私の本棚

主として古代史に関する書籍・雑誌記事・テレビ番組の個人的な読後感想です。

2024年4月22日 (月)

私の本棚 51 水野 祐「評釈 魏志倭人伝」 1/10 補充 改頁

 雄山閣 新装版 2004年11月 (初版 1987年3月)
私の見立て★★★★☆ 『「倭人伝」は「唯一無二の史料』 2016/06/18 追記 2020/06/07 2021/07/17 2024/04/21

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

◯はじめに
 本書は、以前から大型書店の書架で見かけていたが、何しろ、本文653ページの大部であり、また、本体価格で12,000円の高価な物だったので、内容に価格ほどの価値があるかどうかの懸念もあって、なかなか手が出なかったが、最近、古書の掘り出し物が見つかったので慌てて購入したものである。
 一度、大型書店の立ち読みで流し読みして、手堅い論考に一目置いていたが、今回、自分の蔵書として、じっくり読んでみると、大変な労作であり、また、当ブログ筆者が最近「俗論」と勝手に呼んでいる、「通説」固執の議論がほとんど見られないので、一段と敬意を深めたものである。

*概要
 まずは、宮内庁書陵部蔵書である三国志宋版刊本(「紹煕本」)影印が綴じ込まれていて、これに続いて、凡例と目次を挟んで、句読点を補充し全29段の区分入り「漢字原文」が続いている。
 なお、「紹煕本」は「倭人伝」と小見出しして開始しているので、正式名称云々の雑音の毒消しになっているように思う。

*充実不偏の引用文献
 巻末の主要引用参考文献目録には、およそ、膨大な「魏志倭人伝」関係書籍群に加えて、魏晋朝時代の当時の社会動向、政治思潮を書き綴った岡崎文夫氏の「魏晋南北朝通史」 や邪馬台国に関する論考を集成した橋本増吉氏の「邪馬臺国論考」、さらには、松本清張氏の「清張通史-1 邪馬台国」等々、与党的と見える論考があげられているのは当然だが、野党的と見られる安本美典氏の「新考 邪馬台国への道」、そして、古田武彦氏の「『邪馬台国』はなかった」もあげられている。ただし、最終例は、「邪馬台国」のカギ括弧が抜けた誤記になっているのは、ご愛敬である。
 以上のように、書名を書き連ねたのは、本書が、安易な通説固執の弊を免れていると感じさせてくれると言うことである。

*原史料密着の姿勢堅持
 著者水野氏は、自身明言のように、いわゆる「九州派」であり、不偏不党とは言えないが、根拠のない度を過ごした偏見は見られず、また、野党的な論考であっても、採り入れるべき主張は採り入れるという姿勢が貴重である。
 ということで、さりげなく、「漢字原文」と書いたが、ごく一部の例外を除けば、影印本の記載に従った読み取りであり、従って、世に溢れている原文書き換えは、避けられている。
 著名な例で言うと、「邪馬壹國」、「一大國」、「会稽東治」、「景初二年」、「壹與」の表記が採用されている。中国史書である「倭人伝」を、中国史書として考察するという、当然の前提に従うものであり、当然の処置である。

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私の本棚 51 水野 祐「評釈 魏志倭人伝」 2/10 補充 改頁

 雄山閣 新装版 2004年11月 (初版 1987年3月)
私の見立て★★★★☆ 『「倭人伝」は「唯一無二の史料』 2016/06/18 追記 2020/06/07 2021/07/17 2024/04/21

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

・視点明示~史料批判
 冒頭に宣言されているように、氏の「倭人伝」観は「古代日本に関する(唯一無二の)中国史料」と言うものである。
 つまり、氏は「日本史」の文献史学による考察にあたり、「国内史料は辛うじて第五世紀に始まるに過ぎないから、それ以前の世紀に関しては、国内史料が存在しない、従って、中国史料に依存せざるを得ない」との確認を経ている。これは、誠に確実な考察であり、貴重なものである。
 続いて、史料の乏しい(つまり、事実上、存在しないに等しい)(日本列島の)古代史の研究にあたっては、外国起源の史料であっても、本質を追究して史料価値を見極め、「倭人伝」の史料としての確認を進めていくのである。
 俗な言い方で気が進まないが、「有言実行」であり、ずっしり重みがある。
 追記すると、以上のような冷静な視点は、大抵の「倭人伝」論に欠けているものであり、是非とも、天下に「蔓延」してもらいたいものである。

◯概観
 著者の考える指針として、「倭人伝」の解釈に際しては、「虚心坦懐に」記されたままを素直に本文に即して読むことから出発」し、「その検討に際しては」、まずは、「倭人伝」の文章とそれ以外の「三國志」、特に「東夷伝」の文章と対比して検討することが示されている。さらに、『「先入観」に禍いされて、自説に都合のよいように「倭人伝」の字句を改訂したり、勝手に解釈したりしても、それは、価値のない研究に過ぎない』と主張している。
 そして、「考古学によって帰納的に解明される倭国像と中国史料によって解明される倭国像は、究極的には一致するべきものであるが、それぞれ、異なった分野の研究であるから、の過程において安易に両者を合致させようとすると、研究の進路を誤ることになりかねない」と危惧し、「互いの研究が自力で確実な結論に至ったときに、整合を図るべきだ」と述べている。
 こうした提言は、まことに合理的なものであり、本来、広く遵守されるはずなのだが、衆知のように、このような先人の提言は見事に裏切られ、考古学成果は、データに基づく帰納的検討ではなく、データが先入観に合うように解釈・整備されて、当方に「俗論」などと悪態をつかれている昨今である。
 本書刊行当時、すでに、「三国志」などの中国史料に対する(国内)考古学研究者の「反感」、「敵視」が顕著だったようで、世上、「もし本書(三國志)がなかったならば、女王國も、邪馬壹國も、またその他の国も、卑弥呼の存在も、何もわからず、従って、邪馬壹國論争などは全く起こらなかった」と述懐している例まである。
 これは、あくまで寓意としているだけで、本気で「百害あって一利無し」などと思ってはいないことは言うまでもないはずであるが、文字通りに解釈する向きにして見ると、至言と解しているのかも知れないのであるが、それはそれとして、当分野の議論が、「学術論義」でなく、個人的な「信念」なり「感情」で大きく左右されていることは、見逃せない。
                                未完

私の本棚 51 水野 祐「評釈 魏志倭人伝」 3/10 補充 改頁

 雄山閣 新装版 2004年11月 (初版 1987年3月)
私の見立て★★★★☆ 『「倭人伝」は「唯一無二の史料』 2016/06/18 追記 2020/06/07 2021/07/17 2024/04/21

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*「三国時代史概観」
 本書は、倭人傳本文の評釈に先立ち、第二章 魏を中心とする三国時代史概観、と題して、後漢朝衰亡期に始まる、一世紀あまりの乱世に堕ちていく政治、社会動向が描かれている。この期間に含まれる、倭人傳に所縁のある後漢桓帝、霊帝治世時の深刻な内紛も描かれている。

*「桓帝霊帝時」談義~余談
 以下、余談に近い、私見であり、氏の見解を云々するものではない。
 「倭人伝」に見られる後漢桓帝霊帝時の時代は、後漢の内征崩壊が露呈した時期であり、東夷管理が、漢武帝創設の楽浪郡による秩序が、同地域の支配体系として新興の遼東郡の管理に堕したことも容易に想到できる。それまで定期報告で現地事情を悉に把握し、頻りに訓令した雒陽の主管部局の東夷管理が遼東郡の管理に委ねられ、放任時代になっていたのである。

*参考書紹介
 因みに、当ブログ筆者の同時代参考書は、主として、陳舜臣「中国の歴史」、宮城谷昌光「三國志」、それに、岡崎文夫「魏晋南北朝通史」(国会図書館の近代デジタルライブラリー所蔵は、内外両編揃い)であるが、あくまで時代背景を知る読書であり、厳密に参照しているわけではない。
 世上、「史料批判」の何たるかを知らず、また、先人によって、適確な「史料批判」が、既に徹底的に為されていることも知らず、ひたすら、「倭人伝」の史料価値の欺騙を叫ぶ無知、無教養な素人論者が見られるが、陳寿が編纂にあたって確保していた教養から見ると、「二千年後生の無教養な東夷」の独善と見るものであり、まずは、ご自身の無知/無教養を癒やすべきと思う。
 無知は、致命的であるが、「やまい」ではないから治療のしようがないが、ご当人が気づいて、自覚是正すれば救われるのである。さしあたっては、本書が、妙薬となる可能性があるが、まさか、味見も咀嚼もせずに「鵜呑み」はしないだろうと思うのである。

*「概説」の偉業
 と言う事で、本書の冒頭では、「概説」篇として、陳寿「三国志」とそれに先行する史料である「三史」(司馬遷「史記」、班固「漢書」、笵曄「後漢書」)、さらには、隣接する魚豢「魏略」について、適切な概評が加えられている。
 時代、地理背景として、(後漢末期)遼東郡が半島中部に設けた帯方郡から海峡向こうの東夷に管轄を及ぼすに至った経緯とその滅亡が説かれている。
 薄手の新書版は本書の真似はできないが、その際は、本書の該当部分を参照する「注記」として一々再現する必要はない。適確な参照は短縮紹介に遙かに勝る。言うまでもないが、当節の軽薄新書「倭人伝」談義は、思いつき、思い込みを怒鳴り立てず、本書などの先賢諸兄姉の著作を踏まえて、それを克服した上で、ご自身の意見を述べるべきである。いや、言うまでもなく、これは、氏の教戒を承けた自戒でもある。

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私の本棚 51 水野 祐「評釈 魏志倭人伝」 4/10 補充 改頁

 雄山閣 新装版 2004年11月 (初版 1987年3月)
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〇「鵜呑み」論 まくらに代えて
 本書は、何しろ大部の書籍であるから、手の届くところから、何とか咀嚼して、味わって飲み込み、消化するものである。
 鵜は、鳥類であって歯も舌もなく、川魚を囓りも味わいもせず丸呑みできるが、人は、歯で噛みしめ、噛み砕き、舌で味わい、匂いまで照顧して食するのである。その前に、ウロコや骨も内臓を取り除き、大抵の場合は、生食せずに、煮たり焼いたり調理、調味するのである。人間相手に、「鵜呑み」を言うのは、自身が「鵜呑み」の常習者だと物語っているのである。
 人は、決して、鵜の真似はしない。低級な比喩は早く撲滅したい。

-第二部 評釈篇 第一段 総序
*「倭人伝」事始め 「倭人在帶方東南」
 前置きに小見出し「倭人伝」の話をしたが、この小見出しが、陳寿の原本に、すでに書き込まれていたかどうかは、わからない。
 知る限り、「紹興本」に先行する旧版「紹興本」に小見出しは存在しない。
 念のため確認すると、「紹熙本」は、「紹興本」と共通した北宋刊本「咸平本」の良質写本に依拠している。「倭人伝」なる小見出しが、北宋刊本に存在していて、「紹興本」が取りこぼしたのを「紹凞本」が是正したのか、「紹興本」が正確に継承したのに対して、「紹凞本」が付け足したのかは、にわかに決めかねるところである。
*「紹凞本」所見 「坊刻の創成」~余談
 本「所見」は、「紹凞本」の由来を推測/確認するものであり、一部説かれている「坊刻」、つまり、官業でなく、民間事業に托したことを殊更批判していることに対する反論である。書誌学的事項に興味なければ、「紹熙本」の史料価値に影響を与えないとの趣旨を理解いただければ、深入りは不要である。
 南宋創業時に、北宋亡国時の「国難」を逃れて河南に逃亡し、再集結した天下一の英才が結集し、国富を傾けた経書、史書の「国家刊刻事業」の一環で、国史「三国志」として「紹興本」が刊行された。その際、南宋は、領内を広く捜索し、北宋「咸平本」の写本を呼集して、諸写本の異同を校勘し、最善の「咸平本」復元史料として「紹興本」を確立し、刊刻したのである。
*北宋咸平本の意義
 丁寧に言うと、北宋「咸平本」は、木版印刷により所定の部数が刊行されたが、皇帝以下、皇族、及び高官有司の蔵書として配布したのであるが、配付された刊刻本は、夫々の場で写本原本として起用され、言わば、それまでに発生していた異同を駆逐して、定本として統一を図ったものである。
 ただし、写本工程の宿命で、刊刻本から起こされた写本は、字数を重ねる毎に、次第に誤写が発生した。また、帝国中心部を離れた地域では、写本工の技術、教養が調わないために、高度な写本行程が確立できず、誤写が発生しやすかったとも思われる。刊刻本配付により、北宋が統一した天下に、それまでにない高精度の写本が普及したことは、北宋の重大な功績である。

                                未完

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*未曽有の「国難」
 さて、その際の「国難」は、西晋亡国事例の再現でもあったが、この際は、北方異民族による亡国、南方への避難と言うだけでなく、北方異民族が、「蛮夷を毀傷する中国文明」の撲滅を図った徹底的なものであった。
 「文書破壊」は、四書五経そのものの棄却、焚書に始まり、史記以来の正史に到る書籍類が根こそぎ駆逐され、更に、復刻をも許さないとして、木版印刷の版木に到るまで破壊したのである。地域としても、江水、つまり長江流域までに侵略が及んだので、宋代刊本事業は壊滅したが、侵略者は後退し江水流域で南宋が回復したが、甚大な破壊は、大打撃を与えたのである。
 先例である西晋滅亡時には、異民族軍に洛陽/長安が蹂躙されて、皇帝、皇族が連行されたが、退避できた皇族が江南で東晋を再興し、その際は、比較的良質な古典書籍類が生存したようであるが、北宋亡国時の国難は、そのような先例すら越えて、未曾有の甚大な被害と言って良いようである。

*再度の復刻
 さて、一旦、復刻を完成した「三国志」であるが、なぜか、再度、復刻が行われ、新たに刊行された「紹熙本」は、既刊の「紹興本」より優れていると判断されたということである。南宋創業に伴う「国家刊刻事業」計画としては、「三国志」刊刻は、いわゆる「紹興本」刊刻により終了していて、他の経書、史書の刊刻にかかっていたため、計画外として民間事業に附託したものである。そのため、時に「坊刻」と称されるが、それは「国家刊刻事業」の枠外で、民間の起用により刊刻したと言う事であり、別に、質を貶める根拠にはならない。いわゆる「坊刻」が刊刻の質が低いとは言い切れない。
 因みに、国難以前の北宋時代、刊刻は国家が独占していたが、亡国、南遷によって、中原の官営事業は壊滅し、辛うじて、江水、つまり、長江沿岸に展開されていた刊本事業を、侵略者の破壊から復元したものである。

*「青磁」の起源~余談
 そうでなくても、南宋創業の際には、太古以来、国家事業として運営していたものの多くが、宋代に興隆した民間事業に移管されたのである。
 参考であるが、北宋に至るまで、秘儀として天子の執り行う礼式に使用されていたのは、殷周代以来、精巧な青銅器が伝世されていたのである。北宋壊滅時、神聖な青銅器の避難が叶わず、南宋朝は、秘儀祭器に事欠いたが、殷周代の青銅器鋳造技術は、とうに喪われていて、祭器復元は敵わず、「青磁」と呼ばれる精巧な磁器が、青銅器に代わる祭器となったのである。
 歴代の天子は、太古祭器の継承が権威の根拠とされたので、青銅器に代わる「青磁」は、本来、尚方という名の帝室工房に独占される門外不出の技術であるべきであったが、南遷に伴って異動した尚方には、必要な祭器を制作するのに必要な技術、技術者、製造設備が完備せず、民間に委託せざるを得ず、結果として、青磁の技術は、南宋代に民間に流出したと見える。

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*印刷刻本技術の進化
 刊刻事業は、木版版刻技術とその版木で多数の均質な「単葉紙」に印刷し装幀製本する技術であるが、南宋再興期は、国家事業が整わず民間に依託したと見える。それは、印刷用紙製造技術も、同様と見える。北宋初期に完成した印刷製本技術は、帝室尚方が成し遂げた美術工芸であったが、北宋期に経済活動の盛んな長江流域に興隆した地域産業が、南宋創業時の国家事業を受託したことから技術的に進化して、民間事業として開花したと見える。
 「咸平本」断簡と「紹凞本」を比較すると、「紹凞本」で本文一行に対し細字で注釈二行を収める「割注」は、「咸平本」に見られず、注釈は、改行して同行格で書き継いでいるのが異なる。つまり、木版印刷技術の進歩で、細字で版を刻み、それを忠実、かつ迅速に印刷する技術が完成した。
 古来、発展的改善が「進化」であったが、遥か後世、欧州起源ダーウィン「進化論」により「生存競争による旧種駆逐、新種繁栄」が「進化」との新解釈が登場したが、本来、「進化」は「目覚ましい進歩」である。いや、当ブログでは異界の「躓き石」に属する余談であった。

*「紹熙本」談義
 三国志で言うと、「紹凞本」とは、南宋紹凞年間に審査、校正が完了し、テキストが確定したことから命名されたのであり、公開年間は、関係無い。
 ついでながら、当時最高の人材を投入して編集し、多大な費用を投入して、重複と見られかねない改訂版を起こしたと言うことは、当時の権威者が、「紹凞本」に「紹興本」に勝る(とも劣らない)価値を認めたと言う事であり、現代出版物の絶版、改版とは、重みが違うのである。推測するに、侵攻を免れた「蜀漢」旧地成都付近の蔵書家から良質写本の提供があったと見える。

*「紹凞本」所見の由来
 以上の議論は、尾崎康氏の名著「正史宋元版の研究」(汲古書院 1989年)の潤沢・深遠な書誌学的著述を大いに参考としたが、ここで附した「紹凞本」擁護の所見は、「紹凞本」起用の背景推察共々、当ブログ筆者の私見であり、異論は、当方に帰すべきである。「尾崎康氏」は、紹凞本について、否定的とは言わないまでも、消極的な意見に留めるべく「使命」を帯びていたようであるから、歯切れが悪いのは仕方ないと見て、勝手に代弁したものである。

*「倭人」論再開
 さて、本文論義に入ると、記事の冒頭に「倭人」の二字が置かれている。
 著者である水野氏は、これは、唐代以前の「日本人」呼称であるが、自称ではなく中国人が与えたと解している。因みに、三世紀論で、「日本」は、時代錯誤と批判されるが、ここは、少し緩い見方で見過ごすことにする。
 氏の見解に対し、当方も、ほぼ同感である。古代に於いて、「日本人」の側には、漢字について十分な知識はないから、いずれの時代の、どんな由来か、知る由もないが、中国からの頂き物の可能性が高い。但し、それなりに由緒のある命名であり、性急な思い込みは後回しとしたいものである。
                                未完

私の本棚 51 水野 祐「評釈 魏志倭人伝」 7/10 補充 改頁

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◯傍道の「倭人」論など~私見
 別の段で、この呼称の由来について評釈されているが、当ブログ筆者は、異論と言うほどではないが、当評釈にない、別の意見である。
 「倭」は、倭女王の姿を描いたものと思う。人偏は、「人」の意味であるから、残りは、「女」、つまり、女性の頭上に、「禾」、つまり、稲穂の髪飾りが翳されている姿である。「倭人」は、そのように稲穂を髪飾りにした女王が束ねる人々であり、当然、稔りを言祝ぐ姿は、誠に尊いものと見るべきである。
 私見によれば、「倭奴」は、あるいは、諸蕃夷を改名した王莽によるものかも知れない。北方の猛々しい異民族、「匈奴」と対比して名付けたものであろう。という事で、書評に便乗して、勝手な意見を付け足している。
 後年、東夷が「倭」を嫌って「日本」と改称したというが、「女王国」を表す文字を嫌ったかと思われる。「倭」は、周代史書に残される貴称で、無理して返上したが、唐は蕃人上がりで古典にこだわらず自称を許したようである。

◯「在帯方東南」・最初の躓き石
 さて、「倭人」に続いて、後続の「在帯方東南」と五字付随句で、一応文の体を成している。つまり、私見によれば、東夷傳の走り読みで、ここまで来て「倭人伝」にぶつかった読者は、この七字で倭人の居住地を知るのである。
 もちろん、この後には、「大海之中依山島」等々が続いていて、詳しい知識を得られるが、「倭人」の概容を知れば良い読者(例えば、皇帝陛下)は、最低限の七文字だけで、取り敢えず十分と満足する可能性がある。
 つまり、この七文字は、独立して必要な情報を過不足なく伝えているが、それは偶然ではなく、史官の外夷傳編纂時の推敲のたまものである。
 朝鮮半島と西日本を包含した現代地図でわかるように、帯方郡治の想定される半島中部から見て東南は九州島であり、本州島は、九州島のすぐ東から、東北方向に延びて帯方郡東南方で収まっていない。このあたり、「倭人伝」の世界観、地理観が、端的に表現され劈頭を飾る名文と感じる。これは、あくまで個人的感想であり、いかなる効果効用をも保証するものではない。

 世にはびこる「邪馬台国」論議をまとめる書籍は、なぜか優勢とされている近畿説に「遠慮」してか、この点に触れないのである。

 いや、多数の論者の中には、この点に触れても、『大意として、そのように読めても、「現代人は、邪馬台国が近畿中部から九州北部まで支配していたことを知っている」から「倭人伝」の誤記と理解できる』と割り切っている。
 わずか七文字の解釈で、原文無視・改訂派が鎌首をもたげてくる。この手で行けば、「倭人伝」に何と書いてあっても、自説に沿って読み替えればいいから、「倭人伝」など、あってなきがごとしということである。「畿内説」、「纏向説」論者の暴論嗜好は、かくのごとく、無根拠の思い込みに支配され、史料論議の場から「外野」の荒地に踏み出しているのである。
 水野氏は、当ブログ筆者のまことに拙い指摘に遙かに先駆けて、そのような原文無視・改訂の勝手読みを否定している。
                                未完

私の本棚 51 水野 祐「評釈 魏志倭人伝」 8/10 補充 改頁

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*俗論の堰き止め
 かたや、世上、いの一番に論議すべき事項をすっ飛ばして、外部資料の勝手な持ち込みで、頑迷極まる俗論が形成されたのは、かねて不満であったが、そのような俗論を堰き止めようとする水野氏の賢明な配慮が表れている。

*倭人伝事始め 「倭人在帶方東南」
・最初の躓き石(追記)
 本書の最初のそして多分最大の躓き石は、「従郡至倭」に始まる行程記事の冒頭の「郡から狗邪韓国まで」(郡狗)行路の解釈の難点にある、と言うか、見落としにあるように思う。
 氏の堅実な解釈手順にも拘わらず、「循海岸水行」が「従海岸水行」と字義の異なる別字と読み替えられ、そのために、郡狗行程は、半島「海岸」に沿った「沿海航行」とみなされ、氏は、史官がこれを「水行」と称したと早計にも断じているのは、まことに残念である。
 氏は、在野の伝記類が同一文字の反復を避けて、同義の文字の言い換えを多用する点を想起して「循」に格別の意義を見ていないが、それ以外にも、史書行程記事における「従」は、必ずしも、何かに「沿って」の意味でないことが多いのを見過ごしているのは、やはり、氏の限界かと思う。
 大原則として、正史記事では、まずは、一字一義と見るべきなのである。要するに、文字が違えば託された意味が違うのである。

 古くは周に発し、承継した秦漢代以来の官道制度に、「海岸」沿いの「沿海航行」は存在しない。敢えて、正史の一条として構想された魏志「倭人伝」が、法外の行路を官道と制定したすれば、先だって諄諄と明記して裁可を仰ぐべきであるが、そのような手順が示されていない以上、法外の行程は書かれていないと見るのが、順当な解釈である。
 氏の解釈は、日本古代史視点では順当に見えたのだろうが、中国史料解釈としては古典用例を取り違えた曲解の誹りを免れない。
 当記事は、正史「三国志」魏志に書かれている以上、帯方郡に至る官道は、雒陽から漢武帝創設の楽浪郡に至る陸上官道の展延された官道を定義するものであり、「海岸」は陸上の土地であるから、もし、帯方郡から海上に出て船で南下するのであれば「乗船」の二字を要する。

*良港幻想
 氏は、何らかの史料を根拠とされたのか、「半島西岸は、多くの大河が流入して良港が多く、沿岸航行が容易であったと見ている」が、同時代、現地の地理、交通事情を考察すると憶測と言わざるを得ない。
 そもそも、半島西岸は、大河漢江が注ぐ漢城付近を最後として、南方の馬韓地域は、小白山地が後背に聳える狭隘な地域であり、多くの大河が存在するはずはない。大河と呼べそうなのは、小白山地の東、嶺東と呼ばれる広大な地域を南下する洛東江しかない。そして、洛東江は、対馬に向かうように、半島南岸の東端に河口を開いている。
                                未完

私の本棚 51 水野 祐「評釈 魏志倭人伝」 9/10 補充 改頁

 雄山閣 新装版 2004年11月 (初版 1987年3月)
私の見立て★★★★☆ 『「倭人伝」は「唯一無二の史料』 2016/06/18 追記 2020/06/07 2021/07/17 2024/04/21

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

*大河幻想
 あるいは、先ほど示唆したように、帯方郡から山間南下した北漢江が、漢城(ソウル)東方で南漢江と合流している合流点から、南漢江を遡行する「水行」の道を採れば、これも一つの大河とみることができるかも知れない。
 一方、漢江河口部は、沖積平野、河口デルタであり、良港どころか海港は一切設けられない。海港は海岸の崖が迫り出した入江で、船舶接岸には水深が必要で、風波を避けられる海湾が必要なのである。
 また、南漢江上流は嵌入蛇行しているため遡行は不可能であり、洛東江上流との間が小白山地で遮られているため、早々に陸道に移行するのである。
 戦前、現地を精査した岡田英弘氏は、韓国鉄道中央線を参照した上で、竹嶺越えの官道に想到していたが、何故か、郡から狗邪韓国の行程として注意喚起せず、虚構の「海行」にひたったのは、残念である。

*西岸領域確認
 嶺東事情は置くとして、半島西岸の事情を言うとすれば、漢江河口部を過ぎた南部は、山地が海に張り出して、島嶼、浅瀬が多く、港湾があっても、後背地が狭隘で耕作地が乏しいので、当時、沿岸交易、市糴は希と見える。

*百濟南遷
 後世、南下した高句麗の大軍が百済王城漢城を包囲壊滅し、南方に退避した百濟王族が、南方の熊津、泗沘で再興したが、漢江付近から山東半島に至る海上経路は高句麗の手に落ち、百済は、南部諸港に逼塞し、漢江海港の奪還に挑んで、高句麗と激しく抗争したから、南部海港繁栄は、幻想と見える。熊津も泗沘も内陸であり、海港とはほど遠い。

*隋唐使来航
 後年、隋唐倭使は、青州から黄海に乗り出し半島西南岸沖を通過して九州北部に乗り入れる帆船航行路を新規開拓して竹斯到来したのを見ると、沿岸交通路は未設営であったと見える。
 以上の議論は、「正道」議論であり、「邪道」、つまり、斜めで遠回りの曲がった径(みち)の存在は否定できない。径があれば人物往来はできるが、それは官道でなく馬の通れないぬけみち「禽鹿径」である。

*「循海岸水行」確認
 氏が、以上の難点に気づいていれば、「循海岸水行」が、郡狗区間「水行」規定か、官道の注記に過ぎないか、考察したはずであるが、残念ながら、氏もまた、倭人伝の解釈でありがちな無意識の改竄を施したと見られる。

*大作の瑕瑾
 いや、いかなる史学者も、思い過ごしや勘違いは避けられない。大部の労作が、この一点で全面否定されるべきではない。全長万二千里、四十日行程の、ほんの一点に、瑕瑾があるという指摘だけである。

                                未完

私の本棚 51 水野 祐「評釈 魏志倭人伝」10/10 補充 改頁

 雄山閣 新装版 2004年11月 (初版 1987年3月)
私の見立て★★★★☆ 『「倭人伝」は「唯一無二の史料』 2024/04/21

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

◯見過ごされた提言
 本稿は、後日、氏の慧眼を賞する意味で追記したものである。

*「魏志倭人伝」狗奴国記事復原
 女王と不和でその氏神祭祀権威を認めなかった、つまり、氏神を異にする「異教徒」と見える狗奴国は、「絶」と思われ、女王国に通じていなかったと見えるので、「倭人伝」の狗奴国風俗記事は、正始魏使の後年、人材豊富な張政一行の取材結果と見るのが、水野氏の慧眼であり、納得できる卓見である。
 水野氏は、「其南有狗奴國」に始まる記事は、亜熱帯・南方勢力狗奴国の紹介と明快である。一考に値する慧眼・卓見と思われる。

其南有狗奴國。男子爲王、其官有狗古智卑狗、不屬女王。[中略]男子無大小皆黥面文身。[中略]計其道里當在會稽東治之東。[中略]男子皆露紒以木綿招頭。[中略]種禾稻、紵麻、蠶桑[中略]所有無、與儋耳朱崖同。
 「其南有狗奴國」から「儋耳朱崖」は、南方狗奴国の詳解と解する方が自然である。
 ただし、「自郡至女王國萬二千餘里」は、場違いで衍入である。
 「会稽東治」も「儋耳朱崖」も、狗奴国記事であるから、陳寿の女王国道里地理観と、別儀である。
 して見ると、この部分は、報告者が異なると見える。正始魏使以後、張政が、女王国と狗奴国を調停した際の取材と見える。

*本来の「倭記事」推定
 つづく[倭地溫暖]に始まる以下の記事は、冬季寒冷の韓地に比べて温暖であるが亜熱帯とまでは行かない「女王国」紹介記事と見える。
倭地溫暖、冬夏食生菜、皆徒跣。[中略]其死、有棺無槨、封土作冢。[中略]已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐。[中略]出真珠、青玉。[中略]有薑、橘、椒、蘘荷、不知以爲滋味。[中略]自女王國以北特置一大率[中略]皆臨津搜露傳送文書賜遺之物[中略]倭國亂相攻伐歷年乃共立一女子爲王。名曰卑彌呼。事鬼道能惑衆。年已長大。無夫婿。[中略]女王國東渡海千餘里復有國皆倭種。[中略]參問倭地絕在海中洲㠀之上或絕或連周旋可五千餘里。

 「邪馬壹国」が、伊都国の直下に隣接していると見れば、「女王国」紹介記事の気候風俗は、伊都國、邪馬壹国に共通すると見える。
 俗説のように、「邪馬壹国」が「伊都国」の遠隔地とすると、「女王国」紹介記事は、まことに不可解となる。纏向は、とても「温暖」とは言えないし、飛鳥地区は、更に、冬季寒冷である。とても「伊都国」と同一視できないのは、素人目にも、明らかなのである。

 ついでに言うと、山中にある寒冷な纏向が、会稽の東方に位置しているとか、南海の儋耳朱崖に産物が似ているとか、思いつくはずがないのである。

*本項結論
 要するに、「倭人伝」には、狗奴国は女王国の南方の温暖の地と「明記」されている。「北暖南冷」の奈良盆地とは、えらい違いである。

*未完成の弁
 以上のように、「倭人伝」道里行程記事批判の範囲止まりで頓挫している。どうも、本書に個人的書評は成立しがたいようである。前途遼遠。

 正直なところ、本書で滔々と展開された「史料批判」が、世上顧みられることなく、野に埋もれたままになっているのに呆れたこともある。
 凡そ、学術上の論議は、先行所説の批判と克服を踏まえて自説を提言することでのみ前進するものと思うのだが、古代史分野では、「黙殺」
路線が大勢を占めていて、当分野の新参、素人は、困惑しているのである。

                                以上

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