魏志天問 1 東治之山~見落とされた史蹟の由来 三掲 1/4
最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。
〇再掲載の弁
今般、NHK BSPの「邪馬台国サミット 2021」([BSプレミアム] 2021年1月1日(金) 午後7~9時 NHKオンデマンドで公開中)なる特番で、世上、三国志の最高権威とみられている渡邉義浩氏が、「中華書局本」という出典を隠したままで、倭人伝の「会稽東治」が正しくは「会稽東冶」であったという一種の「フェイクニュース」を高言していて、番組上で反論がなかったので、ここに、素人の調べた意見を再掲するものです。ひょっとすると、使い回しされそうなので、一連の記事を再公開します。
〇原記事
天問1は、
と言うものです。
ちなみに、当質問は否定疑問となっているので、日本語の「はい」肯き、「いいえ」否定が、英語では、[NO]否定、[YES]肯きになると言う、文化の亀裂が表沙汰になる質問形なのですが、古田武彦氏始め、日本語の肯定「はい」は、英語で無条件に「Yes」だと勘違いしている方が多いので、ここに苦言を呈しておきます。
左輔右弼,蕃翊承風也。張掖,始開垂,張臂掖也。
この部分は、秦漢代の中国の広域行政区画である「州」「郡」に関連する記事を連ねています。
ここに提出されたのは、應劭「漢官儀」から太平御覧への引用で、「郡名」の起源、由来の記事を再録しています。
(郡名には)号令に由来するものがある。(会稽郡は)禹が諸侯を合わせて大計した「東冶之山」から会稽と命名された。
一瞬、会稽東冶の裏付け史料かと錯覚しそうです。速断せずに、ご注意下さい。本項後出の論議で、「東冶之山」は「東治之山」の誤解と断じています。「東冶」は漢代新作の地名なので、秦始皇帝宰相李斯が提言することはないのです。
「漢官儀」編者應劭は、後漢高官で、三國志武帝記(曹操傳)にも登場する著名人であり、後漢書には列伝を建てられています。
ついでながら、漢代は、皇帝居処「長安」を、「京兆」と命名したことから、「帝京」の呼称の発祥が見えます。さらについでながら、当時の大数は、十 百 千 萬の後も、十進で連なっていて、十萬を[億]と言い、十億を[兆]、十兆を「京]と言ったことが示されています。当時の[京]は、千万だったのです。
転じて、[京]は、途方もなく大きな数とされ、天子の威光で「千万」に発展するとの展望を表して、天子の居処を「京」と称していたようです。もっとも、日本語は、それぞれの時点の中国語の用例を採集して、東夷の用語としているので、必ずしも、時点時点の中国の用語に追随しているわけではないのは、周知の筈です。
いや、今日でも、伝統的な「正体字」文化を遵守する台湾では、日常の世界では、字画の多い「億」を避けて「万万」と言う事は珍しくないのです。一方、簡体字なる略字に[堕して]いる「中国」では、「億」は「亿」なので、直接表示しているものと推定される。