季刊 邪馬台国

四十年を越えて着実に刊行を続けている「日本列島」古代史専門の史学誌です。

2024年7月16日 (火)

新・私の本棚 岡上 佑 季刊 邪馬台国 144号「正史三国志の史料批判...」 1/4 補追

 ...から見る邪馬壹国所在位置論争への結論 「投稿記事」
 私の見方 ★★★★★ 渾身の偉業      2024/01/11 02/13 07/16

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

◯はじめに
 本稿は、タイトルから明らかなように季刊「邪馬台国」誌の標榜する「邪馬台国」に背くが、安本美典師の当初抱負を体現した寛恕と見る。
 私見では、本稿は、世上通説とされつつある非科学的な「陳寿」風評の払拭を図っていて、偉とするべきであり、大いに、賛辞を述べたい。
 但し、学術的な論考としては、肝心の基礎部分、脚もと、および、その場での視点が崩れていて、まことに勿体ない。ここでは、細瑾をつつくが、論考の核心は、細部に宿るとも言えるので、ご一考戴きたいものである。

◯批判列挙
*風聞蔓延の嘆き~「通説」への異議
 氏も歎かれているように、国内古代史論者は、「通説」と擬態して 不法/不合理な陳寿誹謗を延々と繰り返し、後生を染め付けているが、氏の「通説」に対する異議は、合理的な視点が、事の原点を取り違えている。

*正史本位説の提唱~私見提示
 三世紀史書である「魏志」「倭人伝」は、それ自体が、同時代史書の原点であり、二千年後生の無教養な東夷の論者が、「日本」に「正史」を創造して、小賢しく「史料批判」するのは、本末転倒、錯誤である。古代に於いて、天子は一人、天下は一つであり、蛮夷には、天子も正史もないのが、ことの原点である。

*散佚史料の根拠なき昂揚
 氏は、いずれかの論客の根拠なき提言に加担して、王沈「魏書」なる散佚史料を「復元」して、陳寿「魏書」に対して異議を立てるが、徹頭徹尾、無謀である。

*臨時定義の勧め
 因みに、本記事の如く原点史料と散佚史料の対比であれば、それぞれを特定するために、繁雑のようでも編者を冠するのが定則である。
 字数を厭うなら、「陳志」、「韋書」、「王書」と臨時定義すれば良い。記事をかじり取っては意味が通じないので、悪用が回避できる恩典もある。

*無用の先例検索
 臨時定義の先例検索は無意味である。先例を排するための定義であり、自明の最たるものである。その宿命で、当記事が終われば、臨時定義は、雨散霧消して影響を及ぼさない。但し、後生の模倣は避けられない。
 このように提言するのは、「翰苑」残簡佚文で、笵曄「後漢書」以外に無冠「後漢書」を見て、散佚謝承「後漢書」とする詭弁がしつこく出回っていて、善良な研究者を迷わせているからである。
 「翰苑」は、史書でなく「名言」宝鑑であるので、原史料所引聞きかじりのぶつ切りで、屡々原史料の書法が、誤引用交じりで持ち込まれている。古典教養同時代読者に自明の省略が、二千年後生の無教養な東夷に誤解を呼んでいる。まして、写本が粗雑で、誤引用に輪をかけている。

*「王書」評価
 「王書」、即ち王沈「魏書」の佚文を麗々しく文献系統図としたのは夢想である。厳正に継承された「正史」と対等の史料批判はあり得ない。

*韋昭「呉書」(韋呉)評価
 韋呉と「呉志」対比で、韋呉は、東呉史官韋昭が、東呉公文書から編纂、東呉皇帝に上申、亡国の際西晋皇帝に奉納され蔵書とされたから、陳寿は、「呉国志」「呉志」として東呉文書を渉猟・編纂しても、韋昭の偉業をどうにも克服できない。
 内容を逐一点検しても、東呉内部文書の意趣が濃いのは、自明である。

 案ずるに、それぞれの史書は、由来を吟味して、質を評価するものであり、単に、二千年後生の無教養な東夷が、稚拙に絵解き、数合わせすべきものではない。

                                未完

新・私の本棚 岡上 佑 季刊 邪馬台国 144号「正史三国志の史料批判...」 2/4 補追

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 私の見方 ★★★★★ 渾身の偉業      2024/01/11 02/13 07/16

*加筆再掲の弁
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*「王書」、「魏略」の由来
 ついでに言うと、王沈「魏書」(王書)は、あくまで、後漢を承継した曹魏の史書であり、魚豢「魏略」は、あくまで、曹魏の史書稿(「略」)である。これに対して、陳寿は、蜀漢、東呉が降服して天下統一が成った晋から振り返った上での、「三国鼎立」史観であり、しかも、蜀漢、東呉に関する「国志」を統合せず、史書として誠に別格である。東呉、蜀漢の「公文書」は、ほぼ一切曹魏に届いてないので、史官として、統合しようが無かったとも言える。

*未熟な「正史」観~非科学的な論義
 氏の偉業の細瑾を咎めるのは、心苦しいが、率直な所、氏の「正史」観は「未熟」である。とは言え、世上溢れる陳寿誹謗論者は、歴年学究を経ているので、最早、晩節における回心の可能性は見出せず、終生「不熟」と見られるものである。「未熟」とは、「不熟」の群を抜いていると言いたいところである。
 それはそれとして、氏は、陳寿が推敲した「魏志」を『佚文や所引で推測する「王書」架空文で批判している』から、誠に、非合理的、非論理的、非科学的と断ずるしか無いのである。後生の「熟成」が、切々と待たれるところである。

*図示の愚行
 氏は、終段図示の言い訳として「史学論考の文章は堅苦しい」と罵倒/酷評/自嘲されているが、論理は本来堅苦しい。「幾何学に王道無し」は、欧州圏の至言であるが、中国でも、街道に皇帝の道はあっても、論理学に王道は無い。
 史学者には常識以前の自明事項(のはず)だが、古人は文字で論じ図示は一切存在しなかった。そもそも、図は読者の知性・教養によって、解釈が大いに、大いに異なり、安易な掲示は、断固/頑固/頑健に避けるべきである。

 例えば、図の要素の上下、左右は、何を示唆するのだろうか。今日常用されている矢印は、古代に何の意味があったのだろうか。論理の足場を突き崩す、グズグズの泥沼では無いか。
 あるいは、漢文は断然縦書きであり、掲額などでは右から左に横書きするのである。後漢代の西域史料では、安息国では文書を横書きすると明記されていて、あるいは、右から左の横書きは当然なので、特筆していないかもしれない。
 要するに、氏は、一段と二千年後生の無教養の東夷の中でも、古典教養に疎い、一段と「無教養」な読者の、いわば勝手な読み取りに頼っているのであり、それは、氏の獲得した論理の継承で無く、氏の好む「情熱」の伝播に甘えているのである。
 以上は、氏に対して、苛酷な批判であるかも知れないが、ことを論理的に主張する際に自戒して、より高度な論考を求めたいのである。

*カタカナ語の迷妄~無自覚の「躓き石」
 氏は「ヒューマンエラーは、普遍的に存在する」と言い捨てる。インチキカタカナ語で逃げなくとも「誤謬は不滅」であるが、事は、発生頻度と質の問題であり、さらには、何重にも校訂/校閲によって、誤謬を検出し、是正しているかどうかである。
 氏の玉稿は、着想から推敲を経て、当誌に投稿されるまでに、多大な自己批判を帯びているものと信じているが、それでも、無用な、つまり有害無益な「カタカナ」語を排除せず、二千年後生の無教養な現代東夷の「生煮え、泥付き」の不出来な語彙の混入にも無頓着と見受ける。もったいないことである。

◯「後生の無教養な現代東夷 」の意義~「初心」の戒め 2024/01/13
 ちなみに、倭人伝論でも高名な岡田英弘氏は、当方に遥かに先んじて国内史家の倭人伝談義の喋喋を「東海の野蛮人の後裔」の抗争と評した警句を発しているが、惜しいかな、「東海」、「野蛮」が、漢文素養に外れている。
 「東海」は、太古以来の抽象的な世界観で、中華/中原を囲む異界/四夷が、たまたま、東夷では塩水だまりになっているだけである。
 「北海」、「南海」は、まず実見できず、「西海」は、概して「流沙」、つまり、「砂の海/大河」と見立てた砂漠か、現実に見ることのできる西域塩水湖、さらには、遙か彼方、漢武帝の使節が達した「大海」、「裏海/カスピ海」であるが、いずれも、塩っぱい塩水湖である。そうした実景は、太古の殷周代から見て遥か後世の知見であり、古典書筆者の知るところではないのである。
 まあ、現代人にしても、海水から遠く離れ「陸封」された「みずうみ」が、なぜ塩っぱいのか、わかっていないと思うのである。
 「野蛮」は、古代概念では、無教養で無作法な「客」を言うのであり、教養を備え礼節を知れば「客」は中華士人となるから、「野蛮人」の「後裔」は、程なく「野蛮人」ではなくなるのである。
 むしろ、「国内史家の倭人伝談義」を、学術的な論義と遠い、商売人の店員/小僧が、店先で、商売敵と目先の利害を争う「賈豎の争言」と直截に評した方が、至言に近いのではないか。
 そうした見落としがあるので、現代東夷の無自覚な「教養」の不足を指摘する当方の素朴な提言が、むしろ的を射ていると自負しているものである。いや、当方の不明で、岡田氏の警句に近来始めて気づいたから、本来は、自主的な発言なのであるが、それにしても、岡田氏の熱心な追従者が、この金言/警句/箴言を無視しているので、自己流警句を発しなければならないのである。
 それにしても、自分を数え漏らす子供の点呼ではないが、岡田氏がご自身の金言/警句が、眼前の群衆とともに、ご自身の「影」をも叩いていることに気づかれなかったのは、もったいないことである。
 言うまでもないと思うが、本条は、岡上氏に対する個人攻撃などではない。自戒を含めた「初心」の戒めである。

*陳寿「エリート」観の愚行
 陳寿は、生煮えのカタカナ語で推定される「エリート」などでは(絶対に)ない。
 陳寿その人は、敗亡の蜀漢から魏晋朝に獲得されたから、「幼くして古典講読を重ね、若くして曹魏に「選挙」(推挙)され、洛陽の太学で学び、下位官位で任官されて、早々の昇格を目指していた「茂才」(古典用語の「秀才」が、後漢光武帝劉秀の僻諱により、後漢代初期に更新)」ではない。

 いや、陳寿は、いかに古典素養が十分でも、雒陽から背いた叛徒の輩であり、張華のような高官の引き立て無しには背筋を伸ばすことができなかった「日陰者」である。いわば、二重、三重の誤解である。
 ここで、またもやの蒸し返しになるが、軽薄な「カタカナ」語の無節操な援用は、読者の安直な理解、誤解を煽っていて、氏を含め、古代史論における重大な「躓き石」であるが、これは、氏だけの悪徳では無く、普通に見ても、躓いていると自覚していない方が多いので、ここでも警鐘を鳴らすのである。
 因みに、当方が愛用するATOKは、「カタカナ語」の害毒から使用者を保護する機能があり、必ず、「適切な表現に言い換えたらどうですか」との趣旨で助言/指導/警告してくれるのだが、氏の「作文システム」は、使用者の言いなりなのだろうか、それとも、氏が助言を無視して強行突破しているのだろうか。いや、当方の知ったことではないと叱責されそうだが、余計なお節介をするのも、当方の務めと思っているので御寛恕頂きたい。

                               未完

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*魚豢誤認
 ついでに言うと、魚豢は歴とした官人であり、氏の言う「ほぼ」付きでは、編纂の際に極秘扱いである帝国公文書「とか」を参照できない。機密の公文書を利用して史書を私撰するのは大罪であり、厳格に処断されると親族も連座、刑死である。漢書班固も後漢書笵曄も呉書韋昭も、最後は、刑場の露となった。暗合であろうか。
 何れにしろ、史官は専門家であり、卑位の官であって、高官有司でない。
 魚豢は、曹魏史官であったため。後漢・曹魏公文書の渉猟を許されたのであり、その鋭い筆法は、陳寿「三国志」魏志第三十巻末の魚豢「魏略」「西戎伝」全文で窺うことができる。

*魚豢「魏略」「西戎伝」の演出と魏志の写実
 「魏略」「西戎伝」は、明らかに、雒陽公文書であった後漢「西域伝」草稿によるものであり、原文書の乱調を模倣している貴重な資料である。「魏略」「西戎伝」の大半は、後漢西域都護を承継していて、後漢末の西域撤退以後は記録がない。「魏志」「西域伝」は、魏朝の無策を露呈することになるから、成立しなかったのである。

*史論「情熱派」
 氏ご自身がどんな「情熱」にお持ちかは不詳だが、陳寿は、「倭人」を天下の東方を極める偉業とみた明帝の「情熱」が早計で、夭逝後、霧散したと明示している。倭人」後日談を割愛するのは、むしろ、明帝偉業の顕彰である。それとも、司馬懿の無策が、両郡撤退につながったと明示すべきだったのか。因みに、陳寿「三国志」「魏志」に「司馬宣公伝」は、書かれていない。

*「鴻臚」の錯誤
 ついでながら、韋誕「大鴻臚」の職務を「外務大臣」とは時代錯誤である。
 かつて、漢高祖劉邦親征軍を殲滅の危機に追い込み匈奴単于の昆弟として屈服させ中国に匹敵した匈奴が衰退した後、対等の国交を結ぶ可能性があったのは、西方安息国だけで他はすべて蛮夷だった。但し、「蛮夷」呼称は相手が漢字を読解したときに激怒を買うので「客」と美称したのである。
 要するに、「鴻臚」の役目は、「蛮夷」使節に、中国礼節を教えて拝謁させた後、印綬と手土産を重ねて、定期的な来貢を代償に外臣として認めるものであり、今日言う「外交」とは全く異なる撫夷策である。この点、世上、中国式美辞麗句/誇張に惑わされている例が多いから、釘を刺すのである。

*栄えある「匈奴」
 因みに、「匈奴」は教養のある漢人官人を抱え「匈奴」が蔑称なら紛争必至である。「匈奴」が、武勇を尊ぶ草原の風雲児に相応しい麗名/敬称とわかる。漢高祖劉邦は、親征軍が匈奴の大軍に包囲されて降服同然に和平していたから、長年、匈奴を兄として平伏したのである。蔑称など、できるわけがない。

*「焦土」作戦の犠牲者
 氏は、『陳寿「三国志」「魏志」「倭人伝」の信頼性を毀損し、日本「古代史」と切り離そうとする、小論で言う「焦土作戦」』に巻き込まれるのを避けたと認められるが、諸処に「焦土作戦」の影響を受け、もったいない。

*史料評価の錯綜/是正
 氏は、厖大な「類書」「太平御覧」に収録された「所引魏志」と「現存刊本」である紹熙本などとを対比し、「所引魏志」は北宋期、「現存刊本」は南宋期成立と言い放っているが、年代ものの「浅慮」である。
 「所引魏志」は、参照した「魏志」写本の精度が不明であり、誤写が必然のものである。さらに、大著の一部である所引の編集精度には、更なる疑問がある。
 孤証の極致「翰苑」を論じるときは、断じて、国宝断簡の不慣れな解説で無く、誤字、乱丁、行格が整備された「遼海叢書」版が必須と思われる。一流正史ですら、時代原本を発して写本を重ねたときには、必ずしも万全と言えないのに、正史の通用写本から、適当な写本を繰り返して、精度が保証できるはずがない。

                                未完

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*魏志「南宋」刊本の由来
 「魏志」は、西晋時、陳寿原本収納以来、国宝として多大な労力と最高級の学識者を動員して写本継承され、劉宋裴松之を始め、厳重な校訂を経ている。
 北宋期に各地愛蔵の写本を結集/校訂した決定稿により刊本が起こされ、主要な宛先に配布されたが、精々、百部程度と見えるのである。あるいは、二、三十部かも知れない。
 北宋刊本の主題は、生成された「正確な」刊本を種とした高品質の正史写本の拡散であるが、北宋の盛期は永続せず軍制弱体と、それ故の北方異民族間の抗争を利用した陰謀攪乱の邪計が、新興北方民族「金」に激怒を巻き起こし、大挙南下した「金」の侵攻/亡国で、帝都開封をはじめとする主要拠点ら所蔵されていた正史、書経の刊本は、版木共々、撲滅されて根こそぎ喪失した。北宋刊本を根拠とする良質写本が、江南に再興された南宋に結集し、今日残っている南宋刊本が刊行されたのである。

*高度な校訂の産物~最高品質
 衆知の如く、写本、所引は、粗雑に行われれば、早速に精度が失われるが、帝国の国家事業として写本された場合は、所謂粗忽な「ヒューマンエラー」は、数度に上る徹底照合/校正によって、極小となるのである。

*粗忽な例
 粗忽な「ヒューマンエラー」が、誤記、乱丁のまま野放しの例として「翰苑」残簡が挙げられる。一度、二度の粗雑な写本で文献テキストは壊滅しているが、美麗な書体によって美術品として認められ国宝となっている。

*袁宏「後漢紀」~良質写本継承の例
 比較的「良質」な写本としては、袁宏「後漢紀」が、正史に準ずる地位にとどまったため、誤写という意味では「傷だらけ」であるが、正史ほどの厳密な写本で無くとも、最善の努力が積み重ねられた成果である。
 笵曄「後漢書」が、西晋壊滅後、東晋最高によって建康に再結集した残骸資料を何とか統合したのに対して、袁宏「後漢紀」は、笵曄「後漢書」に、五十年先行して、東晋継承資料を活用して編纂されたが、後漢霊帝、献帝紀の記事が充実していて、また、後漢から曹魏への禅譲が、必ずしも、正統な継承でなかったと示しているということである。

*「焦土」作戦~道の果てるとき
 事態混沌化「焦土作戦」によって糊塗されているが、史料の質的評価に天地の差異がある。また、当然、自明のことであるが、現存刊本に見えない誤謬は、本来存在しなかったとみるべきである。
 それにしても、現存刊本の「邪馬壹国」が、本来『「邪馬壹国」であった可能性が極めて高い』とする「邪馬台国」風評臆測説は、同誌の逆鱗として高言しないのだろう。

*陳寿の魏志編纂の姿勢
 氏の誤解を払拭すると、陳寿が「魏志」編纂にあたって、原史料を忠実に承継するのでなく、悉く推敲、加筆、割愛したとの意見は、誠に素朴な誤解であり、聞きかじりの速断は、まことに勿体ない。
 「重複」の例では、「倭人伝」に「壹與壹與」の連打がある。また、紹興本では「諸國諸國」の連打がある。どんな原則にも、例外はある。
 氏は、「京師」と「京都」の僻諱の例を挙げるが、陳寿編集との証拠はない。陳寿最終稿から献呈本を起こして西晋恵帝に上程した際に写本を指揮したものが、皇帝の直近の父祖に憚って保身した可能性までもある。世上、風聞、憶測が絶えないから新説で貢献したが、「マジ」ではない。
 因みに、信頼されている「紹凞本」「紹興本」でも、宋代皇帝の実名を憚る「僻諱」は、散在する。是は、西欧には存在しない禁忌であるから、「ヒューマンエラー」は、お門違いである。
 それにしても、氏の考察は、全篇を通じ、無節操にうねっている。陳寿が、「倭人伝」編纂に「ほぼ情熱を...淡々と...過ぎない」とは見上げたものである。「ほぼ情熱」と「淡々」は「小人」感慨であり、陳寿は、士人であって、職務は、史実継承が根幹であって、私利、私情では、一切動いていなかった。
 古人曰く、「燕雀焉んぞ鴻鵠の志を知るや」、「士は誠に小人である」。

◯最後~陳寿の真意
 陳寿の「三国志」編纂の真意は、宰相諸葛亮の「臣鞠躬尽力、死而後已」の献身を頌えるもので、蜀漢国志が存在しなかったため、陳寿は、絶大な尽力で「蜀志」を創造し、三国志を不滅の正史としたから、「大行は細瑾を顧みず」。自身の身命を惜しんだのは、大行の前では面目は細事であったからである。
 因みに、古来宰相は、天子に「骸骨」を献じていて、高齢などで退官するには、天子から「骸骨」を返して貰わなければならなかった。

 妄言多謝。死罪死罪

                               以上
 追記:書き漏らしを補追する。2024/02/13
 陳寿「三国志」「魏志」「倭人伝」の根拠となっている原「倭人伝」は、景初に、明帝指示のもとに楽浪、帯方両郡に赴任した新太守が、それまで、公孫氏が文書で報告せず、司馬懿の暴挙で塵滅した公孫版「倭人伝」を温存していた両郡公文書を、鴻臚を介さずに明帝に短絡したものと見える。佚文から、魚豢「魏略」が「倭人伝」相当の記事を備えていたと見られるが、公孫氏から公文書上程されたものではないので、明帝没後に、深い闇に埋もれていたと見える。
 魚豢「魏略」佚文から見て、魚豢「魏略」は、「倭人伝」相当の記事を備えていたと憶測されるが、氏が想定している先行史料である「大魏書」及び王沈「魏書」が取り入れていたかどうか、大変不確かである。わからないものは断言しない勇気が必要と思うのである。
 陳寿は、東京、即ち、雒陽の官人が「西羌伝」を挙げたと書くが、東夷、中でも、倭人に関する「伝」の由来は、以上読み解きを試みたように、示唆にとどめているのである。按ずるに、司馬氏に対して謀反をなした大罪人である毋丘儉の功績と攻撃されるのを警戒して、記事を分散秘匿したと見える。そのような(司馬氏に対する痛烈な)筆誅は、陳寿以外なし得なかったと思量する。
 念のため時代背景を考察すると、後漢は、光武帝劉秀以後、洛陽に公文書庫をおいて、専門家が厳重に管理していたが、霊帝没後の混乱の際、董卓が長安遷都を強行したため、文書管理体制が損傷を受け、文書管理者も、多く離散したと見るのである。何しろ、帝国公文書は、依然として木簡などの太古以来の簡牘巻物で厖大であるから、長安遷都の際には、多くが洛陽に半ば放置されたと見える。

 何しろ、現代史学の叡知を集めたとされている「歴博」の考証に依れば、劉宋笵曄の編纂した「後漢書」東夷列伝倭条は、蔡侯紙でなく簡牘に書かれていて、何れかの時点で、刑死した謀反人の書庫から浮上して、国庫に納まったと断定しているのである。いずれにしろ、劉宋高官であり、有数の財産家であった笵曄が、わざわざ簡牘巻物に著述したのは、信じられないのである。
 後漢末期の建安年間、長安帝都を脱出して、流亡していた献帝が、許都の曹操の元に迎え入れられても、公文書庫は、洛陽にとどまったと見えるのである。曹魏文帝は、各地各都に分散していた諸官庁を、雒陽「首都」に再集結したが、後漢盛時の堅固な文書行政国家は、遅々として再建されなかったのである。
 ということで、後継明帝に到っても、依然として、国家創業の時代であり、三国鼎立、抗争の事態であったから、正史となるべき「国志」を編纂することはできなかったのである。
 氏は、「大魏書」、王沈「魏書」なる二大史書を夢想しているが、画餅に近いものではないかと愚考するのである。
 かくして、氏は、大量の夢想を、あたかも、白日夢の如く図示しているが、夢想は夢想として、氏の脳内に留めておくべきだと思うのである。この場は、お返しとして、当方の夢想を提示しただけである。

以上

2024年7月14日 (日)

私の本棚 田口 裕之 『金印は「ヤマト」と読む』 季刊「邪馬台国」 131号 総括

 私の見立て ☆☆☆☆☆ 瓦礫   2017/02/28  2020/01/15 2024/07/14

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

□結語

 これに先立つ16回の連載で、とことんダメ出ししたはずであったが、誰でも気づくような子供じみた欠点を列記しただけで、一番大事なダメが出せていなかった。反省と自戒を込めて、総括記事として追加する。
 (なお、16回分の記事は、公開する意義は無くなったものと思うので、非公開とした。何の反応も無かったので、徒労であったということである)

 それは、当論文のタイトルに書かれている新説が、既に、言い古されたものであったにも拘わらず、先行する文献が適切に参照されていなかったということである。

 既に、100年を大きく超える古代史論議の中で、本当に多くの新説が提言されているから、現代人が思いついた新説の先行論文を全て検出するのは無理かも知れないが、もっと謙虚になって、徹底的に調査すべきではないかと思うのである。
 また、投稿された論文が新説であるか、旧説の踏襲であるかは、論文審査の不可欠な手順と思うので、編集部の手落ちは罪深いと思うのである。論文筆者は、このような不名誉な形で名をとどめたくない筈である。

◯資料紹介
 参照資料は、次の一点であるが、そこで引用されている明治時代、ないしは、それ以前の資料は、必読書とも思われるので、知らなかったでは済まないと思うのである。
史話 日本の古代 二 謎に包まれた邪馬台国 倭人の戦い
             直木孝次郎 編   作品社 2003年刊
 「邪馬台国の政治構造」 平野邦雄
    初出 平野邦雄編 「古代を考える 邪馬台国」 吉川弘文館 1998年刊

 さて、妥当な推論かどうかは別として、書き留められている先行論文と論旨を書き出すとする。
 後漢書に見られる「倭国王帥升」記事が通典に引用された際の「倭面土」国が「ヤマト」国と読まれるべきだという説は、明治四十四年(1911年)に内藤湖南氏によって提唱されたものである。(明治四十四年六月「藝文」第二年第六號〕

 文語体、旧漢字で読み取りにくいだろうが、倭面土とは果して何國を指せる。余は之を邪馬臺の舊稱として、ヤマトと讀まんとするなり。と明言されていて、その後に、詩経などの用例から、太古、「倭」を「や」に近い発音で読んでいたと推定している。
 ついでだから、原点である内藤湖南「倭面土国」をPDF化した個人資料を添付する。
 
原資料に関する著作権は消滅しているが、PDF化資料に関しては、プロテクトしていないとはいえ、無断利用はご遠慮いただきたい。(まえもって連絡して欲しいとの意図である)「k_naito_yamato1911.pdf」をダウンロード

 「倭面土」国と併せて、「倭奴」国も「委奴」国も、「ヤマト」国と読むべきとする説も、明治四十四年(1911年)に稲葉岩吉(君山)氏によって提唱されたものである。(明治四十四八月考古學雜誌第一卷第十二號)

 湖南氏は、後続として同様論旨の論文を準備していたが、稻葉氏の論文を見て発表を断念し、原論文を「讀史叢録」に「倭面土国」として収録する際に、付記として、「稲葉君山君」が翌々月号に「「漢委奴國王印考」といへる 一篇を發表され、委奴、倭奴ともに、倭面土と同一にして、單に聲の緩急の差あるのみと斷ぜられたり」』と要旨を紹介しているものである。
 いや、そもそも、そのような概念は、「釈日本紀」にすでに示されているという。影印を見る限り、そのような趣旨で書かれているように見える。
 つまり、「古代史書で多数見られる倭国名の漢字表記と思われるものが、全て、ヤマトと呼ばれるべきだ」とする論旨は、数多くの先例があると言える。
 してみると、本論文の大要は、所詮、先人の説くところを踏襲/盗用していて、特に格別の考察を加えているとは見えないので、新説として独創性を頌えることはできないと思う。
 むしろ、先例を伏せて独創性を訴えたと見られる論調は、先人の功績を踏みにじるとのそしりを招きかねない。

 以上、今後の活動の際の戒めとしていただければ幸いである。

□季刊「邪馬台国」誌の不手際
 それにしても、懸賞論文としての審査に於いて、選外佳作、公開不適、と判断したのに、欠点を是正せずに、多数のページをいたずらに浪費して掲載した編集部の不手際は、かなり深刻だと思うのである。

 「浪費」の一端は、行間ツメなどの当然の編集努力を怠って、それでなくても希薄な論文をさらに希薄に引き延ばして、雑誌刊行のコストを引き上げ「邪馬台国」誌の財政を悪化させた点にも表れている。雑誌編集部は、文字内容だけ吟味していればいいのではない。雑誌の紙数を勘案し、投稿者に制限を与え、必要であれば、部分を割愛して雑誌の体を保つのも、編集実務である。筆者が、指定に従わない、締め切りを守れないときは、断固落とすべきである。今回は、何ともお粗末であった。

以上

2024年5月28日 (火)

私の本棚 41 笛木 亮三 「三国志の写本検索」 季刊「邪馬台国」 128号 1/2

 季刊 「邪馬台国」 128号  2016年2月  2016/03/08  補足 2021/07/14 2024/05/28

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

⚪補足の弁
 今晩、当記事筆者から、丁寧な補足説明があって、当記事を読み返したのだが、ブログ記事の通例で説明が急ぎ足になって、ご迷惑をかけたように思える。読者諸氏は、何度でも、読み返すことができるので、落ち着いて再読いただきたいものである。
 また、提供頂いた資料の所在情報等は、編集部が検証していると信じるので、不鮮明であれば、それは編集部の責任なのである。いや、同誌の編集部は、安本美典氏の薫陶を得て、論文誌の任にあたっていると信じるので、特に明記しない限り、批判されているのは、編集部である。

 つまり、当分野の最高峰の専門誌で論文審査されたうえで掲載されているから、編集部、就中(なかんづく)、安本美典氏の指導があったと思って、少しきつい言い方をするが、筆者たる笛木氏を責める気は、さらにないのである。笛木氏に、ご不快の念を与えたとしたら、お詫びする。

⚪お断り
 当記事は、論文と言うより、史料探索の体験談であり、批判するのは、著者の意図に反すると思うのだが、季刊「邪馬台国」と言う、一流媒体に掲載されているので、色々批判を加えても、了解いただけると思うのである。

 著者は、本記事において、あたふたと諸般の説明を書き連ねているだけで、読者には、混乱した印象しか残らないのである。各資料に関する情報が再三書かれているが、出所によってばらついているようで、決定的な説明が読み取れないのである。いや、同誌編集部がこれで良しと判断したのだから、筆者に文句を言う筋合いはないのである。この点、著者にご不快の念を与えたとしたら、深くお詫びする。

本記事が、不完全なものに終わっていると感じる理由の一つが、本記事著者の抱負に反して、資料写真の転載が2点にとどまっていると言うことである。しかも、掲載されている写真が、紙面から文字を読み取ることすらできないと言うことである。
 率直に言って、当記事を掲載するのは、かなり時期尚早だったと感じるのである。
 堅苦しい法的な議論は、次回記事に譲るものとする。その部分に意見のある方は、そちらに反論して欲しい。

 法的な議論が必要と思う背景として、行政府の一機関である宮内庁書陵部提供の三国志紹凞本写真画像に対して、(C) 宮内庁書陵部と著作権表示しているサイトがあって誤解がまき散らされている事例がある。同サイトだけ見ていると、宮内庁書陵部が(不法に)権利主張していると見えるのである。

 同組織は、国民全体に研究成果や所蔵文化資産を提供する任務を課せられているのであり、同資料については、盗用、悪用を防止するのが肝要、本務であって、組織としての著作権を主張して国民の利用に制約を加えることは、本来許されないのである。

 これは、地方公共団体が運営している組織についても同様であるし、また、各大学は、全て研究成果を国民に還元することを主務としているから、こちらも、不必要に所蔵文化資産を秘匿してはならないのである。

 現に、地方公共団体の外郭団体である台東区立書道博物館は、当然のこととして、所蔵資料の写真転載に同意しているのである。公共機関が、所蔵品の写真について非公開を主張するのは不法であるから、妥当な判断なのである。当該機関は、公的資金で運用され、成果を公共に供するのを最大の使命としている。ただし、区立「博物館」として、運営に要する資金に対して、利用者の応分の「寄附」を求めるのは当然であり、それは、営利事業として収益を求めているのではないのでご理解頂きたいものである。

 以上、ことさら固い口調で述べたが、時に、そのような理念を無視する例があるので、再確認しただけである。もとより、同誌編集部は、そのような事項は知悉しているはずなので、笛木氏が孤立しないように支援していただきたかったものである。

 それにしても、中世や古代の史料写真が、現代の著作物であるなどと言うのは、確認不足による誤解である。

以上

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私の本棚 41 笛木 亮三 「三国志の写本検索」 季刊「邪馬台国」 128号  2/2

 季刊 「邪馬台国」 128号  2016年2月  2016/03/08  補足 2021/07/14 2024/05/28

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

⚪補足の弁
 当記事は、笛木氏の記事で、各管理者が示した否定的な見解の法的根拠を模索したものであり、笛木氏の見解を批判することを目的としたものではない。いわば、当誌編集部への公開質問状であるので、もし、笛木氏初め、関係者にご不快の念を与えたとしたら、お詫びする次第である。

⚪私見のお断り
 著作権などの権利関係についての私見を以下に示すので、よろしく、ご検討いただきたい。
 なお、当ブログ筆者は、別に弁護士でもなんでもないので、ここに展開した議論の当否は、最寄りの知財権専門の司法関係者の確認を取っていただきたいものである。
 当記事を根拠に行動されても、当ブログ筆者の関知するところではない。

 当ブログ筆者の知る限り、「三国志」写本に関する著作権は存在しない。
 「三国志」写本の写真に関する著作権も存在しない。

*三国志の著作権
 史料の原典である三国志は、三世紀後半の著作物であり、著作権を主張できるのは、編纂者である陳壽と思われるが、没後千年年以上経っているので著作権は消滅している。
 三国志を写本するという行為は、既存の著作物の複製行為であるので、新たに著作権が発生することはない。いや、発生したとしても、とうに著作権は消滅している。
写本の断片は、せいぜいが既存の著作物の一部分であるので、それ自体が新たに著作物となって著作権を発生することはない。いや、発生したとしても、写本時代は、とうに一千年は過ぎているので、著作権は消滅している。

 つまり、三国志写本は、すべて人類共通の公共的知的財産になっている。

 既存の著作物の写真複製はたんなる複製行為であるので、撮影された写真に新たな著作権が発生することはない。
 ということで、三国志の写本の写真の著作権、つまり、知的財産としての権利は、消滅している。
 著作権が存在しない資料に関して、著作権を主張して資料利用に制限を加えるのは、違法であることは言うまでもない。

*その他の権利
 写本の断片は、現在の管理者が、何らかの対価を払って購入したものであるか、寄贈を受けたものなので、管理者の個人的財産であれば、これを公開するか、秘匿するか、あるいは、有償または無償の契約を結んで、限定された対象者に開示することは、管理者の権利の範囲である。要は、世間に見せるかどうかは、管理者の勝手である。
 「限定された対象者」が、管理者と二次的な公開をしないとの契約を結んでいるのであれば、「限定された対象者」は、二次的な公開を禁止されているものである。
 と言うことであるが、展覧会図録などに資料写真が掲載されていて、そのような図録が書籍として流通していた場合、書籍の購入者は、別に管理者と契約しているわけではないので、図録制作者が管理者者と結んだ「二次公開しない」との取り決めに拘束を受けることはないと思われる。
 また、管理者は、一旦、資料の写真図版が図録に掲載されるのを許可した以上、図録を正当に入手したものが、掲載されている写真図版を自身の論考に転載したとしても、これを法的に規制することはできないものと考える。

 そもそも、史料写真を掲載した図録を販売するのを許可した時点で、購入したものが掲載写真を資料として引用して、独自の論考を執筆することを許可したものと見なすべきではないか。資料出所を明記することは必須である。
 まして、図録の写真図版を、何らかの手段で複製した場合、写真図版そのものの転用ではないので、厳格に規制する権利はないものと考える。
 まして、写真図版から、文字情報を取得した場合、そのような文字情報の利用を制限することは不可能と考える。

 それにしても、資料そのものや精密なレプリカなら、何か権利を主張しても、ごもっともという人が出るだろうが、単なる外観写真について、しつこく権利を主張するのは、どういうことだろうか。「肖像権」と言うつもりなのだろうか。
 いや何、出し惜しみするような秘宝は持っていないので、肩肘張って言えるのである。

以上

追記:当誌上で、中国に於いて、正史の写本は、草書体で運用されていたに違いない、何の物証も無しに主張する論客が登場して、編集部のダメ出しがないまま、堂々と掲載されていたから、そのような勝手な思い付きを公開する不都合を、機会ある毎に言い立てているのだが、笛木氏の検討によれば、草書系資料は、ここには含まれていないということである。
 当ブログ筆者が、誌上写真や図録掲載の高精細度写真を見た限り、「草書」は見当たらないのである。

 当該「フェイクニュース」は、早々に排除されるべきだと考える事態である。

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2024年5月26日 (日)

新・私の本棚 石井 幸隆 季刊「邪馬台国」143号「古代の海路を行く」 再掲

「離島の考古学-日本の古層を探る旅」季刊「邪馬台国」143号 令和五(2023)年六月一日
私の見立て★★★★☆ 好記事 瑕瑾多々  2023/06/12-16 2024/05/26
 
*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

◯始めに
 本号は、待望久しい新刊であるが、昨年の142号発刊より2カ月程度先行していることもあって、また、「邪馬台国の会」サイトに、本日(2023/06/16)現在、なにも告知がないのもあって、一週間以上刊行を見逃してしまった。と言う事もあって、ここでは、新刊告知をかねている。

*瑕瑾
 大小取り混ぜて、氏の玉稿に散在する瑕瑾を取り上げさせていただく。

*無法な「海路」
 いきなりタイトルで躓いているが、氏は、国内古代史の研究者であって、中国資料には疎(うと)いと見えるので用語が的外れでも仕方ないのだろうか。少なくとも、中国古代史書に「海路」はあり得ず、氏の圏外での無学を吐露していると言われそうである。

*史料談義

 本文冒頭の『「古事記」の原本は存在(現存の意味か)しない』とは、古代史分野に蔓延(はびこ)る一部野次馬論者の無責任な放言に似ている。但し、定番では、この後に「原本を読んだものも現存しない」と続くが、幸い、氏は、そのような放埒の泥沼を辛うじて避けているつもりのようであろう。
 通常は、史料批判の劈頭では、現存最古の写本論義や数種の写本間の比較を語るはず(語らなければならない)であるが、氏は、いきなり正体不明の「写本」とだれが物したか分からない現代語訳を持ち出して、これに基づいて、氏の持論を開示していくのである。これでは、読者には、資料の確認ができない。
 氏は、「写本」の現物を確認してなのか、いずれの解説書に依存しているのかも語っていない。何とも困ったものである。
 これらは、史学論文の基本の基本であるので、編集部が何の校閲もしていないのが心配である。
 以上は、恐らく、氏の追随した「お手本」がお粗末なのだろうが、お手本を真似をするかしないかは、氏の見識の問題と思うので、ここに指摘する。
 ちなみに、中国史書の分野で、「原本」とは「原典」と解すべき文字テキストであり、太古の史書の現物が存在していることを言うのではない。この辺り、氏の見識が、どんな背景にあるのかわからないので、是正のしようがないのである。

 なお、氏は「古事記」に拘泥しているが、倭女王が魏に遣使したのは、日本書紀「神功紀」補注に記載されているので一言触れるべきと思われる。

*「九州」談義

 「九州」は、中国古典書で言う天下全体に由来しているとの説が有力であるから、これも、一言触れるべきと思われる。

*船越幻想~いやしがたい迷妄
 本稿で重大なのは、「船越幻想」の蔓延である。氏は、何気なく、船を担(にな)って、つまり、人力で担(かつ)いで陸越えしたと言うが、そんなことができるものでないのは明らかである。反論があるなら、現地で実験/実証して頂きたいものである。但し、寄って集(たか)って一回実行できたから、当時実施されていたと実証できた」などと、こじつけずに、そのような難業・苦行が、長年に亘り地域の稼業として持続できるかどうかということである。せめて、丸太を転がした上を、大勢で曳いて滑らせたというものではないか。それにしても、船体、船底部の損傷は重大であり、とても、長期に亘って運用できるものでないのは、理解いただけるものと思う。
 ついでに言うと、海船船体は、船虫が食いかじるものであり、川船と異なって、寿命の短いものなのである。

 そもそも、手漕ぎで渡海すると言っても、対馬界隈は、強靱な、つまり、骨太でずっしり重い船体でないと運行できないのである。そして、「船」と言っても、総重量の大半は、船体の自重(じじゅう)なのである。水分をたっぷり吸った船を、寄って集(たか)って担(かつ)いで陸(おか)越えしたとは、三世紀の古代社会に対して何か幻想を抱いているものと見えるが、だれも、覚ましてくれないようなので、ここに謹んで、幻想と申し上げる。ちなみに、時に言われる「船荷ごと担ぐ」というのは、無謀である。船荷は、小分けすれば、誰でも担げるから、当然、手分けして運んだと思うのだが、世の中には、そう思わない人がぞろぞろいるようなので、書き足したのである。先に書いたのは、「空(から)船」の「陸(おか)越え」である。
 この地以外でも、荷船を担いで陸(おか)越えしたという幻想は、揃って早く「殿堂」入り、退場頂きたいものである。

*持続可能な事業形態
 要するに、陸の向こうにも荷船と漕ぎ手は十分にあったから、陸を越えて運ぶのは、荷下ろしして小分けした積み荷だけで良いのである。
 小分けした積み荷なら、最寄りの人々が、とにかく寄って集って運べば良いのであり、担おうが背負おうが、勝手にすれば良いのである。
 もともと、手漕ぎ船の積み荷は限られるので人海戦術と言っても知れているのである。向こう側で、船を仕立て出港すれば、船体が痛むこともなく、また、住民を酷使することもなく、持続可能である。いや、漕ぎ手すら、ここから、知り尽くした経路の気軽な帰り船を運航するのが常道であり、あえて陸を越えるのは、大変、大変非効率的である。
 世なれていれば、道半ばに溜まり場を作って、担ぎ手が荷を取り換えるものとしておけば、荷運びと言っても、来た道を担い下って地元に帰るので、負担が軽い上に、その夜は、慣れた寝床で休めるのである。どの道、毎日のことではないので、農家の副業として永続きしそうである。

 このあたり、氏は、具体的な、しかし、当時の実態に即していると証しようのない、つまり、でまかせの時代錯誤の現地地形図まで付けて、対馬浅茅湾界隈の「船越」を語っているが、行程の「高低」は語っていないので、当世流行りの架空視点になっているのではないかと危惧される。この際に要求される労力は、どの程度の高みを越えるかで決定するのである。
 また、ここは、倭人伝で、『街道でなく、まるで「禽鹿径」(みち)である』と言われるように、手狭で、上り下りのきつい連絡径(みち)、つまり、ぬけみち同然の未整備状態なので、荷馬も台車も使えず、大勢で担ぎ渡りしたと見えるのである。
 色々考え合わせても、氏が、この区間を大勢で船体ごと担いで渡ったと固執する理由が、一段と不明である。何か確たる物証が有るのであろうか。

*「ロマンティック」、「ロマンス」の(良くある)誤解~余談
 氏は、欧州系の話題に疎(うと)いらしく、ローマ談義の余談に「ロマンティック」、「ロマンス」の誤解が飛び出して、困惑する。どちらも、欧州の中世騎士道談義について回るのであり、男女の恋愛には全く関係無いのである。よく調べて頂きたいものである。
 因みに、19世紀オーストリアのクラシック音楽の大家であるアントン・ブルックナーには、”Romantishe”(ドイツ語)の「愛称」が付いた大作交響曲があるが、日本で、なぜか英訳を介して「ロマンティック」と通称されたため、随分誤解されているようである。あるいは、ドイツには、「ロマンティック」街道(Romantische Straßeと親しまれている観光名所があるが、これも、「中世騎士道を思わせる街道」という趣旨であり、通称のために随分誤解されているようである。氏も、こうした誤解に染まっているようであるが、ここに言及するには、ちゃんと語源を検証して欲しかったものである。誤解の蔓延に手を貸しては、氏の名声が廃(すた)るというものである。

 因みに、氏ほど。世上の信頼を集めている論者であれば、責任上、「Romantic」は、ローマ帝国と無関係とする有力な意見があることも、考慮すべきである。

 「専門分野」を離れるとその「離れた距離の自乗に比例して、見過ごしと誤解の可能性が高まる」ものである。ご自愛いただきたい。

*AIIDA談義~余談
 後出の「アイーダ」談義も的外れである。
 提起されたAiidaは、イタリア19世紀の大作曲家ジュゼッペ・ヴェルディが古代エジプトを舞台に描いたオペラのタイトルロール(題名役)であり、実は、敵国エチオピアの王女が、正体を隠して虜になっていたのだが、最後は自害する薄幸の人なのである。
 悲劇の主人公にあやかったのでは、あまり元気が出ないと思うのだが、Aiidaをアルファベットで書くと、船名列記のトップに来るので命名されたようである。現に、大抵の百科事典で、Aiida/アイーダは、冒頭付近に出て来るので、氏も、ちょっと目をやれば、オペラ歌手/プリマドンナのことでないことはわかったはずである。
 それにしても、ここは、氏の博識をひけらかす場所ではないのである。

*離島談義~「要路」の島嶼国家と離島
 さらに言うなら、厳しく言うと、壱岐、対馬は「離島」などではなく、「倭人伝」によれば、両島は、大海に連なる州島、流れに浮かぶ「中の島」であり、朝鮮半島に当然のごとく繋がっていた交通の「要路」だったと思われる。
 見方によっては、一時期、「一大国」は、「天国」(あまくに)として地域の中心であり、それこそ「従横」に巡らされた影響力を持っていたとも見えるのである。但し、「倭人伝」は「郡から倭への行程」に専念していたので、「従横」と言っても、「横」は一切描かれていないのである。
 ついでに言うと、「倭人伝」の視点で言うと、末盧国、伊都国の属する山島以外は、行程を外れた「辺境」「離島」とされているので、「本州」も「四国」も、離島ということになる。万事、どの時代のどの地域の視点を採用するかで、位置付けが異なってくるのではないかと思われる。掲載誌から注文を付けられたにしろ、そのように明言された方が良かったと思うのである。

 因みに、明治の文明開化の折、壱岐、対馬が、最終的に福岡県を離れたのは、両島は、他に「離島」のない福岡県に重荷になるので、五島などの島嶼が多い長崎県に任せたと見えるのであるが、どうだろうか。氏ほどの見識であれば、そのような見解を耳にしたことは有るはずであるから、そうした視点から見た両島の行政区分について、一言あってしかるべきだろう。

*稼ぎ頭の保身策
 因みに、交易路での収益は、「国境」、つまり、倭韓境界での取り引きから生じるのであり、言うならば、対馬は、三世紀において、稼ぎ頭(がしら)だったはずである。また、倭の諸公は、対馬に心付けをはずんでも、競い合って売り込んだはずであり、そのためには、米俵を送り届けることも、それこそ、日常茶飯事であったはずである。もちろん、そんなことを、帯方郡に知られると、何が起きるか分からないので、「倭人伝」にあるような「食うに困ってます」との「泣き」を入れていると見えるのである。そうでなくても、豊富な海産物の乾物類を売りさばくことも多かったはずである。 

*まとめ
 というように、つまらない瑕瑾がゴロゴロ転がっていて、しかも、肝心の「船越」談義が、一種法螺話になっているのは、まことに勿体ないことである。
 氏は、既に、社会的な地位を極めて久しいので、ここに書いたような不快な直言を耳にしていなかったのだろうが、それは、氏に対して失礼と思うので、率直な苦言を呈するものである。

以上

2024年5月 5日 (日)

新・私の本棚 邪馬台国の会 第381回講演「邪馬台国」論争 三  1/10

 安本 美典            記2019/09/17 追記2020/10/06 2024/05/05
私の見立て ★★★☆☆ 古典的卓見の現状確認

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

〇始めに
 安本氏は、「邪馬壹国はなかった」なる好著で古田武彦氏の「邪馬壹国」主張を鋭く批判しましたが、以降、何も付け加わっていないのは残念です。

〇邪馬台国の会 第381回講演会(2019.7.28)
 当講演会に於いて、氏の「邪馬壹国」、「邪馬臺国」論の現時点での見解は次のように表明されています。
【日本古代史】「邪馬壹(壱)国」か、「邪馬薹(台)国」か論争 (2019.9.4.掲載) 
 同記事は、本来講演録なので、普通なら、文字起こしの誤記等はありえますが、分量からして氏の講演稿であり、サイト公開前に氏が目を通されているはずですから内容に齟齬は無いはずです。(薹はともかくとして)
 そして、ここには、氏の連年不変の持論が書かれているので、一般読者が参照可能な「当記事」に批判を加えても不当では無いと思うものです。
 講演の前半では、氏の持論を支える諸論客の所見が列記されていますが、「証人審査」、「所見批判」が尽くされてないのは、不備と思われます。
 以下、敬称、敬語表現に不行き届きが多いのは、当ブログ記事筆者の怠慢によるものであり、読者にご不快の念を与えることを申し訳なく思いますが、当ブログの芸風でもあり、ご容赦いただきたいものです。

〇三大中国史家 
 まず、中国諸氏の意見です。(三氏の著書は、いずれも拝読しています)

1.汪向栄事例
 冒頭の汪向栄氏は、書籍の内容紹介に「中日関係史の研究者として著名な著者が、中国の史書の性格を的確に捉えたうえで日本人研究者の論考を広く渉猟し、独自の邪馬台国論を展開」とあり、当時の政情不安定な中国における「邪馬台国」論が、多数の中国研究者の学究の集積でなく、氏独自の「弧説」であることを物語っているように見えます。
 特に、同書の骨格の一部が、日本側資料の日本側研究者の論考の渉猟の結果とされていることから見て、親交の深い日本側関係者の定説、俗説の影響を受けていることは、氏の論考の自由な展開を制約したものと見えます。
 そのような限界から、氏の労作『中国人学者の研究 邪馬台国』(風涛社刊、1983年)は、「一中国人学者の研究」と題すべきと考えます。氏の著書が全中国人研究者の研究の集成である」と判定する根拠は見当たらないようです。
 また、引用された氏の見解は、単に中国古代史書の文献解釈の一般論を述べるに過ぎず、本件課題である「邪馬壹国」解明に寄与しないと思います。

2.謝銘仁事例
 次いで示された謝銘仁氏の著『邪馬台国 中国人はこう読む』(立風書房刊、1983年)は、タイトル不適切は別として、古田氏の「倭人伝」行程解釈の不備を言うもので、その際に、「日本流」定説を踏襲したのは皮肉な発言かと思われます。
 また、この発言は、古田氏所説の誤解釈の究明の例としても、本件課題である「邪馬壹国」解明に寄与するものでなく、単なる雑音でしかありません。
 

                                未完

新・私の本棚 邪馬台国の会 第381回講演「邪馬台国」論争 三  2/10

 安本 美典            記2019/09/17 追記2020/10/06 2024/05/05
私の見立て ★★★☆☆ 古典的卓見の現状確認

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

3.張明澄事例
 最後に登場した張明澄氏は、当誌に倭人伝解釈議を延々連載したため、編集長安本美典氏の意向を忖度したと感じられて、証人資格に、重大この上ない疑義があると思われます。
 また、当誌上でしばしば展開された長広舌は、論考ならぬ雑情報や根拠不明の私見を権威めかしたものに過ぎず、論考はごく一般論に過ぎないと感じられます。疑わしければ実読いただきたいのです。それにしても、記事の最後に、時に披瀝される「本音」らしきものは、事態の真相をえぐって貴重な啓示となっているからです。ということで、氏の意見は、本件論証には寄与しないと推定されます。

 事実確認ですが、氏の経歴から、日本統治下の台湾で、少なくとも、「今日の小学校時代まで皇民教育を刷り込まれ、その世界観に染まっている」と推定されるので、「中国人史学者」として信を置くことが困難です。別に非難しているわけではありません。

 台湾が、日本統治時代の終了により「中華民国」に復帰して以来、当地に亡命した「中華民国」は、伝統的な中国文化の継承者として、歴史研究にも注力したと見え、正史二十四史の刊行などの大事業に取り組んだとみているので、氏が、以後どのような教育を受け、研鑽に励んだかは不明です。別に記したと思うのですが、「中華人民共和国」は、中国文化の継承ではなく、文化の「革命」、つまり、古典書の廃棄に邁進したと思われるので、伝統的な歴史教育は、随分疎かになり、むしろ、滅亡が危惧されたものと懸念しています。その意味では、台湾での歴史研究は、天下で唯一の中国文化の拠点が持続されていたものと推定していますが、その点は、滅多に語られないので、以上のように臆測するしかないのです。
 因みに、日本語に堪能な中国人である張氏は、執筆時日本在住であり、これまで、国交のない「本場中国人」とどう意見交換したか不明です。

 余談はさておき、氏が、季刊「邪馬台国」誌で展開した厖大な連載記事には、本件課題の「邪馬壹国」解明に寄与する議論は示されてないと思われます。長期に亘った連載記事の全体を入手してはいないので、全文照合はしていませんが、安本氏がここに引用していない以上、そのような有意義な論議はされていないと見るものです。

〇ひとくくりのスズメたち
 安本氏は、意味ありげに「中国人学者たちの、筆をそろえての批判」と言いますが、僅か三人限りで、それぞれ学識も境遇(住居国/地域は、中国、台湾、日本混在で交流不自由)も、論調も三者三様ですから、童謡の「スズメのがっこう」でもあるまいに「おくち」ならぬ「おふでをそろえて」と書かれると、センセイがムチをふったかなと思うのです。考えすぎでしょうか。

〇「芸風批判」の弊害
 以下でも言及するかも知れませんが、小生の意見では、本記事(掲載当時)で安本氏に求められているのは、本件の課題である「邪馬壹国」の「純粋に論理的解明」であり、少なくとも、「敵手古田氏の芸風批判ではなかった」のです。
 いや、張氏が、当時(氏名の文字使いが似通っているということか )若い世代に猛烈に人気の某タレントの芸風を「世界に通用しない日本だけの人気」と批判し、「古田氏はその同類」と揶揄する、誠に意味不明の「芸風」批判を垂れ流したので、そう言わされるのです。
 以下、古代史に無縁の芸風批判にあきれかえったころ、ようよう史学論めいた論議になるので、冗長、散漫の印象を招いたのは勿体ないと思うのです。

 追記:張明澄氏は、「季刊邪馬台国」連載記事の放埒な筆致を悔悟してか、後年「誤読だらけの邪馬台国」(久保書店 ジアス・ブックス 1992)なる新書版冊子に、連載記事の学術的な部分を抜粋刊行していて、まことに、市場に蔓延している軽薄な俗論を脱した好著ですが、当講演で共々言及されていないのは残念です。(2024/05/11)

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