私の本棚

主として古代史に関する書籍・雑誌記事・テレビ番組の個人的な読後感想です。

2025年1月13日 (月)

私の本棚 15 安本 美典 『古代物部氏と「先代旧事本紀」の謎』

 勉誠出版 平成15年6月
 私の見立て ★★★☆☆ 貴重な論考   2014/05/30 追記 2025/01/13

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

◯始めに
 著者は、古代史論者の中でも、著書刊行に恵まれた有力な論者であり、知名度も高く、多くの支持者に恵まれているものと推察します。
 本書は、ほぼその全体が、古代史書である「先代旧事本紀」(以下「旧事紀」)に関する論考です。
 本書は、冒頭の「はじめに」の部分で、旧事紀の素性、由来や、その記述の信頼性について、慎重に審議した成果である旨が述べられていて、本書の体裁と価格から見て、立ち読み読者にとって妥当な体裁と考えます。

*偽書三昧
 さて、比較的先頭に近い部分で、旧事紀は、普通偽書と言われるものであることが確認されています。普通、そこで話が終わってしまうのですが、本書は、後が続いています。
 著者は、冷静に「偽書」の内容を審議して、他文書を盗用した部分や来歴を偽装するための造作部分など、明らかに史料として信頼できない部分以外に、旧事紀独自の記事が多く含まれていて、これら独自記事を吟味、批判した上で、旧事紀は、何らかの史実に基づく独自の伝承を描き出していると信ずるに足ると判断し、その判断に基づいて、古代物部氏の発祥と展開を導き出しているように思います。
 まことに、冷静で堂々たる対応と考えます。

 疑わしい史料を、偽書として丸ごと切り捨てるのではなく、深くその内面を掘り下げて、史料として有意義なものであることを感じ取る眼力は、堂々たる風格を感じます。ただし、そのような観点は、著者だけのものではなく、著名な古代史家で言えば、上田正昭氏がいち早く旧事紀を支持したことも知られています。

 ちなみに、「プロローグ」での考証を経て、第一章は「先代旧事本紀」は、いつ、誰が編纂したか?」と明解な章題が振られています。

*真実は時の娘
 ここで皮肉なのは、著者が範を仰いでいるベッドディテクティブの国内事例が、いずれも、他者著作の盗用指摘を受けているものであり、著者が、専門分野以外では、割とのんきなの気風だと思わせるところがあります。

 先例としては、国内著作のお手本である「時の娘」(ジョゼフィン・テイ 1951年)が、悪名高いイングランド王であるリチャード3世の犯罪/冤罪を現代の警察官が病院のベッド上で解き明かすという体裁であり、当該歴史ミステリーのジャンル創始者として見事なオリジナリティを持っているので、この例を示すのが著者の見識に相応しいものと思います。

 ちなみに、「時の娘」は、「真実は時の娘」(隠された真実も、時の流れによって明らかになる)と言う伝統的な成句に基づいているものです。蘊蓄のある言葉遣いは、国産品に数等勝ります。

*脚で稼ぐ名探偵
 余談はさておき、著者は、書斎にふんぞり返って、使い走り役の報告書や証言伝聞だけで真相を解明するような『探偵』等ではなく、史料考察に当たって、遺物、遺跡などの出土品の一次的なデータを緻密に参照して、入念に持論を補強しているので、素人があら探しなどもっての外なのですが、導入部の世間話には、いろいろ口を挟めるのです。

 ちなみに、著者が、戦闘的な言い回しを採ることは、著書の副題等に明示されているので、本項筆者たる当方は、言わば、サングラス、耳栓用意で鑑賞装備しているので、騒然とした言い回しがあっても、余り気にならないのです。

以上

私の本棚 16 安本 美典 「大和朝廷の起源」 更新再掲

 勉誠出版 平成17年7月
 私の見立て ★★★★☆ 画期的な論考  2014/05/29 補追 2025/01/13

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

◯始めに
 引き続き、同じ著者の論説を鑑賞しています。
 著者が、「邪馬台国東遷と神武東征」 に関する本書の論旨展開に先立って述べているのは、紀記に記された建国神話は、全てが真実というわけではないが、かといって、全くの虚構ではなく、「史実の核」をもとに形成された物語であるという前提であり、これには、同意したいと考えています。

*同意と異論
 その中で、本書の重点が置かれているのは、副題に書かれている「邪馬台国東遷と神武東征」の論証であり、遺物、遺跡の出土物の解析を通じて、その論証を支持、補強するという方針は貫かれています。

 本論筆者の素朴な疑問として、九州北部(北九州)に、長年にわたり威勢を振るったと思われ、強固な基盤を有していたはずの邪馬台国が、交易に不利な遠隔の奥地に大挙移動したと見える「邪馬台国東遷」と楽園追放の憂き目を見たとも解釈できる小身、無冠の若者が、放浪の果てに山間の安住の地を得たとも見える「神武東征」が、同じ史実の核から展開した説話とは思えないと言うことです。
 と言うものの、これは、何の裏付けもない素人の感想であって、正当な批判とは呼べないものであることは、言うまでもありません。

*古代国家の要件
 さて、本書の論旨展開で、著者は、古代において、原初の組織のない集落から国家への展開について、理性的な見解を吐露しています。

 その第一のポイントは、日本の古代国家に於いては、正式な暦法が施行されていたとする主張であり、至当な意見と思います。
 中国の正朔を報ずるという名目的なものは別として、暦が実用施行されてなければ、古代国家の組織的な運用は不可能であったと思われるからです。
 伝統的な太陰暦系の暦は、月の満ち欠けで日々の経過を確認でき、運用しやすいというものの、1年単位で運用するためには、大小の月を設け、更に、閏月を設けて、月の進行と年の進行を同期させる必要があり、中央の権威者が適宜これを制定して公布する必要があります
 と言うことは、古代国家の中央と地方は、共通した暦法を共有し、中央が暦法の正しい運用を行うことによって、権威を示すという仕組みが必要となるのです。
 水田稲作に於いては、日程を定めて共同作業することにより、広大な耕作地と言えども、適切な時期に田植え等の画期的な農作業を行う必要があり、暦法の管理者は、農業国家の統治者でもあるわけです。他にも、水源、水脈を管理して、集落間の水争いを裁く「水分」の権威も求められているのです。

 また、著者は、第二のポイントとして、古代国家の肝要な点は、「租税」の確実な施行にあるとしています。

 以下、例によって一介の私人の私見ですが、租税制度の定着により、始めて、各耕作者から、その収穫の半ばを取り立てるような運用が可能となったと言えます。半々なら、五公五民となりますが、そのような租税徴収を行っても、農民が生活し続けられるというのは、高度な行政運用と言えます。
 そのような制度の持続と発展には、各戸の生産力、つまり、耕作面積と従事者数を的確に把握し、担税力に応じて租税を賦課することが必須であり、それによって初めて安定した高度な収税が可能となるのです。
 実態を把握しないままに租税を賦課すると、一部の耕作者に担税力を越えた税負担が発生し、飢餓状態に落としたり、租税の不満によって逃亡されたりして、社会不安が発生し、民政が混乱するわけです。
 言わば、統計的に妥当な租税賦課が、最大限の税収入を安定して維持できる前提になります。

 言うまでもないことですが、そのような統計学的に妥当な租税賦課は、戸籍制度の整備と土地管理制度の整備が必須であり、その前提として、関連する台帳を制定管理できる官僚組織と文書行政が必須となります。もちろん、官吏には、計算能力が最低要件となります。吏人は、一桁計算の積み重ねでこなせたとしても、官人には、多桁計算か必須と思われます。
 按ずるに、秦始皇帝が、統一した天下全土に、整備された法律体系「秦律」を手にした官人を派遣して、統一した法と秩序を敷いた時点から、「古代国家」が胎動したように見えます。
 その前提として、中国では、遅くとも漢代には、官人の必須教養として「九章算術」なる演習問題集が集成されていて、赫赫たる成績を物した「数字に強い」人材が求められていたのです。四書五経の暗唱だけが教養ではなかったのです。

*文書管理行政ということ
 してみると、古代国家は、官僚組織による文書管理行政が前提となるように思われます。
 言うならば、こうした行政は、理屈は正しくても、余りにもハイコスト、ハイリターンであり、広い地域で実現されるまでには、多大な年月が必要であったものと思われます。

 何しろ、全土に文書使が騎馬疾駆し、荷馬車が駆け巡る街道網が整備された秦帝国とは異なり、未開の東夷世界では、通信、輸送手段が未発達な古代に於いて、そのような高度な管理が広域に対して実施可能な古代国家は、維持することが不可能であったものと思われます。

 以上のような考察を支持している著者の洞察は、まさしく、現代人の叡智で古代を照らすものであり、敬服すべきものと考えます。

以上

私の本棚 17 安本 美典 「邪馬台国と高天の原伝承」 更新再掲

 勉誠出版 平成16年3月
 私の見立て★★★★☆     2014/05/30 補追 2025/01/13

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

◯始めに
 前稿に続き、同じ著者の論説を鑑賞しています。
 そして、著者は、引き続き持論の補強を進めています。

*古代街道の沿革
 本論筆者として注目したのは、「邪馬台国」の時代の遙か後世である延喜式(927年完成と伝えられる)の記事に従うと、北九州には、古くから官道が整備されていて、それに付け加える形で、新たな官道(古代街道)を定めたとされていることです。(187ページ)
 官道は、各地の要地を、極力労力を節約しつつ、最短距離で道路造成して連結するところから、時代を経て、さほど経路が変動するものではなく、元々、何らかの道路網が形成されていたとみるのが妥当な推定と思われます。
 また、官道と言うからには、所定の間隔で、駅家が設置されていたものであり、食料水分の補給、宿舎の提供と併せて、替え馬の用意もされていたものと思われます。
 替え馬は、いつでも官命の旅行者の要請に応えられるよう待機状態であり、従って、農耕、荷役などに転用はできず、かつ、十分な飼い葉を与え、足慣らしを欠かさないよう散歩させるなど、多大な手間を食うものであり、地元社会に対して多大な負担となるものですから、余程国力が充実しないと整備できないものです。
 このような官道と駅家の整備により、各地の拠点間で迅速な文書通信が可能とし、有事の際は、遠征軍の行軍を可能とし、まずは、北九州を包括する古代国家の運営が可能となったものでしょう。

 それが、いつ頃かは、明示されていないのですが、「周旋五千余里」と形容される倭国の道路網はすでにその概容が形成されていたが、「倭人伝」の牛馬無しと書かれているように、馬匹の公的活用が存在しなかった三世紀「倭國」では、乗馬による往来は、不十分であったように思われます。(訂正 2025/01/13 「周旋五千余里」倭國道路網の盛大な様の形容と解釈したのは、早計であったので、取りあえず撤回します)
 乗馬による人員の往来も、駄馬荷車による荷物の往来も近距離に限られるなら、道路面を整然とする必要もなく、早い段階から、北九州には、そのような道路網ができていたようにも思えます。
 余談ですが、当時の馬は、蹄鉄で蹄を保護されていたのでしょうか。保護されていたら、蹄鉄が出土するでしょうが。馬に靴を履かせるために鉄を消費していたのかとも思いますし、保護していなかったら、とても、乗馬や荷駄に耐えられなかったでしょう。(補追 2025/01/13 古来、近世に到るまで、馬草鞋で蹄鉄に変えることが広く行われていたことを聞きもらしていたので、ここに追記します。但し、本格的な交通、行軍には、蹄鉄が不可欠であることは言うまでもありません)

*古代街道の前提
 私論では、広域にわたって整然とした道路網ができるのは、邪馬台国時代を大きく通り過ぎ、鉄鋼製農具で道路を造成し整地する工法が普及した遙か後世のことではないかと考えています。
 また、そのような道路工事の労役に大量の人数を投入しても、農業生産に障害をもたらさないためには、合理的な租税賦課と徴兵策に近い人材管理が必要となります。
 もっとも、それ以前に、大規模な墳墓を造成しているので、農民を長期にわたって大量動員しても、国防に支障を来さず、また、食料生産が破綻しない管理方法は、確立していたものと思われますから、その時代になっていれば、道路造成は、さほどの難行ではなかったのでしょう。

 いずれにしろ、総合的な社会構造の発展が、古代国家をもたらし、さらなる発展が、遠距離の移動と通信を可能とし、ついには、北九州から近畿にいたる遠大な古代国家を達成したものではないでしようか。

 ちなみに、73ページでは、著者が、藤井滋氏の「『魏志倭人伝』の科学」(「東アジアの古代文化」1983年春号所載)から引用しているのですが、なぜか「昔、日本の陸軍は、平時において、重い背嚢をせおいながら、一日20キロの行軍を行った」 として、これを基準に一か月で六〇〇㌔㍍(現代中国語で六〇〇公里)行軍したとの計算を提示しているとしています。
 しかし、これは、徴兵されて以来、日々、行軍訓練を行い、強化された筋力と心肺機能、充実した食事で、一人前の軍人が養成されたのであり、そのような職業軍人の体力で一般人の旅程を想定するのは、無理というものです。
 訓練を受けた軍人なら、悪路も野営もものともせず、重い背嚢の食糧自給で、長期間一定速度で行軍できるでしょうが、普通は、悪路に挫け、野営に閉口し、食糧不足に難渋するものです。
 いや、軍人といえども、体調不良などによる落伍を防ぎ、目的地到着時には、待ち受ける敵と対等に戦闘できるだけの体力を温存するため、適宜減速するはずであり、連日強行軍するものではないはずです。

*「倭人伝」道里行程論再考のお願い~2025/01/13
 直接関係しない歩兵行軍の論議はそれぐらいにしましょう。
 「倭人伝」に書かれている道里と所用日数は、漢代から引き継いだ魏の官制で、騎馬文書使が、並足で移動して達成できる里程に多少の余裕を見せた必達日数なので、職業軍人の課題とは直接関連しないのです。特に、街道未整備で、乗馬移動の出来ない、宿駅が完備していたとは限らない三世紀の倭人世界では、後世の街道移動規定とは、これまた関連しないのです。
 正史蛮夷伝である「倭人伝」に書かれた郡から倭への所用日数は、実務に於いて、遅滞あれば厳罰を伴うので、緩やかに規定されたものと見えるのです。是非、古代史界の諸兄姉には、机上の空論を終止して、実態の考察に変えてもらいたいものです。

 この部分は、著者の議論の本筋を補強する必須の資料ではないので、多少チェックが甘くなったのでしょう。
 著者が要所要所で示す合理的な着眼点に始まる切り込みは、机上の空論が散見される古代史学界諸賢の中で、光輝と異彩を放つものと思われます。
 さて、ここまで三回の個人的書評は、本論筆者の私見を引き立たせるダシとして、著者の著作を勝手にいじくり回した感もあり、虎の尾を踏みつけたのではないかと懸念しています。

 筆者頓首。恐懼恐懼。 死罪死罪。

以上 

2025年1月 7日 (火)

私の本棚 年表日本歴史 1 筑摩書房 1/7

1 原始▶飛鳥・奈良 ( ー783)1980年5月刊 編集 井上光貞 児玉幸多 林屋辰三郎 編集執筆 黛弘道
私の見立て 全体★★★☆☆ 本冊 ★☆☆☆☆ 「歴史的」誤記事 2017/01/16 補追 2024/07/16, 2025/01/06

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*史料渉猟の弁
 当ブログ筆者の守備範囲は、素人の手すさびということで、「魏志倭人伝」及び周辺の文献解釈に専攻している。
 ただし、今日言うところの「西日本」の「当時の」状勢について、圏外と逃げずに、諸兄姉の論考を拝読して鋭意勉強しているため、当書籍「年表」も史料批判に必要と感じて購入した参考書の一冊である。参考書は、ほぼ古書店で購入しているので、割安で購入費を節約できているが、内容は正味そのまま読む必要があって節約できないので、ここまで大変勉強になっているのである。
 そのような参考書籍の中で、本書は、原始から古代を対象とした年表であり、内容豊富、かつ、味わい深いものであった。

 古代に関して先賢諸兄姉の教えでは、中国側資料は、充実した記述に満たされた文献であり、抜粋要約によって年次の入った年表が書けるのと異なり、国内側史料は、確定した文献が存在しないため、考古学の視点で遺跡や遺物の年代比定と考証を体系化しているものの、絶対年代の不確かさを抱えていて、年次の確定した年表が書けない難点があると見た。

 そのような限界はあるものの、時代が特定できない日本側の表と年次の書かれている中国側の「年表」を並行して収録して、互いの年次を連携させないながら、時代感を揃えるという手法により、古代史学の最先端の努力として時代表をまとめ上げた労苦には、大いに感嘆するものであり、書籍全体の書評としては、大変肯定的なものである。

*不遜の弁
 さて、当著作は、上に名をあげた諸賢の労作なので、本来、遙か後生の無学な門外漢(素人)がとやかく言い立てることは、蟻が富士山と背比べするように不遜の極みなのだが、自身である程度史料批判に努めてきた「倭人伝」に関係する記事で、どうにも納得できないものがあったので、これを無視することは大変失礼なものと考え、ここに謹んで率直に指摘するものである。

未完

私の本棚 年表日本歴史 1 筑摩書房 2/7

1 原始▶飛鳥・奈良 ( ー783)1980年5月刊 編集 井上光貞 児玉幸多 林屋辰三郎 編集執筆 黛弘道
私の見立て 全体★★★☆☆ 本冊 ★☆☆☆☆ 「歴史的」誤記事 2017/01/16 補追 2024/07/16, 2025/01/06

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

[承前]
*難点
 中国魏朝景初年間の倭国使節派遣記事が、「倭人伝」記事の誤解/改竄に基づく誤記となっている。
 以下、解きほぐして私見を述べる。

*景初三年の怪
 「年表」の景初三年の部分は無残である。
 依拠している「倭人伝」は景初二年六月の記事としているが、「年表」は、何の根拠があってのことか一年後の景初三年と安易に読み替えているために無理が生じているのである。しかも、ここでは、読み替えたことも示されていない。「年表」は、景初三年六月に倭国使節が帯方郡に着いて「魏の明帝に朝献したいと求めた」と書いているが、何とも軽率である。
 実際の歴史では、先帝の逝去の後、新帝曹芳が即位早々に暦制を改訂したために、暦制が不連続になり、後世の読者は混乱してしまうのだが、明帝逝去の時点では、景初三年一月一日逝去とされている。

 いくら中国の状勢に疎い東夷でも、公孫氏統治下以来、帯方郡と文書交信している以上、景初三年六月時点では、魏朝皇帝が半年前に亡くなって代替わりし、先帝は明帝と諡されたことは知っているのである。
 「明帝」というからには、逝去したのを知っているのであるが、それなら、亡き人に会いたいというはずがないのである。軽率な表現といわざるを得ない所以である。

未完

私の本棚 年表日本歴史 1 筑摩書房 3/7

1 原始▶飛鳥・奈良 ( ー783)1980年5月刊 編集 井上光貞 児玉幸多 林屋辰三郎 編集執筆 黛弘道
私の見立て 全体★★★☆☆ 本冊 ★☆☆☆☆ 「歴史的」誤記事 2017/01/16 補追 2024/07/16, 2025/01/06

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*余談1 景初の暦制混乱
 中国の歴代王朝で受け継がれた伝統として、先帝逝去時、新帝は即刻即位するが、新元号は、先帝の没年の明ける新年から適用される。
 従って、景初三年は、本来、元号の主である皇帝のいない一年のはずだったが、新帝は、年の半ばで暦制を変え、変則的な運用としたのである。
 合わせて、先帝のなくなった命日を景初二年十二月一日(正規の十二月に続く本来の新年正月を景初二年「後十二月」とした)とし、すでに、景初三年二月とされていた月が、遡って景初三年一月とされた。
 既に六月になっての遡及であり、各種記録の修正など、政府機関の業務に大変な影響があったろうし、民間にも、迷惑が及んだものと思われる。
 また南方の東呉、つまり、孫権政権は、独立を謳い独自元号を定めても、魏朝の暦を流用していたから、年の途中での改暦にうまく追随できなかったのではないかと思われる。呉書は、呉暦に基づいて書かれているのだが、魏の元号と一年ずれている記事がある。

 それはさておき、先帝が景初二年十二月に亡くなったとした以上、景初三年の新年で改元すべき所だが、既に六月(いや、実際は五月か)であったから、年初に遡って改元もできず、翌年改元としたようである。
 このように、景初三年は、年半ばでの改暦により一カ月ずれて、何とも、誤解を多発する事態になったのである。こうした魏朝改暦の顛末は、当ブログ筆者の誤解の可能性があるので、ご注意いただきたい。
 以上、今回の書評の本旨を少し外れた余談である。

*東夷諸国通信事情
 さて、魏首都雒陽から帯方郡、そして東夷諸国への通信状態を確認しておく。魏朝は、創業者曹操の指示で、伝令が早馬で通常の通信の何倍かの速度で報告、通達を伝達する急報制度が全国に設けられていたので、「国内」である帯方郡との通信は、迅速、かつ、確実であったと思われる。
 「倭人伝」によれば、倭人は、帯方郡と文書通信を維持していたようであり、景初遣使に際しても、帯方郡からの督促、倭国からの遣使予告などが伝わっていたはずである。

未完

私の本棚 年表日本歴史 1 筑摩書房 4/7

1 原始▶飛鳥・奈良 ( ー783)1980年5月刊 編集 井上光貞 児玉幸多 林屋辰三郎 編集執筆 黛弘道
私の見立て 全体★★★☆☆ 本冊 ★☆☆☆☆ 「歴史的」誤記事 2017/01/16 補追 2024/07/16, 2025/01/06

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*余談2 山河疾走
 末羅国に上陸すると、そこは、帝国制度の及ばない東夷の「倭地」であるから、急報制度どころか、文書通信が確立されていたかどうかわからない倭国中枢への伝達である。九州北部(つくし)なら、道路が整備未完了としても、行程が短いので、仮に徒歩連絡となったとしても、一か月はかからないと思われる。
 奈良中和(やまと)となると、つくしに比べて五百㌔㍍(現代単位で、五百公里)余りの遠隔地であり、徒歩、ないしは、手こぎ船移動となるから、一ヵ月では到底収まらないのは明らかである。三世紀時点で、これだけの距離の旅程の整備ができていたとは思えないから、半年かかっても不思議はないが、仮に四ヵ月程度と見ることにする。

 倭国中枢で、帯方郡の指示に従うとしても、対応方針の決定、派遣使節の人選、持参貢物の決定と調達、使節派遣まで、二か月程度かかると見るのである。今日聞いて明日渡航とは行くまい。

 荷の重い使節団は、身軽な急報文書使よりは、随分遅いはずであるが、つくしから帯方郡まで二か月程度、やまとから帯方郡まで四か月程度と見ておく。

 よって、帯方郡が急報してから、倭国使節帯方郡到着までの所要期間は、次のような感じと見られる。これはあくまで、「程度」にとどまる概算比較である。
 つくし 五-六ヵ月程度、やまと 九-十ヵ月程度。
 四ヵ月程度の差は、往復一千㌔㍍(千公里)程度の旅程差からくるものである。

 ここで、帯方郡の急報発信は、魏による帯方郡平定が基点となるが、その時期については、「A 遼東平定に先立つ景初二年初頭」と「B 遼東平定後の景初二年秋」の両論があり、それぞれ慎重に評価する必要がある。

 Aの見方で、倭国使節が景初二年六月帯方郡に到着するには、つくしなら何とか間に合うが、やまとは到底無理(景初二年十月頃の到着)となる。
 景初三年六月帯方郡到着であれば、いずれも可能である。
 Bの見方で、倭国使節が景初二年六月帯方郡到着するのは、いずれも不可能であるのは、いうまでもない。
 景初三年六月帯方郡到着であれば、つくしは、問題なく可能であるし、やまとは、確実ではないが、到着できる可能性はある。

 やまとは、つくしと比較して、往復で往復一千㌔㍍(千公里)の距離が追加されるため、ここを「倭人伝」に書かれた倭国の中枢と見るには、倭国使節の帯方郡到着は景初三年六月でなければならないのである。
 そして、景初二年遣使の議論を封じるには、景初二年秋の帯方郡平定にこだわらざるを得ないのである。

 このように、ここでは、いわゆる「通説」とされている「やまと説」論者が、自説に合うように「倭人伝」を読み替えて「定説」らしきものを、強引に形成した至芸が露呈しているように見られる。

 以上、今回の書評の本旨を少し外れた余談である。

未完

2025年1月 6日 (月)

私の本棚 年表日本歴史 1 筑摩書房 5/7

1 原始▶飛鳥・奈良 ( ー783)1980年5月刊 編集 井上光貞 児玉幸多 林屋辰三郎 編集執筆 黛弘道
私の見立て 全体★★★☆☆ 本冊 ★☆☆☆☆ 「歴史的」誤記事 2017/01/16 補追 2024/07/16, 2025/01/06

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*余談3 遅れて至るものは斬る
 いうまでもないが、帯方郡が魏朝直轄になったことや遼東が魏朝の遠征軍によって滅ぼされるということは、それ以前に、都度、各東夷に急報されている合わせて、中国に対する忠誠の証しとして、速やかに遣使せよ、ついでに「遅れて至るものは斬る」とまでは言わないとしても、厳命したはずである。
 率直なところ、厳命を受けて、倭国は震え上がって、取るものも取りあえず使節を急行させたはずである。渡海して攻めて来ないとしても、朝鮮半島と交易禁止となると、対海国と一支国が飢餓に陥るなど、被害甚大なので、遅参は考えにくい。いや、その話は、今回の書評の本旨ではない。
 と言うことで、未開僻遠の東夷倭国は、皇帝逝去を早々に知ると共に、新帝の帝位継承、服喪に伴い、翌年一月一日をもって、新たな元号が開始することも予定されていたのである。

*場違い、それとも遅参
 一説のように、明帝逝去の六ヵ月後に倭国使節が朝献を求めたとしたら、遅参のわびと共に新帝への祝賀の使節と思われるが、記事には、一切書かれていない。
 史書の外伝記事はそんなものなのだが、そのおかげで絶海の東夷が、「公孫氏滅亡の噂を聞きつけてやってきた」とか、『東夷の首長が場違いな国際感覚で風評(風の便り)を手がかりに、「奇貨おくべし」(奇貨可居)とばかり、使節派遣を決断した』とか、根拠もなにもない脚色、潤色が一部でもて囃されている。そこで、そのような(業界で常用されているらしい馬頭/罵倒表現に従うと)「百害あって一利無し」の風評を排除しようという抱負のもと、一介の素人が、何の報酬(一利)も期待できないのを承知の上で、ここに一解釈を連ねているのである。
 さて、帯方郡にすれば、あえて、司馬懿の遼東征伐に大いに先んじて、楽浪帯方両郡を先行回収し、「倭人」の即刻参上を命じた先帝明帝の厳命に従った遠来遣使は郡太守の絶大な功績であり、太守の栄達に繋がるので結構なのだが、だからと言って、新来の東夷を国賓待遇として良いものかどうか。いや、後年、蛮夷の使節を「賓客」と呼ぶ例もあるのだが、本気でないのは明らかである。

 一説に従うと、この年、新帝祝賀に先立ち新帝の服喪と先帝大葬があるので、時期を外すと礼を失する危険があるのだが、郡太守は、むしろ無造作に倭国使節を帝都に送り込んでいるように見える。
 まあ、関係者の思惑は憶測するしかない。
 以上、今回の書評の本旨を少し外れた余談である。

未完

私の本棚 年表日本歴史 1 筑摩書房 6/7

1 原始▶飛鳥・奈良 ( ー783)1980年5月刊 編集 井上光貞 児玉幸多 林屋辰三郎 編集執筆 黛弘道
私の見立て 全体★★★☆☆ 本冊 ★☆☆☆☆ 「歴史的」誤記事 2017/01/16 補追 2024/07/16, 2025/01/06

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*余談4 洛陽への長い道
 ちなみに、帯方郡使が、東夷である倭国の使節に付き添うのは、経路の各地の関所での通行許可証(過所)提示の役目もあり、また、それら関所での関税課税を防ぐためでもある。また、遼東征戦で、地域の治安が乱れている中、遼東の落ち武者などの盗賊からの保護も必要であったろうと思われる。細かいことだが、経路の宿舎に先触れして、国賓である倭国使節への饗応を含めた「もてなし」饗応の役目もあったと思われる。単なる道案内ではないのである。まして、今回の蕃夷参上は、皇帝勅命に基づくものであるから、一切手違いは許されないのである。
 また、先触れとして、帯方郡管轄機関に倭国使節の受け入れを求める急報も発せられていたはずである。従って、その年の八月には、使節の処遇、帰国時の礼物の構成決定、実物の手配などが、定型業務とは言え、帝国の組織的な動きで着々と進んでいはずである。

*従郡至倭
 補充するなら、景初年間の時点で、郡から倭に至る行程と所要日数は、確認されていたはずである。でないと、明帝はともかく、実務担当者は、礼物輸送の所要人数、所要日数、経費を確認し通過する宿舎への先触れを行わないと、皇帝に対して見通しを確約できないのである。
 つまり、郡から倭まで万二千里という道里は、後漢献帝期の帝国混乱の際に、遼東郡太守公孫氏が、勝手に決め込んでいた形式的なものであり、実際は、狗邪韓国まで街道を進んだ後、渡船で倭まで渡る便船があると知れていて、倭に着いた後の概略日数も知れていて、要するに、郡から倭まで何日の行程になるのか知れていたことがわかる。これは、後年、「魏志倭人伝」に書かれたが、実は、景初二年六月時点で、判明していたことなのである。
 当然、後年、倭人記事を編纂した陳寿は、帯方郡郡志、ないしは、明帝の実務日誌(実録)等の公文書から知ったのであり、どんな経緯で決まったにしろ、司馬懿の思惑など知ったことではなかったのである。もちのろん、司馬懿始め、時点の当事者は、倭人道里がどうであろうと、まるで関心が無かったのである。
 後は、雒陽から帯方郡に至る実行程であるが、これは、山東半島東莱から渡船で渡る便船があり、何日の行程になるのか知れていたことがわかる。公式には、雒陽から楽浪郡までの公式道里が知られていたから、帯方郡までの公式道里は、これと同一としてもよいのだが、実務としては、雒陽からは、東莱渡海が定着していたのである。

 以上の事情は、当時の史官、さらには、鴻臚の関係者には、当然、自明であったが、当然、自明であったから、正史に書かれていないと云うだけである。この点は、今回の書評の本旨を少し外れた余談である。あまり、先賢諸兄姉の議論で見かけないので、書き残しておく。2024/07/16, 2025/01/06

*明帝起死回生
 これに続いて、「年表」は、景初三年十二月の記事として、「明帝大いに歓迎し」と書いている。これには、困惑する。死後一年、なんたる回生ぶりかと言いたくなる。この下りを、二千年後世の無教養な東夷の戯言と評しても、反撃はないものとみている。「倭人伝」が特記していないのは、景初二年の明帝の公務として書いているからだと思えるのである。
 一方、これを景初三年の新帝詔書とみると、先帝の遺徳を語るわけでもなく、新来の東夷を顕彰しているだけである。文意は歓迎であるが、亡き明帝が、大いに歓迎したかどうかは書かれていない。帝詔とは、こうしたものであり、皇帝自らが心情を書き綴るものでないのは言うまでもない。
 世間には、新帝である少帝曹芳が、こんなむつかしい帝詔を書けるはずがないと論じている方がいるが、帝詔は、天子自らが起草するとは限らないのは言うまでもない。何とももの知らずである。またもや、二千年後世の無教養な東夷の戯言と評されても、仕方ないのである、

*帝国の栄光
 魏書明帝紀は、景初二年十二月初旬に明帝が発病病臥したと言うが、「上不予」(上様ご不快)程度では、倭国使節受け入れを含め、膨大な官僚機構の動きはお構いなしであり、帝国の実務は止まらないのである。
 皇帝決裁文書は、極力代理決裁するものの、皇帝決裁が必要なものは、病室に持ち込んで重病の皇帝の手を支えてでも署名を取る。それが皇帝の重責である。
 従って、明帝発病の景初二年十二月初旬以前にこだわらず、十二月の月内に詔書と好物の目録が下付された可能性は高いと考える。
 いや、物証は皆無だが、状況は、そのように決まって見えるのである。

未完

私の本棚 年表日本歴史 1 筑摩書房 7/7

1 原始▶飛鳥・奈良 ( ー783)1980年5月刊 編集 井上光貞 児玉幸多 林屋辰三郎 編集執筆 黛弘道
私の見立て 全体★★★☆☆ 本冊 ★☆☆☆☆ 「歴史的」誤記事 2017/01/16 補追 2024/07/16, 2025/01/06

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*「倭人伝」読み替え解釈の不都合
 元々、「倭人伝」が、原資料を精査して編者陳寿の責任で景初二年と書いているものを、「年表」の編者は、勝手に景初三年と読み替える以上、陳寿同様に精査して、皇帝は新帝曹芳と正解すべきだが、自身の(不)見識に基づいているから、端的に言うと、誤解に基づく誤記事になってしまっている。

*誤伝の継承
 「年表」のこのような「創作」は、具体的な指摘は避けるが、後世の書籍に、重大な誤謬をもたらしている。
 一般読者だけでなく、古代史学者でも、国内考古学寄りの専門家で、中国文献に自信の無い向きは、この記事を受け売りして、解説記事を執筆することがあるようある。もちろん、上に名をあげた執筆陣は、当然のごとく、この内容に基づいて執筆するものである。
 今日に影響を及ぼした「歴史的」誤記事と言える。

*編集出版の不手際
 当記事を年表に書くときに「倭人伝」に「欠けている」細部を埋めるのは、それ自体悪くはないが、その際に、原資料を確認せず、自身の憶測に基づいて書き込むのは、どんなものだろうか。

 「倭人伝」は、魏朝公式記録を二千字程度で書き記しているから、当時周知、自明であった事項は書いていないから結果として「欠けている」と見ることもある。しかし二千年後生の無教養な東夷である現代の日本人が、知識不足で憶測すると、見当違いな誤解になるのは、避けられないものである。中国文献の解釈は、専門家の確認を仰ぐべきではなかったかと愚考する。
 古代史学界では、先賢諸兄姉の玉稿を校閲することを忌避するのだろうか。先賢諸兄姉 とて、時には、史料解釈を誤って勘違いするのは避けられないと思うのだが、その勘違いがそのまま世に出るようでは、学界全体が、世間の信用をなくすのではないかと憂慮される。
 そして、「年表」の編者も含めて、錚錚たる顔ぶれの古代史学界のお歴々が、誰もこの点を指摘しなかったと見えるのは、どういうことなのだろうか。ことは、軽率に「ヒューマンエラー」などと許容されるような誤字の類いでないだけに、事態は深刻なのである。

以上

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