倭人伝随想

倭人伝に関する随想のまとめ書きです。

2022年12月 4日 (日)

新・私の本棚 ブログ記事批判 刮目天一「邪馬台国問題で短里説はこじつけだ」 改改 1/5

                     2019/12/06 補充 2021/02/13 2022/01/23 2022/12/04
私の見立て ★★★☆☆ 奮闘 真摯

〇はじめに
 さて、かねて一言を求められていた刮目天一氏のブログに、当方守備範囲記事が書かれたので、恐る恐る記事批判を試みます。例によって、商用出版物書評でないので、個人の意見に文句を言う目的ではありません。無批判で採用される俗説や勘違いと思われる点を指摘し、口調は固くなるものの、そう書かないと話が捗らない決めつけ調で、別に決め付けてはいません。

 また、ここに公開するのは、一回の苦言で広く影響を与えたいというサボり根性であり、別に、面白がってはいません。全てこれまで通りです。

〇総論
 今回の記事だけかも知れませんが、兄事する氏の掲題記事は、冒頭から沢山の要素が、出自は書かれているものの、趣旨が明解で無いまま積み上げられていて、何が、本旨なのか、その本旨をどのような論拠で積み上げているのか不明確で、読者は困るのです。食わず嫌いを強制されているようです。
 いや、氏の本来の意図は、じんわりとわかるし、言いたいことをしっかり主張しようと思ったら、引き合いに出すべき資料が殺到して、記事が膨れあがるのは、ごもっともですが、氏の意図が、読者を説得しようというものであればこの書き方は、仲間受けしたとしても、「善意の冷やかし客を追い払う厄除け」としか見えず、「随分損してますよ」と言うしかありません。

 と言うものの、氏の本領は、「日本」古代史であり、「倭人伝」論義は、あくまで「余傍」と見えるので、別に角逐することはないと見ているので、少々無遠慮と見えても、ずけずけと物言いしているものです。

 と言うことで、ありふれた言い方で恐縮ですが、ネット、紙上を問わず、提言して頂く際には、言いたいことを箇条書きに書き分けて、それぞれに一回の記事を小分けして宛てるようにした方が、個別の記事の論旨が絞られて、賛成も反対も批判も同調も、大変やりやすいのです。

▢当ブログの芸風~ご参考まで
*記事構成~B5判で計量

 ご参考になるかどうか、当方の記事書きの定則は、近年採用している一太郎に依存して、B5縦書き二段組みの一ページ単位を意識していて計量していますが、縦書きブログ記事は運用困難なので、ブログ自体は横書きとしています。後は、淡々と小見出し付きにしているくらいです。

*史料引用はテキスト主体~画像データは「控え目に」
 史料引用は、必要に応じて適法に、つまり、出所明記の部分引用としていますが、基本的に文字テキストにとどめています。画像データ、特に、図形資料のデータは、採用されている文字資料の文脈に従って読み取らないと、著者の意図に反した理解となる可能性があり、また、もし、二重引用になると、原著者の著作権を侵害するので、一段と差し控える必要があります。
 以上の定則は適法で、無作法を避けていると信じるものです。

 世の中には、公開記事を複製利用禁止とするものもいますが、アクセス制限なしに参照できる資料を引用禁止とするのは知的財産権に関して違法です。
 と言うことで、当記事は、当方の定則で言えば、各引用資料の批評記事を分離して、本体部分の読み取りを明確にすべきです。

〇本旨批判
 邪馬台国問題が収拾つかなくなった最大の理由の一つがこの短里説なのだ(;一_一)
 行末の落書きは、学術的な論議に於いて無法な落書きとして無視(*^ー゚)すると、この本旨は、次のように因数分解できます。

 「邪馬台国問題」が「収拾つかなくなった」「最大の理由」の「一つ」が「この短里説なのだ」

 氏が、真剣に自説を主張し、真剣に一般読者を説得したいのであれば、当記事の本旨は、順を追って説きほぐさなければなりません。

                                未完

新・私の本棚 ブログ記事批判 刮目天一「邪馬台国問題で短里説はこじつけだ」 改改 2/5

                    2019/12/06 補充 2021/02/13 2022/12/04
〇分解写真的分析
 指導的助言は、本来嫌われるものであり、特に、細かく区切った分析的な批評は、「面子」を潰されるとして、大変嫌がられるのは承知しているのですが、印象批判や感情論でなく、構文の難点を明らかにしないと批判した意味が無いので、敢えて以下のように「丁寧に」述べているのです。当ブログの書評は、概してこうしたすすめ方であり、「建設的」な「苦言」と考えているものです。

「邪馬台国問題」
 氏の周辺では自明なのでしょうが、一般的な解釈として、「邪馬台国問題」には、二つ、ないしはそれ以上の「問題」、つまり、「検討課題」が含まれています。提起されているのは、「所在地問題」のようですが、何を課題としているか、読者との間に合意がなければ、以下の主張は空転するだけです。
 つまり、氏の周辺で、氏の世界観、歴史観を共有している面々以外には氏の主張は展開できないという「問題」、問題点にぶつかるのです。
 因みに、伝統的な論戦では、「問題」(problem,question)は、研究者に対して与えられた課題であり、正解を得ることにより、一段と進歩するものなのです。

「収拾つかなくなった」
 「収拾がつかない」とは、どのような現象か、一般読者に理解できません。氏の周辺だけで通じる言い回しは、まず、丁寧に説きほぐす必要があります。氏の困惑の内容が理解できないと、解決策も浮かびません。

「最大の理由の一つ」
 氏の理解では、収拾つかないという重大事態の発生した原因は、他にも幾つか上がっているようですが、それらはどんなものなのでしょうか。
 この言い方は、英語系の由来のようですが、大抵は、追求を避ける「逃げ口上」のようです。

「この短里説なのだ」
 氏の理解する短里説」が悪者になっていますが、自分で仮想敵を作り上げて攻撃しているのか、何なのか、この部分にも、背景説明が必要です。
 当ブログ筆者の意見では、「倭人伝」道里記事は、書かれている道里が、一里が周代以来不変の「普通里」(450㍍程度)の一/六程度の「短い里」(75㍍程度)と見た方が筋が通るという史料考証から来ているものです。
 1.よほど、個性的な解釈をしない限り、ここまでは、「倭人伝」道里記事の解釈としては、筋が通っていると見えるはずです。
   筋が通っているというのは、当時の口うるさい読者が、了解したと言うことです。
 2.「短里説」は、大抵の場合、当時現地で公的な制度として「短い里」が施行されていたという「作業仮説」です。
   「作業仮説」は、まずは、根拠の無い「思いつき」であり、提唱者は、裏付けを求めて奮闘しなければなりません。
 3.魏晋朝と時代を限った「短里説」も、根拠の無い「思いつき」ではないかと見る向きが多いのです。
   「里」を大きく変更するのは、経済活動が破壊され、帝国が崩壊するので、全く記録に残らないということは、あり得ないのです。

 氏が、「短里説」を撲滅しようというのであれば、「この短里説」などと、「一刀両断」の大なたを振るうのでなく、1.2.3.のどの段階を言うのか、それとも、1すら認めない0なのか、まずは、明確にする必要があると言うことです。このように、キッチリ区切って、区切りごとに是非を論じていけば、議論は、本来、次第に収束するはずです。

 以上、しつこいようですが、氏が、本旨に示した見解を世に問うのであれば、不愉快であろうが、面倒であろうが、辛抱して踏まねばならない手順なのです。氏が、敵とひたすら戦うのでなく、広く賛同者を募りたいのなら、と言うことです。

 因みに、当方が、各位の意見を参照するときは、記事本体に至る前に、本旨の展開の際に、論理的な資料考証がされているかどうかを見た上で、記事を眺めるものであり、氏のブログの場合は、以上の短評でおわかりのように、参考にならないとして、質問がなければ回避するものです。当ブログでしばしば顔を出す「門前払い」というものです。

 以上、何かの参考になれば幸いです。

〇記事短評 ジャンク資料の山
*巻頭動画紹介氏の批判対象であり、当方は、当動画の内容について氏を批判していません)
 まず、ずっしり重い動画ですが、検証、批判可能な文字資料として提示されたのではないので史料批判に値しないジャンクであり、読者迷惑です。
 当方も、影響力の大きいテレビ番組に批判を加えることがありますが、当史料は制作者自身論証努力を放棄しているから、論評すべきではありません。

 文字資料は、分析を加えることによって、正確に内容を把握できますが、画像資料は、制作者の主観で加工され、演出されているので、内容の理論的な把握が不可能です。まして、「イメージ」と称する「イリュージョン」は、もっての外です。各地で講演を重ねて収入を得るのが目的であれば、派手な演出で人気を得るのが良いでしょうが、氏は、学問の道を進んで、広く理解者を広めようととしているはずですから、「悪い子」の真似はしないのが良いのです。

*航路図の道草
 これは、「イリュージョン」の典型です。「倭人伝」は、「千里渡海」と見立てているので、現代地図上に根拠不明の古代航路を引いた、児戯とも見える絵かきは無意味です。論評すべきではありません。

*「海島算経」の道草
 「答と解法」の提示者が「峰丈度」を里で表示していますが、山の高さは、「丈」で表示するものであって、けっして、「道里」の単位である「里」で表示されることはなく、これは、全くの門外漢の素人解釈です。論評すべきではありません。

 いずれにしろ、取り扱いやすいように数値を揃えた「問題」に対する幾何学的な解法を示したものであり、国家制度を示したものではありませんから、氏の主張の裏付けとして役に立たず無意味なのです。「取り扱いやすいように数値を揃えた」とは、計算過程で分数や小数ができるだけ出てこないように「下駄」を履かせるものであり、現実の数値とは限らないのです。

 時に、本項資料は、引用図、文章が錯綜としていて、誰が何と言ったのか確認困難です。「三角関数表」など、半世紀以前の遺物表現で、計算尺、関数電卓から、PCと推移して、今や、特別な装備は何も要らないのです。いや、つまらない余談でした。

*道草の回顧
 氏は、このような愚論に対応したために肝心の本旨を見にくくしています。ゴミ資料は、ゴミ箱に放り込み、本体部では一切参照しないのが賢明です。読む方にとって新説であり、ずいぶん楽になります。

 と言うことで、続く項目は無視しています

 漢文古典である倭人伝」は、「倭人伝」自体の文脈、陳寿の見識/深意で理解するのが大原則であり外部文献を導入するなら、まずは、正史、ないしは、正史同等の権威ある史料に限定して史料批判し、ゴミは断固受付拒否すべきです。当ブログで大事なのは、「倭人伝」道里記事見極めなので、圏外ゴミで道草する必要はありません。

 くたびれたので、以下の論考は追跡していませんが、どう見ても、筋の通った「新説」を提示しているように見えませんし、そのような展開を予告するタイトルでもないのです。ただ単に、氏の思う妄説を否定する記事とわかれば、こんなに字数は要らないのです。
 ふと周囲を見ても、冷やかし客は姿を消して、閑古鳥が啼いています。いや、閑古鳥は当ブログにも住み着いていて、人ごとではないのですがね。(苦笑)

                                未完

新・私の本棚 ブログ記事批判 刮目天一「邪馬台国問題で短里説はこじつけだ」 改改 3/5

                     2019/12/06 補充 2021/02/13 2022/12/04
〇倭人伝道里解釈論の試み
 さて、以上のように、大前提を見定めた上で、目前の倭人伝道里を語らねばならないと思い、自説をぶっていくので、みなさん御覚悟ください。

*原則と例外
 端的に言うと、秦漢代以来の歴代官制で、行程道里の一里は今日の四百五十㍍程度の「普通里」で、尺からの換算、一歩六尺、一里三百歩は、一貫して不変という明解な大原則がありながら、倭人伝道里が「素人目に」不条理に書き残されたかのように見えるということです。しかし、史官が、公式史書に不条理や無法を書くはずがありません。また、同時代の読者が、許容するはずはありません。

 ここで、当方は、倭人伝は、正統派の史官である陳寿が、魏朝に残されていた倭人に関する基本資料を、どうして、現在ある形で収録したか、陳寿の視点に近づいて、理解しようとしなければならないと言う主張なのです。

*同時代史料確認
 とは言え、世に蔓延している頑固な俗説を洗い流すのは、容易ではありません。学界の権威者長老が、いわば、「無面目派」混沌愛好会に属しているから、心ある論者は、健全な世論を回復すべく、辛抱強く丁寧に努力しています。

 要は、「倭人伝」記事を、理詰めで解釈すると、「畿内説」は成立しないので、倭人伝の理詰めの解釈ができないように、「フェイク」情報をばらまいているのではないかと疑っているのです。議論して勝てないときは、泥沼に誘う込んで、ドロレスリングにしろ、と言うのが、混沌愛好会の得意技なのです。

 「倭人伝」道里における「こじつけ」は、前世紀に、錚錚たる大家によって創唱されているので、新参の「短里説」が紛れ込むことは、無理なのです。 

 当方の定則は、倭人伝は「単独の史料として合理的に解釈できる」というものですが、論中に現代産物の「短里説」は存在しないのです。

〇エレガントな解法 無理なく明解な読み解き
 当方の理解では、「倭人伝」は、当時の中原教養人、つまり、洛陽政権の中核である中国文化の知識、教養を修めた皇帝を初めとする高官人士が、それなりの努力を払えば、「問題」無しに読解できるものです。なぜかというと、陳寿が三国志を上申したとき、これら教養人が理解できない書法があれば、ほぼ確実に拒絶されるからです。

 「倭人伝」談義でよく言われるのは、倭人伝」は、古代中国人が、同時代の中国人のために書いた史書である」との断片的な引用ですが、後に続くと思われる「従って、現代日本人が(自然に)解釈すると、(ほぼ自動的に)誤った解釈になる」との重大な警句が欠落しているので、折角の警告が伝わっていないのです。
 但し、このような見方は、別に排他的なものでなく、一つの歴史観ですから、別に慌てて否定しなくても、命に別状はないのです。

 当時の知識、教養は、太古以来、秦漢に至って確立されていて、魏晋朝で俄(にわか)に一部人士が提起した新規な用語、知識は含まれないのです。「正史」の概念が未形成でも、三国志のような公式史書に求められる基準は明確と見るべきです。史書は、記録を集積、編纂する史官として養成され、その資質を確認された史官のみが、公式史書を編纂しうるものであり、「史官」は、単なる官職、官位ではないのです。
 もちろん、周代に始まったと見える史官の「記録」係としての使命は、陳寿の時代の直後、西晋が乱脈治世の結果深刻な内乱に陥り、各勢力が導入した北方異民族の傭兵の反乱によって、国家としての機構が瓦解したときに、大きく損壊されたので、江東に「東遷」した東晋代以降には、かなり形骸化したようですから、西晋までと東晋以降では、史官と史書の評価は異なります。

〇無謀な改竄論  よその人(複数あり)の話、つまり、氏に関わりの無い「余談」です
 ここまでに字数をかけて、史官と史書について説明したのは、世上の議論に、現代的な不規則文書管理をこじつける向きがあるからです。
 例えば、公式史書として帝室書庫所蔵の三国志に対して、外部から改竄の手が加えられたなどと言う暴論がありますが、それは、今日の公文書改竄風潮の悪しき反映であり、ジャンクとして排除されるべきものなのです。念のため言うと、改竄論者は、帝室書庫に侵入して改竄したと言っているのではなく、世上の高級写本を改竄したと行っているに過ぎないと弁明するかも知れませんが、正史は、時に、帝室原本から写本を起こして、世上の「野良」写本の是正を行うものであり、勝手な改竄は、遅かれ早かれ淘汰されるのです。

 そのような粗暴で低俗な論法で良いのなら、古代史資料は全て虚妄、史官は全て嘘つきという主張が成り立つのです。岡田英次氏や渡邉義浩氏のもっともらしい暴論に染まっていなければ良いのですが。

*道草~ジャンク否定の不毛
 三世紀当時の公式史書は、竹簡などの簡牘片を長々と革紐で繋ぎあげた巻物であり、少し下ると、次いで、同様の装幀で、台に巻紙を使用した紙巻物となり、いずれも、大変な労力と技術の産物ですから、偽造、改竄は全巻対象となり論外なのです。後世も後世、北宋期以後の木版巻本になると、一枚物の各ページを袋綴じに糸綴じする形態になるので、頁単位の差替で済むのですが、その際は、印刷の際の木版原版が残っているので、巻本を改竄しても、持続しないのです。どう転んでも、三国志魏志第三十巻巻末の倭人伝の差替による改竄は、実行する術がないのです。
 さらに言うなら、三国志帝室蔵書の入れ替えという大仕事に紛れての差替となりますが、大仕事は、国家事業として、一流の文書学者が多数参加し、一流の写本工が多数参加して全文字写本するのであり、前後数回に亘って文字校正を重ねるので、勝手な差替は、忽ち露見します。

 どんな暴論も、現代の場で言うだけなら「ただ」(フリー)ですが、暴論を言うには、重大な立証責任が伴うのです。既に、改竄論者には、悪徳研究者としての烙印が押されていると見ます。
 今日は、ジャンク情報が堂々と世の出る世相ですが、懸命な研究者は、そのようなジャンク情報に、目も耳も貸さないのが、正しい対応です。
 と言うものの、敵は、すべて承知で「邪道」(斜めに進む道)を振興しているので、説得不可能であり、ここは、一般読者に「正道」(真っ直ぐ進む道)を説いているのです。

〇「倭人伝」道里の解釈
 背景説明を重ねると話は長くなりますが、趣旨は明解です。
 「倭人伝」道里行程記事は、帯方郡から倭に至る道里を書き出しています。

□第一段階は、帯方郡が定めた官道道里であり、郡から狗邪韓国までの「郡狗区間」を七千里としています。
 自明なので、当然書いていませんが、当然、半島中央部を東南方に走る官道の道里であり、官制上「陸行」ないしは「陸道」しか、存在しないのです。官道には、宿場と馬小屋を備えた関所があり、駄馬や驢馬が荷を担って通れる、騎馬で疾駆もできる、荷車も通れる、整備された街道だったのです。官道は、帝国の骨格ですから、整備されているのが当然なのです。
 にもかかわらず、この区間の道里が、450㍍程度の「普通里」でなく、75㍍程度の「短い里」で書かれているのは不可解です。「倭人伝」読者は、この「問題」への解を求められるのです。

                                未完

新・私の本棚 ブログ記事批判 刮目天一「邪馬台国問題で短里説はこじつけだ」 改改 4/5

                    2019/12/06 補充 2021/02/13 2022/12/04
*「倭人伝」道里の提示
 ここには、「倭人伝」の道里基準が明記されているのです。この部分は、地方機関の上申した史料に基づく記事ですから、「現実」の道のりとの対比は、史官には不明でも根拠があるはずであり、史官の本分に従い、原史料をそのまま採用しのです。帯方郡で官道道里がそのように規定されていたというしかありません。(撤回)

 あるいは、官道の道里とは別に、倭人伝だけに通用する道里「倭人伝里」を記入したのかもわかりません。
 帯方郡が、「普通里」と異なる里制を敷いていたという記録はありませんから、「倭人伝里」を適用していた可能性もあります。倭人伝道里が、どのような里で書かれているかは、郡から狗邪韓国までの街道が七千里であるという定義の仕方から容易に計算できるので、この可能性の方がなり立ちやすいと見えます。
 但し、学説として主張するには、検証された公文書記事の裏付けが必要であり、いくら広範囲で多数の支持資料らしきものが見えても、客観的に検証された確固たる裏付けのない主張は、「思いつき」に過ぎません。
 このあたり、断固たる反対論が予想されますが、ここまででおわかりのように、絶対的な否定論ではないので、しばらくご辛抱頂きたい。

*倭人伝道里の由来 2022/01/23
 当ブログ筆者たる当方の最新の意見では、この区間の「里」は、官制に従った道里を元に換算などしたものではなく、恐らく遼東郡の太守公孫氏が、「倭人」との交信の開始の際に、「従郡至倭」、つまり、「郡から倭の王治までの総道里を万二千里」と「東夷台帳」に記載したものと見えます。
 この内容が、何れかの時点で、洛陽に報告され、これが、当時の皇帝の御覧を得て、管轄の鴻臚の公文書、例えば「賓客台帳」に登録されたために、以後、修正が効かなくなったものと見えます。但し、同時代の記録と見られる後漢書「郡国志」は、帯方郡でなく、楽浪郡帯方縣を記載しているので、以後、魏明帝の景初代まで、一切、東夷に関する報告を含め、帯方郡に関する報告は、洛陽に届いていなかったと見えます。
 なお、洛陽から楽浪郡に至る公式道里は、漢武帝時代に設定されて以来、郡治の移動に拘わらず一定であり、帯方郡治の位置を知るために利用できないのです。

 つまり、早ければ、明帝の特命による景初初頭の両郡回収、新任太守派遣の時点で、万二千里彼方の東夷「倭人」の存在が明帝の知るところとなり、遅くとも、正始魏使の帰国で「従郡至倭」のあらましが確定したのを反映して、各区間の里数を按分したという「推定」に至ったのです。

 その際、全行程万二千里というのは、言うまでもなく、大変大まかな、一千里単位の概数であることから、途中の三回の渡海は、それぞれ一律に一千里と見立てて、三千里を割り当て、残る九千里の内、七千里を半島内陸上行程に割り当てたと見えるのです。特に、万二千里という大変、大変大まかな里数を按分するについて、(二千)三千,五千,七千(八千),一万,万二千の刻みにしたため、韓国区間は七千里と決着したものと見えるのです。

 念のため言うと、そのような粗い刻みは、陳寿が勝手にでっち上げたものではなく、太古以来、大まかな数字を取り扱うときの基準として行われていたものと見えるのです。このあたりは、現代では、小学校で採り入れられている「概数」の考え方に沿った、大変合理的なものなので、安直な非難は、取り敢えず控えてほしいものです。古来、倭人伝の数字は、大まか「すぎる」、奇数が大半だと毀誉褒貶がありますが、それは、未開地で得られる大まかな数字を、大まかに採り入れるために採用された技法に基づいているのです。古代人は、数字に大変強かったのです。

 つまり、「倭人伝」道里の区間別里数の設定は、総里数「万二千里」が先に決まっていた上に、中間部に、一千里の渡海を、「渡海」、「又」、「又」と三回明記したので、計三千里、末羅国を経て伊都国に「到」との動かしがたい里数が先に決ったため、今「倭人伝」で確認できる形で決着したものと見えます。念押しすると、これらの里数は、公式道里と言うものの、実測に基づかない概念的な「設定」であり、「倭人伝」道里行程記事から、実測里数を推定するのは徒労に終わるしかないのです。

*古田史学への異論 2022/01/23
 古田武彦氏は、第一書『「邪馬台国」はなかった』に於いて、この区間の道里は、「部分道里の合計が全体道里に等しい」との提言を打ち立てて、氏の所説の堅固な土台と見ていましたが、全体道里が先行して、それを各区間に割り当てたという異説を耳にされていたら、どう感じたろうかと思う次第です。
 氏は、記事に無い細部の道里を創出して、「部分道里の合計が全体道里に等しい」 とするように苦吟されましたが、 苦吟の果てに明察した」との感動がなければ、氏の推進力は生まれていなかったので、古田氏の論考の長い道のりの「通過点」として、つまり、一つの歴史的な事実として受け入れるしかないのでしょう。

 因みに、当ブログでしばしば指摘しているように、万二千里を、一千里ないしはそれより目の粗い刻みの里数の合計とした場合、百里代の里数は、「はした」として無視してよいのです。概数計算の等号は、=でなく≒なのです。概数計算では、計算が合わないのはざらにあることであり、「倭人伝」道里記事では、計算できないように、最終行程里数を割愛していると見えるのです。

 この意見も、古田氏の道里説に対して、重大な異論となるので、合わせて、古田史学の方々には、受け入れがたいのではないかと、苦慮していますが、別に、古田氏の史学の根源に関わるものではないので、何れかの時点で、加筆された方が良いように感じます。

 以上の二点は、全体の論議に調和しないことがあるかも知れませんが、敢えて、追加記入しています。

▢第二段階は、敢えて呼ぶなら「狗末」区間です
 まず、倭人伝冒頭のまだ読者の集中力が続いている段階で、「倭人在…海中山島」と、目的地に至るには、海を渡る行程を要する」と強く示唆しています。(中国)史書に異例の長距離「渡海」宣言です。
 中原の道里で、官道が渡河、渡し舟を含む事は当然でしたが、行程のごく一部で、宿場から宿場までの一日の行程の中で済むので、道里や所要日数などには計上せず、「はした」として無視するものです。倭人伝で、「渡海」と言って「渡水」と言わないのも、意味深長です。

 ところが、「倭人伝」行程では、一日がかりの渡海が三度必要であり、道里基準として「陸行」とできないから、例外用法として、『倭人伝では海を渡る行程を「水行」と呼ぶ』と予告した上で「水行」としたのです。歴史的に、「海」は、「うみ」とは別のものなので、「海行」とは呼べず、陳寿は、既存の「水行」を臨時に別の意味に転用したと見えるのです。

 史書の用語は、極めて保守的であり、まして、官制として考慮されていない長距離の渡海行程を創造することは、史官の任に外れるので、陳寿は、格別の苦心を注いだものと見えるのです。

*「従郡至倭」の意義
 そして、道里記事の書き出しは、「自郡」でなく「従郡」としたことに、特別の意義が窺えます。
 古代以来の必須教養科目である算数教科書「九章算術」では、農地測量の際、目前の土地の幅を「廣」といい、奥行きを「従」ということが書かれています。
 「従郡至倭」とは、帯方郡から見て、東南方の倭人の処に至るには、「縦」方向にまっしぐらに進む』と宣言されているのであり、西に逸れて海辺に出て、半島の西岸、東岸を延延と迂回することは、はなから方向違いであり、そのような迂遠な行程は、明記も示唆もされていないのです。

 続いて、「循海岸水行」と書いて、『以下の道里記事では、特に、海岸を盾にして、つまり、海岸線に直角に海を進むことを「水行」と呼ぶ』明記したのです。続けて読むと、海岸に沿う」のではなく、『海岸を盾(循)にして(東南方に)「水行」する』と予告しているのです。
 要は、「地域水行」宣言であり、内陸にある帯方郡から、いきなり海に出る』ようなことは書かれていないのです。

 世上、「循」は「従」と同義と速断している向きが大半ですが、用字が異なれば意味が異なると見るべきです。史官たる陳寿が、史書の道里記事に用いたのですから、いきなり一般的な辞書を参照していては解釈を誤るのです。厳しく言うと、現代日本人、つまり、三世紀中原人なる中国人から見て無教養、無知な夷人は、ほぼ自動的に誤解するのです。腹が立ったら、洗面所に立って、冷水で顔を洗い、清水を呑んで、座り直すことです。

 そもそも、「海岸」とは、陸上の足場に立っているものなので、海岸に沿って進むとは、陸上の移動なのです。海に出るには、「循」として、沖合に出る必要があるのです。なお、「海岸」で海に浮かんでも、そのまま陸地に沿って進むと、間違いなく、浅瀬や砂州に乗り上げて難破するので、どんな船でも「津」(船着き場)を出たら、まっしぐらに沖合に出るのです。

 陳寿は、内陸世界の住人で海辺の船での移動に詳しくなかったから、詳しいものの意見を聞いて、誤解のない言葉遣いを採用したと見るのです。現代日本人は、海に親しんで育っているので、以上に述べたような常識が身についているから、「海岸に沿って」と「普通に」読み替えてしまうもののようです。

 以上のような解読は、中国古典書、特に「史記」、「漢書」などの史書から自然に導かれるものですが、従来の「倭人伝」解釈は、ほぼ揃って国内史料、現代人解釈に偏っていたので、提起されることが(ほぼ)無かったものであり、その意味で言うと、全員(ほぼ)一律、誤解していたと言える根拠となるものです。
 因みに、これらは、本来中国の史学者から提言されるべき意義なのですが、中国では、日本古代史に関わることは好まれず、「倭人伝」について精査されていなかったと思われるのです。「倭人伝」は、中国史書の一部ですが、日本列島古代史の重要な史料として、中国側で真剣に取り組むのは、古来どころか近来も希の中の希なのです。

 以上、余り見かけない議論なので、長々と述べました。

*「渡海千里」の意義
 この区間の各渡海千里を、実道里の反映と見るのは空論で、無意味です。肝心なのは暗黙の一日渡海です。
 その「一日」が、三時間であろうと六時間であろうと、丸一日が費やされるので、道里行程記事の日数表示には関係無いのです。世上、渡海一千里とは、測量した道里の意味でなく、一日分の行程だと明記したものだと解する意見がありますが、同時代の理解としては、そちらの方が近いのかも知れません。
 後ほど出て来るように、この行程は、中原で、河水(黄河)をわたるとき、洲島、つまり、中州で船をとどめるようなものだと言っているようです。古代では、「海中の島」と言うとき、海中に突き出した半島を言うので、洲島というのは、誤解を避けているもののようです。

▢第三段階は、呼ぶなら「末倭」区間です。
 当然陸上経路ですが、念のため「陸行」と付記しています。読者は、末羅国が中州の島でないと知らないので、地域水行解除宣言が必要です。

 この区間は、総じて未開地で、道里も百里単位であり、千里単位の倭人伝道里の大勢に響かない端数なのです。史官としては無関心です。

 と言うものの、末羅から伊都までは、狗邪までの交流、交易に常用されているから、倭地なりに、荷物輸送に支障が無い程度に道路整備されていた筈です。(宿駅、替え馬などのことも含むのである)
 当然、荷道は、重荷を担って通行可能なつづら折れであり、あるいは、荷駄馬がすれ違う道でした。(諸処に、道を広げて、すれ違い場所が設けてあった可能性はあります)("two horses abreast"「馬が行き交うことのできる径」でも言うのでしょうか)ひょっとすると、駄馬が間に合わずに、痩せ馬(人夫の隠語)を動員したかもわかりませんが、農民の小遣い稼ぎになっていたでしょうから、決して、苦役ではなかったはずです。そもそも、税の一要素で、労役が課せられていたから、荷運びは、ただ働きというわけではなかったのです。

 一方、急ぎの者につづら折れは迂遠であり、敢えて、直登に近いけものみち風の近道「禽鹿径」を採ったようです。
 といっても、魏使の記録係が徒歩で近道したとしても、正使副使の高官が同じ道を通ったとも思えません。士人は、額に汗して徒歩行せず、まして、荷を負うはずがないのです。太古の禹后本紀で、「陸行は車に乗る」と明記されているように、身分のある中国人は、徒歩行しなかったのです。

 なお、「禽鹿径」の「径」は、人馬が公式に往来する整備された「道」、「路」でなく、「抜け道」という趣旨で選ばれているので意味深長です。郡から狗邪韓国までの整備された官道にはほど遠い整備状況だったとしても、日頃、市糴(交易)に常用している官道であるからには、諸所に宿場があり、関所があったはずですから「径」ではなかったのです。「禽鹿径」を「けものみち」と自然に翻訳して、何となく理解できたようで、大抵は誤解に終わっているのは、残念なことです。

 道里には、当然、つづら折れの荷道道里が書かれるべきですが、それでは、随分里長が伸びるので、短縮して報告したかも知れません。ここは急ぐ旅でもないので、後で再論します。

                                未完

新・私の本棚 ブログ記事批判 刮目天一「邪馬台国問題で短里説はこじつけだ」 改改 5/5

                     2019/12/06 補充 2021/02/13 2022/12/04
*「世界に普通」のつづら折れ~余談
 もちろん、刮目天氏の発言ではないのですが、後年の大和河内国境街道竹ノ内峠越えを直線距離と高低差で論じる愚かしい説がありました。
 ここでは、あくまで、余談ですが、近年まで奈良側旧道は、いたってありふれた幾重にも重なるつづら折れで運転手を悩ませ、時に転落車輌が出たのです。
 古代街道は、絶対、急坂を直登などしないのですが、そのような初歩的考慮のできない輩(やから)が、無造作に研究発表するのが目に付くのです。つまり、このような旧道区間を地図上で計測して、道里ならぬ直線距離を読み取っても無意味なのです。
 いや、現在は、一直線に竹ノ内峠を越えていく自動車道が整備されているので、これを道里と見る人が出そうですが、このような道路は、ごく最近まで存在しなかったのです。
 因みに、近来の新聞紙上で、河内側と奈良盆地側との交通、交流を論じる際に、大和川経路を強く支持する研究機関の代表者が、自部門の立場が不利と見て、竹ノ内経路を貴人が乗り物から転落しかねない急坂として弾劾している例が見られましたが、竹ノ内経路は、河内側の傾斜が緩やかな「片峠」であったため、急峻な奈良盆地側には、つづら折れの街道を設け、背負子を背負った人々がゆるゆると登坂して、二上山越えの経路が繁盛していたのであり、そのような史実を知らず、根拠無く弾劾したために信用をなくしている例となっています。ついでながら、担当記者は、実地踏査したものでないので、そのような史実を知らず、提灯担ぎして、恥をさらしています。実地踏査の労を怠けて、全国紙の紙面を汚しては、報道の者として、恥ずかしいのでは無いかと思います。
 いや、これは、氏に無関係な余談でした。

*倭人伝道里の考証~再開
 実道里の確定には、実見を要すると言うべきですが、「倭人伝」に戻ると、この間は、万二千里に及ぶ倭人伝道里では端数に過ぎず、倭人伝に特に必要の無い細目である事から、陳寿もさほど注意を払っていなかった筈です。
 基本的ですが、倭人伝」は倭地に「牛馬なし」と明記していて、「緊急連絡で街道を疾駆することはできない」と、強く示唆していることになります。従って、当区間道里は、郡管内と実質が異なる規格外の「不規則」里数である事が、事実上明記されているのです。
 どの道、倭地の内部の小国の配置や相互間の道里について、陳寿に責任を問うのは無理です。史官の務めとして、「述べて作らず」に、つまり、度を過ごして割愛、改竄せずに、原史料の記事を収録したことに感謝すべきでしょう。

 因みに、「世界に普通」の「世界」は、当時中原人の把握していた「天下」の意味であり、別に、地球儀上の全世界という意味ではないのです。また、「普通」は「世界」に普(あまね)く通じているとの意味であり、現代で言えば、「普遍」に近いのかも知れません、いずれにしろ、同時代用語の再現を試みたものです。

*道里勘定復習
 原点に戻ると、公式史料に必要なのは末羅国から倭への道里です。大局的には、郡倭」万二千里、そのうち「郡狗」七千里、「狗末」三千里であるから、末羅国から王の処まで二千里です。この議論に、短里説は全く必要ないし、先に挙げた理由で、「末倭」二千里は、どんな里であるか、保証できないのです。
 ここで言う末倭二千里の「里」は、表面的には、郡狗区間七千里という既知道里に基づいて、その概ね二/七と見えますが、郡倭万二千里は、出所、基準不明ですから、この二千里も、憶測を重ねた漠たる数字でしかないのです。

 何しろ、未開の地の未開の官道なので、魏朝の国内基準では判断できないのです。言い方を変えると、実際上、何もわからないと言うことです。「倭人伝」に、そのように地域の事情による道里が書かれていても、陳寿には確認のしようがないので、史官の務めとして、そのまま収録したとみるべきです。
 そして、東夷管理に最も必要とされる従郡至倭の所要日数の確約があれば、遠隔の蛮人の地の道里に、特に信は置かなくていいのです。

 そして、いくら後世人が、最先端の機器と最先端の手法を駆使して、最高の努力を重ねても、元史料がデータとして不確実不安定なものである以上、そこから確たる数字が読み取れることはあり得ないのです。つまり、倭人伝」道里をいかに解析しても、皆さんが望むように、女王の都の比定地が確定されることはあり得ないのです。

 この点は、遙か、遙か以前に安本美典氏が指摘している至言ですが、正しく理解されていないようで残念そのものです。

 後ほど、狗邪韓国以降の渡海と陸行の道里が、「周旋五千里」と念入りに示され、「倭人伝」道里は、当時の視点で見て、簡潔だが要を得ていると見るものです。

*道里記事の「淀み」の解決
 ここで、道里記事の淀みの解決について、触れておかねばなりません。
 投馬国へ「水行二十日」は、以上の行程道里の原則に反しているものです。末羅国以降の行程は、王の処まで「陸行」でありもはや「水行」がないとの規定であるように、投馬国は傍路、脇道であり、付け足しです。奴国、不弥国、投馬国の記事には、風俗、地理に関する付記がないのも、これらの国が、行程の通過する主要国でないことを、明確に物語っています。

 倭人伝の現存記事から見て、つまり、陳壽が必要と見た記事から見て、明らかに、伊都国は郡との交通、交信の終点かつ始発点であり、王の処は、其の至近でなければならず、そのような最重要道里が、水行二十日と官道なしの風任せ行程を挟んでいる筈がないのです。

 また、同様の筋道から、続く水行十日陸行三十日(一ヵ月)は、伊都~王の処までの道里行程の筈がないのです。

 なお、この部分を「都水行十日陸行一月」と読解し、従郡至倭の所要日数の総計との解釈が、古田史学の会古賀達也氏によって提起されていて、当ブログ筆者の持論と符合したので、ここで同志宣言しておきます。そのため、当ブログ諸記事から「南至邪馬壹國女王之所都。水行十日陸行一月」との解釈を退場させています。

〇「水行二十日」「水行十日、陸行三十日 」 の仕分け
 近来、「水行二十日」と「水行十日、陸行三十日 」の記事が、倭人伝道里行程記事の理解の「重大、絶大な妨げである」旨の指摘がありますが、以上のように、記事項目を仕分けすると、「従郡至倭」に始まる行程記事は、必要な道里記事だけが残されるので、円滑に理解できるはずです。(思わず、「自然に」と書きかけましたが、個人的な意見は千差万別なので、言葉を変えました。)

*伊都国起点の放射行程論議
~榎一雄師提言の評価
 以上の行程解釈は、榎一雄氏が実質的な創唱者ですが、もちろん、以上の論義のかなりの部分が氏の意見と異なっているのは承知です。

 例えば、榎氏の意見に従うと、伊都国から女王国の行程は「水行十日、陸行一月」であり、つまり、これを伊都国からの所要日数と見ていますが、まずは、国の根幹部の街道道里が不明で、所要日数しか書けなかったという解釈は、国体に似つかわしくないのです。
 また、文書通信も成文法もないので、女王が、伊都国から見て四十日行程の向こうに閑居していては、諸国どころか伊都国すら統御できないのです。とにかく、女王は、對海國、一大国、末羅国、伊都国と続く、頼もしい列強から遠く離れて、どこの誰を頼りにしていたのかと、疑問に駆られるのです。そのような蕃王の姿に、後世東夷のものが納得しても、三世紀読者は決して納得しないでしょう。
 榎氏は、道里記事をそのように解する前提として、「唐六典」の「陸行」一日五十里記事を援用していますが、それでは、郡から狗邪韓国の七千里は、百四十日を要することになります。それは、魏使が大量の下賜物を抱えて道行(みちゆき)できるものではないので「戯画」と見えます。要するに、倭人伝の「里」は、観念的なものに過ぎないので、場違いな情報で検算してはならないのです。

 陳寿は、そのような不適切な読みに陥らないように「倭人伝」独特の道里記事を工夫しているのです。そして、三世紀読者は、陳寿の書法に納得したのです。
 それにしても、氏の提言に関して、世上では、なぜか、理論的な評価がされていないようです。単に、氏の漢文解釈が不適切だという程度です。
 榎氏の発表時、先輩から「伊都国が、当時政治経済の中心だったと言いたいのか」と詰問されたように書いていますが、反論無しに、そのように書き残しているということは、文献に明記されていないので、史学論文に書けなかったものの、氏の論拠がそこにあると示していると見えます。

 このように明解で正当な仮説を否定するのに、未だに「子供じみた感情論や得体の知れない文法談義の屁理屈しかない」ようで、ここも、いたずらに混沌を書き立てている輩(やから)がいることになっています。

*行程道里記事の総決算
 つまり、「倭人伝」の眼目たる所要日数は、ここまで縷々述べてきた「従郡至倭」の総決算と見るものです。倭人は魏朝に服属したから、「従郡至倭」の総日数が不可欠であり、そのように読者に明示しなければならないと見るものです。つまり、洛陽の高貴な「読者」に、あれこれこむつかしい計算をさせるものであってはならないのです。と言うか、俗説にあるような行程解釈では、全所要日数が読み取れない不完全な史書となります。
 逆に、これが全所要日数という自然な結論を採用するなら、伊都国以降の進路がどちらを向いているとか、里数が実測かどうかなど、議論の必要は無いのです。「倭人伝」道里の公的史書における位置付けを思えば、「エレガントな」、つまり、複雑な謎解きと計算の要らない端的な解釈順当と判断できるはずです。

 以上が、当方の解法であり、自分なりに自信を持っていますが、そのように理解したくない、理解できない方が圧倒的に多いでしょうから、総選挙すれば、あくまでも、支持者のない孤説に終わるものでしょう。要は、山火事に柄杓一杯の水をかけているだけなのです。

*混沌の由来
 おそらく、刮目天一氏は、世上氾濫する安直な「短里説」それを取り巻く安直な議論を「混沌」と見たのでしょうが、「混沌」も目鼻をつければ「面目」を得て成仏するのです。一向にそうならないのは、おそらく、混沌泥沼を好む不逞の輩が、無面目の混沌に不法餌付けしているのでしょうが、そのような事態の付けを陳寿に持ち込むべきではないと思います。

*まとめ
 以上、保守守旧派の諸兄にとっては、嫌みたっぷりでしょうが、これが芸風なので、飾りの少ない平文を、冷静に読み通して頂ければ幸いです。
 当初、当地基準で五ページ(ややてんこもり気味)になって反省ですが、まあ、ほぼ全文が新規書き出しであり、勢いに任せた初稿の半分以下に縮めたのでご勘弁頂きたい。

*応答御免
 当記事は、随分コメントを戴いているので、応答をかねた訂正、改善を随時反映していることをご了解戴きたいものです。
 ここで書くのが至当かどうかわかりませんが、洛陽と倭人の交信では、景初遣使直前に、帯方郡から洛陽に、全体道里、全体戸数、などの要件が報告されたと見るべきです。
 つまり、景初年間の司馬氏の楽浪郡攻略の大部隊とは別の部隊が、楽浪、帯方両郡を、無血調略で皇帝直轄としたため、それまで長年阻止されていた倭、韓の報告が一気に開通し、皇帝の手元に、万二千里の遠隔の東夷が存在するという大発見が届いたと見るのです。

*不愉快な結論
 世上、「倭人伝」の道里は、後年、魏使の上申した「出張報告書」から読み取ったと見ている向きが多いようですが、数十人の人夫を要すると見える大量の下賜物と百人規模と見える多数の人員を使節団として派遣する際に、相手の正体や目的地までの所要日数などを一切下調べしないままに送り出すことはあり得ないのです。帯方郡の係員が現地調査して、当初の万二千里の報告と整合する報告を試みたはずです。

 但し、既に皇帝に承認された内容は、皇帝年代記に書き込まれているので、訂正が効かなかったというのに過ぎないと見えます。

 以上の経緯は、あくまで、最善の考察をこらした推定ですが、諸所に、先賢諸兄姉の反感を煽りかねない推定が試みられているので、こっそり書き始めているところなのです。

 頓首頓首。死罪死罪。(「読者」の逆鱗に触れても、いきなり死罪にならないように、平伏しているのです)
                                以上

2022年11月21日 (月)

新・私の本棚 番外 サイト記事批判 「弥生ミュージアム」倭人伝 再掲 1/6

弥生ミュージアム 倭人伝  2019/11/15
私の見立て ★★★☆☆ 大変有力 但し、「凡ミス」多発     追記 2022/11/21

*前置き/おことわり
 ここに紹介し、批判しているのは、掲題サイトの一般向け解説記事ですが、当ブログ筆者は、課題となっている疑問点に対して、一方的な解釈が、十分な説明無しに採用されているので、あえて僭越を顧みず、異論を唱え、広く、諸賢の批判を仰ぐものです。

□はじめに
 近来、当ブログ筆者は、諸方に展開される倭人伝解釈の初歩的な間違いに嘆きを深め、ために泥沼状態が解消の方向に向かわないのにたまりかね、せめて、柄杓一杯の清水で、其の一角の汚れを洗おうとしているものです。

 以下に述べる指摘は、その汚れと見たものであり、ご不快ではありましょうが、もう一度見直していただきたいものです。
 それにしても、こうした一流公式サイトの一級記事に、明らかな誤字があるのは感心しません。公開以前の校正は当然として、公開以後、誰も探検していないのは、組織全体の信用をなくす物で、ここに苦言を呈します。誤解されると困るのですが、ここに批判したのは、サイト運営の皆様が理性的な見方ができると考えたものであり、そのために労を厭わなかったのです。

 今回は、「倭人伝」解釈論議ですが、本体部分に平野邦雄氏の現代語訳を起用しているとは言え、当記事の最終責任は、氏の訳文を記事として掲載した当サイトにあると思うので、ここでは、サイト記事批判としています。

                              

倭人は、帯方郡(*1)の東南の大海の中にあり、山や島によって国や村をなしている。もと百余国に分かれていて、漢の時代に朝見してくるものがあり(*2)、現在では、魏またはその出先の帯方郡と外交や通行をしているのは三十国である(*3)。(中略)
(*3)この一〇〇余国ののちに、三〇国が、魏と外交関係をもつとのべたもので、前段の狗邪韓国と、対馬国から邪馬台国までを加えると九国、それに後段の斯馬国から奴国までの二一国で、あわせて三〇国となる。(中略)
 「魏と外交関係をもつ」とは、時代錯誤の用語です。東夷の「国」は、魏から対等の国家、「敵国」として認められたものではないので、単に通交と言うべきです。魏の本国と接触できたのは、ごく一部の文字交信のできる「国」が、諸小国の代表と認められ、洛陽まで移動することが許されたのです。あるいは、「外国」は、すべて「蛮夷」と解釈するのかも知れませんが、現代読者には、そうとは解釈できないので、時代錯誤というのです。

 それにしても、本文と表記が不統一で感心しません。百余国、三十国と正しい書式、時代相応に書くべきです。 三世紀当時どころか、遙か後世まで「ゼロ」は無かったのです。三世紀当時無かった概念は、丁寧に、つまり「徹底的に、全面的に」排除すべきではないでしょうか。
 因みに、景初献使の直前まで、帯方郡は、長年遼東公孫氏の管理下にあったので、その間倭人の洛陽行きはなかったのです。

帯方郡より倭に行くには、朝鮮半島の西海岸に沿って水行(*4)し、韓の国々(*5)を経て、あるいは南へ、あるいは東へと進み、倭の北岸にある狗邪韓国(*6)に到着する。これまでが七千余里である。
(*4)「水行」は陸岸に沿って、海や川を航行すること。「渡海」と区別される。
 原文には、「朝鮮半島の西海岸に沿って水行」とは書かれていません。陳寿は、「海岸に循いて行くことを水行という」と水行の意味を定義した後、特に説明無く「韓国を歴る」と書いているので、これは、全体として東南の方向に内陸の官道を行くというのが、書かれている字をそのまま普通に解釈するものではないですか。
 地図を参照するまでもなく、半島の西海岸に沿って航行しても狗邪韓国には到達できません。つまり、後に登場する、渡海」と明記されている水行とは異なり、沿岸水行は書かれていないということではないですか。
 因みに、このような際、沿岸航行を形容するには、史官は、海岸を撓めると表記するものです。また、方向転換する際は、その地点を明記し、進路変換を「転」じてと書くものです。そうしないと、いつ方向転換するのかわからないのです。ご不審の方は、お好みの時代錯誤の精密な地図を見て、とても海岸線に沿って進むことなど、到底、金輪際できないとわかっていただけるでしょう。
 訳者は、そうした事情を、十分ご承知の上で著書に掲載したこととは思いますが、このように、抜粋して引用されると、氏の「誠意」は、伝わらないので、事情に通じていない読者のためにちゃんと説明すべきではないでしょうか。(「誠意」の中には、時代用語の解釈、注釈という重大な事項が含まれています)
                                未完

新・私の本棚 番外 サイト記事批判 「弥生ミュージアム」倭人伝 再掲 2/6

弥生ミュージアム 倭人伝  2019/11/15
私の見立て ★★★☆☆ 大変有力 但し、「凡ミス」多発     追記 2022/11/21

*承前
(中略)(*5)三韓(馬韓、辰韓、弁韓)の中の諸国をいうが、ここではコースからみて、馬韓の国々をさしている。
 「コース」とは程度の低い時代錯誤です。半島西海岸に沿って進めたとして、西海岸が終わったらどうするのか。東方への転換が書かれてない限り「コース」は南海に進むだけです。「まずは南に後に東に」と意訳するのですか。
 因みに、馬韓は、中心部が、漢江河口部のあたりであり、南部がどこまで届いていたのか不明です。

そこから、はじめて一海を渡ること千余里で、対馬国(*7)に到着する。(中略)千余戸があり、良田はなく、住民は海産物を食べて自活し、船にのり南や北と交易して暮らしている。(中略)
 提示の紹凞本「倭人伝」は「對海国」と書いていて、「対馬国」は誤訳となります。
 因みに、掲載写真には「宮内庁書陵部©」と著作権宣言されていますが、政府機関である宮内庁が所蔵、つまり、公有の古代資料の写真に著作権を主張するなど論外です。良く良く確認の上、©を外すべきです。

(中略)それからまた南に一海を渡ること千余里で一支国(*9)に到着する。この海は瀚海と名づけられる。(中略)三千ばかりの家がある。ここはやや田地があるが、水田を耕しても食料には足らず、やはり南や北と交易して暮らしている。(中略)
 提示の紹凞本「倭人伝」 には 「一大国」と書いています。ここも、誤訳となります。
 また、「水田」とは書いていないので、またもや軽率な誤訳です。ともあれ、戸数相当の田地があったので、主食は得られていたと見るべきであり、おかずに海産物をタント採っていたのを見て、海の豊かさを知らない中原人が哀れんでいた可能性が濃厚です。

また一海を渡ること千余里で、末盧国(*10)に到着する。四千余戸があり、山裾や海浜にそうて住んでいる。(中略)人々は魚や鰒を捕まえるのが得意で、海中に深浅となり潜り、これらを取って業としている。(中略)
 「山裾や海浜にそうて住んで」いるのでは、全世帯が浜住まいで、漁に専念していたことになり、四千余戸は、国から扶持された良田を耕作しなかったのでしょうか。扶持か私田かは別として耕作地は、収穫の貢納を厳命されていたはずです。一家揃って海辺に住んでは農耕できません。
 「業としている」とは、普通は、交易に供して対価を得て生業を立てているという意味ですが、どうなっているのでしょうか。国としてでしょうか。

そこから東南に陸行すること五百里で、伊都国(*11)に到着する。(中略)千余戸(*14)がある。代々王がいたが(*15)、かれらは皆、女王国に服属しており、帯方郡からの使者が倭と往来するとき、つねに駐るところである。(中略)
(*14)『魏略』では「戸万余」とあり、千は万の誤りか。
 無造作に『魏略』と書くのではなく、「『翰苑』の断簡写本に見られる『魏略』断片(佚文)に従うとすれば」と丁寧に書くべきではないですか。いずれにしろ、字数の限られている記事に、ことさら書く価値は無いでしょう。
 郡使は、倭に到着したとき、伊都国に「常に駐した」、つまり、ここで、馬を下りて、足をとどめたように見えます。つまり、「倭」の王之治所は、伊都国の管内にあったとも見えます。

(*15)『後漢書』では三〇国のすべてについて「国皆王を称し、世々統を伝う」とし、これに対し「大倭王は邪馬台国に居る」としている。
 これは、「倭人伝」の記事と異なるものである、とでも書き足すべきです。そうしなければ、圏外を語る笵曄「後漢書」を起用する意義がありません。また、なぜ、時期外れの後漢書を尊重するのか、意図不明です。
 ここでは、後漢代の大倭王なる君主が、当時「邪馬臺国」と称していた「国」を居所としていたと言うことでしかありません。范曄は、後漢代のことしか書いていないのですから、文帝曹丕、明帝曹叡の二代のことは、一切書いていないのです。
 これに対して、倭人伝」は、母体である「魏志」が三国鼎立期の魏朝の記事であり、遡って魏武曹操の時代のことも含めていますが、陳寿は、范曄が唱えた「大倭王」、「邪馬臺国」の記事を書いていないのです。つまり、これらは、陳寿の排除した伝聞に類するものと見るのが普通でしょう、と意見されたことはありませんか。
 また、魏志に丁寧に補注した裴松之も、この点に関して陳寿の割愛を回復してはいないのです。范曄が、「倭」記事の根拠とした後漢代の「倭」史料は、范曄と裴松之が活動した南朝劉宋期に存在しなかったのではないでしょうか。つまり、ことは、范曄の創作記事のように思えるのですが、反証はあるでしょうか。
 つまり、陳寿の残した記事を覆すに足るだけの、後漢書に対する史料批判は、十分にされたのでしょうか。

これから先は、東南、奴国(*16)にいたるのに百里。(中略)、二万余戸がある。(中略)
 「これから先は」とあるが、なにが「これ」なのか、文としてどう続くのか趣旨不明です。

おなじく東、不弥国(*18)に至るのに百里。(中略)
 「おなじく」と無造作に、原文にない書き足しですが、何がどう同じなのかわかりません。

                                未完

新・私の本棚 番外 サイト記事批判 「弥生ミュージアム」倭人伝 再掲 3/6

弥生ミュージアム 倭人伝  2019/11/15
私の見立て ★★★☆☆ 大変有力 但し、「凡ミス」多発     追記 2022/11/21

*承前
また南、投馬国(*20)に至るのに水行二十日。(中略)。五万余戸ばかりがある。
また南、邪馬台国(*23)に至るのに水行十日・陸行一月。ここが女王の都するところ(中略)七万余戸ばかりがある(*26)。
(*23)現在にのこる版本でもっとも古い南宋の紹興年間(一一三一~六二)の「紹興本」、紹煕本年間{一一九〇~九四}の「紹煕本」には、邪馬臺国ではなく、邪馬壹国となっているから、ヤマタイでなく、ヤマイであるとの説もあるが、そうとは断定できない。(中略)邪馬台国問題は、このようなアプローチからでは決まらない。(中略)
 どちらに分があるかは、この部分の書きぶりで自明なので、別に「そうとは断定」しなくても良いのです。つまり、普通に考えれば、現存史料「倭人伝」の記事を排除して「台国」と断定する理由は全く見られないということが言いたいのでしょうが、明解に書けないのでしょうか。どうも、後の冗談も含めて、敗戦宣言しているように感じます。
 ついでながら、古代氏論考で、「アプローチ」は、何とも不適切です。ゴルフ用語なら「ショット」と明記しないと意味が通じません。それとも、異性を口説くのですか。大事な記事を書き飛ばしたわけではないはずですから、不用意ですね。と言うような、益体もない冗談を言わさないでほしいものです。カタカナ語撲滅です。

 ついでながら、「問題」が「決まらない」と言うのは、独特の言い回しで、勿体ない失態です。「問題」が、教科書の課題であれば、「解けない」のであり、「問題」が、難点、欠点であれば、「解消しない」とか「解決しない」とか言うもので、読者は、そうした文脈で、無造作に書かれた「問題」の意味を解釈しているのです。著者各位は、自分の語彙で滔々と書き立てるのではなくて、読者に誤解の無い言い回しを工夫すべきでしょう。特に「問題」は、数種取り混ぜて乱用されているように見受けるので、わざわざここに書くのです。

 もう一つついでながら、それぞれ「また」で開始していますが、原文に「又」はありません。少し遡ると、「又南渡一海」、「又渡一海」と書かれていて、陳寿が、「また」の書き方を知らなかったとは思えないのです。書いた方の脳内で、原文は、好ましい形に変容したのでしょうか。ともあれ、来館者に、「ことわりなし」に原文と異なるものを提供していて、信用を無くしています。

(*26)これまでの狗邪韓国~伊都国と奴国~邪馬台国の二つのグループでは、方位と里程(日程)の書き方が違う。前者は何国からどの方位で何里行けば何国に到着すると実際の旅程に従った累積的な書き方をしている。後者は何国から何国にいたるにはどの方位で何里としていて、これは伊都国を中心に放射線状に読み取ったものである。つまり、魏使は原則として伊都国より先は行かなかったし、投馬国より邪馬台国の方が北に位置することになり、九州圏内にあるとする、榎一雄氏の説がある。
 「後者は」は、「魏使は原則として伊都国より先は行かなかった」までを言うつもりでしょうが、そこまで一つながりで断定する根拠は無いと見えます。
 また、「原則として」と言いっぱなしで原則と例外が示されていません。ここまでの議論で「投馬国より邪馬台国の方が北に位置する」ことは示されていません。榎氏の説を誤解しているのでは無いでしょうか。もっとも、どこからどこまでが榎氏の所説の引用なのか判読できないのでは、議論が成立しません。誠に、不始末、不都合な書き方です。

このように、女王国より北の諸国は、その戸数と道里をほぼ記載することができるが、その他の周辺の国は、遠くへだたり、詳しく知りえない。(中略)奴国で、ここまでで女王国の境界はつきる(*27)。
帯方国より女王国までを総計とすると一万二千余里となる。
倭では、男子は成人も子供もみな顔や体に入墨をしている。昔から倭の使が中国に来るとき、みな大夫(*30)と称する。(中略)今、倭の水人は海中に潜って魚や蛤を捕え、体に入墨して大魚や水鳥から身を守ってきたが、後にはやや飾りとなった。倭の諸国の体の入墨は、国々によって左右や大小などにちがいがあり、身分の尊卑によっても異なる。
 
 南方の景色と見える「文身」を顔と身体の入墨と決めつけますが、そうとは限らないでしょう。北九州が、韓国より温暖と言っても、温暖期以外に「海中に潜って」魚や蛤を捕えるのは、無理があるように見えます。又、肌寒い時期に風の通る衣類で、さらには肌脱ぎで、文身を披瀝していたとも見えないのです。かなり南方の温暖な地域の景色のように見えます。いずれにしろ、記事の筆者が、全土に足を伸ばしたとも見えないので、「倭の諸国」と書かれているのは、南方の訪問先に限られているはずです。
 文身は、遺物として残らないので、いずれの時代、地域で流行したか不明ですが、後世、影を潜めたところを見ると、南方の風習にとどまっていたとも見えます。

(*30)中国では一般に卿・大夫・士の順に記し、国内の諸王・諸侯の大臣の身分。ただ漢でいえば、二〇等爵のうち、第五級の「大夫」から、第九級の「五大夫」までがこれにあたり、幅がある。(中略)
 これは、秦代以来の階級制度であり、下から唱えるから、第五級の「大夫」は庶民階級です。当然、魏でも同様です。貴人などではありません。漢代以降、魏晋あたりまでの公式史書で、「昔」とは、「周」のことではありませんか。守成の大夫を名乗り続けているのも、その主旨でしょう。つまり、普通に考えると、太古、周朝に貢献して、「大夫」の高官に叙されたとみるべきでしょう。

 少々繰り返しになりますが、卿・大夫・士」は、周制であり、大夫は王に連なる高官であったし、指南によって解体された身分制度が、王莽の「新」が、復活した時を除けば、同様でした。場当たりのつぎはぎ解釈は、感心しません。

                                未完

新・私の本棚 番外 サイト記事批判「弥生ミュージアム」倭人伝 再掲 4/6

弥生ミュージアム 倭人伝  2019/11/15
私の見立て ★★★☆☆ 大変有力 但し、「凡ミス」多発     追記 2022/11/21

*承前
帯方郡からの道里を計算すると、倭は会稽郡や東冶縣(*33)の東にあることになろう。 (中略)
(*33) 現在の福建省福州の近くの県名。
 南宋刊行の「倭人伝」には「会稽東治」と書かれていて、郡、県と書いていないので、この議論は確定しません。
 いずれにしろ、広大かつ高名な会稽郡と同郡の僻南であって、知る人も希な、到達困難地域である「県」を、陳寿ほどの史官が「や」で同列に置くはずは無いのです。こじつけではないでしょうか。
 因みに、「東冶」は、三国時代の一時期の県名であり、現存しているわけではありません。抜粋引用のもたらす錯誤です。「現在の」は、「福州」の形容に過ぎません。

死ぬと棺に納めるが、槨(*35)は作らず、土を盛り上げて冢をつくる。(中略)
倭人が海を渡って中国に来るには、つねに一人は頭をくしけずらず、しらみも取らせず、衣服は汚れたままとし、肉を食べず、婦人を近づけず、あたかも喪に服している人のようにさせて、これを持衰(*36)と名づける。もし、航海が無事にゆければ、かれに生口・財物を与え、もし船内に病人が出たり、暴風雨に会ったりすれば、これを殺そうとする。つまり持衰が禁忌を怠ったからだというのである。(中略)
(*38)倭人中の大人。この部分を「便ち大倭のこれを監するに、女王国より以北に一大率を置き・・」と続けて読み、大倭を邪馬台国の上位にある大和朝廷であり、一大率も朝廷がおいたとする説があるが、これは無理。(中略)『後漢書』では「大倭王は邪馬台国に居る」と記している。(中略)
 暴論としてやり玉に挙がったとは言え、三世紀の中国史書に、遙か後世の「大和朝廷」の前身を見るのは、白日夢にしても無残です。こじつけのためには、改竄、誤釈言いたい放題というのは、「倭人伝」解釈という学問的な分野に、家庭ゴミを投棄する類いであり、毎度目にするたびに気が重く、いっそ、国内史料立ち入り禁止としたくなるほどです。
 如何に「無理な」暴論相手でも、『後漢書』に依拠して「倭人伝」を否定して良いものでしょうか。「倭人伝」には、何も書いていないということですか。
 ともあれ、裏方に回った平野氏共々、誠にご苦労なことと推察します。

その国は、もとは男子を主としたが、七~八十年ほど前、倭国が乱れ、何年もお互いに攻め合ったので(*41)、諸国は共に一女子を立てて王とした。これを卑弥呼(*42)という。彼女は神がかりとなり、おそるべき霊力を現した。すでに年をとってからも、夫をもたず、弟がいて、政治を補佐した。王となってから、彼女を見たものは少なく(中略)
 「...ので」と続けても、何も論理の繋がっていないのが難儀ですが、「諸国」が共立したという記事は、「倭人伝」になく、単なる臆測、希望的観測でしょう。
 それにしても、ただの人が「神がかりとなり、おそるべき霊力を現した」とは書いていません。無理そのもののこじつけに思えます。「霊力」は、誰も見たことがないので、不可解です。また、曹魏の創業者曹操は、迷信を忌み嫌っていたと知られています。もちろん、「倭人伝」は、魏晋代の史官である陳寿が、身命を賭して、つまり、心から納得して書いたものですから、「怪力乱神」を書くはずがないのです。
 「すでに年をとってからも」の「すでに」が趣旨不明です。「すでに年長けたが」位が妥当では無いですか。又、末尾の「も」も、余計です。単に、「ついに配偶者を持たなかった」位が穏当では無いですか。
 常識」的に考えて、「一流の家に生まれ、生まれながら神に仕えて独身を守った」と見るべきではないでしょうか。そのような「聖人」だから、私心のない人として信頼されたのではないでしょうか。普通に考えると、そのように見えます。
 「見たもの」と言うのは、「見」の趣旨を失していて、国王に「接見したもの」とする方が良いのでは無いですか。何か、支離滅裂に見えます。
 あることないことというのはありまずが、訳文と称して、原史料に無いことの連発は、古代史学の取るべきみちではないでしょう。

これらを含めて倭地の様子を尋ねると、海中の島々の上にはなればなれに住んでおり、あるいは離れ、あるいは連なりながら、それらを経めぐれば、五千余里にもなるだろう。
 この部分は、既説の狗邪韓国以来の「倭地を巡訪する道里」を、切り口を変えて言っただけです。字句をそのまま読めば、狗邪から海中の二島を渡海(計三千里)で歴て陸地に達し、以下陸地を倭都まで通算五千里」と単純明解ですが、勿体ぶった訳文が、かえって意味不明にしています。陳寿は、皇帝始め、読者として想定した読書人が、多少の勉強で読解できるように、明解に書いたはずでしょう。

                                未完

新・私の本棚 番外 サイト記事批判 「弥生ミュージアム」倭人伝 再掲 5/6

弥生ミュージアム 倭人伝  2019/11/15
私の見立て ★★★☆☆ 大変有力 但し、「凡ミス」多発     追記 2022/11/21

*承前
景初二年六月(*43)、倭の女王は大夫難升米を帯方郡に遣わし、魏の天子に遣わし、魏の天子(使)に朝献したいと請求した。帯方太守(*44)劉夏は、役人を遣わし(中略)洛陽に至らしめた。その年の十二月、魏の明帝は詔して、倭の女王に次のように述べた。「親魏倭王卑弥呼に命令を下す。帯方郡大守劉夏が使を遣わし、汝の大夫難升米と次使都市牛利を送り、汝(中略)今、汝を親魏倭王(*46)に任じ、金印・紫綬(*47)を与えることにし、それを包装して帯方太守に託して、汝に授けることとした。(中略)」と。
(*43)魏の明帝の年号。景初三年(二三九)の誤り。『日本書紀』神功三九条にひく『三国志』や、『梁書』倭国伝には、景初三年のこととしている。魏は、景初二年(二三八)、兵を送り、遼東太守公孫渕をほろぼし、楽浪・帯方を接収した。その翌年(二〇九)
(二三九)、直ち卑弥呼は魏の帯方郡に使者を送ったとみねばならない。

 現存史料の記事より、誤伝、誤写の可能性の圧倒的に高い国内史料の、形式を失した佚文を論拠に採用するのは一種の錯誤です。ちゃんとした古代史学者は、ちゃんと史料批判をしてから、ちゃんと史料の信頼性を論じてください。
 又、遙か後世で、誤伝、誤写の可能性の格段に高い「梁書」を、信頼性の高い魏志倭人伝に対する異論の論拠史料に採用するのも、同様の錯誤です。違いますか。

 三国志では、『楽浪・帯方の「接収」(太守更迭)が遼東攻略に先んじた』と解すべき記事があり、その記事を収録する三国志記事を、現代日本人の見識で否定することは、不合理と見るのが順当ではないですか。

 いずれにしろ、景初遣使当時、当時の帯方郡は山東半島経由で交信、交通したので、遼東戦乱は、倭使の帯方郡を経た洛陽往還に全く無関係です。
 要するに、不確かな憶測で、景初三年の誤りと強弁するのは、不合理の極みです。

 因みに、景初三年元旦に皇帝が逝去したので、「景初三年」は、明帝の年号ではなく皇帝のない年号です。つまり、論拠としている国内史料にある「明帝景初三年」は、「魏志」に存在しないので、引用記事ではなく利用した佚文の誤記に惑わされたか、そうでなければ、引用詐称、ないしは捏造です。

 ついでながら、単に景初三年なら、皇帝は新帝曹芳です。とは言え、在位中、少帝と呼ばれなかったのは明らかです。

(*48)(*49)倭の使者に与えられたこの爵号はともに比二〇〇〇石、官秩は郡守に比せられる高い地位である。(中略)魏がはじめて外臣の倭と韓の首長を中郎将に任じた。ことに倭に対しては、大夫難升米のほか、大夫掖邪狗ら八人にも、おなじ称号を与えたのは、大夫という比較的低い地位の使者に、高い爵号をあたえ、倭を重んじたとする説もある。(中略)
 先に述べたように、「大夫」は周制の高官を自称したものであり、決して秦漢制の庶民を名乗ったのではありません。庶民は国王代理となれず、魏朝に侮られ、あるいは、接見拒否されます。大夫も、見くびられたものですね。
 ここは、倭大夫は帯方太守と略同格という趣旨でしょうが、当然、魏の高官である郡太守と外臣に過ぎない蕃王の陪臣が同格の筈がないのです。中国文化に浴していない蛮王が、郡太守と同格、さらには、上位となることもあり得ません。考え違いしていないでしょうか。
 一般読者に予備知識が無いと想定される「比二千石(せき)」には、丁寧な解説が必要です。普通、江戸時代の禄高二千石(ごく)、つまり、一万石に及ばないので城主大名になれない小身の軽い存在と解するはずです。

(中略)
(*56)この銅鏡はセットとして、倭女王に贈られたもので、魏晋鏡といわれている三角縁神獣鏡であり、(中略)、大和説に属する。(中略)
 「セット」は時代錯誤で単数複数不明、意味不明です。こなれていないカタカナ語で、ため口を叩くのはやめましょう。
「魏晋鏡といわれている三角縁神獣鏡」は意味不明です。このような根拠の無い定説は、ぼちぼち「ゲームセット」にしたいものです。


 景初年間の魏は、遼東への大軍派兵とともに、東呉、蜀漢と対峙の戦時体制下であり、そのような非常時に、皇帝の勅命とは言え、非常識極まりない宮殿大規模造成中であり、宮殿装飾品で銅材が逼迫しているなか、それに加えて魏鏡百枚新作は途方もないのです。明帝は何を根拠にそのような無謀な製作を、人材、資材払底の尚方工房に課したのでしょうか。
 普通は、洛陽の帝室倉庫を総浚えしたと見るものではないでしょうか。「魏晋鏡といわれている」と新作説を言い立てているのは無謀です。

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