倭人伝の散歩道稿

「魏志倭人伝」に関する覚え書きです。

2024年7月16日 (火)

私の本棚 年表日本歴史 1 筑摩書房 1/7

1 原始▶飛鳥・奈良 ( ー783)1980年5月刊 編集 井上光貞 児玉幸多 林屋辰三郎 編集執筆 黛弘道
私の見立て 全体★★★☆☆ 本冊 ★☆☆☆☆ 「歴史的」誤記事   2017/01/16 補追 2024/07/16

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*史料渉猟の弁
 当ブログ筆者の守備範囲は、素人の手すさびということで、「魏志倭人伝」及び周辺の文献解釈に限られている。
 ただし、「今日言うところの西日本」の「当時の」状勢について鋭意勉強しているため、当書籍「年表」も史料批判に必要と感じて購入した参考書の一冊である。参考書は、ほぼ古書店で購入しているので、割安で購入費を節約できているが、内容は正味そのまま読む必要があって節約できないので、ここまで大変勉強になっているのである。

 そのような参考書籍の中で、本書は、原始から古代を対象とした年表であり、内容豊富、かつ、味わい深いものであった。

 古代に関しては、中国側資料は、充実した記述に満たされた文献であり、抜粋要約によって年次の入った年表が書けるのと異なり、国内側史料は、確定した文献が存在しないため、考古学の視点で遺跡や遺物の年代比定と考証を体系化しているものの、絶対年代の不確かさを抱えていて、年次の確定した年表が書けない問題があると見た。

 そのような限界はあるものの、時代が特定できない日本側の表と年次の書かれている中国側の「年表」を並行して収録して、互いの年次を連携させないながら、時代感を揃えるという手法により、古代史学の最先端の努力として時代表をまとめ上げた労苦には、大いに感嘆するものであり、書籍全体の書評としては、大変肯定的なものである。

*不遜の弁
 さて、当著作は、上に名をあげた諸賢の労作なので、本来、遙か後生の無学な門外漢(素人)がとやかく言い立てることは、蟻が富士山と背比べするように不遜の極みなのだが、自身である程度史料批判に努めてきた「倭人伝」に関係する記事で、どうにも納得できないものがあったので、これを無視することは大変失礼なものと考え、ここに謹んで率直に指摘するものである。

未完

私の本棚 年表日本歴史 1 筑摩書房 2/7

1 原始▶飛鳥・奈良 ( ー783)1980年5月刊 編集 井上光貞 児玉幸多 林屋辰三郎 編集執筆 黛弘道
私の見立て 全体★★★☆☆ 本冊 ★☆☆☆☆ 「歴史的」誤記事   2017/01/16 補追 2024/07/16

*加筆再掲の弁
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[承前]
*問題点
 中国魏朝景初年間の倭国使節派遣記事が、「倭人伝」記事の誤解/改竄に基づく誤記となっている。
 以下、解きほぐして私見を述べる。

*景初三年の怪
 「年表」の景初三年の部分は無残である。
 依拠している「倭人伝」は景初二年六月の記事としているが、「年表」は、何の根拠があってのことか一年後の景初三年と安易に読み替えているために無理が生じているのである。しかも、ここでは、読み替えたことも示されていない。「年表」は、景初三年六月に倭国使節が帯方郡に着いて「魏の明帝に朝献したいと求めた」と書いているが、何とも軽率である。
 実際の歴史では、先帝の逝去の後、新帝曹芳が即位早々に暦制を改訂したために、暦制が不連続になり、後世の読者は混乱してしまうのだが、明帝逝去の時点では、景初三年一月一日逝去とされている。

 いくら中国の状勢に疎い東夷でも、公孫氏統治下以来、帯方郡と文書交信している以上、景初三年六月時点では、魏朝皇帝が半年前に亡くなって代替わりし、先帝は明帝と諡されたことは知っているのである。
 「明帝」というからには、逝去したのを知っているのであるが、それなら、亡き人に会いたいというはずがないのである。軽率な表現といわざるを得ない所以である。

未完

私の本棚 年表日本歴史 1 筑摩書房 3/7

1 原始▶飛鳥・奈良 ( ー783)1980年5月刊 編集 井上光貞 児玉幸多 林屋辰三郎 編集執筆 黛弘道
私の見立て 全体★★★☆☆ 本冊 ★☆☆☆☆ 「歴史的」誤記事   2017/01/16 補追 2024/07/16

*加筆再掲の弁
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[承前]
*余談1 景初の暦制混乱
 中国の歴代王朝で受け継がれた伝統として、先帝逝去時、新帝は即刻即位するが、新元号は、先帝の没年の明ける新年から適用される。
 従って、景初三年は、本来、元号の主である皇帝のいない一年のはずだったが、新帝は、年の半ばで暦制を変え、変則的な運用としたのである。
 合わせて、先帝のなくなった命日を景初二年十二月一日(正規の十二月に続く本来の新年正月を同年の「後十二月」とした)とし、すでに、景初三年二月とされていた月が、遡って景初三年一月とされた。
 既に六月になっての遡及であり、各種記録の修正など、政府機関の業務に大変な影響があったろうし、民間にも、迷惑が及んだものと思われる。
 また南方の東呉、つまり、孫権政権は、独立を謳い独自元号を定めても、魏朝の暦を流用していたから、年の途中での改暦にうまく追随できなかったのではないかと思われる。呉書は、呉暦に基づいて書かれているのだが、魏の元号と一年ずれている記事がある。

 それはさておき、先帝が景初二年十二月に亡くなったとした以上、景初三年の新年で改元すべき所だが、既に六月(いや、実際は五月か)であったから、年初に遡って改元もできず、翌年改元としたようである。
 このように、景初三年は、年半ばでの改暦により一カ月ずれて、何とも、誤解を多発する事態になったのである。こうした魏朝改暦の顛末は、当ブログ筆者の誤解の可能性があるので、ご注意いただきたい。
 以上、今回の書評の本旨を少し外れた余談である。

*東夷諸国通信事情
 さて、魏首都雒陽から帯方郡、そして東夷諸国への通信状態を確認しておく。魏朝は、創業者曹操の指示で、伝令が早馬で通常の通信の何倍かの速度で報告、通達を伝達する急報制度が全国に設けられていたので、「国内」である帯方郡との通信は、迅速、かつ、確実であったと思われる。
 「倭人伝」によれば、倭人は、帯方郡と文書通信を維持していたようであり、景初遣使に際しても、帯方郡からの督促、倭国からの遣使予告などが伝わっていたはずである。

未完

私の本棚 年表日本歴史 1 筑摩書房 4/7

1 原始▶飛鳥・奈良 ( ー783)1980年5月刊 編集 井上光貞 児玉幸多 林屋辰三郎 編集執筆 黛弘道
私の見立て 全体★★★☆☆ 本冊 ★☆☆☆☆ 「歴史的」誤記事   2017/01/16 補追 2024/07/16

*加筆再掲の弁
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*余談2 山河疾走
 末羅国に上陸すると、急報制度どころか、文書通信が確立されていたかどうかわからない倭国中枢への伝達である。
 九州北部(つくし)なら、道路が整備未完了としても、距離が短いので、一か月はかからないと思われる。
 奈良中和(やまと)となると、つくしに比べて五百㌔㍍(現代単位で、五百公里)余りの遠隔地であり、徒歩、ないしは、手こぎ船移動となるが、三世紀時点で、これだけの距離の旅程の整備ができていたとは思えないから、半年かかっても不思議はないが、仮に四か月程度と見ることにする。
 倭国中枢で、対応方針の決定、派遣使節の人選、持参貢物の決定と調達、使節派遣まで、二か月程度かかると見るのである。今日聞いて明日渡航とは行くまい。

 荷の重い使節団は、身軽な急報文書使よりは、随分遅いはずであるが、つくしから帯方郡まで二か月程度、やまとから帯方郡まで四か月程度と見ておく。

 よって、帯方郡が急報してから、倭国使節帯方郡到着までの所要期間は、次のような感じと見られる。これはあくまで、「程度」にとどまる概算比較である。
 つくし 五-六ヵ月程度、やまと 九-十ヵ月程度。
 四ヵ月程度の差は、往復一千㌔㍍(千公里)程度の旅程差からくるものである。  

 ここで、帯方郡の急報発信は、魏による帯方郡平定が基点となるが、その時期については、「A 遼東平定に先立つ景初二年初頭」と「B 遼東平定後の景初二年秋」の両論があり、それぞれ慎重に評価する必要がある。

 Aの見方で、倭国使節が景初二年六月帯方郡到着するには、つくしなら何とか間に合うが、やまとは到底無理(景初二年十月頃の到着)となる。
 景初三年六月帯方郡到着であれば、いずれも可能である。
 Bの見方で、倭国使節が景初二年六月帯方郡到着するのは、いずれも不可能であるのは、いうまでもない。
 景初三年六月帯方郡到着であれば、つくしは、問題なく可能であるし、やまとは、確実ではないが、到着できる可能性はある。

 やまとは、つくしと比較して、往復で往復一千㌔㍍(千公里)の距離が追加されるため、ここを「倭人伝」に書かれた倭国の中枢と見るには、倭国使節の帯方郡到着は景初三年六月でなければならないのである。
 そして、景初二年遣使の議論を封じるには、景初二年秋の帯方郡平定にこだわらざるを得ないのである。
 このように、ここでは、やまと説論者が、自説に合うように「倭人伝」を読み替えて、定説を形成する至芸が見られる。
 以上、今回の書評の本旨を少し外れた余談である。

未完

私の本棚 年表日本歴史 1 筑摩書房 5/7

1 原始▶飛鳥・奈良 ( ー783)1980年5月刊 編集 井上光貞 児玉幸多 林屋辰三郎 編集執筆 黛弘道
私の見立て 全体★★★☆☆ 本冊 ★☆☆☆☆ 「歴史的」誤記事   2017/01/16 補追 2024/07/16

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

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*余談3 遅れて至るものは斬る
 いうまでもないが、帯方郡が魏朝直轄になったことや遼東が魏朝の遠征軍によって滅ぼされるということは、それ以前に、都度、各東夷に急報されている。合わせて、中国に対する忠誠の証しとして、速やかに遣使せよ、ついでに遅れて至るものは斬る、とまでは言わないとしても、厳命したはずである。
 率直なところ、厳命を受けて、倭国は震え上がって、取るものも取りあえず使節を急行させたはずである。渡海して攻めて来ないとしても、朝鮮半島と交易禁止となると、対海国と一支国が飢餓に陥るなど、被害甚大なので、遅参は考えにくい。いや、その話は、今回の書評の本旨ではない。
 と言うことで、未開僻遠の東夷倭国は、皇帝逝去を早々に知ると共に、新帝の帝位継承、服喪に伴い、翌年一月一日をもって、新たな元号が開始することも予定されていたのである。

*場違い、それとも遅参
 一説のように、明帝逝去の六ヵ月後に倭国使節が朝献を求めたとしたら、遅参のわびと共に新帝への祝賀の使節と思われるが、記事には書かれていない。
 史書の外伝記事はそんなものなのだが、そのおかげで、絶海の東夷が噂を聞きつけてやってきたとか、東夷の首長が場違いな国際感覚で風評(風の便り)を手がかりに、「奇貨おくべし」(奇貨可居)とばかり、使節派遣を決断したとか、脚色、潤色されているのである。そこで、ここに一解釈を連ねているのである。
 さて、帯方郡にすれば、遠来遣使は郡太守の絶大な功績であり、太守の栄達に繋がるので結構なのだが、だからと言って、新来の東夷を国賓待遇として良いものかどうか。いや、後年、蛮夷の使節を賓客と呼ぶ例もあるのだが、本気でないのは明らかである。

 一説に従うと、この年、新帝祝賀に先立ち新帝の服喪と先帝大葬があるので、時期を外すと礼を失する危険があるのだが、郡太守は、むしろ無造作に倭国使節を帝都に送り込んでいるように見える。
 まあ、関係者の思惑は憶測するしかない。
 以上、今回の書評の本旨を少し外れた余談である。

未完

私の本棚 年表日本歴史 1 筑摩書房 6/7

1 原始▶飛鳥・奈良 ( ー783)1980年5月刊 編集 井上光貞 児玉幸多 林屋辰三郎 編集執筆 黛弘道
私の見立て 全体★★★☆☆ 本冊 ★☆☆☆☆ 「歴史的」誤記事   2017/01/16 補追 2024/07/16

*加筆再掲の弁
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[承前]
*余談4 洛陽への長い道
 ちなみに、帯方郡使が倭国使節に付き添うのは、経路の各地の関所での通行許可証提示の役目もあり、また、それら関所での課税を防ぐためでもある。また、遼東征戦で治安が乱れている中、遼東の落ち武者などの盗賊からの保護も必要であったろうと思われる。細かいことだが、経路の宿舎に先触れして、国賓である倭国使節への饗応を含めたもてなし確保の役目もあったと思われる。単なる道案内ではないのである。
 また、先触れとして、帯方郡管轄機関に倭国使節の受け入れを求める急報も発せられていたはずである。従って、その年の八月には、使節の処遇、帰国時の礼物の構成決定、実物の手配などが、定型業務とは言え、帝国の組織的な動きで着々と進んでいたはずである。

*従郡至倭
 補充するなら、景初年間の時点で、郡から倭に至る行程と所要日数は、確認されていたはずである。でないと、明帝はともかく、実務担当者は、礼物輸送の所要人数、所要日数、経費を確認し通過する宿舎への先触れを行わないと、皇帝に対して見通しを知らせられないのである。
 つまり、郡から倭まで一万二千里というのは、遼東郡太守公孫氏が、勝手に決め込んでいた形式的なものであり、実際は、狗邪韓国まで街道を進んだ後、渡船で倭まで渡る便船があると知れていて、倭に着いた後の概略日数も知れていて、要するに、郡から倭まで何日の行程になるのか知れていたことがわかる。これは、後年、「魏志倭人伝」に書かれたが、実は、景初二年六月時点で、判明していたことなのである。
 当然、後年の陳寿は、明帝の実務日誌(実録)等の公文書から知ったのであり、どんな経緯で決まったにしろ、司馬懿の思惑など知ったことではなかったのである。
 後は、雒陽から帯方郡に至る行程であるが、これは、山東半島東莱から渡船で渡る便船があり、何日の行程になるのか知れていたことがわかる。公式には、雒陽から楽浪郡までの公式道里が知られていたから、帯方郡までの公式道里は、これと同一としてもよいのだが、実務としては、雒陽からは、東莱渡海が定着していたのである。

 以上、今回の書評の本旨を少し外れた余談である。あまり、先賢諸兄姉の議論で見かけないので、書き残しておく。2024/07/16

*明帝起死回生
 これに続いて、「年表」は、景初三年十二月の記事として、「明帝大いに歓迎し」と書いている。これには、困惑する。死後一年、なんたる回生ぶりかと言いたくなる「倭人伝」が特記していないのは、景初二年の明帝の公務として書いているからだと思えるのである。
 一方、これを景初三年の新帝詔書とみると、先帝の遺徳を語るわけでもなく、新来の東夷を顕彰しているだけである。文意は歓迎であるが、亡き明帝が、大いに歓迎したかどうかは書かれていない。帝詔とは、こうしたものであり、皇帝自らが心情を書き綴るものでないのは言うまでもない。世間には、新帝である少帝曹芳が、こんなむつかしい帝詔を書けるはずがないと論じている方がいるが、何とももの知らずである。

*帝国の栄光
 魏書明帝紀は、景初二年十二月初旬に明帝が発病病臥したと言うが、「上不予」(上様ご不快)程度では、倭国使節受け入れを含め、膨大な官僚機構の動きはお構いなしであり、帝国の実務は止まらないのである。
 皇帝決裁文書は、極力代理決裁するものの、皇帝決裁が必要なものは、病室に持ち込んで重病の皇帝の手を支えてでも署名を取る。それが皇帝の重責である。
 従って、明帝発病の景初二年十二月初旬以前にこだわらず、十二月の月内に詔書と好物の目録が下付された可能性は高いと考える。
 いや、物証は皆無だが、状況は、そのように決まって見えるのである。

未完

私の本棚 年表日本歴史 1 筑摩書房 7/7

1 原始▶飛鳥・奈良 ( ー783)1980年5月刊 編集 井上光貞 児玉幸多 林屋辰三郎 編集執筆 黛弘道
私の見立て 全体★★★☆☆ 本冊 ★☆☆☆☆ 「歴史的」誤記事   2017/01/16 補追 2024/07/16

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*「倭人伝」読み替え解釈の不都合
 元々、「倭人伝」が、原資料を精査して編者陳寿の責任で景初二年と書いているものを、「年表」の編者は、勝手に景初三年と読み替える以上、陳寿同様に精査して、皇帝は新帝曹芳と正解すべきだが、自身の(不)見識に基づいているから、端的に言うと、誤解に基づく誤記事になってしまっている。

*誤伝の継承
 「年表」のこのような創作は、具体的な指摘は避けるが、後世の書籍に問題を及ぼしている。
 一般読者だけでなく、古代史学者でも、国内考古学寄りの専門家で、中国文献に自信の無い向きは、この記事を受け売りして、解説記事を執筆することがあるようある。もちろん、上に名をあげた執筆陣は、当然のごとく、この内容に基づいて執筆するものである。
 今日に影響を及ぼした「歴史的」誤記事と言える。

*編集出版の不手際
 当記事を年表に書くときに「倭人伝」に「欠けている」細部を埋めるのは、それ自体悪くはないが、その際に、原資料を確認せず、自身の憶測に基づいて書き込むのは、どんなものだろうか。

 「倭人伝」は、魏朝公式記録を二千字程度で書き記しているから、当時周知、自明であった事項は書いていないから、「欠けている」と見ることもある。しかし、二千年後生の無教養な東夷である現代の日本人が、知識不足で憶測すると、見当違いな誤解になるのは、避けられないものである。
 余程自信があったのだろうが、中国文献の解釈は、専門家の確認を仰ぐべきではなかったかと愚考する。
 古代史学界では、先賢の玉稿を校閲することを忌避するのだろうか。先賢とて、時には、勘違いするのは避けられないと思うのだが、その勘違いがそのまま世に出るようでは、学界全体が、世間の信用をなくすのではないかと憂慮される。
 そして、「年表」の編者も含めて、錚錚たる顔ぶれの古代史学界のお歴々が、誰もこの点を指摘しなかったと見えるのは、どういうことなのだろうか。誤字の類いでないだけに、深刻なのである。

以上

2024年4月 4日 (木)

私の本棚 長野 正孝 古代史の謎は「海路」で解ける 2-1/3 三掲

 『卑弥呼や「倭の五王」の海に漕ぎ出す』 PHP新書 2015/1/16
 私の見立て★☆☆☆☆ 根拠なき憶測の山 2017/12/25 補追 2022/06/21 2023/04/19,11/21 2024/04/04

*加筆再掲の弁
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*(多分)最後の「海路」談義
 著者が本書で大々的に打ち出した新語「海路」に関わる談義は、とことん尽きないようである。
 ここで話題にあげたいのは、中国太古の言葉遣い、漢字遣いで「海」という時に託された思いであるが、これは、後世の倭国人の「海」(うみ)に託した思いと大いに異なっていた/全く異なるということである。
 その思いを「海観」と称すると、聞き分けにくいし、字面の据わりも悪いので、「海洋観」の三字で進めるが、当時になかったろう言葉なので注意が必要である。
 こうして言っているものの、ありようは、当方の知識外であり、白川静氏の著作に啓示を受けたものである。

*冥界としての「海洋」観
 太古の中国人、特に、中原を支配し文字記録を残した中国人にとって、海」は冥界のような異郷であったということである。太古の中国には「四海」の概念があったが、この「海」は、現実の海(うみ)ではなく、思索上の概念であったのである。
 でないと、地理上、東方以外に海(うみ)の確かめられていない中国世界で「四海」と言う筈がない。
 あるいは、「四夷」(東夷、西戎、北狄、南蛮)の概念と「四海」の概念が、重畳していたとも考えられるようである。

 西晋で史官を務めた陳寿は、「二千年後生の無教養な東夷」と異なり、中国古典哲學書に通暁していたから、実は、魏志「東夷伝」で「東夷」と言うとき「東海」が示唆されていたのかもしれないのであり、従って、単に「倭」と言うと、それは、「倭国」、「倭人」なる、国家めいたものでなく、帯方東南の大海(塩水湖)領域を想定していたかもしれないのである。

 このあたり、現代人は、なまじ、地図類を見知っているため、図形的な解釈に囚われがちであるが、古代の世界観で言うと、途方もなく見当違いしている可能性があるのである。念のため言うと、古代中国人の論理では、「地図」や「イメージ」など、図形的な概念は、一切論じられていないのである。

*河水 海に至る
 さて、現実に還ると、河水(黄河)は、上流では、野狐が飛んで渡ったり、手軽な筏や川船で渡ることのできる程度の流れであるが、「東海」に向かい滔々と流れるとともに、大小支流が合流して泥水の大河になるのである。因みに、泥の大半は、河水本流上流部の黄土平原が削られたものであり、中下流では浸食作用はさほどでもない。
 河口近くは、太古以来今に至るまで、ドロドロの岸辺を分けてドロドロの水が流れ、どこが岸でどこが流れかわからぬ、人を寄せ付けない扇状地となり、それは黄海の沖合に連なるのである。当然、架橋は不可能であり、扇状地を横切る陸上交通は不可能であった/である。巨大な人外魔境である。

 本書の筆者は、この辺りの地理的事情を、良くわきまえていて、帯方郡から回航した倭国船は、河水河口部の泥の海を避けて、遡行可能な支流を通ると書いている。過酷な環境とする見解自体に異論はないのだが、そうした過酷な環境を、一貫して、水域に不案内な自船で乗り切るとは、到底思えないのである。

 氏の説では、まして、非常時である。なぜ、倭国使節の上洛に重大な責任のある帯方郡太守が、船を仕立てないのだろうか。いや、なぜ、郡の上洛便に便乗させなかったのだろうか。現に、倭使には、帯方郡高官が同行しているのである。地理不案内で旅費など一切持ち合わせがない倭の使節を、事実上、「連行」しているから、帯方郡の公式経路で移動したに違いないと思うのである。当時として、確実、最速な経路は、山東半島に渡って、以下、街道を行くと厳格に規定されているのである。

 このあたり、いや、本書全体に、氏の「脳内」には、根拠の無い勝手な古代幻想が巣食っていて、史料に基づく丁寧な解釈など、どこにも見られないのである。そのように、勝手な幻想で取り組むなら、世上論じられている古代史の「謎」は、全く論外である。

 
いくら質問を投げかけても、合理的な回答は、当方のような不勉強で無知な素人には、思い及ばない。

未完

私の本棚 長野 正孝 古代史の謎は「海路」で解ける 2-2/3 三掲

 『卑弥呼や「倭の五王」の海に漕ぎ出す』 PHP新書 2015/1/16
 私の見立て★☆☆☆☆ 根拠なき憶測の山 2017/12/25 補追 2022/06/21 2023/04/19,11/21 2024/04/04

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

*「海路」考古学事始め
 復習すると、古代中国語で「海路」なる熟語があり得ないのは、「路」の由来に基づく。
 「路」は、元々、人里を離れた魑魅魍魎の住み処を通り抜けねばならないので、様々の手法で「除霊」した特別なものであり、「海」は、陸上の「路」と異なり、「除霊」などできないので「路」とできないのである。
 言うまでもないが、以上は、中原の内陸部に閉じ込められていた古代中国人の世界観の中の「海洋観」であり、海をわが家の外庭程度に考えていた東夷の海洋種族の「海洋観」とは異なる。

*東冶「海洋観」
 例えば、今日の広州、福州辺り、南シナ海岸地域に住んでいた人々の「海洋観」は、全然違っていたものと思う。
 福州附近は、峨々たる山地が背後に迫っていて、農地に乏しい上に、交易の道も無く、その分、目前の海に親しんでいたはずである。
 古代、こうした人々は、中原の人から、「南蛮」同然と思われていたから、意見を聞いてもらえなかったのである。偶然だが、福州は、当時「東冶」県と言われていたようである。

 但し、東呉治世下で会稽郡に属していた時点でも、東冶は、会稽から街道の通じていない遠絶の地であり、郡治との連絡は、「水」、即ち、河川経路しか無かったのである。三国東呉の治世下、会稽郡から切り離されて、建安郡となったのも、当然の成り行きだった。もちろん、そのような変革は、後漢どころか、曹魏にも報告されず、魏の公文書に東冶の情報は届いていなかったので、魏志には、東冶は登場しないのである。

*東莱「海洋観」
 また、もっと身近な山東東莱は、目前の海中に朝鮮半島があるので、住民の「海洋観」は倭国人と近いものと思う。
 ここは、戦国七雄の中でも大勢力であった齊の領域なのだが、結局、西方内陸地の奥深くにいた秦が天下を取って、齊は滅ぼされてしまった。

 東莱から眺めると、目前に横たわっている海中の山島が「東夷」であった。齊の南にあった魯の住民であった孔子が、筏を浮かべて渡ると言ったのは、目前の島影だったのである。
 一時、遼東の公孫氏が、「齊」の旧地に渡海侵攻したようである。遼東半島からは、ほんの一渡りだったのである。

*中原井蛙の「海洋観」
 秦の後、漢に政権が移っても、依然、中原、それも、長安付近の世界観が支配していた。そして、漢都が雒陽に移っても、依然、中原と言う名の巨大な井戸の底、大海(ひろいうみ)を知らない井蛙の世界であった。

未完

私の本棚 長野 正孝 古代史の謎は「海路」で解ける 2-3/3 三掲

 『卑弥呼や「倭の五王」の海に漕ぎ出す』 PHP新書 2015/1/16
 私の見立て★☆☆☆☆ 根拠なき憶測の山 2017/12/25 補追 2022/06/21 2023/04/19,11/21 2024/04/04

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

*洛陽井蛙の「海洋観」
 因みに、前漢を嗣いだ王莽を打倒した反乱の嚆矢となった赤眉の首謀者は、山東琅邪の海の者であったようだが、後漢創業者の光武帝劉秀は内陸人で、特に海好きではなかったようである。
 蛙の子は蛙である。

*語義変遷
 たかが、「海」と「路」と二文字の話であるが、古代と現在の世界観の違いを露呈するものである。世界観が違えば、同じ文字を使っても意味が違うのである。古代、漢字はそれぞれ「単語」であり、文字の部首に、重大な意義がこめられていたのである。
 古代史論では、丁寧な用語校正が望まれるのである。出版者編集部殿、どうか、崇高な使命に目覚めて欲しいものである。使命に殉じろとは、あえて、言わない。

*「海洋観」概観
 さて、世上で信奉されている中国史書の用語観であるが、上に示唆しているように、中原の用語観は、各地方にそのまま適用されるものではないはずである。
 一方、「三国志」に先行する史書司馬遷「史記」、班固「漢書」は、中原用語で書かれていたから、海(うみ)に関する語彙が貧弱で偏っていることは自然な成り行きである。

*帯方郡「海洋観」

 気になるのは、時に、「倭人伝」に示唆されている帯方郡書記の海洋観である。帯方郡の統治領域、今日で言う朝鮮半島中南部は、東、西、南の三方を海(うみ)に囲まれていた。その現実的な「海洋観」は、東夷伝の韓伝記事からもうかがえる。
 但し、倭人の在る山島は「大海」の海中、つまり、巨大な「塩水湖」のポツポツ浮かぶ島々とされていて、半島東西の「海」とは、縁が切れているように書かれている。
 あるいは、中原人の世界観に照らして、「大河」ならぬ、塩水の流れ「大海」に浮かぶ州島(中之島)と見ていたのかも知れない。
 狗邪韓国からの行程で、三度「海」を渡るが、これは、「大海」の一部であり、倭人伝では、一海、翰海、一海と言い換えている。つまり、大河の中州のように見ていたのである。して見ると、先に述べた「大海」観は、西域に存在するしょっぱい塩水湖とは、異なるかもしれない。

 海峡中央部の對海~一大区間は、前後の区間と様相が異なっていたようである。初稿では、古田武彦氏の第一書『「邪馬台国」はなかった』の一大国観に影響されて、島を削るほどの激流だったかと憶測したが、これは、古田氏の大きな勘違いであった。後日調べた限りでは、狗邪~對海、一大~末羅の間は、それぞれ結構荒波のようであるが、對海~一大区間は、却って平静のように思われる。何れにしろ、海岸を成している岩崖が、海流に削られることなど有り得ないと見るべきである。
 「瀚海」は、そうしてみると、綾織りのような細かい波に埋めつくされた様子を形容したと思える。そのような意外な美景が、特別扱いに現れているようである。

 そのように、「倭人伝」の「海洋観」は、実際に往来していた帯方郡と倭国のものである。かくのごとく、環境が違うから言葉も違うのである。
 「魏志」全体が、洛陽視点で統一された世界観、用語で統一されていたというわけでなく、「東夷伝」倭条について言えば、原史料を起草した現地部門、当初は、漢武帝以来の楽浪郡、後漢建安年間以降は、恐らく、新設の帯方郡の官人が上申した内容が、ほぼ、皇帝に上程されたものと見え、これが、洛陽の公文書館に所蔵されていた関連文書を、陳寿が「魏志」「倭人伝」に採用したと見えるので、「倭人伝」の「海洋観」は、帯方郡のものに近いものなのである。

 「倭人伝」の考察において、「三国志」全体や「魏志」相当部分という「大局」を俯瞰することは必要であるが、結局「倭人伝」自体の精査が、一段と、二段と重大なのである。

 再度言うが、古代史について論じる時は、丁寧な用語校正が望まれるのである。氏の姿勢は、全て、無造作に現代語、地名に置き換える行き方であり、聞き慣れた言葉で俗耳に強く訴えて、見栄えはいいかもしれないが、読者を欺いているのである。

 現代日本人の「倭人伝」解釈が、ほぼ全面的に誤解の泥沼に墜ちているのは、なまじ、原文の文字が、現代人の語彙に嵌まっているように見えるからである。二千年前、当時として最高の教養を要求された「正史」が、楽楽読みこなせるように感じられたとしたら、それは、「二千年後の後世東夷の無教養な視点」の単なる思い過ごし/勘違い/錯覚/幻影なのである。

              多分今度こそ  完

追記:中国古典書の「海洋観」については、中島信文氏の労作を大いに参考にさせて頂いたが、敢えて、異を唱えている点もあるので、関心のある諸兄姉は、これを機会に原著を参考にして頂きたいものである。

 氏の諸作のうち、下記二巻は、「倭人伝」道里行程記事の理解に、中国史料解釈に必須な基礎知識の多くを失念している「在来論者」と一線を画する、氏ならではの不可欠な卓見がこめられていて、格別に意義深いものである。

 シリーズ一:古代中国漢字が解く日本古代史の虚偽と真実(基礎編)
 シリーズ二:陳寿『三国志』が語る知られざる驚愕の古代日本
以上

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