倭人伝随想

倭人伝に関する随想のまとめ書きです。

2022年1月16日 (日)

倭人伝随想 6 倭人への道はるか 海を行かない話 1/4 改 追補 唐書地理志談義

                            2018/12/05 追記 2020/11/15 追補 2022/01/16
〇道里記事考察
 当記事は、魏使は海を行かないという話です。(三千里の渡海は除きます)
 当ブログは、倭人伝論議には珍しく、後代史料を模索しています。 概して、倭人伝解釈に後代資料を援用するのには、慎重なのですが、それは、頭から信用はしないと言うだけで、史料批判によって丁寧に裏付けを取ってから援用することまでは、避けていないのです。(2020/11/15)
                なお、現代中国語で、公里は㌖のことです。

〇間奏曲 隋書・唐書
 倭人伝の後世史書の里程談義が、今回の「枕」です。
 隋書は百済・新羅から水陸三千里としています。起点と目的地が不明ですが、倭人伝流で概数計算します。
 *慶州から博多まで、二百公里程度とみると一里は七十㍍程度です。
 *慶州から奈良まで、一千公里程度とみると一里は三百程度です。
 古田武彦氏は、三千里は、新羅領南端と倭領北端の間の渡海としています。
         「古代は輝いていた Ⅲ」(ミネルヴァ書房刊)
 舊唐書は、隋書の三千里を書かず、倭は、京師(長安)を去る一万四千里としています。
 *長安から博多まで、三千公里程度とみると一里は二百程度です。
 *長安から奈良まで、四千公里程度とみると一里は三百程度です。

 概数計算で漠然としますが、倭國「なら」論にもみえます。いずれにしろ、大まかな話なので、あくまで、ご参考にと言うだけです。
 倭人伝里程を維持したのか、倭人伝王城をどこに見たのか、微妙なところです。

 と言うことで、本題では、以下、明確な史料を探すことにします。と言っても、隋書、舊唐書、新唐書は、いずれも、「地理志」を備えているので、まずは、信頼すべき史料とみて、内容を確認するわけです。
 
〇新唐書地理志 入四夷之路

 新唐書地理志によれば、天寶年間、玄宗皇帝が、諸蕃との交通を差配していた鴻廬卿に対して、多数の蕃国の所在と道里の実情を、余さず調査報告せよと指示したため、国を挙げて実態調査を行ったようです。
 日本国は絶海の地で交通がなく、新羅慶州の位置が報告されています。因みに、平壌、丸都の高麗故都も、調査報告されています。
 なお、これら記事の精査、図示などは、手に余るのでご辞退申し上げます。

 追記:実態調査とは、鴻廬卿の手元にある「公式行程道里」が秦代以来の交通路を辿っていて、実際の行程道里とは異なると、皇帝の耳に届いたので、実際の行程を調べよと命じたものでしょう。まことに厖大な努力の成果と思われますから、空前絶後と言っていいでしょう。郡から倭まで一万二千里などと言う夢物語は、このあたりで、鴻廬の記録から消えたと言う事でしょう。もちろん、正史の訂正、改竄などは、到底あり得ないのです。(2020/11/15)

*入四夷之路與關戍走集
 唐置羈縻諸州,皆傍塞外,或寓名於夷落。而四夷之與中國通者甚眾,若將臣之所征討,敕使之所慰賜,宜有以記其所從出。天寶中,玄宗問諸蕃國遠近,鴻臚卿王忠嗣以《西域圖》對,才十數國。其後貞元宰相賈耽考方域道里之數最詳,從邊州入四夷,通譯於鴻臚者,莫不畢紀。其入四夷之路與關戍走集最要者七:一曰營州入安東道,二曰登州海行入高麗渤海道,三曰夏州塞外通大同雲中道,四曰中受降城入回鶻道,五曰安西入西域道,六曰安南通天竺道,七曰廣州通海夷道。其山川聚落,封略遠近,皆概舉其目。州縣有名而前所不錄者,或夷狄所自名雲。

 四夷への要路は七路に大分され、東夷では、その一「營州入安東道」、営州から安東府の経路、その二「登州海行入高麗渤海道」、登州から渡海、高麗、渤海(高麗亡国後新羅と半島を南北二分)などへの経路を取るので、次項で該当部分の記事を引用します。

                                未完

倭人伝随想 6 倭人への道はるか 海を行かない話 2/4 改 追補 唐書地理志談義

                        2018/12/05 2018/12/07 2019/01/29 追記 2020/11/15 2022/01/16
*新唐書地理志 入四夷之路 承前
 そして、具体的経路と里数です。

*營州入安東道
 營州西北百里曰松陘嶺,其西奚,其東契丹。距營州北四百里至湟水。營州東百八十里至燕郡城。又經汝羅守捉,渡遼水至安東都護府五百里。府,故漢襄平城也。東南至平壤城八百里;西南至都里海口六百里;西至建安城三百里,故中郭縣也;南至鴨淥江北泊汋城七百里,故安平縣也。自都護府東北經古蓋牟、新城,又經渤海長嶺府,千五百里至渤海王城城臨忽汗海,其西南三十里有古肅慎城,其北經德理鎮,至南黑水靺鞨千里。

*登州海行入高麗渤海道
 登州東北海行,過大謝島、龜歆島、末島、烏湖島三百里。北渡烏湖海,至馬石山東之都里鎮二百里。東傍海壖,過青泥浦、桃花浦、杏花浦、石人汪、橐駝灣、烏骨江八百里。乃南傍海壖,過烏牧島、貝江口、椒島,得新羅西北之長口鎮。又過秦王石橋、麻田島、古寺島、得物島,千里至鴨淥江唐恩浦口。乃東南陸行,七百里至新羅王城自鴨淥江口舟行百餘里,乃小舫溯流東北三十里至泊汋口,得渤海之境。又溯流五百里,至丸都縣城,故高麗王都。又東北溯流二百里,至神州。又陸行四百里,至顯州,天寶中王所都。又正北如東六百里,至渤海王城

 鴨緑江河口部唐恩浦口(仁川広域市 インチョン 旧京畿道)から新羅王城まで東南陸行七百里は、現代地図で一千公里程度と思われます。これは、玄宗期の官路と里程です。
 
 発進地である登州府は、山東半島ほぼ全域を管轄した登州の首都でありながら、その中央を離れ北端に位置していました。
 登州から遼東半島に至る経路は、中国側に連なる渤海列島に恵まれ、交通経路として最初に確立されたと思われます。後年、南寄りの平壌(ピョンヤン)、漢城(ソウル)の付近の海港が、良港として評価されて、そちらへの航行が活発になったと思われます。

 山東半島の東の最果ての岬、成山角には、始皇帝や徐福が訪れたという記録が残っています。目前の半島を無視して、どこへ行ったのでしょうか。

 倭人伝とは時代が違うので、「海行」と明記し、以下、「過大謝島」などと通過地を列記した後「得..長口鎮」などと到着地と里程を記しています。ただし、「水行」はなく、河川航行は、溯流し至る。などとしています。
 ここでは仁川(インチョン 鴨緑江河口部)から新羅王城まで東南陸行八百里とし、「水行循海岸」などと言っていません。
 現代地図で四百㌖程度の里程と思われます。(訂正 2020/11/15)
 追記:もちろん、「海行」は沖合を南下するものではなく、山東半島から対岸の半島西岸に渡る「渡船」です。(2020/11/15)

 以上、唐代玄宗期の官制経路と里程です。

新羅遣唐使研究
 一方、次ページの専修大学東アジア世界史研究センターの新羅遣唐使研究によると、王都慶州(キョンジュ)から中国登州へは、まず、慶北永川(ヨンチョン)骨火館に入り北上、忠北忠州(チュンジュ)褥突駅に至り、ここから、西岸海港へ陸行し登州に出港です。忠州から、南漢江を漢城(ソウル)方面に辿る西北行と忠北清州(チョンジュ)から忠南牙山(アサン)への西行があります。どちらも新羅内四百㌖程度陸行です。

 この経路は、倭人伝の、帯方郡(漢城附近)から狗邪韓国(慶州南方)の官道旅程中心部の有力候補と見られます。
 牙山を発する場合は、東行して清州を経て、竹嶺で小白山地の分水嶺を越えて、洛東江上流忠州に至り、洛東江沿いの街道を、あるいは、洛東江の川船に揺られて、南下すると見られます。
 また、帯方郡から発する場合は、東行して 北漢江上流に至り、 北漢江沿いの街道を、あるいは、北漢江の川船に揺られて、南下し、南漢江との合流部から、さらに南下して、清州を経て、竹嶺で小白山地の分水嶺を越えたものもと見えます。
 このように、青州は、河川、街道交通の要所にあり反映したものと見えます。つまり、街道沿いに宿場が繁栄し、要所の宿駅には、市(いち)が常設され、新羅の繁栄の基礎となっていたものと見えます。

 つまり、この行程が、新羅遣唐使経路になったのは、古来、街道として宿駅まで整備されていて、常用されていたからと思われます。
 新羅遣唐使の永川から忠州への経路も、忠州から海港への経路も、楽浪郡、帯方郡時代からの常用と思われます。

 新羅遣唐使は、総じて二百餘次に及び、国内経路は、使節宿舎を含め、一級官道として整備されていたと思われ、対岸の登州には、新羅館もあったとのことです。

 半島西岸の海港は、南下した高句麗が、百済との紛争に勝利して百済を南方に追いやり、一度は中国への海港として確保したものの、嶺東、つまり、半島東南部から興隆した新羅に海港を奪われ、果ては、中国との交流を深めた新羅に半島統一の大命が下って、高句麗は、百済共々亡国となったのです。

 ということで、この海港は、長年に亘り、半島西岸から山東半島への渡海の要であり、新羅からの官道として確立されていたのです。一部史料に、新羅から、半島南岸、西岸を経て、中国に渡る経路が(誤って)図示されていることがありますが、それは、傍線航路を過大評価した作図者の大いなる勘違いであり、同列に見るべきではないのです。

追記 :
初期の第三次遣唐使は、対馬から海を越えて、慶州に入り、以下、新羅道(しらぎみち)を通ったと、日本書紀に明記されているので、半島内は、新羅の官道を通り、新羅の宿駅のお世話になったものと思えます。多分、その時期、両国は友好関係にあって、新羅遣唐使の随行扱いで、官道の諸関所を楽々通過し、最後に新羅の官船に便乗したはずです。官道宿舎の寝床は嵐で揺れることもなく、地域の新鮮な食事を愉しんだものと思えますし、渡海は、僅かな行程なので、難破の危険もなく、後の遣唐使の苦難を思うと、夢のようなものだったでしょう。
 後年両国関係が険悪になってからは、そのような厚遇は受けられず、自前で大船を造船して、東シナ海越えの、半数が難船となる難関に挑まざるを得なくなったものと解されます。(2020/11/15)

                             未完

倭人伝随想 6 倭人への道はるか 海を行かない話 3/4 改 追補 唐書地理志談義

                        2018/12/05 2018/12/07 追記2020/11/15 追補 2022/01/16
〇新唐書地理志再論
 新唐書地理志に見られる鴨緑江河口部から新羅王都の陸行七百里は、平壌(ピョンヤン)、漢城(ソウル)、清州(チョンジュ)、常州(チュンジュ)を官道で歴たと見られます。各地名は、古来、水陸交通の便を得た要地であり、往年の韓国諸国の王城が継がれていると思います。
 韓国内地名の歴史背景は、ハングルの読めない素人の知識が及ばない上に、韓国国内の各種地図が漢字表記でなくなった現在、韓国地名の漢字検索は困難なので、地図上の推測に止めますが、各種行程道里は半島内陸行前提であり、沿岸航行を含まないのは明瞭です。

 隋、唐代の裴世清や高表仁の来訪は、山東半島の海港から、大型の帆船であり、ほぼ無寄港で直行しているので、先に挙げた、官道行程とは別の話です。混同しないようにお願いします。(2020/11/15)

 因みに、韓国地名に冠した忠北、忠南、慶北は、それぞれ、忠清北道、忠清南道、慶尚北道の略称として通用しているものです。

〇半島内行程結論
 倭人への道は、海を行かなかったのです。(わざわざ「水行」と呼ぶと定義した「渡海」は除いてですが

 航海術が格段に進歩したと思われる統一新羅時代(668年頃-900年頃)に、遣唐使順路が全面陸行であったということは、遡って、倭人伝の帯方郡時代(三世紀前半)も、半島陸行が唯一最善の経路であったと見るべきでしょう。
 当時も隋、初唐期も、帯方郡時代の官道を利用して狗邪韓国の旧地まで進んだので、海岸沿いの沿岸航行などなかったのです。

*行程不明解の理由を推測
 倭人伝原資料を帯方語で書いた魏使提出資料は、帯方郡の報告文献なので、内陸行、各国歴訪顛末を、所要日数、移動距離と共に逐一書いたでしょうが、洛陽では、些末として省略され「乍南乍東」と減縮されたのでしょう。 このように、地理観、交通観の異なる両者の意向が合わず、まことにちぐはぐですが、語彙も文体観も違うから仕方ないのです。

 目下の最終読者は、現代日本人なので更なる誤解は避けられず、続くのは、ちと古手の「日本人」が理解に苦しむ当世言葉の世界なので、何をか言わんやです。

追記: 2022/01/16
 以上は、初出時の道里行程観でまとめたものであり、目下の意見は、これと異なります。
 つまり、倭人伝冒頭部の道里行程記事は、主要部が魏使訪問以前に書かれたと見ています。魏使を派遣する際には、行程概要を上程する必要があり、全行程万二千里、郡から狗邪韓国まで七千里、三度の渡海水行が、計三千里までは、皇帝の承認済みであり、予想所要日数として、街道完備のあかつきには、四十日程度とまでを伝えていたはずです。
 「俗論」派の方の好む「俗な表現」にすると、「出張期間が不明では出張承認が下りない」というですから、明帝没後とは言え、「倭人の王治まで万二千里は、周制に倣った形式的なものである」ことは、関係者に通じていたものとみるのです。そうでなければ、魏志を上程しようにも、倭人道里万二千里が法外な誇張と指摘されて、倭人伝は没になっていたはずです。ここは、ちゃんと、根回しした上の「芸術的表現」だったとみるのです。

参考資料 専修大学 東アジア世界史研究センター年報 第4号 2010年3月
 遣唐使の経路
 新羅の遣唐使一行は金城(慶州)を出立して永川付近の骨火館、おそらくここは新羅の王城に入る唐からの使者、また帰国する新羅の遣唐使の王都入城前に停まる施設であろうが、ここを経て忠州の褥突駅から西海岸の長口鎮あるいは唐恩浦(唐城鎮)に至って出航したであろう。ここまで約392kmの陸行である。山東半島の登州に上陸すると、新羅館に息み、青州を経て洛陽・長安に至る。このコースは新羅の遣唐使の第4期後半から5期では新羅国内の混乱と唐における山東地方の混乱を避け、遣唐使は慶州を出立すると、西南方に陸行して、全羅南道の栄山江河口付近の会津から出航して楚州に上陸することになる。

                           未完

倭人伝随想 6 倭人への道はるか 海を行かない話 4/4 改 追補 唐書地理志談義

                        2018/12/05 2018/12/07 追記 2020/11/15 追補 2022/01/16 
▢余談 東莱談義
 新羅遣唐使談義の背景となる東莱は、中国古代・中世史では、山東半島地域です。

東莱郡 (中国) 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 東莱郡(東萊郡、とうらい-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。漢代から唐代にかけて、現在の山東省東部の煙台市一帯に設置された。

*東莱の人 晏子

 東莱は、春秋戦国の大国「斉」(せい)の東部であり、宮城谷昌光氏「晏子」によると、春秋魯の重臣孔子が頌えた晏嬰(晏子)は、東莱領主にして重臣晏弱の嫡子とのことです。

*東夷の起源
 戦国末期、西の秦と呼応して東帝を称した斉は、長大な海岸線を利し、南海諸国、遼東、朝鮮半島を含む広範囲の海洋交易によって栄えたのでしょう。内陸政権の周には理解できなかったのでしょうが、中原に統一王朝が生まれ、斉がこの地に封建される遙か以前から、東夷と呼ばれる蛮夷は、荒海を乗り切る海船を作り出していたのです。
 因みに、長江で荷物輸送に多用されていた川船は、波浪が過酷な外洋航行に耐えない内陸淡水面専用であったことは、言うまでもないでしょう。まして、沿岸を曳航してくることはなかったのです。そうでなくても、多数の海船を造船する技術と資材は、十分整っていたのです。

 太古、海船が小さく、食料と飲料水の容量が限られていたために長行程に耐えなかった時代は、莱州から、一旦、半島先端の登州に亘り、以下、渤海列島を経由して海峡を越えたようです。
 後に、海船が長行程に耐えるようになると、東莱を扇の要として、登州から遼東半島、栄成から朝鮮半島中部の平壌、漢城へという派生行程が栄えたと思われます。重ねて、東莱、莱州は、古来の斉都臨菑を歴て中原への交通に恵まれ、一大集散地(一都會。つまり、「すべての路は、ここに一つに会す」)となっています。

 遼東公孫氏は、一時、莱州に進出し、ここを起点に青州周辺まで広く支配しましたが、後に押し戻されました。
 逆に、景初年間の司馬懿北伐では、派兵に先立って、青州周辺で海船を多数造船し、できたての大船団を駆使して、司馬懿指揮下の遼東討伐軍主力の兵站を支える食糧輸送などの軍務と並行して、あるいは、密かに先立って、楽浪・帯方両郡平定を行ったとされ、その記録は、後の唐代の百済攻略の際に活用されたと思われます。

 いや、青州起点の海船起用は、遥か以前の漢武帝「朝鮮」の際の兵士輸送に起用されているので、それを機に、青州-遼東半島の航路と共に、青州から、楽浪、帯方両郡への航路が確立されたものと見えます。何しろ、どちらの際も、平定後の海船は、払い下げられたと見えますから、交易の船腹に不自由はしなかったのです。(2020/11/15)

*大船の限界
 因みに、新造の青州海船は、当然、甲板と船室のある大型の帆船ですが、いかに波穏やかな渤海湾黄海航行とは言え、海船は、波浪の侵入を防ぐために舷側が高くて船底は深く、航路を外れた岩礁海域に進入できなかったのです。
 また、大型の帆船は舵取りの小回りがきかず、舵取りのために漕ぎ手を多数備えていても、水先案内が指図しない限り、手早い転進ができなかったので、とても安全航行はできなかったのです。

*海路創世記
 類書「通典」の邊防一、倭の項に「大唐貞觀五年,遣新州刺史高仁表持節撫之。浮海數月方至」の記事があり、初唐に半島西岸沖を浮海した刺史高表仁の海船は、「浮海」と言う航路探索のあげく、途中で風待ち、潮待ちが募ったか、数か月後になって、ようやく倭に到達したと唐書記事に追加し、「唐会要」では、魔物や奇巌に阻まれたと書いたので、幾度か難破しかけたのでしょう。

 この際の航路開拓の偉業で、未踏の半島西岸が中原政府の路程として確立され、「海路」と呼ばれるようになったと思うのです。かくして、後の百済征討の降伏勧告使節派遣や百済復興勢力との白村江会戦に於いて、東莱、登州を発した大勢の水軍が、大過なく百済泗比、熊津などの海岸に攻め寄せられたのでしょう。

 但し、百済征討の新造船は、急造故に損壊し、軍兵は、百済亡国後、軍費節減のため帰還したため、海峡を越えた大軍派兵と水戦は不可能となったのでしょうか。いずれにしろ、新羅が唐の半島支配に抗した戦闘は、内陸での分散戦闘であり、莱州からの長駆派遣を要する唐の及ぶところではなかったのです。

 新羅遣唐使の派遣は、両国間の熱気の冷めた時代のことであり、西岸「海路」は無用で暦年重用された渡海を行ったのでしょう。
 いや、この海域に大型の帆船が往来していたら、後の遣唐使は、文字通り決死の東シナ海越えにいどむことはなかったのです。

                           この項完

2022年1月14日 (金)

新・私の本棚 小畑 三秋 「卑弥呼の都、纒向に突如出現」

産経新聞 The Sankei News 「倭の国誕生」「卑弥呼の都、纒向に突如出現」     2022/1/13 07:00
私の見立て ★☆☆☆☆ 提灯担ぎ                          2022/01/13

〇はじめに
 当記事は、「産経新聞」ニューズサイトの有料会員向け記事である。以下の引用は、許容範囲と見ている。

*報道記事としての評価
 当記事は、一流全国紙文化面の署名記事としては乱調で感心しない。
「邪馬台国(やまたいこく)に至る。女王の都するところなり」。中国の歴史書、魏志(ぎし)倭人伝は邪馬台国に卑弥呼(ひみこ)がいたとはっきり記す。

 大変な虚報である。中でも、魏志「倭人伝」は、中国史書であり中国語で書かれている。「事実と異なる」報道である。「はっきり」記しているとは、虚報の上塗りとの誹りを免れない。また、記者の自筆を纏向研発表と誤解させるようで感心しない。「フェイクニュース」は、ご勘弁いただきたい。

*纏向研の幻像創造
 寺沢薫所長の発言は、以下の通りと見える。
同遺跡は、卑弥呼の時代と重なる3世紀初めに突然出現した。「過疎地にいきなり大都市が建設されたイメージ」と寺沢さん。卑弥呼について魏志倭人伝は「各地の王が共立した」と記すことから、大和(奈良)をしのぐ一大勢力だった北部九州や吉備勢力が主導して擁立し、纒向に都を置いたとの説をとる。同遺跡は、卑弥呼の時代と重なる3世紀初めに突然出現した。「過疎地にいきなり大都市が建設されたイメージ」と寺沢さん。卑弥呼について魏志倭人伝は「各地の王が共立した」と記すことから、大和(奈良)をしのぐ一大勢力だった北部九州や吉備勢力が主導して擁立し、纒向に都を置いたとの説をとる。

*君子豹変
 過去の発表で、纏向は、盆地地形で隔離され、文物の流入が少なく、また、温和な集団と聞いたが、一方、随分早くから筑紫に至る広域を支配していたとの両面作戦をとっていたように思う。近来、考え直して、女王渡来幻像(イメージ)作戦に「突如」戦略転換したのだろうか。

 「突然」「突如」と言うが、これほどの大事業は、多数の関係者が、構想から建設の大量動員の年月を経て、女王入場まで、大勢が長期に携わって初めて実現できるのである。大変ゆるやかな大事業だったはずである。なぜ、ドッキリの「サブライズ」を催したのだろうか。

 以上は、最有力の研究機関の研究者の総意で進めていることだろうから、素人がとやかく言うことではないが、「君子豹変」は正当化できるのだろうか。

*倭人伝解釈の変調
 因みに、倭人伝には、「各地の王が共立した」と中国語で「はっきり」書かれているわけではない。各国王は、限られた一部だけだったはずである。

*「所長、大丈夫ですか」
 それにしても、根拠の乏しい強調は、大抵、理論の破綻を覆い隠す常套手段である。大丈夫だろうか。いや、「大丈夫」というのは、所長のフィジカル、体躯を言っているのではない。単なる冗句である。「過疎地」、「大都市」などと、時代離れした、現代日本語の冗句を飛ばすから、悪乗りしたのである。
 纏向研は、「大家族」なので、武運長久とご自愛を祈るしかない。

                                以上

2022年1月13日 (木)

新・私の本棚 田中 秀道 「邪馬台国は存在しなかった」 改 1/3

                勉誠出版 2019年1月刊
 *私の見立て ★☆☆☆☆ 無理解の錯誤が門前払い     2019/12/12 追記 2022/01/13

〇結論
 本書は、本来、不細工なタイトルのせいで読む気はなかったのだが、買わず飛び込む、ならぬ、読まず飛び交うでは、当方の本分に反し、しゃれにならないので、仕方なく買い込んで、一読者として不満を言わしていただくのである。

 自薦文ではないが、氏としては、他分野で赫々たる定評を得ているから、当古代史分野に於いても、旧来の迷妄を正す使命を帯びていると、勝手に降臨したようであるが、随分勘違いしているのである。御再考いただきたい。

 柳の下にドジョウは二匹いないという諺をご存じないのだろうか。別分野で赫々たる名声を得たのは、状況に恵まれた上に好機を得、おそらく、率直な支持者を得たからではないのだろうか。漁場に恵まれれば、凡人でも釣果を得るのである。以下、折角だから頑張って批判させていただく。

*盗泉の水、李下の冠、瓜田の沓
 まず重大な指摘は、本書は、タイトルをパクっていると言うことである。
 著作権商標権などの知財権議論はともかく、本書のタイトルは、古田武彦氏の『「邪馬台国」はなかった』を猿まねしたものであり、一般読者の混同・誤解を期待しているので、商用書籍として恥知らずな盗用だと見る。

*出版社の怠慢
 出版社は、当然、コンプライアンス意識と倫理観を持っているはずだから、このような盗用疑惑の雪(すす)げない不都合なタイトルの書籍を上梓したことは、その道義心を疑わせるものである。「渇しても盗泉の水は飲まず」の気骨は無いのだろうか。

 かくして、本書の社会的生命は地に墜ちたが、其の内容の端緒に触れることにする。

〇内容批判~枕(端緒)のお粗末さ
 本書の冒頭、枕で、氏の所論が説かれているが、氏の古代史見識は、大変お粗末なものと言わざるを得ない。それは、大変粗雑な第一章章題に露呈している。これでは、誰も耳を貸さないだろう。

 曰、『学者はなぜ「邪馬台国」と「卑弥呼」の蔑称を好むのか」
 著者は、自身を学者と自負してか、自身の無理解、無知を、世にあふれる「学者」全員に当てはめるのは無理と思わないのか。自罰は自罰に止めるべきである

 以下の指摘でわかるように、俗に言う独りよがりである。個人的に快感があってもそれを世間に曝すのは自罰行為である。

*無知の傲慢
 以下、周知の史実について、氏は、的確な用語を使用できていない。つまり、歴史認識の不備であり、そのような見識の不備、つまり「欠識」に基づいて書かれた当書籍は、読者に誤解を植え付ける「ジャンク」(ごみ)である。

 例えば、氏は、史書全般を断罪して「伝聞をもとにすべて構成」と書いているが、史官は、常に原資料に基づいて自身の著作を編纂する。史学が「過去に起きた事実を後刻推定する科学」である以上、直接見聞する一次情報で無く、証言、報告や伝聞による間接的な二次情報、ないしは、それ以降の更なる間接的情報に基づくものでしかないことは、もちろん、当然、明白である。氏は、それすら知らずに、反論できない当事者や先人を易々と誹謗して、堂々と快感を覚えているようである。ここでは、口のきけない先人に代わって、素人が、訥々と異議を唱えるしかできないのである。

 史官は、時間や空間を跳躍して、現場に立ち戻る能力は無いから、すべからく、得られた文字情報の正確さを信じて、いや、最善の努力を持って精細に検証して、最終的に、科学的最善を尽くすのである。いや、子供だましの戯言のお付き合いには徒労感がある。もっとも、このようにして、素人に言われて、自身の不明がわかるなら、当然の自省段階で、言われる前にわかるはずである。
 この記事は、燃えさかる山火事に、柄杓(『卑』の原義)一杯の水を注いでいるのかも知れないが、注ぐ前より、幾許かの改善になっていれば幸いである。

                                未完

新・私の本棚 田中 秀道 「邪馬台国は存在しなかった」 改 2/3

                勉誠出版 2019年1月刊
 *私の見立て ★☆☆☆☆ 無理解の錯誤が門前払い     2019/12/12 追記 2022/01/13

*「伝聞」の意義喪失
 「伝聞」が、否定的に扱われるのは、裁判時の証言の検証時であり、「又聞き証言は一切証拠とならない」という際の「伝聞」とは、意義が異なるのであり、それを、だらだらと振りかざすのは無神経である。「罪無き者が石を投げよ」である。
 まだ、陳寿の場合は、三国志編纂時に一次証言者が生存していた可能性があるが、それにしても、長年を経た証言が有効かどうか疑問と言わざるを得ないから、どう考えても無理無体な発言である。
 きれいな決めゼリフを吐きつけたいのなら、まずは、一度、洗面台の鏡に向かって、目前の人影と自問自答されたらいかがだろうか。快感があるようであれば、それは、自罰体質の表れである。

*欠識の確認
 そして、先ほど上げた氏の「欠識」、つまり知識欠如であるが、論議の裏付けとして語られる時代様相談義に使用される言葉は、要所要所で同時代用語、ないしは、同時代を表現する後世用語と乖離していて、氏の史書理解が、体質的に不当なものと思わせるのである。とは言え、体質は「やまい」でないので、お医者様でも草津の湯でも治療できない。やんぬるかな。つけるクスリがないのである。

 歴史科学の様相として、時代固有の事情を表現する言葉を的確に使用できないと言うことは、時代様相の理解が枯渇、欠如しているのであり、時代様相の的確な認識ができないものが、記事内容を批判するのは不適切の極みである。

 ほんの一例であるが、対馬に関する記事で、海産物を食べて暮らすのは島国の「常識」と高々と断じるが、当記事が、中原人読者対象の記事であることをバッサリ失念しているのは、何とも杜撰で滑稽である。念のため言い足すと、海産物が売るほど豊穣であって、穀類を買い込むに足りるほどであったとしても、別に意外ではない。対馬が、本当に饑餓続きであったという証拠は見られないのである。ここで言いたいのは、氏の言う「常識」は、中原人には、全く想像の他であったと認識頂きたかっただけである。そう、ちと言いすぎたと後悔して、付記したのである。



*史的用語の不手際
 「二六三年、陳寿が仕えていた蜀が魏に併合されました」と脳天気におっしゃるが、蜀は魏に攻め滅ぼされ、蜀帝ならぬ「後主」劉禅は誅伐覚悟の肌脱ぎ降伏儀式をもって、ひたすら平伏したのであり、和やかに併合などされていない。この言い方は欺瞞である。

 また、蜀の宰相であった諸葛亮は、『「魏」の政敵』とされているが、一宰相が一国の「敵」、つまり、対等の存在とは笑止であり、まして、その状態を「政敵」とは何とも奇っ怪である。事は、政治的な抗争では無いのである。

 また、陳寿にとっては、(故国の偉人忠武侯を、本来実名呼び捨てなどしないのだが、著作集タイトルとしてはそう書くしかないのである)「諸葛亮著作集」を編んだのは、忠武侯が、魏では、邪悪、野蛮な賊将、つまり、へぼな武人と見なされていたのに対して、その本質は「武」でなく不世出の「文」の人であることを示したものであり、氏の解釈は、陳寿を、史官として貶(おとしめる)めるのに集中して、人物評の大局を見失っている。魏晋朝の諸葛亮観を、軽薄な現代人たる自身のものと混同しているのであろう。まあ、知らなければ、何でも言いたい放題という事なのだろう。

 それにしても、「だいたいのところ賞賛」とは、陳寿も見くびられたものである。陳寿は、諸葛亮著作編纂によって、偉人を「文」人と「顕彰」こそすれ、「賞賛」などと忠武侯を見下ろした評語は書けないのである。
 陳寿が、三流の御用物書きなみとは、重ねて、随分見くびられたものであるが、何しろ、当人は、どんなに無法な非難を浴びせられても一切反論できないので、後世に一私人が、僭越の極みながら、代わって反駁しているのであるから、当方の趣旨を誤解しないでいただきたいものである。

*見識の欠如
 そのように、氏は、(中国)史書の初歩的な読解が、まるでできていないので、「中国の歴史書」なる膨大な批判対象について、事実の分析という視点が一切無いと快刀乱麻で断言する根拠も権威も、一切もっていない。ここは、誰でも、氏の不見識を、絶対の確信を持って断言できるのである。

 根拠の無い断言、大言壮語は、中国だけかと思ったが、日本にも、一部伝染しているものと見える。なんとか、蔓延防止したいものである。それにしても、学者先生が、素人に不心得を指摘されるのは恥ではないかと思う。もっと、しっかりして「書評に耐える階梯」に達して欲しいものである。半人前の史論は、もう沢山なのである。

 著者も、当分野の初学者として、「過ちをあらたむるに憚ることなかれ」とか「聞くは一時の恥」とか、諺の教えに謙虚に学んでほしいものである。

                                未完

新・私の本棚 田中 秀道 「邪馬台国は存在しなかった」  改 3/3

                勉誠出版 2019年1月刊
 *私の見立て ★☆☆☆☆ 無理解の錯誤が門前払い     2019/12/12

*終わりなき放言
 なぜか、陳寿は、「三国志」の編纂の官命を受けたことになっているが、勢い込んだ割りに、的外れになっている。晋朝が、よりにもよって「三国志」編纂の勅命を発する命じるはずがない。氏自身も言うように、官撰史書は当代正当性を裏付けるものである以上、反逆の賊、呉、蜀を、天子たる魏と同列に描くよう指示するはずはない。せいぜい、魏国志であろう。

 まして、当時、既に、官修の前代史書が三件、内二件は、魏史として、昂然と成立していた氏の主張なら、改めて、屋上屋の魏国志の編纂を命ずるはずがない。

 氏自身の言うように、「呉書」は、呉の史官が、私的に、つまり、晋朝の官命を受けること無く編纂した呉史書を、呉の亡国の際、降伏時に献呈したものであり、また、「魏略」は、魏の官人たる魚豢が、官命に基づかず私撰したものであって、氏自身私家版と断じている。その程度の分別が行き止まりとは、情けないと思えるのである。

*歴史認識の混乱
 つまり、氏の歴史認識は、ほんの数行前に自分で書いたことも判読できないほど、つまり、著作家として、収拾の付かないほどボロボロに混濁している。

 多分、伝聞、受け売り史料の貼り合わせで混乱したのか、このような支離滅裂な証言は、証人採用されるはずがない。「勉誠出版」社編集担当は、玉稿を閲読しないのだろうか。

*自覚なき迷走
 ということで、続いて、『「魏志倭人伝」の記述の不正確さ』なる段落があるが、自分で書いた文章の当否を判読できないのに、他人の著作を的確に判断できるはずがない。何か、重大な勘違いをしているようである。
 物理的には、本書は書棚にあるが、当方の判定では、本書は、このあたりでゴミ箱入り、紙くずリサイクル仕分けである。

*提示部の壊滅~本編自棄
 読者を招き入れるべく渾身の労が投じられたはずの書籍扉が、これほど念入りに汚物に汚れていたら、読者がその先を開くはずがない。著者は、何か独善の境地に自己陶酔しているのではないか。誰か、そこは温泉湯船でなく、たんぼのこいだめだと教えてあげないか。「枕」がボロボロなのをそう見るのは、皮肉に過ぎるだろうか。

 当方であれば、著書の確定稿ができたら、論理のほころびに、遠慮無く、論理的にダメ出ししてくれる査読者を懸命に探すのであるが、著者は第三者査読体制をどう構築したのだろうか。一般読者の財布の紐を緩めさせたかったら、誠意を持って完成度を高めた上で上梓するものではないのか。

*客除けの壁
 氏は、世上著書批判が少ないと嘆くが、これほど混乱した書籍に対して、真面目に書評を行うのは、当方のようなよほどの暇人である。

 いや、もし、読者が、のんきな方で以上のような齟齬に気づかないのであれば、上っ面だけで紹介記事は書けても、自分の目で、本書の各ページの各行を丁寧に追いかけていけば、躓きまくって地面を転げ回ることだろう。それは、当人が不注意なせいであり、著者を責めるものではない。

 著者は、自著の不評を近代政治思潮のせいだと気取っているが、どんな世界、どんな時代でも、不出来な著作は世間の相手にされない。いわば、自身で、客除けの壁を念入りに設(しつら)えておいて、客が来ない、けしからんと憮然としているのは、自縄自縛の戯画にもならない。(当ブログの閑散は、自嘲の対象にもしないようにしている)

 と言うことで、以下の内容については触れないこととする。いや、端緒が糺されない限り、気合いを入れて読むことはないのである。それが、著者の選んだ路であるから当方がその当否を云々しているものではない。

*最後に
 以上、例によって、端から論評に値しない書籍を物好きにも論評したが、氏の周囲には、氏の論調に共鳴する方ばかりで、ここに書いたような素人目にも当然の批判を受けなかったのだろうか。

 本当の支持者なら、このように批判される言い回しは取り除くよう、馘首覚悟で殿に諫言するだろうから、それがないということであれば、氏の閉塞した環境が思いやられて、まことに勿体ないと思う。

 本書は、氏の「五丈原」なのだろうか。重ねて、勿体ないと思う。

                                以上

2022年1月 6日 (木)

新・私の本棚 小畑 三秋 「卑弥呼は北部九州や吉備主導で擁立した」 1/2

産経新聞 The Sankei News 「倭の国」「卑弥呼は北部九州や吉備主導で擁立した」 1/6 07:00
私の見立て ★☆☆☆☆ 提灯担ぎ  (★★★★☆ 堅実な時代考証)                2022/01/06

〇はじめに
 お断りしておくが、当記事は、「産経新聞」ニューズサイトの有料会員向け記事であり、当ブログ筆者は有料会員でないので、記事末尾は見えていない。但し、新聞記事の伝統に従い、当記事の要点は、冒頭に明示されている思うので、的外れな批判にはなっていないものと信じて、当記事を書き上げた。

*二段評価の説明
 当記事は、持ち込み記事の提灯持ちであり、一流全国紙文化面の署名記事として感心しない。タイトルが文法乱調で混乱しては勿体ない。
 持ち込み記事部分は、考古学の本分として、堅実な時代考証に賛辞を送る。

*適切な著作権処理
 今回の図版は、纏向研寺沢所長の持ち込みのようだ。個別の資料写真は、出典が明示されていて、公共研究機関の広報資料としては、まことに堅実である。また、趣旨不明の「卑弥呼」像と図版全体に署名がないので、当然、寺沢所長提供と見るが、明示されていないのは、産経新聞の疎漏である。

*画餅の不備
 一見して、纏向は、現代の西日本地図に示された各地勢力から見て「極東辺境」である。しかも、西方勢力から長延の行程の果てとして到達困難な山中の奈良盆地の「壺中天」である。その東端のどん詰まりの纏向勢力が、どうやって、これら交通至便な有力勢力を屈従させたのか、まことに不可解である。
 いや、この感想は、随分以前に「纏向」と訊いた瞬間に想定されたのだが、かくの如く図示されると、画餅の意義が見えないのである。

*あり得ない広域支配
 当時の交通事情、そして、当時は、文書通信が存在しなかったことから、纏向と諸勢力の報告連絡は、徒歩交通の伝令の口頭連絡であり、従って、遺物が残っていないのかも知れないが、年々歳々の貢納物は、延々と徒歩搬送であり、極めつきは、互いに闘うと言っても、武装した兵士が、延々と徒歩行軍するときては、往復の行軍中の厖大な食糧の輸送・補給を含めて、消耗が激しく、遠隔地に渡海遠征など、はなっからできないのである。

*一極集中の破局
 また、氏は、各勢力貢納物が纏向に集中したと言うようだが、九州からの貢納物は、吉備勢力圏を通過するが、まさか、素通りできないのである。途中で割り前を取られたら、とても、纏向まで物資は届くまいと見るのである。
 ということで、纏向一極集中の無理を、九州、中国、四国の支持あっての纏向としたかったようであるが、どうも、無理のようである。

*密やかな四国「山のみち」提唱
 図は、四国山地の中央構造線沿いの「山の路」を、弥生時代の大分海港から鳴門に至る交易路としていると見える。我が孤説の支持と思うが、大変うれしいものの、何か根拠があるのだろうか。あれば、是非提示いただきたいものである。四国に古代国家を見るものには、大変心強い支持となるのである。
 この経路は、瀬戸内海の交通を難く妨げていた関門海峡から鳴門海峡までの数多い海の難所が無関係となり、また、但馬勢力を飛ばすので、手ひどい収奪は避けられる。但し、この経路に潤沢な交通があれば、ものの理屈として、途上に地方勢力が形成され、結局、とても纏向まで物資は届くまいと見るのである。交易の鎖は、ひ弱いように見えても、その区間を強く支配しているので、手強いのである。

 心地良い絵が描けたら。どのようにして、日々運用し持続するか考えてみることである。それが、伝統的な考古学の本分と思う。

                                未完

新・私の本棚 小畑 三秋 「卑弥呼は北部九州や吉備主導で擁立した」 2/2

産経新聞 The Sankei News 「倭の国」「卑弥呼は北部九州や吉備主導で擁立した」 1/6 07:00
私の見立て ★☆☆☆☆ 提灯担ぎ  (★★★★☆ 堅実な時代考証)                2022/01/06

*「倭国大乱」の幕引き
 ちなみに、寺沢氏は、考古学の実直な側面を踏まえて「2世紀後半~末に大規模な戦乱の痕跡はみられない」と冷静である。

 もともと、魏志「倭人伝」は、九州北部に限定された地域事情を伝えている』のであり、海を渡った東方については述べていない。(「一切」とは言っていないのに、ご注意いただきたい)その点に早期に気づいていれば、纏向派が、この時代まで早呑み込みの「恥をかき続ける」ことはなかったのである。ここまでくれば、あと一息である。せめて、史料解釈の首尾を取り違えたため存在しない史実を虚報し続けてきた、広域大乱」の創造と継承は、この辺で幕引きいただきたいものである。

*東夷管理の見違い
 因みに、寺沢氏は、一時繁栄を極めていた九州北部勢力の退勢を、中国後漢の東方管理の衰退によると決め込んでいるが、これは、勘違いであろう。
 後漢洛陽での政争で東夷支配の箍(たが)が外れたが、もともと、東夷支配は皇帝直轄ではなく、遼東郡など地方守護の専権事項だったのである。

*公孫氏「遼東」支配の興隆
 かくして、皇帝支配の箍が緩んだ遼東に興隆した公孫氏は、むしろ、自立に近い形で支配の手を広げたのである。端的に言うと、地域交易経路の要(かなめ)にあって、地域交易の利を一身に集めようとしたのである。

*「一都會」の幻覚
 そのような境地は、漢書では、「一に都(すべて)を會す」として、一種「成句」となっていたが、紙面に「一都會」の三字が連なっていても、「都會」なる言葉が誕生していたわけではない。時代錯誤には注意いただきたい。
 陳寿は、漢書で「一都會」を目にしていたが、「倭人伝は新語をもてあそぶ場ではない」ので、却下したものと見える。

 それは、黄海を越えた山東半島領有とか、半島中部に帯方郡を新設して、南の韓を強力に支配し、半島東南端「狗邪韓国」海港に至る官道の半島中部「竹嶺」の峠越えの険路を整備させ難所を隘路にとどめて、海を渡った倭の取り込みをも図っていたのである。

 ここで、「峠」は、中国語にない「国字」であり時代錯誤であるが、適当な言い換えがなく「峠」の字義に誤解はないと思うのでこのように書いた。

*公孫氏勢力の再確認
 後漢末期、九州勢力には強い支持があったと見るべきである。但し、公孫氏は、韓、倭の洛陽伺候を許さず、小天子の権勢を振るったのである。
 何しろ、「公孫」氏は、その名の通り周王族の高貴な出自を誇っていたのであり、宦官養子上がりの「曹」など身分違いと見ていたのである。
 ということで、寺沢氏は、ご自身の従属する陣営の物語の筋書きに合うように、一路邁進の後漢衰退を読み込んでいるが、それは勘違いである。つまり、冒頭の九州勢力退勢風説は、根拠に欠けるお仕着せに過ぎない。

〇まとめ
 産経新聞の担当記者としては、貴重なニュースソースから持ち込まれた玉稿を「提灯持ち」するしかないのだろうが、それでも、素人目にも明らかな言い逃れは、じんわり指摘すべきだと思うのである。報道機関としての矜持は、失って欲しくないものである。

 ちなみに、当ブログ記事は、文献考証の本道を行くと見せて、結構『古代浪漫』にのめり込んでいるのだが、無官無職で、一切収益を得ていないので、少々の法螺はご容赦頂きたいのである。

                                以上

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