古代ロマンの試み 「伊豫国宇摩郡邪馬台国説 こと始め」 序章 1/5 補充版
- 2020/05/07, 05/08 05/10 2021/08/23 補追 2023/05/10, 11, 12, 15
〇始めに
本考は、当ブログでは番外も番外、長く続く外出自粛の夜の夢物語(ロマン)の試みです。果たして、一幕の随想としてうまく繋がるかどうか。
ここでは、後のまとめを書き足して、5回ものにしました。(05/10)
*ロマンのお断り
当ブログの読者には、「倭人伝」道里記事の「エレガント」な解釈を主張している記事と整合しないことに御不満の方もあるでしょうが、当記事は、「邪馬台国」比定記事の溢れる中で、今ひとつの「解」を提起したものでもあり、これまで、見過ごされていた記事解釈を殊更に読み込んでいるものです。部分的には、従来提起してきた解釈の構成要件を再確認しているので、一応の存在価値が示せているものと考えます、
*「邪馬台国」便乗のお断り/お詫び
ここまで、大事なことを言い漏らしているので、慌てて、追記しますが、当ブログは、倭人伝原文を基本としているので、世上溢れている「倭人伝」には存在しない「邪馬台国」は、誤謬として排除しているのですが、本稿に限り、爪を隠して「邪馬台国」としています。
別に、「長いもの」に巻かれているものではないので、よろしくご了解下さい。
*訂正の提案 2023/05/12 再確認
当初の構想では、単なる「思いつき」の書き止めであり、本来の考証記事にしては、随分雑駁なものだったのですが、少数ながら熱心な読者がいらっしゃって参照されているように見えるので、ここに、不本意な、意図していない「誤解」を避ける書き込みを、延々と書き足しています。よろしく、趣旨ご理解の上、適切な引用を進めて頂ければ幸いです。
世上、過度に性急な論者が少なからずいらっしゃって、前置きや但し書きの読み捨てどころが、記事自体の文脈を破壊して、単語や短文を切り抜いて、取り出して論評されることが散見されるので、そのような不当な引用を避けるように切にお願いする次第です。
私見によれば、世上流布している「定説」、「通説」は、意図的な誤解をこめて「倭人伝」を書き換えて読んでいらっしゃるので、思わぬ所で異議が出て来るのですが、当ブログは、原文に根ざした解釈を優先しているので、「通説」に囚われている諸兄姉には、この際、ご高説を再考して、つまり、考え直して頂きたいというものですが、これは、もう一度一から考え直すという趣旨でなく、「通説」を棄てて、「正しい」道を採るものではないですかと、婉曲に述べているのです。
-記-
1.戸数談義~「七萬戸は全国戸数」
「通説」は、俗に言う「【邪馬台国】が北九州に存在しない」という崇高な使命を果たすための「伏線」として、「可七萬餘戶」を[邪馬台国]の戸数と決め込んでいるように見受けますが、それでは、「倭人伝」が、主題として報告している全国戸数が書かれていないことになり、誠に、誠に不都合です。
「七萬戸は全国戸数」とすれば、当時の皇帝を始めとする高貴で性急な「読者」が、全国戸数を足し算する必要はないのです。これは、当然の理屈なので、前例を求めても仕方ないのですが、整然たる正史の典型とされている班固「漢書」西域伝を確認するまでもなく、各国の紹介には、国名、国王の居城名、道里、戸数が、必ず書かれています。
但し、「倭人伝」を冷静に読めば、行程記事の最後に書かれているようにも見える「邪馬壹国」は、「女王之所」、つまり女王側近だけの「聚落」であり、いずれかの国、ここでは、伊都国の勢力下/領域内に庇護されていると見えるので、農業生産力や動員可能兵の力を示す「戸数」は無意味であり、また、既に伊都国が、郡からの文書を査収していて、「倭人」からの応答がなされるので、伊都国から「女王之所」までの、道里も無意味ということになるように思量します。
2.「余戸」、「余里」は、概数表現、概数計算は、一桁単位
世上、「倭人伝」に書かれている『「余戸」、「余里」は、書かれている戸数や里数に、正体不明の端数が足されている』との誤解が蔓延していますが、これは、当然ながら、書かれている概数、例えば、「七万」余戸は、詳細不明の千戸及びそれ以下の桁の出入りがあると書かれているのに等しいので、奴国「二万余戸」に投馬国「五万余戸」を足した「七万余戸」で十分であり、対海国、一大国、末羅国、奴国、不彌國の諸国のように「千戸」の桁で切りよく書かれている千の桁の「戸数」を足しても、「七万余戸」に変わりは無いのです。因みに、戸数は、その戸数だけの収穫物が納税されるとか、戸数ごとに兵士を徴兵できるとかの統計指標なので、どこにあるかすらわからない「国」は、計算できないので、「全国戸数」に関係ないのです。
例えば、伊都国の中核を占めている「国民」は、今日でいう「国家公務員」であり、俸給(粟)を給しているので、ここから税を取るのは、無意味なのですから、基本的に税務の対象外であり、免税なのです。つまり、人の頭数は、戸数から知ることはできないのです。同様に、「国家公務員」を兵役や公共工事の労役に動員するのは、無意味なので、その意味でも、「戸数」から、「人口」を推計するのは、無意味なのです。
こうした原則は、当時の読書人の教養では当然のことなので、書いていませんが、「七万余戸」などと一桁数字で書いてあるだけで、「七万五千余戸」などと書いていないことで明らかです。知らなかったですまないのは、当然の批判です。
むしろ、一桁数字であっても、切りの良い数字に飛び飛びに配されているので、よく言われる、倭人伝の奇数偏重の由来が見て取れるのです。
同様に、「数千」とあるのは、なべて五千程度のことであると決め込むのも、無理な言い張りです。ここでいうなら、一万までの千単位の概数を大雑把に四分割して表現するとき、二,三千程度をざっくり表現するときに常用されたとみるものではないでしょうか。つまり、当時の概数感覚では、「五千」に届かない範囲を「数千」と切りを付けたと見るものでしょう。
また、時代相応の感覚でいうと、五千の上の七,八千は、ついつい「万」に繰り上げられるものと見えますが、これは、世上言われる「誇張」などではなく、要は、切りをつける感覚にすぎません。
三世紀当時といえども、厳密な計算が行われる場と概数が起用される場は別々なので、当時、すべての計算が概数であったとみるのは、当記事の議論を誤解するものです。元に、後漢書、晋書に記録された全戸数の集計値は、一戸の桁まで明記されていて、そのような計算の際には、各桁ごとに、つまり、一桁概数計算の数倍の手数を掛けて、精緻を極めて計算を行ったと見えます。
同様に、千里単位で書かれている「倭人伝」の道里計算で、百里の桁の諸国道里は、計算に関係しないので無視してよいのです。まして、明記されていない、仮想された道里は、計算に加えるとしても、精度に関係ないのです。
3.倭人伝の「水行」は、「海(うみ)を行く渡し舟」
「水行」は、本来、つまり、適法な用語では、「河川を船で進む」ことを言うのであり、夷國への行程記事に使われることは一切無いのですが、「倭人伝」では、渡し舟で対岸に行く「渡海」として新たに定義しています。定義した以上は、「倭人伝」の道里行程記事の最後の「都水行十日陸行一月」まで「水行」は、その意味で書かれているのです。
因みに、本来、道里行程記事は、陸上行程と決まっているので、「陸行」と断る必要は無いのですが、「倭人伝」行程記事では、末羅国で上陸すると、そこで、「水行」が終了するのは自明なのですが、高貴な読者が誤解して、激怒することが無いように、「陸上」を騎馬あるいは徒歩で行くことを明示したものであり、あえて前例のない「陸行」としているのです。
もちろん、高貴な読者に、書庫から、「馬班」、つまり、司馬遷「史記」と班固「漢書」を引き出して、数百巻に及ぶ各巻を卓上に展開して、前例を検証するような難業を課することがないように、「倭人伝」の用語は、読者の教養の及ぶ範囲にとどめ、「水行」はその場で定義し、「陸行」は「水行」と退避して、「倭人伝」用語に起用したと見るのです。
そのような「倭人伝」用語は、当然、魏志上程時に、時代最高の知識人の監査に耐えたものであり、史官の独断で書いたものが、そのまま今日まで伝わっているのではないのです。踵(きびす)を正して読むべきものなのです。
4.東夷に「王都」無し
ついでながら、「倭人伝」は魏朝国内記事ではないので、「倭国」の「王」は、本来の「王」でなく、当然、「王之所」に「都」(みやこ)は許されないのです。
先に挙げた「都水行十日陸行一月」は、そこまでに書かれた行程を総合すると、「都合」「水行」十日、「陸行」一月と言う意味であり、「水行十日陸行一月」が、部分的な日数と誤解されないように「都」を前置きしているのです。異例の書法ですが、三世紀の史官には、当然、自明の事項であり、異例の書法に先例がないのをもって、自明/当然の解釈を否定するのは、大胆不敵であり、もってのほかです。
5.史官の筆法
史官の筆法は、誠に慎重、かつ、明解な書き方を守っていますから、後世の読者は、ご自身の限られた知識に頼るのではなく、広く史料を学習して、丁寧に理解する(べき)ものなのです。
愚考するに、世上、無秩序な「邪馬台国」論義が繁盛しているのは、三世紀史官の提示した「問題」の題意を解し得ない、現代東夷の「落第」生が、自然なままの「混乱した」著作を公開しているからと思われます。
この点は、古代史学会の先哲である榎一雄師の提起されたところであり、しかるべき敬意をもって、先賢の至言を受け止めるべきでしょう。
〇また一つの「邪馬台国」説
事は、ありふれた邪馬台国比定説ですが、その始まりは「字面」(じづら)です。
ご存じでしょうか。中国古代算術で、「邪」田は田地が斜めの平行四辺形ですが、廣従(幅縦)を掛ければ、方形の「方田」同様に面積計算できます。
ここで、「邪馬」は、東北方向に向いた「斜馬」(ななめうま)であり、当記事筆者が思いついたのは 、愛媛県の地形です。子供のいたずら書きみたいですが、伊豫/愛媛を、東北方向(邪道)に駆ける馬に見立てて、発想を繋いでいくのです。
ついでながら、古代の「知識人」は、教養が豊かなので、「邪」「馬」と並んだに文字に、ずいぶんいろいろな意味を込めていたと考えるべきではないでしょうか。
*存在価値
なお、この絵姿は、当考察のきっかけに過ぎず、「絵が下手」とか「馬じゃない犬だ」と断じても、考察の批判には、ならないので、うずたかい邪馬台国所在地諸説のすき間で、一つの「仮設」として、ひっそり生き延びられないものかと思っています。
*自画像ならぬ「児画」像
三世紀当時、倭人の「王之所」が、伝承によって、「伊豫」にあったと想定されていたとすれば、国王の手元に自国絵図が届いていても「おかしくはない」(別に失笑されてもいにとめない)ので、中国語国名として「斜馬」ならぬ「邪馬」国を称したか、世間並みに、つまり勝手に推定、憶測します。
誠に下手ですが、当時、「倭人」世界には、獅子も虎もいなかったように、馬も出回っていなかったので、うまく姿が描けなかったとしてください。いやいや、地形は造作できないので、ただの「つかみ」、話の「とっかかり」とします。受けずに滑ったとしたら、ごめんなさいです。
*投馬国「水行」説再考
さて、魏志「倭人伝」道里記事は、朝鮮半島中部の「帯方郡」から、南方の狗邪韓国の「海岸」から、目前に広がる「大海」の州島を渡り継いで、「倭」に至る「公式行程」、つまり、最短、最善の街道行程を、手短に、つまり、明快に説明するために、まずは、郡から南下して、韓国南端の狗邪韓国まで街道を進み、大河を渡るのに州島(中の島)を飛び石として踏んでいくように、三度の渡海/水行で大海を渡り、九州に上陸した後、陸続きの末羅、伊都、不彌を経た上で、改めて、投馬へ改めて「水行」したとも読めないことはないようです。(そのように解釈する人がいるので、そこにもう一人便乗、参加しても、不思議ではないでしょう)
*「倭人伝」の骨格
普通は、誤解されているのですが、「倭人伝」道里行程記事は、それまで知られていなかった新顔の東夷に至る行程を、皇帝に報告したものであり、皇帝は、倭人に対して「下賜物」を送り届ける大事業を承認するに当たって、既に道里行程記事を承認しているので、これに従って、所要日数などを確かめた上で使節団の派遣を承認したのです。
つまり、東夷折衝の実務を管轄している帯方郡は、韓国も含めて行程上の諸国に通達して、移動日程、受入準備を確認し、報告を受けた雒陽の官人は、帯方郡の確認を得た上で使節団を発進させたので、使節団は前途の行程を承知した上で出発したのです。そのように、諸々の手順は、当然、自明なので、殊更書かれていませんが、何も書かれていないということは、万事順当に行われたと言うことです。
雒陽の官人は、規則厳守の曹魏の規則を熟知していたので、使節の指名が不達成の時に、自身に責任が及ぶのを、頑として回避したのです。何しろ、皇帝命令の達成が不調に終わった時、責任を問われると、自身だけでなく、妻子、親族まで連座して、処刑されるので、行き着くあてのない使節の出発を見過ごすことはできないのです。
つまり、使節団が発進するからには、雒陽を発して 倭に至る各地の責任者から、確約が届いているのであり、当然、倭が実道里で万里、いや、万二千里の彼方ではないことは、理解していたのです。むしろ、片道、精々、四十日であり、渡し船で「大海」を越えた後、数日で「倭」に至るという「実績」を承知していたとみるべきです。
曹魏の厳然たる「法と秩序」体制を知らなくても、皇帝の厳命を受けた膨大な下賜物を、送達の確証なしに送り出すことなどありえないのであり、各地の確認を得るまでに、半年かかろうが一年かかろうが、頑として発進を許可しないのです。世上、蕎麦屋の出前のように、用命を受け次第即納することを当然と見ている向きがありますが、いろいろ勘違いを重ねていることを自覚いただきたいものです。
端的に言うと、「倭人伝」道里行程記事は、決して、派遣された使節団の報告に基づいて、後日、新たに作成したものではないのですが、結論だけ切り取って論じるのではなく、結論に至るまでに、しかるべき時代考証を、丁寧に、幾重にも重ねていることまで、理解いただきたいものです。。
*「水行」の臨時定義
中国史書で、「街道は陸上を往く」ものなので、史書では「陸行」とは言わないのですが、倭に往くためには、「大海」、つまり、韓国の南に「倭」、臨時に、つまり、『「倭人伝」に限って有効な用語」として定義しています。
因みに、前例のない事項の前例を求めるのは、無茶というものです。
当時、陳寿「三国志」魏志倭人伝の道里行程記事について、並行する街道の存在しない「渡海」に適用する「水行」の臨時の定義/用法について、非難はなく、後年、詳細に審議した裴松之(南朝劉宋)をはじめとするそれぞれの時代の権威から、異議が出ていないことから、「水行」に関する陳寿の筆法は、正史の記法として、当然のものとして承認されていたと見なければなりません。
再確認すると、「水行」は、言葉の意味から言うと、河川行に決まっているのですが、「倭人伝」は、現代で言う「渡海」を「水行」と宣言したので、海を渡る「水行」は、不法なものではないのです。
つまり、投馬に至る「水行」も「渡海」、つまり、甲板も船室もない、むき出しの手漕ぎの小舟で渡るもので一日行程ですが、なぜか、二十日の「水行」と書かれています。これは、実際の行程では、二十日近い陸上行程を計上しているものと見えます。このあたり、「倭人伝」の本来の道里行程記事ではないので、二千年後の東夷には、はっきりしないのです。
*乗り継ぐ船路
現代人が思い浮かべる関門海峡は、今日の強力な船舶すら、易々通過できない難所であり、非力な手漕ぎ荷船を阻むので、投馬国に往くには、陸上街道を大きく南に迂回する経路としたと見るのです。
不彌から投馬へは、まず南に踏み出して街道を進んだ後、東に転じて、国東半島の南で「海岸」に出て、海津、つまり、海港で便船に乗り込み、馬のしっぽに見立てた三崎半島に渡りますが、それが、三世紀までの東西交易の主力経路として常用されたと思う次第です。
便船は、一船、一商人の乗りきりでなく、必要に応じ乗り継ぎしたと見るのです。荷船乗り継ぎは、当時、自然であり、港で荷下ろしして浜市で商った荷を積んだ次の商人の便船が進んだ、細くしなやかで、長続きする交易連鎖と見ています。
*続く旅路
と言うことで、水行二十日の「投馬国」は、まだ少し先です。
松山界隈から伊予灘を北上しますが、芸予諸島の難所を嫌って下船し、半島最北部を手短な山越えで横切り、今日の今治、後の伊豫国衙の地に出て、大三島の南方で便船を拾い南下したと思われます。
*続く旅路 改定 2021/08/23
一年余りの間に、多少良い知恵が湧いたようです。松山界隈から伊予灘を北上するのを撤回し、中央構造線の地殻変動によって形成された、比較的なだらかな峠越えのみちで、現代の西条、燧灘南岸に出る行程を採用しました。
*投馬お目見え~「道前投馬国」説
そこからは、島影の見えない、穏やかな燧灘の旅であり、現在の西条に達しますが、本論では、ここを「投馬」国と見ています。山場を越えた割りには、劇映えしないのですが、それは、命がけの難所ではないからです。
勿論、細々とした商いなので、海賊は、出てこないのです。
*改訂版 2021/08/23
初期の伊予灘~燧灘行程は、当時としては、十分な思案のあげくですが、そのあと考え直したので、当面の最新結論を書き残します。
丁寧に、この間の陸路を模索すると、四国中央部を東西に走る中央構造線のおかげで比較的通りやすい経路が見つかりました。つまり、今日の伊予市から石手川沿いに現在の東温市(Tooncity)までゆるやかな上りであり、ここに、中継地を設けて、現在の西条に向けて山越えすれば、山道とは言え、比較的難路の少ない行程で到達できることがわかりました。つまり、船便で高縄半島北部まで行かなくても、「目の前に」山越えできる道があったのです。
後ほどでてくる四国中央市からの東向き街道は、東方の吉野川上流の現在の池田に向かって、やはり、中央構造線の谷みちを利用してゆるゆる登っているので、実は、鳴門海峡付近に出るまで、中央構造線沿いの一文字の径と言うべきかも知れません。「径」と言うのは、中国の制度で言う「道」の規定にあるように車馬が対抗できるように、幅広く、平坦に整備されたものではなく、担った人が、黙々と往き来できる「禽鹿径」をいうのであり、時に、誤訳して「けものみち」と解されているものではなく、古代公道(Highway)であったことには間違いないのです。
拙稿旧提案の高縄半島北部にいたる船便は、貴重な船腹と漕ぎ手を長く労する上に、伊予灘の海況次第で難破する危険を抱えていたのですが、今回の提案では、短期間の山越えであって行程に危険は無く、労力と言っても、小分けした荷を農民達を動員して、必要なだけ人数を掛けて、先を急がずにゆるりと運べば良いので、大したものではないのです。いや、もともと、古代に於いて、遠隔地まで運んで商売になるのは、軽量、少量で売り物になる貴重品であり、例えば、黒曜石、翡翠、朱などが考えられます。西域においては、絹製品、貴石、玉などが挙げられますが、本稿では、論義を差し控えています。
因みに、当行程は、ほぼ終始、海産物の豊富な地域を通るので、干し魚などの海産物の行商は、商売にならないでしょう。又、食塩も別に不自由していないので、海塩は、売り物にならないでしょう。
言うまでもなく、農民達に課せられた義務は、収穫物の税務だけでなく、年間一定日数の勤労奉仕、労務も含まれていたので、ただ働きではないのです。もちろん、折角の動員ですから、食事が出るだけでなく、多少の小遣い稼ぎにはなっていたでしょう。そうでなければ、こうした行程は維持できないのです。
また、行程上の要所で、市(いち)を開いて、売り買いすれば、はるか東方まで行き着く前に、荷が売りさばけてしまうかも知れませんが、その時は、市で仕入れた荷をまとめて、次に進むのかも知れません。
と言うことで、本説で言う投馬国「西条地区」までの行程は、現在の大分付近から三崎半島に至る手短な「渡海」(倭人伝で言う「水行」)を除けば、並行する陸路で支えられているので、荷船を起用したとしても、官道経路としては「陸行」ですが、書類上は「水行二十日」に括られてしまったということでしょうか。渡船は、甲板船室もなく、一日行程が前提なので、二十日を要するのは、二十回の乗り継ぎであり、そのような行程は、どこにもないのです。
と言うものの、毎度のことですが、史料に書いていないことはわからないのです。
未完