毎日新聞 歴史記事批判

毎日新聞夕刊の歴史記事の不都合を批判したものです。「歴史の鍵穴」「今どきの歴史」の連載が大半

2024年10月18日 (金)

新・私の本棚 番外 毎日新聞 【松井宏員】散歩日和 奈良凸凹編 大倭/3

(奈良県桜井市)箸墓見守るホケノ山 毎日新聞大阪夕刊 2024/10/02
私の見立て ★☆☆☆☆  暴論、暴走  2024/10/03 10/05, 10/17補筆

◯はじめに
 今回の記事は、引きつづき梅林先生が蘊蓄を垂れるお散歩話である。ただし、担当記者が御高説を曲解して、自説を述べ立てるのは大変迷惑である。

*古墳の後先(あとさき)
 聞き流せないのは、タイトルの「ホケノ山古墳」(以下、ホケノ山)と「箸墓古墳」(以下、箸墓)の後先であり、ことのついでに、この「前方後円墳」の「前方部は、後年の付け足し」という梅林氏の感想がある。
 梅林氏は、元々円墳として構築され周濠があったが、後年の追葬の際にこれを跨ぐ形で前方部が建て増しされたとの御意見のようである。ホケノ山は宮内庁治定陵墓ではないので、発掘調査を根拠とした御意見なのだろう。

 それにしても、考古学会の意見はどうなのだろうか。一夜漬けであるが、最新考証では、ホケノ山は在来工法の終幕(先)で、箸墓が、外来工法時代の端緒(後)と見える。混乱させられる。

 記者は、梅林氏の解説を無視して、『ホケノ山が、「ヒミコの墓と仮定された箸墓」の山手に、これを見おろして造成された』と見ているようだが、それでは、箸墓と三輪山の間を遮るから、ホケノ山を倭大夫難升米の墓陵と断定している梅林氏の説諭が無視されていると見える。当記事は、記者が支配しているのだろうか。

 さらに言うならば、現地取材で明らかなように、ホケノ山視点では、箸墓の背部「後円」が、西の霊山二上山を遮って興ざめである。高見したければ、檜原神社あたりまで登る必要がある。話しのスジが通っていないと見える。

*史料解釈の混迷
 地の部分、記者の見識で、難升米を女王「副官」と言うのは信を置けない。女王に副官などつかない。
 更に言うと、使節が洛陽に参上した記録はあるが、皇帝謁見とか金印と銅鏡百枚の受領は、中文の読めない誰かの勘違いだろう。誰かの勘違いが、延々と語り継がれているのは、どの世界の悪習だろうか。

 以後「外交」の場に登場と言うが、中国正史で年少天子の「外交」の場に東夷の陪臣が登場することは有り得ない。たちの悪い非科学的な「邪馬臺国」ものテレビ番組でも見たのだろうか。

*懲りない銅鏡舶載説 "Die Harder"
 梅林氏は、「ホケノ山」から特定形式の銅鏡が一枚出たのに触発されて夢物語を新作している。「卑弥呼の鏡でない」と確定した「三角縁神獣鏡」が、後代中国で「東夷の指示で特注制作した舶載鏡」とは病膏肓である。
 卑弥呼の初回遣使で、曹魏名君烈祖明帝が「倭人」に銅鏡百枚を与えると言明したのは、万二千里の遠隔地から到着した初見の褒賞であったものの、明帝没後に実際は四十日行程の地(陸路換算で二千里程度)の近場と知れ、格別の熱意を持った明帝の急逝後、「倭人」調略に手足となって奔走した腹心の毋丘儉も抹殺されたため、もはや、絶海の東夷として閑却され、先帝の遺詔は実施されたものの、以後、大量の銅鏡を贈呈するなどの厚遇は「絶対に」ありえなかった。

 さらに、正史に基づき時代考証すると、衆知の「後漢大乱」で壊滅した官制工房尚方は、暴漢董卓によって首都雒陽が廃都された際に四散、逃亡した工人の恢復を図ったものの、万全に遠いにも拘わらず、破壊された廃墟の復興に加えて、明帝が在世中に指令した新宮殿の装飾制作に忙殺されたので、もともと未曽有の異形・大径/重量の銅鏡の新作」技術は無い上に、東夷に呉れてやるような余分な銅材など無かった。
 素人の生齧りでも、陳寿「三国志」魏志翻訳文からその程度の背景は読みとれるのだから、つまらない夢から早く覚めて欲しいものである。

*最後の聖戦 2024/10/05 補筆
 そのような門外漢の作業仮説を、専門外の記者が、全国紙の紙面を壮大に費やして書き立てる意義は疑わしい。箸墓「卑弥呼」墓陵仮説を奉じている「纏向史蹟」事業の「最後の聖戦」になりかねない。
 陳寿「三国志」魏志「倭人伝」に、卑弥呼が葬られたのは、民間人と同様の「冢」、つまり、先祖以来の墓地に、古式の土饅頭を設けたとしているのを、無視しているのであるから罪深い。女王の「冢」は、父祖の墓址より一回り大きいので、親族や近隣の者だけでは足りず「徇葬者として百人ほどの力を借りた」と明記されているのを読み損ねているようである。

 「箸墓」は、冢などではなく壮大な墳墓であり、その規模は十倍どころでは無く、整地を要する用地面積比で百倍、盛り土容積比で一千倍、と見てとれる。まして、蛇足とも見える「前方」部は、計算に入っていないのである。

 原文が理解できないままに、勝手に華麗なお話を書き上げているのを、ここでは、伝統的な「画餅」(画に描いた餅)と呼ばずに「聖戦」と呼んでいるのである。


 担当記者は、私人の私見が全国紙紙面を飾ることの責任を感じるべきではないか。「歴史の鍵穴」レジェンドの轍(わだち)を踏んでは、天下の恥では無いか。いや、この場は、何の権威もない一読者の意見である。別に「神様」だと言っているのではない。

 少なくとも、これほど賑々しく自説を謳い上げるのであれば、社内で学識のある編集者の「校閲」を受けるのが、全国紙読者に対する責任ではないか。記者の俸給の水源は、善良な市井の読者の財布である。

                               以上

新・私の本棚 番外 毎日新聞【松井宏員】散歩日和 奈良凸凹編 大倭/4

大倭/4(奈良県桜井市) 時代先取り、柱が整列 夕刊総合 毎日新聞 2024/10/16 散歩日和 
私の見立て ★★★☆☆  場違いな力作 前途遼遠  2024/10/17

*始めに
 速報である。中略引用の「所引」御免。

*コメント
「時代先取り」とは、途方もないホラ話である。とんだ超能力である。
「柱穴が整列」ではないのか。

*記事所引
 辻地区の大型建物群跡は柱穴が縦軸に整然と並んでいる
 「ホケノ山と箸墓の間には大きな断絶がありますね」と梅林秀行さん。

*コメント
 そのような「深い谷」は、写真にも地図にも示されていない。不用意である。

*記事所引
 纒向の中枢は都市で、その外に古墳が並んでいるイメージだ。

*コメント
 纏向幻想(イメージ)である。三世紀当時「都市」など存在し得ない。

*記事所引
 この一画だけ地面が高くなっていて、盛り土されているのかもしれない...

*コメント
 幻想(イメージ)であるが、復元されているのは、柱穴から想定される柱である。盛り土「かも知れない」の第一感は確認されていないということか。

*記事所引
纒向遺跡の大型建物群の復元模型。

*コメント
 幻想に基づく縮尺不明の模型を「大型」と言われて困惑するだけである。

*記事所引
 ...建物の外枠に柱穴があり、伊勢神宮の正殿と構造が似ている

*コメント
 伊勢神宮が、纏向建物の後裔という指摘は新鮮である。
 建物外枠に柱穴を穿って枘(ほぞ)組みしたとは聞いていない。
 「首長」は存在したろうが、伝統される「王」かどうかは不明ではないか。

*記事所引
 方角を意識して整列した建物ができるのは飛鳥時代後期。纒向の450年後まで出てこないんですから

*コメント
 つまり、建物の軸をそろえるのは未曽有であり、それきりで滅びたのか。

*記事所引
 祭祀(さいし)に使った道具を投げ込んだ祭祀土坑や、約2800個もの大量のモモの種、国内最古のベニバナ花粉などが発見されている。

*コメント
 モモの種、ベニバナ花粉は、土坑以外のどこで発見されたのか。

*記事所引
 纒向石塚古墳...「築造年代は...箸墓より古いと思われます」と梅林さん。...いずれも卑弥呼の墓候補だという。「纒向型は...規格があったとみられます」

*コメント
 箸墓の年代が不確定である以上、他の古墳の年代も不明ではないか。何でもかでも「卑弥呼」の墓候補であれば、発掘事業は永久不滅ということか。「規格」は、技術文書であり三世紀当時ありえない。

*記事所引
 「纒向は4世紀前半、ある日突然、なくなるんです。ひょっとしたら、纒向はその後、高台に移転したのかも。」弥生時代は空白地帯だったわけだ。

*コメント
 「纏向」は、「纏向遺跡」のことと思うが、「遺跡」は移転できないのではないか。結論部で突然、「宮」が乱入して読者は混乱する。どんでん返しである。記事前半で力説したのを忘れているのだろうか。
 「弥生時代は空白地帯」とは、「空白時代」の誤記ではないのか。

*記事再確認
 纒向は東西約2キロ、南北約1・5キロという広大な面積で、その中に箸墓もホケノ山も含まれる。纒向の中枢は都市で、その外に古墳が並んでいるイメージだ。

*コメント
 要するに、「纏向」の定義が混乱しているのである。

*総評
 当記事は、署名記者の「作品」と見られるので、こうした混乱は、もったいないのである。読書欄で、若島正氏ほどの練達の著者でも、書評の短文に編集部からタップリした「赤」をいただいたという。記者の玉稿は、見放されているのかと邪推しそうである。
 それにしても、全国紙の大々的な記事は、漏れなく周到な校正がされていると期待したいところである。

                                以上

2024年10月 7日 (月)

毎日新聞 歴史の鍵穴 地図幻想批判 2 松山の悲劇 三掲

 私の見立て☆☆☆☆☆           2015/10/21 再掲 2024/04/17, 10/07
 =専門編集委員・佐々木泰造

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

◯はじめに
 毎日新聞夕刊文化面に月一の連載コラム「歴史の鍵穴」と題した記事が掲載されていて、どうも、専門編集委員佐々木泰造氏の執筆がそのまま掲載されているらしいことについて、一度触れたような気がする。

 全国紙専門編集委員の玉稿なので、校正の手を経ていないのだろうが、天下の名門毎日新聞にしては、随分不出来な記事になっていると思うのである。以下あげつらうのは、大概が、作文技法の不備であるので、誰か常識ある人がダメ出ししてあげた方がいいのではないだろうか、と思うのである。それとも、怖くて批判めいたことを言えない方なのだろうか。

 と言うことで、高名な著者の重要な記事と位置付けされているようなので、失礼を顧みず、あえて遠慮なく書いていくのである。

*松山の悲劇
 当記事では、愛媛県松山市北部の白石(地名)海岸の50メートルほど沖合にある巨石に関する論考であり、人工物の可能性について思索を巡らされたようである。

*「人工物」の可能性?
 まず抜けているのが、「人工物」の意味の掘り下げである。まさか、3Dプリンターで岩石を出力したとは思えないから、岩石自体は「自然物」なのだろう。どこを捉えて「人工物」と想定しているのか、明解に語っていないのは、不行き届きである。
 さて、「人工物」の範囲であるが、元々巨石の配置はこうなっていて、周囲の邪魔者を取り除いただけで「人工物」としたのかとも思われる。日本国内に限っても、奇岩の類いは無数にあって、人が言う「見立て」は珍しくないのである。

*大小不明の「巨石」
 当記事は「巨石」と言うだけで、外寸が書かれていない。
 「推定で100トンを超える巨石が五ツ」とあるのだが、 それぞれが100トン超なのか、五個の総重量が100トン超なのか、趣旨不明である。
 また、「三ツ石」というのは、目に留まるのが三個と言うことなのだろうが、あえて五個全体を人工物というのか、見える三個が人工物というのか、趣旨不明である
 と言うことで、対象物の観察記事が不備では、論説記事として不備ではないのかな。
 このあたりは、技術者的根性からの余計な突っ込みと言うことで片付く問題ではないだろう。人文科学者だって、データ重視のはずである。

*当地は どこ?
 後段の論説によれば、「白石の鼻 巨石群はトーナル岩」であり「当地の石」とあるが、飛鳥の亀石と並記して「当地」とくくっているから、「それぞれ」と前振りしてはいても、両者共に共通した当地、飛鳥の岩石かと一瞬思ってしまう。指示代名詞が宛先不明となるようでは、不出来な作文であるそして、肝心のトーナル岩が、「当地の石」と軽く流しただけで、元々この場所、この位置にあったものなのかどうかは推測すらされていない。

*この地は どこ?
 続いて、「この地には戦国時代から江戸時代の城の石垣がある」と書き出しているが、飛鳥の話が挟まっているから、「この地」がどこか見えなくなっている。指示代名詞が宛先不明となるようでは、不出来な作文である。

*高浜城幻想
 いずれにしろ、松山市の外縁部(はずれ)と思われる「この地」に城の石垣があったとは意外な意見である。松山城は(7世紀の視点から言うと)遙か内陸の山城である。年後の江戸時代初期であれば、「この地」から遙か松山城まで巨石を運んだとしても不思議はないのだが、この記事で問われているのは、7世紀の話である。時間錯誤ではないか。視点が大きく揺らぐようでは、不出来な作文である。

*時代超絶 海中工事
 ここで問われるのは、17世紀に巨岩を地上を遠距離運送することの可能性では無く、7世紀に巨岩を精密な構想通りに積み上げる海中/海濱工事が可能であったかどうかと言うことである。
 少なくとも一個の「巨石」 を、足場の固まっていないこの場で、この角度に積み上げたと主張すると、すかさず反論が予想される。そのような海中/海濱工事は人海戦術ではできないのである。
 千年後の江戸時代でも、周囲を埋め立てて海を乾上げた後、大規模な足場を作り、大勢で綱を引いて持ち上げるという「陸上工事」にしない限り不可能なのである。巨石の原産地からここまで陸上輸送する重労働を抜きにしての話である。

*場違いな高取、飛鳥
 なぜか、時代も状況も異なる飛鳥の石を高取城に転用した挿話が語られているが、それとこれとは、わけが違うのである。視点が大きく揺らぐようでは、不出来な作文である。

*括れない結末
 このように、この記事の筆者は、類推のあてにもならない事項をだらだらと紛れ込まして、読者を煙に巻こうとしているが、肝心の事項を語らないので、不信感を煽るだけである。

松山市 熟田津
 「熟田津は松山市内にあった」と名言が出て来るが、現代の松山市の行政区画は、7世紀には存在していなかったので、当面の議論に関係ない言葉遣いである。
 そして、ここが大事なのだが熟田津は後世文書に出てこず地名も残っていないはずである。(残っていれば推定は必要ないはず)

*斉明の船 停泊
 続いて、「斉明の船」「停泊」と簡単に片付けているが、時の権力者が単身で移動するはずはなく、五百人以上の大団体だったはずである。
 小舟一隻だけのはずはなく、そして、停泊と称し船をとどめて済むものでもなく、当然上陸するものであり、全体として大々的な「行幸」となったはずである。
 停泊というものの、一介の地方港の停泊場所では到底足りず、これも、問題になったはずである。
 そのように大船団を二カ月(?)受け入れるのには、陸上の宿舎(仮宮殿)建設、盛大な饗応(食料、飲料提供)を含めて、地元にとって大規模な、途方もない物入りであったと思われる。
 
 ついでに、派遣軍の現地徴用、軍船の随行まであったとすると、これは、世紀の大事業であったものと思われる。

 総合して、現地当事者にとっては呪わしい天災と言うべきものであったと思うのだが、なぜ、それほどの一大事に関してしっかりした記録が残っていないのだろうか。

*二ヵ月の大祭祀
続いて、筆の一振りで、何らかの祭祀を行った可能性があると漠然と言い立てているが、誰の意見なのだろうか。
二ヵ月になんなんとする祭祀が、重大な派遣軍の戦勝祈願とすると、どの神社のどの祭神の祭祀なのか、なぜ、本拠地でなく、このような遠隔地で行ったのか。伊予の祭神大三島神社から神官を呼び立てたのだろうか。なぜ、大三島で祭祀を行わなかったのか。

*虚構疑惑の由来
 とにかく、なぜ記録が残っていないのか、疑問山積である。少なくとも、斉明天皇が戦勝を期して祭祀を執り行ったのであれば、何も記録が残っていないというのは、おかしな話である。

*九州統治拠点 新設計画
 そこから、筆が弾んで、九州を統治する拠点として何か大規模な構造物が「計画されたと推定」しているが、動詞に主語がない素人くさい不備は言い立てないとしても、計画は計画であり遺構を残さないから、何か建物が建てられたのではないだろうか。当記事は、何が計画されたか語らず、計画がどうなったかも、語ってはいない。
 素朴な疑問として、それまで、九州は誰がどのようにして統治していたのだろうか。太宰府政庁跡では、7世紀より以前の遺構が発掘されていると言うことだが、それは、何だったのだろうか。
 そして、大規模な派遣軍が大敗して、そのあとはどうなったのだろうか。なぜ、そうした国家の一大事が、的確に記録されていないのだろうか

 一筆の余談がもとに、当記事の主題とまるで関係ない疑問が陸続とわき起こるのである。ホラ話に罪あり。結局、この部分は、何のために、何を求めて書き綴ったのか意図不明である。

*可能性の追求?
 斯くのごとき、華麗な余談の果て、記事の締めで、唐突に、「可能性を探ってみる価値は大いにある」と宣言されているが、それでなくても手薄な資金と労力は、別の方面に使った方が良いように思われる。ご提案の趣旨は、関連自治体へのプレゼンテーションなのだろうが、言下に却下されるべきものだろう。
 いや、筆者は、「可能性」と言う単語の意味を把握していないようなので、クドクドと書き足したのである。
 それが「実現の難易度」という意味であれば、それは、既に述べたように、机上の推定だけで速戦即決。「実行不可能」で「しまい」である。
 それがその時点で、起こりえたことで在るかどうかと言うことであれば、これも、速戦即決。「有り得ない」の一言でしまいである。
 どちらも、確定的にありえない「可能性」、つまり、自明の「不可能性」である。
 何か実現の方法があるだろうかという思考実験であれば、別に、人手も、物も、金もかからないから、お好きなようにと言うだけである。くれぐれも、他人を煩わせないことである。そして、全国紙の紙面で、個人的な夢想をまき散らさないことである。
 いや、当記事以降、「夢想」が延々と展開されて、都度ダメ出しする羽目になったのである。何とも、困ったお方である。

 と言うことで、最初に書いたように、当連載記事は、高名な著者の重要な記事と位置付けされているようなので、あえて遠慮なく書いているのだが、全体として散漫な印象が募るのは、所定の字数を埋めるためかと思われる冗句(道草)が多いからである。ポイントを絞れば、1/3の字数でまとめられたはずである。

 因みに、当ブログ筆者は、れっきとした愛媛県人であるので、我が郷土の古代史に関しては、大いに興味があり、意味のあるものであれば、後押ししたいと思っているのだが、このように筋の通らない提言には、断固として同意できないのである。

 後日談ではあるが、本件放談を、毎日新聞の権威に惑わされてか、真に承けている方がいらっしゃったので、一段と批判の必要を感じたのである。

以上

2024年9月22日 (日)

新・私の本棚 番外 毎日新聞【松井宏員】散歩日和 奈良凸凹編 大倭/2

散歩日和 奈良凸凹編 大倭/2(奈良県桜井市)卑弥呼に重なる伝説 毎日新聞大阪夕刊 2024/9/18
私の見立て ★★★☆☆  場違いな力作 前途遼遠  2024/09/22

◯はじめに
 今回は、前回の既存史料貼り合わせを離れ、梅林氏の御高説を、記者が伝道していると見える。継ぎ接ぎ感は薄れても、氏の話の筋が揺らいでいて、頼りない。「散歩」が散漫では困る。ちゃんと「レジュメ」を踏んで欲しい。

◯記事引用御免 字数制限のため、中略...多用失礼。
 国道側から近付いていく。古墳の森...。古墳には...周濠...がよく見られる...

 記者の放言と見えるが。それにしても、矢継ぎ早の「古墳」が揺らぐ。一つ目は目前の箸墓、二つ目は地域の「古墳」一般か。「良く見られる」と言うが、箸墓に「周濠」はなかったのか。随分不用意である。

「手前が前方ですね。当時の人は、この大きさにびっくりしたでしょうね」と梅林秀行さん。全長約280メートルのサイズ...

 「手前が前方」なら奧は後方か。末尾で「後円部」と書いていて、この場の失言をそのまま引用されては、論者として粗雑である。
 文字起こしの時に、引用部を追加すれば、つまらない揚げ足取りはされないのだが、梅林氏は、本記事を校正しなかったのだろうか。古来、記者の聞き取りが粗雑なのは、学界の常識と思うのだが、梅林氏は、考古史学会に属していないので、言いっぱなしで安穏としているのだろうか。
 当時、メートル表記も「サイズ」もなかった。「全長」実測したのだろうか。

 宮内庁は被葬者を...モモソヒメ...として陵墓指定している。―
 孝霊天皇は実在しないと考えられているからモモソヒメも実在の人ではないが、...神性を持つシャーマン的なところが卑弥呼と重なる...

 「モモソヒメも実在の人ではない」との断定はどんなものか。当時、『神と結婚するという神性を持つ「シャーマン」』など生齧りの言葉はなかったから、「卑弥呼」に重なるかどうかわかるはずがない。記者は、神がかりなのか。宮内庁書陵部」誹謗は、止めたのか。

 「古墳は鍵穴の形だけでなく、...」...日本書紀は、大坂山の石を...手渡しで運んだ、という。...フィクションではないのかもしれない。

 「古墳」の「鍵穴」とは、往年の毎日新聞名物コラムか。「フィクション」が意味不明だが、記者は、書紀「偽書」説なのか。趣旨不明である。

 「実は幅10メートルくらいの周濠跡...外堀がため池と化した...その先で交差するのが、いにしえからある上ツ道だ。...

 巾十㍍程度の「周濠」は何なのか。ため池」は纒向川から取水し貯水、水分する灌漑施設を計画造成したのではないか。「周濠」は「ため池」か。言葉が乱れていて、眩暈しそうである。
 意味不明の「交差」物「上ツ道」造成は、「いにしえ」と茫漠としているが、要するに箸墓造営以前か以後か。大事な事項である。

 「...箸墓は一から盛り土している。...」。...外堀になった可能性もある。
 ...「手前の大きな石が...」...十数キロを運ばれてきたのか。

 「外堀」談議ばかりで、幻の「内堀」はさておき、「箸墓」の石積みは、僅か十数キロの玄武岩一個で足りず数トンではないか。十数キロの岩を手渡しで「運ばれてきた」、いや、「運ばれていらっしゃった」はずもない。

 ...卑弥呼説もある箸墓古墳。被葬者をどう見るか? 「それ以前とは比較にならない巨大な力を持った人物...巨大な墓...で新しい仕組みを作ろうとしたのか。...モモソヒメの伝説には卑弥呼の...イメージが投影された...

 氏の論理を追うにも「箸墓」遺跡と「卑弥呼」は異次元で同一視できない。「それ以前」と言うが「倭人伝」で卑弥呼は父祖を鬼神として事えたのであり、自身を鬼神に擬えるとは不遜である。「巨大な」力は数値化できるのか。
 「巨大な墓」で「新しい仕組みを作る」とは何のお呪いか見当もつかない。
 古代に「プロジェクションマッピング」で「イメージ」(画像)投影ができたとは考えられない。「倭人伝」に「卑弥呼」「画像」は、一切書かれていない。
 記者は、「散歩」の道すがら、実景を見ずになにを見ていたのだろうか。

◯まとめとして
 記者は、座学無しの「散歩がてら」、聞き歩き/眺め歩きとスナップショット撮影の取材行で、梅林発言をすらすら理解したのだろうか。神がかりなのだろうか。
 それにしても、記者も梅林氏も、「魏志倭人伝」を誤解し続けではないか。

                               以上

2024年9月17日 (火)

新・私の本棚 番外 毎日新聞【文化財のあした】「邪馬台国 畿内説の現在... 

...日本初の都市? 纒向遺跡の遺構」 毎日新聞大阪朝刊12版文化面 2024/09/15
私の見立て★★★★☆ 文化面相応の堂々筆致。疑問点少々のみ 2024/09/16,09/22, 10/02

◯おことわり
 読みかじりでないのを部分引用で示したが、字数制限しているので、...中略記号 御免。

*記事引用
 纒向遺跡は3世紀初めに突如として出現し、4世紀初めまで営まれた大規模集落遺跡だ。...水田などが発見されておらず...日本初の「都市遺跡」...を象徴するような遺構が2009年に見つかった。
 ...3世紀前半の大型建物跡(南北19・2メートル、東西12・4メートル)が発見された。...周辺で同時代の遺構は確認されておらず、...纒向遺跡の特徴として...外部から搬入された土器の割合が高い...
 ただし、纒向遺跡の範囲は南北約1・5キロ、東西約2キロに及び、1970年代に始まった発掘調査は遺跡範囲の約2%しか終えて...いない。
 畿内説を裏付けるものとして、纒向遺跡の区域内にある巨大前方後円墳「箸墓(はしはか)古墳」(全長280メートル)の存在が大きい。国立歴史民俗博物館は...箸墓古墳の築造年代を...240~260年代と発表した。卑弥呼が亡くなったとされる248年に近く、卑弥呼の墓とみる研究者は多い。

◯コメント 全国紙の一般読者対象記事とみるので周知事項は御免。
*初歩的な指摘
 素人考えで、「纏向」が「日本」の萌芽と見るなら、「日本初」は別の意味になる。「奈良盆地初」なのか、筑紫も入る「日本列島初」のか。

*食糧事情
 農地遺構が未出土としても、何か食料を持続して手に入れなければ、生きられない。高名な磯田氏が、NHK番組で突如開示した提言の「略奪」は、たまたま一度は成果が出ても、何度も出撃してはいられない。
 「都市」は現代用語とみるが、食料生産を二の次にして商業立国しようにも、鉱工業資源が無ければ、食料は手に入らない。集落単位でも、鍛冶職人など、売るものが無くて食料は買えない。
 農地も市場(いちば)も見つかっていないと言うが、当てはずれ/見当外れか。

*全貌画定のなぞ

 「纏向遺跡」全貌を、発掘進度ゼロの時点で、「南北約1・5キロ、東西約2キロ」と画定した根拠は不明である。最初から、「遺跡」の全貌を想定していたとしか思えないのだが、見あげたものである。当時、既に、子々孫々発掘事業を担保する絵を描いたのだろうか。

 「周辺で同時代の遺構は確認されておらず」とあるが、では、周辺の「遺跡」では、何が発見されていて、その関連は、どうなっているのか。
 「纏向遺跡」指定領域の内部に「三世紀前半の大型建物跡」「遺構」が発生する以前は、どんな有り様だったのか。井の中の蛙ではないのだろうか。井戸の「外部」は、どうなのか。

 「建物遺構」が、何か得体の知れないものの「象徴」なら、首長居処、兵舎、食料庫は、何処にあったのか。
 事の成り立ちを考察してみると、「箸墓」は墓地であり、当時「荒れ地」だった「遺跡」の纒向川対岸に、随分、先だって造成されたのではないかとも思われる。

*「外来」土器のなぞ
 「外部から搬入された」と言うが、「外部」のものがタダのはずがない。普通に仕入れたのが、地域の「市場」で売買されていたと思われる。大物土器類を税納入したのなら、木簡荷札が出土するはずである。
 「人と物の往来」の街道遺跡は出土したのか。三世紀、纏向付近の南北径路は山沿いの「山辺の道」だけで、「纏向」水郷に南北街道はなかったはずである。
 「倭人伝」で当時牛馬役務はないから、全て「痩せ馬」なる人の背で運んだはずである。でなければ「纏向遺跡」の遺構に牛舎や馬小屋があったはずである。

 以上、遺跡遺物考古学門外漢の素朴な疑問に答えていただければ、幸いである。

*畿内説の裏付け
 「畿内説を裏付ける」と言うが「巨大前方後円墳...が大きい」とあるのは苦笑である。「畿内説」は古墳の巨大さしか言う事がないのだろうか。

*卑弥呼の冢 考察~「余談」記録された史実 2024/09/22,10/02 補充
 「魏志倭人伝」によれば、卑弥呼を埋葬した「冢」は、大型墳丘墓どころか「大塚」ですらなく、在来の土饅頭に類するものとされていて、ずいぶん小ぶりと思われる。大型墳丘墓の外形寸法の1/10程度であり、用地面積は1/100程度、用土は1/1000程度に収まるから、周到な計画で、広範囲に指示を出す必要のある大規模な土木事業でなく、先祖以来の墓地の増設工事であり、担い手としては、近隣の少人数の「通い」でよいから、別に急拵えしなくても短期間に出来上がるものになる。
 そうした順当な史料解釈を無視/排除して、大型墳丘墓だとしている理由が分からない。前提として、盛大に荒れ地を整地して、壮大に盛り土して、手堅く版築で突き固め、さらに、葺き石を遠隔地から大量に取り寄せて盛り土を保護するとか、埋葬のために、盛り土を改めて掘削して槨室を設けるとか、「倭人伝」を離れて迷走していることについて、判断が示されていない。
 「倭人伝」に還ると、在来の埋葬であれば、先祖以来の埋葬地で、甕棺に収めた遺骸を土中に収め、盛り土して、奴婢百人で徇葬することになる。つまり、少人数で埋葬、封土を含めた葬礼を行ったとある。
 女王府は、千人程度で運営していたとあるが、公共工事には動員しないのが常識であるから、周辺の農民に鋤鍬(すきくわ)持参の動員をかけることになったとしても、農作業に支障を及ぼさない短期間の「通い」で済んだと想定される。
 「倭人伝」は、女王に敬意を表して「大いに葬礼を執り行った」としているが、薄葬を厳命した曹魏武帝、文帝の訓示が生きていた時代、蕃夷の王が、伝統を破壊する/蕃夷の分に過ぎる、途方もなく大規模な造成を行ったのであれば、厳重な叱責の言葉が書かれたはずである。現に「魏志倭人伝」に書かれているのは、簡潔・明解な記事であるのは、そのようなとんでもないことが起こらなかったからではないかと思われる。

*「径百歩」の考証
 ここでは、これまで等閑(なおざり)にされていた「径百歩」考証を試みるものである。ようするに、三世紀に書かれた呉代史書が、どのような意味で書かれたか、手短に追及するものである。
 「魏志倭人伝」が、ここに、ほぼ初めて起用した、つまり、中国史書で滅多に見かけない「径百歩」は、ある意味、純然たる土木用語であり、直径十歩程度の「円冢」の敷地が、方百歩(百平方歩)縦横十歩程度であると報告したものである。たてよこそれぞれ十五㍍程度であって、直径十歩 の土饅頭を収めるに十分であるが、環濠を設ける必要などない。これにより、どの程度の規模の工事であり、どの程度の資材を必要とし、どの程度の労力を要したか、というか、言うに足る規模の工事で無かったと専門家が、容易に推定できるのであるから、正史夷蕃伝の記事としては、このような簡潔な記事でよいのである。
 かくして、一筆書きで「冢」の形状と土木工事の規模が把握でき、おさえに、百人程度が葬礼に専従したと示しているのが、まことに、異境の王の慎ましい墓容を示していて、筋の通った合理的な筆致であり、総合して正史夷蕃伝として、適確と思うものである。

 まして、「巨大前方後円墳」の余地はない。それが、陳寿が記録しようとして、現実に記録されている東夷の「史実」である。

 以上、陳寿「三国志」「魏志倭人伝」は、周到な編集が行われているので、「読みかじり」で自己流の書換など出来ないのである。

 「魏志倭人伝」が、当時「中国」の支配者であった司馬氏に忖度して、「巨大墳丘墓」を、卑俗な土饅頭に縮小したのであり、それが、いつかどこかで、「倭人伝」に改竄・記入されたと強弁する方がいらっしゃるのなら、その旨明言されるべきであろう。また一つ、陳寿繚乱説が増える。
 
 それにしても、「倭人伝」ほど素姓の確かな二千年ものの史料を、年代ものの盆栽のように「ちまちま」丹精して手入れするのは、程々にした方が良いのではないか。いや、これは、当記事の批評を、かなりはみ出しているが、御容赦いただきたい。

                                以上

2024年9月 6日 (金)

新・私の本棚 番外 毎日新聞 【松井宏員】散歩日和 奈良凸凹編 大倭/1 1/3

散歩日和 奈良凸凹編 大倭/1(奈良県桜井市)「歴史の鍵穴、纒向遺跡」毎日新聞大阪夕刊4版[特集ワイド]2024/9/4
私の見立て ★★★☆☆  場違いな力作 前途遼遠  2024/09/05-09

◯はじめに 「歴史の鍵穴」の遺産
 大見出しで「歴史の鍵穴」とあって、往年の専門編集委員が連発したトンデモ記事を引き継いでいるのかと一瞬身構えた。どん詰まりには、吉野山金峯山寺に吉野宮があって、厳冬・極寒にめげずに、持統天皇ご一行が行幸を重ねたと途方もないホラ話に墜ちていた。今日ロープウェイしかない登山路を、女帝を担いだ一行が駆け下りて韋駄天帰館、そして...という次第であきれ果てたものであった。

 当時、典型的な老害で、誰も専門編集委員にだめ出ししなかったと見える。天下の毎日新聞が、墜ちたものだと呆れた。同記事だけでなく、継続記事の「カシミール3D」権利侵害も、未解決である。ちなみに、「7」と書いているように、同様の不合理な地図妄想は、毎日新聞の記事として、延々と続いていたのである。当時も今も、その点では、なんの進歩もないのである。一蓮のブログ記事は削除していないから、興味のある方は、検索で発見できるはずである。
 毎日新聞 歴史の鍵穴 地図幻想批判 7 吉野宮の悲劇 1/2 再掲
 それにしても、素人目にも明らかな、曰く付きの粗雑な比喩が、堂々と継承されるとは、もったいないことである。

 なお、今回の記事に、罰当たりな吉野宮談義は出てこないし、掲示されている地図は、今日の国土地理院データに基づく現代地図としているので、重大な侵害は回避しているように見える。但し、れでは、古代の地形、特に河川の水脈が不明であるから、古代遺跡の解説図の用をなしていない。当たり前の話しだが、JR桜井線や国道169号の路線は、特に参考にならない。むしろ、梅林氏が確固たる信念としていると見える「東海方面」への交通を強く示唆する近鉄大阪線が割愛されているのは不審である。

 紙面掲載された桜井市立埋蔵文化財センター提供の立体地図は、同記事を見る限り、データ出典など一切不明であり、方位、縮尺、高度が不明である。当然、詳細な測量データに基づいた科学的な「ジオラマ」であるから、それぞれの時点でどのような傾斜になっていたのか、どの程度の流速で流下していたのか、緻密な解析が行われているはずである。また、縄文時代以来の長大な時間経過に渡る「微高地」形成史が騙られているはずである。さらには、大型建物群や箸墓の造成時の交通/物流について、堅実な考証がされているはずである。
 それにしても、掲示されているのは、部分図であり、しかも、立体画像ではないので、高低差の見て取れない。物の役に立たない単なる参考イメージである。それにしても、折角の立体図が、作りっぱなしで埋もれているのは、税金の無駄遣いと言われかねない。まことに勿体ないことである。

 同地図は、毎日新聞サイトのウェブ記事からは割愛されていて、ここで述べた批判は空振りである。要するに、桜井市立埋蔵文化財センターの諒解のない無断掲示だったようである。全国紙の報道として、もっての外ではないか。
 とはいえ、折角多額の公費を投じた地図が、世に知られないまま埋もれているのは、公費の浪費である。それとも、いずれかの場で公開されて居ねるのだろうか。そうであれば、無礼をお許しいただきたいものである。

*本文批判
 ヤマト王権発祥の地はどこか? 有力視されているのは纒向(まきむく)遺跡(奈良県桜井市)だ。弥生時代後期に、奈良盆地南東部に突如出現する大規模遺跡で、しかも一角には最初の巨大前方後円墳の箸墓(はしはか)古墳を擁する。[中略]三輪山の西に位置する遺跡や古墳を訪ねる。
 [中略]築造年代がぴったりはまることから、卑弥呼の墓とみる研究者は多い。ただし、纒向には箸墓より古い前方後円墳がいくつもある。[中略]

*揺動する論旨
 「ヤマト王権」は当ブログ圏外で、いつどこの発祥か知るところでない。また、「纏向遺跡」の定義が、記事の末尾に至るも不明である。現代考古遺跡ではないのか。二世紀に「遺跡」だったと言うことか。墳丘墓を含むのか。その場その場で表現が揺らぐ。
 出典不明の地図で「遺跡」の範囲が明示されるが、誰が、どのようにして範囲の境界を見定めたか示されていない。ここまでの連載記事で、東海方面への交通路を示唆するように示されていた近鉄大阪線が図示されていないのも、首尾一貫せず、記事趣旨に背を向けているのも、いかがわしいと言われそうである。
 どうやら、通称「纏向遺跡」の一部が「史跡指定」されているようである。もっと、その辺りを公知のものとすべきでは無いかと思われる。

*根拠不明の古墳築造年代推定
 「2009年に国立歴史民俗博物館が放射性炭素年代測定により、箸墓古墳の築造年代を240~260年代と発表した。」と言うが、「歴博」は、何の根拠と権威で「発表」したのだろうか。いずれかの公的機関に委託して「年代測定」報告を得たというのだろうが、それは、二千年過去の二十年範囲に限定できる信頼性を確証されているのか。「築造年代」は、どんな根拠で特定されたのか。科学技術の分野で当然の検証が、すっぽり抜けているように見えるのは、どんなものか。そして、毎日新聞が、そのような杜撰な考古学界活動を支持しているように見えるのは、どんなものか。善良な一介の納税者としては、多額の国費の費消について、克明な会計監査を御願いしたいものである。

 比較対照されている「魏志倭人伝」は、二千年を経て、綿密に年代考証されているが、「歴博」は、どんな確証で、卑弥呼の「冢」、小ぶりな土饅頭が、所謂「巨大前方後円墳」であったと主張しているのか。まことに、不審である。それとも、「魏志倭人伝」誤記説にこだわっているのだろうか。「魏志倭人伝」に信を置かないのであれば、卑弥呼の実在すら疑わしく没後の葬礼も信じがたいとなる。笵曄「後漢書」東夷列伝倭条の簡牘巻物「レプリカ」に続いて、陳寿「三国志」魏志倭人伝の国産化に挑むのであろうか。

*果てし無き風評論議
 記事は、「ぴったりはまる」とするが、ドロ沼にはまっているのではないか。
 賛同している研究者が「多い」とは、百人か、千人か。箸墓より古いとは、どうやって年代測定したのか。いくつもとは、何個のことか。ドロ沼である。以上、権威ある全国紙として、責任を持てるご説明をいただきたいものである。野次馬古代史マニアの言いたい放題の私見ではないのである。

                                未完

新・私の本棚 番外 毎日新聞 【松井宏員】散歩日和 奈良凸凹編 大倭/1 2/3

散歩日和 奈良凸凹編 大倭/1(奈良県桜井市)「歴史の鍵穴、纒向遺跡」毎日新聞大阪夕刊4版[特集ワイド]2024/9/4
私の見立て ★★★☆☆  場違いな力作 前途遼遠  2024/09/05-09

 ただ、大型建物群や箸墓をはじめとする古墳群を持つ纒向遺跡[中略]

 大型建物群や古墳群を持つ「纒向遺跡」』とは、錯綜・混乱している。ここは、「遺跡」論議ではなかったか。「特徴」は出ず、遺跡大小が問われて見える。

纒向遺跡の範囲
 (1)弥生後期に突然出現
 100年代末~200年代初めに現れ、[中略]4世紀前半に消滅する。

 意味不明の紀年である。普通に考えると、100年代は、101年から110年であるから、100年代末は110年であるが、当時、誰が、キリスト教紀元(ユリウス暦か)を、そこまで精密に知っていたのだろうか。西暦を、古代史に持ち込まざるを得ないとして、普通に書くとすると、二世紀中に出現し四世紀に入ってほどなく消滅したということか。なにも文書記録はないのだから、五十年、百年程度でも過剰な精度かもしれない。
 「範囲出現」は、ペンの滑りとして、遺跡構造物は、一日にして出現しない。多くの人々の労苦の成果である。廃墟となっても消滅はしない。活発な扇状地なら世紀を経ずして堆積土砂に埋もれるだろうが、ここは、そのような大河、奔流の流域ではないのである。埋もれるまでに随分な年月を要したはずである。だれか、地形変動の記録をとっていたのだろうか。それにしても、墳丘墓は、「消滅」などしていない。用語の混乱で、錯乱したのだろうか。

 (2)とにかく大きい
 東西約2キロ[中略]にわたり、後の藤原宮、平城宮、平安宮より大きい。

 定義が混乱している「遺跡」の範囲と比較したのは、平地に整地された条坊構造の城市の内部の一角である。山麓の扇状地で大規模墳墓を包含する(とも言われている)「纏向遺跡」(領域範囲が皆目不明だが)の面積とは、まるで別物/異次元であり、子供の口げんか(賈孺争言)でもないから、どっちが大きいか比べられない。つまらない御国自慢に付き合っていられない。

 (3)外来系(大和以外)の土器が多い
 出土土器の約15~30%にのぼり、[中略]外来系土器の49%が東海で、山陰・北陸17%▽河内10%▽吉備7%――と続く。

 「範囲」談議と見えない。真意不明の「ヤマト」を持ちだして、内外を仕切っているが、これら地区名は、随分後世に定義されたはずであるから、三世紀当時には、意味を持たないのである。要するに、纏向集落の権力者にとって、これらの地域は、権力圏外、異国だったと主張しているのだろうか。

*内外区分の不確かさ 2024/09/09
 ちなみに、素人考えをお許しいただけるなら、纏向遺跡の「大王」が、「東海」系の出自であったとしたら、歴史上のその時点で、「東海」は「纏向遺跡」に包含されていた、あるいは、その逆で、この地は、「東海」と言うことになるから、どちらの見方をしても、「外来」の定義を外れているように見られる。そのような形勢では、当然、東海系の土器制作技術が渡来しているだろうから、その場合も、「外来」の定義を外れているように見られる。

 (4)農耕の形跡がない
 弥生集落は鍬(くわ)や鋤(すき)が出土し、中でも田畑を耕す鍬が多いが、纒向は土木工事に使う鋤が圧倒的に多く、田畑はほぼなかった。

 「範囲」談議と見えない。弥生集落は、水田稲作で生計を立てたと理解している。論者は、「纏向遺跡」は弥生集落遺跡ではないと決め付けて、農地らしき場所を避けて発掘しているのではないか。長年に亘り、卑弥呼金印発掘に身命を賭したから無理ないと思うが、「農耕の形跡がない」と断定していいものか。

*にわか扇状地と潤沢な纏向渓流の幻想
 「纒向遺跡は、纒向川の扇状地に[中略]全く前触れもなく出現するんです」。[中略]纒向の立体地図を見ると、幾筋もの川と川の間の微高地を利用しているのがわかる。

 何の根拠があって、太古のことを物々しく断定しているのか不明である。基本的な考察に立ち返ると、「扇状地」は、河川分流の砂礫堆積物の積層であり、本来、堅固な地盤を要する大形建物の造成は困難である。また、河流に交差する「径」が造成困難であり、物資の輸送/人員の移動が困難である。現地は、三輪山山麓の扇状地なら砂礫が多く保水できず灌漑が困難である。ついでに言うと、現地は、雨季の河川氾濫で知られている。ため池兼用の環濠無しでは灌漑も治水もならない。大規模聚落は、極めて困難である。
 むしろ、纒向川は三輪山麓に扇状地など形成せず、既存の平地を削って渓谷を形成して流下していたように見えるのではないか。それなら、西方の巨大な沼地が次第に埋まって、今日の盆地西部の低地帯に至ったと見える。
 要するに、太古、前史時代以来、長期間を要した地形形成のはずであるが、3世紀時点でもどのように形成されたかという根拠はあるのだろうか。全域で、出土物の放射性炭素法検定を実施した上で言っているのだろうか。それとも、現代巫女に頼った神がかりなのだろうか。

 提示の現代地図からは、纒向川がJR巻向駅方面に北流していたと見て取れない。物の役に立っていない。

*「纒向の立体地図」公開回避の怪 2024/09/06, 07
 「纒向の立体地図」は、紙面掲載されたもののウェブ記事に表示されていないので、多額の費用を投じたと思われる「立体地図」の単なる紹介画像を評価しようがない。夕刊紙面の(不出来な)画像から判断すると、氾濫蛇行の果てに形成されたとみえる、河流に遮られた中洲状の堆積地に、どのようにして、かくも壮大な「遺跡」が造成されたか、想像を絶している。通常、地盤が不安定な、災害多発地域に「大型建物」など構想しないはずである。
 常識的に考えて、渓流の浸食、扇状地の堆積何れにしろ、タップリした水量で、滔々たる流速が無ければ、形成されないものであり、表示されているような、湿原とも見える「水郷」風景は、大河淀川の中下流を見ている感がある。
 ということで、紙面から見て取れる水郷地帯を「復元」した根拠を伺いたいと思うものである。

 根拠が確かと思えない「立体地図」 に多額の公費を投じる以上は、多年の宏大な発掘成果に基づいた考証が提案されたものと見えるのである。是非、御公開頂きたいものである。

 ちなみに、別の機関で別途作成された動画では、堂々たる大運河の水運が描かれている。絵を描いて誤魔化すのは、不合理である。

                                未完

新・私の本棚 番外 毎日新聞 【松井宏員】散歩日和 奈良凸凹編 大倭/1 3/3

散歩日和 奈良凸凹編 大倭/1(奈良県桜井市)「歴史の鍵穴、纒向遺跡」毎日新聞大阪夕刊4版[特集ワイド]2024/9/4
私の見立て ★★★☆☆  場違いな力作 前途遼遠  2024/09/05-09

纒向はどんな遺跡だった?  大型建物群、ホケノ山古墳、箸墓古墳

 「どんな遺跡だった」かは、文法、時制無視の悪文である。二千年前「纏向」は「遺跡」でなく、かくかくたる建物と墳墓であったと見える。一方、現地に大形建物群は現存/遺存せず、柱穴から画餅が描かれている。墳丘墓は、或いは復元され、或いは、放置されていて、「遺跡」と呼べるかもしれない。

*「都市」無き世界の「性格」不良
 「田畑がないということは、食料は外から供給されていた。[中略]大和以外の地域の人々が恐らく定住しており、列島規模で纒向を目指していた。多種多様な人が集まる都市的性格が強かったと思いますね」

 氏は、恐らく、人々の「性格」分析を図ったのではなく、現代で言う「都市」(とし)の性格(意味不明)をうかがわせる地域聚落(とは言っていないが)を臆測したのだろうが、どうも、「都市」(「とし」は、とても大きなまち。例えば、100万都市)なる時代錯誤の代物が当時存在したと主張しているわけではないようである。この部分は、別人の妄想のようである。「魏志倭人伝」の叡知に頼るなら、迷うことなく、普通に「纏向国邑」と呼べるのだが、中国語を解せず新語を発明する習性が、国内古代史の用語を錯綜させているから、普通の理解は通らないのかもしれない。

 当時、電話も高速道路も電車も学校もない。食糧供給機構など存在しない。水道も、新聞、テレビもない。「多種多様」とは、今日言う「多様性」の事か。

 それにしても、「纏向国邑」に、食料や薪炭の集散市場(いちば)「都市」(といち)なるライフラインはあったのか。なかったとしたら、飢餓が蔓延するのは避けられない。傷ましいことである。ともあれ、氏は、別人の新書の悪例のように墳丘上の「公設市場」の幻影は見ていない。ここは、悪例と比較すると健全である。

 都市と共に、箸墓という巨大前方後円墳が[中略]突如出現する。[中略]

 それにしても、「大和以外の地域の人々が恐らく定住しており、列島規模で纒向を目指」すとは、夢想より妄想に近いと言われそうである。いや、当時の人口統計は、一切存在しないから、何処の人が住んでいたか知る方法はない。「恐らく」などと呪文を振らなくても、否定されることはないのは明らかである。ちなみに、ここまで、「大和」がどこを指すのか不明であるから、一段と、なんの「恐れ」もないのである。それにしても、食料供給源と想定されている「外」も、「以外」も、意味不明である。言うまでもなく、記者が書き上げた地の部分はともかく、「発言引用」は、この発言にとどまらず、その場限りのものと思われるから、全体として、場当たりな憶測であるのは明らかである。ことさら「恐らく」と逃げを打つ意図が不穏である。

 列島規模」と言う方(かた)も言う方(かた)だが、担当記者先生が、口頭でレクチャーを受けて、問いかえしもせずに玉稿として、堂々と天下の毎日新聞の紙面に書かれると、目が眩んで朦朧としてくる。古代纏向に人口爆発があったという御高説の根拠も不明である。言うまでもないが、当時、「箸墓」などという名付けなどされていなかった。原稿推敲どころか、ホロ酔い「酔稿」なのだろうか。

 「いずれの要素も弥生時代の奈良盆地には見られず、[中略]一気にジャンプしています。その要因は外部の力だったのかもしれません」

 ここで乱入している「弥生時代の奈良盆地」も、趣旨不明である。現代で言う「奈良盆地」なる地形は、湖沼の枯渇などは関係なく、時代を通じて不変と見える。その場その場で、言い替えるのは、口から出任せの印象を与え、信用を無くすだけである。
 既存の文章を囓り取りしているため、「要素」、つまり、必須の構成要件が明言されてないのは、たいへん胡散臭い。「ジャンプ」しようにも、踏切板が不明ではどうしようもない。まして、「外部」陰謀説は、けったいである。列島は、纏向政権の支配下であったのではないのか。何処に、外敵が居たのだろうか。

 結局、氏の持説らしい「ヤマト王権東海起源」説の捏ね上げであるが、根拠は、遺跡遺物の「土器」に東海由来と見えるものが多いという事なのである。
 日用「土器」は、雑貨「商品」であるから「ある」ところから「ない」ところに、自然に流れ着いたと見る方が自然ではないか。それとも、東海勢力の兵団が、大挙進入して纏向に居着いたのか。もっと、普通の言い方で、わかりやすく主張できないものか。

 同様の言い方で言うと、楯築の特殊器台は、雑貨「商品」なのか聖器/祭器なのかはともかくとして、何とか渡来したかもしれないし、楯築の集団が大挙進入したとも見える。拘わっていたのは、先ほどまで氏が述べていた「地域勢力」であって、地理概念である「地域」などでないのは当然である。用語を動揺させて、読者の眩暈(めまい)を誘うのでなく、口を慎むべきである。

【松井宏員】

 ■人物略歴 梅林秀行(うめばやし・ひでゆき)さん
 京都高低差崖会崖長。京都ノートルダム女子大非常勤講師。フィールドワークを通じて都市の歴史を研究する。[中略]

◯まとめ
 要するに、本記事は、考古学者ならぬ博物学者である梅林氏の素人考古学談議を、素人ならぬ新聞記者が、専門家としての技巧を尽くして、一般読者向けに文書化したものと見える、全体を通じた視点、用語の動揺は、梅林氏の「私見」のうろ覚えの口頭発言の用語、論理の乱れによるものなのか、複数の別人の個性的な所見の混入したものなのか、松井記者の見識に基づく勝手な書換なのか、善良な読者を苦しめるものである。

 例えば、目前の「遺跡」と古代の「地域集落」が、どう関連するのか、その場その場で動揺し、混濁しているのでは、眩暈が生じて卒読に堪えない。

*ご注意 2024/09/06
 当初、紙面掲示された「纏向遺跡の立体地図」について論評していたが、ウェブ版では削除されているので、記事本文に対してコメントしている。当然、取材時に撮影許可を得ていたはずなのだが、なぜ削除されたか趣旨不明である。多額の公費を投資して制作された「立体地図」の単なる紹介の公開を憚る意図が不明である。

                                以上

2024年9月 5日 (木)

毎日新聞 歴史の鍵穴 地図幻想批判 7 吉野宮の悲劇 1/2 再掲

  大海人皇子の吉野宮 天智の宮の真南か
 私の見立て☆☆☆☆☆ 飛んだ早合点   2016/11/17 再掲 2024/04/17, 09/05 

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

◯はじめに
 いや、懲りない(Die-hardest)というか、まだまだ(Yet yet more)と言うか、何というか、また、とんでもない記事が出てしまった。専門編集委員殿は、御自分の論説の破綻を全然然理解していないようだ。

*不吉な開始
 今回は、タイトルからして不吉である。「大海人皇子の吉野宮」と所有格で書かれているが、天皇でも無いものが「吉野宮」を所有できないのは自明である。明らかに「斉明天皇の吉野宮」とでも呼ぶしか無いものである。

*不当なこじつけ
 それにしても、積年の地図妄想が昂じたのだろうか、突然、権威ある全国紙の権威ある専門編集委員によって高らかに「吉野の宮」に比定された金峯山寺も大変な迷惑である。現在は、一見すると仏教寺院のような寺号であるが、山岳信仰から発した修験道の本山であり、俗世から離れた修験道の精進潔斎の修行の場であったと信じるものである。

 それが、実は、齊明女帝の行幸先として創設されて供宴の場などに供されていた、持統女帝は、三十三回も金峯山寺を訪れていたなどは、ありえないのではないか。俗世の悪を逃れていたはずの精進潔斎の場が、天皇家の建てた場での天皇家の御用であった、つまり、俗世の取り付いた不浄の場であったのを隠していたことになる。とんでもない言いがかりではないかと危惧する。

*酷冷の山上
 因みに、金峯山寺は山上にあり、冬季の気象は酷寒と言うべきだろう。南に行くほど温暖な外界と異なり、奈良盆地南端の吉野界隈は、南に行くほど、高度が募るので、寒冷地になる。
 現地に到る行程の急峻さを言うと、電車は急勾配を登れないので、近鉄吉野線は麓で終点であり、ロープウェイに乗り換えなければ登れない。当然、古代に於いて食料や水の搬入は至難の労苦である。

 歴史的事実として「金峯山は中国で書かれた『義楚六帖』(九五四年)にも「未だかって女人が登ったことのない山で、今でも登山しようとする男は三ヶ月間酒・肉・欲色(女性)を断っている」と記されていると指摘しているサイトもある。
 いや、当ブログ記事は、修験道に於ける女人禁制の是非を論じているのではなく、歴史的事実を指摘しているだけであると理解頂きたい。「大峯山・山上ヶ岳の女人禁制はどうして生まれたか?」: 山人のあるがままに 

 同記事の筆者たる専門編集委員は、いずれかの安穏な書斎で、PC/MACの操作でこの場所を見つけて、温々とした書斎で意気揚揚と記事を仕上げたのであろうが、現地は、ぼちぼち冬支度に勤しんでいるはずである。
 いや、定説となっている下界の「宮滝」の地すら、冬季は、露天の水たまりが凍結するような世界である。こればっかりは、現地体験してから書いていただきたかったものである。

*「決めつけ」の宮滝を棄てた「決めつけ」
 それにしても、日本書紀の記事の不確かさを知りながら、書紀に書かれている「吉野宮」は、現代地名の吉野にあったに違いないと強引に決めつけ、河川交通の便がありそうに見える定説の宮滝の比定地を捨てて、険阻な山中の金峯山寺に比定するという姿勢自体、無理の塊である。
 修験道の場ということ自体、交通の便がないことは自明であり、今日の交通事情を見ても、観光名所でありながら、近鉄特急が乗り入れているのは山麓附近で終点であり、以下、吉野ロープウェーで100メートルあまりを上るのである。

 そのような場所に、持統天皇が時期をかまわず33回(天皇在位期間中の「行幸」は31回とのことだが)も行幸するとは、どういうことなのだろうか。天皇の行幸は、一人二人の話ではなく、五十人、百人で済まない関係者ご一行の到来である。まして、高貴な身分の方は、背負ってでも登らないといけないのである。

*不可能な強行軍
 また、今回の記事を信じるなら、齊明天皇は、三月一日の吉野の宮での供宴の後、当然一泊したはずであるが、三月三日には、飛鳥まで(直線距離で15㌔㍍というものの、直線で移動する道がないのだから、この数字自体に大した意味はないのだが)帰り着いただけでなく、道を改めて(直線距離で70㌔㍍というものの、この数字自体に大した意味はないのだが)近江に着いたというのである。
 ちなみに、(当時知られていない)太陽暦の西暦年に、太陽暦と月日がずれている陰暦(当時現役の暦制だから、旧暦というのは間違っているが)(旧暦)の月日を繋ぐ「愚」は、とんでもない時代錯誤であり、記事の権威をぶちこわすが、この際追究しない。

 さて、一日35㌔㍍は、平坦な道路で健脚の成人男性が、手ぶらであれば、何とか踏破可能だろうが、道だけとっても、曲折起伏険阻の困難があって、実感は、何倍にも達する筈だが、当方の手元には資料が乏しいので、よくわからない。どのような交通手段、運搬手段で、一行は、両地点間を移動したのだろうか。当初書き漏らしていたが、女帝以下の貴人は、徒歩や乗馬の筈はなく、馬車、牛車、輿などで移動したはずであるから、一段と、行程は難渋したはずである。牛馬は、蹄鉄を打っていたのだろうか。強行軍を、乗り継ぎなしに乗りきったのだろうか。疑問が絶えないのである。

 以上、えらそうに書いてきたが、別に、現地に行って自分の目で見て、踏破したわけではなく、つまり、現場を実体験していないので恐縮だが、Google Map などのネット情報と一般常識に基づいて思索したものである。

 ということで、ちょっと考えただけでも、とんでもないお話であるが、時代背景や修験道の来歴の考察もなしに、金峯山寺に「吉野の宮」に比定する私見が、そのまま毎日新聞の専門編集委員のご高説として紙面に載っているのである。
 試練ならぬ試錬で叩かれ鍛えられた記事は信用できるが、軽率な思いつきで書き立てられ、批判されていない記事は、信用できないのである。

 個人的な発想であれば、何をどう考えようと個人の自由かも知れないが、全国紙の文化面にここまで執拗に自説を書き連ねるというのは、どんな神経、倫理観なのか不思議である。

 「専門編集委員」の特権で、記事内容について無審査で掲載しているのだろうが、「専門編集委員」の記事は、毎日新聞社の記事である。毎日新聞社の名声にドロを塗るような記事を延々と掲載している意義は、一介の定期購読者として理解できない。

未完

 

毎日新聞 歴史の鍵穴 地図幻想批判 7 吉野宮の悲劇 2/2 再掲

  大海人皇子の吉野宮 天智の宮の真南か
 =専門編集委員・佐々木泰造
 私の見立て☆☆☆☆☆ 重大な権利侵害の疑い   2016/11/17 再掲 2024/04/17, 09/05

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

◯本論
 当連載の問題点の内、執拗なものは、毎回同一症状なので、本来は、またやっている程度で済むのだが、それでは、書いていてたまらないので、ちょっとずつ視点を変えて指摘するのである。それにしても、どう言えば、理解できるのかと困惑しているのである。
1.プログラムの権利侵害
 今回も、当記事で「カシミール3D」を引き合いにしているが、プログラム作者の権利を侵害していないだろうか。
 プログラム作者は、現代の環境、つまり、国土地理院の地図・地形データなど、動作確認済みのデータを使用する際には、表示対象となっている地形を正確に表示するように努めたはずである。(当然果たすべき機能として、暗黙の保証がされているのである)しかし、誰が考えても、それ以外の条件については、何の保証もできず、従って、責任もとれないはずである。

 いかなる地図データもない7世紀について、現時点の地図データを適用して地図化することは、「カシミール3D」の保証外と言うか論外であろう。また、地図上の遺跡、遺構の位置については、さらに明らかに「カシミール3D」の保証外である。

 つまり、プログラム作者の保証できないような利用方法でありながら「カシミール3D」で作図したと表明して、読者が、記事の主張は(信頼性に定評のある)「カシミール3D」で確認済みだから根拠がある、と誤解させるのは、欺瞞行為であろう。

 まして、ここに示されているような使用方法は、「カシミール3D」のいわば改造に類するものであり、改造されたプログラムの動作結果に「カシミール3D」の名を冠して表示するのは、プログラム作者の権利の重大な侵害と思う。

 従って、常識で考えればわかるのだが、この記事で示されている図や距離、角度の数値は、同記事筆者である専門編集委員が「勝手に」、つまり、記事筆者が自己の責任の基に勝手に取り出したものであり、その旨明記して、「カシミール3D」に責任がないこと、つまり、「免責」を明記しなければならないと思うのである。

2.データベースの権利侵害 
 「カシミール3D」は、自身の地図・地形データを持たず、何れか動作確認済みの地図・地形データを利用するものであるが、ここまでの連載記事に、地図・地形データ提供者の表示がないのは、まず第一に不当なものと考える。

 記事に掲載された地図、角度、距離などが、データ提供者の地図・地形データを利用したことが書かれていない上に、そのデータ以外のデータ、つまり、遺跡遺構の位置など、追加した部分の地図・地形データ提供者が書かれていないのである。

 さて、データ提供者が提供している地図・地形データは、言うまでもなく現時点のものであり、その正確さについては、地図・地形データ提供者が責任を持って保証しているものと信ずる。

 現代の地図データの信頼性は、測定時と現在の間については、校正され、ある範囲内の精度が保証されていると思うのだが、古代地形については、その時点で測定していないから、地図データがなく、保証できないのが当然である。
 現時点の地図・地形データを古代に適用して勝手に古代の地図を描くのは、地図・地形データの時間要素の改造にあたり、誠に勝手な使用であり、現代の地図・地形データ提供者が提供しものだと暗に表明するのは、地図・地形データ提供者の権利の侵害である。

 現在まで連載記事の地図などに使用されたのは、おそらく国土地理院の地図・地形データだから正確なものと読者が想像すると、読者は、国土地理院は、現在の地図・地形データが7世紀にそのまま適用できると保証したと勘違いしてしまうのである。

 過去の批判でも言ったのだが、当記事で「カシミール3D」を使用しているとだけ言って、その後、0.1度単位の高精度の数字を得たと書くと、それは、「カシミール3D」が、精度というか信頼性を保証していて、記事筆者は、それを信じて書いた、となってしまうのである。計算結果の数字が間違っていたら、それは、「カシミール3D 」ないしは影に隠れている国土地理院の責任になってしまうのである。誠に、無責任な態度である。

 常識で考えればわかるのだが、この記事で示されている図や距離、角度の数値は、記事筆者たる専門編集委員が「勝手に」、つまり、自己の責任の基に勝手に取り出したものである旨明記して、地図・地形データ提供者、おそらく、国土地理院に責任がないこと、免責を明記しなければならないと思うのである。

 以上を総括すると、一連の記事は、古代遺構が地図上で直線上にある、などの地図上の数値データによる判断だけを論拠にしているから、それらの数値データが科学的な根拠を持たない、いわば、記事筆者のお手盛りの捏造データであるとしたら、これまでの連載で提示されたすべての仮説が捏造となる。とんでもない話である。

 毎日新聞は、科学的な根拠の提示されていない、妄想としか言えない記事をなぜ、延々と掲載し続けるのだろうか。専門編集委員の名の下に掲載された記事について、毎日新聞社が責任をもつというのはも当然の理窟に思える。

 当方は、個人の誤りは当人が自力で気づいて訂正しない限り解決しないという考え方をしているから、「自力で気づいて」くれるように、毎回穏やかに綴っていたが、その気配はなく、今回は、また一つ当方の忍耐の限界を超えたようである。遂に、プログラム作者やデータ提供者の権利侵害、つまり、犯罪行為だと指摘せざるを得ないところに来ているのである。

以上

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