倭人伝随想

倭人伝に関する随想のまとめ書きです。

2024年5月 8日 (水)

倭人伝随想 2 倭人暦 社日で刻む「春秋農暦」1/3 再掲

                    2018/07/07  2018/11/24 2024/05/08

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

*随想のお断り
 本稿に限らず、それぞれの記事は随想と言うより、断片的な史料から歴史の流れを窺った小説創作の類いですが、本論を筋道立てるためには、そのような語られざる史実が大量に必要です。極力、史料と食い違う想定は避けたが、話の筋が優先されているので、「この挿話は、創作であり、史実と関係はありません」、とでも言うのでしょう。
 と言うことで、飛躍、こじつけは、ご容赦いただきたいのです。

□社日で刻む「春秋農暦」
*「社日」典拠

 「社日」出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
社日(しゃにち)は、雑節の一つで、産土神(生まれた土地の守護神)を祀る日。春と秋にあり、春のものを春社(しゅんしゃ、はるしゃ)、秋のものを秋社(しゅうしゃ、あきしゃ)ともいう。古代中国に由来し、「社」とは土地の守護神、土の神を意味する。春分または秋分に最も近い戊(つちのえ)の日が社日となる(後略)

 社日は、白川静師編纂の辞書「字通」にも記されています。
 社日(しゃじつ) 立春、立秋の後第五の戌の日。〔荊楚歳時記 、社日〕 (後略)
 また、「社」自体に、社日の意があるとされています。

 「荊楚歳時記」宋懍(劉宋) 守屋美都男:訳注 布目潮渢 中村悠一:補訂 東洋文庫 324

*社日随想
 雑節は、二十四節気、以下「節気」、に則っているので、社日は、太陽の運行に従っています。社日が今日まで伝わっているのは、一年を二分する「農暦」の風俗の片鱗が太古以来伝わっているということなのでしょう。

*太陰太陽暦
 月の満ち欠けで暦を知る「太陰暦」は、文字で書いた暦がない時代、月日を知るほぼ唯一の物差しでしたが、「太陰暦」の十二ヵ月が太陽の運行周期と一致していなくて、春分、夏至などの日付が変動するため、何年かに一度、一ヵ月まるごとの閏月を設けます。一般に「太陰暦」と呼ばれても、実際は、太陽の運行と結びついた「太陰太陽暦」であり、これを簡略に「太陰暦」と称しているのです。
 「八十八夜」、「二百十日」雑節が、立春節季に基づいているように、太陽の恵みを受ける稲作は、万事太陽に倣って進めなければならないと知られていたのです。
 一方、「太陰暦」は、海の干満、大潮小潮を知るためにも、広く重用されたのです。

*節気と農事
 節気は、日時計のような太陽観測で得られ、毎年異なる「太陰暦での節気」を基準として農務の日取りを決めて、社日の場で知らせたとみているのです。いや、各戸に文書配布して農暦を通達できたら、元日、年始の折にでも知らせられるでしょうが、当時、文書行政はないし。納付は、一般に文字を読めないので、実務の場で、徹底することが必要だったのです。

                             未完

倭人伝随想 2 倭人暦 社日で刻む「春秋農暦」2/3 再掲

                    2018/07/07  2018/11/24 2024/05/08

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

*社日の決めごと
 村々の指導者は、節気を起点とした段取りを描いた絵を持っていて、そこには、例えば、代掻きの手順は何日後と決めているものです。毎年、通達された太陰暦の月日ごとの手順を決め、手配りを描くのです。
 かくして、稲作指導者は、春秋社日に参集した村々の指導者に田植え、収穫の段取りを徹底し、それが、村の指導者から家々に徹底されるのです。
 つまり、社日の場で、春の農耕の段取り、手配り、ないしは、秋の収穫の段取り、手配りが決まり、それぞれの家は、集団農耕の職能を担ったのです。
 あるいは、集落に掲示板があって、文字はなくとも、木に縄を巻くなどして、月と日を広く知らせていたかも知れません。

 以上、村落で共同作業を行う図式を絵解きしました。

*職能「国家」
 「国家」と書くと物々しいですが、中国古代史では、「国」は、精々一千戸程度の集落であって、文字の描く通り、隔壁で守られているものであり、それが、一つの「家」となっていたという程度でしかありません、現代語の巨大「国家」とは、別次元の概念ですので、よろしく、ご理解頂きたいものです。

 大勢の手配りが必要なのは、田植えと収穫時だけであって、それ以外の時は、それぞれの家で決めて良いから、稲作は年がら年中団体行動というわけでは無いはずです。

 さらには、後世のように、それぞれの家が、農暦と農作の要諦を掌握していれば、自主的に稲作できるでしょうが、それにしても、村落各家に職能を割り振ることによって、村落の一体感を保つ効用が絶大だったのです。

*「春秋農暦」の意義

 かくして、年二回の大行事を定めて農暦画期としましたが、この制を素人なりに「春秋農暦」と呼ぼうとしているのは、学術的な「二倍年暦」という用語が、その由来を語らないからです。

*陳寿の編纂

 三国志編者陳寿は、「蜀漢」成都付近で生まれ育ちましたが、蜀に「春秋農暦」がなかったためか、農暦を知らず、長じて移住した晋都洛陽附近は、ほぼ麦作地帯で稲作風俗がなく、陳寿は、遂に春秋農暦の年二回の社日ごとの加齢を知らなかったので魏略記事の意義が理解できず割愛したようです。あるいは、中原教養人である皇帝以下の読書人に理解されないことを懸念して、割愛したのかも知れません。

*裴松之付注

 陳寿「三国志」に付注した裴松之は、長江下流の建康に退避した南朝「劉宋」の人で、稲作風俗を知っていたので、倭人寿命記事に関する陳寿の見落としに気づきましたが、本文改訂は許されないので、魏略記事を付注し、示唆したのでしょう。

 倭人伝に春秋農暦が明記されていないのは、魏使を務めた帯方郡の士人が「春秋農暦」育ちであったため、当然とみたためであり、魚豢「魏略」も、特記まではできなかったのでしょう。

                             未完

倭人伝随想 2 倭人暦 社日で刻む「春秋農暦」3/3 再掲

                    2018/07/07  2018/11/24 2024/05/08
*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

*殷(商)遺風
 白川静師が殷(商)風俗と見た春秋社日は、私見では、長江下流域(後の呉越)から海岸沿いに伝わったようです。社日は稲作のための農暦であるから、その時期に稲作は商の旧邦、後の斉の地に伝わっていたと見られます。

*商風廃絶

 のちに、旧邦であった商の一部が、西域の富を求めて中原に攻め上って武力国家を創業し、これが世紀を経て成長して天下を把握した殷(天邑商)となったと見ていますが、殷は、乾燥した中原に適さない稲作風俗を失ったようであり、殷を打倒した周は遊牧文化を持っていたので、その制はなかったようです。

 このため、中原に展開された華夏文明は、東方を「夷」とみて、その文化を排したもののように思われますが、あくまで、東都洛陽を発端とした浸透であり、鄙の民俗を根こそぎ書き替えるには至らなかったようです。

 再確認すると、殷(商)「文化」を承継したとされている周は、西戎に属する異文化を擁していたものであり、水田稲作とは、ほぼ無縁であったため、「春秋加齢」を、必ずしも周制としていなかったように見えます。

*二倍年暦談義

 後代、春秋時代の斉、魯を起源とする諸史料を中心に、年暦に殷の遺風「二倍年暦」が偲ばれるということですが、ここでは触れません。 (例えば、「古賀達也の洛中洛外日記」ブログ「二倍年暦」に発表。
http://koganikki.furutasigaku.jp/koganikki/category/the-double-year-calendar/)

*伝来の背景
 一方、斉から倭への伝来は、どうであったかは不明ですが、風俗の大系が伝わったようであり、集落ごとなど大所帯の移住があったと見られます。ただし、移住の実態としては、山東半島東莱から、目前の海中山島、後の馬韓南部への移住があった後、更に、南方の海中山島の地に移住したと考えれば、冒険航海を必要と恣意なので、いずれかの時代に、家財、種苗、蚕の種などを抱えた移住が行われたとみるこどかできるように思われますが、もちろん、これは、憶測であり、特に論証されたものではないのです。

 移住の時期次第ですが、殷後期以降で文字が存在していれば、文書記録を携えて移住したのではないかと思われます。となれば、斉での稲作文化のかなりの部分が忠実に再現されたと思うのです。但し、移住後、商「文化」がどの程度継承されたかは、不明です。

*謝辞
 以上、拙論の手掛かりとして、白川静師の著書を参考にさせて頂いたことに深く感謝するものです。白川静師は、漢字学の分野で比類無い業績を残されていますが、甲骨文字、金文などの古代文字史料を隈無く精査したことによる中国古代、殷周代の民俗、文化に関する思索も、大変貴重なものであり、拙論にその出典を逐一付記すれば、付記が本文を圧すると思われます。

 しかし、拙論は、論考でなく、出典に立脚した、あるいは、啓発された随想であることは明示しているので、一々書名を注記しておりません。

 この際の処置について、無作法をお詫びすると共に、拙論の趣旨を一考頂ければ幸いです。

                             この項完

2024年5月 5日 (日)

新・私の本棚 邪馬台国の会 第381回講演「邪馬台国」論争 三  1/10

 安本 美典            記2019/09/17 追記2020/10/06 2024/05/05
私の見立て ★★★☆☆ 古典的卓見の現状確認

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

〇始めに
 安本氏は、「邪馬壹国はなかった」なる好著で古田武彦氏の「邪馬壹国」主張を鋭く批判しましたが、以降、何も付け加わっていないのは残念です。

〇邪馬台国の会 第381回講演会(2019.7.28)
 当講演会に於いて、氏の「邪馬壹国」、「邪馬臺国」論の現時点での見解は次のように表明されています。
【日本古代史】「邪馬壹(壱)国」か、「邪馬薹(台)国」か論争 (2019.9.4.掲載) 
 同記事は、本来講演録なので、普通なら、文字起こしの誤記等はありえますが、分量からして氏の講演稿であり、サイト公開前に氏が目を通されているはずですから内容に齟齬は無いはずです。(薹はともかくとして)
 そして、ここには、氏の連年不変の持論が書かれているので、一般読者が参照可能な「当記事」に批判を加えても不当では無いと思うものです。
 講演の前半では、氏の持論を支える諸論客の所見が列記されていますが、「証人審査」、「所見批判」が尽くされてないのは、不備と思われます。
 以下、敬称、敬語表現に不行き届きが多いのは、当ブログ記事筆者の怠慢によるものであり、読者にご不快の念を与えることを申し訳なく思いますが、当ブログの芸風でもあり、ご容赦いただきたいものです。

〇三大中国史家 
 まず、中国諸氏の意見です。(三氏の著書は、いずれも拝読しています)

1.汪向栄事例
 冒頭の汪向栄氏は、書籍の内容紹介に「中日関係史の研究者として著名な著者が、中国の史書の性格を的確に捉えたうえで日本人研究者の論考を広く渉猟し、独自の邪馬台国論を展開」とあり、当時の政情不安定な中国における「邪馬台国」論が、多数の中国研究者の学究の集積でなく、氏独自の「弧説」であることを物語っているように見えます。
 特に、同書の骨格の一部が、日本側資料の日本側研究者の論考の渉猟の結果とされていることから見て、親交の深い日本側関係者の定説、俗説の影響を受けていることは、氏の論考の自由な展開を制約したものと見えます。
 そのような限界から、氏の労作『中国人学者の研究 邪馬台国』(風涛社刊、1983年)は、「一中国人学者の研究」と題すべきと考えます。氏の著書が全中国人研究者の研究の集成である」と判定する根拠は見当たらないようです。
 また、引用された氏の見解は、単に中国古代史書の文献解釈の一般論を述べるに過ぎず、本件課題である「邪馬壹国」解明に寄与しないと思います。

2.謝銘仁事例
 次いで示された謝銘仁氏の著『邪馬台国 中国人はこう読む』(立風書房刊、1983年)は、タイトル不適切は別として、古田氏の「倭人伝」行程解釈の不備を言うもので、その際に、「日本流」定説を踏襲したのは皮肉な発言かと思われます。
 また、この発言は、古田氏所説の誤解釈の究明の例としても、本件課題である「邪馬壹国」解明に寄与するものでなく、単なる雑音でしかありません。
 

                                未完

新・私の本棚 邪馬台国の会 第381回講演「邪馬台国」論争 三  2/10

 安本 美典            記2019/09/17 追記2020/10/06 2024/05/05
私の見立て ★★★☆☆ 古典的卓見の現状確認

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

3.張明澄事例
 最後に登場した張明澄氏は、当誌に倭人伝解釈議を延々連載したため、編集長安本美典氏の意向を忖度したと感じられて、証人資格に、重大この上ない疑義があると思われます。
 また、当誌上でしばしば展開された長広舌は、論考ならぬ雑情報や根拠不明の私見を権威めかしたものに過ぎず、論考はごく一般論に過ぎないと感じられます。疑わしければ実読いただきたいのです。それにしても、記事の最後に、時に披瀝される「本音」らしきものは、事態の真相をえぐって貴重な啓示となっているからです。ということで、氏の意見は、本件論証には寄与しないと推定されます。

 事実確認ですが、氏の経歴から、日本統治下の台湾で、少なくとも、「今日の小学校時代まで皇民教育を刷り込まれ、その世界観に染まっている」と推定されるので、「中国人史学者」として信を置くことが困難です。別に非難しているわけではありません。

 台湾が、日本統治時代の終了により「中華民国」に復帰して以来、当地に亡命した「中華民国」は、伝統的な中国文化の継承者として、歴史研究にも注力したと見え、正史二十四史の刊行などの大事業に取り組んだとみているので、氏が、以後どのような教育を受け、研鑽に励んだかは不明です。別に記したと思うのですが、「中華人民共和国」は、中国文化の継承ではなく、文化の「革命」、つまり、古典書の廃棄に邁進したと思われるので、伝統的な歴史教育は、随分疎かになり、むしろ、滅亡が危惧されたものと懸念しています。その意味では、台湾での歴史研究は、天下で唯一の中国文化の拠点が持続されていたものと推定していますが、その点は、滅多に語られないので、以上のように臆測するしかないのです。
 因みに、日本語に堪能な中国人である張氏は、執筆時日本在住であり、これまで、国交のない「本場中国人」とどう意見交換したか不明です。

 余談はさておき、氏が、季刊「邪馬台国」誌で展開した厖大な連載記事には、本件課題の「邪馬壹国」解明に寄与する議論は示されてないと思われます。長期に亘った連載記事の全体を入手してはいないので、全文照合はしていませんが、安本氏がここに引用していない以上、そのような有意義な論議はされていないと見るものです。

〇ひとくくりのスズメたち
 安本氏は、意味ありげに「中国人学者たちの、筆をそろえての批判」と言いますが、僅か三人限りで、それぞれ学識も境遇(住居国/地域は、中国、台湾、日本混在で交流不自由)も、論調も三者三様ですから、童謡の「スズメのがっこう」でもあるまいに「おくち」ならぬ「おふでをそろえて」と書かれると、センセイがムチをふったかなと思うのです。考えすぎでしょうか。

〇「芸風批判」の弊害
 以下でも言及するかも知れませんが、小生の意見では、本記事(掲載当時)で安本氏に求められているのは、本件の課題である「邪馬壹国」の「純粋に論理的解明」であり、少なくとも、「敵手古田氏の芸風批判ではなかった」のです。
 いや、張氏が、当時(氏名の文字使いが似通っているということか )若い世代に猛烈に人気の某タレントの芸風を「世界に通用しない日本だけの人気」と批判し、「古田氏はその同類」と揶揄する、誠に意味不明の「芸風」批判を垂れ流したので、そう言わされるのです。
 以下、古代史に無縁の芸風批判にあきれかえったころ、ようよう史学論めいた論議になるので、冗長、散漫の印象を招いたのは勿体ないと思うのです。

 追記:張明澄氏は、「季刊邪馬台国」連載記事の放埒な筆致を悔悟してか、後年「誤読だらけの邪馬台国」(久保書店 ジアス・ブックス 1992)なる新書版冊子に、連載記事の学術的な部分を抜粋刊行していて、まことに、市場に蔓延している軽薄な俗論を脱した好著ですが、当講演で共々言及されていないのは残念です。(2024/05/11)

                                未完

新・私の本棚 邪馬台国の会 第381回講演「邪馬台国」論争 三  3/10

 安本 美典            記2019/09/17 追記2020/10/06 2024/05/05
私の見立て ★★★☆☆ 古典的卓見の現状確認

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

〇大家の誤字ご託宣
 そのあげく、当分野で定番化している「倭人伝」誤記論議が掲示されています。どうも、ここまで誤記がある以上、「壹」もまた誤記に決まっている』という主張らしいのですが、まことに「うさん臭い」論法で、せっかく御提言いただいても、とてもとても同感できないのです。
 そこに、下記二書の誤記論が表形式で対照して引用されています。
①藤堂明保監修『倭国伝』(『中国の古典17』学習研究社昭和60年10月15日刊)
②森浩一編『日本の古代1 倭人の登場』(杉本憲司、森博達(ひろみち)訳注、中央公論社、昭和60年11月10日刊)

1.藤堂氏事例
 藤堂氏監修本は、「太平御覧」に所引された魏志である「御覧魏志」 を劈頭に「後漢書」、「梁書」、「北史」、「隋書」の「倭伝」記事を参照して、これらがなべて「臺」を採用している以上、原典である「倭人伝」は、現在原本とされている「壹」でなく、「臺」と書いていたと判断するとしている、とのことです。
 藤堂氏は、漢字学における権威者と見かけますが、少なくとも、古代史分野における文献学の権威とは思えず、また、諸史書を羅列したため、個々の史料批判や「御覧魏志」の史料批判が、適切にされていないと見える点で大いに疑問です。

2.森浩一氏事例
 森浩一氏は、古代史分野における考古学の権威であり、従って、文献解釈は専門外と見られます。そのため、史料解釈は、杉本、森博達両氏に全面的に委ねたと思われますが、同書の記事を見る限り、というか、掲表の末項、「景初二年遣使」論で見られるように、杉本、森両氏の資料誤読と思われる難点を放置して「編著」としているので、氏の考古学分野での比類無き権威は、両氏に連座して大いに疑わしいものになったと見られます。
 何しろ、本書の挿絵は、魏皇帝の玉座の前に平伏する倭使の姿が描かれていて、世上、囂々たる非難を浴びているのです。何しろ、景初二年説、景初三年説のいずれを採用するにしろ、倭使が、魏皇帝(景初三年元日逝去の明帝曹叡、或いは、景初三年元日即位の少帝曹芳)に拝謁したとの記事は存在せず、むしろ、拝謁しなかったと見える上に、明帝の勇姿を描くのか、少帝曹芳の頼りない姿を描くのか、どちらの見解を支持するのか、重大な懸案に対して、議論を尽くすことなく醸し出した、いわば未熟な早計を読者に押しつけているのであり、後生に大きな悔いを残したと見えます。

**森博達氏編著考察 **引用開始
 景初は魏の明帝の年号であるが、ここの二年とあるのは景初三年(239)の誤りと考えられる。日本書紀に引く「魏志」と「梁書」諸夷伝の倭の条では景初三年となっている。
 当時の政治情勢を見ると景初二年までの50年間、公孫氏が遼東で勢力をもち、一時は独立して燕王と称していたので、倭国の使者は魏に行けなかった。景初二年正月になって魏は公孫淵を攻撃し、八月に至ってようやく勝利を収め、遼東から楽浪・帯方に至る地域が魏の支配下に帰したのである。景初三年に遼東、楽浪などの五郡が平洲として本格的に魏の地となって、始めて倭国の卑弥呼が直接、魏に使者を派遣できるようになった。このような政治情勢からも、この景初二年が三年の誤りであることは自明のことである。
**引用終わり

 可能性のある漢数字二と三の誤認を「実態」と「決めつける」と、他の項目と比して字数が多いが故に、一段と記事著者の欠点が露呈していると見えます。

*書紀神功紀/梁書事例
 第一の論拠として引用された書紀神功紀の魏志引用は、記事自体に重大な錯誤があることでわかるように、当記事が、もともと、同時代に存在していた魏志(依拠写本)記事の正確な引用であったことは疑わしいと思われます。
 また、冷静に見て、現存書紀写本の「三」が、武家政権下で、天皇制の正当化を図る「禁書」扱いで逼塞していたため、長年の「不安定、不規則、つまびらかでない私的な書写継承」が闇とされていた間に、必然的に伝世劣化し、誤写、改竄された可能性は、何としても否定できないと思われます。いや、当ブログ筆者は、国内史書の伝世については、門外漢ですが、誤写疑惑は当分野の定番なので書いてみただけです。
 また、後世正史の中で、よりによって、編纂過程に疑問が残る「梁書」記事が採用されているのも、うさんくさいと感じられるのです。「なべて」と、どっこいどっこいです。

                                未完

新・私の本棚 邪馬台国の会 第381回講演「邪馬台国」論争 三  4/10

 安本 美典            記2019/09/17 追記2020/10/06 2024/05/05
私の見立て ★★★☆☆ 古典的卓見の現状確認

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

*公孫氏「遼東記事」事例
 個人的な時代考証として、公孫氏の五十年間、公孫氏が後漢朝/魏朝に任じられた遼東郡太守の権威でもって適法に遮ったため倭使が魏に行けなかったのでしょう。別に、不法なことをしていたわけではないのです。

*鴻廬の苦情
 蛮夷の対処は辺境太守の専権事項であり、鴻廬は、むしろ、一々蛮夷を帝都に寄越すなというものであったはずです。道中の対応はもとより、天子の面目にかけて厚遇し、随員に至るまで印綬を下賜し、時に、過分とされる下賜物を持たせる必要があるので、辺境太守が選別すべきです。

*「従郡至倭」論
 そして、魏の官軍による公孫氏攻滅は景初二年八月とは言え、遼東から地理的に遠隔の帯方郡は、それ以前、同年前半に、早々に魏の支配下に入っていたと見る解釈が非常に有力です。倭使が、新任の帯方郡太守の召集に従い、急遽六月に帯方郡に参上し、曹魏明帝の督促に応じて、引き続き洛陽に赴いた可能性が非常に高いと思われます。

*帯方郡道里考証~参考情報
 念のため、帯方郡道里の考証を進めるには、まず、楽浪郡道里の考証が必要です。
 楽浪郡は、漢武帝が、朝鮮を廃したあとに設けた四郡の一つであり、関中の京師長安が道里の起点であったものの、実務として関東の洛陽を起点とした道里が記帳され、以後不変のものとなっていたようです。そして、一度、洛陽から楽浪郡までの公式道里が記帳されたら、以後、楽浪郡治が移動しても、道里は変えないのです。笵曄「後漢書」郡国志(司馬彪)では、「樂浪郡武帝置雒陽東北五千里」と明記されています。
 「郡国志」では、帯方郡は「帯方縣」であり、後漢献帝建安年間に分郡された帯方郡の公式道里は、未定とみえます。ただし、後漢建安年間は、已に国政は宰相曹操のものだったので、遼東郡太守公孫氏は、あえて帯方郡道里を報告しなかった可能性があります。従って、単に、楽浪郡道里と同一としたものと見えます。
 雒陽を発した文書使は、帯方郡太守あての文書を楽浪郡に送達した時点で、帯方郡太守に送達したと見なしたものと思われます。して見ると、「魏志」に郡国志があれば、「帯方郡考献帝置雒陽東北五千里」と書かれていたものと見えます。因みに、後世の「晋書」地理志には、各郡の戸数などが書かれているだけで、郡治の公式道里は書かれていません。
 因みに、劉宋代の正史である沈約(南齊-梁)「宋書」州郡志は、「陳寿」三国志に地理志がなく、劉宋代、笵曄の刑死で継承されていたかどうか不明の「後漢書」は、仮に、公式史書として認知されたとしても、本来「郡国志」を欠いていたので、結局、既に滅亡していた楽浪/帯方両郡相当地域の道里は確定できず、逆に、建康を京師と見立てた会稽郡、建安郡の公式道里は、確実に把握していたので、これを記帳しているのです。
 このあたりの変転は、話せば長いので、ここでは割愛します。
 本項の結論としては、「帯方郡考献帝置雒陽東北五千里」 が、もっとも妥当な推定と見えます。

*公式経路と実務経路
 古来見過ごされていますが、両郡が、魏明帝の指揮下に回収された以上、、帯方郡から中原洛陽に至る公式経路は、目前の山東半島青州に渡海上陸後、河水南岸官道を西行するので、遼東戦乱は、全く無関係と思われます。
 このあたり、まことに合理的な理解が可能であり、倭使が景初三年六月明帝没後の帯方郡に参上した」と見るのは、論外の愚行だと思うのですが、中々、不当な異議に対する正当な応答が支持されないのは、どうしても、景初三年でないと具合が悪い事情があってのことと見えます。

〇戦時の上洛経路
 郡が公孫氏遼東に赴くのは、諸国王に等しい権威を持つ太守の威光によるとしても、郡から洛陽へは遼東を介しない古街道が通じていたと見るのです。史学界大勢が、帯方郡から北上して遼東郡治に着き、しかして洛陽に向けて西南転する、大変遠回りな経路に専ら信を置いているのは、素人として、大変不可解と感じるのです。正史に、そのような行程を示唆する「公式道里」が記載されているのは事実ですが、帝国の実務は、最短経路、最速の到達が最優先であり、古式蒼然たる誤解は、早々に廃棄すべきです。

 以上のように、当時の政治情勢を合理的に解釈すれば、現に史料に書かれている「景初二年」を否定する異議を正当化するに足る合理的/圧倒的な論拠は、全く無いと思われます。不適切な異議は、自動的に却下されます。少なくとも、古代学界で蔓延る景初献使年に関する諸々の非科学的な俗説群は、不適切/不合理として雲散霧消するのではないかと思われます。

〇闇の中の「自明」論
 資料解釈が大きく分かれる事項で、性急に自説を仮定し、無造作に「自明」と書き立てるのは、学問の徒として疑問と思われます。
 「自明」は、よほどの場合に取っておく極上表現であり、「決めゼリフの安売りは自身の大安売り」です。不用意な断言で、恥を千載に残さないようご自愛いただきたいのです。

 いや、ふと冷静に戻ると景初三年が正しいと仮定しても、本題論議に直接/重大な関係はないのですが、一部の頑迷な景初三年派は、ことさら雑駁な論拠を提示して誤写頻発の件数稼ぎとしているようなので、丁寧に反論するものです。いや、ほかにも、景初三年を死守する動機はほかにもあるらしいのですが、ここでは深入りしません。

 当項目以外の誤字談義は、素人がこれまでに調べた限りでも根拠不明とされるべきです。各論は、追試/審査されていないのでしょうか。

 安本氏ほどの高名、高潔な論客が、麗々しく引用するものとは思えないというのが正直な所感なのです。

〇追記:
 安本氏の引用に不審を感じ原著をよく読むと、当方の杉本憲司、森博達両氏への批判は一部当を得ていないので、追記の形で補正を図ります。
 両氏は、「倭人伝」解釈の基本を、中華書局標点本(1982年版)を底本とし、随時校異により訂正する立場に立ち、「對馬国」は前者の見地、「邪馬臺国」、「一支国」は後世史書依拠の見地を採用していて、客観的な物証にかけるものの、一応、議論としての筋を通しています。
 ただし、「東冶」校異が根拠のない推量であるように、校異の筋道はそれぞれ不安定であり、「景初二年」校異は、合理性に欠け、一段と不確かです。

                                未完

新・私の本棚 邪馬台国の会 第381回講演「邪馬台国」論争 三  5/10

 安本 美典            記2019/09/17 追記2020/10/06 2024/05/05
私の見立て ★★★☆☆ 古典的卓見の現状確認

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

〇書誌学談義 追加2020/10/06
 そのあと、忽然と「慶応大学の尾崎康教授」なる方が紹介されますが、素人の調べでは、氏は随分以前に同大学教授職を離れたと思われますから、そのような自己紹介はしていないと思われます。
 というような、つまらないアラ探しはさておき、ここで書誌学の権威たる氏が述べたのは、「古田氏が、紹凞本は三国志現存刊本中最上であると決め込んでいる」との世評を受けたご託宣であり、書誌学上、南宋刊本「紹凞本」は、先行した「紹興本」への後追いの民間刊刻であり、由緒正しい官刻である先行紹興本が、紹凞本に優ると書誌学の見地から、予断を持った上で、以下論じています。

 書誌学では、そのように解されるのが順当でしょうが、個人的には、南宋が多額国費を投じた、赫々たる官刻正史(紹興本)に重複する短期後追いの刊刻大事業(紹凞本)を、特段の意義無しに成したと思えないのです。

 氏は、当然書誌学の見地から、史記に始まる正史宋元代刊本について、刊本の質を論じていて、当然、その一環として陳寿「三国志」に精緻な考察を加えているものであり、本来、魏志第三十巻の巻末に収録された「小伝」である「倭人伝」の当否は、些末事、研究対象外でしたが、何らかの事情で、その点を特に精査することを求められ、ことさらに、このような書誌学的「紹凞本」評価をものしたようです。

〇評価の実態~隔絶した善本継承の確認
 言うまでもないのですが、尾崎氏は、書かれている内容を評価したのであり、書誌学的見地から「紹凞本」を毀損して「紹興本」を絶賛しているわけではないのです。所詮、両刊本共に、南宋代の刊刻時以来数世紀に亘る版木に対する経年変化のために、部分補修あるいは一部更新などを歴て、現代に継承されていて、大局的には、「三国志」は、正史の中に在って、異例と言うべき高度な継承を維持しているのであり、むしろ、「個別の資料に於いて、微視的に解析すると、書物に個体差がある」事が述べられているように見えます。
 そして、肝心なことですが、氏の暗黙の知識としては、『陳寿「三国志」は、南朝劉宋期の裵松之による付注の際の原本校勘、北宋による初回刊刻、つまり、版木作りの際の校勘、さらには、南宋による復元刊刻の際の校勘というように、その時点の帝室原本と高官や地方愛書家などの所蔵する良質写本を照合して校勘する大事業が展開されていて、二千年近い期間を通じて、異本の発生が、他の正史諸史と比較して、隔絶して抑制されていた』というものと思われます。
 さのため、陳寿「三国志」には、世の正史に付きものの「異本」、「異稿」が、事実上存在しないので諸本を照合して原文を考察する「愉しみ」が得られないという嘆きが書かれますが、そのような初歩的校勘は、とうの昔に終わっているという事です。大魚を求めるべき漁場は、別の海に求めるべきです。

〇誤記、誤写の事実無根確認
 ということで、極めて誤写されやすいと「憶測」されている『「壹」が「臺」と文字化けしている』資料は、一切露呈していないのです。

〇動機不順の懸念
 世の中には、自説の裏付けにならない「結果」しか出せない研究は、無意味な研究と断じる方がいますが、要は、『所望の「結果」が出せない研究に金は出さん』という迫力が感じられて、薄ら寒いものがあります。
 あるいは、「結果」が得られなければ、全国各地の発掘活動が衰弱し、開発による遺跡破壊が進むと警鐘を鳴らす向きもありますが、筋違いと見るものです。安本美典氏が、宗教論争と危惧する形勢がほの見えています。

 因みに、以上の尾崎氏の意見は、季刊「邪馬台国」誌連載記事の総括ですが、尾崎氏は、張明澄氏と異なり、学究の士ですので、支援者に忖度することなく、その金言は、信ずるに足るとみるものです。

***追加終了
                                未完

新・私の本棚 邪馬台国の会 第381回講演「邪馬台国」論争 三  6/10

 安本 美典            記2019/09/17 追記2020/10/06 2024/05/05
私の見立て ★★★☆☆ 古典的卓見の現状確認

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

〇井上光貞事例
 続いて、井上光貞氏の席上談話が延々と引用されています。
**引用開始**
 東京大学の日本史家、井上光貞氏は、『論争邪馬台国』(1980年、平凡社刊)の中で、松本清張氏の問いに答え、次のように述べておられる。
「(邪馬壱国が本当であるというのは)、ぼくは結論的には、古田さんの思い過しであるという結論です。その理由は、古田さんの論拠の根底に原文主義がある、原文通りに読めというんです。ところが問題は、原文とは何ぞやということであります。原文というのは、『魏志』は三世紀に書かれたものですが、そのときの原文、これはないのであります。だから原文原文といっているのは非常に古い版本ということである。しかし古い版本は原文ではないのであります。校訂ということを学者はやるわけであります。おそらく古文をなさる方もいらっしゃるだろうと思いますが、それはいろんな写本やなんかから、元のそれこそ原物はどうであったかということを考えるために、いろんな本を校合して、元を当てていくわけです。これが原文に忠実なのでありまして、たまたまあった版本だの、後の写本に忠実であるということは、原文に忠実ということとは違うんだということですね。

これは非常に基本的なことなのであります。ところが古田さんはそこのところが何かちょっと違っているんじゃないか。これは学問の態度の問題であります。これだけいえばもう私はほとんど何にもいう必要はないのであります。」

「たとえば『三国志』は三世紀の末頃に出来て……これ、末のいつであるかということは問題だけども、まあ三世紀の末だろうと思われる。一方、いちばん古い版本は、……南宋の本で十二世紀なんですね。その間、本としては九世紀の隔(へだ)たりを持ってる。本としてはその間に今日のところ何もないわけです。写本はもとよりのこと、版本もそれだけの距離を持ってるわけです。ところがその間にいくつも逸文というものがある。それを途中で読んだ人の記録というのがあるわけです。

そういう意味からいって、途中で読んだ人の記録を見ると、やはり大きいのは『後漢書』だと思います。『後漢書』も、もちろん原文が残っているわけではないのですけれども、……『後漢書』のあの記事は明らかに『三国志』を見ているわけですけれども、そこにはちゃんと『邪馬台国』『台』と書いている。『後漢書』が出来たのは五世紀でありますが、それが『台』と書いているとすると、『後漢書』の編者のみた『三国志』の『魏志』の『倭人伝』には『台』と書いてあったととるのがすなおな見方です。」
*引用終わり*

〇古田氏史料観の当否
 冒頭で、井上氏は、古田氏の「邪馬壹国」論に秘められた根底は、要するに単純素朴な「原文」主義に過ぎない』とした上で、『陳寿「三国志」の三世紀原文は存在しないから、遡って原文を確立した上で議論すべき』と高度な一般論を持ち出します。

 大局的にはおっしゃる通りですが、素人の率直な意見としては、大変疎漏な見解と見えます。ご意見は理性的ですが、『佚文や類書、そして、不遇時代の続いた笵曄「後漢書」は、当然、原本そのままではない』という公平な考察が疎かになっていると思います。
 更に言うなら、正史たる陳寿「三国志」(裴注本)は、歴代皇帝の至宝として、写本継承されるときも、多数の高位の人材が投入され、高度で組織的な管理が行われて史料テキストの劣化が抑制されているのに対して、提示されている諸史料は、所詮、人材、資材、所要期間に制約のある「業務」で処理されているので、格段に、誤記、誤写の危険性が高まっているものです。くり返して念押しすると、笵曄「後漢書」は、反逆者として斬首された笵曄の遺品から、どのように名誉回復され、有力「後漢書」として、南朝遺物から北朝に回収され、遂に、章懐太子によって、正史として称揚されたか、其の経過の大半は、不明瞭なのですから、陳寿「三国志」鉄壁の信頼性と比すべきもないのです。

 井上氏といえども「全知全能」でない以上、専門外の分野の論議には介入を控え、専門家に委ねるべきと思います。案ずるに、国内史学界では、文献史学と遺跡/遺物考古学の二大分野の間には、分厚いあぜ道があって、互いに相手の領域に踏み込まないという「仁義」が定着していると見られるので、井上氏が、御自ら、中国史書の解釈について、蘊蓄を傾けたのには、正直驚愕したものです。いや、著書執筆の際には、中国史書解釈について「専門家」にしかるべく諮問し、然してその答申に随うものでしょうが、講演会に続く座談会では、ご自身の見識に頼らざるを得ないので、若干覚束ない発言になっても、しかたないと見えるのですが、このように、第三者に引用されてみると、氏の権威に陰が差してしまうのではないかと危惧するのです。
 要するに、この部分は、筆者の念入りの推敲と専門家による編集を経た出版物である著書の引用でなく、散漫な席上談話の書き起こしなので、このような重大な論考に引き合いに出すのは、大変不都合なものと考えます。

 そこ(笵曄「後漢書」)にはちゃんと『邪馬台国』『台』と書いている。『後漢書』が(…)『台』と書いているとすると、『後漢書』の編者(笵曄)のみた(…)『倭人伝』には『台』と書いてあったととるのがすなおな見方です。」 と井上光貞氏が、素朴な、むしろ、子供じみた/素朴な、非学術的な「感想」を述べたところを、安本氏は、手っ取り早い論拠として持ちだしていて、「まことに失礼」と思うのですが、どんなものでしょうか。

                                未完

新・私の本棚 邪馬台国の会 第381回講演「邪馬台国」論争 三  7/10

 安本 美典            記2019/09/17 追記2020/10/06
私の見立て ★★★☆☆ 古典的卓見の現状確認

〇日本史権威の「素人考え」
 案ずるに、日本史の権威である井上光貞氏は国内史書に対する態度として、「史書には必ず複数の有力な異本があるから、特定の現存版本に決め込まず、諸本を照合して本来の形態を見出すべきである」と教え諭されているように見えます。
 しかし、国内史書ならぬ、中国正史である「三国志」は、陳寿の没後、西晋朝の命で、遺された確定稿を書き写して官撰史書として上申し、西晋帝室書庫に収納して以来、各王朝が代々国宝に準ずる扱いで厳格管理されたこともあり、二千年近い期間を歴た今日、残存する諸刊本に異本が極めて少ないと思うのです。

 恐らく、どこかの「三国志」異本に「邪馬臺国」とあるだろうから、はなから「邪馬壹国」に決め込まず、どちらが正しいか決めなさい』と言う大人の教えでしょうが、氏の予断に反して「邪馬臺国」と書く「三国志」異本は、一切存在しないので、諸々の異本を糾合して照合校勘しても、結論は変わらないと思います。この程度の素人考えはとうにお見通しで、言い間違えたのでしょうか。

〇佚文(逸文)考
 ここで、俗耳に浸透している「佚文」が導入されますが、ここに示された井上光貞氏の慧眼は深遠なものがあります。
 後世編纂された「類書」である太平御覧、翰苑などの「所引」魏志は、当時、今日言う厳密な引用を意図したものでなく、不確かな佚文に依拠する不確かなものとの明解な意見と思われます。氏として、格別の意義を表明したものであり、卒読せず、深甚な教訓をかみしめるべきでしょう。

 結局、三国志現行刊本に揃って書かれている「邪馬壹国」を「邪馬臺国」の誤写とする論拠は提示できなかったと見えます。
 井上光貞氏は、そのような瑣末の論証を史学の本分と見ていなかったと思えるので、引用の談話を不首尾と解するのは、随分失礼かと思います。

〇范曄考批判
 井上光貞氏の笵曄「後漢書」論に考察を加えてみると、氏は、南朝劉宋の范曄が、高官在任中に「三国志」善本を実見して忠実に書き取ったとは想定してないようです。高官特権で帝室書庫に入り浸りになっても、書庫に山積の史書経書の中で、ことさら、皇帝蔵書の「三国志」の書写に没頭したと思えないということのようです。
 所詮、代理人に史書佚文を求めさせたと思われます。あるいは、後年、配所の閑職にあって、任地に持ち込んだ山なす蔵書から「佚文」を作成させたかと見ます。なお、范曄は「佚文」の不確かさは承知していたはずです。
 当時、笵曄が、身命を賭して編纂に没頭した「後漢書」編纂の資料と言えば、地理的に後漢全土、時間的に二世紀にのぼる厖大なもので在野資料も多く、魏朝事象「邪馬臺国」に関し、格別の綿密な原文考証を行ったという証拠は無いと思います。
 井上光貞氏の高度な識見は、「大局に酔って具体を忘れるな」との戒めと信じるものです。

〇古田氏の信条の確認
 因みに、素人考えでは、古田氏の主張は、「現に目前にある史料、便宜上原文というものを、まずは基本として読むべきだ」という、まことに至当な主張であり、はなから立証されていない誤記、誤写を書き足した、でっち上げ史料をもとに議論すべきではない」という当然、至極な意見のように思えます。

                                未完

より以前の記事一覧

お気に入ったらブログランキングに投票してください


2024年5月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31  

カテゴリー

無料ブログはココログ