「古田史学」追想 遮りがたい水脈 3 宋書の「昔」について 再掲
2015/11/5 2023/09/16 2025/03/18
*加筆再掲の弁
最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。
◯はじめに
ここでは、故古田武彦師の遺した業績の一端について、断片的となるが、個人的な感慨を記したい。
「古代は輝いていた Ⅱ 日本列島の大王たち」(古田武彦古代史コレクション20 ミネルヴァ書房復刊「参照書」)の219ページからの『「昔」の論証』とした部分では、「宋書」に書かれている倭国王「武」の上表書に書かれている「昔」に対して、考察が加えられている。
古田師は、持論に従い、こうした特定の言葉の意義は、同時代の文書、ここでは、宋書において「昔」の用例をことごとく取り出して点検するという手法を採っている。
現時点のように、電子データ化されたテキストが、インターネットのサイトに公開されていて、誰でも、全文検索できる便利な時代でなく、宋書全ページを読み取って検索したものと思われ、その労苦に敬意を表する次第である。
さて、ここは、論考の場ではなく、私人の感慨を記す場であるから、参照書の検索と考察の内容は後に送り、ここでは、まずは個人的な意見として、以下の推測を記すのである。
日本語でも、「今昔の感」と言うように、「昔」と言うときは、「今」と対比して、万事が現在と大きく異なった時代を懐古、ないしは、回顧するものであり、往々にして、「古き良き時代」と呼ばれることが多い。
では、南朝の宋(劉宋)にとって、古き良き時代とはいつを指すのか。それは、劉宋時代の中国の形勢を見れば、さほど察するのは困難ではないと思われる。劉宋は、亡命政権東晋を継いで、長江(揚子江)下流の建康(現在の南京)を首都とし、中国全土の南半分を領土としているが、中国の中核とされる中原の地は、北方から進入してきた異民族政権の領土であった。中国人にとってこの上もなく大切な、故郷の父祖の陵墓は、墓参を許されない嘆かわしい事態になっている。
もと中原の住民は、大事な戸籍を故郷に残し、今の住まいを避難先の仮住まいと称していたのである。
こうして考えると、宋書でいう「昔」とは、その時代で言う「中国」が、その時代の天子の治世下で太平に保たれていて、季節に応じて、故郷の風物を楽しみ、墓参に努めることのできた古き良き時代、言うならば中華の世紀である。
なべて言うなら、古くは、史記に記録されていて、半ば伝説と化した夏殷周代であるが、その中核は、儒教の称える周公の時代を想定していたのかも知れない。
周朝の制覇、王朝創業の間もなく、広大な天下が平らげられて戦乱がなくなったことを伝え聞いて、遙か遠隔の地から、越裳と倭人が捧げ物を届けたという、そういう周の遺風が「昔」と言わせるのであろう。
そして、より生々しい秦・漢の時代は、これもまた天下を平らげたことから、古き良き時代として「昔」を懐かしんだものと思われる。
更に時代を下った魏・西晋の時代は、天下太平と言うには、物足りないものがあるが、それにしても、中原領域を平定していたことから、今の状勢と比較して、「昔」と懐かしんだものと思われる。
さて、肝心なのは、倭武の上表文で、「昔」と言っているのは、どの時代を指しているのかと言うことである。古田師は、宋書に登場した「昔」の用例を総点検した結論は、宋書に於ける「昔」とは、古くは、「夏殷周」、近くは、「漢魏」、時代の下限として「西晋」を含むこともある、と言うことであり、上に挙げた個人的な推察と同じ結論に至っている。
つまり、上表文作者の想定したのは、劉宋時代の中国教養人と同様の意義であり、『古くは、「夏殷周」、近くは、「漢魏」、時代の下限として「西晋」を含む』時代を指しているようである。
倭王武の上表文の主たる意味づけは、魏・西晋時代にあるようであるが、「昔」の一文字で、周・漢両朝での倭人貢献を想起させる修辞力は大したものである。
一部先賢(岡田英弘氏)は、倭武の上表文について、「当時の倭国に、このように高度な漢文記事を書く教養があった証拠にはならない、どうせ、建康の代書屋に書かせたものだろう」と倭国作成説を切り捨てている。
しかし、代書屋に倭国の故事来歴の情報はないはずであり、多額の金品を托して代書するにしても、大体の材料を与えられ色々と注文を付けられて書いたものであり、大筋は、倭国側の練り上げた文書であることは、間違いないと思われる。
もっとも、別項で述べたように、国王名義の上書には、国王自署と国王印が不可欠であり、「倭国使節が、建康まで、署名、捺印だけで内容白紙の上書原稿を持参して、代書屋に内容を書かせ、出来上がった国書を国王が確認すること無しに宋朝に提出した」という想定は、あり得ない手順と思われるのであるが、大家の説く所見であるから、言下に否定するのはおこがましいのであろう。
閑話休題
古田師の遺風として、生じた疑問を解き明かすのに、推測ではなくデータをもとにした考察を怠らない点は、学問・学究に努めるものとして学ぶべきものと思うのである。いや、これは、当ブログ筆者たる小生の個人的な感想であるので、当然、各個人毎に感想は異なるのであるから、別に、貴兄、ないしは貴姉から、「意見が合わない」と怒鳴り込まれてもお相手しかねるのである。
特に、ここで論じているのは、古田師の遺風に関する小生の個人的な感想であるから、凡そ議論は成り立たないのである。
以上