最初の「倭人伝」

倭人伝に関する随想のまとめ書きです。

2025年11月14日 (金)

私の意見 「卑弥呼王墓」に「径」を問う 1/2 2025

  字書参照、用例検索  2021/08/19 補記 2022/11/08 補追2025/11/14

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

◯はじめに
 本稿は、初稿に補筆を加えたため、論旨が前後して書かれているのですが、初稿と追加部を明らかにしているため、そのように交錯して読みにくくなっている点をお詫びします。従来は、初稿を維持して、別記事を立てる構想だったのですが、近来、時系列を越えて、過去ロングが参照されている例が散見されるので、乱用、盗用を防ぐために、旧ログの補充、維持に努めているものです。とは言え、勝手に部分引用するChatGPTの手にかかると、撤回ないしは、参考に降格している記事が、一人歩きするのは、避けられないので、「変節」の誹りを提言するために、改訂を加えて再公開しているものです。

〇倭人伝の道草~石橋を叩いて渡る
 まず、倭人伝の「卑彌呼以死,大作冢,徑百餘步」の「徑」は「径」と、「步」は「歩」と同じ文字です。
 世上、ここで、『「冢」は円墓、「径百余歩」の「径」は、直径、差し渡し』との解釈が「当然」となっているようですが、(中国)古典書の解釈では、日本人の「当然」は、陳寿の「当然」とはしばしば異なるので、兎角「思い込み」に繋がりやすく、もっとも危険です。以下、概数表記は略します。
 当方は、東夷の素人であると自覚しているので、自身の先入観に裏付けを求めたのが、以下の「道草」のきっかけです。

〇用例検索の細径(ほそみち)
*漢字字書の意見
 まずは、権威のある漢字辞典で確認すると、「径」は、専ら「みち」、但し、「道」、「路」に示される街道や大通りでなく「こみち」です。時に、わざわざ「小径」と書きますが、「径」は、元から、寸足らず不定形の細道です。

 ここで語義探索を終われば、「径百余歩」は、「冢」の「こみち」の行程が百歩となります。つまり、女王の円墳への参道が、百歩(百五十㍍)となります。榊原英夫氏の著書「邪馬台国への径」の「径」は、氏の深意かと想ったものです。
 それは、早計でした。漢字字書には限界があって、時に(大きく)取りこぼすのです。

*古典書総検索
 と言うことで、念入りに「中国哲学書電子化計劃」の古典書籍検索で、以下の用例観を感じ取りました。単漢字検索で、多数の「ヒット」がありますが、それぞれ、段落全体が表示されるので、文脈、前後関係から意味を読み取れば、勘違い、早とちりは発生しにくいのです。

*「径」の二義
 総括すると、径(徑)には、大別して二つの意味が見られます。
 一に、「径」、つまり、半人前の小道です。間道、抜け道の意です。
 二に、幾何学的な「径」(けい)です。
  壱:身辺小物は、度量衡「尺度」「寸」で原則実測します。
  弐:極端な大物は、日、月ですが、当然、概念であって実測ではありません。
 流し見する限りでは、円「径」を「歩」で書いた例は見られません。愚考するに、歩(ぶ)で測量するような野外の大物は、「円」に見立てないもののようにも思えます。
 つまり、「歩」は、土地制度「検地」の単位であって、「二」の壱、弐に非該当です。史官陳寿は、原則として先例無き用語は排します。従って、「径百余歩」の語義を確定できません。

*専門用語は専門書に訊く~九章算術
 以上の考察で、「九章算術」なる算術教科書は、用例検索から漏れたようです。「専門用語は、まずは専門辞書に訊く」鉄則が、古代文献でも通用するようです。
 手早く言うと、耕作地の測量から面積を計算する「圓田」例題では、径、差し渡しから面積を計算します。当時、「円周率」は三です。農地測量で面積から課税穀物量を計算する際、円周率は三で十分とされたのです。何しろ、全国全農作地で実施することから、そこそこの精度で、迅速に測量、記帳することが必要であり、全て概数計算するので、有効数字は、一桁足らずがむしろ好都合であり、「円周率」は、三で十分だったのです。言うまでもないのですが、耕作地は、ほぼ全て「方田」であり、例外的な「圓田」は、重要ではないのです。また、円形の耕作地は、牛の引く牛犂で円形面積そ全部耕作することは不可能でしたから、その見地からも「円周率」は、三で十分だったのです。
 当時は、算木操作で処理できない掛け算や割り算、分数計算は、高等算術であり、実務上、不可能に近い大仕事です。また、小数は、はした部分を省略すれば良いので、これまた、実務上無用なのです。
 それはさておき、古典書の用例で、「径」「歩」用例が見えないのは、「歩」で表す戸別農地面積は、古典書で議論されないと言うだけです。

 個別耕作地は、田地造成の際の周辺事情、特に、影やら窪地の取り合わせで円形になっていることもありますが、行政で造成した区画には、円形は一切ないのです。このあたりに、用例の偏りの由来が感じ取れます。

 上級(土木)で墳丘の底部、頂部径で盛土量を計算する例題と解答が示されています。

 以上で、「冢径百余歩」は、円形の「冢」の径(直径)を示したものと見て良いようです。

*新規展開追記 2025/11/14
 近来、「纏向遺跡」に関する論義が盛んであり、本稿で述べた文書解析の流れが疎外されているようなので、再検討を加えたものです。

*「径百歩の真相」 2024/04/05
 夢想でなく、時代考証をもとに想定すると、「方百歩」は、一辺一歩(ぶ)(1.5㍍)の面積単位「方歩」によって計量したものであり、現代風に言えば、「百平方歩」と言うべきものと考えますが、漢代以来士人の基礎教養とされていた「九章算術」では、字順を整えて、長さの単位である「歩」と、専門外の分野での著作で混同/混用されることを避けたものと見えます。
 結論を言うと、用地を示す「方百歩」は、面積単位の「歩」をもとにすると、一辺十歩(15㍍)の方形と見え、その内部に、封土として「盛土」を設けることから、「冢」の墳丘/山自体は、直径15㍍を下回る形状が想定されます。要するに、時代相応の想定では、卑弥呼は「大家」(地方首長)といえども、墓制は、大層な規模ではなかったと想定されるのです。
 後年、牛馬、鉄鋼製工具、文字教養、計算技術などが順次整う時代になって、石積みを伴う大規模な墳丘墓が造成される時代が来たと想定されますが、それは、「冢」でなく「大塚」とでも呼ばれたものと推定されます。
 石積は、「盛土」の崩壊を防ぐために必要となるものであり、墓守が備わっている旧来の「封土」では、必要でないのです。
 ちなみに、「倭人伝」記事には、「徇葬百人」と書かれていて、不時の造墓でも、官奴百人程度が、公務を離れて従事すれば、施工できたとされています。
 従来の祖先「墓地」に追加する程度であれば、整地もさほど必要でなく、用土も、近郊から取り寄せるものと思われます。「徇葬百人」が示唆するものは、少し大がかりと云うだけです。
                                未完

私の意見 「卑弥呼王墓」に「径」を問う 2/2 2025

 幾何学的考証、「方円論」         2021/08/19 補追 2022/11/08 2025/11/14

〇幾何学的考証
 以下、「冢径百余歩」が幾何学的「径」と仮定して、考証を進めます。

*径は円形限定
 「径」は、幾何学的に円形限定です。学術用語定義ですから、曖昧さも曲筆もありません。
 幾何学図形の形状再現は、普通は困難ですが、円形は、小学生にも可能な明解さです。五十歩長の縄一条と棒二本で、ほぼ完璧な「径百歩」円を描き、周上に杭打ち縄張りして正確な円形が実現できます。
 対して、俗説の「前方後円」複合形状は、「径」で再現可能という必須要件に欠け、明らかに「円」でないのです。
 たしか、「方円」は、囲碁で方形の盤に丸石を打つのを言うと記憶しています。

*「前方後円」談義~余談
 俗説が引き出している「前方後円」は、倭人伝どころか、中国古典書にない近代造語のようなので、本件考察には、全く無用と感じられます。
 古典書用例から推定すると、「前方後円」は、かまぼこの底面を手前にして立てたような形状と見え、位牌などで、前方、つまり手前は、方形の碑面で、後円、つまり奧は、円柱形で位牌を安定させる構造とも見えます。この場合、前方部は、参拝者の目に触れるので、高貴、高価な材料として、銘文を刻むとしても、後円部は、人目に触れにくいので、それほど高貴でないものにすることができます。
 と言うことで、目下審議中の墳丘墓の形状とは無関係なので、場違いであり、用例とならないのです。

 復習すると、「前方後円」なる熟語は、同時代には存在せず、恐らく、近現代造語であり、いかにも非幾何学用語であり、学術的に不適切なので、いずれ、廃語に処すのが至当と考えます。少なくとも、中国古代史書論義には、無用のものです。
 丁寧に言うと、「前方」部は、方形でなく台形で、通称として俗に過ぎます。

 いずれにしろ、「前方後円」形状に「径」を見る、後代東夷の解釈は不当であり、これを三国志解釈に持ち込むのは、場違いで、不当です。

*矩形用地の表現方法
 かかる墳丘墓の規模を、実務的に形容するには、まずは、用地の縦横を明示する必要があります。そうすれば、用地の占める「面積」が具体化し、造成時には、土木工事に通暁した実務担当者により、用地相応の作図がされ、古典的手法で、円部の盛り土形状と方部の形状が算定でき、これによって盛り土の所要量が算定でき、最終的に、全体の工事規模、所要労力・期間が算定できる、まことに有意義な形容です。

 「九章算術」は、矩形地の例題では、幅が「廣」、奥行きが「従」で、面積は「廣」掛ける「従」なる計算公式を残しています。
 「径百歩」では、用地の面積が不明です。「廣」を円径とした盛り土量は計算・推定できますが、「従」から「廣」を引く拡張部が形状不明では、何もわからず、結論として、「冢徑百餘步」は、ものの役に立ちません。
 結論として、円形土地を径で表すのが、定例・定式であり、これに対して、台形土地を足した土地は、径で表せないので定式を外れた無法な記述と断じられます。

*「冢」~埋葬、封土の伝統 2025/11/14追記多々
 「倭人伝」記事から察するに、卑弥呼の冢は、封土、土饅頭なので、当然、円形であり、通説に見える「方形」部分は「虚構」、「蛇足」と見ざるを得ません。丁寧に言うと、「蛇に足を書き足すと、蛇ではなくなる」という「寓話」です。
 また、遺骸を地下に埋葬するのは、中国の伝統に従うものであり、「親魏倭王」ならずとも、「冢」の墓制を遵守していたとみるべきです。それに対して、地上に墳丘を設け、その内部に遺骸を収めるのは、恐らく、高い山に天下りしたという神話に基づくものであり、初期の段階では、山裾に埋葬していたものが、平地に山を造成して、そこに、遺骸を収める葬礼が、発展的に形成されたものと見えます。
 これは、中国大陸由来としても、中原の由来でなく、春秋戦国の「楚」、「呉」「越」に代表される南方の儀礼とも見えます。
 即物的になりますが、長江(揚子江)中下流は、降水量が豊富な上に、上中流の増水が時に合算されて下流を満たすため、台地を、十㍍ほどにも嵩上げする土木工事が古来行われているほどですから、墳墓は、平地を掘り下げて、地下水を誘うのではなく、山の傾斜面に埋めることが自然な流れと見えます。
 要するに、中原の延長である「朝鮮」でなく、南方から北上して、「東夷」とされる齊、魯に波及し、海中山島と見える「韓」に渉ったあげく、南の「大海」、「倭」に伝えられたのが、墳丘墓の墓制と見えるのですが、いかがでしょうか。
 要するに、そのような南方系の墓制は、なぜか、筑紫に定着せず、はるか東方の纏向に着地/開花したように見えます。
 要するに、中原から「朝鮮」の旧地である楽浪郡を歴て、海南の筑紫に伝わった「冢」の墓制は、そのような南方/東夷の墓制と親和せず、後世まで分離されていたと見えます。このあたりは、白川勝氏の厖大な甲骨文字文書考察に基づくものであり、大いに尊重すべきものと思う次第です。

 史料記事に無い「実際」を読むのは、不法な史料無視であり、かかる思いつき、憶測依存は、端から論考の要件に欠け、早々に却下されるべきです。箸墓墳丘墓が卑弥呼王墓との通説には、早々の退席をお勧めします。

*是正無き錯誤の疑い
 以上の素人考えの議論は、特に、超絶技巧を要しない考察なので、既に、纏向関係者には衆知と推察しますが、箸墓卑弥呼王墓説が、高々と掲げられているために、公開を憚っているものと推察します。

*名誉ある転進の勧め
 聞くところでは、同陣営は、内々に「箸墓」卑弥呼王墓比定を断念し、後継壹與王墓比定に転進しているようです。壹與葬礼は記録がなく安全です。

                                以上

2025年11月12日 (水)

新・私の本棚 塩田 泰弘 季刊 「邪馬台国」第131号「魏志が辿った…」 2/5 2025

「魏志が辿った邪馬台国への径と国々」 2016/12刊行
私の見立て 星四つ ★★★★☆ 不毛の道里論の適確な回顧 2020/04/08 改訂
   対象部分 星一つ ★☆☆☆☆ 無責任な投馬国道里 2020/09/03 2021/12/11,19 2022/11/20 2023/06/12 2025/01/26 09/17 11/12

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*狗邪韓国まで七千里
 素人考えでは、途方もない前世紀の怪物が史学界を徘徊しています。
 郡から狗邪韓国までの「街道」、つまり、中国制度で定めた連絡路が真一文字に東南に通じているのに、大きく迂回して、官制にない、危険この上ない海上を行く想定は、あり得ない、一種の怪談です。

 郡の郵便/文書便は、普段は日程計算できる徒歩行、ないしは騎馬行で、時に緊急便として騎馬疾駆するものです。いずれも、中継駅で人馬交代する駅伝を採用して日程厳守です。また、難船すれば、船ごと海のモズクならぬ藻屑になる、とにかく、当てにならない船便を起用するわけがありません。はなから、無法な論外なので、「倭人伝」に、いきなり出て来ることはありえないのです。

 あえて不法な海上経路を仮想するとしても、漕ぎ手も水先案内も屡々交代しますが、郡から僻遠の馬韓南部の物資の流通は希薄なので、そのような体制は、到底維持できないのです。加えて、南岸多島海は難破必至で、とても生きて完漕できないのです。
 韓伝も倭人伝も、そうした難関に言及してないのは「海上経路など無かった」からです。
 いや、このいわゆる、僞「水行」行程は、妖怪が不吉なら見事な画餅です。更に言うと、南下から東進に転ずる展開点が不明では、道中案内として大変な不備です。

*最初の暗転
 氏は、そのような「あり得ない」僞「水行七千里」を無批判に採用します。
 異論に挙げた古田、中島両氏の論は、「眼をつむっても歩ける」大地の「道」を通行するので、優に百年の実績があり、宿駅整備、所要日数も「郡規」になっているはずです。塩田氏は、「石橋を叩いて渡る」の故事を失念して、石橋どころか、揺らぎ続ける木船に命を預けるというのです。

 氏も引用する帯方郡下の弁辰産鉄は、所定の運送手段、最短経路で両郡に運ばれ、日限のある輸送は、不安定な海上「迂回」路でないのは明白でしょう。もちろん、当時の漕ぎ船は、重量物搬送に不向きなので、産鉄海上輸送は、実際上不可能ということになります。もちろん、郡は官道を設けて、途上の諸韓国に保全を厳命しているので、これを忌避して、海上輸送するなど、論外の極みです。

 郡~狗邪陸路ですが、郡治から概して東、南に下り、途中、竹嶺(チュンニョン)の険で小白山地を越える経路は、つづら折れを交えていますが、地図上の直線と大差なく里数は概数に紛れるはずです。(峠道と言いたいところですが、「峠」は、中国語にない「国字」なので、不適切なのです)

*「水行」の意義
 古代史史料の絶大な権威とされている渡邉義浩氏が断定されているように、史書の道里行程記事における「水行」は、太古の「禹本紀」に書かれている「水行」が、唯一の用例であり、しかも、「禹后」が河川沿いの移動手段としたのではなく、河水対岸の陸道に渡船で渡る(渉る)というものです。
 「倭人伝」で創唱された「水行」、すなわち、大河ならぬ大海の渡船行は、それぞれ千里の渡しですが、「千余里」の実測は無意味です。一日がかりの長丁場と示したに過ぎず、千里に距離としての意義はないので、現代人が地図上の「距離」なり想定航路長と対照した数字に意味はなく、郡~狗邪間の街道と同列に論ずべきではありません。
 官制では、街道十里に一亭を設け、宿舎と継ぎ馬を用意する規定であり、渡し舟行程に、宿場を設けるなど到底不可能なのは自明です。

 そもそも、三世紀に存在しなかった現代地図を持ち出した時点で、「反則退場」、再入場禁止です。

*里程論に提言
 あえて、郡~狗邪行程の陸上道里を元に「倭人伝」「里」を推定すれば、八十㍍程度で、氏の言う九十㍍と大差ないと言うか、一致しているのですが、郡が「実際に」、つまり、後漢~魏の機関として、そのような「普通里」に反する里制を敷いたとの根拠は、一切ないのです。

 素人考えでは、陳寿が、魏史編纂で、恐らく公孫氏時代に提出された原資料の「万二千里」に妥協して特に宣言した「倭人伝」「里」と見えるのです。いくら不合理でも、既に皇帝の閲覧/印璽を得た公文書は、以後一切改訂できないのです。そうでもなければ、正史としてのけじめがつかないのです。
 世間には、「史官」の使命を誤解している方がありますが、「史官」は、公文書に記載された「史実」を記録し、継承するのが、渾身の使命であり、時点の政権の意を忖度することは、方便程度に過ぎないのです。ここで大事なのは、「史実」は、公文書に記載された記録であり、それが、「事実」であるかどうかは別儀なのです。
 氏が何気なく書いた道里論を考察するには、以上のような厖大な論議をたて、更に論議を重ねる必要があります。追試のない無批判な追従は、不用意で不信を招くだけです。ちなみに、当方は、「倭人伝」戸数里数談義に挑んだものの、臆測と風聞に立脚した諸兄姉の諸論の検証に、多大な消耗を重ねたものです。

 諸兄姉が各国比定を論じる場合は、郡~狗邪行程に両論ありと流して、取っつきに『倭人伝里は、百㍍より短い八十㍍程度と見られるので、以下、この「倭里」を規準とします。』との臨時定義」が賢明でしょう。「臨時定義」 は、ある意味「地域定義」(local)であり、定義位置から、倭人伝結尾までに限定して有効です。 あるいは、提示された「倭人」世界に専用です。

 本論以前に、中途半端な口説で躓き石をまかないことです。

〇端的でない路程
 氏は、続いて、「2 帯方郡から狗邪韓国まで」と題して、行程を論じますが、「倭人伝」に関して、解釈に異論が絶えない、そして、異論が克服されていない岩波文庫の現代語訳をもとに解釈して、先に参照した奥野氏の解読などの有力な異論を参照しないのは不審です。以下、同様です。

 当記事と違って、掲載誌には、たっぷり紙数があるので、依拠資料は丁寧に明示すべきでしょう。何しろ、懸賞選外論文の隙間だらけの紙数を隙間そのままの膨満状態で掲載した履歴が残っているのですから、季刊「邪馬台国」誌は、成行で増ページして、その分を読者に負担させるという履歴から見て、掲載文に対して発行時の紙数から課せられた容量制限はないと見ているのです。

                                未完

2025年11月11日 (火)

新・私の本棚 晋書倭人伝談義 もう一つの倭人伝 1/2 2025

                             2020/03/16 2025/11/11
*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

〇はじめに
 当ブログの守備範囲は「倭人伝」談義であり、一般的に、これは「魏志倭人伝」の通称ですが、正史の中でも、晋書は「倭人伝」を備えているので、ここでは、「もう一つの倭人伝」談義を試みています。

▢晋書紹介
 晋書は、中国正史二十四史において、「史記」、「両漢書」(漢書、後漢書を合わせて、漢朝一代の正史と見た呼び方)の「三史」の後に位置し、三国志に続いていて重要な地位を占めています。対象は、西晋(265~316)、東晋(317~420)を通じた司馬晋の百五十五年間であり、一部、魏代に政権を掌握した司馬氏の功績も記述されています。

*編纂経緯

 晋書は、南朝滅亡後、隋による統一を継いだ唐において、王朝興隆の基礎を確立した太宗の治世下、重臣房玄齢によって編纂されました。房玄齢は、太祖李淵の次子李世民に仕え、太子李建成を廃して二代皇帝となるのに知謀をもって大いに貢献したことから、太宗期に重用されています。
 当時、房玄齢は、尚書左僕射(尚書省長官、筆頭宰相)・監修国史、つまり、最高位の重臣であって、合わせて史書編纂の最高権威とされ、編者とされていないものの、当時編纂のできていなかった「北斉書」・「周書」・「梁書」・「陳書」・「隋書」を総括して主宰し編纂ましたが、特記して、褚遂良らと共に「晋書」を撰したと記名されていますから、唐朝の国威を示す国家事業である諸国史編纂にあたり、特に晋書を重視したと思われます。

 因みに、南朝の劉宋、斉の史書である「宋書」、「南斉書」は南朝梁代の編纂史書が正史とされています。また、北朝魏の正史であって、時に三国志の魏書と混同される「魏書」は、混同を防ぐため「後魏書」、さらには、「魏収後魏書」と呼ばれますが、北朝齊(北齊)の魏収の編纂した「正史」とされています。

 唐代以降、正史の編纂は、多数史官の共同編纂となり、陳寿「三国志」、笵曄「後漢書」が、個人著作、私撰とみなされたのとは時代を画しています。
 特に、太宗が指揮した「隋書」、「晋書」は、官撰と言っても、勅撰に近く、正史として国庫に納められた後、写本は、厳重に管理されていて、蕃夷の入手は、長く禁じられていたと見えます。

*笵曄「後漢書」考 2025/11/11
 笵曄「後漢書」は、劉宋代に、編纂していた笵曄を大逆罪に連座したとして斬首し、未完成の「後漢書」本紀、列伝を接収したものの、共同編纂者の担当した「志」は地に埋もれて喪われたので、後年、西晋司馬彪の「続漢紀」の志である「続漢志」を併合して、後漢書とする習わしが生じていたものを、高宗皇太子武則天の実子であった章懐太子李賢が、笵曄「後漢書」に司馬彪「続漢志」を付属した「後漢書」を、司馬遷「史記」、班固「漢書」とあわせて、三史としたため、正史となったものです。
 従って、「正史」と認定された笵曄「後漢書」は、官撰史書に準ずるものとして厳重に管理されたものと見えます。
 但し、言わば、唐代に先立つ在野の時代、笵曄「後漢書」の写本は、比較的緩やかに管理されたと見えるので、陳寿「三国志」に近い認知をされていたものと見えます。

*全巻構成

 晋書全巻は、三国志の六十五巻に倍する百三十巻に達しています。また、正史の要件である天文、地理などの「志」も完備しているものです。

 西晋が全国支配した王朝であることも考慮して、大部の史書としていますが、折角陳寿が、魏志の編纂で確立した切り詰めた正史のお手本を外れて、 裴松之の不本意な野史取り込み付注をも越えて、司馬氏毀損の伝聞まで盛大に収容したという「風聞」がありますが、その当否の程は当記事の圏外です。何しろ、「晋書倭人伝」は、一瞥で読み取れる字数ですから、山成す先入観を棄てて史料だけ読み取れば良いのです。

 いずれにしろ、「晋書」は、先行する晋書稿があったにせよ、東晋を継いだ南朝の滅亡によって散逸しかけていたと思われる晋代資料を、唐代の権威筋が衆知を集めて、玉石混淆の史料の山から総括したものと見られます。

 因みに、別記事で考察した「晋書地理志」は、太古(殷周代)以来の里制変遷を網羅し、大変貴重です。端的に言うと、晋が全国に布令した秦制は、実は、周制そのものであり、周代以来一貫して「普通里」が施行されていたことが読み取れるのです。

 とかく趣旨を誤解される始皇帝の布令は、春秋、戦国時代の各国が、周制を遵守せずに、長短バラバラの度量衡、土地管理制度、里制を敷いていたのを、秦制、つまり、周制に統一したものなのです。

▢倭人伝の所在・呼称

 晋書「倭人伝」では、雑駁な呼び方とも見えますが、正式に「晋書/卷九十七/列傳第六十七/四夷/東夷/倭人」条とでも呼ぶのも、長蛇の観があります。当ブログは「倭人伝」散歩道でもあり、俗を避けずに「晋書倭人伝」とし、本稿では、時に「倭人伝」と略称します。

 「魏志倭人伝」と同様、「晋書倭人伝」は、「倭人在帶方東南」の地理紹介で始まるので、中国古典書籍の呼び方では、冒頭二文字をもって「倭人」と称され、大抵は、史書の頂点から下ってそこに到る階梯数段の深さを無視して「伝」と見なされているのです。要は、具体的な記事のまとまりが「伝」と呼べるのなら伝と呼べば良いという割り切りです。

 但し、倭人「伝」と言いながら、「晋書倭人伝」の大要は、「魏志倭人伝」の抜粋に止まっているので、「伝」の要件を欠いているとも見えますし、先行史書に書かれている事項は出典を書かなくてもここに書かれていると見なせるとの観点であれば、既に「伝」の要件を備えていることになります。別に、潔癖になって得られるものはないので、当記事含め、当ブログでは、「晋書倭人伝」と呼んでいます。

 以上面倒ですが、素人なりに、確認の手順を踏んだことを書き遺すものです。

                                未完

新・私の本棚 晋書倭人伝談義 もう一つの倭人伝 2/2 2025

                             2020/03/16 2025/11/11

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*「倭人伝」引用
 今日、維基文庫を参照すれば、四庫全書版テキストを参照、引用できます。
 字数が少ないので、ここに全文引用しますが、当史料は、著者没後百年以上経過しているので、著作権の消滅している公有文献として扱えるのは、いうまでもありません。その際、引用元を明記するのは当然の義務です。これは、読者の検証を可能とするものでもあります。

*本文引用 四庫全書版 (維基文庫による)
 倭人在帶方東南大海中,依山島爲國,地多山林,無良田,食海物。舊有百餘小國相接,至魏時,有三十國通好。戶有七萬。男子無大小,悉黥面文身。自謂太伯之後,又言上古使詣中國,皆自稱大夫。昔夏少康之子封於會稽,繼發文身以避蛟龍之害,今倭人好沈沒取魚,亦文身以厭水禽。計其道里,當會稽東冶之東。其男子衣以橫幅,但結束相連,略無縫綴。婦人衣如單被,穿其中央以貫頭,而皆被髮徒跣。其地溫暖,俗種禾稻糸甯麻而蠶桑織績。土無牛馬,有刀楯弓箭,以鐵爲鏃。有屋宇,父母兄弟臥息異處。食飲用俎豆。嫁娶不持錢帛,以衣迎之。死有棺無槨,封土爲塚。初喪,哭泣,不食肉。已葬,舉家入水澡浴自潔,以除不祥。其舉大事,輒灼骨以占吉凶。不知正歲四節,但計秋收之時以爲年紀。人多壽百年,或八九十。國多婦女,不淫不妒。無爭訟,犯輕罪者沒其妻孥,重者族滅其家。舊以男子爲主。漢末,倭人亂,攻伐不定,乃立女子爲王,名曰卑彌呼。
 宣帝之平公孫氏也,其女王遣使至帶方朝見,其後貢聘不絕。及文帝作相,又數至。泰始初,遣使重譯入貢。

*大意
 晋書独自記事である最終段落大意です。併せて先賢の業績を参照して下さい。因みに「東アジア民族史1 正史東夷伝」(井上秀雄 他訳注 東洋文庫204)で、著者は「訳文は、現代語訳をめざし」と大変謙虚です。

 これは、史学に於いてあくまで「史料原文そのものが史料」との明言です。当方、つまり、当ブログの筆者は浅学非才であり、少なくとも本稿では「現代語訳」などとは、言えないのです。
 宣帝(魏宰相司馬懿への追号)が、魏明帝勅命で遼東公孫氏を平らげんと赴いたとき、倭人女王が帯方に至り朝見しました。倭人貢献は、景初、正始年間を通じ続きました。文帝(司馬昭への追号)が宣帝を継ぎ、魏相に任じられたときも何度か来貢しました。晋朝では泰始に初めて訳を重ね来貢しました。

*考察
 「大意」から割愛した前段の「漢末倭人亂」は史官達意の寸鉄文であり、范曄後漢書が、文筆家としての意識を昂揚喚起して、その筆の赴くまま、いわば自由な達意の創作を施しているのと根本的に異なるものです。
 また、主と王の書き分けは、重大な意義を持つものであるから、史料解釈の原点として保持し、安直な改竄を施さず、尊重すべきです。
 なお、二度起用の「其」は同一意義と思われます。現代人には、文意の解釈は困難ですが、等閑視できないと思われます。
 思うに、晋書編者は、女王王治名、共立など、自身が些末と判断した事項は略しています。
 同様に、些末と見たであろう(景初)遣使年次や公孫氏討滅との後先(あとさき)は明記されてないので、そのように示唆すらされていない事項を安易に勝手読みして持論補強に援用すべきではありません。

 なお、余り触れている例は見ませんが、そのような略記の流れの中で、「女子」が、ことさら温存されて明記されているのは、私見によれば重視すべきです。

〇結語
 「晋書倭人伝」の解釈については、従来、牽強付会の強引な読解が多かったので、この際、当ブログの方針に従い、丁寧な読解を試みたものです。あくまで、一私人の意見ですので、そのように理解いただきたいのです。

 なお、「晋書」四夷伝は、「倭人伝」に限らず、ほぼ西晋記事で尽き、亡国南遷後の東晋の四夷記事は大変貧弱であり、言うならば「西晋書」四夷伝です。加うるに、西晋時代も、西域交流は数度の来貢に尽きてしまい、後は、前世記事の使い回しで何とか紙数を稼いでいる始末です。何しろ、魏代の西域記事は、魏志西域伝が成り立たなかったほど貧弱ですから、何ともお粗末なものです。

追記
*「四夷伝」考察
 以上、つい筆が走ってしまったので、言葉を足すものです。
 晋の四夷記事には東夷来貢記事が多いのですが、それは、魏の楽浪、帯方両郡回収の恩恵を被った西晋時代のことです。帯方郡にすれば、馬韓、秦漢、弁辰の領域は、いわばお膝元であるので、それこそ、一年一貢に近い頻度で、各国使節の山東半島経由の洛陽参詣が行われたようです。但し、これも、四世紀初頭の滅亡に至る両郡の衰退、そして、最後は晋朝の亡命南遷のため、東夷の晋朝貢献は、ほぼ消滅したのです。
 いや、新興の百済は、一貫して南朝と親交を結んだようですが、何しろ、中原が蕃夷諸国に支配されていた時代、建康への交通は困難だったのです。

*「倭人」記事考察 2025/11/11
 「晋書倭人伝」記事は、曹魏明帝が格別の熱意を持って勧請した「倭人」が、明帝没後、明帝の遺詔に従う大層な下賜物の送達を最後として、急速に閑却され、単に遠隔零細の東夷となったことを明記しています。帯方郡太守は、倭人の武力を借りて、韓を平定する願望を維持していたもののようですが、それも、倭女王が内紛を平定する武力/権威すら備えていないことを確認したので、辛うじて、郡太守の面目を保つため、紛争を鎮静化する支援をしたものの、帯方郡自体の衰徴もあって、徐々に手を引いていったものと見えます。言うまでもなく、そのような方針転換は、権力者となった司馬氏の意向でもあったのです。
 「晋書倭人伝」の素っ気ない記事は、西晋初期の司馬氏の威光を体現したものであり、それ以降、「倭人」に対する関心は、水面(みなも)の泡沫(うたかた)の如く消えていったのです。

*「書紀」神功紀補追考察 2025/11/11
 国内史学の見地では、「日本書紀」神功紀(北野本)に、「六十六年[分註]是年晉武帝泰初三年初晉起居注云武帝泰初二年十月貴倭女王遣重譯貢獻之也
」とあることから、「貴倭女王」が、洛陽に遣使して晋武帝に拝謁したと解釈する根拠とされています。当然、唐代には消滅していた帯方郡の介添え無しでは、拝謁は不可能です。

 しかし、ここで正史「晋書」を引用せず、雑文書と見える「晋起居注」(泰初三年成立)の泰初二年記事を引用したのは、「日本書紀」編纂者の手元に、「晋書」写本、ないしは、その適確な所引が無かったことを示しています。いうまでもなく、「神功紀」本文に書かれていないということは、これを裏付ける国内記録は、全く存在していなかったわけですから、当記事は、あくまで、伝聞であり史実ではないのです。

 これに先立って、「日本書紀」神功紀は、「魏志に云う」として、陳寿「三国志」「魏志」倭人伝の不正確な所引を記載しているので、あるいは、陳寿「三国志」全巻すら所蔵されていなくて、粗忽な所引を行ったかと見えます。何しろ、遣唐使が招来した厖大な経書、律令などの一環として途方もなく高価な貴重書ですから、必要な都度、取り急ぎ閲覧許可を得て、そそくさと、恐らく禁帯出の魏志第30巻を抜き書き/所引するのが精々だったのでしょう。
 現に、厳格に校正されていた原文に「景初二年」と明記されていたと推定されるにも拘わらず、「明帝景初三年」と不法な書法となっています。原史料に既に誤記があったのか、書紀編纂者が、誤写したのかということになりますが、粗忽な素人同然の所引者に対して、経験豊富で高度な技量を維持していたとみえる原史料の肩を持つべきだと見えるのです。

 そのように、当該記事は、全体として、国内史料の裏付けの無い、伝聞記事であり、史料としての信頼性がかなり低いものと思われます。
 当然、陳寿「三国志」「魏志」倭人伝の現存刊本の改竄を正当化する根拠とはなり得ないと判断されます。

                               以上

2025年10月31日 (金)

新・私の本棚 番外 サイト記事批判 「弥生ミュージアム」倭人伝 6/6 2025

弥生ミュージアム 倭人伝  2019/11/15
私の見立て 星三つ ★★★☆☆ 大変有力 但し、「凡ミス」多発  追記 2022/11/21 2025/10/31

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*台所事情談義
 「三角縁神獣鏡」は、在来品の1.5倍の外形であり、新作したとすると、まずは、三倍近い銅材料を必要とし、又、制作するに当たって、それまでに貯えた型や型紙がほとんど使用できないのです。
 先立つ、後漢末期の献帝即位の時、時の支配者/最高権力者であった董卓による長安遷都の暴挙とそれに続く長安での国政混乱から、後漢皇帝の指示で尚方が皇帝御用達の装飾品を謹製する事は絶えていて、お抱え職人は浮浪者と化していたものと推定されます。
 ともあれ、曹操が自陣営に皇帝を採り入れて、ついには、嫡子曹丕が洛陽に魏朝を創設したのですが、その際、「禅譲」のならいとして、諸官、諸吏を悉く引き継いだものでしょうが、何しろ、一度、董卓の暴政で壊滅した洛陽の諸機関は、どこまで復元していたか不明というところです。
 いや、魏志は、後漢末期の無法な時代を回復した曹魏を肯定するために編纂されたので、文帝曹丕、明帝曹叡時代の洛陽の惨状をありのままに書き残してはいないのですが、想定するのは、さほど至難ではないのです。

 かくして、未知の形状、意匠の大型銅鏡をあらたに設計し大量製作するには、試行錯誤の期間を含めて、数年で足りないほどの多大な準備期間と熟練工の献身を要し、更に「量産」が順調でも、仮に一日一枚採れたとして百枚制作に百日を要するという多大な製作期間を足すと、とても、一,二年で完了するとは思えないのです。又、非常時の窮乏財政で、そのような大量の銅素材を、敵国「東呉」から如何にして購入したのかも不審です。無理の上に無理の上塗りです。
 因みに、世にある「不可能ではない」とする議論は、まことに不合理です。空前の難業をこなして、一介の零細な東夷の機嫌を取るためだけに大量の銅鏡を新作し、あろうことか無償供与し、多額の国費を費やして、現地まで届けることなど、全くあり得ない、と言うのが最大の否定論です。
 いや、天子の恩恵ですから、自前でやってこいとか、自力で持って帰れなど言うことはないのですが。

 ちなみに、先帝明帝曹叡は、遼東郡が、長年隠蔽していた東夷が万二千里の彼方に在る七万戸の大国と聞きかじったので、帯方郡直轄にして、官軍の一翼として動員し、韓、濊などの東夷を制覇することを構想したので、下賜物を奢る勅命を発したのですが、実態が知れて誤解が消えてみると、韓の南方至近距離の零細な存在であり、軍事的に無力とわかったので、勢い込んでいた明帝の早世もあって、少帝曹芳の時代になると、関心が冷めて、銅鏡のおかわりなど論外になっていたのです。

正始元年(*58)、帯方太守弓遵は、建中校尉梯儁らをつかわし、この詔書と印綬をもって倭国に行かせた。使者は、魏の(小)帝の使者という立場で、倭王に謁し、詔書をもたらし、賜物としての金帛・錦 ・刀・鏡・采物を贈った。倭王はこれに対し、使者に託して魏の皇帝に上表文をおくり、魏帝の詔と賜物に答礼の謝辞をのべた。
(*58)魏の(小)帝の年号(二四〇)。

コメント 「正始」は、景初三年元旦に逝去した先代明帝の後継皇帝曹芳の年号です。ひょっとして、先帝の謬りを正す新代の始まりという趣旨でしょうか。明帝存命なら、この年は景初四年ですが、既に一年前から景初に四年はないと公布されていました。

同四年
(中略)掖邪狗らは、率善中郎将の印綬を授けられた。同六年、少帝は詔して、倭の使者の難升米に、黄色の軍旗をあたえることにし、帯方郡に託して、これを授けさせた(*61)。 (中略)
同八年(中略)太守は塞曹掾史張政(*63)をつかわし(中略)た。その後、卑弥呼が死んだ。大いに(多いに冢を作りその径は百余歩(*64)、(中略)卑弥呼の宗女である年十三の壹与(*65)を立てて王とし、国中がようやく治まった。(中略)
(*64)卑弥呼のとき、すでに古墳時代に入っていたかどうかが大問題。(中略)一〇〇余歩とあるから一五〇メートル前後の封土をもっていたことになる。ただし最近では、古墳の成立を三世紀半ばまで遡らせる学説がある。

コメント 他ならぬ「倭人伝」によれば、「冢」は「封土」、つまり単なる盛り土です。既定敷地、つまり、先祖以来の墓地での没後造成であり、さまざまな要因から未曾有の規模になることはあり得ないのです。
 恐らく、漢代の教科書「九章算術」の例題から推定して、卑弥呼の冢は、方百歩、つまり、一辺十歩、約十五㍍の墓地に収まる円形の盛土であり、既出の冢と大差ない、精々、一回り大きい程度であり、官奴(下級公務員)/奴婢から百名動員/徇葬して造成できたものと見えます。

 曹魏は、皇帝の墓制すら、すべて地下に納めて地上に露呈しない薄葬が曹操の敷いた祖法であり、親魏倭王が、先祖に背く墳丘墓を大々的に造営するなど、論外であったのです。もちろん、一部で執拗に唱えている百名斬首、殉死など、中国に無い罰当たりな悪習であり、親魏倭王の葬礼には、到底有り得ない妄想なのですが、古来、漢字の読めない方が「徇葬」を「殉葬」、「殉死」と史料改竄して蔓延させているので、路傍の泥沼に誘い込まれる犠牲者(いけにえ)が絶えないのです。
 良く見ていただければわかるように、古代中国の墓制は、地下を掘り下げて埋葬するのであり、地下は死者の世界として峻別されているのです。国内の墳丘墓は、彼の「箸墓」を代表として、地上に盛り土して、納棺するのであり、中国の墓制に反する罰当たりなものなのです。もし、「親魏倭王」の「冢」が、そのような墳丘墓であったなら、帯方郡は、女王を「親魏倭王」に背くものとして廃したはずです。「倭人伝」にそのような不法な墓制が書かれていない以上、卑弥呼の冢は、彼の「箸墓」でないことは、自明です。
 後世の墳丘墓は、まず間違いなく、長期間の計画的造成(用地選定、構造設計、担当部門の設定、費用、人員動員の振り分けなどに始まる、巨大な事業となる)の可能な「寿陵」です。
 当然、未検証学説は、世に山成す「学説」にまた一つ加わった「単なる作業仮説」(ゴミ)に過ぎないので、「大問題」などと、ことさらに誹謗してまで取り上げるのは、学問の世界として不適切です。現に、山ほどある他の作業仮説は、悉く無視しているではないですか。不公平です。
 因みに、当時の人々は、「古墳時代」など知らず、もちろん、「古墳」など知らなかったのですから空論です。

 「径百余歩」が、どんな形容であったのか、時代考証が欠けていますが、遺跡考古学者は、中国古代文書の知識が無く、古代文書に精通した史学者は、遺跡、遺物の見識に欠けているので、「冢」に関して考察するには、相互研鑽が不可欠のように見えます。

(*65)『北史』には「正始中(二四〇~四八)卑弥呼死す」とある。『梁書』『北史』『翰苑』などでは、壹与ではなく臺与とあって、イヨでなくトヨだとも考えられる。これは邪馬壹国と邪馬臺国の問題とも共通する。

コメント 『現存史料』と『不確かな佚文に依存し編纂経緯も不安定と定評のある「北史」』などの後世史書とを同列に対比するのは不合理である点で、見事に「共通」です。不確かな情報を積んでも、単に、「ジャンク」、「フェイク」の山では、提示した方の見識を疑われるだけです。
 古代史学が「学問」として認められたければ、決定的な判断ができないときは、現存史料を維持する態度を守るべきではないでしょうか。
 ちなみに、「壹與」なる人名を、「臺與」と改竄する趣味は、病膏肓でつけるクスリが無いと見えます。(Die hard, harder, hardest)

現代語訳 平野邦雄

*まとめ
 ご覧のように、本文と注釈の双方に誠意を持って注文を付けているのですが、どこまでが平野氏の訳文か不明です。従って、氏の訳文と見られる中の誤字などは、誰のせいなのかわからない物です。資料写真は、誰の著作物、責任か不明ですから、宮内庁蔵書影印の著作権表記の錯誤は、誰の責任か不明です。

*品質保証のお勧め

 因みに、以上の解説文は、近来放棄されているはずの「仮説」を踏まえて書かれているように見えるので、内容を更新するか、あるいは、
「現代語訳」は、****年時点の平野邦雄氏の見解であり、現時点でその正確さを保証するものではありません。
 と解説すべきと思われます。

 当たり前のことを言うのは僭越ですが、サイト記事の著作権等を主張するのであれば、第三者著作の範囲と権利者を明確にすべきと思います。第三者著作物や公的著作物に著作権を主張するのは、犯罪です。

                                以上

新・私の本棚 小畑 三秋 産経新聞 THE古墳『吉野ケ里で「対中外交」あった~ 2025

終わらない「邪馬台国」発見への夢』 2023/06/28

〇はじめに~部分書評の弁
 当記事は、産経新聞記事のウェブ掲載である。七田館長(県立佐賀城本丸歴史館)の発表資料そのものでなく、担当記者の「作文」とも見えるが、全国紙記者の担当分野での発言である以上、読み流さずに率直な批判を書き残す。

-部分引用開始-
中国の城郭を模倣
遺物ではなく、遺跡の構造という「状況証拠」からアプローチするのが、七田忠昭・県立佐賀城本丸歴史館館長。物見やぐら跡や大型祭殿跡の発掘など長年にわたって同遺跡に携わっている。
「邪馬台国の時代、吉野ケ里は中国と正式な外交関係にあった」とみる。それを物語るのが、大型祭殿が築かれた「北内郭」、物見やぐらなどで知られる「南内郭」の構造だ。北内郭は王が祭祀(さいし)や政治をつかさどった最も重要な施設で、南内郭は王たち一族の居住エリアとされる。
大型祭殿には鍵型に屈曲する「くいちがい門」があり、物見やぐらは環濠(かんごう)の張り出した部分に設けられた特殊な構造だった。
同様の施設は当時の中国の城郭にもあり、七田さんは「こうした構造をもつ環濠集落は国内で吉野ケ里遺跡だけ。中国の城郭を模倣しようとした証し」とし、「大陸との民間交流というレベルではなく、正式な日中外交があったからこそ造ることができた」と話す。
-部分引用終了-
 記者見解にしても、遺跡構造は有力物証であり、「状況証拠」と称するのは見当違いである。纏向大型建物遺跡復元も「状況証拠」と言うのだろうか。

*「正式外交」の画餅
 館長発言とみられる「中国と正式な外交関係」は、複合した誤解である。当時、中原を支配していた魏(曹魏)は、南の蜀(蜀漢)と呉(東呉)の討伐を完了していない鼎立状態だから、「中国」を称する資格に欠けていたと言えないことはない。

 魏の鴻臚掌客も、「倭人」は、あくまで、服従を申し出てきた野蛮種族に過ぎず、「正式な外交」の現代的な意味から大きく外れている。
 いくら、「倭人」の敬称を得ていても、現に、文字を知らず、「礼」を知らず、まして、先哲の書(四書五経)に示された至言を知らないのでは、文明人として受け入れることはできないのである。

 もちろん、同遺跡は「倭人」を代表したと見えないので、「倭人」と称して魏と対等の立場で交流できるはずは、絶対にない。「倭人伝」には、魏の地方機関帯方郡は、後漢代の楽浪郡を承継して、「倭人」を代表する「伊都国」と使者、文書の交換を行っていたと明記されているから、「正式外交」は、酔態で無いにしても、飛躍の重なった無理なこじつけと言わざるを得ない。館長発言であるとしたら、不用意な発言に対して指導が必要なのは館長と見えてしまうのである。

 「倭人伝」は、「倭人」と交流したのは帯方郡であり、皇帝は「掌客」としてみやげものを下賜し、印綬を与えて馴化し、麗句でもてなしたに過ぎないと示唆していると見える。帝国の常識として、辺境に争乱を起こされたら、平定に要する出費は、土産物などの掌客の費えどころでは無いのである。天子の面目を、大いに失することも言うまでもない。それに比べたら、金印(青銅印)の印綬など、手軽に作れてお安い御用だから、正使、副使などに止まらず、随行の小心者や小国国主にまで渡したのと言われている程である。「掌客」とは、そう言うものである。
 あるいは、後漢光武帝代の遼東郡太守祭肜(さいゆう)の「夷をもって夷を撃つ」の戦略に学んで、「倭人」を厚遇して、韓を征討する大役を与えようとしていたのかもしれない。但し、明帝曹叡が、景初三年元旦に死去して、少帝曹芳に帝位は継承されたものの、お守り役の大臣有司は、先帝の遠謀深慮を放棄したので、「倭人」厚遇は、たちまち消尽したと見えるのである。後日談めいているが、魏志に明記されていないので、念のため、注意喚起するのである。(2025/10/31)

 当の環濠集落が、中国「城郭」を摸倣した/共通した構造としているが、中国古代「城郭」は一般読者が連想する戦国城郭の天守は無く、石垣と土壁で囲んだ「國」の姿が正装であり、環濠の「クニ」は、礼服を纏わない無法、論外なのである。

 「倭人伝」は、『倭人の「国邑」は、殷周代の古風を偲ばせるというものの、不適格であり、外敵のいない海島に散在しているので、正式ならぬ「略式」』と言い訳がましく述べているが、いずれにしろ、野蛮の表れなので、蕃使が中国に学んだとしたら、なによりも、王の居処を四方の城壁で囲うべきでは無かったかと思われる。

 伝え聞く「纏向」集落は、中国と交流があったと見えず、奈良盆地内で、城壁のない集落が混在していて、何とも思わなかったのだろうが、それは、「倭人伝」に書かれた「倭人」の国のかたち、さらには、中国制度の教養に、根本的に反すると見えるのである。いや、何も伝えられていなかったから、独自の径を進んだと言う事ではないかと思われる。
 素人目には、「宝島地図」ごっこめいた「邪馬台国」比定地争いに血道を上げる以前に、古代史の重大な課題として取り組むべきでは無いかと見えるのである。
 いや、本稿は、「吉野ヶ里」論であるから、最近多発していた「纏向」記事批判は、必ずしも適用されないのだろうが、官庁も、国内の考古学会に属しているから、無縁ではないと見るものである。

 以上は、「倭人伝」の二千字程度の文面から、易々と読み取れる三世紀の姿である。

◯まとめ
 館長は、かねて承知の中国古代史常識への言及を避けただけと思うが、「リアル」(本物そのもの)は、演出、粉飾の婉曲な比喩としても、事の核心を述べないのは偽装に近いものではないかと懸念される。

 以上は、当記事に引用されたと見える館長発言紹介の一部を批判したものであり、当日配布されたと思われる「プレスレリース」には、これほど不用意な発言はないだろうと推察するが、一般読者は、当記事しか目にしないと思われるので、率直に苦言を呈したものである。他意はない。
 できれば、新聞記者の限られた史学知識だけに頼ることなく、細部まで学術的な成果を述べた「プレスレリース」 を公開頂きたいものである。

                               以上

2025年10月12日 (日)

新・私の本棚 瀧音 能之 邪馬台国論争の現在地 歴史人10 1/3 2025

OCT 2023  「日本の古代史が変わる!?」 ABC アーク
私の見立て★★☆☆☆ ひび割れた骨董品 学問劣化に警鐘か 2023/09/25 2024/04/10 2025/10/12

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

〇はじめに
 速攻すると、瀧音能之氏は、本誌が委嘱する以上、「殿堂」物の権威ある古代史論者だろうが、「日本の古代史が変わる」雑誌で今どきの熱々の学説を語るのはお門違いではないだろうか。出雲を中心とした国内古代史料には、造詣が深いと見えるが、畑違いの中国文字史料解釈に、相当疎いのは困る。つまり、専門外の史料解釈をどなたから聞いて受け売りしているのか分からないが、専門家ぶって、稿料を取るからには、ちゃんと裏付けを取る義務があると思うのである。読者に対して、学位詐称しているわけではないが、誤解を誘っているのでれば、結構、罪深いのである。

▢邪馬台国論争の現在地
 冒頭で「骨董品」と絶賛し、ヒビを埋め戻しているが、当評言は、ピアノ界不世出の巨匠ウラジミール・ホロヴィッツ最晩年の来日公演に呈された苦言であり、趣旨を酌み取って欲しいものである。

*数値化無き図形化の怪
 今回創出かどうかは分からないが、編集部制作年表は、研究史を縦書き表であり、表全体が右から左に流れるのは、現代風に見ると、奇観というか、むしろ、古文書の流れに即していて適切か。
 さらに奇観は、「畿内vs九州勢力グラフ」なる波打つ色分けが、どんな統計数値からグラフ化したか不明である。中央線の位置付けも神がかり、鬼道か。なぜ、こんなものに金を払わないといけないのかいや、「歴史人」誌は、世評の信頼の篤い媒体なので、編集部の手際に対して採点が辛いのである。他意はない。

 それにしても、段末の「近年は畿内説の支持が多い」とは、誠にいい加減である。「近年」とは、いつ頃からのことなのか、「支持」とは、支持者の頭数か、質量か、筋力か。「多い」とは単純多数か、何と比較したか。非論理的非科学的である。まして、「畿内説が優勢」とは、誰が誰に「惑わ」されたのか。全国各地で「街角千人インタビュー」でもしたのだろうか。
 
▢所在地論争の元凶!? 曖昧な記述も多い1級史料を読み解く
中国史書が描く「邪馬台国はこんな国」
[最新の定説はこれだ!]
*戦国時代だった倭国大乱の後30の国が集まる邪馬台国連合に
 氏は、班固「漢書」地理志から始めて、笵曄「後漢書」東夷伝の後漢初期記事に続いて「倭国大乱」の文字を取り出し「列島戦国」時代としている。
 当時、列島全体が、戦国時代の群雄割拠という記事は、後漢書にも「魏志倭人伝」にもない。単に、57,107年に代表者が遣使したのに、以後、百年にわたり定期的参上を怠ったのは、王(主)が無かったからである。笵曄は、美文愛好誇張趣味で、同時代人には読みやすいが、それを額面通り受け止めるのは「楽天的」に過ぎる。
 そのあとに、初めて格上の一級史料「魏志倭人伝」紹介で、「倭が互いに争い数千人が殺されたとある」とは、史料に根拠が無く、世間の野次馬から、錯乱されたのかと批判を招くように見える。

 関連記事は、以下二件であり、氏の根拠は不明である。氏自身が自覚しているように、「倭人伝」なる高度な教養を要求される文書に対して、氏の古代中国語文書理解力が「妖しい」のに「曖昧な記述も多い」とは困ったものである。「多い」とは、どの程度の数、分量、位置付けを言うのだろうか。「曖昧」とは、誰の意見なのだろうか。とにかく、「風評」、「臆測」が出回るのは、なぜだろうか。

1 其國本亦以男子爲王、住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年、乃共立一女子爲王。名曰卑彌呼。(笵曄[後漢書]倭条:倭國大亂,更相攻伐,歷年無主)
2 卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、徇葬者奴婢百餘人。更立男王、國中不服、更相誅殺、當時殺千餘人。復立卑彌呼宗女壹與、年十三爲王、國中遂定。

 複数の国主が妥協して卑弥呼を王に立て、国々が収まったのは1の後か。その結果、「邪馬台国連合ができたとは奇態で、根拠不明である。因みに、当時の中国の辞書に「連合」はないから、定義無しに持ち込んでは、「時代錯誤」と言われかねないのである。

 ちなみに、一度敵対した諸国が「連合」を締盟したと仮定すると、そのためには、「全代表者が集いて血書連判/誓約する必要がある」が、互いに言葉が通じたとしても、互いに通じる文字が無く、互いに通じる共通「法」のない状態で、どのようにして「連合」できたのか、まことに不可解である。

 因みに、主要な国以外は、国に王なる代表者がいない政体であり、国主なる代表者を戴いているだけだから、国主が交替した後、代表者の盟約がどの程度有効なのか不明であるし、当座の代表者が結盟しても、構成国が代替わりした後も締盟が有効かどうか、誰も責任を持てない。そんな約束/盟約など無意味ではないか。余程の確証がない限り、そのような「思いつき」は、学術的に支持されないと見るものである。
 氏は、以上のように、どなたかが後世の歴史資料から拾い集めた概念を捏ね上げて「倭人伝」解釈に塗りたくっているように見受けられるが、どの項目を取っても、何の根拠も示されていないので、これでは、氏の憶測/個人的な感想を書き付けたものとなるのである。

                                未完

新・私の本棚 瀧音 能之 邪馬台国論争の現在地 歴史人10 2/3 2025

OCT 2023  「日本の古代史が変わる!?」 ABC アーク
私の見立て★★☆☆☆ ひび割れた骨董品 学問劣化に警鐘か 2023/09/25 2024/04/10 2025/10/12

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

*「魏志」倭人伝に記載された不明瞭な邪馬台国の位置
 氏は、楽天的に、「邪馬台国」の位置と言うが、学問的に主張するには、「魏志倭人伝」に「邪馬台国」はなかった』と言う史実を、まず克服すべきである。重大な怠慢である。依拠している史料に一切記載されていない記事があいまいだと批判するのは、自爆/自嘲に過ぎない。
 ことのついでに、帯方郡を「植民地」と決め付けるが、魏は帯方に屯田していない。途方も無い虚言と見える。
 韓諸国は、概して山地が多く寒冷で水田稲作に適さない土地であるから、取り立てられる穀物は乏しいのである。また、貴石、宝石、玉などが出たとも書いていない。何かの勘違いであろう。
 帯方郡から行程諸国までの距離・方角などが見られるとは、深刻な勘違いである。書かれているのは各国経由して目的地までの行程である。

 「倭人伝」を勝手に解釈した上で、『「記載通り」に追っていくと一路南下』と解しているが、誰の「解釈」に追従しているのか知らないが、それで明らかな不合理が露呈するなら『そのような「解釈」が不正確/誤謬である』という証左である。

 過去の研究者達諸兄姉は、「倭人伝」の記事と自身の思い込みが整合しないのを「矛盾」と見ているらしいが、言葉の意味を知らない無教養を暴露していることになる。局面を眺めれば分かるように、別に、対等の両者が攻防しているわけではない。蟻が「富士山」に背比べを挑んでいるのであって、足下にも及ばないのである。この比喩は、つまらない、低次元、子供じみた勘違いである。

 「倭人伝」は、最高峰の学者が切磋琢磨して確認した正史文書であり、二千年後生の無教養な東夷が、提示された「問題」を読み解けずに間違っているに過ぎない。受験者が、「」題意を理解できずに回答不能であるのに、自分好みに「問題」を改竄するのは、とびきり愚行としか言いようがない。

▢「魏志」倭人伝に記された邪馬台国までの行程
 当図出典は不明だが、まずは、帯方郡~狗邪韓国行程が、手ひどい原文改竄で、伊都国到達後の行程は、ありふれた誤解と見え、改竄した原文を捉えて「記述通り」との断定は、世上の読解が正確であるとの「思い込み」に依拠していて、余りに楽天的である。
 「放射説」と俗称されている「伊都国終着」説を採用すると、「邪馬台国」は伊都国近傍であるから、本図は無意味となる。全て、徒労である。氏は、初心に復って、「倭人伝」解釈を仕切り直すべきではないか。

*絹織物の生産
 図示の織機が存在したなら、九州説は、決定的に有利になるのではないか。

*河川漁労の誤解  2024/04/10補充
 なお、女性素潜りは、甚だしい誤解と思われる。世上の論者は、勝手に海濱での「潜水」漁労と決め込んでいるが、「水」に「うみ」(海)の意味はないのが、中国語古代史料解釈の初歩の常識である。

 「沈没」は、中国語古代史料解釈の常識では、漁人が河川渓流に踏み込んでいると言うだけである。今日にも伝わっているように、精々、腰まで渓流の水に浸かって漁労しているのである。「好捕魚鰒」というが、海中に素潜りして、肉眼で、すばしこい海魚や鰻(うなぎ)を捕らえることなど、誰にもできないのである。明らかに、太公望ばりの川釣りではないが、複数の漁人が包囲すれば、竹籠、竹笊などで捕らえられるものである。もちのろん、「水人」は、自動的に男性である。

 畿内説、九州説の論義は飛ばす。

▢卑弥呼の「真説」
 意味不明の風評だが、業界「定説」は、「俗説」、「巷説」である。「呪術的能力」が、いかなる能力か、不合理に論じては纏まらない。「鬼道に事え衆を惑わす」とは、氏神の社(やしろ)で祖霊に問い掛けて神託を得て、氏子を納得させる「合理的」な神事ではないか。
 「倭人伝」は、古代中国人である「史官」が、古代中国人である、時の天子が理解できるように書き上げた史書ではないか。つまり、後世の「日本古代史」史書とは、全く無関係と見るものではないのか。記紀に卑弥呼が実名、実記事で登場しない以上、そのように解するのが、合理的ではないか。
 それとも、古代史学は、「神がかり」なのだろうか。

▢有力な候補者三人との共通点を考察
 卑弥呼とは一体誰なのか。?
*卑弥呼=女王の概念は、古代中国が広げたもので、国内では、「姿を見たものは、ほぼいなかった。姫御児」などの敬称で呼ばれていた

 コメント 構文錯乱だが、「卑弥呼=女王」の概念は時代錯誤であり、特に「=」はあり得ない。「古代中国」が広げたとは。主語のない妄想である。「倭人伝」に存在しない「姫御児」の造語を三世紀に持ち込んで、「呼ばれていた」などと妄想を書き出して「定説」としたのは誰か。いつから、「女王」は「児」になったのだろうか。言うまでもないが、当時の証人は現存していない
 ちなみに、現代に於いて「女王」は、皇族女性に許される敬称であり、王権は持っていないし、「王」の配偶者でもない。

 ちなみに、「古代中国」には人格も知性もないから、「卑弥呼」の格付けを広げることはできないと見るものではないか。破格の連続である。

 ちなみに、「国内」は、「倭人伝」では、女王の居処であり居城であるから、大変狭い、内輪の世界である。「少有見者」とは、「姿を見たもの」が、(郡太守と比較して)少ないと言うだけであり、「直属の臣下である高官有司とほとんど接見しなかった」とは決めつけられないのではないか。
 あるいは、垂廉、つまり、下ろした御簾のかげで、臣下の直視を避けていたのではないか。なにしろ、「衆を惑わす」には、人前に出るのが務めであったが、女王になってからは、それほど、姿を見せなかったというのではないか。

 何しろ、二千年前の中国人が、異界の異人の生業を報告しているのだから、たいへん限られた字数で、要点を極めて何を伝えようとしたのか、よほど、叮嚀に考察するものではないか。

 蒸しかえしになるが、「倭人伝」の基本資料は、決して、後世「日本書紀」の編纂者/権力者の気に入るように筆を曲げた「政治文書」などではないのである。数世紀先だって、蕃夷の首長などに迎合することなどできなかったのである。

*魏の使者が二百五年頃に倭を訪れた時点で、三十代後半で夫はいなかった。

 コメント ボロ丸出しの放言に困惑する。魏創業」は二百二十年であり、提起された二百五年は、後漢献帝の建安年間であって、後漢宰相であった曹操が、国家権力を把握していた時代であるが、「魏」など存在しない。
 魏明帝の下賜物を携えた使節が、長途、倭を訪れたのは、曹魏正始年間であり、当時存在しなかった「西暦」で数えると、二百四十年あたりである。なぜ、誰も、注意してあげなかったのか不可解である。
 そもそも主語欠落の不出来な文章であるが、「倭人伝」は、共立時点で女王に配偶者がいないと記録しているだけで、魏使来訪時の年齢を大胆に三十代と判断するのは著者臆測である。そして、大事なことなのだが、諸先輩が捏ね上げた「定説」では、「老婆」である。諸先輩を踏みつけにして、「定説」に背いては、破門されるのではないのだろうか。
 但し、「年已長大」を「当年成人した」と順当に解すれば、精々、(数えで)二十歳ということになる。よくよく考えて頂きたいものである。

 それにしても、論外の勘違いである。誰も氏の玉稿を校正しなかったのだろうか。これでは、氏が、後世に恥をさらすことになる。

*倭迹迹日百襲姫命・倭姫命・神功皇后が有力な候補で、倭迹迹日百襲姫命であった可能性が高い

 コメント 誠に不可解である。書紀は、三世紀記録でなく、また、後世の合理的な後付けで関連付けが成されていない以上、有力、非有力を問わず、想定されている候補は、「卑弥呼」と全く無関係と見るのが合理的な判断である。書紀編者は、現代人ではないから二千年後生とは言わないが、いずれにしろ、無教養な後生が「卑弥呼」比定の「候補者」品定めに憂き身をやつすとは、不敬の極みである。

 ここでも、著者の解釈は、錯乱しているように見える。書紀編者が、卑弥呼を神功皇后に擬えていた」と言いながら、「神功皇后は非実在」と断罪しては意味不明である。書紀編者は、同時代随一の教養人であり、少なくとも、錯乱状態で書紀を編纂したのではないのは明らかである。
                                未完

新・私の本棚 瀧音 能之 邪馬台国論争の現在地 歴史人10 3/3 2025

OCT 2023  「日本の古代史が変わる!?」 ABC アーク
私の見立て★★☆☆☆ ひび割れた骨董品 学問劣化に警鐘か 2023/09/25 2024/04/10 2025/10/12

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

□卑弥呼はどんな祭祀を行ったのか?
 「シャーマン」なる俗説で、卑弥呼を超能力者に擬しているが、「倭人伝」に明記されているのは、卑弥呼は、生涯不婚の巫女であり、共立される以前は、衆の求めに応じて、共通する祖霊の助言を仰いだのである。「人々を思いのままに導いた」と著者は糾弾するが、巫女に権力志向の「思い」など有りえないのである。とんでもない冤罪である。滅多に重臣諸侯に臨見せず、また、口頭の「お告げ」であるから、卑弥呼は、どんな意志をいだいて、どのように意志を徹底できたのか、想像するのも困難では無いか。
 そもそも、卑弥呼は有力氏族の一員で、父祖は、父方母方双方の者と見え、両家/両王が従うのは、卑弥呼が鎹(かすがい)だからなのだろう。もう少し、古代人の思いに理性的に想到/解釈し、三世紀人が知らない「シャーマン」など、持ち出すべきでは無いと思われる。
 それにしても、卑弥呼「天照大神説」は、指摘されていないが、いつの間に廃棄されてしまったのだろうか。

▢卑弥呼はどんな生活を送っていたのか
【最新の定説はこれだ!】
*宮室に住み、高殿で祭祀を行った。

コメント
 宮室かどうかは知らないが、少なくとも、地べたから離れて、床の上にいたはずである。床下に風を通さないと、雨水が浸入して、かびが生え、ネズミが巣を作って、たまらなかったはずである。特に、冬季、地べたに藁を敷くようでは、寒くてたまらないと見るのである。

*弟と巫女の内弟子数十人が仕え、姿を見たものはほぼいなかった。

コメント
 誤解に誤解を重ねて、戯画になっている。「姿を見たものは、ほぼいなかった」とは、ものを知らない誤解であり、女王として臨見、接見したものはほとんどいないというだけである。奴婢が身辺の世話をする「奧」では、大勢が姿を見たはずである。独身であっても単身ではないから、両親も兄弟姉妹もいたはずである。妄想している「内弟子」は、奇異である。家族でもないのに、数十人と生活を共にして、よく生計が成り立ったものである。何処か、別の時代、別世界の話の類推であろうか。

 あえていうなら、朝見するときは、文身で顔を染め、御簾に隠れたとしても、普段は、文身を落とし、髪を解いて、色気のない素顔で、普段着で生きていたはずである。

*動きやすい麻の服を着用し、民衆同様の食生活を送っていた。

コメント
 この項も戯画尽くしである。
 倭人に麻があったとは初耳である。麻が栽培されて普及していたら、強靱な帆布、麻縄が調達でき、早々に帆船が整っていたはずである。
 被服を動きやすくするには、「仕立て」と「着付け」が不可欠であり、ゴワゴワとされる麻布だから、着心地が良いというものではない。高貴な身分の女王は、長袖長裾で、動きにくかったはずである。女王は、朝見すらしないのだから、動き回ることはなかったのである。
 下戸は、布地を縮めて、ツンツルテンで、膝あたりまでのホットパンツになっていたかもしれない。
 当時、「民衆」がいたとは聞かない。「大家」は豪勢な暮らしをしたろうが、「小人」は、玄米や雑穀を蒸して食して、副食は市(いち)で買い付けたのか。
 女王は、お供えで食卓を賑わす事ができるから、「民衆」と同列とは、侮辱ではないか。

 念押しするが、同時代、掘り下げた地面の上で生活していたとしても、床がなかったと言われるのは、決めつけすぎである。せめて、簀の子の上に、藁茣蓙としなければ、四季を過ごせなかったと思われる。

◯閉店の弁
 くたびれてここで打ち切ったが、総じて、現場・現地に密着した丁寧な考察が不足していると見える。特に、これっきりしかない「倭人伝」解釈が、軽率な黒子の「受け売り」とは感心しないし、校閲が無いのも感心しない。
 いや、ここだけ臨時「フラット」で音程を下げて調子外れになったかもしれないが、全体に、古代史論で場違い、時代錯誤の言い回しが多い。
(数えてもいい)あちこちで、「最新」「定説」と言われても、いつ、どこで、誰が、どんな根拠で「説」を提案し、どんな権威者がどのように審査して「定説」としたのか、「可視化」公示していただきたいものである。もちろん、異議/コメント公募も不可欠である。そうでない「お手盛り」は、物騒極まりなくて、とても、食えない。

                               以上

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