歴史人物談義

主として古代史談義です。

2022年1月17日 (月)

新・私の本棚 渡邊 徹 「邪馬台国への道 ~熊本・宮地台地…..」  1/14 補追

邪馬台国への道 ~熊本・宮地台地に眠る失われた弥生の都~  Kindle書籍 (Wiz Publishing. Kindle版)(アマゾン)
 私の見立て ★★★★☆ 力作 ただし勉強不足歴然     2019/03/30  追記 2020/05/19 補正 2021/03/27 2022/01/17

*総評
 本書は、まことに丁寧な論述ですが、その本質的な問題点は、「おわりに」として末尾に置かれた主張に現れています。
邪馬壹國について語る場合、魏志倭人伝の原文のなにが間違っているかを仮定することが議論の出発点になります。

 率直なところ、この主張は、「自分が正しくて倭人伝が間違っている」という、論証不十分な予断/思い込み/偏見の帰結であり、勉強不足の「独善」/傲慢との非難を免れないものです。
 この断定に至る考察は、当然、本書に綿々と書かれていますが、それにしても、早計による唐突な偏見の感は免れません。「出発点」を求めるとしたら、史料自身から始めるべきではないでしょうか。

 とても大事なことですが、ひとたび、自説に合う原文を仮定して、それにしても「計画的な史料改竄」が加えられて、現在の「倭人伝」が生成されたという暴言を肯定したとき、反論のすべはなく、さらなる改竄が無かったと断定もできず、果てしない迷路に落ち込んでしまいます。
 当方は、本書評で、そのような無意味な連鎖を否定するものです。


*各停批判
 以下、できるだけ丁寧に、各駅停車風に、長々と氏の断言の背景を確かめていくと氏の語彙の揺らぎや語彙錯誤に躓き続けます。そうした難点を一々指摘するについては、同様の「勉強不足」は認識してもらうしかないと見ました。
 いくら言葉を費やしても、言葉が裏切っていれば、言わない方がましで、それが無効なものであれば、かえって、信用をなくすわけです。

 従来は、出版社の編集部が文書校閲して、このような低次元の不具合が紙面に露呈することは無かったのですが、個人編集電子出版でない、一流出版社まで、本書と大差ない無校正に近い出版物を上梓しているので、そのために、渡邊氏が、商用出版物の品格を誤解したので無ければ幸いです。要は、金を取るには、取るに恥じない自律的な規制が必要なのです。

*「道程論」宣言
これは〝道程論〟―――すなわち倭人伝に記述されている道順を実際に辿っていくという手法です。
ところがこの方法は間違いなく幾百人幾千人の人に試されていて、それでもなお結果を出せていないやり方です。それゆえに道程論で邪馬台国の位置を決めるのは不可能だとさえ言われています。(中略)しかし本書は、実はそれが不可能などではなく〝適切な仮定〟さえ立ててやれば倭人伝の道程は無理なく辿ることができて、日本のとある地点に自然に行きつくことを示したものです。

 「間違いなく」と断定しても、早計を当然としていては前提になりません。どうやって先人の数を数え、その諸論を極め、何と比較して間違っていると断定したのか。誠に、虚妄の痴夢と言えます。
 (望む)「結果」は、現代風誤用で、他説を打倒する「効果」、とでも言うべきです。三世紀「道順を実際に辿」るのも、どえれえ(途方もない)ほら話です。他説提唱者は、見果てぬ夢の「実証」でなく、理性に訴える「論証」の里程論に自信を持っているのです。自分の狭い了見で、広い世間を測ってはならいのです。

 古代史論は、「正しければ、真理が自然に世界制覇する」のでなく、読者に聞く耳が無ければ、それこそ、キリスト教の寓話で、聖人が、鳥や魚に説教するようなものです。それを徒労と感じない者だけが、説き続けることができるのです。

 それこそ、どこの誰かは知らないが、よほどえらい人のご託宣でしょうが、よくぞ、幾百幾千の諸説を余さず検証したものです。「証拠を見ない限り信じがたい」と言ったら失敬でしょうか。「無理が通れば道理が引っこむ」の実証に努めているのでしょうか。

                              未完

新・私の本棚 渡邊 徹 「邪馬台国への道 ~熊本・宮地台地…..」  2/14 補追

邪馬台国への道 ~熊本・宮地台地に眠る失われた弥生の都~  Kindle書籍 (Wiz Publishing. Kindle版)(アマゾン)
 私の見立て ★★★★☆ 力作 ただし勉強不足歴然     2019/03/30  追記 2020/05/19 補正 2021/03/27 2022/01/17

*敗れざる人たち
 他説の信奉者にも、拘りや保身があり、自説が「負けた」と頑として「納得」しないから、「結果」は見えないのです。氏自身、山程ある先行文献を論破しつくしたわけで無く、誰かの独善に悪乗りしていると思うのです。
 いずれにしても、いくら氏が力説しても孤説は孤説で、「結果」は「絶対」出ないのです。氏の言う「不可能」とは、そのような不可能性なのです。
 以下、氏の「自然」も現代語で、「自然」な「結果」は、本来の自然法則が自然に導き出すものではなく、客観性のない主観的なもので、「自然」に他を制圧できないのです。独特の、手前味噌の「自分科学」にとらわれ誤認しているようです。

*現代語彙の弊害
 用語にこだわるのは、氏の「語彙」が古代人の時代語彙でないだけでなく、古代史「語彙」からも外れて見えるからです。当たり前の話ですが、主張の趣旨が、語彙の食い違いで読者に伝わらなければ、著作の意味が無いのです。
 そもそも、文献語彙の確保なしに、正しいも間違いも言えないのです。

 いや、これは、氏だけの弱点ではなく、近来の新書等で見かける多くの古代史論で見かけるものなので、あえて、言い立てるものです。

*計量史的批判
 当時の中国の〝一里〟の長さは〝三〇〇歩〟と決められていました。一歩の長さは約一•四mなので、一里の長さは約四二〇mということになります。
 ただこれがそこまで厳密だったかどうかは分かりません。単位名が〝歩〟とあるように当時の距離計測の手段が歩測だったことは明らかです。実際、一•四mというのは普通の成人男性の複歩(歩測の際に二歩を一歩と数える方法)の一歩ととほぼ一致します。

 取り敢えず、倭人伝論で中々見られない概数観と見えます。

*癒やせない「歩」幅幻想
 ただし、根拠不明の断定(思い込み)は、まことに不届きです。独断ではないでしょうが、「複歩」で測量したとは、まことに華麗な提言で、恐れ入ります。例えば、陳寿が、そのような「複歩」観を持っていたとの証明はできるのでしょうか。証明できない「作業仮説」は、個人的な思い込みにとどめるべきです。

 既に論じ尽くされているように「一歩六尺、一里三百歩」の原則は、古代の周制を秦が継承して全国に施行し、四世紀に亘る漢を歴て、最前の魏まで引き継がれ、いわば、不変不朽の制度です。何しろ、全国全戸の農耕地が、「歩」に基礎を置いているので、変えようがないのです。
 目前の懸案は、倭人伝が、そのような里制に従っているかどうかであり、この一点で、倭人伝里制観が大きく分かれているのです。

 しかし歩幅というのは個人差があります。(中略)一歩が一•四~一•六mとすれば一里は四二〇~四八〇mですが、ここでは計算を楽にするためにもうすこし大雑把に一里は四〇〇~五〇〇mとしておきます。

 いくら「古代史」分野で幅をきかしていても、「歩」を歩幅とみるのは不適切(大いなる勘違い)です。
 里の下位単位と見なされている「歩」は、歩幅や足の大きさに基づくものではなく、農地面積測量の際に常用された「基本単位」であり、時に、「面積単位」にもなっていたのです。勘違いを防ぐために、「歩」(ぶ)と呼ぶのが順当でしょう。

 また、「歩」を当時の距離計測単位と普遍的に言い切るのは間違いで、百里単位、ないしは、その上の桁の遠距離は、現代人が考える測量とは別の発想になっていたはずです。このあたり、大小、長短によって様子が変わるので、一概に決め付けるのは、無理です。

 一方、日常の尺度は、国家「度量衡」で常用されている「尺」が基準であり、発掘例のように標準尺原器を配布して、広く徹底していました。何しろ、日常の商取引で参照するので、出番が多く、悪用もされやすいので、絶えず、更新が必要だったのです。

 実用的に見ても、度量衡に属する「尺」と度量郊外と見える「歩」は、単位として別世界に属するものであり、また、「里」は、さらに別世界です。「里」「歩」は、度量衡には属さないのです。ただし、例えば、里の標準器は作りようがないので、以下に述べる手間をかけるのでなければ、精密に確定できなかったのです。

 つまり、里の測量というものの、実は、「歩」が基盤であって、里は、一里三百歩という「歩」との関係をもとに、各地で、里に渡る測量を行う際には、「里」原器にかわる「里縄」など測定基準を作成したでしょうか。
 その際のばらつきと測定のばらつきが相まって、おおきくばらつくのですが、「里」は、一里単位の精密な測量はされず、十里、百里、千里という、上位単位の「推定」に供されたものと見えるので、一里三百歩、千八百尺、ただし、里の長さは大まかで良い、と言う実際的な運用をしていたはずです。つまり、歩や里は、個体差と無関係ですが、実務で、道のりを歩測したとしたら、それは別儀です。

*人海戦術の測量案
 ついでながら、約25㌢㍍の「尺」原器を基に、いきなり千八百倍して約450㍍の「里」を得るのは、論外と言うか実行不可能であり、一旦六尺約1.5㍍を「歩」の基準としてから、例えば、「歩」十倍を二回繰り返して百倍に達した後、さらに三倍して三百倍になったら、ようやく、約450㍍の「里」を得るのです。「里」は尺度でない、度量衡の一部ではないと言われる由縁です。

 最初は、積木細工としても、大変な重労働と頭の体操の果てに「一里」を得て、例えば、その長さを縄に写して四百五十㍍の「一里縄」とし、「一里縄」十本で「十里」四千五百㍍、4.5㌔㍍、百本で「百里」四万五千㍍、45㌔㍍と言った感じで、なんとか、高度な計算のいらない、助手/吏人以下の人材の人海戦術でもできる手順で、黙々と準備をするのが精々で、例えば、一千里の標準器は、作りようがなければ、準備のしようがないと見るべきです。
 と言うのは、高度な計算の可能な官人は、ごくごく限られているので、そのような賢い官人が、簡単な指示を出し、多数の吏人を各地に派遣して、それぞれが測量したのを集計するとしたら、なんとか、百里を越える区間の測量ができるでしょうが、県単位ならともかく、郡単位となると、終わるのは、いつになるやらという感じです。
 つまり、そこまで、正確な測量にこだわるのでなければ、百里を越える区間の測量はせず、歩測なりで手早く測量して、各地区間の百里単位の里数を出し、郡県単位で集計したものと思うのです。

 世上、三世記当時存在していなかったと思われる、幾何学的な測量を想定している方もあるでしょうが、高度な測量は、図上の空論であり、実在しなかったと見るものです。
                                未完

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 私の見立て ★★★★☆ 力作 ただし勉強不足歴然     2019/03/30  追記 2020/05/19 補正 2021/03/27 2022/01/17

*陸行談義
そうすると一日何時間ぐらい歩けるかが問題になりますが、例えば江戸時代には東海道を江戸から京まで約二週間で歩いていました。ここから当時の人は一日に三五~四〇㎞は歩いていて、時間に換算すれば一日約一〇時間になります。

 まず、古代中国で、公式の旅は、乗馬が前提です。特に、官人は、自らの脚を労する前提ではありません。
 「一日何時間ぐらい歩けるかが問題」と複雑高度な課題を投げ与えますが、一日行程は、古代に解決済みです。唐代規則は一日(最低)五十里(20㌔㍍)と規定しています。現代的な考察は無用です。因みに、これは、おそらく、秦時代以来の自明事項であり、唐代に始めて明記されたと考えられます。

 江戸時代、「週」はなく、江戸(日本橋)から京(三条大橋)の道中、名古屋から桑名は渡船なので、半月間歩き通すことは不可能です。
 二「週間」という7日単位の概念は、周代前半にあっただけで、後は、「旬」(10日)単位だったので、古代史に関しては、禁句としたいものです。
 氏の江戸時代談義につきあうと、当時十時間などという「時間」は概念も無ければ、時刻の概念も無かったのです。
 何しろ、日の出日の入りが基準なので、「一日」の長さ、つまり、明けの七つから暮れの七つまでの日のある時間帯は、季節次第で移動するのです。今でも、冬は「日が短い」と言うことがあるでしょう。
 一日の旅は、「お江戸日本橋」の歌にあるように、夜明け前の暗がりで提灯点けて、日本橋を七つ立ち、しばらく歩いて、高輪あたりで夜明けたところで提灯を消すという感覚が普通でした。未知の土地の夜道は避けるので、明るいうちに宿場に足を止めるのでしょう。古代であれば、「町」は、隔壁などで囲まれていたので、日が暮れたら、門番が閉門、施錠するので、遅参したら、否応なしに野宿です。隔壁は、野獣、野盗への防御なので、野宿したら、身の安全など、保証されるはずはありません。

 ということで、江戸時代なら、五十三次の宿場は閉門しないにしても、早立ちして、一日歩き続けて、暗くなったらその場で立ち止まって夜を過ごすというような無謀な旅は、想定外です。と言うことで、所定の宿駅で足を止めるのが一日行程なので、公的な行程では、勝手に行程を決めるわけにはいかないのです。逆に、連日歩行しても維持できる速度が規則になっていて、大半の旅人は、規則に縛られる公用の旅なのです。
 規則ずくめに良いところはあって、公用なら、宿賃も、替え馬も、公費であり、途中の関所で関守に謝礼をむしられることもなかったのです。
 江戸時代の制度は、旧暦(太陰太陽暦)と相俟って、現代より、むしろ、中国古代に近いのかも知れません。

 と言うことで、安易に現代感覚を持ち込んで、多少事情が知れていると思い込んでいて、実は、随分誤解している江戸時代を介して、古代人に強制するのは無法です。

*渡河談義
大きな川では(中略)渡った後には確実に濡れた体を乾かさなければならなかったことでしょう。特に大きな川ならば渡し船があったかもしれません。(中略)道標があったかどうかも分かりません。(中略)泊めてもらえる集落がなけれなければ野宿することになります。(中略)持参の食糧が尽きてしまったら、食べ物の確保まで自前で行う必要が出てくるかもしれません。

 これまで見かけない、まことに丁寧な考証で、とんでもないホラ話の連鎖ですが、至る所、ずいぶん的外れです。以下、名だたる官道、公道の整備された「普通」の状態を想定しています。

 「大きな川」とは、長江、黄河のような川を言うのでしょうか。知る限り、こうした、現代感覚で言うと、途方もない大河を「泳いで(?)」
渡るなど聞いたことがありません。大勢の旅人が往き来するから、街道の渡しには、必ず、渡し舟があったのです。
 そもそも、大半の中国中原の人士は、泳げなかったはずです。また、人士、つまり、お供をつれたご主人様は、荷物を担がず、脚もとを濡らすことさえもっての外だったのです。

 また、必ず、宿舎はあったのです。官命の旅ですから、文箱、状箱やら貴重な品物を持っていて、必ず、宿で食事を買ったのです。そのような計画した旅で野宿とは、まさか、農地に入って泥棒する前提だったのでしょうか。随分、無茶苦茶な話しですが、当時、あちこちに国があって、互いに往き来していたことをどう思っているのでしょうか。

 丁寧に言うと、倭人伝で国と国の間に里数が書かれているのは、南北の市糴(交易)や文書通信使の往来に常用された「公道」里数であり、宿舎、渡し舟、小橋、船橋が整備されて、毎次宿駅があり、野宿自炊の公道はあり得ないのです。

 三世紀中頃の公道は、世紀初頭以前から維持されていたはずです。相互に往来できない相手と、食糧武器手持ちで峠越えの強行は論外だったのです。

*「渡河」~川を渡る
 中国古典を参照するまでも無く、渡河は、水深として「くるぶし」から「すね」、つまり、裾をからげるまでが限度で、水が腰まで来ると、衣類が濡れ、水の抵抗と足元の悪さで大変な難業、と言うか、命がけでした。
 皆泳の現代と違い、漁民など以外は、泳げなかったから、途中で深みにはまったり、転んだりすれば命取りでした。いや、公務のお役人が、そんな無謀なことをすることはないのです。文箱で公文書を携帯していたら、水しぶきを浴びることすら、御法度だったはずです。想定が、ずれていますから、何の参考にもならないのです。

 因みに、古代、淡水を泳いで渡る強者もいたようですが、倭人伝のように、「沈没」と書いていたとして、水面を泳いでも「潜水」と見えたのかも知れません。別に、水中に潜ってとか言う事ではなく、頭だけ見えて身体は水中ということを言うのでしょう。倭人伝の情景が、海辺であれば、別儀ですが。

 渡し舟は、現代に至っても、街道の渡河手段としてほぼ必須ですが、水量豊かで、岩瀬でないものです。そして、大河が、特に、河水は、両眼が氾濫で荒れて浅瀬になっていたので、特に造成した船着き場がないと漕ぎ寄せられないのです。

*道談義
 倭人伝の悪路記事は、物資輸送に車が常用されてないので、道幅が狭く、凹凸だらけで、轍も見えなかったのでしょう。近年まで、輸送形態として広範に維持されていたような、小分けの荷を背負っての往来であれば、轍はできないのです。それが、倭人伝に即したものの見方です。
 「禽鹿径」と書いているのは、「道」とも「路」とも書いていないので、なだらかなつづら折れでなく、近道の抜け「径」だったのかも知れません。
 いや、ここまでの議論は、現代人が未開地を歩いて、どれだけ行けるかなどの的外れの憶測が充満し、未開地とは言え国家として公道整備し、里程、日程を規定したとの視点が、全くと言って良いくらい欠けているのが、まことに不用意です。物知らず、不勉強なの見方を曝しているのは、物知らずを自慢しているのでしょうか。
                                未完

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*水行談義再論
続いて水行一日の距離ですが、これはさらに難しい問題です。水行といっても大型船で玄界灘を越えている場合と、瀬戸内海や有明海のような波静かな水面を小舟で行く場合では話が違ってきます。

 先ほどまでの「水行」とは別仕立てであり、「水行」を一律に扱わず、玄界灘の三度渡海と内水面を分けている点は明察です。

 もっとも、倭人伝には、内海も内陸河川も見えないのです。また、中国史書に海を行く水行はないのです。いや、そもそも、官道を水行することは一切無いのです。海に路をしくことなどできないのに、言葉面だけで「海路」と書き殴る、無謀な著者がいるのですが、知らないことを断言する蛮勇は、真似しない方がいいのです。このあたりは、国内史学界の周辺に蔓延したデタラメ解釈であり、是正するのに、百年でも足りないのです。

 当方未見の有明海は別として、「瀬戸内海」を一律に波静かな水面としているのは感心しません。今日の船舶でも、芸予諸島、備讃瀬戸の多島海の狭隘部分や関門海峡、 明石海峡、鳴門海峡の難所は、往来自在どころか、厳重に航路確認、潮流確認しないと、無事では済まないのです。知らないことを断言するとは、蛮勇です。

 なお、倭人伝は、ここに指摘した関門海峡から芸予諸島、備讃瀬戸、鳴門/明石海峡の名うての難所は、一切書いていない
のです。書かれているのは、「渡海」、つまり、向こう岸までの渡り舟なのです。中原人は、海を見たことがないので、難所のことは書いても理解できないのです。概観するに、九州島から東に渡る船は、大分から四国西端の三崎半島に渡る「渡し舟」くらいしか見当たらないのです。
 なお、倭人伝には、西方のことは書かれていないので、有明海は「圏外」とすべきです。

 なお、無造作な「大型船」は、まさか「豪華客船」ではないでしょうが、船の大小、いや、ものの大小は、時代と環境で異なり、書き捨ては不明瞭、不用意の感を免れません。それとも、だれかの受け売りなのでしょうか。良い子は悪い子の真似をしないものです。

*船談義
 以下、船の造作などについて、考察されていますが、船殻構造、動力源(漕ぎ手)などを、十分踏まえて議論しないと意味のある見通しに至らないと考えます。いかのように、素人の憶測で埋めた書籍を売りつけるとは、大した根性と言えます。

だとすれば重くて効率の悪かった当時の船でもこのくらいの速度なら十分に出せたとも考えられるわけです。

 [重い]、[効率が悪い]、[このくらい]などは、単位も何もわからず、意味不明瞭、根拠不明で、読者に何も伝わらないのです。具体的に描けないのは、知識が無いからでしょうが、何も知らずに、いい加減な言い回しで大口を叩くのは、素人さんにしても困ったものです。
 何より、現在、当時の「渡海」で常用されていた、多数の漕ぎ手、水夫を必要とした漕ぎ船の構造は不明であり、なんとも比較のしようがないのです。少なくとも、日常の用に南北を往来していた便船だったから、必要な速度は出せたはずです。何しろ、海上で一晩過ごすなどと言うことは命に関わるので、それこそ、朝早く出て、午後明るいうちに着いていたはずです。

*道里論追求
現実とあわない邪馬壹國への道程
 さて、以上より邪馬壹國への道程は次の表2のようになります。

 この断定には、まずは重大な異議があります。
 「次の表2」で帯方郡から狗邪韓国は「水行」七千里、三千㌔㍍としていますが、現在推定すると五百㌔㍍程度です。どうまわりみちしても、この間には入らない途方もない道里です。
 氏は、このあたりの仮説は、簡単な検算すらせずに見過ごして、以降の考察に入っています。この暢気さは、誠に不思議です。
 もちろん、このような「道程」は、間違いなく誤解がらみで、ダメ出しは、御免被りたいものです。

*不可解な半島沿岸行
 氏は、この間を全面水行とみていますが、この行程は大河を行く河川行程では無いので、「水行」は古典書以来の用語になく、「無法」です。皇帝に上程する公式史書稿に「無法」な用語を呈していては、一発却下です。つまり、当時の常識で読むと、そんなことは書かれていないのです。

 氏は、そのように「無法」な行程について、考察していません。なぜ、不安極まりない、海を選ぶのか。なぜ、安全か輸送経路として確立されている陸上経路を辿らないのか。何も、不審を感じなかったのでしょうか。
 またもや、何も知らないままに、無批判で追従しているのでしょうか。

 当方の考えでは、難所連発、難船必至の長丁場の半島沿岸を郡の官道としたとは思えないのです。氏が、三千㌔㍍「水行」と見たなら、なぜ、その五分の一程度の官道を陸行しなかったと判断したか不審です。
 こうして見ると、
本論文で、ほぼ一貫して丁寧な論考が、道里行程を追いかけ始めた途端、帯方郡を出た早々に、ドンと脱調しているのは何とも不可解です。

*倭人伝観の確認
 ここでひと息つくと、ここまでに、氏は、倭人伝の記事を解釈できないのは書き方が間違っているからと予断を示しましたが、本末転倒、手順齟齬です。

 物知らずの読者の読み方が、とことん間違っているのです。背景となる事実を全く知らず、妥当な推定もできないから、読めないと言うだけです。それに気づかないというのは、まことに勿体ないと思わせるのです。

 倭人伝は、当時の支配者層、つまり、皇帝に始まる高位高官の教養人を読者とし、その知識、教養に合わせて、と言っても、なめて書いていると思われないように、適度の「課題」を書いています。読者に却下されれば、編纂者の地位を失うので、最善の努力で、正確、明快に書いたはずです。また、解けない課題を押しつけると嫌われるので、適度の「謎」をこめていたはずです。
 そして、晋帝は、そのような著作物を審査した上で、後に正史とされる高度な著作物と高く評価したのです。

 現代の「だれかれ」が、自己流で読解できないから、原文の間違いに決まっていると決めつけるのは、その無知で無教養な「だれかれ」が、傲慢なのです。まずは、原典の正しい解法を探すべきであると思量します。

 当書評全体で見ても、著者は現代の日本人であり、倭人伝の言語や世界観を読解できてないようです。
 古代中国語の言葉と文法を解しないものは、倭人伝論議の場から去れ、とする、かの張明澄氏の「暴言」が、実は、誠実な直言であり、耳に痛くても、的を射ているのです。
                                未完

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 私の見立て ★★★★☆ 力作 ただし勉強不足歴然     2019/03/30  追記 2020/05/19 補正 2021/03/27 2022/01/17

*一律増倍論
 ここで、氏は、倭人伝の里数、戸数が、一律増倍されたとの説に忽然と覚醒し、先の郡から狗邪までの「郡狗官道」は七百里とし、以下、一貫して里数は十分の一、戸数は百分の一として残る考察を進めます。言い換えると、倭人伝里は四十五㍍小里という新説です。戸数は、それ自体根拠不明なので、明快ではありません。
 要は、本書の論議は、誇張論の一変種で、自分流に読替えれば自分に明快との議論が、また一つ増えたのです。また一つの「百面相」で、特に説得力は無いのです。

*十倍、百倍の美点
 氏の提言した里数十倍、戸数百倍の増倍は、当時の算数では、極めて簡便です。
 当時、最上位一桁を算木操作したので、百里単位を千里単位にしても計算は同じです。紙上では、百を千に、千を万に訂正するだけで、修行中の子供さんでもできるのです。
 これに対して、世上見られる六倍説などは、高度なかけ算が必要な上に数字並びが変わり、末端の担当者には、一切計算処理ができないので事実上換算書き替え不能です。

*また一つの改竄説
 氏の説は、またひとつの「倭人伝改竄」説ですが、陳寿編纂時に原文を増倍したとの説で、原本すり替えの難業は含まれないものです。

 但し、当改竄は歴史の正確な記録を信条とし、時に、命をかけて守り通す誇り高き史官陳寿が、安直な改竄をしたという弾劾です。当方は、推定無罪を信奉していて、一部権威者が公言している「史官は全て嘘つき」との暴論には断じて同意しないのです。また、魏志は、陳寿が一人で編纂したものではないので、周囲が止めなかったはずもなく、正史改竄の罪は、当人の死罪だけでは済まないと思われます。つまり、共犯を免れるには、密告するしかないのです。また、陳寿の原稿を読むことのできた同時代読書人が、そのような粗雑な改竄に気づかないというのも、無謀な思い込みです。

 ともあれ、氏が遵守する読解で、直線行程の果ての「邪馬壹国」は、熊本県内に比定され、そこに到る道程は大変丁寧に確認されています。先に結論を出して、それに合わせた仮想倭人伝道里を創作しているので、誂えもののガラスの靴は、足にピッタリ合うのです。

 当方は、現地事情に通じていないので、この部分は、ノーコメントです。

*地図データの適正使用
 忘れないうちに付記すると、氏は、掲載された地図類を書き上げるのに、国土地理院のデータベースと明記し、古代史論であまり見かけない、まことに適正な態度と感心します。と言うのは、例えば、毎日新聞の夕刊歴史関係コラムで、出典不明の地図に勝手な加工を施したものが複数回見られて、不正使用だと非難したことがあったからです。この悪習は、同コラム筆者の独創ではなく、新書版安直本にも、しばしば見られます。

 但し、一般論として、国土地理院が公開しているのは、現代でのみ正確さを保証されている地図データであり、古代に於いて、同様に正確だという保証は一切していないのです。国土地理院 は、適正な使用条件管理を要求していて、これを勝手に別の条件で利用した上で、国土地理院が 古代に適用できると保証したような印象を与えたとすると、それは不正使用になります。ここでは、国土地理院の承認を得たデータ転用なのか、明記されていないのは、不穏当です。

*魏の遠交近攻策
 ここで、氏は、正史改竄を正当化するため、当時の世間話を持ち出しますが、いい加減な聞きかじりで、信用を落としています。

(中略)この時代のことは三国志演義という現在でも人気がある物語でよく知られているところでしょう。劉備、関羽、張飛、それに諸葛孔明という名は興味のない人でも聞いたことくらいはあるはずです。その彼らの最大の宿敵が、魏の曹操でした。

 このような不正確なだぼらは減点要素です。そもそも、「三国志演義」は、元明代に、町場の講釈師が書き崩したホラ話なので、ここに持ち出すのは、不適当です。そこに、著者の勝手な曲解が反映されていては、何が何やらわからないのです。
 丁寧に言い直すと、次のようになります。
 曹操は、後漢最後の献帝の建安年間に、後漢の国政を支配したものの、終生後漢の宰相であり、魏は、武帝と諡された曹操の死後に誕生したのですから、「魏の曹操」は無法な指名です。
 また、「最大の宿敵」は意味不明です。蜀漢皇帝となった劉備の仇敵は、既に世を去っていた曹操でなく、義弟関羽を殺した孫権でした。だから、帝位に就くやいなや、東に大軍を進めたのです。そのとき、関羽だけでなく、張飛も世を去っていたのです。但し、在世中の関羽にとって、曹操は、敗残で孤立していた身を高く評価して、陣営の客将に迎えてくれた恩人であり、決して宿敵とはならなかったのです。そして、関羽を殺したのは、孫権の命によるものでした。だから、劉備の宿敵の資格十分なのです。
 また、諸葛亮にとって、曹操は後漢朝廷から皇叔劉備を放逐した大罪人であり、同格の存在を意味する「敵」などではなかったのです。

 どこで拾ってきた「常套句」か知りませんが、無批判な追従は、路傍の「落とし物」を見境無く食いかじるようなもので、大抵は、つまり、90㌫以上、「落とし物」は、馬や鹿の落としたものばかりです。

                                未完

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 私の見立て ★★★★☆ 力作 ただし勉強不足歴然     2019/03/30  追記 2020/05/19 補正 2021/03/27 2022/01/17

*魏の遠交近攻策 (承前)
 引き続き、散漫な演義談義で、引用できずカット不可避ですが、総じて不確かな印象に過ぎず、正史改竄を正当化する根拠は見られないのです。
卑弥呼が最初の朝貢を行ったのが景初二年(西暦二三八年)です。(中略)当時の魏王は孫の曹叡でしたが、その後見人が司馬懿(字は仲達)でした。(中略)あの名軍師、諸葛孔明の好敵手として描かれている人です。(中略)最終的にはこの司馬懿が魏の全権を掌握して、(中略)さてその景初二年(西暦二三八年)ですが、四年前の五丈原の戦いでは蜀の諸葛孔明が病没し、遼東半島での公孫氏の叛乱も鎮圧して、魏にとって目下最大の敵は長江流域の大国、呉という時期でした。魏も呉も国力に大差はなく、また地形的要因もあって北方の魏は侵攻しづらいところです。(中略)すなわち単なる力押しではなかなか相手を倒すことができず、お互いに睨み合っているという状況になっていたのです。さてそのとき、もしその呉の東海上に〝倭〟なる大国があって、そこが魏と結んだとなればどうでしょうか。


 魏は、公孫氏のように、地続きの境地に大軍を擁した勢力を完全に撲滅していたから、海の向こうの幻を怖れる必要など無いのです。恐らく、どこかの森の魔女からお告げがあったのでしょうか。魏という国は、そのような迷信や妄想は、一切相手にしなかったのです。

 中略部で、司馬氏台頭の原因として「曹操の子孫たちは互いの権力闘争に明け暮れた」と無造作に総括しますが、曹操、曹丕二代の後継は、水面下の暗闘で闘争は記録されず、二代皇帝曹叡急死による三代曹芳擁立にも、後継闘争は無かったのです。一度、まじめに読みなおしていただきたい。
 ひょっとすると、氏は、後年、西晋を破壊した司馬氏一族の重大な内紛と取り違えたのでしょうか。勉強不足は信用を無くすだけです。

 むしろ、少帝曹芳の後見争いで、いったん後見人に任じられた司馬懿が閑職に落とされた後、クーデター、奪権闘争、つまり、曹叡の遺託に反する悪辣な陰謀を巡らして、少帝周辺の曹氏や譜代衆を一掃し、後に曹芳を退位させるなど独裁したのです。更に後には、司馬氏が皇帝を粛正した事例まであります。司馬氏も、曹操の教えを継いで力で敵を制する取り組みだったのです。
 そして、陳寿は司馬氏を顕彰などしていないのです。何か迷信や妄想の類いなのでしょう。

 以上、氏は、事態を把握できていないようです。倭人伝を正しく理解するためには三国志全巻を読めという、三国志権威の至言の深意を味わうべきです。

*明帝の景初三年はなかった
 景初二年貢献時の魏王ならぬ魏皇帝は曹叡、そして、景初三年元日に明帝が逝去し継嗣が直ちに即位したものの、元号は継続したので、「某帝の景初三年」ということはできないのです。また、新帝曹芳は、司馬氏に退位させられたので「*帝」と言う諱はありません。

 ついでに史実を押さえると、文帝逝去時、司馬懿は、曹叡の補佐役の一人として重用されたものの、明帝曹叡は成人に達していたので、後見人などではなかったのです。後見人が必要だったのは明帝後継の少帝曹芳です。何か、勘違いしたか、うろ覚えで書いたものが、そのまま世に出たようです。
 著者が、史料をちゃんと読んでいないこと、誤記しても、誰も訂正してくれないこと、など、不手際が重なって、信用をなくしています。

 因みに、畿内説論者は、景初二年六月では遣使の派遣が到底間に合わないので、頑として、景初三年の五期に決まっていると、倭人伝誤記を主張するのです。いわば、景初二年か三年かの二択ではなく、景初三年が譲れない一択なので、倭人伝に信用が集まっては困る纏向派がヤジを言い立て、付与雷同、つまり、とにかく騒動好きな野次馬まで巻き込まれて、倭人伝には、誤記がざらにあるというホラ話を書き立てているのです。この辺り、畿内説、特に、纏向説論者は、ちゃんと史料が読めていない/読もうとしないとみられる由縁です。

*呉の国力評価詳細
 江南状勢というと、孫権率いる呉は、長江流域を支配していたわけではなく、江東と呼ばれる中下流域にとどまっていて、上流は蜀漢の支配下にありました。また、魏が江南侵攻を控えたのは、蜀漢の関中領域への北伐侵入が続いていて、侵入志向が控え目の江東は後回しにしていたのです。また、呉の国力評価は難物ですが、動員可能兵力の面で見て、中原を支配した魏に遠く及ばなかったものの、中原の農業資源が荒廃していたため、魏としては、総動員を要する全面戦争は不可能だったのです。
 そして、漠然と地形と言うより、要するに、北からの攻勢は、長江で進軍を遮られ、強引に渡河しても、長江槽運が支配できない限り、大軍の兵站を維持できないから、長期戦が維持できない、つまり、魏としては、強引な南下渡河は、大敗必至と見ていたようです。

 総括すると、魏は、天下の「中原」を後漢朝から継承支配して国家組織、つまり、徴兵、徴税組織を構築していたのです。南の東呉は、後漢の臣下であった辺境守護なので、支配力も、人口配置も大違いです。歴史地図で、呉の領域が、遥か南に延びているのを見て、大国と誤解したもののようですが、単なる誤解です。
 
ただし、呉は長江を長城として、時に心服を見せて誅滅を避けた上で、弱者の立場を自覚していて、小競り合いしか仕掛けなかったのです。
 結局、魏の国力は、呉を大きく上回っていても、魏から総力戦の攻防を展開すれば、最終的に敵に勝っても、その過程で、自身も重大な損害を避けられないので、特に切迫した状態にないことから、いずれ、孫堅が去り、呉の体制が衰退、崩壊するのを想定して、静観していたのです。曹操は、まずまずの後継者曹丕を、宿老が支える体制を整備していたので、後継者に難があると見て、孫堅の去るのを気したていたのです。

*呉の亶州調査 
 同様に遠交近攻策は魏の専売特許ではありませんでした。魏と敵対している呉にとっても当然の戦略です。西暦二三〇年、呉の孫権が衛温、諸葛直という将軍を派遣して、夷州と亶州という場所を調査させたのですが、彼らは夷州から数千人の住民を連れ帰っただけだったので、処罰されて翌年に獄死するという話があります。辺境の探検がうまくいかなかったから投獄というのも少々極端な話です。いったい呉の孫権は何を考えていたのでしょうか?

 まず、「専売特許」は死語です。現代では、知財権の中でも、「特許権」ならぬ「著作権」となりそうですが、国策に著作権は無く「パクリ」放題です。呉は、魏を飛び越えて遼東公孫氏と結ぼうとしましたが、別に、挟撃して魏を攻め滅ぼそうというわけではなかったのです。
 そうそう、「遠交近攻」は、戦国時の雄、秦の創唱した天下統一の戦略です。先行例があっては、「専売特許」になどならないのです。

                未完

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*呉の亶州調査 (承前・再掲)
同様に遠交近攻策は魏の専売特許ではありませんでした。魏と敵対している呉にとっても当然の戦略です。西暦二三〇年、呉の孫権が衛温、諸葛直という将軍を派遣して、夷州と亶州という場所を調査させたのですが、彼らは夷州から数千人の住民を連れ帰っただけだったので、処罰されて翌年に獄死するという話があります。辺境の探検がうまくいかなかったから投獄というのも少々極端な話です。いったい呉の孫権は何を考えていたのでしょうか?

 肝心なのは、遠交近攻は、戦国時代末期の秦という強国の全国制覇戦略ですから、優勢の魏の取る政策としても、相手は、不倶戴天の敵と見なしている蜀漢しかないのです。また、鼎立状態で、劣勢の呉のとれる戦略でもないということです。

 呉にとって、連合に値するのは蜀漢に過ぎないのです。世上、公孫氏を第四の存在と持ち上げる例がありますが見当違いの極みです。皇帝なら、袁紹が既に僭称しています。

 なお、派遣隊の両指揮官が、きつく処罰されたのは当然の帰結です。
 国力増強のための蛮人拐帯が目的で、皇帝の大命を受けて巨大な新造海船を連ねたのに、数千の帯同兵士を失った代償が、言葉の通じない、戦闘訓練のできていない蛮人の獲得では、使命を裏切る大敗であり、敗軍指揮官に対する、自殺を許さない処刑は、別に「極端」な話でなく、当然そのものです。
 斬刑となれば、親族連座の筈ですから投獄に止めたのでしょうが、当時、必然的に拷問を伴う投獄は即ち獄死、生き延びれば、いずれ斬刑です。以上、軍法として妥当であり、劣勢を自覚していた孫権の悪足掻きと見るものでしょう。
 反りにしても、氏は、余談を活用する常識を有しないようです。
 いずれにしろ、三国志編纂時、呉はとうに滅びていて、はばかって、正史を改竄する動機は無いのです。

*赤壁幻影(銀幕上のイリュージョン)
 氏は、ドラマや映画に影響されているようです。史学論議では、劇的な潤色を振るい落とし、史料の紙面から、以下のように読みなおす必要があります。

*曹丞相南征紀
 赤壁故事は、後漢丞相率いる官軍が長江中流の荊州の平定後、荊州水軍に指示して寄寓していた謀反人劉備の逃亡を追尾し、孫権に劉備引き渡しと後漢への帰順を迫ったものです。丞相曹操は、荊州刺史劉表討伐の勅許だけで孫権討伐の命は受けていなかったので、宣戦布告はできず、精々、帰順勧告であり、にらみ合いになったものです。
 孫権は、あくまで、後漢の会稽太守であり、曹操に反発しても皇帝への反逆はできず、北岸の官軍、曹操部隊に対抗できる陸上軍も持たず、退陣を続ける荊州艦隊を焼き討ちするにとどまったのです。
 魏志に従う限り、曹操は官軍の面目を保ちつつ、疫病蔓延を口実に北帰したのです。

 三国志編纂時、陳寿は、東呉の国史を回顧した「呉書」稿を呉国志の史料とし、ほぼ温存したので、創業前夜の英雄「周瑜伝」は、東呉の劇的勝利を描いて顕彰しています。このお国自慢に対し魏志に大敗記事が無いことからも、三国志は、魏の国史としての画一的編纂はされていないのがわかります。
 因みに、三国史に裴松之が注を加えた際、つまり、「周瑜伝」では生ぬるいとみた読者、劉宋皇帝の厳命で、さらに華麗な勝利を描いた「江表伝」なる、民間文書が追加されています。
 官軍が大敗したとしたら曹操は厳罰を受け、斬首の刑を受けたでしょうが、魏志武帝紀にその記事は無く、孫権は官軍反抗の大罪で断罪はされていないのです。
 これが、陳寿が後世に残した三国鼎立前夜の「実像」なのです。

 いや、実際はどうであったかまで言っているのではありません。魏志に公式記録としてそのように示されたと言う事です。呉志「周瑜伝」は、魏の公式記録ではなく、まして、後世の裴松之が、蛇足として付け加えた部分は、倭人伝、さらには、魏志の史学考察の対象ではありません。
 但し、現代人一人一人にとって大事なのは、外観、つまり「倒立実像」なのです。

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*また一つの与太話 国淵(字子尼)伝
破賊文書は、旧、一を以って十と為す
さて、数値改竄の動機は魏の戦略以外にも見つかります。(中略)魏志(中略)に「破賊文書は、旧、一を以って十と為す」という記述があるのです。(中略)通常、賊を破ったときの報告は人数を一〇倍に(中略)報告の水増しがごく普通に行われていたことが分かります。読む方もそのつもりで読んでいたので(中略)す。もちろん倭国は賊ではありませんが、(中略)魏から見たら夷狄(野蛮な異民族)の類であったことは否定しようもありません。(中略)相手が強力であればあるほど魏の威信は高まり、関わった者の実績にもなるわけです。従って記者が国や皇帝の威光を高めるためにそうしたのかもしれないし、倭国を見てきた使者がその小国っぷりに失望して、自身のキャリアアップのために水増しした可能性さえあるのです。

 散漫でカットしましたが依然として筋の通らない話です。証言者はただ一人で、曹丕が論評してないので、どこまで正確な意見か不明です。

 「動機」は犯罪の原動力を意味しますが、蛮夷の来貢記事捏造とは無茶な話もあったものです。「自身のキャリアアップのために水増しした」などは、現代人の「動機」を無造作に古代に投影した与太話もいいところです。当時、「キャリアアップ」などいい加減なカタカナ言葉は無かったのですから、時代錯誤もいい加減にしてほしいものです。。

 また、「水増し」は、江戸時代、居酒屋などで、樽買いした酒に水を足して供したことを揶揄したものであり、喉の渇いたときに水代わりに煽られた当時の飲酒習慣で酒毒を抑える売り方で、ある程度常態化していたものでしょう。
 特に高度な技巧を要しないので、中国でも、古代以来出回っていた手口のように思えます。対する客の苦情は「水くさい」として出回っています。
 繰り返しになりますが、拾い食いは、身体に悪いですよ。

*手柄話三千年の伝統
 古来、軍功が、軍人の昇進、褒賞の源泉ですから、手柄話は大げさに言い立てるものですが、大抵は、お目付役が同道していて、お手盛りの自慢話など通らなかったのです。手柄話の常で、世間相場の粉飾はあったでしょうが、「十倍」水増しが当然とは、軍人も宰相も甘く見られたものです。
 曹丕は、曹操ほど規律重視でなかったとしても、皇帝をバカにして騙す将軍など、早晩斬首になるのがオチです。

 と言うことで、氏は、こうした水増し話を紹介することで、「正史記事など、所詮でっち上げで、里数十倍、戸数百倍の増倍が日常茶飯事」と読者を説き伏せようとしたのでしょうが、夜郎自大の傲慢さで、中国文化を見損なっています。
 
例えば、後漢書、晋書記事の戸数計算では、数百万戸が一の位まで計算されています。新来蛮夷の戸数、里数は、この基準を認識した上で、集計、報告されているのであり、「はなから誇張」、改竄などとんでもないことです。
 物知らずの放言も、ほどほどに願いたい。

 このように、総じて、この部分の寄せ集めは、氏の諸般の理解不足が災いして、甚だ説得力に欠け、自縄自縛、書くほど瑕疵が現れる感もあります。
 どこから拾ってきた与太話かわかりませんが、当分野に良くある「新発見」で、古代史論読者には、広く資料を渉猟して見識を蓄え、批判的な眼で読み取るものも少なくないので、これでは氏の不見識の責任になり、もったいない話です。

 何しろ、よろず新説の九十㌫は「ジャンク」と決まっています。もちろん、当説も、新説の一つです。

追記:2022/01/17

 近来のテレビ番組などを見ると、「破賊文書 」談義は、倭人伝題材の論争で、中国史料全般、ひいては、その一例である「倭人伝」記事がこうした誇張の産物であるとの主張の根拠として常用されていると見えます。
 いや、纏向説など畿内説論は、「倭人伝が信用できないと言わないと忽ち棄却されてしまう」ので、懸命に「レジェンド」(前代遺物)を持ち出しているようですが、このようにヒビの入った、サビだらけの骨董にもならない与太話を担ぎ出すのは、いよいよ、「土壇場」で進退に窮したと思わせます。
 これ以外にも、李白漢詩の「白髪三千丈」など、俗耳に訴える、つまり、子供だましの「説話」が出回っていますが、よい子は、見え透いた手口に騙されない目と耳を持ってほしいものです。
 中国史上最高の詩人の最高の名作が単なるホラ話だとは、よほど、無神経、無知でないと持ち出せない与太話です。それとも、纏向説は、この手の与太話を種麹として醸成されていているのかと思わせるほどです。

                               未完

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*巨大な前車の後ろ影か
 この辺り、氏が範を求めたと思われる岡本健一氏の「邪馬台国論争」(同書)の弱点を「忠実に」継承した感じで、一人前の研究者は、ここまで律儀に前車の轍を辿らなくてもいいように思います。せめて、前車の行く末が天上楽土なのか、堕地獄なのか、よくよく確かめてから追従した方が良いでしょう。古来言われる、「レミング」現象に陥っていると言いたいところですが、実在の野生動物であるレミングが、実際にそのように行動しているという確証を見ていないので、なんとか自制します。

*自由創作の悪例踏襲
 就中、渡邊氏は、岡本氏の「読み下し文」に依拠していますが、倭人伝岡本本は、既に原典不明確で、和田清・石原道博両氏、山尾幸久氏などの読み下し文を総合的に勘案し、最終的に、「岡本氏の気ままな手前味噌」としています。成分、処方不明の手造りブレンドでは、検証にほとほと困るのです。

 渡邊氏は、そのような岡本本闇鍋史料を引用し、論考の基礎としていて、その当否は、既に混沌としていて、検証には、このように同書の批判に手を付けなければならないのも、本書の史料批判上の難点と考えます。
 言うまでもないですが、倭人伝解釈は、倭人伝史料に厳重に立脚していなければ、まがい物なのです。現代改竄私家本は、現代の創作文芸であり、峻別して遠ざけるべきです。
 同書は紹凞刊本の写真版(影印版)を掲載していますが、どの程度依拠し、どう改編したか触れてないので、影印版掲載の意義が不明です。

*読み下し文の著作権
 言うまでもなく、一私人の私見ですが、原則として、漢文古文読み下しは、著作権の消滅した古代資料の文字列を明快な規則に従って日本語として字句を並べ替え、最低限のかなを補う著作であるので、新たに芸術的な創作はされず、従って著作権はないものと思います。

 もちろん、読み下しの労力は尊敬すべきであり、引用に際して出典明記が必要ですが、著作権の配慮は必要ないと解します。また、各氏の読み下し文は、公共の用に供するために公開されていて、適切な引用は、予め許諾されていると感じます。

 つまり、岡本氏が、それほどまで手の内を隠して、個性的な手前味噌を捏ねる意図が理解困難です。独自創作のつもりでしょうか。史学論で、自由創作とは、不可解そのものです。いや、このあたりは、岡本氏批判ですから、本書の批判そのものではないのです。

 なお、いわゆる現代語文は、多大な追加と読み替えを注ぎ足した上で創作された現代著作物であり、著作権が生じるものと考えます。逆に言うと、現代語文は、現代人の新たな創作であり、史料そのものではないのですが、そのような趣旨は滅多に見かけず、ひたすら、原典に忠実とか、自然にとか、言いくるめているのは不可解です。

*岡本氏の逃げ業(余談)
 ついでながら、岡本氏批判の続きとして、同書最後に「陳寿のイメージ」と銘打ち、「聖人陳寿の肖像画」出土かと「惑い」ます。なぜ、ちゃんとした言葉で書かないのでしょうか。どうせ、読者は俗耳の持ち主ばかりだと、なめてかかっているのでしょうか。

 岡本氏
は、畿内説擁護に窮した時も、土俵を割ったと認めず、意味不明なカタカナ語、情緒表現、果ては、講談ネタの与太話の影に逃げ込みますが、これでは異様な見出しの不意打ちを記事で補足しない、三流ジャーナリストの手口満載と思わせます。
 実際は、倭人伝里程論が不首尾で、洛陽の抱く「イメージ」と食い違う、との難癖ですが、氏は算数に弱いので視線が泳ぐのです。

 この点、渡邊氏は、健全な算術を会得していて、簡単にドブ泥にはまらないようです。そのように、無批判な追従は避け、悪例の欠陥を真似しないでいただきたいものです。

 ことのついでに、同書の概観をまとめると、示された道程観は、世にある諸説の闇鍋を、誰も期待していない氏の自説の匙でかき混ぜて混沌とする使命を果たしただけで、論争を鳥瞰、平定できてないので、同書を、学会の最先端、最高峰と見てはならないのです。

 また、同書の主要部は、銅鏡 魏鏡説擁護に空費され、痛々しいのです。

 と言うことで、四段を占めると、渡邊氏は、不用意にも、その立論の基礎に、不確かなあてにならない礎石を置いたと見えます。氏ほどの見識があれば、「木は生える土地を選べないが、鶏は泊まる木を選べる」のではないでしょうか。

                               未完

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 私の見立て ★★★★☆ 力作 ただし勉強不足歴然     2019/03/30  追記 2020/05/19 補正 2021/03/27 2022/01/17

*用語混乱
続いて出てくる『一大國』ですが、これはどう見ても『一支國』すなわち壱岐の誤記と考えられます。そのため一般には一支國と呼ばれることが多いようですが、本書においては原文どおり一大國と記述することにします。

 氏の独自語彙(口癖)なのか、「どう見ても」とは、随分暢気です。一部に、縦書き一大国は「天国」の誤記かという説がありますが、その意味でしょうか。それとも、天地倒立する部の字形が見えるのでしょうか。因みに、わざわざ「壹大」でなく、「一大」と書いている趣旨は、理解すべきです。眼鏡の度はあっているのでしょうか。ウロコは落ちたのでしょうか。

 それはそれとして、有力刊本に、「一大國」と定まっているのを、憶測で「誤記」と断じる根拠は見当たらないのです。氏の言う「一般」は意味不明ですが、「誤読」者が氏の身辺に多いからだとしたら、それは、「諸人挙って」の間違いです。氏の提言は、「原文どおり」のはずです。原文がどの版なのかは、一部陣営の党利党略で混沌としていて、不明、正解の出ない「問題」ですが、この際は、論外です。

さらに続く『奴國』ですが、博多周辺はかつてそう呼ばれていて、今でも那津という地名が残っています。

 三世紀当時の議論で「博多周辺はかつてそう呼ばれていて」とする根拠が見当たりません。通説と見えても、文書史料に明記されていないから推定に過ぎません。

*用語混乱再発
倭人伝では途中まで、すなわち帯方郡から不彌國までの距離は里程で記述されていますが、不彌國から先は日程で記述されています。この理由についても古来より取りざたされてきたポイントなのですが、本書においてはその中で最もスタンダードな解釈をします。

 ここで、突然「ポイント」(クーポンネタか?)「スタンダード」(「公共規格」か?)と、カタカナ語連打ですが、古代史論では「タブー」(香水か?)でしょう。まして、「最もスタンダードな」とは、文法無視、規格外の奇天烈な言い回しで、「懐メロ」(着メロの誤記が?)名曲とでも言いたいのでしょうか。誤解を避けるためのカタカナ語の規範すら踏み外しているのです。
 氏は、史学論で期待/要求されている用語を踏み外して、一般読者、研究者を通じた見知らぬ読者に何を伝えようとしているのでしょうか。不可解そのものです。本書は、編集過程を経ていない、手作りの「書いて出し」ものなのでしょうか。
 
いや、確かに、本書は、「出版物」でなく、そうした内容を予想させるKindle本ではあるのですが、代金支払いを伴う商用出版物相当品なので、一言愚痴りたくなるのです。

当時の日本には長さの絶対的な単位の概念がなく、距離を表すときは歩いて○○日、船で○○日、といったように時間で表していたということです。

 引用では「当時」が意味不明ですが、いずれにしろ、「日本」は八世紀以降の概念であり、三世紀では論外です。良くある時代錯誤の現れです。注意したいものです。
 「長さの絶対的な単位の概念がなく」は、無知による暴言で、少なくとも、交流している帯方郡には、「尺」なる日常不可欠な概念どころか、尺度物差なる「絶対的」原器があったのです。交易とは、何か形のあるものを、相応の値段で売ることですから、たとえば、布の幅について、互いの理解できる表現がなければ取引が成立しません。一番簡単なのは、両者で同じ「尺」を備えることです。
 「尺」が決まれば、一歩六尺、一里三百歩の原理で「里」も千八百尺と 、キッチリ決まりますから、「里」の絶対的原器もあったと見るべきです。文明の働きを侮るのは、東夷無教養人の自滅表現です。当ブログでは、概算計算の便に適した、有効数字の少ない、一尺25㌢㍍、一里450㍍の利用をお勧めしています。
 それとも、氏は、尺度、度量衡の適用範囲を勘違いしているのでしょうか。冒頭で、独自里制を提唱しているにしては、何とも、不用意です。

 但し、二地点間の距離、当時の「道のり」を「里」で計測する「道里」制が夷蕃にまで行き届いていなかったので、測量実務の手が回らない道里(道のり)に代えて移動日程を「時間」ならぬ日数で表したかというものです。いくら東夷でも、「距離」を所要日数で代用すると言うことはありません。因みに、東夷ならぬ本家中国正史の地理志などで、所要日数表示はざらです。

*「短里説」馬耳東風
 それにしても、かなり広く認知されている倭人伝「短里説」に一切触れないのは不吉です。多分、氏の器量では論破できないので、無視したのでしょうが、倭人伝里程論で、「絶対」避けて通れない議題と思量します。

 里数十倍増倍説を妥当と見せたければ、以上で説明した一里一千八百尺の通説を無視するのではなく、有力な先行論者を取り上げて論破/克服する必要があります。俗説論者が何万人いようと無視してよいとしても、大事なのは、有力な一説への対応です。
 論戦で、「敵前逃亡」したら、敵を論破できず、「結果」も「数字」も出ません。類は友を呼ぶと言いますが、同じ語彙文化の者同士で語り合い、「敵の」批判に耳を塞いだら論議は深まらないのです。

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