倭人伝随想

倭人伝に関する随想のまとめ書きです。

2021年10月 8日 (金)

新・私の本棚 榊原英夫「邪馬台国への径」 序論のみ

 「魏志東夷伝から邪馬台国を読み解こう」(海鳥社)2015年2月刊 
私の見立て ★★★★★ 総論絶賛、細瑾指摘のみ   2021/10/08

〇緒言のお断り~限定的論義
 榊原氏の本書での論議で気になるのが、後世概念闖入による不首尾です。
 例えば、氏は、東夷の変遷を理解していますが、殷代に東夷とされていた山東半島について、漢民族が、東夷を掃蕩し、東夷がなくなったと誤解していますが、漢語を読み書きし古典を解する「教養」人が文化人であり、民族不問です。もっとも、各国で文化人は一割に満たないはずです。
 古来、中国史書で、稀少な例外は除き、民族を想定させる風貌記載は無く、身体特徴では、曹操、晏子などの偉人を除けば「丈夫」の巨漢です。「丈」は、別に、一丈十尺でなく七尺を超えたら「丈夫」、さらに強調して「大丈夫」と思われます。素朴な強調は、誤解され続けているのです。
 と言うことで、「文化人」は夷と呼べないのです。何しろ、相手が無教養な野蛮人扱いを知ったら、当然激怒するので、氾濫蹶起をけしかけているようなものです。いずれにしても、もはや東夷は「発展的に」解消し、中原人は、さらなる僻遠の地に無教養な「東夷」を求めたと思われます。別に、中原人が侵略したとは限らないのです。

*孔子東夷談義~ずれた理解
 氏が引用する孔子の言で、海に筏を浮かべても、「日本列島」には、到底達し得ません。
 筏は、要するに、船室、甲板のない小船であって、船体は備わっていないはずです。潮風、雨ざらし、海水浸入では、普通人は、数日しか耐えられません。気軽な浮海は、山東半島沖合の海中の山島、朝鮮半島行きで、食糧ももつし、外しようがありません。

*首都談義~栄枯盛衰する「都」の概念
 「首都」と言う後世語ですが、三世紀、「都」は、洛陽などの帝国皇帝居城専用です。「首都」を広域国家の国王居所と解して、各国が広域「国家」を形成していたとみるのは幻想です。また、現代語で「首都」は、むしろありふれたまち「都」で、でかく、賑やかなものと解されているようです。

*連邦国家談義~時代錯誤の一例
 「連邦国家」なる後世語ですが、国体が不明では「邦」と呼べるかどうか不明です。「邦」は戦国七雄の領域国家と地域聚落「国邑」を区別しましたが、漢高劉邦を避け死語となったので、「連邦」は場違いで時代錯誤です。
 また、諸国は客観的に証されない限り「邦」と大国宣言はありません。

*連合談義~鎖の無い連鎖
 「連合」と緩めても、各地散在の小国が、どう連絡を取って、連合していたのか不可解です。馬無しで各国は伝令を走らせていたのでしょうか。

*後世語、後世概念の排除
 要するに、中国史書解釈で、「後世語」、「後世概念」の無法な混入は、論者と読者の意思疎通を大いに疎外するので厳重に避けるべきと思われます。

*周旋談義~大仰な解釈
 「周旋五千里」に通俗解釈を採用していますが、海上洲島、小島が散乱した国家形態で、領域周長など、およそ無意味です。ご自愛いただきたい。
 同時代の袁宏「後漢紀」で、「周旋」は、「二つの名家を往き来する」用例で、倭人伝では狗邪~倭間が五千里と明示と思われます。郡~狗邪~倭の主行程記事に傍路条が挟まったので念押ししたと見ます。冒頭、倭人は「大海中山島に在り」の予告を受け、洲島を伝い倭に渡ると念押ししています。
 そして、末羅で陸行に転じて、伊都~倭直行で、長期水行渡海を要する投馬は九州島内に収まらず、余傍を念押しする共に、奴国、不弥は風俗記事を書かず、余傍明示です。

*倭人伝解釈に王道無し
 と言うことで、倭人伝は、後世人に耳当たりの良いのでなく同時代教養人が苦労する「解釈」が必要で、皇帝初め教養人に頭を捻らせる「問題集」だったのです。
                         この項完 以下別途

新・私の本棚 榊原英夫「邪馬台国への径」 1/6 本文

 「魏志東夷伝から邪馬台国を読み解こう」(海鳥社)2015年2月刊 
私の見立て ★★★★★ 総論絶賛、細瑾指摘のみ  2021/10/08

〇始めに~謝辞に代えて
 本書は、しばらく前に購入して、まことに名著であると感心して、どう紹介するか迷っていたものですが、今般、高柴昭氏の好著を批評した勢いで細瑾を率直に指摘し、改善に貢献できそうだと意を決して高嶺に挑んでいます。

〇本著の美点
 本著は、史学を修めた著者が、長年の学究生活で、伊都国歴史博物館館長を務められた期間に「館長講話」として行った講演稿の集成と見受けます。豊かな学識と所蔵品含め多数の遺物の考察を踏まえた確実な内容であり、筆者ご自身の推敲と海鳥社の編集努力が見事に結実していると考えます。
 過去の書評で非難した落第例を引き合いに出しては恐縮ですが、本書は、学術書としての体裁を完備していて、編集担当者の高度な技が偲ばれます。

*構成の芳醇
 本著の趣旨は、副題に書かれているように、「魏志東夷伝」を総覧した上で、その一部である「倭人伝」を合理的に解釈するものであり、「倭人伝」集中を唱える小生には耳が痛いのですが、小生は、国内史料で形成された先入観で「倭人伝」を改竄する風潮が「倭人伝」論混迷の原因とみて、範囲を限定しているだけであり、大局的には、軌を一にしていると見ています。

*一級史料に立脚した堅実な議論
 それはさておき、氏の方針で、本書は、三国志東夷伝の書き下し文を基礎資料として収録し、同資料の考証を起点として議論を進めています。
 とかく、自説提示を急いで、論理的な筋道が交錯した、まことに多くの失敗例と大きく異なる展開です。氏の職掌柄、多くの論説を見聞きされているものと推察しますが、本著全体を貫くのは、整然とした論旨展開であり、一介の素人が云々できるものではありません。
 さて、そこまで言った後で、氏の好著に対して率直な批判を寄せるのは、小生の「門外漢」としての細やかな貢献と信じて苦言交じりで以下述べます。
 あるいは、小生の指摘は氏も承知の細瑾で、すかさず却下かも知れませんが、小生は、せめて、「見解の相違」として許容いただきたいものです。

〇緒論のお断り
 本稿に先立つ単独記事で、「後世概念闖入」を指摘する緒論をあげています。
 話の成り行きで部分的に重複する点は、ご容赦ください。

〇各論巡訪
 早速、表紙に邪馬台国への径」とされているのが、勿体ないところです。
 「邪馬台国」に関する古典的な議論は別儀として、「径」は、古代中国語では、間道、抜け道、裏街道の意で用いられことが多く、氏の真意が、真摯な小道であれば、せめて「路」と言って頂きたかったところです。(「径」の別義は、後に登場します)

 倭人伝でも現地の「道路」を評して、これでは、公道と言いつつ、まるで裏道、抜け道(禽鹿径)ではないかとする苦言があります。
 この点は、些細ですが、「倭人伝」の用語理解には、古代中国書籍の用語の理解が不可欠で、「東夷伝」まで広げても、足りないと見受けます。
 緒論の如く、国内史料世界観を三世紀に持ち込むのも禁物と感じます。
 以下、難癖と嫌われるのを覚悟で、述べていきます。

                               未完

新・私の本棚 榊原英夫「邪馬台国への径」 2/6 本文

 「魏志東夷伝から邪馬台国を読み解こう」(海鳥社)2015年2月刊 
私の見立て ★★★★★ 総論絶賛、細瑾指摘のみ  2021/10/08

〇私撰の誣告
 世上、陳寿を貶めるつもりか魏志私撰説がありますが、公文書を渉猟して史書を私撰するのは「死罪」ですから、無事公認編纂されたものなのです。
 後漢代の漢書編者班固は、洛陽書庫所蔵の前漢公文書を渉猟したと下獄し、西域の英傑班超など親族の懇望で死罪を解かれ漢書編纂を許可されました。
 南朝劉宋の笵曄は、散佚した後漢公文書でなく、公開の先行後漢書所引公文書を採用したので、時代の変遷もあって、私撰の誹りを免れたと見えます。

〇行程道里記事の取り違え
 これは、広く倭人伝論者に共通の「思い込み」ですが、冒頭の道里行程記事は、「景初遣使の答礼である正始の魏使訪倭行程記録ではない」のです。
 「倭人伝」は、新参の東夷「伝」で魏の公式道里/行程が書かれています。但し、倭人伝には郡から倭まで万二千里の全体道里が、早々に皇帝裁可された厳重極まりない縛りがあり、陳寿は辻褄合わせに苦慮したと思われます。

*倭人伝道里の成り行き
 公式史書(公史)道里で肝要なのは、太古以来、帝国辺境の地への道里は、官制の街道で「陸行」自明なので書いてないのです。街道未整備の辺境「里」は、当然大雑把ですが、万里道里は精測不要なのです。

*行程明細
 陳寿が、取り組んだのは、狗邪から末羅に至る「狗末」行程です。本来、中原の官道も大河は、渡船なので説明不要ですが、この際の渡海は、順次乗り継げるものでなく行程日数が必要で、それに見合う道里が必要でした。
 郡から狗邪まで「郡狗」は、「郡倭」万二千里を按分して七千里とし、それぞれの渡海は、一千里と「想定」したのです。陸行なら里数概算に批判がありそうですが、難路の渡海行程「三千里」は「水行」十日で収めたのです。

 陳寿は、まさか、海を歩いて行くと言えなかったので、「水行」と異例の用語としましたが、記事の冒頭で明記したので読者を騙してはいないのです。

 「郡狗」七千里は、郡に既知の「郡狗」を倭人伝で七千里とし、全体の万二千里は推して知るべしとなったのです。千里計算で末羅まで一万里、残る「末倭区間」は大雑把な概数で二千里ですが、「常識的」には、「郡狗」の2/7でも、大雑把な概数の積み重ねで不確定です。

〇韓「方四千里可」
 氏は、「方四千里」が一辺四千里の方形と、ほぼ決め込んでいますが、根拠の無い憶測に過ぎません。当時、統一政権の無い韓地の包括地形を、どのようにして知ったのでしょうか。帯方郡が、耕地検地はともかく、厖大な労力と未踏技術を投入して、意味なく全領域面積を測量するはずがありません。

 耕作地は領分の一部に過ぎません。韓地には千㍍を超え冬季冠雪凍結する小白山地が連なり、山川渓谷の荒れ地が多く、領域面積に何の意義もありません。高句麗は、地形がさらに険しく、灌漑に適しない牧畜地が多いのです。

 九章算術等の算術書で個別農地の面積測量法は知られていて、余さず課税台帳に記載していたので、全国集計は十分可能だったはずです。

 韓地の農業は、中原ほど組織的でなく、高度な検地、土地管理はできなかったとしても、後漢書地理志には、各郡の戸口が、一戸、一口単位で集計されています。耕地面積は、国勢指標として、最重要視されていたのです。

                                未完

新・私の本棚 榊原英夫「邪馬台国への径」 3/6 本文

 「魏志東夷伝から邪馬台国を読み解こう」(海鳥社)2015年2月刊 
私の見立て ★★★★★ 総論絶賛、細瑾指摘のみ  2021/10/08

*方里と道里
 東夷伝の「方里」は農地面積であり、それを、幾何学図形として現代地図に当てはめて推定した一里八十㍍は確たる根拠が無いのです。「方里」は、面積系単位であり、「道里」とは異次元ですから、流用できないのです。
 因みに、「方千里」などの表記は、扶余、高句麗、韓、對海、一大のように魏志東夷伝固有であり、地形、地理が知られている各郡、各国には適用されていないので、背景を知らない現代人に、すんなり理解は困難なのです。

*對海国方四百里
 對海記事で、「方四百里」を国の広さとするのは、同様の思い過ごしです。「對海国」は、国邑、つまり、国王居城を囲む聚落「国家」であり、領域の広さは無意味です。他ならぬ陳寿が、郡から倭に至る諸国は全て「山島国邑」と明記しているので、そう解すべきです。「一大国」も同様です。言い換えると、「方里」は「道里」方形と証されない限り、道里検証に起用できません。

*投馬国に至る道~倭人伝限定の「水行」
 三国志以前の中国史書道里行程に「水行」は無く、倭人伝にいたって、初めて、必要不可欠な渡海行程を、海岸を背にした「水行」と臨時に定義したというのが、小生の「孤説」です。つまり、末羅以南「水行」も渡海です。
 「実際」は、大分から豊予海峡を越えで三崎半島があり、おいおい漕ぎ継げば、長期渡海も可能でしょう。ただし、玄界灘から関門海峡、芸予諸島、備讃瀬戸は、当時の船体、漕ぎ手で一貫運行できなかったはずです。
 再確認すると「水行」は「渡海」であり沿岸、河川移動ではないのです。
 して見ると、長期「水行」を要する投馬国が九州島にないのは自明です。

*周旋五千里ということ~念押しの工夫
 陳寿は、道里を辻褄合わせし読者への手がかりとして、狗邪韓国と倭の完の「狗倭」道里を明記しています。道里最終区間は明記せず「狗倭」往来を「周旋五千里」と書いたので、読者は、自身の解釈を検算できるのです。
 倭人伝に肝心なのは、郡~狗邪~對海~一大~末羅~伊都~倭が要件で、以外は余傍で道里計算外です。陳寿は、主行程国を「(行程上の)女王国以北」、それ以外は行程外「余傍」としたので余計な思案が省けるのです。

*余傍の国~見過ごされた「明記」
 陳寿は、倭人伝道里行程記事で、奴国/不弥/投馬に言及しますが、奴国、不弥道里は、百里単位の「はした」で、投馬に至っては道里不明です。道里記事に載せた三国を「余傍」として道里計算に入れないのは、史書書法に従い、整然と明記したものと理解すれば、「題意」を見失わないのです。

*半島内行程~果てしない迷走の果て
 郡から倭に文書使を送るときに、漕ぎ船乗り継ぎを標準行程とすることは「明らかに」不合理なので説明がないのです。結論を言うと「循海岸水行」「従郡至倭」の「循」「従」の二字に官道施行が「明記」されているのです。

*「短里制」はなかった~明解な中締め
 倭人伝は、万二千里を実行程に当てはめ一里七十五㍍としたものの、国家制度とする重大な主張に証拠はないので「短里制はなかった」と結論します。
 当説では、水行十日三千里、陸行三十日九千里、どちらも、一日三百里と明解です。シンプル、エレガントというカタカナ語で締めて閉店御免です。
 場内非難囂々でしょうが、まずは、話の成り行きを確認してほしいのです。

                                未完

新・私の本棚 榊原英夫「邪馬台国への径」 4/6 本文

 「魏志東夷伝から邪馬台国を読み解こう」(海鳥社)2015年2月刊 
私の見立て ★★★★★ 総論絶賛、細瑾指摘のみ  2021/10/08

*交通路の整備~銕(てつ)の路
 関係史料で衆知の如く、半島東南部弁辰に鉄山があり、採掘鉄は、楽浪、帯方両郡に納入されたと明記されています。半島東南部から、重量物資が半島中部に納入されたことから、大量輸送に耐える官道整備が見てとれます。

 言うまでもなく、両郡指示で、弁辰から郡への銕街道が整備されていて、對海、一大の市糴は、狗邪で陸揚げ後、銕街道で届けたと想定されます。官道には所定間隔で宿駅があり、寝床と共に、食糧水分補給、代え馬と共に、時に険路もこなす荷運び人夫が(有料で)用意されていたのです。

 あるいは、流れの緩やかな南漢江中流(中游)は、川船移動でしょうか。文書使以外は、日程の範囲内で行程選択の自由があるのです。

 街道宿所、関所は、市糴課税と運賃で運用したとみられます。後世日本であったように宿所が繁栄したかも知れませんが、自然な成り行きは特記していないのです。

*難路でなく、無理の路
 陸路が整備されているのに、遠回りで運航が不安定で力不足の漕運に固執するのは、まことに不合理で不幸な誤解ですが根強く続いています。

 海に路はありませんが、郡東南方の倭に赴くのに、何を思って西の海船に命を預けるのでしょうか。船が沈めば積荷は喪われ船客は溺死します。誰が、乾いて安定した陸路を棄てて、荒海に転げ回るのでしょうか。

*南北市糴の要地
 半島内官道は、對海、一支の南北市糴の延長である民間輸送にも供用されていたので、信頼できる輸送経路が、早々に確立されていたのです。
 因みに、漢江河口付近の扇状地が泥濘軟弱の不可侵状態で、半島中部中国側の海港は、その南、後に唐津(タンジン)と呼ばれたあたりと見えます。

 對海、一大両国は、南北市糴が盛んで、市糴船の寄港から潤沢な収入があり、結構繁栄したのです。半島上陸後は洛東江沿いに北上して小白山地を越え、唐津に出る行程が、もっとも繁盛したものと思われます。一方、両郡に向かう便は、南漢江を北上し、合流する北漢江遡上を利用したと見えます。

 認識不足の例として、倭人領域に「禽鹿径」と評された官道(?)を見つけ、半島内通行不能と言い訳した例に困惑したものです。官道整備は当然で書かないのが常識で、特記の「禽鹿径」は異常事態です。なお、「けものみち」は、狭隘で路面が荒れた「間道」の意が伝わりにくい「誤訳」です。

〇景初遣使の件~「誣告」疑惑
 本件に関して、随分熱弁を振るっていますが、倭人伝現行刊本に、景初三年たるべきが、景初二年に誤記と立証された論拠は、一切ないと見受けます。

 本件は、刑事裁判ではありませんが、それでも、赫々たる文献に現に書かれていることを否定する「異議」は、俎上に載せるまでに相当の物証が必要ではないでしょうか。有効な証拠がなければ門前払いです。

 「推定無罪」ならぬ「推定有効」です。要するに「異議」を提議する前に、「物証」や「証人」を厳格に審査する必要があるのですが、これまで見かける限りでは、有効な根拠無しの言いがかり「誣告」が横行しているのです。

 そもそも、本項目以外でも、悪意による曲解が頻出しています。氏が、そのような風潮に荷担しているのでなければ幸いです。

                                未完

新・私の本棚 榊原英夫「邪馬台国への径」 5/6 本文

 「魏志東夷伝から邪馬台国を読み解こう」(海鳥社)2015年2月刊 
私の見立て ★★★★★ 総論絶賛、細瑾指摘のみ  2021/10/08

〇「卑弥呼伝」(仮称)の面影~女王共立
 倭人伝内に、当時の君主「卑弥呼」の小伝らしい様子が見えます。いや、「条」でも良いのですが。

 女王共立では、記事所引が並んでいますが、なぜか二番目に並んでいる倭人伝記事だけが信ずるに足るものであり、後は、ご多分に漏れず范曄「後漢書」の脚色追従で不都合です。氏は文書考証が不得手なのでしょうか。氏の権威では、受け売りでは済まないと思うのですが。

 後世史家と違い、陳寿は、ほぼ同時代ですから、根も葉もない天下大乱と書かなかったのです。後漢の桓霊献帝期の混乱、楽浪/帯方郡、韓の混乱で、洛陽に定期報告が来なかったと思われます。
 そもそも、遼東太守公孫氏は、小天子気取りで、粉飾報告を洛陽に届けたのでしょう。

 因みに、女王共立に、全国集会総選挙めいた「戯画」が提示されるのは、学問と言えない無責任な思い付き発散に見えます。常識から見て、共立は、恐らく姻戚関係にあった三頭政治の産物でしょう。縁続きだったから、合意が成立したのでしょう。

*長大論
 卑弥呼「已年長大」解釈に後世史書の「後漢書」まで動員し、「整合的に勘案」とおっしゃいますが、「後漢書」追従が災いして時代考証が撓んでいます。私見では、卑弥呼共立年代が無理矢理引きあげられていて、納得できません。

 「後漢書」に義理立てしてか、景初で八十才と比定していますが、ありふれた言葉である「長大」の解釈が非常識なのは本末転倒でしょう。ガラスの靴に合わせて、足を切り刻むような無残さです。「長大」は、中国語の日常表現で、今日も「成人する」、「大人になる」と同義の動詞表現とされています。「大人である」、「いい年」、「年かさ」、「年寄り」とは、誤解、曲解です。

 普通に見ると、当時、巫女は、王族の子女であって、生涯不婚、つまり、生涯独身で、身元は確かであり、したがって、未成年でも女王に推戴されたのです。古来の用語で、「女子」は、男王の親族、爵位身分とも見えます。

 女王共立は、つい先年、数年前ではないでしょうか。「已年長大」は、女王在位で「今や成人した」と読めるのです。

〇径百余歩
 氏自身もタイトルに使っているように、「径」は、こみちです。先賢は、卑弥呼の墓は、壮大であるに違いないとか、いや、それは誇張だとか述べていますが、直径百歩と決めてかかる前に色々調べる必要があるでしょう。

 直径百五十㍍としても、「冢」は東夷伝では「封土」、土饅頭であり、女王埋葬後、前例になく盛大に盛り土したことになります。寿陵、生前造成でない、突発的、未曾有の大工事では、設計施工の全段階で混乱したはずです。

 盛り土だけで石積み無し、そんな百五十㍍墳丘墓は、風雨厳しい風土でね地震に耐えて二千年残るでしょうか。俗説の箸墓は形状が「冢」でなく複雑至極で、土木技術が進歩し石積みが可能で規模拡大できた後世墳墓でしょう。

 魏武曹操以下の歴代皇帝は薄葬で地上に目印を残さなかったとされます。

*「卑弥呼伝」の終わり~私見御免
 陳寿が、あえて史官の信条を越えて「倭人伝卑弥呼条」を「書き上げた」背景を推定すると、年若くして女王になった「卑弥呼」の生涯の主要部を飛ばして老齢に話が及ぶはずはないのです。陳寿は、「伝」を立てるにあたって、入念に取材し、女王を顕彰すべく記述したはずで、不似合いです。むしろ、思いかけない夭折で、諸人に悼まれ、速やかな葬礼が行われたと見えます。

*思い込まれた女王像
 榊原氏は、伊都国博物館館長の立場上、「卑弥呼が、長く権力の座にあって、広く列島の諸国を、神がかりで支配した」と俗耳に馴染んだ「説話」を支持せざるを得ないのでしょうが、それは倭人伝文献解釈を超えた「憶測」、「創作」と見えます。倭人伝には、共立後の威勢は、何も書かれていないのです。
                                未完

新・私の本棚 榊原英夫「邪馬台国への径」 6/6 本文

 「魏志東夷伝から邪馬台国を読み解こう」(海鳥社)2015年2月刊 
私の見立て ★★★★★ 総論絶賛、細瑾指摘のみ  2021/10/08

〇「長大」「周旋」用例検証
 適切な用例は、時代の近い史書である袁宏「後漢紀」献帝紀であり、後漢末建安年間に曹操に誅殺された孔融の早熟逸話が引用され、普通の会話として「この少年(孔融十歳)が、長大の際は(大人になったら)、さぞかし秀才となるだろう」とあります。(明徳出版社刊 訳 中林史朗 渡邉義浩

 ちなみに、当該逸話には「周旋」が両家を往き来する意味で使われています。従来の倭人伝解釈では、「周」「旋」の字義に囚われて、国家領域の周辺を巡る意味と解されているようですが、時代相応の用例では、「往来」に近い意味で「自然に」使用されています。
 目下懸案になっているのは、魏志編纂者の深意ですから、少なくとも、相応(相当)の重みを置いて解すべきではないでしょうか。

 いずれにしろ、本件は、倭人伝解釈に参考になるものです。素人考えに疑問があれば、三国志学で著名な渡邉義浩氏にお問い合わせ下さい。

 基本に還ると、用例は、文の深意を求めて、まずは、編纂者の手近から参照するものではないでしょうか。

〇時代錯誤の誘い
 それにしても、氏ほどの見識の方が、国際情勢とか国内政治情勢とか、時代錯誤の思い込みを、当時の倭人に押しつけるのは、まことに牽強付会です。
 後世概念は、鮮明な理論に裏付けられ、倭人伝問題を一刀両断できそうですが、陳寿は、同時代で、生に近い「問題」を提示し、その「問題」を解いて構成している概念を摂取して欲しいと希望しているので、それを丸ごと解体する「一刀両断」されたら出題意図が台無しなのです。出題者の意識に無い概念では、どんな名答と自認しても正解になるはずがないのです。

*曲解風潮にご注意
 どうしても倭人の社会に広域紛争を起こしたいとの執念が、一部論者に漂っていますが、氏が、その蔓延に巻き込まれていなければ幸いです。

〇「三国史記」~後世史書過大評価
 当史料が編纂されたのは、新羅の統一時代、高麗による再統一を経た、いわば、原資料散佚後の再構成で、特に、統一以前の新羅記事は、、「正史」と対峙する資格のない「ジャンク」であり棄却すべきです。要は、統一新羅と敵対した「倭人」、「倭奴」は、客観的に書かれていないのです。

 倭人伝時代、新羅は、「辰韓斯羅」に過ぎず、倭「国使」を受ける立場になく紀年記録する史官もいません。そのため、同記事の年代比定は不合理で、後世編者が後知恵で半ば捏造したものとして棄却すべきです。

 同時代史でも厳重な資料批判が必要なのに、七世紀を経て、散逸原資料を貼り合わせた史書記事は、でっち上げとみるべきです。それにしても、「正史」は中国史であり、東夷史書を「正史」と呼ぶのは不覚です。

 と言うあたりで、気力が尽きてきたので、添削指導めいた批判は置きます。

〇まとめ
 榊原氏の権威に素人が挑みかかっているとみられたら、それは本意ではありません。堅固な構成と見える本書に、世上の「俗説」が、不用意に採用されているので、あえて苦言したものです。
 特に、中国古代史書解釈に、場違いな後代東夷概念を持ち込む弊風は、御再考いただきたいと望むものです。

                                 完

2021年10月 6日 (水)

新・私の本棚 関川 尚功「考古学から見た邪馬台国大和説」 1/3

 「畿内ではありえぬ邪馬台国」 梓書房 2020年9月刊
私の見立て ★★★★☆ 自明事項の再確認 2021/10/06

⚪はじめに
 本書は、長年、奈良県立橿原考古学研究所(以下、橿考研)で、纏向遺跡などの古代史蹟の古学研究に尽力された著者が退職後上梓されたものです。
 本書は、従来、古代史学界において、世上権威を有していた「邪馬台国」「纏向説」の背景を詳細に述べています。当説は、しばしば「畿内説」、「大和説」と称されますが、要は、「邪馬台国」が奈良盆地中部、中和纏向地区に存在したとの主張であり本稿では「纏向説」と言う事にします。

*素人書評の弁
 本書に関しては、古田史学の会の古賀達也氏が、主催ブログに短評を付していますが、氏の堅持している古田武彦氏提唱の「九州説」視点から書かれているので、ここでは、なるべく「素人」の視点から論じてみます。
 なお、以下、特に付記しない限り、諸論見解は、本書に触発された素人意見で、当然、独善覚悟であり、諸兄に押しつける意図はないので、予めご承知頂きたい。当ブログの素人論断なのは自明だが特に念押しするものです。
 なお、余談が長いのは、当ブログの基本方針(ポリシー)によります。ポリシー批判は、もしあっても「ご意見無用」とするので、了解頂きたい。

*橿考研理論背景の推定
 本書の核心となっている「橿考研」ですが、歴年の堅実、整然たる考察が、近年、一部の暴論の攪乱を受けて、いびつになった経緯が読み取れます。
 端的に言えば奈良盆地諸遺跡の発掘成果をもとに築き上げられた、精妙なペルシャ絨毯の如き壮麗な「世界像」を構築した比類なき考古学の業績は、賛嘆すべきですが、それを述べると本書書評に入れないので割愛しました。

 考古学的議論において、庄内式土器の年代比定に伴う纏向遺跡の年代比定の動揺が、箸墓の年代比定に関する論議を巻き起こしたのは、「世界像」の一部、箸墓年代比定という特異点を、三世紀にずり上げたため、壮大な「世界像」全体に破綻を招いたと見え、それが一種の動乱と活写されています。

 もちろん、著者は、そうした動乱を通じて、「橿考研」所員、つまり、当事者でしたから、在職当時は、いわゆる「党議拘束」に縛られて、機関決定以外は外部に発言できなかったろうし、退職後の機関決定批判にも限界があるのでしょうが、関わり合いのない素人からすると不可解な点が多いのです。

*破綻の元凶
 ここで、問題にしたいのは、かかる議論が、田中琢氏なる個人の提議によるものであり、橿考研が個人の強弁で変節したと思われる点です。
 別稿でも述べたように、田中氏は、石野博信氏の主催する講演会において、自身の専攻分野ではない、中国史書の文献批判について、根拠の無い批判を展開して、「橿考研」が基礎としている倭人伝の信頼性を損壊する議論を進め、遺物考古学が、文献考古学を破壊する「新説」を推進しています。
 さらには、主催者である石野氏を罵倒したことが明記されています。

 当ブログ記事筆者の意見では、そのような錯綜した思考の持ち主の提言による箸墓年代比定説は、取り上げるべきではなかったと思われます。案ずるに、田中氏は、氏に求められている専攻分野の学説の確立に失敗していながら、「ブレない」強弁によって議論の結尾を撓めたようです。
 仄聞するところでは、陰の声として「橿考研」が「伏魔殿」などと後ろ指される原因であり、公的研究機関として、審問に曝されるべきです。

                                未完

新・私の本棚 関川 尚功「考古学から見た邪馬台国大和説」 2/3

 「畿内ではありえぬ邪馬台国」 梓書房 2020年9月刊
私の見立て ★★★★☆ 自明事項の再確認 2021/10/06

*鍋釜論の低迷
 関連して、「鍋釜論」が解明されていません。纏向に全国各地の土器が集積していますが、各地からの移住者が持参したに違いないという決め込みです。
 私見では、「纏向」が、削り込み技法を売り物に、各方面に交易品として送り出したのに対して、現地土器が環流したと見ます。

 個人的に好む表現として、好まれる「物」は足が生えていて、一人歩きすると見ています。つまり、各地の市で物々交換をくり返しながら、順送りで遠距離まで届けられるのです。月日がかかるにしても、別に納期が限られているわけではないし、賞味期限があるわけでもありません。それこそ、何年かけても「ダンナイ」、全く問題ないのです。

*無理な持参仮説
 いや、橿考研定説では、纏向出土の各地土器は、纏向に参上した各地行人が、持参したと見ていて、主従交流の証拠とみているようですが、これほど大柄で重く、また、纏向特産の薄肉土器と比べて、格別の特色もない各地土器が、いわば、海山越えて将来されたとは、信じがたいのです。
 行商人が、土器を担いで旅する図は、戯画にもなりません。いや、遠国からの旅人が、鍋釜を担いでやってくる戯画とどっこいどっこいです。

*時代錯誤の風潮
 後年、遠隔地から白布や干しアワビが税納されたようですが、それは、古代街道整備で道中安寧が保証されてのことで、各地に大和への供物が徹底して地方官人が務めとして送り出す制度が完備してのことです。
 律令国家が成立した時代は、一片の木簡を荷札として隠岐のアワビが税衲されたと知られていますが、四百年の過去、文書も、律令法制もなく、古代街道もない時代、有力者が出向かないと献納を指示できなかった時代に、どのようなカラクリで土器収集ができたか重大な謎ではないでしょうか。
 これもまた、遺物自体については異論はありません。考察があれこれ曲がるのは、一も二もなく「古代国家」に、こじつけるからです。

*庄内式土器私論
 以下、本書で提言されている庄内式土器の年代記を見ると、同形式の特徴である内面研ぎ上げによる薄壁、丸底の薄肉土器は、奈良盆地内で創出されたものではないようです。西方、恐らく吉備圏から到来した土器技術者が、まず、河内湾岸から南河内丘陵部で窯元となって、薄肉土器を周辺に送り出して、その特性によって、天下[当時で言うと、精々、吉備、河内、中和(大和中部)程度]銘品との定評を勝ちえたようです。

 その際、有力な技術者が分家して奈良盆地内に移住し、そこで、盆地内の諸集落に薄肉土器を送り出したが、初期は、周辺地域に限られ、長年を経て、何かの契機で、奈良盆地を要とした東の伊勢方面、西の河内平野、そして北の淀川水系への送り出しが増加したと見えます。

 特に、当初、纏向を発した「もの」は、盆地北部から木津水系を経て淀川の河川運送に届かなかったため、盆地壺中天に囚われたと見えます。

*年代鑑定「お手盛り」疑惑
 因みに、庄内式土器の年代比定は、かの「田中」氏の本業であるから、本来は、正当な学問の成果と思いますが、以後の「橿考研」年代解釈が大分撓んでいるので、起点部分にまで疑いの目を向けたくなるのです。
                                未完

新・私の本棚 関川 尚功「考古学から見た邪馬台国大和説」 3/3

 「畿内ではありえぬ邪馬台国」 梓書房 2020年9月刊
私の見立て ★★★★☆ 自明事項の再確認 2021/10/06

*試行錯誤の伝説
 一体に、考古学の諸兄は、どこかで革新が発生したら、たちまち「全国」に模倣追随が広がると決め込んでいます。土器内面を削る庄内土器の斬新な技法と雖も、完成までに失敗例が山積した過程で、失敗から学んだ技術者が、土器技法を完成したはずです。後世、失敗を乗り越えた成功技法を「ノウハウ」と珍重しましたが、要は、試行錯誤を無用とするから、貴重なのです。
 そのような「ノウハウ」は五年や十年では習得できず、徒弟修行を経て習得するから、分家して別天地で開業するには、随分、年月を要するのです。
 橿考研が実務寄りの考察を進める人材に欠けると見て苦言するのです。

*文書考証の欠落
 続いて、国内古代史「考古学」の分野で軽んじられている中国史料の考証です。氏の専門分野外なのか、風説引用に陥っているのは残念です。
 いわゆる「史料批判」なる手順は、中国史料自体の信頼性や具体的な記事の信頼性を問う手法ですが、関川氏もとらわれている「誤解」「思い込み」が出回っていて、本書でも、肝心の考察をはなから取り崩しているのです。

 「史料批判」の前提としては、検証済みの基本資料、いわば、測定原器があって、当該史料の内容を、これに当てて審議していくはずなのですが、そのような前提は、一切確立されていないのです。つまり、その場その場の場当たりの「感想」で議論を推し進めているのです。

*文献否定の不調~晩節の課題
 本題に入ると、氏を含む先賢は、「魏志倭人伝」(倭人伝)なる中国史料に、批判を浴びせます。素人目にも、当時唯一無二の史料として、尊重すべきであるにも拘わらず、素人考え並みに、明確な根拠無しに信頼を置かないのです。

 端から行くと、一級史料たる倭人伝に「邪馬壹国」と明記されているにも拘わらず「邪馬臺国」と改竄しています。根拠なき批判、改竄は、史料偽造に等しい暴挙であり、氏は、かかる非学問的な学会風俗に同調しています。

 倭人伝不信論調に従い改竄している第Ⅷ章には、信を置けません。
 氏は、文献史料に基づく「考古」をどう捉えているのか、大変歯切れが悪いのですが、「邪馬壹国」否定論は反論を避けて通れないと思います。見てみないふりの「逃げるが勝ち」は、論争敗者の最後の隠れ家であって、現場から逃れてもしっぽが見えています。いや、以上は、関川氏の職歴上、不可侵なのでしょう。氏の考古学「晩節」は、浄められていないのです。

*史学における本末転倒
 纏向論者は、纏向論者向け特製「倭人伝」を用い、心地良いほど纏向論に合っていると見えます。所詮、「倭人伝」は、纏向論にしては、枝葉末節史料であり、その程度の自己完結で結構として、本当にそれでいいのでしょうか。
 古来、名刀は、鎚に打たれ、火と水の試錬を経て、名刀になるのであり、小手先でこね上げて温存される美術造形物ではありません。

 氏が、田中琢氏の本末転倒倭人伝全否定論に毒されてなければ幸いです。

*まとめ
 以上、氏の著書の書評はことの切り口であって、氏が、専門外の文書考証で、杜撰な先賢に無批判に追随したことは、ここでは、主たる批判対象ではありません。ご自身が気づいて、ご自身が姿勢を正すべきなのです。

以上

より以前の記事一覧

お気に入ったらブログランキングに投票してください


いいと思ったら ブログ村に投票してください

2021年10月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31            

カテゴリー

無料ブログはココログ