私の本棚

主として古代史に関する書籍・雑誌記事・テレビ番組の個人的な読後感想です。

2022年11月12日 (土)

私の本棚 20 季刊「邪馬台国」 第125号 井上悦文「草書体で解く邪馬台国の謎」補充再公開

 私の見立て ★☆☆☆☆ 根拠不明の断言集 拝読辞退     2015/06/10 補充 2022/11/12

◯はじめに
 本稿は、専門的な根拠を踏まえた論説のようであるが、余程論旨に自信があるか、それとも、論旨に不安があるのか、冒頭から、強い物言いが続くこうした断定的な書き出しは、却って不信感を招くと思うが、どうだろうか。
 例えば、書き出し部で「三国志の原本は草書であったことが判明した」と声高に唱えるが、言い切る根拠は何かとみると、楷書写本は大変時間がかかるので、作業性が悪く、写本は全て草書で行われていたに違いないという説である。
 時代を隔てて、遙か彼方の現場を推定する「臆測」であり、何ら物的な証拠が無いのに断言するのは大胆である。

*考察検証
 ここで言う物的な証拠は、例えば、西晋皇帝所蔵の三国志写本の実物であるが、断簡すら残っていないし、下って、北宋までのいずれの時代でも良いが、皇帝所蔵の三国志写本が発見されたとは聞かないから、やはり、物的証拠は存在しないのである。
 それとも、噂に聞く、敦煌文書の呉志写本断簡は草書で写本されているのだろうか。もっとも、そうであったとしても、皇帝蔵書ではないので、状況証拠にしかならないのだが。

*「書の専門家」の暴言
 ここで状況証拠としている写本に使用する書体と作業効率との関係は、自称「書の専門家」の意見であるし、また、多少なりとも、書き真似してみれば納得できるので、不審ながら、一応、ご意見として伺うしかないのだが、その点を根拠に、正史の写本が全て草書で継承されていたというのは、速断に過ぎ同意しがたいものがある。

 因みに、いくら「書の専門家」のご高説とは言え、三国志の解釈に「草書の学習」が必要というのは、不可解である。三国志草書写本は現存しないのである。氏が三国志全巻を古代草書で書き起こして、仮想教材として提供するというのだろうか。それは、簡牘の巻物なのだろうか、紙冊子なのだろうか。

 いや、今回の井上氏の論説でありがたかったのは、秦漢時代にも、日常の書き留めには、手早く書ける草書めいた略字体が採用されていたと言う指摘である。してみると、草書の特性は、文書行政の発達した古代国家である秦時代からの常識であったと思うのである。
 発掘されている木簡類は草書では書かれていないようだが、日常の覚え書き類は草書だった(のだろう)との説には説得力がある。

*真書と草書
 それで思い出したのが、宮城谷昌光氏の著作「三国志外伝」の蔡琰(蔡邕の娘 蔡文姫/昭姫)の章の結末である。時の権力者、つまり、武人であり、教養人、つまり文人でもあった曹操から、蔡文姫が記憶している亡父の蔵書四百余篇を書き出して上程するようにと下問されたのに対して、「真書」で書くか、「草書」で書くか、書体を問いかけているのである。

 手早く草書で書き上げれば随分早く提出できるが、書籍として品格が低くなり、曹操ほど詩作や孫子注釈で高名な大家に失礼と思えるし、といって、厳密に真書で書くと、時間が大層かかる、いわば、二者択一であったのである。

 ここで言う真書は、言うならば、字画を全て書き出す本字であり、草書は、省略の入った略字という位置付けであろう。どちらでも、ご指示のままに書き上げますという趣旨である。

*書体の併存
 さて、古来から真書、草書の両書体が併存していたのであるから、草書が略字体であるために異字混同が(必然的に)出ることは、当時の知識人や行政官吏に知れ渡っていたはずと思うのである。氏自身も述べているように、草書の位置付けは、あくまで草稿、つまり下書き止まりであって、本当に「文書」を書くときは真書で書いたと言うことである。これは、浄書であり、清書でもある。

 ちょっと意味合いは違うかも知れないが、唐時代、公文書では、簡明な漢数字の一,二,三,,,を壱,弐,参,,,と、「大字」で書く規則があったのも、改竄防止、誤読防止の意義があれば、時間を掛けても字画の多い文字を採用していたと言うことである。ということであれば、信書(手紙)の類いは草書としても、公文書を草書で書くことはなかったはずである。
 つまり、正確さ、厳密さが至上課題である公文書類や正史写本には、後世に至っても厳として真書が採用されていたと推定するのである。

正史写本
 特に、正史写本の中でも、皇帝蔵書に当たる最高写本、これを仮に「正本」というならば、「正本」を写本して新たな「正本」を作るとすれば、そのような高度に厳密さを要求される複製写本の際には、写本に於ける速度ではなく、複製の正確さが至上命令である。
 至上命令というのは、これに違反すると、給料を減らされたり、免職になったりする程度の「処罰」にとどまらず、馘首、つまり、打ち首で死刑もあり得ると言うことである。

 それに対して、その際に経済的な要素として懸念される時間や人手は、国庫から十分以上に与えられるわけだから、真書で、しかも、予習復習を含めて、とにかく、時間と人手を惜しまずに、念には念を入れて写本するのは当然の帰結と思われるが、どうだろうか。

抜き書き・走り書き
 ただし、以上は、何よりも厳密さが求められる公文書や正史写本の話であり、一度、そのような厳密さの桎梏から解き放たれたときは、段違いに書きやすく、速度の出る草書写本が採用される可能性が高いと思うのである。特に、正史をもとに編纂された類書の原典とする抜き書き資料は、手っ取り早い草書で書かれていたものと思われる。
 類書編纂は、正確な引用でなく、飲み込みやすく消化した要旨抜粋であるので、誤字もまた発生することが避けられないのである。また、そもそも抜き書きの元となった写本が、正本と同様に真書で書かれていたかどうかも、以下で思案するように、かなりあやしいのである。

 お説に従い、これら草書写本には、異字混同がある種の「必然」となることを考慮すると、ここで延々と主張されている誤字は、こうした草書写本段階で発生し、構成されないままに継承され、最終的に、後代史書や類書に清書された際に、継承(誤伝)されたと見て良いのではないか。この辺り、論理の分水嶺というか、絵に描いたような諸刃の剣である。

 その極端な例として、翰苑写本がある。当該写本は、影印版の収録された解説書が公刊されているから、どのような書体と配置で、どんな文字が書かれているか、誰でも確認可能である。特に同意意見も、反論も出てこないブログ記事で公開された私見ではあるが、見るところは見て書いたものである。
 つまり、翰苑写本は、原本が確認不可能なので、ちゃんとした原本があったと仮定すると、写本というものの原本に忠実、正確な複写ではなく、また、その際に正確さを求めたものでもなく、とにかく、欲しい部分を、追い立てられているように、手早く抜き書き書写されていると見るものである。一番の難点は、素人目にも、校正、校閲によるダメ出しがされていないので、素人目にも明らかな錯誤が露呈していて、文字記録資料として信頼できないのである。
 いわば、書の文化財として尊重すべき「国宝」だが、史料としては、ほとんど信じられない、相当信頼性の低い文献資料と、書道の素人は見ている。

二次写本、末裔写本
 また、皇帝の指示した正史写本は、次なる正本として「厳格」に写本されるにしても、当代の正本から写本された、言わば、子写本(一次写本)から芋づる式に連鎖して写本された孫写本(二次写本)以降の末裔写本は、「厳格」の適用外であり、作業効率が優先され、草書写本となる可能性がどんどん高まるのである。地方豪族の手元に渡る頃には、多くが草書写本になっていたとも推測される。
 以前から指摘しているように、真書写本といえども、誤写の発生を食い止めるには、大変な労力と優れた職人群が必要であり、王侯貴族といえども、そのような厳格、精密な写本は、経済的な事情だけ推定しても、そう簡単にはできなかったと思われるのである。

草稿と確定稿
 また、三国志編纂過程で、陳寿と無名の補佐役が上程草稿を作成したのは草書体と思われるが、皇帝に上申する想定の三国志「確定稿」は、真書で清書していたものと思うのである。
 案ずるに、草稿といえども、文脈から推察できない異民族の固有名詞などは、おそらく、草書のただ中に真書を交えるなど、誤写を防ぐ工夫などをしていたに違いないのである。それが、俗事に屈しない史官というものである。

 井上氏の記述では、陳寿は三国志を完成することができず、草稿を残して没したようにも見えるが、60歳を過ぎた老齢であるから、自身の著作を中途半端な形で後世に遺すことがないよう、真書で書き上げた清書稿を確定稿、完本としていたと考えるのである。
 これは、皇帝から命が下ったときは、速やかに上程できるようにしておくという意味もあるのである。陳寿は、罷免されても、処断されたわけではないので、著作を続けられたと見るものである。陳寿の人柄と職掌を考えると、そう考えるのである。

余談談義
 総じて、井上氏は、業界用語を交えた不思議な言い方を、大変好むようである。
 例えば、冒頭で、何の断りも引用符くくりもなしに、「魏志倭人伝」と書いておきながら、禁じ手の後出しで、だめを入れるのである。
 曰く、『「邪馬台国」の(と言う国)名は、中国(余計である)正史(である三国志の一部である)の「魏志倭人伝」に書かれていると大方が思っている。』 ()内は当方の補充。
 何とも、見苦しい乱文であり、理解に苦しむ点は、凡百の俗説の徒と同様であり、氏の、文筆家としての未熟さを思わせる。
 それにしても、大方」とは何の意味か、よくわからない。多数の他人の「思っている」ことをどうやって調査し、どのようにして計数化して、「声なき声」の世論とも見える「大方」を見出したのだろうか。所詮、氏の見聞というものの、実は、飲み仲間の罵り合いではないだろうか。

 てっきり、季刊「邪馬台国」誌では場違いな、古田武彦説復唱かと思ったが、そうではない。「魏志倭人伝という正史はない」に始まる趣旨不明の提言が続く。どろりと「魏書の東夷伝の倭人の条」と書き写しているが、「魏書」と書かれているのはここだけで、他の箇所では全て、「魏志」である。趣旨不明である。「倭人伝」はなかった論には大方は食傷している。
 最後に、倭人伝と三国志全体の文字数が上げられているが、本稿においてどんな意義があるか、不明である。まことに、不可解である。

*成立の不思議
 以下、三国志の「成立方法」(単語明瞭、意味不明)と言う下りがある。
 「成立」を確定稿のとりまとめ時点と言うのであれば、その時点では、確定稿は、いまだ陳寿の個人的な著作なのだから、いわゆる官製史書である「正史」でないことは自明である。まして、一部厳密な言い方を打ち出す識者によれば、西晋時代に「正史」はなかったから、その後も、正史という言葉が浮上するまで、三国志は「正史」でなかったことになる。

 とかく、そのような「重隅突き」的な散漫な言葉咎めは、「大方」の読者に論旨の迷走を感じさせ、折角の文章が寄せ木細工との感を与え、箸休めの「閑話休題」以外に何の意義があるのかよくわからない。

 おそらく、ご自身の学識の範疇外なので、いずれかの公開文献から無造作に取り込んだのだろうが、身に合わない借り着は、本人の品格を落とすだけである。門外事を、うろ覚えで挟み込んで論説全体の値打ちを下げるのは、井上氏の創始した失敗ではない

写経
 遣唐使や留学僧が持ち帰った仏教経典の写本が草書体とも思えないので、唐時代でも、真書による写本も残存していたように思われる。
 奈良時代に平城京で行われた国家規模の写経事業も、また、本稿で言われる草書写本の例外と思われる。
 因みに「藤三娘」と署名した聖武天皇皇后「光明子」の残した写経は、どう見ても、草書ではない。
 と言っても、草書写経が「絶対になかった」と断言できるほど、多数の原史料を確認していないので、推測である。

◯まとめ
 当記事は、井上氏の軽率な思いつきを、「大地から掘り出した芋」と見ると、それを「泥付きのままで食卓に提供する自然食」と見える。つまり、せめて、泥を落とし、皮を剥いた上で、煮炊きして、調理提供いただきたいと思う。例えば、ウロコを取らず、はらわたも出さないサカナは、そのままでは食べられたものではないのである。自然食材は貴重であるが、だからといって、それが和食の真髄ではない。
 氏が、このように不出来な著作を公開したのは、氏にとって名誉にならないと思う。勿体ないことである。

 これでは、以下、氏の力説する新説が、忽ち、悉く「虚妄」と判断され、「ジャンク」とされるのである。世上、邪馬台国論争は、厖大な「ジャンク」所説群を産んだと「大方」が断じる理由とされるのは、それぞれの冒頭で、説得力のない、疑わしい「新説」をがなり立てるためと思うのである。「ジャンク」を悉く味わった上の評価とは見えない。
 現に、氏の著作を買って読もうという気には、到底なれないので、そのように推定する。

 仮に、氏の新著を贈呈されても、時間の無駄なので「拝読辞退」である。

以上

2022年10月14日 (金)

私の本棚 研究最前線 邪馬台国 吉村 武彦 「考古学だけでは不十分」 1/7

   石野博信 高島忠平 西谷正 吉村武彦 編    朝日新聞出版 2011年6月 
 私の見立て 全体評価 ★★★☆☆ 凡庸なごった煮   部分評価 ★☆☆☆☆  度しがたい迷妄      2017/05/09 補正 2022/10/14 2022/10/31

第5章 考古学だけでは不十分  吉村武彦

 本項は、二〇一〇年七月三日に文化庁主催シンポジウム「いま、なぜ邪馬台国が?」における講演のなかで、吉村武彦氏(著者)の講演を収録したものと思われる。
 講演は、おそらく古代学において、考古学者の良心とも言うべき感慨から開始している。しかし、以下示すように、氏の本領でないと思われる中国正史の文献史学考証に第三者の見識を取り入れる際の不正確さが山積していて、著者の権威を損なうものになっているのは、いかにももったいない話である。

 特に、客観的に間違っていると判断できる誤解までが、訂正されることなく出版されているのは、著者の周辺に誠実な、つまり、お怒りを買っても瑕疵を指摘する真摯な支持者がいないことの表れであり、当ブログ筆者は、何の関係も無いのを顧みず、ここに慎んで、憎まれ役を買って出て誤解を糺そうとするものである。

 著者の誤解の多くが、百-百一ページに露呈しているので、失礼ながら、個別に批判を加えるものである。

◯引用とコメント
 こうした表記法からいえば、「邪馬台国」の表記も同じように仮借で書かれています。ふつう は「やまたいこく」とよびならわしていますが、「邪」は「や」、「馬」は「ま」の漢字音ですから、「台」は「と」ないし「ど」と読み、「やまと」ないし「やまど」と読むだろうと思います。 おそらく「やまと」と読むのが正しく、むしろ「やまたい」と読むのは間違いではないでしようか。

 「邪馬台」国を「やまと」のくにと呼ぶという議論は、古来、連綿と引き継がれてきた「俗信」であるが、同時代の文献資料、音声記録が絶無である以上、所詮、後世人の推測/臆測/願望の積み重ねであり、いくら推測調の文体であろうと、学術的な文で殊更書き立てるべきものではないと考える。

未完

私の本棚 研究最前線 邪馬台国 吉村 武彦 「考古学だけでは不十分」 2/7

 石野博信 高島忠平 西谷正 吉村武彦 編    朝日新聞出版 2011年6月 
 私の見立て 全体評価 ★★★☆☆ 凡庸なごった煮   部分評価 ★☆☆☆☆  度しがたい迷妄      2017/05/09 補正 2022/10/14 2022/10/31
 
吉村 武彦 「考古学だけでは不十分」
◯引用とコメント
 ただし、現在では携帯電話の入力でも「やまたいこく」とうちますと「邪馬台国」と出ます。 

 「携帯電話の入力」とは、使用者のカナやローマ字の入力に対する変換候補漢字だろうが、これは、現代、そのように言い習わされていることが、変換辞書の第一番に表示されているのであって、大抵は、使用者の個人的な最終履歴の反映であって、講演されるべき古代史論議には無関係である。いわば、「ジャンク」情報であり、そのように説明すべきである。因みに、発言者は、少数派たるカナ入力派のようである。発言者の脳内の言語観が、混乱しているのが露呈している。
 
 今日は、わかりやすいように「やまたいこく」と発音します。

 勿体ぶっているが、前言と論理が繋がっていない「言いつくろい」である。要するに、カビの生えた自前の仮説の押しつけの粗雑な「枕」であって、客観的には論議の余地が多く残されている、結局の所、個人的な「思いつき」に属するものと考える。冒頭から大すべりとは、勿体ないことである。
 因みに、「倭人伝」には、「邪馬台国」はなく、「邪馬臺国」(「やまだいこく」か)すら書かれていない。不利な事項に触れられたくないから、はなから逃げているのは、勿体ないことである。

1『三国志魏書』烏丸鮮卑東夷伝倭人条
「魏志倭人伝」のテキスト
 ところで、通称の「魏志倭人伝」は、正確にいうと『三国志魏書』巻三〇の烏丸鮮卑東夷伝 のなかの倭人条になります。

 倭人伝論の試金石とも言うべき発言である。「正確にいうと」と勿体ぶっているが、「正確」と断言するからには根拠を示すべきであろう。学術的には、単に、未検証の俗説に過ぎない点では、「やまたいこく」説と同様である。
 目下の論義では、「倭人伝」が特定できれば、それで十分だから、余計な文献史学者気取りは、引っ込めることである。現に、つい先ほど、手元の携帯の漢字辞書に通用していることからわかりやすいように「やまたいこく」と拙速にこじつけたばかりであり、論義が動揺しているのである。
 
 しかし、その原本が、現代まで残っているわけではありません。

 「しかし」も「案山子」もあったものではない。
 三世紀に書かれた書籍の原本そのものが、2000年近い後世まで残存していると考える方が異常感覚である。それは、一般人でもわかる当然、自明の事項であり、なぜ殊更「しかし」と言い立てるのかわからない。元々、この断言は「だから、原本がどのような現代まで伝えられたかを確認するのである」との学術的な見解の導入部であるはずだが、ここだけ一人歩きさせるとは、ずいぶん粗暴で稚拙な論法で、飛んだ、恥曝しである。

 当初は写本もあったでしょうが、後に版本として受けつがれていったかと思います。

 「当初」の事態を推定しているが、「写本もあった」というのも、無頓着な放言である。上申された「三国志」は、そもそも、陳寿の遺稿でもあった「決定稿」の一次「写本」であり、皇帝御覧の権威を有したから「原本」と称しているだけで、陳寿自身の筆になるものではない。もちろん、当時現場で確認した人物は現存していないが、自明、当然の事項を割愛した記事が残っているから、まず間違いのないところである。
 以後、皇帝書庫に厳重に秘蔵され、皇帝自身も座右に置くことができないから、まず、時代最高の写本工の手で一次官製写本を行って、参照可能な複製(レプリカ)とし、ここから「孫写本」以下をおこなったのである。言わば、代用品が整って初めて、「原本」を温存しつつ複数の人々に良質の写本を届けたのである。
 一部、複製(レプリカ)の趣旨を知らずに、「偽造」と弾劾する権威者がいるが、誰も、「原本」と言っているのではない。最善、最高の複製品/代用品であり、レプリカなら皇帝自身も手に取ることができ、さし当たって、高級写本工によって、「孫写本」を行って高官、有司に下賜して、順次世に出すが、誰も、レプリカを「偽造」だなどと言わないのである。

 そもそも、『陳寿が編纂を完了し、「決定版」「上申稿」として遺した「三国志」「原本」』を複製し、謹んで西晋皇帝に上申したのが、後に「三国志」が正史として認定された背景である。ということは、陳寿旧宅には、一冊(巻数は言わない)の「三国志」全巻が残っていたのである。

 このあたり、学問としての議論を進めるための見当識に欠ける暴言である。以下、同様の暴言を連ねるという予告とみられるから、一般講演であれば、ここまでで退席してもおかしくないのである。

 このような暴言が権威者の講演録として収録されているのでは、書籍編集の不備といわざるをえない。

未完

私の本棚 研究最前線 邪馬台国 吉村 武彦 「考古学だけでは不十分」3/7

   石野博信 高島忠平 西谷正 吉村武彦 編    朝日新聞出版 2011年6月 
 私の見立て 全体評価 ★★★☆☆ 凡庸なごった煮   部分評価 ★☆☆☆☆  度しがたい迷妄      2017/05/09 補正 2022/10/14

吉村 武彦 「考古学だけでは不十分」
◯引用とコメント
 また、写本は一部作成するたびに新たに継承され、刊本の場合は、印刷に使用された「版木」原版は修復不可能となるまで、改版、修復されて出版に使用されるので、その内容は確定している。違いを認識すべきである。

 今日では、裴松之 (三七二-四五一)が注記をつけた『三国志』として伝世されました。

 裴松之の注釈は、高い意義を持つものであるが、決して「三国志」の本文ではない。あくまで、後世史家の付けた注釈である。

 ここに記述されている『魏書』を、史料として使います。

 現今正史史料として利用されているのは、「ここに記述されている『魏書』」などという曖昧なものでないと考える。善良な読者としては、「ここ」とは、どこのことかとお伺いしたいものである。

 現在その『三国志』の一番古い版本は、中国、北宋(九六〇-一一二七)時代、一二世紀のものとされています。

 これは、勘違いの誤解である。不正確、うろ覚えの聞きかじりを受け売りしていては、発言者の威信は、泥まみれである。
 衆知の如く、北宋版本は断片しか残っていない。それにしても、北宋の二百五十年の治世で、「一二世紀」は、最後の三十年足らずに過ぎない。勘定が合わないが、誰も指摘しなかったようである。これでは、誰も信用してくれないのでは無いかと危惧する。

 また、宮内庁書陵局管理の「紹凞本」など、数少ない現存版本/刊本史料として見ることができる「南宋刊本」は、「北宋版本」に直接基づく再版/復刻ではなく、南宋草創期に、北宋刊本の良好な写本を根拠として版木を起こした、いわば、「複製、復元本」である事は衆知と思う。世上、「紹興本」と「紹熙本」の異同について論義があるが、北宋刊本から起こしたのであれば、本来、異同は無いのである。
 と言うことで、またも、無思慮な妄言である。

 この『三国志』には「邪馬台国」ではなく「邪馬壹国」と書かれています。この事実から古田武彦さんから、邪馬台国はなかったという見解が出てきました。

 「事実」の指摘は重いものがあるが、古田氏の主張の根拠は、「この『三国志』」などという曖昧なものではなく、『三国志の現存諸版本全てで、「倭人伝に「邪馬台国」はなかった」』と明確なものであり、「確固たる事実」を踏まえた適確な発言である。

 ここに到る引用は、至る所で不正確であるが、ここだけ推定調でないことは論者の本意を露呈したものとして、重く受け止めるべきであろう。
 講演であれば、一瞬で通り過ぎるが、講演録は、くり返し確認できるので、石刻碑文と同等の不朽のものである。

未完

私の本棚 研究最前線 邪馬台国 吉村 武彦 「考古学だけでは不十分」 4/7

   石野博信 高島忠平 西谷正 吉村武彦 編    朝日新聞出版 2011年6月 
 私の見立て 全体評価 ★★★☆☆ 凡庸なごった煮   部分評価 ★☆☆☆☆  度しがたい迷妄      2017/05/09 補正 2022/10/14

吉村 武彦 「考古学だけでは不十分」
◯引用とコメント
 ただし、『魏書』が刊行されてから『後漢書』が出ます。王朝の順としては、後漢(二五-二二〇)、三国時代(ニニ〇-二八〇)になります。しかし、正史は、『三国志』陳寿(二三三-二九七)撰)の後に『後漢書』(范曄(三九八—四四五)撰)が編纂されます。この『後漢書』や『隋書』(六五六年完成)では、「壹」ではなくて「臺」(台の正字)が使われており、私は、この『後漢書』『隋書』の表記を尊重して、元は「邪馬臺国」という字があったと考えています。

 長々と説明しているが、隋書は、笵曄「後漢書」の国名表記に影響されたものであり、結局、魏志「倭人伝」に「邪馬台国」はなく、「邪馬台国」は後漢書(だけ)を根拠としている、と言う古田氏の主張は、依然として克服されていないのであるから、学問としては、そのように認識すべきである。
 まして、筋の通らない口ぶりでぼやかしているが、史料批判のされていない後世史書を根拠に、先行する「倭人伝」の確たる表記を否定する暴挙を犯しているのである。要は、何が何でも、つまり、妥当な論理が構築できないにもかかわらず、「邪馬台国」を仕立てるという牽強付会に過ぎないのである。

三つの部分からなる倭人伝
 「魏志倭人伝」は、三世紀代の日本列島の社会状況を伝える貴重な史料です。基本的には三つの部分からなり、記述の構成は、ほかの「烏丸鮮卑東夷伝」の条文とほぼ同じです。

 国別記事
 まず、第一段は帯方郡から邪馬台国に至る道のりを記しています。「倭人は、帯方の東南の大海の中にあり、山島に依りて国邑をなす」で始まります。
 朝鮮半島(韓半島)では、前漢が前一〇八年に楽浪郡などの四郡を設置しました。そして帯方郡は、二〇四年ごろ、公孫氏政権によって、楽浪郡の南につくられた郡です。その帯方郡から、 途中の韓の国を経て日本列島に至る方位・距離・国名が書かれており、いわゆる「国別記事」がみえます。

未完

私の本棚 研究最前線 邪馬台国 吉村 武彦 「考古学だけでは不十分」 5/7

 石野博信 高島忠平 西谷正 吉村武彦 編    朝日新聞出版 2011年6月 
 私の見立て 全体評価 ★★★☆☆ 凡庸なごった煮   部分評価 ★☆☆☆☆  度しがたい迷妄      2017/05/09 補正 2022/10/14 2022/10/31

吉村 武彦 「考古学だけでは不十分」
◯引用とコメント
 暢気に「日本列島」と言っているが、当時「日本」はなかった。また、今日言う「日本列島」の内、「倭人伝」に明確に書かれているのは、九州島の北部と海岸、海上の様相だけである。注記:学術的に「地理的な」「日本列島」 が、定着している事を知ったので、一部削除した。
 「倭人伝」には、隋書に書かれている阿蘇山が登場しないことから見て、「倭人伝」の実見に基づく記述は、今日の福岡県からほとんど出ていないものと推定される。

 このなかで注目すべき記述は、郡使が伊都国に駐在していること、邪馬台国が女王の(以下略)

  「郡使が伊都国に駐在している」とするのも、不可解な読み取りであり、少なくとも、景初遣使の折は、魏朝の公孫氏討伐によって、帯方郡支配層は更迭されたばかりであるから、帯方郡使/郡吏が倭に駐在したのは、あったとしても、もっと後世のことではないかと思われる。
 案ずるに、ここに書かれているのは、郡使が、「まずは伊都国に到着/滞在した」と言うだけであり、以後、どのような行程を辿ったかは書かれていないのである。普通、当然、自明の事項は書かれないから、以下、王之治所に招請されたと見るべきである。いかに、郡使でも、王のもとに、つかつかのりこめたわけではないのである。

  この二ページの書きぶりだけ見ても、中国文献を自身で読解できない著者は、自分自身の著述したものでない資料を、十分比較検証しないままに、ベタベタ引用しているものと思われる。我々知性を有する人間は、鳥類ではないので、「鵜呑み」の受け売りはせず、資料を噛み砕いて、存分に味わってから呑み下すものではないのかと思うのである。

*追従の弊害
 ここでは、たまたま、著者の文を取り上げて批判することになったが、このようないい加減な言い回しは、古代史関係の講演や著作でしばしば見かけるものである。これは、「所属組織の何らかの方針でそのように言うことになっている」のだろうし、「組織の方針でそうなっているものに逆らうことはできない」のだろうが、傍目にも所用の「学識の欠如」と見える。

 著者個人も所属組織も、現代のみならず後世においても、不見識に対する批判を浴びるもととなるので、「随分損してますよ」と申し上げるものである。

未完

私の本棚 研究最前線 邪馬台国 吉村 武彦 「考古学だけでは不十分」6/7

 石野博信 高島忠平 西谷正 吉村武彦 編    朝日新聞出版 2011年6月 
 私の見立て 全体評価 ★★★☆☆ 凡庸なごった煮   部分評価 ★☆☆☆☆  度しがたい迷妄      2017/05/09 補正 2022/10/14 2022/10/31

吉村 武彦 「考古学だけでは不十分」
◯引用とコメント
 さて、以下で特に目立つのは、103ページの引用である。
 ここに引用されている記事の筆者、宮崎市定師は、博識かつ真摯な学者であるので、その見解は尊重しなければならないのであるが、ここに引き合いに出されている論議については、同意しかねるものがある。以下の不手際が、引用者の不手際かどうかは、よくわからない。

*経書写本誤謬論
 宮崎師は、古代中国における聖典と言うべき四書五経の経書写本に誤謬が多発していたことを例として、「正史写本といえども、同様に誤記が多いとみるべきだ」と推断したようであるが、素人目にも、この類推には、かなりの誤解があるようである。

*経書写本の濫造
 経書は、儒教が国家の指導原理として尊重され始めた漢武帝の時代から、帝国の官吏登用の際の必要教養とされたから、史官を志す若者達、多くは、洛陽の太学に学ぶ若者達は、争って経書写本を買い求め、安物写本が市場に氾濫するほどであったという。後世喧伝された科挙のはるか以前から試験地獄はあったのであり、「試験」に出るから、借金してでも写本を買い求めて暗記に努めたのである。めでたく官吏となって高位に登れば、絶大な収入が得られ、故郷の親族はじめ支援者すべてに篤く報いることができるのであり、役得の類いを合わせれば、富豪への道ともなるのであった。

 前漢は蔡侯紙以前であるし、後漢も、紙の大量普及は後半であったろうから、大抵の場合は、竹簡、木簡などの簡牘に筆写されたのだろうが、それでも、必要があれば大量の写本需要が発生し、大量の需要には大量の供給が伴ったのである。当然、写本に写本を重ねる低俗な写本では、学識不十分な、おそらく、少なからぬ素人写本者を起用するため、粗製濫造は避けられず、写本間の不一致はざらにあったようである。

 若者達は、各人の持つ写本の記事が互いに一致しないときは、政府の所管部署に、どちらが正しいか判断を求める権利を保障されていたため、時には、一切の路上集会が厳重に禁止されていても、政府方針に不満を持つ若者達が、合法的に徒党を組んで不平を唱えるとして数多くが集合し、道にあふれたと言うほどである。
 たまりかねた政府は、所蔵する良本、つまり、試験正答の根拠を石碑に刻し、自分の写本に疑問があれば碑文を見よと言い渡したという。経書の写本とは、そういうものである。因みに、碑文の拓本を取って商売の種にする輩が絶えず、折角の碑文がすり減って、随所で判読不能になったということである。
 いや、このあたりの世相は、該博な宮崎師の熟知するところであり、従って、経書写本の質についての発言が出たのであろう。

 追従するからには、宮崎氏の真意を確認した上で、自身の確信を形成した上で行うべきである。うろ覚え、生かじりと言われたら、立つ瀬はないと思うが、その辺りの不出来の責任を宮崎氏に押しつけるのは、何とも、困ったことである。

     未完

私の本棚 研究最前線 邪馬台国 吉村 武彦 「考古学だけでは不十分」 7/7

   石野博信 高島忠平 西谷正 吉村武彦 編    朝日新聞出版 2011年6月 
 私の見立て 全体評価 ★★★☆☆ 凡庸なごった煮   部分評価 ★☆☆☆☆  度しがたい迷妄      2017/05/09 補正 2022/10/14

吉村 武彦 「考古学だけでは不十分」
◯引用とコメント
*正史写本評価
 これに対し、正史の写本は、実用のものではないために、よほど関心のある皇族や政府高官でないと所蔵せず、従って、世にあるのは、政府所蔵の良本に近い写本であり、よって、とことん入念な校正を経た良本の「良質な複製品」であって、低俗な写本が、世上に氾濫することもなかったと推定される。
 いや、そのように断言すると、敦煌出土残簡の誤字多発を指摘する方があるだろうが、それは、普通言う正史写本で無く、蔵書家が、遠隔地で参照しやすいように私製した抜き書きであり、正史の正誤を正す際の「校勘」史料として起用されることなど、あり得なかったのである。時に言うように、写本連鎖の中で、誤写、誤記は、一方的に、下流に流れるのであって、源流に遡ることはないのである。

 因みに、目下の課題は、魏晋代の古代世相であり、せいぜい中世の初期、唐宋代までの世相で、明清代に及ぶ論義ではない。明清代に、古代写本の時代考証をしているとしたら、はなから、勘違いの山とわかるのである。相手にしないことである。

 つまり、経書の写本に誤写が非常に多いことから、安易に類推して、正史写本にも同様に誤写が多いと速断するのは、誰が言い出したか知らないが、とことん軽率ではないかと思われる。「思いつき」は、多大な検証を重ねて、初めて、「作業仮説」と評価されるのである。

 もし、宮崎師が、確信を持って、「魏志倭人伝」史料考証に参入したのであれば、座り直して聞き入る必要があるが、中国学権威の見解は、尊重して聞くべきと雖も、推論の過程に疑問があれば、率直に指摘すべきと考える。それが、先賢諸氏に対する「敬意」の最上の表現と見るものである。

 因みに、宮崎師が自身の豊富な学識から『正史、特に、「三国志」写本、版本に誤写が多い』と責任を持って判断していたのであれば、当然、実例を挙げて明言されていたはずであるから、実例の指摘が無いと言うことは、宮崎師の博識を持ってしても、確実な事例は思い当たらなかったと見るのである。

 もちろん、「多い」とは、誠に非学術的、不明瞭な、俗語的表現であり、宮崎師が、どのような数値解釈で、どの程度の件数、比率を持って「多い」としたか、深意を探る必要があると思うのである。「倭人伝」は、せいぜい二千文字の限定された史料であり、何文字をもって「多い」というのか、議論の余地が多い/無視できない/甚だしいと思うのである。
 いや、宮崎師の書いた趣旨を、「他の部分の誤読、誤解事例から見て、史料考証に信用をおけないと見られる引用者」が要約した引用で判断してはならないのだが、ここは、証拠として取り上げるべきではないという判断の論証過程であるので、ご容赦いただきたい。

  いうまでもないが、以上で言及していない記事に異論がないというわけではない。推して知るべしと見ていただいて結構である。

◯まとめ~書評の意図と意義
 本記事は、同様の書評と同様、対象となる著作物の最終結論に異論を挟むものではない。最終結論は、著者が打ち立てた信条であるから、他人の容喙すべきものではない。
 ここでは、あくまで、論考の不手際、即ち、採用した「証拠」、「証言」の不具合と、それに基づく論考の乱れに異議を唱えるものである。以上述べた指摘は、当ブログ筆者の私見であるが、一考に値する「異議」と信じるので、殊更、多大な労力を費やして、ここに連載したものである。

 本記事で指摘した事項の大半の疑問点は、吉村氏自身の思惟を示すものではなく、採用した「証拠」、「証言」に起因する瑕瑾とみるので、冷静に考え直していただけるものと信じている。つまり、吉村氏に一辺の良心があるのであれば、ぜひ、諸処の再考をお願いしたいものである。

以上

2022年10月 9日 (日)

私の本棚 33 笛木 亮三 「卑彌呼は殺されたか!」季刊「邪馬台国」125号 1/2 再掲

~卑弥呼以死考~ 2015年4月 梓書院
 私の見立て★★★★★ 力作にして必読 2016/03/06 分割再掲 2020/06/18 補筆 2022/10/09

◯総評
 当記事は、魏志倭人傳に於ける「卑彌呼以死」の解釈に関する論考です。
 先行する諸論考を「軒並み」採り上げて論評している本体議論に関する意見は置くとして、笛木氏が諸説について考察を加えた後、ぽろりと感慨を漏らされている点に大いに不満を感じるのです。

*世間知らずの了見違い
 第8章岡本説の検証と私見 115ページ上段です。
 『今、「三国志」にある「以死」のすべてが簡単にパソコンで検索できるらしいのです』とよそごとのように述べていますが、ちょっと意外でした。この場で論説を発表するほどの識者が、ご自身で用例検索していないし、しようともしなかったと見えるからです。続いて、「コンピューターは大したものです」と感心しますが大きな了見違いです。

*えらいのは誰か
 コンピューター(PC)がえらいのではなく、PCなどの「端末」を介して、ネットから世界中のどこかに貯蔵されているデータを確認できるのがえらいのです。更に言うなら、そういう仕掛けを作った人、従来秘蔵されていたデータを世界のどこかに貯蔵した人がえらいのです。いや、関西弁で言う「えらい」は、仕事が多いという意味ですから、二重に皮肉です。

 平たくいうと、氏が称揚されているのは、「ネット」、そして、その向こうにいる大勢の「えらい」人たちであって、PCが「えらい」のではないのです。大型コンピューターの所蔵データを端末機から閲覧した時代は去り、自宅のPCで、三国志を全文検索して、用例を全文検索できるのです。

*PCすら不要の世界
 これには、特に有償販売されているアプリケーションを購入する必要はなく、自宅のPCに導入されているWindowsに作り付けのインターネットエクスプローラーとその後継者や無償で利用できるFirefox, Google Chromeなどの「ブラウザー」を使用して、そうしたデータの貯蔵されているサイトにアクセスし、サイト作り付けの仕掛けを利用して検索を依頼するだけで、検索例を全部列挙させられる時代になりました。
 ご自宅のPCは、別にえらくないのです。使用する「機械」がMacであっても、Androidスマホであっても、大差ないのです。

*頼れる友人が肝心
 大事なのは、PCを買ってくるのではなく、だれか初心者に対して丁寧に教えてくれる人を持つことです。「困ったときに手を貸してくれる友人が本当の友人である」(A friend in need is a friend indeed)と言うことではないでしょうか。こうしてテキスト全文検索が広く普及したのは、「三国志」で言えば、刊本を自由に利用できるテキストデータとして公開している団体、ないしは、個人がいるからです。
 「三国志」を出版している出版社は、当然、使用した全テキストデータを保有していますが、かなりの人・物・金を投じて構築したデータベースで、出版社の知的財産(著作物)であり、簡単に無償公開はしてもらえないものです。

*公開データの効用
 と言うことで、WikiSourceや「中国哲学書電子化計劃」などの公開データですが、すべてボランティアが入力したものであり、時として誤読はありますが、膨大なデータ量を思えば仕方ないところです。

*見知らぬ友人
 面識も交信もなくてもこうした努力を積み重ねた人たちは、本当の友人です。

                                未完

私の本棚 33 笛木 亮三 「卑彌呼は殺されたか!」季刊「邪馬台国」125号 2/2 再掲

~卑弥呼以死考~ 2015年4月 梓書院
 私の見立て★★★★★ 力作にして必読 2016/03/06 分割再掲 2020/06/18 補筆 2022/10/09

*ユニコードの功績
 合わせて言うと、Microsoft社の英断(投書、各国文化の個性を破壊すると非難されたが)で、全世界の文字データが、共通のユニコード体系で参照できることになり、楽々中国文献の検索ができるので、Microsoft社の功績は絶大です。ここに謝辞を表しておきます。
 公開データを全文検索して用例列挙するのは、素人も追試でき、フェアです。

*先人功績の称揚
 「邪馬臺国」「邪馬壹国」論争時に、三國志全文を手作業検索した話が、匿名の風評譚となっていて怪訝に感じるのです。手作業検索を評価するなら実名顕彰すべきです。と言う事で、曲がりくねった言い回しは残念です。
 また、とうの昔に博物館入りしたはずの「レジェンド」記事が多く、笛木氏の責任ではないのですが、延々と引用紹介と解読を強いられる「論争」のあり方が、折角の労作に苦言を呈する原因となっていて、もったいない限りです。

◯書評本論~私見御免
 素人考えながら、広範な用例検索の必要性は理解しますが、文献解釈として本末転倒と思います。中国といえども、個々の文字、言葉の意味は、変動しているのであり、特に、古典典礼を踏まえない、日常用語の分野では、用例の適否判定が不可欠と見るものです。

 陳寿が採用した記事の筆者は、「以死」と書くとき、汗牛充棟の古典用例でなく、普通の教養で書いたはずです。当該文書の文脈から解釈することが、大変困難となったとき、初めて、書庫の扉を開き、台車で古典を引き出して身辺に置き、ひたすら参照すればよい、と言うか、そのような手順を常道とすべきなのです。これは、ほぼ笛木氏の趣旨でもありますが、敢えて書き立てます。

 倭人伝の書かれた真意を察するに、卑弥呼は、不徳の君主でなく敗将でもなく、天寿を全うしたと見るのです。没後に大いに冢(封土)を造営したころからもそう感じるのです。

□補足 (2020/06/18)
 初回掲示の際、氏の提示された参照史料を書き漏らした不行き届きを、ここに是正します。
⑴阿倍秀雄「卑弥呼と倭王」(1971講談社) 
⑵生田滋 「東南アジア史的日本古代史」(1975大和書房) 
⑶松本清張「清張通史 1 邪馬台国」(1976講談社) 
⑷樋口清之「女王卑弥呼99の謎」(1977産報ジャーナル・新書) 
⑸栗原朋信「魏志倭人伝にみえる邪馬台国をめぐる国際間の一面」(1964史学会) 
⑹上田正昭「倭国の世界」(1976講談社現代新書) 
⑦大林太良「邪馬台国」(1977中公新書) 
⑧三木太郎「魏志倭人伝の世界」(1979吉川弘文館) 
⑨福本正夫「巫女王・卑弥呼をめぐる諸問題」(1981大和書房) 
⑽奥野正男「「告諭」・「以死」・「百余歩」」(1981梓書院) 
⑾白崎昭一郎「卑弥呼は殺されたか」(1981梓書院) 
⑿三木太郎「倭人伝の用語の研究」(1984多賀出版) 
⒀張明澄 「一中国人の見た邪馬台国論争」(1983梓書院) 
⒁謝銘仁 「邪馬台国 中国人はこう読む」(1981立風書房) 
⒂徐堯輝 「女王卑彌呼と躬臣の人びと」(1987そしえて) 
⒃沈仁安 「倭国と東アジア」(1990六興出版) 
⒄水野祐 「評釈 魏志倭人伝」(1987雄山閣出版) 
⒅岡本健一「発掘の迷路を行く 下」(1991毎日新聞社) 
⒆井沢元彦「逆説の日本史 古代黎明編」(1993小学館) 
⒇生野真好「「倭人伝」を読む」(1999海鳥社) 
㉑藤田友治「三角縁神獣鏡」(1999ミネルヴァ書房) 
㉒佐伯有清「魏志倭人伝を読む (下)」(2000吉川弘文館) 
㉓井上筑前「邪馬台国大研究」 (2000梓書院) 
㉔武光誠 「真説 日本古代史」(2013PHP研究所)
㉕岡本健一「蓬莱山と扶桑樹」 (2008思文閣出版)
                             以上

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