倭人伝の散歩道稿

「魏志倭人伝」に関する覚え書きです。

2025年3月18日 (火)

「古田史学」追想 遮りがたい水脈 3 宋書の「昔」について 再掲

                         2015/11/5 2023/09/16 2025/03/18

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

◯はじめに
 ここでは、故古田武彦師の遺した業績の一端について、断片的となるが、個人的な感慨を記したい。

「古代は輝いていた Ⅱ 日本列島の大王たち」(古田武彦古代史コレクション20 ミネルヴァ書房復刊「参照書」)の219ページからの『「昔」の論証』とした部分では、「宋書」に書かれている倭国王「武」の上表書に書かれている「昔」に対して、考察が加えられている。

 古田師は、持論に従い、こうした特定の言葉の意義は、同時代の文書、ここでは、宋書において「昔」の用例をことごとく取り出して点検するという手法を採っている。
 現時点のように、電子データ化されたテキストが、インターネットのサイトに公開されていて、誰でも、全文検索できる便利な時代でなく、宋書全ページを読み取って検索したものと思われ、その労苦に敬意を表する次第である。

 さて、ここは、論考の場ではなく、私人の感慨を記す場であるから、参照書の検索と考察の内容は後に送り、ここでは、まずは個人的な意見として、以下の推測を記すのである。

 日本語でも、「今昔の感」と言うように、「」と言うときは、「今」と対比して、万事が現在と大きく異なった時代を懐古、ないしは、回顧するものであり、往々にして、「古き良き時代」と呼ばれることが多い。
 では、南朝の宋(劉宋)にとって、古き良き時代とはいつを指すのか。それは、劉宋時代の中国の形勢を見れば、さほど察するのは困難ではないと思われる。劉宋は、亡命政権東晋を継いで、長江(揚子江)下流の建康(現在の南京)を首都とし、中国全土の南半分を領土としているが、中国の中核とされる中原の地は、北方から進入してきた異民族政権の領土であった。中国人にとってこの上もなく大切な、故郷の父祖の陵墓は、墓参を許されない嘆かわしい事態になっている。
 もと中原の住民は、大事な戸籍を故郷に残し、今の住まいを避難先の仮住まいと称していたのである。
 こうして考えると、宋書でいう「昔」とは、その時代で言う「中国」が、その時代の天子の治世下で太平に保たれていて、季節に応じて、故郷の風物を楽しみ、墓参に努めることのできた古き良き時代、言うならば中華の世紀である。

 なべて言うなら、古くは、史記に記録されていて、半ば伝説と化した夏殷周代であるが、その中核は、儒教の称える周公の時代を想定していたのかも知れない。
 周朝の制覇、王朝創業の間もなく、広大な天下が平らげられて戦乱がなくなったことを伝え聞いて、遙か遠隔の地から、越裳と倭人が捧げ物を届けたという、そういう周の遺風が「昔」と言わせるのであろう。

 そして、より生々しい秦・漢の時代は、これもまた天下を平らげたことから、古き良き時代として「昔」を懐かしんだものと思われる。

 更に時代を下った魏・西晋の時代は、天下太平と言うには、物足りないものがあるが、それにしても、中原領域を平定していたことから、今の状勢と比較して、「昔」と懐かしんだものと思われる。

 さて、肝心なのは、倭武の上表文で、「昔」と言っているのは、どの時代を指しているのかと言うことである。古田師は、宋書に登場した「昔」の用例を総点検した結論は、宋書に於ける「昔」とは、古くは、「夏殷周」、近くは、「漢魏」、時代の下限として「西晋」を含むこともある、と言うことであり、上に挙げた個人的な推察と同じ結論に至っている。

 つまり、上表文作者の想定したのは、劉宋時代の中国教養人と同様の意義であり、『古くは、「夏殷周」、近くは、「漢魏」、時代の下限として「西晋」を含む』時代を指しているようである。
 倭王武の上表文の主たる意味づけは、魏・西晋時代にあるようであるが、「昔」の一文字で、周・漢両朝での倭人貢献を想起させる修辞は大したものである。

 一部先賢(岡田英弘氏)は、倭武の上表文について、当時の倭国に、このように高度な漢文記事を書く教養があった証拠にはならない、どうせ、建康の代書屋に書かせたものだろう」と倭国作成説を切り捨てている。

 しかし、代書屋に倭国の故事来歴の情報はないはずであり、多額の金品を托して代書するにしても、大体の材料を与えられ色々と注文を付けられて書いたものであり、大筋は、倭国側の練り上げた文書であることは、間違いないと思われる。

 もっとも、別項で述べたように、国王名義の上書には、国王自署と国王印が不可欠であり、「倭国使節が、建康まで、署名、捺印だけで内容白紙の上書原稿を持参して、代書屋に内容を書かせ、出来上がった国書を国王が確認すること無しに宋朝に提出した」という想定は、あり得ない手順と思われるのであるが、大家の説く所見であるから、言下に否定するのはおこがましいのであろう。

閑話休題
 古田師の遺風として、生じた疑問を解き明かすのに、推測ではなくデータをもとにした考察を怠らない点は、学問・学究に努めるものとして学ぶべきものと思うのである。いや、これは、当ブログ筆者たる小生の個人的な感想であるので、当然、各個人毎に感想は異なのであるから、別に、貴兄、ないしは貴姉から、「意見が合わない」と怒鳴り込まれてもお相手しかねるのである。

 特に、ここで論じているのは、古田師の遺風に関する小生の個人的な感想であるから、凡そ議論は成り立たないのである。

以上

「古田史学」追想 遮りがたい水脈 6 「陳寿の不運」 ~国志異聞

                            2016/03/28 2025/03/18
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◯はじめに
 古田武彦氏の所説で、比較的初期から共感していたものに、三國志編纂者である「陳壽」に対する「真っ直ぐな」評価がある。
 そのために、古田氏の提唱した「邪馬壹国」論に反対する人たちから、陳壽「バッシング」とも言いたいような理不尽な難癖が押し寄せて、陳壽にしてみたら、不満な事態かも知れない。

 膨大な三國志全体の評価より、その一部である「魏志倭人伝」に対する不満が、少なくとも日本で喋々されているのは、史家として不本意だ思うのである。

  •  と言っても、古田氏の「陳寿理解」は、必ずしも万全で無いことは言うまでもない。
     たとえば、次の部分に、安易な定説追従が見られるのである。

 ミネルヴァ日本評伝 通巻第百巻
 「俾彌呼」 第一部 倭人伝に書かれた古代
   第七章 三国志序文の発見

 ここで、191ページに「魏朝の『正史』」と書き、二行おいて、「魏・西晋朝の正史、『三国志』」と、何気なく書いているが、これは、首尾一貫していないという以前に、大きなところで「筋が通らない」のである。
 魏朝の「正史」であれば、「漢書」に続く「魏書」と呼ぶべきであって「三国志」と呼ぶべきでないのが明らかである。

 「三国志」を見る限り、漢を継承したと認められているのは、「魏」であり、他の二国は、あくまで、「帝位」を僭称した偽物達である。
 つまり、魏・西晋朝には、三国鼎立史観は無かったはずである。

 と言うものの、現実に「正史」として継承されてきたのは、「三国志」である。

 最近発見したのが、中国で発表された下記論文である。(論文と呼ぶにふさわしい堂々たる体裁を備えている)末尾に2013年第3期の「文史」(中華書局発行 史学誌)に掲載と表記されている。

 陈寿 《 三国志 》 本名 《 国志 》 说

 www.zggds.pku.edu.cn/004/001/223.pdf

 当ブログ筆者の中国語読解力は、中国で言えば小学生以下(「以下」は、小学生を含むと思いたい)であって、読みの正確さのほどは大変妖しいのだが、さすがに、タイトルについてはよく理解できるし、史書の影印版を多く引用した体裁から、次のような論旨は、読み取れるように思うのである。

魏朝「正史」は、本来「國志」と題されていた。陳寿は、妥当と思われる理由があって、そのように題した。

*「国志」は、先行「正史」の「史記」、「漢書」と同様に二文字である点が見られる。

*少なくとも、唐代までの各種資料に「国志」とだけ書かれている例が見られる。

*時代的に唐時代に先行していても、(後世)写本を見ると「三国志」と書かれていることがあるが、「国志」の前(上)に「三」を書き足した形跡が見てとれる(ようである)。

唐代以降、とくに、「笵曄後漢書」が、史記、漢書に続く正史として認知され揃って「三史」と列挙されるようになり、また、蜀漢正統論が出回ってからは、魏朝正史で無く三国時代正史として位置づけられることが当たり前になり、「三国志」と題されることか多くなって今日に至ったものと思われる。

 あやふやな紹介では間に合わないので、中国語からの翻訳がどこかに発表されることを期待して紹介する。

 当ブログ筆者としては、かねてから、古田氏を初めとする定説信奉者の説明に納得していなかったのだが、今回、かなり強引としても、ある程度説得力の感じられる「一説」を聞くことができ燻っていた不満が解消した感じである。

 もちノろん、そこで提唱されたのは、あくまで(根拠薄弱な)(作業)
仮説
であり、傾聴の価値はあるものの、これで何かが確認されたというわけではないと思うのである。

以上

「古田史学」追想 遮りがたい水脈 1 「臺」について 1/3 総括

    2015/11/01 再追加 2022/01/12 2023/09/16 2025/03/12

*加筆再掲の弁

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〇はじめに
 ここでは、故古田武彦師の遺した業績の一端について、断片的となるが、個人的な感慨を記したい。
 因みに、本稿が当初「」なしの古田史学と書いたのに対して、早速、古田史学なるものは無法な評言であるから、撤回すべきとのコメントがあり、一応、固有名詞扱いで「」付きにしたが、コメント子からの応答はないので、趣旨に沿っているのかどうか不明である。
 因みに、コメント子は、明らかに古田武彦師の流儀を認識していて、それ故に敵意を抱いているということのようだが、文句があるなら、当人を論破して欲しかったものである。あるいは、古田氏の支持者、後継者を「打破」して欲しいものである。第三者に付け回しするのは、ご勘弁いただきたい。

〇『「邪馬台国」はなかった』
 『「邪馬台国」はなかった』は、「古田武彦古代史コレクション」の緒巻として、2010年にミネルヴァ書房から復刊されたので、容易に入手可能な書籍(「参照書」)として参照することにする。

 ここで展開されている「臺」と言う文字に関する議論で、「思想史的な批判」は、比較的採り上げられることが少ないと思われるので少し掘り下げてみる。

 「思想史的な批判」は、参照書55ページから書き出されている「倭国と魏との間」と小見出しされた部分に説かれている。
 この部分の主張を要約すると、次のような論理を辿っているものと思われる。

    1. 「倭人伝」記事の対象となっている魏朝、および、その直後に陳寿が「三国志」を編纂した西晋朝において、「臺」と言う文字は、天子の宮殿を指す特別な文字であった
    2. 「三国志」において、三国それぞれに対して「書」、「国志」が編纂されているが、正当とされるのは魏朝のみであり、そのため、「臺」の使用は、魏朝皇帝の「宮殿」に限定されている。(中国語で言う「宮殿」は、雒陽首都で言えば、四季に応じて、天子が移動して時節の祭礼などを行う「小部屋」に過ぎないのであるが、ここは、国内史学用語に倣っている)
    3. 倭は、魏朝の地方機関である帯方郡に服属する存在である。
       誤解している方があるようだが、「親魏倭王」が、曹魏官制の「王」と見ているとしたら、それは、大いなる勘違いである。官制の王は、遼東郡太守同等ないしは一段高みの存在であり、郡官人は、平伏しなければならないのである。あくまで、官制外の客制であり、郡太守の手先に過ぎないのである。

       魏朝がそのように位置づけている「倭王」の居処名に、天子の宮殿を意味する「臺」の文字を使用することは、天子の権威を貶める大罪であり、「三国志」においてあり得ない表記である。
       もちのろん、雒陽が曹魏の「首都」であるからと言って、倭王の治所が、長安、雒陽、鄴等と並ぶ、天子の「都」(みやこ)と証されたとするのも、また、大いなる勘違いである。

 因みに、「倭人伝」の最後近くに「詣臺」(魏朝天子に謁見する)の記事があり、「臺」の文字の特別な意義を「倭人伝」を読むものの意識に喚起している。つまり、「三国志」魏書の一部を成す「倭人伝」においても、「臺」の文字は、専ら天子の宮殿の意味に限定して用いるという使用規制の厳格なルールである。

 古田氏も念押ししているように、このような「臺」に関する厳格な管理は、比較的短命であり、晋朝の亡国南遷により東晋が建国されて以後効力を失ったものと見られる。

 たまたま、手っ取り早く目に付いた資料と言うことで、かなり後代になるが、隋書「俀国伝」に、隋使裴世清の来訪を出迎えた人物として冠位小徳の「阿輩臺」なる人名が記録されている。隋書が編纂された唐朝時代には「臺」なる文字の使用規制は失われていたのである。

 南朝劉宋の時代に「後漢書」を編纂した笵曄は、笵曄「後漢書」「東夷列伝」の「倭条」に、「邪馬臺國」と書き記しているが、当時屈指の教養人とは言え、陳寿のような純正の史官ではなかったので、語彙の中に時代限定の観念はなかったのである。

 と言うことで、以上のように辿ってみると、「古田史学」の水脈は支流といえども滔々として遮りがたいものである。

                                            未完

 

「古田史学」追想 遮りがたい水脈 1 「臺」について 2/3 総括

    2015/11/01 再追加 2022/01/12 2023/09/16 2025/03/12

*加筆再掲の弁

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付記 2015/11/01
 語気の鋭い主張ほど、例外に弱いものである。特に、一部の稚拙な反対論者は、細瑾を持って「致命的」と称する稚拙な攻撃法を取っている。「一点でも誤謬があれば、学説全体が崩壊する」と決め付ける稚拙な手口であるが、つまり、口先の勢いしか、武器がないという「窮鼠」の最後の悪足掻きなので、相手にしないで良いのである。「例外のない法則は無い」というものである。

 陳寿は、「三国志」の編纂に当たって、天子の宮殿、ないしは、離宮の類いのみに「臺」の使用を規制したと思われるが、人名は正しきれなかったと思われる。例えば、著名な人物で「孫堅字文臺」とあるように、何人かの人名で「臺」が使われているのが見受けられる。

 このように、「三国志」を全文検索すると、魏の支配下になかった人物や魏朝の成立以前に「字」(あざな)を付けた人物、言うなら、曹操の同時代人および曹操以前の人物の「字」を書き換えてはいないようである。ちなみに、「孫堅伝」は、あくまで、東呉史官韋昭が編纂し、東呉君主に奉献した「呉書」が、東呉滅亡の際に、西晋皇帝に献上され、西晋皇帝に嘉納された史書が、帝室書庫に所蔵されていたものを、陳寿が皇帝承認の史料として、ほぼそのまま「呉国志」として、「三国志」の要諦として鼎立させたものである。 
 「三国志」魏書に限っても、「陳宮字公臺」(魏書 張邈傳)、「王觀字偉臺」(魏書 王觀傳)があり、呉書では、「孫靜字幼臺,堅季弟也」(呉書 孫靜傳)の用例が見られる。

 古田氏は、「臺」を「神聖至高の文字」とまで口を極めているが、これは言い過ぎであろう。「臺」の使用規制は、天子の実名を諱として避ける厳格さまでには至っていないのである。

 なお、「呉書」諸葛恪傳に「故遣中臺近官」の記述があり、「呉書」および「蜀書」においては、「魏書」におけるほど、厳格に「臺」の使用を規制していないものと思われる。つまり、「呉書」だけでなく、「蜀書」も、曹魏書記官/史官の編纂した史書ではないので、用語基準が異なるのであり、陳寿は、両国志に編纂の手を加えていないので、「魏書」の用語の用例として不適当な場合が多いと懸念される。いや、「魏書」に限定しても、曹魏書記官/史官が精査した本紀部の用語/構文と異なり、夷蕃伝、特に、新参の「倭人」に関する「伝」は、一貫した編集/構成が存在しないと見え、陳寿も、「魏書」夷蕃伝の編纂にあたって、原史料の用語/後世に、改竄、と言うか、史官校閲の手を加えていないと見えるので、必ずしも、一貫した考証が容易とは見えないのである。

 この論義は、古田武彦師の学問の道と軌を一にしていないので、本稿タイトルと蹉跌をなしていると見えるかもしれないが、小論は、古田武彦師の史学の道は、首尾一貫していて、後生によって維持されていると評したものであり、小論は、古田師の論義に無批判に追従しているのではない。よく聞き分けていただきたいものである。

 当付記を書くについては、中国哲学書電子化計劃が公開している国志テキストデータを全文検索させていただいたが、「臺」の用例として「邪馬臺國」はヒットしない。この事実認識を「倭人伝論」の「出発点」としていただきたいものである。

 念押しするが、「出発点」さえ確定すれば、後は、いかに「径」が分岐しようと、それはそれで、正当な史学の「径」なのである。

                                  未完

「古田史学」追想 遮りがたい水脈 1 「臺」について 3/3 総括

    2015/11/01 再追加 2022/01/12 2023/09/16 2025/03/12

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〇「臺」論再考 再付記 2022/01/12
 当付記は、以上の論議が崩れそうになるので、静かに語ることにする。
 別に新発見でもないのだが、「春秋左氏伝」に、古田師の「臺」至高論』の対極と見える「臺」卑称用例があるので、諸兄姉のご参考までにここに収録するのである。

 白川勝師の字書「字通」の「臺/台」ではなく、「儓」(ダイ)にひっそりと書かれている。白川師の字書について、世上、師の老齢を種に公に誹謗する向きが(少なくとも一名)あって、度しがたい迷妄に呆れたりするのだが、ここは「春秋左氏伝」の引用であり、師は特に関与していない。

[字通] 儓  タイ、ダイ しもべ けらい …..〔左伝、昭七年]に「天に十日有り、人に十等有り」として、「王は公を臣とし、公は大夫を臣とし、大夫は士を臣とし、士は阜を臣とし、阜は輿僕を臣とし、輿僕は隷を臣とし、隷は僚を臣とし、僚は僕を臣とし、僕は臺を臣とす」とあって、臺は第十等、〔玉篇〕にこの文を引いて臺を儓に作る。奴僕の乏称として用いる。…

 つまり、「臺」は、本来、つまり、周制では、王、公、大夫から大きく下った文字を知らない隸、僚、僕、「奴隷」、「奴僚」、「奴僕」と続く最下等のどん尻である。官位などであれば、最下位は官人であるから、官位外に下があるが、臺はその限りを越えている。
 後世、これでは蔑称の極みであり、「臺」の公文書使用に対して大変な差し障りがあるので、たまりかねて、人偏をつけて字を変えたと言うことのようである。

 陳寿にとって、春秋左氏伝の用語は、史官教養の基幹であり、明瞭に脳裏に記録されていたから、周礼の片鱗をうかがわせる東夷「倭人」王の居処を呼ぶについて「邪馬臺」と書くことはなかったように思うものである。逆に、蛮夷の王の居処を「都」(みやこ)と呼ぶこともなかったのである。漢魏晋代、と言っても、洛陽の論壇が健在な時代であるが、史官に於いて、尊卑のけじめは峻烈だったということである。
 亡国の果ての劉宋代、素人史官を気取っていた笵曄には、知り得ない世界である。せめて、裵松之の謙虚さがあれば、後世に恥を曝さずに済んだと思われる。いや、笵曄は、「倭条」の粗雑さに不満を感じていたとしても、最後の詰めを仕遂げないまま処刑されてしまったので、「倭伝」ならぬ「倭条」しか遺せなかった笵曄の真意は、不明なのである。

 念のため言うと、南朝劉宋代に先人の後漢書を美文化した、当時一流の文筆家であった笵曄は、史官としての訓練を歴ていないし、西晋崩壊によって、中原文化の価値観が地に落ちた時代を歴ているので、「左伝」の用語で縛られることはなかったと見るのである。いや、教養として知っていて、東夷列伝の「其大倭王居邪馬臺國」に、「左伝」由来の卑称を潜めたかも知れない。范曄については、まことに、真意を推定するだけの資料がないから、范曄が「倭条」に於いて、東夷「大倭王」を蔑視していなかったという確証はない。
 聞く所では、范曄は、「後漢書」を完成する以前に、皇帝に対する大逆罪に連坐して、嫡子もろとも、斬首されたと言うから、東夷列伝「倭条」が、最終稿でなかった可能性が濃厚である。范曄最終稿が未完成であったとしても、それは、范曄の責任ではないのである。

*朦朧たる笵曄後漢書「倭条」 余談
 因みに、笵曄「後漢書」が言及することを許されていたのは、後漢代と言っても霊帝までが下限であり、献帝治世、中でも、曹操の庇護のもとに帝制を維持していた建安年間は、魏志の領分であるので、遼東に公孫氏が君臨していた時代のことは、書けないのである。そこで、笵曄は、女王共立の事態を桓帝霊帝の時代にずり上げて、東夷列伝に「倭」に関する一条を設けたのである。
 そのように、意図的に時代考証を混濁しているので、「其大倭王居邪馬臺國」 の一事も、女王共立以後の「女王国」を指すというわけではなく、それ以前の伊都国僭上時代とも取れるようにしていると見えるのである。
 笵曄は、本来、朦朧とした記事を心がけていたものではない「文筆家」と自負していたから、女王が邪馬臺国を居処としていたと確信していたら、そのように明記したはずであるから、このような朦朧記事を書いたのは、後漢書東夷列伝「倭条」の根拠/公文書史料が不足/欠落していたのが原因と見える
 世上、魏志「倭人伝」記事が明解に解釈されたら、自説に不利なので、とにかく、朦朧とさせる「異説」が幅をきかせているが、その根源は、笵曄の朦朧とした「倭条」にあるように見える。

閑話休題
 「臺」は、古典書以来の常識では、「ダイ」であり「タイ」ではない。俗に、「臺」は「台」で代用されたが、正史は、そのような非常識な文字遣いが許される世界ではない。

*百済漢字論考 余談
 百済は、馬韓時代から早々(はやばや)と漢土と交流していたから、当然、漢字を早々に採り入れたが、自国語との発音、文法の違いに苦労して、百済流漢字、つまり、「無法な逸脱」を色々発明したようである。その中には、漢字に無い「国字」の発明や発音記号の創出が行われていたと見えるが、早々に中国側に露見し、撤廃させられたようである。つまり、中国側が、中国文化の違反として厳しく是正したものであり、百済では、すべて禁止事項となったが、「無法な逸脱」は、ふりがな記号、国字、「臺」「台」代用も含めて、百済から、海峡を越えた「倭人」世界に伝わったようである。但し、このような伝達が起こりえたのは、遙か後世の唐代であり、当ブログの守備範囲外、「倭人伝」の圏外であるので、あくまで、臆測に過ぎない。

 以上は、「やまだい」と呼ぶしかない「邪馬臺国」が、「やまと」と読める「邪馬台国」に変貌したと言う無茶な変遷論と相容れないので、国内の古代史学界では言及されないように思えるのである。以上は、古田師すら、これには気づいていなかったと見えるから、「古田史学」は、「全知全能」「無謬」ではないのである。

*三国志統一編集の幻影 2023/09/16 余談
 因みに、従来、つまり、「倭人伝」素人研究の開始当初、当ブログ筆者は、陳寿「三国志」の中で、「呉志」、「蜀志」の「用語」用例を、「魏志」の「用語」用例と同等の重みを持ってみていたが、丁寧に見ていくと、陳寿は、「魏志」以外の「用語」については、それぞれの「志」の原文をとどめているように見えるので、項目によっては、論調によっては、論議の矛を収めることがあることを申し上げておくものである。

 因みに、陳寿は、「呉志」編纂において、東呉史官韋昭等が東呉公文書をもとに編纂した「呉国志」が、東呉降服の際に献呈された西晋皇帝によって嘉納されていたので、つまり、晋朝公認文書となったので、「呉志」において、孫堅、孫策、孫権を、東呉天子と見立てた不敬は是正したものの、それ以外は、原史料を温存しているのであり、曹魏君主を天子とした編集の筆を加えていないものと見えるのである。また、「蜀志」については、三国志の体を整えるために、蜀漢遺稿を集成させたものであり、ここにも、曹魏君主を天子とした編集の筆を加えていないものと見えるのである。
 つまり、「三国志」というものの、それぞれの「国志」は、古来、「国志」として自立していたものと見るべきなのである。従って、三件の「国志」を統一した「通志」編纂は、行われていないと見るべきなのである。

 このあたりの論義は、「倭人伝」解釈の躓き石になっているようで、近来蔓延(はびこ)っている暴言/誣告は、『陳寿は、その時次第で、思いつきの「ウソ」を書き散らす問題人である」と言うものであり、誰かの受け売りで、そのような暴言を書き散らしている著者を見かけると、後世に不滅の悪名を遺しているのに大変気の毒に思うのである。何しろ、電子書籍の初学者向け資料でコミックタッチであるからわかりやすく俗耳に訴え、その結果、取り消しようのない汚名が残っているのである。

*史官「立ち往生」 2023/09/16 余談
 さらに敷衍すると、陳寿は、「魏国志」の編纂においても、原史料である後漢/曹魏公文書に編集の筆を加えず、原史料温存に努めたものと見るべきなのである。そのため、主として、遼東郡太守公孫氏の束の間の君臨と滅亡によって、一貫した史料集成が不可能であった「倭人伝」では、各時点の史料源の視点、価値観、世界観がまちまちであることが糊塗されていないので、とかく、継ぎ接ぎ(つぎはぎ)との評言が齎されているのである。つまり、「倭人伝」の二千字程度の記述においても、それぞれの部分の由来、出所の丁寧・地道な評価が必要・不可欠である。
 ところが、従来は、具体的な論証無しに軽薄な臆測をもとに、陳寿に対して、「東夷伝」に曲筆を加えたとの極言/誣告が、事情に通じていない部外の「大家」から与えられていて、素人読者として困惑するのである。文献を全面的に精査せずに、「ぱっと見」で、あるいは、「食いかじり」で、印象評価するのは、困ったものであるが、俗耳には「大言壮語」が痛快に聞こえて、粗雑な悪評が世に蔓延る(はびこる)困った事態なのである。

 陳寿は、あくまで、天職である史官の職務に忠実であって、正史の編纂を通じて天下に教訓を垂れるという尊大な意識は無く、あくまで、謙虚な「史官」の職掌に殉じたのであるが、高名で尊大な後世人集団によって、寄って集(たか)って、虚像、つまり、芝居の背景のように華麗な絵姿を押しつけられて立ち往生しているように見えるが、どうであろうか。

*結語 2023/09/16
 と言うことで、ここでは、タイトルにも拘わらず、古田武彦師の「倭人伝」観に、いわば、一矢を報いているのであるが、あくまで、史観の一隅の瑕疵をつついているのであり、靴に砂粒が入った程度の不快感にもならないかもしれない。

以上

2025年3月10日 (月)

倭人伝の散歩道 海上交易と渡し舟 1/4 更新

                         2018/01/08 補追 2025/03/10

*加筆再掲の弁

 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

◯はじめに
 古代史論者で、倭人伝当時の交易規模を誤解している人が多いようなので、当たり前のことを説かねばならない。ここで誤解というのは、後世の概念に影響された過大な評価である。

*遠距離通商の幻想
 A地点(例えば、奈良盆地中部、中和の纏向)に住んでいるものが、片道数か月を要するB地点(半島南端の狗邪韓国)へ買付に向かうとすると、当然、B地点で何かを支払って、何かを買い付ける。

 現在なら、米ドル(共通外貨)を持参するしクレジットカードも使える。それ以外、銀行送金、外貨為替、現地銀行保証付き信用状など支払手段はある。

 当時は「現金」持参しかない。何が「現金」かは置くとして、「大金」持参には、資金が必要である。つまり、一年程の過程で事故があれば大金が失われる。

 現地の買付で、どのような折衝をするかわからないが、買い付けはできたとする。

 当時は通信手段がないから、一旦出ていったら、還ってくるまで、何もわからない。かれこれ一年経って、帰国してこなくても、単に日程が延びたのか、何かあったのかわからない。

 当時は、保険制度もないから、船団が帰還しなければ大金が失われる。

*遠距離買付の難点
 このように自前で遠路を買付に行くと、買付費用以外に、乗組員の長期遠距離出張に要する全費用を負担しなければならない。造船費用まで考えるととてつもなく膨大な資金が必要である。

 以上の概要だけで、中和纏向から狗邪韓国まで買付に出かけるのは、無謀だとわかると思う。
 幸い、無謀な大事業に取り組もうにも、先立つものが、まるで整わないので失敗しないのである。

*「支払い」の困難さ
 以上、大金、資金など現代語を使ったが当時、「倭人」世界に普遍的通貨はないから「もの」で支払うことになる。

 もし、米俵を持参するとなると膨大である。絹織物のようなものであれば、嵩張らないだろうが、市場相場がわからないと、適切な価格評価がわからない。

 社会基盤が整った後世にならないとできないことだと思うのである。

                                                未完

倭人伝の散歩道 海上交易と渡し舟 2/4 更新

                         2018/01/08 補追 2025/03/10

*加筆再掲の弁

 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*人材投入

 買付部隊の責任者は、読み書き算術ができて、武勇に優れ、価格交渉できる人材でなければ務まらない。政権幹部が長期出張となりかねないのである。

*地の利
 これに対して、九州北部の地元商人は、日頃、海峡交易しているから、ものの相場を知っていて、対価として割の良いものを持っていくはずである。これは、日常業務だから、担当者に、適度の権限と資金を与えて派遣すれば良いのである。船舶や乗員は新たに整える必要はない。往復は短期間であり、買付担当者の動静は把握できる。その際、危険相当分を売価に乗せるから、保険がかかっているのである。

*買付地の引き寄せ
 中和纏向商人の九州北部での買付価格は現地価格より高価であるが、自前で買付船を仕立てるのに比べて、妥当なものと見ざるを得ないのではないか。

*自前取り寄せの負担
 九州北部から中和纏向まで、どのような経路をとるにしろ、自前の移動である。大分緩和されているが、自前で大変な危険を背負い込まねばならない。

*近隣買付の得
 これを、淀川水運の終着点、木津の市で買い付けるとしたら、買付価格自体は高くなるが、経路に、なら山越えの軽微なもの以外に難関はなく、纏向から数日の近場であるから、諸々の負担は極めて軽微であり、纏向地域政権のとるべき策は自明だろう。

*遠隔交易の戒め
 同様に考えれば、吉備や丹波から遠路韓国に向かう貿易船団も、時代錯誤の幻想である。

*長期構想
 創業と発展と考えると、先ずは、短距離で短期間の小規模貿易で創業し、これを長距離まで発展させるらには、それこそ移動距離の二乗に比例しそうな経済的、文化的成長が必要ある。所詮、商売して多額の利益を得るには、売り先が大量に必要なのである。壮大な遠距離買付が成り立たないなら、同様に壮大な遠距離販売もなり立たないのである。

 もちろん、大規模交易には、読み書き算術のできるものが多数必要なのである。

                                   未完

倭人伝の散歩道 海上交易と渡し舟 3/4 更新

                         2018/01/08 補追 2025/03/10
*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*渡海伝説の試み
 これも、念押しだが、諸兄姉は、早々と狗邪―末羅区間の渡海は一貫したものと決めつけているのではないかと気になってきた。推定を検証して信ずべきとしているのなら良いが、思わず知らず結論に飛びついてはいないだろうか。
 「倭人伝」では、狗邪韓国側から順に港を経るとして、

    1.  狗邪港から對海港まで、千里の渡しである。
    2.  對海港から一大港まで、千里の渡しである。
    3.  一大港から末羅港まで、千里の渡しである。

 と、三回「渡し舟に乗る」と書いていて、一船で渡り切るという書き方ではないと思う。

*島巡り航法の不合理
 古田武彦氏が第一書『「邪馬台国」はなかった』で説いた「島巡り」説は、狗邪港から末羅港まで一貫航走する海船を、細かく回航する行程と見えるが、実用的でないと見える。正始魏使/郡使の用船は、貴重な荷物を大量に積載したから回航もあり得るかと思うが、標準行程の道里に回航は採用しないと思われる。
 いずれにしろ、「水行」は、全工程万二千里を案分した千里単位の概数であって、当然、概算計算が整合する。また、国主の居処間の所用日数を示すものであるから、正史道里記事に不要な、面倒で細々した行程は関知しないのである。
 同書の創唱に際して、古田氏は、随分概数計算の整合に尽力されたのであるが、この辺りの大局観を見失っていたように見えるのは、勿体ないところである。(回航による里数整合の当否は別記事で述べた)
 地図を見る限り、對海港は、細い陸峡部を挟んで対馬島の両側にあり、長丁場で危険な回航をしなくても、人も物も陸上移動で移載できるように素人目に見えるので、ことさらそう思うのである。

*渡し舟の得
 ということで、三度の渡海は、毎回別便と見るものではないかと思われる。使用する便船は、両側の港が、それぞれ競い合って、往復運行していたものだろう。今日、シャトル便というのは、織機の飛び杼のように目まぐるしく往復運動することから呼ばれる。
 往復便であれば、漕ぎ手は、慣れた区間を規則的に往復するだけである。便船も、短距離区間の往復で軽便になるので、複数建造することができる。
 特に、一大港と末羅港間は、最短区間なので、軽便で漁船に近いものでも勤まったのではないか。

*瀚海渡しは別仕立て、か
 ただし、對海港―一大港間は、海峡中央部で海流が速いと思われ、「瀚海」と特記されていることもあり、漕ぎ手の多いやや大型の手漕ぎ船かと思われる。そのように適材適所の配船ができるのも、短区間の渡海船の乗り継ぎだからである。

                              未完            

倭人伝の散歩道 海上交易と渡し舟 4/4 更新

                         2018/01/08 補追 2025/03/10

*加筆再掲の弁

 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*正史にない事業
 倭人伝には、帯方「郡」「倭」間の行程だけが書かれているが、交易はこれに限定されなかったと思われる。一大港には、今日の佐世保、博多、宗像辺りや以遠の海港から、しきりに渡海船が着いたと思われる。對海港も同じで、狗邪港に限定せず、他の半島南岸港からの渡海船の荷を受けていたものと思う。

 それぞれ、活発な海市を主催し、南北交易に限らず、東西の交易を行い、取引先を競わせていたはずである。交易相手を限定したら、事あるごとに兵糧攻めされて言いなりになっていたであろう。してみると、喧伝される食糧不足は、節税策かと思われる。(眉唾物である)

 「倭人伝」で、両国が南北に市糴交易したというが、あくまで、時代相当の近隣との集散交易であり、海峡を越えた遠方まで手を広げていたとは思えない。

 こうしてみると、對海港も、一大港も、地理的な位置もさることながら、入りよくて出よい機能を備えていたために、両国は、ほどほど繁栄していたものと思われる。

*正史にない海(うみ)の話
 因みに、陸封されていた中原政権は、海への関心が乏しく、それ故、正史などに海に関する記事が乏しい。
 自然、海峡とか海路とかの言葉が出てこない。川を渡るのに似た渡海すら、滅多に出てこない。

*東夷伝の海洋(現代日本語)志向
 海」という文字が、比較的活発に出てくるのは、帯方郡関係者が提供したと思われる東夷伝記事である。

 その意味でも、倭人伝」の語彙は、魏書全体の語彙と異なる味わいを示していて、海に対する感覚は、むしろ、呉書と通じるときがあるように思われる。

*「倭人伝」の歩き方
 当方が最近努めているのは、倭人伝」は、魏書の一部として書かれたと安直に決めつけず、むしろ、公孫氏から解放された束の間の興隆期に帯方郡の抱いた「海洋国家」の大志、つまり、野心の記録として書かれたものであり、先ず、「倭人伝」の用語、表現を理解した上で、魏書の一部としての理解を図るという手順の勧めである。

 一例として、巷間騒がれる「倭人伝」の一里の短さであるが、冒頭で郡から狗邪韓国を七千餘里とする地方里制を宣言していると解すれば、筋が通っているのである。

                         完

2024年11月 4日 (月)

私の本棚 38 木佐 敬久 『かくも明快な魏志倭人伝』 1 長大論 補追

冨山房インターナショナル 2016/2/26
 私の見立て★★★★☆ 必読の名著  2016/03/05 2019/07/21 補筆・整形のみ 2024/11/02, 04 補追少々

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

◯始めに
 当ブログ筆者は、世界の片隅で、細々と、と言うか、ぼそぼそと持論を公開しているのだが、今回は、世上に「倭人伝」について、当方と同じ読み方をしている人を見つけて、ついつい、財布を空にして買い込んでしまったのである。
 こうしてみると、書籍の売り文句である惹句は、的を射たときには、強力な販促武器になるのである。
 近来、古代史関係新書に粗暴な惹き句を見て購入欲を殺がれたり、店頭で、つい、粗暴な惹き句に眼を瞑(つぶ)って購入して、内容がそれ相応だったために後悔したりしているが、今回は、惹句を信じて良かったと思うのである。

 ここに紹介するのは単行本なので、新書数冊に匹敵する出費であるが、古代史に健全な関心を持っている方は、必読というべき良書である。これまで得られなかった、得がたい知見を得られるはずである。もちろん、賛同するかどうかは、読者の自由である。

*共感する「長大」論
 さて、ご託が長引いたが、今回採り上げるのは、巻末付近で書かれている長大論である。以前、著者の見解の端緒は、いずれかの場で発表/公開/引用されていたと記憶している。
 著者は、まことに堅実に陳寿「三国志」の「長大」を拾い出し、男性と女性の違いを踏まえた上で、卑弥呼は十代で女王に共立されたという推定に至っているまた、「倭人伝」に描かれている姿は、二十代の若々しい姿であるとも推定している。
 当方の辿った論理の道筋を、別の人がすでに極めていて、ほぼ同じ結論に至っていたというのは、はるか後塵を拝するものとして、大変名誉なことと感じる。

*あえてアラ探し
 あえていうと、次の点を指摘できると思う。
 余りにも自明なので、大抵省略されるが、陳寿「三國志」に限らず史書に書かれている年齢は、誕生時に一歳となっていて、元日に揃って加齢する「数え」年齢である。つまり、現代の年齢に換算するには、一歳、ないしは、二歳を引かねばならないと言うことである。
 また、当時の考えでは、人は十五歳で子供時代を脱して、個人として社会に認知されるのであり、「女子」と呼ばれる人は、十五歳を過ぎていると言うことである。

 でありながら年齢を書かずに、「女子」と形容したのは、臆測の極みであるが、『陳壽の手にした史料には、倭人の二倍年歴(春秋加齢というべきか)で「三十歳」と書かれていて、かつ、その後に「いまや成人となった」との記事が続いていたからではないか』とも思われる。
 陳壽は、倭人のいう卑弥呼の年齢に不審を覚えたが、事実確認ができなかったので、筆を加えず年齢表示を避けたのではないかと憶測する。ここは、何にも書かれていないので、一読者の憶測である。

 因みに、壹与の継承の時は、すでに、対外的な年齢表記が中国風になっていたのであろう。数えで十三歳が倍年歴であれば、実年齢は、6.5歳、満年齢で5歳になってしまう。これは、幼帝である。

 「女子」と書いた理由を、別途推定
し、すでにブログ記事に書いたのを復習すると、...
*「女子」は「外孫」~絶妙好辞 
 視点を、直前に登場した「男王」とすると、「女子」は、その娘の子供とも読める。
 簡単に言うと< この文脈では、「女子」は「孫」(まご)であるが、大抵の場合のように、娘が嫁ぎ先で子を産んでいれば、自身にとって「外孫」(そとまご)である。ただし、字面でわかるように、この記事での「女子」は、外孫女児に限る。かくして、漢字二文字で二重の意味をかねさせた謎かけが解ける。嫁ぎ先が有力な家、氏族であれば、生まれた子は、二大勢力を強い絆で結びつけていることになる。
 しばらく誰が首座に就くか紛糾したため、水争いや漁場争いの調停者がいなくなって、それぞれの季節毎に紛糾したが、有力な二家が両家の当主にとって孫に当たる後継者を共に王に立てることに同意すれば、それこそ、時の氏神であり、そうした紛糾は起こらないと悟ったものである。

 女王は、「季女」(戦国齊では、末娘)であって、その家の定めとして、生涯不婚で家の祭祀を主催すると定められていたから、若くして(幼くして)神事に従事していたようであるが、祖霊に仕えて託宣を聞く手段として亀卜を行っていたとすると、発生した亀裂の形(文字)を適確に読み取らなければならない。そのために、中国の殷(商)時代以来の伝統として、亀裂の形を甲骨文字として、つまり、漢字として読み取る訓練を受けていたのではないかと憶測するのである。
 してみると、この女子は、若くして(幼くして) 甲骨文字の漢字が読めたのではないかと思われる。そうであれば、巫女が若年であっても、その亀卜託宣に対する衆人の信頼は深かったものと思われる。いや、もちろん、これは勝手な憶測である。根拠は無い。

 因みに、女王が結婚するとして、すでに二大勢力の親族となっているので、それ以外の家から婿を探さねばならない。それでは、二家の権力の均衡が崩れてしまう。まして、女王が、第三の家に嫁ぐことは、女王の権威を損なう。かくして、女王は独身を保つのである。ただし、もともと、生涯不婚の神職に従事していたから、そのようなことは、覚悟していたとも思われる。

 さて、最後に再確認すると、
 漢帝国では、先帝の子供以下の世代から新帝が擁立され、そのため、幼帝/少帝がしばしば擁立されているが、卑弥呼は、そうした幼帝/少帝ではなかったし、女児、女孩、嬬子でもなかった。また、そのような際、多くの場合、先帝の未亡人が、皇太后、皇帝の母として後見したが、この場合は、そうした承継ではな、両三家の「共立」だったから、先帝夫人は登場しないのであろう。

*「長大」の語義確認
 ここで、「長大」は、共立後に成人に達したと言うことであり、文字通り「長大」とは「成人」、「人となる」と言う意味である。「成人である」という意味ではない。違いがわかれば幸いである記事の書かれた年或いは前年の年頭に成人となった」という感慨を示していると見るものでは無いか。
 これは、三国志時代の用例確認は当然であるが、同時代の史書袁宏「後漢紀」考献帝紀に、後漢代末期の挿話として提示されている雒陽人士の会話で、「長大」は「成人となる」ことと明示されているので、古典書を用例確認する必要のない当然の解釋であったとわかるのである。
 ちなみに、「長大」は、化石古語/死語などではなく、現代中国語でも生きているようである。(2024/11/04 補充)

 今回は、同感の意を込めた自慢話である。

以上 

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