私の意見 「卑弥呼王墓」に「径」を問う 1/2 2025
字書参照、用例検索 2021/08/19 補記 2022/11/08 補追2025/11/14
*加筆再掲の弁
最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。
◯はじめに
本稿は、初稿に補筆を加えたため、論旨が前後して書かれているのですが、初稿と追加部を明らかにしているため、そのように交錯して読みにくくなっている点をお詫びします。従来は、初稿を維持して、別記事を立てる構想だったのですが、近来、時系列を越えて、過去ロングが参照されている例が散見されるので、乱用、盗用を防ぐために、旧ログの補充、維持に努めているものです。とは言え、勝手に部分引用するChatGPTの手にかかると、撤回ないしは、参考に降格している記事が、一人歩きするのは、避けられないので、「変節」の誹りを提言するために、改訂を加えて再公開しているものです。
〇倭人伝の道草~石橋を叩いて渡る
まず、倭人伝の「卑彌呼以死,大作冢,徑百餘步」の「徑」は「径」と、「步」は「歩」と同じ文字です。
世上、ここで、『「冢」は円墓、「径百余歩」の「径」は、直径、差し渡し』との解釈が「当然」となっているようですが、(中国)古典書の解釈では、日本人の「当然」は、陳寿の「当然」とはしばしば異なるので、兎角「思い込み」に繋がりやすく、もっとも危険です。以下、概数表記は略します。
当方は、東夷の素人であると自覚しているので、自身の先入観に裏付けを求めたのが、以下の「道草」のきっかけです。
〇用例検索の細径(ほそみち)
*漢字字書の意見
まずは、権威のある漢字辞典で確認すると、「径」は、専ら「みち」、但し、「道」、「路」に示される街道や大通りでなく「こみち」です。時に、わざわざ「小径」と書きますが、「径」は、元から、寸足らず不定形の細道です。
ここで語義探索を終われば、「径百余歩」は、「冢」の「こみち」の行程が百歩となります。つまり、女王の円墳への参道が、百歩(百五十㍍)となります。榊原英夫氏の著書「邪馬台国への径」の「径」は、氏の深意かと想ったものです。
それは、早計でした。漢字字書には限界があって、時に(大きく)取りこぼすのです。
*古典書総検索
と言うことで、念入りに「中国哲学書電子化計劃」の古典書籍検索で、以下の用例観を感じ取りました。単漢字検索で、多数の「ヒット」がありますが、それぞれ、段落全体が表示されるので、文脈、前後関係から意味を読み取れば、勘違い、早とちりは発生しにくいのです。
*「径」の二義
総括すると、径(徑)には、大別して二つの意味が見られます。
一に、「径」、つまり、半人前の小道です。間道、抜け道の意です。
二に、幾何学的な「径」(けい)です。
壱:身辺小物は、度量衡「尺度」「寸」で原則実測します。
弐:極端な大物は、日、月ですが、当然、概念であって実測ではありません。
流し見する限りでは、円「径」を「歩」で書いた例は見られません。愚考するに、歩(ぶ)で測量するような野外の大物は、「円」に見立てないもののようにも思えます。
つまり、「歩」は、土地制度「検地」の単位であって、「二」の壱、弐に非該当です。史官陳寿は、原則として先例無き用語は排します。従って、「径百余歩」の語義を確定できません。
*専門用語は専門書に訊く~九章算術
以上の考察で、「九章算術」なる算術教科書は、用例検索から漏れたようです。「専門用語は、まずは専門辞書に訊く」鉄則が、古代文献でも通用するようです。
手早く言うと、耕作地の測量から面積を計算する「圓田」例題では、径、差し渡しから面積を計算します。当時、「円周率」は三です。農地測量で面積から課税穀物量を計算する際、円周率は三で十分とされたのです。何しろ、全国全農作地で実施することから、そこそこの精度で、迅速に測量、記帳することが必要であり、全て概数計算するので、有効数字は、一桁足らずがむしろ好都合であり、「円周率」は、三で十分だったのです。言うまでもないのですが、耕作地は、ほぼ全て「方田」であり、例外的な「圓田」は、重要ではないのです。また、円形の耕作地は、牛の引く牛犂で円形面積そ全部耕作することは不可能でしたから、その見地からも「円周率」は、三で十分だったのです。
当時は、算木操作で処理できない掛け算や割り算、分数計算は、高等算術であり、実務上、不可能に近い大仕事です。また、小数は、はした部分を省略すれば良いので、これまた、実務上無用なのです。
それはさておき、古典書の用例で、「径」「歩」用例が見えないのは、「歩」で表す戸別農地面積は、古典書で議論されないと言うだけです。
個別耕作地は、田地造成の際の周辺事情、特に、影やら窪地の取り合わせで円形になっていることもありますが、行政で造成した区画には、円形は一切ないのです。このあたりに、用例の偏りの由来が感じ取れます。
上級(土木)で墳丘の底部、頂部径で盛土量を計算する例題と解答が示されています。
以上で、「冢径百余歩」は、円形の「冢」の径(直径)を示したものと見て良いようです。
*新規展開追記 2025/11/14
近来、「纏向遺跡」に関する論義が盛んであり、本稿で述べた文書解析の流れが疎外されているようなので、再検討を加えたものです。
*「径百歩の真相」 2024/04/05
夢想でなく、時代考証をもとに想定すると、「方百歩」は、一辺一歩(ぶ)(1.5㍍)の面積単位「方歩」によって計量したものであり、現代風に言えば、「百平方歩」と言うべきものと考えますが、漢代以来士人の基礎教養とされていた「九章算術」では、字順を整えて、長さの単位である「歩」と、専門外の分野での著作で混同/混用されることを避けたものと見えます。
結論を言うと、用地を示す「方百歩」は、面積単位の「歩」をもとにすると、一辺十歩(15㍍)の方形と見え、その内部に、封土として「盛土」を設けることから、「冢」の墳丘/山自体は、直径15㍍を下回る形状が想定されます。要するに、時代相応の想定では、卑弥呼は「大家」(地方首長)といえども、墓制は、大層な規模ではなかったと想定されるのです。
後年、牛馬、鉄鋼製工具、文字教養、計算技術などが順次整う時代になって、石積みを伴う大規模な墳丘墓が造成される時代が来たと想定されますが、それは、「冢」でなく「大塚」とでも呼ばれたものと推定されます。
石積は、「盛土」の崩壊を防ぐために必要となるものであり、墓守が備わっている旧来の「封土」では、必要でないのです。
ちなみに、「倭人伝」記事には、「徇葬百人」と書かれていて、不時の造墓でも、官奴百人程度が、公務を離れて従事すれば、施工できたとされています。
従来の祖先「墓地」に追加する程度であれば、整地もさほど必要でなく、用土も、近郊から取り寄せるものと思われます。「徇葬百人」が示唆するものは、少し大がかりと云うだけです。
未完

