季刊 邪馬台国

四十年を越えて着実に刊行を続けている「日本列島」古代史専門の史学誌です。

2025年5月17日 (土)

新・私の本棚 井上 悦文 邪馬台国の会 講演 第426回 卑弥呼の墓を掘る

卑弥呼の墓を掘る (2025.1.26 開催)   初掲 2025/04/08 改訂 2025/05/17(誤記訂正)

◯はじめに
 氏の著書・動画講演の影響が絶大なので敢えて批判しました。

*引用とコメント
 「氏にして疎略」と「空耳」の混在です。
 1.1―1.3の書道家蘊蓄については、本編では口を挟まないことにしましたから、話は、当方の縄張りなのです。

1.4.魏志倭人伝の邪馬台国
 ...「邪馬台国」は、魏志倭人伝には「邪馬壹国」と表記されています。ところが、この邪馬壹国は、...「魏略」「魏志」「梁書」「後漢書」その他をもとに分析すれば、...「壹」...は魏志倭人伝だけです。中略「邪馬台国」...は「耶馬臺国」が正表記で ...す。

 随分手馴れた捌きの口調ですが、内容は、大分受け売りの固まりです。受け売りなら、ご自分の見識だと肩肘を張らず、どの家元のご託宣か書くものです。
 それにしても、「その他の ...その他」は「魏志」自体を「その他」と錯綜です。「魏略」、「梁書」は級外史料です。ぼちぼち、割愛してもいい頃です。

*魚豢「魏略」の意義確認 追記 2025/05/17
 丁寧に言うと魚豢「魏略」は、史料としては大半が散逸していて、今気軽に「魏略」とおっしゃっているのは、魏略「東夷伝」そのものでなく、大変粗忽に所引された、つまり、間違いだらけの引用として太宰府天満宮に残簡が所蔵されていた「翰苑」に書かれている断片であり、信頼に足る史料ではないのです。言わば、「ジャンク」であり、井上氏ほどの書家なら、正確な引用が継承されていないと瞬時に見て取れるはずなのです。
 因みに、魚豢「魏略」西戎伝は、陳寿の百五十年ほど後生の劉宋史官裴松之の三国志付注の際に、魏略善本が健全に継承されていたのは、「魏略」西戎伝が、裴松之附注「魏志」の第30巻「魏志倭人伝」に続いて収容されいることで確認できます。
 つまり、魚豢「魏略」西戎伝は、当時編纂中で未公刊の范曄「後漢書」の西域伝の基幹となるべき史書稿であり、後に公刊された范曄「後漢書」の西域伝と併せて読むことにより、「魏略」の史書としての抱負を知ることができます。因みに、裴松之は、「魏志倭人伝」で割愛されている事項があれば、附注していますが、実際は、皆目附注と言うに足る附注は書き残していないので、魚豢「魏略」の倭人伝相当記事は、特に書くに足るものではなかったと証されているのです。

 按ずるに、陳寿が魏志倭人伝に収録した原資料は、曹魏明帝が、楽浪/帯方郡を景初初頭に接収した際に齎された、言わば、「原始倭人伝」と言うべき郡志史料であり、端的に言うと、公孫氏に上申した報告書の控えであったと見えます。もっとも、当時、遼東郡に届いて郡公文書庫に収容されていたと見られる公孫氏時代の遼東郡志は、司馬懿の征討軍が、景初二年の戦捷時に根こそぎ破壊殺戮したので、失われたものと見えます。司馬懿は、公孫氏の帯方郡設置による貧弱な東夷管理の深謀遠慮には、全く関心が無かったと見えるのです。

 ということで、「魏志倭人伝」は、陳寿とその支援者(優秀な書生)によって、一次史料である「原始倭人伝」を忠実に収録したのであって、当然、別系統の史官であった魚豢の「魏略」倭人伝も、特に疎略に扱う動機も無かったであろう事から、「魏志倭人伝」と同等の正確さで書かれていたものと見えます。但し、翰苑の所引は、史料の意義を知らない粗雑な所引者による魚豢「倭人伝」からの粗雑な引用であり、陳寿が、専門史官として、精魂込めた引用を否定する効力を持たないものなのです。
 御理解いただけたでしょうか。

 笵曄「後漢書」東夷列伝倭条は、大分玄人っぽい解釈がついて回るので、素人さんは手を出さない方がいいでしょう。とにかく、書かれているのは、別時代・別「国」を示し、難ありです。

 それにしても、困惑させられる「その他」重複は、なにかの取り違えでしょう。失笑連発です。

 倭人伝に曰わく、「南邪馬壹国に至る」「女王之所である」が正解で、ここに、後漢末に荒廃した洛陽の復旧に勤しんでいた曹魏天子も顔負けの「都」(みやこ)は、見当外れのこじつけです。なかなか、ここまで掘り下げる人はいないので、毎回、難癖をつけざるを得ないのです。

 氏が、文献解釈に疎いのか、勿体振った「蓋然性」評価は、まことに非科学的で、力み返った「本来」「推察」は、根拠皆無で、空転しています。「倭人伝」は、すらすら読めるから楽勝だ、要するに、陳寿がペテン師なんだとでも言いたいような、やじうま論議が巾をきかせているのですが、幸い、氏は、圏外のようです。

1.5.卑弥呼の墓 中略 
 「径百歩」は正確な引用ですが、文書考証すると女王「冢」の規模、敷地広さで、「歩」(ぶ)は、長さでなく面積単位であり、現代風「平方歩」です。
 これは、なかなか理解できる人が少ないので、歎いているのですが、氏も自認されているように、実務を想定すると、墳丘墓「直径」は、現地測量不可能です。陵墓規模は、測量可能な敷地面積で示すものです。当方の中国算術史料「九章算術」研究の成果で、「径百歩」は、常用の面積「方百歩」を「一辺十歩(15㍍)の敷地で冢が円形」と、異例の「径百歩」で明示したものです。

*古代算数の勉強
 円形図形の専有面積は、「直径」がわかっていれば、「直径」の二乗、「直径」掛ける「直径」に、「3」を掛ければ概数として正しいのですが、「直径」が測れない場合は、「外周」の測量値「歩」を「3」で割れば「直径」(の正しい概算)が得られるので、先の計算式に持ち込んでもいいのですが、一度3で割ってから3を掛けるのは、いかにもムダなので、「外周」の二乗を「3」で割っても、正しい結果が得られるのです。「3」は、円周率であり、諸兄姉は、3.141592などと記憶されているでしょうが、小数を省いて、「3」とすることにより、整数計算になるので、随分簡単に計算できるのですから、古代中国の「算数」を見直して欲しいものです。以上は、「九章算術」なる必須教養を学んでいる、漢魏晋官人には、概数計算の常識なのですが、諸兄姉は、ご存じだったでしょうか。

 因みに、墓制に昏(くら)い東方は、これを「直径 百歩≒一五〇㍍」「円墳」とそそくさと解釈して「大規模墳丘墓」の原型/ひな形としたのでしょうか。多分、「九章算術」を学んでいない、「二千年後生の無教養な東夷」なのでしょうが、無教養は、教養を学べばいいのです。
 それとも、卑弥呼ー壹輿の後継王が、帯方郡滅亡時の亡命造墓集団に「大規模墳丘墓」を課したのでしょうか。
 伝統は、大抵、いつかどこかどこかで断絶するものです。だからといって、卑弥呼の不朽の偉業は、些かも光芒を失うものではないのです。

 ということで、名もない「倭人」の後継者達は、「中国」の衰退により、既に支援、指導を受けていた土木工学技術を強化して、独自の「けもの径」を進んだとも見えます。このあたり、所説が錯綜して、当方の乏しい知識では、何とも、判別できないのです。

 ところで、直後の安本美典氏の講演は、漢魏晋墓制を、遺物/遺跡考古学の見地から広範多岐に亘って論じますが、「客」の顔を潰さない配慮か、蘊蓄豊富でも、漢魏王墓考証では、地下に複数墓室を設けた方形との明言を、大人の知恵で避けていると見えます。

*円丘・方丘の隔絶
 「円丘」は、頂部演壇で三六〇度全周で、時日に応じた方位で天に礼を示す「天丘」は、祭礼であり、葬礼、墳墓など見当違いです。対照の「方丘」は、葬礼であり、別紀日に地下祖霊を弔い、「円丘」と隔離しています。造語するなら、「方円絶遠」です。

 要するに、「中国」王侯墓に大規模円墳など存在しなかったことは明らかであり、帯方郡から長期駐在した大宰張昭」は、「親魏倭王」に葬礼に反する大規模円墳など許さないのです。また、西晋史官であった陳寿は、当然、葬礼墓制に通暁していて、無法な大規模円墳など記録することは有り得ないのです。それが、史官の真意というものです。

 無学、無教養の素人である当方の無上の「知恵蔵」である、殷周代以来の太古漢字史料を深く極めた白川勝氏の詳説では、太古東夷と称された周代齊魯領域では、棺を埋葬し封土する「冢」の型式が整っていて、神社祭礼に属すると見える「鳥居」共々、「倭人伝」前段に略記された葬礼墓制は、渡来ものと見えます。
 伝統を破壊し、中国「文化」を拒否したいわゆる「前方後円墳」墳墓の繁栄は、一方で、神社がはるか後世に継承されているのを見ると、一介の素人の理解を越えて、不可解と言わざるを得ません。

閑話休題   訂正 2025/05/17 150㍍と誤記していたのを訂正したものです。
 当方の行きついた理解は、「倭人伝」に丹念に書き込まれている卑弥呼の「冢」は、「径百歩」規模、すなわち、「十歩(15㍍)角の敷地中央に納棺、封土した円形「冢」である」と端的です。整地、掘削、納棺、埋設、封土、一本植樹の墓碑等の力仕事は、近隣、近在の百人程度の「徇葬者」の一ヵ月程度の通い仕事だったはずです。簡にして要を得た記事です。
 中国葬礼では、必ず、石刻墓誌を設けますが、葬儀薄葬令もあり、また、先祖以来の墓地に月々墓参するので、墓碑も墓地も必要なかったのです。また、伝来墓地であらたな守墓人は不要です。蛮習「殉死」等、もっての外です。(字を変えているのに誤解するとは、失笑ものです)

 諸兄姉の思考には干渉できませんが、よそごとながら、随分不合理な「歴史ロマン」を死守されているのだなあと、感嘆するものです。

 この通り、氏が見習っているらしい世上の雑駁な論議は、悉く空を切っています。

 それにしても、前半部を飛ばし読みしても、全般にアラ散在の講義であり、このさい、昭和百年を契機と捉えて、時代物のレジュメを、編集校正し晩節を整えていただいた方がいいでしょう。

                                以上

2025年5月12日 (月)

新・私の本棚 西村 敏昭 季刊「邪馬台国」第141号 随想「私の邪馬台国論」補追

 梓書院 2021年12月刊
 私の見立て ★★☆☆☆ 不用意な先行論依存、不確かな算術 2022/01/04 追記 2022/11/20 2023/01/23 2024/04/15 2025/05/12

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明を明らかにしない不法な進入者があり、大量に盗用していると見えるが、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。 

〇はじめに
 当「随想」コーナーは、広く読者の意見発表の場と想定されていると思うので、多少とも丁寧に批判させていただくことにしました。
 つまり、「随想」としての展開が論理的でないとか、引用している意見の出典が書かれていないとか、言わないわけには行かないので、書き連ねましたが、本来、論文審査は、編集部の職責/重責と思います。安本美典氏は、季刊「邪馬台国」誌の編集長に就任された際は、寄稿に対して論文査読を実施するとの趣旨を述べられていて、時に「コメント」として、講評されていたのですが、何せ四十年以上の大昔ですから、目下は、無審査なのでしょうか。

▢「邪馬壹国」のこと
 季刊「邪馬台国」誌では、当然『「邪馬壹国」は誤字である』ことに触れるべきでしょう。無視するのは無礼です。 
 大きな難点は、「邪馬タイ国」と発音するという合理的な根拠の無い「思い込み」であり、この場では、思い込み」でなく「堅固な証拠」が必要です。半世紀に亘る論争に、今さら一石を投じるのは、投げやりにはできないのです。パクリと言わないにしても、安易な便乗は、つつしむものではないでしょうか。

 そうで無ければ、世にはびこる「つけるクスリのない病(やまい)」と混同されて、気の毒です。

 因みに、氏は、説明の言葉に窮して「今日のEU」を引き合いにしていますが、氏の卓見に、読者の大勢はついていけないものと愚考します。(別に、読者総選挙して確認頂かなくても結構です)
 素人目にも、2023年2月1日現在、イングランド中心の「BRITAIN」離脱(Brexit)は実行済みとは言え、実務対応は懸案山積であり、連合王国(United Kingdom)としては、北アイルランドの取り扱いが不明とか、EU諸国としても、移民受入の各国負担など、重大懸案山積ですから、とても「今日のEU」などと平然と一口で語れるものではないので、氏が、どのような情報をもとにどのような思索を巡らしたか、読者が察することは、到底不可能ですから、三世紀の古代事情の連想先としては、まことに不似合いでしょう。

 「よくわからないもの」を、別の「よくわからないもの」に例えても、何も見えてきません。もっと、「レジェンド」化して、とうに博物館入りした相手を連想させてほしいものです。

*飛ばし読みする段落
 以下、「邪馬壹国」の「国の形」について臆測、推定し、議論していますが、倭人伝」に書かれた邪馬壹国の時代考証は、まずは「倭人伝」(だけ)によって行うべきです。史料批判が不完全と見える雑史料を、出典と過去の議論を明記しないで取り込んでは、泥沼のごった煮全てが氏の意見と見なされます。「盗作疑惑」です。

▢里程論~「水行」疑惑
 いよいよ、当ブログの守備範囲の議論ですが、氏の解釈には同意しがたい難点があって、批判に耐えないものになっています。

*前提確認の追記 2023/01/23
 ここで、追記するのですが、そもそも、氏の提言の前提には、当ブログが力説している『「倭人伝」の道里行程記事は、帯方郡から倭への文書通信の行程道里/日数を規定するもの』という丁寧な視点の評価がないように見えるのです。つまり、「必達日程」と言われても、何のことやらという心境と思います。説明不足をお詫びします。
 手短に言うと、正史読解の初級/初心事項として、『蛮夷伝の初回記事では、冒頭で、当該蛮夷への公式行程/道里を規定するのが、必須、「イロハのイ」』という鉄則です。

*前稿再録
 氏の解釈では、『帯方郡を出てから末羅国まで、一貫して「水行」』ですが、里程の最後で全区間を総括した「都(すべて)水行十日、陸行三十日(一月)」から、この「水行」区間を十日行程と見るのは、どうにも計算の合わないもいいところで、途方もない「無残な勘違い」です。
 氏の想定する当時の交通手段で「水行」区間を十日で移動するのは、(絶対)不可能の極みです。今日なら、半島縦断高速道路、ないしは、鉄道中央線と韓日/日韓フェリーで届くかも知れませんが、あったかどうかすら不明の「水行」を未曾有の帝国制度として規定するのは無謀です。因みに、三世紀時点で、公式行程として海船で移動する「水行」が存在しなかったことは、周知の事実です。

 何しろ、必達日程」に延着すれば、関係者の首があぶないので、余裕を見なければならないのですから、氏の説く「水行」を官制、つまり、曹魏の国家制度として施行/維持するには、各地に海の「駅」を設けて官人を常駐させるとともに、並行して陸上に交通路を確保しなければなりません。いや、海岸沿い陸路があれば、まず間違いなく、帯方郡の文書使は、騎馬で、安全、安心で、迅速、確実な「官道」を走るでしょう。
 先賢諸兄姉の論義で、海岸沿い陸路を想定した例は見かけませんが、好んで、選択肢を刈り込んだ強引な立論を慣わしとしているのです。

 前例のない「水行」を制定/運用するに、壮大な制度設計が必要ですが、氏は、文献証拠なり、遺跡考証なり、学問的な裏付けを得ているのでしょうか。裏付けのない「随想」は、単なる夢想に過ぎません。場違いでしょう。

▢合わない計算
 狗邪韓国から末羅国まで、三度の渡海は、それぞれ一日がかりなのは明らかなので、休養日無しで三日、連日連漕しないとすれば、多分六日、ないしは、十日を想定するはずです。

 誤解を好む人が多いので念押しすると、当時、一日の行程は、夜明けに出発して、午後早々に着く設定なのです。各地の宿駅/関所は、当然、隔壁に囲まれていて、厳重に門衛があり、日が沈めば厳重に閉門、閉扉するのです。門外野営など、無謀であり、特に、冬季に厳寒の事態となる半島では、冬場の野営は凍死必至です。従って、行人は、一日の行程に十分に余裕を見て、早々に宿場に入るのです。倭人伝が新規規定している「渡海」「水行」の場合はさらに顕著で、便船に乗らなければ対岸に渡れないのです。そして、早々に着いて次の渡海を急いでも、そのような便船がないのが普通ですから、渡海が、実務として半日かからないとしても、それで一日と数えるのです。

 そもそも、氏の想定を臆測すると半島西岸~南岸を600㌖から800㌖ 進むと思われる『氏が想定している遠大極まる「水行」』行程は、七日どころか、二十日かかっても不思議はない超絶難業です。潮待ち、風待ち、漕ぎ手交代待ちで、乗り心地どころか、船酔いで死にそう、いや、難破すれば確実にお陀仏、不安/不安定な船便で長途運ぶと、所要日数も危険も青天井です。
 諸兄姉は、そう思わないのでしょうか。聞くのは、陸上街道は、盗賊がでるとか言う「おとぎ話」/風評であり、なぜ、船が安全、安楽で良いのかという議論は聞きません。
 隣近所までほんの小船で往来することは、大抵の場合、無事で生還できたとしても、数百㌖の海船移動を一貫して官道として運用するのはあり得ない(馘首/死罪)です。
 一方、「幻の海岸沿い陸路」ならぬ半島中央の縦貫官道を採用して、ほぼ確実な日程に沿って移動し、最後に、ほんの向こう岸まで三度渡海するのであれば、全体としてほぼ確実な日程が想定できるのです。えらい大違いです。

 この程度の理屈は、小学高学年でも納得して暗算で確認できるので、なぜ、ここに無謀な臆測が載っているのか不審です。

▢古田流数合わせの盗用
 氏は、万二千里という全行程を『三世紀当時絶対に存在しなかった多桁算用数字」で12,000里と五桁里数に勝手に読み替えて、全桁「数合わせ」しますが、そのために、対海国、一大国を正方形と見立てて半周航行する古田説(の誤謬)を丸ごと(自身の新発想として)剽窃しています。
 安本美典氏の牙城として、絶大な権威ある「邪馬台国」誌が、このような論文偽装を支持するのは、杜撰な論文審査だと歎くものです。

〇まとめ
 後出しの「必達日程」論は言わなくても、凡そ、『帯方郡が、貴重な荷物と人員の長行程移送に、不確実で危険な移動方法を採用することは、あり得ない』という議論は、絶対的に通用するものと思います。
 まして、正始の魏使下向の場合、結構大量の荷物と大勢の人員を運ぶので、辺境で出来合の小船の船旅とは行かないのです。とにかく、いかに鄙(ひな)にしては繁盛していても、隣村へ野菜や魚貝類を売りに行くのと同じには行かないのです。人手も船も、全く、全く足りないので、現代世界観の無造作な塗りつけは、論外です。

 弁辰狗邪韓国近辺の鉄山で産出した「鉄」は、陸上街道で帯方郡まで直送されていたのですから、そのように、郡の基幹事業として常用している運送手段を利用しないのは、考えられないのです。と言うことで、本稿の結論は、維持されます。
 氏が、自力で推敲する力が無いなら、誰か物知りに読んで貰うべきです。「訊くは一時の恥……」です。
 
 それにしても、高名であろうとなかろうと、誰かの意見を無批判で呑み込むのは危険そのものです。聞きかじりの毒饅頭を頬張らず、ちゃんと、毒味/味見してから食いつくべきです。
 以上、氏の意図は、丁寧かつ率直な批判を受けることだと思うので、このような記事になりました。頓首

                                以上

2025年4月11日 (金)

新・私の本棚 安本 美典 「卑弥呼の墓はすでに発掘されている!?」 1/2

●福岡県平原王墓に注目せよ● 季刊「邪馬台国」第129号  梓書院  2016年5月
私の見方 ★★★★☆ 広汎堅実な老舗の見識 細瑾確認 2025/04/11, 05/02

◯はじめに
 本稿は、「邪馬台国全国大会in福岡」特集号の基幹記事であり、卑弥呼の墓の候補である平原王墓論の講義録の中心部に対する論議です。

クリアしなければならない諸問題
 平たく言うと、以下の4「問題」(Question)に対して、悉く解答(Answer)を提出して、総合的に審査し、適否を判定すべきとの趣旨と思われます。古代史学に確固たる令名を有する安本氏の意見を拝聴するもので、野次馬の気まぐれではありません。
 本件は、平原王墓審査であるが、当然、全候補への「問題」である。当ブログの好みで、10文字程度の小見出しとしています。お目汚しまで。
 1 造営年代考証    2 径百歩の検証   「徇葬」百余人の検証   位置比定の検証

 安本氏の論議の原点は陳寿「三国志」魏志「倭人伝」であり、氏は、「邪馬台国」とし、朝倉比定を持論としていることを、承知しておく必要があります。誤解されると困るのですが、べつに、当方の愚考に承服せよと言っているのではないのです。念のため。

1.造営年代考証
 安本氏は、「倭人伝」にある「卑弥呼」の死は、西暦(CE)表示で、247ないし248との判断であり、当方は、これに異を唱えるものではありません。
 安本氏は、考古学権威森浩一氏の見解として、『遺跡考古の見地から、特定「古墳」の造営年代の考証では、古墳自体と出土遺物には、年代を確定する文字資料が同時に出土していない以上、同一地域の他の古墳であれば、相互の関連から、造営問題を考証することになるが、年代の特定では、ある程度の「誤差」、許容範囲を伴うべきである』との主旨紹介であり、記事中の長文引用は、安本氏が遵守される「文脈」重視の堅持とみえます。
 安本氏は、考古学考証により、平原王墓の造営年代は、「倭人伝」から想到される「卑弥呼の歿年」と重なる可能性は十分にあるので、本項によって、欠格とされないという判断と見えます。

2.径百歩の検証
 安本氏は、本項では、考古学的な発掘成果はもとより、国内史料「延喜式」に記載された天皇墓陵の「町」単位「矩形域」記録を複数考証しています。
*第一推定
 「第一推定」では、「倭人伝」の「径百歩」は径150㍍程度の領域と見ています。この点については、異議を保留し、論議は後述します。

*第二推定
 「第二推定」では、「径百歩」を墳墓の外形でなく墓域を示すとしています。
 文武天皇夫人の陵墓の天皇陵と趣(おもむき)の異なった表記紹介ですが、お話はそこまでです。
 安本氏は、卑弥呼の「親魏倭王」号について、漢代以来の中国制度、漢制の「王」とされているように見えますが、早計と思われます。蕃夷「王」が、漢制「王」と同等でないのは確かです。ただし卑弥呼「冢」が、漢制によると見ること自体は可能とされているように見えます。

 安本氏は、慎重に、「倭人伝」先行記事の大人「冢」が、単に「封土」であり、高塚などで無いとされています。当座の議論の収束として妥当です。

 安本氏は、平原王墓は、卑弥呼の「冢」を外れていないという結論です。

*「第一推定」への異議
 安本氏は、「冢」の漢制にもとづくと 判定される「歩」表記に対して、後年の「延喜式」が、漢制と全く別体系の「町」表記である点を、特段考慮されていないと見えます。
 安本氏は、「倭人伝」から数世紀後世と見られる国内史書に関して、広く、堅実に渉猟された上の提言であり、「延喜式」論議は謹んで拝聴します。
                               未完

新・私の本棚 安本 美典 「卑弥呼の墓はすでに発掘されている!?」 2/2

●福岡県平原王墓に注目せよ● 季刊「邪馬台国」第129号  梓書院  2016年5月
私の見方 ★★★★☆ 広汎堅実な老舗の見識 細瑾確認 2025/04/11, 05/02

*中国史書の世界観
 以下述べるのは、「倭人伝」は、三世紀中原人の編纂した公式史書であり、解釈に際しては、編纂した史官である陳寿の見識による斟酌が優先するとの趣旨です。つまり、陳寿が教育、訓練を受けた基礎教養を理解することが前提と見えるのですが、いかがでしょうか。
 曹魏臣従の「邪馬台国」の「冢」は、漢制律令の中国里制、度量衡、戸籍/地籍制度に従うのに対して、「延喜式」は、日本律令に従う点に議論が生じます。
 端的に言うと、臣従蕃夷は漢制律令に従い、独自律令制定施行は厳重に禁止されていました。蕃夷律令が制定されるとすると、そこでは、必然的に、天子は蕃王であり、それは「天子」にたいする大逆となるからです。
 すなわち、後世国内史料である「延喜式」に記録された天皇陵は、漢制に従った尺度に従っていないので、漢制で記録されている卑弥呼の「冢」に類推することは論外です。かりに、造営の際に漢制に基づいたとしても、そのような文書記録はないので、記録されたのは漢制に基づく測量でないことは明らかです。ちなみに、円丘の盛土の直径を測量するのは、実際上不可能であるので、記録されたのは、墳丘の直径でなく墓域の外形を残すものと見えます。ついでながら、漢制で、円丘は頂部で拝天する、祭礼のためのものであり、埋葬するための墳丘でないと見えます。中国では、貴人の墓所は、死者の世界である黄泉、つまり、地下に穿つものであり、地上に盛り土して埋めるものではないのです。
 もちろん、祭礼の場である円丘に、葬礼の場である方丘を連結する造墓は、法外です。
 あわせて、天皇陵が漢制に基づくものではないとする傍証です。

*漢制「径百歩」の考証
 して見ると、「径百歩」真意は、漢制造墓の基礎となる「算数」理解なしに知ることはできません。 端的に言うと、「径百歩」が墓域広さ/面積表示とすれば、自動的に「方百歩」、辺十歩、六十尺領域の面積表示です。官人に必須の基礎教養ですから、「方…歩」と面積表示を明示しなくても「冢」記事文脈から自明であり、さらに、「径」を頭書して「冢」が円形であると、史官及び史書読者に対して明確に示唆したと見えます。
 明確な示唆は、明示に等しいものです。史官は、一字一句疎かにしないのは明らかです。
 この際、「九章算術」の面積「歩」(ぶ)を、ご一考いただきたいものです。

*従来候補の一括欠格
 とはいえ、この解釈に従うと、卑弥呼の墓と比定されている各地の候補墳墓が、軒並み欠格となるので、大利に反するとして黙殺されるでしょうが、理論的に考慮いただけるものとして、あえて、安本美典氏に異を唱えるものです。

3.「徇葬」百余人の検証
 安本氏は、「徇」が「殉」と同義であるとしているので異議を提起します。

*「徇」の字義
 「徇葬」の「徇」は、部首から「行く」「行う」の意義であり、卑弥呼「冢」造営に尽力したと見るのが順当です。先に示したように、縦横十歩、15㍍の墓域の陵墓造営は、百人程度の専従で十分と見るものです。

*殉死、殉葬考察
 かたや、「倭人伝」にない「殉死」は、東夷伝で蛮習とされますが、「倭人」は礼節を知るものとして格別なので、「親魏倭王」の葬礼で蛮習を行ったとするのは筆誅に近いものであり、「倭人伝」の文脈に沿わないものです。
 ただし、「殉死」ならぬ「殉葬」は、「徇葬」と類義の葬礼の一環とすれば穏当と見えます。それにしても、無教養な読み替え、書き換えが蔓延して居るのは、何とも、勿体ないことです。
 是非、ご一考賜りたいと、伏して懇願するものです。

4.位置比定の検証
 本項は、当ブログの圏外であり、何も異論を唱えるものではありません。

◯最終結論
 当ブログ筆者の意見では、平原王墓は、卑弥呼「冢」の寸法十倍、面積百倍、用土千倍の隔絶規模ですので、この一点だけで不適格と断定できます。

◯まとめ
 以上、安本氏に対して、敢然と異を唱えるために、断定的な文飾が見られますが、もちろん、無礼を覚悟でご賢察を仰いでいるものです。
 同誌巻頭の「時事古論」第3回「卑弥呼の宮殿はどこにあったか」は、縦横広汎の論議であり、多々異論があるので、手に負えていないのです。決して、黙殺しているのではありません。
 なお、本項の参考史料は、既知のものであり、逐一言及すると随想が膨張することもあり、また、大半が衆知公知のものなので、ここからは割愛しています。機会があれば、「論文」なみに表記したいと考えます。

                                以上

2025年4月 7日 (月)

新・私の本棚 安本 美典 「魏志倭人伝」 「現代語訳」1/2

 「魏志倭人伝」「最新邪馬台国への道」(1998梓書院)より Rev.2 2024.8.6  初稿2025/04/06

◯はじめに
 本件は、「邪馬台国の会」サイト「解説」の記事である。安本美典氏の著書の引用と見えるが、別サイトで参照していて信頼されていると見えるので、率直に批判したいとしたものである。陳寿「三国志」魏志「倭人伝」の紹興本依拠とのことである。

*本文概要とコメント
「魏志倭人伝」の原文は、句読点もなく、章や節などもわけられていない(が)中略、三章五十節にわけ、見だしもつけた。
このように章や節にわけてみると「魏志倭人伝」はつぎの三つの章にわけられるような、かなり整然とした構成をしていることがわかる。
第一章 倭の国々  第二章 倭の風俗  第三章 政治と外交
中略 陳寿は、諸種の資料を 中略 整理したうえで記したとみられる。

1.倭人について 倭人は、(朝鮮の)帯方(郡)(中略)の東南の大海のなかにある。山 中略 島によって国邑中略をなしている。

 「倭人は、帯方東南に在る。大海中山島に在って国邑をなしている」が本意と思われる。「倭人伝」は、「倭人在」を述べ「大海在」を述べない。因みに、「海中」は、今日で言う「海上」である。

2.狗邪韓国 (帯方)郡から倭にいたるには、海岸にしたがって水行し、韓国(
中略 )をへて、中略 倭からみて北岸の狗邪韓国(中略)にいたる。

 「海岸にしたがって水行」は早計に過ぎ、これでは、三韓を歴訪できない。郡から七千余里の陸上街道狗邪韓国の大海北岸に到ると解すべきである。ここまでは、郡管内なので淡白なはずである。
 それはさておき、「郡から倭にいたるには」と文を書きだして、いきなり「狗邪韓国に到る」で結んでは 文になっていない。
 「郡から倭にいたる」を 小見出しと見立てて一旦締め、続いて「海岸から渡海するのを水行という」との定義を挟んだ後、「以下、区間の記事を書く」示唆してご指摘のように、個条書き風記事としているものと見える。ご一考いただきたい。でなければ、延々と文が続いて、伊都国に着く頃には、文頭は、巻き取られていて(高貴な)読者には何の話かわからなくなるのである。激怒を買いかねない。
 陳寿は、物書きの専門家であるから、何の構想も無しに書き連ねることはないはずである。 

3.対馬国 中略 はじめて一海をわたり、千余里で対馬国にいたる。方(域)は、四百余里。中略 道路は、禽と鹿のこみちのようである。中略 南北に(出て)市糴(中略)している。

 ここから、倭に至る行程が語られるのである。予告したように、狗邪韓国の海岸から「水行」、つまり、渡海するのである。
 本意は、『倭地では、中国では馬車が往来すべき道路(公式街道)が「けものみち」である』の断言と見える。
 また、「方四百里」を「域」、面積表示と明快であるが、何の「域」か不明である。話せば長いので、どけておく。
 また、単に南北市糴と思われる。わざわざ出ていかなくても、客が来るのである。

4.一支国 また南に一海をわたること千余里、名づけて瀚海(中略)という。一大国(中略)にいたる。 中略 方(域)は、三百里ばかりである。中略 又南北に(出て)市糴している。

 「一支国」と速断するのは、早計である。また、「瀚海」は対馬―一大間のみである。
 「方三百里」の解釈は、先例に同じ。「南北市糴」の解釈は、先例に同じ。

5.末盧国 中略 千余里で末盧国  中略 みな沈没してこれをとる。

 末盧国を後の肥前国松浦郷とは早計である。本意は「濱の近くにまで」である。因みに「沈没」の本意は、身を屈める意味である。

6.伊都国  中略 伊都国を後の筑前怡土郡とは早計である。
7.奴国   中略 奴国を後の筑前那の津とは早計である。
8.不弥国  中略 不弥国を後の筑前宇瀰とは早計である。
9.投馬国  中略
10.邪馬台国 南 中略 邪馬壹(中略)国(中略)にいたる。女王の都とするところである。水行十日、陸行一月である。中略 七万戸ばかりである。

 「邪馬壹」を「邪馬臺」の誤りとするのは、早計である。「邪馬臺」を「やまと」と発音すると決め込むのは、おそらく早計である。
 「女王の都とするところ」とは、早計である。「女王之所」つまり居処、「都水行十日陸行一月」(全日数)と仕切るものではないか。
 また、「七万戸ばかり」は、仕切り直して、全戸数総計と解すべきではないか。文書行政の本拠である「女王国」が、戸籍の無い未開の戸数管理の筈がないのである。

                               未完

新・私の本棚 安本 美典 「魏志倭人伝」 「現代語訳」2/2

「魏志倭人伝」「最新邪馬台国への道」(1998梓書院)より Rev.2 2024.8.6  初稿2025/04/06

11.女王国より以北      中略   12.女王国の境界    中略
13.狗奴国          中略
14.一万二干余里の道程    中略  女王国にいたるのに一万二千余里ある。

 12までが「女王の範囲」としている文意から14は本来13の前である。(余談である)
 大昔に聞いた「従郡至倭」の結論であるが、「自郡至女王國」と言い回しを変えていので、読者に恥を欠かせないのである。

第二章倭の風俗
15.黥(いれずみ)      中略

 大人小人は、身分を言う。子供の刺青は無法である。「海人」は、用語として成立しないので早計である。

16.会稽東冶の東  中略 会稽(郡)の東冶(中略)の東にあたる。


 「東治」を「東冶」と強引に読み替えるのは、早計である。
 同時代、会稽、建安東冶縣は東呉領で、陳寿が「魏志」に書くはずはない。

17.風俗・髪形・衣服     中略  18.栽培植物と繊維    中略
19.存在しない動物      中略  20.兵器         中略
21.儋耳・朱崖との類似    中略
22.居所・飲食・化粧     中略  菜は、食事一般のことである。余談である。
23.葬儀           中略  24.持衰         中略
25.鉱産物          中略  26.植物         中略
27.存在する動物       中略  28.ト占         中略
29.会同・坐起        中略  30.寿命         中略
31.婚姻形態         中略  32.犯罪と法       中略
33.尊卑の別         中略  34.租税と市       中略
35.一大率          中略  36.下戸と大人      中略

第三章政治と外交

37.女王卑弥呼倭国大乱    中略  「大乱」とは書かれていない。天下の常識のはずである。
38.女王国東方の国      中略  39.侏儒国        中略
40.裸国・黒歯国       中略  41.周旋五干余里     中略

 「参問」を「人々に問い合わせてみる」と解釈するのは、意味が通らず早計である。
 普通に、実際に「倭地を訪問すると」と解釈するのが自然である。
 「周旋」を「めぐりまわれば」と読み替えるのは早計である。「往来する」と解釈するのが自然である。

42.景初二(三)年の朝献 
    中略 「二年」を、後世資料に縛られて明帝没後の喪中の「三年」と読み替えるのは早計である。
43.魏の皇帝の詔書      中略  44.正始元年の郡使来倭  中略
45.正始四年の上献      中略  46.正始六年難升米に黄憧 中略
47.卑弥呼と卑弥弓呼との不和 中略  48.卑弥呼の死      中略
49.女王、壱(台)与       中略

 「壹輿」を後世資料に縛られて「臺與」と読み替えるのは早計である。

50.壱(台)与の朝献
 中略

◯最後に 賞賛と苦言
 世上、勝手訳が蔓延して埋もれているが、論理的に明快で、かつ、端正な麗訳である。
 是非とも、天下に広めて乱世を鎮めるべきである。その際、「早計」事項を再考いただければ幸いである。
 それにしても、批評の為に適法な範囲で些少な引用を行ったことは、さぞかし御不快でしょうが、ご寛恕いただきたい。
 なお、批判の根拠は膨大に渉るし、諸兄姉には自明と思われるので、割愛させていただいた。

                              以上

2025年2月22日 (土)

新・私の本棚 番外 安本 美典「邪馬台国への里程論」第410回 邪馬台国の会 「水行」談議更新

第410回 邪馬台国の会 講演 2023/05/21    2023/07/22 補充 2025/02/22

*総評
 安本美典師の史論は知的創造物(「結構」)であるから、全般を容喙することはできないが、部分的な思い違いを指摘することは許されるものと感じる。

*明快な指針
 安本師は、本講義でも、劈頭に明快な「指針」を示して、混沌に目鼻を付ける偉業を示されているが、以下、諸家諸兄姉の諸説を羅列していて、折角の指針は、聴衆の念頭から去っていたのではないかと懸念するほどである。
 藤井氏の提言に啓示を受け、背後の地図は扨置き、郡から狗邪韓国まで一路七千里と明記し、俗に言う「沿岸水行」は、見事に排除されている。

*混迷の始まり
 当ブログ筆者の意見:
 倭人伝「現代語訳」で「循海岸水行」を「沿岸水行」と改訂し、後世に混乱を残したのは、何とも残念である。
 「倭人伝」解釈は、「倭人伝」自体に依拠すべきであり、確たる検証がない限り、遙か後世の東夷に従うべきではない』のではないかというのが、当ブログ筆者の意見であり、とはいえ、氏の講演は、諸言説を否定も肯定もせずに進んでいる。

*「東夷の不法」説批判
 安本師は、世上俗耳に訴えて蔓延している『「倭人伝」道里が誇張である』と称する風評に同意せず、地域固有の論理/法理に従って「首尾一貫している」と至当極まる、至極の見解であるが、続いて、後世日本での里制の乱れを紹介し、それ故に『中国に於いて「里」が動揺していた』との不合理な解に陥っているのは、感心しない。聴衆、読者は、筋の通った考察を求めているのでは無いかと思うのである。
 せっかくの外連(けれん)であるが、これは、古代中国には無縁の曲解である。後世中国文明と縁遠かった東夷の事情で起きた事象が、三世紀倭人伝の記述に影響を及ぼすはずがないのは自明では無いかと思われる。
 中国は、少なくとも秦代以来、厳然たる「法と秩序」の文明国家であり、中国「里制」は、魏晋に至るまで鉄壁不変/普遍普通の鉄則と見るべきと思うのである。

 遼東郡は、秦始皇帝が、戦国「燕」を撲滅した後に東夷監督のために設置した最初期の「郡」である。
 楽浪郡は、後生である漢武帝が半島中部で睥睨していた「朝鮮」を撲滅した後に設けた漢制「郡」である。当然、郡統治は、漢代の「法と秩序」、漢制にしたがうものであり、秦漢通用の「普通里」が、厳然と適用されていた。
 帯方郡は、後漢献帝の建安年間に、元来、楽浪郡の南方に置かれていた「帯方縣」を昇格させ楽浪郡を分郡したものである。それまで、漢制が及んでいなかった「耕地」に、街道や戸籍を及ぼす目的を担っていたので、当然、管轄下の韓、濊、倭の諸勢力は、漢制に教化されたのである。
 そのような世界に、不法な非「普通里」が横行していたというのは、とんでもない言いがかりでは無いかと思われる。

 このあたり、「倭人伝」解釈において、帯方郡管内における漢制の齟齬を想定し、中国の「法と秩序」の不備に原因を求めているように見えるが、陳寿には反論のすべがないので、素人が僭越にも代弁するものである。以上に述べたように、帯方郡は、後漢の諸制度を継承した魏制の、厳然として適用された世界と確認できるので、師のご指摘は的外れと見える。

 率直なところ、以上のご指摘で見て取れる「地域短里」は、東夷の領域では、秦漢魏晋の「漢制里制」一里四百五十㍍程度の「普通里」が施行されてなかったという不合理な解釈に依存していると見えるので、同意を保留せざるを得ないのである。

*ローカルな話/明帝遺訓の万二千里
 ここで提言したいのは、師の「地域短里」は、地理的なLOCALであるが、ここは、文書内の局所定義という意味のLOCALと進路変更頂きたいというものである。
 別に述べたように、後漢末期の建安年間、遼東郡太守公孫氏は、新参の東夷である「倭人」の身上を後漢、曹魏に報告しなかったが、天子の威光の辺境外の「荒地」を示す「万二千里」の道里を想定したと見える。
 曹魏明帝の景初年間、司馬懿の遼東征伐で公孫氏文書は破壊されたので、公孫氏の想定は明記されていないが、曹魏明帝が事前に帝詔をもって両郡を配下に移し、両郡文書が雒陽に回収されて、「天子から万二千里」の「東夷」が明帝の目にとまったと見える。斯くして曹魏皇帝が万二千里を公式に認定し、明帝遺訓となったので、史官である陳寿が金文の如く尊重し、斯くして、「倭人伝」に「ローカル」道里が記載されたと見える。
 そのように筋を通さなければ、公孫氏遼東郡時代の楽浪/帯方郡の東夷管理記録が、魏志に収容された事情がわからないのである。

*まとめ/一路邁進願望 補充2025/02/22
 安本氏に期待するのは、「邪馬臺国」がどうであれ、「倭人伝」に書かれた行程道里は、最終的に九州北部(北九州)に達する、筋の通った明快な書法であり、当時の読者が納得したものと理解して、史学論の泥沼を排水、陸地化して頂きたい。

 渡邉義浩氏の指摘に拠れば、先行する史書で、唯一「水行」の見て取れる行程記事である、史記「夏本紀」の禹后巡訪記事は、丁寧に考察すると、堅固な陸地移動を「陸行」車に乗った街道移動としている。付随して書かれていると見える「水行」は、「陸行」と並行する「街道」でなく、単に、河水の流れを渉る移動と解釈される。「水を行く」とは、つまり、対岸の街道への渡河であり、「陸行」と同等の移動行程とは見えない。同様に介在する「泥沼」は橇で「泥を行く」するものである。つまり、連絡移動していると総括している。
 古典字書である「爾雅」は、「水行」を渡河と規定していて、河流に基づき、遡行、巡行する行程は、別の用語を定義している。

 史官の用語定義にしたがえば、「倭人伝」に示された「循海岸水行」は、本来の意味では「河川」に限定される「水」を、流れのある「大海」に応用した新規の用語であるため、海岸から渡船で対岸に渡る「水行」を、項目初頭で殊更定義したものであり、唐突に渡海するものでは無いのである。郡の最寄り海岸から「渡海」したと解釈すると、行く手は山島半島であり、これでは、郡の郵便/文書使は、倭に到達することができないから、たちどころに、不合理と判断できるのである。そのような不合理な解釈は、自動的に排除され、「循海岸水行」はね新規表現の定義であると明解なのである。

 以上説明したように、公式道里記事を、陸地なる「海岸に沿う」と改竄して、泥沼/海浜を「水行」させる議論は、早々に排除して頂きたいのである。
 もっとも、正史記事で「海岸沿い」は、せめて、海岸と並行した陸地街道と見るものではないかと素人なりに思量するものである。

 以上、「倭人伝」解釈に於いて、終始一貫して誤解されていると見えるので、ご一考いただきたい。

                               以上

2025年2月21日 (金)

新・私の本棚 岡 將男 「吉備・瀬戸内の古代文明」季刊「邪馬台国」第140号 再掲

「吉備邪馬台国東遷説と桃核祭器・卑弥呼の鬼道」 季刊「邪馬台国」第140号2021年7月
私の見立て ★★★★★ 考古学の王道を再確認する力作  記 2021/07/13 2024/08/19, 12/11 2025/02/21

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

◯はじめに
 著者は、フェイスブック「楯築サロン」代表と自称している。吉備地方の「楯築」墳丘墓の在野研究者と拝察する。要領を得ないが、本誌で示された実直な研究活動には賛嘆を惜しまないものである。

◯私見~纏向と吉備 桃種異聞
 以下、当記事の一端を端緒として、他地域遺跡の発掘事例の瑕疵を考察したものであり、岡氏の著作を批判したものではない。よろしくご了解いただきたい。当ブログ筆者は、纏向遺跡出土の桃種のNHK/毎日新聞報道が提灯持ち報道(もどき)と批判したので、当記事での事実確認に、まずは歓迎の意を表したい。

*纏向大型建物「事件」~私見
 敢えて付け加えるなら、現在もNHKオンデマンドで視聴可能である「邪馬台国を掘る」で公開されている「桃種」出土時の学術対応について指摘したい。
 画面では、「桃種」が、纏向遺跡の土坑、一種のゴミ捨て穴から出土したとき、無造作に水洗いして付着物を除き、シート上で陰干ししたように見える。個々の桃種の出土位置と深さを記録していないのも難点だが、別に「非難」しているのではない。考古学関係者も、一般視聴者も、何とも思わなかったはずである。
 他の考古学的な発掘では、有力な遺物については、前後左右上下関係を記録した上で取り出し、発見時の位置が再現できるものと考えるが、今回の事例では、後日、桃種サンプルを年代鑑定したものの、出土位置不明では、新旧不明と見える。建物建設との前後関係も不明。歴年か一括かも不明である。後悔は尽きないと思うのである。

*遺物蒸し返しの愚~私見
 近年になって、それらしいサンプル(数個)の年代鑑定を行ったようであるが、もともと、考古学的に適切な発掘、保存がされていなかった以上、莫大な経費を投じた悪足掻きになっている。何しろ、三千個の攪拌された母集団から、ランダムに数個取り出して鑑定しても、統計的に全く意味がないと見えるのである。

*纏向式独占発表の愚~私見
 纏向当事者は、発掘成果を実験して、他の考古学的発掘の「桃のタネ」事例を調べることなく「未曾有」としたのは不用意である。想定外の大当たりを自嘲している暇があれば、大規模墳墓の出土地域に、前例の有無を、謙虚に問い合わせれば良かったのではないか。
 学会発表であれば、論文審査で疑義が呈されて克服するから粗忽を示すことはないが、実際は、NHK、全国紙など一部「報道機関」に成果発表を独占的/特権的に開示し、真に受けて追従した「報道機関」に誤報の負の資産を課した。NHKなどは、勝手な「古代」浪漫を捏造し、懲りずに継承している。懲りて改めなければ、負のレジェンドとして、"Hall of Shame"の「裏殿堂」に永久保存されるだけである。

 以上の批判は、別に素人が勝手な思い込みで記事を公開したわけでなく、大筋は、前後はあっても、当誌の泰斗である安本美典氏が、誌上で論難していることは、読者諸氏には衆知であろう。一方、「報道機関」は、毒を食らえばなんとやら、纏向桃種の「奇蹟」は、多数の努力と巨費を空費して、まことに国費の浪費であり、勿体ないのである。
 会計検査院は多額の国費支出の妥当性を監査しないのだろうか。

 岡氏は、別に、纏向遺跡の桃種について「非難」しているわけではなく、土坑出土の桃種の年代鑑定に疑義を淡々と提示しているが、当ブログ筆者は、素人で行きがかりも影響力もないので、率直、真摯に論難した。直諌は耳に痛いが、社交辞令にすると大抵無視されるのである。

◯まとめ

 因みに、当記事で説かれている「吉備邪馬台国」論議は、各遺跡で出土した万余の桃種の年代鑑定に依存してはいない。文字史料の伴わない遺物の宿命であり、遺物考古学論考の限界で「倭人伝」記事との連携はこじつけと見えるが、遺跡遺物考証に基づく世界観は盤石と感じる。

 以下は、岡將男氏に対する個人的な批判でないことは御理解いただけると思う。

 考古学界では衆知であろうが、遺跡遺物の考古は、文字史料と括り付けしてはならないのである。多数、広汎の発掘成果を、万余の研究者がつなぎ上げた、言わば、独立して築き上げた「歴史観」は、中国正史の記事と「ぴったり」整合するはずがないのである。その際に、歴史観をずらし、撓めて、文字史料に整合させることができないとして、寄って集(たか)って、文字史料を書き矯めているのが、素人目には、現下の混乱の根源なのである。岡氏は、考古学界の一員である以上、大勢に背くことはできないのであろうから、素人、門外漢の余談として述べるに過ぎないのである。

 これまた、岡氏に責任もなにもない余言である。近来、本誌の刊行について「邪馬台国の会」ホームページに、予定どころか刊行の告知も、とんと見かけない。論敵「古田史学の会」が、古賀達也氏のブログで、細かく進度報告を公開しているのと大違いである。学ぶべき所は、謙虚に学ぶべきではないか。

                                以上

2025年1月26日 (日)

新・私の本棚 塩田 泰弘 季刊 「邪馬台国」第131号「魏志が辿った..」再掲 1/5

「魏志が辿った邪馬台国への径と国々」 2016/12刊行
私の見立て ★★★★☆ 不毛の道里論の適確な回顧 2020/04/08 改訂
               ★☆☆☆☆ 無責任な投馬国道里 2020/09/03 2021/12/11,19 2022/11/20 2023/06/12 2025/01/26

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

〇はじめに
 冒頭に「帯方郡から邪馬台国までの行程と里程の概要」と明記し、魏志倭人伝に言う一里は現代で言う何㌔㍍かという問題を解決しておきたい」と端的です。「業界」風習に安住せず、課題(問題)を課題として取り上げ、明解な「解」を提示する困難に挑む気概は「優秀賞」の誉れを得ています。
 この姿勢に共鳴した上で、敢えて、手厳しい異論が多いのは、基本姿勢への共感の表れと見ていただきたいのです。
 改訂後の更に手厳しい批判は、投馬国道里行程論に幻滅したからです。

*冒頭提言の空転
 先の端的な宣言は、反面、本論文の弱点を示しています。凡そ、論文は、先行諸論文を理解し克服しなければ意義がありません。つまり、長年にわたり諸兄が明解な「解」を与えられなかった未解決課題の挫折の原因を摘発、解決しなければ、また一つの誤解と解されます。工学分野では先行技術の克服が必須であり、それに馴染んだ当方は、この切り出しに賛同できません。

 そもそも、本論は、出所不明の行程文で始まっています。後になって、石原道夫編訳の岩波文庫版の文章とわかりますが、引用典拠の後出しは(著作権視点から)不法行為です。また、追って異論と対比するように(「郡から倭に至る」を置き忘れた)冒頭の狗邪韓国までの七千里の文は、同資料の解釈に無批判に追従しています。

*換算表の誤謬
 氏は、引き続いて、奥野正男氏が2010年の著書に提示した数表「里・㌔㍍換算表」の一里89㍍に独自の意見を加えたのですが、まずは、奥野氏の論考が適確に検証、批判されていないのが怪訝です。
 とは言え、季刊 「邪馬台国」が掲載しているということは、同誌として、論文審査の上で趣旨賛成と見るもので、以下、その賛成票に異議を唱えるものです。

*里数談義
 素人考えでは、例示里数は、算用数字4,5桁で「余」有無もありますが、これら数字の根拠というか編者の真意を理解しないまま、「素直に」現代知識で計算するのは錯誤重積です。
 原史料の漢数字道里は、大半が千里単位と見えても由来が異なっていて、安易に計算できないのです。まずは、松本清張氏も指摘しているように「奇数偏重」であり、その背景として、数学で言う有効数字一桁も怪しいと見て取れるのです。

 「余」と概数表明してない「里」は当然概数ですが、それでいて一律と見える「余」が、敢えて省かれているのは、別種の「里」だからでしょう。例えば、韓の「方四千里」は実測等でなく、郡が他領域と比較して、漠然と見なしたと見るのです。
 他で欠かさず「余」里とあるのは、道の「里」、つまり「道里」であり、移動所要期間に結びつくので、加算時の誤差累積を避けて中心値としたと言うことでしょう。大抵の人は早合点していますが、「倭人伝」の「餘」は、端数を切り捨てたという事ではないのです。

 このあたり、陳寿は、平静に、慎重に表現を選んでいるのです。現代人が、これをして、陳寿が数字に弱いというのは、物知らずの独りよがりです。結局、そんなことを書き散らす「ご当人」が、(古代)数字に「めっぽう弱い」のを自覚していないだけです。
 古代に関する知識に欠ける「無知」「無教養」の現代人が、古代史の世界観について陳寿と知性を競うのは、「蟻が富士山と背比べしている」ようなもので、ご当人は勝っていると思っても、実はべらぼうな勘違いなのです。
 いや、ご当人以外の諸兄には、釈迦に説法ですが、現代は、誰でも、一人前に意見をぶてるので、こうした「屑意見」がのさばるのです。
 以上は、塩田氏の著作に対する批判ではない余談なので、耳障りなであればお詫びします。

*端数の意義 訂正追記
 当時の大抵の概数計算は、千里単位などの一桁算木計算で、平易で高速であり、桁違いの端数は無視してよい/無視しなければならないのです。また、十進法であったというものの、算用数字も0も存在しないので横書き多桁表示は存在しないのです。当時存在しなかった、つまり、陳寿にいたる同時代関係者が夢想だにしなかった「多桁算用数字」は、誤解を招くので即刻退場頂くべきです。

 一方、戸籍集計による戸数計算は、後漢書の楽浪郡戸数のように、何百万(口/戸)あっても、一の桁まで計算しますが、これは、多数の専門官が大変な労力を要する一大事業でした。後の「晋書」地理志では、両郡の統制が衰えたため、そのような集計が不可能となり、概数になっています。

 訂正:「戸」に関する一般論は了解頂いたとしても、倭人伝の「戸」は、戸籍があっての集計でなく概算見積もりとみるべきです。何しろ、文字記録のない時代で、帳簿としての戸籍は未整備であり、郡から戸数の報告要求されたら、倭人は、管内戸数を見繕いするしかなかったのです。
 因みに、「戸」数は、各戸の農地に直結していて、管内の収穫量を申告しているものです。つまり、戸数に応じて徴税されるのです。また、各戸に複数の壮丁がいるとの解釈となるので、管内で動員可能な兵数の表れともなるのです。
 因みに、「口」、つまり、今日言う「人口」は、特に重大な意味はなかったのです。年少者や老人、婦人の数を数えても、意味がないのです。壮丁に対しては、人数に即した人頭税が課せられたとも見えますが、ここでは別儀とします。

 丁寧に言い足すと、末羅以降の百里単位の里数は、郡や倭人には大事であっても、全体の万二千里や、先立つ七千里、三千里から見れば、端数であり、些細なのです。

 諸兄の中には、ご不快に思われる方も多いでしょうが、「倭人伝」は、奴国、不弥国、そして投馬国と列記された「余傍の国」の精密な位置付けのために書かれたものではないのです。また、郡から倭に至る行程記事は、当時の中原人が読めば、「すらすらと」読解できるように書かれたものですから、現代でも、丁寧に読み分ければ、「すらすらと」正解に収束するはずなのです。
 言い方を変えれば、道里行程記事が、伊都国で決着しているとみれば、以降の奴国、不弥国、投馬国は、記事の対象外であり、「邪馬壹国」すら、記事の行程外とも見えるのです。何しろ、霊帝期に「従郡至倭」の記事が書かれたとすれば、「郡」は遼東郡、ないしは、楽浪郡であり、倭は伊都国であって、その時点が女王共立以前となれば、「邪馬壹国」が既に存在していたかどうか不明なのです。(国名が不明という意味です)

*論外の「方」表示 不可思議な島巡り 訂正追記
 さて、両島の「方」表示は、道里計算から外すべきです。また、「方…里」は、道里と異なる面積単位との有力な説もあり、奥野氏は、不正確らしい数字を排除して計算精度を保持したと見えます。

 要するに、古代中国で「方…里」は、地形を表明したものではなく、管内の耕地面積の総計を示したもので、収穫量に連動しています。つまり、この際の「里」は面積単位(二次元)であって、領域の地形、大小を示すものでなく、まして、領域を方形で近似したものでもないのです。古典書「九章算術」なる教科書に詳解されているように、古代の検地/計算方法では、農地が、正方形、長方形、台形、平行四辺形の四角形のいずれの形状であっても、実務では、農地の中央部で、縦横を計測して掛け算するのであり、土地面積「方歩」の計算方法が明確なので、地域内の農地面積は、それぞれ、簡単に積算した上で、「方里」を計算できたのです。また、例外的な円形やドーナツ状の土地も、検地する手法が知れていたのです。
 管内の集計は、各戸の「方里」を足していくので、管内の農地全体がどのような形状になるか不明であっても、徴税上、農地の形状は関係無いのです。もちろん、領域内の耕作不能な荒れ地や河川流域などは、集計から除外されています。

 対海国、一大国は、「良田」、つまり、「徴税するのに相応しい収穫の得られる農地」が少ないという泣き言を入れていて、減税ないし免税をたくらんだものと見えます。従って、戸数を規準にした課税はご勘弁いただきたい」という事です。「倭人伝」に掲載された趣旨は不明ですが、一応趣旨を認めたということなのでしょう。

 因みに、「田」は、中国語では、区画された農地で、倭地では「水田」の可能性が高いのですが、本来、中原の農地は、乾田が大勢であり「水田」は、例外と見られます。要は、黄土平原では、水田の「田作り」しようにも、水を通しやすい土質と降雨量の乏しい気候が災いして、水田稲作が成り立たないのです。水田からの反収とそれ以外の乾田の反収は、大きく異なることが、史料に明記されていますが、水田が成り立たなくては、水田稲作できないのですから仕方ないのです。

 と言うことで、中原農家と倭地の農家では、一戸あたりの「収量」が大きく異なりますが、その辺りの補正計算は、別儀とします。言うまでもないと思うのですが、水田稲作地帯の日射量、気温、降水量から得られる収量は、中原での穀物収量に比して、隔絶して多いのです。

 いずれにしろ、積載量の限られた渡船で、海峡を越えて大量の米俵を運ぶのは、限りなく困難(事実上不可能)なので、郡として両国からの徴税にこだわることはないと見えます。韓、倭には、「銭」がないので、中原のように、農民が産米を地域の商人に売り渡して穴あき銅銭に換金し、銭綛を納めることもできないのです。

 念のため付言すると、食糧の自給自足ができない状態では、食料輸入しない限り対海国は「持続」不可能です。実際は、対海国は、南北市糴の唯一無二の寄港地であり、当然、漕ぎ手を確保した市糴船を多数所有して運行していたので、通過する貨物から運賃なり、入出港の経費をたっぷり徴収して繁栄していたのであり、例えば、一船ごとに[米俵]を献上するようにしておけば、食料は、いつも潤沢なのです。

*市糴の話~余談 2021/12/19
 そもそも、対海国は、倭の国境であり、韓国領に荷物を売るときには、一大国のような同国人との取引で買い叩かずに手加減するのとは別で、好きなだけ値付けできるので、[国際交易]の利益は潤沢であったはずです。そのような商売をするためには、半島側の港に[上屋]海港商品倉庫を持ち、市を主催して、参集した半島内各地の買い手をあしらう、対海事務所のようなものを確立し派遣した監督者が警備の兵を雇っていたはずです。(当然、買付もしていますが、「当然」なので詳しく書きません)

 倭人伝には、対海国人は、「乗船して南北市糴する」と、要点だけを書いていますが、国として、市糴の利益を確保するためには、そのような組織が必須であり、それは、当然自明なので、要点のみにとどめているのです。この点、余り、倭人伝「對海国条」論議で聞かないので、素人考えを書き残すことにしました。

 また、古田氏提唱の「不思議」な島巡りの数百里は、倭人伝に一切書かれていないので、海中山島について何の知見も無い読者にわかるはずがなく、従って道里の勘定に入ってないのです。所詮、概数計算に載らない「はした」ですから、帳尻合せにも必要ないのです。

                                未完

新・私の本棚 塩田 泰弘 季刊 「邪馬台国」第131号 「魏志が辿った..」再掲 3/5

「魏志が辿った邪馬台国への径と国々」 2016/12刊行
私の見立て ★★★★☆ 不毛の道里論の適確な回顧 2020/04/08 改訂
               ★☆☆☆☆ 無責任な投馬国道里 2020/09/03 2021/12/11,19 2022/11/20 2023/06/12 2025/01/26

*加筆再掲の弁

 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*異論
 前回述べたように、当塩田論文は、掲載誌 季刊「邪馬台国」には珍しく、郡・狗邪韓国間の行程を陸上のものと見た古田武彦氏と中島信文氏の「異論」を紹介していますが、ここで「歴韓国」の「歴」の解釈だけをことさら掘り下げて「異論」不採用の弁としているのは不審です。
 両氏は実現不可能な沿岸航行を非としてそれぞれ立論していて「歴」は論拠の一片ですから、適否を言わなくても皮相的で軽率な評価と思われます。

 古田氏は、今や古典となっている第一書『「邪馬台国」はなかった』で、定説化、因習化していた「原始的な水行」説を否定して、正論として、郡から海岸に出て暫時水行南下した後、上陸し、以下、図式状階段状に東進、南下して、「全体的に東南に陸行して狗邪に至る七千里陸上行程」を提示しています。
 素人目には、現地地形を無視した武断であり、信憑性を大いに損ねていますが、塩田氏は、不同意とせず、細部に言及していないので、ここでは論議しません。
 中島氏は、基本的に同様の陸上行程と見るものの、北で北漢江、南漢江、南の嶺東で洛東江に従う河川主体の輸送と見て、狗邪に至る七千里を「水行」と分類する「異論」です。 私見では、中島氏の周到な卓見を賛嘆するものの、これほどの長途を、河川航行を活用して人馬を煩わさない公式行程とするには、賛同しがたいのです。もっとも、塩田氏は、不同意とせず、また、細部に言及していないので、ここでは論議しません。
 誰の口から出た学説、「異説」であろうと、それぞれ、堅固な見識と学識に裏付けられた、頑丈で筋の通った異論なので、論理的に対峙して克服することなしに見過ごすことはできないと信じるものです。

 蛇足、手前味噌ながら、当方は、冒頭の「循海岸水行」の「循」を魚豢「魏略」「西戎伝」用例を参考に『海岸を「盾として行く」渡海を水行とする』との付託宣言と見て、郡から狗邪までを、恐らく河川沿いの「陸行」に止(とど)めた上で渡海三千里(だけ)を官制外の海上「水行」に分類する素人「異論」であり、両氏とは同舟ながら意見が大きく分かれます。

 論議の命は、細部に宿っているのです。よくよく、ご注意を乞うものです。

▢対馬条 以下、各国記事を「条」として見出しとする。
*范曄「後漢書」再評価
 氏は、素人目には魏代史料として圏外、二流の范曄「後漢書」が「国々皆王と称す」と「倭人伝」を越えたと見て「対馬に王あり」と見ますが、当方は、当初早計と断じました。
 ところが、近刊の古田史学論集 第23集 掲載の野田利郎氏の「伊都国の代々の王とは~世有王の新解釈~」は、豊富な古典用例に基づき後出倭人伝伊都条「丗有王皆統屬女王國」「世に有る王は、皆女王国に統属する」と読み、「倭人伝列国に皆王があり女王に属した」としています。
 定説が「丗有王」を「世世有王」と改竄して、「伊都には歴代王がいる(が、他国は特記しない限り、王がいない)」と伊都特定記事と見たのが早計としているのです。いや、さすがの古田氏も、この原本改定は見逃していたようです。
 つまり、定説に無批判に依存して、「倭人伝に対馬に王在りと書いてないから、王はいなかった」と決め込んだ当方の史料解釈が「早計」かも知れません。
 野田氏は、范曄が、倭人伝の紙背を読んで明解に書き立てたと見て、素人目には「倭人伝」界で、大いに不評の「笵曄」株を上げる、一聴に値する論考としていて、小なりと言えども首尾が整っています。
 但し、素人目の魏代記事評価における「陳寿第一范曄第二」、つまり、「陳一范二」の位置付けは、一片の功で変わるものではないのです。いや、これは、あくまでも個人的な戯れ言ですが。
 古田史学会誌は、ことのほか厳しい論文査読で定評があり、ここでも精妙で画期的な論考を査読、提供しています。
 今後、当論文に関し、広く追試や批判が出て来るものと期待しています。

 以上の評価を公開したところ、当方が野田利郎氏の提言を支持したと見て詰問するコメントが来ましたが、当方は、論考の展開に賛意を示しただけで、野田氏の提言に同意することは留保したものが、外野から非難されて、大いに心外だったものです。
 事実、野田氏の提言には、同意できないとの見解に傾いています。

*異論
 塩田氏の季刊「邪馬台国」誌論稿に戻ります。塩田氏は、「対馬陸行」について、榊原英弘氏の論に言及していますが、実現不可能な長途の沿岸航行を無思慮に図示する方の意見は、簡単に採用できないと思います。いや、これは、榊原氏の人格を攻撃をしているのではなく、「千慮の一失」を殊更角を立てて批判しているものです。

 素人目には、狗邪から対馬の北側に乗り付けた後、海流の厳しい、南北に延びた海島を「島巡り」回航、続航するのは「渡船」の任務を食みだし、回航は漕ぎ手に無用の消耗を強います。そんな無理、無駄をしたら、両島生命線の市糴を維持できないでしょう。

*「船越」考古学~余談 2021/12/19
 對海國では、西岸に到着した海船を浅茅湾の入り江に収納し、船を残して人と物を端的に陸峡越えさせ、南東側から、対馬~一大渡船に乗り継ぐのが、合理的で順当な運用と思われます。
 因みに、現地地名から、陸峡部を船を担いで乗り越えた伝承が語られているようですが、軽快な渡船といえども、船体重量は、小数の労力で担えるものではなく、また、いかに丸太などで滑らかにしても、船体底部に損傷が生ずるのは避けがたく、とても、対海国の生命線を担う渡海船をそのような苛酷な陸越えに供するものではなく、何らかの誤伝と見られます。
 何しろ、現地事情を知らない奈良盆地内陸の事務官僚が、全国地名整備の一貫として、由来をこめて造作したと思えるので、誤解を避けられないのです。

 実際面から見ると、陸峡の向こう側には、軽快な渡船が待機していて、船体を運ぶ必要がないことから、「船越」は、船荷の峠越えと見る』方が、合理的で理性的な見方でしょう。船荷は小分けできるので、地元自由民が分担して運べば、ちょっとした駄賃で人手に不足はないのです。こうして、誰も酷使しないので、連年実施できる合理的な輸送法なのです。陸上の荷担ぎは、誰でもできるので、人海戦術ができ、また、交代で取り組めるので、酷使にはならないのです。長期に亘って継続できる、合理的な運行方法と言うべきでしょう。

 特に、「船越」は、陸峡部の短距離でさほどの険路ではないので「禽鹿径」と評したのにとどまっています。南北市糴は、漕ぎ船の制約から、軽量、少量の貴重、高貴な物品を運ぶことから、荷担ぎの負担は、一段と少ないものとみるのです。
 但し、巷説の魏帝下賜の貨物は、銅鏡百枚を含む相当の重量貨物ですから、例外的に重荷ですが、いずれにしろ、漕ぎ船で運べるよう小分けして便数を重ねたはずであるから、それぞれの便に際しては、十分担える重量だったはずです。
 要するに、地元住民を動員して、無理なくこなせる「船越」であったと見るのが、合理的です。

 ここで、塩田氏は、對海國で「険路数百里」の陸送と移動を想定していますが、何かの勘違いでしょう。誰でも勘違いはあるので、読み返して、「検算」した論文を提出して欲しいし、論文審査も、このような勘違いは検出して、是正してほしいものです。権威ある季刊「邪馬台国」の規準は、維持されるべきだと思うのです。

*渡船の使命~「漕ぎ継ぎ」の合理性
 対馬~一大渡海は、極めつきの激流とされていて、それなら最強の漕ぎ手と船腹が必要ですが、他では、そのような重装備は大変な重荷で、舵が効きにくいので危険でさえあります。それほど苛酷でない「渡船」区間では、軽量の船体で、少数の漕ぎ手でも、運用できるはずです。その土地、海況に応じた船が、短い区間で運航したはずです。「倭人伝」で言う「瀚海」は、やはり、特別の意味を持つと見えるのですが、詳しくはわかりません。ということで、問題提起だけしておきます。

 渡船は、区間限定で便船に漕ぎ手を載せます。「倭人伝」も区間ごとに、決まった船と漕ぎ手を運用するのは、当然、自明なので書いてないと見ます。同一の船と漕ぎ手で長途一貫なら、特筆、特記したと思うのです。

 難所を越える漕ぎ手は、力自慢とは言え、生身の人間ですから、連日、難所を漕ぎ渡ることなどできなかったのです。普通に考えれば、漕員総交代、恐らく、船ごと代えたものでしょう。各国、各地で、渡し舟はありふれていますが、力漕が必要な区間を連日漕ぎ続ける渡し舟は、まず見かけないでしょう。いや、渡船は、大抵は、軽快なものなのです。

 当方は、別に、同時代に同地で渡し舟を運航していたわけではありませんが、時代を経ても相通じると思える「人の行い」を基礎に長期にわたって、安定して持続可能な運航方法を考えるのです。

                                未完

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