歴史人物談義

主として古代史談義です。

2024年4月20日 (土)

私の本棚 大庭 脩 「親魏倭王」三掲 1/12

 学生社 2001年9月 増訂初版 (初版 1971年)
 私の見立て ★★★★☆ 豊かな見識を湛えた好著 2018/05/26 補充 2020/06/24 2022/12/13 2024/04/20
 最初に見立てを入れるのは、以下を非難と取られたら困るからである。

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。


◯始めに
 従来の記事では、初版年を見落とし/書き落としていたので補充する。
 氏は、「倭人伝」に関する論争が、さほど盛り上がっていなかった1971年に刊行し、そのために、以降の議論の紹介に欠けるのが、不満であったが、今回、執筆時点の最善の理解と見て容認していくことにした。但し、氏が、2001年の増訂時、更新していない点が多々あるのは、感心しないが、ある意味仕方ないかとも思うのである。

◯序章~暗夜の灯火
 本書の視点は、中国史料に基づく/中国史料としての公正な「倭人伝」考察であり、今日に至るも、「倭人伝」論争は、公正な展開に欠けていると思われるのでここに顕彰するものである。

*「暗愚な考古学者」の文献曲読
 著者が本書を書くに到った動機は、ある古代史シンポジウムで、考古学関係者が「魏帝の詔に書かれている鏡百枚は多すぎる」と軽薄に論じたのに対して、『「史書」に厳格に引用されている/書かれている倭人伝の皇帝の詔すら、自説の邪魔になるなら書き替えて読むという安直な暴論に対して、異を唱えねばならない』というもの(義憤というべきか)であったそうである。

*法制史の物差し
 著者は、中国法制史、つまり、各王朝の法律とそれに従って運用された政府機構のあり方を研究するのであり、本書は、そうした専門家の目で、「魏志倭人伝」を読み解き、我々素人にも理解しやすい書物としたものである。

*不揃いな錯覚
 冒頭、「卑弥呼と諸葛孔明」と題して、卑弥呼の時代が、蜀漢宰相諸葛孔明の時代に重なると説いている。国内古代史と中国史の関係が容易に浮かんでこないことを歎いている。おっしゃるとおりと思う。ただし、特に直接、間接の関係がないのだから、一般人の意識に上らないのは、むしろ当然である。
 ところが、直ちに『同じような錯覚が「魏志倭人伝」にもある』と書き出されたのは感心しない。今書いた認識に照らして乱暴な飛躍としかとれない。

*「魏志倭人伝」はなかったか
 続いて、中国には「魏志倭人伝」という書物はない、と書かれているが、これが「錯覚」だと解すると、著者が自己否定していることになるので、おそらく、おっしゃりたいのは『「魏志倭人伝」は国内の感覚であって、中国古代史と関係が成り立っていないから、それは錯覚である』と言うことだと思うが、「錯覚」を断じる論理が、混線/錯綜している上に不正確である。
 著者ほどの識見の持ち主にして、不用意な行文であり、また、不用意な断言である。どんな読者を想定しているのか、一瞬、見て取れなくなる。

*「倭人伝」知らずの「倭人伝」批判か
 大庭氏は、陳寿「三国志」現存史料のうちで、南宋時代の「紹興本」と呼ばれる版を利用しているが、もう一つの有力な「紹凞本」は、「倭人伝」と小見出しを置いて区分を示し、続いて、新たな部分として「倭人伝」記事を書いているので、魏書第三十巻の巻末にあって、事実上、「倭人伝」なる「書物」として取り扱われていると見えるのである。因みに、ここでもう一つというのは、多数あるうちの一つという意味ではない。天下に、これら二本しかないのである。一読者として大いに不満である。

                               未完

私の本棚 大庭 脩 「親魏倭王」三掲 2/12

 学生社 2001年9月 増訂初版 (初版 1971年)
 私の見立て ★★★★☆ 豊かな見識を湛えた好著 2018/05/26 補充 2020/06/24 2022/12/13 2024/04/20
 最初に見立てを入れるのは、以下を非難と取られたら困るからである。

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

*なじまない「東アジア」
~私見
 続いて、著者の用語に不満なのは、多分、学会用語として通用しているものと思うのだが「東アジア」なる現代語が使用されていることである。他の古代史書でも見かけるから学会基準かも知れないが、素人目には異議が感じられる。
 「東アジア」というからには、三世紀古代の中国に「アジア」全域の地理の知識があって、そのうち、一部分を「東アジア」と呼ぶという前提だと思うのだが、何も定義されずに登場するので、大変居心地が悪い。やはり、古代史論で、意味の明確でないカタカナ語は避けたいものである。

*「アジア」と「ヨーロッパ」の原義確認
 実際、三世紀当時の東地中海、つまり、ギリシャの視点では、お膝元の地元がヨーロッパであり、エーゲ海を隔てた対岸、今日言う小アジアの地域が「アジア」だったから、中国東部と朝鮮半島を中心とした地域とは、何の関連もないのである。要は、良くある「時代錯誤」であり、丁寧に説明して使わなければ、一般人に「ウソ」を押しつけていることになると思うのである。

*地域包含視点
 と言うものの、氏が、当時の倭だけをとらえるのでなく、倭を中心した地域を包含した視点は、貴重である。特に、倭から西北に遼東に到る直線的な経路だけでなく、帯方/遼東郡と青州山東半島との連携を見出して、渤海を囲む環渤海圏の「地中海」的交流を描くのは、大変ありがたい。
 つまり、氏は、広大な地域を「東アジア」と言うが、実際意義があるのは、環渤海圏+朝鮮半島、倭という、限定された世界であり、当時の人々にとっては、それが、辛うじて認識/到達可能と思う。当時の倭、韓、帯方世界が認識していない「東アジア」は、無用有害に思う。

 帝都史官は、東西全ての地域を西域伝、東夷伝、地理志などによって把握したかも知れないが、ここでは、東夷諸國とそれを束ねた楽浪/帯方両郡など、倭人伝編纂に関わった人々の意識を言うのである。「倭人伝」は、もともと「倭人伝」の原史料を書き留めた人々の世界観で書かれているはずである。

*「邪馬台国」の国際関係
 現代感覚で「国際」と言うが、国としての構造・権威を保っていたのは、せいぜい、後の魏・呉・蜀三国であり、遼東の公孫氏政権は、後に王と自称したものの、それはあくまで曹魏の一地方であるから、国家としての体裁を成していなかったと思われる。
  但し、曹魏の大義名分は、魏の領分は、後漢から禅譲を受けた領域全土であり、東呉、蜀漢をも包含したから、三鼎形勢など存在しなかったのである。
 一方、蜀漢は、「漢」であり、後漢の継承者であり、曹魏は謀反人勢力だった。
 東呉の正義はどこかわからないが、自領が自立した王国と認識していて、それ故、史官を任じて、自国の正史を編纂していたのである。

*蛮夷と外国
 それ以外の蛮夷の世界で、東夷伝諸國、特に、細分化された「小国」は、大小にかかわらず、中国基準の「国」ではなく、「蛮夷」の集落であり、何より根幹的なこととして、言葉/文字に基づく「文化」を「中国」と現代語で言うと「共有」(シェア)していないから、「国際関係」はなかったと見る。
 当時、「外国」は「不属の蛮夷」という意味であるから、「外交」は、言葉の意味を外していないかも知れないが、現代語の縁で誤解を誘うので、厳に避けるべきだろう。

                               未完

私の本棚 大庭 脩 「親魏倭王」三掲 3/12

 学生社 2001年9月 増訂初版 (初版 1971年)
 私の見立て ★★★★☆ 豊かな見識を湛えた好著 2018/05/26 補充 2020/06/24 2022/12/13 2024/04/20
 最初に見立てを入れるのは、以下を非難と取られたら困るからである。

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

*「倭人伝」「國邑」の時代考証
 中国太古(殷代から周代の初期)の意識では、「国」は、原初「國」、つまり、聚落「或」を隔壁、城壁で囲った単位聚落であり、後世、広大な領域を統合した単位は、「邦」と称したが、漢高祖の本名が「劉邦」であったため、これを避けて、「國」が復活したとのことである。つまり、漢代以降の「國」は、太古の「國」、或いは「國邑」とは異なるのである。
 「倭人伝」は、冒頭で、倭人の「國」は太古の「國邑」であったと明記/宣言/定義しているので、当時の読者は、平常の「國」と読み分ける必要がある。但し、大庭氏が、こうした中国太古の言い習わしの変遷を、厳格に認識していたかどうかは、ここでは不明である。何しろ、持ち出すほどに、現代の東夷読者を困惑させる恐れがあるので、慎重に、消極的にならざるをえないのかも知れない。素人は、口出ししない方が良いのかも知れないが、ここでは、お叱りを覚悟で口に出すのである。

*漢蕃関係
 時代錯誤の「国際関係」、「外交」の妥当な置換として、「時代相応」の言葉を選ぶと「漢蕃」関係である。現代東夷読者には、「違和感」ものだろうが、ここは現代語で言う「違和」でない、本来の不調和感を醸し出して、安直な読み飛ばしを避けるのが狙いだから、ある意味、賢明なのである。自然にわかりやすく書いていてしまうと、咀嚼せずに丸呑みされてしまうので、深意がいきなり排出される可能性がある。
 「自然」に学ぶとすると、植物が、種子の媒体役として期待するのは、鳥の如き丸呑みであるが、われわれ動物は、噛み砕いて咀嚼してしまうので、折角の種子が亡んでしまう。せめて、かまずに吐き出してもらえるように、固い殻を纏わせるが、かといって、最善の策として、味覚のある動物よけに、檄辛みを付けてしまうと、播種による種族繁栄は、鳥頼りになるのである。

 閑話休題
 御不満はさておき、当家の「芸風」を我慢頂くことになるのである。
 さて、「蕃」にしても、「漢」なる中国の大帝国を、自分たちの同類と見たのは「夜郎」のようなお山の大将である。一方、いわゆる「邪馬台国」は、仲間内では、大将扱いされていたかも知れないが、「漢」を相手に背比べを挑むような意識はなかったと見るべきではないか。
 当時の世界を取材したわけではないから、臆測しかないが、二千年後世の無教養な東夷である現代人の世界観で押し通すのは無理と理解頂きたい。あちこちで見る、「屈辱」とか「対等主張」とかを見ると、どうも、誤解の方が蔓延しているように見えるのである。
 いや、大庭氏は、そのような低俗な世界観を持ち込んでいないのであるが、読者の受容力を懸念しているのである。

 「倭人伝」を後世用語で論じると、一般読者に誤解を押しつけると思う。

*「諸国」状勢
 以下、著者は、後漢末期から、三国時代の中国及び東夷の状勢を描いていて貴重である。とかく、国内古代史論者は、後漢桓帝、霊帝の治世と無造作に言うが、両帝期は、いわば、後漢朝衰亡(衰退・滅亡)期であることを理解しているかどうか不明である。霊帝没後の帝位継承時の混乱で、後漢は事実上滅亡して大乱状態になるから、時代認識の錯誤は、深刻である。

                               未完

私の本棚 大庭 脩 「親魏倭王」三掲 4/12

 学生社 2001年9月 増訂初版 (初版 1971年)
 私の見立て ★★★★☆ 豊かな見識を湛えた好著 2018/05/26 補充 2020/06/24 2022/12/13 2024/04/20
 最初に見立てを入れるのは、以下を非難と取られたら困るからである。

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

*遼東天子~便乗
 大帝国が衰亡、崩壊したから、当然、蛮夷管理も崩壊するのである。ただし、東夷の目から見ると、大帝国も遼東郡太守公孫氏の影法師であり実質はないに等しかったのである。むしろ、洛陽の天子でなく、遼東に天子が居たことになるのである。天子には、書記官がいて天子の制詔を発し、史官がいて、天子の行状を記録していたと見えるのである。

*失われた公孫氏史料
 公孫氏は、最後、後漢を継いだ曹魏によって、天子に対する大逆の徒として討滅され、天子紛いの治世の記録は、全て破壊されてしまったから、以上は、二千年後生の無教養な東夷の臆測に過ぎないのだが、公孫氏滅亡後に残った楽浪/帯方両郡の行動を見ると、公孫氏の東夷管理の形が偲ばれるのである。と言うことで、一読者の感慨を締めくくることにする。

*後漢「最後の皇帝」~未曾有の「禅譲」
 霊帝没後、姦雄董卓の威勢も過ぎて、十年近い混乱を経て、後漢最後の復興期となる。
 少帝であった献帝劉協が、僅かな側近と共に、「悪党どもが徘徊し荒廃した長安」から脱出し、東都洛陽方面に逃げ延びたものの、周辺に支持者はなく、孤立、逼塞していた窮状であったものを、好機と捉えた英傑曹操が自陣営に迎え、帝威で乱世統一を図ったのである。

 後漢の最後の光芒、建安年間であったが、中原世界天下統一の完成と共に、後漢皇帝(献帝)は、その役を終え魏に政権を譲ったのである。古典的な形容としては、天命が劉氏を去り、曹氏に移ったのであり、献帝劉協は、曹氏の恩人にして賓客として生き延びたのである。

 魏に政権を譲った際、光武帝が継承、再興した漢の政権機構はそっくり移管され、漢高祖以来の厖大な公文書も引き継がれたのである。
 ここに「未曽有」と書いたのは、「殷周革命」に見られるように、それぞれの新興帝国は、先行政権を武力で打倒して取って代わったのであり、「禅譲」に近いのは、王莽の簒奪があっただけである。王莽は、いわば三日天下で継承されなかったから、なかったことにしているのである。

*長広舌
 この部分で語られる議題はそれだけではないが、根拠史料満載だし、素人に見解を押しつけるものではないので、大変参考になる。

*古代史泰斗の所感
 大庭氏のやや自由な引用で、内藤湖南氏が、「支那史学」誌に書かれた言葉として「三国志には、陳寿が参照した原資料が、削除加筆されずに原型のまま残されている箇所が多い」との趣旨で評されているとのことである。

*不明瞭な言葉の戒め
 因みに、論説の常用句である「多い」と言う言葉は、五を言うのか百万を言うのか読者に判断を強要する。加えて、人それぞれの感覚も作用し、不明瞭と見える。いや、これは内藤湖南氏の用語で大庭氏の感覚とも違うと思う。
 結局、ここで湖南氏の言う「多い」が、どの程度のことを言うのかは「不明瞭」であるが、おそらく大半の意ではなく、散見される程度と解釈しても、目に付きやすいとの意味であると思われる。
 著者は、「倭人伝」に引用されている曹魏皇帝が下した制詔は、「制詔」と書き出しているのは、一例としている。つまり、制詔は、ほぼ原史料の引用だと見ているのである。

                               未完

私の本棚 大庭 脩 「親魏倭王」三掲 5/12

 学生社 2001年9月 増訂初版 (初版 1971年)
 私の見立て ★★★★☆ 豊かな見識を湛えた好著 2018/05/26 補充 2020/06/24 2022/12/13 2024/04/20
 最初に見立てを入れるのは、以下を非難と取られたら困るからである。

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

*蛮王の栄光
 さて、⒋で、著者は、『景初三年六月記事から「倭人伝」の調子が変わった』と感じるとおっしゃる。お説の通りのようである。
 そこまでは、客観的な記録文書であるが、この後の部分は、魏朝皇帝の制詔を骨格とした史実に即した記事であるとしている。

*蕃王の正当な評価
 氏は、陳寿「三国志」魏志の記事を吟味して、卑弥呼は、蛮王であるから中国の王より一段も数段も低い格落ちとされていて、これがわざわざ「帯」に大書、特筆されているが、氏は、これは不当でなく、むしろ、秦漢魏三代の官制に即して順当と見ている。私見では、蕃王は、蛮夷として上級の格付けであるが、弱小遠隔、極東故に、不相応な厚遇を受けたと見る。班固「漢書」西域伝に見られる有力国は、東西交易の要所を占めていて、それぞれ、途方も無い富裕な国状であったと見えるから、初見の東夷は、本来比較されるものではなかったと見えるのである。

 ただし、時代で変動する「漢蕃」関係で、服従で参上する蕃王を厚遇し、麗名を与えたのは、中国天子の常用策であり、反感を避ける策であり、時に、蛮夷を「賓客」扱いしたが、本気で厚遇したのではなく「外交儀礼」である。漢代、鴻臚が下っ端にまで印綬をばらまいて非難されたが、それが、究極の倹約策だったのである。

*「王」の隔絶した権威
 漢制では、王は皇帝一族に限定された。建国当初任じられた異姓の王は、長沙王なる例外を除き全て誅殺された。その後も、漢制の王は、皇帝の縁戚だけが任じられる極めて高貴な身分であった。しかも、皇帝の縁戚である有力な王は、「呉楚七国の乱」とよばれる大乱を起こして、天子の座を危うくしたが、討伐を承けて壊滅し、弱小王国が残ったのである。つまり、漢代を通じ、「王」の権威は低く抑えられ、しかも、大抵の王族は、格下の「侯」に留められたのである。
 後漢建安年間、漢朝の威光を天下に回復した曹操が、無比の大功により「魏王」にまで任じられたのは、その光明の頂点、死の直前であった。「王」とは、そのように、臣下を超絶した、天子に通じる境地である。漢代、臣下の頂点は、列侯(漢初は徹侯)と称されたが、王は、明らかに上位に位置する。

*蛮夷考
 蛮夷は、「文化」を身につけていないから、そもそも、中国の一員になれない。つまり、中国の文字を知らず、中国の言葉を知らず、よって、先哲の書を知らず、中国の暦に従わず、中国の衣服を身につけず、まして、女性を王とするのは、中国でなく蛮夷である。つまり、本来一段格下であり、それで何が不都合なのか理解に苦しむという観点である。
 この辺り、著者の面目躍如であり、諸王朝法制史料を広範に照会して、説得力に富む。当方の口を挟むものではないので批判しない。
 付け足すとすれば、唐代、新羅は女王廃位を厳命された史実である。

*「倭人伝」本文批判
 以下、「倭人伝」記事について、普通、あてにならないとされる書記記事まで援用して議論を進められるが、『郡太守が皇帝に「使」を送るのはもってのほかで、「吏」を送ったと解すべきである』と具体的な校正を行っている。つまり、史料を精密に考証すると「魏の士人の誤記でなければ、誤伝であろう」と思われる誤記があるという事である。至言と言うべきである。

*丁寧な古田説批判
 さて、そこで、倭人伝に一度登場する「邪馬壹国」が「邪馬臺国」の誤写であるとする俗説に断固反対する古田武彦氏の論考に対して、丁寧に考察を加えて私見を示されているのは、貴重である。
 大庭氏は、俗説として世に蔓延っている『現に史料に書かれている「邪馬壹国」を「邪馬臺国」に読み替えるべきだ』という無根拠で短絡的な議論に同意しないが、古田氏の後漢書論考には、同意できない乱れを感じている。まことに、おっしゃるとおりであろう。

 但し、初版で古田氏から根拠が提示されていないとした異議が、三十年後の新版の際に適切に更新されていないのは、残念である。

                               未完

私の本棚 大庭 脩 「親魏倭王」三掲 6/12

 学生社 2001年9月 増訂初版 (初版 1971年)
 私の見立て ★★★★☆ 豊かな見識を湛えた好著 2018/05/26 補充 2020/06/24 2022/12/13 2024/04/20
 最初に見立てを入れるのは、以下を非難と取られたら困るからである。

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

*古田氏の後漢書論
 古田氏は、現存史料を最も尊重すべきとの原則であるから、後漢書に「邪馬臺国」と書かれていることを、論考無しに否定することはできないのである。いわんや、誤記/誤写論を自制している。それが、手際が悪いと見える「後漢書」史料批判になっているから、著者の意見は妥当と思える。
 つまり、古田氏の『「邪馬台国」はなかった』論が、『「倭人伝」に「邪馬台国」はなかった』とするにとどまっている最大の論敵は、古田氏自身なのである。もちろん、古田氏の諸般の提言が、すべて正鵠を得ているわけではない。

*景初三年論義~私見
 続いて、著者が力説の『「景初三年」が「倭人伝」に「景初二年」と書かれている』問題に挑んでいるが、ご自身が最大の論敵のようである。

*順当に解釈した両郡回復
 氏は、陳寿「三国史」東夷伝韓伝の「景初中、明帝密かに....二郡を定めしむ」「密かに」を適確解釈し、東夷伝の「淵を殺す。又、....楽浪、帯方の郡を収め、....」の「又」を、「その後」と解さず景初二年と解することができると適正に紹介する。
 文意の解釈は、まずは文脈、次いで、文献自体から、深意を解するのが理性的な判断であり、辞書解釈の蹉跌に囚われるのは、愚策という教えである。

*「遅れた下賜物発送問題」の解を求める
 著者は、景初二年説不採用の理由として、制詔は二年十二月なのに皇帝のお土産が正始元年に発送されたのは一年後で遅れていることを挙げる。「景初二年」派は、それは、大量のお土産の品揃えが、前皇帝明帝の服喪によって、大きく手間取ったとしていると見ているが、氏は不同意である。

*順当な読み解き~エレガントな解
 私見では、大量の土産の送達途次の確認に、多大な月日がかかったと見る。何しろ、伊都国に到る行程の輸送への動員指示に対して確約が揃うのを待ったと見える。文献記録はないが、実務として当然の手順と思う。
 洛陽の指示により郡が行程諸国の確認を得るのに一年ないしはそれ以上かかるのは、むしろ当然と言える。郡文書の受領、復唱の期間は、道里記事の「都(都合)水行十日、陸行三十日」基準でも、数か月を要しても無理ないように思える。前例のない大規模な輸送/移動、宿泊、饗応であり、施設の整備、人員、資材準備に、近隣で口答指示が可能とは言え、労力を費やしたはずである。
 一説に従い、遠隔架空で文書連絡がない奈良(纏向)王城に指示確認を仰ぐなら、途上各地の手配確認の交信に要する日数は見当がつかない。神懸かった快挙と主張するなら根拠を示していただきたいものである。
 大庭氏の「景初二年」説難詰は紙上武断であり、決定的でないように思われる。

*景初三年説死守の起源~私見
 奈良(纏向)王城を根拠とする遠隔国家運営、長途隔絶では、そもそも、景初二年六月に郡に参上は、到底不可能であるため、せめてもとばかり、明帝没後の景初三年を死守していると見える。まして、途方もない長距離移動/輸送が、所望の期間に確約できたとは思えない。
 できれば、景初四年と言いたいのであろうが、景初は三年で打ち止めなのである。

                                未完

私の本棚 大庭 脩 「親魏倭王」三掲 7/12

 学生社 2001年9月 増訂初版 (初版 1971年)
 私の見立て ★★★★☆ 豊かな見識を湛えた好著 2018/05/26 補充 2020/06/24 2022/12/13 2024/04/20
 最初に見立てを入れるのは、以下を非難と取られたら困るからである。

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

*改暦談義~余談
 続いて、景初三年元日の明帝崩御に始まる正始移行について解説頂いているが、論理が乱れている。正始改元は、改暦を伴い、三年正月を二年「後十二月」に改め命日を正月から前年十二月に移動させたため、景初二年が一ヵ月増えたのであり、大庭氏が推定するように、景初三年が一ヵ月増えたのではないと思う。
 いや、既に景初三年暦が施行されている事態で、年中の改暦改元では、誤解が出回っても不思議はない。記録に旧暦新暦が混在し難航したと思う。ただし、曹魏は、文書行政の確立した「法と秩序」の世界であり、混乱は沈静化したと見える。

*改暦余波
 魏暦を引き写したものの元号は自立したと思われる東呉は、魏暦追随に大変苦労したと思う。魏明帝は、就職早々に改暦して混乱を招いたが、皇帝の「気まぐれ」が、後世人に理解困難(実質的に不可能)なのは言うまでもない。
 この時期の呉書紀年に前後の食い違いがあっても無理からぬところである。
 なお、蜀漢は、後漢暦を継承していたから、既に、魏暦とのズレが生じていたものと思われるが、このあたり、素人の手に余るので、深入りしない。

*原則に背く不法文書
 書記神功紀の引用した「明帝景初三年」は、正史記事にあり得ない無法であり、史料改竄している。引用に際して、原史料を改竄しないのが、史官の大原則であり、原則を守っていない史料は、信用できない。

*なかった/あった?「景初三年」
 皇帝没後の期間は、皇帝諡号を冠としない無冠の期間である。景初三年の場合、二年末に先帝が崩御しているから、本来、即日改元し「景初三年は、存在しない」はずであったが、実際は、既に景初三年が進行していたから、遡って、景初二年後十二月一日の明帝逝去に伴う即日改元はできなかったはずである。
 つまり、景初三年は消滅しなかったが、一年を通じ無冠である。春秋の筆法もなにも、イロハのイで周知の原則で、知らない奴は、もぐりなのである。

*会稽東治論
 この時点で、大庭氏は、古田氏の論拠を見ていないと明言しているから、氏の推定私見だが、以下論じられている「会稽郡東冶県」論は、氏の認識不足に思う。(これは、1970年当時古田氏の論考が未刊であったと言うだけであった。後日登場しているが、補正されていないのは、残念である)
 中国古典概念の「会稽」は、会稽山附近の狭い地域を指すものである。

*「東治之山」
 因みに、「水経注」などの郡名由来記事によれば、会稽郡は、禹の会稽の地であり、会稽山が「東治之山」と呼ばれていたのに因んで、秦始皇帝の宰相李斯によって命名されたと言う事である。秦漢代から魏、東晋までは、周知だった事情である。「倭人伝」の会稽東治論は、それで決着するもので、以下の考証は、余計なお節介である。

*宋書概観
 劉宋「宋書」は、東晋、劉宋を後継した南齊/梁の史官沈約の撰であり、東晋が建康に退避させることのできた魏晋代公文書などの最善史料を得たと思われるが、「州郡志」の評を見る限り、「最善」といえども、かなり制約があったものと見える。まして、梁末期の戦乱と南朝滅亡の際の混乱もあって、南朝系の正史と処遇されていた「宋書」すら、散逸の害を受けていたものと見えるが、判然としない。
 「齋書」が辛うじて梁代に編纂されたものの、それ以降の「正史」は、編纂の遅れていた「晋書」共々、唐代の編纂であり、隋の南朝撲滅によって建康の公文書庫が破壊されたため、公式史料は散佚していたと思われる。
 また、唐代の正史編纂は、皇帝主導のもと、多数の担当者の分業によるものと見られ、班固、陳寿、笵曄、沈約の特任編纂に比して質の面で劣る。

                                未完

私の本棚 大庭 脩 「親魏倭王」三掲 8/12

 学生社 2001年9月 増訂初版 (初版 1971年)
 私の見立て ★★★★☆ 豊かな見識を湛えた好著 2018/05/26 補充 2020/06/24 2022/12/13 2024/04/20
 最初に見立てを入れるのは、以下を非難と取られたら困るからである。

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

*唐代の正史革命
 唐皇帝の北朝正統史観では、「南朝は、西晋が国家崩壊によって滅亡した後、残党が不法に東晋を再興した、不法な賊徒」というものであり、皇帝の指示と相俟って、「正史」の客観性を喪失して行ったと見える。従って、「晋書」は、西晋の頽廃、紛争を語っていて、前代史の本分に務めた「三国志」と同列に見ることはできない。

*「宋書」州郡志の奇蹟~沈約の偉業
 正史の過渡期の谷間で、「宋書」が「州郡志」を備えたのは奇蹟である。「宋書」編纂時点では、諸家後漢書が併存したものの司馬彪「続漢書」のみが「志」を備え、正史要件欠格の笵曄「後漢書」は、無名に近かったと見える。
 この点、沈約は、劉宋の前代史料は、班固「漢書」と馬彪(司馬彪)「続漢書」の「志」のみで、三国志は「志」を欠くので、会稽郡県の異同明細は得られず、辛うじて「呉書」本紀部から郡の異同を知るのみと歎くが、沈約が宋代公文書で補った「州郡志」がなければ谷間は全く埋まっていなかったのであるから、その功績は絶大である。

*会稽郡分郡
 沈約「宋書」州郡志によると、会稽郡南部は、三国東呉時代に会稽郡から不可逆的に切り離され、会稽郡の「県」と呼べなくなっている。
 東呉が、司馬晋(馬晋)に降伏した際、国志「呉書」と戸籍、地籍を献じたものの、国家としての記録である公文書は廃棄されたと見るのである。つまり、会稽郡の異同経歴は、沈約が公文書佚文を復元しようとしたものの、散佚していて、不確かだったのである。「宋書」州郡志を、信じるべきである。
 したがって、陳寿「三国志」魏志「倭人伝」編纂時には、会稽郡南部の東冶県に関する曹魏史料は、全く存在しなかったのである。従って、東冶県から郡治に至る公式道里も不明だったのである。少なくとも、「呉書」の会稽郡地理情報は、「呉書」未公認の間は参照できず、「呉書」を「呉志」として収容したとは言え、「呉志」記事を、「魏志」に補充することは、不法であるから、陳寿が、「魏志倭人伝」に「会稽東冶」と書くことはなかったのである。

*公式「水」道里の謎
 因みに、東冶、後の福州、厦門と会稽郡治の間は、海岸に迫り出した巨大で険阻な福建山地で厳重に隔離されていて、官道どころか通商路も、陸上街道を一貫して利用することはできなかったのである。分郡するしかなかったのである。
 一方、正史「州郡志」に拠点から京都(けいと)の公式道里は必須である。

*宋書「州郡志」道里記事  維基文庫引用
 江州刺史,晉惠帝元康元年,分揚州之豫章、鄱陽、廬陵、臨川、南康、建安、晉安,荊州之武昌、桂陽、安成十郡為江州。初治豫章,成帝咸康六年,移治尋陽,庾翼又治豫章,尋還尋陽。領郡九,縣六十五。戶五萬二千三十三,口三十七萬七千一百四十七。去京都水一千四百。
 江州刺史治所は、去京都水一千四百。麾下の建安郡は、去州水二千三百八十。去京都水三千四十,並無陸。とされていて、江州陸路道里は別記されているようだが、東冶県の後身と見える建安郡治は、江州も京都も、陸路道里がなく、「水」、つまり、河川経路とされている。恐らく、渓谷を船行したのであろうが、唐代遣唐使留学僧の報告以外、史料が見えない。
 建康に避難した南朝は公式道里に「水」を認めたらしいが詳細不明である。

*東冶県解釈の一案
 古田武彦氏は、陳寿が、三国鼎立期の東呉の国内事情、特に行政区画の変動を逐一時代考証した上で、「倭人伝」をまとめたと見ているが、「呉書」は「魏書」とは別の「国志」、別の巻物であるから、参照することはなかったのである。

                               未完

私の本棚 大庭 脩「親魏倭王」三掲 9/12

 学生社 2001年9月 増訂初版 (初版 1971年)
 私の見立て ★★★★☆ 豊かな見識を湛えた好著 2018/05/26 補充 2020/06/24 2022/12/13 2024/04/20
 最初に見立てを入れるのは、以下を非難と取られたら困るからである。

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

*中原人世界観の変遷
 著者は、中国古代人と一口に言うが、古代人は、長安、ないしは、洛陽という中原世界の住人であり、古代人の地理知識は、東冶、今日の厦門まで及んでいなかったのである。晋朝南遷で、東晋京都建康からさほど遠隔でないことになったが、それは、あくまで、陳寿「三国志」魏書編纂時の百五十年後の異世界であり、洛陽人の世界観ではないのである。

*笵曄の地理観
 と言う事で、後漢書を編纂した笵曄は、古典的な中原世界の人でなく、長江下流の建康を京都とした南朝劉宋の人である。
 行政官としての笵曄は、「東冶」の位置を把握していたかも知れないが、劉宋当時、会稽郡に東冶地区は含まれていなかったため、後漢朝時代の史料解釈や魏志の解釈で、地理概念の時代錯誤が発生していた可能性はある。
 この辺りは、氏の専門分野を外れているので、一種受け売りになって、正確さを欠く議論となっているのはもったいないのである。

*「東アジア」再訪
 巻末には、三~五世紀の「東アジア」として、時代ごとの地域勢力地図が書かれているが、地図に描かれているのは中国と東夷諸国である。
 「中国」というが、地図は、今日の地理観で「中央アジア」としている地域を含んでいるから、「東アジア」とは、ずれているように思う。ベトナムは、「中国」の勢力下にあったと見えるが、今日の地理観では、「東南アジア」と思う。言う人ごとに動揺する概念は、放置せずに是正して欲しいものである。
 学問の世界で、「用語」が示す「概念」が論者によって異なっては、意見交換はもちろん、論争も、実行不可能である。重大な「課題」と思われる。
 良い言い方は無いものか。

*一旦の結語
 と言うことで、部分的に突っ込みは入ったが、本書は、全体として、とても好ましい知的体験を得られるのである。

*余談
 古代史学界で、この時期までしきりに行われていた「良い意味での論争」が消え失せ陣営間の罵倒応酬となったのは残念である。また「邪馬臺国」論争が「臺」派の「論争忌避」で途絶しているのは、もったいない。早々に敗北宣言して、本来の論義に転進すべきでは無いかと思われる。
 「遠絶」とは、地理上の遠隔を言うのでなく、交流の断絶を言うのである。
 二千年後生の無教養な東夷が、自身を好んで遠絶の境地に置いて、主として「九州説」諸論者の間の「倭人伝」論炎上を高みの見物している図は、感心しないのである。いや、勿論、これは、本書のことでもなければ、大庭氏のことでもない。「定説」と証して、俗耳に訴えている牢固たる論陣勢力を言うのである。

*増補の弁
 ここまでは、当初7ページで完結していたものであるが、このたび、全12ページに増補したものである。
 「増補」というものの、場違いな付け足しが多々あって、真剣、真一文字の議論を望まれている方には、御不満であろうが、真面目な話、道草や蛇足の形でしか書けない意見もあるのである。ご容赦頂きたい。
 今回三訂としたのは、色々書き足したからである。

                               未完

私の本棚 大庭 脩「親魏倭王」三掲10/12

 学生社 2001年9月 増訂初版 (初版 1971年)
 私の見立て ★★★★☆ 豊かな見識を湛えた好著 2018/05/26 補充 2020/06/24 2022/12/13 2024/04/20
 最初に見立てを入れるのは、以下を非難と取られたら困るからである。

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

◯「岡田流武断」への対比
 追加して述べたいのは、大庭氏の丁寧な史料考証である。対比されるのは、岡田英弘氏の「武断」の論法である。
 もちろん、岡田氏の断定口調は、氏一流の史観の産物であり、当然ながら、関連資料の周到な読解にもとづくものであり、そのような前提を明示した上での「武断」であるから、安直な否定論は成り立たないのであるが、細目で、史料解釈が動揺しているのは、指摘できるのである。その結果、氏の持論が揺らぐとは思わないが、氏の「武断」を、果敢な武断故に支持している諸兄姉の再考を期待しているのである。

*陳寿「偏向」論批判
 岡田氏の陳寿観で、最大の難点は、人格否定を基礎に置いていることである。つまり、『陳寿は蜀漢で任官しながら不遇であり、蜀の滅亡後、洛陽に出て晋朝に仕官したが、高官であった張華の引き立てで、「魏志」編纂を主管できる地位まで引き立てられたため、恩人、つまり、ローマ風に言う「パトロン」~「クライアント」の関係によっていたため、張華の名声を高めることを至上命令としていた』と判断しているが、それは、場違いであり、陳寿は、あくまで中国流の史官であり、正史によって後世に訓戒を与えることを目的としていたから、恩倖に報いることに生きる「小人」では無かった。

*偏向した「偏向」観
 岡田流世界観での「偏向」は、意図して偽りを述べることを言うようであるが、史官の「偏向」は、正史の対象、つまり、主として歴代皇帝への直接的な毀損を避けるものであり、それは、ある意味、当然である。
 かつて、司馬遷は、史記編纂時に、武帝の命で、景帝、武帝の書稿を取り上げられ、執筆を禁じられたので、両帝紀は欠けている。
 編纂時の皇帝司馬氏の逆鱗に触れる「宣帝」司馬懿へのあからさまな非難は控えたが、私見では、明帝臨終の場で継嗣曹芳を庇護すると誓ったはずが、後年、廃位に追いやったことは、裏切りと見え、隠蔽していないから、司馬懿に阿諛追従してはいない。司馬懿の立場から言うと、先帝遺言は、天命を撓めているから、従うものではない、天下を譲られたとの考えとも見える。いや、私見を述べただけで、岡田氏が誤っているという主張ではない。
 言うまでもないと思うが、人は、誰でも、ひいき目で世界を見ているものであるが、各人の「偏向」は、言葉の端に現れるに過ぎず、余程精妙な視覚がなければ、見過ごしてまうのである。見逃してしまうと言うのは、「偏向」だと気づかないという事であり、逆に、著者の望む心証は伝わるのである。
 軽率な著作家は、ものごとを直截に、つまり、露骨に形容して、読者の反発を招いているが、それは、個人的な「芸風」で矯正などできないのである。

*大庭氏の克明な「東アジア」観
 ここまで、「東アジア」なる業界用語について、再度疑問を呈したが、大庭氏は、その中核となる「地中海」観を提示し、時間的な偏倚も加味して、確実な認識を示している。つまり、朝鮮半島西岸中部の百済海域とこれと体験した山東半島東莱海域が対面の「海上交通」を原動力とした交易で、必ずしも、大型の帆船と長途の船路を要しないので軽快に持続したものと思う。
 背景として、東莱上陸後は、陸上交通に恵まれて、船員、船腹が長期間拘束されないことが背景となったのである。

                               未完

より以前の記事一覧

お気に入ったらブログランキングに投票してください


2024年4月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30        

カテゴリー

無料ブログはココログ