倭人伝の散歩道稿

「魏志倭人伝」に関する覚え書きです。

2025年11月27日 (木)

私の本棚 55 高島 忠平「東アジアと倭の政治」 1/4 2025

 季刊 邪馬台国 129号  2016年5月 「東アジアと倭の政治」  高島忠平
 私の見立て 星三つ ★★★☆☆ かなり無理             2016/06/18 確認2020/12/25 2025/11/27

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

◯はじめに
 本稿は講演録なので、書評扱いするのは不公平かもしれないが、高名な論者であり、原稿なしに話されたとも思えないので、書評並みに批判させていただく。

 最初に全般について感想を述べさせていただくと、「弱点」のある九州説の有力な論客として、自信を持った、平静な話しぶりであり、近畿説が、無理を重ねて押し出して、「欠けている遺物は掘れば出る」といる論法に比べて、無理の少ない、筋の通った講演である点に感服する次第である。

 以下、話の運びを整えるための口調なのか、ご当人の思い込みなのか、つじつまの合わない点を指摘させていただく。

*交易と朝貢
 九州北岸の遺跡から、朝鮮半島由来の文物が発掘されている、したがって、この地域と朝鮮半島との間に交流があったとみるのは自然な推論として、その背景として、朝鮮半島に対して朝貢貿易を行ったからだともとれる言いぶりはいただけない。当時、韓国領域(現代でいうこと朝鮮半島の南部)は、統一国家の形成されていない村落国家分立の事態であったので、朝貢のしようがないのである。

 逆に、半島小国は、まとまった連携をしていなかったようで、韓伝には三韓がそれぞれの構成小国名を連ねて書かれているものの、それぞれの韓国を束ねる国主の存在については、伝説の辰王以外見当たらない。従って、三韓諸小国が、倭国を天下の中心と仰いで朝貢してくるはずはなく、こちら向きにも、朝貢はないと思われる。

 いや、元に返って、「朝貢貿易」なる言葉は、まるで時代錯誤であり、三世紀時点には存在しなかった概念/用語とも思える。そのような場違いな言葉で古代を語るのは、それこそ、大きな勘違いと主網のだが、詳しく、識者のご意見を伺いたいと思うのである。

*倭人圏の広がり
 むしろ、「韓伝」及び「倭人伝」に示唆されているように、半島南部と九州北岸は、「倭人」の居住圏として一体であって、域内で物が移動していたのではないかと思うものである。もちろん、憶測であって、囚われているものではない。

*唐突な漢式鏡導入
 このような形式不明の交流の話で朝貢の話を引き出しておいて、いきなり、関連の不確かな九州北部で漢式鏡が出土しているという話に移行し、併せて、中国では、鏡が王権の象徴であって、一-三世紀を通じて珍重されていたと想定されているが、それにしては、出土した鏡の数が多く、作業仮説としてお伺いするしても、根拠が不確かではないかと思われる。

 孟子、墨子、荘子と、無造作に著名な先哲論客を連ねているが、それぞれ、具体的な参照ができていないので、論評は避けるが、高島氏の講演にしては、足元の固まっていない話し方と思える。

未完 

私の本棚 55 高島 忠平「東アジアと倭の政治」 2/4 2025

 季刊 邪馬台国 129号  2016年5月 「東アジアと倭の政治」  高島忠平
 私の見立て 星三つ ★★★☆☆ かなり無理             2016/06/18 確認2020/12/25 2025/11/27

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

承前

*倭国王師升-おびただしい疑問
 そうそう、倭国が三桁人数の成功を献上したことについては、大きな無理がある。倭国から後漢の帝都洛陽までの移動経路、特に、中国上陸までの経路が成立していない時代には、使節団160人の派遣すら実行不可能ではないかと思われる。というのは、まず、当時の倭国が百六十人を載せていける乗船が確保できないと思われることである。

*至難の韓国通過
 後年、半島に古代国家が形成された後であれば、例えば、新羅と百済の支持があれば、その領内を「無事に」通過しし、さらには、中国沿岸までの船舶交通を得られるだろうが、小国分立時に財物を「無事に」運ぶことは困難であったろう。
 小国といえども、領土通過の際には所定の税を取り立てると予想され、国境通過を繰り返せば、財物は、順次やせ細るはずである。

 また、途中の食料や安全な宿泊地の確保が不可能だろうということである。百六十人の要する食料は膨大で持参は不可能であり、と言って、現地調達には、対価が必要である。また、後年のように、宿駅制度が整備され、合理的な宿賃が確立されたわけではないのである。何しろ、普遍的な通貨制度があったわけではないのである。

*至難な連行
 生口、奴隷説に従い、百六十人をそのまま採用すると、百六十人の囚人を護送することになる。銃火器のない時代である。二度と帰郷できない異郷に連れていかれる不安を抱いた大勢の大人を延々と連行するには、少なくとも、同数の獄吏が必要ではないか。
 宿泊の際には、囚人を牢獄並みの環境に拘束する必要がある。航海中も、同様に、牢獄に閉じ込める必要がある。囚人や獄吏が船酔いでもした日には、収拾困難な混沌に陥るはずである。

*至難な人身売買
 九州北部と半島南部の間に限っても、商売になる程度の頻度と量で行うことができたとは思えない。受け入れ側に、奴隷の食料消費に匹敵する付加価値があったとは思えない。まして、半島南部には、倭人社会があったのであるから、倭人たちが、同胞の強制労働をほっておくとは思えないのである。

未完

私の本棚 55 高島 忠平「東アジアと倭の政治」 3/4 2025

 季刊 邪馬台国 129号  2016年5月 「東アジアと倭の政治」  高島忠平
 私の見立て 星三つ ★★★☆☆ かなり無理             2016/06/18 確認2020/12/25 2025/11/27

*加筆再掲の弁
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承前

*迷惑な献上
 生口、奴隷説に従い160人の「奴隷」を献上された後漢朝の役人も、扱いに困ったと思うのである。言葉が通じない、文字が読めない、計数ができない、食習慣の異なる奴隷は、宮廷につきものの「官奴」、つまり、使い走り、雑用要員にも使えず、宮廷内に苦役があるわけでもなく、ひたすら食料を消費するお荷物になるだけである。そして、民間に払い下げたくても引き取り手がないのである。

 いっそのことと、献上された160人をそのまま返上するのに、有り余る官奴から志願者を募った160人を足して、賛意を込めた320人の倍返しでもしたのだろうか。記録がないから、どんな返礼をしたのかわからないのだが。壮大な陣容になっても、帰り道は、漢朝のご威光でどうにでもなったことだろう。

*光武帝の奴隷解放
 いや、そんなことは、後漢朝のよく知るところであり、古来の奴隷制度自体、社会不安の原因になるから、解放して自由民にするように、つまり、通常の雇用関係にするように布令したほどである。
 社会に貧富の差はあるから貧しいものは少ない給金で厳しい労使関係に置かれるだろうが、あくまで自由民の身分にとどめるべきだということである。
 先立つ戦乱の時代に、農村は荒れていたと見えるから、奴隷の身分から解放した農民に土地を与えて農耕に就かせる方が、国政が安定すると見たものと思われる。

*古代奴隷考
 というか、古代中国において、奴隷とは、売買の対象となっても、後世のような非人道的な強制労働ではなく、雇用関係の一種だったということでもある。
 いや、このような奴隷の身分は、古代ローマ、少なくとも、共和政時代後期にもみられたようである。ガイウス・ユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)の伝記では、青年時代、同年代の男子奴隷を伴っていたとあるが、奴隷といっても、自由民の身分を失っていただけで、将来、自由民に復帰できる希望をもって、シーザーの助手兼秘書兼ボディガードとして「雇われていた」のである。
 奴隷の制限として、雇い主を選ぶことはできないが、「シーザーの奴隷」という身分は、土地資産を持たない「無産階級」の貧者にとっては、一種の恩典でもあったであろうと思われる。
 もちろん、当時といえども、戦闘時の捕虜は、勝者の権利として敵国で強制労働に落とされたが、基本的に、外交交渉が成立すれば、対価で解放されうるものであった。

 いずれも、はるか後世、欧州諸国が、アフリカ大陸で行った理不尽な奴隷狩りとは、まったく異なる奴隷制度であったと思われる。少なくとも、現実離れした一律の非難は控えるべきではないかと思う。
 ということで、どの角度から見ても、奴隷が財貨物として通用していたとは、到底信じがたいのである。

*悪意の貼り付けに反対
 倭国が、大量の奴隷百六十人を貢献したという記事解釈が、古代に倭国、特に対海国(対馬)と一支国(壱岐)が、食料不足解消のために、人身売買交易を行っていたという「悪意」とも感じ取れる仮説の論拠にされていた。現在の住人に責任はないというものの、根拠の不確かな仮説のままに先祖の汚名を背負っていかざるを得ないのは、不条理というものである。
 ちょっと考えればわかるが、奴隷として売り物になりそうな若者を継続して輸出して食料をてに入れていると、確かに、口が減って食料が増えるから、食うに困らないだろうが、いずれ、農も、漁も、猟も、実行するものがいなくなるから、国は食料が得られず、売るべきものもいなくなって、滅びるのである。典型的な自滅策である。
 以上の大意に基づいて反駁する記事を公開した後、すでに古田武彦氏が、奴隷百六十人搬送は執行不可能として疑問を呈しているのに気づいて、意を強くしたものである。

 いや、この時期、倭国が、遠路洛陽に囚人百六十人を引き連れて一路貢献できたというなら、当時の倭国の威勢は、朝鮮半島、日本列島を通じて、抜群の大国であり、その物資・兵員輸送能力で、国内統一どころか、朝鮮半島全土の制覇も容易であったと思うのである。
 とすると、後年の女王国の貢献までに、国力が大きく衰退したと思わせるものである。

 そうした疑問に躓かず、あっさり通り過ぎた点に、地に足のついていないという不満を感じるのである。

未完

私の本棚 55 高島 忠平「東アジアと倭の政治」 4/4 2025

 季刊 邪馬台国 129号  2016年5月 「東アジアと倭の政治」  高島忠平
 私の見立て 星三つ ★★★☆☆ かなり無理             2016/06/18 確認2020/12/25 2025/11/27

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

承前

*卑弥呼の神髄
 最後に、最も感心した点を取り上げると、卑弥呼が、単なる神がかりでなく、豊富な情報を把握して、的確な信託を起草したとみる点である。まさしく、我が意を得たりである。そうでなくては、祖霊の意思の意を借りるとはいえ、万人の納得するご託宣は得られないはずである。

*文明の体現者 余談
 講演に便乗して、講師の識見に私見を付け足すと、倭人伝によれば、倭人は、亀卜を行っていたようであるから、卑弥呼は、目前のひび割れを見て、これを、人の理解できる言葉に翻訳していたということのようだ。つまり、生じた割れ目の形状から、そこに書かれている文字を読み解くのであり、何らかの「辞書」を持っていたということである。
 高度の知性と眼力の裏付けがあり、そこに、豊かな情報を加えて、神託を語ったのであろう。

 おそらく、卑弥呼は、少女にして神職に身を捧げ、天才的な識字者であり、漢文書籍を読み解いていたのであろう。そのために、竹簡に加えて、当時としては貴重な紙を所有し、墨をすり、筆を湿して、自身の言葉を書き綴っていたであろう。

 当時は、仏教界から女性が締め出されていた時代であり、してみると卑弥呼の持っていた神性は、多くの女神を擁していたギリシャ/ローマ世界にも匹敵する先進の体制であったのではないか。

 そうでなければ、例えば、易経のような体系的な託宣の知識を身に着けることはできないのである。

 そうした能力は、当時として、超絶的なものであり、したがって、各国指導者の信用を得たのであろう。

以上 

 

2025年11月25日 (火)

倭人伝の散歩道 又々々里数論、戸数論 補足 1/5 2025

             2018/10/26 補正2020/12/20 2024/04/29 2025/11/24

*加筆再掲の弁
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*念押しの記
 今回は、戸数/口数論で言い残したことを更に書き足したい。と言っても、有無所在論でなく漠たる背景事象の確認である。
 特に「倭人伝」の数字は、根拠薄弱な概数が多く含まれているので、推論の根拠となり得ないと思うが、世には根拠とする向きがあるので言い直すのである。

 念のため言い足すと、以下、総じて断定調であるが、別に強固な論拠があるわけではなく、あくまで、憶測に近い推定であり、あくまで、狐人の私見である。

 また、かなりの部分で重複再説になりそうであるので、この点ご容赦頂きたい。

*戸数口数の意義
 中国史書で、方角、里数、日数、戸数、口数は、正史地理志に記載する重要かつ具体的な統計数字で、「倭人伝」に必須なのである。

 陳寿「三国志」は統計情報を記した「志」を欠き、魏代の帯方郡戸数は不明である。笵曄「後漢書」は唐高宗の官撰であり、「郡国志」は范曄編纂ではなく 先だって司馬彪「続漢書」から編入されていた「続漢志」だが、楽浪帯方両郡戸数、口数を一戸、一口単位で集計していると見える。
 多桁数字の全桁計算に要する労力は、厖大であったが、不可能ではなかったということである。但し、晋書に記載された両郡戸数、口数は、概数にとどまっている。衰亡寸前の両郡の報告と思われる。
 (後漢書「郡国志」に、帯方郡は存在しない。勘違いで筆が滑っていたので、今回削除した。
2022/09/24
 つまり、両郡は、中国の基準に従い、管内隅々まで戸籍台帳管理していたのである。
 念のため言うと、管内とは、両郡に服属し、戸籍、地籍に名をとどめた者達の居住区であり、服属していないものは、管轄外である。

 戸は、兵務、税務、労務(以下、兵税労務)が割り当てられて国力の根幹となるから、確たる数字でなければならない口は、壮丁、つまり、成人男子が、兵士、農者、労者の一人と数えられ、動員の際は、一戸一人の壮丁を割り当てたであろう。

 一家の男性構成員が、戸長たるものとその父、及び数名の息子であるとすれば、息子一人を徴用しても一戸の生計は維持される。

*秦の戸制革新
 史料に学ぶと、中国戦国西方の雄、秦は中原と風俗が異なり、各戸に数世代、数世帯が同居した大家族制であったが、これを蛮夷の風俗として廃し、嫡子以外は独立して居を構えるようにしたという。

 大胆な民生干渉で、小規模「戸」の併存した地域社会を束ねる行政形態としたのである。分家政策は、太古以来の家庭内祭祀を抑制して政府の威勢が増大し、兵税労務指示が適確に行き届くようになり国力が増進したという。つまり、魏朝に至る中国の行政は、一戸五人程度の家族を前提としているのである。

*秦朝分家政策の背景
 秦朝では、旧来、政府指令を地域社会の細目である郷に及ばせようとしても、郷長の指示に対して、多くの壮丁を有する家長が従わないと強制し得ないことがあったが、それら壮丁が独立し、切り離された家長は影響力を失い、郷長の伝える政府指示に服従せざるを得なくなっていたと見るものである。

*秦朝興隆 
 伝統的な家族制度という(陸上競技)「ハードル」を、乗り越えずに押し倒した秦朝は、法治主義なる機能本位の中央集権を全土に隈無く徹底し、中でも全土から均等に徴兵した軍事力により強兵を育て、中原に勢力均衡を持続させていた周礼による節度ある競合を打破して、各国政府を撃滅して全国統一を成し遂げた。
 殷(商)は、武力で、中原の小国、というか、国邑を統御していたから、一種、統一国家であったと思えるし、殷を打倒して、天命を獲得した周は、西方の関中に本拠を持ちながら、当方の洛邑によって、中原の国邑群を服従させ、唯一の文書行政国家として周制に基づく、法と秩序を確立したと見え、一種、統一国家であったと見える。ただし、中原の国邑群は、次第に、小国にまとまり、西方の周に封建されたかのように装いつつ、次第に、後年の春秋諸国の萌芽が育っていったと見える。
 周の盟主としての威光は、次第に衰弱し、春秋諸国の中から覇者が生まれて、統一国家の面目は失われ、戦国諸公の競合状態となったと見える。その現れとして、諸公は「王」を名乗ったのであるから、統一王国は、いつしか消滅したということである。
 秦始皇帝の全国統一は、周王の統一支配を強固にして、中央集権国家を確立したことに意義があるとみるのである。

                            未完

倭人伝の散歩道 又々々里数論、戸数論 補足 2/5 2025

             2018/10/26 補正2020/12/20 2024/04/29 2025/11/24

*加筆再掲の弁
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*勲爵制度
 よく知られているように、統一秦朝は、全土に勲爵制度を公布し、軍功(首)のあったものに進級を加えるという褒賞制度により、兵士一人一人に強力な動機付けを施したのである。
 このような勲爵制度は、各戸にきめ細かい賞罰を与えることを可能とするが、前提として正確な戸籍制度が必須であり、良い意味で、伝統を持たない後進国の強みを活かしたのである。

 ついでに書き留めると、秦の勲爵制度では、周朝の高官であった「大夫」が、一般人向けでしかも低位爵位になっている。周朝権威の否定である。
 
 次いで、自国の機能的法治主義を全国に展開し、全国を土台から作り直そうとしたのであるが余談はここまでである。
 
*倭の戸制
 本題に還って「倭」の戸数はどんな意味を持つのだろうか。
 極端な大家族ではないとしても、戸長は、複数の配偶者を持ち、当然、それぞれと子を成して、数世代が同居し、多くの壮丁を抱える、秦の旧来家族制度に類するものであったようである。
 各戸は、戸長の一男一女を祭事に専念させ、残る「家族」は生産に従事して、戸としての祭祀を維持するから、子供がいない、あるいは、まだ幼い若夫婦は、戸長の務めは維持できず多世帯同居が必然であった。当時の人々にしてみれば、夫婦単位の「世帯」は時代錯誤であり、戸が家族だったのである。

 この辺り、少なくとも、対海国、一大国、末盧国、伊都国の主行程諸国は、千戸単位の概数とは言え、「戸数」を郡に報告していたのであるから、戸籍制度が実施され、一戸単位で、戸籍めいたものが記帳され、各戸に、耕作地が付与されると共に、得られた収穫を税として貢納する体制ができていたと見える。

 「倭人伝」には、老齢のものが少なくないとか、戸主が複数の夫人を養っていたと書かれているので、主行程諸国の戸籍、土地精度は、ある程度維持されていたと見えるのである。つまり、何らかの媒体に、戸籍などを書き記していたとか、耕作物の計量をしていたとか、文書行政の萌芽が見られるようである。
 そのような体制は、おそらく、一大率と呼ばれる巡回指導/監査員が、各国を巡っていたと見える。
 「倭人伝」には、一大率が「刺史」に類するものとしているる。刺史は、漢武帝代に、中国全土に十三の州を設けた際、各州の汚職腐敗、税収悪用などを監査するために設けた、言わば監察官僚であり、「州」州の太守が二千石(せき)の最高官位であるのに対して、三百石の軽輩でありながら、強力な観察、摘発権限をもっていたので、恐れられていたということである。(西嶋定生 「秦漢帝国」 講談社学術文庫 1273)ということである。
 後漢代に到って、刺史は、監察官を脱して、二千石で高位の行政官と成ったということである。
 そういった歴史的な経緯は、当然、史官の熟知する所であったが、蛮夷の国で、文書行政を確立するための制度として、適切であると認知したようである。
 因みに、漢代と言えども、皇帝のお膝元である京師周辺には、刺史を設けなかったということである。
 
*倭制推察
 して見ると、当時の倭が、中国と同様の一戸五人の前提で国政を進めていたはずは無いのである。范曄「後漢書」は、早のみこみして、倭は女性が多い国と断じたが、戸制には踏み込んではいない。

 中国の辺境では、兵税労務逃れであろうが、戸籍に異様なほど壮丁が少なく、各戸が年寄りと女子供ばかりなのに基づいた観測であろうか。笵曄は、倭戸籍を見たのでは無いようである。
 いや、別に、当時、国勢調査はないから、倭の戸の内容は、正確にはわからないし、そもそも、まだまだ、戸籍が確立していないから、各国の正確な戸数、口数は不明としないとするしかしょうが無いのである。
 とにかく、東夷の倭人は、華夏文化と縁の薄い蕃夷の「国」なのである。
 
*郡の苦心
 しかし、帯方郡太守としては、「親魏倭王」に任じる新参国について、鄙、つまり海南遠絶であるからと言って、七万戸と報告してしまった巨大な「国」の実数がわかりませんでは済まない。傘下各国の内情を知り尽くすという任務を怠ったものとして解任されるないように、言わば、粉飾した戸数は書かざるを得なかったと見るものである。
 冒頭の対海国、一大国、末盧国、伊都国の主行程諸国は、実は、「国」と呼べるような威容ではなく、海中山島の零細な国邑であるとして、千戸台の数字に留めているのは、手の届かない遠隔地に、取り消しの効かない七万戸の大半を押しやってしまうための前奏であったように見えるのである。
 
*データ批判の勧め
 と言うことで苦し紛れにまとめられた、根拠不明の戸数数字をもとに、中国や後世の「日本」の統計数字と関係づける議論は、全て無意味である。調査していないのだから、「正しい」数字は、誰にもわからないのである。まして、当時存在しなかった「人口」などと言う概念を無雑作に取りこむのは、重大な時代錯誤である。

                                  未完

倭人伝の散歩道 又々々里数論、戸数論 補足 3/5 2025

             2018/10/26 補正2020/12/20 2024/04/29 2025/11/24

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*北方諸国戸数
 いや、ここで慌てて補足すると、対海国、一大国、末盧国、伊都国の主行程諸国、言い方を変えると『戸数に「可」のつかない北方諸国』は、戸籍に基づき戸数計算できたという可能性もあるが、不確かなので不確かとして扱うしかない。

 現にその時代に生きていた人々が不確かとした戸数を、遙か後世のものが、こうと決めてかかるのは無法である。

 概数計算の見地から言うと、七万戸の二大大国に比べて、対海国、一大国、末盧国、伊都国の主行程諸国の戸数は、一桁下の端数である。或いは、奴国と投馬国は、自国の権威を裏付けるため、積極的に桁違いの戸数を申告したとも思えるのである。

 北方諸国は、「一大率」の監察を受けて制度革新に努めたが、一大率受け入れは必須でなく、奴国、不弥国、投馬国は、鄙であるのをよいこと我関せずであり、戸籍不備で不詳だが、推定して「二万を越え十万に及ばない」ので中を取り「可五万餘戸」としたとも見える。

 各国は、投馬国の戸数表明は、全く裏付けのない大風呂敷と見たはずである。遠隔地だから、奴国の倍以上と言われても、確認のしようがないから、「可」と付記したとも見られる。

*王治里数戸数考察
 倭人伝には、倭王の治所「邪馬壹国」(以下、単に王治)に至る里数と王治の戸数が明記されていないように見える。

 当記事では、伊都国から王治までの道のり、里数は百里単位の端数であり、千里単位の合算に影響しないので省略したと見る。「倭人伝」に求められたのは、郡から倭までの里数、所要日数であるから、端数は書かないで済ましたとする見方である。
 それ以外に、「郡から倭」としたのは、笵曄「後漢書」「東夷列伝」「倭条」(以下、「倭条」)とすると、「郡」は「楽浪郡」、「倭」は、伊都国とも見えるので、後年、「女王治所」たる「邪馬壹国」が設定されても、設定済の道里は、維持したとも見えるのである。

 「邪馬壹国」戸数も、萬戸単位の合算に影響しない端数であったため、省略されたと見ている。
 「王治」は、「小国」、「大国」、いずれとも解釈できるが、本来の「国」でなく、祭祀の最高権威、一之宮関係者が大半である官奴である婢千人の家族を含め、王治関係者は、兵税労務を免除されるから、「戸数」計上できないのである。中国でも、首都官吏は非課税が常識であったから、こうした扱いは異例ではない。

 と言うことで「王治」までの里数と「王治」の戸数は、当然として書かなかったとみるのである。

 なぜか、「倭人伝」「志」の「倭人在帶方東南」「七萬餘戸」「自郡至女王國萬二千餘里」「都水行十日陸行一月」が離散したのである。

*奴婢千人創作説
 ついでながら、使い走りも含めて千人いれば、居場所を取り食事も必要だし、し尿処理も大変で、全員住み込みと行かず、官吏共々、時に出退勤したのだろうか。よって、奴婢千人は、蕃王の王治の体裁を重んじた「創作」と見る。実見したとかしないとかとは、別次元のものである。

                               未完

倭人伝の散歩道 又々々里数論、戸数論 補足 4/5 2025

             2018/10/26 補正2020/12/20 2024/04/29 2025/11/24

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*全国戸数説の当否
 続いて「可七万餘戸」と書かれた戸数は、多分明確な奴国「有二萬餘戸」と不詳の投馬国「可五万餘戸」を足したために、不詳な全国戸数になったと考える。そして、倭人伝には、全国戸数が必須であるから、「可」をつけて記載したのであろう。(蛮夷列伝の体裁を要しないのなら、戸数はいらないのだが)

*端数の行方
 倭人伝は、對海国 有千餘戸、一大國 有三千許家、末盧國 有四千餘戸、伊都國 有千餘戸、奴國 有二萬餘戸、不彌國 有千餘家、投馬國 有五萬餘戸と書くが、一萬戸単位には、奴國二萬餘戸、投馬国五萬餘戸が計上され、他は、千戸単位の端数であり計算を要しない。
 また、国名だけで戸数のない諸小国は、更なる端数と見て計算を要しない。
 合わせての理由として、倭人伝は、一部俗説と異なり「餘」が一律切り捨てとせず、端数を丸めたとの解釈であるが、ここでは議論しない。

*多桁表示の弊害
 以上を算用数字などで多桁表示すると、概数であることを忘れさせるので固く戒めたい。専ら、実務では筆頭桁の算木計算が採用されたのである。古来、銭勘定は、一銭単位の精度で筆算を行ったと思われるが、そうした高度な計算は超絶技能と思われる。

*七萬餘戸語り直し
 別稿で書いたように、王治の「戸数」は、当然、正確に得られているはずであり、「可」は不要。つまり、倭人伝記法で綴り直すと、次のようになるのである。
 南至邪馬壹國女王之所。官有伊支馬次曰彌馬升次曰彌馬獲支次曰奴佳鞮。七萬餘戸

 「都水行十日陸行一月」は、郡からの里程に基づく所要日数とみるが、ここでは論議しない。

*可の意義
 倭人伝の「可七万餘戸」は、戸数不詳だが五万より多く十万より少ない見当の表現であるが、王治戸数は、当然適確に捕捉されていて、前記したように「七万餘戸」と言いきれるはずである。
 後世史書晋書が、七万餘戸を全戸数とみるのは、以上の自然な読み解きをしたものである。(「素直な」と書くと、反対論者を罵倒していることになりかねないので、ここだけ自粛した)

*ウソでない創作
 いや、三国志大家の「史家はウソを書く」という暴論には組みしないが、書きようのない数字は、余儀なく体裁を整え、真意を秘めて創作したのは、「ウソ」と関係のない、「無理」の無い議論と見る。おそらく、「史家」に自分が含まれるという自然な解釈を、子供のように失念したようである。

*畿内説、筑後説の根拠
 本論の趣旨に直接の関係はないが、世に言う畿内説の根拠として、九州に七萬餘戸の大国が存在する余地がないから、「邪馬台国」は土地に不自由のない畿内に違いない」とする一種の背理法が説かれるが、そのような倒錯した独断は意義が無いと思われる。あるいは、十五万の大国と見る極論も存在するようである。
 同様に「筑前」に余地がないから、「邪馬台国」は、筑後、肥後、ないしは豊前とする議論も根拠に欠けると見られる。
 いずれも、根拠は、よそに求めるべきである。

 因みに、三世紀、四囲と隔離された壺中天とも見える山郷(やまと)に、七万戸の大国が存在したという根拠は見当たらないようである。まして、食糧供給など度外視した壮大な陵墓工事など、素人目には、不可能としか思えないのだが、畿内説諸諸兄姉は、自説のとことんダメ出しはしないのであろうか。

                         未完

倭人伝の散歩道 又々々里数論、戸数論 補足 5/5 2025

             2018/10/26 補正2020/12/20 2024/04/29 2025/11/24
*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*里の起源(「釋名」劉煕:後漢)
 中国太古(周代以前か)では五戸を「鄰」として、五鄰(二十五戸)を里とし、方形と見た里の一辺を「里」とした制度があったようである。ちなみに、里の首長は、里の中央に社を設けて氏神を祭祀したとのことである。当時は、万事小振りの太古であって、里は七十メートル餘で、殷を継ぐ周はそれを維持したとの推定が語られることがある。記録がないから、そのような「周里」の推定は自由ということになってしまうのである。

*里の変貌
 これを続けると、遅れて文明に浴した秦は、「周里」の趣旨を自国の大家族世帯の格好に合わせた四百五十㍍の里、のちの普通里を採用し、統一王国を築いたときにこの里が全土に適用されたという推定もありうることになる。

 その場合、おそらく戦国各国は、「周里」を敷いていたであろうが、各国王家が滅びて、始皇帝の敷いた「同文同軌」と共に駆逐され、普通里で一新、測量されたのであろう。里制に限らず、社会制度の根幹が一新されるのは、史上類の無い同文同軌の一大変革の際に限られるのである。

*周制の名残り 余談
 但し、後の漢武帝設定の楽浪郡管内の朝鮮半島(北半分)東夷は、秦朝域外の鄙で、秦里は及ばず、周里を維持したのであろうか。それが、一つの思い付き/妄想である。

*大人と下戸 余談
 「戸」の談義をすると、倭人伝の「大人」、「下戸」とは何かと思う。 
 「大人」は、大所帯の物持ちとして、「上戸」、「大戸」ではない用語と思われる。倭人伝には、「小人」は出てこないで「國大人皆四五婦下戸或二三婦」と「下戸」と対比されている。 
 同居の使用人は戸で数えないとして、大人に平伏する下戸も戸を構え、配偶者を一人ならず養っていた者もいたことになっている。

 下戸の下には、掘っ立て小屋めいた住み処に巣食っていたものがいたはずである。辛うじて自立して耕地を持ち、兵、税、労務の負担に耐える最低線ということになるのであろう。 その下は、自前の耕地を持たず、入会地などのおこぼれで飢えを凌ぐ貧民だろうが、大人が雇い入れて扶養し、あるいは、小作させて、社会不安を予防し、大人の繁栄を持続させたのであろう。平伏するのは、こうした小作下戸だろうか。自前の土地を持たない貧農小作民に、兵、税、労務を課することはできず、戸数で数えなかったかとも思う。
 いや、同時代史料に書かれていないから、思索するしか無いが、確たる底辺あっての頂点と見るのである。

*戸の限界
 このように考察を加えても、倭の戸制は不確かなのである。
 以上は、明確な証拠のない憶測であるが、断然として否定はできないのではないかと思うのである。

*謝辞
 以上の私見は、多数の先行文献に依存しているが、ここでは、逐一参照できないのをご容赦頂きたい。

                          以上

2025年11月20日 (木)

私の本棚 季刊「邪馬台国」130号 時事古論 第4回  2025

 再論詳説・洛陽で発見された「三角縁神獣鏡」 連載(1) 安本美典
 私の見立て 星二つ ★★☆☆☆ 思わぬ見過ごしの失態露呈      2016/09/18 2025/11/20

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

◯はじめに
 最初にお断りしておくが、本ブログ記事は、安本氏の論説全体の主旨についてとやかく言おうというものではない。枝葉の部分で、不適当と思われる発言があるので、指摘したいというものである。

*名画の再現-複製画
 今回の記事の末尾で、中国に実在する油画村について、中国に於ける偽物造りの議論の中でさらっと紹介されているので、否定的な印象を期待しているように感じてしまうのだが、名画の複製品(レプリカ)の販売は、中国美術界の周辺で成立している、堂々たるビジネス形態であり、褒めるべきであっても、非難すべきものではないのである。無名の画家にとって、貴重な収入源であろうし、よほど名声を博しない限り、複製品販売の収入で喰っているのだろう。

 例えば、ゴッホの「ひまわり」は、特定の作品の本物は世界に一枚しかないし、売りに出たとしても買うには莫大な費用がかかる。仮に、十分な資金があって買うことができたとしたら、どこかの金庫室にしまい込むしかない。

 これが複製品であれば、それこそバーゲンの時期を狙えば1万円としないものだし、その程度の値段であれば、汚しても怖くないから、自宅の部屋の壁に吊して、日々名画そのものに親しむ気分になれる。

 実際、当ブログ記事筆者の書斎(ぼろ屋の中の6畳間の和室)には、ゴッホの「ひまわり」の複製品(レブリカ)が架かっている。念のため言うと、このレプリカは、原画の写真を、大型プリンターでキャンバス地に印刷したものでなく、画家が、実際に、キャンバスの上に絵筆で描いた複製画であるから、絵の具の盛り上がりや筆運びがわかるし、署名入りでもある。恐らく美術を学んでいる方には、ゴッホが実際にパレットに揃えていた「絵の具」まで偲ばせるものと想像するのである。
 ゴッホが、一度描いた筆の上に、短時間で筆を重ねたのか、日を置いたのかも、恐らく考察されているものと見える。

 そう思えば、複製品の値段はそこそこである。もう一つ念のために言うと、ゴッホの描いた絵画は、すでに著作権が消滅しているので、見かけを複製して販売しても、知的財産権の侵害にはならないと思われる。まあ、書名まで複製しては、偽造になるし、また、通常、高度な摸写は、故意に相違点を書き込んで、単売を避けたと言われている。

 概して言えば、欧米の美術館は、画学生が、館内で展示品の模写をするのを認めている。
 と言って、別に当ブログ記事の筆者は、自身で画家を気取っているわけでもない、まして、これを本物として売り出すことなど考えていない。ただ、気分として、ゴッホの画を見ていたい気分になったとき、その程度の資金があったと言うことである。

 続いて、本記事は特に区切りも無しに、「贋作」村の話に続けるから、偽物造りと関係ない複製画(レプリカ)が、偽物造りの類いと誤解されそうで危ういのである。

*書聖王羲之の模倣
 「贋作」村の話の後に、王羲之の書の模倣が出回っていると紹介されているが、これも偽物造りと関係ない話である。
 書聖と呼ばれる王羲之の真筆は手に入らないとされているのは、衆知も良いところである。中国唐王朝の皇帝が、最後に残った王羲之の真筆を遺言で墓に埋めろと指示したので、いつの日か発掘されて、地上に持ち出されない限り、だれも見ることはできないのである。
 そもそも、王羲之の真筆は、唐時代に既に貴重であったから、いろいろな技法で複製することが普通であり、そのためには、王羲之と同じ筆、墨、紙を使用し、王羲之と同じ筆の運びをすることで、殆ど見分けのつかない状態で再現する試みも幾度となくなされたし、別の技法として、王羲之の真筆の下に用紙を敷いて、文字の要所要所に針穴を打って、敷いた用紙の針穴の作る輪郭線の中を極めて細い筆で緻密に埋めても王羲之の筆の運びを再現する複製技術もあったとのことである。
 それ以外にも、中国で一流の書家を目指す無数の子供達は、王羲之の書の複製品を臨書して、王羲之と同じ書を書くことを人生の究極の目標としているのである。この点、独創を目指していると見える国内書道とは、目指す高嶺が違うのである。まして、本家の「王羲之」書には、かな文字は無いから、まさしく、「日本流」は、異端、異質なのである。
 このようにして、王羲之の書の「複製」は、それこそ山のように書かれていて、中には、指摘されているように「時代錯誤」の書まであるが、どこにも、本物と称して売ろうとするものはいないのである。この話も、偽物造りと関係ない話である。

*複製品(レプリカ)の意義
 安本氏ほどの知性の持ち主が、犯罪行為である偽物造りと正常な商行為である複製品(レプリカ)造りが、全く異なるものであることは、素人の指摘がなくても承知の筈であるが、この記事全体が、両者を一緒くたに紹介して、複製品(レプリカ)造りを含めて「犯罪」と主張しようとしていると受け取られるのではないかと危惧するのである。

 ついでに言うなら、中国を「コピー大国」と呼ぶのは、主として、各種電気・機械製品の模倣、特に、特許や意匠、商標、ノウハウの盗用を言うのであり、又、近年で言えば、PCアプリの複製販売、日本の漫画、アニメの無断翻訳販売などの違法行為を指すのであって、今回取り上げられた、美術品の複製や骨董の偽造とは、別次元のように思う。いや、同じ国民性から出ていると言われたらそれまでだが、かなり異質の事項であることに変わりは無い。

 今回の記事は、そういうことで、安本氏の論説の行きすぎと思われる難点に関して率直に指摘させて戴くものである。

以上

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