正すると「間違いだらけウソまみれ」です。時代の叡知を集めた「日本書紀」編纂後のやっつけ仕事と見えます。史料原文を引用された方は、恥さらしに泣いているでしょう。「晋起居注」引用漏れも痛いところです。
 ともあれ、すべて「日本書紀」の責任であって「魏志倭人伝」には、何の関係も無いことでしょう。「なんての」氏の心身は、大丈夫ですか。

身も蓋も無いことを言うと、ヤマト王権とは何の関係も無い北九州の族長が魏に「私が倭の王様です」と名乗って、向こうが真に受けて信じた、とすれば筋は通ってしまうのですが。

 「ヤマト王権」が正体不明で何の意味もありませんが、どうして、何の関係も無いと断言できるのか不思議です。もっとも、氏の視点は、股覗きの天地倒錯で、北九州の「族長」が、尊重されていたのであり、当方の蛮族は、眼中になかったと見る方が、正解でしょう。
 「身も蓋も」不要で氏の心身は大丈夫でしょうか。ちなみにここは、恥知らずにも太古のネタパクりです。

 ちなみに、「倭人」が最初に交信したのは、中国の東方の辺境で、漢/後漢代以来、蛮夷の対応に慣れていた楽浪郡なのですから、「倭人伝」には、「倭人」は帯方東南に居て、大海中の山島に国邑を結んでいる、北九州に展開した小国の集まり』と正確に理解されていたのです。「ヤマト王権」など、まるで見えていなかったのです。筋がすらりと通るでしょう??

 えっ、お客さん、そんなことも、知らなかったのですか?? 「もぐり」じゃないですか。


                            未完

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