歴史人物談義

主として古代史談義です。

2022年11月19日 (土)

サイト記事 「魏志改竄説」批判 1/3 再掲

                          2018/05/29 2018/11/25 2022/11/19補筆
邪馬台国と日本書紀の界隈
『三国志』「魏志倭人伝」後世改ざん説の可能性を考える〈1〉

*コメント
 通常、商用出版物でないサイト記事批判は、よほどでない限り公開しないのですが、今回も例外としました。

 サイト記事のトップで、「邪馬台国熊本説」の中核をなすのが、「魏志倭人伝」後世改ざん説と明言されていて商用出版物に次ぐ位置付けとします。
 「邪馬台国熊本説」自体は、史料である「倭人伝」の一解釈ですから、それ自体は、個人の思いつきであって、他人がとやかく言えるものではないのですが、その中核として採用している正史改竄、差し替え論については、途方もなく大きな誤解を持ち出しているので強く批判せざるを得ないのです。

*批判の主旨
 タイトルを「可能性を考える」としていますが、ここに主張されているのは、ご自身の主張を裏付ける「特定の記事改竄」が行われたが、原資料を含めてその証拠は消されているとの決めつけであり、その「特定の記事改竄」が、「邪馬台国熊本説」を成り立たせるのに欠けている「証拠」の重責を背負っているのだから、大変な暴論なのです。

 氏が高々と掲げている「邪馬台国熊本説」が、山成す所説の群れから抜きんでて、世上の考慮に値するとしたら、そのような強引なこじつけは要らないはずです。所在地のこじつけは、世上溢れている「誤記」「誤写」「曲筆」論を起用すれば、世間並に支持されて良いはずです。

 ということで、ここで取り上げる「魏志改竄説」(改竄は、後世でないとできないのです)とは、聞くからに暴論で、国志権威とされる古代史家の「古代史家全員嘘つき」説に匹敵する暴論と聞こえて辟易しそうです。

 どんな史料も、歴史上、絶対内容が変化していないという絶対的な保証はないから全体が信用できないと言われると、信用できる史料は一つもないとなります。
 本件における学問的態度は、確証がない限り正史史料は、適確に管理、継承されているとする前提で議論を進めるものです。「推定有効」、つまり、決定的に無効とされない限り有効と見るものです。無効を主張する者は、確固たる証拠を提示しなければなりません。立証義務というものです。
 どんな史料も、「改竄の可能性を絶対的に否定できない」という主義の確固たる証拠を提示するのは、不可能でしょう。まず、自身の手元証拠が、改竄されてないという証拠を確立しなければならないのですから、自己攻撃が不可欠の前提になっています。

 また、自己の主張を保って、既存の主張を理解していないままに全て排斥する「排他的」な論証は、全論客を敵に回す攻撃であり、余程の覚悟が必要であり、視点の定まらない安易な類推は控えたいものです。

*論考の確認
 同サイトの論法は、次のようなものと思われます。

    1. 敦煌残簡は、呉国志「特定部」の写本である。
    2. 残簡特定部は、特定部と行文が一部異なる。
    3. 残簡特定部は、写本時の国志写本を正確に写し取っている。
    4. 現存刊本は、敦煌残簡以降に改竄されたものである。

 しかし、この段階的論証は、以下順次述べるように確実なものとは言えません。むしろ、可能性薄弱、と言うか、「皆無」と思われますから、諸説を覆すことのできるものではないと思われます。

*個別確認1
 1.は、基本的な論証が欠けています。
 著者は、残簡特定部が、「呉国志」(韋昭「呉書」との混同を避ける)の特定部と同様記事であったことから、敦煌残簡は、呉国志の写本と速断していますが、これは有力な推定であっても断定できないのです。残簡には、「呉国志」の一部であることを示す編集事項が書かれていないと考えます。基本的な論証が欠けているというのは、論拠とならないという事です。論拠「不正」です。
 そのような「不正」論拠に基づいて提示される論義は、はなから無効であり、以下の論義は不要とも言えます。


                                      未完

サイト記事 「魏志改竄説」批判 2/3 再掲

                          2018/05/29 補充 2022/11/19
*個別確認1 まとめ
 残簡記事が、誰も知らない、誰も知り得ない「史実」を正確に記録しているかどうかは、本論に無関係であり、倭人伝が問い掛けている「問題」でもありません。論点がそっぽを向いています。

 また、敦煌残簡が、呉国志以外の史料、例えば、韋昭編纂の呉書稿、あるいは、私的史稿を写した可能性は、否定も肯定もできないものです。裴注が見当たらないのも、その傍証です。
 正体不明、由来不明の史稿残簡が、呉国志と異なる構文としても、何かを証明するものではないのです。

*個別確認2
 2.の論証は、物証の示すとおりです。だからといって、何かを証明するものではありません。

*個別確認3

 3.「残簡は、その時点の国志写本を正確に写し取っている」とは、時点の国志写本が確認できない以上、検証不能です。
 つまり3の論証は、論者の私的な推定に過ぎません。
 残簡作成者が、参照写本の正確な書写を指示されていたかどうかも不明です。孫氏政権の功臣事歴を、個人的な目的で綴り上げたかもわかりません要は何もわからないのです。

*巻紙談義~余談
 残簡は、明らかに巻紙に書き込まれたものであり、行当たりの字数が一定していません字数を揃えるのは、正確な写本の基礎であり、それが守られていないということは、厳格な写本がされていないことを物語っています。
 それにしても、国志写本が、当初、巻紙だったのか、冊子だったのかは断言できません。

 後漢朝末期の混乱期間に洛陽周辺の紙業も大いに混乱したと思われ、国志編纂時に定寸単葉紙が大量に調達できたかどうか不明です。慣用表現とは言え、国志が巻表示なのも、重視すべきでしょう。つまり、当時、帝室書庫に厳重保管されていた国志写本は門外不出とは言え、巻物形式であった可能性が高いと思われ、敦煌残簡が巻物形式であること自体は、不審の原因とはならないようです。
 国志各巻は、長巻物と予想され、残簡上に写本上必要と思われる目印が見られないのは、若干、否定的な要素です。
 なお、写本、刊本が、袋綴じの単葉紙になったのは、遅くみると、北宋咸平年間の木版刊本時と思われます。巻紙は印刷できないためです。

*改竄重罪
 当代最高写本工まで巻き込む「正史改竄」は、以後の写本に引き継がれても、世にある写本は書き替えられないので、いずれ露見します。「正史改竄」は皇帝に対する大逆罪であり、最高の重罪で、関係者一同とともにその一族の連座処刑もあり得るので、同志を得られず、実現不能と思量します。
 それにしても、それほど大がかりな改竄を、あえて、どこの誰が、企画し命がけで 実施したのでしょうか。露見すれば、共犯者も同罪であり、事情を知らない協力者も、又、同罪です。連座を免れるには、「密告」しかないので、到底秘密を守れないのです。

 くり返しになりますが、そのようにしてまで、「倭人伝」記事を改竄するのは、なぜなのでしょうか。

                       未完

サイト記事 「魏志改竄説」批判 3/3 再掲

                          2018/05/29 補充
*個別確認4
 4の主張は、3.までの推定が根拠を確立できていないため、根拠のない暴論となっています。
 丁寧に言うと、かりに、推定されている事態か起こって、敦煌残簡以後に(呉国志)特定部の改竄があったと証明する証拠が得られたしても、それは、国志の別の部分に改竄が行われたという確たる根拠にはならないのです。当然自明のことなので、大抵は書き立てませんが、読者が鈍感かも知れないので、念入りに書きます。
 この部分の結論として、国志に「改竄」が行われたという確実な証拠は、全く存在しないと断定されます。

*誤解列記
 写本、刊本時の皇帝僻諱を改竄の事例としていますが、改竄の定義をご存じないようです。僻諱は、特定文字の置き換えなどで皇帝実名などを避けるものであり、改竄して文意を変える意図でなく、刊本ならぬ私的写本で僻諱が適用されたかどうかも、全巻確認しない限り不明です。

 また、裴注を改竄の事例としていますが、これも、改竄の定義を外れた暴言です。紹興本、紹凞本などの刊本現存品を見ても、裴注は原文と区別され、原文を書き替えることはありません。
 世上、裴注が、正史「三国志」の一部であると誤解した不出来な論義があるので、無批判に追従したモカもませんが、追従するのは、先行者の審査を経た上で、「奈落落ち」の道連れを避けるものです。

*用語混乱
 「改竄」、「善意」、「悪意」などの法律用語を、日常感覚で書き連ねるのは、まことに不用意であると考えます。

*類推の主張
 視点を反転して、国志に一切改竄が無かったと断定する絶対的な証拠は無いから改竄の可能性を認めるべきだと力説されているようですが、それは、とてつもない考え違いです。
 漠然たる一般論であれば、根拠不確かな推定を押し出さなくても、単なる思いつきの主張として、存在を赦されるものです。

 ところが主張されているのは、特定の部分で特定の内容の改竄があるとの具体的主張であり、それは、確証を持って正しく主張しなければ、単なる暴言だということです。

 1-4のような不確かな/棄却されるべき推定の積み重ねを確証とみているということは、学術的な論証に対する判断能力が欠けているということであり、著者に対する評価が低下するものです。

*助言
 と言うことで、このように無法な論法は、大変損ですよ、と忠告するものです。

 所説を主張したいのであれば、正攻法で論証すべきです。世に、曲芸的と揶揄される主張はごまんとありますが、論理の曲芸は、褒め言葉ではなくて、欺瞞の類いとして、排斥されているのです。

 おそらく、著者は、嫌われても良いからと苦言を呈してくれる友人をもっていないと思うので、ここに、とびきりの苦言を書き記したのです。

                        完

                        

2022年11月12日 (土)

私の本棚 20 季刊「邪馬台国」 第125号 井上悦文「草書体で解く邪馬台国の謎」補充再公開

 私の見立て ★☆☆☆☆ 根拠不明の断言集 拝読辞退     2015/06/10 補充 2022/11/12

◯はじめに
 本稿は、専門的な根拠を踏まえた論説のようであるが、余程論旨に自信があるか、それとも、論旨に不安があるのか、冒頭から、強い物言いが続くこうした断定的な書き出しは、却って不信感を招くと思うが、どうだろうか。
 例えば、書き出し部で「三国志の原本は草書であったことが判明した」と声高に唱えるが、言い切る根拠は何かとみると、楷書写本は大変時間がかかるので、作業性が悪く、写本は全て草書で行われていたに違いないという説である。
 時代を隔てて、遙か彼方の現場を推定する「臆測」であり、何ら物的な証拠が無いのに断言するのは大胆である。

*考察検証
 ここで言う物的な証拠は、例えば、西晋皇帝所蔵の三国志写本の実物であるが、断簡すら残っていないし、下って、北宋までのいずれの時代でも良いが、皇帝所蔵の三国志写本が発見されたとは聞かないから、やはり、物的証拠は存在しないのである。
 それとも、噂に聞く、敦煌文書の呉志写本断簡は草書で写本されているのだろうか。もっとも、そうであったとしても、皇帝蔵書ではないので、状況証拠にしかならないのだが。

*「書の専門家」の暴言
 ここで状況証拠としている写本に使用する書体と作業効率との関係は、自称「書の専門家」の意見であるし、また、多少なりとも、書き真似してみれば納得できるので、不審ながら、一応、ご意見として伺うしかないのだが、その点を根拠に、正史の写本が全て草書で継承されていたというのは、速断に過ぎ同意しがたいものがある。

 因みに、いくら「書の専門家」のご高説とは言え、三国志の解釈に「草書の学習」が必要というのは、不可解である。三国志草書写本は現存しないのである。氏が三国志全巻を古代草書で書き起こして、仮想教材として提供するというのだろうか。それは、簡牘の巻物なのだろうか、紙冊子なのだろうか。

 いや、今回の井上氏の論説でありがたかったのは、秦漢時代にも、日常の書き留めには、手早く書ける草書めいた略字体が採用されていたと言う指摘である。してみると、草書の特性は、文書行政の発達した古代国家である秦時代からの常識であったと思うのである。
 発掘されている木簡類は草書では書かれていないようだが、日常の覚え書き類は草書だった(のだろう)との説には説得力がある。

*真書と草書
 それで思い出したのが、宮城谷昌光氏の著作「三国志外伝」の蔡琰(蔡邕の娘 蔡文姫/昭姫)の章の結末である。時の権力者、つまり、武人であり、教養人、つまり文人でもあった曹操から、蔡文姫が記憶している亡父の蔵書四百余篇を書き出して上程するようにと下問されたのに対して、「真書」で書くか、「草書」で書くか、書体を問いかけているのである。

 手早く草書で書き上げれば随分早く提出できるが、書籍として品格が低くなり、曹操ほど詩作や孫子注釈で高名な大家に失礼と思えるし、といって、厳密に真書で書くと、時間が大層かかる、いわば、二者択一であったのである。

 ここで言う真書は、言うならば、字画を全て書き出す本字であり、草書は、省略の入った略字という位置付けであろう。どちらでも、ご指示のままに書き上げますという趣旨である。

*書体の併存
 さて、古来から真書、草書の両書体が併存していたのであるから、草書が略字体であるために異字混同が(必然的に)出ることは、当時の知識人や行政官吏に知れ渡っていたはずと思うのである。氏自身も述べているように、草書の位置付けは、あくまで草稿、つまり下書き止まりであって、本当に「文書」を書くときは真書で書いたと言うことである。これは、浄書であり、清書でもある。

 ちょっと意味合いは違うかも知れないが、唐時代、公文書では、簡明な漢数字の一,二,三,,,を壱,弐,参,,,と、「大字」で書く規則があったのも、改竄防止、誤読防止の意義があれば、時間を掛けても字画の多い文字を採用していたと言うことである。ということであれば、信書(手紙)の類いは草書としても、公文書を草書で書くことはなかったはずである。
 つまり、正確さ、厳密さが至上課題である公文書類や正史写本には、後世に至っても厳として真書が採用されていたと推定するのである。

正史写本
 特に、正史写本の中でも、皇帝蔵書に当たる最高写本、これを仮に「正本」というならば、「正本」を写本して新たな「正本」を作るとすれば、そのような高度に厳密さを要求される複製写本の際には、写本に於ける速度ではなく、複製の正確さが至上命令である。
 至上命令というのは、これに違反すると、給料を減らされたり、免職になったりする程度の「処罰」にとどまらず、馘首、つまり、打ち首で死刑もあり得ると言うことである。

 それに対して、その際に経済的な要素として懸念される時間や人手は、国庫から十分以上に与えられるわけだから、真書で、しかも、予習復習を含めて、とにかく、時間と人手を惜しまずに、念には念を入れて写本するのは当然の帰結と思われるが、どうだろうか。

抜き書き・走り書き
 ただし、以上は、何よりも厳密さが求められる公文書や正史写本の話であり、一度、そのような厳密さの桎梏から解き放たれたときは、段違いに書きやすく、速度の出る草書写本が採用される可能性が高いと思うのである。特に、正史をもとに編纂された類書の原典とする抜き書き資料は、手っ取り早い草書で書かれていたものと思われる。
 類書編纂は、正確な引用でなく、飲み込みやすく消化した要旨抜粋であるので、誤字もまた発生することが避けられないのである。また、そもそも抜き書きの元となった写本が、正本と同様に真書で書かれていたかどうかも、以下で思案するように、かなりあやしいのである。

 お説に従い、これら草書写本には、異字混同がある種の「必然」となることを考慮すると、ここで延々と主張されている誤字は、こうした草書写本段階で発生し、構成されないままに継承され、最終的に、後代史書や類書に清書された際に、継承(誤伝)されたと見て良いのではないか。この辺り、論理の分水嶺というか、絵に描いたような諸刃の剣である。

 その極端な例として、翰苑写本がある。当該写本は、影印版の収録された解説書が公刊されているから、どのような書体と配置で、どんな文字が書かれているか、誰でも確認可能である。特に同意意見も、反論も出てこないブログ記事で公開された私見ではあるが、見るところは見て書いたものである。
 つまり、翰苑写本は、原本が確認不可能なので、ちゃんとした原本があったと仮定すると、写本というものの原本に忠実、正確な複写ではなく、また、その際に正確さを求めたものでもなく、とにかく、欲しい部分を、追い立てられているように、手早く抜き書き書写されていると見るものである。一番の難点は、素人目にも、校正、校閲によるダメ出しがされていないので、素人目にも明らかな錯誤が露呈していて、文字記録資料として信頼できないのである。
 いわば、書の文化財として尊重すべき「国宝」だが、史料としては、ほとんど信じられない、相当信頼性の低い文献資料と、書道の素人は見ている。

二次写本、末裔写本
 また、皇帝の指示した正史写本は、次なる正本として「厳格」に写本されるにしても、当代の正本から写本された、言わば、子写本(一次写本)から芋づる式に連鎖して写本された孫写本(二次写本)以降の末裔写本は、「厳格」の適用外であり、作業効率が優先され、草書写本となる可能性がどんどん高まるのである。地方豪族の手元に渡る頃には、多くが草書写本になっていたとも推測される。
 以前から指摘しているように、真書写本といえども、誤写の発生を食い止めるには、大変な労力と優れた職人群が必要であり、王侯貴族といえども、そのような厳格、精密な写本は、経済的な事情だけ推定しても、そう簡単にはできなかったと思われるのである。

草稿と確定稿
 また、三国志編纂過程で、陳寿と無名の補佐役が上程草稿を作成したのは草書体と思われるが、皇帝に上申する想定の三国志「確定稿」は、真書で清書していたものと思うのである。
 案ずるに、草稿といえども、文脈から推察できない異民族の固有名詞などは、おそらく、草書のただ中に真書を交えるなど、誤写を防ぐ工夫などをしていたに違いないのである。それが、俗事に屈しない史官というものである。

 井上氏の記述では、陳寿は三国志を完成することができず、草稿を残して没したようにも見えるが、60歳を過ぎた老齢であるから、自身の著作を中途半端な形で後世に遺すことがないよう、真書で書き上げた清書稿を確定稿、完本としていたと考えるのである。
 これは、皇帝から命が下ったときは、速やかに上程できるようにしておくという意味もあるのである。陳寿は、罷免されても、処断されたわけではないので、著作を続けられたと見るものである。陳寿の人柄と職掌を考えると、そう考えるのである。

余談談義
 総じて、井上氏は、業界用語を交えた不思議な言い方を、大変好むようである。
 例えば、冒頭で、何の断りも引用符くくりもなしに、「魏志倭人伝」と書いておきながら、禁じ手の後出しで、だめを入れるのである。
 曰く、『「邪馬台国」の(と言う国)名は、中国(余計である)正史(である三国志の一部である)の「魏志倭人伝」に書かれていると大方が思っている。』 ()内は当方の補充。
 何とも、見苦しい乱文であり、理解に苦しむ点は、凡百の俗説の徒と同様であり、氏の、文筆家としての未熟さを思わせる。
 それにしても、大方」とは何の意味か、よくわからない。多数の他人の「思っている」ことをどうやって調査し、どのようにして計数化して、「声なき声」の世論とも見える「大方」を見出したのだろうか。所詮、氏の見聞というものの、実は、飲み仲間の罵り合いではないだろうか。

 てっきり、季刊「邪馬台国」誌では場違いな、古田武彦説復唱かと思ったが、そうではない。「魏志倭人伝という正史はない」に始まる趣旨不明の提言が続く。どろりと「魏書の東夷伝の倭人の条」と書き写しているが、「魏書」と書かれているのはここだけで、他の箇所では全て、「魏志」である。趣旨不明である。「倭人伝」はなかった論には大方は食傷している。
 最後に、倭人伝と三国志全体の文字数が上げられているが、本稿においてどんな意義があるか、不明である。まことに、不可解である。

*成立の不思議
 以下、三国志の「成立方法」(単語明瞭、意味不明)と言う下りがある。
 「成立」を確定稿のとりまとめ時点と言うのであれば、その時点では、確定稿は、いまだ陳寿の個人的な著作なのだから、いわゆる官製史書である「正史」でないことは自明である。まして、一部厳密な言い方を打ち出す識者によれば、西晋時代に「正史」はなかったから、その後も、正史という言葉が浮上するまで、三国志は「正史」でなかったことになる。

 とかく、そのような「重隅突き」的な散漫な言葉咎めは、「大方」の読者に論旨の迷走を感じさせ、折角の文章が寄せ木細工との感を与え、箸休めの「閑話休題」以外に何の意義があるのかよくわからない。

 おそらく、ご自身の学識の範疇外なので、いずれかの公開文献から無造作に取り込んだのだろうが、身に合わない借り着は、本人の品格を落とすだけである。門外事を、うろ覚えで挟み込んで論説全体の値打ちを下げるのは、井上氏の創始した失敗ではない

写経
 遣唐使や留学僧が持ち帰った仏教経典の写本が草書体とも思えないので、唐時代でも、真書による写本も残存していたように思われる。
 奈良時代に平城京で行われた国家規模の写経事業も、また、本稿で言われる草書写本の例外と思われる。
 因みに「藤三娘」と署名した聖武天皇皇后「光明子」の残した写経は、どう見ても、草書ではない。
 と言っても、草書写経が「絶対になかった」と断言できるほど、多数の原史料を確認していないので、推測である。

◯まとめ
 当記事は、井上氏の軽率な思いつきを、「大地から掘り出した芋」と見ると、それを「泥付きのままで食卓に提供する自然食」と見える。つまり、せめて、泥を落とし、皮を剥いた上で、煮炊きして、調理提供いただきたいと思う。例えば、ウロコを取らず、はらわたも出さないサカナは、そのままでは食べられたものではないのである。自然食材は貴重であるが、だからといって、それが和食の真髄ではない。
 氏が、このように不出来な著作を公開したのは、氏にとって名誉にならないと思う。勿体ないことである。

 これでは、以下、氏の力説する新説が、忽ち、悉く「虚妄」と判断され、「ジャンク」とされるのである。世上、邪馬台国論争は、厖大な「ジャンク」所説群を産んだと「大方」が断じる理由とされるのは、それぞれの冒頭で、説得力のない、疑わしい「新説」をがなり立てるためと思うのである。「ジャンク」を悉く味わった上の評価とは見えない。
 現に、氏の著作を買って読もうという気には、到底なれないので、そのように推定する。

 仮に、氏の新著を贈呈されても、時間の無駄なので「拝読辞退」である。

以上

2022年10月21日 (金)

16. 年已長大 - 読み過ごされた生涯 補追

                       2014/05/06 追記 2020/05/17 2022/10/20
「年已長大。無夫婿」
 ここまでに記した小論を復唱すると、卑彌呼は、(数えで)十五、六歳で即位し、魏使来訪の時は、最近十八歳を過ぎた(年已長大:すでに成人となった)と云うことになります。後の「壹与」は、十三歳の「宗女」と言うことは、巫女であっても、まだ、世人の尊敬を勝ちとるに到っていなかったかも知れませんが、間近に先例があったので、うまく行くに違いないと思わせたのでしょう。その先のことは、何も文書記録がないので、何もわからないのです。

*謎のご託宣
 下記論説によれば、中国史学界では、「倭人傳」から「わずか十五、六歳の少女卑弥呼を王として」と読み取っていると思われますが、これは、中文としての文意が明解だからだと思われます。

 「倭國と東アジア」 沈 仁安 六興出版 1990年2月発行
 ただし、124ページの以下の記事には驚きました。
 『しかし、長い間、中日両国の史学界では、次のような見方が行われている。即ち、わずか十五、六歳の少女卑弥呼を王として「共立」したのは、「古代の母権社会における女人政治の典型」あるいは「原始的民主制」であり、卑弥呼はシャーマンと開明の「二つの顔」を持つ原始的巫女王であったと思われている。これは、必ずしも倭人伝の原意を正確に理解しているとは言えないであろう。

 急遽、引用文献として挙げられている石母田正氏の「日本の古代国家」(岩波書店 日本歴史叢書 1971年刊)を購入し、内容を見ましたが、「わずか十五、六歳の少女卑弥呼を王として」と書かれている箇所は、ついに発見できませんでした。
 また、見聞の及ぶ限り、日本の史学界で長年行われている見方とは言えないようです。

 むしろ、日本国内の史学界では、卑彌呼は、「壮年で倭國王に即位し、国難の際には自ら戦陣に立つ、強いリーダーシップを持っていた」ものと見ているように思いますが、これは、文献史料に基づく妥当な推定とは思えないのです。
 諸賢には、講談や浪曲にもなりそうな「英雄譚」が、幼児期や少年期の原体験として刷り込まれているような気がします。

 その一つは、萩民謡「男なら」に歌われた「神功皇后さんの雄々しい姿が鑑」となった卑彌呼像ではないかと思われます。あるいは、女として母として、徳川政権に果敢に挑んだ「淀殿」(茶)の姿でしょうか。世間受けすることから、若々しい「卑弥呼」が躍動する物語が少なくないようですが、「倭人伝」にも後漢書「東夷伝」にも、そのような講談ネタは、一切書かれていないのです。

*取り敢えずの解釈
 そうした「通説」を脇に置き、原文から解釈を進め、以上の読み解きに従って現代語風に書き連ねると、以下のようになります。

 (この年頭で)已に成人(「数え」で十八歳)となった(という)。配偶者はいない
 因みに、当時の支配者氏族は、婚姻関係による結びつきを重視したと思われるので、成人となるまで未婚であることは、ないように見えます。但し、当ブログ筆者は、「季女不婚」、つまり、姉妹の中の選ばれた一人は、家付き娘として、嫁入りも婿取りもせず、生涯、氏族の長たる「家」の祭祀を守る「巫女」(ふじょ)を務めたという見方をしているので、むしろ、配偶者がいないのは、当然とみていますが、史官は、中原では、そのような「文化」は、喪われていると見てとって念押ししたと見えます。

 追記 2020/05/17
 丁寧に説明すると、後代資料である范曄「後漢書」が、「遅くとも霊帝代に、倭で大乱が起こり、それを収拾するために、当時成人であった卑弥呼を共立したと想定し、卑弥呼の女王時代は後漢代であった」と語っていて、後漢書「東夷列伝」で「倭」条を構成しているため、共立は、遙か以前の後漢霊帝代あたりになって、曹魏景初年代には、相当の年齢(老齢)となっていて、この「創作」が曹魏代に先立つため、本来先行して書かれていて、笵曄「後漢書」に優先すべき「倭人伝」の解釈が、大きく撓んで、ここに書いたような「若年即位」の解釈は、はなから棄てられています。因みに、後漢霊帝代から献帝に至る時代は、後漢自体が不安定な時代であり、また、韓国も、動乱の時代であった上に、「東域都督」と言うべき遼東公孫氏が自立して、洛陽に東夷、特に、韓、倭について、一切報告をしなくなっていたので、なぜ、笵曄がそのような時代の東夷事情を知ったのか不思議です。後漢献帝期に創設された帯方郡を知らないままに、「倭」の「大乱」や女王共立を知り得たのかという謎です。

 慎重に考えれば、笵曄「後漢書」東夷列伝倭条に対して無批判に追従するのは、曹魏公式記録をもとに同時代史書として書かれた倭人伝」の確固たる記事の解釈を、百五十年後の後代資料「後漢書」のあやふやな記事によって、安易に改竄する「邪道」(時代表現では、「真っ直ぐ」を言う「従」でなく、斜めを向いているという事です)であり、再考の必要がある(棄てなさいと言うこと )ように感じます。

 また、卑弥呼の壮年即位、時代を越えた老境に到る君臨は、「倭人伝」に書かれている人物像ではなく、国内史料などから編み出された古代国家君主像に由来していて、これまた、慎重に考えれば、倭人伝」の解釈を、数世紀後の別系統の国内伝承史料の解釈の「思い込み」に沿って糊塗するものであり、根拠の無い風説の類いなので、とことん再考の必要があるように感じます。

 どちらの場合も、「倭人伝」の記事を離れた「空想」業であり、当然、深意を読み過ごしているものと思われるのです。

 当記事だけでは、「長大論」を言い尽くせないので、一連の「関連記事」詳しく述べていますが、当ブログで、このように、わざわざ「定説」に異議を言い立てるのは、それなりに根拠があってのことと理解いただきたいのです。
以上

 2015年5月16日 補訂

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2022年10月15日 (土)

新・私の本棚 番外 諸説あり! 「女王・卑弥呼の正体」 1/4 再掲

 BS-TBS ▽邪馬台国2時間スペシャル!  2017/06/10 2017/12/30
 私の見立て★☆☆☆☆☆ 参考のみ                  2017/12/25 2019/04/21 2022/10/15

 今回、BS-TBSの卑弥呼番組(6/10放送分)を再見して、話の筋が躓き続きで足腰がガタガタです。諸説とはトンデモ提言のことなのでしょうか。古代史分野では、定説すらしばしば脱輪して暴走しているのに、そこから、更に踏み外した異常な説を物々しく提案されても、ついていけないのです。
 批評だけ出回るのは感心しないので、意見発表を自粛していましたが、当番組は、17年末に再放送予定なので、確認いただけば良いと思います。

*放送予定 BS-TBS 2017年12月30日よる10:00~
 諸説あり!▽邪馬台国2時間スペシャル!後半「女王・卑弥呼の正体」

*怪説連発―立証説明無し
 以下の所説は、あやふやな根拠が示されるだけで、全て提唱者の言いっぱなしです。つまり、丁寧に論証・説明されていません。
 例えば、卑弥呼が魏志倭人伝にしか登場しないとは、完全に誤解であり、時代順で言うと、まず、後漢書に書かれて、一見初出と見られるのです。
 卑弥呼の字が、中国側の聞き取りというのも、浅慮の誤解、と言うか、決めつけすぎです。なぜ、自称したと解釈できないのか、理解に苦しみます。せめて、現地事情に詳しい帯方郡と相談したと見るのが、筋の通った見方と思います。

 無神経に「定説」と称していますが、卑弥呼が、呪術を駆使したとか、六十年在位したとか、老齢であったというのも一個の異説に過ぎず、浅慮の誤解かと思われます。文献にないことを現代の作り話で埋めたと思われます。

*導入部 束の間の快適さ
 当番組の堅実さは、冒頭の平原遺跡紹介に現れていますが、呪力云々と口にしたために、以下、番組の花道を、平原墳墓に関係のない三角縁神獣鏡魔鏡説に盗まれていて、まことに気の毒です。

⑴ 魔鏡の怪
 本番組の「愚説」の極めつきの一つが「魔鏡」です。(下には下があるか)
 愛知県犬山市の東之宮古墳の遺物である古鏡のレプリカを作って実演していますが、先ずは、同類の古鏡の数百枚あるとされるものの一枚に過ぎないのではないでしょうか。古代の鋳造技術で、意図通りのものが大量に作れたとは、到底思えないのです。
 たまたま、やり玉に挙がった一個が、仕上がりの加減で、そのように見えただけであり、そのような意図で製作されて、その通りにできあがったたかどうかは、不明としか言いようがないのです。

                              未完

新・私の本棚 番外 諸説あり! 「女王・卑弥呼の正体」 2/4 再掲

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*魔鏡大安売り
 同じ鋳型で、同じ作り方をすれば、魔鏡は、再現すると称していますが、それなら、当該古鏡が大量に配布されたらしい現在の「近畿地方」、ないしその東方では、大勢が持っていたことになり、大安売りとなって、値打ちが無かったかと愚考します。

*三角縁神獣鏡の怪
 番組では、手軽に華々しく実験して見せましたが、見当違いの遺物を実験材料としているのは、何とも恥曝しです。誰か教えてあげろよと思います。
 肝心なのは「三角縁神獣鏡」は、卑弥呼のものでないという論証堅固な「定説」です。もちろん導入部に利用された平原遺跡の出土物ではないのです。
 つまり、この「定説」は、世間に溢れている、良くある「学派伝承」で無く、誠実な考古学で確証された「学説」ですから、この異説は、時代錯誤の見当違いの主張なのです。
 実験を見、「三角縁神獣鏡」の時代比定を聞いた素人さんは、「九州で発掘されず、大陸でも半島でも発掘されていない」というある意味絶望的な報告を受けても、これは「ライセンス」生産だ、などと意味不明の時代錯誤極まりない意見を吐いて、ついには、「いずれ各地で発掘されるというような」つけるクスリの無い神がかった意見まで持ち出します。「フェイクニュース」を信じ込んでは、「フェイクニュース」を蔓延させるのに手を貸すだけです。お気の毒な恥さらしが、永久保存されたのです。
 どこかで何かが発掘されても、これまでに確認された考古学的判断である「時代違い」は動かないのです。無意味に実証するのは、学問の道ではありません。

⑵ 倭国飢饉説の怪
 続いて、三国史記新羅本紀(西暦193年?)を根拠にした「倭国飢饉」説ですが一応、「統一新羅すら滅び去って久しい一千年後に、新羅建国以前の断片史料をかき集めて、形式を整えた造作史料」の記事を、一応真に受けるとしても、読めば読むほど筋の通らない、信を置けない記事と見ますから、とてつもない愚説と見られます。しかも、過去雨ざらしになった廃版仮説ですから、よくも平然と持ち出せたものです。
 折角だから、一応考証しま。仮に、北部九州から倭国の難民が、大挙渡海して、当時一小国に過ぎなかった斯盧国まで食糧を求めたとすると、まずは、道中食糧はどうしたのかという事になります。飢餓の巷の筑紫の倭人は、食糧補給なし、つまり、メシ抜き、宿泊なしで、海峡越えに最低でも三日を要する長距離の激流を漕ぎ抜けたのでしょうか。
 
さらに、海峡を越えたらそこが斯盧国というわけでなく、狗邪韓国に始まり、諸国を越えて、斯盧国、後の新羅首都慶州(キョンジュ)まで、何を食べて<足を伸ばしたか不可解です。
 それ以前に、九州北部が飢餓地獄なら、食糧自給できない壱岐、対馬は全滅の筈です。どうにも、筋の通らない話です。
 それはそれとして、何を対価として持ち込んだかは言わないことにしても、慶州で望む食糧を得られたとして、帰りの道中は飢餓地獄です。また、数万の民に与える食料は、小ぶりの手漕ぎ船で、海峡を越えて運べるものではないのです。
 よくも、そんな無茶な話を言い立てるるものです。

                          未完

新・私の本棚 番外 諸説あり! 「女王・卑弥呼の正体」 3/4 再掲

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*斯盧国(後の新羅国)
 無理な話をこね上げなくても、斯盧国に倭人難民が来たとしたら陸続きの半島西南部の倭人でしょう。それなら、随分筋の通る話です。
 先賢も、同様に「半島倭人であろう」と推定しています。学問の話で、下記四半世紀前の先行論を確認しないで、前人未到の新発見と手柄顔をするのは、恥さらしです。

史話 日本の古代 二 「謎に包まれた邪馬台国」 直木孝次郎編
『気候変動からみた「邪馬臺国」』 山本武夫 初出「史話 日本の歴史 第二巻 謎の女王卑弥呼」 作品社 1991.4
一九三年の条には、「倭人大飢来求食千余人」とある。この倭人は、おそらく朝鮮半島にコロニーをつくって在住していた倭種の人々を言うのであろう。倭国から飢餓の人々が千人程度も対馬海峡を渡って、確実な援助の当てもない隣国を訪ねるということは到底考えられないことだからである。
 ちなみに、氏の素人考えの発言とはいえ、古代史論に「コロニー」は時代錯誤、かつ、観点倒錯であり、当方の責任範囲なら、「コロニーをつくって 」の削除は必須です。専門分野外の発言は、よくよく確かめて公言すべきでしょう。千人が海を渡ったとは、誰も主張していないので、つつかないことにします。
 無理ついでですが、筑紫倭国全部が飢饉では、互いに争う「乱」などできないのです。妄想を逞しくして隣人同士を闘わせる悪趣味の根源がわからないのです。

⑶ 霊力説の怪
 最後に、素人さんは、卑弥呼が「霊力」を示したなどとおっしゃるが、んな「力」は、もともと実在しないから、示せるはずがないのです。
 これを受けてか、学会の権威者なるご老体から、もっともらしい、老女王は「呪力」を失ったなどと見てきたような「ほら話」が出てきますが、元々この世に無い幻想力ですから、力が弱ったり失われたりすることはないのです。
 ほら話の土台は「年長大」なる言葉が老齢の意と決めつけるものですが、これは、無教養な門外漢が、中国史書の解釈に無思慮に踏み込んだために浮上した根拠薄弱な一説であり、確たるものではない、どちらかと言えば、浅慮の誤解です。独善派が、見てきたようなほら話に都合が良いので、与太話の結構に取り入れているだけです
 不確かな土台の上に、高々と豪壮な楼閣を築くのは、学術上の論議はあり得ない「砂上の楼閣」です。

⑷ 日食騒動の怪
 日食説で奇怪なのは、当日、晴天でみな戸外で空を眺めていたと決め込んでいることです。
 曇天なら、日食でなくても日差しはないのです。
 晴天日食として、鳥が騒ごうが冷風が吹こうが、別に暗黒になるわけではないので、しばらくして明るくなるのです。素人さんの卓見の通りです。中国では、遙か以前から日食予知ができていて、支配者層は、程なく闇は消えると知っていたはずです。
 そのあと、司会者から、女性蔑視、老人蔑視の発言乱発ですが、大変な時代錯誤です。まあ、民放は、この程度が相場なのでしょうか。

*まとめ
 以上の通り、「諸説」というものの、あやふやな思いつきで連発される妄想に呆れるのです。
 念のためいうと、倭人伝に「倭国大乱」はないし、卑弥呼共立は時期不明。もちろん、飢饉との因果関係は一切不明です。(史料にない以上、関係ないと断定したいぐらいです)
 
なにしろ、諸国総会での女王総選挙などあるはずがないのです。(不可能である)
 資料不足をよいことに、各自が、証拠も何もなしに勝手に推測を巡らして吠えるのは、学問と思えないのです。いや、民放テレビ番組に、学問は関係ないのでしょうが、遂に、考慮に値する「諸説」は聞けなかったのです。

                          この項完

新・私の本棚 番外 諸説あり! 「女王・卑弥呼の正体」 4/4 余談

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 これは、番組批評で無く、あくまで余談です。
*三国史記の読み方
 十二世紀半ば、統一王朝高麗時代の三国史記編纂者は、二世紀後半の何らかの史料が、千年の波乱の歴史を経て伝えられたものを見て、そこに書かれた「倭人」なる言葉、漢字熟語を読み取ったのですが、その史料の記録者が言葉に託した意味を読み取ることはできなかったようです。
 いや、原史料が、難民の正体を正しく書いていたかどうかはわからず、また、原史料が千年の間正確に書写されたかどうかわからないのです。「魏志」ほど、厳格に写本継承されていても、誤字が目立つなどと言いがかりを付ける野次馬が絶えないのですから、是非、「史料批判」を重ねた上で、発言してほしいものです。

*新羅興亡
 最初に半島統一を成し遂げた新羅ですが、魏志韓伝に記載された三世紀、韓の一国、辰韓を構成する十二カ国の一国の時代は、未開で、当然、文書記録は、皆無というか不完全でした。辰韓を統一し、さらに、三国鼎立時代の相克を経て百済、高句麗の二国を滅ぼして半島統一した統一新羅時代、中国文明に深く接して史書整備を試みたはずですが、その成果は十世紀の三国分立戦乱を経て、北方の新興高麗に滅ぼされた時、亡国の史料は毀損され、残存した史料も、維持管理は疎かで、適確に継承されなかったようです。

*倭女王卑彌乎遣使
 新羅本紀には、「(173) 倭の女王卑弥呼が使わした使者が訪れた。(「二十年夏五月。倭女王卑彌乎。遣使来聘」)」なる記事が見られるとのことです。(訳文はWikipedia)

*史料批判
 これでは、「倭人伝」に基づいたつもりで、「卑弥呼が248年頃死亡した」とする解釈と結びつけたとき、女王は、少なくとも七十五年にわたる在位となり、仮に二十代で共立されたとしても、百才の老王となってしまいます。定説のように、いい年(三十代、あるいは四十代)で共立されたとすると、百二十歳にも成ろうということになります。因みに、この年齢計算は、中国の暦法に従う加齢なので、せいぜい、数えと満との違いしか勘定できないのです。
 要するに、古史料の孤立した記事を本紀編纂に参入する際、「三国志」記事と照合しなかったため、干支紀年解釈を誤って六十年遡らせてしまったようです。
 二世紀の文字なき未開時代に元号はなく、某王の何年という記録もなかったようで、干支が一巡する六十年分ずれたと見られます。斯羅国の小国時代は、要するに未開社会で、王制が続いていたかどうか不明であり、国家としての文字記録が残されていたとも思えないのです。
 六十年のずれを補正すると「233年、倭の女王卑弥呼が遣わした使者が訪れた」となり、この方が、ずいぶん筋が通っているのではないでしょうか。
 ただし、倭人伝には、その二十年後の倭国飢饉は記録されていないから、飢饉記事は六十年移動しないようです。
 倭人伝は、当時唯一文字記録を整備していた中国文明の歴史遺産であり、数世紀、いや、千年の後に、後世人がでっち上げた歴史文学とは、同列に論じられないのです。
                       完

2022年10月14日 (金)

私の本棚 研究最前線 邪馬台国 吉村 武彦 「考古学だけでは不十分」 1/7

   石野博信 高島忠平 西谷正 吉村武彦 編    朝日新聞出版 2011年6月 
 私の見立て 全体評価 ★★★☆☆ 凡庸なごった煮   部分評価 ★☆☆☆☆  度しがたい迷妄      2017/05/09 補正 2022/10/14 2022/10/31

第5章 考古学だけでは不十分  吉村武彦

 本項は、二〇一〇年七月三日に文化庁主催シンポジウム「いま、なぜ邪馬台国が?」における講演のなかで、吉村武彦氏(著者)の講演を収録したものと思われる。
 講演は、おそらく古代学において、考古学者の良心とも言うべき感慨から開始している。しかし、以下示すように、氏の本領でないと思われる中国正史の文献史学考証に第三者の見識を取り入れる際の不正確さが山積していて、著者の権威を損なうものになっているのは、いかにももったいない話である。

 特に、客観的に間違っていると判断できる誤解までが、訂正されることなく出版されているのは、著者の周辺に誠実な、つまり、お怒りを買っても瑕疵を指摘する真摯な支持者がいないことの表れであり、当ブログ筆者は、何の関係も無いのを顧みず、ここに慎んで、憎まれ役を買って出て誤解を糺そうとするものである。

 著者の誤解の多くが、百-百一ページに露呈しているので、失礼ながら、個別に批判を加えるものである。

◯引用とコメント
 こうした表記法からいえば、「邪馬台国」の表記も同じように仮借で書かれています。ふつう は「やまたいこく」とよびならわしていますが、「邪」は「や」、「馬」は「ま」の漢字音ですから、「台」は「と」ないし「ど」と読み、「やまと」ないし「やまど」と読むだろうと思います。 おそらく「やまと」と読むのが正しく、むしろ「やまたい」と読むのは間違いではないでしようか。

 「邪馬台」国を「やまと」のくにと呼ぶという議論は、古来、連綿と引き継がれてきた「俗信」であるが、同時代の文献資料、音声記録が絶無である以上、所詮、後世人の推測/臆測/願望の積み重ねであり、いくら推測調の文体であろうと、学術的な文で殊更書き立てるべきものではないと考える。

未完

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