倭人伝の散歩道稿

魏志倭人伝に関する覚え書きです。

2022年12月23日 (金)

魏志天問 2 大夫 補筆

                           初出 2013/12/23 補筆 2022/12/23

 以下の記事は、魏志倭人傳に関する素人考えの疑問を並べていくものです。
 天問2は、
  (「大夫」は、周代の高官有司であったものの)漢王朝以降では、「大夫」は、高官でなく庶民ではなかったか、
 と言うものです。
 自古以來、其使詣中國、皆自稱大夫。
 「大夫」 参照資料 wikipedia、西嶋定生『中国古代帝国の形成と構造―二十等爵制の研究』
 他に、官位史料として原典に近いものは、劉貢父「漢官儀」です。
 「自古以來」とあるのは、周王朝時代から漢王朝時代に至る期間と思われますが、記録のない時代はさておき、魏志「倭人伝」では、難升米等が、「大夫」を名乗った(自称した)と明記されています。自称と言うからには、魏から与えられた称号ではないのです。

 大夫は、周王朝時代には、政府高官の称号であったと言われています。
 しかし、周王朝の官位は、秦朝によって破棄され、漢王朝は秦の爵位制度を継承していて、そこでは、最上位の列侯(徹侯)から始まる爵位制度の底辺として十五歳以上男子国民である庶人[自由民庶民]に爵位を与える民爵制度となっていたのです。
 その中で、「大夫」は民爵五番目の第五級に当たり、庶人/庶民の爵位なのです。

 庶民が爵位を得る制度は、秦の時代には、兵として参戦して軍功を上げることであったと、司馬遷「史記」などに記されています。
 概して平和の続いた漢の治世では、軍功による爵位は、ほぼなくなっていたのですが、皇帝即位などの慶事の際に、帝国全土に布告して、大赦と併せて、全男子国民のそれまで爵位のないものは第一級爵位「公士」を、すでに爵位を得ていたものは、一級昇級を与えていたのです。
 従って、五年に一度の昇級としても、庶民は四十歳を過ぎた頃には、皆「大夫」になる理屈ですが、身分制度の厳格な太古/古代に庶人が貴族となることはなく、厳格に阻止されていたのです。一部、秦代に、勇猛な軍人が軍功を重ねて、貴族身分に登ったというような物語が書かれることがあるようですが、それは、幻想に過ぎません。庶人に生まれたものが、貴族になることは、不可能だったのです。
 なお、一律昇級が頻繁であった証拠に、民爵の最上級第八級「公乗」にある庶民が、昇級によって第九級「五大夫」に昇級して貴族身分になることがないよう、「公乗」にある庶民は、当該昇級を、近親者で低爵位の男子に譲渡するよう布告しているほどです。軍人でも、第八級が、鉄板の天井だったのです。
 一方、下級爵位は氾濫することになり、四世紀に亘る漢代を通じ、「大夫」は、いたってありふれたものだったことになります。
 そのためか、民爵制度を廃止したと思われる魏朝以降も、単に「大夫」とする貴族官位は、見当たらないのです。

 とすると、東夷といえども、「大夫」は、全権大使が名乗るべき官職ではないように思えますが、故実に精通していたはずの陳壽は、倭人傳でそのような指摘を加えていないのです。武帝以来の楽浪郡と後漢代後期に新生の帯方郡及びその管轄下の東夷諸国では、漢から魏晋に到っても、周王朝時代の官職の名残が通用していたと言うことなのでしょうか。
 一方、東夷は、古の遺風を維持するものとみたのが、倭人傳の書き方であり、倭人で「大夫」が貴人となっていることを、中国側も、そのまま受け入れていたかと思われます。

 世上、『曹魏が「倭国」を「コロニー」化していた』と三世紀に時代錯誤の「コロニー」を持ち込む「荒唐無稽と言われかねない異説」がありますが、それはそれとして、「親魏倭王」に魏制への同化、臣属を求めるとしたら、官位制度の是正は、「女王廃位」などと同様に指示して来そうなものですが、どうだったのでしょうか。あるいは、「自稱」の二字に、漢の制度に従っていない東夷の(勝手な)自称であるとの意味を持たせたのでしょうか。
 連想した疑問が湧いてきますが、「天問」からは除外しています。
 参考資料 「漢官儀」, 巻上,中,下 / 劉貢父 [撰] 早稲田大学図書館

 劉貢父「漢官儀」は、後漢朝に於ける官位、儀礼などを述べたものですが、何気なく、以下の爵位が列記されています。
 1 公士   2 上造     3 簪馬衣 (馬衣は一字)4 不更
 5 大夫   6  官大夫  7 公大夫 8 公乗  ここまで庶民
ここから貴族       9 五大夫  10 左庶長           
11 右庶長 12 左更  13 右更 14 中更 15 少上造
16 大上造 17 駟車庶長 18 大庶長   19 關内侯
20 徹侯     (武帝劉徹僻諱により「列侯」に改称)

Ryu_kakangi_shakui
以上
追記: 2022/12/23
 以上の意見は、基本的には変わっていないのですが、少し見方が変わってきました。

 「大夫」制が廃止された秦漢代以降の古典資料で、一般的に、つまり、厳格に書かれていないと見える世間話的記事で、「高官」「有司」を「大夫」と敬称している例を見かけるのです。
 そのように解釈すると、蛮夷の「王」のもとに「大夫」がいるのは、むしろ普通に見えるのです。つまり、倭使である「難升米」と「都市牛利」の「大夫」自称は、明らかに、魏の高官を名乗ったものではないのであり、帯方郡との交流を通じて学びとった中国の制度に倣った無害なものであったと見えます。つまり、倭使の「大夫」は、太古の周制を見習ったものでも無ければ、まして、魏の庶人の爵士など知らなかったものと見えます。逆に、魏の官制頂点に「大夫」が存在していて、倭人が「大夫」 を自称したとすると、大変不遜な行いなので、厳しく譴責されていたと見えます。
 当ブログでは、王莽が、周制を復活して「大夫」を復活したのが、王莽の「倭人」探索活動の影響で、遙か東夷の「倭人」に伝わったのではないかと推定していましたが、少し気負い込んだようで、今後は、差し控えることにします。

以上

2022年11月12日 (土)

私の本棚 20 季刊「邪馬台国」 第125号 井上悦文「草書体で解く邪馬台国の謎」補充再公開

 私の見立て ★☆☆☆☆ 根拠不明の断言集 拝読辞退     2015/06/10 補充 2022/11/12

◯はじめに
 本稿は、専門的な根拠を踏まえた論説のようであるが、余程論旨に自信があるか、それとも、論旨に不安があるのか、冒頭から、強い物言いが続くこうした断定的な書き出しは、却って不信感を招くと思うが、どうだろうか。
 例えば、書き出し部で「三国志の原本は草書であったことが判明した」と声高に唱えるが、言い切る根拠は何かとみると、楷書写本は大変時間がかかるので、作業性が悪く、写本は全て草書で行われていたに違いないという説である。
 時代を隔てて、遙か彼方の現場を推定する「臆測」であり、何ら物的な証拠が無いのに断言するのは大胆である。

*考察検証
 ここで言う物的な証拠は、例えば、西晋皇帝所蔵の三国志写本の実物であるが、断簡すら残っていないし、下って、北宋までのいずれの時代でも良いが、皇帝所蔵の三国志写本が発見されたとは聞かないから、やはり、物的証拠は存在しないのである。
 それとも、噂に聞く、敦煌文書の呉志写本断簡は草書で写本されているのだろうか。もっとも、そうであったとしても、皇帝蔵書ではないので、状況証拠にしかならないのだが。

*「書の専門家」の暴言
 ここで状況証拠としている写本に使用する書体と作業効率との関係は、自称「書の専門家」の意見であるし、また、多少なりとも、書き真似してみれば納得できるので、不審ながら、一応、ご意見として伺うしかないのだが、その点を根拠に、正史の写本が全て草書で継承されていたというのは、速断に過ぎ同意しがたいものがある。

 因みに、いくら「書の専門家」のご高説とは言え、三国志の解釈に「草書の学習」が必要というのは、不可解である。三国志草書写本は現存しないのである。氏が三国志全巻を古代草書で書き起こして、仮想教材として提供するというのだろうか。それは、簡牘の巻物なのだろうか、紙冊子なのだろうか。

 いや、今回の井上氏の論説でありがたかったのは、秦漢時代にも、日常の書き留めには、手早く書ける草書めいた略字体が採用されていたと言う指摘である。してみると、草書の特性は、文書行政の発達した古代国家である秦時代からの常識であったと思うのである。
 発掘されている木簡類は草書では書かれていないようだが、日常の覚え書き類は草書だった(のだろう)との説には説得力がある。

*真書と草書
 それで思い出したのが、宮城谷昌光氏の著作「三国志外伝」の蔡琰(蔡邕の娘 蔡文姫/昭姫)の章の結末である。時の権力者、つまり、武人であり、教養人、つまり文人でもあった曹操から、蔡文姫が記憶している亡父の蔵書四百余篇を書き出して上程するようにと下問されたのに対して、「真書」で書くか、「草書」で書くか、書体を問いかけているのである。

 手早く草書で書き上げれば随分早く提出できるが、書籍として品格が低くなり、曹操ほど詩作や孫子注釈で高名な大家に失礼と思えるし、といって、厳密に真書で書くと、時間が大層かかる、いわば、二者択一であったのである。

 ここで言う真書は、言うならば、字画を全て書き出す本字であり、草書は、省略の入った略字という位置付けであろう。どちらでも、ご指示のままに書き上げますという趣旨である。

*書体の併存
 さて、古来から真書、草書の両書体が併存していたのであるから、草書が略字体であるために異字混同が(必然的に)出ることは、当時の知識人や行政官吏に知れ渡っていたはずと思うのである。氏自身も述べているように、草書の位置付けは、あくまで草稿、つまり下書き止まりであって、本当に「文書」を書くときは真書で書いたと言うことである。これは、浄書であり、清書でもある。

 ちょっと意味合いは違うかも知れないが、唐時代、公文書では、簡明な漢数字の一,二,三,,,を壱,弐,参,,,と、「大字」で書く規則があったのも、改竄防止、誤読防止の意義があれば、時間を掛けても字画の多い文字を採用していたと言うことである。ということであれば、信書(手紙)の類いは草書としても、公文書を草書で書くことはなかったはずである。
 つまり、正確さ、厳密さが至上課題である公文書類や正史写本には、後世に至っても厳として真書が採用されていたと推定するのである。

正史写本
 特に、正史写本の中でも、皇帝蔵書に当たる最高写本、これを仮に「正本」というならば、「正本」を写本して新たな「正本」を作るとすれば、そのような高度に厳密さを要求される複製写本の際には、写本に於ける速度ではなく、複製の正確さが至上命令である。
 至上命令というのは、これに違反すると、給料を減らされたり、免職になったりする程度の「処罰」にとどまらず、馘首、つまり、打ち首で死刑もあり得ると言うことである。

 それに対して、その際に経済的な要素として懸念される時間や人手は、国庫から十分以上に与えられるわけだから、真書で、しかも、予習復習を含めて、とにかく、時間と人手を惜しまずに、念には念を入れて写本するのは当然の帰結と思われるが、どうだろうか。

抜き書き・走り書き
 ただし、以上は、何よりも厳密さが求められる公文書や正史写本の話であり、一度、そのような厳密さの桎梏から解き放たれたときは、段違いに書きやすく、速度の出る草書写本が採用される可能性が高いと思うのである。特に、正史をもとに編纂された類書の原典とする抜き書き資料は、手っ取り早い草書で書かれていたものと思われる。
 類書編纂は、正確な引用でなく、飲み込みやすく消化した要旨抜粋であるので、誤字もまた発生することが避けられないのである。また、そもそも抜き書きの元となった写本が、正本と同様に真書で書かれていたかどうかも、以下で思案するように、かなりあやしいのである。

 お説に従い、これら草書写本には、異字混同がある種の「必然」となることを考慮すると、ここで延々と主張されている誤字は、こうした草書写本段階で発生し、構成されないままに継承され、最終的に、後代史書や類書に清書された際に、継承(誤伝)されたと見て良いのではないか。この辺り、論理の分水嶺というか、絵に描いたような諸刃の剣である。

 その極端な例として、翰苑写本がある。当該写本は、影印版の収録された解説書が公刊されているから、どのような書体と配置で、どんな文字が書かれているか、誰でも確認可能である。特に同意意見も、反論も出てこないブログ記事で公開された私見ではあるが、見るところは見て書いたものである。
 つまり、翰苑写本は、原本が確認不可能なので、ちゃんとした原本があったと仮定すると、写本というものの原本に忠実、正確な複写ではなく、また、その際に正確さを求めたものでもなく、とにかく、欲しい部分を、追い立てられているように、手早く抜き書き書写されていると見るものである。一番の難点は、素人目にも、校正、校閲によるダメ出しがされていないので、素人目にも明らかな錯誤が露呈していて、文字記録資料として信頼できないのである。
 いわば、書の文化財として尊重すべき「国宝」だが、史料としては、ほとんど信じられない、相当信頼性の低い文献資料と、書道の素人は見ている。

二次写本、末裔写本
 また、皇帝の指示した正史写本は、次なる正本として「厳格」に写本されるにしても、当代の正本から写本された、言わば、子写本(一次写本)から芋づる式に連鎖して写本された孫写本(二次写本)以降の末裔写本は、「厳格」の適用外であり、作業効率が優先され、草書写本となる可能性がどんどん高まるのである。地方豪族の手元に渡る頃には、多くが草書写本になっていたとも推測される。
 以前から指摘しているように、真書写本といえども、誤写の発生を食い止めるには、大変な労力と優れた職人群が必要であり、王侯貴族といえども、そのような厳格、精密な写本は、経済的な事情だけ推定しても、そう簡単にはできなかったと思われるのである。

草稿と確定稿
 また、三国志編纂過程で、陳寿と無名の補佐役が上程草稿を作成したのは草書体と思われるが、皇帝に上申する想定の三国志「確定稿」は、真書で清書していたものと思うのである。
 案ずるに、草稿といえども、文脈から推察できない異民族の固有名詞などは、おそらく、草書のただ中に真書を交えるなど、誤写を防ぐ工夫などをしていたに違いないのである。それが、俗事に屈しない史官というものである。

 井上氏の記述では、陳寿は三国志を完成することができず、草稿を残して没したようにも見えるが、60歳を過ぎた老齢であるから、自身の著作を中途半端な形で後世に遺すことがないよう、真書で書き上げた清書稿を確定稿、完本としていたと考えるのである。
 これは、皇帝から命が下ったときは、速やかに上程できるようにしておくという意味もあるのである。陳寿は、罷免されても、処断されたわけではないので、著作を続けられたと見るものである。陳寿の人柄と職掌を考えると、そう考えるのである。

余談談義
 総じて、井上氏は、業界用語を交えた不思議な言い方を、大変好むようである。
 例えば、冒頭で、何の断りも引用符くくりもなしに、「魏志倭人伝」と書いておきながら、禁じ手の後出しで、だめを入れるのである。
 曰く、『「邪馬台国」の(と言う国)名は、中国(余計である)正史(である三国志の一部である)の「魏志倭人伝」に書かれていると大方が思っている。』 ()内は当方の補充。
 何とも、見苦しい乱文であり、理解に苦しむ点は、凡百の俗説の徒と同様であり、氏の、文筆家としての未熟さを思わせる。
 それにしても、大方」とは何の意味か、よくわからない。多数の他人の「思っている」ことをどうやって調査し、どのようにして計数化して、「声なき声」の世論とも見える「大方」を見出したのだろうか。所詮、氏の見聞というものの、実は、飲み仲間の罵り合いではないだろうか。

 てっきり、季刊「邪馬台国」誌では場違いな、古田武彦説復唱かと思ったが、そうではない。「魏志倭人伝という正史はない」に始まる趣旨不明の提言が続く。どろりと「魏書の東夷伝の倭人の条」と書き写しているが、「魏書」と書かれているのはここだけで、他の箇所では全て、「魏志」である。趣旨不明である。「倭人伝」はなかった論には大方は食傷している。
 最後に、倭人伝と三国志全体の文字数が上げられているが、本稿においてどんな意義があるか、不明である。まことに、不可解である。

*成立の不思議
 以下、三国志の「成立方法」(単語明瞭、意味不明)と言う下りがある。
 「成立」を確定稿のとりまとめ時点と言うのであれば、その時点では、確定稿は、いまだ陳寿の個人的な著作なのだから、いわゆる官製史書である「正史」でないことは自明である。まして、一部厳密な言い方を打ち出す識者によれば、西晋時代に「正史」はなかったから、その後も、正史という言葉が浮上するまで、三国志は「正史」でなかったことになる。

 とかく、そのような「重隅突き」的な散漫な言葉咎めは、「大方」の読者に論旨の迷走を感じさせ、折角の文章が寄せ木細工との感を与え、箸休めの「閑話休題」以外に何の意義があるのかよくわからない。

 おそらく、ご自身の学識の範疇外なので、いずれかの公開文献から無造作に取り込んだのだろうが、身に合わない借り着は、本人の品格を落とすだけである。門外事を、うろ覚えで挟み込んで論説全体の値打ちを下げるのは、井上氏の創始した失敗ではない

写経
 遣唐使や留学僧が持ち帰った仏教経典の写本が草書体とも思えないので、唐時代でも、真書による写本も残存していたように思われる。
 奈良時代に平城京で行われた国家規模の写経事業も、また、本稿で言われる草書写本の例外と思われる。
 因みに「藤三娘」と署名した聖武天皇皇后「光明子」の残した写経は、どう見ても、草書ではない。
 と言っても、草書写経が「絶対になかった」と断言できるほど、多数の原史料を確認していないので、推測である。

◯まとめ
 当記事は、井上氏の軽率な思いつきを、「大地から掘り出した芋」と見ると、それを「泥付きのままで食卓に提供する自然食」と見える。つまり、せめて、泥を落とし、皮を剥いた上で、煮炊きして、調理提供いただきたいと思う。例えば、ウロコを取らず、はらわたも出さないサカナは、そのままでは食べられたものではないのである。自然食材は貴重であるが、だからといって、それが和食の真髄ではない。
 氏が、このように不出来な著作を公開したのは、氏にとって名誉にならないと思う。勿体ないことである。

 これでは、以下、氏の力説する新説が、忽ち、悉く「虚妄」と判断され、「ジャンク」とされるのである。世上、邪馬台国論争は、厖大な「ジャンク」所説群を産んだと「大方」が断じる理由とされるのは、それぞれの冒頭で、説得力のない、疑わしい「新説」をがなり立てるためと思うのである。「ジャンク」を悉く味わった上の評価とは見えない。
 現に、氏の著作を買って読もうという気には、到底なれないので、そのように推定する。

 仮に、氏の新著を贈呈されても、時間の無駄なので「拝読辞退」である。

以上

2022年10月12日 (水)

私の意見 英雄たちの選択 ニッポン 古代人のこころと文明に迫る 再掲 1/17

ザ・プレミアム 英雄たちの選択新春SP▽ニッポン 古代人のこころと文明に迫る [BSプレミアム]
私の見立て★★☆☆☆  2018/1/3   2018/02/03記 復元再掲 2021/07/19 補充 2022/10/11

*NHK番組案内:チャンネル [BSプレミアム]
2018年1月3日(水) 午後1:00~午後3:00 (120分)
【司会】磯田道史,渡邊佐和子,【出演】里中満智子,中野信子,松木武彦,辰巳和弘,石野博信,倉本一宏
【語り】松重豊

ニッポンのはじまりスペシャル企画!最新事情を踏まえ古代人のこころと文明の成り立ちに迫ります。弥生人=稲作民という常識を覆す先進集落の実像とは?弥生人が銅鐸に求めた神秘のパワーとは?邪馬台国の女王・卑弥呼の出身地はどこ?司会の磯田道史が大興奮の古墳とは?さらに、悪役のイメージが強い蘇我氏が、この国に与えた影響も探ります。弥生から飛鳥までを一挙に駆け抜けてみると、ニッポンのどんな原型が見えるでしょうか

*再掲の弁 2022/10/11
 過去ログ点検の一環として、補充再掲したものであるが、本旨は維持されている。

*総評

 当方の知る限り、当番組は、昨年2017年にも放送されていて再放送である。昨年初見の際は、一般向け番組であり、個人的意見を批判する気になれなかったが、出演者は、権威者揃いでもっともらしい設(しつら)えであり、いっぽう、あり、「まんま再放送」という事は、ちゃんと諸兄姉から批判されていないようなので、一視聴者として苦情を申し立てることにする。

※番組方針逸脱
 当番組は、本来、歴史上の分岐点で、「英雄たち」が直面した選択を明らかにして、視聴者にそれぞれの選択肢を吟味させるものであったはずである。ところが、当特番は、「謎」の特異な解明を、てんでに言い立てて、言わば、羅列するだけで、そのような分岐点/選択肢は示されず、まことに無責任である。

※日本なき「にっぼん」文明
 この番組は、カタカナの「ニッポン」を連発するが、それは、八世紀初頭に始めて採用された「日本」の国号を古代史に使用する時代錯誤を避けたつもりかも知れない。しかし、所詮、一般人は、音声で識別するので、カタカナも漢字も同じ実態と受け止め、「ニッポン」と言っても、時代錯誤から逃げられないのである。「頭隠して」である。

 古代史の議論に、広域政権が広範囲を支配していたと錯覚させる「日本」、「ニッポン」は、「絶対禁句」である。り、まして、「日本列島」は大禁句である。当時、北海道どころか、津軽海峡も知られていなかったはずである。当時なかった概念は、視聴者に謝った理解を押しつけるので、断じて使用すべきではない。(古代史分野で、漠然とした地理概念として「日本列島」を使用し、「日本」、「ニッポン」 の乱用を避ける提言があったことを発見したので、意見の一部を撤回する

                     未完

私の意見 英雄たちの選択 ニッポン 古代人のこころと文明に迫る 再掲 2/17

ザ・プレミアム 英雄たちの選択新春SP▽ニッポン 古代人のこころと文明に迫る [BSプレミアム]
私の見立て★★☆☆☆  2018/1/3   2018/02/03記 復元再掲 2021/07/19 補充 2022/10/11

※嘘の皮
 当然、画面に日本地図を表示した上に何かの記号を無造作にずらずら表示して、視聴者に制作者の独善を押しつけ、誤解を期待するのも禁じ手であろう。安直であり「ウソ」(Fake)である。
 その意味では、本特番は、ほぼ一貫して時代錯誤の大安売りで公共放送の成すべきことではないと思う。
 「日本国号」を宣言した広域政権が成立した701年を画期的な「日本元年」として、それ以前は、一切「ニッポン」、「日本」を禁句とするのが、時代錯誤の戒めになるのではないか。

*記録なき偉業の謎

 さて、今回の特番では、倭人伝を除けば同時代記録がなく、遺跡や遺物などの考古学成果にのみ基づく思索を巡らしているが、公式記録が、官製史書日本書紀(書紀)に記述されてないことをどう考えるのだろうか。つまり、歴史の流れが記録伝承されていないという事は、これらの偉業は、現代に継承されていないと言うことになるのではないか。

※記録なき偉業 銅鐸文明

 「書紀」に銅鐸に関する「記事」がないのは周知である。
 「銅鐸文明」論は、一応、首尾が整っているように見えたが、結果だけ見ると、後世の記録に触れられることもなく、当然、倭人伝にも登場しないのである。もし、「書紀」が過去の世代の歴史を書いているのであれば、銅鐸の由来、効用、発展を記した後、何かの転機で廃棄されたと書くはずである。そして、銅鐸に代わって採用された「何か」について語るはずである。滅ぼされた先行文明は、紛々たる悪名を遺すが。銅鐸文明は悪名すら遺さなかった。「文明」などと栄冠を得たものが、かくも簡単に消え去るべきだろうか。
 つまり、銅鐸祭祀は、「書紀」を編纂した政権のものではなかったのではないかと思われる。

※記録なき偉業 大規模墳丘墓
 「前方後円墳」と呼んでいる墳丘墓についても同様である。
 「書紀」に、このような墳丘墓は、いつから葬礼に採用されたか記録されていないし、この型式を何と呼ぶか書かれていないようである。また、誰がどの墳丘墓に埋葬されたか適確に書いていないし、墓碑も残されていないと思う。
 当時、各墳丘墓には、所定の墓守を置き、四季礼拝や遺族の参拝を規定したはずである。盗掘、破壊の防止にも墓守は必要である。しかし、そのような記事は残っていない。墓制の大幅な変更は、天下の一大事であるから、布令があったはずだが、公式記録は残っていないようである。
 つまり、大規模墳丘墓は、「書紀」を編纂した政権のものではなかったのではないかと憶測するのである。あくまで、私見である。

                     未完

私の意見 英雄たちの選択 ニッポン 古代人のこころと文明に迫る 再掲 3/17

ザ・プレミアム 英雄たちの選択新春SP▽ニッポン 古代人のこころと文明に迫る [BSプレミアム]
私の見立て★★☆☆☆  2018/1/3   2018/02/03記 復元再掲 2021/07/19 補充 2022/10/11

※記録なき偉業 女子王卑弥呼
 よく知られているように、中国の魏王朝に使節を送り、倭王として認定された女王卑弥呼も、君主としての公式記録は「書紀」に書き残されていないと見る。
 「書紀」には、別の人物、即ち天皇の未亡人であり、かつ、後継天皇の母であった神功皇后の伝に、不正確な示唆が書き加えられているようにも見えるが、これは公式記録と言えるものではない。

※記録なき偉業 蘇我氏の新政

 蘇我氏は、財務経理の能力を有し、文書記録の能力があったから、広域国家の基礎となる文書行政の仕組みを持っていたと思われるが、伏兵に打倒され、その偉業は失われた。当然、君主として公式記録にとどめられていないが、仏教布教によって文明開化の礎を築いたことも記録されていない。

※司会者に「神がかり」逃避癖
 番組の進行で不可解なのは、司会者が、突然、神がかりして、個人的な感想を吐露することである。番組の定例で言うと、「選択」すべき課題解決策の考察材料を全部提示した上で、選択肢を明示し、参加者の意見を求めるはずなのだが、そうした手順もなく、神がかりで幕を引いて、次に進めるのである。
 番組に期待されるのは、遙か古代について思索を巡らすのに邪魔な現代人の先入観を捨てて、謙虚に古代人の視点に近づく理路を示して欲しいのだが、司会者は、古文書の残されていない古代を見通す目を持たず、行き詰まると、早口で呪文を唱えて片付け、誰も異を唱えないのである。
 現代人の勝手な呪文が通じるのは、現代から遡って、せいぜい江戸時代中期ぐらいまでであろう。それ以前の人々の思いは、根源から異なるから、現代人の呪文は全く通じないのである。
 いや、当番組は、本来、古人の感興を、個人の言葉で理解しも現代人に伝えるものではなかったかと思う。
 咥えて、司会が投げ出す神がかりの呪文の中には、番組の本旨に反する粗暴で不適切極まりないものもある。こうした暴言をたしなめる人も無く、暴言は暴言のままで終わっている。NHKも堕落したものである。

闇鍋事例
 当番組で、視聴者は、各部の当事者の断片的な主張の羅列を聞くだけで番組の最後に辿り着き、困惑の中に放りだされるのである。
 以下、当ブログは、当人もいやになるほど、懇切丁寧に問題点を指摘していくことにする。
 各研究者は、個人的な感想を述べる自由はあるが、必要な反証、反論から逃げて、不確かな私見を断定的に視聴者に押しつけるのはご勘弁頂きたい。
                     未完

私の意見 英雄たちの選択 ニッポン 古代人のこころと文明に迫る 再掲 4/17

ザ・プレミアム 英雄たちの選択新春SP▽ニッポン 古代人のこころと文明に迫る [BSプレミアム]
私の見立て★★☆☆☆  2018/1/3   2018/02/03記 復元再掲 2021/07/19 補充 2022/10/11

*「新たな弥生人像」
 先ずは、鳥取県青(あお)谷(や)上(かみ)寺(じ)地(ち)遺跡の紹介である。日本海沿岸に形成された沿海交易の多年に亘る繁栄の形跡が発掘されていることが示されている。丸木舟や釣り針などの漁具から、海産物を産出したと窺える。さらには、高度な技術を駆使した木製品のように、今日にも引き継がれている民芸品が認められている。
 当遺跡は、粘土中に気密状態で残されていた遺物が豊富であり、有力産地であったことを窺わせる。さらに、工芸品の工作に不可欠な鉄器が多用されていたと見えるのは、後代において順当なところである。
 古代にあっても、ものは、豊富に産するところから、豊富に要するところに自ずから流れていくものであり、年月を経て、流通したものだろう。

※専門家の錯誤

 専門家は、「輸出」とか「海外交易」とか「付加価値」とか、現代用語を無造作に当てはめるが時代錯誤であろう。当時なかった言葉や概念は控えるべきである。ものごとには、全て萌芽の時代があり、成長期がある。いきなり、成人に達するのではない。
 しっかり、おつむのねじを締め直して欲しいのである。

※ついでに神がかり

 そこで神がかりを呼び出した司会者は、小声の早口で「意味が集団で共有されているのは哲学・宗教に近づいた段階」と言うのだが、現代語としても意味不明で、二重の意味で場違いな時代錯誤で番組を混乱させた。追い打ちで、「シンボル社会」などと意味不明な言葉を言うが重ねて場違いである。古代を全く理解してないのであろう。
 それにしても、文書無き世界で、どんな言葉で抽象的な教義を異郷に伝道したか。まことに不思議である。

※広域政権の幻
 古代史学「定説」派は、さしたる根拠のない信念に基づく確信を形成していて、それは、奈良盆地中部、中和の政権が、周辺限定の地域政権でなく、西は九州北部から東は関東まで、東西を支配した広域政権との「定説」である。この番組で説かれているのは、政権中心を遠く離れた一隅で、それこそ、東西はるかな範囲に鉄器を供給していたとの作業仮説であり、両者は整合しない。
 それほど大規模な工房が鉄器の対価として入手した財貨は、どこに埋蔵されているのかということもある。

                     未完

私の意見 英雄たちの選択 ニッポン 古代人のこころと文明に迫る 再掲 5/17

ザ・プレミアム 英雄たちの選択新春SP▽ニッポン 古代人のこころと文明に迫る [BSプレミアム]
私の見立て★★☆☆☆  2018/1/3   2018/02/03記 復元再掲 2021/07/19 補充 2022/10/11

※鍛冶工房幻想
 唐突に滋賀県稲部遺跡の鍛冶工房の話になる。断りなしに二ヵ月前と言うが、同遺跡の発掘報道は、2016年10月であるから、今回放送から一年二ヵ月前である。NHK番組の再放送時の態度として、大変不用意である。
 新聞発表時に丁寧に批判したので、ここでは極力手短に止めるが、要は、自身の所説に合うように、遺跡、遺物の考古学的考察を創作するのは、「発掘に投じられた公費を私物化する」不穏な態度と思うのである。

 他の遺跡と同様、稲部遺跡は、現にそこにあるのであり、発掘された遺物も、間違いなくそこにあるのだが、年代比定や他遺跡との関連は、現代人の思惑が強く作用するので、不確かと見ざるを得ない。

 建物の規模から見て、当時近畿地区屈指の大勢力と言うが、「当時」がいつかという大きな課題を抱えた発言である。もちろん、当時「近畿」などと言う概念は無いから、無意味な発言とも言える。
 これに対して、当番組で、現地責任者が、大風呂敷を広げず、広域供給の可能性に止めたのは賢明である。自己中心の大風呂敷で転けている学識者は、枚挙のいとまがない。怒鳴りまくらなくても、「可能性」は、否定しがたいのであるが、確実と断定するに近い排他的な物言いは、当然、多くの非難を浴びる。

※死の商人
 出土した鉄鏃を武器に限っているが、当然、狩猟の具でもある。当時の住民は、年中戦争していたと見ているのだろうか。因みに、鉄鏃ならぬ石鏃は、今でも、生駒山系の田地から出土するらしい。山上と麓で、やり合っていたらしい。
 「大乱」説を絵解きすると、数十人同士で一時間も矢戦すれば、何百本と矢が飛び交う。当然、双方とも矢避けするだろうから、当たるのは一部で、大半は外れである。もっとも、威力の無い矢であれば、当たっても、大抵は、浅手の傷である。
 と言うことで、軽い手合わせ、弓矢合わせでも、何十年と続ければ、そこら中鏃だらけではないか。乱世万歳。古代の死の商人は、繁盛したことであろう。
 鉄鏃は、工房の限定生産であるから、数に限りがあるが、石鏃や骨鏃なら、各家庭の内職で、山ほど造ることができる。どちらが、小競り合いに有効かは、言うまでもないだろう。

※鍛冶工房願望
 丁寧に言うと、関係者の強い願望にも拘わらず、この番組に示された鍛冶工房観は、不確かである。工房の存在は明らかだが、この規模の工房を運用した経済活動は、いつのものか、どの程度の期間続いたのか、誠に不確かということである。
 それにしても、当鍛冶工房は考古学体系にはめ込まれていないので、勝手に時代設定や社会背景をあてるのは禁じ手である。
 因みに、「鍛冶」と言う言葉がこちらで生み出されたように、鍛冶技術は、中国由来と言い切れないのである。

 ともあれ、再現された規模の「工業団地」に必要な鉱物と燃料の供給は広範囲であったろうし、多くの専門技術者が従事し、技術者食料など生活維持は、大規模であったろうし、大量の産物の供給先も広範囲と思われる。その程度の画餅であれば、文句も付けにくいのである。

                     未完

私の意見 英雄たちの選択 ニッポン 古代人のこころと文明に迫る 再掲 6/17

ザ・プレミアム 英雄たちの選択新春SP▽ニッポン 古代人のこころと文明に迫る [BSプレミアム]
私の見立て★★☆☆☆  2018/1/3   2018/02/03記 復元再掲 2021/07/19 補充 2022/10/11

※更なる「神がかり」
 そこから司会は、時折示す神がかりを、またもや駆使して、ブツブツ呪文の後、「シンボル社会」など意味不明の発言であるが、このたびも意味不明の塊である。古代にそんな概念はなかったから、無意味な自己満足ではないか。
 続いて喚いているが、甲骨の亀裂から啓示を読み取る儀礼は、簡単に体系化できるものではない。殷墟の甲骨遺物は、無数の文字を読み取ったと示していて、決して、安直な「神がかり」ではない。一種理詰めなのである。実見したらいかがかと思う。
 鉄素材を輸入したと言うが、どうやって、輸入代金を支払ったかの示唆も無い。奪い取ったというのだろうか。

※戦争の創造
 続いて、鳥取で出土した殺傷人骨が語られているが、同時代遺物との確認はされていないのではないか。いずれにしろ、当時、百人や一千人ではなかったはずの地域人口の、ごく数例に過ぎない。特に意義を見る必要はないのではないか。また、武器は鉄に限らない。銅鏃も出土していたという、程度の認識である。
 水利争いなど周辺集落と起こしがちな諍いを仲裁するために、各地に氏神があった。地区ごとの力関係を確かめるために、祭りで力比べしたはずである。
 古代における「戦争」が語られるが、「戦争」は国家間の紛糾を解決する正当な手段であり、国家がなければ、それは私闘、あるいは、野盗の不法な襲撃であって、「戦争」と正当化することは許されない。「連合」が成立していれば、「連合構成員」間の紛争は、「戦争」でなく、私闘に過ぎない。せいぜい、内戦(Civil War)である。呆けたことを言わず、おつむのねじを締め直して欲しいものである。

※幻の略奪者
 ということで、大量殺傷は、遠距離から侵入した外来者の仕業と見るとして、稲作振興で富・財産がたっぷり貯蔵されると言っても、互いに犠牲の出る「掠奪」で勝ったとして、一年分の米俵を地の果てまで担いで帰るのは戯画ではないか。掠奪行の間、兵士達は精一杯食べるのである。戦果で報いる必要もある。丸儲けとは、ほど遠いのである。むしろ、歩留まりは悪いのである。

 そんな掠奪行は、毎回成功するわけはないし、それでなくても、必ず、互いに死傷する。奪われた側は長年にわたって、収穫不足に苦しみ再掠奪できない。総じて言うと、東夷における掠奪行は持続できない愚行である。そうそう、掠奪行は、牛馬の無い徒歩行であることも、忘れてはならない。さきほど、「担いで帰る」と言ったのは、その意味である。
 服属させて、徴税することにすれば、米俵は、向こうから勝手にやって来て、誰も死傷しないのである。これは、歴史の示すとおり、末永く持続するのである。まことに、賢明である。

※困ったときの「神がかり」
 またもや、司会者は、環濠集落が、「内外隔絶」をもたらし、外のものが内のものを情け容赦なく殺戮したと「神がかり」する。
 どんな根拠で、そのような無頼の論理を練り上げたのか、むしろ、個人的な妄想ではないのかと言いたくなる。環濠集落と言っても、敵襲は、ちょっとした工夫で乗り越えてくるので、「内外隔絶」などできたものではないし、仮に、石や土の壁、城郭を巡らしても、厳重に隔離すれば万事自給自足となり、封鎖されれば早晩自滅と見える。
 何しろ、耕地は、環濠外に求めないと、聚落は自壊するのである。まして、「都市化」などと「神がかり」すれば、集落内の耕地は住居化せざるを得ないのである。
 総じて、司会者は、何かの妄想に駆られて、思考が混乱しているようである。一般向けの古代史番組には、健全な思考力が望まれるのである。人選を考え直した方が良いのではないか。

 また、そうした異様な「文化」、殺戮掠奪思考の「ココロ」が、どこからやって来て、どのように引き継がれたか語っていない。少なくとも、江戸時代以降、そのような掠奪専業者は出ていない。番組の本旨にどう関係するのか。それとも、司会者は、盗みや殺戮が、古代以来受け継いできた、われわれ固有の「文化」というのだろうか。

                     未完

私の意見 英雄たちの選択 ニッポン 古代人のこころと文明に迫る 再掲 7/17

ザ・プレミアム 英雄たちの選択新春SP▽ニッポン 古代人のこころと文明に迫る [BSプレミアム]
私の見立て★★☆☆☆  2018/1/3   2018/02/03記 復元再掲 2021/07/19 補充 2022/10/11

※環濠内外
 言うまでもないが、環濠集落でも、耕作地の大半は環濠外である。隔壁ならぬ環濠は、本来、内外の隔離手段でなく、生活用水路や運搬手段ではないかと思える。また、熊やイノシシなどの野獣の侵入を防ぐ目的も含めて、平時の役目があったはずである。

※時代錯誤、用語錯乱

 それにしても、歴博の方の口ぶりは、時代錯誤連発で、一般人には、理解困難である。一般人に理解困難な言葉を粗製濫造して何が伝わるのだろうか。
 サービス業的な経済観念が芽生えていたとおっしゃるが、当時カタカナ語は一切なかったし、現代語としても「サービス業的な」「経済観念」なる現代風の専門語、一般人が判じかねる呪文めいた用語は、世間に通用していない。当時の社会が見えたとしても、そのような時代錯誤の呪文で何を言いたいのかわからない。そして、そのような呪文は、言いっぱなしで何も補足がない。視聴者がわかろうがわかるまいが関心ない感じである。
 それにしても、当時占い暦があったとはユニークな発想である。だれが暦を伝えどのように広報したのだろうか。時は、鉦や太鼓で伝えられるが月日はどうしたのか。

※付加価値の時代錯誤
 歴博の方は、ここで「付加価値」なる迷言を吐くが、「付加価値」とは、例えば、剣に、束や鞘を付加するように、剣は剣のままで、つまり、産品自体はそのままで、装飾や付属物を付け加えることで、産品全体の市場価値を高めるものである。だから、価値の増えた部分のことを「付加価値」として訴えるのである。金属素材を鋳造なり鍛冶加工して、産品を作るのは、素材から産物に、ものの性質が全く変化するので、価値も一変するのであり、「付加価値」などとは無縁である。これは、現代でも同じである。

※価値の基準なき世界
 また、当時は、広い世界で普遍的な通貨がないから、市場価値なる、価値判断は、当事者によって異なる。
 さらにいうと、素材を買ったときに売り手が評価した価値と産品を売るときに買い手が評価する価値は、比較対照しようがないから、価値の増減は評価しようがない。その意味でも、「付加価値」なる現代用語は、適用しようがない。時代錯誤、用語錯乱の悪例である。

                     未完

私の意見 英雄たちの選択 ニッポン 古代人のこころと文明に迫る 再掲 8/17

ザ・プレミアム 英雄たちの選択新春SP▽ニッポン 古代人のこころと文明に迫る [BSプレミアム]
私の見立て★★☆☆☆  2018/1/3   2018/02/03記 復元再掲 2021/07/19 補充 2022/10/11

*謎の青銅器銅鐸
 淡路島の銅鐸発掘の成果を見て、新たな角度から銅鐸に考察が加えられている。
 因みに、今回の発掘で出色なのは、舌の実物が出土したということである。鐸が、内部に吊した舌によって発音するのは古くから定説となっていて、中でも、内部に木製の舌を吊す鐸は、木鐸として知られていた。
 「銅鐸文明」は、銅鐸を核心とした一つの風俗、宗教体系であるから、核心が滅んで文明全体が滅んだのであり、つまり、文明の担い手が滅んだということである。

※「文明」の大安売り

 特番では、東夷の古代史に「文明」を、捨て値で大安売りしているが、少なくとも、本来の中国語の「文明」は、文字使用と文字記録が必須ではなかったか。いくら芸術的な完成度が高くても、文字なき「文明」は不合理である。以下、仕方なく「文明」と言うが、同意していないことは明記しておく。
 言ってもしょうがないのだが、安直な受け狙いの言葉の安売りは、直ぐ「大安売りの捨て値」が普通の値頃感になって、無感動になってしまう。最悪の販促策である。
 別の場所、別の論者によると、いまや、甕棺埋葬のような、葬礼形態まで、文化、文明視されるご時世である。

 さて、それはさておき、ここで提唱されているのは、銅鐸時代は、日本海から畿内に齎された技術と鉱物で、独自の高みに達したというものである。根本的な不審は、かくのごとく銅鐸を最高の崇拝対象としていたものが、ある日、その崇拝物を残らず埋めてしまう精神構造は想像できないということである。
 一時、鐸を至高と称揚していた支配層が全滅して、銅鐸文化・文明は、断絶したのではないか。その証拠に、今日、木鐸を粛々と鳴らしても、一般人は特段感動しない。

※銅鐸音の衝撃
~また一つの妄想
 民博の方は、『銅鐸音は、初耳に衝撃を与える』と言うが、しょっちゅう鳴らしたら初耳もないものだと思う。そこに、別の専門家による「神がかり」で、「音は思考を停止させる」と言うが、意味不明、理解困難な呪文である。人の思考が停止するのは、死ぬときである。
 それまでも、銅鼓などの金属音は、折に触れ聞けたはずである。いや、思考が停止するような相手がだれか知らないから、断言はできない。

※「神がかり」、また一つ~終わりなき妄想
 司会は、またもやの「神がかり」で、「銅鐸の音が稲の成長を促す」と言う。音の肥料とは物騒である。古代人は、稲の生長に日照と灌漑水が必須であることは知っていたし、収穫期に襲来する雀が、稲穂を食い散らすのは知っていたろうが、金属音を鳴らし続けないと、穫り入れが伸びないとは思っていなかったと推定している。と愚考する。誰も、司会者の「神がかり」を止めないのが不可解である。

                     未完

より以前の記事一覧

お気に入ったらブログランキングに投票してください


2023年3月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31  

カテゴリー

無料ブログはココログ