私の本棚

主として古代史に関する書籍・雑誌記事・テレビ番組の個人的な読後感想です。

2022年1月15日 (土)

「古田史学」追想 遮りがたい水脈  1 「臺」について 増補再掲 1/3

                        2015/11/01 再追加 2022/01/12

〇はじめに
 ここでは、故古田武彦氏の残した業績の一端について、断片的となるが、個人的な感慨を記したい。

〇『「邪馬台国」』はなかった』
 『「邪馬台国」』はなかった』は、「古田武彦古代史コレクション」の緒巻として、2010年にミネルヴァ書房から復刊されたので、容易に入手可能な書籍(「参照書」)として参照することにする。

 ここで展開されている「臺」と言う文字に関する議論で、「思想史的な批判」は、比較的採り上げられることが少ないと思われるので少し掘り下げてみる。

 「思想史的な批判」は、参照書55ページから書き出されている「倭国と魏との間」と小見出しされた部分に説かれている。

 この部分の主張を要約すると、次のような論理を辿っているものと思われる。

    1. 倭人伝記事の対象となっている魏朝、および、その直後に陳寿が三国志を編纂した西晋朝において、「臺」と言う文字は、天子の宮殿を指す特別な文字であった
    2. 三国志において、三国それぞれに対して「書」が編纂されているが、正当とされるのは魏朝のみであり、そのため、「臺」の使用は、魏朝皇帝の宮殿に限定されている
    3. 倭国は、魏朝の地方機関である帯方郡に服属する存在である。
      魏朝がそのように位置づけている倭国の国名に、天子の宮殿を意味する「臺」の文字を使用することは、天子の権威を貶める大罪であり、三国志においてあり得ない表記である。

 因みに、倭人伝の最後近くに「詣臺」(魏朝天子に謁見する)の記事があり、「臺」の文字の特別な意義を、倭人伝を読むものの意識に喚起している。つまり、三国志魏書の一部を成す倭人伝においても、「臺」の文字は、専ら天子の宮殿の意味に限定して用いるという使用規制の厳格なルールである。

 古田氏も念押ししているように、このような「臺」に関する厳格な管理は、比較的短命であり、晋朝の亡国南遷により、東晋が建国されて以後効力を失ったものと見られる。
 たまたま、手っ取り早く目に付いた資料と言うことで、かなり後代になるが、隋書俀国伝に、隋使裴世清の来訪を出迎えた人物として冠位小徳の「阿輩臺」なる人名が記録されている。
 隋書が編纂された唐朝時代には「臺」なる文字の使用規制は失われていた
のである。

 南朝劉宋の時代に後漢書を編纂した笵曄は、後漢書に「邪馬臺國」と書き記しているが、当時最高の教養人とは言え、陳寿のような純正の史官ではなかったので、語彙の中に時代限定の観念はなかったのである。

 と言うことで、以上のように辿ってみると、「古田史学」の水脈は支流といえども滔々として遮りがたいものである。

                                            未完

 

「古田史学」追想 遮りがたい水脈  1 「臺」について 増補再掲 2/3

                        2015/11/01 再追加 2022/01/12

付記
 語気の鋭い主張ほど、例外に弱いものである。特に、一部の稚拙な反対論者は、細瑾を持って「致命的」と称する攻撃法を取っている。「一点でも誤謬があれば、学説全体が崩壊する」と決め付ける稚拙な手口であるが、つまり、口先の勢いしか、武器がないという「窮鼠」の最後の悪足掻きなので。相手にしないで良いのである。「例外のない法則は無い」というものである。

 陳寿は、三国志の編纂に当たって、天子の宮殿、ないしは、離宮の類いのみに「臺」の使用を規制したと思われるが、人名は正しきれなかったと思われる。
 例えば、著名な人物で「孫堅字文臺」とあるように、何人かの人名で「臺」が使われているのが見受けられる。

 このように、三国志を全文検索すると、魏の支配下になかった人物や魏朝の成立以前に「字」を付けた人物、言うなら、曹操の同時代人および曹操以前の人物の「字」を書き換えてはいないようである。ちなみに、孫堅伝は、あくまで「呉書」の記事である。 

 三国志本文に限っても、「陳宮字公臺」(魏書 張邈傳)、「王觀字偉臺」(魏書 王觀傳)、「孫靜字幼臺,堅季弟也」(呉書 孫靜傳)の用例が見られる。
 古田氏は、「臺」を「神聖至高の文字」とまで口を極めているが、これは言い過ぎであろう。「臺」の使用規制は、天子の実名を諱として避ける厳格さまでには至っていないのである。

 なお、呉書諸葛恪傳に「故遣中臺近官」の記述があり、呉書および蜀書においては、魏書におけるほど、厳格に「臺」の使用を規制していないものと思われる。

 当付記を書くについては、中国哲学書電子化計劃が公開している三国志テキストデータを全文検索させていただいたのだが、「臺」の用例として「邪馬臺國」はヒットしない

                                  未完

「古田史学」追想 遮りがたい水脈  1 「臺」について 増補再掲 3/3

                        2015/11/01 再追加 2022/01/12

〇「臺」論再考 再付記 2022/01/12
 当付記は、以上の論議が崩れそうになるので、静かに語ることにする。
 別に新発見でもないのだが、「春秋左氏伝」に、古田氏の「臺」至高論の対極「臺」卑称用例があるので、諸兄のご参考までにここに収録するのである。
 白川勝師の字書「字通」の「臺/台」ではなく、「儓」(ダイ)にひっそりと書かれている。白川師の字書について、世上、師の老齢を種に誹謗する向きがあって、呆れたりするのだが、ここでは、「春秋左氏伝」の引用であり、師は特に関与していないのである。

[字通] 儓  タイ、ダイ しもべ けらい …..〔左伝、昭七年]に「天に十日有り、人に十等有り」として、「王は公を臣とし、公は大夫を臣とし、大夫は士を臣とし、士は阜を臣とし、阜は輿僕を臣とし、輿僕は隷を臣とし、隷は僚を臣とし、僚は僕を臣とし、僕は臺を臣とす」とあって、臺は第十等、〔玉篇〕にこの文を引いて臺を儓に作る。奴僕の乏称として用いる。…..

 つまり、「臺」は、本来、つまり、周制では、王、公、大夫から大きく下った文字を知らない隸、僚、僕、「奴隷」、「奴僚」、「奴僕」と続く最下等のどん尻である。官位などであれば、最下位は官人であるから、官位外に下があるが、臺はその限りを越えている。
 後世、これでは蔑称の極みであり、「臺」の公文書使用に対して大変な差し障りがあるので、たまりかねて、人偏をつけて字を変えたと言うことのようである。

 陳寿にとって、春秋左氏伝の用語は、史官教養の基幹であり、明瞭に脳裏に記録されていたから、周礼の片鱗をうかがわせる東夷「倭人」王の居処を呼ぶについて「邪馬臺」と書くことはなかったように思うものである。逆に、蛮夷の王の居処を「都」(みやこ)と呼ぶこともなかったのである。史官に於いて、尊卑のけじめは峻烈だったということである。

 念のため言うと、南朝劉宋代に、先人の後漢書を美文化した、当時一流の文筆家であった笵曄は、史官としての訓練を歴ていないし、西晋崩壊によって、中原文化の価値観が地に落ちた時代を歴ているので、左氏伝の用語で縛られることはなかったと見るのである。いや、教養として知っていて、東夷列伝の「其大倭王居邪馬臺國」に、左伝由来の卑称をこめたのかも知れない。范曄については、まことに、真意を推定するだけの資料がないから、東夷「大倭王」を蔑視していなかったという確証はない。

 因みに、「臺」は、古典書以来の常識では、「ダイ」であり「タイ」ではない。俗に、「臺」は「台」で代用されたが、正史は、そのような非常識な文字遣いが許される世界ではない。
 百済は、馬韓時代から早々と漢土と交流していたから、当然、漢字を早々に採り入れたが、自国語との発音、文法の違いに苦労して、百済流漢字、つまり、無法な逸脱を色々発明したようである。それは、中国側が、中国文化の違反として厳しく是正したものであり、百済では、すべて禁止事項となったが、「無法な逸脱」は、ふりがな記号、国字、「臺」「台」代用も含めて、海峡を越えた世界に伝わったようである。

 以上は、「やまだい」と呼ぶしかない「邪馬臺国」が、「やまと」と読める「邪馬台国」に変貌したと言う無茶な変遷論と相容れないので、国内の古代史学界では言及されないように思えるのである。いや、古田氏すら、これには気づいていなかったと見えるから、「古田史学」は、「全知全能」「無謬」ではないのである。

 因みに、従来、三国志の中で、呉書、蜀書の用語を、魏書の用語と同等の重みを持ってみていたが、丁寧に見ていくと、陳寿は、魏書以外の用語については、それぞれの「書」の原文をとどめているように見えるので、項目によっては、論調によっては、論議の矛を収めることかあることを申し上げておくものである。

以上

2021年12月23日 (木)

私の本棚 3 岡本 健一 「邪馬台国論争」 改頁版  1/8

 講談社選書メチエ 1995年7月刊
私の見立て★☆☆☆☆ 見当違いの強弁が空転 2014/05/17 補追 2021/12/23

〇総論~「窮鼠」徘徊
 本書は、一応、公平な見地から取り纏めた「邪馬台国論争」全集版との執筆姿勢であり、出版社を含め、本書を企画したと言うことは、乱世に統一をもたらす道標を築き上げるという絶大な責務を課せられたと感じたはずです。
 と言いつつ、著者は、不退転、と言うか、退路を断った背水の陣の畿内説陣営の走狗、つまり、窮鼠であり、至る所にその分厚い先入観が露呈していて、執筆の際にそのような高邁な責務は念頭から去っていたように思われます。

〇書誌論の沈没~意図不明な紹興本高揚
 取っつきとして、刊本書誌を論じていて、著者は、世評の高い紹熙本だけでなく、紹興本も咸平本に基づく刊本と主張しています。その意見に反論している内に、以下のように長い道草になりましたが、場の勢いで刊本論を続けます。

 紹興本は、本来、紹熙本と同じ字面のはずですが、両者は、あちこちで異なっているのです。一番目立つのは、紹熙本が東夷傳の各小伝に「傳」と小見出しを付しているのに対して、紹興本では、これが削られていることです。
 これは、小伝小見出しが、陳壽原本に記載されていたと言うほどのものではなく、おそらく、歴代写本では、上部欄外に手書きで注記されていたものが、咸平本刊行の際に、労を厭わぬ官製刊本の特例として、本文に取り入れられたと思われます。
 何しろ、小見出しの数文字で一行、繰り返していくとページ送りになりかねないので、このようなレイアウトを採用するのは、大変な贅沢なのです。
 もちろん、万事推測ですが、紹興本は、咸平本刊本が原本でなく、少なくとも一度は写本して通用していた刊本写本ではなかったかと思われます。もちろん、紹熙本も同様です。刊本は、すべて同一内容ですから、官辺本が生存していたなら、何の論議も必要なかったのです。

*北宋刊本の興亡
 咸平本が木版出版されても、部数は少なく、高官に限定されていたと思われます。そこから、通用する写本が分岐したと思われます。
 何しろ、北宋期は、中国市場、それまで王侯貴族や(旧)軍閥に集中していた文化経済活動が広く民間に拡大された革新的な時代であり、清明上河図に見られるように市民階級の経済力が興隆し、且つ、宋王朝は、政府機能を複数の陪都に分散していたので、自宅に書庫を備え、その書庫に正史写本を備えたいとする蔵書需要が、各地で高まったと思えるのです。あるいは、呉蜀の旧地の蔵書家が、財貨を傾けて、魏志、呉志の最善写本の収集にあたったとも見えます。紙製本時代になって、正史全刊の輸送も、汗牛充棟の大事業ではなくなっていたのです。

 北宋が外敵の侵入で突然崩壊し、逃避した皇族が江南の地で国家再建を図ったとき、咸平刊本を三国志翻刻の基礎とすべく探したものの入手できなかったので、最善の写本を翻刻して紹興本が刊行されたものと思われます。
 最善の写本というものの、厳格に管理された正規の写本工程で作成したものではなく、そのために誤写が散在していたのでしょう。その兆しが、小伝の小見出し省略に現れているように思われます。民間の手になるものであれば、伝統的に必須でない小伝小見出しは、省力化の対象となったのでしょう。

*紹熙本の由来推定
 紹凞本刊行の背景として、紹興本の刊行後、数十年して、忽然と咸平本写本の善本が得られたことによると見たのですが、どうでしょうか。
 紹興本が最善であれば、紹熙本の出る幕は無かったのです。恐らく、紹興本の編纂にあたった学者達が、紹熙本に不満を抱いていたが、その時点で最善だったので、妥協したものが、紹熙本原本が発見されて、「最善」の称号が移転したのでしょう。

 当然、紹興本刊行の費用と労力を無にする、不遜な重複とそしられたでしょうが、刑死の危険も厭わぬ決意を以て推進して、万難を排して刊本として翻刻し、更に咸平本帳票復刻を添付したのは、念願の善本を入手した関係者の無上の喜びの表現であったのでしょう。
 

                               未完

私の本棚 3 岡本 健一 「邪馬台国論争」 改頁版  2/8

 講談社選書メチエ 1995年7月刊
私の見立て★☆☆☆☆ 見当違いの強弁が空転 2014/05/17 補追 2021/12/23

*紹熙本降臨
 以下、あくまで小説的な推測ですが、このような異例の事業が実行できたのは、紹凞年間、上皇として実権を把握していた南宋第二代孝宗の強い支援を受けたためではないかと推測します。

 孝宗は、宋朝皇族とは言え、皇位継承に無縁の太祖趙匡胤系子孫でした。北宋皇帝の系譜は、創業者である太祖の逝去の際に、弟である太宗趙炅が、太祖の息子である皇太子を押しのけて皇位を嗣いだことにより、以後太宗系が正統となり、太祖系の子孫は長く傍系に追いやられ、冷遇されていました。
 北宋亡国の中、有力皇族男子でただ一人江南に逃れ、南宋を再建した初代高帝趙構も太宗系でしたが、いろいろな事情があって、あえて、太祖系の趙趙昚を養子に迎えて後継者としたのです。いや、太祖京皇族は、中央から遠ざけられていて、しかも、皇族名簿に載っていなかったので、異民族軍の皇族狩りを逃れたと見えるのです。
 かくして、紹興三十二年(1162)に、南宋皇帝位は、高帝から新帝趙昚に譲位され、翌隆興元年(1163)に、ほぼ二百年ぶりに太祖の正統を承けた皇帝として就位したのです。

*考宗の野心
 このようにして皇帝となった孝宗は、宋王朝正統の復活を世に知らしめる野心を持ってして、万事に先代皇帝の単なる継承を超えた意欲的な統治を行いましたが、その一環として、高帝の事業とした紹興年間の三國志復刊、「紹興本」が、最善の写本を基礎と志したものの不完全であり、言わば誤って刊行された正史三國志であることから、これを咸平本原本により近い善本に基づく正しい刊本を刊行する事業に対して決裁を下したのではないでしょうか。
 国家事業を行うためには、臣下の稟申に対して皇帝の裁可を得る必要がありますが、紹凞年間は、上皇が最終決裁権を持っていたので、まずは、上皇の内諾を得てから正式に稟申し、無事上皇の裁可を得たはずです。
 関係者は、刑死も恐れぬ上申への上皇の支持に篤く感謝したはずです。

*考宗没後の展開
 ところが、刊行を目前に控えた紹凞五年(1194)に孝宗が急逝し、権臣が病弱を理由に第三代光宗を退位させて寧宗趙炅を擁立し建元となりました。
 このような事態の急変はあったものの、孝宗が強く支持した三國志刊本は、あくまで、孝宗の偉功として、紹凞年間に決裁が下りたことを込めて、「紹凞本」の名目で刊行されたように見えます。
 以上、空想も交えて推定した経緯のほかに、紹興本に続いて紹凞本が刊行された合理的な理由が考えられないのです。

 南宋により刊行された三國志紹凞本刊本(印刷原本)は、南宋統治下の江南各地に流通し、原本散逸の可能性は大幅に低下したのですが、それでも、今日、紹熙本善本は、元、明、清の歴代王朝の興亡に伴う大陸の動乱から隔離された日本での蔵書を利用しなければならなかったのです。

〇道里論~早々の自沈
 以下、著者の見識(の狭隘さ)をうかがわせるのが倭人伝道里論です。著者は、賛否の表明以前に、道里の合理的な把握はできていないようです。

 その証拠に、反対論として「数学的なトリック」、「欺瞞(錯覚)」、「不確定」、「誇大化」、「孫悟空の如意棒」と耳慣れない、痛々しい言葉を募らせて、敵を罵倒するだけで、倭人伝道里が、精々、一里100㍍に及ばない程度の「短里」で書かれているという「短里説」が不合理であるとする論拠は一切示されていないのです。これは、論理的ではありません。むしろ、窮鼠の悪足掻きを思わせます。

                                未完

私の本棚 3 岡本 健一 「邪馬台国論争」 改頁版  3/8

 講談社選書メチエ 1995年7月刊
私の見立て★☆☆☆☆ 見当違いの強弁が空転 2014/05/17 補追 2021/12/23

*「イメージ」戦略の怪
 また、「日本列島の正確なイメージ」を論じて趣旨不明な「大局的な視野」を誇示しますが、ここで問われるのは、移動経路沿いの北九州の土地勘であり、「日本全図」を書くのではないことが見失われているのです。
 三世紀当時に、列島の全貌を詳細に採り入れた「絵姿」(イメージ)なと、到底あるはずがないのに、得々と述べているのは、個人の幻覚を言いふらしているだけであり、読者にとって大変な迷惑です。
 要は、魏志倭人傳で書かれているのは、九州北部だけで、残りの日本列島は、陳壽が関知していないという倭人傳の基礎視点が欠けています。

 それにしても、魏使/帯方郡使が、現地の土地勘を書き出せないとしたら、軍事使節として不適格な「方向音痴」になるので不合理なのです。

*誤解による冤罪
 著者が非難する「短里論者が、陳壽の道里記事が正確であると決め込んでいる」という指摘が、認識不足の冤罪であることは自明です。普通に原文を読解すれば、倭人伝道里記事は、整然精密で首尾一貫しているのでなく、記事の出典に応じて整備されたものとわかるはずです。つまり、陳壽は、資料全体を通観した上で、時に推測を交えて、(微視的には不統一な)記事の大局を整合させています氏の断定は、対象資料を読解できない、「落第者」の詭弁であって、よく言って、負け惜しみと見えます。

 ご自身、地理的な事項を適確に認識する能力が欠けていて、勝手な幻想を思い描くしかできないのに、陳壽が、時代最高の叡知を注いだ記事の片鱗すらできない醜態であり、いかに強い口調で主張されても、あくまで「仮説」であり、検討の出発点として利用しているに過ぎないのです。

*また一つの誤解
 著者は、「魏志の記載に不正確な点があることが判明すれば、その時点で短里説が瓦解する」と自分勝手に見ているようですが、それは、偏狭な独善に過ぎません。いつから、氏は、神の立場に立ったのでしょうか。互いに六倍の差がある道里論で、里が60㍍でも100㍍でも、大局的に議論を左右するものではないのです。正確、不正確の視点が、「とっぱずれ」、「失当」になっているようです。

 史学は、些細な論点に囚われて、大局を見失ってはならないとするのが、正論と思います。まして、自分で理解できない論点に、勝手に重大な意義を持ち出すのは粗雑です。
 とくに、「魏志の記載」を理解する素養、不可欠な知識に欠けているのに、同時代唯一の資料を攻撃するのは、身の程知らずと言うべきでしょう。

*自覚のない見識不足
 どうも、筆者は、中等教育(中高)程度で習得すべき合理的、かつ計数的な見当識が備わっていないように思われます。

*見当違いの強弁
 それにしても、著者のように、ここぞと言うときに、俗説や勘違いも含めて、多彩な言葉の雨で根拠不明の意見を通そうとするのでは「論争」にならないと思います。「論争」に饒舌も絶叫する強弁も不要であり、寸鉄の論理の一言で議論は終結するものです。

〇改装のおことわり
 初稿は、ここまで一㌻、残り一ページの二分割でしたが、加筆の結果肥大して、現在の基準では、長すぎる体裁になったので、分割再掲載しました。

                                未完

私の本棚 3 岡本 健一 「邪馬台国論争」 改頁版  4/8

 講談社選書メチエ 1995年7月刊
私の見立て★☆☆☆☆ 見当違いの強弁が空転 2014/05/17 補追 2021/12/23

○遅まきの本論
 さて、ようやく本論に入って、「一三〇〇余里」(108ページ)を本書著者の迷走の一例として提議します。論旨が一部重複するのはご容赦ください。
 なお、以下の引用は、最善の努力を払って原文の再現を計ったものですが、再現できていない部分があることはお断りしておきます。

4.陳寿のイメージ――「道程記事」
「一三〇〇余里」の解釈
 邪馬台国は、『魏志倭人伝』によると、伊都国(不弥国)から1500里(1300里)の距離にある。魏晋の尺度(一尺約二四・一センチ)からすれば、約650㌔㍍(565㌔㍍)の距離である。これを額面どおり受けとめれば、邪馬台国の所在地は九州島に収まらず、畿内大和にあったことを、つよく支持することになる。魏晋朝短里説、または局地的短里説に立てば、130~100㌔㍍(120~90㌔㍍)となって、北部九州説を裏づける。両説対峙して譲らないが、九州説には数学的なトリックがあるように思う。

*コメント
 誤解を自覚せず、一陣営をトリック(悪意による欺瞞)と断罪するのは道理に反します。論破できないから欺瞞と罵倒するのは子供の口げんかです。

 いままで、1300里という不確定な距離を計算するのに、これまた不確定な末盧―伊都国間500里や、対馬―壱岐間千余里と対比したうえ、現代の精確な地図と比較してきた。そこに、欺瞞(錯覚)がある。あまり自覚されていないようにみえるけれど、これは『魏志倭人伝』の地理観が正確であったことを、暗黙のうちに前提としている。あるいは、『魏志倭人伝』の数値と現実の数値は、比例関係にあることを、自明の理としている。比例法は「古代の地図は、絶対値では不正確であっても、相対値は正確だった」ということを前提にしているが、その保証は実はない。

*コメント
 欺瞞(錯覚)と括っても、両者は、全く別概念である。、「嘘つき」と断罪し、反発されたら「それは真意ではなく錯覚の意味です」と身をかわすのでしょうか。誤解との自覚の有無は言わずとも、なんとも不細工です。
 議論の段取りとして、目前の記事(文字テキスト)を根拠とするのは当然であり、「暗黙」の「前提」などないのです。
 これらの記事は、当然と確証されたものでなく、検討対象なのです。この論争に神がかった「保証」(誰の?)がないのは、水鏡に映った犬同様に、お互い様なのですが、それにしても、「比例法」とは何のことか。

 もし、陳寿や当時の中国人の地理観が、誇大化(意識的・無意識的を問わず)されたり、錯覚があったり、先入観によってデフォルメされたり、もしくは端から歪んでいたら(そもそも、日本列島の正確なイメージなど、当の倭人を含めて何人も持ち合わせていなかったのだから、ありうることだ)―、前提が誤っていたことになる。まして、北部九州説の仮想する〈ピンポイントの正確さ〉など、求めるべくもない。近世の中国に至る、あのアバウトな日本列島図をみれば、それは信じがたいことだ。

                                未完

私の本棚 3 岡本 健一 「邪馬台国論争」 改頁版  5/8

 講談社選書メチエ 1995年7月刊
私の見立て★☆☆☆☆ 見当違いの強弁が空転 2014/05/17 補追 2021/12/23

*コメント
 著者は、文献解釈、土地勘に優れていると自負しているようですが、「地理観が、誇大化」とは、乱れた日本語です。ここは、「陳寿や当時の中国人の地理観」など特定困難なものではなく、現地と交渉のある帯方郡官人の地理観、魏使の一員で、現に、方角や道里を記録していたと思われる書記官(軍事探偵。おそらく、半島に土地勘のある帯方郡官吏)の地理観、いわば、地域専門家の見識であり、頭から馬鹿にしたものではないのです。書記官は、日誌上に現場の方角、方位、歩測を日々記録し、書斎暮らしの井蛙が数字遊びの空論をもてあそんでいる「安楽椅子探偵」とは違うのです。

 ここで、誰も主張していない「ピンポイントの正確さ」(意味不明瞭なカタカナ語)を揶揄しても、犬が自身の水鏡に吠えかかっているようなものです。最大の注意を払っても、当然、歩測、目測の誤差や誤記は自明です。

 まして、「アバウト」などは、程度の低い記者用語(意味不明瞭なカタカナ語)であり、ここで古代史論に持ち出すとは、愚劣の極みです。

*「アバウト」の怪談
 著者は、突如「あのアバウトな 日本列島図」などと勝手な言い方と「日本列島の正確なイメージ」と茫漠たる巨大概念で敵方の撹乱を計っていますが、目くらましにも何にも、具体的に何を指しているのか趣旨不明で、読者に伝わらないのは、いかにも拙劣です。三世記に列島図などあったはずがないのです。

*語彙の混乱、概念の混乱
 たとえば、全国歩測で描き出した伊能忠敬の日本全図のようなものが、三世紀当時に存在しなかったことは明確ですが、倭人傳冒頭に書かれている「倭人は帯方郡の東南方にいる」(倭人在帶方東南)とした倭人に対する「イメージ」(漠たる地勢観か)は、実用上十分なだけ正確であったと理解できます。
 少なくとも、本書著者のように、錯乱した地理観念を前にして書いたとは見えないのです。陳寿の歴年の考察の成果も、神のごとき著者の自負する明智にかかると、児戯に等しいものと見くびられたようです。

 この漠たる「イメージ」(意味不明瞭なカタカナ語)に対する確たる反証の「イメージ」(意味不明瞭なカタカナ語)はあるのでしょうか。それにしても、「イメージ」とか「アバウト」とか、ガキ言葉連発は、著者が論争を維持する集中力の喪失を思わせ、痛々しいものがあります。

 北部九州説では、
・邪馬台国は、伊都国から約1300里、つまり、わずか「末盧―伊都国間500里」の2.6倍の距離にある
・ 2000里    >    1300里     >   1000里
 (対馬―末盧間)  (不弥―邪馬台間)  (壱岐―末盧間)
 だから、(不弥―)邪馬台国は末盧―対馬間を半径とする円周内に含まれる。
 これらの点から、九州論者は白鳥庫吉いらい、「北部九州内(せいぜい中部九州以北)に邪馬台国はある」としてきた。
 一見、もっともらしい論理だ。まるで孫悟空の如意棒のように、1300里が100㌔㍍前後に縮んだ。しかし、先の前提が崩れれば、たちまち瓦解するほかない。

                               未完

私の本棚 3 岡本 健一 「邪馬台国論争」 改頁版  6/8

 講談社選書メチエ 1995年7月刊
私の見立て★☆☆☆☆ 見当違いの強弁が空転 2014/05/17 補追 2021/12/23

*コメント
 「れば」は、仮定に基づく所感であり、学術の論には無用の言葉遣いです。「先の前提」の当否は、懸案となっていて、この後も論破されていないのです。つまり、単なる冗語です。また、信用をなくしています。
 「わずか」は、「」を飛び越えて「2.6倍」にかかるのでしょうが、これが「わずか」に見えると言うことは、よほど巨大な距離を先入観として持っていることになります。ともあれ、子供じみた乱文です。また、書かれている里数は、出典不明、根拠不明の数字の遊びであり、何の根拠にもなりません。またまた…また、信用をなくしています。

 それが、「孫悟空の如意棒」という、学術用語でなく「かかる論争の際の言葉遣いとして不適切としか言いようがない」比喩で不意打ちする動機になったのでしょう。著者の脳内は、奔放なイメージが乱舞しているのでしょうが、それを無分別にばらまくのは、大変迷惑です。

 言うまでもなく、「如意棒」は空想譚上の遊び道具であり、誰も実体を見ていないので引き合いに出すこと自体、ご当人の知性を疑わせるものです。

 脚もとをまさぐって手応えのあったものを、確かめもせずに相手に投げつけるのでは、投げるものがなくなったら「糞」を投げつける類人猿なみと見られても仕方ないでしょう。ご自愛いただきたいものです。

*反射的な言説動揺
 著者は、自説に基づく先入観を基準としているから、事態が紛糾して言い分に窮すると、感情が刺激されて劇的な(不法な)暴言を吐くようであり、著者と先入観を共有していない読者にしてみると、著者は、100㌔㍍(現代中国語で言う100公里)の距離を、自説に整合するように500㌔㍍以上に無理矢理引き延ばしていると見るものと思います。なにしろ、論議している千三百「里」を勝手に百㌔㍍と見立てて、論敵の取り付きようのない足場にしているので、論議にならないのです。
 論議の大半は、そうした思い入れのすれ違いから来るものです

 論争の際は、先入観に起因する感情的な意見/表現を抑えて、中立的な見解に言い換えないと、罵倒競争、子供の口げんかになってしまいます。こども返りとは、痛々しいものです。ここでも、痛々しいのです。

 しかも、直木孝次郎(「国家の発生」旧岩波講座『日本歴史』1 1962』や山尾幸久(「魏志倭人伝の史料批判」1967)が指摘するとおり、1500里を比例値(最大150キロ)とする場合、一日行程50里(漢魏里で21キロ前後)で計算すると、せいぜい五日もあれば十分だ。

*コメント
 「一日行程50里」(普通里で25㌔㍍)の前提は、道路整備と宿所の整備ですが、倭人傳は、倭地街道の整備は語っていないのです。
 途中に補給拠点(宿駅)がない場合、大量の食料と水を抱えて進むことになり毎夜野宿になります。それだけの重荷を抱えて、野宿明けを、歩調を落とすことなく、淡々と歩いていけるものかどうか。

                                未完

私の本棚 3 岡本 健一 「邪馬台国論争」 改頁版  7/8

 講談社選書メチエ 1995年7月刊
私の見立て★☆☆☆☆ 見当違いの強弁が空転 2014/05/17 補追 2021/12/23

*合わない勘定
 更に深刻なのは、一日21キロなら五日で150キロ」とおっしゃいますが、これでは算数の勘定が合わないので、筆者の感覚はどうなっているのだろうかと不審に駆られます。ここでも、痛々しいのです。

 もっと肝心なのは、それがどうした、と言う素朴な反問に対して、答えに窮するのです。「倭」は、最大でも末羅国から徒歩五日程度、つまり、手近に在るというのは、文書交信できなかった古代の世界観で言えば当然です。
 この間に一ヵ月かかるようでは、国が成り立たないのです。自滅発言です。

*引用の不備
 因みに、直木、山尾両氏は、古代史学界でも、群を抜く知性、学識の持ち主であり、そのような暴言は吐いていないはずです。おそらく、はっきりした前提があってのことであり、両氏の著書に示された潤沢な論考のごくごく一部、自分好みの数字だけ取り出すような勝手な引用は、そもそも不適切でしょう。御両所の名声に、勝手に泥を塗っているのではないかと危惧します。

*不手際の是正待望
 案ずるに、筆者は、上位職種で、周囲に相談相手もご意見番もいないように思われます。数字に弱い人は強い人の助言を仰げば良いのであり、自分がよくわからない事項をわからないままにして、読者に錯乱状態をさらけ出す書物を出版してしまうのは、高名な著者の晩節を汚すものでしょう。
 こうしてみると、著者が、独力でできる最善最強の策は、不得意な算数論理に深入りせず、「短里が施行された証拠は一切なく、そのような架空の短里説に依拠した比定もまた架空である」と単刀直入に指摘する高度な戦略であったように思われます。

*講談ネタの乱入
 他の不適切な論証の例で言えば、130ページで、筆者は、卑弥呼の第一回の遣使を景初二年でない根拠の一つとして、「明智光秀の毛利への使者が秀吉の陣に迷い込んだ故事と同様の間違いを起こしかねない」と揶揄していますが、挙げている故事は講談ネタであって、史実でなければ学術用語でもなく、かかる論争の際の言葉遣いとして不適切としか言いようがないと思います。

 手短に言うと、秀吉は、西方の毛利高松城を包囲布陣していたので、京都方面から西進すると、まず秀吉陣にぶつかることは、子供でもわかることです。知将光秀が、毛利に密使を派遣する時、秀吉陣の迂回を厳命するはずです。講談ネタが広がったとすると、それは、秀吉が、自分の間者の通報を合理化した宣伝工作となります。

*両郡調略の知略
 魏が遼東公孫氏を攻略するために、半島中南部や倭国にどのような宣撫工作を行ったかは、正史に明記されていないのですが、兵法常識として、遼東に派兵したときに、半島中南部や倭国からの公孫氏支援軍に攻撃されると、上陸軍が窮地に陥ることは明白であり、物の道理からして、事前に、両郡を勅命によって血を見ることなく皇帝傘下とし、両郡管轄下の東夷に対して、相当念入りに宣撫工作したことは明らかであると思います。
 このあたりは、当然自明なので、正史は省略しているのでしょう。明記されていなくても、自明と示唆されているのは、明記に等しいのです。

                               未完

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