歴史人物談義

主として古代史談義です。

2022年6月 1日 (水)

倭人伝随想 9 晋書地理志に周朝短里を探る 結論 1/9

                    2018/10/26  2018/12/26 修正 2020/11/08 2022/06/01
◯始めに
 本項の目的は、引き続き、倭人伝里制の妥当性を確認するものです。
 まず、当ブログ著者は、本記事初出の段階では、倭人伝里数は短里のものであり、これは、現地で実施されていた里制の忠実な反映と見ました。主たる論拠は、倭人伝冒頭で、帯方郡から狗邪韓国までの、帯方郡にとって既知の里程が、七千餘里と宣言されているということです。そのため、全体に「地域短里」、「倭人伝短里」の見方で進めています。

*「誇張」・「虚偽」説
 これに対して、倭人伝里数が、悉く「誇張」・「虚偽」と見る説は、総じて根拠のない憶測であり、正史に明記された記事を否定する力を持たないものです。そのような説自体、非科学的な「誇張」・「虚偽」と見えます。例外的に趣旨明解な松本清張氏の主張の批判は別記事です。

◯方針説明
 当記事は、倭人伝の時代を含む歴史的な地理情報を網羅した晋書地理志の内容を検討し、里制に関する判断資料とするものです。もっとも、晋書地理志に倭人領域に関する記事が無いので、倭人領域で短里が実施されていたことを証する記事はありません。

◯晋書紹介
 晋書は、倭人伝の編纂された時代の中国王朝です。時に、「西晋」と呼ばれますが、当時は、自分たちの時代が早々に幕引きになって、南方で再建され「東晋」と呼ばれる後世の王朝と区別するために「西晋」と呼ばれるなどとは思っていなかったことは言うまでもありません。

*古代の晋(春秋)
 ちなみに、「晋」は、中国古代の春秋時代に、中原北方に封建された春秋時代の一大国でしたが、春秋時代末期に王権が衰えて自由心に権力を奪われて飾り物になった後、重臣間の抗争を歴て生き残った三家が、遂に晋王を放逐、それぞれの姓によった趙、魏、韓の三国に分割したのです。

 晋王が、臣下に放逐されたのは、画期的な大事件であり、諸国を束ねた東周の権威が失われ、各国がむき出しの抗争を行う戦国時代に移ったとされます。晋王は周の創業以来の大黒柱であり、臣下による追放から保護できなかった上に、三国から大枚の贈答を受けて不法事態を承認したから、周王に権威がない事を天下に知らせたことになるのです。

*司馬晋登場
 ともあれ、この時代の晋の創業者司馬氏は、つい先年の曹操、曹丕の手口そのままに、皇帝から権威を奪うについては、先ずはとなり、古代の晋の旧地を所領とする異姓の「晋王」に任命され、続いて、皇帝から国の譲りを受けるという「禅譲」により魏朝を廃し皇帝としてり晋朝を拓いたのです。こでは、古代とは逆に「魏」から「晋」に権力が移行したことになります。

                               未完

倭人伝随想 9 晋書地理志に周朝短里を探る 結論 2/9

                    2018/10/26  2018/12/26 修正 2020/11/08 2022/06/01 
*太平の崩壊招く愚策~司馬晋の自滅
 実は、最後の呉を滅ぼして天下統一した皇帝が、太平に甘えて官兵を靡兵、解雇したために、失業した多数の元官兵が、各王の私兵となったのです。

 野心家が天下を狙うとなれば、教育、訓練の要らない、命令服従を本分とする元職業軍人は強力な武器であり、各王が他の王に対抗して強力な軍を組織し台頭を図ったため、乱世の幕を拓いたのです。束の間の天下太平であり、晋朝は自滅政策を行い、始皇帝以来の統一国家は瓦解し、四世紀に亘り南北二分されたので、晋皇帝は大罪人ということになります。

*前車の轍 始皇帝の永久政権構想

 天下統一で兵力過剰に直面した秦始皇帝は、大軍を匈奴対策名目で北方に駐在させ、全国から、長城や寿陵建設に大量動員して失業軍人の反乱を避けたのです。税収に即した緻密な動員策が必要ですが、全国地方官からの統計情報を元に計数に強い官僚がギリギリまで民衆を絞りあげれば、中央政権を永続できたはずです。一方、全国から不平分子を徴用して反乱の原動力を吸い上げ、併せて事業経費を幅広く徴収して反乱の資金源を断つ戦略です。

 とは言え、後継皇帝は、そのような巨大な戦略に気づかず、崩れた過酷な動員と徴税を続けたため、衆怒を買い、反乱多発の状態となったのです。

◯晋書由来

 晋書の素性を知るため、中国史を抜粋しましたが、晋書は、南方に逃避した東晋政権や後継の南朝諸国では編纂できず、北朝を継いだ唐朝で、太宗麾下の重臣房玄齢の率いる錚錚たる集団によって完成したのです。

 既に、時代は、南朝を討伐して全国統一した隋が天下太平維持に失敗したために、またもや生起した全国反乱を統一した正統たる唐の御代であり、晋書を、南北朝の乱世を生起した晋朝の不始末をうたいあげる、いわば反面教師としての正史としたため、史談とも言うべき本紀、列伝において、風評に富んだ「面白い」史書になったのです。

 但し、当方が取り組んでいる地理志は、地理情報、統計情報を記した「志」であり、そうした演出とは関係無く、歴代政権の公文書として継承された豊富な資料を、丁寧に駆使した意義深いものです。

*「志」を欠く先行史書
 先行史書で言うと、後漢書は、自身の「志」を備えず、唐代に、別史書の「志」と併合したものです。そして、三国志は、遂に「志」を持たなかったので、晋書は、漢書以来久々の体裁の完成した正史となります。また、後漢書が、ほぼ笵曄単独の労作であり、三国志も、陳寿の指導力が強く反映しているのに対して、晋書は、房玄齢以下の集団著作とされていて、厖大な数値データを参照する必要のある「志」の編纂に相応しい体制であったと思われます。もちろん、四世紀ぶりに、乱れた全国を再統一した唐王朝の国力も、強く反映されています。

 つまり、晋書「地理志」は、大変信頼性の高い史料と見るものです。
                               未完

倭人伝随想 9 晋書地理志に周朝短里を探る 結論 3/9

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*本論開始
 枕が続きましたが、題材とした資料文献の背景説明としました。
 と言うことで、晋書地理志が当記事の本題です。

▢古田武彦氏の「魏晋朝短里説」の消長
○短里説提唱と展開
 古田武彦氏は、『「邪馬台国」はなかった』で、倭人伝行程記事の郡から倭に至る里数について、詳細に考察した上で、
  これは、当時の里制を忠実に記したものである。実際の地理から、倭人伝の一里は一貫して75㍍程度(数値は、参照しやすく丸めた概数である)の「短里」である。
 ⑵ これは、古代周朝の里制である。
 ⑶ これに対し、秦始皇帝が、天下統一にあたり、六倍、450㍍程度の「長里」に変更し漢に継承された。
 ⑷ これに対し、魏朝は全国里制を「短里」に復原し倭人伝に反映している
 ⑸ 短里は晋朝に継承されたが、晋朝南遷後東晋によって廃され、秦漢「長里」に復帰した』との趣旨で提言したものです。

 ⑴~⑸は当記事筆者による要約

○魏晋朝里制の論証
 古田氏の論旨は、三国志は陳寿が統轄編纂した史書で、里制は統一されているべきである、との理路により、「倭人伝」記事の小局から出発して魏晋朝全国という大局に及び、三國志全文に及ぶ実証の試みは現在も続いています。

○魏朝里制変更の否定
 ここでは、先ほどの⑶以降の推論が成立しないことを述べるものです。

*史書に記載なし
 晋書「地理志」を根拠とすれば、魏晋朝短里の否定はむしろ自明です。晋書「地理志」は、古来の地理情報を克明に記していますが、魏晋朝において、秦漢朝と異なる里制が公布、施行されたとの記事はありません。

*里制変更の無法さ~補充2022/06/01
 里制は、地理志という公式記録の根拠となるものであり、国政の根幹であると共に、各地方においても行政の根幹であり、里制を変えるという事は、国家の秩序を破壊することであるから、皇帝と言えども里制変更はできないのです。

 短里に変更すると、一里三百歩の原則から、農地測量単位の「歩」が、それまでの、一歩六尺の関係を維持できず、一歩一尺になってしまうのです。
 言い換えると、土地台帳は、それまで、面積百歩、現代風に言えば百(平方)歩、と書いていた土地が、六倍ならぬ三十六倍の三千六百歩になるということで、全国の地籍(土地台帳)を書き替える必要がありますが、もちろん、農地の実際の面積は変わらないので、納税は同等なのですが、そのような閑散は、一版人の理解を越えているので、増税と判断されて衆怒を招きます。
 あるいは、そのような激変を避けて、尺、歩までは維持し、一里五十歩とするのでしょうか。通常、「歩」による農地面積管理に、「里」は関係しないのですが、ことが、県単位の世界を越えて、郡単位や全国での農地面積となると、「里」単位で計算することになり、その際、里が一/六になって、道の里「道理」が六倍の数字になるとして、それを、広域の農地面積に適用すると、「方千里」が、三十六倍の「方三万六千」里になってしまうので、広域方里の取扱について、明確な指示を公布する必要が生じるのです。

 短里制は、一辺の帝詔では済まず、厖大な公文書を必要とするのです。従って、そのような大量の公文書が残されていない以上、里制変更はなかったと断定できるのです。 

▢結論
 そのような重大な制度変更は、魏晋朝の不手際を明らかにするものとして、晋書の本紀部分に記載されるべきものであり、まして、地理志の周以降の制度推移記録に記載されないはずがありません。
 と言うことで魏晋朝といえども、国家制度としての短里は、実施されなかった事が明らかです。実施されなかったから、記録に残らなかったというのは、まことに明解です。
                              未完

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◯周朝短里制への疑問
 さて、次に懸念があるのが、⑵の項です。いや、秦が短里を長里に変更したということも、議論が必要ですが、周の短里制がいかなるものだったか解明しなければ、秦里制を、議論しようがないので、後回しとします。

*晋書地理志に見る周朝制度

 周は、それまで中原を支配していた殷の覇権を奪って、王朝交代を実現したのですが、元々、西方の地方勢力だったので、統一国家を運営する組織も、制度も持っていなかったのですから、殷の制度、殷の官僚組織を継承しつつ、徐々に周の国家制度を組み立てていったものです。

*口分田制度(日本)

 参考となる口分田は、本朝律令では、「戸籍に基づいて六年に一回、口分田として六歳以上の男性へ二段(七百二十歩=約24㌃)、女性へはその三分の二(四百八十歩=約16㌃)が支給され、その収穫から徴税(租)が行われるとされていた。口分田を給付することは、人々を一定の耕地に縛り付け、労働力徴発を確実に確保できる最良の方法であった。」Wikipedia
 1㌃は、一片10㍍の方形の面積(百平方㍍)。

 少年少女以上の男女それぞれに支給されている点が、めざましいのです。

*井田制
 本朝の口分田のお手本となった周朝の井田制は、「中国の古代王朝である周で施行されていたといわれる土地制度のこと。周公旦が整備したといい、孟子はこれを理想的な制度であるとした。 まず、一里四方、九百畝の田を「井」の字の形に九等分する。そうしてできる九区画のうち、中心の一区画を公田といい、公田の周りにできる八区画を私田という。私田はそれぞれ八家族に与えられる。公田は共有地として八家族が共同耕作し、そこから得た収穫を租税とした。」 Wikipedia

*尺・歩・畝・里

 少し言い足すと、(中国)畝は、六百尺四方であり、一尺25㌢㍍とすると、一辺150㍍程度となり、およそ2.25㌃となります。
 縦横三個ずつ畝を並べた、井とも呼ばれる「里」は、一辺450㍍の正方形となります。つまり、距離としての一里は、450㍍となります。(あくまで概算です)

 「尺」は、時代によって異なったと知られていますが、多くの物差しに複製されて日常の経済活動に使用されるから、短期間に変動することはなく、長期的にも六倍に変動することはあり得ないのです。

 結局、記録に見る里は、おしなべて、普通の里であり、長里と呼ぶのは不合理なのです。
 また、畝は、半永久的に継承される土地台帳に記載され、農地面積の基本単位は、時代によって変動することはなかったと思われます。取り敢えず、周朝の短里制度は見えてこないのです。

 議論の詳細は、大変長引くので、別途説明します。

                              未完

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□短里制再考
 以下、もう少し手前に遡って、「倭人伝短里」の由来を見極めたいと考えます。

*地域短里制再考
 「倭人伝」里数は、短里で書かれていて、これは、現地で実施されていたことの忠実な反映のように見えます。「地域短里」と称されているものです。もっとも、晋書「地理志」には、倭人領域に関する記事が無いので、倭人領域で短里が実施されていたことを証する記事はありません。
 但し、晋書は、「倭人伝」を有しているので、魏晋代、「地域短里」が制度化され。帯方郡限定といえども、国家制度して運用されていたのであれば、その旨明記されたはずだと言えます。
 晋書「倭人伝」は、魏志「倭人伝」の引き写しではなく、後代史書の限界はあるものの、里制について明言できれば、明言していたはずです。

□晋書「地理志」による里制考
 と言うことで、基本に立ち返って、晋書「地理志」の「里」について考察します。参照されているのは「司馬法」で、該当部分は、「司馬法」の残簡にない逸文となっていますが、別文献で周制であることが裏付けされています。

*古制
 「廣陳三代,曰」と書き出されているのは、夏、殷、周三代の制度を述べる前触れのようですが、資料が残されているのは周朝であり、古制とは、周朝制度と思われます。

 以下、「井田法」と呼ばれる土地分配の規則が記されていて、土地の広さの単位である、「歩」「畝」「里」の決め方が記されています。

 古者六尺爲步,步百爲畝,畝百爲夫,夫三爲屋,屋三爲井。井方一里,是爲九夫,八家共之。

 「井」が土地区分の単位であり、漢字の形が示すように、縦横三分割されて九個の「夫」から成り立っています。
 「井」は、「方一里」、つまり、縦横一里の正方形となっています。それぞれの「夫」は、百「畝」。つまり、縦横それぞれ十個、計百個の「畝」からなっています。それぞれの「畝」は、百「歩」、つまり、縦横それぞれ十個、計百個の「歩」からなっています。面積系単位の大系が、適確に定義されています。

*歩の起源
 そこで、基本である「歩」をどう決めるかという事ですが、これは、人体「尺」の六倍となっています。
 「歩」と書いていることから、人の歩幅に関連付ける解釈が見られますが、それは、後生人の早計であり、単に、六尺の言い換えとしてこの字が選ばれたとみる方が、明快に理解できるでしょう。
 史料によっては、古来、つまり、秦制で、農作に常用される牛犂の幅が、土地面積測量の単位である「歩」の基準であったと説明している例が見られます。後世、「歩」の字の起源がわからなくなって、一歩の幅が単位だとか、いや、二歩の幅が単位だとか、混乱しているようですが、秦制が、そのような曖昧な定義を基準としてこう尽くされていたはずはないのです。

 以上の理由から、日本語としての漢字発音は、「ぶ」とした方が、誤解がなくて良いでしょう。

*概算基準の提案
 尺は、人の腕の尺骨の長さで、ほぼ25㌢㍍と仮定します。すると、歩は、150㌢㍍、つまり、1.5㍍のようですが、併せて、一歩を一辺とする正方形の広さ/面積を言うようです。と言うことで、長さでは、一里は三百歩となり、450㍍に落ち着きます。
 このあたり、周制は、別に後世のメートル法ヤSI単位系を基準に制定されたわけではないのですが、時代、地域によって変動する諸単位の概略を便宜的に固定し、概算しやすい、有効桁数の誇張に到らない、切りの良い数字を採用しようとしているのです。

*長さ、距離と面積
 以上の説明で、数字に明るい方は首を傾げると思うのですが、長さの一里が三百歩であれば、一辺一里の方形の面積は一辺一歩方形の面積のの九万倍であり、逆に、面積の一里が面積一歩の三百倍であれば、長さの一里は長さの一歩の十七倍であり、十七倍の食い違いとなります。長さで言うと、これは、二十㍍となります。いつの間にか、つじつまが合わなくなっているのです。

 仮説推論のための推定ですが、ここで参照される一歩六尺に基づく一里450㍍が、「普通里」、いわゆる標準里として、後世まで一貫して実施されたのでしょう。
 農地面積基準の「歩」、長距離の「里」表示は、それぞれ、社会制度の別の局面で適用され、「尺」の変動に関係無く、固定されていたものと見ます。

                              未完

追記 尺、歩。里を、25㌢㍍、150㌢㍍、450㍍と統一しました。これは、あくまで、計算しやすい概数に丸めたものであり、絶対正確と主張しているものではありません。あくまで、提案です。
 また、算用数字の弊害で、桁数が多い数字であって、精密と誤解されるので、有効数字を二桁弱に減らしたものです。
   2020/11/08

倭人伝随想 9 晋書地理志に周朝短里を探る 結論 6/9

                    2018/10/26  2018/12/26 修正 2020/11/08 2022/06/01
*井田受田
 一夫一婦受私田百畝,公田十畝,是爲八百八十畝,餘二十畝爲廬舍,出入相友,守望相助,疾病相救。

 井田制度では、農民は、二十歳で、私田百畝、公田十畝の計百十畝の良田を受け、六十歳で返納するまで、毎年の収穫時に公田からの収穫を税として上納すると書かれているようですが、それは一割以下の税率であり、古来、そのような低税率で運用された政府は無く、実際のものとは思えないのです。

*軍制、地方官規定への拡張

 司馬法には、井田を基礎とした周の軍制、地方官制が書かれています。

 十井、つまり、一里方形の井を出発点に、十井を通、十通を成とし、成は、一辺十里方形とします。続いて、十成を終、十終を同とし、同は、一辺百里方形とします。続いて、十同を封、十封を畿とし、畿は一辺一千里方形としてす。
 丁寧に、一里に始まる十倍階梯で帝国の広域に結びつけています。

令地方一里爲井,井十爲通,通十爲成,成方十里。成十爲終,終十爲同,同方百里。同十爲封,封十爲畿,畿方千里。

*軍制、地方官規定の拡張

 これと別に、四井を邑とし、四邑を丘とし、この丘は、十六井としています。丘ごとに、戎馬一匹、牛三頭の保有が課せられています。

故井四爲邑,邑四爲丘,丘十六井,有戎馬一匹,牛三頭。

 続いて、四丘を甸とし、田は、六十四井としています。井は、戎馬四匹、兵車一乗、つまり、四頭立ての兵車一台に加え、牛十二頭、甲士三人、卒七十二人を有します。これを、乗車の制と言い、兵車乗数の計算基準となります。(甸 ①天子直属の都周辺の土地。「甸服」「畿甸(キデン)」 ②郊外。 ③おさ(治)める。 ④農作物。 ⑤かり。狩りをする。かる。)

四丘爲甸,甸六十四井也,有戎馬四匹,兵車一乘,牛十二頭,甲士三人,卒七十二人。是謂乘車之制。

*地方官規定への拡張
 同は、一辺百里であり、領地は一万井となります。但し、領地内には、山川、坑岸、城池、邑居、園囿、街路など、耕作地外の土地が三千六百井であり、残る六千四百井が出賦で、戎馬四百匹、兵車百乗を有します。領主である卿大夫は百乗の家と呼ばれるのです。

一同百里,提封萬井,除山川、坑岸、城池、邑居、園囿、街路三千六百井,定出賦六千四百井,戎馬四百匹,兵車百乘,此卿大夫菜地之大者也,是謂百乘之家。

 と言うことで、里は、各地領主の軍備計算の根拠であり、兵車の乗数は領主の権威の格付けでもあります。
 因みに、以上のような拡張は、所定の領域内が、ほぼ平坦で、半ば以上が耕地となるというもので、これは、中原領域で当然でも、荒れ地の多い領域では、通用しないものです。

                               未完

倭人伝随想 9 晋書地理志に周朝短里を探る 結論 7/9

                    2018/10/26  2018/12/26 2019/01/29 修正 2020/11/08 2022/06/01
*天下のかたち
 司馬法は、さらに、高位の軍制を示しています。

一封三百六十六里,提封十萬井,定出賦六萬四千井,戎馬四千匹,兵車千乘,此謂諸侯之大者也,謂之千乘之國。

 封は、三百六十六里(正しくは三百十六里)で一万井となります。うち、六万四千井が出賦で、戎馬四千匹兵車千乗を有し千乗の君と呼ばれます。

天子畿內方千里,提封百萬井,定出賦六十四萬井,戎馬四萬匹,兵車萬乘,戎卒七十二萬人,故天子稱萬乘之主焉。

 天子の畿内は、方千里で、地は百万井。六十四万井が出賦で、戎馬四万匹兵車万乗を有し、天子は万乗の君と呼ばれます。

*遠大な構想
 以上のように、周制は、尺から始まって、天子の直轄領分である一辺千里(一辺四百五十㌖)に至る倍率の階梯がきっちり規定されていて、勝手に、一部をずらすことはできない仕掛けです。
 天子直轄領は、約二十万平方㌖で、 本州島面積の約二十三万平方㌖に匹敵しますが、これは、周王朝の京畿であり、諸国所領はこれを越えているものがあったと見えます。

*秦制の意義
 秦が天下統一した後、周衰亡の原因として、このような形式的軍制が、周辺勢力への防衛にならなかったと提起され、始皇帝は、「乗」数軍制を廃棄しましたが、周制の里規定に手を加えたり、一歩六尺を新設したのではないのです。秦国として確固たる実績のある、精緻を極めた法律や度量衡制度ですから、これを全国に徹底するのが、帝国の使命とみていたのです。

 また、「里」と連動した土地面積単位として「畝」、「歩」が存在しているので、いかに始皇帝でも、土地検量、税の付け替えは避けたとは思うのです。

*秦朝の里制変更
 いや、当方にも意外だったのですが、司馬法のみならず、晋書地理志自体の記事にも、秦始皇帝が里制、井田制などを改めたとの記事は無いのです。
 井田制は、単に廃止されたのでしょうが、里制は廃止できないので、改定すれば記録が残るはずです。特に周制の定義が延々と引用されている以上、里制の変更だけ実施することはできないのは自明です。

 と言うことで、秦始皇帝は、周制による尺、歩、畝、里から天下に至る大系に手を加えなかったと見えるのです。
 再確認すると、秦が、それまで、自国内で施行していた諸制度を文書化して、全国に徹底したと見ることができます。

*地域短里制の消滅~旧説の終末

 ついでながら、「倭人伝」道里記事から明確に読み取れる里制は、朝鮮半島にも実施されていたかも知れませんが、晋代に、三韓体制と楽浪郡、帯方郡支配が崩壊し、郡の確立した戸籍、地籍の台帳が散佚し、新興の新羅、百済が東西が勃興し、国家制度を整備する際に、隋唐の指示に従い、中国里が敷かれたかとも思われます。その結果、短里制は倭独特の「倭里」として辺境に生き残ったものの、倭の消滅と共に、日本里制に置き換えられたと見えるのです。
 以上は、本記事の初期段階では、それなりに筋が通った推測とみたのですが、以降、史料を精査した結果、これは、根拠の無い憶測にすぎず、「倭人伝」里制のように特殊な地域里制が、公的な制度として実施されていたという証拠は一切ないので、旧説「地域里制」はなかったと訂正することになったのです。

                               未完

倭人伝随想 9 晋書地理志に周朝短里を探る 結論 8/9

                    2018/10/26  2018/12/26 修正 2020/11/08 2022/06/01
*周里の意義
 と言うことで、距離の単位としての里が周制から六倍になったという仮説と整合させる策としては、周制の里は、尺、歩から積み上げたものでなく、別の根拠を持つ、言うならば独立した単位系でなかったかということです。

*次元の違い
 井と里が合同なら、里を六倍に拡大すると、下は、歩から天子領分まで倍数で定義されている全体系が連動しますから、それは不可能というものです。 
 絨毯を敷き詰めた部屋にテーブルを置いた会場で、絨毯の一角を別の場所に移すことなど不可能なのと同じです。

*同文同軌 周秦革命
 周里が長さの単位(一次元)で、井(二次元)と無関係(異次元)であり、秦朝が、何かの理由で周を井に同期したのなら、同文同軌の里制変更で里程が影響されても、日常使用の歩、畝は変動せず、混乱はなかったのです。また、些細な改定ということで、里長の変更は記録に残らなかったのでしょう。

 先ほどの例で言うと、絨毯の一角が本来別物で、縫い付けられているだけであれば、そこだけ、剥がして移動できるのです。

*結論
 と言うことで、経緯は不明ですが、周里が短里としても史料に書かれている周制と矛盾しないという見方です。何しろ、秦始皇帝が周制を覆してから、陳寿の三国志編纂まで五百年、房玄齢の晋書編纂まで九百年経っていたのですから、いくら公文書類と言っても、正確な伝承には限界があったし、何事も組織的に定義するとしても、全て定義できるものでもないものです。
 
 どんなものにも欠点はあるのです

*現地里制の確認
 原点に戻って、延々と模索した結果、古田氏の提言は見事に構築されていたものの、その展開に於いて、根拠に欠けるものであり、不適切な部分をそぎ落とした核心だけが、ほぼ論証されたものと思います。

 即ち、倭人伝里制の由来は多少不確かでも、⑴現地里制を適確に示しているとする意見を覆すものでないということです。また、別系列の史料により、⑵周朝が短里を実施していたことは、ほぼ信じて良いでしょう。 この項は撤回します。
 
 晋書地理志から判断すると、⑶以降については、成立しないものと思いますが、可能性に乏しくとも、別史料で覆る判断かも知れないのです。

 以上、一介の素人の意見ですから、別に権威はないのですが、ものの理屈として、筋が通っていると思うので、ご参考まで公開したものです。
 以後、少なからぬ改訂を要しましたが、できるだけ、改訂の履歴がわかるようにとどめています。

                               以上

倭人伝随想 9 晋書地理志に周朝短里を探る 結論 9/9

                    2018/10/26  2018/12/26 修正 2020/11/08 2022/06/01
*里の起源(「釋名」劉煕:後漢)
 参考まで、冒頭で論議した釋名の「定義」を掲げます。

釋名:周制,九夫為井,其制似井字也。四井為邑,邑,猶悒也,邑人聚會之稱也。四邑為丘,丘,聚也。四丘為甸,甸,乘也,出兵車一乘也。

 ここまでは、司馬法と同内容です。

五家為伍,以五為名也。又謂之鄰,鄰,連也,相接連也。又曰比,相親比也。
五鄰為里,居方一里之中也。五百家為黨,黨,長也,一聚之所尊長也。
萬二千五百家為郷 郷,向也,眾所向也。

 以下、少々検討を加えます。
 「釋名」は、中国の州名や国名の由来を明らかにした古典書籍、一種の辞典であり、その一部の「釋州国」に、「家」、「里」などの由来が記録されています。それらの定義は、主として周代の史料から引用して集成されたものと思われます。

*里の起源 一説
 古来、つまり夏殷周の三代で、五家を「鄰」として、五鄰(二十五家)を里とし、里の一辺を「里」としたようです。ちなみに、里の首長、里長は、里の中央に社を設けて氏神を祭祀したようです。当時は、万事小振りの商(殷)代であって、憶測ですが、里は(約)15㍍で、殷を継ぐ周はそれを維持したようです。一家は15㍍四方となります。(以下、約を省略)
 このように、里は集落であり、転じて距離単位にもなったのです。

*里の変貌 一説
 夏殷周文明の影響下にあった中原諸国に比べて、遅れて文明に浴した秦は、古制にあった距離単位の里を、自国の大家族世帯の格好に合わせて、周里の六倍の450㍍とし、統一王国を築いたときにこの長里が全土に適用されたのでしょう。
 周里を適用していたであろう各国王家が滅び、「同文同軌」と共に、秦里で一新、測量されたのでしょう。里制に限らず、社会制度の根幹が一新されるのは、史上類の無い同文同軌の一大変革の際に限られるのです。
 但し、距離単位の里が六倍となったために、集落としての里は三十六倍となり、周の時代と大きくかけ離れたものになったのですが、先に述べたように、これを周の井田制という土地支給制度の「井」と合わせたので、見かけ上、周里は、秦に引き継がれたように見えたのです。

*周制の名残り 一説
 朝鮮半島東夷は鄙で秦里は及ばず、周里制を維持したのでしょう。秦漢で、下級役人となった大夫が、周と同様の高官となって、東夷に残ったのと同様と思います。

*史料の検索
 古田武彦氏は、緯度ごとの太陽高度の変化に周里の定義を求めて75㍍程度の概数を得ていますが、当ブログは、史料に根拠を求めたのです。

▢一説の終わり
 以上は、初稿時に捻り出した言い訳ですが、以降の検討で、半ば取り下げとしています。
 2022/06/01時点では、倭人伝道里は、公的制度が一切関係しないものであり、当時、遼東で半ば自立していた郡太守公孫氏が、倭人を万二千里の僻遠の蕃夷として権威付けを図ったものが、公孫氏滅亡時の混乱で魏皇帝に文字通りに上申されたものであって、実際の道里と関係無い「見立て」であったというものです。
 当ブログでは、倭人伝道里に関する設問に対して、史料を読み替える必要のない、無理の無い解が整ったものと考えています。
                             以上

2022年5月 8日 (日)

私の意見 御覧「所引」出典の考察 東夷伝探し 補充

                           2022/01/25 補充 2022/05/08
〇はじめに
 別記事で、散佚した謝承「後漢書」を論じたとき、同書には「東夷伝」がないと断じたところ、根拠を持って断じたのにも拘わらず、「御覧」に謝承「後漢書」所引に続き「東夷列伝」所引があるのだから、謝承「後漢書」「東夷列伝」と見ることができるとの指摘があり、一旦、引例の史料批判が不適格で、端から棄却すべきと指摘したが、不適格とする参考例をここに追加する。
 いや、自明事項を念押しするのは自信が無いためと曲解され、言い逃れ、言いつくろいが見苦しいなどと、いわれのない非難を浴びた忌まわしい経験があるのだが、懲りずに、以下、念押ししたのである。

*探索の動機
 「太平御覧」で、引用元書名無しに、「東夷伝」/「東夷列伝」と書くのは、どういう事情か知りたかったのである。

《太平御覽》 [北宋] 977年-984年 全千巻 中國哲學書電子化計劃
【壱】《兵部八十六》《甲上》
 又《東夷傳》曰:漢時扶夫王葬用玉甲,常以付玄莬音免郡王死則迎取。公孫淵誅,得之玄莬庫。 [注:扶夫は、扶余の誤記か]

*コメント
 「甲上」では、「玄莬」の「莬」は珍しいので、「発音は「免」(べん)と付注」しているが、実は誤字である。もっとも、肉眼で区別がつくかどうか、視力検査である。往時は、異体字で「菟」「莬」を区別したはずである。
 いや、世の中には、「臺」と「壹」が紛らわしいと主張している方がいるのだが、素人が一見して区別できる、はっきり異なった字を区別できないとしたら、不勉強、不注意としかいいようがない。中国で、教養人、つまり、一人前の文化人と認められるには、数万ある「漢字」は、ほぼ全て、学習済みであり、易々と区別できるものである。
 いや、一部の論者が主張している草書類似の略字体は、判別不能な例も、多数あるようだが、ここで論じているのは、楷書系の正字である。一部、繁体字と称しているが、その本質は、中国文化の根底となっている「正字」であり、簡体字なる略字を論じているのでない。当今、安直な誤解の方が、俗耳に馴染んで、広く通用する傾向にあるので、敢えて、事を荒立てたのである。

 「玄莬」 ならぬ「玄菟」は、漢武帝が朝鮮旧地に設けた漢制「郡」である。日本では「ゲント」としている。混同している例は皆無では無いが、文字の誤解はしていないはずである。
 白川勝師の字典「字通」では、「菟」は、黒いつる草らしい。これまで、素人の軽率で、「黒兎」の意味と速断していたが、よく考えれば、草冠は植物である。加えて、黒ウサギは、大変、大変稀少である。いや、時に勘違いも面白いのである。

 「御覧」編者は、「玄菟郡」を関知せず「述べて作らず」として、所引(メモ書き)のまま書いたようである。もちろん、山成す原本を実際に、逐一確認していたら、こうした誤解は生じないのだが、いくら大広間で作業しても、手の届く範囲における原本は、ごく限られるのである。

 後漢書「東夷列伝」「扶余伝」によると「夫餘國,在玄菟北千里。南與高句驪,東與挹婁,西與鮮卑接,北有弱水。地方二千里,本濊地也。(中略)其王葬用玉匣,漢朝常豫以玉匣付玄菟郡,王死則迎取以葬焉。(中略)永康元年,王夫台將二萬餘人寇玄菟,玄菟太守公孫域擊破之,斬首千餘級。至靈帝熹平三年,復奉章貢獻。夫餘本屬玄菟,獻帝時,其王求屬遼東云。」とある。
 所引は、随分縮約しているものの、結局、范曄「後漢書」が出典と見える。ただし、「玄菟」を書き損なったのか、走り書きにして、区別が付かなくなったか、「玄莬」に変身しているのである。

 当所引は献帝時に及ぶが、遼東公孫氏が、東夷を遮断する前だろう。事務的、機能的な列伝調で、「倭伝」が范曄風随想記事なのと好対照である。後漢公文書に基づいているという事であろう。 つまり「倭伝」は史料の出典が異なるのである。

【貳】《四夷部十一·南蠻六》《黑齒國》
 《山海經》曰:黑齒國,為人黑齒。《東夷傳》曰:倭國東四千餘里有裸國,東南有黑齒國,船行一年始可至也。《異物志》云:西屠染齒,亦以放此也。

*コメント
 本例は、「東夷伝」だから、後漢書でなく魏志が出典だろうか。
 いずれにしろ、「御覧所引」は、しばしば不正確な縮約があり、検証しようにも、原文対応が不明確である。なにしろ、「御覧」は、一気に編纂された物でなく、北斉(六世紀)、唐(七世紀)の三大類書を基礎に、北宋(十世紀)で大成したから、個別の編集経過は不明である。「御覧」千巻の人海戦術による編集の際、所引簡(メモ書き)は大量に発生するので、不備、誤解、錯簡が、発生しても不思議でない。
 このような編纂経過の成果である類書の一条、断片に表れる記事を根拠に、厳密に検討された正史を校勘するのは、無理も良いところで、あくまで、参考の参考にとどめるべきである。

〇まとめ
 本件用例探索の成果は、漠然としているが、冒頭に「東夷列伝」とある用例条は、前条後継でなく別項と見てよいようである。本来、このように不確かな史料は、史料審査で「証拠不十分」として却下すべきものだろう。どうしても、主張したければ、佚文漁りをやめて、信頼できる裏付け史料を用意すべきである。

                               以上

追記:「立証義務」の不履行という怠慢
 本件に関しては、ついつい、謝承「後漢書」に関する大家の論議の「粗相」を「尻拭い」してしまって、手過ぎた失敗と感じている次第である。大体、史書として厳密に編纂されていない、つまり、校閲を重ねていない「太平御覧」であるから、別系列の独立した史料による裏付けなしに、所論の根拠にしてはならない、と言うのが、当然、自明だと信じているのだが、同感していない方もあるようで、謝承「後漢書」所引に続いて書かれている「東夷列伝」が、謝承後漢書の所引だという可能性は、完全に否定はできないのではないかというご意見のようである。
 論議の起点に変えると、そのような断片的で、当てにならない史料を、端から正確な引用と決め付けた大家が、論証義務を怠っていたのであり、その一点で却下すれば良かったのである。つまり、他ならぬ大家が、当該「東夷列伝」記事が、謝承「後漢書」の所引であると立証する重大な義務を怠っているのだから、一介の素人の異議が聞こえたら、それこそ、「太平御覧」を全文検索して、同様な事例全てで、氏の主張を裏付けていると立証する義務があるのである。立証義務は、勝手に放棄してはならないのである。

 以上、丁寧に説明すると、丁寧さがあだになって、揚げ足取りめいた無作法な放言を呼ぶという例であり、本件は、深入りしないで幕とする。
 従って、「コメント」対応は、黙殺とする。

以上

 

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