倭人伝随想 5 倭人への道はるか 海を行けない話 1/3 補追
2018/12/04 2024/10/28 補充 2025/03/10
*加筆再掲の弁
最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。
*随想のお断り
本稿に限らず、それぞれの記事は随想と言うより、断片的な史料から歴史の流れを窺った小説創作の類いですが、本論を筋道立てるためには、そのような語られざる史実が大量に必要です。極力、史料と食い違う想定は避けたが、話の筋が優先されているので、「この挿話は、創作であり、史実と関係はありません」、とでも言うのでしょう。
と言うことで、飛躍、こじつけは、ご容赦いただきたいのです。
*無謀極まりない一貫航行
結論を先に言うと、三世紀の「日本列島」(九州北部)で、長距離一貫航海は無謀です。
まずは、その当時のその地域には、そうした長期航海に耐える船体はありません。船体には、漕ぎ手を入れても良いでしょう。二十人程度の漕ぎ手は中々揃わず、長期にこぎ続ける体力は無いし、派遣元も、長期間出っぱなしとは行かないでしょう。
念のため書き出すと、長期の航海には、乗員の休養のために、船室と甲板が不可欠であり、また、多量の食料、水樽などを収納する船倉も必要です。また、大型化する船体構造を補強するためにも、隔壁構造が必要であり、とても、辺境の東夷には、設計、造船ができるとは思えません。そのような構想をまとめると、どうしても、大型の帆船とせざるを得ません。
漕ぎ船で沿岸航行を続ける構想なら、大型の帆船でなくても、実現できないことはないでしょうが、一日漕いでは一休みし、疲労回復して再度漕ぐのでしょうが、そのような航行で遠距離漕ぎ続けるには、多くの寄港地が必要で、ただで滞在もできないしということになります。また、漕ぎ手の数は増えて積荷は制限され、よほど高価な貴重品以外は、商売にならない感じです。
無難なのは、港、港で便船を乗り継ぐ行き方です。地元の船人が慣れた海域を慣れた船で行くので、危険の少ない行き方です。
問題は、全航路を乗り継ぎでつなげることが、その時点で可能かどうかと言う事です。港々を、定期的な船便が繋いでいるという設定ですから、ある程度、物資の流通が行われていなければ、船便もないのです。いや、「便船」乗り継ぎが可能にならなければ、航路はできないのです。
*無理な半島巡り
それにしても、漕ぎ船であろうと、小型の帆船であろうと、難所続きの韓国西南部の海岸巡りは、無謀です。提唱以来久しいのですが、そのような航行が存在したとの報告がありません。
もちろん、例えば一人乗りの漁船で沖に出て漁労に勤(いそ)しむことはできたでしょうが、それは、岩礁の位置を知り、潮の干満を知った漁師のみが出来るだけであり、今課題とされている二十人漕ぎ程度の喫水の深い船は、水先案内があっても、とても、無事航行することはできないと思われます。いや、命がけですから、とても、生業(なりわい)として航行出来ないという方が正しいでしょう。
*手軽な渡し舟~「水行」の本意 2025/03/09 補充
とかく誤解が出回っているのですが、「倭人伝」に書かれている「水行」と仮称している「海の旅」は、今日言う航海などではなく、手軽な渡し舟なのです。
*「水行」の神話 2025/03/09
先ず、中国古代史料を極めた渡邉義浩氏の御託宣に拠れば、太古以来、「魏志倭人伝」以前の諸史料で、公式「道里」が示されているのは、陸上街道の行程なのです。遅くとも、周代、関中の宗周を唯一無二の「王都」(古代の用語)として、東方の「関東」諸國の割拠する中原を広域支配するために、各地の拠点間を整備された街道「周道」で連絡し、騎馬の文書使の郵便や四頭立て馬車が往来できるように道路整備すると共に、所定の間隔で宿驛をおいて、宿泊と食料提供、蹄鉄交換と替え馬の提供を行う「使驛」の制と共に、各宿驛に関所の責めを課して、通行証(過所)の確認、関銭の徴収などを確立していたのですから、公式道里が、街道(陸道)の往来を不可欠の前提としていたのは、間違いのないところです。
渡邉義浩「魏志倭人伝の謎を解く」(中公新書)2164
《史記》《夏本紀》 陸行乘車,水行乘船,泥行乘橇,山行乘檋
渡邉氏は、太古の「水行」用例として、司馬遷「史記」夏本紀で、夏王朝の創業者となった禹后の中原巡訪の行程として、馬車に乗って陸を行くことを「陸行」と書いていて、街道未整備の段階でも、馬車による移動が確立していたと示しているのですが、付随して、海道の過程として、河水(黄河)の対岸に渡るには、先ずは、泥橇で泥を行って河岸に出た後、船に乗って水を行くと書かれているのを提起されています。それぞれ、「泥行」「水行」の文字が並んでいるのですが、街道を「陸行」するのとは意義が異なり、単に「移動する」と書いているに過ぎないのです。
当ブログでは、しばしば提起しているのですが、陸上街道の要件である宿所は、河川上に設けることができないので、「陸行」と同様の意義で「水行」を上げることはできないのです。
河水(黄河)の例で言えば、中流以下の流れは、年中行事で氾濫して、黄土を溢れさせるので、両岸は、ドロ沼になっていて、川岸の津(船着き場)に下りていくのに、時には、泥橇(そり)に乗る必要があったのです。
その意味で、提起いただいた史記「夏本紀」記事が、太古以来唯一の用例候補という事であれば、以上の審議の結果、先行用例とならないことが明らかであり、当事例は、太古以来、公式道里記事に「陸行」、「水行」が採用された事例がなかったことが示されていると見えるのです。
して見ると、「魏志倭人伝」は、正史道里記事として、前例のない画期的な定義となります。
思うに、史記「夏本紀」は、「水行」神話の創唱となっているのです。
*「水行」の字義 2025/03/09
太平御覽 地部二十三 水上に引用された「爾雅」によれば、「水行」は、「涉」(わたる)に一義的に限定されています。下流に従って、「川を遡る」、「川を下る」移動は、それぞれ、別とされています。
「爾雅」は、太古以来の「字義」を画定した字書であり、司馬遷、班固、陳寿の編纂に際して、厳守していたものです。つまり、「水行」は、本来「渡河」であり、河川の流れに従って、上下するものではないことが明記されているのです。
《爾雅》曰:水行曰涉,逆流而上曰溯洄,順流而下曰溯游,亦曰沿流。
*「倭人伝」回帰
海に疎い中国でも、北の河水、黄河、南の江水、長江などの中下流の滔々たる流れは、架橋などできなかったので、街道を行く旅は、しばしば、渡し舟で繋いで往き来していたのです。
渡し舟は、川の流れの向こうがわかっているので、羅針盤も、海図も要らないのです。川に魔物がいるはずもなく、渡し場が決まっていれば、往来する客に不自由はなく、生活のために、時には、日に何度でも渡るものです。
また、いくら大河でも、その日のうちに向こう岸に着くので、寝泊まりや食事の心配はなく、船室や甲板はいらないので、吹きっ曝しで良く、随分小ぶりの軽舟で、漕ぎ手は、さほど必要としないのです。
とは言え、漢代にそのような渡船の姿は改善され、街道を馬車や騎馬や徒歩で進んで、津(しん)に至った段階で、順次渡船に乗りこんで対岸の津に渡ったものと見えます。もちろん、津についていきなり乗りこめるわけではなく、宿泊待機したものと見えますから、津は、それぞれ繁栄していたものでしょう。後漢代には、官渡という津が高名であったと記録されています。
つまり、当時、雒陽で全土を支配していた官人にとって、街道の一部が渡船で繋がれているのは常識であり、殊更書き立てるものではなかったのです。各要地の間の行程道里は、数千里と書かれていても、途中の渡船は書かれていないのは、所用日数を推定する際に物の数に入らないからです。
「倭人伝」の道里行程記事を解釈するには、そのような常識を弁(わきま)えている必要があるのです。
ということで、以下、少し丁寧に批判します。
*渡船談義 「瀚海」間奏曲付き
渡船で言えば、例えば、半島南岸の狗邪韓国から目前の対馬に渡る船は、海流のこなし方さえできれば、さほど重装備にしなくても、手軽に渡れるのです。一日の航行で好天を狙うので、甲板は要らず、軽装備で、漕ぎ手は一航海限りの「奮闘」です。
対馬と壱岐の間は「激流」とされていますが、多分漕ぎ手を増やした渡し舟だったでしょう。それにしても、日々運用出来る程度の難所だったのです。
漕ぎ手は、一航海ごとに交代していたから、年々歳々、航路が維持できたのです。もちろん、便船として航路を往き来するには、積荷、船客が必要ですから、さほど繁忙していなければ、十日に一度の往来でよく、それなら、漕ぎ手は、交替しなくても維持できたのでしょう。要するに、時代相場で「槽運」稼業が成立していたのです。
*間奏曲 2025/03/10
「倭人伝」は、ことさら「瀚海」と特筆していますが、西域の「流沙」が、「砂の海」、あるいは、「砂の大河」が、荒れ狂っているものでなく、砂の面(おもて)に砂紋が綾なす「翰海」であるように、「瀚海」も、水面に綾なす「大海」、つまり、「内陸塩水湖」、ないしは、「塩水の流れる大河」と形容しているのではないかと思われます。
当時の洛陽井蛙の世界観では、「西域の河川が地下を潜って黄河となり、黄河が河口から黄海に流れ込んで、さらに南下して「大海」に終着している」と見れば、西域の「翰海」は東夷の「瀚海」に通じているのかも知れません。
未完