私の本棚

主として古代史に関する書籍・雑誌記事・テレビ番組の個人的な読後感想です。

2023年3月17日 (金)

私の本棚 番外 「邪馬台国論争」『一局面 暗号「山上憶良」』古田武彦批判 更新 1/6

                         2016/02/08 補充 2022/12/14 2023/03/11,17

◯始めに~個人サイト批判の弁
 個人管理のサイトでの論説に対して批判を加えるのは本意ではないが、ネット世界に於ける「邪馬台国論争」の(血なまぐさい)様相に付いて、当ブログ筆者の感慨を具体的に示すものとして、あえて、率直な批判を加えるものである。
 同サイト管理者の攻撃手法には、拙い誤解と非難すべき反則技が多く、却って、論考の信頼性を大きく損なっているので、ほっておけないと感じたのである。また、この場で、学界のお歴々と並んで批判されるだけの価値ありとの位置付けをしているのでもある。

 さて、同サイト管理者は「古田武彦氏の説のウソ」と誹謗、中傷口調で書き出しているが、語調の「きつさ」、「えげつなさ」の割には、根拠が不明であり、また、内容が的外れである。

 周知のごとく、古田武彦氏の提唱した説は、こと古代史に限定しても、広汎、多岐であり、全体をウソと断じたものか、特定の説にウソがあるのか、論旨が不明である。物事を明解に表現しない/できないのは、論者が未熟なせいと苦笑するしかないのだろうか。今日のように、裸の王様を大勢見かけると、声をかけるのが難しいのである。
 また、書き出しに2-1と銘打って、後続続々と布石しているが、どうなったのだろうか。まさか、ネタ切れではないだろうに。

 さて、記事書き出しを見た限りでは、古田氏の一書「古代は輝いていたⅢ」で堪忍袋の緒が切れたようであるが、ここまで当方には、一切お怒りの事情が伝わらないので、お説を伺うとする。
 ということで、冒頭の切り出しであるが、どうも、不用意な取り上げ方と言わざるを得ない。

*因みに、同サイトは、2016年時点で、誤謬が露呈しているサイトと判断したので、以後、参照していない。現時点で、ここで指摘した誤謬が是正されているとしても、当方の知るところではない。

 2.古田武彦氏の説のウソ
 2-1 景初3年が正しい理由
 当記事の書き出しは、陳寿「魏志」という有名史料を根拠にしているが、資料原文が誤っているとの「思い込み」を前提としているので、文献批判の一種としても、端から、信じがたいものになっている、と申し上げておく。

*根拠とならない風評資料~「理由」にならないこじつけ (補充 2023/03/17)
 要するに、良好な資料が確実に継承されている「魏志」の「倭人伝」には、はっきりと、間違いようのない「景初二年六月」の文字が維持されているのであるから、これを「景初三年六月」の誤記と断じるのには、魏志「倭人伝」と同等以上に良好な資料を提示する必要がある、と言うか、そうでなければ、無効な異議である。
 氏は、そのような「真っ当な」手順を無視して、景初三年と書かれているわけでもない「魏志」東夷伝内の別資料を提示しているが、同記事は、「倭人伝」記事本文解釈の視点から見ると「圏外」であり、しかも、年月の明示されていない雑情報であり、端から、門前払いとなりそうなものである。とは言え、一応評価に値するとして検討するが、基本的な資格不足は、念頭に置くべきである。

 氏は、論証にあたって、原文を当たることなく筑摩書房版の翻訳文を採用しているのが、無節操で困ったものである。
 せめて、読み下し文を見ていれば、原文の趣旨が察しられるのだが、翻訳の場合は、翻訳者が理解した文意に沿って粉飾加工されるので、翻訳者の理解に誤解があれば、ほぼ必然的に誤訳になってしまう「危険」を(取れたてのふぐのように、ほぼ確実に)含んでいる、というのが、定説中の不動の定説である。
 本例で言えば、翻訳者が、高度な教養を要する読者を想定して高度な構文を呈しているのに、無教養な現代読者が、安直な誤解に陥っているのは、翻訳者の責任ではないのである。丁寧に言い直すと、漢文の「又」を日本文の「さらに」と滑らかに飜訳しているのに、「時間的に遅れた」と書いているように速断しているのは、無教養な現代読者の不勉強な浅読みであり、翻訳者には、何の責任も無いのである。

1.両郡攻略/回収
 この場合、翻訳者は、魏の遠征軍は、まず、遼東の公孫氏を滅ぼし、次いで、南下して、公孫氏の支配下にあった楽浪、帯方の両郡を攻略したとの根拠不明の先入観(思い込み)を持っていて、その先入観を書き込んでいるが、原文には、そのような粉飾表現は書かれていないと考えたように見えるが、これは、後世読者の勘違いであったことがわかった。
 原文は、「又」としているが、これは、別に、時間的前後関係を言うとは限らず、単に、「それとは別に」というに過ぎない。何しろ、洛陽の史官に、遼東の大規模軍事行動と両郡の密かな活動のどっちが先でどっちが後か、厳格に確認できるわけも無いから、「ついで書き」したと見るべきではないだろうか。

 さほど入手困難と思えない原文に当たると、「誅淵」(公孫淵を誅殺した)と書いた後に「直ちに続けて」、「又潜軍浮海」(また、潜(ひそかに)に軍を海路送って)楽浪、帯方の両郡を収めたと書かれている。これを、初稿では、『「さらに」と、時間の流れを込めて書き足したのは、翻訳者のやり過ぎと見た。単なる「又」には、時間的な前後は込められていないと見るものではないかと思った。』そう感じたので、初稿は、率直に論じたことに間違いはない。以下、反省しているのは、追い追い読み取れるはずである。

*浅慮の誤釈~自己批判の弁
 因みに、つい、当方の素人考えで、浅慮を示してしまったが、自身の乏しい学識に頼らず虚心に国語辞書を熟読すれば、翻訳文の「さらに」も、別に、時間的前後関係を言うとは限らず、絶妙な飜訳と理解できるのである。つまり、読者が、無教養で、自身の限られた語彙にしがみついては、翻訳者の配慮も、水泡に帰すという一例である。
 当方は、遅ればせながら、自身の浅慮に気づいたので、ここに訂正している。

 要するに、「又」の字義には、両様があって確定できないので、文献の前後関係、「文脈」から読解くのである。

*高度な読解
 もし、ことが、遼東攻略の後であれば、何も、「ひそかに」、渡海上陸し進軍する必要はないから、両郡攻略は遼東攻撃の前に行われたとみるべきではないだろうか。現に、そう判断する論者も多いのである。

 この辺り、長駆進軍している遠征軍主力による西方、と言うか、西南方からの一方的な攻撃は、大軍であっても、遼東に広く勢力を張った公孫氏の待ち受けているものであり、迅速な攻略は困難と予想できる。東方、と言うか、東南方からの分遣隊による挟撃が必須と見た司馬懿の周到な軍略が見て取れると思うのである。(付注 わかりやすいように、司馬懿に花を持たせたが、原文では、明帝が指示したとあり、正確ではない。当方の「粉飾」であった。反省するが、当記事では修正は加えないことにした)

 三国志に書かれているように、この当時、曹魏は、長江(揚子江)上流域域から関中、長安付近への蜀漢軍からの執拗な「北伐」の攻撃に耐えていたと共に、長江下流域では孫権率いる東呉孫権指揮下の大軍と対峙していて、孫権は、戦況が確実に有利とみたら、じんわりと、分厚い攻勢を取るから、遼東遠征軍は、速攻、かつ、確実に遼東を確保する必要があった。つまり短期決着の確実な挟撃作戦を採ったと見るものである。つまり、この時期、蜀漢は、宰相諸葛亮の没後で逼塞していたが、体勢を整えて再度北伐するかも知れなかったのである。
 法外と見えるほどの大軍を派遣したのも、その一環である。現地滞在が長期化すれば、食料の消耗が激しくなる上に、中国では、大規模な戦闘での敗戦責任は、将軍の一家族滅である。理由は何にしろ「絶対負けられない」のである。

 なら、ここに作戦内容を明確に書くべきではないかという抗議が聞こえそうだが、東夷伝の役目は、遠征軍が「誅淵」した一方で、両郡を皇帝直属とすることにより、東夷を直属させたと明記するのが主眼なのであり、それ以外の軍事行動は、付録に過ぎないから、この程度で良いのである。本当に、司馬懿の軍功を高々と顕彰するのであれば、明帝本紀に書くものであり、こんな閑静な場所にひっそり書くものではない。

 ちなみに、翻訳者は、両郡攻略について、原文の「収」(収めた)という平穏な表現を粉飾して「攻め取った」と強い言葉で書いている。その意識としては、健在であった遼東政権から「攻め取った」と見ているのである。これが、遼東政権が崩壊した後であれば、攻め取るのではなく、魏朝傘下に収めたとでも言いそうなものである。漢文翻訳の怖さである。

 丁寧に読み解くと、実際に起こったのは、魏朝皇帝の勅命で、公孫氏が勝手に任命していた現地の郡太守が更迭され、新任郡太守が取って代わって着任したものであり、単なる人事異動と組織変更、つまり、両郡を遼東郡から切り離して、皇帝直轄とするものであって、その際、戦闘があったとは書いていない。皇帝の命令が実施されたに過ぎない。まさしく、「密かに」である。

 翻訳者は、厖大な三国志全体の正確な飜訳に多大な労を費やし、不滅の功績を成し遂げている。「細瑾」、細かい行き違いがあったとしても、とがめ立てするべきではなく、単に訂正すれば良いだけである。特に、当事例では、読者が気づかないだけで、万全の配慮がされているのだから、謹んで、この点に関しては、拙論を取り下げたのである。

 それにしても、これほど重大な誹謗記事を公開するに先立って、氏は、原文、つまり、「魏志」の関連記事全体の趣旨を確認することなく、結果として翻訳者を責めているのは、誠に氏の不明を公然としろしめすものであり、素人目にも感心しない。

未完

私の本棚 番外 「邪馬台国論争」『一局面 暗号「山上憶良」』古田武彦批判 更新 2/6

                         2016/02/08 補充 2022/12/14 2023/03/11, 17
 2.古田武彦氏の説のウソ
     2-1 景初3年が正しい理由

2.京都(けいと)往還
 さて、魏志の飜訳を読んでも、「景初二年六月に倭国大夫が帯方郡に来て魏の天子に拝謁したいと申し入れた」と書いてはいるが、それを受けて、即日送り出したわけでないのは自明である。
 以下、魏志の少ない文字をじっくり噛みしめてみると、「景初二年遼東事態」(東夷来)の姿が見えてくるのである。
 案ずるに、司馬懿は遼東遠征に周到な構想を持っていて景初二年の春先早々にひそかに、海路、山東半島付近から帯方郡に向けて征討軍を派遣し、楽浪、帯方両郡をあっさり攻略した後、直ちに、新たな郡治を設定し、郡太守および副官等の随員をおいたはずである。
(付注 「実際」は、前ページに書いたように明帝曹叡の戦略である。又、景初二年事態と決め付けたのも、当方の浅慮であった)

 新たな郡太守は、魏朝の一機関を統轄して、郡の民生を安定・掌撫するものであり、現地軍の編成などにより現地人の戦力を把握すると言う遠征軍務の一環となる任務と共に、遼東平定後の半島南部やその向こうの東夷の教化(文明化)も必要である。

 郡太守は、「王」と同格であり、絶大な権限を委ねられていて、 多額の俸給(粟)を得るとともに、郡治として城郭を構え、管内を取り仕切る郡兵を擁し、管内で徴税、徴兵などの大権を持ち、事実上、辺境に於いて、「幕府」ないしは「都督府」を開いていたのである。ただし、公孫氏が後漢の郡太守であった時代、遼東郡は、いわば、一級郡であったが、楽浪郡、帯方郡は、その配下の二級郡であり、俸給も権限も制約された「格下」であったのである。それが、明帝の指示で、一級郡に格上げされ、韓倭都督」と言うべき大きな権限を与えられたと見るのである。

 合わせて、過去、公孫氏が山東半島の「齊」を占拠した際に活躍した楽浪郡も、皇帝直轄の一級郡となり、公孫氏は、山東半島への輸送経路を喪ったのである。
 楽浪/帯方郡は、一級郡となったものの、あくまで、郡太守は皇帝の配下であり、少なくと、月次の活動報告を欠かすことはできず、業績評価自体で、一片の帝詔で更迭、馘首することができたものである。何しろ、山東半島経由とは言え、以下、洛陽との間は、騎馬の文書使が速報するから、国内の諸郡と等しい管理体制に合ったのである。

 以下、私見を述べると、遼東への速攻体制を確保したのは、前回紹介した中原状勢への配慮もさることながら、遼東での戦闘が長期化して、現地の早い冬が来ると、冬将軍には勝てずに撤退が予想されたのも大きく影響しているものと思われる。
 それでは、司馬懿の地位が危ういどころではなく、敗戦とみられると一族もろとも死刑、一族滅亡となるのである。軍人は、敵に殺される危険だけでなく、味方からも命を狙われていて、命がけである。
 もちろん、司馬懿は、敗戦の責任が一身に降りかからないように、しばしば、洛陽に急使を送って、作戦行動の許可を求めていたが、皇帝に責任を転嫁するということは、敗戦の際、皇帝が非難されるのであり、公孫氏討伐の失敗が繰り返された果ての大軍派遣であるから、明帝自身、多大な責任を負っていたことになる。と言うことで、司馬懿軍の進軍と並行して、両郡回収を図ったのは、天子たる明帝曹叡の当然の大局的戦略と推定できる。

 ともあれ、皇帝の秘策であった楽浪/帯方両郡の収容により、遼東に向けて北上する部隊は、後方から襲われる不安がなくなり、遼東挟撃に大きく寄与したと思われるのである。
 そのような新体制「帯方郡」の初夏に、海・山、つまり、海峡渡海と竹嶺の難所を含む内陸街道を越えて、倭国使節が到着したわけである。

 定説では、倭国の使節派遣は、公孫氏滅亡の知らせを受けた自発的なものと見られているが、そのような超時代的な情報収集能力を想定するよりは、帯方郡から、新体制確立の告知と共に、自発的な遣使を求めたものと見る方が、随分、随分自然である

 当然、知らせには「遅れたものは討伐する」程度の威嚇は含んでいたであろう。そうでないと、重大な使節にしては、倭国遣使の貧弱な献上品と手薄な使節陣容が、うまく説明できないのである。まして、長年、遼東の支配下にあって、中国本土との交信が閉ざされていたのに、いきなり、魏朝の天子に会わせろ、と言うのも、奇妙な話である。これも、魏朝側から、「洛陽に飛んでこい、謁見した上で褒美をやる」と呼びつけたとみる方が、随分自然である。いや、事の流れを見ると、単に、郡治まで出頭せよと指示しただけで、洛陽で天子に拝賀できるなどと言っていなかったとも見える。正史の記事として書いていることが、そのまま、事実の報告とは限らないのである。

 ともあれ、太守の初仕事でもないだろうが、洛陽の魏朝に「倭国」の来歴、女王と大夫の身元確認などを報告して、東夷使節の魏都訪問、拝謁を賑々しく稟議し、太守自身の功名を盛り立てると共に、上京、謁見の可否を問い合わせたはずであり、皇帝の裁可を得て、魏朝側から旅程の通行許可証と各宿駅での宿舎の提供を認める通知が届いたはずである。
 恐らく、「倭人」召喚は、皇帝の意図であり、従って、迅速な通知となったはずである。

 最速で折り返したとしても、郡の通知から使節の郡治到着までには数ヵ月かかったと見た方が良いのではないか。その頃であれば、残敵掃蕩も終わり、遅滞なく洛陽まで移動できたと思われる。倭人伝には、郡と倭の間の行程は、片道四十日程度と書かれているが、これは、文書の送達日数であるので、倭使の参上には、これより日数がかかったかもしれない。倭が筑紫との前提であれば、さほど無理のない行程と見える。

 もともと、倭使の行程は、遼東を一切経由せず、黄海を渡船で渡って、山東半島東莱に上陸し、以下、官道を急行したはずであり、一部軽薄な論者が言うように、遼東の混戦に巻き込まれることなどなかったのである。帯方郡太守が、戦地に向かって北上させ、大きく行程を迂回させるような無謀な指示を出すことはあり得ないと、一人前の研究者であれば、言われなくてもわかりそうなものである。

 受け入れ側にしても、皇帝の厳命があったとは言え、急遽、拝謁儀礼を確認し、詔書や土産物の準備に着手したはずである。
 巷説に因れば、その間に、従来の銅鏡に数倍する質量、斬新な意匠の銅鏡を百枚新作し「輸出梱包」したことになっているが、そんなことは、少し考えれば論外とわかるはずである。いくら、先帝の遺命と言えども、度外れた厚遇にも限度がある。

*大「銅鏡」制作の想定~余談
 なお、俗説には、途方も無いホラ話があって、倭使の洛陽来訪の度に、百枚の銅鏡が下賜されたと決め込んでいる向きがあるが、厚遇は、初回のみであり、まして、特段の厚意を示した明帝の没後、初回同等の下賜物などあり得ないのである。又、遠隔の東夷は、二十年に一度の
来貢が定則であり、倭人伝に書かれているような頻繁な往来は、正式のものではないのである。
 このあたり、「倭に数百枚の魏鏡が齎されたに違いない」という「願望」ばかり語られている例があって、困惑するのであるが、誰も、是正しないところを見ると、本件に対する「自浄機能」は存在しないようである。いや、つまらないことに字数を費やしたが、関係ない論者は、さっさと読み飛ばして頂きたいものである。

 銅鏡を新作するのであれば、魏朝の尚方(官営の美術工芸品製造部門)は、原材料、燃料の調達、鋳型工、鋳造工急募、本作にかかるまでの試作の繰り返し、長距離水陸運搬に耐える木箱の量産、搬送する人夫の確保、等々、商売繁盛を極めたはずであるが、それには、数年を要するものである。何しろ、後漢末に、一度、洛陽の諸機関は、長安に移動していて、曹操が、建安年間に復興させたにしろ、まだまだ弱体であったはずである。まして、景初年間、明帝が、新宮殿造営を命じていたから、装飾の銅器を多数制作するのに、全力を費やしていたと見るべきである。
 当時の記録を確認すれば、未曽有の大銅鏡の多数(未曽有の大判鏡の百枚は、途方も無い数と見える)新作などあり得ないとすぐわかるのである。いや、これは、一部、不勉強な論者に対する非難であって、本件に関しては、余談である。

 因みに、新宮殿造営は、景初三年初頭の明帝急逝によって、撤回されていて、魏朝は新帝曹芳の下、服喪に入ったのである。
 そうした情勢下、景初倭使が、景初三年六月に帯方郡に参上したとすると、それは、先帝が熱意をこめた東夷招請の余韻に過ぎず、新来の東夷として厚遇された見込みは乏しいと思うのだが、倭人伝記事は、大量の下賜物、好意的な帝詔を含め、熱烈歓迎の姿勢なのである。また、明帝没後の招請とみても、六月到来とは、随分ゆるゆる参上したはずなのに、薄謝と見える細(ささ)やかな手土産の意義が不明なのである。

*「定説」の分別-不合理
 按ずるに、「定説」は、『魏志は、「景初二年六月」に始まる文字列に続いて「郡太守が、倭国大夫を京都(魏都洛陽)に送り届けた」と書いている』が、『それは公孫氏討伐の最中の上京であり極めて困難であり、また、遼東陥落、平定後、八月以降になって、はじめて帯方郡を攻略したと書かれているから、「景初三年六月」でなければならない、時間的に到底無理と断じる』と根拠無しに思い込んでいるが、以上のように、慎重に読み解くと、そもそも、「定説」のような「景初二年遼東事態」の読み取りは、不合理(人の暮らしの理屈に合わない)である。

 魏志の記事に戻ると、「景初二年遼東事態」発生以降、事象の発生時点が明確に書かれているのは、同年十二月に詔書を賜ったという記事だけである。倭国使節である「倭大夫」の帯方郡治到着からの六カ月のどの時点に上京したかは書かれていない。

 サイトの論者は、以下、綿々と自説を補強するように、地道な考察を重ねているが、肝心の基本資料の解釈で、頼りにした翻訳文の解釈に齟齬があれば、いくら丹念にその字面を追って考証しても、「証」(言偏に正しい)とならず、切ない自己弁護、見方を変えれば、ウソの上塗りに他ならない。

*「又」、「さらに」の考察~翻訳者顕彰
 またまた私見を補足すると、「翻訳文」の解釈が、翻訳者の深意を外している可能性も無視できない。論者の日本語文読解力に疑念を呈する次第である。
 按ずるに、翻訳者が「又」を「高度な日本語」に「飜訳」したのに気づかず、素人考えで、つまり、現代語感覚で安易に読解した可能性を感じる。此の際の経緯を見ると、原文から翻訳文に齎された深意が理解されず、論者の思い込みが(化粧品の「コンシーラー」のように装わせ)「糊塗」されたために斯くの如き誤解が生じたと見えるのである。
 多くの支持者に識見を求められている論者は、より高い品格を求められていると思うのである。

 権威のある国語辞典「辞海」の「さらに」、「又」の項には、これらの言葉が、それまでの事項(甲)を受け、「それとはべつに」と新たな事項(乙)に繋ぎ、甲乙並記と解釈することができると示されていて、漢文の「又」の語義を丁寧に引き継いでいるとわかる。本件に関して、翻訳者に、非は一切なく、論者の錯誤と見える次第である。いや、「引き続き」の意を強くもっているのを否定しているのではない。だからといって、「端(はな)から決め込んではならない」という戒めである。

*忍び寄る原文改訂
 この件に限らず、後世資料は、原著者の緻密な推敲を読めないための後世知の推測による改訂の影響を免れず、もともと不確かさを含む資料を、更に不確かさの深まった資料を根拠に否定するという、一種、学界に蔓延した悪弊に染まったものと感じる。
 いや、魏志の文意を追求すると、原史料の原文が中間段階で善解されて「美しく」整形されて正史編者に伝わった様子が見える例が珍しくないのである。

*「ウソ」と非難する責任
 論者が非難する『古田氏の「ウソ」』も、大抵は、こうした牽強付会の行為と思われる。最初の一歩に間違いがあったのに気づかないでいると、それ以降の強引な考証は、全て自説の誤りを上塗りする「ウソ」になってしまうのである。
 ただし、そのような悪弊は、論者の独占事項ではなく、古代史世界に限っても、他ならぬ古田氏を始め、類例が山成すほどの普遍的なものである。論者は、暗がりの人影を大敵と断じて、激烈に攻撃しているが、人影は、ご自身の鏡像であり、攻撃は、鏡面に反射して自滅になっているのである。

 ここまで書いてきて、念押しするのは、以上の解釈は、絶対の必然ではないというとこである。論者が、閻魔の代わりに「ウソ」と決めつけて、致命的な大罪と一方的に断罪・裁定しているから、そのような告発は冤罪ではないかと正義の裁きを訴えているのである。

 当サイトの論者のように、「ウソ」を断罪するのに性急となり、「俺がやらなきゃ、誰がやる」とばかり、正義の味方を気取って斬りまくるのは、往年のチャンバラ時代劇のパロディーのようである。因みに、その主人公は、「公方」様であるから、斬るのでなく峰打ちなのであるが、護衛のお庭番は、ざくざく斬っていたのであるから、正義もいい加減である。

 それにしても、当ブログ筆者も同病の患者であるので、全貌に目の届くような些末事項の批判にとどめて、余り踏み出さないのである。
 言うまでもなく、「古田氏の著書の読者は、書かれている全てが正確な論考だと信じ込んでいるものばかりではない」と思うのである。反対者も、同断である。
 一度、早計な感情論を鎮めて、原資料の読み返しをされたらよいと思う。

 氏の令名故か、氏の論義を引用している近例があるから、後世に悪名を残さないように、是非、御再考いただきたいと思うのである。
 随分ご無沙汰の本稿に手を入れたのは、近来、参照されている通行人がいらっしゃるからである。

以上

2023年3月11日 (土)

私の本棚 番外 「邪馬台国論争」『一局面 暗号「山上憶良」』安本美典批判 更新 3/6

                         2016/02/08 補充 2022/12/14 2023/03/11
◯始めに
 個人管理のサイトでの論説に対して批判を加えるのは本意ではないが、ネット世界に於ける「邪馬台国論争」に付いて、当ブログ筆者の感慨を具体的に示すものとして、あえて、率直な批判を加えるものである。
 また、この議論は、すでに公開した古田武彦氏に関する議論より先にまとめたのだが、ここで打ち出されているのは、安本氏の論説に対して誤りと言い立てるものであるのに対して、古田武彦氏に対しては、「嘘つき」との糾弾であり、そちらの公開を先行したものである。  

 安本氏の「数理歴史学」の誤り

 前回記事も含めて、この場で述べたいのは、学術的な「論争」のあり方というものである。
 世の中には、様々な個人的世界観、ものの見方の基準があって、その基準が一致していないと、正誤、適否の議論は成り立たないと言うことである。まして、対手を、罵倒、つまり、誹謗中傷するのは、到底許容されないのであるが、古代史学では、さながら冬空のオリオン星座のように「馬頭星雲」ならぬ「罵倒星雲」が邪悪な光芒を示しているので、大変、勿体ないと思うのである。

 いや、そうした議論が、論争相手(論敵)を論破して意見を改めさせることであれば、意味がある。しかし、その際に、自身の論理の当否に目を配ることなく、勢いよく主張するのが最善策ではない。大半の場合、論争とは、検証可能な主張を積み重ねて、小さな勝利を積み重ねるのが正道と思う。
 陳腐な一般論であるが、論争で、相手の立脚している論理を頑強に否定するだけであれば、それは、単なる言い争いであって、大局的に不毛であると考えている。当人にも不毛と思うのだが、それは、当人の問題なので当方は干渉しない。

*批判の対象
 ここでは、論者たるサイト管理者(論者)が、安本美典氏を論破しようとしている、その足取りと口ぶりに対して批判を加えたい
 毎度のお断りであるが、当ブログ筆者は、批判対象となる記事の内容に対して、素人の知識をもとに反論しているので、その範囲は、ここにあげた記事の範囲にとどまっている。

 さて、切り出しでは、文芸春秋氏の座談会記事に於ける安本氏の発言を引用して批判のにしたいようである。しかし、これは「原文引用」なのか、論者の要約なのか不明であり、当記事に反論するのに不便である。
 また、当の雑誌記事は、もともと、座談会録音のテープ起こしであろうが、ここから感じ取れる口調や論理性は、安本氏の論そのものとは言いがたいものがあり、 テープ起しの際の編集と感じるのであるが、確証はない。

 引用の直後に示されている数理統計学的年代論」のエッセンス」というのは、論者の意見であり、安本氏ほどの権威の言葉遣いが揺らいでいるのではない、つまり、当人の発言ではないように見えるのが気がかりである。

 安本氏も、いくら持論の発露とは言え、座談会記録を、自身の信念というか持論のエッセンス、決定版とみなして、反論できない弾劾、斬られ役に持ち出すのは、勘弁してくれよと言いたいところであろう。

*弾劾の迷走
 その直後に、サイト管理者たる論者は、「安本氏の四つの過誤」(と、便宜上呼ぶことにする)を書き立てて、従って、安本氏の主張は、「数理統計学」とは無縁であると断言している。仰々しく掲題しておきながら、安本氏の主張の誤りを論証するのではないと言う。随分、杜撰である。

 ここまでの一瞥で、古代史学で、健全な議論のお手本を探し求めている当ブログ筆者は、論者は無縁の衆生として、きびすを返しても良いところである。以下は、当人の言いたいままにほっといたらいいようなものであるから、色々意見するのは、単なる余計なお節介である。

 さて、この4項目に書かれている主張を論破するのが、論者の目的と宣言しているものなのだろうか。「被告」と「罪状」が明らかにならなければ、「陪審員」も意見を出しようがないのである。

 さらに戸惑うのだが、本論は、「安本氏の「数理歴史学」の誤り」を論証するようにと題付け(仰々しく掲題)されている のではないか。論者は、どのような視点から安本氏の「数理歴史学」と数理統計学」との有縁、無縁(非科学的な論争用語ではないか)を言い立てているのだろうか

*とんだとばっちり
 続いて、今度は、安本氏が旧著で、自身の提唱した論考のあらましが、先人である栗山周一氏の著書にすでに同趣旨の年代論が発表されていたことを知って嘆息したという記事を参照して、嘲笑に似た批判を行っている。
 しかし、安本氏の論理の誤りを追究するはずの論説で、安本氏の感慨吐露をを、他人の視点から勝手に推察して批判するというのは、論争の余談として、まことに不適切である。
 個人的な意見や感慨は、その個人の世界観を示すものであり、個人個人の世界観はその個人の自由なものであるが、広く共感を求めるために書き記すのであれば、広く通じる論理に限定すべきではないだろうか。

 ちなみに、安本氏の記事の引用の後に、「栗山氏の時代には、コンピューターはおろか、電卓もありません」と先人の知識、技能の欠落を嘲笑する文字が綴られているが、昭和初期にも、算盤はあったし、数値の四則計算に始まって、対数、三角関数表など、科学技術計算の手段は整っていたのである。
 江戸時代の算額の例を見ても、当世の素人の知り得ない高度な数学理論が生きていたのである。
 古代史分野では、直感的断定法(安楽椅子探偵)が優越し往々にして無視されるが、不確かさ含む断片的データに立脚する論理的思考法も、整っていたのである。

 「栗山氏が洞察、大局的な着眼によって見出し、着々と辿った論旨を、後生の安本氏が、コンピューターと統計学を駆使して、そうとは知らずに辿っていた」との感慨は、先人の叡知を称えると共に、そのようにして論理的に辿られた主張が、学界の大勢に正しく評価されることなく、地に埋もれていたことに対する嘆きであるように思うのである。

 未踏の秘境と思っていたら、先人の足跡が知られないままに残されていた事例は、皆無ではない。概して、謙虚な後人の姿を描くものである。
 本論部分ほど精査されていない余談部分に論者の理性の限界が現れるというのは、一種の真理のようである。

 さて、「嘆息」の無様さの非難に続いて、論者が展開する下記「安本氏の四つの過誤」(繰り返すが、これは当ブログ筆者の造語である)論の第一項が展開される。
 (イ)奈良7代70年と吹聴する誤り
 (ロ)天皇1代の平均在位年数が約10年とする誤り
 (ハ)天照大神を用明天皇より35代前とする誤り
 (ニ)35代前が推測できるとする誤り

未完

私の本棚 番外 「邪馬台国論争」『一局面 暗号「山上憶良」』安本美典批判 更新 4/6

                         2016/02/08 補充 2022/12/14 2023/03/11
 安本氏の「数理歴史学」の誤り

承前
 さて、「嘆息」の無様さの非難に続いて、論者が展開する下記「安本氏の四つの過誤」(繰り返すが、これは当ブログ筆者の造語である)論の第一項が展開される。
 (イ)奈良7代70年と吹聴する誤り
 (ロ)天皇1代の平均在位年数が約10年とする誤り
 (ハ)天照大神を用明天皇より35代前とする誤り
 (ニ)35代前が推測できるとする誤り

「(イ) 奈良7代70年と吹聴する誤り」
 と、なぜかひねくった言い方である。これでは、安本氏がえらそうに吹聴するのが悪い、という不作法の指摘となってしまう。この項のどこが、批判対象である安本氏の持論であるか、不明確なのである。なぜ、真っ直ぐに論理の不備を指摘しないのか、不可解である。当ブログ筆者は、安本氏と面談した経験はないが、氏は、それほど不作法なのだろうか。
 ちなみに、論者は、項目で「誤り」と糾弾していながら、本文では、「よくない」といやに軟弱になっている。怒鳴った後、猫なで声というのは、うさんくさいものがある。

 また、論者が、重大な論拠として参照するのは、誰が見ても場違いな中国諸王朝の歴代皇帝の在位年数であり、これは、いったい何だと言いたいところである。

 更に続けて、4王朝通じて、38代395年が平均10年になっているとした後、個々の王朝を見ると、平均10年になっていないと指摘をしている。それがどうしたと言いたいところである。

 更に更に続けて、従って、奈良7代70年というのは、たまたまであって、その点を「吹聴」するのは、一種「ペテン」であると非難している。
 「たまたま」であろうとなかろうと、歴史的時事であり考察の材料となるデータである。
 こうした一連の駆け足の論理が、「安本氏の提唱が誤っている」ことの論証になっていないのは明白である。

 まして、「吹聴」という、いわば当然の行為を誤りと主張したり、果ては、一種の「ペテン」である、つまり、安本氏はペテン師(嘘つき)である、と非難しても、何ら、科学的な議論に寄与しないことは明白である。

「(ロ) 天皇1代の平均在位年数が約10年とする誤り」
 今度は、比較的真っ直ぐに、安本氏の論理の誤りを問うものになっている。
 と言うものの、安本氏が「必然性」を主張したと糺しているのは、見当違いというものである。「と仮定すると」と明言されていても、引き続いて、一々の断り無しに書き連ねていると、結論が「一致している」と断定しているようにみえるものの、仮定を承けているので、実際は、「ように見えます」と付け足して読むのが、解読の常道のように思う。

 ということで、安本氏の主張は、全て、統計学的なものであり、ぼんやり読むと断定しているように見えても、すべて「確かさ」(不確かさ、すなわち誤差)の込められたものであって、「必然」を主張しているものでないのは明らかである。
 特に、統計学は、知的な裏付けのある「臆測」の学問であり、「断定」「独善」でないのは、常識ではないかと思われる。

 同時代の日本人の著述を、適格に読解できないとしたら、古代史史料の読解など覚束ないと見るのである。つまり、論者は、自分で自分の品格を落としているのである。くれぐれも、ご自愛頂きたいものである。

 論者は、ここで、知る人ぞ知る半島古代史史料「三国史記」を援用して、三国の王の平均在位年数が、「奈良時代の平均10年」を大きく超えているから、「安本氏の推計」(断定と言っていない以上、安本氏の言い分は読めているように思うのだが)が無意味であることは、議論の余地がない、と言い切っている
 しかし、大事な論証で、そんなに性急に断定して、糾弾に走るべきすべきではなく、何事も、まずは、当人と議論すべきだと考える。

 この項目について言えば、双方が依拠している史料は、それぞれ「ある程度」の信頼に耐える程度のものであり、それぞれの推論の立て方に客観的に異論がある以上、議論は必須と考える。
 「三国史記」が信頼に耐えるかどうかは、史料批判への疑問であり、それは、「日本書紀」等への史料批判を問うから、実に多大な論義が派生して収拾が付かないので、ここでは言及しない。

未完

私の本棚 番外 「邪馬台国論争」『一局面 暗号「山上憶良」』安本美典批判 更新 5/6

                         2016/02/08 補充 2022/12/14 2023/03/11
 安本氏の「数理歴史学」の誤り

承前
 こうして四大項目の最初の二項目で論者の荒っぽい、と言うか、論者の荒れ狂った言い分の是正にくたびれてきたので、以下の項目については批判しないが、素人目にも、それぞれ「誤り」を指摘されている項目は、安本氏が、自身の採用した仮定とその展開の帰結を表明しただけではないかと思われる。
 推論の展開に使用した仮定に同意できない(気にくわない)と言って、採用手法を否定するのは、お門違いである。まして、ペテン呼ばわりは、いただけない。ご自身に、たっぷりとおつりの返ってくるものである。

 『「安本氏の議論は独善、従って、一顧だにすべきではない」と言いたい』のであれば、自身は、それに、自家製の手前味噌の独善で対抗するのでなく、筋の通った、客観的な論理を貫くべきだと考える。
 特に、「独善」、つまり「孤説」であることをもって、その節の当否を判断するのであれば、世の論客は、論者自身はもちろん、当ブログ筆者を含めて、全員ゴミ箱直行である。「一顧だにすべきではない」と断定しているが、論者のご提案の趣旨は、貴重な意見であるが、その正鵠については、深く読解した上で広く確認する自由を持ちたいものである。また一つの独善とまでは言わないとしても、

 例えば、締めの部分で、『たとえ古代天皇の平均在位年数が10年であったとしても、特定の天皇から35代前の年代を推定することは意味をなさないのです。   この事実を無視した安本氏の年代論は、邪馬台国ファンを惑わす、「似非数理統計学的年代論」と弾ぜざるをえません。』と痛打を加えようとしているように見える。
 しかし、素人目にも、統計学的手法によって、既知の年代のデータをその範囲外に適用する「外挿法」による推定は、元々、法外に不確かなものである。公の場で提唱されるのは、有効であると自信のある場合だけであろうから、大抵の場合は、推定不発、それも、極めつけの大外れになるものである事は、自明であろう。

 しかし、元々、古代史にまつわる諸説は、おおむね不確かであるとしても、一部に何らかの確かさを含んでいるから、はなから否定することはできないものである。そういうものである。

 それでなくても不確かさを含む推定を、遠く時代を遡って、推定の対象となる天皇に至るまでの遡及代数が増えれば、推定に含まれる不確かさが急速に増大するのは、一般論という名の常識的な推定である。ただし、一般論は、それ自体、ある程度の不確かさを含むものであり、絶対普遍の必然ではない。
 都合の良いときだけ、当てにならない一般論を振りかざして、「安本氏の年代論」の全体を否定するのは、無理(物事の道理に反する)というものである。

 結論として、当論考は、安本氏の主張、ないしは採用手法を誤りとする命題を掲げながら、それを論証するものでなく、単なる持論の披瀝にとどまっていると考える。それなら、自滅に近い誹謗は、止めて行いた方が賢明というものである。

 論者には、性急な断定を誇るのではなく、自制を促したいと思う。
 安本氏の年代論を専門的に精査した上で、「似非数理統計学的年代論」と異端視するのであれば、論者の言う正統派の「数理統計学的年代論」を披瀝いただきたい
ものである。

 一介の素人である読者としては、学術的な議論、討論を、言葉や論理を駆使する公開格闘技試合になぞらえるなら、反則技の多発する格闘は、趣味ではないので、ご勘弁いただきたいのである格闘技ファンなら、場外乱闘や反則技も楽しめるかも知れないが、観客は、そうした感性の持ち主ばかりではないのである。

 言うまでもないが、当ブログ筆者は、安本氏の言い立てる年代論に全面的に賛成しているものではない。
 いや、安本氏が編集した雑誌「邪馬台国」の掲載記事や安本氏が主催するサイト記事に対して、不満、不安を感じることが、しばしばあるが、あくまで、個別の記事の誤りや論理の部分的なほころびを指摘するだけである。
 一方、不確かさを含む資料を利用して極力不確かさの露呈しない推定を組み立てる論説の進め方には、基本的に賛成している。

 世の中には、自身の気に入らない主張を打ち出している論考は、論考の結論に反対するだけでなく、論証仮定に採用された技法まで、丸ごと否定する向きもあるようだが、それは、「ファン」としての感情論であって、科学的な思考ではない

 ちなみに、論者のサイトには、色々、古代史分野に於ける糾弾記事が多数掲示されている。費やされた労力と時間、そして、それを支える使命感に対しては、賛嘆を惜しまないが、掲示されている記事が、悉く、数回の記事を費やして批判したような、思い込みで書かれた、論拠の不確かな、無用に攻撃、断罪する記事でないかと推定される。折角の労作が、ただの「猫またぎ」になりかねないのである。

 となると、そうした記事を解読しようとするのは、時間と労力の無駄なので、以下、科学的議論とは「無縁の衆生」として「一顧だにしない」事になる。いや、ネットの世界には、サイトの記事の「味見」をしただけで、余りの独善さと棘の多さに辟易したサイトも多々あるので、別に、ここにあげたサイトだけ別待遇というわけではない。

以上

私の本棚 番外 「邪馬台国論争」『一局面 暗号「山上憶良」』小松左京批判 更新 6/6

                          2016/08/18 補充 2022/12/14 2023/03/11
◯始めに
 個人管理のサイトでの論説に対して批判を加えるのは本意ではないが、ネット世界に於ける「邪馬台国論争」に付いて、当ブログ筆者の感慨を具体的に示すものとして、あえて、率直な批判を加えるものである。

***引用開始****
第一部 邪馬台国ファンを惑わす誤り
 2.古田武彦氏の説の誤り
  2-2 古田氏によるミスリード 

角川文庫に収められた、古田武彦氏の著書『「邪馬台国」はなかった』のカバーには、「古代史論争の盲点をつく快著」と題する、作家小松左京氏の推薦文が載っています。

古田武彦氏の『「邪馬台国」はなかった』を最初に強くすすめてくれたのは、
文化人類学者の梅棹忠夫先生だった。
―― 一読して、これまでの論議の盲点をついた問題提起の鮮やかさ、
推理の手つづきの確かさ、厳密さ、それをふまえて思い切って大胆な仮説を
はばたかせるすばらしい筆力にひきこまれ、読みすすむにつれて、何度も唸った。
何よりも、私が感動したのは、古田氏の、学問というものに対する「志操」の高さである。
初読後の快く充実した知的酩酊と、何とも言えぬ「後味のさわやかさ」は、
今も鮮やかにおぼえている。

こういうのを、絶賛というのでしょうが、小松氏は、まんまとごまかされたのです。
***引用終わり***

 いや、説得しても聞き入れてもらえない状態で、言い足すのも何なのだが、やはり、人の道として見過ごしに出来ないので、付け足すものである。所詮、個人の意見は多種多様、言論の自由、表現の自由もあるので、当方の意見を聞き入れよと言うつもりはないが、率直な批判をさせて頂くのである。
 言うまでもないが、当方にこの件に対する反論をコメントで寄せられても、対応、公開は、保証しないことを申し上げておく。

 当ブログ筆者が、何か言わずに言われなかったのは、古田氏著書に小松左京氏の推薦文が入っていたことについて、小松左京氏の見識を誹謗するサイト記事になっていたからである。誹謗中傷は、学術的議論に於いて、排除されるべきであると考えるのである。

 それでなくても、一般論として、自分の理解を超えた意見について、十分理解することなしに、嘘つきとか詐欺師とか、度を超えて誹謗・罵倒するのは、好ましくないのは自明と思うが、「小松氏」が「古田氏」の著書に大して個人的な感想を述べているのに、第三者が「小松氏は、まんまとごまかされた」などというのは、誰が考えても行きすぎと思う。

 小松氏は、サイト管理人と古田氏の「私闘」に直接関係のない局外者である。推薦したとは言え、「腰巻き」をネタに個人攻撃されてはたまるまい。また、故人となって久しいので、当人には反論も出来ないのである。

 当方の知る限り、小松左京氏は、博識で万事に豊かな見識を持っていて、他人の所説に対して上っ面の感触だけでのめり込む人ではなかった。知人であっても、社交辞令に美辞麗句を連ねる人ではなく、著書に不満の点があれば、相手の逆鱗に触れるのを怖れず率直に批判する人であったと思う。不審であれば、小松左京氏の著作を熟読してほしいものである。

 古田武彦氏の「邪馬一国の道標 」(ミネルヴァ書房 2016年1月復刊版)の巻末に両氏の対談が収録されているので、それぞれの見識を確認されたらどうだろう。小松左京氏と古田武彦氏は、それこそ長年の同志であり、互いに相手の内面を知り抜いている間柄だったのである。聞きかじりでどうこう言っていたのではないのである。

 当ブログ筆者は、知識、見識、向上心の全ての面で、二人の域には大分というか到底というか及ばない。二人とも故人となっても、後進のものに到底追いつけない先駆者と思うのだが、もちろん、その意見を押しつける意図で言っているのではない。一度、自分の意見が妥当なものかどうか、よく考えて欲しいと言うだけである。

 ついでのついでだが、小松氏共々、だまされたことになっている「文化人類学者の梅棹忠夫先生」は、未知、ないしはそれに近い、往々にして未開の人間社会に入り込んで、大量の現場情報を採取し、それに基づいて、当該社会の「文化」を読取り、絵解きする学問分野の大家であり、生のデータから「事実」を読み取るかたであった。古代史学の先入観を押しつける姿勢と対極の人であった。

 我々一般人はともかく、梅棹、小松の両氏ほどの知的な巨人達ををだますのは、とてもとてもできないことだと思うが、そう思わないと言われたら何も言い足すことはない。付ける薬がないのである。

 思うに、この部分を削除してもサイト記事の威容を損なうものではないので、削除した方が良いのではないか。
 いや、当方如き素人が、あれこれ指図することはできないのだが、

以上

*誤字訂正など     2018/01/09

2023年1月21日 (土)

新・私の本棚 番外 白石 太一郎 「考古学からみた邪馬台国と狗奴国」 再掲 1/1

  吉野ヶ里歴史公園 特別企画展記念フォーラム「よみがえる邪馬台国『狗奴国の謎』」講演記録 2012年10月13日
*私の見立て ★★★★☆ 重大な資料                   2019/11/01 補充 2023/01/21

□総評
 ここに批判するのは、白石太一郎氏(大阪府立近つ飛鳥博物館館長[2004~2018]2019年当時名誉館長)の席上講演の冒頭ですが、現代「考古学者」が、文献史学に対して抱いている先入観と、考古学「研究成果」がどのような背景から生み出されているかを物語るとして、引用しています。

 素人目には、単なる我田引水です。『氏が古墳研究成果を粉飾/化粧して、三世紀に「近畿の大和を中心に西は北部九州に及ぶ広域の政治連合」を創造した』ことは、古代史学に対して絶大な脅威です。
 その結果、「邪馬台国」「畿内説」は「研究成果」に迎合し、これを妨げないように、文献史学の(様々の)問題が巻き起こされ、今も、妖怪の如く古代史界を徘徊しているのは、なんとも痛々しいのです。

 是非、偉大な業績に相応しく、考古学の本分に目覚めて、晩節を正していただきたいものです。

*講演引用と批判
 『魏志』倭人伝にみられる邪馬台国や狗奴国をめぐるさまざまな問題は、基本的には文献史学上の問題である。ただ『魏志』倭人伝の記載には大きな限界があり、邪馬台国の所在地問題一つを取り上げても、長年の多くの研究者の努力にもかかわらず解決に至っていないことはよく知られる通りである。

 専門外の文献史学に対するご指摘は、氏の内面の暗黒を物語っています。
 「邪馬台国の所在地問題」は、素人目にも、史学上、唯一最大の「課題」ですが、素人目にも、考古学の暴威によって、倭人伝の文献解釈が大きく撓められて、文献史学による合理的で単純明快な「問題」解明が妨げられ、世人の疑惑を招いているかと見えます。ひょっとして、氏に煽動/鼓舞された戦闘的/政治的「考古学」が、抗するすべを持たない「文献史学」を、どうにも克服できない窮地に追い込んだことに、お気づきではないのでしょうか。

 一方最近では考古学、特に古墳の研究が著しく進み、定型化した大型前方後円墳の出現年代が3世紀中葉に遡ると考えられるようになった。その結果、3世紀中葉頃には近畿の大和を中心に西は北部九州に及ぶ広域の政治連合が形成されていることは疑い難くなってきた。

 実に壮大で、湯気を上げているように見える「画餅」ですが、按ずるに、専門外の文献史学に対するご指摘の様相は、現代の文献史学界が、各人の言いたい放題になっているように見えているだけであり、二千年近い過去の書「倭人伝」に現代人を惑わす「限界」などないのです。このように泥沼化したのは、氏の指揮棒に踊らされている「研究者」の責任です。後世、何と評され、どんな「悪名」を供されるのか、怖くないのでしょうか。

 困難は努力によって乗り越えるもので、力まかせに無根拠の幻想を捏ね上げ、思い込みを正当化するべきではないのです。時節柄、節にご自愛下さい。

 したがって今日では、こうした考古学的な状況証拠の積み重ねから、邪馬台国の所在地は近畿の大和にほかならないと考える研究者が多くなってきている。

 学術的な議論の動向は信奉者頭数で決めるのではなく、物証なき憶測に重みはないのです。お手盛り発言に疑いを抱かない「研究者」は死んだも同然です。「研究者」は、白石御大の声の届く、見通し範囲、ご自身の弟子でしょうか。「犬が西向きゃ」で、まことに素人くさい我田引水です。

 御大がご自身の存在価値/経済効果を実証したいのなら、お手盛りや挙手でなく、「解散総選挙」の無記名投票の実数を報告すべきです。
 投票に訴えても、パワーハラスメント、党議拘束懸念が濃厚で重みに欠け、匿名回答が必要です。でなければ、学問上の意見と思えません。

 ここではそうした最近の考古学的な研究の成果にもとづき、邪馬台国と狗奴国の問題を考えてみることにしよう。

 そのような手前勝手などんぶり勘定を、「研究の成果」と呼ぶようでは、白石氏の唱える「考古学」は、まことにうさん臭いのです。
 自信の無い見解を、殊更強弁するのは、内面の混乱を露呈して、自滅行為です。

                                以上

2023年1月13日 (金)

私の本棚 9 追補 鳥越 憲三郎 「中国正史 倭人・倭国伝全釈」1/2

 中央公論新社  2004年6月
私の見立て ★★★☆☆ 労作 必読 批判部分 ★☆☆☆☆ 2023/01/13

◯追補の由来
 最近、さるブログ記事の「倭人伝」現代語訳の偉業を目にしたが、足どりの乱れが「先人の偉業」をたどっている事に起因していると見えたので、原文参照に従って鳥越憲三郎氏の名著に到達した。

*鳥越氏「魏志倭人伝」解釈の弱点
 要するに、当該ブログ記事筆者は、鳥越氏の倭人伝解釈に忠実に追従しているが、同氏は、言外に自認されているように、専門外の中国史料の見識が乏しく、一方、明言されているように専門としている国内史料と東南アジア諸国調査成果に依存しているからこそ、先行諸兄姉と同様に「誤謬」の可能性があり、当該分野に精通した先賢諸兄姉の意見を仰ぐ趣旨であると本書の「深意」を理解すべきである。

 この点は、冒頭の鳥越氏「倭人」観表明に公明正大に明示されて、氏の「倭人伝」観の根幹であるので論義の対象外であるが、氏の「誤謬」の由来を明示している。
 いずれにしろ、氏の論考に対する無検証の追従は、氏の本意でなく不適当である。つまり、ここでは、同氏の論法を非難しているのでない。誰にも弱点はあるから、支持か否かを問わず、新たな所論提示に対する適格な評価は、追試、検証が不可欠である。

*追従記事の批判
 言うならば、『先賢諸兄姉の誤謬をなで切りにする鳥越氏の「誤謬」』を拡散したのは、当該ブログ記事筆者の不徳の致すところであり、鳥越氏を非難するものでは「一切」ない。
 ここでは、氏の「倭人伝」初心者「誤謬」を批判しているだけである。

*原文批判
 と言うことで、氏の著書に忠実に追従したブログ記事に、逐条批判を行うが、個人批判ではないので、ブログの特定は避ける。
 願わくば、追従者諸兄姉が、趣旨ご理解の上、御再考いただきたいというものである。

 対象は、原文の「卑弥呼以死…告諭壹與」の段落である。
・冢(つか) 墓
コメント
*誤解。文字どおり解すれば、倭人伝に書かれている「封土」、つまり、大地に穴を掘って棺を納めて埋葬した後、地を覆って盛り土している」のである。念のため、子供に言うような念押しをすると、「大作冢」とは、「大勢が寄って盛り土した」との意であり、「大冢」(大塚)を作ったと言う意味では「全く」ない。
 いずれにしろ、「盛り土」は、取り立てて言うほど高くもなければ、石積みしていないので堅固でもない。冢の「高さ」(丈度)を書いていない以上、言うに足りる「高さ」はなかったのである。誠に明快では無いだろうか。

・徇葬(じゅんそう)者 王の死にしたがって死んで葬られる者。
コメント
*誤解。まずは、意味不明である。多分、「強制的に後を追わされるが、生き埋めにはしなかった」という意味だろうか。
 いずれにしろ、「殉死」は、ほぼ強制殺戮だから、氏の解釈は、「倭人」の葬礼を野蛮の極みと弾劾しているのに等しいことになり、それは、魏志巻末としての「倭人伝」の位置付けに於いて、甚だしく異様である。
 つまり、陳寿が、そのような記事をここに置いて、魏志全巻を台無しにすることはあり得ない。少なくとも、「倭人伝」を貫く「礼」に篤い蛮夷との趣旨に反している。そうとしたら、余りに稚拙な破綻であり、少なからぬ知識人の目を逃れて、皇帝に上申されるものとは思えない。

 そもそも、そのような「思い込み」を排除し、原文、つまり「倭人伝」に書かれている文字を、『初級者にふさわしい謙虚な態度で、字義に忠実に、「素直に」、「普通に」、「するりと」解釈する』と、「徇」とは葬儀に「従う」、つまり、葬礼に参列した者の意と解すべきと思われる。それなら、徇葬者が何百人いようと異議を言う筋合いはない。故人の遺徳を讃える趣旨だから、たとえ、「倭人伝」の原史料が、徇葬者 「十人」を「百人」と言い整えていたとしても、それが「史実」であり、史伝の正道である。

 またもや、子供に説教するような書きぶりになってしまったが、「徇」は「殉」と異なる文字であるから、何としても、同じ意味ではないのは、「初歩的」(elementally)な事項である。

 当たり前のことを殊更言い立てるのは、誠に恐縮であるが、古代史書は、古典に精通した史官が、原史料を元に、門下生、同僚、先輩の批判を仰いで推敲しているから、稚拙な誤記はないと見るべきである。

                                未完

私の本棚 9 追補 鳥越 憲三郎 「中国正史 倭人・倭国伝全釈」2/2

 中央公論新社  2004年6月
私の見立て ★★★☆☆ 労作 必読 批判部分 ★☆☆☆☆ 2023/01/13

・奴婢 男のしもべと女のしもべ。秦漢以降、貧民の子を売買する奴隷市場が解放された。
コメント
*誤解。「奴」も「婢」も、単に雇用されている者の意味である。
 「倭人伝」に「奴国」があるが、別に、『奴隷』の国ではない。
 「秦漢以降…」が、どの時代か不明である。

  • 中国文明では、非自由民の『奴隷』身分は、後世に至るまで、身分制度の下層に長く存在した。ただし、級外なので、明示されていないように見える。
  • 『奴隷』市場の『解放』は、時の皇帝が「公認」したとの意かと見える。意味不明瞭である。後漢光武帝の布令などに基づく意見であろうか。文書の深意が特定できない断片的史料から、数世紀に亘る古代世相の全てを「するり」と達観するのは無謀である。
  • 中国には、太古以来、『奴隷』市場が存在したが、それは、市場(いちば)の常に従い、『奴隷』の処遇/相場を公知とし、平準化するために存在したのである。
  • 洋の東西を問わず、資産を持たない『貧民』を放置せず『奴隷』として雇い入れて寝食と「お仕着せ」を与えたのは、『貧民』救済であって強制労働ではない。『貧民』は、耕作地を割り当てられていない者という事だろうが、要するに、『下戸』の下で、『戸』がなくなった状態であるから、『奴隷』で上等なのである。
  • 西の「ローマ」では、『貧民』、つまり、無産階級で市民資格を有さない者の子弟の『奴隷』に市民子息と同列の教育の機会を与えて、護衛と学友をかねた守り役とし、無事成人の暁には登用したと見える。逆に、「ローマ」では、無産階級の者は兵役を免れていたのである。一方、中国では『貧民』は、軍務に逃れるのである。
  • 中国では、家庭内『奴隷』に対して、遵守すべき「任務」を明示して「契約」したと見えている。単なる強制労働ではないし「人身売買」でもない。「年季奉公」に近いかも知れない。
  • 「倭人伝」に「以婢千人自侍」とあるが、「國邑」の「戸数」が千戸代と見える城郭内に、強制労働身分と見える『奴隷』が、これほど多く存在していては、地域社会は、不平分子の反抗や勤労意欲の低下で破綻するか、停滞するか、いずれかで、誠に不合理である。
  • 因みに、中国史書で見かける「官奴」は、いわば級外公務員であり、自由に離脱できないが、老齢になっても「終身雇用」したとされている。
  • こうした事情は、中国古代史の常識である。
  • 鳥越氏は、『奴隷』をはじめ、もっともらしい現代語を古代史論に起用されるのを好まれるようだが、古代以来の中国史料で『奴隷』なる二字熟語は、まず見当たらない。
    ここまでの論義では、明快/手短で納得してもらえる反論ができなかったので、鳥越氏の言い立てる意味に合わせたが、率直なところ、古代史論議で用語が時代錯誤では、意思疎通できない「意味不明」状態になる可能性がある。そもそも、現代語で思考していて、古代史史料が適格に解釈できるとは思えない。不思議な、神がかりの読解力である。
  • もちろん、このような時代錯誤/思い違いは、国内史料を起点としている論者に相当多く、鳥越氏個人の「誤謬」ではないのだが、仕方ないので、ここで荒立てているのである。わかる人にしかわからないので、小声で呟いているのである。
  • 因みに、『奴隷』を振り回しての諸兄姉の主張は、大抵の場合、時代錯誤用語乱用の場合が多いので、趣旨を理解するためには、古代史用語への多重飜訳が必要になる。

・誅殺(ちゅうさつ) 罪をせめて殺す
コメント
*意味不明。説明不足だが、「罪」は、君主に背く大逆であり、「責める」のは、君主の行いである。

・宗女 同族の女。主に本家筋の女
コメント
*意味不明 まずは、「(君)主に本家」の意味が不明。卑弥呼は、王家の本家ではないとの主張か。「筋」の通らない戯文と見える。

・檄(げき) ふれ。さとしぶみ
コメント
*説明不足だが、君主が臣下に下すものである。

・告諭(こくゆ) つげさとす。
コメント
*説明不足だが、君主が臣下に下すものである。

◯まとめ
 此の後に、鳥越氏の段落解題が書かれていて、基礎となる(中国古代史)史料解釈が、知識不足のために乱調となっていると見えるが、当ブログの別項で批判している内容に重複するので、ここでは触れない。率直なところ、異郷の異邦人に関する知識/先入観/思い込みで「倭人伝」の解釈を強行するのが、どうにも無理であることが露呈していると見えるが、本稿の圏外に近いので、深入りしない。

 何にしろ、「倭人伝」の深意を解釈するのに不可欠な「常識」に欠けていると見える鳥越氏の提言「だけ」に「倭人伝」観の形成を依存することは誠に危うい。それは、同時代の現地情勢を把握できていない事を痛感している鳥越氏の本意ではないだろう。

 最後に念押しすると、以上の批判は、別人のブログに引用されている「抜粋」に対するもので、文書資料原文の全体(著書一冊)を熟読すれば、合理的な解釈が可能かも知れないが、文脈から切り離された引用による誤解は、どちらに責任があるかと言えば、引用者の反則行為であり、鳥越氏の知的財産権の侵害と見えるが、世上、浸透していない概念と見えるので、当記事読者に無理強いはしない。

                                 完

2023年1月 5日 (木)

私の本棚 9 鳥越 憲三郎「中国正史 倭人・倭国伝全釈」増改1/5

 中央公論新社  2004年6月
 私の見立て ★★★☆☆ 広範な学識をもとにした労作 必読 批判部分 ☆☆☆☆ 2014/05/24 増改 2023/01/04

◯はじめに
 本書は、氏の倭族論集大成であり、氏が、朝鮮半島、中国南部などで行った人類学的フィールドスタディに基づき古代史について蘊蓄を極めています。

 まず、最初にお断りしたいのは、当方は、著者の古代人類学・古代史学の実証的な見地に、基本的に賛成していると言うことです。
 ここでは、著者の論旨に賛成できない点を多々述べていますが、あくまで、本論のテーマである魏志「倭人伝」記事についての議論に限られていて、それも、著者の主張の時間次元でのずれに異論を呈しているのです。

*偉業称賛
 本書は、タイトル通り、中国正史の「倭人伝」・「倭国伝」に対して、氏が「全釈」を加えたもので、この上なく貴重な資料です。

*「断定」表現のお断り
 本論全体を通して自明の事項なのですが、以下の書評が断定表現になっているとしても、それは、当然、これらは本論筆者の私見であり、記述の際の簡略化の爲、と言うより、筆者が文末処理の労を厭ったために、推定表現が省略されただけであり、確たる根拠を以て書き出しているものではなく、あくまで一私人の私見の吐露でしかないことをお断りしておきます。

*「倭人伝」解釈の由来
 まず、鳥越氏の基本的な取り組みとして、古代人類学・古代史の見地から、自身の古代史観を確定した見地から、倭人・倭国伝に対しているものです。
 ただし、いずれかの国内古代史権威者に、史料解釈に関して助言を仰いでいるものと見え、鳥越氏の「倭人伝」観は、基盤が揺らいでいます。以下批判するご意見の由来が、鳥越氏自身か、助言者か、不明ですが、ここでは、氏が著書で公開される以上、氏の見解として批判します。
 従って、氏の判断として、ご自身の見解に合わない「倭人・倭国伝」記事に、根拠不明の不信、感想を呈しているので、異論を呈します。
 なお、ここでは本論筆者の守備範囲である陳寿「三国志」、主として魏志「倭人伝」に限定して話を進めます。

*同意できない「三国志」観~いびつな裁断
 冒頭、鳥越氏の三国志観として納得できない根拠不明の断定が見られます。
 それ以前に王沈の「魏書」、韋昭の「呉書」、魚豢の「魏略」があり、陳寿が蜀人であったので、蜀の歴史を補うことができた(中略)陳壽の死後、多くの新しい史料が発見されたことで、裴松之が数倍の分量にして補注し、それが宋の429年に成った三国志であるが、今はそれも散佚した。
 以上は、前提不明の断定で、用語不明瞭で学術書として大変不適当です。鳥越氏の「三国志観」が後世に波及しているので、ここにあえて指摘します。

 裴松之は、目方や山勘で補注行数を決めたのではありません。
 魏志第三十巻巻末の魚豢魏略「西戎伝」は、現行刊本では、本文の半分大の文字で本文一行に二行割り付けた割り注であり行数は四半分程度で大したことないように見えますが、北宋刊本までは本文そのままで書かれたので、「数倍」は意味不明の誇張ですが、本文を超える行数です。木簡、竹簡を革紐で綴じていた巻物時代には、裴注分は、随分膨れあがっていたでしょう。
 
                                未完

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