私の本棚

主として古代史に関する書籍・雑誌記事・テレビ番組の個人的な読後感想です。

2023年11月20日 (月)

私の本棚 長野正孝 鉄が解いた古代史の謎- 消されていた古代倭国 1/6

  私の見立て☆☆☆☆☆               2017/02/23 2023/04/19 2023/11/20
「古代史15の新説」別冊宝島その3
鉄が解いた古代史の謎- 消されていた古代倭国
 長野正孝

◯はじめに
 この論者の著作は、アマゾンで内容抜粋を読んで、とてもついて行けないとさじを投げた経緯を発表している。著者が心をこめたはずの「抜粋」が「乱脈記述」で判読不可能であれば、後は、野となれ山となれ、ほっとけば良いはずなのだが、ついつい「ムック」に精選されたらしいということで、しぶしぶ読むことにした当記事も、ついて行けない「乱脈記述」でさじを投げた。いや、かれこれ三カ月ほどどうしたものかと悩んだのである。結局、他の「書評」と同様に、筋の通らない議論は、率直に指摘することにしたのである。

*果てしない暴論
 その一つは、古代史関係で珍しくもないのだが、時代錯誤の語彙起用である。現代人の素人語感で古代記事を書くものだから、文の意味が混乱するのである。論者の脳内は、どのような構成になっているのだろうか。到底、常人の知り得ない境地なのかも知れない。いや、そんなことは、個人の「プライベート」な「奥」の世界なので、当方の知るところではないのである。論者は当記事で、その内なる世界を外部に投影して、読者に伝えようとしているはずだが、一向に、外から見える「パブリック」な「表」(おもて)に出てくれないのである。

*背景事情
 一般的な理解として、「通説」によると中国の鉄器は、戦国時代後半頃に鋳鉄による鋳物で始まったという。これに対して、論者は、意味不明の独断で紀元前三世紀頃から、九州北部への「鉄」流入が始まったと説いているが、流入した「鉄鋳物」を加工したというのであれば、そこから、鍛冶屋が、「鉄器」をたたき出すことも始まったというのだろうか。言うまでないが、「鋳物製品を鍛冶屋が叩いて鍛造することなど(絶対に)できない」のである。それとも、鋳鉄を鋼鉄に吹き替える高温炉が、未開の地に造成できたというのだろうか。物は自分の「足」で遠路を越えて伝わるが、工業技術は、多数の担い手が移動しなければ、遠隔地に伝わらないのである。肝心の背景を読者に知らせずに、勝手な「ホラ話」を言い募る趣旨がよくわからない。

 それにしても、鉄に関する肝心な事項の説明がないのが不思議である。無造作に「鉄」というものの、『鋳鉄の鋳物と鋼の利器とでは、製造方法が違えば、得られる「鉄器」の用途がまるで違う』のだが、論者は何もかも一緒くたにして、読者の理解を妨げたがっているようである。

 そのような事項を放置して、二世紀頃、つまり、先の事象から四,五百年を経て、鉄器が大量に流入したと言うが、ここでもどんな「鉄」なのか語られていない。誠に、杜撰である。

 更に読者を混乱させるのは、「倭人や渡来人が鉄を運んだ時代は、『日本書紀』の時代とほぼ一致する」とのいい切りである。突然持ち込まれた『「日本書紀」の時代』がいつのことかわからないから、読者には、同感も批判もできないはずである。普通に考えれば、「日本書紀』の時代 は、「書紀」の編纂された時代のはずであるが、著者は、大事な時代指定をごまかしたままで(いわばズルして)突っ走るのである。
 自分なりの語彙を紡いで、ご自身の脳内に架空世界を描いて悦に入っているのだろうが、このような文書の形で公開するためには、現実世界の語彙につなぎ替えなければ、善良な一般読者に理解されないのである。言いっぱなし、書きっぱなしでは、著者の人格が疑われるのである。というか、所謂「ペテン師」として「確信」されるのである。誠に残念では無いか。

  独り相撲は、見えない神を負かすための芸であるが、論者は、どんな観衆にどんな芸を披露しているつもりなのか。

未完

私の本棚 長野正孝 鉄が解いた古代史の謎- 消されていた古代倭国 2/6

  私の見立て☆☆☆☆☆               2017/02/23 2023/04/19 2023/11/20
「古代史15の新説」別冊宝島その3
鉄が解いた古代史の謎- 消されていた古代倭国 長野正孝

*朝鮮半島鉄事情
 陳寿「三国志」「魏志」「東夷伝」が、朝鮮半島中南部の韓国領域での鉄産出を書いているのは、東南部の「辰韓」のあたりの部分である。例によって、陳寿「三国志」の記事は、簡にして要を得ているから、丁寧に読みほぐせば、たっぷり情報が取れるはずである。
 常識的に言えば、これは大々的な鉱山採掘ではなく、露頭に近い状態で鉄鉱石がとれたのであろう。それを、薪炭を使用して精錬し、銑鉄を取り出したと言うことだろう。あるいは、後年の中国山地の砂鉄採取、たたら製鉄の前身、つまり、砂鉄採取だったかも知れないが、その辺りは、当ブログ筆者の知識外である。

 國出鐵,韓、濊、倭皆從取之。諸巿買皆用鐵,如中國用錢,又以供給二郡。

 ここには、韓、濊、倭が、皆、鉄を手に入れていると書かれているが、「互いに争った」との記事は、全く存在しない。争っていたとすれば、それぞれの集団が派兵して鉱山支配を競うのだろうが、各集団には、大国、つまり、韓国、濊国、倭国というような広域国家が未形成で、あくまで「小国」であり、つまり、「韓」伝で列記されている「国家」の体をなしていなかったから、「国軍」、「国益」なとの概念はなく、また、そこまでして産鉄地の独占支配を計るほどの価値を見いだしていなかったとみられるから、「争ってはいなかった」のだろう。
 また、産鉄地は楽浪、帯方両郡の監督下にあったと思われる時代なのに、両郡が鉄鉱山を管理・支配していた気配はない。単に、「両郡に鉄材を送付していた」と書かれているだけである。管理する役所も、現地に監督者を置いていないのである。遠隔なので、銭代わりに貢納したのではないか。つまり、両郡も、鉄を特に重大視していなかったと思われるのである。
 念のため書き足すと、朝鮮半島中南部は、小白山地が、西岸近くを南下していて、東西の移動/物流が至難であり、しかも、小白山地は、大きく東に彎行しているから、半島東南部は、西部海岸地帯の「馬韓」領域と「地理的に」隔離されているので、南北の移動/物流が至難なのである。かくして、半島東南部の弁韓、弁辰領域は、「嶺東」と呼ばれる「荒地」だったのである。
 壮大な歴史図式を好む岡田英弘氏は、漢武帝が、朝鮮を駆逐した後に、嶺東に「真番郡」を置いたと仮定しているが、札付きの荒地で、税収のない地域に、高給(粟)をとる郡太守を抱え、郡兵を常備した「郡」がなり立つはずもない。岡田氏は、滞船を率いた漢人商船が乗り入れたと空想を物しているが、商材、つまり、買い付ける財貨がない地域に商人が乗りこんでも、手ぶらで引き揚げるしか無く、結局、「真番郡」は、霞の彼方に消えたのである。いや、いくら武帝が大胆でも、往き来の困難な「嶺東」が自立できるなどとは思っていなかったはずであるが、天子は、「銭勘定」などしないのであるから、真意のほどは、知るすべが無い。

 「現実」の嶺東は、手軽な渡海船で往来できる、対海国、一大国を通じ、末羅国を外港とした伊都国との「市糴」で、ひっそり潤っていたのであり、小白山地を「竹嶺」で越える官道の成立により、帯方郡への物資搬送が「細々と」成立していたのである。整備され、関所/宿舎が整った官道が成立すれば、小規模な民業による交易の鎖がつながり、後漢初期に、辛うじて交通ができていたあと、途切れていた「倭」の文書使が、楽浪郡に届いたのである。
 ということで、華麗な幻想が消滅した後、着実で、物堅い往き来が、公孫氏の遼東郡が成立するまで、続いていたと見るべきなのである。

 陳寿「三国志」「魏志東夷伝」に書かれているのは、濊、韓、倭には、中原で、全中国に通用していた「銅銭」が一向に通用していなかったので、それぞれ、「市」(いち)での通貨代わりに、「鉄」を通用させていたというに過ぎない。あるいは、郡に対する納税として、穀物、野菜、海産物を現物納入することは、物理的に困難/不可能な状態では、登録された戸数に応じた「鉄」を郡に納入していたかと見えるのである。

 但し、各勢力は、「戸数」に応じた税務を果たすどころで無く、ひたすら減免を願っていたことが、東夷伝/韓伝/倭人伝に明記されているから、両郡に納入した鉄材は、穏やかなものであったことも、明記されていると見えるのである。(念のため言うと、「明記」とは、当然自明の「示唆」も含まれるのである)

 倭人伝で言えば、対海国、一大国は、登録された「戸数」に比して、「方里」で示された総耕地面積は、相当に僅少であり、また「戸数」で想定される農地も、納税に値する「良田」が僅少であると特筆/念押しされているので、「倭人」からの税納は無いに等しいと明記されているのである。
 先立つ高句麗伝と韓伝では、それぞれ、異例の「方数千里」と書いていて、要するに、「国内」は山地勝ちであって、河川沿いにも耕地が取れない、即ち、纏まった農地が存在しないので、銭納しようが無い、と明記されていて、書かれている「方里」、つまり「平方里」を単位としての総耕地面積は僅少と明記され、管轄していた楽浪郡は、これを認めて、洛陽に上申しているのである。そして、承認されたから、それぞれ高句麗伝と韓伝に記載され、倭人伝の先触れをしているのである。誠に練達の史官の筆は、周到である。

 世上、倭人伝」の対海国、一大国記事は、それぞれ「方数百里」とことさらに耕作地僅少を謳っている趣旨を、あっけらかんと見過ごされているが、各国の担税能力僅少を宣言するものとして、大変丁寧に書かれていることを理解すべきである。何しろ、両国は、韓半島の直下にあるので、下手をすると、ほんの目と鼻の先だと解されて、過大な物納を課せられかねないのである。

 こうして、当記事を咀嚼してみると、論者の書いた記事は、原典史料の深意を理解したものではなく、取り付きやすい、つまり、「すらりと理解できていると思い込んでいる」「いくつかの単語」を取り出して、後は、出たとこ勝負で現実離れした自身の架空世界を「書斎の安楽椅子」で構築し、専らそれについて語っているようだ。
 歴史的な「現実」とご自身の脳内の仮想世界の「現実」の区別がつかないのは、感心しない。論者の見ている仮想世界は、論者にしか見えないので、善良な一般読者には、語られることばが何を指しているのか見えないのである。

未完

私の本棚 長野正孝 鉄が解いた古代史の謎- 消されていた古代倭国 3/6

  私の見立て☆☆☆☆☆               2017/02/23 2023/04/19 2023/11/20
「古代史15の新説」別冊宝島その3
鉄が解いた古代史の謎- 消されていた古代倭国 長野正孝

*鉄材商人幻想

 國出鐵,韓、濊、倭皆從取之。諸巿買皆用鐵,如中國用錢,又以供給二郡。

 再掲、再説すると、論者は「倭が鉄を買い付けた」というが、記事は、「鉄は通貨代わり」だと書いているのである。つまり、価値のある財貨を現地に持ち込んで売りつけ、対価として鉄を支払って貰うという交易である。鉄を「買う」のではない。
 またしても、浅薄極まりない自説に合うように史書記事を改竄するのは、不信感をあおるだけである。或いは、共通通貨の存在しない市場で、鉄塊/鉄鋌が「価格」の指標とされたかもしれない。中国では、「銅銭」が通用していたから、市場の「商品」には、「銅銭何枚」の「値札」を付けることができたのであるが、銅銭がなければ、鉄鋌で価格を示すしか無かったのである。それが、銅銭の代用という意味である。決して、鉄鋌を売買していたのでは無いのである。
 そして、それは、「市」(いち)の場で対面売買される際の価格指標/相場として、表明されたのであって、現物交換の指標として有用であって、決して、鉄鋌をもって支払いしたのでは無いのである。

 まして、大量の鉄鋌を、当時存在しない「日本」に運んだという記事は、何かの錯覚/妄想であろう。「日本」が登場したのは、さらに四,五百年を経た後である。重大な時代錯誤というしかないどこの何者に運んだと主張しているのか。まことに、「知らないほど強いことは無い」という感じである。

 {普通}に考えれば、「倭」が、「市』(いち)に持ち込んだものの対価の差分として、鉄を入手したら本拠地に持ち帰るのである。大量に差分が出たとしたら、持ち込んだものは、大変高く売れたというものであり、そのような「利」を生み出したものがあれば、それは、時を経ることなくして、巨大な商業帝国を築き上げたのに違いない。

 それがどの地域にあったかは、この際の議論には直接関係ないが、まずは、朝鮮半島南部の拠点に届けたろうし、ものの十日ほどで届けられる九州北部に持ち帰ったのだろう。長々と続く沿岸航海なのか、それとも山河を越えてか、とにかく6か月を要しかねない遠隔地である後年の大和の地まで直接、全量を運んだとは、到底、到底思えない。素人の後学のために、証拠を提示して欲しいものである。
 それが、物の道理というものである。

*古代交易の推定
 当ブログ記事の筆者の時代感では、当時の倭は、各地に点在する「国」が、それぞれ「小国」、つまり地域聚落をなして自律的に活動しているのである。
 ものの道理として、価値を認められた「もの」は、多くあるところから少ないところに、水が低きに流れるように移動していくものである。街道もなく、船便も無く、牛馬の便もない時代であるから、バケツリレーのようで月日がかかるが、当時、「通商国家」はないし「国境なき豪商」もいないのである。あくまでも、時代相応に人手でつなぐものである。
 後年の山城あたりで出土した鉄遺物は、土地の豪族が原産地から直接買い付けたのでなく、九州北部から、例えば、瀬戸内海北岸諸国/諸港を順次通じて到着したと見るものではないか。財貨は、豊かなものの手元に貯えられるのであって、それは、水が低きに流れるように自然の理であり、いくら権威付けしようとしても、自然法則に反して、低きから高きに流れることは「絶対」に無いのである。

 鉄が「国際通貨」であれば、交易対価として鉄を受け取るのであり、財貨物ではないから、途中の諸国で「鉄」に都度関税を上乗せされることがない。数十年に亘って、そのような交易を続ければ、自然に「金庫」に鉄が溜まる。使い道が特になかったから死蔵され、豪族の埋葬に際して、副葬物となったのではないか。
 
武器などに活用されていたら、とても、死蔵も埋蔵もしないのである。
 普通に考えれば、そういうことであるが
筆者は、時代錯誤の夢想に遮二無二こじつけて、無謀な放言を重ねているのである。大丈夫であろうか。

未完

私の本棚 長野正孝 鉄が解いた古代史の謎- 消されていた古代倭国 4/6

  私の見立て☆☆☆☆☆               2017/02/23 2023/04/19 2023/11/20
「古代史15の新説」別冊宝島その3
鉄が解いた古代史の謎- 消されていた古代倭国 長野正孝

*謎の鉄器文明
 論者は、「運んだ鉄は戦いの後で発生した武器などの鉄くず」と称しているが、ここまで出回っていた「見てきたようなほら」であろう。そんな詳しいことは書かれていない。文意が取れない悪文である。
 鉄鋼利器は、当時として大変な貴重品であるから、鉄鏃は、拾い集めて再利用するし、武器が欠けたら、鍛冶屋がたたき直すのである。全体を溶かして再成形など、厖大な労作で有るが、古来、街の鍛冶屋は、手軽に再生していたのである。
 因みに、青銅製品は、たたき直すことができないが、比較的容易に溶かして鋳直すことができたから、廃材集め/再生ができたかも知れないが、鉄鋼製品はそう簡単には行かないのが、考古学の常識である、はずである。氏も、こと考古学に関しては、初学者なのだから、もっと謙虚に「勉強」されたらどうかと、衷心から思うのである。
 いっぽう、鉄鋼製品は、鋳物にできないし、そもそも、山出しの鉄材から、大変な技術無しには、鋼製品が得られないのである。しに言わせると、本書は、「鋼」でなく「鉄」を論じているというのだろうが、そんな恥知らずなことは言うべくもないのである。

 氏は、行きがかりからか、そのようにして得た「鉄くず」を、何者かが九州北部で鋼鉄製品に鍛冶したと言うが、何か根拠はあるのだろうか。ページ上半分になにやら真っ黒い図が貼り付けてあるが、どこでどのように発掘されどのように確認された物なのか書いていないから、場所塞ぎで無意味である。

 続いて、「一つの大きな鉄器を三つに加工」とあるが、なんのことか、まるで理解できない。
 どの程度を大きいというのかわからないが、鉄鏃を基準としているのだろうか。それぞれの「鉄器」には、その「鉄器」に託された機能があったはずであり、たとえば、一つの「鉄斧」を三つの「鉄斧」に増やす加工ができるとは思えない
 あるいは、「細かく裁断」と言うが、鉄器を、まるでカッターナイフで紙を切るように裁断できる刃物があったとは思えない。よい子は、口汚くのたくるのでなく、口を慎むものではないか。

 加工して「付加価値」をつけるというが、当時、「付加価値」と言う概念はなかったから、時代錯誤と言うしかない。まして、「さらに商い」と言うが、当時どのような商業活動をしたのか示されていないので、意味不明である。それにしても、「価値」は、買い手が見立てて、値付けするのではないか。時代錯誤の諸々は、もともと信頼性の無い氏の論考の値を下げているのでは無いか。負の「付加価値」と言うしゃれなのだろうか。迂遠すぎてついて行けないのである。

 要は、現代の経済活動の用語を、それが、古代の鉄本位(?)経済に通用するかどうかお構いなしに、適当に書き殴っているのだが、それは、時代錯誤に過ぎず、意味を理解できない善良な読者は混乱する。氏や、身辺の飲み会仲間は、はやし立てるかもしれないが、世間一般に通用するには、ほど遠いと見える。

*時代錯誤の国際人説法
 とどめとして、次の小見出しには失笑する。「国境なき国際人」は、どんなつもりで書いたのだろうか。当時の東夷倭人では、中国古代史で言う「国」は形成されていなかった。東夷伝の便宜上、大国、小国取り混ぜて「国」と称しているのである。

 もちろん、現代感覚で言う「国境」は存在しないのである。国家がないから、「国籍」も「国際」もない。論者が、自家製の現代概念にとりつかれて、時代錯誤の泥沼にどっぷり浸かっているのが見えるが、いくら「泥パック」がお肌に良いと説かれても、お相伴するのは、ご勘弁いただきたい。

 最後のご奉仕で、もう少し批判を足す。

未完

私の本棚 長野正孝 鉄が解いた古代史の謎- 消されていた古代倭国 5/6

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「古代史15の新説」別冊宝島その3
鉄が解いた古代史の謎- 消されていた古代倭国 長野正孝

*鉄本位経済 再説
 國出鐵,韓、濊、倭皆從取之。諸巿買皆用鐵,如中國用錢,又以供給二郡。

 再掲、再説になるが、朝鮮半島東南部の産鉄地区に、韓、濊、倭の近傍三者が鉄を取りに来ていると言う。この地域は、帯方郡の管轄下であるから、秩序正しく統制されていて、三者も、武力で鉄鉱山を支配する気などないのである。高句麗、扶余は仲間に入っていないから、別に鉄の調達先があったのだろう。

 論者は、二世紀頃まで鉄は「高価」であったと言うが、対価として何を想定して「高価」というのだろうか。もちろん、鋳物製品となった鉄と鉄鋼利器になった鉄では、求められる「価値」は別である。それぞれ、買い手が求めるものであれば、「売った」「買った」のかけ声で「価値」が発生するのだが、必要が無いものであれば、鉄は、すぐ錆びて朽ちてしまう、たちの悪い「悪金」なのであり、「捨て値でしか売れない」のである。氏には、何のことか理解できないかも知れないが、そのような理屈は、太古以来、引き継がれている「基本的」な経済原理なのである。

 史書は、鉄は、東夷において中国の銅銭のようだという。銅銭同様と言うほど潤沢でないにしても、広く物の値段の基準になっていたことは明らかである。いわば「鉄本位経済」であり、関係各国に、銅銭のような通貨は無いから、しかたなく「国際通貨」なのである。

 「鉄鋌」は、溶鉄を樋のような受け皿に流し込んで、自然に冷却固化させたのだろう。鉄器作りどころか、延べ棒に成形する技術もないから、成り行きで送り出したのである。
 大抵は、個数を数えるのであるが、いくら文字の無い世界でも、一,二,三の勘定は、漢字の横線と照合するだけであるから、通用したのである。
 必要なときは天秤などで目方の比較はできるし、所詮、銭の位置付けであるから、三枚ごとに縛り上げた鉄挺の束の数で、硬貨代わりにしたのであろう。まとめて縛ったときに、抜けないように、両端を幅広く鋳出しているのは、賢い工夫である。
 受取り手は、扱いやすい鉄鋌で良いというのであるから、この形が当時として最善なのである。
 ということで、「各種族が、高価な対価を支払って鉄を買い付けた」とは論者の錯覚/妄想であろう。

脱落談
 このあたりで、当方は、論者の説く新説幻想について行けなくなった。古代に無造作に適用された現代概念が醸し出す脈絡のない時代錯誤連発で、反射的に突っ込みさせられて、徒労なのである。新説の導入部が、導入の役をなしていないのである。

 論者は、何冊かの著書を上申していて、支持者もいるのだろうが、読者諸氏は、よほど辛抱強いのか、論証部分を無視して結論だけを支持しているのか、よくわからない。 当方は、ただの読者であるが、これでは闇鍋でゴム靴をかじらされた感じである。書籍購入はご勘弁いただきたい。

 以下、話題豊富な記事の目立った話題について私見を述べておく。

未完

私の本棚 長野正孝 鉄が解いた古代史の謎- 消されていた古代倭国 6/6

  私の見立て☆☆☆☆☆               2017/02/23 2023/04/19 2023/11/20
「古代史15の新説」別冊宝島その3
鉄が解いた古代史の謎- 消されていた古代倭国 長野正孝

連鎖「物流」考
 九州北部から大阪湾岸までの東西五百キロメートル余りの「瀬戸内航路」を商船が一貫して往来するのは、遙か後年(何百年なのか、千年を越えるのか、皆目不得要領/いい加減)のことだ
というのは、法螺話ばかりが目だつ長野氏にしては、遥かに珍しく妥当な推論であろうが、それまで、瀬戸内の海上物流が一切不可能だったと断じるのは、遥かに誇大な言い過ぎであろう。

 当ブログ筆者は、一素人であるから、史料も何も見ないままに想定しているのだが、瀬戸内の各地に漁民がいたように、身軽な小舟が沿岸の主要集落を繋いで物資輸送していたはずであり、航行距離は、一人が半日程度で漕ぎ通せる程度の短かいものでも、数多くの小舟の日々の行き来を繋いでいくと、図らずも数百キロに及び、難関を越えた長距離物流になったのではないかと見ているのである。もちろん、荷を担いだ行商人もいたであろうと思われる。

 確かに、西の芸予諸島、東の備讃瀬戸の多島海は、時代を越えた難所であり、また、西端の関門海峡、東端の明石海峡/鳴門海峡の激流は、これに加えた時代を越えた難所であるから、これら全てを乗り切る一貫した船便は、港々での乗り継ぎがあったとしても、恐らく「書紀」に見られる法螺話を除けば、平安時代まで成立していなかったと推定しても無理は無いが、別に、難所は切れ目無く続いているわけではないので、長距離を太い鉄棒のようにつながなくとも、細く小さな鎖を連携すればよいのである。鎖が切れたら、小回りのきく小舟に積み替えて回り込むなり、陸路でつなげるなりすればよいのである。そのような、一見頼りない「連鎖する流れ」が、古代に於いては、滔々たる川の流れのような「物流」かも知れないと思うのである。
 長野氏の「想像力」は、どうにも短慮/狭量で、古代史考証のあてには、全くできないように見るのであるが、恐らく、それは、地道な見聞に欠けているせいだと思われるのである。氏は、厳しい指導者に恵まれなかったのだろう。

 現代の貨物船による輸送と違って、契約で着荷日程を指定されているわけでなく、はるか東方で物流の末端にいるものは、到着までに何年かかろうと知ったことではなく、舶来で、自説に応じて所望の品物が手に入ればそれでよいとみた「顧客」と思うのである。
 いや、そんなに矢継ぎ早に大量の物資を「纏向」に送りつけられても、そこには対価として提供できる物資が無い/乏しいのだから、むしろ、貿易途絶かと思われるほど少々の往き来で良かったのであろう。知る限り、「纏向」は「黄金郷」では、なかったように見えるのである。

*四国を「一路」貫く「ヤマ」の道 (孤説紹介)
 創世期において、伊予の二名の州として、つまり一国として認知されていた四国西北部が絶海の孤島であったとは思えない。

 後日思い直したのだが、九州中部から四国を貫く「中央構造線」経路は、海山越えて東西に連通していて、太古の限られた輸送形態でも、送り継ぎによる一貫輸送が可能だったと見えるのである。つまり、大分から東に渡海/水行して三崎半島に渡れば、以下、陸上だけで移動可能であり、ほどほどの難路であるが、さらに東に進めば、吉野川に沿って、鳴門海峡を越えた「小鳴門」に到着するので、海に難所続きの瀬戸内海経由に比べて、気長な送り継ぎが可能と見えるのである。以下、更に西に進むのも、さほど難事ではないはずである。
 船の利用に難があったにしても、現在の大分と三崎半島の間の渡海/水行は、要するに「渡し舟」であり、東の紀淡海峡も、淡路島南端に寄港すれば、「渡し舟」二回で済むのである。「渡し舟」は、吹きさらしでも良いし、食事の煮炊きも寝泊まりも無いから、甲板も船室もいらないのである。「渡し舟」なら、毎次漕ぎ手が入れ替わっても良いので、人並みの体力があれば、都度、入れ替わって漕ぎ手を務められるのである。

 以上は、支持者の無い「孤説」であるが、時代相応のハイウェー(公路)と見ているのである。これは、あくまで、三世期にも到らないかも知れない古代/大過去の話である。当方が勝手に言っているのは、「卑弥呼のふるさと~斜め馬のくにの一筋の道」である。

*重い使命 (Mission of Gravity)
 論者は、鉄の比重(Specific Gravity)が輸送の妨げになっていたように言うが、鉄が、玉石や貴金属なみに尊重されていたのであれば、人が担げる程度の量でも十分な財産価値があると言うことであり、大量輸送の必要などない。鉄が貴金属でないのと同様に、銅は貴金属ではないが、比重8.9で、鉄に比べて一段と「重い」し、金、銀は更に「重い」が、だからといって、比重で輸送経路/輸送手段が決まったわけではないのではないか。過去も現在も、輸送手段の選択肢は、現場を見ない「空論」の徒を除けば、ごく限られているように見えるのである。あるいは、「渡し舟」のように、それしかない手段がない可能性もあるのである。

 輸送する際に問題となるのは、荷物の質量(重さ Gravity)であり比重ではないと思う。長野氏の一途な提言を真に受けるとして、当時、荷物を船で運ぶかどうか決める際に、荷物の中身/構成物の比重をどうやって知ったのだろうか。現代の貨物輸送のように、その都度、貨物の外寸容積(才)と重量を計測して比重を計算して運賃を決めていたのだろうか。

 按ずるに、この部分の新説は、何かの錯誤/妄想であろう。そのように言われたくないなら、ご自分で再読して、ご自分で推敲すべきである。いや、氏の提言の信頼性を問われているのは、ここだけではない。あちこちと言うより、辺り一面(here, there, and everywhere)である。

*結語
 と言うことで、当ブログ筆者は、ここに掲載されている記事を最後まで追いかけることはできなかった。従って、論者の主張全体を云々することはできない。
 ウィンストン・チャーチルの言いぐさをもじって言うなら、ゆで卵の良し悪しを判断するのに、自分で卵を産む経験は必要ないし、ゆで卵を全部食べなければならないわけではない、となる。いや、これは冗談半分/本気半分である。

 論説を最後まで読んで欲しかったら、最初の一行から、丁寧に文章を推敲・吟味して、つまらない錯誤を交えないことである。

 獲れた魚をそのまま賓客に供するのでなく、ウロコを取り、はらわたも抜き、小骨まで取り除いておくのが、良き庖丁のたしなみではないか。氏は、「論客」でなく「説客」を志しているようだから、なおさら、たしなみを心がけて欲しいものである。

以上

私の本棚 野田正治 「古墳と仏教寺院の位置が示す真実」 1/2

  私の見立て☆☆☆☆☆ 論外のジャンク         2016/11/28 2023/04/19 2023/11/20
  別冊宝島「古代史15の新説」  古墳と仏教寺院の位置が示す真実 野田正治

◯はじめに
 当ブログ筆者は、毎日新聞が夕刊紙上で月一連載している「歴史の鍵穴」コラムの多くの記事に「地図妄想」との批判を浴びせて、その趣旨の論証を計っている。
 つまり、『現代の地図上で、古代史に名の上がっている地点が厳密な直線上などに配置されているのは、古代においてそのような厳密な位置関係を企図して設置したからである』とする「非科学的/不合理で根拠のない憶測」を、筋の通らないデータとともに押しつけるのは、コラム筆者の根拠のない妄想であり、全く科学的ではないと丁寧に批判しているが、ここにも、同様の妄想にとらわれている論者がいるのには、憮然とするのである。ということで、趣旨は重複しているが、別のメディアの別の論者の批判である。
 筆者は、どうも、建築学における泰斗であり、斯界の専門家として、絶大な権威を持っているのだろうが、考古学に関しては、まるっきりの門外漢/素人と見える。そのような素人の不出来な考察を、なぜ、このような考古学論の場に持ち出すのか、不可解そのものである。「別冊宝島」の編集部は、論文の掲載にあたって、論文審査をしないのだろうか。困ったものである。「ムック」は、闇鍋の泥仕合、「泥レス」だと評する向きが有るが、このような無資格論文が陳列されているところを見ると、せめて、ちゃんと味見しろと言いたいところである。
 これでは、「ムック」全体が、ゴミだと受け取られてしまうのである。

*安直な妄想
 何しろ、現代の地図上で「直線配置状に見える」と言う主張は、まことに安直にできてしまうのだが、古代の建設時にそのような配置を行ったと確信するには、単なる結果論とならないように学説としての多大な検証行為が必要なのである。いや、当時、現代風の衛星地図が存在しなかったのは明らかであるから、実行も郍にも不可能であり、むしろ、動的に『妄想』と断定でき、さっさとゴミ箱入りとするのだが、いったん、断罪を保留する。

 当記事では、浅はかな「結果論」症状の現れとして、各地点の地理データの過度な精度が示されている。
 地上の特定の施設や建物の位置は、現代の技術をもってしても、ある程度の不確かさ(誤差)を避けられない数値であるが、論者は、そうした誤差含みの数値を、緯度・経度については、小数点以下五桁、つまり、角度で言えば、十万分の一(0.001%)のデータ精度を誇ってみせるのである。
 そして、計算結果である方位角では、一万分の一(0.01%級)の精度を誇示している。現実世界の測量では、千分の一(0.1%)の精度すら達成困難(事実上不可能の意味)と考える。

 10cm(100mm)の「定規」/「物差」でも、0.1mm単位の読み取りはまず無理である(絶対不可能の意味である)。最低、ノギスやマイクロメーターのお世話にならないとだめである。ノギスやマイクロメーターを使用するにしても、温度管理された恒温/測定室のような高度な測定環境や精度を保証する定期校正が必要である。もちろん、試料は、測定に先だって長時間恒温に保持され、それこそ、試料の深奥に到るまで温度が一定していていないと、測定が、全く無意味である。野田氏は、全くの素人なのか、一桁を単に数字一つのように思っているのだろうが、一桁の精度向上には、莫大な労力とそれをささえる技術が伴うのである。専門家には、常識である。

 以上のような議論は、高校生レベルの常識であるので、よく言う「文科系」が数字に弱いなどと言ういいわけに無関係な半人前の論義である。なぜ、誰も止めないのか、不審である。ということで、ここに書かれた計算結果は、元データもろとも、実測不可能であり、明らかに架空、つまり、虚偽である。
 研究偽造で、即刻更迭されてしかるべきだと思うのである。

 後に論者自身が渋々認めているように、建造物のどの場所を位置測定するかによって、緯度、経度に若干の変化があり、ここに表として示された数字は、それに伴って大きく(0.1%程度を言うなら)変わるのである。そう考えると、ここにあげられた数字は何なのだろうか。論者のもくろみに合うように選定されているのではないかと懸念される。数字だけ提示されていれば、無批判に信じるというのは、批判精神の放棄であり、誠に残念である。

 世上溢れている「ペテン」が、このように易々と公表されているのは、どうしようもなく不合理である。気の毒なことに、当記事の筆者は、不朽の悪名を掲げているのである。

以上

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私の本棚 野田正治 「古墳と仏教寺院の位置が示す真実」 2/2

  私の見立て☆☆☆☆☆ 論外のジャンク         2016/11/28 2023/04/19 2023/11/20
  別冊宝島「古代史15の新説」  古墳と仏教寺院の位置が示す真実 野田正治

 末尾の「補記」をみても、疑惑は解けない。
 論者は、飛鳥時代に高度な測量技術があった、天皇(クラスの権力者)が、(手ずから?)測量した、と楽天的に推定しているものの、いくら当時の測量技術後進国の視点では高度てあっても、以上に述べたような現代技術、当時からしたら想像するできない超絶的な技術はなかったのは論義の余地無く、明らかである。妄想もほどほどにすべきである。

 いや、論者は明示しないが、たとえば、御破裂山の位置データは、国土地理院の提供したによるものと思われる。いずれかの時点で、数多くの三角測量によって、国内の基準点との相互位置関係が確定し、後に、衛星測量などによって校正されたものと思う。ほかには、まっとうな実測測量データはないはずである。なぜ、データ出所を明記しないのだろうか。

 さて、国土地理院の公開データは、明治以降に新たに測定された値であり、それ以前は、位置測定されていなかったのである。位置測定されていなかった時代には、方位角などの計算根拠となる緯度、経度のデータは存在しないのだから、方位角などの計算は不可能なのである。もちろん、飛鳥時代に、国土地理院サイトもなかった。
 つまり、健全な古代史論義においては、ここに書かれたような計算は意味を持たないのである。

 古代においてかくかくの位置情報であったと主張するなら、何らかの裏付けを提示する義務があると考える。Google Mapにしても、古代に適用できるデータではないと言うはずである。データ利用規定に違反していと思われる。国土地理院共々、公開データの不正利用に対し、厳然と抗議すべきものと思われる。

 悪くとると、お手盛りのデータに、国土地理院なり、何なりの保証があるような虚偽の主張をしていることになる。歴然とした「犯罪行為」と思われる。

以上

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2023年9月16日 (土)

「古田史学」追想 遮りがたい水脈 3 宋書の「昔」について 再掲

                                 2015/11/5 2023/09/16
 ここでは、故古田武彦師の遺した業績の一端について、断片的となるが、個人的な感慨を記したい。

「古代は輝いていた Ⅱ 日本列島の大王たち」(古田武彦古代史コレクション20として ミネルヴァ書房復刊)「参照書」)の219ページからの『「昔」の論証』とした部分では、「宋書」に書かれている倭国王「武」の上表書に書かれている「昔」に対して、考察が加えられている。

 古田師は、持論に従い、こうした特定の言葉の意義は、同時代の文書、ここでは、宋書において「昔」の用例をことごとく取り出して点検するという手法を採っている。
 現時点のように、電子データ化されたテキストが、インターネットのサイトに公開されていて、誰でも、全文検索できる便利な時代でなく、宋書全ページを読み取って検索したものと思われ、その労苦に敬意を表する次第である。

 さて、ここは、論考の場ではなく、私人の感慨を記す場であるから、参照書の検索と考察の内容は後に送り、ここでは、まずは個人的な意見として、以下の推測を記すのである。

 日本語でも、「今昔の感」と言うように、「」と言うときは、「今」と対比して、万事が現在と大きく異なった時代を懐古、ないしは、回顧するものであり、往々にして、「古き良き時代」と呼ばれることが多い。
 では、南朝の宋(劉宋)にとって、古き良き時代とはいつを指すのか。それは、劉宋時代の中国の形勢を見れば、さほど察するのは困難ではないと思われる。劉宋は、亡命政権東晋を継いで、長江(揚子江)下流の建康(現在の南京)を首都とし、中国全土の南半分を領土としているが、中国の中核とされる中原の地は、北方から進入してきた異民族政権の領土であった。中国人にとってこの上もなく大切な、故郷の父祖の陵墓は、墓参を許されない嘆かわしい事態になっている。
 もと中原の住民は、大事な戸籍を故郷に残し、今の住まいを避難先の仮住まいと称していたのである。

 こうして考えると、宋書でいう「昔」とは、その時代で言う「中国」が、その時代の天子の治世下で太平に保たれていて、季節に応じて、故郷の風物を楽しみ、墓参に努めることのできた古き良き時代、言うならば中華の世紀である。

 なべて言うなら、古くは、史記に記録されていて、半ば伝説と化した夏殷周代であるが、その中核は、儒教の称える周公の時代を想定していたのかも知れない。
 周朝の制覇、王朝創業の間もなく、広大な天下が平らげられて戦乱がなくなったことを伝え聞いて、遙か遠隔の地から、越裳と倭人が捧げ物を届けたという、そういう周の遺風が「昔」と言わせるのであろう。

 そして、より生々しい秦・漢の時代は、これもまた天下を平らげたことから、古き良き時代として「昔」と懐かしんだものと思われる。

 更に時代を下った魏・西晋の時代は、天下太平と言うには、物足りないものがあるが、それにしても、中原領域を制定していたことから、今の状勢と比較して、「昔」と懐かしんだものと思われる。

 さて、肝心なのは、倭王武の上表文で、「昔」と言っているのは、どの時代を指しているのかと言うことである。古田師は、宋書に登場した「昔」の用例を総点検した結論は、宋書に於ける「昔」とは、古くは、「夏殷周」、近くは、「漢魏」、時代の下限として「西晋」を含むこともある、と言うことであり、上に挙げた個人的な推察と同じ結論に至っている。

 つまり、上表文作者の想定したのは、劉宋時代の中国教養人と同様の意義であり、『古くは、「夏殷周」、近くは、「漢魏」、時代の下限として「西晋」を含む』時代を指しているようである。
 倭王武の上表文の主たる意味づけは、魏・西晋時代にあるようであるが、「昔」の一文字で、周・漢両朝での倭人貢献を想起させる修辞力は大したものである。

 一部先賢は、倭王武の上表文について、当時の倭国に、このように高度な漢文記事を書く教養があった証拠にはならない、どうせ、建康の代書屋に書かせたものだろうと、倭国作成説を切り捨てている。

 しかし、代書屋に倭国の故事来歴の情報はないはずであり、代書するにとしても、大体の材料を与えられ、色々と注文を付けられて書いたものであり、大筋は、倭国側の練り上げた文書であることは、間違いないと思われる。

 もっとも、別項で述べたように、国王名義の上書には、国王名の自署と国王印が不可欠であり、倭国使節が、建康まで署名捺印だけで内容白紙の上書原稿を持参して、代書屋に内容を書かせ、出来上がった国書を国王が確認すること無しに宋朝に提出したという想定は、あり得ない手順と思われるのであるが、大家の説く所見であるから、言下に否定するのはおこがましいのであろう。

 閑話休題
 古田師の遺風として、生じた疑問を解き明かすのに、推測ではなくデータをもとにした考察を怠らない点は、学問・学究に努めるものとして学ぶべきものと思うのである。いや、これは、当ブログ筆者たる小生の個人的な感想であるので、当然、各個人毎に感想は異なるのであるから、別に、貴兄、ないしは貴姉から、意見が合わないと怒鳴り込まれても、お相手しかねるのである。特に、ここで論じているのは、古田師の遺風に関する小生の感想であるから、凡そ議論は成り立たないのである。

以上

「古田史学」追想 遮りがたい水脈 1 「臺」について 改訂・付記 1/3

             2015/11/01 再追加 2022/01/12 2023/09/16
〇はじめに
 ここでは、故古田武彦師の遺した業績の一端について、断片的となるが、個人的な感慨を記したい。
 因みに、本稿が当初「」なしの古田史学と書いたのに対して、早速、古田史学なるものは無法な評言であるから、撤回すべきとのコメントがあり、一応、固有名詞扱いで「」付きにしたが、コメント子からの応答はないので、趣旨に沿っているのかどうか不明である。
 因みに、コメント子は、明らかに古田武彦師の流儀を認識していて、それ故に敵意を抱いているということのようだが、文句があるなら、当人を論破して欲しかったものである。あるいは、古田氏の支持者、後継者を「打破」して欲しいものである。第三者に付け回しするのは、ご勘弁いただきたい。

〇『「邪馬台国」はなかった』
 『「邪馬台国」はなかった』は、「古田武彦古代史コレクション」の緒巻として、2010年にミネルヴァ書房から復刊されたので、容易に入手可能な書籍(「参照書」)として参照することにする。

 ここで展開されている「臺」と言う文字に関する議論で、「思想史的な批判」は、比較的採り上げられることが少ないと思われるので少し掘り下げてみる。

 「思想史的な批判」は、参照書55ページから書き出されている「倭国と魏との間」と小見出しされた部分に説かれている。
 この部分の主張を要約すると、次のような論理を辿っているものと思われる。

    1. 倭人伝記事の対象となっている魏朝、および、その直後に陳寿が三国志を編纂した西晋朝において、「臺」と言う文字は、天子の宮殿を指す特別な文字であった
    2. 三国志において、三国それぞれに対して「書」が編纂されているが、正当とされるのは魏朝のみであり、そのため、「臺」の使用は、魏朝皇帝の宮殿に限定されている
    3. 倭国は、魏朝の地方機関である帯方郡に服属する存在である。
      魏朝がそのように位置づけている倭国の国名に、天子の宮殿を意味する「臺」の文字を使用することは、天子の権威を貶める大罪であり、三国志においてあり得ない表記である。

 因みに、倭人伝の最後近くに「詣臺」(魏朝天子に謁見する)の記事があり、「臺」の文字の特別な意義を、倭人伝を読むものの意識に喚起している。つまり、三国志魏書の一部を成す倭人伝においても、「臺」の文字は、専ら天子の宮殿の意味に限定して用いるという使用規制の厳格なルールである。

 古田氏も念押ししているように、このような「臺」に関する厳格な管理は、比較的短命であり、晋朝の亡国南遷により東晋が建国されて以後効力を失ったものと見られる。

 たまたま、手っ取り早く目に付いた資料と言うことで、かなり後代になるが、隋書「俀国伝」に、隋使裴世清の来訪を出迎えた人物として冠位小徳の「阿輩臺」なる人名が記録されている。隋書が編纂された唐朝時代には「臺」なる文字の使用規制は失われていたのである。

 南朝劉宋の時代に後漢書を編纂した笵曄は、笵曄「後漢書」「東夷列伝」の「倭条」に、「邪馬臺國」と書き記しているが、当時最高の教養人とは言え、陳寿のような純正の史官ではなかったので、語彙の中に時代限定の観念はなかったのである。

 と言うことで、以上のように辿ってみると、「古田史学」の水脈は支流といえども滔々として遮りがたいものである。

                                            未完

 

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