倭人伝随想

倭人伝に関する随想のまとめ書きです。

2025年6月15日 (日)

新・私の本棚 伊藤 雅文 邪馬台国は熊本にあった! 1/7 2025

 扶桑社新書 219   2016年9月刊     
 私の見立て ★★★★☆ 力作 ただし空転/捻転散乱    2019/03/17 一部改訂 2021/03/30 2024/02/09 2025/06/15

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

*はじめに
 最初にお断りしておきますが、当ブログ筆者、以下当方は、伊藤氏の当著作は、基本的に、論理的で誠実なものと見ています。

 ただし、氏が重用する倭人伝「改ざん論」は、熱意の空転であり、云っていることは無意味(ナンセンス)と考えます。ここで無茶を言ったため、折角の好著がドブに落ちています。

*誠実な論考
 誠実は、まずは、論者としての誠実さであって、例えば、倭人伝を解くのに、まず、紹凞本(?)のテキストを元にPDF文書、当然、漢字縦書き、を作成し、その労作全体は巻末に収録しつつ、本書全体で、当該文書の一部を取り出して表示した上で論じていることです。

 当方も同様の試みに取り組んだことはありますが、何しろ、当方の主媒体であるブログは、縦書き表示が大変難しいのです。縦書き表示自体は、設定可能ですが、閲覧操作が、大変わかりにくくなるので断念しています。というものの、縦書き史料のPDF画面コピーを挟んで議論するのも、一段と難しいので足が遠のいているのです。

 この点、伊藤氏に敬服するものです。

*とんだとばっちり~余談
 また、使用図版類の原典、出典を明らかにし、これを自身の責任で編集したことを都度書き添えていることは、当然ながら中々できないことです。

 ここで殊更言い立てるのは、当方の見るところ、古代史分野の他の著者には、現代の国土地理院地図データの個人的利用が許容されているのをよいことに、カシミールなどのアプリでデータを図示したと見られる地図を千年以上前の地図と見せる悪用例が、少なからず出回っているからです。

*世上諸悪批判の弁
 ここで、氏の好著の書評で、世上の諸悪を非難するのは、氏にとってご迷惑でしょうが、殊更「悪用例」の書評を掲示するのは、氏の好著を引き立たせる効果があるとみたので、ここに開陳するものです。

 一番甚だしいのは、一時、毎日新聞夕刊の「歴史の鍵穴」とて、掲載されていたし謎解きコラムであす。
 毎日新聞社専門編集委員なる金看板の元に、例えば、奈良県の山中から愛媛県松山市の海岸まで山並と海を越えて、真一文字に直線の見通しが通っているような高精細の「地図」を載せて、自説の裏付けとしていたものでした。何しろ、毎日新聞専門編集委員なる権威のある肩書きの人物が、堂々と全国紙の紙面を飾っていたので、当ブログでは、毎回地図悪用を見る度に非難したのですが、どうも、ご当人は無視したようで、未だに、いらだちが燻ってるのです。
 もちろん、この架空地図捏造は、当該非専門家がゼロから創始したのではなく、新書歴史本などに源流があるのですが、見るからにインチキ本なので、批判はそれほどでもなかったのです。
 そのような現代地図データの「悪用」は、国土地理院、カシミールのサイトの利用条件に書かれていない筈の保証外の流用であり、よって「不法」(犯罪)なのです。誰にも、今日の地図データを、一千年前、二千年前に適用できないのも明白です。

 と言うような、ご自身には、何の責任もない地図データ悪用論のとばっちりは余計なお世話でしょうが、反面教師を出して、氏の論考を賞賛しているので了解いただきたい。

*「倭人伝」復権の時
 別に、氏の責任ではないのですが、「倭人伝」の位置付けを俗信に頼るのは感心しません。
 本書でもあるように、「倭人伝」は、魏志第三十巻の巻物から抜き書きした時代以来、独立史料として扱われていて、宋朝の叡知を反映した紹凞本は「倭人伝」と見出しを立て前段と分離しています。
 ぼちぼち「倭人条」などと格下げするのはやめるべき時が来ているように思います。

                               未完

新・私の本棚 伊藤 雅文 邪馬台国は熊本にあった! 2/7 2025

 扶桑社新書 219   2016年9月刊     
 私の見立て ★★★★☆ 力作 ただし空転/捻転散乱    2019/03/17 一部改訂 2021/03/30 2024/02/09 2025/06/15

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

*壮大な抱負
 氏は、次の三原則を抱負として打ち出しています。
 倭人伝の『「邪馬台国」位置研究』へのアプローチ法として、次の三つを念頭に置いて「魏志倭人伝」の解読に臨みたい。
㈠ 基本的に「魏志倭人伝」の記述は正しいと考え、安易な読替えは行わない。
㈡ 推論の根拠はできる限り「魏志倭人伝」の記述の中に求める。
㈢ 考古学的成果を、予断を以て「魏志倭人伝」記述と関連づけることは避ける。

*発進脱輪
 但し、氏は、忽ち『「魏志倭人伝」後世改ざん説』を提唱し、先のアプローチとの齟齬への批判の言い訳に「自身に都合の良い読替え」を卒然と否定します。つまり、アプローチと現実は別のようです。
 一応三原則で始めても、一旦予断を形成したら、忽ち自己流「倭人伝」を構成するのは、首尾一貫していません。

 帯に言う『邪馬台国の位置は「魏志倭人伝」に正確に書き記されていた!』は、結局、我流、お手盛りの「倭人伝」談義であり、通りがかりの読者には虚言です。

 以上の点は、氏の基本的な執筆姿勢に反するものと考え、減点しています。

*残念な勘違い
 「倭人伝」旅程記事の「ごく一般的な現代語訳」は、責任者不明です。
 大は「邪馬台国」なる非倭人伝用語、小は諸処に頻発する軽率な誤訳、果ては、古代にない「ゼロ」整形多桁数字までてんこ盛りで、不適切な代物です
 端的に言うと、現代語で示す概念は、三世紀に存在しなかったので、現代語訳は意味がないのです。

*誤訳が呼んだ進路錯覚
 結局、訳者不明の現代語訳の勝手な解釈が、伊藤氏の方針選定を誤らせたと見えます。最終旅程南に水行十日、陸行一ヵ月で、女王の都である邪馬台国に至るは、ごく一般的な誤訳です。
 文章明快な現代語訳が読み解けないのは、誤訳の可能性が最も高いのです。 
 まず、氏の提示する漢文は「南至邪馬台国」ですが、現行刊本は「南至邪馬壹國」です。「倭人伝」に「邪馬台国」がないのは、初学者にも周知の事実です。

 ついでながら後ほど出る「原本(陳寿のオリジナル文)」なる意味不明の語句も困ったものです。陳寿は、三国志を盗用や複写でなく「オリジナル」な著作物として書いたのです。とは言え、倭人伝「陳寿原本」はとうに消滅していて、それが自然の摂理というものです。

*旅程の終わりの始まり
 できるだけ原文の語順を保てば南して邪馬壹国に至る。女王が都するところである。水行十日、陸行一月であると読みくだすことができます。(撤回済みの誤解です)
 ここで、出発点を伊都、不弥、投馬のいずれと解釈しても、取り敢えずは、作業仮説であり、到底断定できません。

 また、水行陸行日数「計四十日」が、どこから倭都への日数と解釈しても、それは、作業仮説であり、到底断定できません。

新たな読みの提案 
2021/03/30 2025/06/15 確認
 因みに、2021年3月末現在の解釈では、
「南して邪馬壹国に至る。女王のところである。
 都(すべて)水行十日、陸行一月である」
に落ち着いていますが、これは、まだ浸透していない読みなので、提言にとどめます。
 「倭人伝」は、西晋史官陳寿が、班固「漢書」西域伝、及び、裴松之によって、魏志第三十巻に補追された魚豢「魏略」西戎伝の西域諸国記事から、蛮夷の首長の居処を「都」と公称しない原則が明らかであり、「南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月」を、「南して邪馬壹国に至る。女王が都するところである。水行十日、陸行一月である」と解釈するのは、原則に違反していて、「南して邪馬壹国に至る。女王のところである。都(すべて)水行十日、陸行一月である」と解釈すべきなのです。
 但し、そのような「正解」を認めると、諸兄姉が、倭女王の居処を、「都」(みやこ)と権威付けする世界観に反するので、一向に、認識を改めていただけない、どころか、反論も示されていないものですから、氏が、旧解釈に固執しても、それは、難詰できるものではないのです。

                               未完

新・私の本棚 伊藤 雅文 邪馬台国は熊本にあった! 3/7 2025

 扶桑社新書 219   2016年9月刊     
 私の見立て ★★★★☆ 力作 ただし空転/捻転散乱    2019/03/17 一部改訂 2021/03/30 2024/02/09 2025/06/15

*加筆再掲の弁
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*速断の咎め
 以上は、僅かな字数ですが、編者陳寿がどんな意味(深意)を込めたか、「二千年後生の無教養な東夷」が、勝手に決めるべきではないと考えます。

 自己流解釈で明快な「現地」像を描けないなら、まずは、その解釈を疑うべきでしょう。凡そ、いかなる分野でも、新説の九十九㌫はジャンク、錯覚です。最初の一歩の選択に無記名現代語訳を持ち出し、読者に対する説明無しに史料改竄しているのは、氏の原則に背いていて同意できません。

 まずは、いの一番に原文表示から「邪馬台国」を外し、ちゃんと読者に向かって理由付けした上で、自己流解釈と置き換えるべきではないでしょうか。

*選択肢の明記
 また、旅程解釈で強引な議論を展開する前に、課題の部分で、伊都国から倭へ「南」する読み方も、「水行陸行」を郡以南の総日数と見る読み方も、説明無しに排除するのでなく、しかるべく審議した上で却下理由を説明すべきと思います。

 不採用仮説は、別に否定も排除も必要なく、単に氏が採用しない仮説であることが示されていれば、読者に、氏の意図が適確に伝わるのです。

 以上、是非、ご一考いただきたいものです。

*不用意な比喩

 氏は、郡から倭までの行程記事に里数と日数が混在するという「予断」を採用したため、まことに不出来な比喩を上程しています。

 軽率な比喩で、東京大阪間の旅程で、名古屋まで里数表記、名古屋から日数表記と不統一では「違和感」を生じると強弁していますが、このような子供じみた感情論を持ち出すのは、氏が時代錯誤の旅程感に染まっているからです。
 万事如意の現代は忘れて、江戸時代の東海道道中を見れば、お江戸日本橋から名古屋まで、渡し舟などを「はした」として除けば「陸行」で里数がありますが、名古屋から桑名は渡し舟で里数は無意味です。以下、桑名から西して、京に至る旅程は里数が明記できます。南は、お伊勢さん、さらに、西には、やや南寄りなから大和路、難波路もあります。
 このように放射的に書くのは、別に、桑名が国都だったからではありません。交通の要路、分岐点だったからです。
 このように行程の実質が大きく異なれば、統一できないのは当然で、それを「違和感」なる生煮えの現代語で感覚的に拒否するのは現代人という名の二千年後生の無教養な東夷の我が儘というものです。
 三世紀旅程が、氏に「違和感」(水に油が浮いている様子か、それとも、筋肉に「しこり」を感じているのか)を生じる背景には、当時、最高の知性が、長期間呻吟の上で、そう書くのを最善と判断した事情があり、まずは、底の浅い現代視点を忘れて、同時代の深甚な視点の、論理的で慎重な考察が必要と考えます。

 但し、当方は、氏のお気に入りの「里数日数混在読み」を支持しているのではないのです。

*公正ならざる両説評価

 好ましくないことに、「連続説」「放射説」の比較評価が、本来、旅程出発点で評価すべき重大な話題なのに、なぜか後回しにされています。
 氏は、既に予断を固めていて、「放射説」起点を伊都とし、倭へ計四十日とした時、違和感、疑問など、解決できない「矛盾」が多いと感じたことを根拠に「連続説」を採用します。
 つまり、「水行十日、陸行一月」が、郡からの総日程であるという自然な/有力な解釈を、はなから排除しているので、その視点で、正解から遠ざかっているのです。
 早計で、予め選択肢を狭めているのは、適切な手順では無いと考えます。

                               未完

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*加筆再掲の弁
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*「連続説」のつけ
 一応の根拠は示したものの、以下の進行で「連続説」に不合理な難点が多いのが露呈しているので、現代感覚頼りの決めつけは早計かと愚考します。

 氏は、以下、不弥ー投馬ー女王居処間旅程の「高度」な解析にかかります。
 「連続説」では、肝心な二区間が、壮大な日数表示の上に、長期の水行が含まれ、明快な解析ができないのですが、これは、「違和感」「疑問」などと、個人の感性に左右されるものではないからで、数式解法の不備などではないのです。

▢改ざん説長談義

 と言うことで、氏は、本来明快な筈の現代語文「倭人伝」の旅程記事を、「自己流解釈で解読できなかった」ため、記事が不明瞭な原因は、陳寿が書いた明快な記事が、現行記事にすり替えられたものと断じています。大変な転換点なので、少し手間をかけて審議します。

 氏は、倭までの最終旅程が水行陸行四十日だけで道里不明との理解(立証されていない仮説)に立ち、書かれていない水行、陸行の速度を捻出して、その計算に合う里数記事を「創造」したものです。氏は、ご自身の労作を本来の記事を復元した偉業と見ていますが、そのような記事は、痕跡すら残っていません。倭人伝「伊藤本」とでも称すべきであり、氏の創造物です。(現代の著作物なので、著作権が発生しています)
 要するに、氏は、氏の見た「倭人伝」里程記事の「解読困難」を「後世改ざん」の帰結と早合点し、「なかった原型の復原」という、史料に根拠がなく仮説になれない、解答とは一切言えないロマン、夢想に取り憑かれたと見えます。

 この行き方は、氏自身が冒頭で提示した原則に、真っ向から違反しています。

*「三国志」原本の旅程
 「三国志」は、陳寿没後程なく、いち早く晋の帝室書庫に収蔵されました。陳寿は上程用に脱稿していたので、未完成でなく決定版でした。
 そして、晋朝の権威の根拠として尊重され、後に「正史」として権威づけられ史記、漢書の二史に続く第三の史書として重視されたのです。要するに、歴代王朝の「国宝」として、厳重保管され、絶大な努力を傾注して、正々堂々と写本継承されたのです。決して、非合法な異端の書として闇の世界に息を潜めたのではないのです。
 晋を継いだ劉宋の裴松之が、皇帝指示により付注した際に、異本を校勘して帝室原本に付注して、体裁刷新した「決定版」としたこともあって、裴注版三国志は広く出回り、その後に改竄版を流布させるなど不可能です。
 以後、北宋に至る各王朝で連綿として「国宝」、つまり、帝室貴重書として厳格に原本管理され、北宋、南宋刊刻時の大規模校勘もあって、原本のすり替えなどできなかったと見ます。世上言われるように、「三国志」は、古来の「正史」の中で、異色と言えるほど、版による異同が少なく、安定しているのです。諸賢の中には、これでは、校訂の筆を挟む余地がなくて、「実力を発揮する余地がない、まことにけしからん」とでも言うように、歎いている方が少なくないのです。
 北宋刊刻時、「三史」の掉尾として重要視された笵曄「後漢書」は、劉宋当時に編纂されたものの、編者范曄が、劉宋文帝に対する謀反大罪で、継嗣と共に処刑され、笵曄「後漢書」未完稿は接収され、適切な保護管理の有無が不明な状態であり、南朝亡国後唐代に正史とされるまで、闇世界で低迷したものと見えますから、種々あった後漢史書の中に在って、延々と不確実/不安定な地位にあったとも言えます。

 笵曄「後漢書」が見出された唐代以降三史の地位を得たものですから、陳寿「三国志」は「正史」として四位以降の「その他」に回されたものの、「三国志」自体の評価は、依然として高かったのです。

                               未完

新・私の本棚 伊藤 雅文 邪馬台国は熊本にあった! 5/7 2025

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 私の見立て ★★★★☆ 力作 ただし空転/捻転散乱    2019/03/17 一部改訂 2021/03/30 2024/02/09 2025/06/15

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*すり替え考察~余談
 実際的な思考を試みると、劉宋時の「魏志」は紙の巻物と思われます。
 中国は広いので、簡牘の巻物は、骨董品価値も含めて長く残ったでしょうが、貴族、富豪など蔵書家は、早い段階で、嵩張らない紙巻物に移行したものと思います。陳寿「三国志」六十五巻は、班固「漢書」百巻に比べて、随分細身であり、太古以来の史書筆法に専念して、魏晋代、既に読解困難であったものと比較して、親しみやすい読み物であり、また、自大が接近しているため、登場人物に親近感が持てるというような多大な理由か好まれていて、紙巻物にすれば随分手軽であり、全巻揃えても書棚に収まる程度であるので、身近に置くことができ、あるいは、軍人であれば前線の兵舎に抜き書きを持って行けるので、急速に普及したものと見るのです。
 特に、東晋南朝の京師であった建康は、東呉時代の政治中心であり、多くの官僚、商人が、東呉史書である「呉書」を好んだことも作用しているものと思われます。

*歴博綺譚~余談
 但し、世間は広いもので、「歴博」には、三国志ならぬ、范曄「後漢書簡牘巻物の複製品」などと言う出所/由来不明の展示物があり、複製元がどんなものか、ぜひとも、お顔が見たいものです。
 おそらく、多額の複製費が国費援助で投入されたと思うので、公的研究機関の研究成果は、堂々と、納税者に対して内容展示いただきたいものです。複製品(レプリカ)は、本物と同一構成、同一技法で再現されているので、来場者が手で触れられるように配慮いただければ、笵曄「後漢書」に対する親近感が増そうというものです。
 因みに、西域、敦煌から出土している三国志の断簡は、どう見ても紙であり、東呉商人が、家宝の写しとして西域まで持参するには、紙巻物が常識となっていたように見えます。いや、分量の少ない列伝は、仏教経文にあるような折り畳み小冊子の「折本」になっていたのではないでしょうか。
 「倭人伝」は二千字程度なので、「野良写本」では小冊子になっていて、表紙には「魏志倭人伝」と書かれていたように思います。特に証拠となる文物は見かけていませんが、「なかった」と言う証拠はないように思います。

 と言うことで、南朝劉宋の史官、裴松之が、補注の際にどんな三国志を手にしていたのか、正確には今ひとつわかりません。
 袋綴じ冊子は該当二ページ単位で偽造、すり替えできないことはありません(「絶対不可能ではない」という意味であって、容易に実施可能という事ではありません)が、巻子は全巻糊接ぎ、裏打ちされていて、部分すり替えは(絶対に)できないのです。
 魏志第三十巻全体の帝室原本の良質複製品を入手し、巻末附近のつなぎを剥がし、のり付けを外し、全く同一の幅の偽造部と入れ替える、途方もなく高度なすり替えが必要です。
 つまり、時代原本同等の用紙、墨硯筆、写本工で同等写本を仕上げ、更に装幀専門家が必要です。門外不出の時代原本の取出し、返納も含め、まことに壮大な事業です。現代人が、電子データに対して、削除・追記で改竄するのとわけが違うのです。

 別案として、原本巻子を持ち出し、該当部の墨文字を削り取り書き直すのが、断然手間が少ないのですが、持ち出し、持ち込みの不可能犯罪はこの際度外視しても、そのような手軽な書き換えが、そもそも、可能かどうか判断に困ります。

*大罪連座の定め

 いや、帝室所蔵の時代原本を勝手に持ち出すだけで死刑ものですから、偽造品とすり替えるのは、露見すれば関係者残らず一家全滅です。当人は信念で本望としても、共犯者は得られず密告されるでしょう。荷担しなくても密告しなければ共犯で、共犯連坐を免れるには、密告以外に選択はないのです。

*やはり実行不可能
 一案として、帝室書庫の時代原本更新の時期、例えば、巻子から冊子への転換の際、担当部局に大金を積んで、記事の一部をすり替えて写本させるのは、うまく行けば露見せずに済みそうですが、どれほど大金が必要か空恐ろしいほどです。また、史学者が精査して改竄を指摘する危険もあります。

 と言うことで、折角苦心して編み出した「改ざん説」、「すり替え説」ですが、肝心の時代原本すり替えは、到底実行不可能と思われます。

 時代原本は、写本普及の根源であり、下流写本が根こそぎ改竄されても、根源から新写本すれば、不可能犯罪は水泡に帰するのです。時代原本のすり替えにこだわる由縁です。氏は、劉宋末期すり替えとしているので、以上の推定ができるのです。

*改竄の動機
 以上でおわかりのように、帝室の時代原本の巻子を偽造巻子とすり替えるのは、余りにも避けがたい危険が多く、また、そのような、本当の意味で「命がけ」、「必死」の大罪を犯す動機が見当たらないのです。とにかく、正史原本「改ざん」なる刑死族滅、家族皆殺しの大罪を、誰がなぜ犯すのか。道里記事すり替えは、魏志東夷記事の些細項目の改竄、すり替えです。そんな些末事に命をかけて、共犯者を含めて大金を得ても、一族処刑されれば無意味で、家族全員の命を賭けられないのです。

 結論として、氏の壮大な「連続説」難局打開の救済策は、無理のようです。
 これだけの命がけの曲芸を持ち込めば、氏がご不快に思われた「放射説」も棄却原因となった矛盾を解消できる
でしょう。

*改竄不要の提言  2021/04/12
 ここで、せめて、建設的な意見を述べさせていただくと、安本美典氏の短里説と榎一雄氏の伊都国起点の放射経路説、加えて古田武彦氏の「水行陸行郡起点説」を採り入れると、「女王之所」は、伊都国の南というものの、概数計算の本質的な限界と原資料の持つ不確かさから、そこに達するための道里は不確定であり、手堅く見ても、最短百里未満、最長千里程度のかなり広い範囲が適用可能となります。
 一部論者の言う宮崎県域は「かなり無理」と見えますが、論理的に無効ではない程度の否定です。

 「南」と言っても漠然と言うのであり、伊都国に道標が立っていれば、「南 邪馬一」と彫られていたでしょう。目前の南に向かう路を指示しているだけで、途中の東西転進は、道なりに進めば良いので始発点では言うに及ばないのです。何しろ、まともな道は他に無いので、追分(分岐点)があれば、そこで指示するだけで間違いはないのです。
 帝室蔵書改竄の大罪を犯さなくても、ある程度の範囲に誘致することはできる(否定できない)のです。

 そこで、古田武彦氏の金言が登場するのですが、「倭人伝」の文言解釈は必要だが、さらに、現地の出土物の評価が重大である、と言うことです。もちろん、筑紫地域の発掘の進展と比べて、県外地域の発掘はゆっくりしていますが、かなり有力な意見であることは間違いありません。

 と言うことで、本書を改定される際は、改竄説撤回を最優先に取り組んでいただきたいものです。要するに、当ブログ筆者の所説に同化することを提案しているのですが、この程度の手前味噌は良くあることでしょう。
 いずれにしろ、同意するしないは、氏の勝手なのです。京都のわらべ唄で言う「ほっちっち」(ほっといて)も可能です。

                                未完

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*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

*精密計算の時代錯誤
 伊藤氏も、多くの論者と同様、現代データの古代への適用で、途方もない錯覚に陥っています。それは、各種数値の有効数字に関する時代錯誤です。

 先に挙げた問題著者達は、不法使用地図データで描き出した架空の地図で、ある地点と別の地点を結ぶ直線(?!)が、途中の第三地点を㍍単位で通過すると主張します。地球が丸いとの自然原理も、アッサリ無視しているのですが、多分、御当人は、ディスプレイの平坦な画面ばかり見ているので、なにも疑問を抱かないのでしょう。
 それにしても、太古には、メートル法SI単位系がなく、三角測量も不可能との認識が欠けている重大極まる「時代錯誤」です。また、堂々と、地形の制約で見えない「日没」が超高精度で見える、さらには、地平の彼方が見えるなどとしている幻視幻聴の例まであります。錯視の極致です。

 とんだ余談で恐縮です。氏は、そのような愚行に染まってないと見たのですが、百十四ページに、一尺は24.12㌢㍍との錯誤が堂々と書かれています。小数点二位までの精測は、現代でも、恒温室で、最高級の測定器具で初めて達成できるのであり、当世流行りのデジタル機器でも、出ている数字の精度は、厳重に検証しなければならないものなのです。
 それはそれとして、三世紀当時、尺原器は、各地の市場での取り引きを監査するためのものであり、一度に多数制作するとして、全て、このような精度で揃っていたはずはないのです。
 要するに、全て考え合わせると、当時は、せいぜい24㌢㍍程度、各地での尺度の検定では、1㌢㍍での出入りは許容されていたと見えるのです。
 考古学上の考察は、当時の加工技術と実用を見据えるべきではないとかと思量する次第です。

 端的に言うと、古代にそのような測定/制作精度はないのであり、ズバッと丸めて25㌢㍍程度(有効数字1.5桁)とやるめるべきです。現物を手元で確認できるから、尺の精度は、1㌢㍍、5㌫程度は出せたでしょうが。(いや、二本の尺を並べて末端をすりあわせたら、㍉㍍単位で整合させられるでしょうが、ここで言っている「精度」は、そういう性質のものではないのです)

 一歩(ぶ)は、六尺なら、当然、百五十㌢㍍程度となります。「歩」は、土地測量、つまり、農地の検地に常用されるので、一歩定寸の縄なり一歩単位で目印の入った縄を使用していた可能性が高いのです。
 但し、全国各地で、土地台帳を記帳するには、精密な測量は不可能であり、また、無意味なので、大雑把な計測が出回っていたはずです。何しろ、新規造成で縄張りした農地は、幾何学的に「矩形」、「方形」に近いものでしょうが、現地でお目にかかるのは、不規則なものでしょうから、その土地区画を、四角形と見立てて、縦、横を測寸し、掛け合わせて、土地面積と見なすことにしたはずです。何しろ、全国に幾何学的測量を施し、精緻な計算をすることは、全国くまなく担当者を配置できないので、実行不可能不可能です。また、そのように精測しても、所詮、収穫物の計量は、計量マスを多数制作して使うとしても、時代相応に大まかなのですから、精測はありえないのです。と言うことで、土地土地の「歩」の測量は、精密に統一されていたとは思えないのです。

 いや、数字に強い方の賢察では、方形の土地であれば、中点を基準に、縦横の歩単位の測量を行って、掛け合わせれば、面積として「歩」が得られるので手早く測量、記帳ができたと言う事です。中国全土に、高度な測量ができる吏人を派遣して、精度の高い測量を行うなどは、中世に至っても、到底できることではなく、以上に略記したような、実用的な測量が行われていたと見るべきなのです。

 つまり、現代人が妄想するような、高精度の測量など、どこにも存在しなかったのです。

 方や、「里」に基づいた「道里」の測量となると、450㍍にも及ぶ縄は常用できないし、45㍍の縄も大変な重荷になるので、縄張りで、数百里にわたって測量したものかどうかは不確かです。街道の場合は、精々、一里塚を着々と築いて、道中の宿場で里を刻みなおしたでしょうが、行程が、海上の場合は、道里の測りようがないので、所要日数の見地から、「道里」を見立てたのでしょう。誰も、書かれている道里を、検証できないのですから、海上の場合は、それで十分だったのです。

 何しろ、未開地では、千里どころか百里単位の「道里」も、測定しようがなかったのですから、全体の「道里」の精度に見合った推定で埋めたのでしょう。

 因みに、正史の「志」部に書かれている道里は、太古に一度設定されて以来、厳格に維持されていて、「尺」の変動に連動して修正したことはありません。太古周代に設定されたと見える「洛陽」-「長安」道里は、少なくとも、秦漢代を通じ提示されています。

 と言うことで、勝手な考証はこれぐらいにして、氏の論考の批判に戻ります。
 この部分の過度な桁数は、引用転記に過ぎないのでしょうが、安直な誤解を広げている点は好ましくないと考えます。

*多桁表示の弊害~余談
 氏は、ご多分に漏れず、漢数字に、時代錯誤のゼロ位取りの多桁表示を多用し、有効数字が多いように演出し誤解を誘います。
 郡から狗邪韓国までの七千余里を七〇〇〇余里と書くと、一里単位まで計り、下の位を丸めた0.02㌫程度のとてつもない高精度に通じます。当時の感覚で、里程は七「千里」であり、まずは、千里単位で、五百里程度の出入りを含みうる概数なのです。(いや、二千里単位で千里の出入りかも知れません)
 当時、全桁計算可能な算盤(そろばん)も、実務での多桁筆算もなく、一桁計算で、七に一を三つ足して十(千里)、一萬里、ここで桁違いの百の位は端数で無視できます。必要なら百の位を添えて二桁計算し、十の位以下を無視するのです。そのような概数での運用であれば、高度な計算技術も不要であり、日常雑務の計算に、多大な人数を注ぎ込む事もないのです。

 伊藤氏は、一里は三〇〇歩として、多桁計算後、一里四三五㍍としますが、有効数字二桁(一桁半)と見て四百五十㍍(4.5X100㍍)とするのが時代相応です。高精度を要しない文献批判の際には、一里を四百五十㍍と決めておいて、一歩(ぶ)150㌢㍍、1.5㍍、一尺25㌢㍍とした方が、各種計算が、有効数字二桁の概算になり、筆算しても簡単になるので便利です。お勧めの設定です。(「歩」を、歩幅に由来するとするのは、多分勘違いでしょうが、紙数がないので、ここでは割愛します)
 ついでながら、一歩を三百分の一里と見る発想は、時代錯誤です。当時半分とか四半分はあっても、桁の多い分数は滅多にないので、一里の三百等分は不可能です。現代でも三百等分はなかなかできないのです。割り切った言い方をすると、世に言う「道里」の里は、尺度の延長線上にない、別次元の単位なのです。

 土地測量の単位として常用されていた「歩」は、度量衡、尺度の単位で原器も残っている物差しの「尺」の六倍であり、以下、畝などを経る倍数計算階梯を重ね、一里=三百歩に至るのであり、一気に三百倍されるとは限らないのです。まして、道里の里を得るのに、一尺の物差を千八百倍するなど、現在の技術を持ってしても実行不可能ですから、尺を持って里を測ることはできないのです。

*丸める話
 個人批判ではない一般論として、古代史の論考において、漢数字の多桁表示はもちろん、小数表示も多桁分数もやめてほしいものです。要は、当時の数値計算、表示の概念を遠く離れた表示は、好ましくないのです。
 そのような事情がわかっていて、一般読者向けに多桁表示するのは「読者を騙している」ことになるのです。

 素人目には、古代史学界の諸兄姉は、理数系教養の基礎の基礎(算数教育)を忘れて数字遊びに耽っているように見えますが、氏は、無縁でしょうか。

                                 未完

新・私の本棚 伊藤 雅文 邪馬台国は熊本にあった! 7/7 2025

 扶桑社新書 219   2016年9月刊     
 私の見立て ★★★★☆ 力作 ただし空転/捻転散乱    2019/03/17 一部改訂 2021/03/30 2024/02/09 2025/06/15

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

*海上里程の錯覚
 同様に見ると、渡海行程で一千餘里を一〇〇〇余里と書くと里単位測量がされているとの「錯覚」を呼びますが、海上移動に「路」も「道里」もないので、測量不能な海上を、例えば、七百里強から千五百里弱の範囲内と「見なした」大まかな数値と見るべきです。
 ただし、この道里は、実測と無関係の日程面からの概算であり、一日三百里の勘定で前後の余裕も見て所要三日を三回、全体で一日余裕で、切りの良い十日との勘定合わせしたものと見られます。
 そうであれば、測量の結果ではないので、概算千里が合理的なのです。これは、現代人に喪われた、本当の意味で、数字に強い書き方です。

▢水行談義 処断 2025/06/15
 追記 水行の本義 2025/06/15
 まず、以下の提言は、当ブログ筆者の了見不足で、処断を怠っていたものと反省しています。
 以下の論理で、「魏晋朝までの正史記事で、「水行」は専ら河川航行」と言いよどんでいますが、 厳密に言うと、太古以来、魏晋代に到るまで、公式道里の行程記事で「水行」は一切存在しないため、禁句であり、一般的な用語として、「水行」は、河川を渡ることを言うと、これも、厳密に規定されていたため、「倭人伝」では、狗邪韓国からの渡海行程を規定するために、「倭人伝」に於いては、海岸から向こう岸に渡海することを「水行」と言うと、殊更に定義したのです。このように前もって定義することにより、狗邪韓国からの三度の渡海は、読者の非難を浴びることなく記述できたのです。

 ここまでしばしば、岡田英弘氏の意見に学んで、三世紀史官の用語/筆法は、二千年後生の無教養な東夷には理解できないのが当然と批判しましたが、ここで「水行の本義」と明記したのは、一つには、中国史書の権威である渡邉義浩氏が、太古以来の用例を総点検して述べた見解であり、一つには、古代以来の権威ある辞書である「爾雅」は、行程を示す際の「水行」を軽舟で渡河することとしていて、史官として、用字/用語の秩序維持に慎重な陳寿は、「循海岸水行」と五字を費やすことにより、「水行」が、「水(かわ)の流れ」を言う常用語でなく、河川を小舟で渡ることを言うと明示したものと見えます。
 このように、権威ある史官が先例を構築したため、後生史官は、堂々と「水行」を拡大解釈して、河川交通、沿岸交通にも、適用したと見えます。
 また、魚豢「魏略」西戎伝には、西戎なる蕃夷の地の行程として、大海、恐らく、カスピ海などの内陸塩水湖の「水行」を記載しているように見えますが、魏略「西戎伝」は、「倭人伝」に先行しているとしても、公式史書(正史)ではないので、先例とならないのです。

閑話休題 初稿に戻る
 水行談義で、氏は、時代無視の安易な「俗説」に、どっぷりと毒されていると見受けます。
 但し、氏は、子供ではないので、自分で書いたことに責任があると言えます。

 里程記事の冒頭で、「従郡至倭」、「海を渡るのを水行と言う」と宣言された「倭人伝」は例外として、魏晋朝までの正史記事で、「水行」は専ら河川航行であり、さらに言うと、大陸の「道里」で「渡河」は、「陸行」の一部であり、表記されず、「水行」とは別です。いや、そもそも、街道を行くのが正規の行程である以上、「水行」道里は、本来「無法」なのです。
 して見ると、氏の著作で、半島西南岸の海上「水行」図で、島々を踏みにじる不可能な経路を表示しているのは、氏としては、航行不能な経路と示したとも見えます。

 なお、畿内説に必須の瀬戸内や日本海の「航路」は、(あったとすれば。以下略)毎日寄港し、また、食糧、水、薪炭の積み込み、潮待ち、風待ち、雲行き待ちがあるので、必ず翌日出港とは行かないのです。つまり、港港で船を代え、漕ぎ人を代え、天候好転を待ち、潮待ちして、四十日に到底収まらない日数をかけて旅するのです。そのような不法な行程は、日数が数えられないから、日程管理の厳格な「正規行程」となりようがないです。要するに、里数や経路で、所要日数が規定できない蕃夷の「倭人伝」ですから、日程の規律が保てない行程は、一切、採用されないのです。

 並行して陸上経路があれば「道里」測量できれば、それは、陸上街道であり、海上移動と異なりますが、陸上経路があれば、危険でお天気まかせの海上行程を行く理由がないのです。中原であれば、陸上の街道は、文書使/郵便員が、騎馬で行くものであり、さらには、駿馬で疾駆する「急行」もありますが、海上移動となると、船上で駆け足しても移動速度は変わらないので、「急行」はないのです。よって、文書使の漕行や派遣軍の移動には、全く不向きです。

 こうした海の行程(あったと仮定すれば)と対比される対馬、壱岐伝いの三度の渡海は、岩礁、浅瀬もなく、日頃の交易便船と同様に、見通せる対岸に渡っては、必要に応じて漕ぎ手一同を替え、ときには、急流に適した便船に乗り換えるのであり、予備日を考慮すると、ある程度決まった日数で、ほぼ確実な運行が可能です。

 氏が、千差万別の実態を考慮せずに、一律、「水行一日二百里」と見るのは、氏にしては、不用意で不可解です。

*空想競争~余談
 またもや、一般論、俗説批判になりましたが、「畿内説」論者は、当時、長距離の便船、航路が、当然君臨したと見るようですが、それなら、筑紫から中部大和、中和に至る魏使の四十日に渡る(と読み替えざるを得ないのであり、当論者の指示する論法ではない)最終旅程は、冒頭の諸国記に劣らぬ痛快な記事となるはずですから、割愛された理由が理解できません。(要するに、当方と「読み」違いですが)

 極端な「海路」論者は、景初遣使は、現在の大阪湾岸から万里波濤を越えて渤海湾岸の天津(「天津」は、元代の産物で、当時存在しない)に漕ぎ渡り、河水,洛水遡流で洛陽に漕ぎ至ったと「おおぼら」を吹くのですが、それは、無理に無茶を重ねた途方もない時代錯誤です。いくら、書紀に海路と書かれていても、それは、数世紀後の、そして、捏造疑惑の絶えない史書ですから、三世紀に持ち込むのは、無謀というものです。、そのような無理難題の辻褄を合わせるために原本を改竄/解読するのは、無茶の三乗です。
 三世紀に、そのような強カな漕ぎ手を擁する漕ぎ船が便船として常用できていたら、船主は「天下」を取ったでしよう。何しろ、そのような漕ぎ船は、半島を沿岸廻遊せず、直接山東要地の東莱に乗り込め、時では、狗邪韓国/一支国寄港なしで、倭の港に直行渡海できます。人間業ではないのです。

 いやはや、史の堅実な論考の外では、二百年越しのほら吹き合戦ですから、余談の種は尽きないのです。

 できもしないことを積み重ねて、画期的な新説と述べる著者がいて、氏が悪影響を受けると困るので、長々と講釈を垂れたわけです。

*妄言多謝
 いや、最後まで、しばしば、氏の論議批判にこと寄せて、世にはびこる俗説を論断しましたが、旁々、ご容赦いただきたいのです。
 氏の作業仮説群の由来がわからないので、俗説から想定される根強い妄説を批判しただけです。

                                完

2025年5月30日 (金)

倭人伝随想 「倭人伝道里の話」司馬法に従う解釈

初稿 2019/02/27 表現調整 2020/11/10 最終版 2025/02/20, 05/30 

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

◯はじめに
 本稿は、元々、等閑(なおざり)にされがちな中国里制制度の基礎からの見直しであり、世上取り沙汰される「倭人伝」の道里について、まずは、公的道里は、一里四百五十㍍程度の「普通里」で一定していたとの主張であり、この点を確認頂ければ、史書に現れる「里」を現地の道のりと比較して、「里」の長さ「里長」を検証する必要が無いとわかるのです。
 そのように確認すれば、倭人伝の「道里」が、なぜ、そのように造作されたのか、思索に専念できるというものです。

□文献解釈編
 晋書地理志
 以下、晋書地理志司馬法収録の周制以来魏晋朝の里制について考察します。

 当記事で創作した概念図(Picture)から見て取れるのは、周制単位系が、一尺25㌢㍍の「尺」から天子領地にあたる一辺一千里「畿」まで階梯のように十倍、百倍で連綿としているということです。(井、里の下で三倍になっていますが、事情あってのことです)概念図というのは、本来、文字で書かれている縦書き文書が構築している単位系が、現代人に理解困難なものなので、忠実に概念図化したものであり、依然として、補足説明が必要ですが、現代人が辛抱強く解釈すれば、筋の通ったものと理解できるだろうということで、ほぼ独力で製作したものです。
 とかく、一歩六尺、一里三百歩という関係だけが説かれていますが、それは、解釈を誤っているものと見えてくるはずです。

 「歩」(ぶ)は、農地測量のための面積単位(方歩)が本旨で、測量の才能の幾何単位(尺度)として、一歩六尺の関係が利用されているものです。

 「里」は、農地面積集計のための面積単位(方里)であり、土地台帳集計であれば、「方一里」まで計算できるのですが、地域拠点間の公式道里に活用される場合は、数千里という「千里」単位の概算になるので、それなりの精度しか取れなかったのです。

 よくよく丁寧に追いかけると、里から尺に下る単位系と里から畿に上る単位系は傾向が一致しないようですが、この点は本論に関係無いので割愛します。
 当概念図は、当方自習用であり、「晋書」所収司馬法は。言葉の定義だけですから、概念図の出来具合は本論に関係無いのです。

*綿密な単位体系
 周制単位系は、連綿と築かれていて、里を1/6、6倍に伸縮すると、尺に始まり畿(一辺千里)に至る階梯が乱れるので、全国に混乱を引き起こすこと無しに実施できないのです。少なくとも、秦漢代から曹魏を経て晋書の書かれた唐代に至る十世紀に垂(なんな)んとする歴史時代において、西晋の天下が壊滅して、東晋が江南に逃避した後も、当然維持した南朝諸国と共に、進入した北方異民族が、統治の制度として維持したのであり、一貫として有効であったものであり、南朝の叛徒を滅ぼして、全国を統一した隋唐代に、ようやく、単位体系に調整が加えられたと言うだけです。

 なお、里に始まり、歩、尺に下る部分は、歴年保守されてきた土地台帳に常用される「畝」を含み、社会的に大混乱を起こさずに実施できないのです。
 総じて言うと、周制でこうした単位系が始めて構築、公布されて確定して以降、里長の伸縮は、歴史に深い刻印を残さずには不可能だったのです。

*周制以降
 ここで提示したように、殷周革命による周の天下統一後も、相当部分で殷制を踏襲した「周制」の公布後は単位系が、一貫して維持されたものと見えます。
 「里長」や換算係数の当否は、本論に関係無いので、深く議論しません。
 「周制」以前、商(殷)の単位系は、史料に残されてないので実体不明であり、短里の由来や時間/空間的棲息範囲は、今となっては憶測しかできないのです。添付した漢書「食貨志」の伝える太古の名残は、時に、先賢諸兄姉の説かれる「里」の二面性の根拠かもしれないという程度です。

*公孫氏「倭人伝」年代記以来の変転
 後漢献帝建安年間に遼東郡太守に就職した公孫氏が、漢武帝以来、半島以南の東夷の窓口となっていた楽浪郡に命じて提出させた「倭人」身上書が、公孫氏「倭人伝」の端緒となり、以後、曹魏明帝の楽浪郡回収によって、曹魏公式の「倭人伝」となったとして、そのような異例の経過で洛陽天子の知る所となった以降、曹魏「倭人伝」は、書き足されていたものですが、西晋代に到って、史官陳寿の手元に届いた時点では、歳々年々書き足されていたものです。して見ると、「魏志倭人伝」の道里行程記事に普通里が適用されず、とのような理由で、例外的に一里75㍍程度とみえる「倭人伝」「里長」が適用されているのか、この場では、不明と言わざるを得ません。
 念のため言うと、「倭人伝」「里長」は、後漢、魏代に国家制度として実施されていたわけは無く、後漢献帝期の公孫氏以来の流転の果ての「倭人伝」にだけ書かれているのであって、当然、先行、同時代用例はありません。

*司馬法里制概念図
  250220

 「漢書食貨志に見える畝-里」は、太古、つまり、殷周代に広域国家が形成されつつある時代の地方聚落としての「里」(さとの趣旨か)が書かれているものと見え、「家」が15㍍四方と仮定すると、「里」は、75㍍四方程度となりますが、そのような地理観が、いつまで、何処で通用していたのかは、確かではありません。
 「漢書食貨・地理・溝洫志 班固」(平凡社 東洋文庫 488)の附注(永田 英正・梅原 郁(みやこ)によれば、漢書「食貨志」は、後漢史官であった班固が編纂した大著「漢書」の志部の一志であり、ここに参照した「聖王のおしえ-井田制-」は、「周礼」に示された井田制の細部を再現したものです。つまり、秦始皇帝の全国制覇に伴い廃された周制を再現したものと見えますから、秦制を根拠とした「司馬法」とは、構成が大きく異なるものです。

 ちなみに、同附注では、一歩(ぶ)は、一辺六尺の方形の面積と適確に解釈されていて、以下、面積が倍数計算されることになっているのが分かります。とはいえ、漢書は、太古以来の書法に従っているため、史官の伝統が絶えた東晋以降では、史官と言えども正確に解釈できなかった可能性が高く、そのため、唐代に編纂された晋書「地理志」に、正確に承継されなかった可能性があります。

                         以上

2025年5月20日 (火)

新・私の本棚 松尾 光 「現代語訳 魏志倭人伝」 参 通詞論 1/2 三掲

 新人物文庫 .KADOKAWA/中経出版 Kindle版
 私の見立て ★☆☆☆☆ 誤解と認識不足の露呈  2020/08/05 2023/04/29 2025/05/20

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明を明らかにしない不法な進入者があり、大量に盗用していると見えるが、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。 

〇はじめに
 当記事は、本書に追記された「通詞論」に関する批判である。
【Q】魏の使者と倭人は、どのようにして会話したか
【A】魏国の使者が倭国に来たときもそうだが、倭国の使者が魏国に赴いても、使者の出身国の言葉がそのまま通じることはない。まして、世界の真ん中にいると称する国の人が、蛮夷の言葉に通じているはずも、通じていようと努力するはずもない。

〇コメント
 問われたのは、魏使来訪時の会話方法と明快だが、氏は時代錯誤の自己満足のせいか、筋の通った説明を怠っているので、率直に指摘せざるを得ない。

〇「倭人」錯誤看過
 「倭人」を、倭人伝「倭人」でなく、倭の住民とみて躓き石をやり過ごす。

〇識字率ならぬ識語率
 倭の住民といっても、庶人の大半、ほぼ全員は「文字」を知らないし、一切教育されてないので、魏使の発言を理解できるはずはなく、また、身分の高い魏使と対話を許されるのは、同様に身分が高く「文字」を解する高官だけのはずである。「会話」など、端からあり得ないのである。通人ぶって託宣をぶち上げたいのなら、しっかり、事態を想定する必要がある。

〇洛陽遣使談義
 洛陽に赴いた倭正副使は、当時倭人高官であり、当代最高の教養の持ち主であり、あるいは漢語を解したかも知れないが、概していえば、それ以外の倭王以下の高官は漢語を解せず、倭国使が漢語まじり倭語に通訳したはずである。

 ちなみに、倭王は、国王の教養として漢字の素養はあったと思われる。でなければ、国事報告の内容が理解できず、裁決、指示できないからである。

 言うまでもないが、当時、中国語の通じない蛮夷、倭に、中国人と国事を談じる「日本語」など存在しなかった。(日本が影も形もないことは別として)関心を持っても、存在しない言葉を学ぶことはできないのである。

 三世紀当時、中国世界では中国が(唯一の)文明国であり、国事を語る言葉は中国語だけだったのである。「天下」も「世界」も、中国であった。松尾氏は、わけもなく中華思想を揶揄しているようだが、自身が不勉強で、誰かの意見に追従しているだけであり、つまり、見識が狭いために、自身の井戸の中に囚われていることに気づいていないのである。
 特に、三世紀どころか、中国太古以来の文字文化の堆積と当時の『外国』の「文字」が無く、したがって「文化」のない世界との隔絶を想到できないで、勝手な意見を垂れ流しているのではないかと危惧される。一度、顔を洗って出直して欲しいものである。

 因みに、「井蛙」は、必ずしも蔑視ではない。人はだれでも、「世界」と言いつつ、自身の知悉している「井戸」に籠もっていて、訪れる「客」によって、外界の見聞を広げているのである。それを自覚するかどうかである。

 一方、成語である「夜郎自大」は、いわば、見識の無い「お山の大将」が、来訪した「中国」使節に、「中国」も、「天下」を支配している自国に及ぶまいとうそぶいたことから来ている。氏の「夜郎自大」は、二千年の時を経ているものの、所詮、当時の基準で無教養の蛮夷であり、時の「中国」を見下す資格はあるのだろうかと、疑問を唱えるものである。もちろん、武力闘争であれば、又、別であろうが、「中国」は、武でなく文で蛮夷を馴化しようとしたのである。

〇掌客の意義
 中国は、世界の外の「外国」つまり外道の来訪時、紛糾を避けるため、客として遇したが、客は、中国の「内国」として認知されるために懸命に中国語、中国古典を学んだのである。蛮人が中国人として認知されるには、四書五経を暗唱し、古典書に書かれた先哲の言葉に関して問答に耐えることが「目安」とされていたのである。
 それでも、帝都の蕃客受入部局鴻廬の下級官、実務担当者の「掌客」が蛮人に言葉と儀礼を教えて、宮中参内で大過ないようにしたのである。
 ちなみに、「中国」において、「士人」として認められるための資格を蕃夷に適用しているだけであって、別に、差別しているのではないのである。

〇掌客の実務
 蛮人との『会話』の最先端に位置する掌客は、最下級とは言え官人であるから、蛮夷の言葉に染まることは許されなかったが、通詞として蛮夷の言葉を解する官奴がいたとも思われる。通詞を介しなければ、漢語、漢儀礼を教えようにも、端緒がつかめないのである。会話に要する片言は覚えざるを得なかったであろう。

〇会話通訳の意義と限界
 以下、氏が図式化して論じているのは、会話通訳であり、同原理を国事の意思疎通に敷衍するのは、全くの見当違いで、氏の認識不足を露呈している。蛮夷は、高度な概念を表す言葉を持たないから、「通訳」は成立しないのである。いや、脳内に図式がなければ、文字や図で表しようはないのであり、氏は、読者に教授するつもりで、自身の浅薄な理解を示しているのである。

 また、日常会話の類いでも、両者の間に通じるものがなければ、通訳のしようがないのである。
 例えば、対面で行われる商取引では、数や通貨の勘定や月日の記法も、共通していたはずである。共通していなければ、言葉が通じても、意思が通じないことになる。言うならば、目前に「もの」があれば、互いに共通の認識を確認しつつ対話できるので、「通訳」が仲介して意思疎通する事ができると言える。
 関連して、蕃夷が銅銭で対価の支払いができれば、中国の市で堂々と買い物ができるが、銅銭で支払いできなければ、蕃夷は、持ちこんだ物品と市の場で買い付ける物品を相対で等価と認めて、交換するしかないのである。後世で言う経済原理の働きであるから、必ずしも、蕃夷が中国文化を高度に理解習得する必要は無いとも言える。

 それにしても、簡単な日常会話は理解し合えたとしても、日常会話の延長の言葉や概念で国事は語れない。「中国」と交際するには、中国語とその表す概念に通暁する必要があるのであり、それは、通訳や翻訳者のなし得ることでは無い。

 いや、ここまで説いている勘違いは、一般人、素人にはむしろ常態であり、民放の古代史番組で、司会者が番外発言として、同様の誤解をこぼしたのを聞いたことがあるが、氏のように中国史書の翻訳に挑むほどの玄人論者が、これほど簡単な原理を知らないままに過ごしてきたことが、不可解である。

                                未完

新・私の本棚 松尾 光 「現代語訳 魏志倭人伝」 参 通詞論 2/2 三掲

 新人物文庫 .KADOKAWA/中経出版 Kindle版
 私の見立て ★☆☆☆☆ 誤解と認識不足の露呈  2020/08/05 2023/04/29 2025/05/20

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明を明らかにしない不法な進入者があり、大量に盗用していると見えるが、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。 

〇文書論議
 文書交換は高度な筆談であるから、ここに書かれているようなお粗末な手配りはあり得ない。まして、国家の大事に無教養な野良通詞を雇うのは、失笑ものである。鞍作福利は中国古典に精通していたと同時に、その高度な概念をヤマト言葉に噛み砕いていたものと思われる。中国人と会話するためには、鞍作氏が創造したヤマト言葉によって思考できる人材が求められたのである。何しろ、ヤマトの側には、後世律令で確立するような国家規律の言葉はなかったから、その大半は、漢語で埋められていたはずである。

〇漢字現地化禁制
 因みに、漢字を自国風に発音して文章、会話を構築することは、文明の根幹に反するので、固く禁じられていたのである。かな文字は、中国との交通が疎遠だったため見過ごされたのであり、至近の百済と新羅は、中国の規律に厳格に拘束されていたので、漢語の現地化などできなかったのである。
 今日でも、政治、経済などの高度な談義で、漢語や漢語風現代造語をヤマト言葉に置き換えたら、意思疎通できないのである。

〇児戯敷衍の愚
 ちなみに、「伝言ゲーム」なる、低級で陳腐な比喩が登場するが、事は、子供の遊び事ではないのである。正確な意思伝達の保証には、対面筆談による文意確認であり、つまり、都度伝達内容を検証し是正するのである。
 このような、児戯に属する低劣な比喩を持ち出して、古代人の叡知を見くびるのは、自身の無知を高言しているものである。

〇外世界の文化、文明
 史記大宛伝、漢書西域伝の漢武帝期の西域踏査記録で知られているが、西域のさらに西の果てに威勢を誇った「安息国」は、皮革に横書きで文字を書き付ける高度な文書制度を有し、東西数千里に広がる広大な国内に宿駅を備えた街道を隈無く整備運用し、常時、官制文書使を往来させ、漢使の東部国境到来時は、メソポタミアに君臨する国王の王都に急報し、想定日数内に国王から応対許可の指示が届いたと報告されている。班固「漢書」西域伝には、多数の蕃夷の「国」が銘記されているが、「王都」と書かれているのは、漢に匹敵する「法と秩序」が確立され、漢文と異なる文書が運用されていた安息(バルティア)だけである。
 つまり、其国では、縦書き漢字文書ではないが、巨大国家が、文書行政で秩序正しく運営されていたと知られている。其国は、銀銅貨が有り、計算集計技術が確立し、前世、女性一人で安全に長旅できたとされている。
 ただし、これは中原外の風聞であり、中国に皮革紙や横書筆記が伝わったわけではない。また、中国の基準では、先哲の古典書を読解していないものは、無知のものなのである。

〇まとめ
 文化、文明は、文字の上に構築される。単なる民族風習ではない。

〇魚豢の嘆き
 魏書第三十巻巻末に裴松之が補追した魏略「西戎伝」全文で魚豢の著作が伝えられているが、巻末で、魚豢のような知識人でも知りうる範囲の限られた池の鯉で外界を知り得ないと達観したが、現代人は知識を得るのに池を出る必要はないから、その場で認識を広め、かつ、深めて欲しいものである。

〇教訓
 古代史談義を現代人の言葉と概念で進めるのは無謀である。同時代概念を摂取し、内なる言葉と概念を整えた上で古代史料の言葉を取り込むべきである。氏の解説は、言葉と概念の貧困により意図不明の絵解きに終わっている。
 更なる境地に至るためには、情報源の「貧困」を理解いただいた上で、止まる木を選んで研鑽いただきたいものである。

                                以上

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