フィクション

思いつきの創作です。論考ではありませんが、「ウソ」ではありません。

2023年5月15日 (月)

古代ロマンの試み 「伊豫国宇摩郡邪馬台国説 こと始め」 序章  1/5 補充版

              - 2020/05/07, 05/08 05/10 2021/08/23 補追 2023/05/10, 11, 12, 15
〇始めに
 本考は、当ブログでは番外も番外、長く続く外出自粛の夜の夢物語(ロマン)の試みです。果たして、一幕の随想としてうまく繋がるかどうか。
 ここでは、後のまとめを書き足して、5回ものにしました。(05/10)

*ロマンのお断り
 当ブログの読者には、「倭人伝」道里記事の「エレガント」な解釈を主張している記事と整合しないことに御不満の方もあるでしょうが、当記事は、「邪馬台国」比定記事の溢れる中で、今ひとつの「解」を提起したものでもあり、これまで、見過ごされていた記事解釈を殊更に読み込んでいるものです。部分的には、従来提起してきた解釈の構成要件を再確認しているので、一応の存在価値が示せているものと考えます、

*「邪馬台国」便乗のお断り/お詫び
 ここまで、大事なことを言い漏らしているので、慌てて、追記しますが、当ブログは、倭人伝原文を基本としているので、世上溢れている「倭人伝」には存在しない「邪馬台国」は、誤謬として排除しているのですが、本稿に限り、爪を隠して「邪馬台国」としています。
 別に、「長いもの」に巻かれているものではないので、よろしくご了解下さい。

*訂正の提案 2023/05/12 再確認
 当初の構想では、単なる「思いつき」の書き止めであり、本来の考証記事にしては、随分雑駁なものだったのですが、少数ながら熱心な読者がいらっしゃって参照されているように見えるので、ここに、不本意な、意図していない「誤解」を避ける書き込みを、延々と書き足しています。よろしく、趣旨ご理解の上、適切な引用を進めて頂ければ幸いです。
 世上、過度に性急な論者が少なからずいらっしゃって、前置きや但し書きの読み捨てどころが、記事自体の文脈を破壊して、単語や短文を切り抜いて、取り出して論評されることが散見されるので、そのような不当な引用を避けるように切にお願いする次第です。

 私見によれば、世上流布している「定説」、「通説」は、意図的な誤解をこめて「倭人伝」を書き換えて読んでいらっしゃるので、思わぬ所で異議が出て来るのですが、当ブログは、原文に根ざした解釈を優先しているので、「通説」に囚われている諸兄姉には、この際、ご高説を再考して、つまり、考え直して頂きたいというものですが、これは、もう一度一から考え直すという趣旨でなく、「通説」を棄てて、「正しい」道を採るものではないですかと、婉曲に述べているのです。

                     -記-

1.戸数談義~「七萬戸は全国戸数」

 「通説」は、俗に言う【邪馬台国】が北九州に存在しない」という崇高な使命を果たすための「伏線」として、「可七萬餘戶」を[邪馬台国]の戸数と決め込んでいるように見受けますが、それでは、「倭人伝」が、主題として報告している全国戸数が書かれていないことになり、誠に、誠に不都合です。
 「七萬戸は全国戸数」とすれば、当時の皇帝を始めとする高貴で性急な「読者」が、全国戸数を足し算する必要はないのです。これは、当然の理屈なので、前例を求めても仕方ないのですが、整然たる正史の典型とされている班固「漢書」西域伝を確認するまでもなく、各国の紹介には、国名、国王の居城名、道里、戸数が、必ず書かれています。
 但し、「倭人伝」を冷静に読めば、行程記事の最後に書かれているようにも見える「邪馬壹国」は、「女王之所」、つまり女王側近だけの「聚落」であり、いずれかの国、ここでは、伊都国の勢力下/領域内に庇護されていると見えるので、農業生産力や動員可能兵の力を示す「戸数」は無意味であり、また、既に伊都国が、郡からの文書を査収していて、「倭人」からの応答がなされるので、伊都国から「女王之所」までの、道里も無意味ということになるように思量します。

2.「余戸」、「余里」は、概数表現、概数計算は、一桁単位
 世上、「倭人伝」に書かれている『「余戸」、「余里」は、書かれている戸数や里数に、正体不明の端数が足されている』との誤解が蔓延していますが、これは、当然ながら、書かれている概数、例えば、「七万」余戸は、詳細不明の千戸及びそれ以下の桁の出入りがあると書かれているのに等しいので、奴国「二万余戸」に投馬国「五万余戸」を足した「七万余戸」で十分であり、対海国、一大国、末羅国、奴国、不彌國の諸国のように「千戸」の桁で切りよく書かれている千の桁の「戸数」を足しても、「七万余戸」に変わりは無いのです。因みに、戸数は、その戸数だけの収穫物が納税されるとか、戸数ごとに兵士を徴兵できるとかの統計指標なので、どこにあるかすらわからない「国」は、計算できないので、「全国戸数」に関係ないのです。
 例えば、伊都国の中核を占めている「国民」は、今日でいう「国家公務員」であり、俸給(粟)を給しているので、ここから税を取るのは、無意味なのですから、基本的に税務の対象外であり、免税なのです。つまり、人の頭数は、戸数から知ることはできないのです。同様に、「国家公務員」を兵役や公共工事の労役に動員するのは、無意味なので、その意味でも、「戸数」から、「人口」を推計するのは、無意味なのです。
 こうした原則は、当時の読書人の教養では当然のことなので、書いていませんが、「七万余戸」などと一桁数字で書いてあるだけで、「七万五千余戸」などと書いていないことで明らかです。知らなかったですまないのは、当然の批判です。
むしろ、一桁数字であっても、切りの良い数字に飛び飛びに配されているので、よく言われる、倭人伝の奇数偏重の由来が見て取れるのです。
 同様に、「数千」とあるのは、なべて五千程度のことであると決め込むのも、無理な言い張りです。ここでいうなら、一万までの千単位の概数を大雑把に四分割して表現するとき、二,三千程度をざっくり表現するときに常用されたとみるものではないでしょうか。つまり、当時の概数感覚では、「五千」に届かない範囲を「数千」と切りを付けたと見るものでしょう。

 また、時代相応の感覚でいうと、五千の上の七,八千は、ついつい「万」に繰り上げられるものと見えますが、これは、世上言われる「誇張」などではなく、要は、切りをつける感覚にすぎません。

 三世紀当時といえども、厳密な計算が行われる場と概数が起用される場は別々なので、当時、すべての計算が概数であったとみるのは、当記事の議論を誤解するものです。元に、後漢書、晋書に記録された全戸数の集計値は、一戸の桁まで明記されていて、そのような計算の際には、各桁ごとに、つまり、一桁概数計算の数倍の手数を掛けて、精緻を極めて計算を行ったと見えます。

 同様に、千里単位で書かれている「倭人伝」の道里計算で、百里の桁の諸国道里は、計算に関係しないので無視してよいのです。まして、明記されていない、仮想された道里は、計算に加えるとしても、精度に関係ないのです。

3.倭人伝の「水行」は、「海(うみ)を行く渡し舟」
 「水行」は、本来、つまり、適法な用語では、「河川を船で進む」ことを言うのであり、夷國への行程記事に使われることは一切無いのですが、「倭人伝」では、渡し舟で対岸に行く「渡海」として新たに定義しています。定義した以上は、「倭人伝」の道里行程記事の最後の「都水行十日陸行一月」まで「水行」は、その意味で書かれているのです。

 因みに、本来、道里行程記事は、陸上行程と決まっているので、「陸行」と断る必要は無いのですが、「倭人伝」行程記事では、末羅国で上陸すると、そこで、「水行」が終了するのは自明なのですが、高貴な読者が誤解して、激怒することが無いように、「陸上」を騎馬あるいは徒歩で行くことを明示したものであり、あえて前例のない「陸行」としているのです。
 もちろん、高貴な読者に、書庫から、「馬班」、つまり、司馬遷「史記」と班固「漢書」を引き出して、数百巻に及ぶ各巻を卓上に展開して、前例を検証するような難業を課することがないように、「倭人伝」の用語は、読者の教養の及ぶ範囲にとどめ、「水行」はその場で定義し、「陸行」は「水行」と退避して、「倭人伝」用語に起用したと見るのです。
 そのような「倭人伝」用語は、当然、魏志上程時に、時代最高の知識人の監査に耐えたものであり、史官の独断で書いたものが、そのまま今日まで伝わっているのではないのです。踵(きびす)を正して読むべきものなのです。

4.東夷に「王都」無し
 ついでながら、「倭人伝」は魏朝国内記事ではないので、「倭国」の「王」は、本来の「王」でなく、当然、「王之所」に「都」(みやこ)は許されないのです。
 先に挙げた「都水行十日陸行一月」は、そこまでに書かれた行程を総合すると、「都合」「水行」十日、「陸行」一月と言う意味であり、「水行十日陸行一月」が、部分的な日数と誤解されないように「都」を前置きしているのです。異例の書法ですが、三世紀の史官には、当然、自明の事項であり、異例の書法に先例がないのをもって、自明/当然の解釈を否定するのは、大胆不敵であり、もってのほかです。

5.史官の筆法
 史官の筆法は、誠に慎重、かつ、明解な書き方を守っていますから、後世の読者は、ご自身の限られた知識に頼るのではなく、広く史料を学習して、丁寧に理解する(べき)ものなのです。

 愚考するに、世上、無秩序な「邪馬台国」論義が繁盛しているのは、三世紀史官の提示した「問題」の題意を解し得ない、現代東夷の「落第」生が、自然なままの「混乱した」著作を公開しているからと思われます。

 この点は、古代史学会の先哲である榎一雄師の提起されたところであり、しかるべき敬意をもって、先賢の至言を受け止めるべきでしょう。
 
〇また一つの「邪馬台国」説
 事は、ありふれた邪馬台国比定説ですが、その始まりは「字面」(じづら)です。
 ご存じでしょうか。中国古代算術で、「邪」田は田地が斜めの平行四辺形ですが、廣従(幅縦)を掛ければ、方形の「方田」同様に面積計算できます。

 ここで、「邪馬」は、東北方向に向いた「斜馬」(ななめうま)であり、当記事筆者が思いついたのは 、愛媛県の地形です。子供のいたずら書きみたいですが、伊豫/愛媛を、東北方向(邪道)に駆ける馬に見立てて、発想を繋いでいくのです。

 ついでながら、古代の「知識人」は、教養が豊かなので、「邪」「馬」と並んだに文字に、ずいぶんいろいろな意味を込めていたと考えるべきではないでしょうか。

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*存在価値
 なお、この絵姿は、当考察のきっかけに過ぎず、「絵が下手」とか「馬じゃない犬だ」と断じても、考察の批判には、ならないので、うずたかい邪馬台国所在地諸説のすき間で、一つの「仮設」として、ひっそり生き延びられないものかと思っています。

*自画像ならぬ「児画」像
 三世紀当時、倭人の「王之所」が、伝承によって、「伊豫」にあったと想定されていたとすれば、国王の手元に自国絵図が届いていても「おかしくはない」(別に失笑されてもいにとめない)ので、中国語国名として「斜馬」ならぬ「邪馬」国を称したか、世間並みに、つまり勝手に推定、憶測します。

 誠に下手ですが、当時、「倭人」世界には、獅子も虎もいなかったように、馬も出回っていなかったので、うまく姿が描けなかったとしてください。いやいや、地形は造作できないので、ただの「つかみ」、話の「とっかかり」とします。受けずに滑ったとしたら、ごめんなさいです。

*投馬国「水行」説再考
 さて、魏志「倭人伝」道里記事は、朝鮮半島中部の「帯方郡」から、南方の狗邪韓国の「海岸」から、目前に広がる「大海」の州島を渡り継いで、「倭」に至る「公式行程」、つまり、最短、最善の街道行程を、手短に、つまり、明快に説明するために、まずは、郡から南下して、韓国南端の狗邪韓国まで街道を進み、大河を渡るのに州島(中の島)を飛び石として踏んでいくように、三度の渡海/水行で大海を渡り、九州に上陸した後、陸続きの末羅、伊都、不彌を経た上で、改めて、投馬へ改めて「水行」したとも読めないことはないようです。(そのように解釈する人がいるので、そこにもう一人便乗、参加しても、不思議ではないでしょう)

*「倭人伝」の骨格
 普通は、誤解されているのですが、「倭人伝」道里行程記事は、それまで知られていなかった新顔の東夷に至る行程を、皇帝に報告したものであり、皇帝は、倭人に対して「下賜物」を送り届ける大事業を承認するに当たって、既に道里行程記事を承認しているので、これに従って、所要日数などを確かめた上で使節団の派遣を承認したのです。
 つまり、東夷折衝の実務を管轄している帯方郡は、韓国も含めて行程上の諸国に通達して、移動日程、受入準備を確認し、報告を受けた雒陽の官人は、帯方郡の確認を得た上で使節団を発進させたので、使節団は前途の行程を承知した上で出発したのです。そのように、諸々の手順は、当然、自明なので、殊更書かれていませんが、何も書かれていないということは、万事順当に行われたと言うことです。
 雒陽の官人は、規則厳守の曹魏の規則を熟知していたので、使節の指名が不達成の時に、自身に責任が及ぶのを、頑として回避したのです。何しろ、皇帝命令の達成が不調に終わった時、責任を問われると、自身だけでなく、妻子、親族まで連座して、処刑されるので、行き着くあてのない使節の出発を見過ごすことはできないのです。
 つまり、使節団が発進するからには、雒陽を発して 倭に至る各地の責任者から、確約が届いているのであり、当然、倭が実道里で万里、いや、万二千里の彼方ではないことは、理解していたのです。むしろ、片道、精々、四十日であり、渡し船で「大海」を越えた後、数日で「倭」に至るという「実績」を承知していたとみるべきです。
 曹魏の厳然たる「法と秩序」体制を知らなくても、皇帝の厳命を受けた膨大な下賜物を、送達の確証なしに送り出すことなどありえないのであり、各地の確認を得るまでに、半年かかろうが一年かかろうが、頑として発進を許可しないのです。世上、蕎麦屋の出前のように、用命を受け次第即納することを当然と見ている向きがありますが、いろいろ勘違いを重ねていることを自覚いただきたいものです。

 端的に言うと、「倭人伝」道里行程記事は、決して、派遣された使節団の報告に基づいて、後日、新たに作成したものではないのですが、結論だけ切り取って論じるのではなく、結論に至るまでに、しかるべき時代考証を、丁寧に、幾重にも重ねていることまで、理解いただきたいものです。

*「水行」の臨時定義
 中国史書で、「街道は陸上を往く」ものなので、史書では「陸行」とは言わないのですが、倭に往くためには、「大海」、つまり、韓国の南に「倭」、臨時に、つまり、『「倭人伝」に限って有効な用語」として定義しています。
 因みに、前例のない事項の前例を求めるのは、無茶というものです。

 当時、陳寿「三国志」魏志倭人伝の道里行程記事について、並行する街道の存在しない「渡海」に適用する「水行」の臨時の定義/用法について、非難はなく、後年、詳細に審議した裴松之(南朝劉宋)をはじめとするそれぞれの時代の権威から、異議が出ていないことから、「水行」に関する陳寿の筆法は、正史の記法として、当然のものとして承認されていたと見なければなりません。

 再確認すると、「水行」は、言葉の意味から言うと、河川行に決まっているのですが、「倭人伝」は、現代で言う「渡海」を「水行」と宣言したので、海を渡る「水行」は、不法なものではないのです。
 つまり、投馬に至る「水行」も「渡海」、つまり、甲板も船室もない、むき出しの手漕ぎの小舟で渡るもので一日行程ですが、なぜか、二十日の「水行」と書かれています。これは、実際の行程では、二十日近い陸上行程を計上しているものと見えます。このあたり、「倭人伝」の本来の道里行程記事ではないので、二千年後の東夷には、はっきりしないのです。

*乗り継ぐ船路
 現代人が思い浮かべる関門海峡は、今日の強力な船舶すら、易々通過できない難所であり、非力な手漕ぎ荷船を阻むので、投馬国に往くには、陸上街道を大きく南に迂回する経路としたと見るのです。

 不彌から投馬へは、まず南に踏み出して街道を進んだ後、東に転じて、国東半島の南で「海岸」に出て、海津、つまり、海港で便船に乗り込み、馬のしっぽに見立てた三崎半島に渡りますが、それが、三世紀までの東西交易の主力経路として常用されたと思う次第です。

 便船は、一船、一商人の乗りきりでなく、必要に応じ乗り継ぎしたと見るのです。荷船乗り継ぎは、当時、自然であり、港で荷下ろしして浜市で商った荷を積んだ次の商人の便船が進んだ、細くしなやかで、長続きする交易連鎖と見ています。

*続く旅路
 と言うことで、水行二十日の「投馬国」は、まだ少し先です。

 松山界隈から伊予灘を北上しますが、芸予諸島の難所を嫌って下船し、半島最北部を手短な山越えで横切り、今日の今治、後の伊豫国衙の地に出て、大三島の南方で便船を拾い南下したと思われます。

*続く旅路 改定 2021/08/23
 一年余りの間に、多少良い知恵が湧いたようです。松山界隈から伊予灘を北上するのを撤回し、中央構造線の地殻変動によって形成された、比較的なだらかな峠越えのみちで、現代の西条、燧灘南岸に出る行程を採用しました。

*投馬お目見え~「道前投馬国」説
 そこからは、島影の見えない、穏やかな燧灘の旅であり、現在の西条に達しますが、本論では、ここを「投馬」国と見ています。山場を越えた割りには、劇映えしないのですが、それは、命がけの難所ではないからです。

 勿論、細々とした商いなので、海賊は、出てこないのです。

*改訂版 2021/08/23
 初期の伊予灘~燧灘行程は、当時としては、十分な思案のあげくですが、そのあと考え直したので、当面の最新結論を書き残します。

 丁寧に、この間の陸路を模索すると、四国中央部を東西に走る中央構造線のおかげで比較的通りやすい経路が見つかりました。つまり、今日の伊予市から石手川沿いに現在の東温市(Tooncity)までゆるやかな上りであり、ここに、中継地を設けて、現在の西条に向けて山越えすれば、山道とは言え、比較的難路の少ない行程で到達できることがわかりました。つまり、船便で高縄半島北部まで行かなくても、「目の前に」山越えできる道があったのです。

 後ほどでてくる四国中央市からの東向き街道は、東方の吉野川上流の現在の池田に向かって、やはり、中央構造線の谷みちを利用してゆるゆる登っているので、実は、鳴門海峡付近に出るまで、中央構造線沿いの一文字の径と言うべきかも知れません。「径」と言うのは、中国の制度で言う「道」の規定にあるように車馬が対抗できるように、幅広く、平坦に整備されたものではなく、担った人が、黙々と往き来できる「禽鹿径」をいうのであり、時に、誤訳して「けものみち」と解されているものではなく、古代公道(Highway)であったことには間違いないのです。

 拙稿旧提案の高縄半島北部にいたる船便は、貴重な船腹と漕ぎ手を長く労する上に、伊予灘の海況次第で難破する危険を抱えていたのですが、今回の提案では、短期間の山越えであって行程に危険は無く、労力と言っても、小分けした荷を農民達を動員して、必要なだけ人数を掛けて、先を急がずにゆるりと運べば良いので、大したものではないのです。いや、もともと、古代に於いて、遠隔地まで運んで商売になるのは、軽量、少量で売り物になる貴重品であり、例えば、黒曜石、翡翠、朱などが考えられます。西域においては、絹製品、貴石、玉などが挙げられますが、本稿では、論義を差し控えています。
 因みに、当行程は、ほぼ終始、海産物の豊富な地域を通るので、干し魚などの海産物の行商は、商売にならないでしょう。又、食塩も別に不自由していないので、海塩は、売り物にならないでしょう。

 言うまでもなく、農民達に課せられた義務は、収穫物の税務だけでなく、年間一定日数の勤労奉仕、労務も含まれていたので、ただ働きではないのです。もちろん、折角の動員ですから、食事が出るだけでなく、多少の小遣い稼ぎにはなっていたでしょう。そうでなければ、こうした行程は維持できないのです。

 また、行程上の要所で、市(いち)を開いて、売り買いすれば、はるか東方まで行き着く前に、荷が売りさばけてしまうかも知れませんが、その時は、市で仕入れた荷をまとめて、次に進むのかも知れません。

 と言うことで、本説で言う投馬国「西条地区」までの行程は、現在の大分付近から三崎半島に至る手短な「渡海」(倭人伝で言う「水行」)を除けば、並行する陸路で支えられているので、荷船を起用したとしても、官道経路としては「陸行」ですが、書類上は「水行二十日」に括られてしまったということでしょうか。渡船は、甲板船室もなく、一日行程が前提なので、二十日を要するのは、二十回の乗り継ぎであり、そのような行程は、どこにもないのです。

 と言うものの、毎度のことですが、史料に書いていないことはわからないのです。

                              未完

2023年5月10日 (水)

古代ロマンの試み 「伊豫国宇摩郡邪馬台国説 こと始め」 半終止 2/5 追記 再掲

              - 2020/05/07, 05/08 05/10 2021/08/23 補追 2023/05/10, 11

*霊峰と神井の投馬

 時に、不彌国から「水行二十日」と解釈される投馬国に至る道里記事は、あくまで目安ですが、山越えの連絡を含め、さほどの見違いはないと見ています。

*「石鎚の山」、「伊予の海」 余談
 投馬の南に聳える石鎚山は、今日、西日本随一の二千㍍級高山ですが、弧峰でなく、競い合う高嶺を連ねた石鎚連峰となっています。

 高校野球の名門、松山商業の校歌は、冒頭で「石鎚の山伊予の海」と叙景していますが、松山から石鎚は見えず、して見ると、伊予の海も松山の前面に広がる伊予灘でなく、燧灘かと思うのですが、引き続く「金亀城頭春深し」は、名城松山城を謳うので、思い過ごしでしょうか。
 今回の改訂で言うと、伊予灘から石鎚の高嶺を目指していく行程とも見えるので、古代には、伊予灘は石鎚連峰の裳裾と感じていたとも思えるのです。

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〇豊穣の投馬国

 当地は霊峰のお膝元で、南方の太平洋からの熱く湿った海風が、高峰に冷やされて雨として、山肌に降りしきったものが豊富な地下水となり、小雨地帯である燧灘南岸でも、「神井」の掘り抜き井戸は自噴する「水の宝庫」であり、投馬国は、戸数の如く国力随一と思われます。

*水神 余談

 水田稲作は、期間を通じ、強い日射、温暖な気温と共に、潅漑水量が潤沢でなければならないのです。水の神に守られた投馬と言うことです。むしろ、夏季は、晴天日が多く、降水量の不足が懸念され、後世ため池が造成されます。「天の恵み」を願うなら、水の恵みと思うのですが、それにもかかわらず、水神が最高神でないのには不審を感じます。太陽の熱は、力強い男神に相応しく、水の艶は、豊かな女神に相応しいと思います。

 あるいは、男性の太陽神と女性の水神が、文字記録のない世紀を超えている内に交錯して、太陽女神が最高神、水神は壁の花になったのでしょうか。

〇斜馬国にいたる道

 続いて、特に難関もなく、くにざかいの丘陵を幾つか越えて、後世宇摩(馬)と呼ばれた伊豫東界につきますが、ここが、「斜馬」(邪馬)国と思われます。
 かくして、「邪馬台国」に到達したのです。特に轟音も響きませんが、漠然たる四国説ではないのです。難所を避けた「海路」を時代考察しているのは、実は、目新しいはずなのです。

*合わない勘定

 諸兄から、宇摩は、投馬のすぐ向こうだから道里記事に合わないと言われそうですが、書かれている水行十日、陸行三十日は、帯方郡からの全所要日数であり、投馬や不彌からの日数ではないと見る説に従うのです。或いは、行程道里で、榎一雄師が提言し、当方も「至言」、つまり、最終決着と見ている「放射行程」説、実は、伊都国終着説に背いて、伊都国から、奴国、不彌國を経由して投馬国に至り、其の向こうに「邪馬壹国」があるという地理観に従っているので、変節と見えるかも知れませんが、今一つの「解」を提示しているだけで、排他的な立案ではないのです。

 とにかく、辻褄合わせは難儀ですが、それは、別途考えることとして、話を進めます。

*伊豫の二つの顔、二つの名

 今日、伊豫は、大変字画が嵩張って、面倒がられている「愛媛県」ですが、盛時には、「四国」全島を「伊豫」と呼んでいたと想定しています。その時代、「宇摩」は、政治経済中心だけでなく、地理的にも、大「伊豫」中央と見えます。勿論、二、三世紀同時、四国全島を易々と支配していたとは思えませんから、多少誇張気味にそう称していたのでしょう。

*宇摩三嶋の由来
 後世に至るまで、伊豫三嶋神社として船人の絶大な尊崇を集めた大山祇神社ですが、暴風の高波でご神体の一部が流出し、燧灘の海流に乗って宇摩の海岸に辿り着き、祀られたのが、宇摩の「三嶋神社」の起源として伝わっているように、宇摩は、大三島と大変縁が深いのです。

                               未完

古代ロマンの試み 「伊豫国宇摩郡邪馬台国説 こと始め」 偽終止 3/5 追記 再掲

              - 2020/05/07, 05/08 05/10 2021/08/23 補追 2023/05/10, 11

 ページ割りの都合で、末羅からの行程図をここに載せます。
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*伊豫路の旅
 旅路は、宇摩で果てるのでなく、さらに東方に続くのですが、当時は、伊吹島から備讃瀬戸に出る経路が、明石/鳴門海峡の難所に阻まれるため、これを迂回して陸路に転じ、今日の阿波池田へ山越えした後、吉野川沿いに進んだと見ます。あるいは、深く刻まれた吉野川河岸から川船で通ったかも知れません。いずれにしろ、中央構造線をたどる「径」は、細くても、大きくうねることはなく、容易にたどれたはずです。

*黎明期の東西交易要地
 最終的に、鳴門海峡の東方に降り立つので、全体を通して、難所のない、つまり、遅くても確実な瀬戸内海航路となります。各地の商人には、少ない人材、機材と短い日時で見返りの得られる、確実な商いが続けられます。

 と言うことで、宇摩国は、荷船が瀬戸内海を往来できなかった時代、九州北部と淀川水系を繋ぐ要地であり、物資の集散地であったように思います。

 世上、阿波国を流れる「吉野川」の河口から、真東を河口とするもう一つの「吉野川」は、古来から、一つの河川として親しまれていたとする私見があり、或いは、太古、中央構造線の路は、河内湾を越えて、紀伊半島に続いていたかもしれないのですが、途方の調べられるものではないので、一応、ここが終着としておきます、
 因みに、紀伊半島を東に進むと、いずれかの地で、中央構造線の径を離れて、奈良盆地に入ることが可能ですから、常識的には、奈良盆地に入る最南の「径」として、太古以来、通用していたことと思われます。

 後年、宇摩の背後の山地に豊富に自生する楮(こうぞ)、三叉(みつまた)を活用した製紙業が地域産業となったことも、付記しておきます。

*完稿宣言

 か細い論理の鎖ですが、平和なオチが付いたので、ここにお披露目します。

*図版の著作権確認 [重要]
 添付図で、愛媛県の地形図は、特に著作権の主張されない公有の地形図から作成したものです。下手くそな馬の絵は、自作です。後は、GoogleMapの3Dビューで生成した架空視点展望ですが、利用条件に従い、著作権情報を残し、最低限の注記を付記しています。
 一部の篤実なかたを除き、著作権に関するコンプライアンス意識が低い論者が多く、無造作な盗用が目立つので、念のため書き残しています。今回の例でも、Googleの設定している制限は緩やかなものですが、簡単な付記を除き原図「無改造」引用が原則であり、勿論、権利表示は隠さないことが必須条件です。

 ここでは、PDF出力を介してJPGファイルにし、文字書き込みなどしているものです。おわかりのように、本来、大小随意ですので、興味のある諸兄は、GoogleMapを試したらいかがでしょうか。
 画面表示のため横1280ドット程度に縮小したので、細部は見えにくくなっていますが、提供された図版で見て取れる適切な遠近感は、遠景のかすみ具合も含め絶妙で、本小論が追求する現実的世界観を支持するものです。

 なお、ここに示された架空視点には、昨今多用される精密地図の空々しさはなく、当時識者の世界観、近年言われる空間認識を想起させるものと見ていますので、時代錯誤の非難は、ご勘弁いただきたいのです。

*遠すぎる楽土
 GoogleMapの助けを得て、九州北部末羅から宇摩の想定経路を計測しましたが、400㌔㍍を越え五千地域里程度(概数)のようです。いずれにしろ、経路はあくまで推定であり、海上部分は測量できず、数字に大した意義はないのです。

 難路を避けて順当な日数計算として、船待ち、潮待ちを見込んで、不彌国から「水行二十日」に押し込めても、郡から倭まで万二千地域里を、かなりはみ出します。 これは、この場では説明しきれず、別途談義します。このあたりは、日頃批判する各地説と同断で、慚愧の至りですが、遠隔地比定の宿命とご理解いただきたい。

*謝辞
 本小論の推進にあたり、合田洋一氏の提唱された、西条付近を含めた越智国を往時の地域政治経済中心とみた諸論考を参考にしましたが、敬意を払いつつも過度に依存しないように気をつけたので、この場で謝辞を述べるに止めます。また、各種郷土史事項は、現地常識と理解いただきたいのです。
 論文ではないので、細々とした出典は省略します。

*仮泊まり
 なお、全体の筆致、特に、宇摩考察でおわかりのように、当記事は、筆者の生まれ育った地を、半世紀を隔てて回想して書き出したものです。
 他の記事では、諸兄の考察を我田引水と批判していますが、筆者とて、生まれ育った地への愛郷心は持ち合わせているのでつい甘くなっているのです。
 と言うことで、懸案を残しつつ、一旦締めくくります。

                               未完

古代ロマンの試み 「伊豫国宇摩郡邪馬台国説 こと始め」 王都論 4/5 追記 再掲

              - 2020/05/07, 05/08 05/10 2021/08/23 補追 2023/05/10, 11

〇治まらない道里論
 本編では、道里論議は棚上げしましたが、図上測量で、末羅から投馬まで450㌔㍍、千普通里と見ると、六千地域里になり、道里を通算すると、全行程万二千地域里に治まりませんから、持論の「エレガントな解法」では、説明困難です。
 とは言え、ここでは、困難は不可能と同義でなく、やり甲斐のある難題とみて、以下の様に組み立てを変えてみました。
 時代考証を練り直し、国の身の丈に合わせて着付けを工夫して見ましょう。

800km_s
*倭人の国の姿
 公孫氏以来、郡倭通信往来で、郡文書使は伊都止まりで、倭への万二千里も、通算四十日も、伊都を倭の首魁と見るのです。つまり、「倭人伝」の描写は魏使の創作とも見えるので、倭人の国の姿を再考証する必要があります。
 郡との「外交」は、伊都王が全権委任されていたので、王への報告の往復日数は勘定していないと見えます。伊都駐在の大宰、大夫が代行したかも知れません。

*安息国先例
 そのような対処は、中国にとり先例の無い無法なものだったのでしょうか。
 そこで想起されるのは、史記大宛伝、漢書西域伝、魏略西戎伝、後漢書西域伝に書かれている、西方の超大国安息国(パルティア)との交渉です。
 安息国は、武帝が最初の使節を送った頃に現在のイラン高原、南北数千里の広大な国土を確立し、「王都」をメソポタミアに置きましたが、王国発祥の地で、歴代王墓の地、カスピ海東岸南方の「安息領域」、今日マーブ城塞と見ている軍事拠点を東都としていました。
 漢書にも、漢使が東都に到着すると、西方数千里の「王都」に急使を発し、知らせを聞いて駆けつけた王の使節が親しく漢使を歓迎したと書かれています。因みに、班固「漢書」西域伝で、多数の蛮夷の中で、安息だけが「王都」を名乗っています。
 「国交」樹立の際を含め、両漢は、西域都督使節を派遣していますが、使節が西方の「王都」を訪れたことはなく、副都を安息国都と扱っていました。

*漢使王都訪問記の不在
 班固「漢書」から笵曄「後漢書」に至る正史記録は、副都を安息国王治所として、漢都(長安、後に洛陽)からの里程を記録し、後漢書に至っては、この「国」は、「小安息」であって南北数千里の大国ではないとしています。この点は、笵曄「後漢書」に先行する魚豢「魏略」及び袁宏「後漢紀」の西域記事からも、伺うことができます。

 安息は、独自の文字、文化を有し、漢帝国に匹敵する堂々たる古代国家であり、漢に服属しませんでしたが、相互に敬意を払う「国際」関係だったようです。そして、使節が王都を訪問せず、副都で「小安息」王に接見するだけで、漢安関係が魏代の安息亡国まで維持されたのです。
 当然、訪問していない王都への往還記、情景描写はなく、班固「漢書」西域伝は、安息国長老、恐らく、小安息高官のカスピ海東岸からの眺めを記録し、西方メソポタミアからの眺めは見当たらないないのです。
 陳寿は、笵曄「後漢書」を読んでいないものの、班固「漢書」と魚豢「魏略」西戎伝を熟読していたので、伊都国を倭王治扱いした記録に筆を加えなかったのです。
 因みに、古田武彦氏は、「倭人伝」解釈の際に、班固「漢書」西域伝に言及していますが、「安息国」(パルティア)を、イラン高原全体を統一支配したアケメネス朝の「ペルシャ」と混同して、そのために、「安息国長老」の言の趣旨を誤解したようです。

*魏使の成り行き推定
 こうして見ると、魏使が伊都国に止まり、そこに、女王の代理人が臨席することにより、魏帝の下賜物が、印綬と共に女王に嘉納されたことや、帯方郡からの道里が、所要期間と共に、伊都国までの行程に対して記録されたことも、無法なものではないことがわかるのです。
 いえ、決定的な意見ではないものの、古田氏初め、この際の魏使が女王に謁見しなかったとの解釈に異を唱えている諸兄への有力な反論とみるのです。

*緩やかな国家像~2023/05/11補充
 以上のように解明すると、伊都国から投馬国への里程は、水行二十日とあるものの、続く、倭王治への行程は記述されない理由が一応説明されるのです。
 また、倭王治描写は紋切り型で、現地踏査したものでない事情がわかります。
 あるいは、以後数世紀の何れかの時代に、女王の権威や王治は変貌したでしょうが、「倭人伝」記事から推測されるのは、緩やかな国家像です。文書統治が存在しない時代、騎馬文書使が往来する街道がなかったので、往来に何十日もかかる遠隔の諸国とは、「通」じることはできず、「絶」と見ざるを得なかったはずです。
 「倭人伝」には、「一大倭」が、対海国から末羅国に到る行程上諸国に置かれていて、各国の政治を監査していたと言うことですが、恐らく、文書通信のできる識字官僚、つまり、計算/記帳のできる管理者を常駐、ないしは、巡回させて、意志の疎通、さらには、現地官僚の養成を図っていたものと見えるのです。もちろん、対海、一大の両国は、街道連絡ができませんが、文書で意思疎通すれば、当時としては、緊密な連携が維持できたと見えるのです。

*「一大率」の起源~2023/05/11補充
 因みに、壹與の遣魏使記録に登場する「倭大夫率善中郎將掖邪狗」は、要するに、それまで単に「大夫」として魏官制に抵触していたのを「倭大夫」として、東夷独自の官制としたものであり、倭人官僚の教養を示したと感じさせます。

 単なる思いつきですが、ここに書かれた役職「倭大夫率善中郎」を略称すると、「倭大率」ならぬ「一大率」の通称が得られると見えます。因みに、「一大率」は、伊都国が、行程諸国、つまり、女王国以北の末羅、一大、対海の列国に派遣したものと見えます。投馬国は、遠隔で「絶」なので、対象外ですが、「奴国」「不彌國」が、「一大率」の派遣を受け入れていたかどうかは不明です。

*史学に基づく「サイエンスフィクション」~2023/05/11補充
 概して、諸兄は、「倭人」に、後世風の強力な「律令」国家の萌芽を想定しているのですが、文書統治の確立なくして、鉄血国家は、成立し得ないし、そのような時代錯誤の強権国家の必要もなかったのです。むしろ、各国に識字官僚を養成することが、随分先行して必要なものと見えるのです。近来、三世紀を舞台に、途方もないホラ話「ファンタジー」がコミック化され、結構、人気があるようですが、ここに掲げる「フィクション」は、史学という「サイエンス」にもとづく、「サイエンスフィクション」であり、思いつきを爆発させる「ファンタジー」ではないのです。
                                未完

 

古代ロマンの試み 「伊豫国宇摩郡邪馬台国説 こと始め」 女王論 5/5 追記 再掲

              - 2020/05/07, 05/08 05/10 2021/08/23 補追 2023/05/10, 11

*女王の姿
 女王は、高い継承順位にあった有力国の王族と見ます。中国東部齊では、氏族代表者は、実子の内、男女各一名を神官と巫女とし、氏神祭事に専念させたようです。この季女(末娘)制は、例えば、白川静氏の著書に記されています。

 「倭人伝」の手短な共立談義から察すると、政治後継者に不都合があったのか、男王が譲位できない事態に至り、敢えて権威ある神職の巫女を起用したようです。

*女子共立
 「女子」と言う形容を、古典に即して深読みすると、男王の娘の子、外孫、ここでは、嫁ぎ先で産んだ娘となります。寸鉄の書法です。
 つまり、その人は、実祖父である男王の家と、その娘、つまり実母が嫁いだ先の実父家と、両家を受け継いでいたので、両陣営で妥協が成立し、男王も孫への譲位なので納得したのです。遠巻きにして事態を注視していた重臣や第三国も、内戦勃発が避けられたので悦んで同意したのです。
 つまり、ここで言う「共立」は、二者合意が支持されことを言うのであって、別に総選挙や諸國氏子の総会を催したのではないのです。

 因みに、結構、時代錯誤の理解が出回っていますが、「名卑弥呼」とあるのは、当然親に貰った実名です。他人に名付けされるのは不当です。

*王位継承
 本来、子供を持てない巫女は、王位継承に不適格です。それが通ったという事は、決まった短い任期の後、別氏族の宗女に譲ると決めたのでしょう。

 終身在位となると、いつ墓陵を造成していいのかわからないし、継嗣も、いつまで待機して良いかわからないので困るのです。俗説で七十才の長寿では、継嗣候補が次々鬼神になって跡継ぎに困るのです。次代閣僚を期した面々も、とうに世を去って代替わりし、国の形は揺らいでいたはずです。
 もとより、若い頃から長年不仲であった狗奴国王は、存命としても、老境で相争うことができなかったはずです。

 いや、世にある俗説が、余りに現実離れで、余計なことを書き連ねましたが、古代人は世代交代の難儀を知っていたので延々在世はしなかったのです。
 それにしても、中国太古の王制伝統に倣うと、「邪馬」の王統は直系相続と限らず、むしろ、有力氏族間の回り持ちの可能性が高いようです。その時点で若くて意気盛んなものが、各国を導くべきと知っていたのです。

*巡回王都
 回り持ち時代の倭王之所を推定すると、伊都主導の「邪馬」は背なの里山であり、投馬主導の「斜馬」は東方の宇摩の山沿いの地でしょう。

 倭王の住まう治は、多数の官僚を擁する政治経済中心でなく、総社、総氏神の一の宮で、神職小数が在住する門前町であり、伊都を離れて巡回しても国は保てましたが、倭王治は明記できず、不動の 伊都を公的、つまり、中国の天子に申告する国城としたのです。それで、一応の理屈は通ります。

*余談の山
 いや、魏志に補追された名著、魚豢「魏略」西戎伝から想を得て話しを面白くすると、倭女王は、一ヵ月を四分割した「週」毎に、御神輿のように身軽に各国御旅所に行幸して、直訴まで受け付けて、巡回調停したかも知れません。ちと行きすぎでしょうか。
 諸国間調停限定といえ、文書のない時代は実情がわからず適確に裁けなかったでしょう。女王を、全知全能と見る人もいますが、それは絵空事です。

*二十年の「都」
 ついでに言うと、当時の建物は木造であり、二十年と経たずに建て替えが必要で、千年の都は想定外だったのです。西洋の箴言で「ローマは一日にしてならず」は石造建築で石畳だったのですが、こちらは、精々、丸柱藁縄組みの藁葺きでけもの路だったのです。
 但し、雨の多い倭の地で、地べたに藁を敷く「竪穴式住居」の絵解きは、ちと無理があり、低くても、床を設けていたはずです。ネズミに限らず、地を這う害虫も出回っていたはずなので、庶民といえども、穴蔵の地べた住まいでは無かったように思うものです。
 それはさておき、古代人といえども、健康的な住居を求めたのではないでしょうか。
 ここでは、国を貫く「こころざし」を見てほしいものです。

〇まとめ
 と言うことで、うまく持論を着付け直しできたでしょうか。ともあれ、三世紀は三世紀の心で語るべきで、結果論の無理筋は、最後の最後の手段です。と言っても、ここまでついてきた読者はいないものと覚悟しています。
 なお、本件の考証の諸処で、白川静氏の古代史論のお世話になっていますが、いつもお世話になっているという事でもあります。

 比較の意味で、伊豫路から畿内纏向に至る行程を図示してみました。余り見かけない経路でしょうが、熱の引いた後に見ていただきたいものです。          

*改訂版追記 2021/08/23
 今回の改訂は、行程の更新だけです。上図に反映するには時間がかかるので、言葉だけで書き残します。

*一条の「山のみち」
 まず、伊都国以後の行程は、上図では、まだ、案が練れていなかったので、九州島北岸を迂回し、国東半島から渡海する図になっていて、いかにも思慮不足であり、改訂が必要となっています。今回の提案では、図上の伊都国から南下して、谷筋を通り、日田盆地を経て中央構造線を東に進み、現在の大分付近の海港に出る案になっています。但し、図の改訂に手が回っていないので、ご容赦ください。
 上図の案では、途上、多くの国邑を歴訪するので、何も書かないわけには行くまいと言うことです。山中の抜け道が想定されています。

 最短距離の渡海で三崎半島へ水行した後は、極力船便を避けるのが賢明と考えました。漕ぎ手の手が要らず、難船の心配も無い安定した陸上行程が当時として最善だったろうという事です。改定案は、基本的に、「中央構造線」が大地に刻み込んだ真一文字の道筋が頼りであり、当時、当地では、最強の輸送路であったと見るのです。私見では、備讃瀬戸で産出した黒曜石の半島への位相はもこの経路が最善であったと見ているのですが、中々賛同は得られないでしょう。
 そして、後世、瀬戸内海の難所が克服され、「海のみち」を通じた大量輸送が始まると、この「山のみち」は、歴史の闇に沈んだのでしょう。
 現存する「今治」(いまばり、あるいは、いまはる)は、宇摩にあった「(女)王之所」、中国風に言うと「治所」が、後に、この地「今の治」に移動したものかも知れないのです。

 以上は、一介の素人の紡いだ物語ですから、ほころ びがあることは言うまでもありません。一時の夢物語であれば良いと願う次第です。

以上

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