毎日新聞 歴史記事批判

毎日新聞夕刊の歴史記事の不都合を批判したものです。「歴史の鍵穴」「今どきの歴史」の連載が大半

2024年9月 6日 (金)

新・私の本棚 番外 毎日新聞 【松井宏員】散歩日和 奈良凸凹編 大倭/1 1/3

散歩日和 奈良凸凹編 大倭/1(奈良県桜井市)「歴史の鍵穴、纒向遺跡」毎日新聞大阪夕刊4版[特集ワイド]2024/9/4
私の見立て ★★★☆☆  場違いな力作 前途遼遠  2024/09/05-09

◯はじめに 「歴史の鍵穴」の遺産
 大見出しで「歴史の鍵穴」とあって、往年の専門編集委員が連発したトンデモ記事を引き継いでいるのかと一瞬身構えた。どん詰まりには、吉野山金峯山寺に吉野宮があって、厳冬・極寒にめげずに、持統天皇ご一行が行幸を重ねたと途方もないホラ話に墜ちていた。今日ロープウェイしかない登山路を、女帝を担いだ一行が駆け下りて韋駄天帰館、そして...という次第であきれ果てたものであった。

 当時、典型的な老害で、誰も専門編集委員にだめ出ししなかったと見える。天下の毎日新聞が、墜ちたものだと呆れた。同記事だけでなく、継続記事の「カシミール3D」権利侵害も、未解決である。ちなみに、「7」と書いているように、同様の不合理な地図妄想は、毎日新聞の記事として、延々と続いていたのである。当時も今も、その点では、なんの進歩もないのである。一蓮のブログ記事は削除していないから、興味のある方は、検索で発見できるはずである。
 毎日新聞 歴史の鍵穴 地図幻想批判 7 吉野宮の悲劇 1/2 再掲
 それにしても、素人目にも明らかな、曰く付きの粗雑な比喩が、堂々と継承されるとは、もったいないことである。

 なお、今回の記事に、罰当たりな吉野宮談義は出てこないし、掲示されている地図は、今日の国土地理院データに基づく現代地図としているので、重大な侵害は回避しているように見える。但し、れでは、古代の地形、特に河川の水脈が不明であるから、古代遺跡の解説図の用をなしていない。当たり前の話しだが、JR桜井線や国道169号の路線は、特に参考にならない。むしろ、梅林氏が確固たる信念としていると見える「東海方面」への交通を強く示唆する近鉄大阪線が割愛されているのは不審である。

 紙面掲載された桜井市立埋蔵文化財センター提供の立体地図は、同記事を見る限り、データ出典など一切不明であり、方位、縮尺、高度が不明である。掲示されているのは、立体画像ではないので、高低差の見て取れないものの役に立たない単なる参考イメージである。それにしても、折角の立体図が、作りっぱなしで埋もれているのは、税金の無駄遣いと言われかねない。まことに勿体ないことである。

 同地図は、毎日新聞サイトのウェブ記事からは割愛されていて、ここで述べた批判は空振りである。要するに、桜井市立埋蔵文化財センターの諒解のない無断掲示だったようである。全国紙の報道として、もっての外ではないか。
 とはいえ、折角多額の公費を投じた地図が、世に知られないまま埋もれているのは、公費の浪費である。それとも、いずれかの場で公開されて居ねるのだろうか。そうであれば、無礼をお許しいただきたいものである。

*本文批判
 ヤマト王権発祥の地はどこか? 有力視されているのは纒向(まきむく)遺跡(奈良県桜井市)だ。弥生時代後期に、奈良盆地南東部に突如出現する大規模遺跡で、しかも一角には最初の巨大前方後円墳の箸墓(はしはか)古墳を擁する。[中略]三輪山の西に位置する遺跡や古墳を訪ねる。
 [中略]築造年代がぴったりはまることから、卑弥呼の墓とみる研究者は多い。ただし、纒向には箸墓より古い前方後円墳がいくつもある。[中略]

*揺動する論旨
 「ヤマト王権」は当ブログ圏外で、いつどこの発祥か知るところでない。また、「纏向遺跡」の定義が、記事の末尾に至るも不明である。現代考古遺跡ではないのか。二世紀に「遺跡」だったと言うことか。墳丘墓を含むのか。その場その場で表現が揺らぐ。
 出典不明の地図で「遺跡」の範囲が明示されるが、誰が、どのようにして範囲の境界を見定めたか示されていない。ここまでの連載記事で、東海方面への交通路を示唆するように示されていた近鉄大阪線が図示されていないのも、首尾一貫せず、記事趣旨に背を向けているのも、いかがわしいと言われそうである。
 どうやら、通称「纏向遺跡」の一部が「史跡指定」されているようである。もっと、その辺りを公知のものとすべきでは無いかと思われる。

*根拠不明の古墳築造年代推定
 「2009年に国立歴史民俗博物館が放射性炭素年代測定により、箸墓古墳の築造年代を240~260年代と発表した。」と言うが、「歴博」は、何の根拠と権威で「発表」したのだろうか。いずれかの公的機関に委託して「年代測定」報告を得たというのだろうが、それは、二千年過去の二十年範囲に限定できる信頼性を確証されているのか。「築造年代」は、どんな根拠で特定されたのか。科学技術の分野で当然の検証が、すっぽり抜けているように見えるのは、どんなものか。そして、毎日新聞が、そのような杜撰な考古学界活動を支持しているように見えるのは、どんなものか。善良な一介の納税者としては、多額の国費の費消について、克明な会計監査を御願いしたいものである。

 比較対照されている「魏志倭人伝」は、二千年を経て、綿密に年代考証されているが、「歴博」は、どんな確証で、卑弥呼の「冢」、小ぶりな土饅頭が、所謂「巨大前方後円墳」であったと主張しているのか。まことに、不審である。それとも、「魏志倭人伝」誤記説にこだわっているのだろうか。「魏志倭人伝」に信を置かないのであれば、卑弥呼の実在すら疑わしく、没後の葬礼も信じがたいとなる。笵曄「後漢書」東夷列伝倭条の簡牘巻物「レプリカ」に続いて、陳寿「三国志」魏志倭人伝の国産化に挑むのであろうか。

*果てし無き風評論議
 記事は、「ぴったりはまる」とするが、ドロ沼にはまっているのではないか。
 賛同している研究者が「多い」とは、百人か、千人か。箸墓より古いとは、どうやって年代測定したのか。いくつもとは、何個のことか。ドロ沼である。以上、権威ある全国紙として、責任を持てるご説明をいただきたいものである。野次馬古代史マニアの言いたい放題の私見ではないのである。

                                未完

新・私の本棚 番外 毎日新聞 【松井宏員】散歩日和 奈良凸凹編 大倭/1 2/3

散歩日和 奈良凸凹編 大倭/1(奈良県桜井市)「歴史の鍵穴、纒向遺跡」毎日新聞大阪夕刊4版[特集ワイド]2024/9/4
私の見立て ★★★☆☆  場違いな力作 前途遼遠  2024/09/05-09

 ただ、大型建物群や箸墓をはじめとする古墳群を持つ纒向遺跡[中略]

 大型建物群や古墳群を持つ「纒向遺跡」』とは、錯綜・混乱している。ここは、「遺跡」論議ではなかったか。「特徴」は出ず、遺跡大小が問われて見える。

纒向遺跡の範囲
 (1)弥生後期に突然出現
 100年代末~200年代初めに現れ、[中略]4世紀前半に消滅する。

 意味不明の紀年である。普通に考えると、100年代は、101年から110年であるから、100年代末は110年であるが、当時、誰が、キリスト教紀元(ユリウス暦か)を、そこまで精密に知っていたのだろうか。西暦を、古代史に持ち込まざるを得ないとして、普通に書くとすると、二世紀中に出現し四世紀に入ってほどなく消滅したということか。なにも文書記録はないのだから、五十年、百年程度でも過剰な精度かもしれない。
 「範囲出現」は、ペンの滑りとして、遺跡構造物は、一日にして出現しない。多くの人々の労苦の成果である。廃墟となっても消滅はしない。活発な扇状地なら世紀を経ずして堆積土砂に埋もれるだろうが、ここは、そのような大河、奔流の流域ではないのである。埋もれるまでに随分な年月を要したはずである。だれか、地形変動の記録をとっていたのだろうか。それにしても、墳丘墓は、「消滅」などしていない。用語の混乱で、錯乱したのだろうか。

 (2)とにかく大きい
 東西約2キロ[中略]にわたり、後の藤原宮、平城宮、平安宮より大きい。

 定義が混乱している「遺跡」の範囲と比較したのは、平地に整地された条坊構造の城市の内部の一角である。山麓の扇状地で大規模墳墓を包含する(とも言われている)「纏向遺跡」(領域範囲が皆目不明だが)の面積とは、まるで別物/異次元であり、子供の口げんか(賈孺争言)でもないから、どっちが大きいか比べられない。つまらない御国自慢に付き合っていられない。

 (3)外来系(大和以外)の土器が多い
 出土土器の約15~30%にのぼり、[中略]外来系土器の49%が東海で、山陰・北陸17%▽河内10%▽吉備7%――と続く。

 「範囲」談議と見えない。真意不明の「ヤマト」を持ちだして、内外を仕切っているが、これら地区名は、随分後世に定義されたはずであるから、三世紀当時には、意味を持たないのである。要するに、纏向集落の権力者にとって、これらの地域は、権力圏外、異国だったと主張しているのだろうか。

*内外区分の不確かさ 2024/09/09
 ちなみに、素人考えをお許しいただけるなら、纏向遺跡の「大王」が、「東海」系の出自であったとしたら、歴史上のその時点で、「東海」は「纏向遺跡」に包含されていた、あるいは、その逆で、この地は、「東海」と言うことになるから、どちらの見方をしても、「外来」の定義を外れているように見られる。そのような形勢では、当然、東海系の土器制作技術が渡来しているだろうから、その場合も、「外来」の定義を外れているように見られる。

 (4)農耕の形跡がない
 弥生集落は鍬(くわ)や鋤(すき)が出土し、中でも田畑を耕す鍬が多いが、纒向は土木工事に使う鋤が圧倒的に多く、田畑はほぼなかった。

 「範囲」談議と見えない。弥生集落は、水田稲作で生計を立てたと理解している。論者は、「纏向遺跡」は弥生集落遺跡ではないと決め付けて、農地らしき場所を避けて発掘しているのではないか。長年に亘り、卑弥呼金印発掘に身命を賭したから無理ないと思うが、「農耕の形跡がない」と断定していいものか。

*にわか扇状地と潤沢な纏向渓流の幻想
 「纒向遺跡は、纒向川の扇状地に[中略]全く前触れもなく出現するんです」。[中略]纒向の立体地図を見ると、幾筋もの川と川の間の微高地を利用しているのがわかる。

 何の根拠があって、太古のことを物々しく断定しているのか不明である。基本的な考察に立ち返ると、「扇状地」は、河川分流の砂礫堆積物の積層であり、本来、堅固な地盤を要する大形建物の造成は困難である。また、河流に交差する「径」が造成困難であり、物資の輸送/人員の移動が困難である。現地は、三輪山山麓の扇状地なら砂礫が多く保水できず灌漑が困難である。ついでに言うと、現地は、雨季の河川氾濫で知られている。ため池兼用の環濠無しでは灌漑も治水もならない。大規模聚落は、極めて困難である。
 むしろ、纒向川は三輪山麓に扇状地など形成せず、既存の平地を削って渓谷を形成して流下していたように見える。それなら、西方の沼地が次第に埋まって、今日の盆地西部の低地帯に至ったと見える。
 弱㋒するに、太古、前史時代以来、長期間を要した地形形成のはずであるが、3世紀時点でもどのように形成されたかという根拠はあるのだろうか。全域で、出土物の放射性炭素法検定を実施した上で言っているのだろうか。それとも、現代巫女に頼った神がかりなのだろうか。

 提示の現代地図からは、纒向川がJR巻向駅方面に北流していたと見て取れない。物の役に立っていない。

*「纒向の立体地図」公開回避の怪 2024/09/06, 07
 「纒向の立体地図」は、紙面掲載されたもののウェブ記事に表示されていないので、多額の費用を投じたと思われる「立体地図」の単なる紹介画像を評価しようがない。夕刊紙面の(不出来な)画像から判断すると、氾濫蛇行の果てに形成されたとみえる、河流に遮られた中洲状の堆積地に、どのようにして、かくも壮大な「遺跡」が造成されたか、想像を絶している。通常、地盤が不安定な、災害多発地域に「大型建物」など構想しないはずである。
 常識的に考えて、渓流の浸食、扇状地の堆積何れにしろ、タップリした水量で、滔々たる流速が無ければ、形成されないものであり、表示されているような、湿原とも見える「水郷」風景は、大河淀川の中下流を見ている感がある。
 ということで、紙面から見て取れる水郷地帯を「復元」した根拠を伺いたいと思うものである。

 根拠が確かと思えない「立体地図」 に多額の公費を投じる以上は、多年の宏大な発掘成果に基づいた考証が提案されたものと見えるのである。是非、御公開頂きたいものである。

 ちなみに、別の機関で別途作成された動画では、堂々たる大運河の水運が描かれている。絵を描いて誤魔化すのは、不合理である。

                                未完

新・私の本棚 番外 毎日新聞 【松井宏員】散歩日和 奈良凸凹編 大倭/1 3/3

散歩日和 奈良凸凹編 大倭/1(奈良県桜井市)「歴史の鍵穴、纒向遺跡」毎日新聞大阪夕刊4版[特集ワイド]2024/9/4
私の見立て ★★★☆☆  場違いな力作 前途遼遠  2024/09/05-09

纒向はどんな遺跡だった?  大型建物群、ホケノ山古墳、箸墓古墳

 「どんな遺跡だった」かは、文法、時制無視の悪文である。二千年前「纏向」は「遺跡」でなく、かくかくたる建物と墳墓であったと見える。一方、現地に大形建物群は現存/遺存せず、柱穴から画餅が描かれている。墳丘墓は、或いは復元され、或いは、放置されていて、「遺跡」と呼べるかもしれない。

*「都市」無き世界の「性格」不良
 「田畑がないということは、食料は外から供給されていた。[中略]大和以外の地域の人々が恐らく定住しており、列島規模で纒向を目指していた。多種多様な人が集まる都市的性格が強かったと思いますね」

 氏は、恐らく、人々の「性格」分析を図ったのではなく、現代で言う「都市」(とし)の性格(意味不明)をうかがわせる地域聚落(とは言っていないが)を臆測したのだろうが、どうも、「都市」(「とし」は、とても大きなまち。例えば、100万都市)なる時代錯誤の代物が当時存在したと主張しているわけではないようである。この部分は、別人の妄想のようである。「魏志倭人伝」の叡知に頼るなら、迷うことなく、普通に「纏向国邑」と呼べるのだが、中国語を解せず新語を発明する習性が、国内古代史の用語を錯綜させているから、普通の理解は通らないのかもしれない。

 当時、電話も高速道路も電車も学校もない。食糧供給機構など存在しない。水道も、新聞、テレビもない。「多種多様」とは、今日言う「多様性」の事か。

 それにしても、「纏向国邑」に、食料や薪炭の集散市場(いちば)「都市」(といち)なるライフラインはあったのか。なかったとしたら、飢餓が蔓延するのは避けられない。傷ましいことである。ともあれ、氏は、別人の新書の悪例のように墳丘上の「公設市場」の幻影は見ていない。ここは、悪例と比較すると健全である。

 都市と共に、箸墓という巨大前方後円墳が[中略]突如出現する。[中略]

 それにしても、「大和以外の地域の人々が恐らく定住しており、列島規模で纒向を目指」すとは、夢想より妄想に近いと言われそうである。いや、当時の人口統計は、一切存在しないから、何処の人が住んでいたか知る方法はない。「恐らく」などと呪文を振らなくても、否定されることはないのは明らかである。ちなみに、ここまで、「大和」がどこを指すのか不明であるから、一段と、なんの「恐れ」もないのである。それにしても、食料供給源と想定されている「外」も、「以外」も、意味不明である。言うまでもなく、記者が書き上げた地の部分はともかく、「発言引用」は、この発言にとどまらず、その場限りのものと思われるから、全体として、場当たりな憶測であるのは明らかである。ことさら「恐らく」と逃げを打つ意図が不穏である。

 列島規模」と言う方(かた)も言う方(かた)だが、担当記者先生が、口頭でレクチャーを受けて、問いかえしもせずに玉稿として、堂々と天下の毎日新聞の紙面に書かれると、目が眩んで朦朧としてくる。古代纏向に人口爆発があったという御高説の根拠も不明である。言うまでもないが、当時、「箸墓」などという名付けなどされていなかった。原稿推敲どころか、ホロ酔い「酔稿」なのだろうか。

 「いずれの要素も弥生時代の奈良盆地には見られず、[中略]一気にジャンプしています。その要因は外部の力だったのかもしれません」

 ここで乱入している「弥生時代の奈良盆地」も、趣旨不明である。現代で言う「奈良盆地」なる地形は、湖沼の枯渇などは関係なく、時代を通じて不変と見える。その場その場で、言い替えるのは、口から出任せの印象を与え、信用を無くすだけである。
 既存の文章を囓り取りしているため、「要素」、つまり、必須の構成要件が明言されてないのは、たいへん胡散臭い。「ジャンプ」しようにも、踏切板が不明ではどうしようもない。まして、「外部」陰謀説は、けったいである。

 結局、氏の持説らしい「ヤマト王権東海起源」説の捏ね上げであるが、根拠は、遺跡遺物の「土器」に東海由来と見えるものが多いという事なのである。
 日用「土器」は、雑貨「商品」であるから「ある」ところから「ない」ところに、自然に流れ着いたと見る方が自然ではないか。それとも、東海勢力の兵団が、大挙進入して纏向に居着いたのか。もっと、普通の言い方で、わかりやすく主張できないものか。

 同様の言い方で言うと、楯築の特殊器台は、雑貨「商品」なのか聖器/祭器なのかはともかくとして、何とか渡来したかもしれないし、楯築の集団が大挙進入したとも見える。拘わっていたのは、先ほどまで氏が述べていた「地域勢力」であって、地理概念である「地域」などでないのは当然である。用語を動揺させて、読者の眩暈(めまい)を誘うのでなく、口を慎むべきである。

【松井宏員】

 ■人物略歴 梅林秀行(うめばやし・ひでゆき)さん
 京都高低差崖会崖長。京都ノートルダム女子大非常勤講師。フィールドワークを通じて都市の歴史を研究する。[中略]

◯まとめ
 要するに、本記事は、考古学者ならぬ博物学者である梅林氏の素人考古学談議を、素人ならぬ新聞記者が、専門家としての技巧を尽くして、一般読者向けに文書化したものと見える、全体を通じた視点、用語の動揺は、梅林氏の「私見」のうろ覚えの口頭発言の用語、論理の乱れによるものなのか、複数の別人の個性的な所見の混入したものなのか、松井記者の見識に基づく勝手な書換なのか、善良な読者を苦しめるものである。

 例えば、目前の「遺跡」と古代の「地域集落」が、どう関連するのか、その場その場で動揺し、混濁しているのでは、眩暈が生じて卒読に堪えない。

*ご注意 2024/09/06
 当初、紙面掲示された「纏向遺跡の立体地図」について論評していたが、ウェブ版では削除されているので、記事本文に対してコメントしている。当然、取材時に撮影許可を得ていたはずなのだが、なぜ削除されたか趣旨不明である。多額の公費を投資して制作された「立体地図」の単なる紹介の公開を憚る意図が不明である。

                                以上

2024年9月 5日 (木)

毎日新聞 歴史の鍵穴 地図幻想批判 7 吉野宮の悲劇 1/2 再掲

  大海人皇子の吉野宮 天智の宮の真南か
 私の見立て☆☆☆☆☆ 飛んだ早合点   2016/11/17 再掲 2024/04/17, 09/05 

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

◯はじめに
 いや、懲りない(Die-hardest)というか、まだまだ(Yet yet more)と言うか、何というか、また、とんでもない記事が出てしまった。専門編集委員殿は、御自分の論説の破綻を全然然理解していないようだ。

*不吉な開始
 今回は、タイトルからして不吉である。「大海人皇子の吉野宮」と所有格で書かれているが、天皇でも無いものが「吉野宮」を所有できないのは自明である。明らかに「斉明天皇の吉野宮」とでも呼ぶしか無いものである。

*不当なこじつけ
 それにしても、積年の地図妄想が昂じたのだろうか、突然、権威ある全国紙の権威ある専門編集委員によって高らかに「吉野の宮」に比定された金峯山寺も大変な迷惑である。現在は、一見すると仏教寺院のような寺号であるが、山岳信仰から発した修験道の本山であり、俗世から離れた修験道の精進潔斎の修行の場であったと信じるものである。

 それが、実は、齊明女帝の行幸先として創設されて供宴の場などに供されていた、持統女帝は、三十三回も金峯山寺を訪れていたなどは、ありえないのではないか。俗世の悪を逃れていたはずの精進潔斎の場が、天皇家の建てた場での天皇家の御用であった、つまり、俗世の取り付いた不浄の場であったのを隠していたことになる。とんでもない言いがかりではないかと危惧する。

*酷冷の山上
 因みに、金峯山寺は山上にあり、冬季の気象は酷寒と言うべきだろう。南に行くほど温暖な外界と異なり、奈良盆地南端の吉野界隈は、南に行くほど、高度が募るので、寒冷地になる。
 現地に到る行程の急峻さを言うと、電車は急勾配を登れないので、近鉄吉野線は麓で終点であり、ロープウェイに乗り換えなければ登れない。当然、古代に於いて食料や水の搬入は至難の労苦である。

 歴史的事実として「金峯山は中国で書かれた『義楚六帖』(九五四年)にも「未だかって女人が登ったことのない山で、今でも登山しようとする男は三ヶ月間酒・肉・欲色(女性)を断っている」と記されていると指摘しているサイトもある。
 いや、当ブログ記事は、修験道に於ける女人禁制の是非を論じているのではなく、歴史的事実を指摘しているだけであると理解頂きたい。「大峯山・山上ヶ岳の女人禁制はどうして生まれたか?」: 山人のあるがままに 

 同記事の筆者たる専門編集委員は、いずれかの安穏な書斎で、PC/MACの操作でこの場所を見つけて、温々とした書斎で意気揚揚と記事を仕上げたのであろうが、現地は、ぼちぼち冬支度に勤しんでいるはずである。
 いや、定説となっている下界の「宮滝」の地すら、冬季は、露天の水たまりが凍結するような世界である。こればっかりは、現地体験してから書いていただきたかったものである。

*「決めつけ」の宮滝を棄てた「決めつけ」
 それにしても、日本書紀の記事の不確かさを知りながら、書紀に書かれている「吉野宮」は、現代地名の吉野にあったに違いないと強引に決めつけ、河川交通の便がありそうに見える定説の宮滝の比定地を捨てて、険阻な山中の金峯山寺に比定するという姿勢自体、無理の塊である。
 修験道の場ということ自体、交通の便がないことは自明であり、今日の交通事情を見ても、観光名所でありながら、近鉄特急が乗り入れているのは山麓附近で終点であり、以下、吉野ロープウェーで100メートルあまりを上るのである。

 そのような場所に、持統天皇が時期をかまわず33回(天皇在位期間中の「行幸」は31回とのことだが)も行幸するとは、どういうことなのだろうか。天皇の行幸は、一人二人の話ではなく、五十人、百人で済まない関係者ご一行の到来である。まして、高貴な身分の方は、背負ってでも登らないといけないのである。

*不可能な強行軍
 また、今回の記事を信じるなら、齊明天皇は、三月一日の吉野の宮での供宴の後、当然一泊したはずであるが、三月三日には、飛鳥まで(直線距離で15㌔㍍というものの、直線で移動する道がないのだから、この数字自体に大した意味はないのだが)帰り着いただけでなく、道を改めて(直線距離で70㌔㍍というものの、この数字自体に大した意味はないのだが)近江に着いたというのである。
 ちなみに、(当時知られていない)太陽暦の西暦年に、太陽暦と月日がずれている陰暦(当時現役の暦制だから、旧暦というのは間違っているが)(旧暦)の月日を繋ぐ「愚」は、とんでもない時代錯誤であり、記事の権威をぶちこわすが、この際追究しない。

 さて、一日35㌔㍍は、平坦な道路で健脚の成人男性が、手ぶらであれば、何とか踏破可能だろうが、道だけとっても、曲折起伏険阻の困難があって、実感は、何倍にも達する筈だが、当方の手元には資料が乏しいので、よくわからない。どのような交通手段、運搬手段で、一行は、両地点間を移動したのだろうか。当初書き漏らしていたが、女帝以下の貴人は、徒歩や乗馬の筈はなく、馬車、牛車、輿などで移動したはずであるから、一段と、行程は難渋したはずである。牛馬は、蹄鉄を打っていたのだろうか。強行軍を、乗り継ぎなしに乗りきったのだろうか。疑問が絶えないのである。

 以上、えらそうに書いてきたが、別に、現地に行って自分の目で見て、踏破したわけではなく、つまり、現場を実体験していないので恐縮だが、Google Map などのネット情報と一般常識に基づいて思索したものである。

 ということで、ちょっと考えただけでも、とんでもないお話であるが、時代背景や修験道の来歴の考察もなしに、金峯山寺に「吉野の宮」に比定する私見が、そのまま毎日新聞の専門編集委員のご高説として紙面に載っているのである。
 試練ならぬ試錬で叩かれ鍛えられた記事は信用できるが、軽率な思いつきで書き立てられ、批判されていない記事は、信用できないのである。

 個人的な発想であれば、何をどう考えようと個人の自由かも知れないが、全国紙の文化面にここまで執拗に自説を書き連ねるというのは、どんな神経、倫理観なのか不思議である。

 「専門編集委員」の特権で、記事内容について無審査で掲載しているのだろうが、「専門編集委員」の記事は、毎日新聞社の記事である。毎日新聞社の名声にドロを塗るような記事を延々と掲載している意義は、一介の定期購読者として理解できない。

未完

 

毎日新聞 歴史の鍵穴 地図幻想批判 7 吉野宮の悲劇 2/2 再掲

  大海人皇子の吉野宮 天智の宮の真南か
 =専門編集委員・佐々木泰造
 私の見立て☆☆☆☆☆ 重大な権利侵害の疑い   2016/11/17 再掲 2024/04/17, 09/05

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

◯本論
 当連載の問題点の内、執拗なものは、毎回同一症状なので、本来は、またやっている程度で済むのだが、それでは、書いていてたまらないので、ちょっとずつ視点を変えて指摘するのである。それにしても、どう言えば、理解できるのかと困惑しているのである。
1.プログラムの権利侵害
 今回も、当記事で「カシミール3D」を引き合いにしているが、プログラム作者の権利を侵害していないだろうか。
 プログラム作者は、現代の環境、つまり、国土地理院の地図・地形データなど、動作確認済みのデータを使用する際には、表示対象となっている地形を正確に表示するように努めたはずである。(当然果たすべき機能として、暗黙の保証がされているのである)しかし、誰が考えても、それ以外の条件については、何の保証もできず、従って、責任もとれないはずである。

 いかなる地図データもない7世紀について、現時点の地図データを適用して地図化することは、「カシミール3D」の保証外と言うか論外であろう。また、地図上の遺跡、遺構の位置については、さらに明らかに「カシミール3D」の保証外である。

 つまり、プログラム作者の保証できないような利用方法でありながら「カシミール3D」で作図したと表明して、読者が、記事の主張は(信頼性に定評のある)「カシミール3D」で確認済みだから根拠がある、と誤解させるのは、欺瞞行為であろう。

 まして、ここに示されているような使用方法は、「カシミール3D」のいわば改造に類するものであり、改造されたプログラムの動作結果に「カシミール3D」の名を冠して表示するのは、プログラム作者の権利の重大な侵害と思う。

 従って、常識で考えればわかるのだが、この記事で示されている図や距離、角度の数値は、同記事筆者である専門編集委員が「勝手に」、つまり、記事筆者が自己の責任の基に勝手に取り出したものであり、その旨明記して、「カシミール3D」に責任がないこと、つまり、「免責」を明記しなければならないと思うのである。

2.データベースの権利侵害 
 「カシミール3D」は、自身の地図・地形データを持たず、何れか動作確認済みの地図・地形データを利用するものであるが、ここまでの連載記事に、地図・地形データ提供者の表示がないのは、まず第一に不当なものと考える。

 記事に掲載された地図、角度、距離などが、データ提供者の地図・地形データを利用したことが書かれていない上に、そのデータ以外のデータ、つまり、遺跡遺構の位置など、追加した部分の地図・地形データ提供者が書かれていないのである。

 さて、データ提供者が提供している地図・地形データは、言うまでもなく現時点のものであり、その正確さについては、地図・地形データ提供者が責任を持って保証しているものと信ずる。

 現代の地図データの信頼性は、測定時と現在の間については、校正され、ある範囲内の精度が保証されていると思うのだが、古代地形については、その時点で測定していないから、地図データがなく、保証できないのが当然である。
 現時点の地図・地形データを古代に適用して勝手に古代の地図を描くのは、地図・地形データの時間要素の改造にあたり、誠に勝手な使用であり、現代の地図・地形データ提供者が提供しものだと暗に表明するのは、地図・地形データ提供者の権利の侵害である。

 現在まで連載記事の地図などに使用されたのは、おそらく国土地理院の地図・地形データだから正確なものと読者が想像すると、読者は、国土地理院は、現在の地図・地形データが7世紀にそのまま適用できると保証したと勘違いしてしまうのである。

 過去の批判でも言ったのだが、当記事で「カシミール3D」を使用しているとだけ言って、その後、0.1度単位の高精度の数字を得たと書くと、それは、「カシミール3D」が、精度というか信頼性を保証していて、記事筆者は、それを信じて書いた、となってしまうのである。計算結果の数字が間違っていたら、それは、「カシミール3D 」ないしは影に隠れている国土地理院の責任になってしまうのである。誠に、無責任な態度である。

 常識で考えればわかるのだが、この記事で示されている図や距離、角度の数値は、記事筆者たる専門編集委員が「勝手に」、つまり、自己の責任の基に勝手に取り出したものである旨明記して、地図・地形データ提供者、おそらく、国土地理院に責任がないこと、免責を明記しなければならないと思うのである。

 以上を総括すると、一連の記事は、古代遺構が地図上で直線上にある、などの地図上の数値データによる判断だけを論拠にしているから、それらの数値データが科学的な根拠を持たない、いわば、記事筆者のお手盛りの捏造データであるとしたら、これまでの連載で提示されたすべての仮説が捏造となる。とんでもない話である。

 毎日新聞は、科学的な根拠の提示されていない、妄想としか言えない記事をなぜ、延々と掲載し続けるのだろうか。専門編集委員の名の下に掲載された記事について、毎日新聞社が責任をもつというのはも当然の理窟に思える。

 当方は、個人の誤りは当人が自力で気づいて訂正しない限り解決しないという考え方をしているから、「自力で気づいて」くれるように、毎回穏やかに綴っていたが、その気配はなく、今回は、また一つ当方の忍耐の限界を超えたようである。遂に、プログラム作者やデータ提供者の権利侵害、つまり、犯罪行為だと指摘せざるを得ないところに来ているのである。

以上

2024年5月31日 (金)

新・私の本棚 番外 「今どきの歴史」 2019/07 不思議な視点と視覚 1/3

私の見立て★★★★☆ 但し、ホラ話は除く          2019/07/24 補追 2024/05/31
百舌鳥・古市古墳群(大阪府) 「最辺境」社会の合理性

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

□総評
 今回の題材は、国立歴史民俗博物館松木武彦教授(日本考古学)(以下、歴博、論者との略称ご免)のご高説の紹介らしいのですが、記者の史観が混じり込んでいるか不明なので、見当違いな批判があればお詫びする次第です。

*全知全能幻想か
 論者の専門は国内考古学で、普通、(日本)列島内遺跡、遺物に関するご高説と思いましたが、堂々と「世界史的激動」であり、圏外かと危惧します。

 記者の言葉ですが、「当時、寒冷化で地球環境が悪化し、世界的にも大転換期だった」と時代錯誤の神がかりが述べられ、失礼ながら、「当時」の列島内遺跡、遺物にどう露呈しているか不思議です。論者の提言かどうかは別としても、とんでもない空想がかたられているという印象を禁じ得ません。
 素人目には、法螺はほどほどにしないと信用をなくすと言いたいのです。

□誤解招く「世界」通観の書き出し
 そのあと、豪快に世界史通観ですが、首を傾げっぱなしです。論者が博識を披瀝しても、説明は概してずさんで、日本考古学には的外れでしょう。世界」的と大風呂敷を広げたものの、南北アメリカ、アフリカ、そして、インド亜大陸、南極大陸、オーストラリア大陸、等々には何も触れていません。言わずもがなで不可解です。

 そのあと、「東夷が漢墓制を真似た」と急に重箱隅になり不首尾です。「漢」でも大規模墳墓に豪華副葬品を収めた皇帝もあれば、文帝のように薄葬を命じた皇帝もいます。漢を中原政権と捉えるなら、魏創業者曹操が後漢皇帝墓の盗掘を目撃(実施)したことから、薄葬を遺命による国是とし、墓所は秘匿されたので、東夷が真似ようにも真似られなかったのです。

 いやはや、杜撰のてんこ盛りです。言わない方が良い余談です。

*世界崩壊の津波の余波
 「秩序が崩れて集団間の競争が激化しました」と無責任に言い放つのですが、どの世界、いつの話で、それは、どのような遺跡、遺物で立証されるのでしょうか。それとも、ただのほら話、「冗談」なのでしょうか。

 論者は、神がかりの筆致で、当時、つまり、紀元四世紀あたりの「世界」を描写し、それが、列島に影響を及ぼしたと言いますが、列島の地域支配者が、ヨーロッパ等の状勢は論外として、中原墓制の変化を知り得たか不思議です。
 まして、列島に及んだ余波の結果、銅鐸が廃棄されたというのも、意味不明です。何か、廃棄儀式の能書きでも発掘されたのでしょうか。

*破格の論議
 『「劇的」な変化が連続しておこった』とは、世にも不思議な言い回しで、「大状況」も、「状況」の意義を錯誤の上に、何を「大」と言うのか不可解です。

*ご冗談でしょう
 全体として、「ご冗談でしょう」です。脈絡のないほら話は、逆効果です。記者は納得したのでしょうが、歴博の日本考古学とは、根拠も何もないまま、素手でこのような夢想を紡ぎ上げるのが専門なのかと言いたいところです。

■解答なき問題
 ここで、読者に問題が投げつけられ、意味不明で解答がないのです。
 「世界」が、現代語の全地球、全宇宙なのか、戦国時代の「天下」なのか、盆地世界に閉じ込められた井蛙の井戸なのか、意味が不明では、凡人には応答できません。

                                未完

新・私の本棚 番外 「今どきの歴史」 2019/07 不思議な視点と視覚 2/3

私の見立て★★★★☆ 但し、ホラ話は除く          2019/07/24 補追 2024/05/31
百舌鳥・古市古墳群(大阪府) 「最辺境」社会の合理性

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*墳丘墓巨大化術の楽観と達観
 論者は、大規模な墳丘墓は在来の封土、土饅頭を大きくしただけだから、在来技術の延長線で施工できたとあっけらかんとおっしゃいますが暢気すぎます。
 二㍍の墓は近所の寄り合いでできても、二十㍍の墓を地区全体で、大勢でよってたかって作るには、縄張りやら線引きやら、工学的な指図が必要です。親方一人で仕切れず専門集団が必要です。二百㍍の墓は、それこそ、近郷近在以遠を駆り立てて数年にわたる大事業で、高度な政治的指導力が必須です。高度な理数概念を駆使した本格的技術集団が必要です。とても、とても、素人の成り上がりではこなせません。長年にわたって集団を維持するためには、世襲工人集団となります。
 「土は盛りやすい」と楽天的ですが、盛りやすいと崩れやすいのです。墳丘墓が巨大化すれば災害も巨大化し、とても、素人にはできないのです。

*拡大の算術解
 規模が拡大すれば、どこかで、単純な拡大主義は、大きく破綻します。
 二十㍍墳丘墓は二㍍の十倍でなく、資材所要量は、数百倍に上ります。
 二百㍍墳丘墓の資材所要量は、二㍍の数十万倍から百万倍に上ります。資材所要量と所要労働力は、ほぼ比例関係であり、資材と労働力が大幅に増大すると、工事現場への輸送距離、人員の移動距離が、それにつれて急激に増大します。

 厖大な人員の宿舎が必要になり、食糧供給も厖大です。いくら生前着工の寿陵で、自身の采配で、計画的に十年は越える長期の巨大工事ができても、その間の国政は、維持しなければならないのです。
 かくして、為政者には超人的な行政手腕が求められたはずですが、各地で、代々受け継がれたという事は、それを支える職能集団が列島に采配を振るったという事のように思うのです。
おそらく、文字教養どころか、理数教養まで備えた外来の集団が、当時の各地に「文化」を齎したものと思うのですが、歴博の日本考古学は、そのような考えをしないことにしているのでしょうか。文化は、人が言葉と行いで伝えるものであり、風に乗って漂い来るものではないのです。
 論者は、まさか古代史を坦々たる上り道のように見てはいないでしょうが、こう簡単に見ただけでも、凄まじい、険阻な先上がりが見えてきます。俗に右肩上がりと言いますが、自然界には、これほど上がる肩はないのです。

*不可解な階級指標
 次いで、当時、列島に「中国風」の絶対的な階層社会がなかったと認識しながら、広くゆるやかな階層構造があったとしていて、意図不明です。自認しているように、層は不連続で層間に仕切りが入ります。
 文書のない世界で、そのようなきめ細かい階層をどう規定し、運用していたのでしょうか。階層が一段上がれば墳丘墓の各部はどう変わり、どのように施行され、どのように測量したのでしょうか。
 歴博の日本考古学は、衛星軌道から地上を観察しているようですが、伝統的な考古学のように、地を這い、なめるようにして大地と対話して地道な考察をしないのでしょうか。

*見えない規模格差
 階層の具体像が不明なまま、そのような階層構造であったため、階層の規模を明確に視覚化するために、頂点たる「王墓」が巨大化したとしています。
 どうにもよくわからないのですが、冒頭に記者が指摘しているように、現代のビルから見下ろしても、王墓の形態や規模は正しく認識しがたいのです。当時、ある土地と別の土地の墳丘墓のどちらが、どれほど大きいのか、構造が どう違うのか、誰が認識したのでしょうか。墳丘墓施工で、どうやって、各部「設計寸法」をきめ、実際に確保したか、不明です。

*時代錯誤
 当時の「国防」を推定していますが、論者専門外の朝鮮半島で不思議な言動があります。「山域のネットワーク」とは、時代を超えてローカルエリアネットワークでも形成していたというのでしょうか。

*巨大化の動機付け
 「大きいことはいいことだ」的感情が巨大化を促しても、厖大な労力と資材で、身の程を知っていたと思わなければ、当時の人々の無分別を根拠なしに蔑視することになるのではないでしょうか。
 家畜の首の鈴が巨大銅鐸に、小振りな銅鏡が直径四十㌢の巨大鏡に化したと言いますが、銅鐸はとうに廃棄したはずで、時代錯誤のご都合主義と見えます。このような安直極まる、子供じみた類推をおもてに立てるのでは、折角の学術的展開を一気にぶち壊す蛇足です。
 続く「中国にはない」とは、文化を知らないものの「蕃習」という自嘲表現でしょうか。

                                未完

新・私の本棚 番外 「今どきの歴史」 2019/07 不思議な視点と視覚 3/3

私の見立て★★★★☆ 但し、ホラ話は除く          2019/07/24 補追 2024/05/31
百舌鳥・古市古墳群(大阪府) 「最辺境」社会の合理性

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

■「東アジア最辺境」の悲劇
 ここで、東アジア最辺境と、時代錯誤の錯辞が出て来ます。
 当時、「アジア」を認識していたものはいないから「東アジア」は錯辞であり、最辺境と言うには、中心、周辺、辺境、最辺境の階層が前提と思われますが、何も説明もないので不可解なだけです。論者の「生徒」は知っていても、一般読者には耳慣れない呪文で、記者が絵解きしなければ、論者の意図が伝わらないのです。報道の者の責務ではないかと考えるものです。

*結語の美
 論者は、記者の前振りに続いて、結語に入ります。
 「文字が本格的に使われておらず」とは、墳丘墓被葬者の視点でしょうか。
 一瞬、めまいに襲われて、戸惑います。「本格的」が律令時代とすると、古墳時代は、何だったのでしょうか。
 論者の言い分で大変もっともなのは、後世人の浅知恵で「合理性」を難詰するのは時代錯誤の錯辞であり、当時の関係者は、時代なり、統治者なりの合理性の最大限の発露として墳丘墓を築いたとの卓見です。

 当時、論者も自認するように、文字がなかったので、中国文化圏の事象として「文化」と呼ぶのは、不勉強丸出しで、不出来ですが、兎に角、『墳丘墓に表現された当時の為政者の理念は、現代語で言う「世界」に誇りうる「文化」である』というのが論者の結論であり、圏外情報の素人くさい前振りで、論者の知性を疑われるような愚は避け、ご自身の錚錚たる学識の核心を披露いただければ、これ以上の知の饗宴は無いと思うのです。

*急転の没落
 いや、折角の結語で、東アジア全体の墳丘墓制が、世界に類のない遺産であると言いながら、全世界を足蹴にするように「人類が二度と持つことのない文化」などと、今後の人類文化の展開に呪いをかける言葉を吐き捨てていて、椅子からずり落ちるのです。ご両人とも、気は確かですか。
 続く記者コメントは、論者の負の遺産を背負って、反知性的な夜郎自大放言で、論者の論考の足を引っ張るのです。
 古代人は、古代人の知りうる世界情報をもとに、最善、最高の合理的事業を行ったのであり、現代人にも知り得ない「残る全世界」の賞賛を押しのけないものであって欲しいのです。

*まとめ
 論者の展開した論考は、日本考古学」の圏外から論拠不明の憶測を述べて、学術的に無法であるとともに、一般読者に対し、誤解を与えるものになっています。歴博は、メディア対応を論者一辺倒にしているのを排して、愚直に学術的な見解を提示できる方を人選して、人を変えた方が良いのではないかと愚考します。
 記者は、論者の展開した論考を、十分咀嚼できないままに、自身の未熟な知性、語彙をなすりつけて、贔屓の引き倒しになっています。
 折角、適確な結語に到着していながら、論者が、夜郎自大な感慨を吐露したのは大変勿体ないところで、記者が大人の分別で適確に舵取りしなかったのが惜しまれます。
 港に入って船を割るのは、水先案内人の不手際です。

*蛇足
 風評の類いですが、巨大墳丘墓は、権力者が圧政を敷き、「奴隷同然の強制労働」を課して次々に完工したとの見方が囁かれています。論者は、当時の権力者に妥当な合理性があってこれだけの大工事を成し遂げたと弁護していますが、説得力に欠けているように思われます。
 私見では、当時の税制として、収穫物の貢納、産物の貢納以外に、労力の提供が唱えられていて、権力者は、公共の土木工事に民衆を動員する権限を有していたのですが、もちろん、農作業に支障を来さない合理的な動員期間はあったでしょうし、メシと寝床は支給したでしょうから、それは、「奴隷同然の強制労働」 などではないのは明らかです。 農民を酷使する権力者は、いずれ、打倒されるものです。
 考古学者は、必ずしも当時の権力者の合理性を弁護する必要は無いでしょうが、世界遺産に登録する上では、黒い疑惑は糺す必要があるように思えるのです。「いたすけ」古墳が、公然と、益体もない現代遺物であるコンクリ橋を、世界遺産の保存対象にしているのと並ぶ「汚点」でしょう。

                                 完

2024年5月 9日 (木)

毎日新聞 歴史の鍵穴 意図不明な「宗達」新説紹介記事 補足 三掲

 私の見立て☆☆☆☆☆               2016/06/17 2024/04/30, 05/09
 今回は、当ブログ筆者が毎月躓いている毎日新聞夕刊文化面の月一記事である「歴史の鍵穴」の6月分記事に対する批判記事の補足である。

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

◯始めに
 前回記事は、いきなり、切り口上で、麗々しく題した「風神雷神屏風」の意味として、「日本美術史研究家の近刊書籍の打ち出した新説を紹介している記事のようである。」と書きだして、自分なりに「専門編集委員」の作品として出来がまずいと思われる点を率直に指摘したものであり、ここまでのところ、撤回すべき内容は見つかっていない。

*補足の弁
 ここで、補足したいのは、「林進氏の新説が明確に提示されていない」と批判した点であるが、読み直してみると、冒頭部分に、一応書かれていることに気付いたので、明確でないと感じた背景を以下に述べるものである。
 そのためには、当該部分を忠実に引用する必要があるので、出典を明示したうえで引用させていただく。この点、著作権者の了解をいただけるものと確信している。

 「江戸初期の絵師、(生没年未詳)の傑作「風神雷神図屏風(びょうぶ)」(京都・建仁寺蔵)は、学者で書家、貿易商だった角倉素庵(すみのくらそあん)(1571〜1632)の供養のために描かれた追善画だった。大手前大学非常勤講師の日本美術史研究家、林進さんが史料に基づいて通説を見直し、近著『宗達絵画の解釈学』(敬文舎)でこんな新説を打ち出した。」

 これでは、字数が多く、紙面では8行+1字の長文の上、必要な説明とはいえ、大量の説明やかっこ書きが割り込んでいて、文の主題が目に入りにくいのである。と早合点の咎の言い訳をさせていただく。
 とはいえ、批判するだけでは、改善の手掛かりにならないので、素人なりの再構成を試みた。
 引用ならぬ粉飾
 俵屋宗達の代表作とされる「風神雷神図」は、京都・建仁寺所蔵の国宝として有名である。その制作動機として、通説では、京都の豪商が、臨済宗妙光寺に対して、その再興の際に寄贈するため製作を依頼したとされている。また、現在所蔵している建仁寺は、妙光寺の上位寺院であり、いずれかの時点で上納されたものと推定されている。
 日本美術史研究家 林進氏(大手前大学非常勤講師)は、近著『宗達絵画の解釈学』(敬文舎)で、近年公開された資料を基に「風神雷神図」の独特の構成、彩色を新たな視点から分析し、宗達は、芸術上の盟友であった角倉素庵の追善画として制作したとの仮説を提示している。
 *角倉素庵(すみのくらそあん)(1571〜1632)は、江戸時代初期の貿易商であり、のちに隠居して、学者となった。書道では、本阿弥光悦に師事したが、自身で角倉流を創始するほどの高名な能書家であった。

 こう切り出して、興味を書き立てられた読者に、以下の記事を書き続けるのだが、基本的に、通説と新説を対比し、新説の根拠を明快に提示するものではないかと思う。いくら優れた学説であっても、紹介者として、疑問に思う点があるはずであり、それは、率直に書くべきである。

 例えば、上にあげた改善例では通説とされている制作動機に触れているが、この説に従うと、少なくとも、当初、妙興寺方面からの製作依頼、つまり、多額の資金提供/手付金が契機になって屏風として制作されたという経緯、および、現在の建仁寺に所蔵されに至った経緯が、滑らかに説明されている。記事に紹介されていないが、林氏も、この点は否定していないことと思う。
 つまり、新説の趣旨は、通説の否定/克服ではなく、宗達が、制作依頼に応じて屏風を制作する際に、追善の思いを込めたというべきではないだろうか。

 ついでながら、角倉素庵の極度の窮乏は納得しがたいので、以下に書き留めると、五十歳を目前にして家業を長男に譲り、ついで、資産すべてを次男をはじめとした親族に譲り渡して、完全に隠棲に入ったとはいえ、「嗣いだ家業が繁栄している実子二人が、重病に苦しんでいる実父を見捨てて、無一文の困窮状態に放置した」とするのは、どんなものか。親が放蕩息子を勘当して縁を切ることはあっても、子が親と縁を切る法はないはずである。

 まして、長男は玄紀(京角倉家)、次男は厳昭(嵯峨角倉家)と、それぞれ、立派に家業を継いで、社会的にその地位を認められているから、最低限の親孝行として最低限の支援はしたはずである。直接の支援を拒絶されたとしても、宗達を介した出版支援など、陰ながらの支援をしなかったとは信じられない。

 今回の新説の補強を要するポイントは、宗達が、素庵にそれほどの哀悼の念を抱いた背景の推察であろう。
 素人考えでは、素庵は、自身とほぼ同年、つまり初老の宗達が、ともすれば、扇子製作の分業の中の一介の「絵師」職人として埋もれていたところを、自身の書家としての高名を生かした共作により、世評に上るように引き立てたものと思う。
 素庵との共作により、芸術家「絵師」として世に広く知られることになり、ついには、朝廷から「法橋」の称号を得て、多くの大作を製作する機会を得たことについて、とても返礼できない恩義を感じていたのではないか。

 念のためいうと、当ブログ筆者は、世間並みの好奇心と知識を持っているだけであり、以上の議論は、当記事を書き綴る傍ら、Wikipediaを購読してた得たにわか作りの知識を基に、つらつらと推察したものに過ぎない。
 せめて、こうした考察が付け加えられていなければ、学説紹介にならないのではないか。毎日新聞の専門編集委員に求められるのは、その令名に相応しい充実した記事ではないかと思うのである。

 毎度のことであるが、当ブログ筆者は、毎日新聞の編集長でも何でもない。素人の放言だから、別に気にすべきものでもない。ただし、毎日新聞の紙面にこうした記事を公開し続けることは、毎日新聞に対しても、記事筆者に対しても、「品格」の低下を感じさせてしまうのではないかと危惧しているのである。

 因みに、素庵の遁世の原因は「ハンセン病」罹患のせいと語られているが、当時「業病」として忌み嫌われていたというものの、記事の主題との関係の深いものではないから、中途半端に病名を出すより「難病」程度にとどめたほうがいいのではないか。読者が詳しく調べたければ、自力で調べればいいのである。

以上

2024年5月 1日 (水)

毎日新聞 歴史の鍵穴 批判 2014/10 再掲

                      2014/10/15 2024/05/01

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

◯始めに
 歴史学者諸賢の学説は、拝聴することにしているのだが、毎日新聞(大阪)夕刊文化面の連載記事『「歴史の鍵穴」 難波津と安積山 紫香楽宮を挟んで両極端』は、ちょっと/猛然と暴走したように見えるので、指摘させていただきたい。
 いや、これまでも、「歴史の鍵穴」氏が展開する牽強付会の意味付けには、ちらちら/毎度毎度首をかしげていたのだが、世間に良くあることなので、見過ごしていたものであるが、今回は、あんまりにも、あんまりなのである。

*首尾不明の迷走
 本日の記事の導入は、宮町遺跡で発掘された木簡の両面に書かれている難波津の歌と安積山の歌の読まれた舞台の位置が、地理的に対極の関係にあるという説である。
 また、記事の最後の部分の導入は、8世紀中期当時の都である紫香楽の宮から見て、難波津は南西の地の果て(断定)であり、安積山は北東の地の果てに近いと書き、記事を締めにかかっている。

 しかし、掲載されている地図を見るまでもなく、大阪湾岸の難波津が「地の果て」とは、何とも、不思議な見方で、とても同意できないのである。
 確かに目前に海はあるが、つい、その向こうには、別の陸地があるのは、漁民には衆知であり、また、一寸、北に寄って、今日言う山陽道を西へひたすら辿れば、下関あたりまで延々と陸地であり、そこで海にぶつかるとは言え、すぐ向こうに九州の大地がある。

 いくら、遙か1200年以上昔の事とは言え、大抵の漁民は、その程度の知識を持っていたはずであり、況んや、漁民達より深い見識を有する都人(みやこびと)は、難波津が地の果てなどとは思っていなかったはずである。

 「専門編集委員」ともなれば、無検閲で自筆記事を掲載できるのだろうが、この程度の中学生でもわかる不審な言い分を載せるのは、どうしたことだろう。

 ここで提示されている地図を見ると、確かに安積山は、遙か北東遠隔の地であり、到達に数ヵ月かかるから、現地確認など思うもよらず、ここが地の果てと言われても、同時代人は反論できなかったろうが、難波津は、せいぜい数日の行程であり、ほん近間である。
 これらの二地点を、対極というのは、字義に反するものである。

 また、大局的に見ると言うことは、さらに縮小した地図を見ることが想定されるが、そうしてみれば、難波津は紫香楽宮のすぐ隣である。ますます、字義から外れてくる。

 斯界の権威が自信のある自説をはるばると敷衍しようとするのは当然としても、なぜ、ここまで、遠慮のない言い方をすると、こじつけの域を遙かに超えた無理な見方をするのか、理解に苦しむのである。 

 今回の記事の説が成立しなくても、前回までの議論に影響はないように思うのである。 

 都の東西に対極があるとする見方に固執するのであれば、安積山が大体このあたりとして、難波津は、地図の左にはみ出して、下関や博多あたりが、距離として適地である。実は、九州に難波津を想定しての発言なのであろうか。
 また、南西という方角にこだわるなら、宇和島あたりであろうか。それとも、いっそ都城か。
 対極をともに想定地に固定維持すると、都は、近畿にとどまることはできず、飛騨高山か飛騨古川あたりに、紫香楽宮の位置をずらさねばなるまい

 そうした、無理に無理で重ねる作業仮説が否定されて退場すると、木簡の裏に二つの歌が並べて書かれていたからと言って、同時代人が、両者の舞台を、地理的な対極に想定していたとは言えない、と言う至極当たり前の意見に至るのである。
 「回答の選択肢から、可能性の無いものを取り除くと、残されたものが、正解である」と古人は述べている。宜なるかな。

 これほど、素人目にも明らかな齟齬であるから、「専門編集委員」と言えども、PCソフトに相談するだけでなく、発表以前に、生きた人間、それも、経済的に利害関係のない人間の率直な意見を仰ぐべきではなかったかと思うのである。

以上

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    正史西域伝解釈での誤解を是正するものです。恐らく、世界初の丁寧な解釈です。
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    サイト記事 『伊作 「邪馬台国・奇跡の解法」』を紹介するものです
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    隋代の遣使記事について考察します
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