新・私の本棚 番外 毎日新聞 【松井宏員】散歩日和 奈良凸凹編 大倭/3
(奈良県桜井市)箸墓見守るホケノ山 毎日新聞大阪夕刊 2024/10/02
私の見立て ★☆☆☆☆ 暴論、暴走 2024/10/03 10/05, 10/17補筆
◯はじめに
今回の記事は、引きつづき梅林先生が蘊蓄を垂れるお散歩話である。ただし、担当記者が御高説を曲解して、自説を述べ立てるのは大変迷惑である。
*古墳の後先(あとさき)
聞き流せないのは、タイトルの「ホケノ山古墳」(以下、ホケノ山)と「箸墓古墳」(以下、箸墓)の後先であり、ことのついでに、この「前方後円墳」の「前方部は、後年の付け足し」という梅林氏の感想がある。
梅林氏は、元々円墳として構築され周濠があったが、後年の追葬の際にこれを跨ぐ形で前方部が建て増しされたとの御意見のようである。ホケノ山は宮内庁治定陵墓ではないので、発掘調査を根拠とした御意見なのだろう。
それにしても、考古学会の意見はどうなのだろうか。一夜漬けであるが、最新考証では、ホケノ山は在来工法の終幕(先)で、箸墓が、外来工法時代の端緒(後)と見える。混乱させられる。
記者は、梅林氏の解説を無視して、『ホケノ山が、「ヒミコの墓と仮定された箸墓」の山手に、これを見おろして造成された』と見ているようだが、それでは、箸墓と三輪山の間を遮るから、ホケノ山を倭大夫難升米の墓陵と断定している梅林氏の説諭が無視されていると見える。当記事は、記者が支配しているのだろうか。
さらに言うならば、現地取材で明らかなように、ホケノ山視点では、箸墓の背部「後円」が、西の霊山二上山を遮って興ざめである。高見したければ、檜原神社あたりまで登る必要がある。話しのスジが通っていないと見える。
*史料解釈の混迷
地の部分、記者の見識で、難升米を女王「副官」と言うのは信を置けない。女王に副官などつかない。
更に言うと、使節が洛陽に参上した記録はあるが、皇帝謁見とか金印と銅鏡百枚の受領は、中文の読めない誰かの勘違いだろう。誰かの勘違いが、延々と語り継がれているのは、どの世界の悪習だろうか。
以後「外交」の場に登場と言うが、中国正史で年少天子の「外交」の場に東夷の陪臣が登場することは有り得ない。たちの悪い非科学的な「邪馬臺国」ものテレビ番組でも見たのだろうか。
*懲りない銅鏡舶載説 "Die Harder"
梅林氏は、「ホケノ山」から特定形式の銅鏡が一枚出たのに触発されて夢物語を新作している。「卑弥呼の鏡でない」と確定した「三角縁神獣鏡」が、後代中国で「東夷の指示で特注制作した舶載鏡」とは病膏肓である。
卑弥呼の初回遣使で、曹魏名君烈祖明帝が「倭人」に銅鏡百枚を与えると言明したのは、万二千里の遠隔地から到着した初見の褒賞であったものの、明帝没後に実際は四十日行程の地(陸路換算で二千里程度)の近場と知れ、格別の熱意を持った明帝の急逝後、「倭人」調略に手足となって奔走した腹心の毋丘儉も抹殺されたため、もはや、絶海の東夷として閑却され、先帝の遺詔は実施されたものの、以後、大量の銅鏡を贈呈するなどの厚遇は「絶対に」ありえなかった。
さらに、正史に基づき時代考証すると、衆知の「後漢大乱」で壊滅した官制工房尚方は、暴漢董卓によって首都雒陽が廃都された際に四散、逃亡した工人の恢復を図ったものの、万全に遠いにも拘わらず、破壊された廃墟の復興に加えて、明帝が在世中に指令した新宮殿の装飾制作に忙殺されたので、もともと「未曽有の異形・大径/重量の銅鏡の新作」技術は無い上に、東夷に呉れてやるような余分な銅材など無かった。
素人の生齧りでも、陳寿「三国志」魏志翻訳文からその程度の背景は読みとれるのだから、つまらない夢から早く覚めて欲しいものである。
*最後の聖戦 2024/10/05 補筆
そのような門外漢の作業仮説を、専門外の記者が、全国紙の紙面を壮大に費やして書き立てる意義は疑わしい。箸墓「卑弥呼」墓陵仮説を奉じている「纏向史蹟」事業の「最後の聖戦」になりかねない。
陳寿「三国志」魏志「倭人伝」に、卑弥呼が葬られたのは、民間人と同様の「冢」、つまり、先祖以来の墓地に、古式の土饅頭を設けたとしているのを、無視しているのであるから罪深い。女王の「冢」は、父祖の墓址より一回り大きいので、親族や近隣の者だけでは足りず「徇葬者として百人ほどの力を借りた」と明記されているのを読み損ねているようである。
「箸墓」は、冢などではなく壮大な墳墓であり、その規模は十倍どころでは無く、整地を要する用地面積比で百倍、盛り土容積比で一千倍、と見てとれる。まして、蛇足とも見える「前方」部は、計算に入っていないのである。
原文が理解できないままに、勝手に華麗なお話を書き上げているのを、ここでは、伝統的な「画餅」(画に描いた餅)と呼ばずに「聖戦」と呼んでいるのである。
担当記者は、私人の私見が全国紙紙面を飾ることの責任を感じるべきではないか。「歴史の鍵穴」レジェンドの轍(わだち)を踏んでは、天下の恥では無いか。いや、この場は、何の権威もない一読者の意見である。別に「神様」だと言っているのではない。
少なくとも、これほど賑々しく自説を謳い上げるのであれば、社内で学識のある編集者の「校閲」を受けるのが、全国紙読者に対する責任ではないか。記者の俸給の水源は、善良な市井の読者の財布である。
以上