〇蒸し返し御免
今回の題材は、毎日新聞大阪夕刊芸能面のトップ記事である。何しろ。見出しの脇に「リベンジしたい」と、堂々と罰当たりな発言が引用されている。十日前の記事のコビー・ペーストでもないだろうが、こうしたことに創意を発揮してほしいものでもないので、当記事は、かなりの部分で蒸し返しである。
何しろ、全国紙毎日新聞の看板の本因坊戦挑戦者決定記事の見出しであるから、毎日新聞の沽券に関わる、あるいは、主催紙の面目躍如たる報道であろう。
〇意味不明な見出しの不備
それにしても「リベンジしたい」とは、一介の購読者には、何を言いたいのか意味不明である。
「リベンジ」なるカタカナ言葉は、意味が揺らいでいて、原語の「revenge」を辞書で引いて「血の復讐」と理解する人もいるだろうし、現代風に「再挑戦」と読み飛ばす人もいるだろうが、今回の両記事の理解には役立たない。訳のわからない言葉で、世間を汚染するのが、毎日新聞のポリシーなのだろうか。
こうして、二度に亘る不出来な記事に対して、編集部で、誰もダメ出ししなかったのが、まことに不思議である。ここでは、挑戦者はタイトル戦の舞台に立つことが確定しているから、「リベンジ」は、「再挑戦」の意味でなく「怨念復讐」という血なまぐさい言葉のように読める。
それにしても、「リベンジしたい」とは、血の海に沈めてやり「たい」という「願望」なのだろうか。滅多に見かけない凄まじい言い方である。
リベンジの害悪は別にして、ここは「したい」ではなく「する」ではないのだろうか。なぜ、誰でもわかる言い方をしないのだろうか。こんな所で、創意を発揮しても仕方ないのではないか。
持って回った言い方をしなくても、挑戦する以上は、「是非とも勝ちたい」というのではないだろうか。いや、挑戦者もタイトル保持者も、負けたいと思うはずはないから、「勝ちたい」という思いは言うまでもないことなのである。挑戦者は、「結果にこだわらずに打てたら良い」などと、主体性のない、不出来な発言を引用されているから、記者がけしかけたのかも知れないが、「リベンジ」などと、読者がどう解釈したらいいのかわからない「暴言」は不要であり、単に「結果にこだわらずに打ちたい」と明言すれば、何のとがめ立てもあり得ないのである。
是非、ご自分の発言が、記者の手で歪められたり、捏造されたりしないように、談話には注意いただきたいものである。
それにしても、タイトル保持者の九連覇目を実現させた前期の敗退を、(自身の力不足と言わず)不当な屈辱と捉えて、今期は、仕返しでぶちのめしてやると言うのはどんな志(こころざし)なのか、大変不審である。普通、このような場合には、「雪辱」とか「仕返し」とか、言わないはずである。
しつこいとがめ立てであるが、ここまで汚い言葉をことさらに目立たせていると、一言言わざるを得ないのである。毎日新聞には、こうした不適当な言葉に対する基準などないのだろうか。
〇 毎日新聞の談話捏造疑惑
天下の毎日新聞が、引用している談話から見出しを起こしているから、挑戦者の発言の忠実な報道と見たいところであるが、毎日新聞には、悪しき疑惑が投げかけられている。
今年の選抜高校野球の事前の報道で、一回戦で対戦すべき東海大関係の二校について、地元記者が地方版サイトで報道している記事の談話に一切ない「リベンジ」を、スポーツ面担当記者が「創造」した事例がある。
恐らく、関係者に取材しようとしても、毎日新聞の記者には、時間をかけて説明したので、何度も同じ事を言えないと言うことで、十分な取材ができていないと思われるのである。最初から、紙面に何を書くか決めていて、問い詰めたのかも知れない。いずれにしろ、お粗末である。
この前歴があるので、当記事の発言引用も、記者の勝手な決め込みかも知れないと見ざるを得ないのである。
つまり、挑戦者の人格を疑わせるようなとんでもない不穏当な汚い言葉の発言を、担当記者が「創造」したのではないかという疑惑は消えないのである。
何にしろ、この記事で見られる表現の混乱は、目を覆わせるものがある。挑戦者は、文章を全国紙紙面に掲載する訓練を一切されていないし、新聞社の基準に従う用語、言い回しをできていないかも知れないから、専門家たる上級記者が、最後の護り人になるべきではないのか。
当記事を読者が目にしたとき、見出しの言葉は、挑戦者の品格を疑わせると受け取っても、担当記者の文責とは思わないのである。
〇 頂上決戦には頂上報道を
「囲碁界の頂上決戦」には、相応しい頂上報道が望まれるのではないだろうか。人ごとながら、大変気がかりである。
〇 蛇足
いや、正直なところ、今回の記事を何とか読み通して、挑戦者の発言を辿った所で、氏一流の独特の物言いに精一杯歩み寄っても、「何とか勝てるようにしたい」、と言う意味しか出てこない。
見出しで異様な言葉をぶつけても、記事で解説しないのでは、挑戦者の深意は、到底理解されないのである。新聞報道としては、随分無責任ではないだろうか。
本因坊をさん付けしかしないのも、挑戦者の世界観が、正統的なものとずれているのを物語っている。本因坊と挑戦者は、対等ではないのである。本因坊を呼ぶのに敬称略では、たまるまい。挑戦者は、「本因坊」は、ただの飾りだと思っているのだろうか。毎日新聞社は、四百年の伝統の重みを託している本因坊の価値を落とされて、それで主催紙として満足なのだろうか。そして、それでは、熱心な読者に失礼ではないのだろうか。
以上