歴史人物談義

主として古代史談義です。

2025年3月10日 (月)

倭人伝随想 5 倭人への道はるか 海を行けない話 1/3 補追

           2018/12/04 2024/10/28 補充 2025/03/10

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*随想のお断り
 本稿に限らず、それぞれの記事は随想と言うより、断片的な史料から歴史の流れを窺った小説創作の類いですが、本論を筋道立てるためには、そのような語られざる史実が大量に必要です。極力、史料と食い違う想定は避けたが、話の筋が優先されているので、「この挿話は、創作であり、史実と関係はありません」、とでも言うのでしょう。
 と言うことで、飛躍、こじつけは、ご容赦いただきたいのです。

*無謀極まりない一貫航行
 結論を先に言うと、三世紀の「日本列島」(九州北部)で、長距離一貫航海は無謀です。
 まずは、その当時のその地域には、そうした長期航海に耐える船体はありません。船体には、漕ぎ手を入れても良いでしょう。二十人程度の漕ぎ手は中々揃わず、長期にこぎ続ける体力は無いし、派遣元も、長期間出っぱなしとは行かないでしょう。

 念のため書き出すと、長期の航海には、乗員の休養のために、船室と甲板が不可欠であり、また、多量の食料、水樽などを収納する船倉も必要です。また、大型化する船体構造を補強するためにも、隔壁構造が必要であり、とても、辺境の東夷には、設計、造船ができるとは思えません。そのような構想をまとめると、どうしても、大型の帆船とせざるを得ません。

 漕ぎ船で沿岸航行を続ける構想なら、大型の帆船でなくても、実現できないことはないでしょうが、一日漕いでは一休みし、疲労回復して再度漕ぐのでしょうが、そのような航行で遠距離漕ぎ続けるには、多くの寄港地が必要で、ただで滞在もできないしということになります。また、漕ぎ手の数は増えて積荷は制限され、よほど高価な貴重品以外は、商売にならない感じです。

 無難なのは、港、港で便船を乗り継ぐ行き方です。地元の船人が慣れた海域を慣れた船で行くので、危険の少ない行き方です。

 問題は、全航路を乗り継ぎでつなげることが、その時点で可能かどうかと言う事です。港々を、定期的な船便が繋いでいるという設定ですから、ある程度、物資の流通が行われていなければ、船便もないのです。いや、「便船」乗り継ぎが可能にならなければ、航路はできなのです。

*無理な半島巡り
 それにしても、漕ぎ船であろうと、小型の帆船であろうと、難所続きの韓国西南部の海岸巡りは、無謀です。提唱以来久しいのですが、そのような航行が存在したとの報告がありません。

 もちろん、例えば一人乗りの漁船で沖に出て漁労に勤(いそ)しむことはできたでしょうが、それは、岩礁の位置を知り、潮の干満を知った漁師のみが出来るだけであり、今課題とされている二十人漕ぎ程度の喫水の深い船は、水先案内があっても、とても、無事航行することはできないと思われます。いや、命がけですから、とても、生業(なりわい)として航行出来ないという方が正しいでしょう。

*手軽な渡し舟~「水行」の本意
  2025/03/09 補充
 とかく誤解が出回っているのですが、「倭人伝」に書かれている「水行」と仮称している「海の旅」は、今日言う航海などではなく、手軽な渡し舟なのです。

*「水行」の神話 2025/03/09
 先ず、中国古代史料を極めた渡邉義浩氏の御託宣に拠れば、太古以来、「魏志倭人伝」以前の諸史料で、公式「道里」が示されているのは、陸上街道の行程なのです。遅くとも、周代、関中の宗周を唯一無二の「王都」(古代の用語)として、東方の「関東」諸國の割拠する中原を広域支配するために、各地の拠点間を整備された街道「周道」で連絡し、騎馬の文書使の郵便や四頭立て馬車が往来できるように道路整備すると共に、所定の間隔で宿驛をおいて、宿泊と食料提供、蹄鉄交換と替え馬の提供を行う「使驛」の制と共に、各宿驛に関所の責めを課して、通行証(過所)の確認、関銭の徴収などを確立していたのですから、公式道里が、街道(陸道)の往来を不可欠の前提としていたのは、間違いのないところです。
 渡邉義浩「魏志倭人伝の謎を解く」(中公新書)2164
 《史記》《夏本紀》 陸行乘車,水行乘船,泥行乘橇,山行乘檋

 渡邉氏は、太古の「水行」用例として、司馬遷「史記」夏本紀で、夏王朝の創業者となった禹后の中原巡訪の行程として、馬車に乗って陸を行くことを「陸行」と書いていて、街道未整備の段階でも、馬車による移動が確立していたと示しているのですが、付随して、海道の過程として、河水(黄河)の対岸に渡るには、先ずは、泥橇で泥を行って河岸に出た後、船に乗って水を行くと書かれているのを提起されています。それぞれ、「泥行」「水行」の文字が並んでいるのですが、街道を「陸行」するのとは意義が異なり、単に「移動する」と書いているに過ぎないのです。
 当ブログでは、しばしば提起しているのですが、陸上街道の要件である宿所は、河川上に設けることができないので、「陸行」と同様の意義で「水行」を上げることはできないのです。
 河水(黄河)の例で言えば、中流以下の流れは、年中行事で氾濫して、黄土を溢れさせるので、両岸は、ドロ沼になっていて、川岸の津(船着き場)に下りていくのに、時には、泥橇(そり)に乗る必要があったのです。

 その意味で、提起いただいた史記「夏本紀」記事が、太古以来唯一の用例候補という事であれば、以上の審議の結果、先行用例とならないことが明らかであり、当事例は、太古以来、公式道里記事に「陸行」、「水行」が採用された事例がなかったことが示されていると見えるのです。
 して見ると、「魏志倭人伝」は、正史道里記事として、前例のない画期的な定義となります。
 思うに、史記「夏本紀」は、「水行」神話の創唱となっているのです。

*「水行」の字義 2025/03/09
 太平御覽 地部二十三 水上に引用された「爾雅」によれば、「水行」は、「涉」(わたる)に一義的に限定されています。下流に従って、「川を遡る」、「川を下る」移動は、それぞれ、別とされています。
 「爾雅」は、太古以来の「字義」を画定した字書であり、司馬遷、班固、陳寿の編纂に際して、厳守していたものです。つまり、「水行」は、本来「渡河」であり、河川の流れに従って、上下するものではないことが明記されているのです。
《爾雅》曰:水行曰涉,逆流而上曰溯洄,順流而下曰溯游,亦曰沿流。

*「倭人伝」回帰
 海に疎い中国でも、北の河水、黄河、南の江水、長江などの中下流の滔々たる流れは、架橋などできなかったので、街道を行く旅は、しばしば、渡し舟で繋いで往き来していたのです。
 渡し舟は、川の流れの向こうがわかっているので、羅針盤も、海図も要らないのです。川に魔物がいるはずもなく、渡し場が決まっていれば、往来する客に不自由はなく、生活のために、時には、日に何度でも渡るものです。
 また、いくら大河でも、その日のうちに向こう岸に着くので、寝泊まりや食事の心配はなく、船室や甲板はいらないので、吹きっ曝しで良く、随分小ぶりの軽舟で、漕ぎ手は、さほど必要としないのです。

 とは言え、漢代にそのような渡船の姿は改善され、街道を馬車や騎馬や徒歩で進んで、津(しん)に至った段階で、順次渡船に乗りこんで対岸の津に渡ったものと見えます。もちろん、津についていきなり乗りこめるわけではなく、宿泊待機したものと見えますから、津は、それぞれ繁栄していたものでしょう。後漢代には、官渡という津が高名であったと記録されています。

 つまり、当時、雒陽で全土を支配していた官人にとって、街道の一部が渡船で繋がれているのは常識であり、殊更書き立てるものではなかったのです。各要地の間の行程道里は、数千里と書かれていても、途中の渡船は書かれていないのは、所用日数を推定する際に物の数に入らないからです。

 「倭人伝」の道里行程記事を解釈するには、そのような常識を弁(わきま)えている必要があるのです。

 ということで、以下、少し丁寧に批判します。

*渡船談義 「瀚海」間奏曲付き
 渡船で言えば、例えば、半島南岸の狗邪韓国から目前の対馬に渡る船は、海流のこなし方さえできれば、さほど重装備にしなくても、手軽に渡れるのです。一日の航行で好天を狙うので、甲板は要らず、軽装備で、漕ぎ手は一航海限りの「奮闘」です。
 対馬と壱岐の間は「激流」とされていますが、多分漕ぎ手を増やした渡し舟だったでしょう。それにしても、日々運用出来る程度の難所だったのです。
 漕ぎ手は、一航海ごとに交代していたから、年々歳々、航路が維持できたのです。もちろん、便船として航路を往き来するには、積荷、船客が必要ですから、さほど繁忙していなければ、十日に一度の往来でよく、それなら、漕ぎ手は、交替しなくても維持できたのでしょう。要するに、時代相場で「槽運」稼業が成立していたのです。

*間奏曲 2025/03/10
 「倭人伝」は、ことさら「瀚海」と特筆していますが、西域の「流沙」が、「砂の海」、あるいは、「砂の大河」が、荒れ狂っているものでなく、砂の面(おもて)に砂紋が綾なす「翰海」であるように、「瀚海」も、水面に綾なす「大海」、つまり、「内陸塩水湖」、ないしは、「塩水の流れる大河」と形容しているのではないかと思われます。

 当時の洛陽井蛙の世界観では、「西域の河川が地下を潜って黄河となり、黄河が河口から黄海に流れ込んで、さらに南下して「大海」に終着している」と見れば、西域の「翰海」は東夷の「瀚海」に通じているのかも知れません。

                               未完

倭人伝随想 5 倭人への道はるか 海を行けない話 2/3 補追

            2018/12/04 補追 2019/01/09 2024/05/11, 10/28 2025/03/10

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*難所の海

 半島南岸はとてつもなく難所続きですが、まずは、多少、乗りこなせそうに見える西岸から考えてみましょう。俗説では、「帯方郡が仕立てた海船、おそらく漕ぎ船が南下してこの西岸海域を踏破したことになります」が、そんなことはできたでしょうか。蒸しかえしですが、ここが通れなければ、南岸も通れないのです。
 現在の地図に見える多島海を漕ぎ通ることは大変難しかった(現代ことばで言うと、「不可能」の意味です)でしょう。

 どんな船でも、岩礁で船底に穴があいて浸水すると、必ず沈没します。岩礁が見えたら避けようとするのですが、見えないでは対処できません。地元の海人、漁師達は、そうした危険な場所を知っていて、陸上に目印を作り、いちはやく避けることができます。いわば、漁師の土地勘というものですが、海底が見えず土地勘もない船は、そんな海域に立ち入れないのです。
 まして、一人乗りの漁船より遙かに大きくて重い二十人漕ぎの荷船は、喫水が深く、船底が深くまで伸びて、漁船が通れる海域でも、難破するのです。

*帆船のなやみ
 さらに大規模な「小型の帆船」であれば、格段に幅が広く、喫水が深いので、もはや、漁船の土地勘は通用しないのです。安全に通行するには、海域全体で、水深を測って浅瀬になりそうな場所に目印を置くことになります。
 さらに、帆船通行が難しいのは、帆船の舵取りの困難さ(事実上不可能の意味です)にあります。わかりやすく言うと、帆船は舵の効きが遅い上に、低速航行では舵が一段ときかないので小回りがきかず、しかも、舵の効きが、帆にかかる風の力や海流に左右されるので、進路を制御するのが難しい(できない)のです。
 ということで、帆船を含めた大型の海船は、沿岸航行では基本的に直進するのです。進路を変えるには帆を下ろした帆船を手漕ぎの曳き船で押して方向転換させます。今日、大型船の入出港は、タグボートと水先案内が活躍します。

 この制約を克服するには、帆船に数十人の漕ぎ手を乗せ、入出港の際は手漕ぎで進めることになります。ますます船体が重くなり、載せられる荷物の量が減ります。ちなみに、ちなみに、古来、漕ぎ手は非戦闘員扱いです。

*不可能な使命

 それはさておき、半島西岸の「沿岸」航行は、浮揚するホバークラフトでも使わない限り、実現不可能という事がわかります。
 可能性は無限なので、絶対失敗する訳ではないのですが、官道としての便船であっても荷船であっても、途中の難破が度々あっては、使い物にならないです。
 難破と言わなくても、途中十箇所なり二十箇所なりの寄港地が一箇所でも停泊不能となると、土地不案内な漕ぎ船はそこで立ち往生し、官道が途絶するのです。

 そんなことは、帯方郡には自明だったので、そのような海上航行は「街道」として採用されないどころか、一顧だにされなかったのです。

                             未完

倭人伝随想 5 倭人への道はるか 海を行けない話 3/3 補追

             2018/12/04 補追 2019/01/09 2024/05/11, 10/28 2025/03/10
*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*南岸難関
 西岸踏破では、途中必ず何があるから、日程を決められないのですが、南岸踏破は、さらに難関と見られます。端的に言えば、この多島海を短区間の寄港を続けて乗り切ることができるのかどうか不明なのです。

*後世の海路
 遙か後世、大型の帆船で無寄港航行できるようになって、始めて、西海岸のはるか沖を通過する航海が実現したのですが、それでも、荒天による遭難は避けられず、近年、この海域で沈没船が発見されたとの報道があったのです。

 因みに、夜間航行する無寄港航海は、訓練された乗員や軍人は停泊休憩無しの航行にも耐えても、便乗する外交官(行人)や民間人には耐えがたいので、頻繁に寄港したはずです。そう、船酔いの問題もあるでしょうし。

*対馬海峡渡海
 以上の談義は、対馬海峡の渡海には、全く適用されません。
 この区間は、単に三度に分かれた渡海(渡し舟)であり、途中の海は、海流こそ激しいものの、難破させられる見えない岩礁などなく、かつ、目的地が見通せる区間であって、それぞれの区間は一日の航海で到着するのです。渡し舟は、甲板なし、船倉なし、厨房なしで良いのです。

 この航路は、代替経路がない「幹線」であって通行量が多くて定期便が普及している「街道」であり、それぞれの港には、ゆっくり休養できる宿があり、替え船はないとしても、その区間の渡し舟を利用できるので、わざわざ専用船を仕立てて一気に漕ぎ渡る必要もなかったのです。

 街道往来の便船の漕ぎ手なら、それこそ旬(十日)に一回往復すればよいとか、無理ない日程管理ができたでしょう。

*水行十日三千里
 「倭人伝」も、この三回の渡海を総合して、休養日、天候待ちも入れて、水行十日で渡れるから三千里相当と書いといてくださいとしています。ここで念押しすると、古来の街道道里で、実務として河川航行が必要な場合もあったでしょうが、そのような場合も、並行する陸路が存在すれば、陸路の道里が記載されたのです。
 「倭人伝」の渡海は、並行陸路が存在しないので、過去に例のない「水行」道里を定義しておいて、ここで適用したのです。渡海に先だって、「水行」だと断っていないのは、先だって海岸から渡海するのを「水行」と 定義済だったからです。
 末羅国で「陸行」とことさら明記しているのは、そこまでが「水行」だったと明示しているのです。
 このように、十分に推敲を重ねた練達の史官の筆致には、過不足がないのです。

 「水行」を、古来正解の河川行とせず、「海」(うみ)を行くものとする「邪道」(東北方向の斜め道)の読みは、別項に書評したように「中島信文氏が提唱し、当方もかねて確認していた解釈」とは一致しませんが、「倭人伝」は、中原語法と異なる地域語法で書かれているのです。それは、「循海岸水行」の五字で明記されていて、以下、この意味で書くという「地域水行」宣言です。

*見えない後日談~余談
 後世、帆船航行の初期は、なんとか西岸沖合を南下し、済州島付近から、一気に大渡海に入ったのでしょうが、だからといって、無事に未踏の航路を開拓し、乗りきれたかどうか不明です。

*高表仁伝説 2024/10/28加筆
 もっとも、初唐期の唐使高表仁は、数か月を費やした「浮海」で航路を発見し、百済を歴ずして倭に到着したようです。「浮海」とは、未知の海域を、「海図」も「羅針盤」も「水先案内」もなしに手探りで行くということであり、もし、三世紀に、魏の艦船が、当該海域を通過したという記録が残っていれば、そのような闇中摸索は必要ないのです。いや、唐使高表仁以前に、隋使として俀国に至った文林郎裴世清は、当該海域を通過したと記録されているので、その航跡を辿れば何のこともなかったはずなのですが、そのようには書かれていないのです。

 ちなみに、高表仁は、素人文官でなく、新州(広東省の一地区)刺史、現役の辺境監武官(軍人)だったので、熟練の航海士を従えて、手馴れた大型の帆船で、任地の新州から遙々(はるばる)来航したはずです。但し、『日本書紀』によると、舒明天皇4年(632年)8月に遣唐使の犬上御田耜や僧旻、新羅の送使とともに対馬に泊まっています。(Wikipedia)
 しかし、630年当時、三国が鼎立していた朝鮮半島の形勢は安定していて、新羅との関係が良好に保たれていたとみると、倭國遣唐使は、当然、安心、安全な新羅遣唐使行程を利用したはずです。もし、何らかの事情で、新羅を経由できなかったために黄海を航行したとすると、百済の海船に便乗したと見るべきですが、当時、百済は、山東半島の海港に乗り入れる権利を失っていたので、その場合、初期の遣唐使が、いかなる神業で難関を乗りこえていたか不審です。
 もし、高表仁が、「日本書紀」の記事通りに、唐使として、新羅の送使と共に倭國の遣唐使の帰国を送ったとすれば、山東半島から新羅の遣唐使航路を辿って、唐津(タンジン)に至り、以下、内陸海道を歴た上で、新羅の海港を歴て対馬に渡ったと見えます。
 唐使が、確立されていた新羅道を辿らず、新州刺史の配船で、東シナ海を横断して対馬に至ったとすれば、それは、未踏航路であり、数ヵ月を要したとしても不思議はないのですが、その場合、高表仁は、倭國遣唐使の帰路とは関係無かったことになります。

 例によって、国内史料と中国の正史のいずれを信用するかということになりますが、ここでも、国内史料は、断片的な史料を、「日本書紀」 の建前に合うように継ぎ合わせたものと見え、後続の高表仁の行状記事と併せて、信用できないことになります。

 ちなみに、朝鮮史上、高句麗、百済、新羅の三国時代と呼ばれる形勢は、640年代に動乱の時代に入り、長年仇敵であった高句麗、百済が提携して新羅の排除を図ったため、新羅は、大国大唐の支援を受けて、反撃に出た結果、百済は滅び、ついで、高句麗も滅び、660年頃に統一新羅か確立されたのですが、倭国は、百済を支援したため、統一新羅から、敵国扱いされたのですが、その結果、遣唐使の新羅道陸行も黄海航行も不可能となり、高表仁が確立したと見える大型の帆船による東シナ海無寄港大横断に踏み切らざるを得なかったと見えるのです。

 往途の郡倭航海はこなせても、帰途の倭郡航海は、帆船といえども、海流に逆らう大渡海で至難であり、いっそ、佐世保辺りから北西帆走したかと思われます。
 そして、郡から倭に向かう航海は何とかこなせても、倭から郡に向かうときは、帆船といえども、末羅港から海流に逆らう大渡海は至難であり、いっそ、佐世保辺りから、西に向かって帆走するのではないかと思われます。 この辺り、古田武彦氏は、初唐期、有明海に帆船母港を置いて、そこから発進したのではないかと、根拠なしに想像をたくましくしています。

*まとめ
 これぐらい丁寧に説明したら、「西岸南岸一貫水行」説は、影を潜めないものかと願っています。
 

                            この項完

2025年2月13日 (木)

私の本棚 番外 資料批判「翰苑」 現存写本 更新

                  2014/07/11 再掲2022/02/15 2025/02/14
*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

〇はじめに
 「翰苑」は、日本で、太宰府天満宮が所蔵する写本が、天にも地にもこれっきりという孤本であり、文化財として国宝指定されている大変貴重な存在です。
 ここでは、「翰苑」の史料としての価値を探るものです。

 まず、添付しているPdfファイルは、太宰府天満宮文化研究所が昭和五十二年に発行した書籍である「翰苑」(製作 吉川弘文館)の影印から複製したものであることをおことわりしておきます。ここに引用するについて事前了解をいただいておりませんが、資料引用として許される範囲と理解しています。

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  • 信頼性の低い写本-文献資料として利用困難(不可能の意味)

 さて、今回、上記書籍を購入したおかげで、「翰苑」を目にすることができたのですが、素人目にも、史料として不審な点が多いものと感じます。批判の結論としては、現存する翰苑は、原本の写本として信頼性の高いものでは無く、慎重に他史料と読み合わせる必要があると考えます。早い話が、当写本は、文献資料としては、ものの役に立たないと言うことです。

 こう言ってしまうと身も蓋もないのですが、遠慮してしまうと、科学的な主張ができないことになるので、あえて、角を立てているものです。
 言うまでもなく、ここに述べるのは、不作法な一私人の仮説なので、採用するのもしないのも、その人次第です。

  • 「失敗の原因」

 失敗の原因、つまり、 信頼性の低い写本となった原因を推定すると、おそらく、信頼できる、つまり、高価で時間のかかる写本工を動員せず、低廉で仕事の速いのが取り柄の写本工に頼った点に因ると考えます。

 低廉というのは、頭数が揃っていれば良いいと言うことであり、仕事が速い、というのは、写本の質を問わないと言うことです。
 また、何らかの原因で、写本と原本の照合がされていないことも、失敗の原因です。

  • 「無校正・無修正」

 誤字、脱字が多い点は、諸賢の評価にもうかがえますが、写本の信頼性評価が低くなる原因として、写本工自身の技量、知識に問題があるばかりでなく、写本されてきたものに対する校正の形跡が見られないことを指摘したいと考えます。

 写本工の仕事が不出来でも、顧客がとことんだめ出しして良い写本に書き直させればば望む成果は上がるのですが、不出来な写本に気づかずに代金を払ってしまえば、取引はそれでおしまいです。

 我が国の平城京の時代でも、「写経生」の成績評価として、写経枚数による「アメ」と誤写に対する「ムチ」とがきっちり運用されたと伝わっていますが、このような管理制度は、遣唐使が将来したものでしょう。

 余談はさておき、とても、依頼した方も、依頼を引き受けた方も、貴重な資料を写本する態度とは思えないのです。

  • 「高麗傳」後魏書綺譚

 たとえば、「高麗」(高句麗)に関する記事の冒頭37ページで、「魏収魏後漢書曰」と書き出されています。

 これは、単なる誤字の類いを超えた深刻な問題をはらんでいます。

 ここで引用されているのは、「魏収」(人名)の編纂した「後魏書」(南北朝 北魏の史書)であり、笵曄の「後漢書」とは無関係です。原本には「魏収後魏書曰」と書かれていたはずです。

  • 「誤写放置」

 粗忽な写本工は、「魏収」と書いたのに続いて筆の勢いで「魏」と書いて、途端に原本に目をやって「後」を飛ばしたのに気づき、続いて「後」と書いたもののそこまでに書き癖の付いていた「後漢書」(笵曄後漢書と書いた例もある)と書いてしまったのでしょうか。

 ひょっとして、この部分の写本工には、「魏収」が人の名前という認識はなく、また、何度も出てきた「後漢書」も、ここで初めて出てきた「後魏書」も、同じようなものと言う認識だったのでしょうか。

 写本工は、字の違いに気がついたとしても、修正を加えることも目印を付けることもなく、そのまま書き進めるのです。

 ついでに言うと、その後には、「朱蒙」と書くところで、「蒙」の字を書き損なったのをそのままに、「蒙」を書き続けています。「朱*蒙」となっています。(*は、ゴミ)これは、さすがに気づかずに済まないでしょうが、何もしていないのです。

 ちなみに、この部分の註は「後魏書」の高句麗創世記を、ほぼ正確に引用しているので、翰苑の原本は、豊富な資料を参照して、大変丁寧に書かれていることがわかります。

 好対照として、48ページでは、高句麗伝の掉尾として、「魏収後魏書東夷傳曰」と正しく書写した上で、後魏書東夷傳の高句麗の風俗記事が、ほぼ正確に引用されています。同一人物の写本仕事とは思えないほどです。

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  • 「倭國傳」観察

 さて、肝腎の倭國傳ですが、「後漢書」、「魏略」、「魏志」をはじめとする史書、資料の引用段落に、翰苑独特の華麗な趣向を凝らした見出し記事を付けて、編纂者の深い教養を思わせます。
 後漢書や魏志の記事引用に、引用終りを明示せずに、別系列記事を書き連ねている例がありますが、原本の書き忘れなのか、写本時の脱落なのかはっきりしないのが、渋いところです。

 ともあれ、当写本は、字数が不揃いで、行が傾斜、蛇行しているのに加え、異体字が多発して、原文を知っていても、読み取りに苦労するていたらくです。

 魏志倭人傳の紹凞刊本を見ておわかりのように、優れた写本とそれに基づく刊本は、活字印刷を見るように、規則正しく刷られていて、各文字の書体は一貫し、ここに見られるような低次元の誤記、誤字は見当たりません。

 優れた写本工は、写本の際に、罫線を引いた台紙を下敷きにするなどの工夫で、整然とした写本を書き続けていたはずですし、原本の配列を忠実に複製するからこそ、誤字、脱字の発見が容易になっているのですが、ここではそのような手慣れた職人芸が見えません。

  • 「阿輩雞弥自表天兒之稱」

 それに加えて、62ページに見られる奇態な誤写が、写本行程のぼろを暴露しています。
 | 髮文身以避蛟龍之吾今                                  宋   |
 |                 阿輩雞弥自表天兒之稱        | 
 | 倿人亦文身以厭水害也                                  死弟 |
 と、訳のわからない「宋 死弟」三文字の分註が行末にぶら下がっていますが、原文は、そのように不出来であったはずがなく、次のような配置になっていたものと考えます。

                                       宋書曰永初中倭國有王曰讚至元嘉中讚
 阿輩雞弥自表天兒之稱
                                       死弟珎立自稱使時節都督安東大將軍倭

 配置のずれた記事を、後先考えずに書き進めたので、行末空きに、何も考えずに原文分註の次の一,二文字を転記して埋めたものの、次の行を書き継ごうとして手違いに気づき、件の三文字は書かなかったことにして分註を書き継いだようです。(翰苑原本に比べて随分寸足らずの用紙に写本したようですね)

 ちなみに、「天児」は、要するに「天子」のことですが、大逆罪で馘首される罰当たりな用語ですから、いくら蛮夷の自称にしても、ここには書けなかったのでしょう。

 また、63ページの最終行は、分註記事を1行ベタに書くという不思議な配置を採っています。各ページ偶数行ではなかったのか。筆の勢いに任せて、隙間を埋めてしまうのは、素人くさくて不思議な話です。

  • 「卑弥妖惑翻葉群情」

 こんな離れ業を見てしまうと、61ページ最終行で、「卑」が「早」に、「妖」の旁が「我」にそれぞれ完全に化けていて、「呼」がすっ飛んでいるなどは、かわいいものだと言うことになってしまいます。

 さて、この八文字句は「卑彌娥惑」の四文字句と「翻叶群情」四文字句に前後二分されます。それぞれの四文字句は、更に区分すると二文字単位で構成されていると推定されます。つまり、「卑彌娥惑」は、「卑彌」の二文字句と「娥惑」の二文字句とに前後二分されるのです。
 それぞれをもとの文字に戻し、「卑弥(呼)妖惑翻葉(=叶)群情」 『卑弥呼は、群衆の感情を妖しく惑わし、(木の葉のように)翻させる』とでも読むのかと想像するしかありません。

*追記 2025/02/14
 本稿が一人歩きしているようなので、銘記しておくと、「娥」は、古来、「妖」の異体なのでサッサと書き換えて良いのです。
 曹魏当時は、新朝の王莽が布令した「二字名の禁」が厳守されていて、中国人の名前は一文字だったことは、唐代以降の二字名世界の教養人には知られていたものです。
 副使、「都市牛利」も、「都市」が官職名、「牛利」が姓名であって、「牛」が名字、「利」が下の名前とみられます。現代風に言うと、「牛都市利先生」かも知れません。また、実名は、君主以外呼ぶ事はできないとすれば、日常は「牛都市」と呼ばれていたようにも見えます。いうまでもなく、倭人世界で「卑弥呼」と呼び捨てにできるものはいなかったはずです。いや、実父は、「卑弥呼」と命名したわけでもあり、私的な場では、呼び捨てにできたかも知れませんが、あくまで例外中の例外です。
 帯方郡太守は、一応、親魏倭王の上位者ですが、おそらく、実名では呼ばなかったでしょう。あくまで、曹魏皇帝だけが、こだわりなく実名で呼べたのでしょう。 

*追記 この部分については、後続記事で更に考察を加えているので、ご一読こう。 
 34. 翰苑再考

  • 「拙速乱造」された「並」写本

 おそらく、翰苑写本に際しては、新米写本工、おそらく、見習い徒弟を何人か動員して、とにかく、速くしろとせき立てたのでしょう。見習い徒弟は、いつも通り、自分たちの写本は親方や兄貴分の仕事の踏み台でしかなく、親方や兄貴分は、へぼな徒弟の間違いを、すぐにそれと気づいて直すのだから、自分たちがへたに訂正する事は無かったのでしょう。
 そう思わないと、書き間違いに気づいていながら、そのままに先に進む仕事ぷりが理解できないのです。

 それにしても、これだけ法外に不正確な写本であり、卑が早になっても気づかない写本工が、それでなくても間違いやすい、東夷の固有名詞を正しく写本したと信じろというのが、無理というものです

 さて、駆け足で書き連ねていくのがこども見習い工であれば、我流の変則文字も多いのも無理ないし、史料内容はこどもの理解を超えていたから意味を考えて見直すこともなく、気楽に書き流したのでしょう。
 まさか、写本として、「上中並」の「並」にもほど遠いこども仕事が、一千年先にそのまま残るとは思いもしなかったでしょう。

 こうしてみると、小論筆者は、随分、翰苑編纂者の張楚金に対して、かなり偏見を持っていたようです。現場、現物、本人に当たらずに、憶測で勝手な評価はしてはならないのだと思いました。

 なお、「翰苑」のテキスト全文が中國哲學書電子化計劃の維基に収録されていますが、俗字を多用した文字の異同が多々見られるので、注意が必要です。

翰苑倭國傳
「kanen_wakoku.pdf」をダウンロード

以上

・追記
 「翰苑」断簡の影印本が、京都帝国大学から公開された直後に、文字テキストを取りだした上で、校訂を施した善本が、下記公開されていて、本項で指摘した稚拙な誤謬は是正されている。「翰苑」論議で言及されていないのは、誠に奇怪である。後出論考ではこの点に触れているが、本項だけ読みかじりされると不本意なので、ここにも掲示する。

翰苑 遼東行部志 鴨江行部志節本
*出典:遼海叢書 金毓黻遍 第八集 「翰苑一巻」 唐張楚金撰
據日本京都帝大景印本覆校
自昭和九年八月至十一年三月 遼海書社編纂、大連右文閣發賣 十集 百冊

以上

 

 

2025年1月28日 (火)

新・私の本棚 番外 倉山 満 『学校で習った「中国の歴史書」はデタラメばかり』 1/6

日本書紀に「卑弥呼」も「邪馬台国」も出てこない本当の理由 PRESIDENT Online 2023/11/04
 私の見方 ☆☆☆☆☆ 知的なゴミ屋敷 早すぎる墓誌銘か  2024/03/16, 07/27 2025/01/28

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

◯はじめに
 当記事は、「プレジデントオンライン」記事ですが、倉山氏署名入りで編集者は無記名なので氏の著作として批判します。
 そもそも、「中国の歴史書」などと、途方もない大風呂敷を広げていて、先ずは、失笑します。氏がどんな内容を「学校」で習ったか、読者にはわかりませんから、勝手な独りよがりにはついて行けません。公開の場で喚く前にカウンセリングをお勧めします。

*新参者の咆吼
中国の歴史書「魏志倭人伝」(3世紀末)には、邪馬台国の女王・卑弥呼の名前が記されている。憲政史家の倉山満さんは「歴史の授業では『中国の歴史書が事実』と刷り込まれるが、実際は不正確な記述が多い。『魏志倭人伝』を聖典の如くありがたがる必要はない」という――。

 古代史学で言い尽くされていますが、ここには二千年後生の無教養な東夷が好む「欺瞞」と「誤解」が満ちあふれています。特に、事ごとに「実際」とする虚言癖に似て心身に負担をかけたのではないかと懸念されます。
 『中国の歴史書「魏志倭人伝」』なるものは実在しないのは公然、衆知です。陳寿編纂の史書「三国志」の「魏志」第三十巻の巻末を占める小伝「倭人伝」の小見出しは存在しますが、それも、「紹熙本」と呼ばれる有力史料に明記されています。そもそも、魏志倭人伝」に「邪馬台国」は書かれていません。これも、衆知/公知の事実です。

 冒頭で、中国の歴史書を一刀両断すると宣言しておいて、実は、「魏志倭人伝」をなで回すだけというのは、何とも、みっともない腰砕けです。大丈夫でしょうか。

 以下、匿名のインタビューアーは、実際は、氏の著書から引用するだけで、これに対して、何の追記もしていません。

 「歴史の授業では『中国の歴史書が事実』と刷り込まれますが、実際は不正確な記述が多いのです。『魏志倭人伝』を聖典の如くありがたがる必要はない」と私見を述べ立てますが、「歴史の授業」が、保育園や幼稚園でない限り、「刷り込み」などされてないはずです。また、保育園、幼稚園は外しても、小学校の段階で、『中国の歴史書が事実』と刷り込もうとしても、漢字ばっかりでは、わけがわからないはずです。
 氏は、幼児期にどんな「おとぎ話」を読んだのでしょうか。真に受けるなら釈尊以来の偉人です。それより、そのような暴言を公開して取り返しのつかない向こう傷を拵える前に、入念な検証が必要ですが、本記事を読む限りでも、氏はかなりの智識/見識欠乏症なのに、躓いて転んだり鞭打たれたりして傷だらけ、痣(あざ)だらけになっても、一向に自覚していないようで、素人目にも痛々しいのです。

 「実際は不正確な記述が多い」の「多い」なるあいまい表現は根拠不明です。大抵は、一人、二人、多い程度で非科学的です。まして全二十四史対象となると、万を超える箇所が指摘できねば「多い」ことになりません。

 「聖典」と称しますが、何のことか、一凡人には思い至りません。それは、仏経典なのか、旧約聖書なのか、コーランなのか、何れにしろ、それぞれの宗教の信者でも、聖典に書かれていることが「歴史的事実」と信じて「有り難がっている」のは、ごく少数派に過ぎないはずです。これもまた、裏付けのない非科学的な意見です。
 アニメの街角が「聖地」と称されるなら、アニメ自体が「聖典」かも知れません。倉山氏の意識は、大部混濁しているようです。
 もちろん、氏が、「魏志倭人伝」なる二千字史料を「ありがたがる必要はない」と称するのは「私見」ですが、適度の批判は許されると思います。

 以下、引用は、適法な参照引用です。

※本稿は、倉山満『嘘だらけの日本古代史』(扶桑社新書)の一部を再編集したものです。

                            未完

新・私の本棚 番外 倉山 満 『学校で習った「中国の歴史書」はデタラメばかり』 2/6

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*加筆再掲の弁
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*承前
 率直なところ、「嘘だらけ」と自嘲しているのは「日本古代史」で、当ブログの圏外なので、本来は「猫またぎ」なのですが、当記事は、まるで関係のない「中国の歴史書」の個人的な読書観を打ちだしていて、具体例を予告している「腰巻き」共々、出版社に良心はないのかと危惧されます。「再編集」とは、不適切な字句に修正がある良心的な掲載かと期待しますが、裏切られたようです。これでは、子供達に間違った意見を押し付けないように「X」表記が必要と見えます。

*空疎な悲憤憤慨
「中国の歴史書に書かれてあることが事実」なのか
仁徳天皇を教科書で教えないなど、けしからん。
仁徳天皇といえば世界最大の古墳を造ったと私などの世代では習ったものですが、今は誰のお墓か分からんという理由で、「大仙古墳」とのみ記されます。三十代で塾講師を始めた時、「なんじゃこれは? 仁徳天皇陵は、どこに行った?」と絶句したのを思い出します。

 どんな世代か不明ですが、まさか、戦前派ではないでしょうね。随分の記憶力に感心します。「誰のお墓か分からん」などと、子供のような放言は信じられないのです。いや、氏は、自信があるのでしょうが、根拠不明の子供じみた体験に基づくご意見を賑々しく著書に書き込むのは、読者に対して迷惑ではないのでしょうか。

こういう「科学」を名乗れば何をやっても許されると信じている連中を、私は「素朴実証主義者」と呼んでおちょくっていました。「素朴」と書いて「クソ」と読みます。

 「連中」などと自嘲/謙遜いただいた上に、自虐/戯言めいたご意見を囀りまくる「素朴」な自爆発言は見ていて気の毒です。氏は、「天にツバキする」との諺を知らないのでしょうか。氏の全身は、自爆の汚物に塗れていて、とても近づくことができません。

確実な事実だけを取り出そうとしている気なのでしょうが、物語(ストーリー)が無いので、何を言っているかわかりません。歴史(ヒストリー)は物語なのですから、「何を基準に事実を描くか」が無く、思い付きで事実を羅列しても何もわかりません。

 「歴史(ヒストリー)は物語」というのは、「わかりません」との泣き言たれと合わせて、軽薄な私見であって、他人に主張するには、何の根拠にもなりません。「歴史」は、中華文明三千年の成果であって、生煮えのカタカナ語(ヒストリー)なぞ書かれていないのです。氏のように、泥まみれの取れたて「思い付き」を、貧しい認識/幼い感情論で書き殴る醜態を繰り広げていては、なにも伝わらないのです。

こんな教科書で習っていたら、「中国の歴史書に書かれてあることが事実」と刷り込まれるのは確かでしょうが。

 これは、氏の自作自演かとも見えます。何しろ、中国二十四正史に、日本に関する記事は、はしたなので、この告発は、空を切っている冤罪です。そのような「刷り込み」は、可能なのでしょうか。氏は、誹謗/弾劾されている中国歴史書で、「歴史」「事実」が、何なのか、まるで知らないでいるのでしょうか。

                            未完

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日本書紀に「卑弥呼」も「邪馬台国」も出てこない本当の理由 PRESIDENT Online 2023/11/04
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*無意味な「倭人伝」批判
「魏志倭人伝」は単なる参考資料
その中国の歴史書で有名なのが、邪馬台国の女王・卑弥呼が出てくる「魏志倭人伝」です。その「魏志倭人伝」自体が卑弥呼から五十年後に書かれた、近代史家なら参考資料にもしないような、五次資料くらいの代物なのですが。

 ここで、ようやく、具体例が登場します。中国古代史料を門外漢で無教養な「近代史家」(自画自賛か?)が論じるのは無謀です。「魏志倭人伝」を「五次資料」と「絶賛」するのは意味不明です。一、二次と、どうやって数えたのか、と意味不明の暴言です。問題は、取り次ぎ回数では無いのです。物知らずの無教養な東夷、地下数千㍍の「五次人物」がなにを言うかという感じです。二千年後生の無教養な東夷の「近代史家」(自称か?それにしては、「現代」でないので、氏は、明治、大正生まれなのか)など屁の突っ張りにもならないのです。
 ちなみに「有名」なのは、二千年後生の無教養な東夷だけで、別に、中国二十四史の中で、目立つわけでもない、わずか二千字なのですが、どうして、「有名」だと思い込んだのでしょうか。

 ちなみに、この時代の「国内記録」は、一切残って「ない」ので、わずか二千字の「魏志倭人伝」が、二千年後生の無教養な東夷に「聖典」扱いされるのは、むしろ順当です。つまり、実在する確実な史料を根拠にするのは当然です。表現放棄は、「無能な著作者の最後の隠れ穴」ですが、しっぽ丸見えです。何しろ、「ないもの」は、「論じようがない」のです。

実は『日本書紀』は誠実に取り組んでいます。しかも、「魏志倭人伝」の引用を、よりによって「神功皇后紀」にぶっ込んでいます。「あっちの国では、こういうふうに記録されているんだけど……」という戸惑い炸裂の紹介の仕方です。

 「日本書紀」を無造作に擬人化していますが、同書は、単独の編集者の創作でなく、当然、複数の編集者が多様な元資料を組織的編集体制でつきあわせたものですから、「誠実」にと力んだかどうか知ったことではないのです。神がかりというか、憑きものというか、「見てきたような」法螺話横溢です。空っぽな脳の炸裂は悲惨です。
 氏の書き物は、終始、文章が泳ぎまくり踊りまくりで、意味不明なのも困ったものです。「当惑」などと子供じみた泣き言を云う場合ではないのです。いや、「当惑」は、後世の凡人の片言ですから、ここで批判しては「筆の汚れ」なのでした。よく、「炸裂」を洗い清めることにします。御自分の粗相は、御自分で尻拭いして欲しいものです。

『日本書紀』の、神功皇后三十九年、四十年、四十三年の記事を、ご紹介しましょう。 以下、衆知なので省略

 書紀の当該部分は、「魏志」から原文を引いて校正すると「間違いだらけウソまみれ」です。時代の叡知を集めた「日本書紀」編纂後のやっつけ仕事と見えます。史料原文を引用された方は、恥さらしに泣いているでしょう。「晋起居注」引用漏れも痛いところです。
 ともあれ、すべて「日本書紀」の責任であって「魏志倭人伝」には、何の関係も無いことでしょう。「なんての」氏の心身は、大丈夫ですか。

身も蓋も無いことを言うと、ヤマト王権とは何の関係も無い北九州の族長が魏に「私が倭の王様です」と名乗って、向こうが真に受けて信じた、とすれば筋は通ってしまうのですが。

 「ヤマト王権」が正体不明で何の意味もありませんが、どうして、何の関係も無いと断言できるのか不思議です。もっとも、氏の視点は、股覗きの天地倒錯で、「実際」は、北九州の「族長」が尊重されていたのであり、東方の蛮族は全く眼中になかったと見る方が、正解でしょう。
 「身も蓋も」不要で氏の心身は大丈夫でしょうか。ちなみにここは、恥知らずにも太古のネタパクりです。

 ちなみに、「倭人」が最初に交信したのは、中国の東方の辺境で、漢/後漢代以来、蛮夷の対応に慣れていた楽浪郡なのですから、「倭人伝」には、「倭人」は帯方東南に居て、大海中の山島に国邑を結んでいる、北九州に展開した小国の集まり』と正確に理解されていたのです。「ヤマト王権」など、まるで見えていなかったのです。筋がすらりと通るでしょう??

 えっ、お客さん、そんなことも、知らなかったのですか?? 「もぐり」じゃないですか。


                            未完

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*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*根拠のない(無自覚の)妄想

これ、何の根拠もない妄想でもなく、足利幕府と持明院統の朝廷に楯突いて九州を占拠していた後醍醐天皇の皇子である懐良親王が明に使いを送って、「私こそ日本の支配者だ」とかナントカ嘘八百億を並べたら、マヌケにも皇帝も政府も信じたという、明確な史実が残っているのです。

 なぜ、三世紀を考証するのに、千年以上後の「明史」を参照するのか。氏の心身は、大丈夫でしょうか。「明確な史実」とおっしゃるのは、中国史書の中で、「明史」がお気に入りなのでしょうか。それにしても、中国史料の読解ができていないのはともかく、国内の南北朝対峙の事態が正確に書けないのは、氏の資質を大いに疑わせるものです。「九州を占拠していた後醍醐天皇」というものの、終生天子であった先帝は、叛徒を恨みつつ、とうに崩御していたはずです。
 マヌケにも皇帝も政府も信じたと能天気なことを言っていますが、 蕃夷の奏上は、そのまま史実として記録に留めるのが、中國の蕃夷あしらいだったのです。皇帝も政府(日本政府のことか)も、べつに、蛮夷の申し立てを、そのまま信じたわけではないのです。
 エッ、そんなことも知らないで書いたのですか。

*「億万」という世界~余談
 ちなみに、余談ですが、中国では、太古以来、「億」とは極力書かずに、走り書きしやすい「万万」と書いたものです。字画がやたら多いと、日常の実務で不便ですからね。中国本土では、簡体字になって「亿」と書きやすくしてしまったので、今や、「億」が生きているのは、日本と台湾正体字ぐらいだけのようです。
 と言うものの、グローバルで云うと、数字単位の発達の遅れた3桁単位の欧米諸国には、「億」に相当する単位が無いので大変不便であり、4桁単位で「億」「亿」のある「東アジア」諸国は、一歩進んでいるのです。
 エッ、そんなこと知らなかったというのですか。

*史書を書いたのは誰か~余談
 なお、中国史書は、皇帝の著作物ではありません特に、魏志倭人伝は、当時の「権力者」(だれのこと?)の知ったところでなく、まして、「政治文書」(何のこと?)などではありません。何かの誤解/妄想でしょう。
 「中華皇帝」(だれのこと?)の「意図」(何のこと?)を知ることなど、現在、過去、未来の誰にもできないし、そのような試みは、時間の無駄です。いや、氏が物好きで、とにかく時間つぶししたいのなら、勝手にしていただいて「大丈夫」です。いや、氏のことを身の丈一丈(少なくとも、八尺、2.5㍍越え)の大男だと「セクハラ」表現しているのではないのです。

*無意味な余談
明智光秀は「阿奇知」、秀吉の記述もデタラメ…
魏志倭人伝どころか、例えば戦国時代の記述にしても中国の記述はメチャクチャです。

 中国史で「戦国時代」というと、秦始皇帝の天下統一に先立つ時代です。ちゃんと、勉強してほしいものです。以下、本筋と関係ないので省略
 「インテリジェンス以前の問題」は、白日夢の寝言なのでしょうか。意味不明です。要するに、当記事の内容がいい加減なのは、持ち込んだ日本人の責任なのです。「中国人には漢字の倭人発音は、一切できない」ので、人名表記は南蛮人宣教師の意見かも知れません。
 なにしろ、(野蛮な)南蛮人の言葉には、日本語の美点である柔らかいガ行「鼻濁音」がないので、本国報告は「信長」は、 “NOBUNANGA”、 「長崎」は、 “NANGASAKI”と、固い野蛮なガ行でなく、多少似通って聞こえる“NGA”などでお茶を濁しているのです。
 いや、その辺りは、南蛮人の文書で察することができるのですが、南蛮人の居なかった倭人伝時代の帯方郡官吏が、どのようにして、「倭人」語を、当時の中国語の漢字音に取り入れたかは、正確なところは、誰にも分からないのです。

 後世、百済人は、漢字のふりがなにできる表音文字を工夫していたのですが、中国から、漢字をそのまま学ばないのは不法として厳禁されてしまったので、百済には、庶民の漢字学習を助ける「ふりがな」は発生しなかったのです。その点、東夷の果ての日本は、中国の監視が、比較的緩かったので、百済の迫害の教訓を生かして、ひっそりと庶民も習い覚えることのできるかな交じりの書き言葉を発達させたのです。

 して見ると、結局、いい加減なのは、ものを知らない氏の態度です。

人や地域の名称は音にあてこまれているだけ
中華帝国の正史は「皇帝の歴史」ですから、皇帝から周辺に行けば行くほど不正確と呼ぶのもおこがましいほど、不真面目になっていきます。

 「皇帝の歴史」とは、何の話なのか趣旨不明です。「正史」は、当の帝国の滅亡後に書かれるので、「皇帝」は、すべて批判されているのです。多分、「不(真)面目」の書き損ないでしょうか。中国の「法と秩序」をとことん甘く見ている氏の心身の健康は、本当に大丈夫でしょうか。

「魏志倭人伝」とか、後から出てくる「宋書倭国伝」「隋書倭国伝」を必要以上に、ましてや聖典の如くありがたがる必要はありません。

 またまたまた、「ありがたがる」ことを卑しんでいますが、謙虚に資料に直面することはできないのでしょうか。いや、氏は、巧妙に、これら資料は「必要なだけ」ありがたがると、逃げています。誰が、「必要以上」と言えるのか、誠に不可解です。「聖典の如く」の馬鹿馬鹿しさは既報です。
 それにしても、誰に習ったのか、支離滅裂で無様な罵倒筆法です。

ただし、だからといって「魏志倭人伝」が百パーセント嘘だということにはなりません。漢字表記は、特に人や地域の名称は音にあてこまれているだけですから、解釈の可能性は広いのです。

 『「魏志倭人伝」が百パーセント嘘』とは、未検証の新説です。『「魏志倭人伝」は嘘ばっかり』というのが『通説』ではないでしょうか。もっとも、どちらも、実現不能/検証不能な妄想/暴言と言えます。

                            未完

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*承前
 「漢字表記は、特に人や地域の名称は「音」にあてこまれているだけですから、解釈の可能性は広いのです」と珍しく、本当に珍しく「誠実な」発言です。凡そ「可能性」は、無限に、限界不明に広がるものなので、「広い」と刻まれると愕然とします。氏の心身は、時に、健全化するのでしょうか。小見出しの「だけ」は大見得の逃げ口上と見えます。

我が国の正史である『日本書紀』には、「邪馬台国」も「卑弥呼」も登場しませんが、「邪馬台国(やまたいこく)」と「倭国(やまとこく)」は音が似ていますし、「卑弥呼(ひみこ)」と「姫御子(ひめみこ)」も音が似ています。

 蕃夷に「正史」は無いので、中国に知られると死罪ものです。
 「音が似ている」との暴言は、なぜそう思うのか、カウンセリングが必要です。
 丁寧に言うと、後漢書に登場した「邪馬臺国」は、「邪馬台国」と字が違い、発音も違うのですが、その程度のことも知らないでいるのでしょう。三世紀当時、「倭国」をヤマトコクと発音することはないのです。「姫御子」は、三世紀当時の史料に存在しません。好き放題に書いていて、誰も止めないのが不思議です。出版界に職業的な良心は存在しないのでしょうか。

完全に嘘ではなく、魏志倭人伝に登場する人物に相当するような誰かが日本列島にはいたかもしれない、という、そのくらいの仮説は立てることができるでしょう。
 「不完全な嘘」など、何の役にも立たないでしょう。因みに臆測では「仮説」は立てられないのです。せいぜい勉強してください。

日本書紀を無視して、「中国の歴史書」を絶対視する違和感

 二千年前の異文化著作に「違和感」がないなら神懸かりです。氏の偏愛する「絶対視」は、時代錯誤の漫談用語です。

受験生が丸暗記させられる用語を羅列します。
・漢書地理志 =漢の時代。楽浪郡の向こうで倭は百くらいの国に分かれていた。
・後漢書東夷伝=後漢の時代。光武帝に挨拶に来た倭奴国王に金印をあげた。
・魏志倭人伝 =三国時代。倭の邪馬台国の女王卑弥呼に親魏倭王の金印をあげた。
・宋書倭国伝 =南北朝時代。宋に五人の倭王が次々と挨拶に来た。
・隋書倭国伝 =隋の時代。倭の多利思比孤(タリシヒコ)が生意気な挨拶をした。

 氏の創作はともかく掲示されているのはいい加減な史書名とそれに続く「字句」であって、「用語」等ではありません。随分いい加減で、すべて誤解に過ぎません。「金印をあげた」と五人の倭王訪宋と俀国王訪隋挨拶新説連発には失笑します

ふう~ん。飛ばして次。三国時代の中国は、魏・呉・蜀に分かれていました。日本列島から一番近いのが、魏です。「魏志倭人伝」には、魏の明帝が卑弥呼に対して「汝を親魏倭王として、金印・紫綬を与えよう」という勅を発したということが書かれています。

 そのようなことは一切書かれていません。「おねむ」の時間でしょうか。

*書紀聖典化の徒労
これも何回か紹介しましたので、次。さっさと本節の主題です。
江戸時代から繰り返される「倭の五王」の議論
日本の歴史学者は、「讃・珍・済・興・武」がどの天皇にあてはまるかを必死になって研究しています。別に戦後歴史学の弊害でも何でもなく、江戸時代からあんまり進歩せず。どうみても、系図が合いません。さすがにこればかりは、『日本書紀』の系図は間違いだと言い出す愚かな学者がいないところが、古代史学者の良識でしょう。近代史だとそのレベルのやらかしが日常ですから。

 当然、史料として確立されていない「書紀」の記事に、悉く疑念を呈するのが学問の道ですから、氏のように、何も知らない門外漢の生かじりで「愚かな学者がいない」とは、知らない者の強みから来る天下無敵の自爆発言ですが、氏の自爆はここまでに多発していて、今更言うことはないのです。
 何故、誰も教えてあげないのか、不思議です。

                            未完

新・私の本棚 番外 倉山 満 『学校で習った「中国の歴史書」はデタラメばかり』 6/6

日本書紀に「卑弥呼」も「邪馬台国」も出てこない本当の理由 PRESIDENT Online 2023/11/04
 私の見方 ☆☆☆☆☆ 知的なゴミ屋敷 早すぎる墓誌銘か  2024/03/16,07/27 2025/01/28

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*承前
ただ、雄略天皇が「武」に当たるのは間違いないとして、逆算してその前の時代を考察しているのです。 中略

 「雄略天皇が「武」に当たるのは間違いない」との「仮説」は、書紀崇拝者に聞き心地が良いので信奉されていますが、「間違いない」とは、何かの勘違いでしょう。本当に、本当に間違いないのなら、とうに全て解決しているはずです。解決しないのは、「仮説」が間違っているからではないでしょうか。普通の時代考察は、そのようにして、脆弱な仮説を淘汰して進化するものです。
 いや、別に、人の生き死にに関することではないので、冷徹に見きわめるべきです。
 「中国の史書絶対視の歴史観」が、どこのどなたのことか不可解ですが、中国史家が東夷「書紀」を全篇確認完全否定とは見当違いでしょう。

 「書紀」の継承について評すると、古来、平安時代までは「聖典」扱いされていたのか考証がされていませんが、鎌倉時代以後の武家の時代は「危険思想」、禁書扱いで考証されず丸ごと「トンデモ本」扱いされたと見えます。

中略  特に、第二十一代雄略天皇は超狂暴な天皇として描かれます。 中略 本当でないなら、何のためにこんな話を書くのでしょうか。

 ご質問には返事できませんが、所感は同感です。

 このあたりの氏の「超」「グロ」嗜好には関与しませんが、それを公開するのは勘弁して欲しいものです。当然の生理現象でも、公衆の面前ではご勘弁いただきたい。

*無知/無理解なのは誰か
「わからない」に向き合う態度が欠けている
別に『日本書紀』と中国の史書、どちらかが百パーセント信用できて、もう一方を無視して良いなどとは言っていません。本当の事は「わからない」に向き合う態度が必要なのではないか、と言っているだけです。これは日本古代史だけではなく、すべての歴史学者のあるべき態度でしょうし、歴史学以外のいろんなことでも大事な心構えだと思っています。

 氏には、ご自身の専門分野である「憲政史」なる耳慣れない「学」に付いて、ご託宣を述べる権利があるとして、「古代史」について、素人の聞きかじりをご講義いただくのは、ご遠慮いただきたいところです。
 まして、すべての歴史学者に神がかりを述べるなど、僭越の極みでしょう。思いあがりは程々にして、周囲の方とも相談して、取りかえしのつかないことに成らないよう、ご自愛いただきたいものです。

◯終わりに
*蓼食う虫
 それにしても、著者の拙(つたな)い筆を暴露するという扶桑社新書のすさんだ営みがプレジデントオンラインに活写されていて、一冊の新書の杜撰な紹介を公開したので、関係者に対する世上の信頼性が一斉に低下するのは、見事です。

 古来、途方もない新説も繰り返し説けば、百人に一人の賛同者が得られるとの箴言があり、氏の例は、筆勢さえあれば、五十万部は売れるという例のようです。「蓼食う虫も好き好き」という事です。

 ちなみに、蓼の(おそらく)ひどい味も、虫に味覚はないので食べて種をばらまく虫がいます。それで蓼は世代を超えて生き続けます。むしろ、(おそらく)独特の匂いで鳥や虫を遠ざけて、一部の虫に好まれることで、互いに生き続けているかも知れません。進化の妙でしょう。

*蝦蟇の油
 締めめいたことを云うと、氏は、無自覚/無知の強みで、断言/誹謗をくり返していますが、いずれ、知識を身につけた後は「蝦蟇の油」の例え同様、ご自身の醜態に恥じ入るしかないでしょう。勿体ないことです。

                            以上

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