毎日新聞 歴史記事批判

毎日新聞夕刊の歴史記事の不都合を批判したものです。「歴史の鍵穴」「今どきの歴史」の連載が大半

2023年11月15日 (水)

今日の躓き「医師」 毎日新聞 早川智 「偉人たちの診察室」の晩節

 「乏精子症? 跡継ぎ悩み」~「産婦人科医師」の救いがたい迷走 (毎日新聞サイト 未掲載)                            2023/11/15

◯はじめに~[タイトルのダメ出し]
 知る限り毎日新聞には、厳格な表記ルールがあるはずなのだが、見出しに難読/異様な単語「乏精子症」が、ルビ無しに出て来るのは、どんなものだろうか。

*医学専門家の迷走~「巻末魔」の粗相打ち棄て
 「戦国武将の自然死」と妄念を口走るあたりから不吉であったが、次に、断末魔ならぬ「巻末魔」。締めでとんだ「粗相」で、後始末に困るのである。「涙」不要。落とし物にせず、お持ち帰りいただきたいものである。

*産婦人科医の迷走
 要するに、いかに斯界の世界最高峰の知識の「専門家」でも、専門外の分野では、ただの素人であり、ここでは、ただの素人が、「専門家」に名案を囁いていて、「専門家」は無批判で信じ込んで、堂々と「与太話」を語っているのである。一人二役の二刀流であるが、ことの愚かしさは、同様である。

 ついでに「専門家」は専門外分野に堂々と口を挟んで、秀吉の晩年、「大阪城」の「奥」に間男を引きこむこと「など」不可能」と、賢そうに断定しているが、当時の実態を知らない後世の素人の「断言」など無意味である。恥を知るべきである。

*不合理の二段重ね
 本論「巻末」で、「専門家」は時間/空間を越えて現代医師が「秀吉」を診断/治療するとおっしゃるが、予測不能な「タイムスリップ」で、身一つで 秀吉の寝間に乗りこんでも、素手で手ぶらでは無力である。大体、言葉も何も通じないのだから、立ち所に惨殺されて、それで「おしまい」である。とんだ与太話である。
 真面目に言うと、「専門家」は、現代医療を支える厖大な「インフラストラクチャー」をお忘れのようである。
 事の始めに、最寄りの発電所、送電網無しには何もできない。続いて、医療機器、医薬品が必要である。診断/治療に訓練人員が多数必要である。総合すると、診断/治療には、不妊症「クリニック」が必要で、ライフラインもサポートスタッフもコミで、地方都市級の体制が必要である。氏は、臨床医療にあたったことがないのだろうか、といいたくなる。間男談義は、馬鹿な素人の戯言ですんでも、こちらは、本業であるから、笑って誤魔化せないのである。真剣な批判は、末尾に譲る。
 ついでながら、素人考えで申し訳ないが、氏の言う「無精子」症には、さらなる高度医療が必要と思うが、素人には何も言えない。

*増しな「代案」
 随分ましな「代案」として、「患者」が身一つで現在世界にやって来たら、「先に挙げた難点」は、ほぼ全て解消するが、自在に史上人物を拐帯する「タイムスリップ」は、産婦人科「専門家」の新発明である。責任重大である。

 氏のとるべき手段は、氏の理解できない「タイムスリップ」先行技術を動員せずに、単なるおとぎ話として、過去人物を呼び寄せて診断/治療し送り返すべきだった。それなら、単なる「寓話」で済むのである。

*「ヒストリー」の傲慢
 どのみち、時間往復移動は、古典的な「タイムパラドックス」の論理パズルがあって「もともと」(?)無理である。「秀吉」が子だくさんなら、以後の「ヒストリー」は別「ストーリー」になり、我々の時代は来ないのである。いずれにしろ、益体もない寓話でしか無い。
 全国紙に無審査掲載される特権は、もっと慎重に扱って欲しい。駄文の行数/字数稼ぎは無用としたい。
 往年のSF作家が歎いていたように、然るべき知性のないものに暴言/暴力を許すのは、大変な罪悪である。最終責任は毎日新聞にあると思う。

 教訓になるが、「誰でも、知らないことは分からない」と「謙虚」な態度をお勧めする。余談、蛇足で本体の信用を無くしては元も子もない。

◯予測される非難
 不妊治療を受けている方々が当記事を読んで、『不妊症は「手ぶら」でも簡単に診断/治療できる』という印象を与える記事に、強烈な非難が集まったとしても不思議は無い。氏の専門分野であるから、何か言い逃れを用意しているのだろうが、素人目には、不適切な言動である。

                                以上

2023年5月21日 (日)

毎日新聞 歴史の鍵穴 「伊勢・出雲ライン」の妄想

伊勢・出雲ラインの意味 神話を演じる祭祀空間か
 =専門編集委員・佐々木泰造  私の見立て☆☆☆☆☆ 2016/09/21 補充 2023/05/21

*お断り 2023/05/21
 当記事は、コラムとしては、終了して久しいものであり、誠に旧聞であるが、爾来毎日新聞紙上で是正されていないと見え、一方、一部で、当方の記事を参照していると見えるので、自衛のために、補充、再掲載したものである。近来の補充/再掲載は、概して、同様の理由に基づくものであり、弱者の自衛策として、看過頂ければ幸いである。
 なお、上記リンクは、公開期限切れで解消しているようである。

◯始めに
 今回の題材は、毎日新聞夕刊の月一コラム「歴史の鍵穴」の今月(2016年9月)分の批評であるが、またもや、「地図幻想」を蒸し返しているので、当ブログとして、誠意を持って対応している証拠として、蒸し返しに近い指摘を繰り返さねばならないのである。

*総論
 素人が、無報酬で頑張るのは、不似合いであり割に合わないと思うのだが、本件のように、途方も無い暴論に対して、世上、当然と思われる批判が見られないので、柄杓一杯の冷水を、燃えさかる野火に注ぐものである。とても、火消しにはならないが、柄杓一杯分の消火活動に務めているのである。

*主題
 今日の技術でも、各地の三角点やそれらを利用して作成した地図、或いはGPSと言った技術が無ければ、見通しの利かない地点間を直線で結ぶことは不可能であり、従って、8世紀当時も不可能であったと断じざるを得ない。いくらなんでも、高校生レベルで納得できる話と思うのだが、どうも、高貴な身分の方は、耳を貸さないようである。イソップ物語に擬えるのは控えるが、佐々木氏が、毎日新聞の専門編集委員なる格別の権威にふさわしい知性を示していないので、何かや輸したくなるのである。
 このような批判に対して、確たる証拠を持って反論するのが、全国紙に堂々掲載されたこの記事の筆者の責任だと思うのである。

*引用資料の内容確認
 2009年の「国立歴史民俗博物館研究報告」第152集掲載という論文を引き合いにしているが、字数多くして一向に要領を得ないので、別ページで原資料の書評を掲示している。

私の本棚 水林 彪 古代天皇制における出雲関連諸儀式と出雲神話
抄録:本稿は,『続日本紀』の記事に散見され,『貞観儀式』や『延喜式』にも見えるところの,出雲国造が天皇に対して賀詞などを奉上する儀式の意義について考察したものである。
(以下略)

 結論を言うと、当記事で紹介されている部分、つまり、「地図幻想」は、水林氏が本来の論説を展開したあとで、自身の「私見」を補強するために同僚の私見の教示を仰ぎ、論証無しの「憶測」であることを理解せずに、自説として取り込んだ部分であり、当記事で、付け足しのように長々と引用されているのが、水林氏が、いわば心血を注いだ本論なので、紹介の軽重・順序が倒錯しているのである。

 それにしても、厳しい言い方をすると、「伊勢・出雲ライン」幻想は、水林氏自身が論説の冒頭で提示した学問上の信念に反して、現代的な思考を、論証無しに古代の考証に持ち込んだ「無効」な議論なので、その点を理解した上で慎重に引用すべきなのである。
 毎日新聞の専門編集委員が、正確さに疑問のある、未検証の理論を孫引きにも拘わらず、「通説」として引用するのは、不見識この上ないのではないかとの批判を免れないのである。

 言うまでもないが、このようないい加減な「トンデモ科学」めいた思いつきを安易に受け売りすると、論説全体の信頼性を害するものであり、即ち、毎日新聞の権威に重大な疑念を投げかけるのである。

*締めくくり
 と言うことで、今回も、ため息をついて、当記事は非科学的なものであり、ダメだと言わざるを得ないのである。特に、今回は、水林氏の卓見の論証の欠けた蛇足の部分が冒頭に引用され、論説本体が巻き込まれて批判されるのは、困ったものである。

 一素人がちょっと調べて、論証の(象の隊列がすらすらと歩き抜けられるような)「アナ」をぞろぞろと指摘できるような粗雑な論説の付け足しを、本来必要もないのに、なぜ紹介するのか、理解に苦しむのである。
 ご自身が、しきりに押しつけている「地図幻想」も、受け売りと言って、別人に責任転嫁するつもりなのだろうか。

以上

 以上

2023年5月 3日 (水)

新・私の本棚 番外 毎日新聞「今どきの歴史」 『天皇制の「伝統」』論 1/2 補

 私の見立て★★★★☆ 必読       2019/05/16 2023/05/03
 今回の題材は、毎日新聞夕刊文化面の月一の歴史コラムです。

*総評 
 「天皇制の「伝統」とは 時代に即した柔軟性」が、紙面に掲示されたタイトル。

 論説として稚拙です。どこが、どう不出来なのか、以下、当ブログの芸風に沿って丁寧に批判します。なお、当記事は、毎日新聞夕刊文化面記事で、同社サイトに掲示されています。(ネット記事のタイトルは、前回分流用。偽装かな)

*「伝統」の時代錯誤
 まずは、タイトルの「伝統」に躓くのです、この言葉は、古代史では「王統を継承する」という限定された意味であり、「時代に即した柔軟性」などあり得ないのです。

*仁藤氏(敦史・国立歴史民俗博物館教授)の卓見
 担当記者は、「古墳時代前ずらし」主唱者として知られる歴博の教授である、仁藤敦史氏の論説を紹介しているので、たっぷりとした問答をへて書き上げたのでしょうが、このように、記者の語彙が混濁していると、ここに書かれている「今どき」の解釈が、仁藤氏の本来の意見かどうか疑念が残ります。と言うことで、丁寧に問題提起しますが、仁藤氏の論説の成り行きそのものについて難詰しているのではないのです。

*書紀の大予言
 劈頭、記者は、「日本書紀」に天皇家萬世一系の伝統が説かれていると、書紀知らずの素人にも自明の暴言ですが、書紀」そのものから、以後、現代に及ぶ伝統が読み解けたら、神がかりでしょう。まして、また、記者は、五世紀論で、書紀を棄て、宋書の書紀欠落部に触れて平然としています。真偽は別として、その場凌ぎもいいところです。
 因みに、仁藤氏は、神武天皇以来武烈天皇までの「伝統」について、特に主張せず、五世紀に関する推定とそれ以降の考察の対比だけにとどめて、非科学的な神がかりにはなっていないのは、記者も学ぶべきでしょう。

*古墳群並行着工の奇観
 五世紀、4~5カ所に、それぞれ自律的に古墳を造成する有力勢力が割拠、並存していたとは通りすがりに大胆ですが、古墳群は、厖大な物資と労力を長期間に亘って食らう呑舟もので、構想だけでも神業であり、広く労働力と「経済力」を空費する超巨大労務を長年に亘って強要する強大権力は驚異です。大勢の識字官員による文書記録と計算によってのみ、そのような壮大な「史実」が成り立つでしょう。

 労力だけ見ても、従来、古墳造成は、今日の近畿圏のかなりに及ぶ動員が必要と見ています。記者が、諸勢力割拠の広がりをどう想定しているか不明ですが、各勢力の造成が競合すれば、素人にも、全面的な混乱が想像できます。長年に亘り、従来当社比数倍の広域から成人男子を徴用すれば、営農不能、農産壊滅で、全土で飢餓必至と見えます。亡国の策と見えます。

 既存説は、畿内圏で一時に一カ所の造成で、並行すると想定していなかったのですが、それでも、地域経済の疲弊が想定されていました。それも「時代」の一様相で強行されていたのでしょうか。いずれにしろ、素人には、畿内で大規模古墳を複数カ所並行施工するとは信じられないのです。3世紀開始として、倍速進行でも、古墳施工場所も含めて、四世紀末には万事枯渇したはずで不可解です。

 仁藤氏ほどの碩学ですから、仁藤氏には、論理的な反論があるかも知れませんが、素人の代弁者であるべき記者の受け売りでは、一般読者には、氏の真意は、知りようがないのです。

                               未完

新・私の本棚 番外 毎日新聞「今どきの歴史」 『天皇制の「伝統」』論 2/2 補

 私の見立て★★★★☆ 必読       2019/05/16 2023/05/03
 今回の題材は、毎日新聞夕刊文化面の月一の歴史コラムです。

*王の実力を数値化、可視化する方法
 また、記者は、忽然と仁藤氏の発言を引用して「外交」と述べますが、素人目には、巨大墳墓を並行して造成できる勢力は、それぞれ、いわば独立国、独立の伝統の持ち主で、「外交」とは、日本列島内諸国間「外交」かと思うのです。因みに、中国側視点では、「倭」は国でなく蛮夷に過ぎず、従って、「外交」はあり得ないのです。語彙の時代錯誤でしょう。別の意味で、「交易」も三世紀はおろか五世紀にもなかったと思われるので、時代錯誤でしょう。誰が誰とどのような通貨、決済手段で、交易したというのでしょうか。

 仁藤氏は、「実力」要素として『「外交」「軍事」「交易」の三項目が最優先され」たとおっしゃったようですが、「三項目」を「最優先」するというのは、一種の冗談かと思うのです。国内古代史業界言葉で、そう言わないと排斥されるのであれば、保身していただいても良いのですが、せめて、一般読者向けに、誤解の無い言葉に言い直す配慮をいただきたいものです。

 取り敢えず、解釈を試みると、軍事」は、日本列島内諸国 で、「物理的に誰が一番強いか」と、総当たり式の実力行使の果てに比較できそうですが、「外交」、「交易」は、時代錯誤で当時通用しなかったというのは別として、不可視で数値化できず互いに比較もできず、また、「軍事力」にどのように加味するか、全く意図不明で、さらには、これら以外の「書かれてもいない要素」に対して、どのようにして「最優先」させるか、何も説明が無いので、善良な一般読者には、理解しようがないのです。
 仁藤氏の断言は、厖大な歴史に学んでいる現代人にも趣旨不明で、当時の評価は知りようがないのです。元々、「実力」とは、政治的な折衝力とその果てに来る軍事行動の強さであり、そう解すべきのように思えるのですが、どうでしょう。

 いや、当方は、仁藤氏が、推定にとどめている五世紀について、どのような数値モデルで「実力」を求めたかわからないし、記者が、素人、つまり、一般人読者に通じる言葉遣いで、仁藤氏の主張を噛み砕いてくれないので、毎日新聞夕刊を目前にしていても、途方に暮れて、素人臭い質問を呈するしかないのです。「それは、どういう意味ですか。なぜ、そう思うのですか」
 担当記者は、随分受け売り得意の特技の持ち主のようですが、記者の使命は、一般読者に理解できる言葉で伝えることだと思うのです。

*「法理論」の怪、「女系OK」の怪
 ここで、突然、意味不明な断定が出て来ます。古代に「法理論」は、一切なかったので、いくら言い立てても、当時の世人に一切理解できない後世人の後知恵だろうし、「女系OK」に到っては、世間一般に通用する現代語ですらないのです。「柔軟性」(記者の意図は不明、趣旨も不明)にも、ほどがあります。
 古代とは言え、国家制度の根幹が、自分の書いている言葉の意味すら不確かな民間人の意見で左右されるとは思えない、いや、これは記者のことであって、仁藤氏のことでないのは言うまでもないのですが、読者は、記者の変移させた語彙に載せ替えた意見を読んでいるとは気づかないので、全て仁藤氏の意見として受け取り、仁藤氏に被害が及ぶのです。

*首相談話無理解
 安倍晋三首相の答弁が引用されていますが、政治家に付きものの強調、断言を割り引くと、男系継承が「伝統」として保たれていたことを歴史の重みと理解することに、特に、文句を付ける必要はないと思います。
 記者は「正確な歴史認識」と意味不明の虚辞を持ち出しますが、「歴史」は人知で把握しようのない膨大さであり、「歴史認識」は人それぞれに異なる個人的感想である以上、「正確」な「歴史認識」の「共有」(記者の意図は不明、趣旨も不明)なぞ虚言の極みです。
 まして、人それぞれの語彙で染められて認識されているから、共通の「歴史認識」など成立せず、具体的な論点の個々について、互いの言い分が正確に互いに理解されるまで、十分に言葉を尽くして論議するしかないのです。いかに、記者が、自己視点を押しつけて短絡的な解決を望んでも、互いに理解し合えないままでは、結論は出せないのです。
 記者は、自身の脳内を眺めて独り言しているから、反対意見も質問も聞こえてこないでしょうが、一個人の早合点が、記者故に、制止されることがないままに、全国紙の紙面を占拠するのは、不気味ですらあります。

 個人的な意見ですが、記者が記者個人の(瑕疵込みの)「歴史認識」を述べたことに、特に異議はありませんが、「共有」と称して、記者の認識への同意を強要されれば断固否定します。いらないものはいらないのです。

 それは、個人的意見の「独立宣言」に反すると考えるものです。今回、記者の無法な意見に同調できないと書いて結語とします。仁藤氏は、そのような無法は主張していないと思われるので、仁藤氏と喧嘩しようとする動機は全く無いのです。

 いや、かくのごとき問題満載のタイトルが、乱暴で意図不明の体言止め、言いっぱなしなので、趣旨を誤解したかも知れませんが、個人的理解で述べました。
 まして、タイトルを偽ってネット掲示するなど、いったい何をたくらんでいるのか、奇々怪々です。
(いや、褒めているのではありません)

                                完

追記 5月18日17時現在、タイトル「偽装」は終了し、正しいタイトルが表示されているが、訂正したとの告知はないので、当方は現状確認に止める。

2023年1月23日 (月)

私の意見 毎日新聞 「今どきの歴史」 最後の脱輪~叶わない神頼みか

                                                   2018/06/18 2023/01/23

 毎日新聞夕刊月一連載記事の2018年6月分は「纒向遺跡(奈良県桜井市)のモモの種 真の年代はどこに?」と題して、時代鑑定を論じた後、次の結末でこの問いに答えられず脱輪して溝に落ちた感じである。

 「IntCalも数年に一度変わり、実年代も変わる」と坂本さんが言うように、C14年代測定はさらなる精度向上の余地がある点で「発展途上の技術」(箱崎さん)という認識が測定する自然科学側にはある。使う考古学の側もその視点が必要だろう。その上で、進化版JCalにより今回の実年代が検証される日を待ちたい。

 ブログ注:坂本さんと箱崎さんは、坂本稔・歴博教授と箱崎真隆・歴博特任助教(共に文化財科学)である。「歴博」は、国立歴史民俗博物館の略称として、当記事で説明済みである。

 心配なのは、IntCalも数年に一度「変わり」、(それに応じて?)「実年代」も「変わる」なる途方も無い放言/暴言である。素人は、科学的知見は不変であって欲しいと願うのだが、この業界、言うならば、『纏向遺跡の年代比定を、倭人伝記事に見合うようにずり上げるという崇高な使命を持った「纏向考古学」』では、頻繁、かつ、気まぐれに「変わる」らしい。なら、先ずは2018年版と時点を明記すべきだろう。

 ここで、「実年代」が変わるという途轍もない理不尽な言い方だが、素人は、「実年代」を実際の年代と解するから、変わるのは不穏とみる。このあたり、言葉が通じない。それは、「精度」と無関係な酔人の戯言と聞き間違えられそうである

 先般記事で、名古屋大中村俊夫名誉教授も「実年代」と称していて、纏向考古学」では「実年代」は推定年代らしい。まあ、不朽・不変の歴史に「今どきの歴史」があるというのであれば、「今どきの実年代」は「刻々」変わるのかも知れない。
 何の事はない。学問の世界にあって、昔ながらの手前味噌である。言うなら、「望むご託宣が得られるまで、おみくじを引き続ける」という不屈の意思の表明なのだろうか。

  更に不穏なのは、目下信奉されているJcalが、「進化版」に置き換えられ打ち棄てられるとの「勝手な」推定である。科学用語で、進化とは旧世代が淘汰され、新世代が生き残る不連続な過程であるから、そのように受け取るしかない。現在の技術の進歩・発展は、早晩遺棄されるものであり、期待できないのだろうか。諸行無常という事なのだろうか。

 と言うことは、箱崎さんは、現在の技術は、多額の費用と多大な労力を費やしていながら、未完成で幼稚であり、早晩駆逐されると予言されているのだろうか。「発展途上」とは、そういう意味である。一個人の意見としても、そこに毎日新聞の権威が託されているのか。

 と言うことで、今後、「纏向考古学」は、「使う」立場で、望む実年代が得られる新技術を開発するのに専心されるようである。それにしても、多額の公費を費消しているのに、失敗は想定内であり、解釈論で曖昧化することで凌いで、「もともと信頼できない在来技術だ」とうそぶくのは、職業倫理の持ち合わせはないのだろうか。

 更に言うなら、何年か先に新基準が公開され、新「実年代」が公開されても、数年すれば、またぞろ「今どき」の「実年代」が登場するのであれば、「最新技術による科学的な測定」を駆使した「実年代」論議は徒労ではないか。

 私見であるが、いかなる現代技術を駆使しても、考古学の考察する遺物の年代判定は、常に、ある程度の不確かさを含む推定であり、不確かさは、時代を遡るにつれ、急速に拡大すると見なければない。

 記者は、今回発表の西暦135~230年あるいは同100~250年ごろという、不確かさを包含した「実年代」に、どのような意義を見ているのだろうか、今回の「実年代」は、『「纏向考古学会」の望む成果ではない、間違った推定だ』と断罪されているのではないか。

 当該事業には、会計監査はないのだろうか。ほかに、もっと有意義な使途はないのだろうか。一介の少額納税者としては、分相応の不満を鳴らしたいのである。

◯一応の結論
 「今どきの考古学」は、時の彼方の史実を語るHistorical scienceの避けえない不確かさに慣れるべきであって、無理矢理、自分の望む歴史ロマンに沿った「実年代」を押しつけるべきではない。それは、おお法螺である。
 それとも、「纏向考古学」は、考古学ではない、科学ではないというのだろうか。

 関係諸兄姉は、ご自分達の俸給が、上司や役員のポケットから出ているのでなく、一般国民の納めた貴重な税金から出ていることに、年に一度は思いをいたすべきだろう。
                                        以上

2023年1月16日 (月)

新・私の本棚 番外 上村 里花 毎日新聞 「邪馬台国はどこにあったのか」 賛辞再掲

「考古学界で優位の近畿説に反論 九州説の「逆襲」相次ぐ理由は」
 毎日新聞 2020年7月21日 10時20分  (最終更新 7月22日 15時19分)
 私の見立て ★★★★★ 絶賛 毎日新聞古代史記事の復興 に期待   2020/08/01  補追 2023/01/16

▢補追の弁
 当記事は、初見時に、冷静、確実な取材と卓越した筆致に感動して絶賛したのだが、今般、某同僚記者の杜撰な「古墳」談義を読まされて批判記事を挙げたことに影響されて、同紙の名誉回復の趣旨で再掲したものである。

〇はじめに
 当ブログ筆者は毎日新聞宅配購読者であるが、当時、留守で宅配停止していたのでWeb記事で拝見した。
 本記事は、全国紙に冠たる毎日新聞の古代史記事の復興と見て、勝手ながら賞賛した。従来、同紙で散見した纒向中心の安直な提灯持ち記事と異なり、冷静な目配りで一般読者(納税者)に、古代史に関する適確な視点を提供する記事であるので、ことさら目立つ言い方をしたのである。

 記事中紹介されている片岡氏の著書の原文を入手するのに日数を要したが、確認した所では、記者の読解力は適確であり、先輩諸氏の変調と無縁である

*報道ならぬ騒動
 見出しが半ば揶揄しているが、末尾の高島氏の談話が説くように、「学界で優位」、「逆襲」は、復讐も逆襲もない学問論に不適切である。

*考古学界の動向
 いや、正体不明の考古「学界」であるが、実際は、とかく表層で喧噪をまき散らしている「風聞」集団がすべてでなく、良識を有する研究者/論者が、寡黙な大勢を構成していると信じている。
 片岡氏の論議であるが、劈頭、纏向が支配的な学界風聞の引用である。学術発表が「報道」されていれば引用できるが、同紙を先頭に「ヒートアップ」とか「近畿説で決まり」など、野次馬好みの喧噪が、伝統ある全国紙に書き立てられているのは、報道機関として「世も末」である。
 ここで、氏の論議は、概して冷静で、学界に蔓延る軽率な風聞を窘め、まことに貴重である。

 ただし、別記事(近日予定)書評で歎いたように、氏は、遺跡、遺物の研究を専攻している考古学者であり、同時代文献、つまり、中国史書(の燦然たる一章)「倭人伝」の解釈では、「専門家」のご意見を拝聴した感じであり、そのため、原文解釈ではなく、「手前味噌」が堆い(うずたかい)国内通説、俗説依存の和流「読替え」訳文(本意か不本意かは不明であるが)忠実に信奉し、原文の意義を、元から取り違えて伝えていると見える点が、氏の折角の冷静な論議の脚もとを揺るがして、何とも「もったいない」。

 それに付随して、氏の中国「古代国家」観は、時代離れした後世/異郷史学論法に染まっていて、立て続けに空を切っているので、ここではひっそりと治癒を祈るものである。もちろん、以上は、氏だけの宿痾ではないので、気に病まないで頂きたいものである。

*時代錯誤「訳文」に依存
 端的に言うと、「倭人伝で晩年の卑弥呼は、千人の侍女をはべらせ、常に警護がつくなど、強大な力を持った姿で描かれる。しかし、それは半世紀近くの治世の間に生まれた権力で、当初はクニグニに「共立」された弱い存在に過ぎなかった。(後略)」と時代錯誤訳文に、赤々と染まっているが、このように「翻訳」文に惑わされたために生じたと見える、苔のように纏わりついた先入観を取り除き、描かれている原文に回帰して、その真意に密着すると、以下の判断が提示できるはずである。

 倭人伝の原文から考えると、ここにでっち上げられた「晩年」は、後世東夷の無教養人が、勝手に「共立」の時代比定と卑弥呼の年齢推定をずらし、挙げ句に、長期在位として、計算された年齢を押しつけただけであり、当人は、老齢でもなかったし、また、神ならぬ身で、自身の死が近いとは思っていなかったし、また、老人でも病人でもなかったと見えるから、「晩年」決め付けは、「倭人伝」と無縁の事実無根である。
 婢千人は、侍女とは限らないしね女王が、身辺に多数の女性をはべらす意義も不明である。「王治」(後漢書にいう大倭王の治所 「邪馬台国」)の警護を想定しているが、倭人伝にかかれた諸国に城壁のある要塞は存在しない上に、「強大な力」は、後世東夷が勝手に創作した幻影である。「半世紀近」い 治世も、クニグニに共立されたのも書かれていない。少なくとも、「共立」は二者以上と見えるが、「クニグニ」と書き殴って多数、三十ヵ国と思わせるのは、狡猾に過ぎる。何しろ、「倭人伝」に「クニグニ」などかかれていない。とにかく、有る事無い事てんこ盛りの「ごった煮」に見えて信用ならない。
 そもそも、衆議一決して排斥されるほど強力な男王を継ぐ王は、本質的に弱い存在ではないから、朝議に参加させなかったのであろう。御前会議を主宰せずに、どうやって、強力に統治できたか、不明である。

 以上の不都合は、は、女王の「性格」(片岡氏の手前味噌造語)を纏向から九州北部を「強力に支配」した権力者のものに仕立てた創作、つまり、原文に無い「俗説」満載の創作劇に起因するものに過ぎない。言うならば、『「魏志倭人伝』が描いた邪馬台国』も、同様の背景による「俗説」の被造物である。「我田引水」に荷担するのは、せめて、最低限、十分に史料批判した後のことに願いたいものである。

*切望される原典回帰
 当記事を魏志に採用した陳寿は、同時代史家であり時代錯誤にも、和風意識も無縁である。心ある考古学者は、陳寿によって、女王の墓碑銘として構想された「倭人伝」の泥や苔を洗い落として欲しいものである。

*冷静な総括
 末尾の高島氏の談話は、冷静な指摘であり「逆襲」などではない。「現在の考古学界にはそれが決定的に欠ける。それが問題であり、課題だ」と適格に断じておられるが、「問題」、「課題」には、明快な解答、是正策が示唆、ないしは予定されているはずである。ぜひ、模範解答をお願いしたいものである。
 古代ギリシャの挿話「幾何学に王道なし」の流用であるが、中国古代史文献に「ジーンズとスニーカーで行き着ける散歩道」は無い。

〇まとめ 河清を待つ
 本記事は、全国紙の古代史記事の「正道」を想起させる。諸先輩は、何度でも顔を洗って、原点から出直してほしい。
 時を経て、人が代わっても、毎日新聞の泥や苔にまみれた古代史記事は残るのである。と言うか、当分野の先賢諸兄姉の一部の通説に媚びた「曲筆」三昧は、永久に残るのである。

 その意味でも、当記事は、担当記者の清新さが感じ取れて、清水の再来(clear water revival)を待望するのである。
                                以上

今日の躓き石 毎日新聞記事批判 「わが町にも歴史あり・知られざる大阪」 /588

東高野街道/79 藤井寺市、羽曳野市 古墳巡り被葬者推理 /大阪  2023/01/14      2023/01/16

 古代史の話題になると脱線する毎日新聞記者は、またも暴言である。
宮内庁が指定する雄略陵は、津堂城山と岡ミサンザイの間に位置する島泉丸山古墳(同市島泉)だが、ここはその名の通りの円墳。この当時の大王墓は巨大前方後円墳なので、見当違いだ。

Wikipediaは、「丸山古墳」に関し以下の如く述べている。
 この丸山古墳は、出土埴輪より古墳時代中期の5世紀後半頃の築造と推定される[1][2]。古市古墳群では唯一の大型円墳である点で特筆される古墳になる[1]。被葬者は明らかでないが、前述のように現在は宮内庁により第21代雄略天皇の陵に治定され、隣接する島泉平塚古墳と合わせて前方後円形に整形されている。ただし立地・墳形・規模の点では疑義も指摘されており、雄略天皇の真陵を他古墳に求める説も挙げられている。

 あくまでも「疑義」であり、治定訂正はされていない。「推定無罪」原則から「疑義」が立証されるまでは、宮内庁治定が「正しい」とみるべきである。

 同記事に付説されているように、当該墓陵は、江戸時代以来の多年/多大な学術的考査の結果、適法、かつ、学術的に妥当な内容で公式治定されている。決して、記者の告発のように、「宮内庁」が「見当違い」に治定しているのではない。
 端的に言うと、毎日新聞が掲載した当記事の「断定」表現は、誰が見ても宮内庁誹謗である。

 少なくとも、全国紙なる報道機関の担当記者は、合理的な権限無しに、かつ、学術的な摘発無しに、単なる「臆測」に基づいて、全国紙の紙上で誹謗中傷すべきではない。毎日新聞は、多年の報道活動で、読者から絶大な信頼/信用を得ていて、今回の記事も、「真実の報道」として、受け入れられるものと想定されている。在野の無名の情報源、例えば、当ブログのように、世に知られることなく埋もれるものとは、比較にも何にもならない、絶大な権威なのである。本来、報道人として、責任重大と言うべきなのである。
 要するに、当報道は、宮内庁に対する「威力業務妨害」に類するものであるが、従来、宮内庁が、従来あえて訴追しなかったために、かくの如き暴言が出回っているものと見える。いやこれは、あくまで一民間人の推測であるが、そのようななれ合い紛いの行動は、納税者に対する背信行為と見えることを申し添えておく。

 本件は、不適切な報道であり、毎日新聞社は、謝罪/訂正を行うべきである。(社告せよとまでは云わない)
 
 念のため確認するが、当ブログ記事で摘発しているのは、毎日新聞社が流布した根拠の無い風評報道(「フェイクニュース」発信、拡散。「ファクトチェック」の欠如)であり、「当該報道の客観的な当否」を云うものではない。

 因みに、宮内庁の担当部門は、内閣府の一部局である宮内庁「書陵部陵墓局」であり、常識的には、其の言動/挙動に異議があれば、まずは、当該部局に是正を働きかけるべきであり、いきなり、全国紙上で「宮内庁」を指弾するのは、非常識、乱暴、かつ「見当違い」である。
 因みに、同記者の宮内庁誹謗は、今回記事が初出例ではない。

 ついでながら、「宮内庁」は、ここに称されている「巨大前方後円墳」なる「俗称」でなく、あくまで、「墓陵」として治定している。
 同記者の報道陣としてふさわしくない無思慮な勘違いは、毎日新聞社として、早急に教育/是正すべきであろう。


                                以上

2022年9月24日 (土)

倭人伝の散歩道 番外 纏向 「驚き桃の木」の 毎日新聞古代史報道 2018 補充再掲

私の見立て★☆☆☆☆                  2018/05/14 補充 2022/09/24

◯旧聞紹介のお詫び 
 今回やり玉に挙げるのは、2018年の毎日新聞大阪夕刊一面の古代史記事である。当時、いち早く批判したのだが、他の全国紙の報道姿勢と比較検証できていなかったので、ここに改めて、公正に批判することにした。

▢「驚き桃の木」2018/05/14
 「驚き桃の木」とは、「纏向で卑弥呼時代の種」と断定的な大見出しを付けているからである。
 卑弥呼時代のモモの種 邪馬台国、強まる畿内説
 ニュースソースは、桜井市纒向学研究センターの研究紀要とのことだが、同センターのサイトに発行の告知はないし、当然、公開されていなくて、どこまでが発表内容であって、どこからが記者の私見なのか内容確認のしようがない。

 
通常、このような大発表は、各社担当記者を集めて、「プレスレリース」なる概要資料を配り、それに基づき記者会見と質疑応答をするものだと思うのであるが、「プレスレリース」は、発表されていないように見える。古代史学界の報道対応は、どうなっているのだろうか。

*2018/05/16追記 補充 2022/09/24

研究紀要の刊行案内が掲示されたので、ここに紹介する。相変わらず、意味なく右クリック禁止なので、メニューから「コピー」した。
目次紹介も何もないので、内容は一切不明のままである。

2018年3月刊ものが今公表された理由もわからない。
-----引用
***纒向学研究 第6号 2018年3月刊
桜井市纒向学研究センターでは、センターで行われた研究の成果を広く学会や社会に発信するために研究紀要を刊行しています。
第6号となる本号には、所員1名のほか、外部研究者6名の方々に寄稿いただいた、「纒向学」に関わる研究・分析の成果をまとめた論文などが収録されています。
1部 1000円。(公財)桜井市文化財協会(桜井市芝58-2 市立埋蔵文化財センター内 TEL 0744-42-6005)にて頒布しています。
---引用完

 仕方ないので、ライバル朝日新聞、日経新聞のサイト記事と比較せざるを得ない。
 毎日新聞
 見出し 卑弥呼時代のモモの種 邪馬台国、強まる畿内説 (ネット)
     纏向で卑弥呼時代の種 畿内説更に強まる (紙面)
 まとめ 今回の分析は、遺跡が邪馬台国の重要拠点だったとする「畿内説」を強める画期的な研究成果といえる。
 おまけが、解説欄である。
 解説 所在地論争終熄間近
 まとめ 近畿か九州かという所在地論争は終熄に近づいていると言っていい。

 どなたが、このような厳めしいご託宣を下されたかというと、山成孝治なる署名記者だが、どんな資格で仕切っているのかは、書かれていない。「卑弥呼時代」などと、新規造語を曝け出していて不自然である。天下の毎日新聞記者は、何を書いても批判されない神のごとき叡知の持ち主と自画自賛しているのではないか。このような低劣な記事が誌面を汚しているということは、編集部門内で、ダメ出ししなかったことを示しているのは、情けない限りである。

 
正直、このような、不勉強で子供じみたご託宣を見せられるくらいなら、宅配読者としては、相当分白紙紙面の方が、まだましである。

 また、論争は、双方が納得して初めて終熄(収束?)するのであり、一方の陣営が何か発表しても、他方の反論を見ないままに、新聞社が意見を固めていいわけではないのは、衆知のことである。
 因みに、朝日新聞、日経新聞の記事は、以下のように、賢明にも一方的な決めつけを避けている。賢明というが、全国紙として当然の態度である。

 あるいは、参照困難なので割愛したが、産経新聞紙記事では、次のように異論を明示している。
高島忠平・佐賀女子短期大学名誉教授(考古学)は「遺跡の年代を示す複数の資料がないと確実性が高いとはいえず、桃の種だけでは参考にしかならない。もし年代が正しいと仮定しても、卑弥呼とのつながりを示す根拠にはならず、邪馬台国論争とは別の話」と反論している。

報道は、特定の機関の「提灯持ち」に耽らず、冷静に、公平に。報道の姿勢は、かくありたいものである。

 朝日新聞
 見出し 卑弥呼の世の?桃の種か 纒向遺跡で出土、年代測定
 まとめ 『今回の分析結果は所在地論争に影響を与えそうだ。』と評している。
  古代史学の「イロハ」として、遺物、遺跡から打ち出される考古学的な見解と史書の文献解釈から来る意見は、付き合わせるべきではない、ということがある。

 まとめ 発表内容を紹介した後、『邪馬台国畿内説に立つ専門家からは「卑弥呼の居館では」との声も出ている。』と、言わずもがなの「風評」を付け足している。

 今回の記事で言うと、毎日新聞は、学術的に書かれているはずの「紀要」が断言していないと思われる事項を、記者の個人的な偏見に基づいて、勝手に断定していて、まことに不穏当/不謹慎である。特に、毎日新聞文化面の「解説」欄は、記者の私見書き放題の感があり、何とも、もったいないのである。
 「紀要」が表明しているのは、桃の種の時代鑑定のはずであり、それが、遺跡の時代鑑定に連動して良いかどうかは、まだ、疑問の余地が残されているはずである。

 まして、古代史文献「倭人伝」に書かれている「卑弥呼」の時代について考えると、CE135ー230年とされた時代が、卑弥呼の存命中の時代なのかどうか、明記されていないから、不確定としか言いようがない。
 CE135であれば、後漢朝が、まだまだ元気だった順帝の時代であり、倭国が乱れたとされる桓帝、霊帝代以降の後漢代末期に比して、遙か以前である。卑弥呼は、影も形もない頃であることは間違いない。
 そうでなくても、考古学上の年代判定は、50年程度の前後は、当然想定済みなのである。「年月」が書かれていない遺物からは、推定しかできないのであり、今回のC14鑑定も、最後は、鑑定者の手加減、さじ加減、親の欲目で、大きくずれ兼ねないのである。
 ここで言うように、中国史書に書かれた「卑弥呼」の住まいが、どこにあったかという決定的な議論に辿り着くには、解決すべき課題が、幾重にも、幾方向にも山積しているのは衆知、自明である。簡単に結論に飛びつくのは、不勉強な半素人である。

 もし、センターが、今回の鑑定結果が、年代論に終止符を打つとか、所在地論争を終熄
(収束?)させる、などと書いていたら、それは、国費、公費で成立している学術研究団体として自滅行為である。
 と言うことで、「解説」は、毎日新聞(記者)の独断・暴走と思われる。
 それにひきかえ、朝日新聞と日経新聞は、当然ながら、メディアの分を堅持していて、見事である。
 ただし、朝日新聞も、無造作に『邪馬台国は中国の歴史書「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」に記録され、その時代は卑弥呼が倭(日本)王に共立され、死去するまでの2世紀末~3世紀前半とされる。』と書いているのは、全国紙にしては低次元の誤解表現である。
    1. 邪馬台国は、魏志には書かれていない。
      文献(魏志)に「邪馬壹国」と書かれていることに異論はない。
    2. 邪馬台国の時代は書かれていない。
      文献(魏志)に 卑弥呼の死去時期(三世紀前半)は書かれているが、共立時期は明確ではない。
    3. 「魏志倭人伝」という「中国の歴史書」はない。
      魏志(魏書)第三十巻の一部であって、独立した「書」ではない
      ことに異論はない。
    4. 三世紀当時に「日本」はなかった。
      日本が八世紀冒頭に誕生した
      ことに正当な異論はない。
    5. 「その時代」は不明である。
      「その国」がいつ始まったか、いつ終わったか、文献(魏志)には一切書かれていない。
      この誤解は誠に独創的であるが、正当な「新説」ではない。
  このように、質の悪い誤解を蔓延させているのは情けないのである。

以上

2022年8月23日 (火)

今日の躓き石 毎日新聞社報道倫理崩壊を歎く 「わが町にも歴史あり」 1/2

 ~「知られざる大阪 /580 東高野街道/71 藤井寺市~羽曳野市 古墳覆う秘密のベール /大阪」 2022/07/30   投稿 2022/08/23 

◯始めに
 書評に値しない無法な毎日新聞記事の墳墓論に、深刻な報道倫理崩壊を感じる。因みに、大阪地方面の連載記事であるが、他地方の読者も、購読者以外の一般読者も、同社サイトから読めるので、地方限定でないとして扱っている。

 同報道は、本来、記者が、管内の各街道を歩く、むしろ気軽な歴史紀行記事であるが、突如、史料の乏しい古代分野に迷い込み、考古学的な記事となって、今回の古代論記事に至ったのである。何しろ、日本が実生の太古である古墳時代の街道を、現代の地上から偲ぶことは不可能なので、風評、憶測の世界に迷い込んだのである。

 その結果、確定した情報の無い時代に対して、言わば、風評報道に留めるなら、何とか許容範囲だが、根拠の無い独善に落ち込み、国家機関としての責務を果たしている「宮内庁」に対して、全国紙としての権威を笠に着て、無責任で個人的な誹謗、中傷を投げつけるのは不法と感じる。

 以前の回で、研究機関所長の談話が紹介されたが、それは同所サイトで公開の所長見解と照合でき、記者の勘違いに惑わされず、批判できる。
 これに対して、今回突出した、不勉強ものの落書きと見て取れる誹謗、中傷は、別格の不法行為である。落書きされては、どんな第三者史料を根拠にしているのか、追及しようがない不当な書き方になっている。

*報道倫理崩壊の形跡
 今回示されたのは、報道の「偏向」などではない。毎日新聞社の「宮内庁」批判、弾劾には、強固かつ客観的な論拠が必要である。
 念のため言うと、当方は、「宮内庁」の見解に無批判で追従しているわけではない。又、「宮内庁」の反論、抗議を代弁しているのでもない。記者の心得違いを諭そうとしているだけであリ、その後に、天下第一の毎日新聞の煌々たる後光が差しているので身構えているのである。

 今回の記事が、市中の個人研究家の私的なサイト記事であれば、この世界でまま見られる度過ぎた暴言として無視すれば済むが、今回は、一般読者に向けられた全国紙記事であるから、読者は全国紙の権威に裏打ちされた非難・弾劾と見るから大問題なのである。 

*毎日新聞社の報道倫理
 毎日新聞社の編集部門には、「ファクトチェック」機能すらなく、記者の書いたままの「フェイクニュース」で誌面を汚すのだろうか。

*記事引用/批判
 以下、知財権に抵触しない範囲で部分引用し、批判を加える。疑問の向きは、毎日新聞社ウェブ記事で確認いただきたい。

 「仁徳天皇陵」とは宮内庁がそう言っているに過ぎず、誰も確かめたことがない。治定(じじょう)といって、要は政治的に天皇陵を定めているのだが、立ち入り調査を認めていないから、ほんとに仁徳天皇が葬られているかどうかわからない。

 コメント:
 仁徳天皇陵治定は、宮内庁が、国家機関として責任を持って公表しているのであり、別に、同庁の口から発声して「言っている」のではない。
 そのようにして公表された内容を「過ぎず」と断定する独善の根拠は、不明、そして、「誰も確かめたことがない」とは、どんな事項かも不明である。誠に無責任である。
 政府機関が、主権国家の公式見解を公表するのは、高度に「政治的」な判断に基づくのであって、無責任な野人が「安直に」批判すべきではない。
 「ほんと」は「わからない」から「仁徳天皇墳墓でない」との確証はない。
 記者は、何か、「カルト」に深く帰属して、特定の言葉遣いに「取り憑かれて」いるのだろうか。これでは、信用を無くしかねないので、職業柄、早急に克服された方が良いように思う。

 そもそも、宮内庁の治定は実態と合わないものが多い。要は間違いだらけなのだ。古墳の築造年代と、治定されている天皇の年代が合わないとか。
 古市古墳群でいえば、雄略天皇陵だ。宮内庁が治定しているのは島泉丸山古墳(羽曳野市)だが、研究者の多くは岡ミサンザイ古墳(藤井寺市)と考えている。雄略は5世紀後半の大きな変化の時代を担った大王だ。

コメント:
 公開情報宮内庁「治定」と対比すべき「実態」は一切明示されず、委細不明なのに、「要は」と乱暴に括って、「間違い」「だらけ」と蹴散らかすのは、猛々しいところを誇示したつもりだろうが、容易に見透かされる内情は、ひたすら「不明瞭」、「不合理」で、中学生並の乱文と言われそうである。
 宮内庁の専門家集団と対決して、勝てると思う根性は、素晴らしいのかも知れないが、一読者としては、ご勘弁頂きたいと思うのである。

 新聞は社会の公器である。特定の社員が、好き勝手に汚(けが)して良いものではない。
 半人前の言いがかりは、何度言い立てても、門前払いがせいぜいであり、それだから、毎日新聞の紙面を不法に乗っ取って、勝手な意見を言い立てているのだろうが、この紙面分、新聞代を返せと言いたいところである。一ヵ月分「ただ」にしろとまでは、言いたくても、言わないことにしておく。

                                未完

今日の躓き石 毎日新聞社報道倫理崩壊を歎く 「わが町にも歴史あり」 2/2

 知られざる大阪 /580 東高野街道/71 藤井寺市~羽曳野市 古墳覆う秘密のベール /大阪 2022/07/30 投稿2022/08/23  

*記事引用/批判 承前
 中国の史書に出てくる5世紀の「倭の五王」の最後の「武」が雄略とされ、自らを「治天下大王」と称し、中国・宋への上表文で、勇ましく国を平らげたと誇った。専制的で暴虐とされる一方で、万葉集の冒頭に恋の歌が掲載されているのは、雄略が画期の大王で後世にも特別視されていたからだろう。

コメント:
 出典不明、自身で情報検証したのか不明瞭な風評記事である。
 それはさておき、当記事が「言っている」のは、別の不確かな墳墓に付け替える不確かな憶測に過ぎないので、宮内庁を断罪する根拠となり得ないのである。

*妥当な批判
 在野の意見を反映していると見られるWikipediaは、当遺跡の核心を冷静、かつ丁寧に説いている。
 実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により島泉平塚古墳と合わせて「丹比高鷲原陵(たじひのたかわしのはらのみささぎ)」として第21代雄略天皇の陵に治定されている。

コメント:
 当墳墓を「前方後円墳」である「雄略天皇墓」と解するのは、学術的に謬りと思われるが、それで、宮内庁に「謬りが多い」とは断罪できない。

*隠された日本書紀崇拝
 以上引用を含め、記者は、神がかりで宮内庁を「間違いだらけ」と断じ、すらすらと天皇名を述べるが、雄略天皇が五世紀に実際に存在した「天皇」であって、その遺体が「岡ミサンザイ古墳」なる古墳に埋葬されたとは、記者が「言っている」に「過ぎ」ない。論外と見える。

 それにしても、全体を裏書きしていると見える第三者研究成果の無断引用は不法行為ではないか。毎日新聞社に報道倫理は適用されないのだろうか。

*カルトか、お「カルト」か
 暴言に取り合うのも馬鹿馬鹿しいが、「研究者の多く」の「研究者」は、何者で何人いて、そのうち何人がどのように記者と気脈を通じて、古代史論を交わす「研究者」カルトか、あるいは、敬称付きで「お「カルト」」か、を形成しているのか。
 いくら「うちわ」受けしても、学術的な正確さは問えないのは、自明ではないか。

 このあたり、カウンセリングで強迫観念を治療した方が良いのではないか。

*宮内庁書陵部賛
 宮内庁書陵部は、国家公務員の倫理に従う献身的な研究者を擁し、国費によって陵墓を研究、管理する専門部であって、日本国民のために、陵墓管理に身命を賭している。古来の文献を継承しているのと合わせて、新たな知見により、豊富な研究を重ねている。在野の「研究者」の浅知恵の及ぶところではないのに気づかず、あるいは、確認せず、「間違いだらけ」と一刀両断するのは、無責任である。

*等閑(なおざり)にされている報道の本分
 付記すると、宮内庁の治定のおかげで、当陵墓周辺の道路整備、住宅地開発などの公共事業に重大な制約が出ているのは周知である。
 地方版記者は、現地事情を熟知しているはずであるから、毎日新聞は、公共事業に、重大な制約が出ている事を報道し、本件の是正を端緒に、全般的な再考を求めるのが、新聞社のなし得る国民への最大の貢献ではないだろうか。

 場違いな紙面で、おおぼらを吹くのは、論外ではないか。

*公僕の本分
 国家機関に勉める者にとって、国民の福祉増成が最優先の筈である。各人の給与は、個人口座に自動的に振り込まれるかも知れないが、それは、神がかりのもの(タナボタ)でなく、全国各地で生業に勤しんでいる納税者の浄財の一端である。国家公務員各位は、誰に貢献すべきか、再考いただきたいだけである。

                                以上

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