毎日新聞 歴史記事批判

毎日新聞夕刊の歴史記事の不都合を批判したものです。「歴史の鍵穴」「今どきの歴史」の連載が大半

2021年6月 5日 (土)

新・私の本棚 番外 毎日新聞のはやし立てる 「今どき」の「歴史」と「進化」~平城京 第十条発掘綺譚 

 『平城京「十条」の発掘 九条の数百㍍南 「常識」揺るがす 歴史は調査で進化しうる  2021/06/05
 今回の記事は、本日(土曜日)付毎日新聞大阪夕刊 「岐路の風景」なる月一連載コラムの批判である。

⚪蒸し返しの確認
 記事の内容は、2007年に奈良平城宮関連遺跡の発掘で、従来南北九条とされていた平城京の第十条相当地に東西方向の道路遺構が発見され、発掘担当の奈良市教育委員会が平城京十条大路と断定したのに学会の同意を得られず、15年を経て、未だ、正当な学説として認知されていないことに、毎日新聞が、義憤を感じて、提唱者に加担する記事を書いたようである。全国紙ともあろうものが、何を今さら蒸しかえすのか、と不審を感じさせるのである。

⚪異様な展開に不満
 当ブログ記事筆者にとって、同時代、同地域には、誠に疎いので、記事に書かれている提唱者の言葉遣い、論考展開と毎日新聞社の態度に異議を唱えるものである。いや、学界構成員でないので、ただの素人考えを述べるのであるが、提唱者の世界観に大変不穏当なものを感じるのである。

⚪不穏当な語彙~今どきの「歴史」、「進化」
 記事タイトルにもなっている『 「常識」揺るがす 歴史は調査で進化しうる』なる言葉遣いは、学問的な「普通」の語彙に反しているのである。
 まずは、今どきのはやり言葉である「歴史」、「進化」の蔓延させている誤解を正す。

*「歴史」と「進化」の由来

 「歴史」とは、過去この世界に生じた出来事の積層であり、一度この世に生じた以上、書き換え、塗り替えなどできないのである。言い直すと、『歴史は』 不変である。

 恐らく、世界史的に見て後進国である英語圏の世界観、歴史観を直輸入しているのだろうが、日本には伝統があるのだから、勝手に、確立された「歴史」という言葉を乱さないでもらいたいものである。

 狭い学会で長年過ごしてきた提唱者は、そうした配慮は知らないのも仕方ないとしても、全国紙たる毎日新聞には、言葉に対する基準として断然守るべきものがあるはずである。文化遺産たるべき「言葉」の護り人として、当ブログで警鐘を鳴らしている外来カタカナ語の蔓延防止もさることながら、歴史的用語を守らねばならないのではないか。

 「進化」とは、ダーウィン進化論で知られるとおり、突然変異によって生じた新種によって与えられる、適者生存の生存競争、優勝劣敗の試錬であり、軽々しく口にすべきではないのである。学校でちゃんと教えて貰っていないのでしょうが無いのだが、まるで、今生きている人々が新人類に変身するかのような非科学的な「まやかし」に乗せられてはならないのである。少なくとも、勝手に、多数の先人が労苦の果てに積み重ねてきた伝統的な概念を踏みにじって、にわか作りの子供じみた思い付きを蔓延させないで欲しいものである。

 理屈のわからない子供に、当人の理解を超えた理屈を言い聞かせるようで、このような「苦言」は、なんとも甲斐の無い徒労の予感がするのだが、言うべき事は言うのが「誠意」の極みと思うのでも、敢えて書き遺すものである。

*不出来な新説、不出来な論証
 要するに、提唱者は、新規発見、新理論を見つけたから、古いものはさっさと捨ててしまえ、と言っているのである。

 しかし、それは、適者生存の生存競争に勝ち抜いての話であり、後発の者が常に勝つものではない。むしろ、「歴史」は後発の者が敗北した積み重ねである。俗に死屍累々と言う不快な表現をお許し頂きたい。但し、ここは、学問の世界であるから、感情を排して、議論で勝敗を付けねばならない。

*異様な「鳥肌世界観」
 提唱者は、古代ギリシャのアルキメデス以来、しばしば盗用されている「ユーレカ」症候群の罹患者らしく、事実かどうかは別として、慄然たる感激を覚えた「フィクション」を押し立てているようであるが、予兆としての「鳥肌」の解釈を間違えたようである。本来、おぞましく感じるはずなのに、至高の快感に溺れたようである。考古学に限らず、新説の90㌫は、はなからジャンクである。学問の徒として、恥をさらしているかも知れないという懸念は、生じなかったのだろうか。

 言うまでもないが、慣用句の現代風誤用を毎日新聞が政策的に煽り立てているのでない限り、「鳥肌」は、歴史的に慄然たる不快感で定着している。定例の解釈は、ガラスに爪を立てて引っ掻く響きによって掻き立てられる絶大な不快感であり、そのような不快な連想でおぞましく思う読者も少なくないのである。
 毎日新聞には、多くの人に不快感を与える忌まわしい表現を避ける報道者としての良心はないのだろうか。

 それは置くとして、少なくとも、この下りは学術的論議には、場違いな発言である。提唱者の名誉のために、毎日新聞は、この部分を割愛すべきであったろう。何しろ、学術的な主張に於いて、無用の冗語だからである。

 定説を乗り越えるためには定説の語彙に通暁しなければならない。定説の深意がわからずに、勝手な思い付きで言い分を言い立てるべきではない。

*自家製「曲解」観
 記事の後半に向かい、提唱者は、殉教者気取りで、学説審査の場で経験したダメ出しを忌み嫌っているようだが、解釈が合わないのは、自分の曲解か、相手の曲解か、双方の曲解か、冷静に判断し、克服すべきもののように思う。
 冷静に言うと、当時、キッチリ裁定しなかったために、議論の敗者が自覚せず、自身で是正しなかったので、15年後の今に至る「恨み」が残ったのである。

*論証の常道
 小生の素人考えでは、平城京時代には、法制が整い文書行政が確立していたはずだから、日本の帝都としての「平城京」に、公式に第十条が実在していたのなら、計画時点から平城京運用時までの一世紀近い期間に、何らかの文書記録が残ったはずである。あるいは、現場に荷札などの木簡が廃棄されたかも知れない。現場付近に詰め所のような仮小屋を建てたかも知れない。
 提唱者は、一件でも、そのような(文書)記録を提示する必要があったのである。
 「第十条は存在しなかった」というのが、多数の権威者の意見、「定説」である以上、十分な証拠で、その「定説」を覆すのが提唱者の務めと言うべきである。

 提唱者が、歴史学の定説は、最新の調査成果を取り入れて、不適切な点は是正すべきだというのは、(用語の不具合を補正すれば)一般論として耳を傾けるべきであるが、立証責任が果たされていないという多数の意見で却下されて17年間か経過する間、このようにうじうじと恨み言を唱えるだけで、ひたすら自説の風化するに身を任せているのは、一部古代史論に見られる「新発見」待ちの神頼みに似ているように見える。勿体ないことである。

*奈良市教育委員会「発掘報告書」のなぞ
 因みに、記事には、肝心な点が書かれていないのだが、「奈良市教育委員会」がどのような審査を経て、提唱者の「思い付き」を支持したのかということである。当記事を公開する際には、提唱者の主張の裏を取るために、取材すべきではなかったかと思われる。市の公費を、学界で認められていない異説の振興のために投じたと言われないために、審議したはずであるから、当時の議事録を公開すべきではないか。

 世上、地方公共団体の遺跡発掘の報告書に於いて、未検証の「思い付き」が、貴重な公費を費消して刊行されることが珍しくないと聞いているので、本件がそのような風評に属さないなら、提唱者の言い分を無批判に押し立てるのではなく、毎日新聞社として当該報告書の書評を収録するなり、読者に対して論議の経緯を明らかにするのが、毎日新聞読者に対する責任と思うのである。

*定説派の卓見
 提唱者自身の認めるように、第十条部分が平城京仮設段階で棄てられたと見れば、「常識」に何の不都合もないように思える。

 『平城京「十条」の発掘 定説動かず「九条」 奈良大教授・渡辺晃宏さん』と題した囲み記事で、定説派の見解が丁寧、かつ簡潔、平明に述べられているが、提唱者への配慮で明記を避けたと思われる深意は、「学問上の議論は論議するものであり、裏付けのない思い付きに感情的に固執するべきではない」と言うことのように思うのである。
 渡辺氏は、遺跡が当時のものと想定し、但し、一時何らかの工事が行われたと好意的に推定していて、遺跡の意義を否定しているのではないのである。

 当ブログ筆者には、今回の報道に於いて、毎日新聞担当記者の見識眼が、随分撓んでいるように見えるのであるが、これは、語彙の鬱屈も含めて、ジャーナリストに普遍的なものであり、別に個人批判しているものではない。ただ、毎日新聞社としては、報道の倫理にそっているかどうか、今一度監査が必要ではないか。

以上

2019年12月 1日 (日)

今日の躓き石 毎日新聞の一大虚報 「漢字のルーツ」解明談 2/2

漢字のルーツ、金文は「筆文字」か 京都の美術館など、鋳造技法解明

 *私の見立て ★☆☆☆☆ 錯誤が大半の虚報     2019/12/01

*新規性の認知
 因みに、研究者は、「中国清代の学者、阮元(げんげん)が約200年前の文献で触れていた筆を使う手法に着目した」と明言し、研究の意義を適確に認識していると思われ、今回世に出てしまった記事暴走は、研究者の妄想が報道されたのではなくて、担当記者の読解力、理解力不足によると思われます。
 それが、かくの如く無様に露呈したのは、一つには、先に書いたような報道資料の公開、提供が無かったための誤解誘導と、新聞社編集部門の統率力不足が原因と思われます。担当記者が、ものを知らないそそっかしい性格でも、社内には、中国古代史に関して豊富な知識を備えた諸先輩が健在なはずであり、なぜ、独断でこのような間違った認識の下に、かくも粗雑な記事を書いたのが、世に出たのか、新聞社としての体制を疑うものです。

*筆が先か金文が先か
 もし、当時、筆書きが一切なかったとしたら、世に筆も墨もなく、筆書きに適した記録媒体もなく、金文工の創始した王室秘蔵の書法が、筆書きに適した媒体の開発として普及することはなかったとみるものです。
 特に専門家でなくても、一般読者はご承知のことと思いますが、筆と墨は、総合技術の精華であり、何もないところから即座に生まれるものではないのです。私見ながら、金文が、他の書記媒体に先行したという見方は、随分筋が悪いと見えます。
 いずれにしろ、どちらが先であったか、証拠はないのだから、少なくとも、軽々に金文筆書き先行を大発見のように言い立てるのは、学問の道でないように思うものです。研究者が、かくの如き虚報(フェイクニュース)に加担したとみられるのは、大変気の毒に感じます。

 以上、学問的な考え方について、素人なりの批判を加えたものです。

*成果の特定 (談話引用)
 東京国立博物館・富田淳学芸企画部長(中国書法史) 殷周時代の金文は書に携わる人にとってお手本とも言える文字。ただ、どのように製作したかは分からず、筆の使用は多数ある意見の一つに過ぎなかった。今回、実証的に筆で説明が付くと示したことは意義がある。この説が正しいとすれば、金文は筆の跡そのものが鋳込まれた、筆の魅力を十二分に表す書体と言えるのではないか。

 台湾中央研究院歴史語言研究所・内田純子副研究員(中国考古学) 中国青銅器の製作技法はホットな研究テーマの一つで、銘文の付け方は古今東西の学者が頭をひねって謎を解こうと挑んできた。研究グループは製作の痕跡を丁寧に観察し、鋳造実験を繰り返してこれぞという方法にたどり着いた。青銅器研究者を驚かせる成果だ。

 ここに、まことに適確な談話を紙面から引用したように、発表されたのは、「青銅器の製作技法」の細目であり、それは、高く評価されるべきです。この談話が、担当記者によって、どうして不届きな独断発表と誤解されたのか、大変不思議に思います。

 因みに、ここで言う伝統的な言い回しである「驚き」は、好ましいものであり、今日流布している「サプライズ」や「ショック」のように、原義で不快なものであるものを、勝手に誤解して無神経に採り入れたものではないことは、念を押すまでは言うまでもないでしょう。

 言うまでもありませんが、漢字の起源は、甲骨文字の甲骨への書き込みであり、筆文字の起源は、それを「紙面」に表現する書法であったはずです。

*報道の暴走の戒め
 と言うことで、本記事で、見出しを含めて、毎日新聞が読者に提供したのは、早とちりの誤解であり、俗に「ガセ」と言われるフェイクニュース、虚報かと思わされます。玄人向けの地味な話題を一面トップ大見出しにしたのには、そうした疑念が漂うのです。
 結局、毎日新聞にとって、夕刊紙面は、実験の場になっているのではありませんか。「フェイクニュース」でしょうが、独善、独断でしょうが、生煮えを構わず紙面に出してしまうと言うことではないのですか。
 毎日新聞社の全国紙としての見識はどうなっているのでしょうか。夕刊一面大見出し記事であるから、全社の信用をなくす物になっているとは思わないのでしょうか。
 これなら、個人ブログと大して変わらない空騒ぎであり、夕刊はこの程度という姿勢と見えます。これなら、毎日新聞に夕刊は不要と思えてきます。

以上

今日の躓き石 毎日新聞の一大虚報 「漢字のルーツ」解明談 1/2

                           2019/12/01
漢字のルーツ、金文は「筆文字」か 京都の美術館など、鋳造技法解明

 *私の見立て ★☆☆☆☆ 錯誤が大半の「虚報」

*遅筆の弁
 それにしても、毎日2019年11月25日夕刊の「漢字のルーツ」には、二重の意味で恐れ入りました。それぞれ、少々念を入れて指摘することになったので、日数がかかったものです。(「泉屋博古館」、「芦屋釜の里」発表と推定)

*「ルーツ」の悪用
 このカタカナ言葉の出典は、アフリカ地域社会、つまり、主権国家の担い手であった誇り高い男性が、大勢の同胞とともに、欧州奴隷商人に無法に拉致されて、アメリカ南部で蛮人異教徒奴隷として、終生、そして、子孫に至るまで、苦役に囚われたという忌しい物語です。

 それは、大航海時代のもたらした欧州先進国の罪悪を暴き、合わせて、当時新興国家であったアメリカの経済発展を支えた奴隷制度への非難も込めています。しかし、日本メディアの扱いは、そうした「拉致」に始まる苦々しい告発には無頓着で祖先捜しの要素だけがもてはやされているようです。

 今回の記事は、原典比喩からみると、中国文化の根幹である漢字は、異国から略奪されたものと告発しているように見えます。軽率な原資料用語の引き写しとしても、天下の毎日新聞なら大胆な欧米に対する弾劾となるのです。普通に「源流」と言えば、そのような忌まわしい連想は生じないのです。

*「漢字のルーツ」
 後段は、良くある新説を「十分な検証」なしに、こうすればできるという一例の「実証」だけで、表沙汰にしたように見えます。学術発表は、学会内で、追試、反駁応酬の手順で、重大な試錬を経て公表すべきと思います。また、今回のような取材の歪曲から起こる難詰を避けるためには、発表者自身が責任を持つ「発表資料」(レリース)を配布すべきものと思うものです。是非是非、古代史関係者の認識を改めてほしいものです。

 担当記者は、「漢字」の自己流解釈に基づいて、漢字文化の(いかがわしい)源流を探り当てたと言いたいようですが、浅薄な誤解でしょう。あくまで、今日漢字の「書」としての側面に限定すれば、楷書、行書に代表される書体の起こりが筆文字であることは、ほぼ異論は無いものと思います。

 今回の発表は、金文文字は、別世界から掠奪・拉致したものではなく、中原に於いて、青銅器への文字書き込みの技法として筆文字が創出されたと言うようですが、そのような仮説は、実証不可能のように思います。一つには、そのような決め込みは、金文創生期まで、金属針で引っ掻く金釘流の甲骨文字しかなかったという先入観、と言うか、認識不足、勉強不足の大間違いに災いされているようです。

 しかし、少し考えればわかるように、当時、広大な領土を有する中原国家が成立し、封建諸公を統治していた以上、国家制度の規定、文書交信、戸籍、財政管理、諸公との締盟など、厖大な文字の書き出しが行われていたはずであり、記録媒体が、亀甲のように不朽のものでなく、また、亀甲のように地下深く埋蔵されなかったために、今日に残存してないだけと思われます。まだ、竹簡、木簡の多用は始まっていなかったかわかりませんが、かたや、筆の工夫は始まっていたと見るのが、普通の考え方と見るべきではないでしょうか。

 つまり、筋のよい考え方としては、金文筆文字の創始は、当時、世に行われていた筆文字を、「金」、つまり、青銅鋳物の表面に適確に再現する手法が、王室の門外不出の秘術として開発されたということのように思うのです。

 と言うものの、研究発表の事実報道部分を読むと、一つの手法で、実現可能であるということが証されただけであり、実際にそうであったかどうかは、別儀ですし、また、その手法の創始の際に、筆文字が創案されたという証左ではないように思えます。多少の常識が働けば、そのように考えるはずです。

                                   未完

2019年8月26日 (月)

新・私の本棚 番外 毎日新聞「今どきの歴史」 沖縄考古学会の試錬

 私の見立て★★★☆☆ 購読料相当ないしそれ以上のもの     2019/08/26

 題材は、毎日新聞夕刊文化面の月一歴史コラムで、今回は、発足五十年目前の沖縄考古学会会長上原靜(しずか)沖縄国際大教授の高説の紹介です。

*お「熱い」のは嫌い
 「グスク時代の研究が熱いです」とは、とんでもない開幕ですが、いくら、発言の引用報道としても、史学者として、最新の研究状況を毎日新聞読者に伝える際に、このような低次元の言葉の乱れは、ご本人に勿体ないものと思われます。

 本文として、一般読者になじみのない「グスク時代」には説明がありますが、全体に、従来と今回紹介との時代区分の差異が不明確です。
 教養豊かな担当記者には自明でしょうが、沖縄における「先史時代」とは、いつどのような時代なのか説明がありません。七世紀以降のようですが、「先史」とあるのが、石器時代の言い換えなのか無記録時代の趣旨か不明です。

 遣唐使が「盛んに」往来したといっても二十年一回程度で、誇大視する根拠が不明です。遣唐使来訪で、物資買付けならぬ物々交換で中国銅銭を代価としたとは首尾が一貫しません。貨幣経済がなければ、貨幣を「富として」蓄えないから、装飾品と見なされていていたとする定説が、今回、何が原因で、貨幣経済ありきと変わったのでしょうか。

 以上は、素人考えですから、専門家にしたら、子供みたいなこと言うな、勉強して出直して来いというものでしょうが、ここでは、歴史マニアならぬ一般人の意見として、初見の所感を率直に述べたものです。

*南海の提言
 さて、今回も、記者は、氏の発言をさかなに自説を展開しているのでしょうが、氏の提言と記者持論が混沌として最後の訓辞は難解になっています。

 「本土は何かと沖縄に固有性を求めがちだと思うが、それも平板すぎる。沖縄考古学の今後の新しい発信に注目したい。」

 ここは、記事の地の部分で、記者私見のはずですが、それにしては、随分粗暴な押しつけと感じられます。
 「本土は..がちだ」は、我々一般人への批判らしいのですが、少なくとも、当方は沖縄の文化的独自性が好ましくても、ないものや物足りない所をひねり出すように強要するつもりなど、全くないのです。この下りが記者の自省の趣旨だとしたら、勝手に自戒/自罰するにとどめて、他人を巻き込まないで欲しいものです。
 沖縄考古学の「新しい発信」で記者は何を要求しているのでしょうか。当方の受信機のスイッチは切れているので、無縁の衆生です。
 「平板」とは、どんな趣旨でしょうか。この場で「的」の付かない名詞もどき、隠れ形容詞「平板」の起用は、場違い、かつ、異例で、氏の玉稿に「平凡」の誤記があったかと勘ぐり、ここで頓挫しました。
 また、肯定的「すぎる」かとも惑いました。批判的用法なら、「平板にすぎる」と言うものと思います。そして「平板」は堅実さへの賛辞と見えます。

 全体として、「今どき」風「違和感すぎ」でしょうか。報道は、なによりも平明・明解に願いたいものです。

 「熱い」と若者言葉で開幕しても、最後は、読者になじみやすい言葉でしめるものでしょう。先に挙げた言葉は、氏の発表の解説記事の総括に相応しいとは思えないのです。

*新説待望の危惧
 それにしても、考古学は、既に起きたことを遡って説き起こす「学問」ではないのでしょうか。記者は、考古学に革新と破壊を求めているのでしょうか。
 ここで説かれている新説待望は、新聞記者が「紙面映え」のために求めるものであって、全国紙の高名な記者がこのように熱弁を振るうのは、ほとんど「強要」ですが、だからといって、学問の徒が血道を上げるべきものではないと思うのです。

 毎回ながら、記者は、ご自身の使命を勘違いしているように思えます。

                                以上

2019年7月24日 (水)

新・私の本棚 番外 「今どきの歴史」 2019/07 不思議な視点と視覚 3/3

 私の見立て★★★★☆               2019/07/24

■■「東アジア最辺境」の悲劇
 ここで、東アジア最辺境と、時代錯誤の錯辞が出て来ます。
 当時、「アジア」を認識していたものはいないから「東アジア」は錯辞であり、最辺境と言うには、中心、周辺、辺境、最辺境の階層が前提と思われますが、何も説明もないので不可解なだけです。論者の「生徒」は知っていても、一般読者には耳慣れない呪文で、記者が絵解きしなければ、論者の意図が伝わらないのです。報道の者の責務ではないかと考えるものです。

*結語の美
 論者は、記者の前振りに続いて、結語に入ります。

 「文字が本格的に使われておらず」とは、墳丘墓被葬者の視点でしょうか。一瞬戸惑います。

 論者の言い分で大変もっともなのは、後世人の浅知恵で「合理性」を難詰するのは時代錯誤の錯辞であり、当時の関係者は、時代なり、統治者なりの合理性の最大限の発露として墳丘墓を築いたとの卓見です。

 当時、文字がなかったので中国文化圏の事象として「文化」と呼ぶのは不出来ですが、墳丘墓に表現された当時の為政者の理念は、現代語で言う「世界」に誇りうる「文化」というのが論者の結論であり、圏外情報の素人くさい前振りで、論者の知性を疑われるような愚は避け、ご自身の錚錚たる学識の核心を披露いただければ、これ以上の知の饗宴は無いと思うのです。

*急転の没落
 いや、折角の結語で、東アジア全体の墳丘墓制が、世界に類のない遺産であると言いながら、全世界を足蹴にするように「人類が二度と持つことのない文化」などと、今後の人類文化の展開に呪いをかける言葉を吐き捨てていて、椅子からずり落ちるのです。ご両人とも、気は確かですか。

 
続く記者コメントは、論者の負の遺産を背負って、反知性的な夜郎自大放言で、論者の論考の足を引っ張るのです。

 古代人は、古代人の知りうる世界情報をもとに、最善、最高の合理的事業を行ったのであり、現代人にも知り得ない残る全世界の賞賛を押しのけないものであって欲しいのです。

*まとめ
 論者の展開した論考は、「日本考古学」の圏外から、論拠不明の憶測を述べて、学術的に無法、一般読者に対し、誤解を与えるものになっています。
 記者は、論者の展開した論考を、十分咀嚼できないままに、自身の未熟な知性、語彙をなすりつけて、贔屓の引き倒しになっています。

 折角、適確な結語に到着していながら、論者が、夜郎自大な感慨を吐露したのは大変勿体ないところで、記者が大人の分別で適確に舵取りしなかったのが惜しまれます。

 港に入って船を割るのは、水先案内人の不手際です。

*蛇足
 風評の類いですが、巨大墳丘墓は、権力者が圧政を敷き、「奴隷同然の強制労働」を課して次々に完工したとの見方が囁かれています。論者は、当時の権力者に妥当な合理性があってこれだけの大工事を成し遂げたと弁護していますが、多少の弁明になったとしても、強制労働では無かったとするには、労働の対価としてどのような褒賞、アメを与えたかが問われるでしょう。
 考古学者は、必ずしも当時の権力者の合理性を弁護する必要は無いでしょうが、世界遺産に登録する上では、黒い疑惑は糺す必要があるように思えるのです。「いたすけ」古墳が、公然と、益体もない現代遺物であるコンクリ橋を、世界遺産の保存対象にしているのと並ぶ「汚点」でしょう。

                                 完

新・私の本棚 番外 「今どきの歴史」 2019/07 不思議な視点と視覚 2/3

 私の見立て★★★★☆               2019/07/24

*墳丘墓巨大化術の楽観と達観
 論者は、大規模な墳丘墓は在来の封土、土饅頭を大きくしただけだから、在来技術の延長線で施工できたとあっけらかんとおっしゃいますが暢気すぎます。

 二㍍の墓は近所の寄り合いでできても、二十㍍の墓を地区全体で、大勢でよってたかって作るには、縄張りやら線引きやら、工学的な指図が必要です。親方一人で仕切れず専門集団が必要です。

 二百㍍の墓は、それこそ、近郷近在以遠を駆り立てて数年にわたる大事業で、高度な政治的指導力が必須です。高度な理数概念を駆使した本格的技術集団が必要です。とても、とても、素人の成り上がりではこなせません。長年にわたって集団を維持するためには、世襲工人集団となります。

 「土は盛りやすい」と楽天的ですが、盛りやすいと崩れやすいのです。墳丘墓が巨大化すれば災害も巨大化し、とても、素人にはできないのです。

*拡大の算術解
 規模が拡大すれば、どこかで、単純な拡大主義は、大きく破綻します。
 二十㍍墳丘墓は二㍍の十倍でなく、資材所要量は、一千倍に上ります。

 二百㍍墳丘墓の資材所要量は、二㍍の百万倍に上ります。資材所要量と所要労働力は、ほぼ比例関係であり、資材と労働力が大幅に増大すると、工事現場への輸送距離、人員の移動距離が、それにつれて急激に増大します。

 厖大な人員の宿舎が必要になり、食糧供給も厖大です。いくら生前着工の寿陵で、自身の采配で、計画的に十年は越える長期の巨大工事ができても、その間の国政は、維持しなければならないのです。かくして、為政者には超人的な行政手腕が求められたはずですが、各地で、代々受け継がれたという事は、それを支える職能集団が列島に采配を振るったという事のように思うのです。
 おそらく、文字教養どころか、理数教養まで備えた外来の集団が、当時の各地に「文化」を齎したものと思うのですが、歴博の日本考古学は、そのような考えをしないことにしているのでしょうか。文化は、人が言葉と行いで伝えるものであり、風に乗って漂い来るものではないのです。


 論者は、まさか古代史を坦々たる上り道のように見てはいないでしょうが、こう簡単に見ただけでも、凄まじい、険阻な先上がりが見えてきます。俗に右肩上がりと言いますが、自然界には、これほど上がる肩はないのです。

*不可解な階級指標
 次いで、当時、列島に「中国風」の絶対的な階層社会がなかったと認識しながら、広くゆるやかな階層構造があったとしていて、意図不明です。自認しているように、層は不連続で層間に仕切りが入ります。

 文書のない世界で、そのようなきめ細かい階層をどう規定し、運用していたのでしょうか。階層が一段上がれば墳丘墓の各部はどう変わり、どのように施行され、どのように測量したのでしょうか。
 歴博の日本考古学は、衛星軌道から地上を観察しているようですが、伝統的な考古学のように、地を這い、なめるようにして大地と対話して地道な考察をしないのでしょうか。

*見えない規模格差
 階層の具体像が不明なまま、そのような階層構造であったため、階層の規模を明確に視覚化するために、頂点たる「王墓」が巨大化したとしています。

 どうにもよくわからないのですが、冒頭に記者が指摘しているように、現代のビルから見下ろしても、王墓の形態や規模は正しく認識しがたいのです。当時、ある土地と別の土地の墳丘墓のどちらが、どれほど大きいのか、構造が どう違うのか、誰が認識したのでしょうか。墳丘墓施工で、どうやって、各部「設計寸法」をきめ、実際に確保したか、不明です。

*時代錯誤
 当時の国防を推定していますが、論者専門外の朝鮮半島で不思議な言動があります。「山域のネットワーク」とは、時代を超えてローカルエリアネットワークでも形成していたというのでしょうか。

*巨大化の動機付け
 「大きいことはいいことだ」的感情が巨大化を促しても、厖大な労力と資材で、身の程を知っていたと思わなければ、当時の人々の無分別を根拠なしに蔑視することになるのではないでしょうか。
 家畜の首の鈴が巨大銅鐸に、小振りな銅鏡が直径四十㌢の巨大鏡に化したと言いますが、銅鐸はとうに廃棄したはずで、時代錯誤のご都合主義と見えます。このような安直極まる、子供じみた類推をおもてに立てるのでは、折角の学術的展開を一気にぶち壊す蛇足です。
 続く「中国にはない」とは、文化を知らないものの「蕃習」という自嘲表現でしょうか。
                                未完

新・私の本棚 番外 「今どきの歴史」 2019/07 不思議な視点と視覚 1/3

 私の見立て★★★★☆               2019/07/24
百舌鳥・古市古墳群(大阪府) 「最辺境」社会の合理性

□総評
 今回の題材は、国立歴史民俗博物館松木武彦教授(日本考古学)(以下、歴博、論者との略称ご免)のご高説の紹介らしいのですが、記者の史観が混じり込んでいるか不明なので、見当違いな批判があればお詫びする次第です。

*全知全能幻想か
 論者の専門は国内考古学で、普通、(日本)列島内遺跡、遺物に関するご高説と思いましたが、堂々と「世界史的激動」であり、圏外かと危惧します。

 記者の言葉ですが、「当時、寒冷化で地球環境が悪化し、世界的にも大転換期だった」と時代錯誤の神がかりが述べられ、失礼ながら、「当時」の列島内遺跡、遺物にどう露呈しているか不思議です。論者の提言かどうかは別としても、とんでもない空想がかたられているという印象を禁じ得ません。

 素人目には、法螺はほどほどにしないと信用をなくすと言いたいのです。

□誤解招く「世界」通観の書き出し
 そのあと、豪快に世界史通観ですが、首を傾げっぱなしです。論者が博識を披瀝しても、説明は概してずさんで、日本考古学には的外れでしょう。世界的と大風呂敷を広げたものの、南北アメリカ、アフリカ、そして、インド亜大陸には何も触れていません。言わずもがなで不可解です。

 そのあと、東夷が漢墓制を真似たと急に重箱隅になり不首尾です。「漢」でも大規模墳墓に豪華副葬品を収めた皇帝もあれば、文帝のように薄葬を命じた皇帝もいます。漢を中原政権と捉えるなら、魏創業者曹操が後漢皇帝墓の盗掘を目撃したことから薄葬を遺命による国是とし、東夷が真似ようにも墓所は秘匿されたのです。

 いやはや、杜撰のてんこ盛りです。言わない方が良い余談です。

*世界崩壊の津波の余波
 「秩序が崩れて集団間の競争が激化しました」と無責任に言い放つのですが、どの世界、いつの話で、それは、どのような遺跡、遺物で立証されるのでしょうか。それとも、ただのほら話、「冗談」なのでしょうか。

 論者は、神がかりの筆致で、当時、つまり、紀元四世紀あたりの世界を描写し、それが、列島に影響を及ぼしたと言いますが、列島の地域支配者がヨーロッパ状勢は論外として、中原墓制の変化を知り得たか不思議です。

*余波、列島に及ぶ、か
 まして、列島に及んだ余波の結果、銅鐸が廃棄されたというのも、意味不明です。何か、廃棄儀式の能書きでも発掘されたのでしょうか。

*破格の論議
 「劇的」な変化が連続しておこったとは、世にも不思議な言い回しで、「大状況」も、「状況」の意義を錯誤の上に、何を大と言うのか不可解です。

*ご冗談でしょう
 全体として、「ご冗談でしょう」です。脈絡のないほら話は、逆効果です。記者は納得したのでしょうが、歴博の日本考古学とは、根拠も何もないまま、素手でこのような夢想を紡ぎ上げるのが専門なのかと言いたいところです。

■■解答なき問題
 ここで、読者に問題が投げつけられ、意味不明で解答がないのです。

 「世界」が、現代語の全地球なのか、戦国時代の「天下」なのか、盆地世界に閉じ込められた井蛙の井戸の中なのか、意味が不明で、解答できません。

                                未完

2019年7月 6日 (土)

新・私の本棚 番外 大阪府立弥生文化博物館 講演会の味わうべき弥生時代観

                     2019/07/06

 今回の題材は、毎日新聞大阪夕刊「夕刊ワイド」面の囲み記事である。

 大見出しに 異口同音「邪馬台国は畿内」とあって、何のことかとみたが、話題は、大阪府立弥生文化博物館(以下、弥生博)の館長代替わりの機会に、新旧館長が語り合う講演会が開かれたとの報道であった。

 失礼を承知で言うと、弥生博は、在阪であることから、当然、地域文化としての「畿内説」の支持者であり、館長はその「首長」であるから、これまた当然、畿内説支持以外の発言はあり得ないのである。
 さらに失礼を覚悟で言うと、古来、報道は、新規性のあるものを報道するのであり、いわば「犬が人をかんだ」のは、ニュースにならないのではなかったか。これほど、見出しの役に立たない見出しも珍しいのではないか。いや、これは、毎日新聞の落ち度であって、両館長及び弥生博には、一分の否もないのである。

 いやなことを先に言ったので、後は、真剣に両館長の発言を確認させていただく。

 新館長のお話として、弥生時代終末期の三世紀には、「初期国家」と呼べる要素が揃い始める、と大変慎重に言葉を選んでいて、弥生博としては、三世紀は「初期国家」の萌芽期と見ることもできる程度と限定していることがわかる。

 前館長(現名誉館長)は、七世紀から八世紀にかけて(堂々たる)古代国家の完成が見られるものの、そこから四,五世紀遡る三世紀は、まだ、国家として随分未熟な時代であり、国家形成の初期段階という確信は持てないのではないかと、これまた限定的な意見が窺える。

 両館長の見解表明が、慎重で、無用な断言を避けているのは、史学者としてまことに廉直な姿勢を示したものであり、大いに学ぶべきである。

 毎日新聞記者は、ジャーナリストの務めと感じてか、邪馬台国の所在地について見解を求めているが、公式見解しか出てこないのは明らかであるから、毎日新聞記者に似つかわしい、賢い質問とは言えない。これでは、まるで三流ジャーナリスト並である。それにしても、両館長が、リハーサルでもしたのか「声をそろえた」というのは、まことに涙ぐましいものかある。そこまでさせて報道するとは、新聞記者は残酷なものである。

 新館長は、纏向遺跡について、慎重に言葉を選んで、弥生博の受け持ちとして弥生時代中期から後期にかけての畿内社会について調査研究していくと述べている。まことに、慎重である。また、記事の末尾で、新館長は、新しい切り口で研究を進めると語られている。府民税納税者としては、頼もしい限りである。

 一読者としては、記者が担いでいる陳腐な畿内説を洗い直す活動を期待したいものである。そうなれば、わくわくするような見出しが期待できるのである。

以上

2019年6月24日 (月)

今日の躓き石 今どきの歴史 令和元年六月分 土器焼成技術創世記の怪

                            2019/06/24
*悩ましさの時代
 毎度お世話になる「今どきの歴史」ですが、今回は見出しに困惑しました。「悩ましい」は、近年、将棋界で多用されていますが、古手読書人には、官能分野の用語と聞こえるのです。読む人によって語感が異なる言葉遣いは厳禁、と言うのが、全国紙記者の職業倫理だと思うのですが、当記事担当者は、今どきの人なのでそうなのか、何とも無頓着です。

 今回の記事は橋詰氏(潤・新潟県立歴史博物館主任研究員)の意見のほぼ丸写しのようですが、全体として、氏の学界言葉を口移しするだけになっているのはどうかと思うのです。

*「事実」の大安売り
 一つには、ここに書かれているのは、あくまで、一考古学者の意見であり、学会発表したものの「裏」がとれてないはずなのです。例えば「最初の土器が東アジアで出現した事実」と断言しているのをそのまま伝えるのはどんなものでしょうか。「事実」と勝手な言葉遣いですが、多分氏の個人的推定に過ぎないし、当時、東アジアと北アフリカのどちらが先だろうと大勢に影響ないのではないかとおもえるのです。

*土器焼成技術の起源
 一部では、東アジアで発祥した土器焼成の技術が欧州まで伝搬した、と心地良い「噂」が流れているようですが、この新技術は、火山性山火事が見られる日本列島で発見され大陸に伝わったかとは、古田武彦氏が唱えたものと思います。
 それはさておき、橋詰氏は、この「噂」に懐疑的のようですが、それにしても、当記事の「図」を信ずるならば、中国南部雲南省あたりが発祥地で、そこから各地に伝搬したとの意見のようです。その「事実」は、将来も動かないのでしょうか。

 言うまでもないのですが、土器焼成とは、その辺にある粘土を適当に捏ね上げて、たき火に放り込んで一丁上がりではないのです

*根拠不明の議論
 ついでながら、橋詰氏作図なる原典不明の地「図」が、当時の地形との確認はどうなっているのか不審です。
 また、各年代推定が、どのような手法で行われたか示されてないのも困ります。当記事の以前の回で、C14年代推定が今後、参照データが変化して、判定結果も変わると想定されています。

 言うまでもないのですが、当時は、別に全国紙が報道していたわけではないから、各地への技術伝搬は不確実で低速であり、もとより、一山越えれば食材も食習慣も違うから、それは、単一文化風俗の地域ごとの違いという「多様性」と違い、元々、別々のものが、互いに影響し合っていただけではないのか。
 また、無造作に括られた範囲内が、一カ所の窯元から独占供給されたのか、細かくのれん分けしていたのかも興味深いところです。

*最後の大見得
 第二区分の最後から橋詰氏の長口説が始まりますが、学界用語らしき漢字熟語に言い崩したカタカナ語が混じって敷き詰められていて、とても、一般人が言葉の意味をすらすらと読み解けるものではないのです。「その説明」と言うのは、こんな感じで、遺物、遺跡に記されていない研究者の手前味噌のこじつけを言うのでしょうか。同時代人の心に寄り添わなければ、当時の事情を察することはできないのではないでしょうか。そして、一般人の心に響く言葉遣いで語らなければ、伝わらないのではないのではないでしよう。そこを繋ぐのが、考古学者の使命だと思うのです。

 そして、こうした呪文を噛み砕いて伝えるのが、歴史マニアならぬ、専門記者の使命ではないのでしょうか。三段落にわたり、判読困難な引用が続きますが、この後、橋詰氏が、自分の考える「真相」が「見えて」きたと称して、「モデル」を妄想し、「ストーリー」を創作して、勝手に張り切って、この調子で、言葉の通じ合っていない読者に押しつけて来るのはたまらないと感じるのです。

*総評
 毎回ですが、毎日新聞の当記事は、単なる報道か、新聞社としての見識披瀝か不明です。個人的に悩ましがっている場合ではないでしょう。
                           以上

2019年5月16日 (木)

新・私の本棚 番外 毎日新聞「今どきの歴史」 『天皇制の「伝統」』論 2/2

 私の見立て★★★★☆ 必読             2019/05/16

*王の実力を数値化、可視化する方法
 また、氏の発言を引用して「外交」と述べますが、素人目には、巨大墳墓を並行して造成できる勢力は、それぞれ、いわば独立国、独立の伝統の持ち主で、外交とは、島内諸国間外交かと思うのです。因みに、中国側視点では、「倭」は国でなく外交はあり得ないのです。語彙の時代錯誤でしょう。別の意味で、「交易」も三世紀はおろか五世紀にもなかったと思われるので、時代錯誤でしょう。誰が誰とどのような通貨、決済手段で、交易したというのでしょうか。

 氏は、「実力」要素として『「外交」「軍事」「交易」の三項目が最優先され」たとおっしゃったようですが、「三項目」を「最優先」するというのは、一種の冗談かと思うのです。業界言葉であれば、一般人向けに言い直す配慮をいただきたいものです。
 「軍事」は、物理的に誰が一番強いかと比較できそうですが、「外交」、「交易」は、時代錯誤で当時通用しなかったというのは別として、不可視で数値化できず互いに比較もできず、また、軍事力にどのように加味するか不明で、これら以外の書かれてもいない要素に対して優先させようがないのです。

 厖大な歴史に学んでいる現代人にも趣旨不明で、当時の評価は知りようがないのです。元々、「実力」とは、政治的な折衝力とその果てに来る軍事行動の強さであり、そう解すべきのように思えるのですが、どうでしょう。

 いや、当方は、氏が、推定にとどめている五世紀にどのような数値モデルで「実力」を求めたかわからないし、記者が、素人、つまり、一般人読者に通じる言葉遣いで、氏の主張を噛み砕いてくれないので、途方に暮れて質問を呈するしかないのです。随分受け売り得意の特技の持ち主のようですが、記者の使命は、読者に理解できる言葉で伝えることだと思うのです。

*「法理論」の怪、「女系OK」の怪
 ここで、突然、意味不明な断定が出て来ます。古代に「法理論」はなかったので、いくら言い立てても、当時の世人に理解できない後世人の後知恵だろうし、「女系OK」に到っては、世間一般に通用する現代語ですらないのです。「柔軟性」(記者の意図は不明、趣旨も不明)にも、ほどがあります。
 国家制度の根幹が、自分の書いている言葉の意味すら不確かな民間人の意見で左右されるとは思えない、いや、これは記者のことであって、氏のことでないのは言うまでもないのですが、読者は、記者の変移させた語彙に載せ替えた意見を読んでいるとは気づかないので、全て氏の意見として受け取り、氏に被害が及ぶのです。

*首相談話無理解
 安倍晋三首相の答弁が引用されていますが、政治家に付きものの、強調、断言を割り引くと、男系継承が「伝統」として保たれていたことを歴史の重みと理解することに、特に、文句を付ける必要はないと思います。
 記者は「正確な歴史認識」と意味不明の虚辞を持ち出しますが、歴史は人知で把握しようのない膨大さであり、「歴史認識」は人それぞれに異なる個人的感想である以上、「正確」な「歴史認識」の「共有」なぞ虚言の極みです。

 まして、人それぞれの語彙で染められて認識されているから、共通の歴史認識など成立せず、具体的な論点個々について、互いの言い分が正確に互いに理解されるまで、十分に言葉を尽くして論議するしかないのです。いかに、記者が、自己視点を押しつけて短絡的な解決を望んでも、互いに理解し合えないままで結論は出せないのです。
 記者は、自身の脳内を眺めて、独り言しているから、反対意見も質問も聞こえてこないでしょうが、一個人の早合点が、記者故に、制止されることがないのは、不気味ですらあります。

 個人的な意見ですが、記者が記者個人の(瑕疵込みの)歴史認識を述べたことに、特に異議はありませんが、記者の認識への同意を強要されれば断固否定します。

 それは、個人的意見の「独立宣言」に反すると考えるものです。今回、記者の無法な意見に同調できないと書いて結語とします。仁藤氏は、そのような無法は主張していないと思われるので、氏と喧嘩しようとする動機は全く無いのです。

 いや、かくのごとき問題満載のタイトルが、乱暴で意図不明の体言止め、言いっぱなしなので、趣旨を誤解したかも知れませんが、個人的理解で述べました。
 まして、タイトルを偽ってネット掲示するなど、いったい何をたくらんでいるのか、奇々怪々です。
(いや、褒めているのではありません)

                                完

追記 5月18日17時現在、タイトル「偽装」は終了し、正しいタイトルが表示されているが、訂正したとの告知はないので、当方は現状確認に止める。

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