新・私の本棚 ネット記事「現代人でも至難の業! 卑弥呼の船はなぜ大陸から帰れたのか」 1/4
「逆転の発想」から見えてくる邪馬台国 播田 安弘
日本史サイエンス〈弐〉邪馬台国、秀吉の朝鮮出兵、日本海海戦の謎を解く 講談社 ブルーバックス
◯はじめに
本稿は、ネット記事の紹介であり、このように、堂々と販売促進されている以上、記事自体の批判も許されると考えて率直に批判しました。抜粋の文責はサイト編集部でしょうが、著者了解済みと見て書いています。
因みに、「なぜ卑弥呼の船は戻れたのか?」は、意味不明の大滑りです。
*不吉な展開~トンデモ本の系譜継承か
なぜ卑弥呼の船は戻れたのか? 船舶設計のプロフェッショナルであり、このほど『日本史サイエンス〈弐〉』を上梓した播田安弘氏の仮説から、邪馬台国への意外なルートが見えてきました。
ここで、著者紹介は「船舶設計のプロフェッショナル」と認定していますが、本書で問われる古代木造船設計建造に、どんな知識、経験を保有していることか。
要するに、現代の大型鉄鋼船舶は強力な推進機関と航海情報を有していて、造船所は、巨大な鉄鋼構造物の力業で蠢いています。そのような「現代人」の古代船「初心者」の「素人考え」が無造作に開陳されていると見えます。
*不吉な課題呈示
「卑弥呼の船」を考える
弥生時代の日本で邪馬台国が最大の国として発展したのは、女王・卑弥呼が中国大陸と活発に交流し、先進的な文化や技術を導入した……
氏は、古代史に関して素人と見え、無造作に始めますが、三世紀、「日本」は存在せず、筑紫に限定しても「最大の国」など時代錯誤です。「女王が「中国大陸」と交流」とは、大変お粗末で、人が「大陸」とは交流できません。魏が中原を確保しても、南に漢帝国の継承者と自認の漢(蜀漢)が健在で子供だましです。
倭から「大陸」に至るには、半島上陸後、街道で帯方郡に至り、郡官吏の同伴で山東半島から洛陽に赴きます。当時、遼東は関係ありません。
洛陽に到着すると、まず、鴻臚の典客担当は、蕃人を「客」と煽(おだて)てつつ、人前に出られるよう行儀を躾けます。最後、手土産、印綬を与えて、送り返すのですが、辺境で厄介事を起こされて始末するよりは、随分安上がりなのです。
こうして見ると、「大陸と交流」は安易な思い過ごしと見え、まことに不勉強です。
「先進」文化を採り入れようにも、まずは、漢字習得と言っても、万に及ぶ文字の発音と字義の記憶で、。文字文書がうっすら理解できるというだけでなく、中国文明の根幹である、四書五経の暗唱、解釈を身につけることが、「文化」の大前提であり、また、幾何(算術計算)習熟も必須です。「技術」は、言葉が通じるのが、実務/徒弟修行を通じて、伝授/習得/技術移管できるものであり、手軽に「導入」などできません。
また、女王が如何に意欲を持っていても、当時の情勢を眺めると、文化/技術指導者が、先進国での栄達を捨てて、生存も覚束ない倭に移住し、途方も無い労苦を厭わずに指導にあたったとは思えません。
古代に何か想定しても、時代考証を重ねないと、単なる夢想に終わります。
*関係不明な遺跡紹介
以下の遺跡に、参考になる出土品が4例あります。(略)
卑弥呼の時代の船は、基本的には木をくり抜いた丸木舟の両側や前後を覆っただけの構造で、帆はなく、櫂やオールを漕いで進んでいました。海に出るにはかなりの危険をともないましたが、それでも船首と船尾を高くするなどの工夫をして、大陸へと漕ぎ出していったのです。
「卑弥呼の時代」と出土物の時代比定は、大変不確実と見えます。全て、後世産物でしょう。
埴輪の土器造形と線刻画は、制作者の主観、再現精度が不明で、担当研究者の推定の確かさも不明です。無根拠に等しい憶測です。
現代の工業化社会で確定している「機械製図」の規則に従っている「図面」以外の図形情報「イメージ」は、芸術的表現であって、一切、工学的な史料と解釈してはならないというのが、「サイエンス」の大原則と思いますが、考古學のHistorical Scienceは、図形の見かけの印象を絶対視するらしく、困ったものです。まして、孤証を孤証として限定的に評価することもないのです。まことに、非科学的です。
未完