古代ロマンの試み 伊豫国宇摩郡 邪馬台国説 こと始め 女王論 5/5 追記
- 2020/05/07, 05/08 05/10 2021/08/23
*女王の姿
女王は、高い継承順位にあった有力国の王族と見ます。中国東部斉地で、氏族代表者は、実子の内、男女各一名を神官と巫女とし、氏神祭事に専念させたようです。この季女(末娘)制は白川静氏の著書に記されています。
倭人伝の手短な共立談義から察すると、政治後継者に不都合があったのか、男王が譲位できない事態に至り、敢えて権威ある神職を起用したようです。
*女子共立
「女子」と言う形容を、古典に即して深読みすると、男王の娘の子、外孫、ここでは、嫁ぎ先で産んだ娘となります。寸鉄の書法です。
つまり、その人は、実祖父である男王の家と、その娘、つまり実母が嫁いだ先の実父家と、両家を受け継いでいたので、両陣営で妥協が成立し、男王も孫への譲位なので納得したのです。遠巻きにして事態を注視していた重臣や第三国も、内戦勃発が避けられたので悦んで同意したのです。
つまり、ここで言う「共立」は、二者合意が支持されことを言うのであって、別に総選挙や諸國氏子の総会を催したのではないのです。
因みに、結構、時代錯誤の理解が出回っていますが、「名卑弥呼」とあるのは、当然親に貰った実名です。他人に名付けされるのは不当です。
*王位継承
本来、子供を持てない巫女は、王位継承に不適格です。それが通ったという事は、決まった短い任期の後、別氏族の宗女に譲ると決めたのでしょう。
終身在位となると、いつ墓陵を造成していいのかわからないし、継嗣も、いつまで待機して良いかわからないので困るのです。俗説で七十才の長寿では、継嗣候補が次々鬼神になって、跡継ぎに困るのです。次代閣僚を期した面々も、とうに世を去って代替わりし国の形は揺らいでいたはずです。
もとより、若い頃から長年不仲であった狗奴国王は、存命としても、老境で、相争うことができなかったはずです。
いや、世にある俗説が、余りに現実離れで、余計なことを書き連ねましたが、古代人は世代交代の難儀を知っていたので延々在世はしなかったのです。
それにしても、中国太古の王制伝統に倣うと、「邪馬」の王統は直系相続と限らず、むしろ、有力氏族間の回り持ちの可能性が高いようです。その時点で若くて意気盛んなものが、各国を導くべきと知っていたのです。
*巡回王都
回り持ち時代の倭都倭王の所在を推定すると、伊都主導の「邪馬」は背なの里山であり、投馬主導の「斜馬」は東方の宇摩の山沿いの地でしょう。
倭都は、多数の官僚を擁する政治経済中心でなく、総社、総氏神の一の宮で、神職小数が在住する門前町であり、伊都を離れて巡回してもも国都は保てましたが、倭都位置は明記できず、不動の 伊都を公的、つまり、中国の天子に申告する国城としたのです。それで、一応の理屈は通ります。
*余談の山
いや、西戎伝から想を得て話しを面白くすると、倭女王は、一ヵ月を四分割した「週」毎に、御神輿のように身軽に各国御旅所に行幸して、直訴まで受け付けて、巡回調停したかも知れません。ちと行きすぎでしょうか。
諸国間調停限定といえ、文書のない時代は実情がわからず適確に裁けなかったでしょう。女王を全知全能と見る人もいますが、それは絵空事です。
*二十年の都
ついでに言うと、当時の建物は、二十年と経たずに建て替えが必要で、千年の都は想定外だったのです。西洋の箴言で「ローマは一日にしてならず」は石造建築で石畳だったのですが、こちらは、精々、丸柱藁縄組みの藁葺きでけもの路だったのです。
ここでは、国を貫くこころざしを見てほしいものです。
〇まとめ
と言うことで、うまく持論を着付け直しできたでしょうか。ともあれ、三世紀は三世紀の心で語るべきで、結果論の無理筋は、最後の最後の手段です。と言っても、ここまでついてきた読者はいないものと覚悟しています。
なお、本件の考証の諸処で、白川静氏の古代史論のお世話になっていますが、いつもお世話になっているという事でもあります。
比較の意味で、伊豫路から畿内纏向に至る行程を図示してみました。余り見かけない経路でしょうが、熱の引いた後に見ていただきたいものです。
*改訂版追記 2021/08/23
今回の改訂は、行程の更新だけです。上図に反映するには時間がかかるので、言葉だけで書き残します。
*一条の「山のみち」
まず、伊都国以後の行程は、上図では、九州島北岸を迂回していますが、その血目に、国東半島から渡海する図になっていて、改訂が必要でした。今回の提案では、図上の伊都国から南下して、谷筋を通り、現在の大分付近の海港に出る案になっています。
上図の案では、途上、多くの国邑を暦するので、何も書かないわけには行くまいと言うことです。山中の抜け道が想定されています。
三崎半島への渡海後は、極力船便を避けるのが賢明と考えました。漕ぎ手の手が要らず、南遷の心配も無い、安定した陸上行程が、当時として最善だったろうという事です。改定案は、基本的に、「中央構造線」が大地に刻み込んだ真一文字の道筋が頼りであり、当時、当地では、最強の輸送路であったと見るのです。後世、瀬田内海の難所が克服され、「海のみち」を通じた大量輸送が始まると、この「山のみち」は、歴史の闇に沈んだのでしょう。
以上は、一介の素人の紡いだ物語ですから、ほころびがあることは言うまでもありません。一時の夢物語であれば良いと願う次第です。
以上