毎日新聞 歴史記事批判

毎日新聞夕刊の歴史記事の不都合を批判したものです。「歴史の鍵穴」「今どきの歴史」の連載が大半

2024年5月 9日 (木)

毎日新聞 歴史の鍵穴 意図不明な「宗達」新説紹介記事 補足 三掲

 私の見立て☆☆☆☆☆               2016/06/17 2024/04/30, 05/09
 今回は、当ブログ筆者が毎月躓いている毎日新聞夕刊文化面の月一記事である「歴史の鍵穴」の6月分記事に対する批判記事の補足である。

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

◯始めに
 前回記事は、いきなり、切り口上で、麗々しく題した「風神雷神屏風」の意味として、「日本美術史研究家の近刊書籍の打ち出した新説を紹介している記事のようである。」と書きだして、自分なりに「専門編集委員」の作品として出来がまずいと思われる点を率直に指摘したものであり、ここまでのところ、撤回すべき内容は見つかっていない。

*補足の弁
 ここで、補足したいのは、「林進氏の新説が明確に提示されていない」と批判した点であるが、読み直してみると、冒頭部分に、一応書かれていることに気付いたので、明確でないと感じた背景を以下に述べるものである。
 そのためには、当該部分を忠実に引用する必要があるので、出典を明示したうえで引用させていただく。この点、著作権者の了解をいただけるものと確信している。

 「江戸初期の絵師、(生没年未詳)の傑作「風神雷神図屏風(びょうぶ)」(京都・建仁寺蔵)は、学者で書家、貿易商だった角倉素庵(すみのくらそあん)(1571〜1632)の供養のために描かれた追善画だった。大手前大学非常勤講師の日本美術史研究家、林進さんが史料に基づいて通説を見直し、近著『宗達絵画の解釈学』(敬文舎)でこんな新説を打ち出した。」

 これでは、字数が多く、紙面では8行+1字の長文の上、必要な説明とはいえ、大量の説明やかっこ書きが割り込んでいて、文の主題が目に入りにくいのである。と早合点の咎の言い訳をさせていただく。
 とはいえ、批判するだけでは、改善の手掛かりにならないので、素人なりの再構成を試みた。
 引用ならぬ粉飾
 俵屋宗達の代表作とされる「風神雷神図」は、京都・建仁寺所蔵の国宝として有名である。その制作動機として、通説では、京都の豪商が、臨済宗妙光寺に対して、その再興の際に寄贈するため製作を依頼したとされている。また、現在所蔵している建仁寺は、妙光寺の上位寺院であり、いずれかの時点で上納されたものと推定されている。
 日本美術史研究家 林進氏(大手前大学非常勤講師)は、近著『宗達絵画の解釈学』(敬文舎)で、近年公開された資料を基に「風神雷神図」の独特の構成、彩色を新たな視点から分析し、宗達は、芸術上の盟友であった角倉素庵の追善画として制作したとの仮説を提示している。
 *角倉素庵(すみのくらそあん)(1571〜1632)は、江戸時代初期の貿易商であり、のちに隠居して、学者となった。書道では、本阿弥光悦に師事したが、自身で角倉流を創始するほどの高名な能書家であった。

 こう切り出して、興味を書き立てられた読者に、以下の記事を書き続けるのだが、基本的に、通説と新説を対比し、新説の根拠を明快に提示するものではないかと思う。いくら優れた学説であっても、紹介者として、疑問に思う点があるはずであり、それは、率直に書くべきである。

 例えば、上にあげた改善例では通説とされている制作動機に触れているが、この説に従うと、少なくとも、当初、妙興寺方面からの製作依頼、つまり、多額の資金提供/手付金が契機になって屏風として制作されたという経緯、および、現在の建仁寺に所蔵されに至った経緯が、滑らかに説明されている。記事に紹介されていないが、林氏も、この点は否定していないことと思う。
 つまり、新説の趣旨は、通説の否定/克服ではなく、宗達が、制作依頼に応じて屏風を制作する際に、追善の思いを込めたというべきではないだろうか。

 ついでながら、角倉素庵の極度の窮乏は納得しがたいので、以下に書き留めると、五十歳を目前にして家業を長男に譲り、ついで、資産すべてを次男をはじめとした親族に譲り渡して、完全に隠棲に入ったとはいえ、「嗣いだ家業が繁栄している実子二人が、重病に苦しんでいる実父を見捨てて、無一文の困窮状態に放置した」とするのは、どんなものか。親が放蕩息子を勘当して縁を切ることはあっても、子が親と縁を切る法はないはずである。

 まして、長男は玄紀(京角倉家)、次男は厳昭(嵯峨角倉家)と、それぞれ、立派に家業を継いで、社会的にその地位を認められているから、最低限の親孝行として最低限の支援はしたはずである。直接の支援を拒絶されたとしても、宗達を介した出版支援など、陰ながらの支援をしなかったとは信じられない。

 今回の新説の補強を要するポイントは、宗達が、素庵にそれほどの哀悼の念を抱いた背景の推察であろう。
 素人考えでは、素庵は、自身とほぼ同年、つまり初老の宗達が、ともすれば、扇子製作の分業の中の一介の「絵師」職人として埋もれていたところを、自身の書家としての高名を生かした共作により、世評に上るように引き立てたものと思う。
 素庵との共作により、芸術家「絵師」として世に広く知られることになり、ついには、朝廷から「法橋」の称号を得て、多くの大作を製作する機会を得たことについて、とても返礼できない恩義を感じていたのではないか。

 念のためいうと、当ブログ筆者は、世間並みの好奇心と知識を持っているだけであり、以上の議論は、当記事を書き綴る傍ら、Wikipediaを購読してた得たにわか作りの知識を基に、つらつらと推察したものに過ぎない。
 せめて、こうした考察が付け加えられていなければ、学説紹介にならないのではないか。毎日新聞の専門編集委員に求められるのは、その令名に相応しい充実した記事ではないかと思うのである。

 毎度のことであるが、当ブログ筆者は、毎日新聞の編集長でも何でもない。素人の放言だから、別に気にすべきものでもない。ただし、毎日新聞の紙面にこうした記事を公開し続けることは、毎日新聞に対しても、記事筆者に対しても、「品格」の低下を感じさせてしまうのではないかと危惧しているのである。

 因みに、素庵の遁世の原因は「ハンセン病」罹患のせいと語られているが、当時「業病」として忌み嫌われていたというものの、記事の主題との関係の深いものではないから、中途半端に病名を出すより「難病」程度にとどめたほうがいいのではないか。読者が詳しく調べたければ、自力で調べればいいのである。

以上

2024年5月 1日 (水)

毎日新聞 歴史の鍵穴 批判 2014/10 再掲

                      2014/10/15 2024/05/01

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

◯始めに
 歴史学者諸賢の学説は、拝聴することにしているのだが、毎日新聞(大阪)夕刊文化面の連載記事『「歴史の鍵穴」 難波津と安積山 紫香楽宮を挟んで両極端』は、ちょっと/猛然と暴走したように見えるので、指摘させていただきたい。
 いや、これまでも、「歴史の鍵穴」氏が展開する牽強付会の意味付けには、ちらちら/毎度毎度首をかしげていたのだが、世間に良くあることなので、見過ごしていたものであるが、今回は、あんまりにも、あんまりなのである。

*首尾不明の迷走
 本日の記事の導入は、宮町遺跡で発掘された木簡の両面に書かれている難波津の歌と安積山の歌の読まれた舞台の位置が、地理的に対極の関係にあるという説である。
 また、記事の最後の部分の導入は、8世紀中期当時の都である紫香楽の宮から見て、難波津は南西の地の果て(断定)であり、安積山は北東の地の果てに近いと書き、記事を締めにかかっている。

 しかし、掲載されている地図を見るまでもなく、大阪湾岸の難波津が「地の果て」とは、何とも、不思議な見方で、とても同意できないのである。
 確かに目前に海はあるが、つい、その向こうには、別の陸地があるのは、漁民には衆知であり、また、一寸、北に寄って、今日言う山陽道を西へひたすら辿れば、下関あたりまで延々と陸地であり、そこで海にぶつかるとは言え、すぐ向こうに九州の大地がある。

 いくら、遙か1200年以上昔の事とは言え、大抵の漁民は、その程度の知識を持っていたはずであり、況んや、漁民達より深い見識を有する都人(みやこびと)は、難波津が地の果てなどとは思っていなかったはずである。

 「専門編集委員」ともなれば、無検閲で自筆記事を掲載できるのだろうが、この程度の中学生でもわかる不審な言い分を載せるのは、どうしたことだろう。

 ここで提示されている地図を見ると、確かに安積山は、遙か北東遠隔の地であり、到達に数ヵ月かかるから、現地確認など思うもよらず、ここが地の果てと言われても、同時代人は反論できなかったろうが、難波津は、せいぜい数日の行程であり、ほん近間である。
 これらの二地点を、対極というのは、字義に反するものである。

 また、大局的に見ると言うことは、さらに縮小した地図を見ることが想定されるが、そうしてみれば、難波津は紫香楽宮のすぐ隣である。ますます、字義から外れてくる。

 斯界の権威が自信のある自説をはるばると敷衍しようとするのは当然としても、なぜ、ここまで、遠慮のない言い方をすると、こじつけの域を遙かに超えた無理な見方をするのか、理解に苦しむのである。 

 今回の記事の説が成立しなくても、前回までの議論に影響はないように思うのである。 

 都の東西に対極があるとする見方に固執するのであれば、安積山が大体このあたりとして、難波津は、地図の左にはみ出して、下関や博多あたりが、距離として適地である。実は、九州に難波津を想定しての発言なのであろうか。
 また、南西という方角にこだわるなら、宇和島あたりであろうか。それとも、いっそ都城か。
 対極をともに想定地に固定維持すると、都は、近畿にとどまることはできず、飛騨高山か飛騨古川あたりに、紫香楽宮の位置をずらさねばなるまい

 そうした、無理に無理で重ねる作業仮説が否定されて退場すると、木簡の裏に二つの歌が並べて書かれていたからと言って、同時代人が、両者の舞台を、地理的な対極に想定していたとは言えない、と言う至極当たり前の意見に至るのである。
 「回答の選択肢から、可能性の無いものを取り除くと、残されたものが、正解である」と古人は述べている。宜なるかな。

 これほど、素人目にも明らかな齟齬であるから、「専門編集委員」と言えども、PCソフトに相談するだけでなく、発表以前に、生きた人間、それも、経済的に利害関係のない人間の率直な意見を仰ぐべきではなかったかと思うのである。

以上

2024年4月30日 (火)

毎日新聞 歴史の鍵穴 謎の五世紀河内王宮 再掲

大阪城跡の下層
 古代王宮が埋もれた可能性      =専門編集委員・佐々木泰造
 私の見立て☆☆☆☆☆ 根拠なき迷走-全国紙の座興か   2016/08/25 2023/01/23 2024/04/30

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

◯始めに
 今回は、毎日新聞2016/8/24日夕刊の文化面記事、月一連載の「歴史の鍵穴」に対する批判である。

 今回は、穏当な書き方で有るが、良く見ると大変大胆な主張が発表されているので、ぜひ検証したいが、なんとも検証できない。あえていうなら、出所不明への不満である。雑ぱくで恐縮だが、市井の諸賢の叡知を広く顕彰する記事として、どこがまずかったか気づいて頂ければ、幸いである。

*五世紀河内宮仮説
 今回の記事は、大阪市教委の学芸員の意見を伝えて頂いているようだが、学芸員の地方公務員公務の成果を、毎日新聞社独占としてこの紙面で成果を提供頂いているのだろうか
 ご当人の詳しい論旨が不明なのだが、燦然としているのは、五世紀、前期難波宮に二世紀先行して、この附近に王宮(と政府組織)があったとする主張であり、まことに大胆である。いつここに都を来させて、いつ、ここから都を移し出したのか、資料を拝見したいものである。

 80年度の調査で検出された柱穴の上の地層から、古代土器片が検出されたという微妙な意見であり、五世紀後半とおもわれる須恵器の破片が出土しているとしているが、どの程度の数量出土したのか不明だから論評できない。

 「柱穴」がいつ掘られたか確証があるのだろうか。また、「柱穴」が示す通り何らかの建物があったと仮定して、それが「王宮」の一部であったと断定的に主張するのは、あまりに大胆ではないか。以下の記事でも、五世紀にこの附近に王宮があったという記録については触れられていない。
 できれば、そのような画期的発表の基資料(プレスレリース)を見たいものだが、出所不明では、如何ともし難い。

*七世紀のお話
 七世紀のお話として、図解されている難波宮遺蹟の中枢部の一部が、北北東という半端な方向に500㍍程度離れてあったというのも、不思議な話である。
 記事の末尾を見ると、学芸員は、ここに王宮と言うより内裏があったのではないかと想定しているようだが、復元模型で示されているような難波宮が堂々とあるのに、天皇の寝泊まり/居処は別の場所というのは、なんとも信じがたい。

*公開データ利用のモラル
 今回の説明図は、「写真は国土地理院のウェブサイトより」とされているが、URLもなければ整理番号もない。白黒でサイズが小さい上に、撮影時期不明、縮尺不明、方角不明。(国土地理院が不親切なのではない) 説明がないので、どこが本丸やらどこが二の丸やらわからないし、追加記入した、白線や破線枠も、よく見えない。
 記事筆者は、現地事情を承知しているし、見ているのはカラーで大画面だから良い説明図と思われたのだろうが、夕刊紙面を見ている読者にはちんぷんかんぷんである。
 「近辺」の「法円坂遺跡」が描かれていないのも不満である。

 ということで、今回の記事も、一般人たる読者に画期的な新説を発表する方法として、ほめられたものではないと感じるのである。
 この地区の発掘ができないのは、特別史跡の保護のためと言うより、予算不足が最大の原因だろうから、世論の支持を願って、このようにリークして、予算獲得を狙っているのだろうが、ちょっと、このプレゼンテーションでは無理であろう。

 ちなみに、記事前半で、「織田信長と対立して1580年に焼失した(中略)本願寺」と無造作に書き飛ばしていて、これでは、比叡山を焼き討ちした信長が、同様に石山本願寺を焼き払ったと取られそうだが、そのような因果関係はないと思う。
 中立な書き方として、以下のようにした方が良いと思う。
 「一六世紀後半、織田信長と対立した(中略)本願寺(1580年和議開城後焼失)」

 全体に、学術的な発表の記事としては、大変不出来であるが、記者氏は、大先輩の足跡を見て書いているのだろうか。学ぶ相手を間違えているようにも見えるのである。 

以上

毎日新聞 歴史の鍵穴 意図不明な「宗達」新説紹介記事 再掲

                   2016/06/15 2024/04/30

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

◯始めに
 今回は、当ブログ筆者が毎月躓いている毎日新聞夕刊文化面の月一記事である「歴史の鍵穴」の6月分記事である。

*見えない「新説」/「通説」の対比
 麗々しく題して「風神雷神屏風」の意味として、日本美術史研究家の近刊書籍の打ち出した新説を紹介している記事のようである。しかし、不勉強な当ブログ記事筆者には、この記事を見ただけで、見て取れるものは、モノクロの縮小図版、しかも、左半分だけでは、どんな絵画+揮毫なのか、皆目わからない。
 記事は、紹介の念押しもなしに、いきなり、林氏の新説の引用というか紹介で始まり、肝心な、打倒/克服されるべき従来「通説」と対比されていないので、どこがどう異なるのか、読み取れない。何のことやらわからないのである。

 どうも、建仁寺所蔵の貴重な屏風絵である「風神雷神図」と呼ばれる国宝屏風絵らしい図の部分紹介、解説と見えるが、記事から見る限り、とても、この図はキャプションに書かれているような「高精細デジタル複製」には見えない。いずれにしろ、当図版から、「鉢巻き」、雷神が乗る「黒雲」、雷神の赤い肌でない「白い肌」の特徴は、とても見て取れないから、無意味な図示である。

 いや、今回の記事全体に、どこが、林氏の所説なのか、どこが、紹介者の解釈なのかわからない。これでは、一般人読者は、「五里霧」の深い霞の中を引き回されているようで、困惑するのである。これが書評であれば、通説と対比する形で新説を逐次紹介し、新説の主張の論拠を示す形になると思うのだが、これは、なんなんだろう。

 例えば、当記事筆者は、相当の達人で高名だったはずの「宗達」の同名異人が存在したという憶測を書き立てるだけで、それ以上、何の掘り下げもせず、二人「俵屋宗達」だったものと納得しているようである。大事なポイントのように思うのだが、記事は、何もつかえずに通り過ぎるだけである。ご不審の方は、記事の実物を読んでいただきたい。

 そういうわけで、林氏が、新発見の角倉素庵書状の解釈によって、そこに絵屋『俵屋』の宗達が示唆されているというのだが、「織り元『俵屋』の宗達」と「絵屋『俵屋』の宗達」が同時代に生きていたという説を打ち出したようなのだが、この紹介記事のゆるゆるの書き方では、何とも掴みがたいから、林氏の論証そのものを確認しない限り、にわかに信じがたいものがあるとしか言いようがない。紹介になっていないのである。

*丸投げの顛末
 当連載記事の定番で確認不足の紹介を投げつけられては、筆者が、被紹介者の説に賛同していると言うことくらいはわかるが、その賛同を生み出した意義・意味が読み取れないのが、ほぼ毎回である。しみじみ思うのだが、他の読者諸兄姉は、記事の意図をすんなり受け止めていて、わからん、おかしいと言い続けているのは、当ブログ筆者だけなのだろうか。今回も、書いていて、途中で途方もない徒労のような気がしたが、これまでの記事の扱いと調子を大きく変えることはできないので、意気を奮って書いたものである。

以上

毎日新聞 歴史の鍵穴 不思議な世代交代 (最終回)再掲

 私の見立て☆☆☆☆        2017/03/22 2024/04/30

◯始めに
 今回、毎日新聞大阪2017年3月22日付夕刊掲載の月一連載については、従来、素人考えで批判させていただいていたが、今回が最終回とのことである。

小山田古墳の被葬者 候補は舒明と蝦夷だけか=専門編集委員・佐々木泰造

*私見吐露の弁
 せっかくなので、今回は、少し念入りの批判を述べさせていただく。
 因みに、当ブログ筆者は、国内史料に関して無学/無教養なので、毎日新聞の一般読者の視点に立って、素人考えを述べさせて頂くのである。

*不釣り合いな間柄
 記事を一見して、ぱっと目に付くのは、図示された系図の不釣り合いなことである。
 当然、書紀などの文献を参照して書かれたのだろうが図の左に書かれた蘇我氏の系列と右に書かれた天皇家の系列が、(本当に)一見して、不釣り合いなのである。
 よく中身を見て、具体的に言うと、図全体の最上部に蘇我稲目が置かれているが、蘇我氏が、蝦夷、入鹿と直系相続されている間に、天皇家は、兄弟相続もあって、しきりに代替わりしている。
 ここで書かれている図式に従うと、当記事で被葬者に擬されている二人のうち、蘇我蝦夷は蘇我稲目の孫、つまり二世の子孫であるのに対して、舒明天皇は、曾孫を過ぎて五世(あるいは四世か)の子孫なのである。

 つまり、蘇我家が二代進むのにそれぞれ三十年で計六十年かかったして、その間に天皇家が、四,五代進んだとなると、一代あたりせいぜい十五年になる。同時代の同程度の地位の家系で、そんなに世代交代の期間が食い違うものだろうか。

 図では、最下段の建王と言う一人の人物で、両系列がつながっているだけに、蘇我氏二世代の間に天皇家は五世代という格差が的確に「可視化」されていて、どうにも目立ってしまう。舒明天皇の書かれている位置は、蘇我蝦夷どころか蘇我入鹿よりもはっきり下方になっていて、しかも、埋葬はほぼ同時期になっている。

 ところが、当記事筆者は、その点について何も触れないで、六百四十年代の遺物と六百五十年代の遺物が明確に区別できるなどと、根拠不明の健筆を振るっている。何か、素人にはわからない定説があるのだろうか。

 素人考えでは記事の限られた場所にこれだけの大きさで書いた以上は、今回の記事の主張の根拠を示す重大な論拠としての意図があったと思うのだが、読む限り、何も伝わってこない。
 いろいろ丁寧に繰り出される説明は、関連資料を読み込んでいる感じがうかがえるのだが、当の記事にこのような不思議な図が説明なしに使われていると、不思議な感慨を持って、最終回記事を批判せざるを得ないのである。

以上

毎日新聞 歴史の鍵穴 壬申の乱と地図幻想 不確かな謎の不確かな解決 再掲

 私の見立て☆☆☆☆☆          2017/02/19 補充 2024/04/30
 壬申の乱の大海人皇子 夏至の方位に素早く移動=専門編集委員・佐々木泰造 

*加筆再掲の弁 
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

*遅筆の弁
 今回、毎日新聞大阪2017年2月15日付夕刊掲載の月一記事に対して当方のブログ記事が遅れたのは、諸事多忙のせいもあるが、一つにはあきれたからである。とは言え、当ブログは、「歴史の鍵穴」記事の論理のほころびに批判を加える立場を取っているので、今回も、ブログのポリシーに従い、手抜きせずに一介の素人読者としての批判を加えることにした。
 また、当ブログ筆者は、「日本書紀」の史料批判に通じていないので、「圏外敬遠」としたかったのであるが、当記事自体が多大な自己撞着を起こしているので、その範囲で批判することを決意したものである。

*無批判の史料依存
 念のため言うと、今回記事は、出典を隠していても、「日本書紀」記事のいずれかの解説書によるものと思われるが、ここに引用され図示されている「大海人の皇人(ママ)の進路」は原史料の忠実な解釈としても、示されている行程は、とうてい「常人」の踏破できるものではなく、「フィクション」の可能性が高いように思う。(吉野宮が、現在金峯山寺のある山岳地であったという2016年10月記事の主張は採り入れないとしても)

 この記事だけを手がかりとするにしても、訓練を経た武人だけならともかく、妻や子、そして、女官多数の足の弱い面々を引き連れて、朔日に近い24日の無いに等しい月明かりをたよりに、見たこともない険阻な山道を「夜を徹して」突き進むことなどできなかったはずである。もちろん、これらの弱者を背負ったり、輿で運ぶなどは論外であろう。

 いや、いくら武人でも、背負っている装備や食料の重荷を考えれば、全体として到底踏破できない距離と行程と素人は思うのである。戦地に到着したとき、兵士が疲労困憊して半死半生で戦闘不能であったら、それは「強行軍」ではないのである。

 以上は、自分で現地を踏破したわけではないから、地形図やネットで見る紀行文を参考にするのだが、この行程は、結構起伏曲折の激しい山道であり、平坦地の古代道路を淡々と移動したのではないと推定しているのである。難路とみるのが間違いであれば、ご指摘いただきたい。

 そうした「フィクション」が両陣営の戦績について正確という保証は何もない。勝った方が、全部勝ったと言っているだけではないのかと、疑ってかかるべきであろう。かろうじて、最終的な勝敗はその通りだったろうというしかない。

 そのように不確かな戦いで、近江側が、不思議にもことごとく負けたというのが推測なら、それは、近江側が戦意を喪失したためだろうというのは推測の上に推測を重ねていると見える。そうした記事筆者の個人的な思い込みを「謎」と見るのは、誠に勝手だが、困ったものだと読者は嘆くのである。

 普通に考えれば、反乱を予想していなかった近江側は、広範な軍の動員が立ち後れ、反乱軍の勢いに抗しきれなかったと見るものだろう。そのような立ち後れは、古代の軍備、輸送、交通の整備状態を想像すれば、急遽援軍を得て劣勢回復することが不可能であったとしても、何の不思議もない。むしろ、全面的な劣勢を自覚していれば、早々に西国に亡命すべき所である。

*謎の深層
 美濃方面に集結した反乱軍が、どうして、多数の兵を所定の日に集結するよう動員できたかが、本件最大の謎である、とここまで読み進んだ素人の考えで思う。これは、個人の意見であるから、個人の勝手である。

 当時は常備軍制でなかったはずだから、同盟する領主は、領内各地の農民を、自前で武装して、腰弁当で来いと招集するのであり、数か月の事前通達が必要ではないか。もちろん、召集された多数の兵士の戦闘時の食料や武装は、同盟領主が、食料庫や武器庫を開いて供出しなければならないが、これは、参集した兵士の手になれば、数日でできるとしてもである。
 つまり、反乱に数か月先立って、現地に通じた重臣ないしは皇子などを派遣して旗揚げの確約を取り付けていた、その旗揚げの日付が記録されていたために、間に合うように空を飛ぶように急行したと書かざるを得なかったのではないか。

 普通考えれば、遠隔の勢力を反乱に荷担させるには、いわば、人質の意味もかねて、皇子の息子が派遣されていたと見たい。反乱に失敗すれば、一族皆殺しになるような大罪であるから、文書や口先の指示では荷担できないはずである。ということで、大事な人質を確保していれば、大海人の一行が旗揚げに数日遅れても、大きな問題にならなかったはずである。というものの、それでは、討伐されたので、逃亡して挙兵したという「フィクション」の体裁が悪くなるので、そのような事実は記録を避けたはずである。

 色々素人考えを重ねたが、颯爽と疾駆して、と言いつくろっているものの、実際は疲労困憊して遠路はるばる美濃に辿り着いたら、先触れもしていないのに同盟軍が勢揃いして待ち構えていたというのは、「フィクション」に過ぎるのではないだろうか。
 こうして考えても、いろいろ不思議な所伝なのだが、記事筆者は、書かれているとおり丸呑みするだけで、咀嚼も吟味もしないで善良な読者に向かって投げ出すのである。こうした点から見て、当記事は健全な批判精神を失い、依拠史料に無批判に依存するという泥沼に落ちたと見るのである。

*無効な論理
 以下、当記事の論理の展開について、これまでにも書いた問題点を再確認する。次に挙げたのは、2016年9月の記事で引用されていた論文の冒頭記事であり。当然、当記事筆者は承知のはずである。

 水林 彪 古代天皇制における出雲関連諸儀式と出雲神話 第1部 古代の権威と権力の研究
 「8世紀の事を論ずるには,何よりも8世紀の史料によって論じなければならない。10世紀の史料が伝える事実(人々の観念思想という意味での「心理的事実」も含む)を無媒介に8世紀に投影する方法は,学問的に無効なのである。」

 言うまでもないが、水林氏が論断しているのは、10世紀史料を根拠に8世紀を論ずることが無効であるという一つの例だが、要は、論じられている時代の事を、別の時代の史料を根拠として断定してはならないと言うことである。

 まして今回論じているのは、人々の所感、人の心であるので、同時代人にも知り得ないものであろう。それを、ここで断定的に論じているのだから、これは科学的な議論ではない。
 ここに書かれたような地理認識は、現代人が常識としているものだが、生まれてこの方近郊にしか出向いていない軍兵は、夏至や冬至の日の出の方角に何があるのか知らないので、地理認識によって心理的な「ハンディ」(何とも不穏当な比喩である)を背負っていたと見るのは、無理というものである。

 まして、当時、ここに書かれている神武天皇説話が周知であったかどうかわからないから、論じても無意味なのである。また、大津宮とされている場所から見て、美濃野上が夏至の方角というのも、地図を一見して信じがたいものがある。いや、古代人は、この地図を見ていないから、こうした言い方は無効なのであるが。

 それぞれ、心理的な背景として日本書紀が「フィクション」と書き立てそうなものなのに、どうやら書かれていないようだから、そんな背景はなかったと見るのが適切ではないか。

 結局、今回は、無謀な衛星地図観は目立たないものの、個人的な謎に個人的に体裁をつけた資料解釈で個人的な解決を与えて自己満足しているものであり、全国紙の権威ある記事として一般読者に貢献するものではないと見る。

以上

2024年4月17日 (水)

毎日新聞 歴史の鍵穴 地図幻想批判 1 宮町木簡の悲劇

 私の見立て☆☆☆☆        2014/10/15 再掲 2024/04/17
 =専門編集委員・佐々木泰造

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

◯はじめに
 歴史学者諸賢の学説は、拝聴することにしているのだが、毎日新聞(大阪)夕刊文化面の連載記事「歴史の鍵穴」 難波津と安積山 紫香楽宮を挟んで両極端は、ちょっと暴走したように見えるので、指摘させていただきたい。
 いや、これまでも、牽強付会の意味付けには、ちらちら首をかしげていたのだが、世間に良くあることなので、見過ごしていたものであるが、今回は、あんまりにも、あんまりなのである。

*「宮町木簡」悲劇の始まり
 本日の記事の導入は、宮町遺跡で発掘された木簡(仮称「宮町木簡」)の両面に書かれている難波津の歌と安積山の歌の読まれた舞台の位置が、地理的に対極の関係にあるという説である。

 また、記事の最後の部分の導入は、8世紀中期当時の「都」(みやこ)である紫香楽の宮から見て、難波津は南西の地の果て(断定)であり、安積山は北東の地の果てに近いと書き、記事を締めにかかっている。

*「地の果て」の向こう
 しかし、掲載されている地図を見るまでもなく、大阪湾岸の難波津が「地の果て」とは、何とも、不思議な見方で、とても同意できないのである。確かに目前に海はあるが、つい、その向こうには、別の陸地があるのは、漁民には衆知であり、また、一寸、北に寄って、今日言う山陽道を西へひたすら辿れば、下関あたりまで延々と陸地であり、そこで海にぶつかるとは言え、すぐ向こうに九州の大地がある。
 いくら、遙か1200年以上昔の事とは言え、大抵の漁民は、その程度の知識を持っていたはずであり、況んや、漁民達より深い見識を有する都人(みやこびと)は、難波津が地の果てなどとは思っていなかったはずである。

 全国紙毎日新聞の「専門編集委員」ともなれば、無検閲で自筆記事を掲載できるのだろうが、この程度の、中学生でもわかりそうな不審な言い分を載せるのは、どうしたことだろう。

 ここで地図を見ると、確かに紫香楽の宮から見て、 安積山は、遙か北東遠隔の地であり、到達に数ヵ月かかるから、現地確認など思うもよらず、ここが地の果てと言われても、同時代人は反論できなかったろうが、難波津は、せいぜい数日の行程であり、ほん近間である。これらの二地点を、対極というのは、字義に反するものである。

 また、大局的に見ると言うことは、さらに縮小した地図を見ることが想定されるが、そうしてみれば、難波津は紫香楽宮のすぐ隣である。ますます、字義から外れてくる。
 斯界の権威が自信のある自説をはるばると敷衍しようとするのは当然としても、なぜ、ここまで、遠慮のない言い方をすると、こじつけの域を遙かに超えた無理な見方をするのか、理解に苦しむのである。
 今回の記事の説が成立しなくても、前回までの議論に影響はないように思うのである。 

 都の東西に対極があるとする見方に固執するのであれば、安積山が大体このあたりとして、難波津は、地図の左にはみ出して、下関や博多あたりが、距離として適地である。実は、九州に難波津を想定しての発言なのであろうか。
 また、南西という方角にこだわるなら、宇和島あたりであろうか。それとも、いっそ都城か。
 対極をともに想定地に固定維持すると、都は、近畿にとどまることはできず、飛騨高山か飛騨古川あたりに、紫香楽宮の位置をずらさねばなるまい

 そうした、無理に無理で重ねる作業仮説が否定されて退場すると、木簡の裏に二つの歌が並べて書かれていたからと言って、同時代人が、両者の舞台を、地理的な対極に想定していたとは言えない」と言う至極当たり前の意見に至るのである。
 回答の選択肢から、可能性の無いものを取り除くと、残されたものが、正解である」と古人は述べている。宜なるかな。

 これほど、素人目にも明らかな齟齬であるから、「専門編集委員」と言えども、PCソフトに相談するだけでなく、発表以前に、生きた人間、それも、経済的に利害関係のない人間の率直な意見を仰ぐべきではなかったかと思うのである。

以上

毎日新聞 歴史の鍵穴 地図幻想批判 2 松山の悲劇

 私の見立て☆☆☆☆☆           2015/10/21 再掲 2024/04/17
 =専門編集委員・佐々木泰造

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

◯はじめに
 毎日新聞夕刊文化面に月一の連載コラム「歴史の鍵穴」と題した記事が掲載されていて、どうも、専門編集委員佐々木泰造氏の執筆がそのまま掲載されているらしいことについて、一度触れたような気がする。

 全国紙専門編集委員の玉稿なので、校正の手を経ていないのだろうが、天下の名門毎日新聞にしては、随分不出来な記事になっていると思うのである。以下あげつらうのは、大概が、作文技法の不備であるので、誰か常識ある人がダメ出ししてあげた方がいいのではないだろうか、と思うのである。それとも、怖くて批判めいたことを言えない方なのだろうか。

 と言うことで、高名な著者の重要な記事と位置付けされているようなので、失礼を顧みず、あえて遠慮なく書いていくのである。

*松山の悲劇
 当記事では、松山市北部の白石(地名)海岸の50メートルほど沖合にある巨石に関する論考であり、人工物の可能性について思索を巡らされたようである。

*「人工物」の可能性?
 まず抜けているのが、「人工物」の意味の掘り下げである。まさか、3Dプリンターで岩石を出力したとは思えないから、岩石自体は「自然物」なのだろう。どこを捉えて「人工物」と想定しているのか、明解に語っていないのは、不行き届きである。
 さて、「人工物」の範囲であるが、元々巨石の配置はこうなっていて、周囲の邪魔者を取り除いただけで、人工物としたのかとも思われる。日本国内に限っても、奇岩の類いは無数にあって、人が言う「見立て」は珍しくないのである。

*大小不明の「巨石」
 当記事は「巨石」と言うだけで、外寸が書かれていない。
 「推定で100トンを超える巨石が五ツ」とあるのだが、 それぞれが100トン超なのか、五個の総重量が100トン超なのか、趣旨不明である。
 また、「三ツ石」というのは、目に留まるのが三個と言うことなのだろうが、あえて五個全体を人工物というのか、見える三個が人工物というのか、趣旨不明である
 と言うことで、対象物の観察記事が不備では、論説記事として不備ではないのかな。
 このあたりは、技術者的根性からの余計な突っ込みと言うことで片付く問題ではないだろう。人文科学者だって、データ重視のはずである。

*当地は どこ?
 後段の論説によれば、「白石の鼻 巨石群はトーナル岩」であり「当地の石」とあるが、飛鳥の亀石と並記して「当地」とくくっているから、「それぞれ」と前振りしてはいても、両者共に共通した当地、飛鳥の岩石かと一瞬思ってしまう。指示代名詞が宛先不明となるようでは、不出来な作文であるそして、肝心のトーナル岩が、「当地の石」と軽く流しただけで、元々この場所、この位置にあったものなのかどうかは推測すらされていない。

*この地は どこ?
 続いて、「この地には戦国時代から江戸時代の城の石垣がある」と書き出しているが、飛鳥の話が挟まっているから、「この地」がどこか見えなくなっている指示代名詞が宛先不明となるようでは、不出来な作文である。

*高浜城幻想
 いずれにしろ、松山市の外縁部(はずれ)と思われるこの地に城の石垣があったとは意外な意見である。松山城は、(7世紀の視点から言うと)遙か内陸の山城である。1000年後の江戸時代初期であれば、「この地」から遙か松山城まで巨石を運んだとしても不思議はないのだが、この記事で問われているのは、7世紀の話である。時間錯誤ではないか。視点が大きく揺らぐようでは、不出来な作文である。

*時代超絶 海中工事
 ここで問われるのは、17世紀に巨岩を地上を遠距離運送することの可能性では無く、7世紀に巨岩を精密な構想通りに積み上げる海中/海濱工事が可能であったかどうかと言うことである。
 少なくとも一個の「巨石」 を、足場の固まっていないこの場で、この角度に積み上げたと主張すると、すかさず反論が予想される。そのような海中/海濱工事は、人海戦術ではできないのである。
 1000年後の江戸時代でも、周囲を埋め立てて海を乾上げた後、大規模な足場を作り、大勢で綱を引いて持ち上げるという「陸上工事」にしない限り不可能なのである。巨石の原産地からここまで陸上輸送する重労働を抜きにしての話である。

*場違いな高取、飛鳥
 なぜか、時代も状況も異なる飛鳥の石を高取城に転用した挿話が語られているが、それとこれとは、わけが違うのである。視点が大きく揺らぐようでは、不出来な作文である。

*括れない結末
 このように、この記事の筆者は、類推のあてにもならない事項をだらだらと紛れ込まして、読者を煙に巻こうとしているが、肝心の事項を語らないので、不信感を煽るだけである。

松山市 熟田津
 「熟田津は松山市内にあった」と名言が出て来るが、現代の松山市の行政区画は、7世紀には存在していなかったので、当面の議論に関係ない言葉遣いである。
 そして、ここが大事なのだが熟田津は、後世文書に出てこず地名も残っていないはずである。(残っていれば推定は必要ないはず)

*斉明の船 停泊
 続いて、「斉明の船」「停泊」と簡単に片付けているが、時の権力者が単身で移動するはずはなく、五百人以上の大団体だったはずである。
 小舟一隻だけのはずはなく、そして、停泊と称し船をとどめて済むものでもなく当然上陸するものであり、全体として大々的な「行幸」となったはずである。
 停泊というものの、一介の地方港の停泊場所では到底足りず、これも、問題になったはずである。
 そのように大船団を二カ月(?)受け入れるのには、陸上の宿舎(仮宮殿)建設、盛大な饗応(食料、飲料提供)を含めて、地元にとって大規模な、途方もない物入りであったと思われる。
 ついでに、派遣軍の現地徴用、軍船の随行まであったとすると、これは、世紀の大事業であったものと思われる。

 総合して、現地当事者にとっては呪わしい天災と言うべきものであったと思うのだが、なぜ、それほどの一大事に関してしっかりした記録が残っていないのだろうか。

*二ヵ月の大祭祀
続いて、筆の一振りで、何らかの祭祀を行った可能性があると漠然と言い立てているが、誰の意見なのだろうか。
二ヵ月になんなんとする祭祀が、重大な派遣軍の戦勝祈願とすると、どの神社のどの祭神の祭祀なのか、なぜ、本拠地でなく、このような遠隔地で行ったのか。伊予の祭神大三島神社から神官を呼び立てたのだろうか。なぜ、大三島で祭祀を行わなかったのか。

*虚構疑惑の由来
 とにかく、なぜ記録が残っていないのか、疑問山積である。少なくとも、斉明天皇が戦勝を期して祭祀を執り行ったのであれば、何も記録が残っていないというのは、おかしな話である。

*九州統治拠点 新設計画
 そこから、筆が弾んで、九州を統治する拠点として何か大規模な構造物が「計画されたと推定」しているが、動詞に主語がない素人くさい不備は言い立てないとしても、計画は計画であり遺構を残さないから、何か建物が建てられたのではないだろうか。記事は、何が計画されたか語らず、計画がどうなったかも、語ってはいない
 素朴な疑問として、それまで、九州は誰がどのようにして統治していたのだろうか。太宰府政庁跡では、7世紀より以前の遺構が発掘されていると言うことだが、それは、何だったのだろうか。
 そして、大規模な派遣軍が大敗して、そのあとはどうなったのだろうか。なぜ、そうした国家の一大事が、的確に記録されていないのだろうか

 一筆の余談がもとに、当記事の主題とまるで関係ない疑問が陸続とわき起こるのである。
 結局、この部分は、何のために、何を求めて書き綴ったのか意図不明である。

*可能性の追求?
 斯くのごとき、華麗な余談の果て、記事の締めで、唐突に、「可能性を探ってみる価値は大いにある」と宣言されているが、それでなくても手薄な資金と労力は、別の方面に使った方が良いように思われる。ご提案の趣旨は、関連自治体へのプレゼンテーションなのだろうが、言下に却下されるべきものだろう。

 と言うことで、最初に書いたように、当連載記事は、高名な著者の重要な記事と位置付けされているようなので、あえて遠慮なく書いているのだが、全体として散漫な印象が募るのは、所定の字数を埋めるためかと思われる冗句(道草)が多いからである。ポイントを絞れば、1/3の字数でまとめられたはずである。

 因みに、当ブログ筆者は、れっきとした愛媛県人であるので、我が郷土の古代史に関しては、大いに興味があり、後押ししたいと思っているのだが、このように筋の通らない提言には、断固として同意できないのである。

 後日談ではあるが、本件に関して発された言いっぱなしの放談を、真に承けている方がいたので、一段と批判の必要を感じるのである。

以上

毎日新聞 歴史の鍵穴 地図幻想批判 3 「御船、還りて」の謎

 私の見立て☆☆☆☆☆                       2016/01/20 再掲 2024/04/17
 =専門編集委員・佐々木泰造

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

◯始めに
 毎日新聞夕刊文化面に月一の連載コラム「歴史の鍵穴」
と題した記事が掲載されていて、どうも、専門編集委員佐々木泰造氏の執筆がそのまま掲載されているらしいことについて、また触れることになった。と言っても、4度目なので、当方も、あごやら手やら、くたびれるのである。

 天下の毎日新聞の専門編集委員の玉稿に口を挟むのは不遜かも知れないが、当方は、毎日新聞社の社員でも何でも無く、宅配講読している「顧客」の立場で、高名な著者の重要な記事に対して、今回も失礼を顧みず、あえて遠慮なく書いていくが、相手の怒りを恐れない「率直」は、誠実(Sincerity)の極致と思って言うのである。

斉明女帝の御出航
 今回は、いよいよ斉明女帝の御出航であるが、一段となまくら論理(?)の迷走で、二の句が継げなくなりそうであった。

*旅立ち回顧
 冒頭に、連載記事の主題を強調するように、御座船の針路を日の入りの方位に合わせていたと言うが、地図でわかるように、それでは、船は、程なく四国山地に突入するのである。掲げられた地図の上に直線を引くのは簡単であるし、天文学的な計算を高精度で行うのは、当代のPC愛好家には片手業だろうが、地上、海上を進むものには、到底実行不可能と考える。

 今回の記事にも、関連地点の地図が掲載されているが、素人には、不審満載である。念のため、過去ログを自己引用し、掲載する。

 「多武峰付近の御破裂山から、松山市近郊の白石の鼻までの直線経路は、見たとおり、出だしが淡路島に乗り上げた後、すぐ四国の山地(今日の香川徳島県境)に入り込み、そのあと、燧灘沿岸の海中を辛うじてなめるものの、高縄半島に乗り上げている。経路のほぼ全てが、見たとおり、遠く見通すことのできない陸上である。太陽の沈む方向に、となると、現代人でも、軽飛行機ででも飛ばない限り、とても「追いかけて」行けるものではない。無茶な言い回しである。」

*ホラ話(架空論)の始まり
 また、物々しくこの日(1月14日)の日の入りの方位は、257.9度と小数点第一位まで書かれているが、これは大嘘である。いかに現代科学が進歩しても、1450年前の日の入りの方位をそこまで正確に計算することは不可能と考える。(関連計算の計算精度のことは、御自分でお調べいただきたい)
 また、現代の科学者であっても、現場で観測していて、落日の中心を見極めて、その方位を0.1度単位で決定するのは至難の業と考える。(事実上、不可能と言いたい)
 また、地図上に図示された地名の場所は、その位置を257.9度と提示された数値と「一致」するほど正確に求めることも不可能と考える。
 いずれも、現代の科学技術をもってしても、現場での測定で(信頼できる数値として)4桁精度が確保できるかどうか、身近な専門家に確認していただきたいものである。
 こうした、一見科学的でじつは裏付けのない論法は、現代科学のご威光を借りた、文字通りの「架空論」と思われる。

 まして、カレンダーも時計もなく、海図、地図や羅針盤もなかったと思われる(「なかった」とする証拠資料を提示できないので推定とする)当時の人にできたことは、西方の方角を見て、思いを馳せる、つまり、遙拝、想到するだけであったと思うのである。
 近代の航海のように、専門技術を備えた航海士が、海図と羅針盤をもとに、六分儀による精密な天体観測をおこなって、現在位置を確認できたとしても、陸上通過を前提とした一定方位に合わせて、迂回した海上航路を経由して、最終的に所定の目的地に辿り着くよう進路を取ることなどできるものではないと考える。

 言うまでもないが、海図は、誰かが、事前に測量を重ねてようやく描き上げられるものであり、歩測や測量機器による精測が可能な陸上でも、地図とコンパス、ないしは、天体観測によって、遠距離を誤りなく進めるようになったのは、遙か後世と考える。
 つまり、神がかりで、当日の日没の方位を0.1度単位で知ったとしても、その方位角に従って航海することは不可能と考える。
 繰り返すが、御座船の現在位置を正確に測定する手段はなく、目的地の方位を正確に知る手段もないのに、どうやって、進路を方位と一致させることができるのだろうか。ホラ話と批判されて、応答できるのだろうか。

*修行の不足
 このあたり、専門編集委員の科学観が、中高生レベルから間違っているのであり、間違った方向を向いているのである。意見形成の土台となる見識が方向違いでは、筋の通った意見を形成できるはずがない
 今からでも遅くない。一から学び直し、考え直すことであると愚考する。

*虚名の罪科
 とは言え、ぱっと見にはもっともらしい科学的な裏付けであり、それが権威ある高名な筆者の名の下に、毎日新聞の専門編集委員の肩書きで権威付けして堂々と前面に打ち出されている
だけに、当方も、執拗に、つまり、丁寧に、誠実に、批判せざるを得ないのである。

*不審の自覚
 因みに、当連載記事筆者のお人柄を信じたくなるのは、「もう一つの謎」と題して、「御船、還りて那大津に至る」の一句の意味が解せないことの確認である。「悪意」はないようである。

 ここまでに展開されたお話は、一種のおとぎ話、たとえ話、ほら話、落とし話、の類いとして笑い飛ばすとしても、この一句は、そこまでに展開された「おとぎ話」と「還」の一文字で、決定的に食い違っていると考える。

 無理に筋の通った説明を付けようとすると、「御船」は、本来、那の大津が母港であり、手元の素材資料の御船の帰還記事を、その趣旨を理解しないまま、(御船とは別の)斉明女帝の御座船の到着と誤解してしまった、とも思われる。
 当記事で書かれているような、斉明女帝が、百済支援の船群を率いて出航しながら、半島西岸に赴くのに大きく方向違いの壱岐に出向いて、敵前逃亡さながらに帰港した」という不名誉極まる航海だったという「不敬極まる読みをされかねない記事」を、正式史書に載せている気が知れないと考える。

 いずれにしろ、意味の通らない結句をここに置いたことは、書紀の歴史記録としての信頼性の低さを示しているものと思われる。「もう一つの謎」などと軽く片付けるべきものではないと考える。

 「還」の字義は大層な参考書を繰らなくても、自明事項(Self-evident, Elementary)と思われるのである。およそ、書紀の草稿起筆を任されるほどの者が、気づかないはずはない。まして、文書校正する高位者が気づかないはずはない。解決策は簡単で、「還」の一字を削除すればよいのである。なぜ、放置したのだろうかと困惑するのである。
 書紀は、当時、広く講読されたと言うから、筋の通らない記事には、批判が出たと思うのであるが、それとも、出なかったのだろうか。
 してみると、ここ(書紀の編纂部門)では、誤記、誤編集が野放しになっているものと考える。誤記、誤編集が野放しになっている部門が編纂した資料は、全ての記事の全ての字句を信頼してはならない(全てが誤っているという意味ではない、個別に検証しない限り、記事を全面信頼してはならないという意味である)とするのが、客観的な「ものの見方」と考える。

 ここで、大胆に書紀記事の信頼性について断罪しているので、論拠を示すとしよう。
 誤記、誤編集は、必ず発生するものであり、発生した誤記、誤編集を、発見し、是正することにより、誤記、誤編集が最終文書に残らないようにするのが、時代、社会環境を越えた編纂者の責務と考える。編纂者の責務」というのは、これを守らなければ、最終文書が誤記、誤編集混じりのものになり、誤記、誤編集が事実として継承されるからである。そうした事象を理解せずに編纂されていると思われる資料は、全体として、信頼してはならない資料である」と考える。
 
 とは言え、全面的に資料の否定を打ち出すと、個別の記事毎に精査すべきだという正論めいた批判が出てきそうなので、狭い範囲の話にすると、ここまで説かれた「斉明西征」記事の一連の辻褄の合わない記事は、本来、由来の異なる断片記事の貼り合わせによる「創作」と推定されるものであり、そのような批判が克服できない限り資料として信じてはならないと思うのである。

 そのような、信じてはならない記事を、不正確な科学論理で強引に正当化して、延々と説き続ける論者の信頼性も貶められるのであり、気が知れないと思えるのである。

*書紀の史料批判~私見
 そうそう、基本的な意見に還るのだが、書紀に、最高権力者の大々的な行幸記事のちゃんとした記録が残っていないのは、なぜなのだろうか
 壬申の乱で近江宮の宮廷記録が焼失したとしても、乱後の天武天皇の朝廷には、当時の関係者が大勢生存していたはずであり、2カ月の滞在地や九州北部の各機関にも、生存者がいたはずであり、当時の業務記録が残っていたはずである。重要な記事であれば、史官、書記官は、それにふさわしい努力を払って書き残すべきではないのだろうか。もちろん、はるか、遙か後世の無責任な批判なぞ、言っても詮無いのであるが。

*架空論の戒め
 それにしても、独自の自説に応じて図上に直線を引いて、それにあわせて、現実に自説を投影して話を運ぶというのは、古代史学につきものの「空論」とは言え、無検閲で掲載されるという特権を与えられている高名な学者の採るべき正々堂々の論法とは思えない。「牽強付会」と言う四文字熟語が思い浮かぶのである。

 またも、繰り言になるのだが、高名な専門編集委員には、記事を熟読し、難点に気づいて苦言し、思い違いを窘めてくれる良き友はいないのだろうか。

以上

毎日新聞 歴史の鍵穴 地図幻想批判 3 「松山長期滞在」の謎

 私の見立て☆☆☆☆☆                       2016/01/21 再掲 2024/04/17
 =専門編集委員・佐々木泰造

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

◯始めに
 毎日新聞夕刊文化面に月一の連載コラム「歴史の鍵穴」と題した記事が掲載されていて、どうも、専門編集委員佐々木泰造氏の執筆がそのまま掲載されているらしいことについて、また触れることになった。

 天下の毎日新聞の専門編集委員の玉稿に口を挟むのは不遜かも知れないが、当方は、毎日新聞社の社員でも何でも無く、宅配講読している「顧客」の立場で、高名な著者の重要な記事に対して、今回も失礼を顧みず、あえて遠慮なく書いていくが、相手の怒りを恐れない「率直」は、誠実(Sincerity)の極致と思って言うのである。

*斉明女帝再訪
 今回は、15/10/21付けで公開している「合わない鍵穴再訪」と題した前々回記事の補足である。どうも、趣旨が言い尽くせていないかと思ったのは、斉明帝の現地滞在、長逗留の話である。
 斉明帝は、緊迫した半島情勢に急遽対応するために、国を挙げた出兵を陣頭指揮すると言いつつ、この地に二ヵ月滞在したと語られているが、とても、あり得ないほら話なのである。

 天皇が単身で来たわけではない。当時の最高権力者であり、朝廷諸官全員は言えないものの、政権中枢の高官(文官)のかなりの人員が随行したと考えられる。いわば、政府機関の引っ越しである。それ以外に、軍務関係者も、相当数随行していたはずである。行幸全体に於ける天皇の護衛という意味でも、十分に武装していたはずである。
 何しろ、彼方の大国唐は交流が乏しいので脇に置くとしても、長年抗争してきた新羅が敵である以上、刺客を投入しての暗殺の可能性がある。新羅人は、長年にわたって渡来、来訪しているので、朝廷内に同調者がいるかも知れないほどである。

 さて、そうした生々しい治安問題は別としても、このとき、現地には、天皇の威光を示すにふさわしい行在所なる仮御所が設けられ、現地の日常と隔絶した世界が確立されたはずである。当時、この地に行在所にふさわしい規模と威容の建築物があったとも思えないから、新たに整地し、柱を立て、屋根を張る行在所造営工事を執り行ったはずである。
 現地に、そのような行在所の遺跡は、既築新築を問わず、見つかっているのだろうか。大極殿や紫宸殿などの威容はないとしても、行在所については、整地や柱の跡は残っているはずである。

 当然、行幸には、高官だけでなく、日常実務を担当する昇殿の許されない下位のものまでが随行するし、使い走りのものまで随行する。
 全体として、例えば、千人の一行とすれば、人数分だけ寝泊まりする場所が必要である。千人が適切であるかどうか判断する基準は持ち合わせていないが、数百人程度では収まらないし、まさか、万とは行くまいと思い、仮に提示するのである。
 千人分の食事となると、それだけの膨大な食料を調達するだけでなく、竈で煮炊きして日々の炊事に当たる者達が必要である。ちなみに、まだ、金属製の鍋釜がなかった時代であるから、個人毎、銘々の小ぶりな竈での煮炊きになったと思われるのである。
 してみると、炊事場所の跡や日々食した食事から出た貝殻や魚骨のようなゴミが残りそうなものである。
 食事には、毎回千人分の食器が必要である。割れた食器の残りがありそうなものである。

 また、滞在二ヵ月ともなると、その間に千人分の衣類を何度となく洗濯しなければならない。飲料水の供給と共に、洗濯、物干しの場所も必要であるから、造成した水路跡が残りそうなものである。

 滞在時期は冬季に始まる。滞在地が松山市付近としても、厳しい寒さは当然であり、今日のように暖房などできるものではないから、少なくとも高官には十分な採暖が必要である。炊事用の薪と合わせて、千人分の大量の薪炭の調達が必要である。
 事前に周辺に広く通達して、木炭とか薪の増産備蓄をしそうなものであるが、それら大量の備蓄の置き場所が必要である。

 ここに物々しく書くのは、滞在地が、経済的に未発達な状態ではなかったかと思われるからである。九州北部のように、人口が多く、随分以前から経済活動が活発であったところであれば、所定の対価さえ整えば、食料、物資、労力が調達可能であったろうが、滞在地は、千人規模の長期滞在を、施設の造営や物資の調達の面で、平然と受け入れられる状態ではなかったと思うのである。平然と受け入れられなかったのであれば、かなりの遺物が残ったはずである。

 それとも、千人規模の長期滞在者を、日常茶飯事のように支えきれるだけの施設、物資、管理体制を備えた繁盛した寄港地だったのだろうか。それなら、それなりの遺跡、遺物が出土しそうなものである。また、早々にそれほどの発展を遂げた海港であれば、災害で破壊でもされない限り、後世まで残りそうなものである。

*架空論の粗雑な考証
 思うに、書紀記事筆者は、与えられた断片的な資料の中から、適当と思われる断片をざっと並べ、大きな穴をもっともらしく埋めただけであり、出来上がった記事を現地取材や関係者の遺物などで考証する意欲などなく、また、中間滞在地の地理条件を考証するだけの土地勘も実務知識もなかったと思うのである。
 斉明帝行幸行程に二ヵ月の空きができてしまったのは、大阪と九州北部とでそれぞれの行程日付を書いている断片資料しかなかったと言うことであり、書紀編纂に当たって、個別の事象の日時については、細かくつじつま合わせしないという原則があったように見えるのである。要するに、史官は、述べて作らずと言う職業倫理が伝わっていたと見えるのである。

 逆に言うと、何か重大な入出港があったと言うことだけが、どうも、原資料の内容を保っているらしいが、それが、御座船かどうかは、どうもはっきりしないと言うことである。であれば、入出港が同一の船であったというのは確かではなく、また、途中で二ヵ月の滞在があったというのも確かではない。まして、滞在場所も不確かである。

 書紀の記事は、そういう風に確証のないものと受け取るべきあって、元々実在した行幸の的確な記録の反映と受け取るのが無理なのであり、極論すれば、実際に起きたことと無関係の、寓話、説話、おとぎ話の類いと受け取るべきなのである。

*自縄自縛
 毎日夕刊連載記事筆者は、根拠のない自説の裏付けを得たいために、書紀の記事に信を置いて、懸命に筋道立てて、不可能な謎の解明に挑んでいるようであるが、その結果、例えば二ヵ月の滞在という、裏付けのしようがない記事を前提とした巨大な空論を唱えているのである。これでは、自縄自縛である。

 高名な専門編集委員には、苦言し、窘めてくれる良き友はいないのだろうか。

以上

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