倭人伝の散歩道稿

魏志倭人伝に関する覚え書きです。

2021年3月14日 (日)

魏志天問 1 東治之山~見落とされた史蹟の由来 再掲 4/4

                         2013/12/22  再掲 2021/03/12
*三国志における「漢官儀」
 陳壽は、広く諸資料を参照して、吟味の上で自己の著作に取り入れる正統派の執筆姿勢であり、漢朝儀礼の典範である漢官儀は、史官としての座右の書としていたと考えます。
 
 よって、陳壽が「会稽東治」と書いたときは、会稽郡東冶県のことは考えもせず、会稽東治之山を想起していたと思われます。皇帝を含めた同時代読者も、当然、漢官儀を知っていたと思われます。

 時折触れるように、陳壽の執筆時点から笵曄の執筆時点である南朝劉宋に到る間には、西晋末の大動乱で、洛陽の西晋朝書庫は散逸し、漢官儀も劉宋に継承されていなかった可能性があります。

 会稽山近郊に生まれた笵曄には、禹の事績はなじみ深かったはずで、漢官儀を知ってさえいれば、「会稽東治」に深い感慨を持ったのでしょうが、実際は、劉宋高官の土地勘から「東冶」県と読んでしまったのでしょう。

 それだけで止まっていれば三国志の継承記事にとどまり、笵曄の不見識は知られずに済んでいたのに、ついつい才気が走って、後漢書倭人記事の最後に「会稽東冶県」と書いて、早合点の証拠を残しています。

 以上は、当方の勝手な推定であって、「漢官儀」には、元々「東冶之山」と書いてあったのかも知れませんが、それは当記事の論議に関係のない些事です。

 とにかく、素人が気づくような史料考察に対して、寡聞ながら、当否を論じた意見を見たことがないので、ここに掲示するものです。
以上

*「漢官儀」 成都本
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追記 2021/03/12
 ついでに言うと、素人考えでは、禹の「東治」は、治世の終わりに近づいた大禹が、四方で「会稽」した中で、順当に終わった(と思われる)「西治」、「北治」、「南治」に当たる三方は継承されず、直後に大禹が崩御したことから、東方、つまり、「東治」が継承されたと見えるのです。特に、難点は無いと思うので、一言述べたものです。

                                            以上

魏志天問 1 東治之山~見落とされた史蹟の由来 再掲 3/4

                         2013/12/22  再掲 2021/03/12                          
〇「水経注」所引 應劭「漢官儀」
 因みに、應劭「漢官儀」の当該部分は、太平御覧以外に、水經注にも引用されていて、史料の裏付けとなっています。

*水経注 四庫全書版
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 各資料の成立時期等を確認すると、
  •  漢官儀  後漢建安元年(196年)成立と伝えられています。
  •  水經注  酈道元撰 北魏代の地理書です。延昌4年(515年)頃成立と伝えられています。
  •  太平御覧 李昉等による奉勅撰、北宋太平興国8年(983年)頃成立と伝えられています。
 ここで、太平御覧と水經注は、清朝勅撰の四庫全書に収録されているので、確実な資料と確認できますが、漢官儀は、散逸による記事の不安定さも影響してか、四庫全書には収録漏れです。

 漢官儀には、太平御覧と水經注とに引用されていることが注記されていますが、当然、これは後世の書き込みです。おそらく、散逸した漢官儀の復元の際に、太平御覧と水經注が利用されたものと推定されます。この点は、「東冶之山」の信頼度評価にも影響します。何事も、簡単に結論を出さずに、色々考え合わせる必要があるということです。

〇成都異稿本「漢官儀」
 別資料として、早稲田大学図書館の古典籍データベースに収録されていて、大事な異稿です。

 出版書写事項:民国2[1913] 存古書局, 成都
 叢書の校集:孫星衍(1753-1813)  覆校:劉沢溥
 尊経蔵本  唐装 仮に「成都本」と呼ぶことにします。
 驚いたことに、成都本では「或以號令,禹合諸侯大計東治之山會稽是也。」です。

 資料継承の跡をたどってみると、水經注(北魏)、太平御覧(北宋)と、別時点で漢官儀を引用した資料が、揃って「東冶之山」としているので、多数決原理に従うなら、清朝時代の漢官儀復元編纂時のもと資料も、そのように書いていた可能性が高いのです。と言うことは、成都本の校訂段階で、「東治之山」と校勘、訂正した可能性が高いということになります。
 史料考証は、多数決でなく、論理的な判断によるものだという教えのようです。

 訂正の理由は推定するしかないのですが、「東冶之山」では主旨不明であり、「東治之山」なら禹が東方統治した山、との妥当な意味が読み取れるので、合理的な判断からの校訂かとも思われます。

 当然、成都本の撰者も、歴史上の一時期に会稽郡東冶県が存在したことは知っていたと思われますが、「東冶県」の由来は、後漢成立時に、単に二字地名とするために「東冶」としたという説があり、秦の宰相李斯が、各郡を命名した際に存在しなかった地名ですから、無関係とみるべきです。

 現代は、校正不在のゴミ情報が、とにかく多数飛び回っているので、「治」、「冶」の混同例は、まま見られますが、本来、二つの文字は、意味が大きく異なるので、権威ある資料では、まず、混同されることはないのです。

 陳壽「三國志」の書かれたのは、まさしく、後漢最後の皇帝に「漢官儀」が献上されて関係者に流布した直後であり、また、許で再構築された後漢朝書庫は、順調に魏朝、西晋朝に継承されたと思われます。

                           未完

魏志天問 1 東治之山~見落とされた史蹟の由来 再掲 2/4

                         2013/12/22  再掲 2021/03/12
〇應劭「漢官儀」[承前]
 應劭「漢官儀」は、後漢最後の皇帝劉協(献帝)が、帝都洛陽から強引に拉致された長安から東還し、曹操の保護下に許に宮廷を再現しようとしたとき、王朝を構成する高官の官位と位置付け、宮廷儀礼の内容などを示す資料が、散逸していたため、代々高官で儀礼に通じていた應劭が、関連資料を渉猟して集約し、上申したものと言うことです。

 後漢末期、(三国志演義の超悪役で)有名な董卓の暴政で、帝都洛陽は破壊されて、皇帝以下の洛陽住民が、前漢末、新朝の廃絶後の後漢朝洛陽遷都により、廃都として200年近く残骸放置されて荒れ野原となっていた長安への移動を強制されたことから、後漢朝宮廷の書庫は大半が放置、廃棄され、宮廷要員の多くは、強制移動を免れても、追放か、逃散かしていたものです。

 應劭が献帝に漢官儀を献呈した時は、全10巻構成であったようですが、戦乱などの影響で散逸し、あるいは、短縮版が横行して混乱していたものを、後世になって再構成したものが、「漢官六種」などに収録されています。

 史料の信頼性を確認するために、苦労して引用元を探しましたが、應劭「漢官儀」の影印版(PDF)は、中國哲學書電子化計劃から辿って、「漢官六種」PDFテキストに辿り着くことができます。

*應劭「漢官儀」
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 ここで確認した應劭「漢官儀」は、上下二巻が収録されていて、中国語素人の目では当該記事の場所を探すのに大変苦労しましたが、上巻に記載されています。なお、記載内容は、太平御覧に引用の通りです。

                                                    未完

魏志天問 1 東治之山~見落とされた史蹟の由来 再掲 1/4

                         2013/12/22  再掲 2021/03/12
〇再掲載の弁
 今般、NHK BSPの「邪馬台国サミット 2021」([BSプレミアム] 2021年1月1日(金) 午後7~9時 NHKオンデマンドで公開中)なる特番で、世上、三国志の最高権威とみられている渡邉義浩氏が、倭人伝中華書局本という出典を隠したままで、倭人伝の「会稽東治」が正しくは「会稽東冶」であったという一種の「フェイクニュース」を高言していて、番組上で反論がなかったので、ここに、素人の調べた意見を再掲するものです。

〇原記事
 下の記事は、魏志倭人傳に関する「素人考え」の疑問に「素人考え」の解を並べていくものです。伝聞、風評を極力減らすために、色々史料探索していますが、素人の悲しさで、調べや思いが行き届いていない点があれば、ご容赦ください。

 天問1は、
 「会稽東治」は、陳壽が参照した資料に、禹の事績の場として「東治之山」と書かれていたのが根拠であり、会稽山の位置を示したものであって、会稽郡東冶県の位置を示したものではない、のではないか、
 と言うものです。

 中國哲學書電子化計劃(中国哲学書電子化計画)では、大変ありがたいことに、太平御覧の全文をテキスト検索ができます。いや、全収録史料の全文テキスト検索ができます。(<画像収録は目下進行中であり、この部分は未収録のようです)
 とある一日、太平御覧で「東冶」を検索すると、興味深い文例が提示されました。

〇「太平御覧」 州郡部三 6 敘郡: 
應劭《漢官儀》曰: 秦用李斯議,分天下為三十六郡。凡郡:
 或以列國,陳、魯、齊、吳是也。
 或以舊邑,長沙、丹陽是也。
 或以山,太山、山陽是也。
 或以川源,西河、河東是也。
 或以所出,金城城下有金,酒泉泉味如酒,豫章章樹生庭中,雁門雁之所育是也。
 或以號令,禹合諸侯大計東冶之山會稽是也。
 京兆,絕高曰京。京,大也;十億曰兆,欲令帝京殷盈也。左輔右弼,蕃翊承風也。張掖,始開垂,張臂掖也。

 この部分は、中国の広域行政区画である「州」「郡」に関連する記事を連ねています。
 ここに提出されたのは、應劭「漢官儀」から太平御覧への引用で、「郡名」の起源、由来の記事を再録しています。

 その後段に、大要 下記の意味が書かれています。(中国語は専門ではないので、誤解があればご容赦ください)

 (郡名には)号令に由来するものがある。(会稽郡は)禹が諸侯を合わせて大計した「東冶之山」から会稽と命名された。
 禹が諸侯を集めた山は、それ以前の名前を書いていない場合が多く、せいぜい「苗山」,「茅山」,「防山」などと称していますが、ここでは、たぶん固有名詞でなく「東冶之山」と書かれています。

 筆者というか編者の應劭は、後漢末高官で、三國志武帝記(曹操傳)にも登場する著名人で、後漢書に列伝を建てられています。

                                    未完

2020年11月10日 (火)

倭人伝随想 15 倭人伝道里の話 短里説の終着駅 4/6 再掲

                                                       2019/02/27 表現調整 2020/11/10
□文献解釈編 晋書地理志
 ここでは、主として、晋書地理志所収の司馬法に規定が書かれている、周制に始まり魏朝に至る里制について考察します。
 
 当記事の一部として創作した概念図から、まず見て取れるのは、周制の単位系が、一尺25センチ程度の「尺」から、天子の領地にあたる一辺一千里の「畿」まで、ハシゴ段(階梯)に欠けがないよう、十倍、百倍で続いているのです。(井、里の下で三倍、九倍になっていますが、事情あってのことです)
 
 丁寧に追いかけると、里から尺に下る単位系と里から畿に上る単位系は、趣旨が一致しないようですが、この点は本論に関係無いので割愛します。
 

 当概念図は、当方が自習用に作成したものであり、晋書所収の司馬法は、言葉の定義だけですから、概念図の出来具合は本論に関係無いのです。

*綿密な単位体系
 周制に始まる「単位系」は、このように綿密に築かれているので、里を1/6、6倍に伸縮すると、尺、歩に始まり畿(一辺千里)に至る単位系の階梯が乱れるので、混乱無しに実施できないのです。

 なお、里に始まり、歩、尺に下る部分は、歴年保守されてきた土地台帳に常用されている「畝」を含んでいるので、社会的に大混乱を起こさず実施することはできないのです。
 
 総じて言うと、周制でこうした単位系が始めて構築、公布されて確定して以降、里長の伸縮は、歴史に深い刻印を残さずには不可能だったのです。

*周制以降
 なお、ここで提示しているのは、殷周革命により周が天下を把握して、相当部分で殷制を踏襲した「周制」の公布後は、全単位系を動揺させることなく里を伸縮することは不可能、というだけです。

 里長や換算係数の当否は本論に関係無いので議論しません。
 
 司馬法の「周制」以前、つまり、商(殷)の単位系は、史料に残されてないので実体不明であり、短里の由来や時間的、空間的棲息範囲は、今となっては憶測しかできないのです。

 倭人伝が、地域制度倭人伝限定の里制の孤証です。例外として適用されているので、当然、他に用例はありません。

                         未完

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2020年6月24日 (水)

今日の躓き石「纏向遺跡の種 年代測定を巡って」揺らぐ毎日新聞古代史報道の良識  3/3

                         2018/05/28 追記 2019/01/29 2020/06/24
*考古学の課題
 素人考えながら、纏向遺跡というものの、このように多数の桃の種を埋蔵していた地中施設と附近の大型建物の関係を見定めることも必要かと思うのである。(追記あり)

*不吉な抱負
 因みに、中村教授の発言として引用されているが、「日本独自のデータが完成すれば、実年代も変わる可能性はある」と問題発言をされている。しかし、科学の不変の真理として、推定は推定である。理屈の上では、「可能性」は無限であるが、蓋然性の極めて低い「可能性」は、単なる雑念であり無視すべきである。

 別の較正曲線が書けたとしても、それはまた一つの別の推定であり、多大な批判、検討に浴するものであり、それによって妥当と認められたとしても、検討の俎上に上ることを許されるだけであって、「完成」などと呼べるはずがない。随分盛大な考え違いである。

 それとも、どこかから、完成目標を与えられて、「完成」するまでは研究成果として認めない、研究費をカットするぞ、と叱咤されているのだろうか。政治経済的な要因は、普通は、表面に出てこないのだが、考古学分野は、普通ではないのだろうか。

*ルール違反の使命
 仮に、較正曲線が、考古学会にとって好ましいように変更されて、それによって別の年代推定ができ、それにより「実年代」の推定値が変わるとしても、後世人の暗闘によって「実年代が変わるはずがない」のである。素人がとやかく言うのも僭越だが、このあたりは、まるで子供の口喧嘩の展開なのである。知性の復活を望むものである。

 時に言わざるを得ないのだが、当分野の学術的研究に投下された費用の由来は、国費や寄附のはずである
 真理の追究に注力せず、保身のために、科学的測定結果を『お化粧』するのに、血道を上げるのは、いかに多数の人員を擁した組織の維持のためとは言え、まことに、不適当なものと思えるのである。

 そして、全国紙が、客観報道の境地を外れて、「ルール違反」に加担しているのを見ると、嘆かわしいと見るものである。

*自然科学者の矜持
 その辺りの言葉遣いが不用意に断定的なのは、「結果至上の人文科学である考古学会の主観的考察の風土に由来する」ものだろうが、自然科学者の発言として、大変不穏当である。

 スポンサーの意を受けて、学会の総力を上げて補正曲線を好ましいところまでずらせば、実年代は当然スポンサーにとって「好ましい」方向にずれる、それは、関係者の努力と熱意次第である、これで終わったと思わず、精一杯頑張ります
と聞こえるのである。

*紙背読み取りの弁

 今回の記事は、総じて、冷静に書かれたものであるが、関係者の発言に、不穏なに響きがあるので、ほってはおけず、「不確かさの意義」に注意頂きたいとしたものである。

 もっとも、紙面からそのように感じ取れるということは、担当記者の真意が行間に隠されたものかも知れないが、科学の世界は、真理に奉仕するものである、と考え、行間どころが、紙背までほじくり出したのである。

                     以上

 追記 2019/01/29
 後日、NHKの纏向史跡の発掘現場取材番組で、桃種発見の様子が窺えたが、確かに地下の「ゴミ捨て場」から発掘されたというものの、広く散在していたようであり、三千個近い数の聖なる桃種を、たった一度の祭礼のために広く周辺の桃農園(?)から調達し、一気に地下に廃棄したとは考えにくいことに気づかされた。
 それにしても、桃栗三年というものの、果樹は、数が取れるまでに何年もかかるのであり、どのような政策で、数千に及ぶ桃を得られたのか、感嘆するしかないのである。別記事あり)

 銅鐸の廃棄遺物と同様に、同遺跡敷地の地鎮祭のおりに、旧態の祭礼を廃するために、しかるべき場所に収納されていた歴年の祭物を、まとめて除霊投棄したとも見えるのではないかと思量した。

 正しかるべき年代鑑定が、想定から大きく外れた、と見えるのは、そのような原因によるものかとも思われるので、ここに追記した。

 凡そ、善良な研究者たるもの、「七度探して他人を疑え」ではないか。

追記終わり

今日の躓き石「纏向遺跡の種 年代測定を巡って」揺らぐ毎日新聞古代史報道の良識 2/3

                              2018/05/28  補充2020/06/24

*不確かさの起源
 大気中の二酸化炭素ガスのC14含有率は、太陽光線に含まれる放射線が大気上層で大気成分を変化させることや火山噴火を含めて、地下から噴出する二酸化炭素ガスやメタンガスなどの炭化水素ガスのC14含有率の影響で、想定から変化するものである。

 ただし、記者が勢い任せで書き飛ばしているように「刻々」目立って変化するというものではない。ちと、錯乱しかけているようにも見えて、不審感に囚われる。記者は、何を懸念して焦っているのだろうか。

 大量の大気のことだから、C14含有率が変化するとしても、大変な時間がかかるのである。一番肝心なのは、測定対象となっている現地の古代の大気のC14含有率の実測データは存在しないのである。

*較正曲線の意義
 と言うことで、別の場所、別の時代の標本で得られたデータの推定手順を参考に、標本のあった場所の時間的な変化を推定し、桃の種が取り出された時点のデータを推定するしかないのである。

*不確かさの意義
 どのような測定データであろうと、一定の「測定誤差」、つまり、「不確かさ」は避けられないが、特に、C14年代測定の場合は、断定的に「測定」と言いつつ、実は推定の二段重ねなので、「不確かさ」は避けられないのである。

*不確かさ悪用の系譜
 これまでの考古学関係の研究成果では、C14年代測定の不確かさを逆手にとって、望ましい結果に向かって、適宜ずらして推定する手法が見られているとの批評が絶えず、この批評を克服できなかったことから、C14年代測定の信頼性を落としていた。

 今回の成果発表は、一転、科学的な信頼性の評価を高めたものである。

*人知を尽くす成果
 今回の測定、つまり、測定データと推定データの組み合わせで年代推定した中村名誉教授は、推定年代が絞り込めない事態を、「ご自身の能力不足、熱意不足の結果とみられるのを忌避してか、歯がゆいとしている」が、ご自身が十分理解しているように、自然科学に神がかりはないのである。測定データは、科学者の熱意に感じて変化するものではない。言い換えれば、測定データは人に騙されないのである。

*冷静な考古学者
 考古学者は、冒頭の方のように不遜なかたばかりでなく、冷静な発言が見られてほっとする。

 また、得られた最新の知見は、「資料批判」を重ねて検証した上で、長年にわたり多数の考古学者によって、広大な時代、地域に及ぶ遺跡、遺物の豊富な考察に基づいて蓄積された考古学の盤石の知見と組み合わせて、古代史の全体像を高めていくことを述べていて、期待するところ大である。(正直言って、何が「古代史の全体像 」なのか、なぜ。「全体像 」を高めることが尊いのか、無知な素人には、皆目わからない)

 素人考えながら、それが、学問の正道ではないだろうか。

                未完

今日の躓き石「纏向遺跡の種 年代測定を巡って」揺らぐ毎日新聞古代史報道の良識 1/3

                              2018/05/28  補充2020/06/24
 今回の題材は、毎日新聞夕刊、文化面のTopicsコラムである。
*勘違いの露呈
 それにしても、「100年の幅 いかに限定」とは、担当記者の大きな勘違いを衆目にさらけ出している。以下、どこが勘違いか、丁寧に指摘した。

*公表原則の乱れ
 因みに、「纒向学研究センターが14日に公表した放射性炭素(C14)年代測定の結果」とあるが、同センターのサイトに、そのような公表を行ったという記事は公開されていない。

 5-16のお知らせとして、研究紀要第6号が刊行物案内に記載されただけであり、5-28現在、5-16当時未公開だったPDFデータが公開されているというものの、平成30年3月10日付けの序文、3月30日付の奥付けを見る限り、5月14日に公開されたという裏付けは見つからない。どうやら、記者会見の場で各社に公開されたものでもなく、資料配付したものでもなく、特定の新聞社の担当記者に対して『発表』したようである。通常、報道機関向けの公式史料が「プレスレリース」として公開されるが、そのような公開史料は見当たらない。
 つまり、伝えられているのは、担当記者の所感であって、公式発表内容をどの程度正確に報道しているのか、読者には知りようがない。とても、学術分野の記事とは思えない。

 戸のような報道は、全国紙の記事として不正確ではないか。

*考古学者による酷評
 先ずは、本件に関して、考古学者から、持論の強化に役に立たない、つまらない科学的見解だと、酷評されている。つまり、費用の無駄遣いという趣旨のようである。

 しかし、考古学者に酷評されているとは言え、自然科学者が、物理現象を厳密に考察した結論であり、「自然科学は、考古学に隷従するものではない」と言う至極当然の真理を示したものであるから、担当記者にこの研究成果は高く評価すべきだという視点が欠けているのは、大人げないものである。

*自然科学者の使命
 自然科学者は、背後で責めつける外野の声に指図されているのではなく、目前の科学的事実に忠実であることが示されたのは、科学者全般にとって、大変好ましいものであったと考える。

 斯界の権威者から、「時期をもっと限定せねば意味がない」と専門分野の科学者としての生存を脅かされても、研究費のスポンサーの言いなりになってルールに外れた危険なブレーはしてはならないのである。いや、当然のことを言い立てて恐縮であるが、全国紙記者が、偏った視点で記事を書いているので、つい批判してしまったのである。

*乱調の紹介
 続いて、担当記者の意見らしいものが展開されるが、C14年代測定に関する手短な紹介は、「フェイク」では無いもののボロが目立つ。記者は、なぜこれほど幅が出たのかと、考古学者の非難口調に押されて、「不当に」詰問したのである。

*科学的紹介の試み
 関係者には衆知なので、念押しされていないのだろうが、C14は、二酸化炭素として大気中を浮遊している炭素に一定量含まれている放射性同位元素である。
 他の同位元素が永劫不滅なのに対して、C14は、5,730年を半減期として崩壊していくものであり、大変緩やかに窒素(N14)に変化して減少していくことは、不変の真理である。
 減少は、数学的な指数関数なので、秒単位どころか、1/1000秒単位で、小数点下、100桁でも1000桁でも正確に計算できる。ここには、一切不確かさはない。

*測定の不確かさ
 年代測定で初めて発生する不確かさは、標本の化学分析であるが、測定値自体は、ほとんど不確かさを考える必要のないほど細かく計算できる。
 不確かさが生まれるのは、標本毎の違い、標本内の場所による違いであり、限られた場所に密集していた状態から見て、大きな不確かさはないはずである。
                     未完

私の本棚 大庭脩 親魏倭王 6/6

 学生社 2001年9月 増訂初版           2018/05/26 補充再公開 2020/06/24

*会稽東治論
 続いて、会稽東冶論が登場する。

 この時点で、氏は、古田氏の論拠を見ていないと明言しているから、氏の推定私見も良いところなのだが、以下論じられている「会稽郡東冶県」論は、氏の認識不足のように思う。

 中国古典における地理概念としての「会稽」は、会稽山附近の狭い地域を指すものである。
 因みに、「水経注」などの郡名由来記事によれば、会稽郡は、禹の会稽の地、会稽山が「東治之山」と呼ばれていたのに因んで、秦始皇帝の宰相李斯によって命名されたと言う事である。秦漢代から魏、東晋までは、周知だった事情である。本来、倭人伝の会稽東治論は、それで決着するものである。

 行政区画の「会稽郡」は、漢時代、古典的地理概念の会稽の遙か南方の辺境地域まで含めたことがあるが、あくまで一次的な行政区画であり、史書の用語として定着したものではない。会稽郡南部は、会稽郡治との連絡が困難であったことから、事実上自立とされ、三国東呉時代に会稽郡から不可逆的に切り離され、会稽郡の県と呼べなくなっている。史官が史書にそのような不安定な概念を書き込むはずがない。

 古田武彦氏は、陳寿が、三国鼎立期の東呉の国内事情、特に行政区画の変動を逐一時代考証して、倭人伝をまとめたと見ているが、倭人伝読者が倭人伝を解釈する際に、三国志呉書を参照しないといけないような、不安定な地理概念を参照する記事を書いたとは思えないのである。まして、呉書は、魏書とは別の国志、別の巻物であり、倭人伝読者に呉書記事を確認させるのは、不遜ではないかと思われるのである。

 当然、会稽南部、東冶県の民は、遥か北の果ての禹の会稽を見たことも聞いたこともなく、夏后少康のことも知らないはずである。会稽郡治の住民は、東冶県の風俗など知らなかったと見えるのである。

 因みに、東冶、後の福州、厦門と会稽の間は、海岸に迫り出した巨大で険阻な福建山地で厳重に隔離されていて、官道どころか通商路も、陸上街道を利用できなかったのである。分郡するしかなかったのである。

 著者は、中国古代人と一口に言うが、古代人は、長安、ないしは、洛陽という中原世界の住人であり、その地理知識は、東冶、今日の厦門まで及んでいなかったのである。
 晋朝の南遷によって、東晋帝都建康からさほど遠隔でないことになったが、それは、あくまで、三国志魏書編纂時の百五十年後の異世界であり、洛陽人の世界観ではないのである。

*笵曄の地理観
 と言う事で、後漢書を書いた笵曄は、古典的な中原世界の人でなく、長江下流の建康に都した南朝劉宋の人である。

 行政官としての笵曄は、南方の東冶まで知っていたかも知れないが、劉宋当時、会稽郡に東冶地区は含まれず、後漢朝時代の史料解釈や魏志の解釈で、地理概念の時代錯誤が発生していた可能性はあると思うのである。

 この辺りは、氏の専門分野を外れているので、一種受け売りになって、正確さを欠く議論となっているのはもったいないのである。

*東アジア再訪
 巻末には、三~五世紀の「東アジア」として、時代ごとの地域勢力地図が書かれているが、地図に描かれているのは中国と東夷諸国である。 中国というが、地図は、今日中央アジアとしている地域を含んでいるから、「東アジア」とは、ずれているように思う。ベトナムは東南アジアと思う。良い言い方は無いものか。

*結語
 と言うことで、部分的に突っ込みは入ったが、全体として、とても好ましい知的体験を得られるのである。

*余談
 それにしても、古代史学の世界で、この時期までしきりに行われていた「良い意味での論争」が消え失せたのは、何とも残念である。特に、「邪馬臺国」論争が、「臺」派の「論争忌避」によって途絶しているのは、何とももったいないように思うのである。曹操に敗北宣言して、転進すべきでは無いかと思われる。
 「遠絶」とは、地理上の遠隔を言うのでなく、交流の断絶を言うのである。

 後生の東夷人が、自身を好んで遠絶の境地に置いて、倭人伝論の炎上を高みの見物している図は、感心しないのである。いや、勿論、これは、本書のことでもなければ、大庭氏のことでもない。「定説」と証して、俗耳に訴えている牢固たる論陣勢力を言うのである。

                                           完

私の本棚 大庭脩 親魏倭王 5/6

 学生社 2001年9月 増訂初版           2018/05/26 補充再公開 2020/06/24

*景初三年私見
 さて、続いて、著者が力説された「景初三年」が、実は、倭人伝に景初二年と書かれている大問題に挑んでいる。

 ここでは、著者自身の原則が最大の論敵のようである。

*順当に解釈した両郡回復
 著者は、文献を丁寧に読んで、韓伝の「景初中、明帝密かに....二郡を定めしむ」の「密かに」を適確に解釈し、東夷伝の「淵を殺す。又、....楽浪、帯方の郡を収め、....」の「又」を、安易に「その後」と解さないので、景初二年の事と解することができると適正に紹介する。

*遅れた/順当な下賜物発想
 著者は、景初二年説を採用しない理由として、皇帝の制詔は二年十二月に出たのに、皇帝のお土産が正始元年に届けられたのは一年後で一年遅れていることを挙げている。

 景初二年派は、それは、大量のお土産の品揃えが、前皇帝明帝の服喪によって、大きく手間取ったと見ている
 また、大量の土産を、送り届ける途中行程の輸送手段の段取りに時間がかかったと見ることもできる。何しろ、少なくとも、伊都国に到るまでの輸送手段、輸送人員の指示に対して各地から応答があって、手段が確立できたと報告が入るのを待ったようである。
 いや、別に文献記録はないが、帝国の運用として、当然の手順ではないかと思う。

 大庭氏の難詰は、別に決定的なものではないように思われる。

*改暦談義~余談
 続いて、景初三年元日に明帝が逝去したことに始まる景初から正始への移行について解説頂いているが、若干、論理が乱れている。正始改元は、景初三年正月を景初二年「後十二月」にした後で行われていて、景初二年が一ヵ月増えていると思う。

 二年が平年なら13ヵ月、閏年であれば14ヵ月の年となる。三年が一ヵ月増えたのではないと思う。いや、すでに三年の暦が各地に配布されていて、年中の改暦、改元は、当の時代人にとって、理解しがたかったように思う。
 政府記録などに旧暦年月と新暦年月が混在し、調整するのは、大変だったと思うのである。

 又、魏暦を引き写していたと思われる東呉、蜀漢の二カ国は、魏暦に追随するのに苦労したと思うのである。後世人の理解が困難(実質的に不可能)であることは言うまでもない。

 いずれにしろ、日本書記神功紀が引用したと解釈されている「明帝景初三年」は、正史記事にあり得ない無法な書き方であり、つまり、正しい引用がされていないのである。皇帝没後の期間は、皇帝諡号を冠としない無冠の期間なのである。景初三年の場合、一年を通じて、無冠なのである。いわゆる春秋の筆法でも、イロハのイであり、周知の原則であるから、知らない奴は、もぐりなのである。
                      未完

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