倭人伝随想

倭人伝に関する随想のまとめ書きです。

2023年11月29日 (水)

新・私の本棚 サイト記事批判 宝賀 寿男 「邪馬台国論争は必要なかった」 部分更新

 -邪馬台国所在地問題の解決へのアプローチ-   2022/01/27 改訂 2023/11/29, 12/02

〇サイト記事批判の弁~前言限定
 宝賀氏のサイト記事については、以前、懇切丁寧な批判記事を5ページ作成したが、どうも、無用の長物だったようなので、1ページに凝縮して再公開したものである。
 宝賀氏は、記事引用がお嫌いのようであるが、客観的批判は(著作権法で許容の)原文引用無しにできないのでご勘弁戴きたい。世上溢れる素人の印象批判は思い付きがめだって不公平である。岡田英弘氏の名言を借りて、自戒の念をこめて下記する。

*自称「二千年後世の無教養な東夷」
 岡田氏は、三世紀西晋の史官陳寿は、「千七百年もあとになって、この東海の野蛮人の後裔が邪馬台国ゲームを楽しむことを予想して、親切心から「倭人伝」を書いたわけ」ではないと処断しているが、どうも、読者の耳に入っていないと見えるので、ここに再掲しておく。(岡田英弘著作集 Ⅲ 日本とは何か 第Ⅱ部 倭国の時代 邪馬台国vs大月氏国)
 当方は、近来、岡田氏の大著の「山塊」に記された警句に気づかず、「二千年後世の無教養な東夷」などと警句を連打していたが、大家の警句が浸透しないのだから、当方如きの警句は聞き流されているようである。
 当方は、素人は素人であっても、極力客観的な批判を試みたのである。 

*救われない俗人
 いきなり、『俗に「信じる者は救われる」』とあるが、凡人には、なんで、誰に「救われる」のかわからない。凡人に通じない「枕」で「滑る」のは勿体ないことである。

*信念無き者達
 「信念はかえって合理的解決の妨げ」とのご託宣であるが、「不適当な信念は、かえって合理的な解決を妨げる」なら主旨明解で異論は無い。私見では、信念なしに研究するのは「子供」である。なぜ、あらぬ方に筆を撓ませるのか。滑り続けている。

*古田史観の誤解、宝賀史学の提唱
 宝賀氏の誤解はともかく、古田氏は、『「倭人伝」研究は、史学の基本に忠実に「原点」を一定に保つべきである』と言っているに過ぎない。頭から、「倭人伝」が間違っているに決まっていると思い込んでは、研究にならない』のである。つまり、志(こころざし)としては、宝賀氏と同志と見える。

 言い方を変えてみる。古田氏は、現存、最良の「倭人伝」史料を原点にする』という「学問的に当然の手順を確認している」のである。宝賀氏は、「原点」に対してはるか後世のもの(二千年後世の無教養な東夷)が改竄を加えた新「倭人伝」を自己流の「原点」として主張しているのであるが、それは、後世著作物である『新「倭人伝」』を論じているのであり、それは、古典的な史学で無く、「宝賀史学」とでも呼ぶべきものである。まことに勿体ない行き違いである。

*的外れな「倭人伝」批判
 因みに、かっこ内の陳寿批判は、『宝賀氏の不勉強』を示しているに過ぎない。(「不勉強」は、本来謙遜の自称であるが、ここは、言い間違いをご勘弁いただきたい)
 古代に於いて、許可無くして機密公文書を渉猟して史書を書くのは、重罪(死刑)であるから、陳寿の編纂行為は公認されていたのである。三国志編纂は、西晋朝公認、むしろ、使命と見るべきである。「私撰」とは、浅慮の思い過ごしでは無いか。
 「倭人伝」が雑然』とか、『陳寿が全知で無い』とは、まるで、素人の勝手な思い込みである。一度、ご自身の「信念」を自評して頂くと良いのでは無いか。
 いずれにしろ、「倭人伝」の史料としての評価は、「原点」確認の後に行うものであり、宝賀氏の咆吼は、言うならば、勘違いの手番違い、手順前後である。また、おっしゃるような「悪態」は、「倭人伝」の史料批判には、何の役にも立たないのである。却って、発言者の資格を疑わせることになる。随分、損してますよと言うことである。

*「魚豢批判」批判
 白崎氏批判は置くとして、『文典で基本となるのは、魚豢「魏略」残簡しかない』というのは極度の思い込みである。魚豢は魏朝官人であり史官に近い立場と思われるが、私撰かどうか、現代人の知ったことでない。(「魏略」は、「名は体を表す」。 「正史」でもなんでもないのである)「漢書」を編纂した班固と違い、陳寿も魚豢も、「私撰」の大罪で投獄されたりしていないのである。
 ここで、「魏略」論が、混濁/混入しているが、『「手放しで」同時代史料』とは意味不明である。
 「魏略」佚文』に誤写が多いのは、校正作業を手抜きした低級な「佚文書写」故であり、「倭人伝」基準で言えば「桁外れ」に誤写が多いのは必然である。「倭人伝」二千文字に、二十文字誤写が有ったとしたら、それでも、十分許容される一㌫であるが、『「魏略」佚文』 では、数㌫と言えない「桁違いの泥沼」と定量的に言明すべきと思うものである。「史記」基準なら、可愛いものかも知れないが、ここでは、「三国志」の基準を適用するしかない。
 史学の史料考察は、最高のものを基準とすべきなのか、許容範囲の最低のものを基準とすべきか、よくよく考えていただきたいものである。これは、室賀氏に対する個人的な批判では無い。

 三国志」は、陳寿没後、程なくして、陳寿が用意していた完成稿(の絶妙の複製)が上申され、皇帝の嘉納を得て、西晋帝室書庫に収納されたから、以後、王室継承の際などの動揺はあっても、大局的には、初稿が「健全」に維持されたのである。時に、低俗サイトで持ち出されるような「改竄」など、できようはずがない「痴人の白日夢」である。これは、室賀氏に対する個人的な批判では無い。

 全体に言えることなのでが、中国史書を論じているのに、「二千年後世の無教養な東夷」の世界観で裁いている感が、業界全体に漂っていて「和臭」が強いのは、「日本」特有の一種の風土病かも知れず、つけるクスリが無いとか言われそうなのである。もちのろん、これは、室賀氏に対する個人的な批判では無い。誰かが気づいてくれたらと思うのだが、岡田英弘氏の警鐘が効いていないのだから、ここで素人が何を言っても通じないのだろうが、近来、ここで言うことにしたのである。

 後世、特に現代の文献学者は、「三国志」には、あげつらうべき異本が無く、まことに、「飯のタネにならん」と慨嘆しているのである。「三国志」を写本錯誤の教材にしようというのは、銭湯の湯船に自慢の釣り竿の釣り糸を垂れるようなもの」であり、見当違いなのである。釣れなかったら、河岸を変えることをお勧めする。

*「倭人伝」批判再び
 「倭人伝」批判が続くが、「それだけで完全で」は、「完全」の基準なしでは氏の先入観/思い込みと見るしかない。二千字の史料が、完全無欠なはずはない。当たり前の話である。つづいて、「トータル」で整合性がない』との印象評価だが、「トータル」は古代史用例が無く意味不明である。
 氏の先入観、印象は、第三者の知ったことでないので恐れ入るしか無い。学術的に意義のあるご意見を承りたいものである。

 丁寧に言うと、「倭人伝」は、陳寿が、編纂に際して入手できた公文書史料を集成したものであり、史官が、史料を改竄するのは「死罪」ものであるから、「述べて作らず」の使命を守っているのである。そのために、素材とした史料の文体、語法などが不統一と見えても、それは、陳寿が史官の本分を遵守したことを示しているのである。
 いや、陳寿は、「正史」を「史実」/歴史的な真実の記録の集大成と見ているので、史料を割愛した例は多いと見えるが、それは、史官の信条に基づく「正義」の割愛であり、まずは、当時、その場で史官の真意を知ることができなかった後世東夷の読者、「二千年後世の無教養な東夷」としては、そのような編纂方針を甘受すべきと思われる。
 あえて無礼な言い方をすると、氏は、断じて、陳寿に比肩すべき知性、教養の持ち主であって、陳寿に取って代わって、魏志編纂を執行する抱負をお持ちなのだろうか。背比べの相手を間違えているように思うのである。

*「混ぜご飯」嫌い
 素人考えながら、持論としての古田、白崎両氏の批判だけで切りを付けて、史料批判は別稿とした方がいいのである。具の多い混ぜご飯は、好き嫌いがある。論考の強靱さは、論理の鎖のもっとも弱いところで評価されるのである。

*「魏略」再考 2023/12/02補充
 因みに、魏略」の文献評価は、劉宋史官裴松之によって、「倭人伝」後に補追されている著名な魏略「西戎伝」に尽きるのでは無いか。陳寿「三国志」「魏志」第三十巻に補追されて以降は、倭人伝」並のほぼ完全な写本継承がされているから、批判の価値がある。ということで、魏略「西戎伝」 は、権威ある「三国志」百衲本の一部となっているのである。字数も、「倭人伝」を大きく上回っている。批判しがいがあろうというものである。

 結論を言うと、魚豢は、正史を志したものではないので、史書編纂の筆の精緻さ/強靱さに於いて、陳寿に遠く及ばないのである。劉宋史官裴松之の手にあったのは、丁寧に写本継承された「善本」であったろうが、素人目にも明らかな、脱字、行単位の入れ違いなどの症状が見える。魚豢が参照した後漢西域関係公文書が、後漢末期、霊帝没後の大混乱で洛陽から長安に遷都し、後に、献帝が許昌で曹操の庇護のもと帝位を維持したものの、そうした皇帝の移動の際に、厖大な公文書がついて回ったとも見えないので、洛陽の書庫は維持されたとして、官人が動揺したのは当然であり、その間に、公文書の西夷関連部分に限っても、「脱字、行単位の入れ違いなど」の不始末が発生したようである。

 しかし、魚豢「魏略」「西戎伝」を踏まえて編纂したはずの范曄「後漢書」西域伝は、随分杜撰である。「下には下がある」のである。

〇頓首死罪
 以上、大変失礼な批判記事になったと思うが、率直な批判こそ、最大の讃辞と思う次第である。氏が追従(ついしょう)を求めて記事公開したとは思わないのである。

                                以上

2023年11月12日 (日)

新・私の本棚 番外 笛木 亮三 「卑弥呼の遣使は景初二年か三年か」 別系統コメント対応

                                             2023/11/12 追記 同日 11/15 
新・私の本棚 菅谷 文則 日本書紀と邪馬台国 2/2(2023.11.11)

◯刮目天氏コメント応答の件~変則運用御免
 かねて掲示する刮目天氏から、上記本件に関して、当事者外の野次馬コメントが届いていて、若干筋違いですが、ふさわしい案件に連携して、当方の方針で、極力説明差し上げることにしていますので、以下、蒸し返しも含めて回答します。なお、目には目を、コメントには返信コメントを、が常道ですが、丁寧に論拠をこめて回答するには、コメント欄に入りきらないので、記事を立てたことの非礼をお詫びします。

◯コメント全文引用

いつも勉強させていただいていますが、今回のお話は古代史解明のカギを握っています。

大夫難升米が帯方郡を訪れたのは景初二年六月ではなく景初三年(239年)六月の誤りであることは以下のことから推理できます。

「魏書 東夷伝
韓伝」に「明帝が景初中(237~239年)に密かに楽浪郡太守鮮于嗣と帯方郡太守劉昕を送った」という記事がありますが、「東夷伝
序文」に「景初年間、大規模な遠征の軍を動かし、公孫淵を誅殺すると、さらにひそかに兵を船で運んで海を渡し、楽浪と帯方の郡を攻め取った。」とあります。「魏書
公孫淵伝」によれば公孫淵の死は景初二年八月ですので、明帝は公孫氏滅亡を知ってから、楽浪郡と帯方郡を攻めさせたと分かりますので、景初二年六月よりも後の話なのです。

そして難升米が帯方郡で面会した太守は明帝の送った劉昕とは全く別人の劉夏なのです。

司馬懿が明帝崩御の景初三年春正月一日の後少帝の太傅(後見人)となって尚書省の長官に就いているので、人事権も掌握し、部下の劉夏を帯方郡太守に就け、戦略上重要な場所にある倭国を朝貢させたと推理できます。倭国王への詔書は司馬懿が書かせたものだと分かります。

つまり魏志倭人伝にほぼ全文掲載された詔書は、陳寿がそのまま転載したということです。陳寿は西晋の宣帝司馬懿を称揚するために魏志倭人伝を編纂したのです。晋書にも東夷の朝貢は司馬懿の功績だと記されているのですから、倭の魏への最初の遣使は明帝崩御後の景初三年六月が正しいと言えるのです。

ここが理解されないから、魏志倭人伝がコテコテの政治文書だと気づかないのです。
このため邪馬台国問題が解決しなかったのです。

従来の史料批判の考え方はそろそろ見直すべきですよ。

政治文書だと分かれば、七万戸の邪馬台国や五万戸の投馬国などホラ話だとすぐに気づきますし、帯方郡東南万二千余里の海上にある魏のライバル孫呉を挟み撃ちにする位置に計十五万戸の東夷の大国とした倭国の女王が都にするところが邪馬台国という記述も、すべて司馬懿を持ち上げるための潤色どころか大ボラだったということに気付けます。

多くの方は卑弥呼が鬼道で倭国を統治する、大集落の中に居た女王と考えていますが、本当の倭国王難升米が伊都国に居たのでは司馬懿の功績を持ち上げるには迫力不足だったから卑弥呼を女王にして騙したということなのです。

卑弥呼は倭国王よりも実力を持つ縄文海人ムナカタ族の族長赤坂比古(和邇氏の祖、魏志倭人伝の伊聲耆)の女(むすめ)イチキシマヒメだと突き止めています(宗像三女神の残り二女神は政治文書「日本書紀」のゴマカシ)。宇佐神宮・宗像大社や全国の八幡神社、厳島神社や神仏習合して弁天宮で祀られています。詳しくは拙ブログ「刮目天の古代史 邪馬台国は安心院(あじむ)にあった!」などをご参照ください。どうもお邪魔しました(;^ω^)

◯回答本文
*先行文献復習
 本件に関する論義は、近年でも、下記論考で議論されていますが、笛木氏が、周到な史料考証の果てに、誤謬をてんこ盛りにした指摘サイト記事に足を取られて、とんでもない結論に陥ったことを、当ブログで丁寧に批判し尽くし、念入りに否定されていますから、貴兄の論義は、考えちがいというか、不勉強による浅慮を根拠にしているので、この時点で「自動的に」考慮に値しない「ジャンク」となります。

 笛木 亮三 「卑弥呼の遣使は景初二年か三年か」 「その研究史と考察」 季刊 邪馬台国142号 投稿原稿 令和四年八月一日
新・私の本棚 笛木 亮三 「卑弥呼の遣使は景初二年か三年か」新版 1/3 補追
新・私の本棚 笛木 亮三 「卑弥呼の遣使は景初二年か三年か」新版 2/3 補追
新・私の本棚 笛木 亮三 「卑弥呼の遣使は景初二年か三年か」新版 3/3

 笛木氏の実直な献身的努力のおかげで、それこそ、ゴミの島をかき分ける徒労は避けられるのですが、反面、玉石混淆の羅列で、資料批判が疎かになるのは免れず、笛木氏の貴重な労作は、資料解釈に紛れ込んだ妄言のたまり場と化しているのです。
 特に、資料解釈の結論部で、不意打ちで、いかがわしい意見を採り上げて、折角集積した先賢諸兄姉(当然、自身のブログ記事は尊称の対象外です。念のため)無批判で踏襲するという、大変な間違い/取り違いをしていますから、丁寧に、率直に批判しています。
 二重引用になるので、言及を避け、要するに論義の責任は、所詮、笛木氏に帰属するので、人名は明記していないが、興味のある方は、原文を参照いただきたい。

*誤解の起源
 陳寿「三国志」魏志原文の「又」が、みずほ書房版「三国志」で、学術的に正確に、「さらに」なる古典的な日本語に翻訳されているのに対して、これを、現代の無教養な論者が、「自然に」、つまり、自身の限界のある「脳内辞書」で解釈して、権威ある辞書の参照を怠ったため、魏志の真意を察することができずに「楽浪、帯方二郡の回収時期を、公孫氏滅亡後と勘違いして決め込んでいる」ものであり、貴兄も、そのような意見に操られたのは、浅慮に属するものと思われます。
 貴兄の発言にも関わらず、史料批判とは、古来、何事も、繰り返し検証するということなのです。
 「又」は、漢字一字ですが、文意解釈上の要点であり、貴兄の別コメントにあるように、字数だけ捉えて、「わずか」などと、二千年後世の無教養の東夷が安易に切り捨ててはならないものなのです。

 要するに、司馬懿の公孫氏討伐に時間的に連動せず、但し、ものの理屈から、これに「先行して/先立って、両郡を皇帝指示の少数部隊により、太守を更迭して、遼東公孫氏の指揮下から外して、明帝直轄の新任太守に無血交替した」という趣旨が見てとれていない浅慮の失錯と見えます。何しろ。両郡太守は、皇帝の指揮下にあるので、勅命の紙片一枚で、更迭できるのです。
 但し、当ブログを参照している笛木氏は、肝心の指摘を見過ごしているので、今回の指摘も、見過ごししているかも知れません。あるいは、名「解釋子」が、そのような回収は、両軍の郡兵を動員して、遼東軍攻撃に参加させるなどと、無謀な創作をしているのに影響されたものかも知れませんが、それは、とんでもない臆測も良いところで、「密かに」と当たり前の事項を、但し書きして真意を見過ごしています。
 あることないこと書き足して、蛇足まみれにする「高等」戦術家とも見えますが、見え透いているのです。

 因みに、引用者が「景初中」を237-239と見るのも、軽率の誤訳です。景初三年は皇帝のいない異例/特異な期間なので、明帝の治世と見ることは許されないのですから、史官たる陳寿が意図したのは、景初一,二年の期間であるのは自明です。景初三年を含めたと解するのは、史官に対する侮辱-警告無しに一発退場です。

 ついでながら、倭人使節は、景初三年六月に帯方郡に到着したという説であるから、数ヵ月を経て、洛陽から許可を得て発進しても、洛陽に到着するのは、さらにまた数ヵ月後という成り行きなので、自動的に、皇帝が倭使節の上書に接するのは景初三年と限らず、正始元年、ないしは、それ以降と主張していることになると思われます。其の場凌ぎの言い訳は。言うはたからボロを出す例です。

 冒頭に述べたように、論争の通則として、「明らかに誤謬である前提」に立った貴見は、自動的に、根こそぎ誤謬となりますので、以下のご意見は、いかに念入りに構築されていても、自動的に、根拠の無い臆測となります。特に、本件は、日本語訳文の解釈の齟齬なので、解釈の誤解は、みずほ書房「三国志」翻訳者の責でなく、これを「現代語」に読み替え/解釈したものの責であります。貴兄ほどの見識の持ち主は、誤謬を信用したことに対する責任も負うのです。

 時に、愛情をこめて揶揄するように、無批判の先行見解踏襲は、夕暮れに、疲れ果てた旅人が路傍の「温泉」にいきなり飛び込むのと同様で、まずは、狸に化かされていないことを入念に確認して頂く方が良いでしょう。何しろ、日本古代史の「通説」は、八百八狸の騙し芸の名所なのです。被害者は、枚挙のいとまがないのです。

 ちなみに、貴兄の近来の施政方針(ポリシー)は、全世界の全「歴史文書」(ママ) は、すべて、はなから、「権力者」(ママ) の指示によって編纂された「政治文書」(ママ)に決まっている」(普通の表現としたことは、当方文責)という実証不可能な包括的大風呂敷ですから、陳寿「三国志」魏志第三十巻の巻末の「魏志倭人伝」に関する断言は、貴兄の施政方針が予め実証されない限り、貴兄の思いつきに過ぎないことは、自動的に通用しているので、ここで、何か力んで発言しても、抵抗は無意味です。よくよく、前後関係を見定めた上で。大言壮語、断言された方が良いようです。

 貴兄ほど、多くの読者の尊敬を集める良識の持ち主は、いかに心地良くても、一刀両断の大言壮語を自省いただき、具体的に、実直に、着実に実証の努力を積み重ねることをお勧めします。

*同日追記
 どうしても気がかりな部分をとりだして、精査してみました。
・推理とネタばらし
 司馬懿が明帝崩御の景初三年春正月一日の後少帝の太傅(後見人)となって尚書省の長官に就いているので、人事権も掌握し、部下の劉夏を帯方郡太守に就け、戦略上重要な場所にある倭国を朝貢させたと推理できます。倭国王への詔書は司馬懿が書かせたものだと分かります。
 つまり魏志倭人伝にほぼ全文掲載された詔書は、陳寿がそのまま転載したということです。陳寿は西晋の宣帝司馬懿を称揚するために魏志倭人伝を編纂したのです。晋書にも東夷の朝貢は司馬懿の功績だと記されているのですから、倭の魏への最初の遣使は明帝崩御後の景初三年六月が正しいと言えるのです。

*コメント
 見事な創作/解題ですが、客観的な根拠は見られません、丁寧に解説すると、太傅は、少帝のお守り役/名誉職で特に権力もありません。帝国政府は、多くの組織に分化していて、人事権も、同一組織に限られていたのです。つまり、時代錯誤なのですが、誰から教わったのでしょうか。いえ、別に、「ほら吹き童子」の名前を知りたいのでなく、実(じつ)のある根拠を示してもらいたいだけです。
 晋書は、「皇帝」が官僚に命じ司馬氏を貶めるよう編纂させた「正史」史上初の画期的な官製「ダメ史書」ですが、なぜ、貴兄の信条に反して信用されるのでしょうか。
 因みに、常識的な景初二年に従うと、帯方郡回復は遼東戦役の最中で司馬懿が任務以外の策動をすることはあり得ないのです。また、「戦略」もなかったのです。また、皇帝詔書は、高度な教養が要求されるので、担当が決まっていて、文筆に信用に無い武官の司馬懿が書くことは絶対ないのです。というか、貴説に関係しない余談でしょうから、「蛇足」でしょう。

 ということで、貴兄のお話は、本末転倒しているのです。景初遣使が三年六月を根底/出発点/大前提に、寄木細工で物語を組み立てているので、辻褄が合って見えるだけです。

 当方の意見としては、ご力説のように、三国志「魏志」が、西晋皇帝の帝詔により司馬懿に迎合するよう編纂されたとしたら、なぜ、燦然たる倭使事績が、読み人も希な巻末/隅っこの倭人伝に、「わずか二千字」で、ひっそり/わかりにくく書かれているのかということです。司馬懿を顕彰する「戦略」があったというなら、「三国志」に司馬氏の悪名が残されているくせに「司馬懿」伝がないのが、まことに不思議です。逆臣である劉備、孫権にとどまらず、族滅した毋丘儉にも、「伝」はあるのです。

 一見すると、貴兄は、脳内に、現代人が現代語の概念で蠢く「時代劇」世界を展開されているのかと愚考する次第です。そこでは、現代概念が通用しているのでしょうが、「現実」の古代世界は、大きく様相が異なるのです。
 いや、そのような個性的世界観は、開祖岡田英弘氏初め、多数の追随者がいらっしゃるので、共感の声を聞くことが多いでしょうが、それは、高名なカズオ・イシグロ氏(ノーベル文学賞受賞)の「フィクション」観と通じるものですが、『フィクション」古代世界が整合して見えても、現実の混沌たる古代とは別世界です。このあたりが理解できないで、現代語で突っ張っているとしたら、それは、中国古典文書解釈の常道を踏み外しているということです。

 要するに、土地勘の無い異世界で、なぜ、「一路」に我を張るのでしょうか。

ここが理解されないから、魏志倭人伝がコテコテの政治文書だと気づかないのです。
このため邪馬台国問題が解決しなかったのです。

*コメント
 当時西晋朝の官界に「政治文書」などないのは、ご存じないのでしょうか。
 [邪馬台国問題]は、西晋史官陳寿が想定のうるさがた読者に用意した「謎」であり、多少の努力で「解答」(正解)できたものなのです。二千年前に解決済みなのです。勘違いしてはなりません。後世、つまり、唐代止まりですが、例えば、「倭人伝」の万二千里道里が非論理的だと言われた例は、寡聞にして見当たらないのです。
 なぜ、貴兄が「火事場」の怪力を示すのか、よくわからないのです。

*追加コメントみたび 2023/11/15
 当ブログ読者には、「耳タコ」だろうという事で、飛ばしましたが、初見の方のために、説明を加えます。
政治文書だと分かれば、七万戸の邪馬台国や五万戸の投馬国などホラ話だとすぐに気づきますし、帯方郡東南万二千余里の海上にある魏のライバル孫呉を挟み撃ちにする位置に計十五万戸の東夷の大国とした倭国の女王が都にするところが邪馬台国という記述も、すべて司馬懿を持ち上げるための潤色どころか大ボラだったということに気付けます。
 七万戸の邪馬台国は、貴兄の誤読です。まあ、尊重すべき「倭人伝」を、はなから否定して「邪馬台国」と改竄して、原文が読めなくなっているのでしょうが、自然に解釈すると、女王は、精々千程度(文飾か)の端女(はしため)に傅かれていたことですが、端女は戸数に関係しないので、農耕「戸数」は無いに等しいのです。まして、女王の居城に課税することはあり得ないので、女王居所の「戸数」は無かったのです。
 「倭人伝」には、女王の居所としか書いていないので、卑弥呼が自己の居城を「都」(みやこ)としたというのも、誤解です。班固「漢書」西域伝で、蛮夷の王の居所を「都」としたのは、漢に匹敵する文明大国であった西域西端の巨大王国「パルティア」だけですから、陳寿が東夷の新参蛮夷に「都」の尊称を与えるはずが無く、簡単に誤解と分かるのです。
 なお、蛮夷の固有名詞/地名に「都」の字があっても、それ自体は、表音字となれば、「不敬」とは限らないのです。「不敬」であれば、魏志から削除されていたのです。
 計十五万戸は、従って、蜃気楼であり、実際、そのような戸数は、どこにも書かれていません。倭の全戸数は、七万戸なのです。
 書かれていない文字を虚空から読み取って、陳寿を非難するのは、筋違いです。
 五万戸の投馬国は、確かに文飾ですが、貴兄の書き漏らしている二万戸の奴国共々、貴兄が虚飾/誇張と断定する文字を書き残したのは、遼東太守時代の公孫氏であり、後世になって公文書を引き継いだ陳寿には、文書改竄はできないので、ありのままに書き残しただけです。陳寿を非難するのは、筋違いです。対海国、一大国、末羅国、伊都国と続く戸数/家数を見れば、実数は、五千戸にも満たないと見えますが、当時、一大率の指導を受けていない二国には、戸籍制度がなかったので、戸数は、推定すらできなかったと見えるのです。
 陳寿に司馬懿を高める意志があったのかどうかは、後世東夷の無教養なものには、分からないはずですから、気づいたというのは、単なる、良くある錯覚なのです。
 「帯方郡東南万二千余里の海上にある魏のライバル孫呉」は、筆が滑ったのでしょうか。魏皇帝は天子ですから、川釣りで釣果を争う「ライバル」などと呼べる相手などどこにもいないのです。(もともと、中国古代史に、生かじりのカタカナ語を持ち込むこと自体、「無法」の極みです。
 かって、匈奴は、漢高祖の親征軍を大破して、匈奴が兄、漢が弟という和睦を締結しましたから、匈奴は、漢に匹敵する尊称と言えますが、それ以外、漢魏西晋は「無敵」だったのです。ちゃんと、同時代の世界観で語らないと、大局を誤るのです。
 史料の文字を精読しないとたちまち自滅発言になるのです。
                                以上
頓首頓首死罪死罪

以上

2023年11月11日 (土)

新・私の本棚 菅谷 文則 日本書紀と邪馬台国 1/2

 日本書紀を語る講演会 第9回 高取町  2017/02/26
 私の見立て★★★☆☆ 端正な労作 細瑾のみ    2023/10/12

◯はじめに
 本稿参照の講演は、2017年当時 奈良県立橿原考古学研究所(橿考研)所長 菅谷文則氏の一般講演の記録である。
 惜しむらく、氏は故人であるが、史学の進歩のため、謹んで引用批判させていただいた。公立法人成果発表の部分引用と批判は、許諾されていると信ずる。

「講演の内容
 「三国志、宋書などの中国の歴史書から、日本の歴史を組み立てることは日本の文化・歴史を蔑ろにしている」との意見が散見する。しかし、日本書紀編纂の際、年代設定の基準としたのが、三国志魏志倭人伝である。[中略]
 魏志倭人伝(三国志の一部分の略称)によると、西暦239年に邪馬台国の女王卑弥呼は、魏へ遣使した。朝鮮半島の帯方郡(韓国のソウル近郊か)を経由して都の洛陽へ向かったと記述されている。[中略]卑弥呼が魏に使者を送る1年前の238年まで、中国大陸の東北部には公孫氏が燕という国を興しており、当然、邪馬台国は朝鮮半島経由では魏に遣使できなかった。」

*コメント
 氏は、一部で声高に囁かれている「三国志、宋書などの中国の歴史書から、日本の歴史を組み立てることは日本の文化・歴史を蔑ろにしている」 との極度の妄見に対して、決然と、これを否認しているのは、氏の晩節を燦然と輝かせる箴言であるが、「馬の耳」には、一向に響いていないものと見える。

 但し、氏も人の子であるので、残念ながら、氏の「魏志」解釈は、詐話めく妄見に足元を掬われて低迷している。もったいないことである。

 「西暦239年」は魏志にない「誤解」で残念である。朝鮮半島中部帯方郡から魏「首都」洛陽への常用道里は、遼東郡を通過しないのである。魏明帝の特命により、遼東郡討伐とは別に帯方郡を魏の直轄とする作戦が完了して、新体制下、帯方郡から洛陽へ直行するのは、当然となっていた。西暦238年ならぬ景初二年六月に倭使が帯方郡に到着し、順当に洛陽に案内されたことは、当然と見える。
 ちなみに、しばしば、というか、ほぼ、常に誤解されるのだが、「公式道里」は、一度設定されたら、郡治が移動しても、改訂されないのである。
 景初三年初頭(元日)に魏の明帝が逝去したため、倭使が帯方郡に到着したのが、景初三年六月であれば、熱意を持って倭を招聘した明帝は世を去っていて、後継少帝曹芳の治世/喪中なので、精々冷淡になっていたと思われる。氏は、「当然」「できなかった」と声高に断定されているが、断定の根拠が見当たらないのである。根拠なき断定は、誠に、不合理、非科学的である。
 さらに言うと、景初三年正月は、西暦238年か239年か不確かであるから、中国古代史で、無造作な西暦談義は禁物なのである。

 [邪馬台国から朝貢を受けた魏の皇帝の詔文が魏志倭人伝に記録されている。詔文を全文記録しているのは、三国志の中では邪馬台国の遣使に対してだけである。魏が、倭との関係を重視していたことがわかる。]

*コメント
 氏は、中国史書を誤解されているが、歴代皇帝は適宜詔文を発行し、公文書として保存されたが、逐一正史に記録されていないだけである。「倭人伝」は、当代皇帝曹叡が、倭に格別の恩恵を与えたことを示すために、陳寿が特に引用したのである。つまり、明帝存命中に発せられたか、起草され、帝詔として発せられ、而して、公文書として永久保存されたと見るものかと思われる。少なくとも、一部論者が言うような少帝曹芳の自作/自筆では無いのは、確実、自明、当然至極と思われる。当然のことを知らないということは、誠に幸せである。

中略][日本書紀巻九の神功皇后紀には、魏志倭人伝を割注として引用している箇所がいくつかある。その中に、現行の魏志倭人伝では景初二年となっている(景初二年六月倭女王)が、日本書紀では景初三年と書かれている(神功皇后の卅九年。魏志云、明帝景初三年六月、倭女王…)。[中略]日本では、景初三年が正しいとしているのであるが、その理由として挙げられるのが、景初二年の西暦238年は、先ほど述べたように、公孫氏の燕国があるため、魏に向かうことはできないからである。]

                     未完

新・私の本棚 菅谷 文則 日本書紀と邪馬台国 2/2

 日本書紀を語る講演会 第9回 高取町  2017/02/26
 私の見立て★★★☆☆ 端正な労作    2023/10/12 些末の補筆 2023/11/11

*コメント
 既説のように、『唯一無二の史料である「倭人伝」に、「明確に」景初二年六月と明記されている以上、「これを覆す絶対確実な物証がない限り、これを正解として、以下の議論を進める」のが「日本」の学問の道』である。当方は、古代史学に関しては、素人であるが、知る限り、科学的文書考証では、そのような正統的な議論が正道のはずである。
 いや、現代、思想信条の自由というものが言われているが、本件は、学術上の発言の当否を言うものであり、自由に何を言ってもいいというものではないのは、衆知/自明の通りである。

 蕭子顕「南斉書」編纂は六世紀であって、魏志から三世紀以上後世である。既に、西晋洛陽が、西晋末の大乱で北方の域外部族に蹂躙されていたため、南斉書編者は、後漢書魏晋代公文書を利用できず、世上出回っている風評魔界の史料を渉猟し、臆測したのである。「当然」「倭人伝」考証史料としての信頼できるものでなく、資料価値は桁外れに、極めて低い。これが、客観的な「真実」である。

 ちなみに、氏の参照する日本書紀は、本文すら、原本、ないしは、直接の写本は、とうに喪われていて、原本を視認した証人も、とうに死滅していて、既に、「正史」などと中国正史を謀った継承は、有名無実で、禁書扱いして継承されて久しく、写本は、奇特な寺社の特定個人の個人の自発的献身的努力によって辛うじて維持されていて、その際、個人的な識見に従って校訂されたため、中国史書に比べて承継写本の信頼度が格段に低く、まして由来不詳/不明の割注は、本文と比して、さらに信頼度が急落するものである。要するに、全く、全く信用できない。

 氏ほど絶大な見識の持ち主が、こと、「倭人伝」を「日本史料」として粗略に扱うという謬りの陥穽に墜ちているのは、誠に傷ましいものである。

 [中略]日本書紀に引用された三国志は、魏を滅ぼした晋の時代に書かれた。日本書紀が編纂される頃には、すでに日本に伝わっていたので、日本書紀編集に利用することが可能であった。][中略][そこから古墳時代の始まりが4世紀とし、ひいては日本国家が形成されたとされていた。]

*コメント
 氏は慎重に言葉を選んで「可能であった」(はずである)とぼかしているが、かくなる論証に不可欠なのは、『日本書紀編纂者が、「三国志」魏志の信頼できる写本「善本」を「実際に」参照した』との確証であるが、そのような裏付けは、全く存在しない。
 むしろ、三国志ならぬ魏志」をも本文内に適確に引用することもできず、形式不定の割注に留めているのは、渡来していたと推定している「魏志」写本を確認できなかったため、編纂時に校正されていない、つまり、根拠不明の衍入と見える。
 要するに、氏が一定の信を置いている「日本書紀」編纂の公的集団の偉業ではなく、個人的な後付けの加筆であるから、一段も二段も、あるいはそれ以上に格落ちなのである。史書編纂の信頼性は、組織的な基準が適用されない、不規則な手順/基準外れとなっているときは、格別の低評価になるのである。「明帝景初三年」なる不法字句が排除されていないという一点で、「書紀」編纂の信頼性は、全体として地に墜ちるのである。

 既説の如く、日本書紀例文は、極めて不正確であり、「善本」引用でないことは自明であり、恐らく、誤写満載の断片所引と思われる。編纂者が、中国史書に適格な知識を持ち適格な史料批判を行っていれば、「明帝景初三年」なる不正確な資料の引き写しとして、訂正したはずである。手短に言うと、信頼性の備わっていない史料は、一切、魏志(に限らず史料批判の)考証に採用できない。誤って、立論の根拠とすると、立論全体が道連れになって、「自動的に」崩壊する。

 [しかし、纏向遺跡の研究を起爆剤として全国各地で行われた土器の研究から、古墳時代の始まりは220年~250年頃まで遡ることになる。そうなると、天皇系譜と卑弥呼との関係が複雑になる。冒頭に述べたような日本の歴史から中国の歴史書を外そうとする一因にもなっているのではないだろうか。]

*コメント
 ここで、氏の本音が吐露している。氏の職掌に相反しない緩やかな指摘にとどまるが、素人考えでは、近年の纏向遺跡考証が巻き起こした土器年代考証の付け直しに対し、倭人伝が大きな(最大の?)妨げである」との意見と思われる。
 素人考えでは、国内古代史/考古学成果と「倭人伝」を連携させること自体が、古代史学に対して古典的な禁忌に触れたため「学問的不合理」を巻き起こしていたのだが、「近年の纏向遺跡考証」は、その不合理を一段と強調/進化させたと見える。
 素人の自由な立場から発言させていただくと、纏向遺跡と倭人伝の連携」を策動することを放棄すれば、万事解決すると見える。互いに縁がないのであれば、互いに邪魔/妨げ/百害あって一利の無い存在になることはないのである。

 要するに、「邪馬台国」を纏向に誘致する地殻変動的なこじつけを止めさえすれば、「倭人伝が大きな妨げ」という固執は消え去ると思うのであるが、もちろん、氏は立場上、職責に反する発言は一切できないから、あえて無理を承知で率直に忠言するならば、何れかの時点でそのような不合理の流れを堰き止め、日本に健全な史学を復元していただきたかったと思う。とは言え、それは、古来、「望蜀」と呼ばれる「無理」なのである。

 日本書紀1300年に向けて、もう一度改めて日本書紀とその時代を、魏志倭人伝や中国の歴史書も併せて研究していかねばならないと思うのである。]

*コメント
 かくのごとく穏やかな口調であるが、一部論客の声高な発言に対して軽挙を戒める至言である。

◯まとめ
 以上、氏の講演の中国史書に関わる部分は、氏の情報源の素朴な反映と見えるので、遺跡/遺物を考証した考古学学究の瑕瑾となっていることを延々と述べたものであり、氏の本分/本領に対して何ら批判を加えたものではないことは了解いただきたい。
 
                                以上

2023年10月13日 (金)

新・私の本棚 番外 ブログ 刮目天一 「権力者の歴史書は政治文書だよ!(^_-)-☆」 1/2

~刮目天(かつもくてん)の古代史だ! 2023/10/12 
権力者の歴史書は政治文書だよ!(^_-)-☆                         当記事公開2023/10/13

◯はじめに
 以下に参照しているのは、かねて私淑の刮目天一氏のブログであり、国内古代史関係を主体に広範、詳細な古代史論を展開されている一連の記事の最新の「コメント」です。氏の「倭人伝」観は諸記事に散在し的を絞った批判が困難でしたが、今回凝縮して頂いたのを幸便として、一生懸命に批判を加えたものです。なお、氏の見聞された動画には、ここで言及しません。

 「権力者が作った歴史書とは、権力の根源が正統であることを示す政治文書だという理解をすれば、西晋の史官陳寿が編纂した三国志、そして三世紀の倭のことが書かれた魏志倭人伝の内容を正確に解釈できます。」

*コメント

 文章の前提は「権力者が作った歴史書とは、権力の根源が正統であることを示す政治文書だ」と提示されますが、陳寿「三国志」魏志には不正確です。中国古代の公式史書は、時の「権力者」が作ったものでないのは衆知です。
 一転、「魏志倭人伝」を「西晋の史官陳寿が編纂した」と判定されますが、直前の前提と用語が整合せず筋が通らないのです。氏は「魏志倭人伝」の局地を説き、冒頭の前提は空を切って見えますが、以下、ご高説を拝聴します。

 「この観点から、魏志倭人伝の版本に倭大夫難升米が帯方郡に行ったのは景初二年(238年)六月とありますが、景初三年の誤写であることは明らかですよ。難升米が面会した太守は劉夏だと明記されており、先に明帝が送った太守とは異なる人物なのです。」

*コメント
 古代史学者の難詰で「魏志倭人伝」は独立史書ではないので「版本」など実在しません。丁寧に、陳寿「三国志」南宋刊本紹熙本の魏書第三十巻「倭人伝」部分と示せば、紹熙本に、「倭人伝」と小見出しがあるので明快です。
 何しろ、具体的に何の話かキッチリ説明しないと通じないのです。
 氏の持論で、「景初二年」は三年の誤写が明らかと断定されますが、素人目に「明らか」/「確実」なのは、南宋刊本に書かれている文字だけです。

 「魏志倭人伝には卑弥呼の朝貢を絶賛する詔書がほぼ全文掲載されており、司馬懿が尚書省を把握したので司馬懿が書かせたものですから、陳寿は司馬懿の功績を当時の西晋の朝廷の人々に明示するために書いたのです。(2023.10.12 赤字修正)」

*コメント
 倭人伝が引用するのは、蕃王への通達であり「絶賛」は時代錯誤です。
 「賛」とは、文字の含まれない、教養の示されていない職人芸「絵画」に、意義を認める文章/詩文を添えるのであり、「絵画」は、「賛」を得て始めて「文」芸と認められるのです。中国古代史で注意の必要な「単語」の一つです。

 「倭が朝貢したのは明帝の功績ではなく西晋の宣帝と諡された司馬懿の功績だと晋書にもあります。西晋が魏から帝位を禅譲されたので、三国志では魏を正統な王朝とし、西晋の朝廷の人々に対して司馬懿の功績を称揚するために書いたのだと分かります。」

*コメント
 「晋書」は、三国鼎立時代以来数世紀の乱世を統一し、中華世界を復元した唐代に、乱世の元凶「晋朝」事績を史書としたものです。三国鼎立を統一した中原天子ながら、王族が「大乱」を起こして北方民族に滅ぼされた「司馬晋」の罪科露呈に編纂されたので、「晋書」深意が司馬懿の罪科でなく「功績」は、勘違いでしょう。

 氏ご自身の言葉を借りるなら、「晋書」を「作った」のは、唐帝であり、それを承知した上で解釈する必要があるのです。

                                未完

新・私の本棚 番外 ブログ 刮目天一 「権力者の歴史書は政治文書だよ!(^_-)-☆」 2/2

~刮目天(かつもくてん)の古代史だ! 2023/10/12 
権力者の歴史書は政治文書だよ!(^_-)-☆               当記事公開 2023/10/13 追記 2023/10/15

*コメント [承前]
 対して、陳寿は、西晋健在の時代に、司馬遷「史記」、班固「漢書」を踏まえ、「倭人伝」では、時点の皇帝明帝曹叡の「功績」を語っています。
 一方、明帝が臨終で遺孤曹芳を託した司馬懿は、忠誠を誓いながら、陰謀で曹魏の実権を握り、曹芳を諡の無い廃位に追い込んだと明記されているので、むしろ、非難とみるべきです。なお、司馬懿絵姿は無用/蛇足と愚考します。

 「魏志倭人伝の行程記事や倭の風俗記事は、難升米が朝貢のために約半年滞在して劉夏と司馬懿を持ち上げるために談合して作られたのです。これは、伊都国の国名の意味から判明し、孟子を読む教養人の難升米が漢字で書いて魏に教えたものであることが判明しています(詳細は「刮目天の古代史 伊都国の意味がヒントだった?」参照)。」

*コメント
 微妙な誤解ですが、難升米は、蛮王の代理[たる下級官吏(倭大夫)]に過ぎず、「魏」(帯方郡太守)に「教える」などあり得ないことです。天下を統率する「魏」と東夷の「倭人」の立場は隔絶しています。(倭の地位が格段に低いのです。念のため)因みに、難升米が、「天子と雖も、徳を喪えば失墜する」と説いた「孟子」を熟読したかどうか、証拠がないので臆測に過ぎません。急に細かくなって、劉夏を司馬懿と並べて持ち上げているというのも、今一つ理解できません。
 ついでながら、倭人伝冒頭の「郡から倭まで」の行程記事は、大変精緻で、郡太守と倭大夫如きが相談して、半年で作れるものではないはずです。いずれにしろ、西晋史官陳寿が、[西遷した後漢/魏朝公文書を]最終的に編纂校訂したから、そのように解するのが、氏の本意のはずですが、なぜか、ここでは不本意な書き方です。続く、風俗記事は、大半が現地見聞報告で、魏使訪倭以前に、書くことはできないのです。(一部[加筆]、削除 2023/10/15)

 「これによって邪馬台国の位置も、卑弥呼の正体も、卑弥呼の墓が日本最大の円墳の宇佐市安心院町「三柱山古墳」であることも発見しました(詳細「卑弥呼の墓は見つかってるよ!」参照)。」 
 「古代史に謎が多いのは、政治的な理由から文献に真実が書かれていないからなのです。」「女王の居城の平面図」は省略
 「同時代史の三国志に懲りたシナは、それ以降、ずっと後の時代に歴史書を編纂する習慣が定着したので改善されましたが、原本が残っておらず、残された写本にも誤字などがあるために様々な解釈が出るという問題があります。
 「日本の場合は、現存する最古の正史「日本書紀」以下の六国史は藤原政権下で編纂されたものですので、天皇の歴史書ではなく藤原氏の権力維持のための政治文書だったということに気付けば謎の古代史はどんどん解明できますよ。」 

*コメント
 「日本」が発言した701年以降の「日本」古代史については、全くの素人で、刮目天氏の「日本書紀」観には口を挟めないので、ここでは素朴な疑問を述べるだけです。
 ・「日本書紀」原本は、現存しているのでしょうか。(当然、存在していないはずです)
 ・「日本書紀」現存写本は、写本の際に、都度厳格に校正され、解釈を迷わせる誤字などないものなのでしょうか。(数値化して比較していただければ幸いです)
 「ずっと後の時代」に編纂された歴史書には、余り通じていないので、恥を忍んで教えを請う次第です。お手数ながら、公平のため、確認いただきたいものです。
 因みに、古代史では、「問題」には、必ず解答があるのです。
 中国「正史」には、それぞれの由来、経緯がありますが、「三国志」魏志は、[刊本となった南宋期に至るまで、]幾度かの国家事業で校訂を重ね。大変確実なのです。

*余談
 氏を含め、業界人の「倭人伝」論は、陳寿「三国志」なる中国史書が、帝国公文書を編纂した「厳格な記録文書」であることに気づいていないので、岡田英弘、渡邉義浩両巨魁に始まる、素人の「思い込み」が色濃い「誤解流」史観に帰属した「俗説」に見えるのは大変残念です。

 氏が、「俗説」と一線を劃された古代史論を展開されているのは、重々承知しているのですが、当コメントに集約された「倭人伝」観が、世上蔓延している「俗説」に感染されていると見えるのは誠に残念です。中国史料については、調べが行き届いていらっしゃらないのでしょうか。

妄言多謝。頓首頓首。死罪死罪。

追記 2023/10/15 後出し御免
 「中国史料については、調べが行き届いていらっしゃらない」とは、言葉足らずであったようです。「史料について調べる」とは、史官の教養である古代史書知識を知るために、関連資料を読んで、史官の深意を知ることにあるのです。当ブログ過去記事では、漢書「西域伝」、倭人伝に続く魚豢「魏略」西戎伝をはじめ、袁宏「後漢紀」笵曄「後漢書」西域伝を併読して、誤解流の創始者たる岡田氏の年代物の骨董品である「断言」が確たる根拠の無い思い違い/誤解であると論証しているのです。岡田氏は、後年、中国史に関する理解を深めた後は、当然、「若気の至り」について思い直されたことと思うのですが、自説の根幹にあたるので、改訂できなかったと見えます。
 そもそも、陳寿が編纂した「魏志」は、編者の意図的な曲筆などあり得ない、前代史の事実/公文書資料の再構成なので、そこに書かれていない編集意図を臆測しても、思いつきの意見を立証することは、大変困難(事実上不可能)と信じます。
 岡田氏の意見を「素人の思い込み」と断じたのは、論証として必要な立証努力が完遂されていないことに起因します。

2023年9月25日 (月)

新・私の本棚 瀧音 能之 邪馬台国論争の現在地 歴史人10 1/3

OCT 2023  「日本の古代史が変わる!?」 ABC アーク
私の見立て★★☆☆☆ ひび割れた骨董品 学問劣化に警鐘か 2023/09/25

〇はじめに
 速攻すると、瀧音能之氏は、本誌が委嘱する以上、「殿堂」物の権威ある古代史論者だろうが、「日本の古代史が変わる」雑誌で今どきの熱々の学説を語るのはお門違いではないだろうか。文字史料解釈に疎いのは困る。つまり、専門外の史料解釈をどなたから聞いて受け売りしているのか分からないが、ちゃんと裏付けを取る義務があると思うのである。

▢邪馬台国論争の現在地
 冒頭で「骨董品」と絶賛し、ヒビを埋め戻しているが、当評言は、ピアノ界不世出の巨匠ウラジミール・ホロヴィッツ最晩年の来日公演に呈された苦言であり、趣旨を酌み取って欲しいものである。

*数値化無き図形化の怪
 今回創出かどうかは分からないが、編集部制作年表は、研究史を縦書き表で、全体が右から左に流れるのは奇観というか、むしろ、古文書の流れに即していて適切か。さらに奇観は、「畿内vs九州勢力グラフ」なる波打つ色分けが、どんな統計数値からグラフ化したか不明である。中央線の位置付けも神がかり、鬼道か。なぜ、こんなものに金を払わないといけないのか。いや、「歴史人」氏は、世評の信頼の篤い媒体なので、編集部の手際に対して採点が辛いのである。他意はない。

 それにしても、段末の「近年は畿内説の支持が多い」とは、誠にいい加減である。「近年」とは、いつ頃からのことなのか、「支持」とは、支持者の頭数か、質量か、筋力か。「多い」とは単純多数か、何と比較したか。非論理的非科学的である。まして、「畿内説が優勢」とは、誰が誰に「惑わ」されたのか。
 
▢所在地論争の元凶!? 曖昧な記述も多い1級史料を読み解く
中国史書が描く「邪馬台国はこんな国」
[最新の定説はこれだ!]
*戦国時代だった倭国大乱の後30の国が集まる邪馬台国連合に
 氏は、班固「漢書」地理志から始めて、笵曄「後漢書」東夷伝の後漢初期記事に続いて「倭国大乱」の文字を取り出し「列島戦国」時代としている。
 当時、列島全体が、戦国時代の群雄割拠という記事は、後漢書にも「魏志倭人伝」にもない。単に、57,107年に代表者が遣使したのに、以後、百年にわたり定期的参上を怠ったのは、王(主)が無かったからである。笵曄は、美文愛好誇張趣味で、同時代人には読みやすいが、それを額面通り受け止めるのは楽天的に過ぎる。
 そのあとに、初めて格上の一級史料「魏志倭人伝」紹介で、「倭が互いに争い数千人が殺されたとある」とは、史料に根拠が無く、世間の野次馬から、錯乱されたのかと批判を招くように見える。
 関連記事は、以下二件であり、氏の根拠は不明である。氏自身が自覚しているように、「倭人伝」なる高度な教養を要求される文書に対して、氏の古代中国語文書理解力が「妖しい」のに「曖昧な記述も多い」とは困ったものである。「多い」とは、どの程度の数、分量、位置付けを言うのだろうか。「曖昧」とは、誰の意見なのだろうか。とにかく、「風評」、「臆測」が出回るのは、なぜだろうか。
1 其國本亦以男子爲王、住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年、乃共立一女子爲王。名曰卑彌呼。(笵曄[後漢書]倭条:倭國大亂,更相攻伐,歷年無主)
2 卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、徇葬者奴婢百餘人。更立男王、國中不服、更相誅殺、當時殺千餘人。復立卑彌呼宗女壹與、年十三爲王、國中遂定。
 卑弥呼を、複数の国主が妥協して卑弥呼を王に立て、国々が収まったのは1の後か。その結果、「邪馬台国連合」ができたとは奇態で、根拠不明である。因みに、当時の中国の辞書に「連合」はないから、定義無しに持ち込んでは、「時代錯誤」と言われかねないのである。
 ちなみに、一度敵対した諸国が「連合」を締盟するには、全代表者が集いて血書連判/誓約する必要があるが、言葉が通じたとしても、文字が無く、共通「法」のない状態で、どのようにして「連合」できたのか不可解である。因みに、主要な国以外は、国に王がいないから、代表者の盟約がどの程度有効なのか不明であるし、当座の代表者が結盟しても、構成国が代替わりした後は、締盟が有効かどうか、誰も責任を持てない。そんな約束など無意味ではないか。余程の確証がない限り、そのような「思いつき」は、学術的に支持されないと見るものである。

 氏は、以上のように、どなたかが後世の歴史資料から拾い集めた概念を捏ね上げて「倭人伝」解釈に塗りたくっているように見受けられるが、どの項目を取っても、何の根拠も示されていないので、これでは、氏の憶測となるのである。

                                未完

新・私の本棚 瀧音 能之 邪馬台国論争の現在地 歴史人10 2/3

OCT 2023  「日本の古代史が変わる!?」 ABC アーク
私の見立て★★☆☆☆ ひび割れた骨董品 学問劣化に警鐘か 2023/09/25

*「魏志」倭人伝に記載された不明瞭な邪馬台国の位置
 氏は、楽天的に、邪馬台国の位置と言うが、学問的に主張するには、「魏志倭人伝」に「邪馬台国」はなかったのを、まず克服すべきである。重大な怠慢である。
 帯方郡を「植民地」と決め付けるが、魏は帯方に屯田していない。韓諸国が、水田稲作に適さない土地であるから、取り立てられる穀物は乏しいのである。また、貴石、宝石、玉などが出たとも書いていない。何かの勘違いであろう。
 帯方郡から行程諸国までの距離・方角などが見られるとは、深刻な勘違いである。書かれているのは各国経由して目的地までの行程である。
 「倭人伝」を勝手に解釈した上で、『「記載通り」に追っていくと一路南下』と解しているが、誰の解釈に追従しているのか知らないが、それで 明らかな不合理が露呈するなら、「そのような解釈が不正確」という証左である。
 過去の研究者達諸兄姉は、「倭人伝」の記事と自身の思い込みが整合しないのを「矛盾」と見ているらしいが、言葉の意味を知らない無教養を暴露していることになる。局面を眺めれば分かるように、別に、対等の両者が攻防しているわけではない。蟻が「富士山」に背比べを挑んでいるのであって、足下にも及ばないのである。この比喩は、つまらない、低次元、子供じみた勘違いである。

 「倭人伝」は、最高峰の学者が切磋琢磨して確認した正史文書であり、現代東夷の無教養な研究者が間違っているに過ぎない。題意を理解できずに回答不能で自分好みに改竄するのはとびきり愚行としか言いようがない。

▢「魏志」倭人伝に記された邪馬台国までの行程
 当図出典は不明だが、まずは、帯方郡狗邪韓国行程が原文改竄で、伊都国到達後行程が誤解と見え「記述通り」との断定は余りに楽天的である。
 「放射説」を採用すると、「邪馬台国」は伊都国近傍であり、本図は無意味となるから、徒労であり、「倭人伝」解釈を仕切り直すべきではないか。

絹織物の生産
 図示の織機が存在したなら九州説は、決定的に有利になるのではないか。
 なお、女性素潜りは、誤解と思われる。水人は男性である。沈没は潜水では無いと思われる。誤解が誤解を呼ぶ。もちろん、「水」は淡水である。

 畿内説、九州説の論義は飛ばす。

▢卑弥呼の「真説」
 意味不明の風評だが、業界「定説」は、「俗説」、「巷説」である。「呪術的能力」が、いかなる能力か、不合理に論じては纏まらない。記紀に卑弥呼が登場しない以上、「倭人伝」は、中国史料専属で「日本古代史」無関係と見るものではないのか。

▢有力な候補者三人との共通点を考察
 卑弥呼とは一体誰なのか。?
*卑弥呼=女王の概念は、古代中国が広げたもので、国内では、「姿を見たものは、ほぼいなかった。姫御児」などの敬称で呼ばれていた
 コメント 構文錯乱だが、「卑弥呼=女王の概念」は時代錯誤で、特に「=」はあり得ない。「古代中国」が広げたとは妄想である。倭人伝に存在しない「姫御児」の造語を三世紀に持ち込んで「定説」としたのは誰か。いつから、女王は童「児」になったのだろうか。

*魏の使者が二百五年頃に倭を訪れた時点で、三十代後半で夫はいなかった。
 コメント ボロに困惑する。魏創業は二百二十年で、二百五年は後漢建安年間である。下賜物を携えた使節が倭を訪れたのは二百四十年あたりである。なぜ、誰も、注意してあげなかったのか不可解である。
 主語欠落の不出来な文章であるが、女王に配偶者がいないだけで、三十代は著者臆測であり、「定説」は老婆である。
 誰も氏の玉稿を校正しなかったのだろうか。これでは、氏が、後世に恥をさらすことになる。

*倭迹迹日百襲姫命・倭姫命・神功皇后が有力な候補で、倭迹迹日百襲姫命であった可能性が高い
 コメント 誠に不可解である。書紀は、三世紀記録でなく、後世の合理的な後付けがされていない以上、「卑弥呼」と全く無関係と見るのが合理的な判断である。

 ここでも、著者の解釈は、錯乱しているように見える。書紀編者が、卑弥呼を神功皇后に擬えていたと言いながら、「神功皇后は非実在」と断罪しては意味不明である。

                                未完

新・私の本棚 瀧音 能之 邪馬台国論争の現在地 歴史人10 3/3

OCT 2023  「日本の古代史が変わる!?」 ABC アーク
私の見立て★★☆☆☆ ひび割れた骨董品 学問劣化に警鐘か 2023/09/25

□卑弥呼はどんな祭祀を行ったのか?
 「シャーマン」なる俗説で超能力者に擬されているが、「倭人伝」に明記されているのは、卑弥呼は生涯不婚の巫女であり、求めに応じて父祖の助言を仰いだのである。「人々を思いのままに導いた」と著者は糾弾するが冤罪である。滅多に重臣諸侯に臨見せず、口頭のお告げであるから、どんな意志をいだいて、どのように意志を徹底できたのだろうか。
 そもそも、卑弥呼は有力氏族の一員で、父祖は、父方母方双方と見え、両家/両王が従うのは、卑弥呼が鎹(かすがい)なのだろう。もう少し、理性的に解釈し、三世紀人が知らない「シャーマン」など、持ち出すべきでは無いと思われる。
 それにしても、卑弥呼天照大神説は廃棄されてしまったのだろうか。

▢卑弥呼はどんな生活を送っていたのか
【最新の定説はこれだ!】
*宮室に住み、高殿で祭祀を行った。
コメント 宮室かどうかは知らないが、少なくとも、地べたから離れて、床の上にいたはずである。床下に風を通さないと、雨水が浸入して、かびが生え、ネズミが巣を作って、たまらなかったはずである。特に、冬季、地べたに藁を敷くようでは、寒くてたまらないと見るのである。

*弟と巫女の内弟子数十人が仕え、姿を見たものはほぼいなかった。
コメント 誤解に誤解を重ねて、戯画になっている。「姿を見たものは、ほぼいなかった」とは、ものを知らない誤解であり、女王として臨見、接見したものはほとんどいないというだけである。奴婢が身辺の世話をする「奧」では、大勢が姿を見たはずである。独身でも単身でなく、両親も兄弟姉妹がいたはずである。

*動きやすい麻の服を着用し、民衆同様の食生活を送っていた。
コメント この項も戯画尽くしである。
 倭人に麻があったとは初耳である。麻が栽培されて普及していたら、強靱な帆布、麻縄が調達でき、早々に帆船が整っていたはずである。

 被服を動きやすくするには、「仕立て」と「着付け」が不可欠であり、ゴワゴワとされる麻布だから、着心地が良いというものではない。高貴な身分の女王は、長袖長裾で、動きにくかったはずである。下戸は、布地を縮めて、ツンツルテンで、膝あたりまでのホットパンツになっていたかもしれない。
 当時、「民衆」がいたとは聞かない。大家は豪勢な暮らしをしたろうが、小人は、稲作で玄米を蒸して食しても、副食は市(いち)で買い付けたのか。女王は、お供えで食卓を賑わし、「民衆」と同列とは、侮辱ではないか。
 念押しするが、同時代、掘り下げた地面の上で生活していたとしても、床がなかったと言われるのは、決めつけすぎである。せめて、簀の子の上に、藁茣蓙としなければ、四季を過ごせなかったと思われる。

◯閉店の弁
 くたびれてここで打ち切ったが、総じて、現場・現地に密着した丁寧な考察が不足していると見える。特に、これっきりしかない「倭人伝」解釈が、軽率な黒子の受け売りとは感心しないし校閲が無いのも感心しない。

 いや、ここだけ臨時「フラット」で音程を下げて調子外れになったかもしれないが、全体に、古代史論で場違い、時代錯誤の言い回しが多い。(数えてもいい)あちこちで、「最新」「定説」と言われても、いつ、どこで、誰が、どんな根拠で「説」を提案し、どんな権威者がどのように審査して「定説」としたのか、「可視化」公示していただきたいものである。もちろん、異議/コメント公募も不可欠である。そうでない「お手盛り」は食えない。

                               以上

2023年9月23日 (土)

私の所感 遼海叢書 金毓黻遍 第八集 翰苑所収「卑彌妖惑」談義

                        2023/07/09 2023/09/23 史料参照/評価追加

*翰苑史料評価更新のお勧め

 以下、「中国哲學書電子化計劃」所蔵「翰苑」史料を参照する。太宰府天満宮所蔵「翰苑」断簡の影印を、校訂/校勘しているので論考で参照すべきものと思われる。
 翰苑 遼東行部志 鴨江行部志節本
*出典:遼海叢書 金毓黻遍 第八集 「翰苑一巻」 唐張楚金撰
 據日本京都帝大景印本覆校 
 自昭和九年八月至十一年三月 遼海書社編纂、大連右文閣發賣 十集 百冊

卑彌妖惑翻葉群情臺與幼齒方諧眾望
後漢書曰 安帝永初元年有倭面上國王師升等獻生口百六十人願請見至 桓靈間倭國大亂更相攻伐歷年無主 有一女子名曰卑彌呼 事鬼神道能以妖惑眾於是共立為王 宗女臺與年十三為王 國中遂定其國官首曰支馬次曰彌馬升次曰彌馬僕次曰奴佳鞮之也
按宗女以下漢書未載

 当ブログにて世上の「卑弥娥惑」との解釈が不適切であると述べているが、実は、百年近い昔に校訂済みであった。不明をお詫びする。

 記事部分は、「後漢書」と称しているが笵曄「後漢書」「東夷列伝」倭条所引である。世上、「倭伝」と称しているが、「伝」の体裁をなしていないので、単に「倭条」と呼ぶことにする。
 内容は、ほぼ「倭条」構文となっているが、末尾は、笵曄「後漢書」を「漢書」と呼び捨てていて味わい深い。
 翰苑編者は、配下書生に蔵書「後漢書」から卑彌呼に因む所引を命じて得た本文を書き出したものの、「漢書」(笵曄「後漢書」)に「宗女」以下の字句はない(書き落としている)ので、陳寿「三国史」魏志倭人伝から所引して繋ぎ合わせて復元したと察している。要するに「漢書」(笵曄「後漢書」倭条)所引に続いて、断りなく魏志を所引しているが、翰苑編者は、原典が「倭人伝」に移っているのを隠蔽しているようである。あるいは、当時の常識として、笵曄「後漢書」東夷伝倭条と陳寿「三国史」魏志倭人伝のつながった創作資料を、「漢書」倭国条と称していたのかもしれない。時には、これを「魏志曰」として流用していたのかもしれない。

 後世正史や類書に、笵曄「後漢書」倭条の「邪馬臺国」が横行して「邪馬壹国」が見えない原因は、このあたりの(杜撰な)編纂手法にあるように思える。百科全書の類いである「類書」の内容が、厖大な分野に渡り、史料としてみると遠大な年月を包括しているから、手っ取り早いやり口に出したとしても、咎められないのである。「倭人伝」の考察にあたって肝要なのは、類書や後代資料を、正史と同一の信頼性を有する厳密な資料と見ないことである。手短に言うと、史学の基本の基本として、史料批判、資料審査が不可欠なのである。

 世上、「翰苑」断簡写本が、安直に、上級史料として参照されているのを見ると、素人なりに苦言を呈したくなるのである。

憑山負海鎮馬臺以建都
後漢書曰 倭在韓東南大海中依山島為居凡百餘國 自武帝滅朝鮮使譯通於漢者三十許國國皆稱王 其大倭王居邪馬臺國樂浪郡徼去其國萬二千里 其地大較在會稽東冶之東與珠崖儋耳相近
魏志曰  倭人在帶方東南大海之中依山島為國邑 炙問倭地絕在海中洲島之山 或絕或連周旋可五千餘里四面俱抵海 自營州東南經新羅至其國也
按炙問以下魏志未載
 「倭条」、「倭人伝」に続いて、不明の後代史料から「自營州東南經新羅至其國也」と所引した上で、「炙問」(参問)以下は「魏志」に無いと決め付けている。この部分は、現存刊本で確認できるものであり、何かの勘違いだろうか。それとも、この部分は、「後漢書」の記載漏れだというものだろうか。浅学には、判別できない。

 それにしても、後漢書「倭条」所引に依拠して「其大倭王」は「邪馬臺國」に居す、と決め付けていて、魏志「倭人伝」に明記されている「邪馬壹国」を無視している。
 ここでは、後漢書(暗黙、当然の笵曄「後漢書」)「倭条」と魏志(陳寿「三国志」)「倭人伝」が、区別されているように見えるが、「魏志曰」の後半は、錯乱していて、落第答案になっている。
 ここでも、編者は、苦言を呈しているだけで、是正していない。史料の厳密さは、大した関心事ではなかったと見える。

*まとめ
 現代研究者諸兄姉は、原典確認/史料批判を怠らないが、「翰苑」所引編集担当者は、何ともぞんざいで、「三史」笵曄「後漢書」所引の不足を魏志「倭人伝」で補填する姿勢である。

 全体として、当時の諸事情も有ってのことであろうが、手軽な流通写本に依拠して、同時代に帝室等に継承されていた貴重書/最善本を原典確認しなかったため、資料錯誤に陥ったと見え、寓話「伝言ゲーム」の誤写累積を、図らずも露呈していると見える。

*史料再評価の提言
 諸兄姉は、後世正史や類書の「邪馬臺国」が、同時代の「魏志」から所引されたと断じているようだが、以上に露呈している後世正史や類書の編纂過程の雑然さにお気づきで無いようである。少なくとも杜撰史料は、それ相応な史料評価が先決と思う。

 当然極まりないと思うのだが、国宝級の貴重書として厳正に写本継承された現存刊本「魏志」粗雑な所引佚文を同等評価するのは、深刻な勘違いではないかと思量するものである。
 貴重書の末裔である現存刊本に誤伝がある(無欠点ではない)ことは間違いない/否定できないが、「厳正」や「厳密」とほど遠い、無造作、粗略な「野良写本」「走り書き所引」の成れの果ての粗雑史料と同列に扱うのは、科学的な態度ではないと思うものである。

 世上、侃々諤々の論義に勤しんでいる諸兄姉は、後世の非難を浴びないように、よくよく考え直して頂きたいものである。

                               以上

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