毎日新聞 歴史記事批判

毎日新聞夕刊の歴史記事の不都合を批判したものです。「歴史の鍵穴」「今どきの歴史」の連載が大半

2022年9月24日 (土)

倭人伝の散歩道 番外 纏向 「驚き桃の木」の 毎日新聞古代史報道 2018 補充再掲

私の見立て★☆☆☆☆                  2018/05/14 補充 2022/09/24

◯旧聞紹介のお詫び 
 今回やり玉に挙げるのは、2018年の毎日新聞大阪夕刊一面の古代史記事である。当時、いち早く批判したのだが、他の全国紙の報道姿勢と比較検証できていなかったので、ここに改めて、公正に批判することにした。

▢「驚き桃の木」2018/05/14
 「驚き桃の木」とは、「纏向で卑弥呼時代の種」と断定的な大見出しを付けているからである。
 卑弥呼時代のモモの種 邪馬台国、強まる畿内説
 ニュースソースは、桜井市纒向学研究センターの研究紀要とのことだが、同センターのサイトに発行の告知はないし、当然、公開されていなくて、どこまでが発表内容であって、どこからが記者の私見なのか内容確認のしようがない。

 
通常、このような大発表は、各社担当記者を集めて、「プレスレリース」なる概要資料を配り、それに基づき記者会見と質疑応答をするものだと思うのであるが、「プレスレリース」は、発表されていないように見える。古代史学界の報道対応は、どうなっているのだろうか。

*2018/05/16追記 補充 2022/09/24

研究紀要の刊行案内が掲示されたので、ここに紹介する。相変わらず、意味なく右クリック禁止なので、メニューから「コピー」した。
目次紹介も何もないので、内容は一切不明のままである。

2018年3月刊ものが今公表された理由もわからない。
-----引用
***纒向学研究 第6号 2018年3月刊
桜井市纒向学研究センターでは、センターで行われた研究の成果を広く学会や社会に発信するために研究紀要を刊行しています。
第6号となる本号には、所員1名のほか、外部研究者6名の方々に寄稿いただいた、「纒向学」に関わる研究・分析の成果をまとめた論文などが収録されています。
1部 1000円。(公財)桜井市文化財協会(桜井市芝58-2 市立埋蔵文化財センター内 TEL 0744-42-6005)にて頒布しています。
---引用完

 仕方ないので、ライバル朝日新聞、日経新聞のサイト記事と比較せざるを得ない。
 毎日新聞
 見出し 卑弥呼時代のモモの種 邪馬台国、強まる畿内説 (ネット)
     纏向で卑弥呼時代の種 畿内説更に強まる (紙面)
 まとめ 今回の分析は、遺跡が邪馬台国の重要拠点だったとする「畿内説」を強める画期的な研究成果といえる。
 おまけが、解説欄である。
 解説 所在地論争終熄間近
 まとめ 近畿か九州かという所在地論争は終熄に近づいていると言っていい。

 どなたが、このような厳めしいご託宣を下されたかというと、山成孝治なる署名記者だが、どんな資格で仕切っているのかは、書かれていない。「卑弥呼時代」などと、新規造語を曝け出していて不自然である。天下の毎日新聞記者は、何を書いても批判されない神のごとき叡知の持ち主と自画自賛しているのではないか。このような低劣な記事が誌面を汚しているということは、編集部門内で、ダメ出ししなかったことを示しているのは、情けない限りである。

 
正直、このような、不勉強で子供じみたご託宣を見せられるくらいなら、宅配読者としては、相当分白紙紙面の方が、まだましである。

 また、論争は、双方が納得して初めて終熄(収束?)するのであり、一方の陣営が何か発表しても、他方の反論を見ないままに、新聞社が意見を固めていいわけではないのは、衆知のことである。
 因みに、朝日新聞、日経新聞の記事は、以下のように、賢明にも一方的な決めつけを避けている。賢明というが、全国紙として当然の態度である。

 あるいは、参照困難なので割愛したが、産経新聞紙記事では、次のように異論を明示している。
高島忠平・佐賀女子短期大学名誉教授(考古学)は「遺跡の年代を示す複数の資料がないと確実性が高いとはいえず、桃の種だけでは参考にしかならない。もし年代が正しいと仮定しても、卑弥呼とのつながりを示す根拠にはならず、邪馬台国論争とは別の話」と反論している。

報道は、特定の機関の「提灯持ち」に耽らず、冷静に、公平に。報道の姿勢は、かくありたいものである。

 朝日新聞
 見出し 卑弥呼の世の?桃の種か 纒向遺跡で出土、年代測定
 まとめ 『今回の分析結果は所在地論争に影響を与えそうだ。』と評している。
  古代史学の「イロハ」として、遺物、遺跡から打ち出される考古学的な見解と史書の文献解釈から来る意見は、付き合わせるべきではない、ということがある。

 まとめ 発表内容を紹介した後、『邪馬台国畿内説に立つ専門家からは「卑弥呼の居館では」との声も出ている。』と、言わずもがなの「風評」を付け足している。

 今回の記事で言うと、毎日新聞は、学術的に書かれているはずの「紀要」が断言していないと思われる事項を、記者の個人的な偏見に基づいて、勝手に断定していて、まことに不穏当/不謹慎である。特に、毎日新聞文化面の「解説」欄は、記者の私見書き放題の感があり、何とも、もったいないのである。
 「紀要」が表明しているのは、桃の種の時代鑑定のはずであり、それが、遺跡の時代鑑定に連動して良いかどうかは、まだ、疑問の余地が残されているはずである。

 まして、古代史文献「倭人伝」に書かれている「卑弥呼」の時代について考えると、CE135ー230年とされた時代が、卑弥呼の存命中の時代なのかどうか、明記されていないから、不確定としか言いようがない。
 CE135であれば、後漢朝が、まだまだ元気だった順帝の時代であり、倭国が乱れたとされる桓帝、霊帝代以降の後漢代末期に比して、遙か以前である。卑弥呼は、影も形もない頃であることは間違いない。
 そうでなくても、考古学上の年代判定は、50年程度の前後は、当然想定済みなのである。「年月」が書かれていない遺物からは、推定しかできないのであり、今回のC14鑑定も、最後は、鑑定者の手加減、さじ加減、親の欲目で、大きくずれ兼ねないのである。
 ここで言うように、中国史書に書かれた「卑弥呼」の住まいが、どこにあったかという決定的な議論に辿り着くには、解決すべき課題が、幾重にも、幾方向にも山積しているのは衆知、自明である。簡単に結論に飛びつくのは、不勉強な半素人である。

 もし、センターが、今回の鑑定結果が、年代論に終止符を打つとか、所在地論争を終熄
(収束?)させる、などと書いていたら、それは、国費、公費で成立している学術研究団体として自滅行為である。
 と言うことで、「解説」は、毎日新聞(記者)の独断・暴走と思われる。
 それにひきかえ、朝日新聞と日経新聞は、当然ながら、メディアの分を堅持していて、見事である。
 ただし、朝日新聞も、無造作に『邪馬台国は中国の歴史書「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」に記録され、その時代は卑弥呼が倭(日本)王に共立され、死去するまでの2世紀末~3世紀前半とされる。』と書いているのは、全国紙にしては低次元の誤解表現である。
    1. 邪馬台国は、魏志には書かれていない。
      文献(魏志)に「邪馬壹国」と書かれていることに異論はない。
    2. 邪馬台国の時代は書かれていない。
      文献(魏志)に 卑弥呼の死去時期(三世紀前半)は書かれているが、共立時期は明確ではない。
    3. 「魏志倭人伝」という「中国の歴史書」はない。
      魏志(魏書)第三十巻の一部であって、独立した「書」ではない
      ことに異論はない。
    4. 三世紀当時に「日本」はなかった。
      日本が八世紀冒頭に誕生した
      ことに正当な異論はない。
    5. 「その時代」は不明である。
      「その国」がいつ始まったか、いつ終わったか、文献(魏志)には一切書かれていない。
      この誤解は誠に独創的であるが、正当な「新説」ではない。
  このように、質の悪い誤解を蔓延させているのは情けないのである。

以上

2022年8月23日 (火)

今日の躓き石 毎日新聞社報道倫理崩壊を歎く 「わが町にも歴史あり」 1/2

 ~「知られざる大阪 /580 東高野街道/71 藤井寺市~羽曳野市 古墳覆う秘密のベール /大阪」 2022/07/30   投稿 2022/08/23 

◯始めに
 書評に値しない無法な毎日新聞記事の墳墓論に、深刻な報道倫理崩壊を感じる。因みに、大阪地方面の連載記事であるが、他地方の読者も、購読者以外の一般読者も、同社サイトから読めるので、地方限定でないとして扱っている。

 同報道は、本来、記者が、管内の各街道を歩く、むしろ気軽な歴史紀行記事であるが、突如、史料の乏しい古代分野に迷い込み、考古学的な記事となって、今回の古代論記事に至ったのである。何しろ、日本が実生の太古である古墳時代の街道を、現代の地上から偲ぶことは不可能なので、風評、憶測の世界に迷い込んだのである。

 その結果、確定した情報の無い時代に対して、言わば、風評報道に留めるなら、何とか許容範囲だが、根拠の無い独善に落ち込み、国家機関としての責務を果たしている「宮内庁」に対して、全国紙としての権威を笠に着て、無責任で個人的な誹謗、中傷を投げつけるのは不法と感じる。

 以前の回で、研究機関所長の談話が紹介されたが、それは同所サイトで公開の所長見解と照合でき、記者の勘違いに惑わされず、批判できる。
 これに対して、今回突出した、不勉強ものの落書きと見て取れる誹謗、中傷は、別格の不法行為である。落書きされては、どんな第三者史料を根拠にしているのか、追及しようがない不当な書き方になっている。

*報道倫理崩壊の形跡
 今回示されたのは、報道の「偏向」などではない。毎日新聞社の「宮内庁」批判、弾劾には、強固かつ客観的な論拠が必要である。
 念のため言うと、当方は、「宮内庁」の見解に無批判で追従しているわけではない。又、「宮内庁」の反論、抗議を代弁しているのでもない。記者の心得違いを諭そうとしているだけであリ、その後に、天下第一の毎日新聞の煌々たる後光が差しているので身構えているのである。

 今回の記事が、市中の個人研究家の私的なサイト記事であれば、この世界でまま見られる度過ぎた暴言として無視すれば済むが、今回は、一般読者に向けられた全国紙記事であるから、読者は全国紙の権威に裏打ちされた非難・弾劾と見るから大問題なのである。 

*毎日新聞社の報道倫理
 毎日新聞社の編集部門には、「ファクトチェック」機能すらなく、記者の書いたままの「フェイクニュース」で誌面を汚すのだろうか。

*記事引用/批判
 以下、知財権に抵触しない範囲で部分引用し、批判を加える。疑問の向きは、毎日新聞社ウェブ記事で確認いただきたい。

 「仁徳天皇陵」とは宮内庁がそう言っているに過ぎず、誰も確かめたことがない。治定(じじょう)といって、要は政治的に天皇陵を定めているのだが、立ち入り調査を認めていないから、ほんとに仁徳天皇が葬られているかどうかわからない。

 コメント:
 仁徳天皇陵治定は、宮内庁が、国家機関として責任を持って公表しているのであり、別に、同庁の口から発声して「言っている」のではない。
 そのようにして公表された内容を「過ぎず」と断定する独善の根拠は、不明、そして、「誰も確かめたことがない」とは、どんな事項かも不明である。誠に無責任である。
 政府機関が、主権国家の公式見解を公表するのは、高度に「政治的」な判断に基づくのであって、無責任な野人が「安直に」批判すべきではない。
 「ほんと」は「わからない」から「仁徳天皇墳墓でない」との確証はない。
 記者は、何か、「カルト」に深く帰属して、特定の言葉遣いに「取り憑かれて」いるのだろうか。これでは、信用を無くしかねないので、職業柄、早急に克服された方が良いように思う。

 そもそも、宮内庁の治定は実態と合わないものが多い。要は間違いだらけなのだ。古墳の築造年代と、治定されている天皇の年代が合わないとか。
 古市古墳群でいえば、雄略天皇陵だ。宮内庁が治定しているのは島泉丸山古墳(羽曳野市)だが、研究者の多くは岡ミサンザイ古墳(藤井寺市)と考えている。雄略は5世紀後半の大きな変化の時代を担った大王だ。

コメント:
 公開情報宮内庁「治定」と対比すべき「実態」は一切明示されず、委細不明なのに、「要は」と乱暴に括って、「間違い」「だらけ」と蹴散らかすのは、猛々しいところを誇示したつもりだろうが、容易に見透かされる内情は、ひたすら「不明瞭」、「不合理」で、中学生並の乱文と言われそうである。
 宮内庁の専門家集団と対決して、勝てると思う根性は、素晴らしいのかも知れないが、一読者としては、ご勘弁頂きたいと思うのである。

 新聞は社会の公器である。特定の社員が、好き勝手に汚(けが)して良いものではない。
 半人前の言いがかりは、何度言い立てても、門前払いがせいぜいであり、それだから、毎日新聞の紙面を不法に乗っ取って、勝手な意見を言い立てているのだろうが、この紙面分、新聞代を返せと言いたいところである。一ヵ月分「ただ」にしろとまでは、言いたくても、言わないことにしておく。

                                未完

今日の躓き石 毎日新聞社報道倫理崩壊を歎く 「わが町にも歴史あり」 2/2

 知られざる大阪 /580 東高野街道/71 藤井寺市~羽曳野市 古墳覆う秘密のベール /大阪 2022/07/30 投稿2022/08/23  

*記事引用/批判 承前
 中国の史書に出てくる5世紀の「倭の五王」の最後の「武」が雄略とされ、自らを「治天下大王」と称し、中国・宋への上表文で、勇ましく国を平らげたと誇った。専制的で暴虐とされる一方で、万葉集の冒頭に恋の歌が掲載されているのは、雄略が画期の大王で後世にも特別視されていたからだろう。

コメント:
 出典不明、自身で情報検証したのか不明瞭な風評記事である。
 それはさておき、当記事が「言っている」のは、別の不確かな墳墓に付け替える不確かな憶測に過ぎないので、宮内庁を断罪する根拠となり得ないのである。

*妥当な批判
 在野の意見を反映していると見られるWikipediaは、当遺跡の核心を冷静、かつ丁寧に説いている。
 実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により島泉平塚古墳と合わせて「丹比高鷲原陵(たじひのたかわしのはらのみささぎ)」として第21代雄略天皇の陵に治定されている。

コメント:
 当墳墓を「前方後円墳」である「雄略天皇墓」と解するのは、学術的に謬りと思われるが、それで、宮内庁に「謬りが多い」とは断罪できない。

*隠された日本書紀崇拝
 以上引用を含め、記者は、神がかりで宮内庁を「間違いだらけ」と断じ、すらすらと天皇名を述べるが、雄略天皇が五世紀に実際に存在した「天皇」であって、その遺体が「岡ミサンザイ古墳」なる古墳に埋葬されたとは、記者が「言っている」に「過ぎ」ない。論外と見える。

 それにしても、全体を裏書きしていると見える第三者研究成果の無断引用は不法行為ではないか。毎日新聞社に報道倫理は適用されないのだろうか。

*カルトか、お「カルト」か
 暴言に取り合うのも馬鹿馬鹿しいが、「研究者の多く」の「研究者」は、何者で何人いて、そのうち何人がどのように記者と気脈を通じて、古代史論を交わす「研究者」カルトか、あるいは、敬称付きで「お「カルト」」か、を形成しているのか。
 いくら「うちわ」受けしても、学術的な正確さは問えないのは、自明ではないか。

 このあたり、カウンセリングで強迫観念を治療した方が良いのではないか。

*宮内庁書陵部賛
 宮内庁書陵部は、国家公務員の倫理に従う献身的な研究者を擁し、国費によって陵墓を研究、管理する専門部であって、日本国民のために、陵墓管理に身命を賭している。古来の文献を継承しているのと合わせて、新たな知見により、豊富な研究を重ねている。在野の「研究者」の浅知恵の及ぶところではないのに気づかず、あるいは、確認せず、「間違いだらけ」と一刀両断するのは、無責任である。

*等閑(なおざり)にされている報道の本分
 付記すると、宮内庁の治定のおかげで、当陵墓周辺の道路整備、住宅地開発などの公共事業に重大な制約が出ているのは周知である。
 地方版記者は、現地事情を熟知しているはずであるから、毎日新聞は、公共事業に、重大な制約が出ている事を報道し、本件の是正を端緒に、全般的な再考を求めるのが、新聞社のなし得る国民への最大の貢献ではないだろうか。

 場違いな紙面で、おおぼらを吹くのは、論外ではないか。

*公僕の本分
 国家機関に勉める者にとって、国民の福祉増成が最優先の筈である。各人の給与は、個人口座に自動的に振り込まれるかも知れないが、それは、神がかりのもの(タナボタ)でなく、全国各地で生業に勤しんでいる納税者の浄財の一端である。国家公務員各位は、誰に貢献すべきか、再考いただきたいだけである。

                                以上

2022年6月19日 (日)

新・私の本棚 松井 宏員「わが町にも歴史あり・知られざる大阪」 577

 東高野街道 68 柏原~羽曳野市 飛鳥、渡来人の安住地か 2022/06/18

◯はじめに 
 今回の題材は、毎日新聞の連載コラムであるが、古代史に入り込んでから、トンデモ記事連発なので、世間に誤解を広げるのを放置もできず、口を挟んでいるのである。と言っても、何しろ、当ブログは、有料購読者ゼロであるから、影響力は極めて限定されている(皆目無い)。

*指摘
 今回の記事は、以下引用する書き出しで大きく躓くが、ご当人は意に介していないようである。
 1973年発行の「柏原市史」を見ていたら、平城京と中国・唐の長安とを比べて、長安への関門・函谷関を竜田道の難所・亀の瀬に、黄河を大和川の瀑布(ばくふ)と激流になぞらえていた。ちょっと言い過ぎじゃないかと思うが、都へ入るには険阻な場所を越えねばならないという点では、共通するかもしれない。
 さて、羽曳野市の地図を眺めていて、おやっと思った。「飛鳥」という地名があるのだ。市の南端、太子町との境に。飛鳥は奈良の専売特許だと思っていたが……

 いきなり、とんだ偽(にせ)情報(fake news)であるが、「柏原市史」の誤報と言いきれずこのまま指摘する。それにしても、普通のなぞらえ談義と並べ唱える順序が前後逆で、まことに珍妙である。ここは、冗談めかして「言い過ぎ」と褒めている場合ではない。

 唐の長安は、黄河流域と言っても支流の渭水沿いで、有名な壺口瀑布は、本流のかなり上流である。とんだ見当違いである。それにしても、大和川に瀑布も激流も無いと思うのだが、勘違いだろうか。
 こうした混乱した偽情報・風評を、堂々と紙上で公言するのは、全国紙記者の筆と思えない。(編集部は校閲しないのだろうか)

 ちなみに、「専売特許」は、死語の上に当て外れである。「登録商標」と言うべきであるが、それにしても、著名な地名は、商標にできない。記者は、まるで昭和時代の記者言葉の博物館である。
 こうして見ると、随分、全国紙も墜ちたものである。記者は、羽曳野市を特許侵害と誹謗する前に、なぜ安村俊史館長に相談しなかったのだろうか。とんだ茶番で、大滑りである。

 以下の記事は、偽情報の一環と見ざるを得ない。困ったものである。

                                以上

2021年12月22日 (水)

新・私の本棚 番外 毎日新聞夕刊「今どきの歴史」 2019年4月 歴博記事の怪 再掲

                      2019/04/22 2021/12/22

*厄介な提灯持ち
 今回の題材は、配達されたばかりの毎日新聞大阪3版夕刊文化面に記載されているかこみ記事である。旧聞であるが、深刻な問題を含んでいるので、再掲した。
 歴博「先史・古代」展示を一新  新年代が変える定説
 と、厄介な意見を書き立てている。

 当たり前と思うのだが、歴博が展示を一新したとして、それで「定説」を変えることなどできるはずがない。定説は、例えば、学界の大勢が支持するから定説であり、特定の一機関が、途方もない大声を上げたからと言って、それだけで「定説」が変わるものではないと思う。
 それとも、毎日新聞には、定説を変える権威でもあるのだろうか。

 そもそも、そんな雄図があるのであれば、堂々と記者会見の場で発表して、資料公開すべきであるが、ここに掲載されているのは、担当記者の見学記であり、歴博が責任を持った発表資料が引用されていないし、公式見解に対する責任者の表明もない。国立機関の情報公開として適法かどうか疑わしい。

 担当記者は、「日本列島の人々の暮らしの様相」が一新されたと言う。多分、現代でなく古代の「人」々のことだろうがどんな手段を使おうと、過去の人々の暮らしの様相を「一新」させることなどできるはずがない。
 あくまで、歴博の孤独な仮説が、展示物として表現されているだけであろう。記者は「刺激的だ」とグルメリポーターばりに絶叫しているが、何がどうなっているのか読者に伝わらない。これでは、個人的な感想ばかりであり、新聞報道として無意味である。

 続いて、素人目には、歴博の近年の研究予算(ヒト、モノ、カネ)、つまり、国費の大半が、極めて多額の費用を要するC14年代測定(ずり上げ)に投入されていると見えて、その成果と見える大胆な研究発表で学会の反対論を浴びていると書かれているように見えるが、それによって「定説」がどう変化したと書かれていないから、素人目には、当然出て来る反対論を、適確に克服できていない、つまり、孤立していると見えるのである。もちろん、部外者の推定であるから、見当違いであれば幸いである。

 その後も、降りかかる火の粉ならぬ、許多の反対論を無視/黙殺して同様の趣旨のデータ蓄積を進め、定説と異なる年代区分を形成したあげく、今回、手厚く正当化した独自の主張が展示されたらしいと見えるのである。(歴博発表資料が見えないので、記者の感想に過ぎないとも言える。それとも、読者は勝手に、歴博サイトを見に行けというのだろうか)

 記者は、無頓着に、歴博の提示した年代区分から、多くの興味深い「事実」が浮かび上がるというが、歴博が展示で表現した作業仮説から「事実」が浮かび上がるはずはないので、これは、記者の錯誤というか白日夢なのだろう。まさか、歴博が、これが「事実」です、と言ったはずはないと思う、いや、確証はないから憶測する、のである。

 手っ取り早く言うと、ふと現実に立ち返った記者は、これでは、歴史考証で想定する「定説」と食い違うので、別のストーリーを創出しなければならないという感想のようである。いや、繰り返すが、これは記者の個人的な感想であって歴博の公式見解ではないと思われる。歴博は、文学者ではないので、いくら経費がかからないとしても、新たな創作活動に耽るはずはないのである。

 歴博は、稲作の伝搬を、定説がもたらしていた神がかった速度でなく、人間業として解釈できる緩やかさであったと提唱しているようである。但し、記者の引用を信じるなら、九州北部に紀元前10世紀後半頃に海を越えて伝搬した稲作が、近畿に伝搬するのに300年程度、関東南部に伝搬するのに、さらに、300~400年程度要したということらしい。この推定自体は、あくまで仮説であり、批判したくても、元データも何も見えないから、個人的な感想を持ち出すことになる。ご勘弁いただきたい。

 個人的には、紀元前10世紀後半とは、黄河文明では周王朝の時代であり、どのような時代背景で稲作集団が乗り込んできたのかと思うものであるが、凡人にはどんな「事実」も浮かんでこない。

 一方、稲作前線が緩やかに東進したと想定されていて、当然の帰結として、日本列島内で地域地域の独自の文化展開があったという、これまた、人間くさい様相が想定されていて、ほっとするものがある。

 そこで、記者はまたも、白日夢に陥って、日本列島の先史・古代の「実像」を実見したらしいが、映じられているのは、どうやら記者の脳内だけなので、凡人には窺うことができない。それとも、歴博はVRでも導入しているのだろうか。華麗なイリュージョンは、国立研究機関の税金の無駄使いなので、ご勘弁いただきたい。

 ここで、記者は現実に立ち返ったか、今回の歴博展示は、博物館の大勢に逆らう異端なものと示唆しているが、記者が認めるように「過渡期」の異端説は定着するかどうか不明だし、測定結果の信頼性も検証されていないように見える。そのようなリスクを抱えた異説に大金を投じてもっともらしく展示することを、歴博はどのように正当化しているのだろうか。一度、業務監査いただきたいものである。

 最後に、歴博責任者でなく、展示リニューアルの指揮者として教授が登場するから、以上の記者感想が、歴博の支持するものかどうか不明である。監督官庁を巻き込んで、展示リニューアルへの大金投資を承認させた説得力は、相当なものと推定するしかない。

 その教授の発言として、「弥生時代に限れば、開始が何百年も遡るのは間違いない」としている。「間違いない」は、各界の承認を得た定説ではなく、個人の感想と見るしかないのだが、要は、稲作の開始を500年遡らしたため、それに引きずられて、稲作前線の展開に500年余計にかかったと見えるだけである。それもこれも、C14年代測定がそのように出てしまった辻褄合わせとも見える。この部分は、教授の発言が忠実に引用されたと見えるので、きっちり批判するものである。

 総体的に、本連載の担当記者は、脳内に独自の仮想空間を形成して、そこに形成された「実像」を見ているので、客観的事実の報道と受け取ることはできないと見るのである。
 記事全体に教授談話を引用しているのなら、教授を的に記事の当否を議論できるのだが、当記事の書き方では、ほぼ全てが記者の感想であり、議論のしようがないのである。

 以上の通り、当方は、担当記者に対して批判を述べているが、それは、このようにお先棒担ぎの無批判な報道は、毎日新聞の品格に相応しくないと信じるからである。記者が、ブログででも、個人名で意見公開するならここまでは言わないが、毎日新聞夕刊文化面に堂々掲載されているから、物差しかきついだけである。

以上

2021年6月 5日 (土)

新・私の本棚 番外 毎日新聞のはやし立てる 「今どき」の「歴史」と「進化」~平城京 第十条発掘綺譚 

 『平城京「十条」の発掘 九条の数百㍍南 「常識」揺るがす 歴史は調査で進化しうる  2021/06/05
 今回の記事は、本日(土曜日)付毎日新聞大阪夕刊 「岐路の風景」なる月一連載コラムの批判である。

⚪蒸し返しの確認
 記事の内容は、2007年に奈良平城宮関連遺跡の発掘で、従来南北九条とされていた平城京の第十条相当地に東西方向の道路遺構が発見され、発掘担当の奈良市教育委員会が平城京十条大路と断定したのに学会の同意を得られず、15年を経て、未だ、正当な学説として認知されていないことに、毎日新聞が、義憤を感じて、提唱者に加担する記事を書いたようである。全国紙ともあろうものが、何を今さら蒸しかえすのか、と不審を感じさせるのである。

⚪異様な展開に不満
 当ブログ記事筆者にとって、同時代、同地域には、誠に疎いので、記事に書かれている提唱者の言葉遣い、論考展開と毎日新聞社の態度に異議を唱えるものである。いや、学界構成員でないので、ただの素人考えを述べるのであるが、提唱者の世界観に大変不穏当なものを感じるのである。

⚪不穏当な語彙~今どきの「歴史」、「進化」
 記事タイトルにもなっている『 「常識」揺るがす 歴史は調査で進化しうる』なる言葉遣いは、学問的な「普通」の語彙に反しているのである。
 まずは、今どきのはやり言葉である「歴史」、「進化」の蔓延させている誤解を正す。

*「歴史」と「進化」の由来

 「歴史」とは、過去この世界に生じた出来事の積層であり、一度この世に生じた以上、書き換え、塗り替えなどできないのである。言い直すと、『歴史は』 不変である。

 恐らく、世界史的に見て後進国である英語圏の世界観、歴史観を直輸入しているのだろうが、日本には伝統があるのだから、勝手に、確立された「歴史」という言葉を乱さないでもらいたいものである。

 狭い学会で長年過ごしてきた提唱者は、そうした配慮は知らないのも仕方ないとしても、全国紙たる毎日新聞には、言葉に対する基準として断然守るべきものがあるはずである。文化遺産たるべき「言葉」の護り人として、当ブログで警鐘を鳴らしている外来カタカナ語の蔓延防止もさることながら、歴史的用語を守らねばならないのではないか。

 「進化」とは、ダーウィン進化論で知られるとおり、突然変異によって生じた新種によって与えられる、適者生存の生存競争、優勝劣敗の試錬であり、軽々しく口にすべきではないのである。学校でちゃんと教えて貰っていないのでしょうが無いのだが、まるで、今生きている人々が新人類に変身するかのような非科学的な「まやかし」に乗せられてはならないのである。少なくとも、勝手に、多数の先人が労苦の果てに積み重ねてきた伝統的な概念を踏みにじって、にわか作りの子供じみた思い付きを蔓延させないで欲しいものである。

 理屈のわからない子供に、当人の理解を超えた理屈を言い聞かせるようで、このような「苦言」は、なんとも甲斐の無い徒労の予感がするのだが、言うべき事は言うのが「誠意」の極みと思うのでも、敢えて書き遺すものである。

*不出来な新説、不出来な論証
 要するに、提唱者は、新規発見、新理論を見つけたから、古いものはさっさと捨ててしまえ、と言っているのである。

 しかし、それは、適者生存の生存競争に勝ち抜いての話であり、後発の者が常に勝つものではない。むしろ、「歴史」は後発の者が敗北した積み重ねである。俗に死屍累々と言う不快な表現をお許し頂きたい。但し、ここは、学問の世界であるから、感情を排して、議論で勝敗を付けねばならない。

*異様な「鳥肌世界観」
 提唱者は、古代ギリシャのアルキメデス以来、しばしば盗用されている「ユーレカ」症候群の罹患者らしく、事実かどうかは別として、慄然たる感激を覚えた「フィクション」を押し立てているようであるが、予兆としての「鳥肌」の解釈を間違えたようである。本来、おぞましく感じるはずなのに、至高の快感に溺れたようである。考古学に限らず、新説の90㌫は、はなからジャンクである。学問の徒として、恥をさらしているかも知れないという懸念は、生じなかったのだろうか。

 言うまでもないが、慣用句の現代風誤用を毎日新聞が政策的に煽り立てているのでない限り、「鳥肌」は、歴史的に慄然たる不快感で定着している。定例の解釈は、ガラスに爪を立てて引っ掻く響きによって掻き立てられる絶大な不快感であり、そのような不快な連想でおぞましく思う読者も少なくないのである。
 毎日新聞には、多くの人に不快感を与える忌まわしい表現を避ける報道者としての良心はないのだろうか。

 それは置くとして、少なくとも、この下りは学術的論議には、場違いな発言である。提唱者の名誉のために、毎日新聞は、この部分を割愛すべきであったろう。何しろ、学術的な主張に於いて、無用の冗語だからである。

 定説を乗り越えるためには定説の語彙に通暁しなければならない。定説の深意がわからずに、勝手な思い付きで言い分を言い立てるべきではない。

*自家製「曲解」観
 記事の後半に向かい、提唱者は、殉教者気取りで、学説審査の場で経験したダメ出しを忌み嫌っているようだが、解釈が合わないのは、自分の曲解か、相手の曲解か、双方の曲解か、冷静に判断し、克服すべきもののように思う。
 冷静に言うと、当時、キッチリ裁定しなかったために、議論の敗者が自覚せず、自身で是正しなかったので、15年後の今に至る「恨み」が残ったのである。

*論証の常道
 小生の素人考えでは、平城京時代には、法制が整い文書行政が確立していたはずだから、日本の帝都としての「平城京」に、公式に第十条が実在していたのなら、計画時点から平城京運用時までの一世紀近い期間に、何らかの文書記録が残ったはずである。あるいは、現場に荷札などの木簡が廃棄されたかも知れない。現場付近に詰め所のような仮小屋を建てたかも知れない。
 提唱者は、一件でも、そのような(文書)記録を提示する必要があったのである。
 「第十条は存在しなかった」というのが、多数の権威者の意見、「定説」である以上、十分な証拠で、その「定説」を覆すのが提唱者の務めと言うべきである。

 提唱者が、歴史学の定説は、最新の調査成果を取り入れて、不適切な点は是正すべきだというのは、(用語の不具合を補正すれば)一般論として耳を傾けるべきであるが、立証責任が果たされていないという多数の意見で却下されて17年間か経過する間、このようにうじうじと恨み言を唱えるだけで、ひたすら自説の風化するに身を任せているのは、一部古代史論に見られる「新発見」待ちの神頼みに似ているように見える。勿体ないことである。

*奈良市教育委員会「発掘報告書」のなぞ
 因みに、記事には、肝心な点が書かれていないのだが、「奈良市教育委員会」がどのような審査を経て、提唱者の「思い付き」を支持したのかということである。当記事を公開する際には、提唱者の主張の裏を取るために、取材すべきではなかったかと思われる。市の公費を、学界で認められていない異説の振興のために投じたと言われないために、審議したはずであるから、当時の議事録を公開すべきではないか。

 世上、地方公共団体の遺跡発掘の報告書に於いて、未検証の「思い付き」が、貴重な公費を費消して刊行されることが珍しくないと聞いているので、本件がそのような風評に属さないなら、提唱者の言い分を無批判に押し立てるのではなく、毎日新聞社として当該報告書の書評を収録するなり、読者に対して論議の経緯を明らかにするのが、毎日新聞読者に対する責任と思うのである。

*定説派の卓見
 提唱者自身の認めるように、第十条部分が平城京仮設段階で棄てられたと見れば、「常識」に何の不都合もないように思える。

 『平城京「十条」の発掘 定説動かず「九条」 奈良大教授・渡辺晃宏さん』と題した囲み記事で、定説派の見解が丁寧、かつ簡潔、平明に述べられているが、提唱者への配慮で明記を避けたと思われる深意は、「学問上の議論は論議するものであり、裏付けのない思い付きに感情的に固執するべきではない」と言うことのように思うのである。
 渡辺氏は、遺跡が当時のものと想定し、但し、一時何らかの工事が行われたと好意的に推定していて、遺跡の意義を否定しているのではないのである。

 当ブログ筆者には、今回の報道に於いて、毎日新聞担当記者の見識眼が、随分撓んでいるように見えるのであるが、これは、語彙の鬱屈も含めて、ジャーナリストに普遍的なものであり、別に個人批判しているものではない。ただ、毎日新聞社としては、報道の倫理にそっているかどうか、今一度監査が必要ではないか。

以上

2019年12月 1日 (日)

今日の躓き石 毎日新聞の一大虚報 「漢字のルーツ」解明談 2/2

漢字のルーツ、金文は「筆文字」か 京都の美術館など、鋳造技法解明

 *私の見立て ★☆☆☆☆ 錯誤が大半の虚報     2019/12/01

*新規性の認知
 因みに、研究者は、「中国清代の学者、阮元(げんげん)が約200年前の文献で触れていた筆を使う手法に着目した」と明言し、研究の意義を適確に認識していると思われ、今回世に出てしまった記事暴走は、研究者の妄想が報道されたのではなくて、担当記者の読解力、理解力不足によると思われます。
 それが、かくの如く無様に露呈したのは、一つには、先に書いたような報道資料の公開、提供が無かったための誤解誘導と、新聞社編集部門の統率力不足が原因と思われます。担当記者が、ものを知らないそそっかしい性格でも、社内には、中国古代史に関して豊富な知識を備えた諸先輩が健在なはずであり、なぜ、独断でこのような間違った認識の下に、かくも粗雑な記事を書いたのが、世に出たのか、新聞社としての体制を疑うものです。

*筆が先か金文が先か
 もし、当時、筆書きが一切なかったとしたら、世に筆も墨もなく、筆書きに適した記録媒体もなく、金文工の創始した王室秘蔵の書法が、筆書きに適した媒体の開発として普及することはなかったとみるものです。
 特に専門家でなくても、一般読者はご承知のことと思いますが、筆と墨は、総合技術の精華であり、何もないところから即座に生まれるものではないのです。私見ながら、金文が、他の書記媒体に先行したという見方は、随分筋が悪いと見えます。
 いずれにしろ、どちらが先であったか、証拠はないのだから、少なくとも、軽々に金文筆書き先行を大発見のように言い立てるのは、学問の道でないように思うものです。研究者が、かくの如き虚報(フェイクニュース)に加担したとみられるのは、大変気の毒に感じます。

 以上、学問的な考え方について、素人なりの批判を加えたものです。

*成果の特定 (談話引用)
 東京国立博物館・富田淳学芸企画部長(中国書法史) 殷周時代の金文は書に携わる人にとってお手本とも言える文字。ただ、どのように製作したかは分からず、筆の使用は多数ある意見の一つに過ぎなかった。今回、実証的に筆で説明が付くと示したことは意義がある。この説が正しいとすれば、金文は筆の跡そのものが鋳込まれた、筆の魅力を十二分に表す書体と言えるのではないか。

 台湾中央研究院歴史語言研究所・内田純子副研究員(中国考古学) 中国青銅器の製作技法はホットな研究テーマの一つで、銘文の付け方は古今東西の学者が頭をひねって謎を解こうと挑んできた。研究グループは製作の痕跡を丁寧に観察し、鋳造実験を繰り返してこれぞという方法にたどり着いた。青銅器研究者を驚かせる成果だ。

 ここに、まことに適確な談話を紙面から引用したように、発表されたのは、「青銅器の製作技法」の細目であり、それは、高く評価されるべきです。この談話が、担当記者によって、どうして不届きな独断発表と誤解されたのか、大変不思議に思います。

 因みに、ここで言う伝統的な言い回しである「驚き」は、好ましいものであり、今日流布している「サプライズ」や「ショック」のように、原義で不快なものであるものを、勝手に誤解して無神経に採り入れたものではないことは、念を押すまでは言うまでもないでしょう。

 言うまでもありませんが、漢字の起源は、甲骨文字の甲骨への書き込みであり、筆文字の起源は、それを「紙面」に表現する書法であったはずです。

*報道の暴走の戒め
 と言うことで、本記事で、見出しを含めて、毎日新聞が読者に提供したのは、早とちりの誤解であり、俗に「ガセ」と言われるフェイクニュース、虚報かと思わされます。玄人向けの地味な話題を一面トップ大見出しにしたのには、そうした疑念が漂うのです。
 結局、毎日新聞にとって、夕刊紙面は、実験の場になっているのではありませんか。「フェイクニュース」でしょうが、独善、独断でしょうが、生煮えを構わず紙面に出してしまうと言うことではないのですか。
 毎日新聞社の全国紙としての見識はどうなっているのでしょうか。夕刊一面大見出し記事であるから、全社の信用をなくす物になっているとは思わないのでしょうか。
 これなら、個人ブログと大して変わらない空騒ぎであり、夕刊はこの程度という姿勢と見えます。これなら、毎日新聞に夕刊は不要と思えてきます。

以上

今日の躓き石 毎日新聞の一大虚報 「漢字のルーツ」解明談 1/2

                           2019/12/01
漢字のルーツ、金文は「筆文字」か 京都の美術館など、鋳造技法解明

 *私の見立て ★☆☆☆☆ 錯誤が大半の「虚報」

*遅筆の弁
 それにしても、毎日2019年11月25日夕刊の「漢字のルーツ」には、二重の意味で恐れ入りました。それぞれ、少々念を入れて指摘することになったので、日数がかかったものです。(「泉屋博古館」、「芦屋釜の里」発表と推定)

*「ルーツ」の悪用
 このカタカナ言葉の出典は、アフリカ地域社会、つまり、主権国家の担い手であった誇り高い男性が、大勢の同胞とともに、欧州奴隷商人に無法に拉致されて、アメリカ南部で蛮人異教徒奴隷として、終生、そして、子孫に至るまで、苦役に囚われたという忌しい物語です。

 それは、大航海時代のもたらした欧州先進国の罪悪を暴き、合わせて、当時新興国家であったアメリカの経済発展を支えた奴隷制度への非難も込めています。しかし、日本メディアの扱いは、そうした「拉致」に始まる苦々しい告発には無頓着で祖先捜しの要素だけがもてはやされているようです。

 今回の記事は、原典比喩からみると、中国文化の根幹である漢字は、異国から略奪されたものと告発しているように見えます。軽率な原資料用語の引き写しとしても、天下の毎日新聞なら大胆な欧米に対する弾劾となるのです。普通に「源流」と言えば、そのような忌まわしい連想は生じないのです。

*「漢字のルーツ」
 後段は、良くある新説を「十分な検証」なしに、こうすればできるという一例の「実証」だけで、表沙汰にしたように見えます。学術発表は、学会内で、追試、反駁応酬の手順で、重大な試錬を経て公表すべきと思います。また、今回のような取材の歪曲から起こる難詰を避けるためには、発表者自身が責任を持つ「発表資料」(レリース)を配布すべきものと思うものです。是非是非、古代史関係者の認識を改めてほしいものです。

 担当記者は、「漢字」の自己流解釈に基づいて、漢字文化の(いかがわしい)源流を探り当てたと言いたいようですが、浅薄な誤解でしょう。あくまで、今日漢字の「書」としての側面に限定すれば、楷書、行書に代表される書体の起こりが筆文字であることは、ほぼ異論は無いものと思います。

 今回の発表は、金文文字は、別世界から掠奪・拉致したものではなく、中原に於いて、青銅器への文字書き込みの技法として筆文字が創出されたと言うようですが、そのような仮説は、実証不可能のように思います。一つには、そのような決め込みは、金文創生期まで、金属針で引っ掻く金釘流の甲骨文字しかなかったという先入観、と言うか、認識不足、勉強不足の大間違いに災いされているようです。

 しかし、少し考えればわかるように、当時、広大な領土を有する中原国家が成立し、封建諸公を統治していた以上、国家制度の規定、文書交信、戸籍、財政管理、諸公との締盟など、厖大な文字の書き出しが行われていたはずであり、記録媒体が、亀甲のように不朽のものでなく、また、亀甲のように地下深く埋蔵されなかったために、今日に残存してないだけと思われます。まだ、竹簡、木簡の多用は始まっていなかったかわかりませんが、かたや、筆の工夫は始まっていたと見るのが、普通の考え方と見るべきではないでしょうか。

 つまり、筋のよい考え方としては、金文筆文字の創始は、当時、世に行われていた筆文字を、「金」、つまり、青銅鋳物の表面に適確に再現する手法が、王室の門外不出の秘術として開発されたということのように思うのです。

 と言うものの、研究発表の事実報道部分を読むと、一つの手法で、実現可能であるということが証されただけであり、実際にそうであったかどうかは、別儀ですし、また、その手法の創始の際に、筆文字が創案されたという証左ではないように思えます。多少の常識が働けば、そのように考えるはずです。

                                   未完

2019年8月26日 (月)

新・私の本棚 番外 毎日新聞「今どきの歴史」 沖縄考古学会の試錬

 私の見立て★★★☆☆ 購読料相当ないしそれ以上のもの     2019/08/26

 題材は、毎日新聞夕刊文化面の月一歴史コラムで、今回は、発足五十年目前の沖縄考古学会会長上原靜(しずか)沖縄国際大教授の高説の紹介です。

*お「熱い」のは嫌い
 「グスク時代の研究が熱いです」とは、とんでもない開幕ですが、いくら、発言の引用報道としても、史学者として、最新の研究状況を毎日新聞読者に伝える際に、このような低次元の言葉の乱れは、ご本人に勿体ないものと思われます。

 本文として、一般読者になじみのない「グスク時代」には説明がありますが、全体に、従来と今回紹介との時代区分の差異が不明確です。
 教養豊かな担当記者には自明でしょうが、沖縄における「先史時代」とは、いつどのような時代なのか説明がありません。七世紀以降のようですが、「先史」とあるのが、石器時代の言い換えなのか無記録時代の趣旨か不明です。

 遣唐使が「盛んに」往来したといっても二十年一回程度で、誇大視する根拠が不明です。遣唐使来訪で、物資買付けならぬ物々交換で中国銅銭を代価としたとは首尾が一貫しません。貨幣経済がなければ、貨幣を「富として」蓄えないから、装飾品と見なされていていたとする定説が、今回、何が原因で、貨幣経済ありきと変わったのでしょうか。

 以上は、素人考えですから、専門家にしたら、子供みたいなこと言うな、勉強して出直して来いというものでしょうが、ここでは、歴史マニアならぬ一般人の意見として、初見の所感を率直に述べたものです。

*南海の提言
 さて、今回も、記者は、氏の発言をさかなに自説を展開しているのでしょうが、氏の提言と記者持論が混沌として最後の訓辞は難解になっています。

 「本土は何かと沖縄に固有性を求めがちだと思うが、それも平板すぎる。沖縄考古学の今後の新しい発信に注目したい。」

 ここは、記事の地の部分で、記者私見のはずですが、それにしては、随分粗暴な押しつけと感じられます。
 「本土は..がちだ」は、我々一般人への批判らしいのですが、少なくとも、当方は沖縄の文化的独自性が好ましくても、ないものや物足りない所をひねり出すように強要するつもりなど、全くないのです。この下りが記者の自省の趣旨だとしたら、勝手に自戒/自罰するにとどめて、他人を巻き込まないで欲しいものです。
 沖縄考古学の「新しい発信」で記者は何を要求しているのでしょうか。当方の受信機のスイッチは切れているので、無縁の衆生です。
 「平板」とは、どんな趣旨でしょうか。この場で「的」の付かない名詞もどき、隠れ形容詞「平板」の起用は、場違い、かつ、異例で、氏の玉稿に「平凡」の誤記があったかと勘ぐり、ここで頓挫しました。
 また、肯定的「すぎる」かとも惑いました。批判的用法なら、「平板にすぎる」と言うものと思います。そして「平板」は堅実さへの賛辞と見えます。

 全体として、「今どき」風「違和感すぎ」でしょうか。報道は、なによりも平明・明解に願いたいものです。

 「熱い」と若者言葉で開幕しても、最後は、読者になじみやすい言葉でしめるものでしょう。先に挙げた言葉は、氏の発表の解説記事の総括に相応しいとは思えないのです。

*新説待望の危惧
 それにしても、考古学は、既に起きたことを遡って説き起こす「学問」ではないのでしょうか。記者は、考古学に革新と破壊を求めているのでしょうか。
 ここで説かれている新説待望は、新聞記者が「紙面映え」のために求めるものであって、全国紙の高名な記者がこのように熱弁を振るうのは、ほとんど「強要」ですが、だからといって、学問の徒が血道を上げるべきものではないと思うのです。

 毎回ながら、記者は、ご自身の使命を勘違いしているように思えます。

                                以上

2019年7月24日 (水)

新・私の本棚 番外 「今どきの歴史」 2019/07 不思議な視点と視覚 3/3

 私の見立て★★★★☆               2019/07/24

■■「東アジア最辺境」の悲劇
 ここで、東アジア最辺境と、時代錯誤の錯辞が出て来ます。
 当時、「アジア」を認識していたものはいないから「東アジア」は錯辞であり、最辺境と言うには、中心、周辺、辺境、最辺境の階層が前提と思われますが、何も説明もないので不可解なだけです。論者の「生徒」は知っていても、一般読者には耳慣れない呪文で、記者が絵解きしなければ、論者の意図が伝わらないのです。報道の者の責務ではないかと考えるものです。

*結語の美
 論者は、記者の前振りに続いて、結語に入ります。

 「文字が本格的に使われておらず」とは、墳丘墓被葬者の視点でしょうか。一瞬戸惑います。

 論者の言い分で大変もっともなのは、後世人の浅知恵で「合理性」を難詰するのは時代錯誤の錯辞であり、当時の関係者は、時代なり、統治者なりの合理性の最大限の発露として墳丘墓を築いたとの卓見です。

 当時、文字がなかったので中国文化圏の事象として「文化」と呼ぶのは不出来ですが、墳丘墓に表現された当時の為政者の理念は、現代語で言う「世界」に誇りうる「文化」というのが論者の結論であり、圏外情報の素人くさい前振りで、論者の知性を疑われるような愚は避け、ご自身の錚錚たる学識の核心を披露いただければ、これ以上の知の饗宴は無いと思うのです。

*急転の没落
 いや、折角の結語で、東アジア全体の墳丘墓制が、世界に類のない遺産であると言いながら、全世界を足蹴にするように「人類が二度と持つことのない文化」などと、今後の人類文化の展開に呪いをかける言葉を吐き捨てていて、椅子からずり落ちるのです。ご両人とも、気は確かですか。

 
続く記者コメントは、論者の負の遺産を背負って、反知性的な夜郎自大放言で、論者の論考の足を引っ張るのです。

 古代人は、古代人の知りうる世界情報をもとに、最善、最高の合理的事業を行ったのであり、現代人にも知り得ない残る全世界の賞賛を押しのけないものであって欲しいのです。

*まとめ
 論者の展開した論考は、「日本考古学」の圏外から、論拠不明の憶測を述べて、学術的に無法、一般読者に対し、誤解を与えるものになっています。
 記者は、論者の展開した論考を、十分咀嚼できないままに、自身の未熟な知性、語彙をなすりつけて、贔屓の引き倒しになっています。

 折角、適確な結語に到着していながら、論者が、夜郎自大な感慨を吐露したのは大変勿体ないところで、記者が大人の分別で適確に舵取りしなかったのが惜しまれます。

 港に入って船を割るのは、水先案内人の不手際です。

*蛇足
 風評の類いですが、巨大墳丘墓は、権力者が圧政を敷き、「奴隷同然の強制労働」を課して次々に完工したとの見方が囁かれています。論者は、当時の権力者に妥当な合理性があってこれだけの大工事を成し遂げたと弁護していますが、多少の弁明になったとしても、強制労働では無かったとするには、労働の対価としてどのような褒賞、アメを与えたかが問われるでしょう。
 考古学者は、必ずしも当時の権力者の合理性を弁護する必要は無いでしょうが、世界遺産に登録する上では、黒い疑惑は糺す必要があるように思えるのです。「いたすけ」古墳が、公然と、益体もない現代遺物であるコンクリ橋を、世界遺産の保存対象にしているのと並ぶ「汚点」でしょう。

                                 完

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