倭人伝の散歩道稿

魏志倭人伝に関する覚え書きです。

2022年1月15日 (土)

「古田史学」追想 遮りがたい水脈  1 「臺」について 増補再掲 1/3

                        2015/11/01 再追加 2022/01/12

〇はじめに
 ここでは、故古田武彦氏の残した業績の一端について、断片的となるが、個人的な感慨を記したい。

〇『「邪馬台国」』はなかった』
 『「邪馬台国」』はなかった』は、「古田武彦古代史コレクション」の緒巻として、2010年にミネルヴァ書房から復刊されたので、容易に入手可能な書籍(「参照書」)として参照することにする。

 ここで展開されている「臺」と言う文字に関する議論で、「思想史的な批判」は、比較的採り上げられることが少ないと思われるので少し掘り下げてみる。

 「思想史的な批判」は、参照書55ページから書き出されている「倭国と魏との間」と小見出しされた部分に説かれている。

 この部分の主張を要約すると、次のような論理を辿っているものと思われる。

    1. 倭人伝記事の対象となっている魏朝、および、その直後に陳寿が三国志を編纂した西晋朝において、「臺」と言う文字は、天子の宮殿を指す特別な文字であった
    2. 三国志において、三国それぞれに対して「書」が編纂されているが、正当とされるのは魏朝のみであり、そのため、「臺」の使用は、魏朝皇帝の宮殿に限定されている
    3. 倭国は、魏朝の地方機関である帯方郡に服属する存在である。
      魏朝がそのように位置づけている倭国の国名に、天子の宮殿を意味する「臺」の文字を使用することは、天子の権威を貶める大罪であり、三国志においてあり得ない表記である。

 因みに、倭人伝の最後近くに「詣臺」(魏朝天子に謁見する)の記事があり、「臺」の文字の特別な意義を、倭人伝を読むものの意識に喚起している。つまり、三国志魏書の一部を成す倭人伝においても、「臺」の文字は、専ら天子の宮殿の意味に限定して用いるという使用規制の厳格なルールである。

 古田氏も念押ししているように、このような「臺」に関する厳格な管理は、比較的短命であり、晋朝の亡国南遷により、東晋が建国されて以後効力を失ったものと見られる。
 たまたま、手っ取り早く目に付いた資料と言うことで、かなり後代になるが、隋書俀国伝に、隋使裴世清の来訪を出迎えた人物として冠位小徳の「阿輩臺」なる人名が記録されている。
 隋書が編纂された唐朝時代には「臺」なる文字の使用規制は失われていた
のである。

 南朝劉宋の時代に後漢書を編纂した笵曄は、後漢書に「邪馬臺國」と書き記しているが、当時最高の教養人とは言え、陳寿のような純正の史官ではなかったので、語彙の中に時代限定の観念はなかったのである。

 と言うことで、以上のように辿ってみると、「古田史学」の水脈は支流といえども滔々として遮りがたいものである。

                                            未完

 

「古田史学」追想 遮りがたい水脈  1 「臺」について 増補再掲 2/3

                        2015/11/01 再追加 2022/01/12

付記
 語気の鋭い主張ほど、例外に弱いものである。特に、一部の稚拙な反対論者は、細瑾を持って「致命的」と称する攻撃法を取っている。「一点でも誤謬があれば、学説全体が崩壊する」と決め付ける稚拙な手口であるが、つまり、口先の勢いしか、武器がないという「窮鼠」の最後の悪足掻きなので。相手にしないで良いのである。「例外のない法則は無い」というものである。

 陳寿は、三国志の編纂に当たって、天子の宮殿、ないしは、離宮の類いのみに「臺」の使用を規制したと思われるが、人名は正しきれなかったと思われる。
 例えば、著名な人物で「孫堅字文臺」とあるように、何人かの人名で「臺」が使われているのが見受けられる。

 このように、三国志を全文検索すると、魏の支配下になかった人物や魏朝の成立以前に「字」を付けた人物、言うなら、曹操の同時代人および曹操以前の人物の「字」を書き換えてはいないようである。ちなみに、孫堅伝は、あくまで「呉書」の記事である。 

 三国志本文に限っても、「陳宮字公臺」(魏書 張邈傳)、「王觀字偉臺」(魏書 王觀傳)、「孫靜字幼臺,堅季弟也」(呉書 孫靜傳)の用例が見られる。
 古田氏は、「臺」を「神聖至高の文字」とまで口を極めているが、これは言い過ぎであろう。「臺」の使用規制は、天子の実名を諱として避ける厳格さまでには至っていないのである。

 なお、呉書諸葛恪傳に「故遣中臺近官」の記述があり、呉書および蜀書においては、魏書におけるほど、厳格に「臺」の使用を規制していないものと思われる。

 当付記を書くについては、中国哲学書電子化計劃が公開している三国志テキストデータを全文検索させていただいたのだが、「臺」の用例として「邪馬臺國」はヒットしない

                                  未完

「古田史学」追想 遮りがたい水脈  1 「臺」について 増補再掲 3/3

                        2015/11/01 再追加 2022/01/12

〇「臺」論再考 再付記 2022/01/12
 当付記は、以上の論議が崩れそうになるので、静かに語ることにする。
 別に新発見でもないのだが、「春秋左氏伝」に、古田氏の「臺」至高論の対極「臺」卑称用例があるので、諸兄のご参考までにここに収録するのである。
 白川勝師の字書「字通」の「臺/台」ではなく、「儓」(ダイ)にひっそりと書かれている。白川師の字書について、世上、師の老齢を種に誹謗する向きがあって、呆れたりするのだが、ここでは、「春秋左氏伝」の引用であり、師は特に関与していないのである。

[字通] 儓  タイ、ダイ しもべ けらい …..〔左伝、昭七年]に「天に十日有り、人に十等有り」として、「王は公を臣とし、公は大夫を臣とし、大夫は士を臣とし、士は阜を臣とし、阜は輿僕を臣とし、輿僕は隷を臣とし、隷は僚を臣とし、僚は僕を臣とし、僕は臺を臣とす」とあって、臺は第十等、〔玉篇〕にこの文を引いて臺を儓に作る。奴僕の乏称として用いる。…..

 つまり、「臺」は、本来、つまり、周制では、王、公、大夫から大きく下った文字を知らない隸、僚、僕、「奴隷」、「奴僚」、「奴僕」と続く最下等のどん尻である。官位などであれば、最下位は官人であるから、官位外に下があるが、臺はその限りを越えている。
 後世、これでは蔑称の極みであり、「臺」の公文書使用に対して大変な差し障りがあるので、たまりかねて、人偏をつけて字を変えたと言うことのようである。

 陳寿にとって、春秋左氏伝の用語は、史官教養の基幹であり、明瞭に脳裏に記録されていたから、周礼の片鱗をうかがわせる東夷「倭人」王の居処を呼ぶについて「邪馬臺」と書くことはなかったように思うものである。逆に、蛮夷の王の居処を「都」(みやこ)と呼ぶこともなかったのである。史官に於いて、尊卑のけじめは峻烈だったということである。

 念のため言うと、南朝劉宋代に、先人の後漢書を美文化した、当時一流の文筆家であった笵曄は、史官としての訓練を歴ていないし、西晋崩壊によって、中原文化の価値観が地に落ちた時代を歴ているので、左氏伝の用語で縛られることはなかったと見るのである。いや、教養として知っていて、東夷列伝の「其大倭王居邪馬臺國」に、左伝由来の卑称をこめたのかも知れない。范曄については、まことに、真意を推定するだけの資料がないから、東夷「大倭王」を蔑視していなかったという確証はない。

 因みに、「臺」は、古典書以来の常識では、「ダイ」であり「タイ」ではない。俗に、「臺」は「台」で代用されたが、正史は、そのような非常識な文字遣いが許される世界ではない。
 百済は、馬韓時代から早々と漢土と交流していたから、当然、漢字を早々に採り入れたが、自国語との発音、文法の違いに苦労して、百済流漢字、つまり、無法な逸脱を色々発明したようである。それは、中国側が、中国文化の違反として厳しく是正したものであり、百済では、すべて禁止事項となったが、「無法な逸脱」は、ふりがな記号、国字、「臺」「台」代用も含めて、海峡を越えた世界に伝わったようである。

 以上は、「やまだい」と呼ぶしかない「邪馬臺国」が、「やまと」と読める「邪馬台国」に変貌したと言う無茶な変遷論と相容れないので、国内の古代史学界では言及されないように思えるのである。いや、古田氏すら、これには気づいていなかったと見えるから、「古田史学」は、「全知全能」「無謬」ではないのである。

 因みに、従来、三国志の中で、呉書、蜀書の用語を、魏書の用語と同等の重みを持ってみていたが、丁寧に見ていくと、陳寿は、魏書以外の用語については、それぞれの「書」の原文をとどめているように見えるので、項目によっては、論調によっては、論議の矛を収めることかあることを申し上げておくものである。

以上

2021年12月26日 (日)

倭人伝の散歩道 里数戸数論のまとめ~明解な読解きの試み 改 1/8

                                                               2017/10/29 補追 2021/12/26
*序章 「過大」宣言
 本件、史学大家である岡田英治氏の論説が題材であるが、氏の所説は、倭人伝の里数や戸数が(悉く)過大との確信に立脚していると思われる。
 渡邉義浩氏「魏志倭人伝の謎を解く」(中公新書)2164
 引用の岡田英弘「倭国-東アジア世界の中で」(中略失礼)「過大な里数や戸数は、‥‥建前である。‥‥陳寿としては‥‥事実でないと知っていても‥‥本音を書くわけには行かなかった」への批判だから「原本を読め」と言われそうだが、渡邉氏の引用に疎漏はないと信じるから、慎んで孫引き批判する。
 当方にしてみると、一件の論説で大家二人を批判するのであるから、大変効率的である。ただし、従来の書評とは、風向きが違うので、「本棚」と別系列にしている。

*本音の怪
 こうして文の途中を割愛すると、岡田氏の書いた文章の大きなうねりがよく見える。
 ここで、麗々しく「建前」と「本音」書いているが、何も記録されていない魏晋朝の(架空の、あるいは虚構の)本来極秘の「本音」を、どのようにして陳寿が知り得て、その上で秘匿したか不思議である。

 また、陳寿が、魏朝の「本音」を知っていながら、史官の責務に反して書かなかった経緯を、岡田氏は、如何にして知り得たのであろうか。奇っ怪な話、二千年近い時を超えた怪談である。

*癒やしがたい夜郎自大
 それにしても、魏晋朝高官や史官たる陳寿のような錚錚たる人々が、吹けば飛ぶような一東夷の所伝に対し、身命を賭して里数戸数の粉飾に勤しむのかわからない。
 いわゆる「夜郎自大」症候群かと思わせる。「症候群」であるから、発症の事態は、人それぞれだが、蔓延の根底は、岡田氏の世界観なのだろうか。

*権威主義の懸念 明解な読解き
 渡邉氏ほどの方が、いかに支持した岡田氏の見解であろうと、このような不合理な論説を引用掲載するのは傷ましい。多分、岡田氏は、学会の泰斗であり、このような一種の暴言に批判がなかったのだろうが、阿諛追従でないかと懸念される。
 古代史学界の有り様は、権威追従の強弁が頌えられるようである。

 渡邉義浩氏は、別の場では、『倭人伝は「ウソ」の塊であり、従って、「邪馬台国」所在論は、悉く誤解に基づいていて、無駄である』と言う主旨の暴言をものしていて、一絡げに無知の愚を諭されている。
 思うに、『「ウソ」である倭人伝にとらわれた古代史論は、全て「ウソ」』という主張であるが、他ならぬ世間の信頼を集めているであろう古代史学者が、「古代史学者はみんな嘘つきだ」と言っているようで、何とも、傷ましい思いになるのである。

 このような風潮だから、自説の主張に際して丹念に論拠を言い立てる榎氏や古田氏の論考がなおざりにされて、悪い意味での守旧派、定説固持、そして、感情的な断言調論説がはびこるのだろうか。

 当方は、保身も追従も無関係な素人なので、ついつい「明解な読解き」に走るのである。 

                                              未完 

倭人伝の散歩道 里数戸数論のまとめ~明解な読解きの試み 改 2/8

                                                               2017/10/29 補追 2021/12/26
*一案の重み
 岡田氏の「読み」が他の見方全てを否定できない以上、氏の議論は、せいぜい「一案」と見られる。そのような「一案」の考察は、石橋を叩いて渡るの比喩にあるように、立脚している論拠を厳格に検証するものと思うが、氏は、いわば不確かな台上に、ご自身の論説を載せているように思う。
 岡田氏は、自説開陳に際して、手頃な足場に足を載せて見せただけで、この議論には依拠していないかも知れないが、引用部分は、里数、戸数の「過大」に立脚しているのでここに批判する。

 ついつい、率直、つまり、失礼、いや言い換えると正直な批判になったが、岡田氏が、素人のいたわりを必要としている方とは思わないので、正々堂々と書いたものである。

*倭人伝里数論
 里数の「過大」とは、当時中国本土で敷かれていた道里を基準とすると、六倍程度の「過大な」数値が書かれているとの趣旨と思われる。
 先に書いたように、史料解釈の一案は、他の多数の一案を否定できるものでない以上、岡田氏の議論も、諸説の一つと見るのである。
 ということで、以下に述べる提案は岡田氏の案を排除する意図ではなく、相容れないものではない。

*局地里制の紹介
 倭人伝は、冒頭近くで、採用里制として、『帯方郡から狗邪韓国の里数を七千餘里とする「局地里制」で記述されている』ことを明示していると見える。以下、宣言の及ぶ範囲では、「局地里制」が適用されていると見るものである。
 この部分を読む限りでは、「局地里制」は、当時の現地の公的な里制として「通用」していたとも考えられるが、考証の規準が違うので、氏の見解に従うことは困難と見える。
 見る限り、倭人伝の残る部分は「局地里制」で書かれていて、そのまま史書として妥当とされているのであるから、倭人伝の里数は「過大」と言えないと思う。

 これが、史学門外漢が提供する、普通の読み方である。

                                 未完

倭人伝の散歩道 里数戸数論のまとめ~明解な読解きの試み 改 3/8

                                                               2017/10/29
*局地里制の先人
 古田武彦氏を始め多くの論者が主張している「短里説」だが、論拠は三国志内里制表記であり、倭人伝が「独自基準」の局地里制を宣言、採用していることを根拠とした説は記憶にないので、先例をあげることができない。

*図形表示技法の提案
 あえて言うならば、安本美典氏が、地図上で、帯方郡起点で狗邪韓国まで七千里ととしたとき、狗邪韓国起点で五千里の円を描いて大体の範囲を示していたのが想起される。
 補追:この「想起」は不正確であったので、お詫びして補追、訂正する。
 安本氏は、藤井滋氏の提唱を引用して、帯方郡基点で万里となる末羅国を起点として、二千里の範囲にあるという指摘であった。(2021/12/26)

*倭人伝里数考察 明解な読解き
 一方、里数に対する後世史家の見解だが、衆知の如く、倭人伝の里数に修正を加えて書いた倭人伝修正版というのはついぞ見かけない。いや、近現代国内での論説は別としての意味である。
 それは、中国側により現地踏査が行われたであろう後も変わっていないように見受けられる。 隋、唐、北宋などは、倭人伝里数の現地検証は可能であったと思われる。
 特に、隋唐時代に、数度の使節来訪があり、随行書記官により、現地調査での里数検証の機会はあったと思うが、魏志里数記事が修正された、あるいは、付注されたと言うことは聞かない。
 つまり、倭人伝の里数表示は、帯方郡から狗邪韓国の間が基準として示されているから、資料として正確であると見たと思われるのである。
 そのような考察を怠って、「過大」の一言で切り捨てるのは乱暴に過ぎるのである。
 補追:この「考証」は、不正確であったので、お詫びして補追、訂正する。 (2021/12/26)
 中国正史で、先行史書の訂正は、極めて希である。訂正しても、正史として、歴代王朝に公認された史書を訂正するのは、禁止事項であったのである。許容されているのは、裴松之の付注で見られるような「補注」であり、本文と区別の付く形で追加するものである。中国では、写本継承は、極めて厳格に精査されたので、補注が原文に紛れ込む異常事態は、稀少である。

*戸数について
 岡田氏が、倭人伝の戸数を過大とみた理由は、里数ほど明確でないので、以下当て推量を試みる。
 女王国(壹臺論回避策)の戸数が七万戸と書かれていて、先行する諸国戸数を合計するとすでに七万戸であるから、三十国の総戸数は(書き漏らしているが)十四万戸を越え、当時の情勢から見て過大という論理と思われる。
 以下、これが、必ずしも確実な議論でないことを、追々説明する。

                                              未完

倭人伝の散歩道 里数戸数論のまとめ~明解な読解きの試み 改 4/8

                                                               2017/10/29 補追 2021/12/26
*総戸数説
 これは、女王国の戸数七万戸が、三十余国の集合である倭国全国の戸数の内数であるという推定から出ているが、これは、一案であり、氏の議論は全て一案に立脚すると見るのである。
 因みに、晋書「倭人伝」によれば、七万戸は、「倭人」の総戸数であり、奴国二万戸、投馬国五万戸は、内数となる。全体に通じる「余」は、程度にあたる概数表現であるので、全国戸数の積算は、七万戸に収束すると見て良いということである。詳しくは、長くなるので、後記する。

*「倭国伝」の試み
 倭人伝は、帯方郡使の書記役が記録したと見られるが、定説は、帯方郡から女王国への行程総里数は必須として記録されても、同様に重大な総所要日数は書かれていないと見ているようである。同様に、全三十国の総戸数は書かれていないと見ているようである。読者が計算担当に見える。
 これに対して、本論は、倭人伝は「倭国伝」を目指して書かれたと見ているので、総日数と総戸数の記録が無いのは体裁不備と見る。
 そうでなくても、倭人伝が、読者たる皇帝を初めとする知識人に、煩雑な加算計算を敷いたと見るのは、何かの勘違いであろう。漢数字の加算は、そう簡単ではないのである。

 私見であるが、倭人伝は「伝」の要件を意識して書かれたと見るものである。これが、本論の一つの提案である。

*戸数論再訪 明解な読解き
 女王国七万餘戸は各国戸数の合算を下回るので倭国総戸数と見ることができないというのは、概数合算算術の理解不足が一因と思われる。

*帯方流「餘」の解釈
 倭人伝で、里数、戸数ほぼ全ての「餘」が切り捨てと見るのは読み違いであり、四捨五入的概数「略」(ほぼ)と読むべきではないかと見ている。
 略二万戸と略五万戸を足せば略七万戸であるが、それは、六万戸程度から八万戸程度の範囲内のどこかであって、七万戸を上回るとは限らない。

*概数計算の妙味(ほめ言葉)
 次に、大国の万台の戸数に千台の中小国の個別戸数を足す計算であるが、概数計算では、桁の異なるが概数の漢数字を、多桁の算用数字に「翻訳」した足算計算は勘定が合わないことか少なくない。

                                         未完

倭人伝の散歩道 里数戸数論のまとめ~明解な読解きの試み 改 5/8

                                                               2017/10/29 補追 2021/12/26
*戸数の意義
 それ以外に考慮すべき要素として、女王国の中の女王直轄地たる居処地域が、千戸台の戸数しか備えていないと思われることが挙げられる。
 すでに、政治経済の中心として重要な伊都国の戸数が、少ないことが話題に上っているが、それは、戸数の意義を理解していないからである。
 戸数は、戸籍上のものであり、壮丁の人数、つまり、軍人として召集可能な人数の計算根拠である。
 伊都国のような経済活動区や王都は、まず、農業人口が少なく、また、後世の国家公務員に相当する首都圏居住者は、多くの場合、税務、軍務、役務が免除ないしは軽減されるので、戸数として計上しないことがあるようである。
 論拠は明示できないが、妥当ではないかと見る。

 補追:倭人伝冒頭に「国邑」と書かれているように、対海、一大、末羅、伊都の諸国は、太古の中原諸国のように、王の居処を隔壁が取り囲んでいる聚落「国家」であり、広く領域を確保した「古代国家」ではないと見られる。従って、戸数は、せいぜい千戸台であり、山島、洲島を占めているので、隔壁を持たないとしても、周囲は「大海」で囲まれていることになる。(2021/12/26)

*戸数の精度
 三国志全体を検証したわけでないが、諸史の郡国志などに従うと、戸籍制度が徹底した地域の戸数集計は一戸単位の正確さであった
 つまり、帝国の全国を網羅する戸籍が整っていて、戸籍台帳に記載された数値を集計しているから、正確な計数が可能であり、それを正確に集計するから一戸単位なのである。
 戸数、口数は、帝国経営の基本であり、税務、軍務、そして役務の根拠であるから、正確でなければならない。戸籍制度維持、管理は、同じく、国政の基である。決してゆるがせにできないのである。
 従って、戸数計算では、当然、部分の総計が全体となり、倭人伝にあるような、戸籍もない未開の土地の戸数計算の参考にならない。

*倭人伝は概数世界
 このように、魏志の他の部分では、精緻に戸数計算されているから、「三国志全体」を読んだうえで「倭人伝」を読むと誤解しても無理はない。「倭人伝」は、おおざっぱな数が横行する概数世界に適した用語、文体を取っているのである。

 物事を緻密に調べれば調べるほど、真実から遠ざかるという事例もあるのである。  

                                                 未完

倭人伝の散歩道 里数戸数論のまとめ~明解な読解きの試み 改 6/8

                                                               2017/10/29 補追 2021/12/26
*未開の国の未開のデータ
 戸籍がない国の戸数の出所は、大抵、国主の「やまかん」であり、戸籍データの裏付け、根拠はないから、当然、概数、それも、荒っぽい概数である。
 その証拠に、表示数字は、一から九まで揃ってなくて離散している。
 
七と八の共存例は見つからず、一,二,五,七または八と進んで桁上がりし、一万の次は一万二千、一万五千と飛ぶようである。小林行雄氏の言う「おおざっぱ」である。
 元に戻って、帯方郡は正確な戸数の得られない実情がわかっているからおおざっぱな戸数を計上したのであろう。

*先人の足跡
 晋書倭人伝では、女王国戸数七万餘戸が倭国三十余国の戸数総計であると明記されている。これが、倭人伝戸数の順当な読み方である。
 『邪馬台国の全解決』(六興出版)孫栄健著で発表され、榎一雄氏が紹介、批判している。
 「邪馬台国に関する孫栄健氏の新説について」初出 季刊邪馬台国。榎一雄全集第八巻収録。
 榎氏の批判は、孫氏のその他の諸提言もろとも、大変手厳しく、ほぼ全面棄却となったようである。

 榎氏は、「晋書倭人伝は、全体として魏志倭人伝の不出来な要約であり、戸数論議も依拠すべきでない」と批判しているが、悪例で全体を処断する論法は、榎氏自身が、かねてから囚われるべきでない論法と戒めていて、その現れで、戸数表記自体は、さほど批判されていない。
 つまり、女王国、即ち倭国三十国、総戸数七万戸説自体は、榎氏によって否定はされていないとみる。

*戸数論の定説への影響
 現時点で、以上の戸数解釈は、定説を損なうので採用されないものと思う。遺憾である。
 因みに、当方は、当該論説を知らずに「郡国志」論から独自に思いついたことを申し上げておく。

*里数計算再び
 文書通信を最重視した曹操を例として、道里、即ち、街道里数、所要日数は帝国経営の基本であり、街道と宿駅の維持は責務である。
 さすれば里数計算で部分総計が全体となるが、倭国は未測量で街道未整備の未開地であるから援用できない。

                                                    未完

倭人伝の散歩道 里数戸数論のまとめ~明解な読解きの試み 改 7/8

                                                               2017/10/29 補追 2021/12/26
*岡田氏の限界
 以上の観点に立てば、倭人伝の戸数、里数は、決して過大でない。それを是認すると氏の論議は立脚点を失うので氏は見向きもしないが、それは、個人的な却下理由になっても、広く通じる根拠にはならない。

*古田説批判
 「部分里数の合計は全里数と等しい」(等しくなければならない)との古田氏提言の定理は、概数計算では無効である。
 たとえば、古田氏は、部分里数合計が全里数万二千里に対して不足する里数を「島巡り」里数に求め、前記定理の論拠としているが、渡海一千里は数百里の端数を易々と呑み込んでいて、そこから島巡り里数を取り出すのは、無効かつ無用の帳尻合わせである。
 概数の概念を正しく理解していれば、このような小細工は必要ない。史官は、大局を読んでいたから、このような、はした部分の造作は、無関心なのである。
 このような姑息な小細工をしたため、古田氏の提言全体の信頼性に疑念を投げかけられたのは、何とも、不都合である。

*古田氏の限界
 古田氏が、東夷伝、倭人伝独特の用語に気づけば、以上の誤解を避けられたと思うが、それは、多分、氏の史料観に外れた視点と思う。
 いずれにしろ、人は、誰しもその人なりの限界があるのである。限界があるから、その人の論考の広範さが、証されるのである。

*倭人伝道里事情
 帯方郡は、倭地の状勢を理解していたので、渡海後の道里は不明、つまりおおざっぱであり、全体が万二千里とすれば、狗邪韓国まで七千里ほどと見て、大きな間違いはないと承知していたが、部分道里を合計計算されたくないので、郡の方針で伊都―倭の最終道里を書かなかったと見る。郡の報告に何を書き、何を書かないかは、郡太守の裁量事項なので、最終区間の里数が書かれていないのは、郡太守の指示と見るものである。
 先ほど、渡海後の実測道里が不明と書いたが、末羅國から伊都国は測量可能であり、実際測量したと思われるが、あくまで推定であるし、いつ、誰が、どんな方法で測量したか不明である。この時代、目測や当て推量も、測量の一形態である。
 それは、貿易中心伊都国から海港への道里であり、実務上有益不可欠であるから、順当には、一里塚などの方法で里単位で測量し、街道整備したと思われる。

*放射道里説
 榎氏が創唱した伊都国基準放射道里説は、古田氏の強い批判を受けたが、古田氏の批判は、同説を排除できていないと見る。
 伊都国が実質上の首都であり、そこから各国に至る里数が知られていたという提案には、重大な意義があると思う。

                                                              未完

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