私の本棚

主として古代史に関する書籍・雑誌記事・テレビ番組の個人的な読後感想です

2026年2月 2日 (月)

私の本棚 3 岡本 健一 「邪馬台国論争」 1/8 2026

講談社選書 メチエ 1995年7月刊
私の見立て 星一つ ★☆☆☆☆ 見当違いの強弁が空転 2014/05/17 補追 2021/12/23 2025/01/22,08/08 2026/02/02

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*補追の弁
 本書は、「倭人伝」研究者によって参照される例が多く、無批判の追従による誤謬拡散が懸念されるので、補追、再公開したものです。

〇総論~「窮鼠」徘徊
 本書は、一応、公平な見地から取り纏めた「邪馬台国論争」全集版との執筆姿勢であり、出版社を含め、本書を企画したと言うことは、乱世に統一をもたらす道標を築き上げるという絶大な責務を課せられたと感じたはずです。

 と言いつつ、著者は、不退転、と言うか、退路を断った背水の陣の畿内説陣営の走狗、つまり、窮鼠であり、至る所にその分厚い先入観が露呈していて、執筆の際にそのような高邁な責務は念頭から去っていたように思われます。

〇書誌論の沈没~意図不明な紹興本高揚
 取っつきとして、刊本書誌を論じていて、著者は、世評の高い紹熙本だけでなく、紹興本も咸平本に基づく刊本と主張しています。その意見に反論している内に、以下のように長い道草になりましたが、場の勢いで刊本論を続けます。

 紹興本は、本来、紹熙本と同じ字面のはずですが、両者は、あちこちで異なっているのです。一番目立つのは、紹熙本が東夷傳の各小伝に「傳」と小見出しを付しているのに対して、紹興本では、これが削られていることです。

 これは、小伝小見出しが、陳壽原本に記載されていたと言うほどのものではなく、おそらく、歴代写本では、上部欄外に手書きで注記されていたものが、咸平本刊行の際に、労を厭わぬ官製刊本の特例として、本文に取り入れられたと思われます。

 何しろ、小見出しの数文字で一行を費やし、これを繰り返していくと、いずれはページ送りになりかねないので、このようなレイアウトを採用するのは、大変な贅沢なのです。(木簡、竹簡などの簡牘本では、あり得ないことであり、蔡侯紙の巻紙などの紙媒体ならではのものです)
 もちろん、万事推測ですが、紹興本は、咸平本刊本を原本として南宋初期に刊行されたものではなく、少なくとも一度は、咸平本から写本して通用していた刊本「写本」をもとにした刊行と思われます。もちろん、紹熙本も同様です。
 刊本は、すべて同一内容ですから、咸平本そのものが完全に継承されていたら、何の論議も必要なかったのです。

*北宋刊本の興亡
 咸平本が木版出版されても、部数は少なく、高官有司に限定されていたと思われます。そこから、通用する写本が分岐したと思われます。
 何しろ、北宋期は、中国史上、それまで王侯貴族や(旧)軍閥に集中していた文化経済活動が広く民間に拡大された革新的な時代であり、「清明上河図」に見られるように市民階級の経済力が興隆し、且つ、宋王朝は、政府機能を複数の陪都に分散していたので、自宅に書庫を備え、その書庫に正史写本を備えたいとする蔵書需要が、各地で高まったと思えるのです。あるいは、呉、蜀の旧地の蔵書家が、財貨を傾けて、魏志、呉志の最善写本の収集にあたったとも見えます。紙製本時代になって、正史全巻の輸送も、汗牛充棟の大事業ではなくなっていたのです。

 北宋が、徽宗の代に、討滅を企てた北方異民族の侵入で突然崩壊し、逃避した皇族が江南の地で国家再建を図ったとき、四書五経に始まる国書群の回復の一環として、咸平刊本を三国志翻刻の基礎とすべく探したものの、遂に入手できなかったので、最善の写本を翻刻して紹興本が刊行されたものと思われます。
 「最善の写本」というものの、厳格に管理された正規の写本工程で作成したものではなく、そのために誤写が散在していたのでしょう。その兆しが、小伝の小見出し省略/維持の不統一に現れているように思われます。民間の手になるものであれば、伝統的に必須でない小伝小見出しは、省力化の対象となったのでしょう。

*紹熙本の由来推定
 紹凞本刊行の背景として、紹興本の刊行後、数十年して、忽然と咸平本写本の善本が得られたことによると見たのですが、どうでしょうか。
 紹興本が最善であれば、紹熙本の出る幕は無かったのです。恐らく、紹興本の編纂にあたった学者達が紹興本に不満を抱いていたが、その時点で最善だったので妥協したものが、紹熙本の原本となる善本写本が、恐らく、北方異民族の侵略到達しなかった蜀漢旧地の成都で発見されて、「最善」の称号が移転したのでしょう。

 当然、紹興本刊行の費用と労力を無にする、不遜な重複と誹(そし)られたでしょうが、刑死の危険も厭わぬ決意を以て推進して、万難を排して刊本として翻刻し、更に咸平本帳票復刻を添付したのは、念願の善本を入手した関係者の無上の喜びの表現であったのでしょう。例えば、その時点では、志と書以外の経書類を含めた大規模な刊刻が進んでいて、官制工房が忙殺されていて、民間の印刷工房を起用した坊刻になったものと思われます。
 

                               未完

私の本棚 3 岡本 健一 「邪馬台国論争」 2/8 2026

講談社選書 メチエ 1995年7月刊
私の見立て 星一つ ★☆☆☆☆ 見当違いの強弁が空転 2014/05/17 補追 2021/12/23 2025/01/22,08/08 2026/02/02

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*紹熙本降臨
 以下、あくまで小説的な推測ですが、このような異例の事業が実行できたのは、紹凞年間、上皇として実権を把握していた南宋第二代孝宗の強い支援を受けたためではないかと推測します。

 孝宗は、宋朝皇族とは言え、北宋年間を通じ皇位継承に無縁であった太祖趙匡胤系子孫でした。北宋皇帝の系譜は、創業者である太祖の逝去の際に、弟である太宗趙炅(匡義)が、(976)太祖の息子である皇太子を押しのけて皇位を嗣いだことにより、以後太宗系が正統となり、太祖系の子孫は長く傍系に追いやられ冷遇されたのです。

 北宋亡国の中、有力皇族男子でただ一人江南に逃れ、南宋を再建した初代高帝趙構も太宗系でしたが、いろいろな事情があって、あえて、太祖系の趙昚を養子に迎えて後継者としたのです。いや、太祖系皇族は中央から遠ざけられ、皇族名簿に載っていなかったので、異民族軍の皇族狩りを逃れたと見えるのです。かくして、紹興三十二年(1162)に、南宋皇帝位は、高帝から新帝趙昚に譲位され、翌隆興元年(1163)に、ほぼ二百年ぶりに太祖の正統を承けた皇帝として就位したのです。

*考宗の野心
 このようにして皇帝となった孝宗は、宋王朝正統の復活を世に知らしめる野心を持ってして、万事に先代皇帝の単なる継承を超えた意欲的な統治を行いましたが、その一環として、高帝の事業とした紹興年間の「三國志」復刊の「紹興本」が、最善の写本を基礎と志したものの不完全であり、言わば誤って刊行された正史「三國志」であることから、これを咸平本原本により近い善本に基づく「正しい刊本」を刊行することによって是正する事業に対して決裁を下したのではないでしょうか。
 国家事業を行うためには、臣下は稟申して皇帝の裁可を得る必要がありますが、紹凞年間は、上皇が最終決裁権を持っていたので、まずは、上皇の内諾を得てから正式に稟申し、無事上皇の裁可を得たはずです。
 関係者は、刑死も恐れぬ上申への上皇の支持に篤く感謝したはずです。

*考宗没後の展開
 ところが、刊行を目前に控えた紹凞五年(1194)に上皇孝宗が急逝し、権臣が病弱を理由に第三代光宗を退位させて第四代寧宗趙炅を擁立し、建元となりました。このような事態の急変はあったものの、孝宗が強く支持した「三國志」刊本は、あくまで、孝宗の偉功として紹凞年間に決裁が下りたことを込めて、「紹凞本」の名目で刊行されたように見えます。
 以上、推定と空想も交えて推定した経緯のほかに、「紹興本」に続いて「紹凞本」が刊行された合理的な理由が考えられないのです。

 南宋により刊行された「三國志」「紹凞本」刊本(印刷本)は、北宋刊本と比較して、格段に大部数であり、南宋統治下の江南各地に流通し、有力写本が各地に普及するとともに、南宋刊本を底本とした新規刊本も登場し、散逸の可能性は大幅に低下したのです、もっとも、「紹熙本」といえども、南宋、元、明、清の歴代王朝の興亡に伴う大陸の動乱で喪失し、現代の復刻では、遠隔の日本での蔵書を利用しなければならなかったのです。

 思うに、紹凞本は、北宋刊本が、十部程度であったのが、五十部程度に増加した程度でしょうが、後には、東夷に持ち出しが許される程度に拡散したようです。

〇道里論~早々の自沈
 以下、著者の見識(の狭隘さ)をうかがわせるのが「倭人伝」道里論です。著者は、賛否の表明以前に、道里の合理的な把握はできていないようです。
 その証拠に、反対論として「数学的なトリック」、「欺瞞(錯覚)」、「不確定」、「誇大化」、「孫悟空の如意棒」と耳慣れない、痛々しい言葉を募らせて「敵」を罵倒するだけであり、『「倭人伝」道里が一里100㍍に及ばない程度の「短里」で書かれている』という『いわゆる「短里説」が不合理である』とする論拠は一切示されていないのです。何しろ、ここで上げた五種の「罵倒」は、根拠不明の決めつけであり、「孫悟空の如意棒」に至っては、むしろ誉め言葉ではないか、「褒めすぎ」という感じまでしてしまいます。論理的に堅固な「罵倒」なら、一語で足りるのですが、余程自信がないのか、手当たり次第に乱れ打ちしてしまったようです。

 これは、全く論理的ではありません。むしろ、窮鼠の悪足掻きを思わせます。

                                未完

私の本棚 3 岡本 健一 「邪馬台国論争」 3/8 2026

講談社選書メチエ 講談社選書 メチエ 1995年7月刊
私の見立て 星一つ ★☆☆☆☆ 見当違いの強弁が空転 2014/05/17 補追 2021/12/23 2025/01/22,08/08 2026/02/02

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*「イメージ」戦略の怪
 また、「日本列島の正確なイメージ」を論じて趣旨不明な「大局的な視野」を誇示しますが、ここで問われるのは、移動経路沿いの北九州の土地勘であり、「日本全図」を書くのではないことが見失われているのです。

 三世紀当時に、列島の全貌を詳細かつ正確に採り入れた「絵姿」(イメージ)など、到底あるはずがないのに、得々と述べているのは、個人の幻覚を言いふらしているだけであり、読者にとって大変な迷惑です。
 要は、魏志「倭人伝」で書かれているのは九州北部だけで、残りの日本列島は、陳寿が関知していないという「倭人伝」の基礎視点が欠けています。北海道、東北どころか、関東、中部すら圏外なのに、どうしても、「奈良盆地」を取りこんでいるのでしょうが、それは、岡本氏の脳内の原像であり、「倭人伝」とは、無縁のものと言えます。
 それにしても、魏使/帯方郡使が、現地の土地勘を書き出せないとしたら、軍事使節として不適格な「方向音痴」になるので不合理なのです。

*誤解による冤罪
 著者が非難する「短里論者が、陳寿の道里記事が正確であると決め込んでいる」という指摘が、著者の認識不足の冤罪/誣告であることは自明です。「普通に」原文を読解すれば、「倭人伝」道里記事は、整然精密で首尾一貫しているのでなく、「記事の出典に応じて整備された」ものとわかるはずです。つまり、「倭人伝」の限られた字数内ですから、精読すれば、陳寿は、資料全体を通観した上で、時に推測を交えて、(微視的には不統一な)記事の大局を整合させていると見て取れるはずですが、それとも、氏は、「倭人伝」の原文は読めないのでしょうか。それでは、このような著作を編纂する資格に欠けている気がするのです。要するに、氏の断定は、対象資料を読解できない「落第者」の詭弁であって、よく言って、負け惜しみと見えます

 ご自身、地理的な事項を適確に認識する能力が欠けていて、勝手な幻想を思い描くしかできないのに、陳寿が、時代最高の叡知を注いだ記事の片鱗すら認識できない醜態であり、いかに強い口調で主張されても、あくまで思い付きに過ぎない「仮説」であり、検討の出発点として利用しているに過ぎないのです。

*また一つの誤解
 著者は、「魏志の記載に不正確な点があることが判明すれば、その時点で短里説が瓦解する」と自分勝手に見ているようですが、それは、偏狭な独善に過ぎません。いつから、氏は、神の立場に立ったのでしょうか。互いに六倍の差がある道里論で、里が60㍍でも100㍍でも、大局的に議論を左右するものではないのです。正確、不正確の視点が、「とっぱずれ」、「失当」になっているようです。
 史学は、些細な論点に囚われて大局を見失ってはならないとするのが、正論と思います。まして、自分で理解できない論点に、勝手に重大な意義を持ち出すのは粗雑です。

 とくに、「魏志の記載」を理解する素養、不可欠な知識に欠けているのに、同時代唯一の資料を攻撃するのは、身の程知らずと言うべきでしょう。岡田英弘氏は、陳寿「三国志」魏志は、陳寿が、時代最高の史官として、古典書方に関する教養を踏まえて、曹魏を中心とする公的史料をもとに編纂した史書であり、対抗するには、同等以上の教養と資料をもとに、論理的に批判する必要があるのだから、言わば、世上の「倭人伝」論義は、二千年後生の無教養な東夷の勝手な思い付きであり、学術的に取り上げるに足りないと言う趣旨の述解をされていて、ある意味、自戒の意味を秘めた含蓄ある卓見と思われるのです。
 岡本氏は、岡田氏を超える教養の持ち主としても、陳寿に対して対等の論義を言い立てる資格があるのかどうか、一度自省いただきたいものです。

*自覚のない見識不足
 どうも、筆者は、中等教育(中高)程度で習得すべき合理的、かつ計数的な見当識が備わっていないように思われます。
 世界史研究家として高名な岡田英弘氏がそのように提言されていて、我々は皆「二千年後生の無教養な東夷」であり、まずは、足りない教養を補うべきではないでしょうか。

*見当違いの強弁
 それにしても、著者のように、ここぞと言うときに、俗説や勘違いも含めて、多彩な言葉の雨で根拠不明の意見を通そうとするのでは「論争」にならないと思います。「論争」に饒舌も絶叫する強弁も不要であり、寸鉄の論理の一言で議論は終結するものです。

〇改装のおことわり
 初稿は、ここまで一㌻、残り一㌻の二分割でしたが、加筆の結果肥大して、現在の基準では、長すぎる体裁になったので、分割再掲載しました。

                                未完

私の本棚 3 岡本 健一 「邪馬台国論争」 4/8 2026

講談社選書メチエ 1995年7月刊
私の見立て★☆☆☆☆ 見当違いの強弁が空転 2014/05/17 補追 2021/12/23 2025/01/22 08/08

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

◯遅まきの本論
 さて、ようやく本論に入って、「一三〇〇余里」(108ページ)を本書著者の迷走の一例として提議します。論旨が一部重複するのはご容赦ください。
 なお、以下の引用は、最善の努力を払って原文の再現を計ったものですが、再現できていない部分があることはお断りしておきます。

4.陳寿のイメージ――「道程記事」
「一三〇〇余里」の解釈
 邪馬台国は、『魏志倭人伝』によると、伊都国(不弥国)から1500里(1300里)…にある。…約650㌔㍍(565㌔㍍)…である。…邪馬台国の所在地は九州島に収まらず、畿内大和にあったことを、つよく支持する…。魏晋朝短里説、または局地的短里説に立てば、130~100㌔㍍(120~90㌔㍍)となって、北部九州説を裏づける。…九州説には数学的なトリックがあるように思う。
 いままで、1300里…を計算するのに、…不確定な末盧―伊都国間500里や、対馬―壱岐間千余里と対比し…、現代の精確な地図と比較し…た。そこに、欺瞞(錯覚)がある。…これは『魏志倭人伝』の地理観が正確であった…と…前提としている。あるいは、『魏志倭人伝』の数値と現実の数値は、比例関係にあることを、自明の理としている。比例法は「古代の地図は、絶対値では不正確であっても、相対値は正確だった」ということを前提にしているが、その保証は実はない。
 もし、…当時の中国人の地理観が、…歪んでいたら(そもそも、日本列島の正確なイメージなど、…何人も持ち合わせていなかった…から、ありうる…)、前提が誤っていたことになる。まして、北部九州説の仮想する〈ピンポイントの正確さ〉など、求めるべくもない。近世の中国に至る、あのアバウトな日本列島図をみれば、それは信じがたいことだ。

*コメント
 誤解を「自覚」せず、一陣営をトリック(「悪意による欺瞞」の意か?)と断罪するのは道理に反します。論破できないから欺瞞と罵倒するのは子供の口げんかです。
 欺瞞(錯覚)と括っても、両者は全く別概念です。「嘘つき」と断罪し、反発されたら「それは真意ではなく錯覚の意味です」と身をかわすのでしょうか。誤解との「自覚」の有無は言わずとも、なんとも不細工です。
 議論の段取りとして、目前の記事(文字テキスト)を根拠とするのは当然であり、「暗黙」の「前提」などないのです。
 これらの記事は、当然と確証されたものでなく、検討対象なのです。この論争に神がかった「保証」(誰の?)がないのは、水鏡に映った犬同様に、お互い様なのですが、それにしても、「比例法」とは何のことか。ご当人に「自覚」が、欠如しているのではないかと、苦慮します。

                                未完

私の本棚 3 岡本 健一 「邪馬台国論争」 5/8 2026

講談社選書 メチエ 1995年7月刊
私の見立て 星一つ ★☆☆☆☆ 見当違いの強弁が空転 2014/05/17 補追 2021/12/23 2025/01/22,08/08 2026/02/02

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*コメント
 著者は、文献解釈、土地勘に優れていると自負しているようですが、「地理観が、誇大化」とは、乱れた日本語です。ここは、「陳寿や当時の中国人の地理観」など特定困難なものではなく、現地と交渉のある帯方郡官人の地理観、魏使の一員で、現に、方角や道里を記録していたと思われる書記官(軍事探偵。おそらく、半島に土地勘のある帯方郡官吏)の地理観、いわば、地域専門家の見識であり、頭から「馬鹿」にしたものではないのです。推定するに、書記官は、日誌上に現場の方角、方位、歩測を日々記録したのであり、「二千年後生の無教養な東夷である」書斎暮らしの井蛙が数字遊びの空論をもてあそんでいるへっぽこ「安楽椅子探偵」とは違うのです。
 いや、「倭人伝」の道里記事は、郡から倭に至る行程の千里単位の道里が、後漢代に公孫氏が「記録」・「記帳」したものであり、曹魏明帝が承認したために公式道里として固定されたものであり、末羅国上陸後の百里単位の「倭地」道里だけが、魏志/郡使訪倭の際の測量かと思われます。

 ここで、史上誰一人して主張していない「ピンポイントの正確さ」(意味不明瞭なカタカナ語)を揶揄しても、犬が自身の水鏡に吠えかかっているようなものです。特に、千里単位の概数で示された道里が、現地の未確認の地理と「ぴったり」整合するとみたとしても、それは、単なる勘違いに過ぎず、岡本氏の概数、地理概念は、中学生にも及ばない稚拙なものと語っているのです。
 まして、「アバウト」などは、程度の低い記者用語(意味不明瞭なカタカナ語)であり、ここで古代史論に持ち出すとは、愚劣の極みです。
 数字に強い教養の持ち主である陳寿は、原則として「千余里」のように、千里単位の概数であることを明記しているのです。世上、そのような概数を小数点入りの数値として解釈している向きが多いのに、岡本氏が憤慨しているのでしょうが、陳寿とは無縁の「後世」概念であり、お門違いは、大概にして欲しいものです。

*「アバウト」の怪談
 著者は、突如「あのアバウトな 日本列島図」などと勝手な言い方と「日本列島の正確なイメージ」と茫漠たる巨大概念で敵方の撹乱を計っていますが、目くらましにも何にも、具体的に何を指しているのか趣旨不明で、読者に伝わらないのは、いかにも拙劣です。三世紀の東夷に列島図などあったはずがないのです。

*語彙の混乱、概念の混乱
 たとえば、全国歩測で克明、精緻に描き出した伊能忠敬の日本全図のようなものが、三世紀当時に存在しなかったことは明確ですが、「倭人伝」冒頭に書かれている「倭人は帯方郡の東南方にいる」(倭人在帶方東南)とした倭人に対する「イメージ」(漠たる地勢観か)は、実用上十分なだけ正確であったと理解できます。
 少なくとも、陳寿が、本書著者のように錯乱したと言われかねないお手盛りの「地理観念」を前にして書いたとは見えないのです陳寿の歴年の考察の成果も、「神のごとき著者の自負する明智にかかると児戯に等しい」ものと、尊大に見くびられたようです。

 この漠たる「イメージ」(意味不明瞭なカタカナ語)に対する確たる反証の「イメージ」(意味不明瞭なカタカナ語)はあるのでしょうか。それにしても、「イメージ」とか「アバウト」とか、「ガキ言葉」連発は、著者が論争を維持する集中力の喪失を思わせ、痛々しいものがあります。誰も、氏の不熟を指摘しなかったのでしょうが、孤軍奮闘の落ち武者を見るようで、寂寥の念を覚えます。

 北部九州説では、
・邪馬台国は、伊都国から約1300里、つまり、わずか「末盧―伊都国間500里」の2.6倍…にある
  2000里    >    1300里     >   1000里
 (対馬―末盧間)  (不弥―邪馬台間)  (壱岐―末盧間)
 だから、(不弥―)邪馬台国は末盧―対馬間を半径とする円周内に含まれる。
 これらの点から、九州論者は…「北部九州…に邪馬台国はある」としてきた。
 一見、もっともらしい論理だ。まるで孫悟空の如意棒のように、1300里が100㌔㍍前後に縮んだ。しかし、先の前提が崩れれば、たちまち瓦解するほかない。

                               未完

私の本棚 3 岡本 健一 「邪馬台国論争」 6/8 2026

講談社選書 メチエ 1995年7月刊
私の見立て 星一つ ★☆☆☆☆ 見当違いの強弁が空転 2014/05/17 補追 2021/12/23 2025/01/22,08/08 2026/02/02

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*コメント
 誠に子供じみた乱文です。
 「れば」は、仮定に基づく所感であり、学術の論には無用の言葉遣いです。「先の前提」の当否は、懸案となっていて、この後も論破されていないのです。つまり、単なる冗語です。また、信用をなくしています。
 「わずか」は、「」を飛び越えて「2.6倍」にかかるのでしょうが、これが「わずか」に見えると言うことは、よほど巨大な距離を先入観として持っていることになります。また、書かれている里数は、出典不明、根拠不明の数字の遊びであり、何の根拠にもなりません。またまた…また、信用をなくしています。

 それが、「孫悟空の如意棒」という、学術用語でなく「かかる論争の際の言葉遣いとして不適切としか言いようがない」比喩で不意打ちする動機になったのでしょう。著者の脳内は、奔放な「イメージ」が刀剣乱舞しているのでしょうが、それを無分別にばらまくのは、大変迷惑です。
 言うまでもなく、「孫悟空の如意棒」は空想譚上の遊び道具であり、遥か後世の著作に登場するだけで、時代錯誤というか、誰も実体を見ていないので、引き合いに出すこと自体、ご当人の知性を疑わせるものです。

 脚もとをまさぐって手応えのあったものを、確かめもせずに相手に投げつけるのでは、投げるものがなくなったら「糞」を投げつける類人猿なみと見られても仕方ないでしょう。ご自愛いただきたいものです。

*反射的な言説動揺
 著者は、自説に基づく先入観を基準としているから、事態が紛糾して言い分に窮すると、感情が刺激されて劇的な(不法な)暴言を吐くようであり、著者と先入観を共有していない読者にしてみると、著者は、100㌔㍍(現代中国語で言う100公里)の距離を、自説に整合するように500㌔㍍以上に無理矢理引き延ばしていると見るものと思います。なにしろ、勝手に決め付けた千三百里をやり玉に挙げて、勝手に論議している千三百「里」を、勝手に百㌔㍍と見立てて、論敵の取り付きようのない足場にしているので、論議にならないのです。つけるクスリを思いつきません。

 率直なところ、目下の論議の大半は、そうした勝手な思い入れの積層から来るものです。
 論争の際は、手前味噌の先入観に起因する感情的/情緒的な意見/表現を抑えて、科学的/中立的/論理的な見解に言い換えないと、罵倒競争、子供の口げんかになってしまいます。こども返りとは、痛々しいものです。ここでも、痛々しいのです。

 しかも、直木孝次郎(「国家の発生」旧岩波講座『日本歴史』1 1962』や山尾幸久(「魏志倭人伝の史料批判」1967)が指摘するとおり、1500里を比例値(最大150キロ)とする場合、一日行程50里(漢魏里で21キロ前後)で計算すると、せいぜい五日もあれば十分だ。

*コメント
 根拠不明の「一日行程50里」は、どんな「里」に基づいているのか、説明が無いので検算のしようがありません、直木、山尾の御両所は、真摯な研究者ですから、根拠を明確にした上での論義でしょうが、これでは、根拠不明の憶測を主張したことになっています。
 また、中国基準の行程道里は、牛馬荷役、車輌横溢と道路整備と宿所の整備が前提ですが、「倭人伝」は、中国基準の通用しない「牛馬」が整っていないと明言していて、倭地街道の整備は、とても、街道と言えない、けものみちだと語っているのです。最悪、背負子で貴人を背負って、歩行移動することになりかねません。何しろ、中国の官人/貴人は、一切荷物を持たないし、乗り物無しで地面を歩くことなどないのです。
 もちろん、海上を移動する「渡海」「水行」は、中国で街道に採用されたことの無い不法な行程ですから、街道移動と同列に考えるなど、無謀の極みと思うのですが、直木、山尾御両所は、どのような考察を行ったのでしょうか。憶測ですが、著者は、何か、数世紀に亘った時代錯誤に囚われているようです。
 根拠のない憶測は、学術的な論議から、断固として排除すべきです。

 「倭人」世界の場合、途中に補給拠点(宿駅)がないと思われ、大量の食料と水を抱えて徒歩行で進むことになり、毎夜野宿になります。重荷を抱えて、野宿明けを歩調を落とすことなく、淡々と歩いていけるものかどうか。いや、これは、近場の九州北部地域だから、ご苦労様で済むのですが、今日言う「山陽道」は、その数倍、10数倍の道なき道なので、最初から話にならないのです。ちゃんと、科学的な評価を持ち込んでほしいものです。

                                未完

私の本棚 3 岡本 健一 「邪馬台国論争」 7/8 2026

講談社選書 メチエ 1995年7月刊
私の見立て 星一つ ★☆☆☆☆ 見当違いの強弁が空転 2014/05/17 補追 2021/12/23 2025/01/22,08/08 2026/02/02

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*合わない勘定
 更に深刻なのは、「一日21キロなら五日で150キロ」とおっしゃいますが、これでは算数の勘定が合わないので、筆者の感覚はどうなっているのだろうかと不審に駆られます。ここでも、痛々しいのです。せめて、編集部が検算すれば良いのですが、本書は、無校閲なのでしょうか。
 もっと肝心なのは、「それがどうした」と言う素朴な反問に対して、答えに窮するのです。「倭」は、最大でも末羅国から徒歩五日程度、つまり、手近に在るというのは、文書交信できなかった古代の世界観で言えば当然です。この間に一ヵ月かかるようでは、国が成り立たないのです。自滅発言です。

*引用の不備
 因みに、直木、山尾両氏は、古代史学界でも、群を抜く知性、学識の持ち主であり、そのような「暴言」は吐いていないはずです。おそらく、はっきりした前提があってのことであり、両氏の著書に示された潤沢な論考のごくごく一部、自分好みの数字だけ取り出すような勝手な引用は、そもそも不適切でしょう。御両所の名声に、子供じみたと批判されかねない読みかじりで、勝手に泥を塗っているのではないかと危惧します。

*不手際の是正待望
 案ずるに、筆者は、上位職種で、周囲に相談相手もご意見番もいないように思われます。数字に弱い人は強い人の助言を仰げば良いのであり、自分がよくわからない事項をわからないままにして、読者に錯乱状態をさらけ出す書物を出版してしまうのは、高名な著者の晩節を汚すものでしょう。
 こうしてみると、著者が、独力でできる最善最強の策は、不得意な算数論理に深入りせず、三世紀東夷の世界に「短里が施行された証拠は一切なく、そのような架空の短里説に依拠した比定もまた架空である」と単刀直入に指摘する高度な戦略であったように思われます。

*講談ネタの乱入
 他の不適切な論証の例で言えば、130ページで、筆者は、卑弥呼の第一回の遣使を景初二年でない根拠の一つとして、「明智光秀の毛利への使者が秀吉の陣に迷い込んだ故事と同様の間違いを起こしかねない」と揶揄していますが、挙げている故事は、講談ネタであって、史実でなければ学術用語でもなく、かかる論争の際の言葉遣いとして不適切としか言いようがないと思います。言うまでもないですが、光秀や秀吉の活躍した時代は、千数百年後の16世紀後半の「日本」の戦乱期であり、途方もない時代錯誤を露呈しています。
 手短に言うと、秀吉は、西方の毛利高松城を包囲布陣していたので、京都方面から西進すると、まず秀吉陣にぶつかることは子供でもわかることです。知将光秀が、毛利に密使を派遣するとすれば、秀吉陣の迂回を厳命するはずです。講談ネタが広がったとすると、それは、秀吉が、自分の間者の通報を合理化した宣伝工作となります。

*両郡調略の知略
 氏の軍記物調の口調に合わせるとすると、魏が遼東公孫氏を攻略するために、半島中南部や倭国にどのような宣撫工作を行ったかは、正史に明記されていないのですが、兵法常識として、遼東に派兵したときに、半島中南部や倭国からの公孫氏支援軍に攻撃されると、上陸軍が窮地に陥ることは明白であるから、物の道理からして、両郡を勅命によって血を見ることなく皇帝傘下とし、両郡管轄下の東夷に対して、相当念入りに宣撫工作したことは明らかであると思います。少なくとも、楽浪/帯方両郡は、皇帝の臣下であり、勅命で、新任の太守に太守の座を譲るしかないのです。

 従って、景初初頭に、両郡は、曹魏明帝直轄に移行というか回収されていたでしょう。公孫氏は、健在な間は、両郡を指揮下に置いていたのでしょうが、司馬懿の討伐軍が接近している状態では、構っていられなかっでしょう。
 このあたりは、教養ある(同時代)読者には、当然自明なので、正史は省略しているのでしょう。明記されていなくても、自明と示唆されているのは、明記に等しいのです。

                               未完

私の本棚 3 岡本 健一 「邪馬台国論争」 8/8 2026

講談社選書 メチエ 1995年7月刊
私の見立て 星一つ ★☆☆☆☆ 見当違いの強弁が空転 2014/05/17 補追 2021/12/23 2025/01/22,08/08 2026/02/02

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*両郡調略の知略(承前)
 因みに、両郡調略は、戦後処理において、両郡の東夷管理体制を活用する主旨であり、事後、海上交易に活用可能と思われる大量の兵船造船と相俟って入念な地域振興策構想を思わせます。

 これは、司馬懿が、遼東郡攻撃で軍功と事後の昇進を掲げて猛攻し、公孫氏だけでなく配下の郡高官まで殲滅して、以後の高句麗等の統御を困難(事実上不可能 )にした武断の愚行とは、明らかに別系統の遠大な戦略であり、恐らく、明帝と腹心毋丘儉の合議によるものと思われます。

 これは、後漢光武帝時代の遼東太守祭肜(さいよう) が、新興鮮卑に大量の褒賞を与えて、高祖劉邦、武帝劉徹以来の仇敵匈奴を追い落としたように、万二千里の彼方の七万戸の大国と速断した「倭人」に、大量の下賜物を与えて、韓、濊、さらには、高句麗の征討の戦力とする抱負を抱いたように見えます。
 幸か不幸か。そのような幻想を抱いた明帝は早世し、後には、司馬懿の政権工作の結果平静化した「倭人」厚遇の蔭を抑えようとした陳寿の「倭人伝」記事が承継されたとみえます。

 明帝がこれほど早死にしなければ、東夷は、過大と見える厚遇から、緩やかに分相応の待遇となって、両郡の支配下に確保されたものと思われますが、実際には、魏晋朝の東夷戦略は急速に退潮したのです。つまり、「親魏倭王」は、五十年を経ずして「空手形」に帰したのです。

*景初遣使の急迫
 景初時点、そのような帯方郡の宣撫を承けて、「唇亡びて歯寒し」、次は、我が身かとあわてふためいた倭人が急遽遣使したとしても、まことに不思議はないし、魏朝が、宣撫に対する応答として好ましいから、最恵待遇でこれを迎え入れたとしても、むしろ当然の対応と思われるのですが、いかがでしょうか。

 一年遅れて、万事形勢が定まってからの遣使では、むしろ、太公望の宣言ではないですが、「遅れて至るものは斬る」で討伐の対象になりかねないのが歴史のならいです。

*不可能な使命 畿内発 帯方郡参上
 それにしても、世上の諸兄姉は「倭人」が、どんな神がかりで、公孫氏の滅亡を知り、どんな計算で、僅かな手土産で帯方詣でを決意したのか、納得できるお話を提示して戴いたでしょうか。素人考えでは、鬼より怖い帯方郡太守から、期限を切られて召集されたから、急遽参照したと考えるしかないように思うのです。併せて言うなら、召集を受けた「倭人」が、どのような神がかりで、帯方郡に殺到したとお考えなのでしょうか。畿内説を採ると、帯方郡からの報せが届いて対応を決め、使節を帯方郡まで差し向けたとして、景初三年六月すら覚束ないと見えるのです。
 何しろ、郡の郵便が、末羅国で上陸した後、九州北部までは、悪路をものともせずに疾駆したとすれば、片道四十日を短縮して、使節の景初二年六月到着を実現できたとして、仮想されている畿内に到着する難路は、蝸牛の歩みであり、折り返しの使節団は、荷物と生口を連れての牛歩以下の歩みであり、ほとんど実行不能と推定されるのです。いうまでもなく、行程を一貫航行できる船便は存在しないので、とにかく、歩き続けるしかないのですから、それは、不可能な使命(Mission Impossible)です。

 そうそう、倭人に招集をかけた時点で、新任の郡太守は、倭人が精々片道四十日の近場であって、ろくに兵力も産物もない零細東夷だと知っていたのですが、公孫氏の遼東郡内部向けの粉飾資料を目にして激昂した明帝は、倭人使節に大規模な手土産を与えて、親魏倭王と厚遇することに決めていたので、後難を恐れて、皇帝の意図に沿うものとしたのでしょう。せめて、「倭人」の台所事情を誇張した、お粗末とも見える献上物としたのです。 

 もちのろん、別に神がかりでなくても、素人の簡単な考証で、景初末年、畿内から帯方郡へ急行することは、不可能だとわかるのですが、氏は、何も検証せずに、夢物語を書き散らしているのでしょうか。一度、子供に返ったつもりで、簡単な手順で確認頂ければどうかと思う次第です。

 虚心で史料に向かえば、このような推測ができるのですが、著者の目は、先入観で曇ってはいないでしょうか。「過ちては改むるに憚ること勿れ」とは孔子の言です。まさか、先行する各書籍から、「コピー」「ペースト」して、一丁上がりだったのでしょうか。
 手頃な情報に飛びついて、「裏」を取らないのでは、著者の報道人としての名声が泣こうというものです。

*渡船の軽舟 2026/02/02追記
 そうそう、世上、「倭人」が上洛する経路は、遼東郡治にこそ行かないものの、大きく、渤海湾を取り巻く遠大な行程と極め込んでいる方が少なからずいらっしゃって、それなら、遼東半島付近で戦線に近づくと懸念された方もいらっしゃったようで、それが、講談ネタになったようですが、帯方郡管内から上洛するには、単に、黄海対岸の山島半島に、渡船で渡るだけであり、遼東戦線とは、全く無縁だったのです。明帝が両郡海州に送り込んだ部隊も、渡船同然の軽舟で渡海したはずです。
 このあたり、それこそ、明帝の懐刀、知将毋丘儉なら、現地地理も渡船事情を熟知しているので、一切迷わないのですが、「後世東夷」には、大分念入りな誤解がはびこっているようなので、ここに追記したものです。

*講談ネタ謝絶宣言
 それにしても、安直に「講談ネタ」を本件の引き合いに出したのは、誠に学問の道を外れていて、著者への信頼を大きく損なうもので、痛々しいのです。それにしても、一流の出版社には、練達の校正/校閲担当者がいて、こうした筋違いの記述に、とことん「だめ出し」するはずなのですが、本書に限っては、名門名家も、編集部による記事校正を省略したのでしょうか。

*失われた理念~敗れ去った虚説
 関係者打ち揃って、本書を企画したときに、自らに負託した責務を失念したようです。また、別途付託されたと見える「密命」も、これでは、未達成に終わり、「虚説」として低落し続けているようです。

 それにしても、本項で指摘したのは、「倭人伝」の史料解釈のつたなさであり、氏の本領では無いのかも知れませんが、聞く相手を選ぶのも器量なのです。専門分野別に、執筆を分担するのも醜態を避ける一案です。

*直言宣言
 さて、以上、ずいぶん失礼な言い方だと思われる方もあるでしょうが、当方は、無位無冠無職なので、学会で地位を高めたいという野心も功名心もなく、財をなす野望もないので、ただひたすらに率直な意見を述べることを趣旨としているので、行きがかり上無遠慮で手痛い言い回しがあっても、個人攻撃の趣旨は毛頭ないことをご理解いただきたいと思う次第です。

 むしろ、学界の大家と目される方たちには、わざわざ苦言を届けてくれる率直(馬鹿正直)な取り巻きはいないと思うので、意を決して、一連の苦言としての書評を提供した次第です。

                               以上

2026年1月26日 (月)

私の本棚 12 古田武彦 「邪馬台国」はなかった 総論 2026

ミネルヴァ書房 2010年 初刊 朝日新聞社 1971年 (朝日文庫1992年)
私の見立て 満天の星 ★★★★★ 初稿 2014/05/27 再掲 2026/01/26
 
◯始めに
 著者の第二作以降の著作は、朝日文庫時代に講読し、また、単行本で購入したものもありますが、本書は、未購入未読にとどまっていました。
 今回、一連の著作が、ミネルヴァ書房から単行本形式で順次復刊されたことを大型書店の店頭で確認したこともあり、初めて購入して読み通すことになりました。

*本論~総論の弁
 著者の昂然たる執筆姿勢を含めて、本書に対して、いろいろ批判はありますが、その原点となっている学術的な姿勢は、何者にも否定できないものと考えます。原典とした資料を精査して、理詰めで内容を解析するという姿勢は、学問の本道であり、尊重すべきでしょう。

 本書の主張に対しては、学会の各方面から反論があったようですが、魏志倭人伝」に、「邪馬臺国」と書かれていないこと、「邪馬壹国」は「邪馬臺国」の誤記と速断すべきではないとする主張は、依然として克服されていないと思います。要するに、金石文の如く不滅です。

 正論が克服されない以上、史料改訂の議論は、舞台裏に引き下がるべきものと思うのですが、さながら舞台劇の斬られ役のように、討たれて倒されても、また、同じ顔が舞台に登場するような感があります。

 また、一部には、著者の諸説に逐一反論することを煩雑として、「邪馬壹国」否定の一撃で著者の全所説を一掃できるとした「名案」にとりつかれて、堂々と宣言している論者まで現れている次第です。その結果、三国志原本の面目失墜に血道を上げる傾向があります。

 小生は、一介の私人であり、学究諸賢の主張に付け加えることは少ないと思いますが、次の点は、言い残しておきたいものです。

 陳壽は、文筆を業とする史官/専門家であり、魏志執筆の際に、後世の写本作業で「壹」と「臺」が混同される危険性が高いことを十分に予測していたと思われます。特に、異国の国名は、中国の写本関係者にとってなじめない文字遣いであるので、誤写を抑止する仕掛けがないと、早い段階で、文字化けしてしまうことは、想定済みだったでしょう。素人ではない、帝国最高の職人達の(命懸けの)仕事なのです。
 と言うことで、記事を工夫して、写本工や写本校正者が気づくように、それぞれの文字を書き込んでいるのです。

 壹與に関する部分に、あえて「壹拝」と書き「壹與壹與詣臺」と連打して書いていることは軽視すべきでないと思います。
 原本に「壹與壹與詣臺」とあるのを、「臺與臺與詣」まで書いたとして、次の「臺」を書こうとしたときに、先ほど「臺」と判断したのと違う文字を「臺」と書こうとしていることに気づくという仕掛けです。もちろん、歴代の帝室蔵書である陳寿「三国志」の写本継承は、多数に権威者が寄って集(たか)って仕上げるものですから、写本の校正も念入りであり、もし、不注意の錯誤が書かれたとしても、最終段階以前に阻止されるものなのです。
 これは、逆の場合も同じで、原本に「臺與臺與詣臺」とあるのを「壹與壹與詣臺」と誤写しようとしたら、気がつくという仕掛けです。
 「壹拝」の方は、「壹与」と相接して書かれてはいないのですが、まだ、最初の文字の感覚が失われていないうちに、次の文字が登場するから、注意を喚起されるのです。

 以上は、写本工が、先読みせずに手を進めているという想定ですが、実際は、1ページ分の写本に取りかかる前に、原本を先読みして、内容を確認する工程が入るものであり、混同しやすい文字については、その段階で、注意を喚起されているものです。

 と言うことで、ただ単に、「壹」と「臺」の字形が似ているから誤記されたと推定するのは、倭人傳の文脈に無頓着な意見、一種の暴論と思われます。

 ちなみに、以上挙げた誤字防止の仕掛けは、原本写本の差異に起用される職業的な写本工と写本校正者の練達の技量に対してのみ有効なものであり、子写本、孫写本に起用される在野の格安写本工に対しては、場違いなものとなる可能性があります。
 一口に写本と言っても、帝室原本から遠ざかれば、遠ざかるだけ、校正の質が凋落し、信頼性が、どの程度かは言わないにしても、「格段に」落ちてくるのです。
 敦煌などで出土した三国志写本とおぼしき資料が、結構誤写を有していることから、その当時の帝室写本も、同様に誤写が多かったに違いないとこじつける向きがありますが、中原を離れた地域にどのような段階を経て、件の写本が継承されたかは、確かではありませんが、国家事業の権威ある写本から、一歩のに放たれれば、後は、言わば、安かろう悪かろうの「野良」写本に近づいていくものであり、その過程で、一度でも、粗悪な写本工が介在すれば、後は、おして知るべきです。
 興味のある方は、名のみ高い「翰苑」残簡の無残な有り様を、影印でご覧頂くと良いでしょう。速筆、麗筆だけが問われて、文字資料としての正確さを等閑にしたときの在野写本の悪例を見ることができます。

*余談として
 さて、何故、正史原本が「定期的に写本更新」されて継承されてきたか、と言う議論です。国家事業として、多額の費用を費やして定期的に正史を写本更新する理由の一つは、先ほど挙げたような、高度な写本工程は、写本工や校正担当者に、途切れず仕事を与えないと、その技術が若者たちに継承されず、滅びてしまうと言うことにあります。

 北宋刊本の刊行以前の紙写本がどのような紙質のものであったか不明ですが、貴重書であり、紙魚に食われない紙質とし、また、冷暗所、乾燥雰囲気の書庫で保管することにより、急速な経時変化は避けられていたものと思いますから、やはり、技術水準維持の狙いで、二十年程度の期間を経て、原本更新したものと思われます。
 時には、同様の動機で、皇太子などへの一次写本下賜事業もあったでしょう。

◯終わりに
 本稿は、冒頭に上げた二件の「主張」について、満腔の支持を表明したものであり、あくまで総論であって、古田武彦氏が本書で提示されたもろもろの論考を、全面的に称賛、あるいは否定するものではありません。

以上

 

2026年1月15日 (木)

私の意見「謝承後漢書の行方」サイト記事批判 2026

2016/03/22  2020/02/15 追記 2020/06/24
再確認 2021/03/17 LINK改訂 2021/12/22 追記 2024/04/05, 09/24 2026/01/15

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

◯はじめに
 本記事は、神功皇后紀を読む会 2008.8.26 | 倭歌が解き明かす古代史(旧「神功皇后紀を読む会」通信 主宰・福永晋三)の(かなり古い)ブログ記事に対する批判である。ブログは、sfuku52とあるだけで署名は見て取れないが、福永晋三氏の書いたものであろうと言う認識である。単に、良くある軽率な判断の提示された記事を点検したものである。

 今回の追記は、時として当記事を参照する訪問者が多いことから、定期でもないが点検・補強したのである。さらに、氏のサイト移動に対応して訂正を加えた。対応が遅れて、ご不自由をかけたのであればお詫びする。

 また、今回気づいたのであるが、以後、氏は、邪馬壹國こそなかったに於いて、本記事及び先行する陳寿の見た後漢書を収録されているので、当方も、対応しなければならないのだが、氏の論議には変わりは無いと見えるので、当記事は、このまま維持することにした。

□前置き
 ネットを散策していると、いろいろな意見に出会うもので、人も知る貴重文献「翰苑」でしばしば引用されている「後漢書」は、笵曄編纂の「後漢書」ではなく、謝承の『後漢書』であったと主張しているのである。いや、思いつきの意見/放言に口を挟むのは何だが、これを、建設的な仮説と誤解する向きがあるので、一本、釘を刺すのである。
 謝承後漢書の行方  注)Yahoo!ブログが終了したため、当初掲載していたリンクを改訂した。
 当記事では、『翰苑』の証明と題して、概ね下記の論考が高々と掲げられている。
 (「翰苑」編者の)雍公叡は「謝承の『後漢書』」を『後漢書』として引用し、范曄の言わば『新・後漢書』を『范曄後漢書』の名で区別して引用していることが明らかになってきた

 これは、単なる意見、作業仮説の提言と見えず、堂々と、新発見を旗揚げされているが、氏ほど声望の高い論者は、根拠がない意見は、確たる根拠がないことを自覚した上でその旨明記された方が望ましいのではないかと思量する。

*検証の海
 当方は、一介の素人読者であるので、深読みはできず、表面的な読解で恐縮だが、「翰苑」の書法から見て、こうした決めつけは、不適当だと考えるのである。と言うことで、第三者が追試可能な、明確な根拠のある「否定」の論証を試みる。

 竹内理三氏の労作書籍「翰苑」に収録された全文影印は、写本工の不手際と事後校正の不備/欠如を露呈している。
 当世流行りの罵倒用語では「致命的」というのだろうが、関係者一同とうの昔に世を去っているし、また、人の生き死にを冗談の種にすべきではないと思うので、オリオン座「馬頭星雲」さながらの「罵倒の海」から身を遠ざけることにする。

 それはさておき、竹内氏の労作は、「翰苑」残巻なる古書の文献批判上、大変参考になるが、何分、「翰苑」 は奔放な書法で書かれていて、文字検索には全く不向きなので、いつもお世話になる「中國哲學書電子化計劃」で、「翰苑」の全文テキスト検索を行った。以下、()内の件数は、同サイトのデータを利用させて頂いた。

 謹んで、「中國哲學書電子化計劃」サイト関係者の多大な貢献に感謝する。

*「笵曄後漢書」と「後漢書」
 たしかに、「翰苑」残巻の蕃夷部には范曄「後漢書」(7件)と「後漢書」(91件)の二種の書名が書かれている。

 班固「漢書」(55件)、司馬遷「史記」(4件)、陳壽「魏志」(14件)の正史については、いちいち編纂者を示していない。「翰苑」編纂時の編者の視点では、これら「三史」が、後世「正史」と呼ばれた公式資料となる格別の史書として認知されているから、書名だけで自明だと言うことであろう。

 因みに、ここで言う「三史」は、あくまで、大唐高宗官撰により范曄「後漢書」が公認される唐代中期までの評判であり、その後は「史記」、「漢書」、「後漢書」が「三史」となり、「三国志」は、表彰台から下りたのである。念のため。

*魚豢「魏略」と「魏略」
 例えば、魏略」について確認すると、魚豢「魏略」と「魏略」(計29件)の二種が見られる。だからといって、二種の「魏略」があったわけではない。引用資料の出典を厳密に明記するには、毎回魚豢「魏略」と書けばいいのだが、わかりきった事項を繰り返し書くのは煩雑だし、字数分の紙面を消費するので、一々律儀に書かなくてもいいと言うことで、普段は省略形の「魏略」で済ませている箇所が多いのである。高級写本とするには、全件を魚豢「魏略」に復元するだけであり、そこには、高度な技巧も学識も要らないのである。

*「後漢書」検証
 してみると、多くの箇所(98件中 91件)で、単に「後漢書」と書いているのは、既に定評の確立していたと見られる笵曄「後漢書」の省略形と見るのが、一番自然な、無理のない理解、いわば、極めて妥当な「定説」ではないか。
 大局的着眼を着実な実証で確保していて、定説とは、かくあるべきと言うお手本としたいものである。

 唐宋代当時、既に范曄「後漢書」の文章の質の高さは評判になっていて、その華麗な文体は教養人の手本になっていたから、後世に正史、つまり、歴史文化遺産とすべき「後漢書」に選ばれたものと思われるのである。

 福永氏に代わって、当方の「否定」に対して反論したくても、「翰苑」写本断簡の蕃夷部を検索しても、謝承「後漢書」どころか「謝承」もヒットしない。要は、明示も示唆も無い、何もないのである。氏は、何らかの幻想に囚われて、かくの如き駄文を物されたと強く推定される。

 なお、本断簡における「写本工」の仕事が、職業人として信じがたいほどいい加減でも、引用出典として、原本に「謝承後漢書」と書かれているのを「後漢書」と書くような類いの誤写は、見る限り一切していないのである。本写本は、つまらない書き損ないを放置していて、書きかけで気づいたら、そのまま書き続けているのが見て取れる程である。しかし、勝手な書き端折りはしていないのである。

 当ブログ筆者は、かねてから、現存する翰苑「写本」が、「史料として色々不具合が多いものである」ことを言い立てているが、信頼できないのは、写本の工程そのものの「気ままさ」とその後に付いてくる校正の堕落であって、「翰苑」原本の信頼度は、史料からの引用の精度に疑問はあっても、それなりに高いもの(であった)であろうと推定している。(賞賛しているのである)

 ただし、写本の出来が出来であるから、誤字脱字の山を正確に是正するのは、難易度が高いし、加えて、晩唐から五代十国、北宋初期の間に高度な進化を極めた四六駢儷体の「美文」を正確に解釈するのは、当時の「文化人」以外には、むつかしい。平たく言うと、「不可能」と思う。

 いや、福永氏が、至高の読解力の持ち主でないと主張するほど無謀ではないが、諸般の事情から見ると、事実上、単なる千数百年「後生の無教養な東夷に過ぎない」と見えるのある。氏ほどの見識の持ち主が、旧説を一切検証せずに、放置されているところを見ると、当論議は、放擲されているのではないかと推定されるのだが、いたずらに、一時の恥を、御高説の中核部に通じるものとして後世に残していらっしゃるのは、どんなものであろうか。世の中には、検証なしに氏の見解を子引き、孫引きして、泥沼に陥っている方もいらっしゃるので、過ちを正すのに遅すぎることはないと思うものである。

*翰苑の正当評価
 それにしても、史書でなく、「通典」などの上級類書でもない「翰苑」の編纂の意図が、はなから史書抜粋の厳密さを追究したものでなく、また、「翰苑」編纂者の与り知らぬこととは言え、十分な文書校正されず、少なからぬ(平たく言うと、厖大な)誤字、誤記が残されている、どう見ても杜撰な写本の断片が一本だけ残存しているので、その真意を読み取ることは、大変困難である。平たく言うと、「不可能」であるが、当世若者言葉には通じていないので、どう解釈されるか不安なのである。
 念を押すが、ここでは、当史料の文字テキストの信頼性を問題にしているのであり、「翰苑」断簡の文化財/国宝としての価値、つまり、書の芸術としての価値には、一切文句を付けていないのである。(当ブログ筆者には、批判できる見識が備わっていないので論評しないのである)

 正史は、歴代帝国の一級文化財として、ちゃちな経済性を度外視して、正確さを最善に保持すべく、北宋刊本校正時に至るまで、確実に写本継承されている。ほぼ健全に継承されたと思われる正史「三国志」記事を、陳寿を基点として二千年後生の無教養な東夷の憶測と風聞に基づく「論考」でもって覆すというのは、学問に取り組む者の姿勢として、どういうものだろうか。(平たく言うと、根本的に間違っている)
 更に言うなら、「翰苑」は、あきらかに商用のものであり、手早く世上流通していた「劣化」の進んだ二級以下の品格であった市販諸史書からの所引(早書きの抜き書き)を収集し、もっともらしい「評」を加えたものであり、「翰苑」編者の手元に届いた時点で、史料として、市販諸史書の被引用部分から遠ざかった「劣化」の進んだものだったのではないかと推定される。
 そこから、「翰苑」編者の資質にも拘わってくるのだが、同書の主要部であったと思われる薬草名鑑と比して、通常、「翰苑」残巻として露呈している名文句集、名筆集に付注する際の史料「テキスト」の所引断片に対する集中力は、当然二の次と思われ、「翰苑」は、その出発点に於いて、多大な劣化をかかえていたと推定されるのである。
 「翰苑」は、文字テキストとして、その編纂時点に於いて、その時点の原史料と同一視される程の信頼性を付与されているが、以上のように、そのような高度な信頼性は、無い物ねだりであり、現存「翰苑」残巻が示す文書行格の錯乱、散在の域を超える多発誤字の萌芽は、「翰苑」原史料所収時に、既に存在していたと推定されるのである。
 そして、現代読者が目にするのは、そのような「出発点」以降に積載された行格錯乱、誤字多発であり、もはや、「翰苑」残巻の文字テキストに対する信頼性は皆無と見えるのである。
 福永氏は、そのような「史料批判」を怠っているのではないかと危惧され、素人目にもあきらかに劣化した史料を根拠に御高説を構築されるのは、氏の見識をいたずらに疑わせるものであると云いたくなるのであが、それでは「罵倒の海」なる泥沼にはまるので、きわどく自粛するものである。

以上

▢追記 2023/09/20
 後出であるが、「翰苑」現存断簡に関する史料批判(2023/07/09)を参照いただきたい。「翰苑」が格式正しく復元されれば、より正確に史料評価できるというものである。検証できるように、遼海叢書 金毓黻遍 第八集の所在も示している。
 いやはや、「翰苑」断簡の史料批判に不可欠とおもわれる史料が、正邪当否はともかくとして、先賢諸兄姉に一顧だにされていないのは、まことにもったいないことである。

 適格な史料批判無しに、目についた史料を読み囓って論じるのは、誠に、勿体ないことである。

私の所感 遼海叢書 金毓黻遍 第八集 翰苑所収「卑彌妖惑」談義

以上

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