倭人伝随想

倭人伝に関する随想のまとめ書きです。

2024年8月21日 (水)

03. 從郡至倭 - 読み過ごされた水行 改訂第七版 追記再掲 1/3

 2014/04/03 追記2018/11/23、2019/01/09, 07/21 2020/05/13, 11/02 2023/01/28, 04/23 2024/08/21

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

 おことわり: またまた改訂しました。そして、更に追記しました。更に、3ページに分割しました。
 注記:
 後日考え直すと、当初述べた「水行」行程の見方は間違っていましたので、書き足します。
 改築、増築で、見通しが付きにくいのは、素人普請の限界と御容赦いただきたいのです。

*陸行水行論の整理
 事態輻輳の解きほぐしを試みます。(2024/08/21)
 「倭人伝」道里記事は、後漢献帝建安年間に、公孫氏が遼東の郡太守を自認したあたりに提起されたものと見えます。天子が玉座を離れて漂流するような行く手不明の時代でしたから、南下進出した青州に加えて、未開の荒れ地に等しかった韓国の更に南に広大無辺と見える新世界を見出した公孫氏は、楽浪郡でこの地域を担当していた帯方縣を強化して帯方郡とし、そのような新世界である「倭人」の境地をわが物として、見失われていた東夷を広く支配する野心を抱いたのです。
 それは、自らを「天子」とする構想であり、天子の居処である王畿から、無限とみえる万二千里の極致に、倭人の居処を置いた構想(Picture)を想像したと見えます。

*岡田英弘氏の韓国観の蹉跌 (2024/08/21)
 ちなみに、岡田英弘氏を初めとする幻像愛好家の方々は、漢武帝が、「陸路南下」して小白山地を越える竹嶺経路で半島最南端に至る交通路を創始して、郡体制を敷いたとか、それこそ、万里の波濤を越えて、南海の商人が「海路北上」して大挙来訪したとか、二色の経路を設けて神がかった画餅を描かれています。
 「陸路南下」は、後世三世紀に至るまで「街道」とならず、「海路北上」に至っては、中世唐代になっても、大型帆船の来航が確立されていなかったとみえるのです。否定しがたい状況証拠として、武帝以来数世紀を経た「倭人伝」に於いてはじめて確認された行程道里は、定法に従い、郡を出て陸路を歴て狗邪韓国の海港に至るものです。そして、そこからは、大河に見立てた大海に浮かぶ洲島を、軽快な手漕ぎ渡船で渡り継いで至る行程です。
 つまり、岡田氏がサラサラと描いた幻像は、所詮、中国中原文明にしられていなかった幻像であったとわかるのです。ちなみに、岡田氏は、戦前/戦中の日本統治下に、韓国領域を巡訪したことから、早くから、竹嶺(鳥嶺)経路を提言されているのですが、「倭人伝」道里行程論では、確立されていたはずの陸上経路を棄てて、虚構の沿岸船上移動を採用しているとみえるのは、何とも残念なのです。
 岡田氏の所説は、大局的な高説が多いので、学ぶべきところは多いのですが、時代考証を度外視した幻像史観に基礎を置いているので、御高説を其の儘受け入れることはできかねるのです。世界史に於いて広く時代と地域を普(あまね)く視察した岡田氏の言辞を、ご自身の提言に応用させていただくと、中国文明を学んでいない「二千年後生の無教養な東夷」の勝手な異説にとどまっているのは、残念なところです。

*閑話休題
 「倭人伝」道里行程記事の眼目である「従郡至倭」万二千里の内、半島内狗邪韓国まで七千里と明記されたのは、この間が陸上官道であり、海上や河川の航行のように、道里、日程が不確かな行程は含まれていないと判断されます。いや、実際には、その時、その場の都合で、「水の上」を行ったかも知れませんが、中国の制度としては、そのような規定/定義付けは、あり得ないということです。どうか、顔を洗って目を覚ましてほしいものです。

 九州島上陸後は、末羅国で、わざわざ「陸行」と明記されていることもあり、専ら陸路で倭の王治に至ると判断されます。伊都国から後、「水行」二十日とされる投馬国は、明記されているように、行程外の「脇道」であって、当然、直行道里からも所要日数からも除きます。従って、「都合水行十日+陸行一ヵ月」の膨大な四十日行程は、伊都国ないしは投馬国から倭王治に至る現地道里、日数では無いのです。本記事では、全体道里万二千里に相当する所要期間と見るのです。
 誠に簡明で、筋の通った読み方と思うのですが、とうの昔に「**説」信奉と決めている諸兄姉は、既に「思い込み」に命/生活をかけているので、何を言われても耳に入らないのでは、仕方ないことでしょうか。

 因みに、『「都合水行十日+陸行一ヵ月」の四十日行程 』とする解釈は、根拠のある一解であり、筋の通った「エレガント」な解と見ていますので、この解釈自体に、根拠の無い難癖を付けるのは、批判には当たらないヤジに過ぎません。感情的な「好き嫌い」を聞いても仕方ないので、論理的な異議に限定頂きたいものです。また、当ブログは、一部にみられるように公的機関の提灯持ちを「任務」としているものではないので、「百害あって一利なし」などと、既存権益を疎外するものと難詰されても、対応しようがないのです。

 巷間喋々されるように「水行なら十日、陸行なら一月」とか、「水行十日にくわえて陸行なら一日」とか、お気楽な改竄解読は、さらに原文から遠ざかっているので、無意味なヤジに過ぎず、確たる証拠がない限り、本稿では、論外の口出しとして門前払いするものです。

 当ブログでの推定は、榎一雄師が注力した「放射行程説」に帰着していると見て取れるかも知れませんが、当ブログは、特定の学派/学説に追従するものでなく、あくまで、『「倭人伝」記事の解釈』に基づいているのです。もちろん、特定の学派/学説を否定する意図で書いているのでもありません。敢えて、大時代な言い回しを採ると、脇道によらない「一路直行」説と呼ぶものでしょう。

*陳寿道里記法の確認
 このように、考慮に値しない雑情報を「整理」すると、全体の解釈の筋が通ります。つまり、全行程万二千里の内訳として、「陸行」は総計九千里、所要日数は都合三十日(一月)となり、郡から狗邪韓国までの陸上街道を七千里として臨時に定義された「倭人伝」道里』によると、一日あたり三百里と、切りの良い数字になり、一気に明解になります。

 一方、「従郡至倭」行程の内訳としての「水行」は、専ら狗邪韓国から末羅国までの渡海行程十日と見るべきです。「水行」三千里の所要日数を十日間とすれば、一日あたり三百里となり、「陸行」と揃うので、正史の夷蕃伝の道里・行程の説明として、そう読めば明解になるという事です。
 視点を変えれば、渡海行程は、一日刻みで三度の渡海と見て、前後予備日を入れて、計十日あれば確実に踏破できるので「水行十日」に相応しいのです。勘定するのに、別に計算担当の官僚を呼ばなくても良いのです。
 「倭人伝」の道里行程記事の「課題」、つまり「問題」(question)は、「従郡至倭」の所要日数の根拠を明解に与えると言うことなので、史官としては、与えられた「課題」を、与えられた史料を根拠に、つまり、改竄も無視もせずに、正史の書法で書き整えたことで大変優れた解を与えたことになります。
 当時、このような編纂について、非難を浴びせていないことから、陳寿の書法は、妥当なものと判断されたと見るべきです。

 ちなみに、陳寿は、帯方郡が、不法な里制を敷いていたと非難しているのでは無く、公孫氏が起案して曹魏皇帝が受け入れた「従郡至倭」「万二千里」と言う行程道里を、曹魏代に確認された「現地まで四十日」という実務的な行程日数に当てはめ、そのように絵解きすれば明解になるということです。

*道里行程検証再開
 郡からの街道を経て狗邪韓国に至った道里は、ここに到って「始めて」倭の北界である大海の北岸に立ち、海岸に循して渡海するのです。
 狗邪韓国から末羅国に至る記事は、「始めて」渡海し、「又」渡海し、「又」渡海すると、順次書かれていて、中原で河川を渡る際と同様であり、ここでは、大海の中の島、州島を利用して、飛び石のように、手軽に、気軽に船を替えつつ渡るので、まるで「陸」(おか)を行くように、「水」(大海の流れ)を行くのであり、道里は単純に千里と明解に書いているのです。
 ここでは、敢えて、又、又と重ねることにより、行程は、渡海の積み重ねで、末羅国、そして、「陸行」で伊都国に到ると明快です。

 各渡海を一律千里と書いたのは、所要三日に相応したもので、予備日を入れて「切りの良い」数字にしています。誠に整然としています。都合、つまり、総じて、或いは、なべて「水行」は「三千里」、所要日数「十日」で、簡単な割り算で一日三百里と、明解になります。諄(くど)いようですが、この区間は「並行する街道がない」ので、『「水行」なら十日、「陸行」するなら**日』とする記法は成り立たないのです。頑固な方に対しては、「それなら、渡船と並行して、海上を騎馬で走る街道を敷くのですか」と揶揄するのですが、どうも、寓話を解しない方が多くて困っているのです。
 
 とにかく、倭人伝道里行程記事が、範とした班固漢書「西域伝」に見られない程、細かく、明解に書いたのは、行程記事が、官用文書送達期限規定のために書かれていることに起因するのです。それ以外の「実務」では、移動経路、手段等に異なる点があるかも知れません。つまり、曹魏正始中の魏使の訪倭行程は、随分異なったかも知れませんが、「倭人伝」は、それ以前に、「倭人」の紹介記事として書かれたのであり、魏使の出張報告は、道里行程記事に反映していないのです。

 何しろ、明帝の下賜した大量、かつ、貴重な荷物を送り出すには、発進前に、「道中の所要日数の確認」と「経由地の責任者の復唱」が不可欠であり、旅立つ前に、「万二千里の彼方の果てしない旅路だ」などではなく、何日後にはどこに着くか、はっきりした見通しが立っていたのです。
 もちろん、事前通告がないと、正始魏使のような多数の来訪に、宿舎、寝具、食料、水の準備ができず、又、多数の船腹と漕ぎ手の準備、対応もできないのです。どう考えても、行程上の宿泊地、用船の手配は、事前通告で完備していたし、確認済であったはずです。

 また、当然、各宿泊地からは、魏使一行到着の報告が速報されていたはずです。
 「魏使が帰国報告しないと委細不明」などは、後世の無教養な東夷の臆測に過ぎません。

 これだけ丁寧に説き聞かせても、『「倭人伝」道里行程記事は、郡使の報告書に基づいている』と決め込んでいて、そのようにしか解しない方がいて、これも、苦慮しているのです。つけるクスリがない」感じです。
 
 誤解の仕方は、各位の教養/感性次第で千差万別ですが、本論で論じているのは、「倭人伝」道里行程記事は、郡を発した文書使の行程/所要日数を規定したものであると言うだけであり、半島西岸、南岸の沿岸で、飛び石伝いのような近隣との短距離移動の連鎖で、結果として、物資が全経路を通して移動していた可能性までは、完全に否定していないという事です。事実、この地域に、さほど繁盛していないものの、交易が行われていた事は、むしろ当然でしょう。

 ただし、この地域で日本海沿岸各地の産物が出土したからと言って、此の地域の、例えば、月一の「市」に、るか東方の遠方から多数の船が乗り付けて、商売繁盛していた、と言う「思い付き」は、成り立ちがたいと思います。今日言う「対馬海峡」を漕ぎ渡るのは、死力を尽くした漕行の可能性があり、多くの荷を載せて、長い航路を往き来するのは、無理だったと思うからです。問われているのは、経済活動を行い続ける「持続可能」な営みであり、冒険航海ではないのです。順当に考えるなら、「一大国」が要(かなめ)となった交易が繰り広げられていたでしょうが、其れは、「倭人伝」道里行程記事の目的である「従郡至倭」とは別義であり、地域の一大国であったという国名に跡を留めているだけです。

 海峡を越えた交易」と言うものの、書き残されていない古代の長い年月、島から島へ、港から港を小刻みに日数をかけて繋ぐ、今日の視点で見れば、本当にか細く短い、しかし、持続的な活動を維持するという逞しい、「鎖」の連鎖が、両地区を繋いでいたと思うのです。

 いや、ここでは、時代相応と見た成り行きを連ねる見方で、倭人伝の提示した「問題」に一つの明解な解答の例を提示したのであり、他の意見を徹底排除するような絶対的/排他的な意見ではないのです。

 水行」を「海」の行程(sea voyage)とする読みは、後記のように、中島信文氏が、「中国古典の語法(中原語法)として提唱し、当方も、一旦確認した解釈」とは、必ずしも一致しませんが、私見としては、「倭人伝」は、中原語法と異なる地域語法で書かれているとおもうものです。それは、「循海岸水行」の五字で明記されていて、以下、この意味で書くという「地域水行」宣言/定義です。

 史官は、あくまで、それまでに経書や先行二史(「馬班」、司馬遷「史記」と班固「漢書」)に先例のある用語、用法に縛られているのですが、先例では書けない記事を書くときは、臨時に用語/用法を定義して、その文書限りの辻褄の合った記事を書かねばならないのです。念のため言い足すと、「倭人伝」は、「魏志」の巻末記事なので、ここで臨時に定義した字句は、本来の所では、以後無効です。「蜀志」「呉志」は、別史書なので、「魏志」の定義は及ばないのです。その意味でも、「倭人伝」が「魏志」巻末に配置されているのは、見事な編纂です。

 この点は、中島氏の論旨に反していますが、今回(2019年7月)、当方が到達した境地を打ち出すことにした次第です。

 教訓として、文献解釈の常道に従い、「倭人伝」の記事は、まずは、「倭人伝」の文脈で解釈すべきであり、それで明快に読み解ける場合は、「倭人伝」外の用例、用語は、あくまで参考に止めるべきだ」ということです。

 この点、中島氏も、「倭人伝」読解は、陳寿の真意を探るものであると述べているので、その点に関しては、軌を一にするものと信じます。

 追記:それ以後の理解を以下に述べます。

未完

03. 從郡至倭 - 読み過ごされた水行 改訂第七版 追記再掲 2/3

 2014/04/03 追記2018/11/23、2019/01/09, 07/21 2020/05/13, 11/02 2023/01/28, 04/23 2024/08/21

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

 おことわり: またまた改訂しました。そして、更に追記しました。更に、3ページに分割しました。
 注記:
 後日考え直すと、当初述べた「水行」行程の見方は間違っていましたので、書き足します。
 改築、増築で、見通しが付きにくいのは、素人普請の限界と御容赦いただきたいのです。

*「従郡至倭」の解釈 (追記 2020/05/13)
 魏志編纂当時、教養人に常識、必須教養であった算術書籍「九章算術」では、「従」は「縦」と同義であり、方形地形の幅方向を「廣」、縦方向を「従」としています。つまり、従郡」とは、郡から見て、つまり、郡境を基線として縦方向、ここでは、南方に進むことを示していると考えることができます。いきなり、街道が屈曲して西に「海岸」に出るとは、全く書いていないのです。

 続く、「循海岸水行」の「循」は「従」と同趣旨であり、狗邪韓国の海岸を基線として縦方向、つまり、軽快な渡船で大海を渡って南方に、対岸に向かうことを、ここ(「倭人伝」)では、以下、特に「水行」と呼ぶという宣言、ないしは、「新規用語の定義」(definition)と見ることができます。
 つまり、「通説」という名の素人読みでは、これを、いきなり進むと解していますが、正史の道里行程記事で典拠に無い新規用語である「水行」を予告無しに不意打ちで書くことは、史官の文書作法(さくほう)に反していて、いかにも、高貴な読者を憤慨させる不手際となります。
 順当な解釈としては、これを道里行程記事の不法な開始部と見ずに、倭人伝独特の「水行」の定義句と見ると、不可解ではなく明解になります。つまり、道里行程から外せるのです。

*自明当然の「陸行」 (追記 2020/05/13)
 と言う事で、中国史書として自明なので書いていませんが、帯方郡から狗邪韓国の行程は、明らかに郡の指定した官道を行く「陸行」だったのです。陳寿の編纂時点まで、古典書籍、及び先行「馬班二史」に公式の街道「水行」の前例がなかったので、自明、当然の「陸行」で、狗邪韓国まで進んだと解されるのです。
 以下、臨時に採用した「水行」という名の「渡海」行程に移り、末羅国に上陸すると、限定的な「水行」の終了を明示するために、敢えて「陸行」と字数を費やしているのです。

*「水行」用例確認 2024/08/21
 ちなみに、中国古代史の最高の権威とされる渡邊義浩氏は、「水行」を行程道里に起用した例は、太古に至るまで存在しないと事実上明言しています。いや、氏は、司馬遷「史記」夏本紀の禹の伝記記事を取り上げていますが、書かれているのは、禹后が船で河水を移動(行)したという説明に過ぎず、「陸行」は車に乗った、「泥行」は橇に乗ったというのに合わせたものであり、陸に道(街道)があったとしても、河に道はなく、まして、陸と河の間の泥に道はないので、氏にしては不用意な引用とみえます。
 また、ここでも、「水」は、河水、つまり、黄河のことであるのは明らかであり、重ねて不用意な紹介と見えます。或いは、氏は、実際には、正史の道里記事に、「泥行」、「陸行」、「水行」は存在しないと示唆/事実上明言しているのかも知れません。要するに、明言/断定に等しいのですが、字面だけ舐めている/読み囓っているかたには、読み取れないとも思われます。要するに、史学者は、単に事実を書き綴るものではなく、いい意味で二枚舌であり、真意は文脈/行間から賢察するべきだという訓戒にもみえます。

*閑話休題
 本題に戻ると、「倭人伝」に示されているのは、実際は、「自郡至倭」行程であり、最後に、「都合、水行十日、陸行一月(三十日)」と総括しているのです。

*誤解の殿堂
 ついでながら、先に言及したように陸行一月を一日の誤記とみる奇特な方もいるようですが、皇帝に上申する史書に「水行十日に加えて陸行一日」の趣旨で書くのは、読者を混乱させる無用な字数稼ぎであり、「陸行一日」は、十日単位で集計している長途の記事で、書くに及ばない瑣末事として抹消されるべきものです。水行十日は、当然、切りのいい日数にまとめた概算であり、天下随一の史官が桁違いのはしたなど書くものではないのです。

 結構、学識の豊富な方が、苦し紛れに、そのような子供じみたと言われかねない言い逃れに走るのは勿体ないところです。当史料が、至高の皇帝に上申される厖大な史書「魏志」の末尾の一伝だということをお忘れなのでしょうか。ここは、途中で投げ出されないように、くどくど言い訳するので無く、明解に書くものと思うのです。

 と言う事で、郡から倭まで、三角形の二辺を経る迂遠な「海路?」に一顧だにせず、一本道をまっしぐらに眺めた図を示します。これほど鮮明でないにしても、「倭在帯方東南」を、図(ピクチャー picture)として感じた人はいたのではないでしょうか。現代風に言う「空間認識」の絵解きです。当地図は、Googleマップ/Google Earthの利用規程に従い画面出力に追記を施したものです。漠然とした眺望なので、二千年近い以前の古代も、ほぼ同様だったと見て利用しています。

 本図は、先入観や時代錯誤の精密な地図データで描いた画餅「イメージ」で無く、仮想視点とは言え、現実に即した見え方で、遠近法の加味された「ピクチャー」なので、行程道里の筋道が明確になったと考えています。倭人伝曰わく、「倭人在帯方東南」、「従郡至倭」。
 但し、重複を厭わずに念押しすると、中原の中華文明は、「言葉で論理を綴る」ものであり、当世風の図形化など存在しなかったのです。
Koreanmountainpass00
未完

*旧記事再録~ご参考まで
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 以下の記事では、帯方郡から狗邪韓國まで船で移動して韓国を過ぎたと書かれていると見るのが妥当と思います。
 「循海岸水行歴韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國」
 従来の読み方ではこうなります。
 「循海岸水行、歴韓國乍南乍東、到其北岸狗邪韓國」
 終始「水行」と読むことになります。
 しかし、当時の船は、渡船以外は沿岸航行であり、朝出港して昼過ぎに寄港するという一日刻みの航海と思われますが、そのような航海方法で、半島西南の多島海は航行困難(公的な行程となり得ない)という反論があります。なにしろ、陸上街道があるのに、そのように悠長で、不安定で、まして、危険な行程は、官制郵便に利用できないのは、少し説明すれば、子供にも納得させられる明白な事項と思います。

 別見解として、『「水行」は、帯方郡から漢城附近までの沿岸航行であり、以下、内陸行』との読み方が提示されています。この読み方で著名なのは、古田武彦氏です。
 これに対して、(実は、早計な誤解なのですが)曹魏明帝の下賜物の輸送経路と見た場合、(山東半島から帯方郡に到着したと思われる)船便が「上陸して陸行すると書かれてない」という難点と合わせて、魏使は、高貴物を含む下賜物の重荷を抱えての内陸踏破は至難、との疑問が呈されています。特に、銅鏡百枚の重量は、木組みの外箱を含めて相当なものであり、牛馬の力を借りるとしても、半島内を長距離陸送することは困難との意見です。

 このような視点は、「倭人伝」道里行程記事は、魏使、ないしは、帯方郡官人使節、正史使節の帰国報告に基づいているとする意見によるものですが、ここまで何度も説明したように、「倭人伝」道里行程記事は、明帝没後の正史使節の派遣以前に、新帝曹芳に対して、郡を発して倭に至るという「公式道里」を説明するために書かれたものであり、当然、正史使節の行程記事ではないのです。

 ちなみに、陸上行程は、馬車や牛車が動員できる上に、山路では、小分けして人海戦術でこなすという実務的な解法が予定されているので、輸送容量の問題は存在しないのです。また、宿駅ごとに交替して送り継ぐので、輸送距離が長いことは、否定的な要素には、全くならないのです。海上輸送の場合、便船は限られているので、増強することは困難であり、また、漕ぎ手の疲弊もあって、延々たる長旅になるのは、目に見えています。恐らく、論者は、別世界、後世の大型の帆船の揚々たる船便を想定しているのでしょうが、多島海続きで、しかも、船荷の乏しい海域に、大型の帆船などありえないのです。「倭人伝」の半島行程論議には、時代錯誤、実務無視のホラ話が繁昌していますが、文献無視の遺物/遺跡考古学者や後世の物知らずの夢想家が巾をきかす事態は、解消してほしいものです。(2024/08/21)

*厳然たる訓戒
 これでは板挟みですが、中島信文 『甦る三国志「魏志倭人伝」』 (2012年10月 彩流社)は、厳然たる訓戒を提示しています。具体的には、次の読み方により、誤読は解消するのです。 
 「循海岸、水行歴韓國乍南乍東、到其北岸狗邪韓國
 つまり、帯方郡を出て、まずは西海岸沿いに南に進み、続いて、南漢江を遡上水行して半島中央部で分水嶺越えして洛東江上流に至り、ここから、洛東江を流下水行して狗耶韓国に至るという読みです。

 大前提として、中国古典書法で、「水行」は、河川航行であり、海上航行では「絶対に」ない、というとの定見が提起されていて、まさしく、「水行」を、海(うみ)に直結している諸説論者は、顔を洗って出直すべきだという、厳然たる訓戒ですが、諸兄姉には、なかなか、顔を洗わない方が多いようです。

*追記 2023/04/23:
 ここでは、「循海岸」を「沿海岸」と同義と解し、「海辺を離れて内陸の平地を、海岸と並行して街道を進む」と解釈しているのであり、海船での移動を「水行」と呼ぶという「不法な」誤読を、鮮やかに回避しています。

 河川遡行には、多数の船曳人が必要ですが、それは、各国河川の水運で行われていたことであり、当時の半島内の「水行」で、船曳人は成業となっていたのでしょうか。
 同書では、関連して、色々論考されていますが、ここでは、これだけ手短に抜粋させていただくことにします。

 私見ですが、古代の中国語で「水」とは、河水(黄河)、江水(長江、揚子江)、淮水(淮河)のように、もっぱら河川を指すものであり、海(うみ)は、「海」を指すものです。これは、日本人が中国語を学ぶ時、日中で、同じ漢字で意味が違う多数の例の一つとして学ぶべきものです。
 まして、「倭人伝」は、二千年前に書かれた高度に専門的な文書(文語文)であり、今日、通用している口語寄りの中国語文とは、大いに異なるものなのです。
 手短に言うと、古代史書において、「水行」は河川航行に決まっている』との主張は、むしろ自明であり、かつ合理的と考えます。
 
 ただし、中島氏が、「海行」が、魏晋朝時代に慣用句として使用されていたと見たのは、氏に珍しい早計で、提示された用例は、陳寿「三国志」記事とは言え、「陳寿」が編纂していない「呉志」記事なので、魏志「倭人伝」用語の先行用例とするのは、不適当と考えます。

 同用例は、「ある地点から別のある地点へと、公的に設定されていた経路を行く」という「行」の意味でも無いのです。是非、再考いただきたいものです。

*追記2 2023/04/23: 
 「呉志」(呉国志)は、東呉の史官が、東呉を創業した孫権大帝の称揚の為に書き上げた国史であり、言うならば「魏志」(魏国志)には場違いな呉の用語が持ち込まれているのです。「呉志」は、東呉降伏の際に晋帝に献上され、皇帝の認証を経て、帝国公文書に収蔵されていたものであり、「三国志」への収録の際に、孫堅~孫策~孫権三代とそれ以降の「皇帝」称号廃却は別として、改変、改竄は許されなかったのです。もちろん、「魏志」の記事に「呉志」を引用することも許されなかった、と言うか、そのような引用は、あり得なかったのです。
 つまり、「魏志」(魏国志) 倭人伝用語の先行用例検索では、「呉志」(呉国志) 、「蜀志」(蜀国志) は、除外すべきなのです。このさい言い足すと、現行刊本で、三国志の陳寿原本に補追されている裵松之付注記事も、陳寿が採用したわけでは無いので、用例とすべきでは無いのです。なにしろ、陳寿が参照したかどうかすら不明なのです。

 この点の誤解は、古来、裴松之以下の後世史家が、揃いも揃って陥った陥穽であり、後世東夷である当世国内史家が陥ったとしても、無理のないところですが、諸兄姉に於いては、原点に立ち返って冷静に考えていただければ、ことの見極めのつくものと考えます。

 そのような編纂方針が顕著なのは、後漢末、献帝建安年間の曹操南征時に生じた、俗に言う「赤壁の戦い」に関する各国志の食い違いですが、それぞれの「国志」が、各国の公文書に厳格に基づいて編纂されていて、陳寿が「三国志」を統一編纂していないことから生じたものです。

未完

03. 從郡至倭 - 読み過ごされた水行 改訂第七版 追記再掲 3/3

 2014/04/03 追記2018/11/23、2019/01/09, 07/21, 2020/05/13, 11/02 2023/01/28, 04/23, 2024/08/21, 08/25

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

 おことわり: またまた改訂しました。そして、更に追記しました。更に、3ページに分割しました。
 注記:
 後日考え直すと、当初述べた「水行」行程の見方は間違っていましたので、書き足します。
 改築、増築で、見通しが付きにくいのは、素人普請の限界と御容赦いただきたいのです。

*郡から狗邪韓国まで 荷物運び談義 追記 2020/11/02
 郡から狗邪韓国への行程は、騎馬文書使の街道走行を想定していますが、実務の荷物輸送であれば、並行する河川での荷船の起用は、むしろ自然なところです。河川交通が並行していれば、と言うことです)
 と言う事で、倭人伝」の行程道里談義を離れて、荷物輸送の「実態」を、重複覚悟で考証してみます。
 以下、字数の限られたブログ記事でもあり、現地発音を並記すべき現代地名は最小限とどめています。また、利用の難しいマップの起用も遠慮していますが、安易な思いつきでなく、関係資料を種々参照した上での論議である事は書いておきます。

 なお、当経路は、本筋として、当時、郡の主力であったと思われる遼東方面からの陸路輸送を想定していますから、素人考えで出回っているような、わざわざ黄海岸に下りて、不確かな荷船で、沖合を南下する事は無く、当時、最も人馬の労が少ないと思われる経路です。

 公式の道里行程とは別の実務経路として、黄海海船で狗邪韓国方面に向かう荷は郡に寄る必要は無いので、そのまま漢江河口部を越えたかの海港で荷下ろしして陸送に移したものと見えます。黄海海船は、山東半島への帰り船の途に着きます。

 当然ですが、黄海で稼ぎの多い大量輸送をこなす重厚な海船と乗組員をこのような閑散航路に就かせるような無謀な輸送はあり得ないのです。まして、南下する閑散航路は、細かい舵の効かない大型の帆船の苦手とする浅瀬、岩礁が多いので、回避のために、細かく舵取りを強いられる海峡ですから、結局、帆船と言いながら、舵取りのための漕ぎ手を多数乗せておく必要があるのです。また、地域ごとの水先案内人も必須です。
 三世紀当時は、海図も羅針盤もないので、岩礁の位置はわからない、船の位置はわからないでは、岸辺に近づくのは、危険どころか確実な破滅の道となりかねないのです。

 因みに、舵による帆船の転進は、大きく迂回はできても、小回りがきかず、特に、入出港時のように船足が遅い状態では、ほとんど舵が効かないので、入出港の際には、漕ぎ手の奮闘で転進する必要があるのです。
 つまり、漕ぎ船と同様、寄港地を跨ぐ連漕は効かず、細かい乗り継ぎ/漕ぎ手交代が不可欠となります。

 と言うことで、半島航路に大型の帆船は採用されず、軽舟の乗り継ぎしか考えられないのであり、それでも、難破の可能性が大変高い、命がけのものと考えられます。
 一応、代案として評価しましたが、少なくとも、貴重で重量/質量のある公用の荷物の輸送経路として採用されないものと見えます。ちなみに、輸送の常識中の常識ですが、荷物は、人手で運べるように小分けして梱包してあるので、全体重量は、特に問題にならないのです。まして、一部素人論者がゴチャゴチャ騒いでいる荷物の「比重」など、全く関係しないのです。

*郡から漢江(ハンガン) へ
 推定するに、郡治を出た輸送行程は、東に峠越えして、北漢江流域に出て、川港で荷船に荷を積むまでの陸上輸送区間があったようです。郡の近辺なので、人馬の動員が容易で、小分けした荷物を人海戦術で運ぶ「痩せ馬」部隊や驢馬などの荷車もあったでしょう。そう、駿馬は、気が荒くて荷運びに向かないし、軍馬として貴重なので、荷運びは驢馬か人手頼りだったものと思われます。とかく「駄馬」の語感が悪いのですが、重荷を運ぶのは「荷駄馬」が、大量に必要だったのです。

 後世大発展した漢江河口の広大な扇状地は、天井川と見られる支流が東西に並行して黄海に流れ込み、南北経路は存在していなかったと思われます。(架橋などあり得なかったのです)つまり、郡から南下して漢江河口部に乗り付けようとしても、通れる道がなく、また、便船が乗り付けられる川港も海港もなかったのです。
 南北あわせた漢江は、洛東江を超えると思われる広大な流域面積を持つ大河であり、上流が岩山で急流であったことも加味されて、保水力が乏しく、しばしば暴れ川となっていたのです。
 郡からの輸送が、西に海岸に向かわず、南下もせず、東に峠越えして北漢江上流の川港に向かう経路が利用されていたと推定する理由です。
 いや、念のため言うと、官制街道の記録を確認したわけでもなく、この辺りは、現地地形、河勢を見た推定/夢想/妄想/願望/思い付きの何れかに過ぎません。

*北漢江から南漢江へ
 北漢江を下る川船は、南漢江との合流部で、「山地のすき間を突き破って海へと注ぐ漢江本流への急流部」を取らずに、南漢江遡行に移り、傾斜の緩やかな中流(中游)を上り、上流(上游)入口の川港で陸に上り、以下、一千㍍を超え、冬季には、積雪凍結の小白山地越えの難路に臨んだはずです。
 漢江河口部から本流を遡行して、南北漢江の合流部まで遡ったとしても、そこは、山地の割れ目から流れ出ている急流であり、舟の通過、特に遡行が困難です。(実際上「不可能」という意味です)

 と言う事で、下流の川港で、陸上輸送に切り替え、小高い山地を越えたところで、南漢江の水運に復帰したものと思われます。何のことはない、陸上輸送にない手軽さを求めた荷船遡行は、合流部の急流難関のために難航する宿命を持っていたのです。
 合流部は、南北漢江の増水時には、下流の水害を軽減する役目を果たしていたのでしょうが、水運の面では、大きな阻害要因と思われます。

 公式行程とは別に、郡からの内陸経路の運送は北漢江経由で水運に移行する一方、山東半島から渡来する海船は、扇状地の泥沼(後の漢城 ソウル)を飛ばして、その南の海港(後世なら、唐津 タンジン)に入り、そこで降ろされた積み荷は、小分けされて内陸方面に陸送されるなり、「沿岸」を小舟で運ばれたのでしょう。当然、南漢江経路に合流することも予想されます。但し、それは「倭人伝」に記述された道里行程記事とは、「無縁」です。

 世上、「ネットワーク」などとわけのわからない時代錯誤の呪文が出回っていますが、三世紀当時、主要経路に人員も船腹も集中していて、脇道の輸送量は、ほとんど存在しなかったのですから、縦横に拡張された編み目など存在しないのです。カタカナ語を導入するというのは、付き纏っている後代概念を引きずり込むことであり、早く言えば「時代錯誤」、ゆっくり言えば、その時代なかった「画餅」を読者に押し付けているのです。要するに、読者を騙しているのではないかと、懸念されるのです。考古学界の先賢は、当時存在していなかった言葉を持ち込むのは、好ましくない(駄目だ)と戒めているのです。
 因みに、当時山東半島への渡海船は、比較的大容量ですが、渡海専用、短区間往復に専念していたはずです。つまり、船倉や甲板のない、むしろ現代人が想像する船舶というより筏に近いものであったと考えられます。遼東半島と山東半島を結ぶ最古の経路ほどの輸送量は無かったものの(半島南部にあたる)韓国諸国の市糴を支えていたものと見えます。

*南漢江上游談議
 と言うことで、南漢江上流(上游)の話題に戻ると、漢江中流部(中游)は闊達であり、山間部から流下する多数の支流を受け入れているため、増水渇水が顕著であり安定した水運が困難であり、特に、南漢江上流部は、急峻な峡谷に挟まれた「穿入蛇行」(せんにゅうだこう)や「嵌入曲流」を形成していて、水運に全く適さなかったものと思われます。
 従って、中流から上流に移る移行部にあって、後背地となる平地のある適地(忠州 チュンジュ)に、水陸の積み替えを行う川港が形成されたものと思われます。現代にいたって、貯水ダムが造成されて、上流渓谷は貯水池になっていますが、それでも、往時の激流を偲ぶことができると思います。
 そのような川港は、先に述べた黄海海港からの経路も合流している南北交易の中継地であり、山越えに要する人馬の供給基地として、大いに繁盛したはずです。大きく迂回する海岸沿いの「航路」は、はなから、「画餅」にすらならず問題外なのです。

*竹嶺(チュンニョン) 越え
 小白山地の鞍部を越える「竹嶺」は、遅くとも、二世紀後半には、南北縦貫街道の要所として整備され、つづら折れの難路ながら、人馬の負担を緩和した道筋となっていたようです。何しろ、弁辰鉄山から、両郡に鉄材を輸送するには、どこかで小白山地を越えざるを得なかったのであり、帯方郡が責任を持って、地域諸国に命じて街道宿駅を設置し、維持していたものと見るべきです。
 後世と違い、漢江流域は「嶺東」と呼ばれる開発途上地域であり、万事零細な時代ですから、盗賊が出たとは思えませんが、かといって、官制宿駅を維持保全するには、周辺の小国に負担がかかっていたのでしょう。ともあれ、帯方郡は漢制郡であったので、郡治に治安維持の郡兵を擁し、魏武曹操が確立した「法と秩序」は、辺境の地でも巌として守られていたとみるべきです。

*弁辰鉄山考 2024/08/25
 ついでながら、世上、「弁辰鉄山」を重要視する意見がありますが、それなら、韓、濊、倭の採掘、輸送に任せていたわけはなく、然るべき担当官を置いて厳重に監督していたはずですが、そのような形跡はなく、単に、倭に向かう海津(海港)が、特記されないままに狗邪韓国が書かれているだけですから、帯方郡として「倭人」に鉱山管理全般を「委託」していたものとみえます。何しろ、韓には、主体となるべき「弁韓」国は存在せず、濊は、渾然たる未開の集団だったので、「委託」できるのは、「倭人」であったとみえるのです。
 海峡を越えた「倭人」は、当時、手漕ぎの渡船による交通/輸送の両面で隘路に近い状態なので、鉱山産物の取得に限界があり、また、軍事的にも、進出、支配が明らかに不可能だったので、実質的に、帯方郡御用達の鉱山監督の役目を果たしていたものと見えます。

 くり返しますが、「弁辰鉄山」が重要であれば、帯方郡は同地に鉄山管理を使命とした「縣」を設けなければならないのですが、竹嶺越えの経路を隔てた「遠隔縣」は、弱小帯方郡にとって維持不可能で、はなから、そのような意図はなかったと見えます。要するに、大した問題では無かったのです。また「倭人」による占拠は、問題外であったと見えるのです。

*閑話休題
 「竹嶺」越えは、はるか後世、先の大戦末期の日本統治時代、黄海沿いの鉄道幹線への敵襲への備えとして、帝国鉄道省が、多数の技術者を動員した京城-釜山間新路線(中央線)の峠越え経路であり、さすがに、頂部はトンネルを採用していますが、その手前では冬季積雪に備えた、スイッチバックやループ路線を備え、東北地方で鍛えた積雪、寒冷地対応の当時最新の鉄道技術を投入し全年通行を前提とした高度な耐寒設備の面影を、今でも、しのぶ事ができます。
 と言う事で、朝鮮半島中部を区切っている小白山地越えは、歴史的に「竹嶺」越えとなっていたのです。
 それはさておき、冬季不通の難はあっても、それ以外の季節は、周辺から呼集した労務者と常設の騾馬などを駆使した峠(日本語独特の漢字)越えが行われていたものと見えます。

*荷運びの日常
 言葉や地図では感じが掴めないでしょうが、峠と言っても南北対象ではなく「片峠」であり、南の栄州側はなだらかです。今日、「竹嶺」の南山麓(栄州 ヨンジュ)から「竹嶺ハイキングコース」が設定されています。こちら側は、難路とは言え難攻不落の険阻な道ではないのです。要するに、栄州側は、山頂までの緩やかな短い登坂であり、山頂付近で荷を交換して降りてくるので、むしろ気軽な半日仕事だったのです。

*洛東江下り
 峠越えすると、以下の行程は、次第に周辺支流を加えて水量を増す大河 洛東江(ナクトンガン)の水運を利用した輸送が役に立った事でしょう。南漢江上流(上游)は、渓谷に蛇行を深く刻んだ激流であり、とても、水運を利用できなかったので、早々に、陸上輸送に切り替えていたのですが、洛東江は、かなり上流まで水運が行われていたようなので、以下、特に付け加える事は無いようです。

 洛東江は、太古以来の浸食で、中流部まで、川底が大変なだらかになっていて、また、遥か河口部から上流に至るまでゆるやかな流れなので、あるいは、曳き船無しで遡行できたかもわかりません。ともあれ、川船は、荒海を越えるわけでもないので、軽装、軽量だったはずで、だから、遡行時に曳き船できたのです。もちろん、華奢な川船で海峡越えに乗り出すなど、とてもできないのです。適材適所という事です。

 因みに、小白山地は、冬季、北方からの寒風を屏風のように遮って、嶺東と呼ばれる地域の気候を緩和していたものと思われます。

 というものの、嶺東は、洛東江が深い河谷を刻んでいたために、流域の灌漑は困難であり、水田稲作が成り立たなかったようです。寒冷な気候とあいまって、食料生産は不振だったようです。
 参考までに、日本統治時代の現地視察報告を見ると、水田稲作が可能な状態でなかったと言う事です。つまり、先行していた朝鮮王朝時代に、嶺東地域は冷遇されて、土木/治水工事がされていなかったため、農業生産は低迷していたようなのです。日本統治下で、半島全域の「インフラストラクチャ」整備、住民福祉の向上が進んでいたはずですが、長年放置されていたので、発展が遅れていたとみえます。もっとも、こうした意見は、とかく韓国から非難されるので、ひっそり書き留めておくのに留めたいところです。

*代替経路推定
 と言う事で、漢江-洛東江水運の連結というものの、漢江上流部の陸道は尾根伝いに近い難路を経て竹嶺越えに至る行程の山場であり、しかも、積雪、凍結のある冬季の運用は困難(不可能)であったことから、あるいは、もう少し黄海よりに、峠越えに日数を要して山上での人馬宿泊を伴いかねない別の峠越え代替経路が運用されていたかもわかりません。何事も、断定は難しいのです。
 このあたりは、当方のような異国の後世人の素人考えの到底及ばないところであり、専門家のご意見を伺いたいところです。

 因みに、当記事をまとめたあと、岡田英弘氏の著作を拝見すると、氏は、半島南北交通が竹嶺(鳥嶺)越えで確立されていたと卓見を示されているのですが、なぜか、郡使の訪倭行程を、俗説の海上行程と見立てていて、失望させられたものです。氏は、鉄道ファンなら誰もが憧れるであろう「中央線」乗車を達成できなかった「怨」を抱いていたのかも知れません。

以上

2024年8月19日 (月)

倭人伝随想 2 倭人暦 社日で刻む「春秋農暦」1/3 三掲

             2018/07/07  2018/11/24 2024/05/08, 08/19 
*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*随想のお断り
 本稿に限らず、それぞれの記事は随想と言うより、断片的な史料から歴史の流れを窺った小説創作の類いですが、本論を筋道立てるためには、そのような語られざる史実が大量に必要です。極力、史料と食い違う想定は避けたが、話の筋が優先されているので、「この挿話は、創作であり、史実と関係はありません」、とでも言うのでしょう。
 と言うことで、飛躍、こじつけは、ご容赦いただきたいのです。

□社日で刻む「春秋農暦」
*「社日」典拠
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
社日(しゃにち)は、雑節の一つで、産土神(生まれた土地の守護神)を祀る日。春と秋にあり、春のものを春社(しゅんしゃ、はるしゃ)、秋のものを秋社(しゅうしゃ、あきしゃ)ともいう。古代中国に由来し、「社」とは土地の守護神、土の神を意味する。春分または秋分に最も近い戊(つちのえ)の日が社日となる(後略)

 社日は、白川静師編纂の辞書「字通」にも記されています。
 社日(しゃじつ) 立春、立秋の後第五の戌の日。〔荊楚歳時記 、社日〕 (後略)

 また、「社」自体に、社日の意があるとされています。

 「荊楚歳時記」宋懍(劉宋) 守屋美都男:訳注 布目潮渢 中村悠一:補訂 東洋文庫 324

*社日随想
 雑節は、二十四節気、以下「節気」、に則っているので、社日は、太陽の運行に従っています。社日が今日まで伝わっているのは、一年を二分する「農暦」の風俗の片鱗が太古以来伝わっているということなのでしょう。

*太陰太陽暦
 月の満ち欠けで暦を知る「太陰暦」は、文字で書いた暦がない時代、月日を知るほぼ唯一の物差しでしたが、「太陰暦」の十二ヵ月が太陽の運行周期と一致していなくて、春分、夏至などの日付が変動するため、何年かに一度、一ヵ月まるごとの閏月を設けます。一般に「太陰暦」と呼ばれても、実際は、太陽の運行と結びついた「太陰太陽暦」であり、これを簡略に「太陰暦」と称しているのです。
 「八十八夜」、「二百十日」雑節が、立春節季に基づいているように、太陽の恵みを受ける稲作は、万事太陽に倣って進めなければならないと知られていたのです。
 一方、「太陰暦」は、海の干満、大潮小潮を知るためにも、広く重用されたのです。

*節気と農事
 節気は、日時計のような太陽観測で得られ、毎年異なる「太陰暦での節気」を基準として農務の日取りを決めて、社日の場で知らせたとみているのです。いや、各戸に文書配布して農暦を通達できたら、元日、年始の折にでも知らせられるでしょうが、当時、文書行政はないし。納付は、一般に文字を読めないので、実務の場で、徹底することが必要だったのです。

                             未完

倭人伝随想 2 倭人暦 社日で刻む「春秋農暦」2/3 三掲

             2018/07/07  2018/11/24 2024/05/08, 08/19 
*加筆再掲の弁
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*社日の決めごと
 村々の指導者は、節気を起点とした段取りを描いた絵を持っていて、そこには、例えば、代掻きの手順は何日後と決めているものです。毎年、通達された太陰暦の月日ごとの手順を決め、手配りを描くのです。
 かくして、稲作指導者は、春秋社日に参集した村々の指導者に田植え、収穫の段取りを徹底し、それが、村の指導者から家々に徹底されるのです。
 つまり、社日の場で、春の農耕の段取り、手配り、ないしは、秋の収穫の段取り、手配りが決まり、それぞれの家は、集団農耕の職能を担ったのです。
 あるいは、集落に掲示板があって、文字はなくとも、木に縄を巻くなどして、月と日を広く知らせていたかも知れません。

 以上、村落で共同作業を行う図式を絵解きしました。

*職能「国家」
 「国家」と書くと物々しいですが、中国古代史では、「国」は、精々一千戸程度の集落であって、文字の描く通り、隔壁で守られているものであり、それが、一つの「家」となっていたという程度でしかありません、現代語の巨大「国家」とは、別次元の概念ですので、よろしく、ご理解頂きたいものです。

 大勢の手配りが必要なのは、田植えと収穫時だけであって、それ以外の時は、それぞれの家で決めて良いから、稲作は年がら年中団体行動というわけでは無いはずです。

 さらには、後世のように、それぞれの家が、農暦と農作の要諦を掌握していれば、自主的に稲作できるでしょうが、それにしても、村落各家に職能を割り振ることによって、村落の一体感を保つ効用が絶大だったのです。

*「春秋農暦」の意義

 かくして、年二回の大行事を定めて農暦画期としましたが、この制を素人なりに「春秋農暦」と呼ぼうとしているのは、学術的な「二倍年暦」という用語が、その由来を語らないからです。

*陳寿の編纂意図
~後生東夷の臆測
 三国志編者陳寿は、「蜀漢」成都付近で生まれ育ちましたが、蜀に「春秋農暦」がなかったためか、農暦を知らず、長じて移住した晋都洛陽附近は、ほぼ麦作地帯で稲作風俗がなく、陳寿は、遂に春秋農暦の年二回の社日ごとの加齢の概念を知らなかったので魏略記事の意義が理解できず割愛したのかも知れません。あるいは、中原教養人である皇帝以下の読書人に理解されないことを懸念して、割愛したのかも知れません。

 当初稿では、そのように独りごちていましたが、以下、加筆しました。(2024/08/19)
 あるいは、元々、蜀の「春秋農暦」には加齢が結びついていなくて、それが、長江を下って、会稽付近に伝わり、更に、戦国「齊」なる東夷の世界を歴て、最終的に「日本列島」に定着したとも思えますが、いずれかの段階で、「俗」が変化したのかもわかりません。いずれにしても、文献には書き継がれていないので、後生東夷の臆測に過ぎません。
 ちなみに、「齊」の海港東莱から目前の海中山島に筏ででも渡って、一旦は、今日言う「朝鮮半島」に定着を試みたのでしょうが、洛東江が深い渓谷を刻みこんでいたため、水田稲作の根幹である灌漑水路が確保できず、水田農地開発が不可能であったため、北上経路の各地に比べて気温が低いこともあって、定住を断念し、温暖な海南の地に移住したとも見えます。遥か後世に至るまで、嶺東と呼ばれた弁韓/弁辰の地は、食糧生産が乏しく馬韓の地と比べて、貧困の地位に甘んじたのです。
 それは、後漢末期の献帝建安年間に、遼東公孫氏が不毛の地に郡制を敷こうと帯方郡を設けたとき「荒地」と呼んだので明らかなように、小白山地の彼方は、太古以来、文明の届かない荒れ地だったのです。
 帯方郡が、小白山地を越える竹嶺経路を開鑿し、郡治から狗邪に至る官道を開設したので、初めて、弁辰鉄山から郡治への鉄材輸送が開始し、この経路を利用して、海南倭地からの産物が到着するようになったので、洛東江渓谷に文明の光明が届いたのです。
 嶺東貧寒は、三世紀時点でも明らかで、郡から海津である狗邪に至る長い道程に、目覚ましい「韓国」は書かれていないのです。
 「倭人伝」に「倭地温暖」と書かれているように、暗黙の「韓地寒冷」とあわせて、韓地不毛、倭地豊穣の図が描かれているのですが、お目にとまりましたでしょうか。

*裴松之付注
の意義
 陳寿「三国志」に付注した裴松之は、長江下流の建康に退避した南朝「劉宋」の人で、稲作風俗(「風」法制と「俗」民俗)を知っていたので、倭人寿命記事に関する陳寿の見落としに気づきましたが、本文改訂は許されないので、魏略記事を付注し、示唆したのでしょう。

 倭人伝に春秋農暦が明記されていないのは、魏使を務めた帯方郡の士人が「春秋農暦」育ちであったため、当然とみたためであり、魚豢「魏略」も、特記まではできなかったのでしょう。

・補筆 2024/08/19
 但し、当然、魚豢「魏略」の採用した帯方郡志は、陳寿の薬籠中にあり、無用の蛇足と見て割愛したものと見ることができます。陳寿は、締め切りに追われて書き殴っていたのでなく、来る日も来る日も着々と推敲を重ねに重ねた上で「割愛」したのであり、裵松之は、皇帝の指示もあって、余計なお世話でゴミ記事を復活したとも見えますが、遥か遙か後世で、神のごとき明察を可能とされている後世東夷としては、陳寿本文と裴注とを分別して解釈することを求められているのです。

                             未完

倭人伝随想 2 倭人暦 社日で刻む「春秋農暦」3/3 三掲

             2018/07/07  2018/11/24 2024/05/08, 08/19 
*加筆再掲の弁
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*殷(商)遺風
 白川静師が殷(商)風俗と見た春秋社日は、私見では、長江下流域(後の呉越)から海岸沿いに伝わったようです。社日は稲作のための農暦であるから、その時期に稲作は商の旧邦、後の戦国齊の地に伝わっていたと見られます。

*商風廃絶

 当ブログ筆者は、のちに、旧邦であった商の一部が、西域の富を求めて中原に攻め上って武力国家を創業し、これが世紀を経て成長して天下を把握した殷(天邑商)となったと見ていますが、殷は、乾燥した中原に適さない稲作風俗を失ったようであり、殷を打倒した周は遊牧文化を持っていたので、その制はなかったようです。
 このため、中原に展開された華夏文明は、東方を「夷」とみて、その文化を排したもののように思われますが、あくまで、東都洛陽を発端とした浸透であり、鄙の民俗を根こそぎ書き替えるには至らなかったようです。

 再確認すると、殷(商)「文化」を承継したとされている周は、西戎に属する異文化を擁していたものであり、水田稲作とは、ほぼ無縁であったため、「春秋加齢」を、必ずしも周制としていなかったように見えます。

*「二倍年暦」談義

 後代、春秋時代の斉、魯を起源とする諸史料を中心に、年暦に殷の遺風「二倍年暦」が偲ばれるということですが、ここでは触れません。
 (例えば、「古賀達也の洛中洛外日記」ブログ「二倍年暦」に発表。
http://koganikki.furutasigaku.jp/koganikki/category/the-double-year-calendar/)
 先賢諸兄姉の足跡、特に、寄せられた毀誉褒貶を察すると、一つには、「二倍年暦」を字面だけ見て「誕生日に一気に二歳加齢する」と即断した野次馬が多いように見られるので、安直な誤解を正したいとして書いたものです。

*伝来の背景想到
 一方、齊から倭への伝来は、どうであったかは不明ですが、風俗、つまり「法と秩序を示す[風]及び世俗の有り様を示す[俗]の複合」の大系が伝わったようであり、集落ごとなど大所帯の移住があったと見られます。ただし、移住の実態としては、山東半島東莱から、目前の海中山島、後の馬韓南部への移住があった後、更に南方の海中山島の地に移住したと考えれば、冒険航海を必要としないので、いずれかの時代に、家財、種苗、蚕の種などを抱えた移住が行われたと思われますが、もちろん、これは、憶測であり、特に論証されたものではないのです。

 移住の時期次第ですが、殷後期以降で文字が存在していれば、ことは、「風俗」と言う必要はなく、端的に、文書記録を携えて「文化」移住したのではないかと思われます。となれば、後の戦国齊での稲作「文化」のかなりの部分が、暦制も含めて忠実に再現されたと思うのです。但し、移住後、商「文化」がどの程度継承されたかは不明です。

*謝辞
 以上、拙論の手掛かりとして、白川静師の著書を参考にさせて頂いたことに深く感謝するものです。白川静師は、漢字学の分野で比類無い業績を残されていますが、甲骨文字、金文などの古代文字史料を隈無く精査したことによる中国古代、殷周代の民俗、文化に関する思索も、大変貴重なものであり、拙論にその出典を逐一付記すれば、付記が本文を圧すると思われます。

 しかし、拙論は、論考でなく、出典に立脚した、あるいは、啓発された随想であることは明示しているので、一々書名を注記しておりません。

 この際の処置について、無作法をお詫びすると共に、拙論の趣旨を一考頂ければ幸いです。

                             この項完

2024年8月17日 (土)

私の本棚 図説検証 原像日本 2 大地に根づく日々 水野 正好 更新 1/2

 古代人と神々 水野 正好 (第5段に相当 表記なし) 旺文社 1988年
 私の見立て★☆☆☆☆ 神がかりの荒技 2017/02/10 補充再掲 2020/06/27 教育的指導追加 2024/08/17

*加筆再掲の弁
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◯はじめに
 「図説検証原像日本」シリーズは、編集委員として、陳舜臣、門脇禎二、佐原眞と大物を据えた意欲的な取り組みであり、豊富な図版と多くの筆者の論考をを大型本五冊に収容した大著です。
 今回、古書店から購入したとは言え、図版資料としての重要性は絶大です。
 但し、記事部分は担当者の見識で書かれているので、しばしば躓かされます。今回は、丁寧に考え違いを教え諭しているので、

*「倭人伝」談義に重大な異議あり
 ということで、目下関心を持って読み進んでいるのは、古代記事なのですが、当段筆者の古代世界観の一端が、次の段落に明示されています。

 政治を反映する青銅器
 翻って『三国志』の魏志東夷伝倭人条によれば、日本は倭国(わ)、王都は邪馬台国(やまと)とされる。そして、九州の対馬(つしま)・一支(いき)・末廬(まつら)・伊都(いと)・奴(な)・不弥(ふみ)の諸国を統轄し、魏使等と倭国王、王都間の連繋をとる機構として「大率」が置かれている。言うまでもなく邪馬台国は大和であり、大は後世の太宰府に相当する機構である。こうした倭国の機構に対応する形で、青銅器の世界が展開している。倭国中枢の邪馬台国が直接統轄する範囲に銅鐸が分布し、大率なり率に統轄を委ねている範囲に銅矛が分布するのである。

 つまり、著者は、文献資料である「魏志倭人伝」の自分流の解釈、言い方によれば、手前勝手なこね回し、に合わせて、青銅器の分布を解釈するという態度をとっていますが、要するに、自分流の青銅器分布解釈に合わせて、文書資料を読みこなしているのですから、これは、遺物考古学者の論考の進め方として「本末転倒」でしょう。
 按ずるに、所属組織の機関決定をなぞっているのでしょうが、それは、ご自身とご家族の平安のために余儀なく辿っている天下御免の「禽鹿径」(裏道)としても、学門の本道を大きく逸脱しているのではないかと、懸念するものです。

*教育的指導
 2024/08/18
 僅かな行数字数に、重大な文献史料誤解の連発であり、どこのどなたの創作なのか、念の入った「落第答案」がさらし者になっているのは、創刊というか悲惨というか、何とも、言いつくろいに苦労するのです。せめて、原文を提示して、そこに解釈を自己責任で塗りつけたという形式にすれば、「思いつき」の素朴な発露と見てあげることが出来るのですが、改竄文書を立て付けの悪い素人普請で投げ出されては、是正のすべがありません。
 冒頭の一文を例にすると、中国で三世紀に書かれた陳寿「三国志」「魏志」東夷伝には、「倭人伝」と明記された一伝がありますから、これを「倭人条」と呼ぶのは、一種の仮説に過ぎません。魏志倭人伝によれば、三世紀に「日本」は存在しない、東夷倭人に「王都」は存在しない、まして、「邪馬臺国」、ならぬ「邪馬台国」は、一切存在しないのは、天下周知の事実ですから、ここに書かれているのは、二千年後生の無教養な東夷に二次創作と見るものではないでしょうか。
 以下、勢いに任せて難詰します。
 勝手に「大率」なる官人を創造して、それは、後世の太宰府に相当すると、気軽に断定していますが、太宰府は、数世紀後世に設けられた地方組織・機構であり、その時点で、成文法が成立、公布されていたものであり、文書送達の街道が完成していたとみなされます。して見ると、そのような体制整備が影も形もない時代に、近隣諸国に対して運用されていた官である、「倭人伝」に書かれている「一大率」なる官名とは不釣り合いです。勿論、「倭人伝」の編者は、太宰府など知ったことではないので、つじつまが合わないのは、不勉強で取りこぼしたのか、承知の上で道を外したのか、とにかく後世東夷の責任です。
 転じて、「言うまでもなく」と同族でだけ通じるお呪いをして、「邪馬台国」が倭であると、大胆な神懸かっている創作を進めていますが、当時の氏神に帰依していない部外者にも理解できる論証を必要としています。これでは、「カルト」教義のようだと書きかけたら、陰の声でもないのですが、「敬意」を示せと空耳がしたので、ちゃんと、「お」を付けて、『お「カルト」』のようだと言い直したいところです。

*遠隔統治の夢物語 2024/08/18
 北九州視点から蜃気楼の彼方の位置不詳の『「邪馬台国」は「倭人伝」に登場しないが、日本列島西部を包括支配していた』との言いのがれは絶妙好辞ですが、現代風に言うと、遠隔の地に在って、外交、軍事、租税、祭事の大権を保持している機構は、主権国家であり、文書行政の整った「太宰府」体制とは、全く異なった独立国と見るものでしょう。
 ちなみに、班固「漢書」西域伝に依れば、漢武帝代に派遣された百人の漢使節は、カスピ海東岸の「安息国」居城で、長老と折衝したところ、長老は、二万の常設軍を供えた要塞で、東方の大月氏の侵掠に備えているが、漢との「外交」については、西方数千里の国都の指示を仰ぐ必要があるとの回答を得て待機し、國王の親書を受けた長老が、漢使、つまり、漢帝の代理人である西域都督の使者と締盟したと明記されているのです。
 安息国は、法制と文書使制度が完備していて、東方辺境の軍事都督は、外交権限はもっていなかったが、文書で「王都」の勅許を求め、国王代理として締盟できたわけです。(漢書西域伝で、安息国は、唯一、漢に匹敵する文明国と認められていて、「王都」の呼称を与えられているのです)
 魏志倭人傳を編纂した陳寿は、当然、班固「漢書」西域伝安息条を知悉していたわけですから、伊都国王が、遠隔の「倭王」から委任された西方都督であったのなら、そのように、権限委任の手続きを明記した上で、従って、伊都国王に信書を提示した上で、代理人と締盟したと書くものです。そのような記事は一切ありませんから、伊都国王は、帯方郡から見て、所定の権力を保持している統治者であり、外交代権を行使する際に必要とされている女王の信任は、対面、面談で確認していたと明記されているのに等しいのです。

 素直に考えればわかるはずですが、班固「漢書」に示された安息国のように、成文法に基づく文書行政が確立されていれば、一片の書面で、遠隔地の代表者に指令を送り、必要があれば、馘首することが出来ますが、全て対面、口頭の世界で、そんなことはできるはずがないのです。せめて、中国太古のように、金石文として盟約を交わすことが出来れば、印綬の公布で、身分証明ができれば、全権を委任した使者の派遣で、強権を振るうことができるでしょうが、ないないづくしの三世紀に、どのような神業で広域支配できたか、論証は、至難ではないでしょうか。

 古来曰わく、言うのはタダ、言ったもん勝ちと言うことでしょうか。まるで、無学な野次馬の放言と誤解されかねない不用意な書きぶりであり、であり、「夜郎自大」でもないでしょうが、痛々しいものがあります。
 
*閑話休題
 それにしても、著者の脳裏に反映されている「政治」は、どの時代のどの国の言葉なのでしょうか。ちと、時代錯誤丸出しの粗雑な言い回しです。

 以前、自身が盆栽と化した著者が、資料を丹精して盆栽を仕立てていると揶揄しましたが、本記事もその一例です。「自縄自縛」と言いかけるのですが、少しは、趣(おもむき)のある言い回しを採ったものです。

 倭人伝を持ち出す以上、勝手な解釈を展開すべきではありません。まずは、独善を押しつける「日本」表記です。三世紀当時どころか、はるか後世の八世紀冒頭まで、「日本」は存在しなかったのです。また、当時蛮夷の王は、「王都」と称することを許されてなかったのです。勿論、地理概念の大和も存在せず、青銅器世界の展開も、手前味噌の概念なのです。

*文献史料の操作
 もし、ご自身の学究の手順として、文献を優先・先行させるのなら、各地で出土した青銅器を、先入観のない客観的な目でつぶさに観察、計測、分析したのと同じ客観的な目で文献を読み、科学的な目で史料批判すべきです。

*独自解釈の押しつけ
 古田武彦氏の古典的指摘を確認するまでもなく、「倭人伝」の倭王の居処は邪馬壹国であり、邪馬台国は後漢書由来です。その国が、僻遠のヤマトという説も有力ですが、九州北部にあったとする有力な学説が存在しています。
 文献解釈が分かれている中、一方にのみ依拠して自分流の解釈に固執し、文献に書かれている文字を自身解釈で書き換え、それに基づいて青銅器に反映されているとする「政治」を説くのは、科学的な態度といえないのです。

 つまり、ここに書かれた自己流倭国構造は一つの仮説であり、不確かな世界観に基づく文献解釈、不安定な仮説に基づいて、青銅器の意義づけを解釈するのは、仮説の正否以前の問題として学問の正しい手順を外れています。
 そのような不適切な論法を、原文献を参照できない一般読者に押しつけるべきではないと思うのです。

*Mythの剽窃
 よく見かける悪弊なので、個人的な意見ではないのでしょうが、中国で書かれた資料を、二千年後世の無教養な東夷の見当違いの解釈にこじつけて書き換えて、それを、もっともらしく著作にするのは、同時代人、後世人に対して、重大な悪弊を残しているものと見えます。考古学者として、恥じることのない、適確な著作を期待したいのです。
 既に、いずれかの組織の決定事項になっているので、異議を挟むことが許されていないのでしょうか。それなら、せめて、このような「Myth」(一神教信者が、異教の教義に対して投げつける蔑称)を誰が提唱したのか、功績を明らかにすべきでしょうか。「剽窃」は、創唱者の知的財産権を侵害する重罪だと思うのです。

                              未完

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私の本棚 図説検証 原像日本 2 大地に根づく日々 水野 正好 更新 2/2

 古代人と神々 水野 正好 (第5段に相当 表記なし) 旺文社 1988年
 私の見立て★☆☆☆☆  2017/02/10 補充再掲 2020/06/27 2024/08/17

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*戦国難民考
 ちなみに、水野氏は、中国の戦国時代のおそらく末期、秦による全国統一の際、中国北部の燕から、亡国から逃れた多数の人々が朝鮮半島を南下し、大海の彼方の日本列島に渡来したとみています。不明瞭なので、個人責任で明確化しています。
 燕が滅んだのは、BCE222年ですが、すでに他の諸国は、悉く秦に侵略されているので、燕の王族や貴族が逃げるなら、選択肢は、いずれも夷蕃で、北方の匈奴の世界でなく、温和な朝鮮半島を選んでも不思議はないのです。それにしても、家族一同移住できたのは貴族階級であり、従って、単なる逃亡でなく、中原世界で通用していた中国文化を持ち込んだ亡命と見ているのでしょう。

*遺らなかった文化資産
 それなら、定着地で中国語を語り、漢文を書き記し、中国「文化」の種をまいたものと思うのです。そのためには、木や竹から簡牘を作り、筆と墨を作り、持ち込んだ豊富な書籍に親しみ、時に応じて文筆活動したはずです。衣類も、中国のものとして、麻などの種子を栽培したはずです。
 断髪、文身、黥面は論外です。生食は禁忌です。牛肉、狗肉が必要です。
 祭礼として、家族の祖先をまつることも当然です。これは、中国文化の根幹です。家を守るという事は、「姓」を墨守します。中国の暦から切り離されても、月日の経過を年代記に書き綴り、また、墓碑や家系図を残したはずです。
 「文化」とは、固持すべき必須要件を持ち、かつ、それを支える多くの要素を持つものです。単なる民俗、習慣の集合体ではないのです。

 それにしても、古代遺跡で、中国南方の影響は、稲作や氏神祭礼などが多く継承されていて、北方風俗の伝播は、まことに目立たないように見えますが、素人の錯覚でしょうか。
 燕の「文化」は、大地に溶け込んで、伝来風物なる微かな断片だけが遺ったのでしょうか。

*文化幻想
 著者は、「縄文文化が消え弥生文化が広がった」と無造作に言い放つのですが、文字なき社会に文化も文明もないのです。「文化」は、確固たる漢語であり、後世日本人が、勝手に言い崩すのは、ありふれた、無教養の語彙錯誤です。
 亀卜談義がありますが、「筆者は、「亀卜の趣旨がわからないと逃げます」しかし、占いたい趣旨を書き込んだ上で亀卜し、神の回答である割れ目解釈するのが、亀卜であり、託宣には、確立された解釈法があったはずです。
 そのためには、亀卜文字の大系が必要です。殷(商)は、卜辞の解釈に適用するために漢字を創出したと言われています。ついでに言うと、易の筮竹も、易経に基づく解釈がなければ、託宣できません。いずれも、文化の一部です。

*憶測の集成
 「弥生文化」の開花に、「中国文化」の流入を説く割には、「文化」に即した具体的な物証、論証が欠けているのです。遺物考古学にしては、域外の話題なのでしょうが、ちと、不勉強に過ぎます。なお、記事に於いて依拠した文献史料も、明示されていません。憶測の堆積でないでしょうが、かなり疑問に感じます。

◯まとめ
 念のため言うと、不満の対象は、不確かな文献解釈への無批判の依存であり、遺跡、遺物の実見による「純然たる」考古学的考察に、素人が口を挟むものではないのです。文献解釈を、時代同定に持ち込まざるを得ないとしたら、安易に俗耳に訴える「定説」に無批判に追従するのではなく、自律的な史料批判を怠るべきではありません。

 もし、遺物考古学が、定説に追従して定見としたら、逆に、そのような遺物考古学定見を根拠として定説が強化され、混迷が深まるのです。
 いや、現に深まっているのですが、その責任の過半は、遺物考古学界の無定見な追従姿勢にあるのです。
 本書に署名されている諸賢は、後世に名声を残したいと思われているのでしょうが、これでは、後世の批判を浴びる標的となっていると言わざるを得ません。

 毎度のことですが、以上は、一個人、素人の意見ですから、断言調で展開していても、別に絶対視されるべきと確信しているわけではないのです。ひたすら、晩節を穢すことが無いよう、ご一考いただきたいというだけです。

                               以上

新・私の本棚 刮目天ブログ 春秋二倍年歴?つじつま合わせの空想  1/2

 春秋二倍年歴?つじつま合わせの空想・妄想だよ!(;^ω^) 2024-08-15  古代史 2024/08/16, 8/19 

◯はじめに
 かねて私淑している刮目天氏ですが、概して、「日本古代史」論議なので、口を挟まないようにしていますが、今回は、当方が専念している「倭人伝」解釈の補足説明が必要と見えるので、ご高説に異議を唱えるということで、無礼にも氏のご高説に対し講釈を垂れさしていただいています。

◯都度対応
 「春秋二倍年歴?」から混乱します。誰がいつ言い出したのか調べようもない「トンデモ」タイトルです。存在しない新説の否定は不可能です。

日本書紀が春秋二倍年歴説をはっきりと否定していますよ。
春と秋で2年とかぞえるなら天皇紀は1年おきに春・夏の記事と秋・冬の記事になるはずですが、そうはなっていませんよ。1年は12ケ月としています。

 主旨不明瞭ですが、普通の言い方とすると、「書紀」編者は「二倍年暦」を否定してないと見受けます。裴注版「倭人伝」を承知で否定するなら、明解に書いたはずです。「春秋二倍年歴」は、現代新説であり、書紀編者の知ったことではないのです。
 「倭人伝」は三世紀筑紫であり、ご提案は、数世紀後の「纏向史蹟」新説であり、辻褄が合わないのは、全て「後世」側の責任です。
 ちなみに、当時の暦には閏月があり、一年十二ヵ月とは限らないのです。

「魏志倭人伝」裴松之注に「魏略ニ曰ク、其ノ俗正歳四節ヲ知ラズ、但、春耕秋収ヲ計ツテ年紀ト為ス」とあります。

 要するに、裴松之が魚豢「魏略」を所引したのですが、陳寿が棄却した意見が陳寿の真意を示すとは、凡愚の素人には、とんと見当がつきません。

「正歳四節」つまり、中国最初の夏王朝に起源のある「正月から始まる四季のまつり」のことを倭人は知らず、四季のある日本では人々の活動は春耕秋収がひとつのサイクルですから、「倭人は春と秋の祭祀によって一年としている」という話なのです。

 「倭人」の者が中国太古の制度を知らないのは、当然ではないでしょうか。
 「春秋農暦」は、中国由来の水田稲作の基本なので、南朝劉宋の裴松之は承知で窘(たしな)めたのでしょうが、稲作地帯の蜀漢育ちの陳寿は知っていても、雒陽人には、通じないと見て割愛したと見えます。
 中国で制定・運用されていた太陰太陽暦は、大変複雑で、正歳、つまり、月の満ち欠けを刻んで作られた太陰暦の二十四ヵ月のどの月を「正月」にするかは、以後、殷暦、周暦を、秦始皇帝も変え、天子の公布についていくしか無いのです。定期的に、閏月を追加しないと正月の位置がずれてしまうので、これも高度な計算の産物なのです。繰り返しますが、一年は、十二ヵ月ではないのです。特に、景初から正始にかけての改暦は複雑怪奇です。そして、当時、遙か西方のローマで採用されていた「ユリウス暦」(ユリウス・カエサルが指導したとされる)なる太陽暦は、全く知られていなかったのです。但し、二十四節気は、中国太古以来の太陽観測に基づき、日食予測までできた高精度の「天文学」の成果であり、そのような科学を知らない東夷の知るところではないのです。

 ということで、「二十四節気」は、太陽の運行に従って、毎年定義されるものであり、春分、秋分、夏至、冬至を始め、年間二十四回の節目を太陰暦の月々に重複しないように配置するのは、難題でしたから、東夷の知るところではなかったのです。要するに、「正月」と「二十四節気」は、連動していないのです。丁寧に言うと、「正月」は、太陰暦であり、これに対して、「二十四節気」は、太陽の運行に基づく、言わば「太陽暦」のものなのですが、当時、太陽暦が運用されていたわけではないのです。

*水分(みずわけ)~余談
 ということで、「二十四節気」は、年間の農作業を、太陽の運行に従って決めるという合理的、崇高な制度です。遙か遙か後世の「日本」でも、太陰暦の世界に「八十八夜」、「二百十日」(にひゃくとおか)が継承されているので、月日で伝えることのできない農事暦(こよみ)に関して尊重されていたとわかるのです。何しろ、地域集団が揃って行うのであり、年に二回、聚落総会で日程徹底するのは、もっともなことです。
 特に、田植えの際の「水分」は、集落間の諒解が無いと大事件になるので、各集落が集う氏子総会の場で、一日刻みで決定する必要があるのです。全くの私見ですが、「卑弥呼」の「卑」は、天からの恵みの雨粒を受けて「水分」する「柄杓」であり、巫女である卑弥呼の「水分」は、全集落に支持されていたように「倭人伝」から読み取れます。してみると、卑弥呼は水神に事(つか)えていたのであり、太陽神とは別のおつとめとなりますが、余り強調すると粛正されかねないので、ここでひっそり呟くだけにしておきます。

それに対して、倭人は春と秋でそれぞれ一年と数える二倍年歴を使用しているというのは、書かれたものが正しいはずなので、つじつま合わせで発明された全くの珍解釈なのです。

                               未完

新・私の本棚 刮目天ブログ 春秋二倍年歴?つじつま合わせの空想  2/2

 春秋二倍年歴?つじつま合わせの空想・妄想だよ!(;^ω^) 2024-08-15  古代史   2024/08/16

[承前]

 「書かれたものが正しい」、つまり、陳寿の記事が正しいとの御意見ですが、ここで罵倒されているのは、纏向遺跡派を含めた現代人の「発明」であって、それを、三~五世紀人にケツを回すのは、見当違いです。纏向遺跡派を含めた現代「発明者」の間で話を付けるべきでしょう。

弥生時代の水田稲作は春に田植え、秋に収穫するわけで四季のある日本ですから一年を春と秋で二年と数えるなどあり得ません(詳細は 富永長三「不知正歳四節但計春耕秋収為年紀」について」参照)。

 高邁な御意見はともかく、三世紀の筑紫には、「弥生時代」も「日本」も存在しないので、そのような風習が「なかった」とするのは、誰にもできません。何故、神ならぬ現代人が、確信を持って断言できるのか意味不明です。

ですから倭人が二倍年歴を採用しているなどと言う妄説は、初期の古代天皇の崩年を半分にして実在天皇と考えたい現代日本人が言い出した珍解釈なのですから、逆に、記紀で異常に長命な天皇は実在しない天皇だということが分かりますよ。

 氏の「陰謀」説は、三世紀筑紫の「倭人」の知ったことではなく、纏向遺跡派の内部事情なので、そちらで解決して頂くしかありません。(書き飛ばされたのでしょうが、混乱していて、用語が混乱していて、論理が錯綜しているので、筋が通らず、壮大な古代史世界を構築している氏の論考としては、もったいない感じがします)

◯うらばなし/ホントウのはなし
 原点に戻ると、「倭人伝」に対する裴松之追記は、魚豢「魏略」の引用であり、『郡への報告が、農暦「春秋報」であり「四季報」でない』というものです。
 [裴松之曰 (魚豢)]魏略曰:其俗不知正歲四節,但計春耕秋收為年紀。
 官制は四季報であるのに、「俗」(民俗)は春秋農暦報としています。

 このあとに、人の寿命と婚姻のはなしが続いています。
 見大人所敬,但搏手以當跪拜。其人壽考,或百年,或八九十年。其俗,國大人皆四五婦,下戶或二三婦。
 単に、戸籍に少なからぬ年寄りが存在し、人寿と称して百歳まで書かれている例があるという風評(「倭人」戸籍は、発展途上なので、八十年以上遡及できない)に過ぎません。ちなみに、裴注に類似した「其俗,國大人皆四五婦」とする言い回しは、恐らく、魚豢「魏略」を引用したものなのでしょう。そして、元々は、秦代以来の遼東郡の下部機関に当然蓄積されていた「帯方郡志」の引用でしょう。何しろ、原史料は一つしか無いのです。

 参考かどうか、中世地方戸籍で、各戸に老人が多く、壮者が少ない事例があり、「倭人」でも、壮者を老人として人頭税、徴兵を免れた可能性があります。
 同様に、婦人が長大(成人)して別戸を構えると、耕地を割り当てられ納税義務が生じるので、大人の第二夫人以降として節税した可能性があります。
 陳寿は、史官として、公文書記事を「史実」として継承していますが、その真意は、紙背/行間から読み取るべきであり、後世東夷の辞書など引いても、窺い知ることなどできないのです。渡邊義浩氏に言わせると、史官は、全て二枚舌ということですが、素人としては、精々、古典文例に潜む真意を探ることしかできないのです。

◯倭人伝の真意推定
 「倭人」の国風と民俗は中国と異なり、もっともらしく書いていますが、実際は、よくわからないのです。

 私見ですが、「倭人伝」全体は、戸数、道里、方里の各記事で、中原基準で「倭人」を評価してはならないという教えに満ちていますから、ここも、そのような意図で書かれていると見るのが合理的な解釈と見えます。
 世上、新奇(古代史では絶賛)解釈で騒ぐかたが多いのですが、「思い込み」、「思いつき」ばかりで、信じるに足りないものばかりと推定しています。

◯失言回避の勧め
 刮目天氏は、正史の一篇、僅か二千字の「倭人伝」後半部の些細な記事から棒大空想を展開している論者が多いのに呆れているでしょうが、氏ほどの大家は、史料を理解できない野次馬を相手に、現代若者口調に同調しない方が良いと思います。

 せめて、揚げ足を取られないように、ご自愛いただきたい。

              臣隆誠惶誠恐,頓首頓首,死罪死罪。

                               以上

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