季刊 邪馬台国

四十周年を迎え、着実に刊行を続けている「日本列島」古代史専門の史学誌です。

2024年4月23日 (火)

新・私の本棚 番外 内野 勝弘 第413回 邪馬台国の会 序論

魏志倭人伝・考古学・記紀神話から読み解く                        2023/10/24
1.魏志倭人伝・考古学・記紀神話から読み解く邪馬台国時代の年代論

 邪馬台国時代100年を俯瞰してみれば日本古代の全体像が見えてくる。

私の見立て☆☆☆☆☆ ひび割れた骨董品      2023/10/24 補追2023/11/01, 02 2024/04/23

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

*はじめに
 本講演は、安本美典師が主催する月例講演会の「レジュメ」前半部に対する批判であるが、主催者の見識を前提にしていると見えるので、ここに率直に批評する。
 なお、ここに言及できなかった付表の詳細な批判を、下記別稿で公開しているので、ぜひご高覧いただきたい。(補追2023/11/01)
 新・私の本棚 番外 内野 勝弘 第413回 邪馬台国の会 補追 1/4
 新・私の本棚 番外 内野 勝弘 第413回 邪馬台国の会 補追 2/4
 新・私の本棚 番外 内野 勝弘 第413回 邪馬台国の会 補追 3/4  
 新・私の本棚 番外 内野 勝弘 第413回 邪馬台国の会 補追 4/4

 大抵の場合、このようなお話は、他愛のない「夢語り」/法螺話である。「日本」が、八世紀以降しか存在しないのは衆知である。言うまでもないが、「邪馬台国」は(遺跡遺物を論じる)考古学にも記紀神話にも一切登場しないから、話にならない。「邪馬台国時代100年」も、意味/根拠不明である。
 現代は、通りすがりの無学な野次馬でも、もっともらしい格好の「新説」をぶち上げられるご時世である。会長の任にある内野氏の個人的な権威がどのように評価されているのか、素人の門外漢/部外者である当方には分からないが、かつて、『安本美典師が、季刊「邪馬台国」編集長就任の際に抱負として宣言した、然るべき「論文審査」』を経ていない「無審査」私見であれば、一介の読者/聴衆として「話が違う」と思うものである。(補追2023/11/01)

内野9つの仮説
①倭国大乱の原因・・(タウポ火山大噴火181年→気候変動→黄巾の乱184年) 黄巾の乱が倭国の乱190年前後につながる

*コメント
 (補追2023/11/02)
 衆知であるが「倭人伝」に「倭国大乱」はない。「倭人伝」は、何かの事情で、雒陽への報告/情報が途絶えたと言うだけである。それでなくても、後漢霊帝没後の混乱のため、雒陽は大乱の渦中であった。長安遷都が強行されたりしているから、蛮夷のことなど構っていられなかった。
 「黄巾の乱」自然災害起因説は「倭人伝」に無関係で、杜撰な「蛇足」である。「倭国の乱」は、新規の概念であるから、紹介/高言するのは、不適切である。
 いきなり、大すべりしていては、後段を読んでもらえないものである。聴衆が、一斉退席しなかったのは不思議である。

②卑弥呼の年齢を推理・・通説は180年に15歳で共立248年没83歳だが、210年15歳共立 魏への使節44歳 死53歳頃

*コメント
 (補追2023/11/02)
 「卑弥呼の年齢 」論は、二千年後生の無教養な東夷の浅慮から「日本」古代史学分野で氾濫している『「通説」無根拠』の好例である。史料を「大胆に」改竄しているいわゆる「通説」は論外だが、突発した新たな推測/憶説も、「魏志倭人伝」の正確な解釈から隔絶していて、何ら根拠のない「思いつき」である。史料改竄趣味が、「蔵付き酵母」の如く「伝家のお家芸」になっているのは、世も末である。
 いくら新規/新奇でも、卑弥呼が44歳にして「魏への使節」となったというのは、根拠の無い大胆/無謀な意見である。結末に「頃」(土地面積単位)がぶら下がるのも奇異である。
 「魏志倭人伝」に根拠の無い夢物語/いわゆる「通説」は、大概にしてもらいたいものである。

③長里・短里説は司馬懿への忖度から・・洛陽から大月氏国16000里、洛陽から邪馬台国まで17000里と5倍引き延ばし説

*コメント
 (補追2023/11/02)
 「忖度」は、主語がない暴言、粗雑な暴論である。「倭人伝」時代に存在せず、『二千年後生の無教養な東夷「後世人」が創造した「長里・短里説」が、三世紀の司馬懿に対する「後世人」 の「忖度」によって生じた』などと言う摩訶不思議な「思いつき」は、早急に撤回した方が良いと思われる。
 それはさておき、『根拠なし、意図不明の思いつきである「5倍引き延ばし説」』は、「倭人伝」道里を、現存地名間の行程に投影した、簡潔、明快、反論不可能な金石文と言える安本美典師の不朽の提言に堂々と背いている。世も末である。ついでながら、「洛陽から邪馬台国まで17000里 」なる思いつきは、根拠の無いこじつけの一例である。

④ニニギ天孫降臨物語は狗奴国の戦いが神話化・・不毛の地、南薩摩へ降臨への疑問と日向・延岡経由の戦略的側面攻撃説

*コメント

 「倭人伝」に無縁な場違い圏外の法螺話である。手前味噌も、大概にして欲しいものである。

⑤狗奴国は熊本県北・中部に位置する・・筑後平野の南、球磨川の北の熊本平野に存在し、九州南部は異種(後の熊襲)

*コメント

 「倭人伝」に無根拠の法螺話である。もし、位置付けが正しかったとして、何が「異種」なのか、何が「同種」なのか、意味不明である。

 アマテラス(卑弥呼)スサノオの誓約と天岩戸は30年の差・・誓約[うけい](出産)は高天原建国期で日食神話は晩年の死の時期

*コメント

 「倭人伝」に無根拠の法螺話である。 アマテラス(卑弥呼)スサノオの誓約」とは、何の夢想であろうか。独り合点の思いつきは、早々に引き下がるべきである。

⑥高天原神話、出雲神話、日向神話は順番完結ではない・・同時並行型神話で、出雲の国譲りは台与の時代のできごと

*コメント
 (補追2023/11/02)
 「倭人伝」に無根拠である。 中国史書「倭人伝」に「臺與」も「台与」もない。場違い、圏外、無縁の法螺話である。

⑦記紀の父子継承率100%は疑問・・古代天皇の父子継承率は10%前後、神話からの父子継承は垂仁天皇、成務天皇(13代)

*コメント

 「記紀」は、「倭人伝」にとって異次元/無縁である。場違い、圏外である。

⑧3世紀の「大和・纒向」時代は後進国、4世紀に大発展した・・崇神、垂仁、景行の纒向時代に領土拡大

*コメント

 「倭人伝」に、場違い、圏外、無縁の法螺話である。「後進国」を先導した「先進国」とは、何なのか。

まとめ
 「仮説」は、論証された根拠に立脚しなければ、「仮説」となり得ない単なる「個人的な思いつき」である。即刻、「ゴミ箱」直行である。
 以下、氏の「夢語り」が展開するが、論証がないから根拠が見られず、単なる思いつきの積層に過ぎない。

 誤解されると困るのだが、当方は、安本美典師の偉功に心服しているのだが、かくも奔浪のように論考の態を成していない「思いつき」が、安本美典師の峨々たる業績である月例講演会の前座に供されたのは、誠に傷ましいと思うのである。(補追2023/11/02)

                                以上

新・私の本棚 番外 内野 勝弘 第413回 邪馬台国の会 補追 1/4

魏志倭人伝・考古学・記紀神話から読み解く 邪馬台国時代の年代論
私の見立て☆☆☆☆☆ ひび割れた骨董品 2023/10/24 2023/10/26 2024/04/23

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

◯はじめに
 以下、本稿で批判する付表は、前稿に続く一部に過ぎないが、内野氏が、会長の立場で「倭人伝」道里の諸説を集約したと見えるので、まとめて批判を加えた。多様な誤謬は俗耳に膾炙していると見え、本稿は、卑(柄杓)の一振りで、些細な撒水を試みているのだが、広く燎火を鎮めることができれば幸せである。
 ともあれ、掲載された表は、疑問点満載で、批判内容を表内に書き込めないので、誰でも読解可能な平文に展開して逐条審議している。要するに、氏の提示した表は、混乱を掻き立てるだけで、何の役も果たしていないのである。

 と言うことで、以下、紙数を費やして、まるで初心者の論稿を添削指導しているようで、大変心苦しいのだが、氏が長年に亘って、このような論稿を公開し続けていると思われるのに、誰も、率直に指摘しなかったことを見ると、この際、赤の他人が、無礼を覚悟の上で、無遠慮に/率直に/誠実に指摘するしか無いように思うのである。遠慮して指摘を甘くすることは、氏にとって、百害あって一利がないものと思われるので、あえて、斟酌していないことをご理解頂きたいものである。

*本論
大月氏国と倭国・女王国から見る魏の国内・国際情勢
◯大月氏国
記録
 「後漢書」西域伝・大月氏国の条「229年12月 明帝は大月氏波調王(ヴフースデーヴァ王)」に「親魏大月氏王」の金印

 范曄「後漢書」西域伝には、以下の記事があるのみである。後漢は、220年に魏に天下を譲ったから229年は、場違いである。

笵曄「後漢書」西域伝 中国哲學書電子化計劃
 大月氏國居藍氏城,西接安息,四十九日行,東去長史所居六千五百三十七里,去洛陽萬六千三百七十里。戶十萬,口四十萬,勝兵十餘萬人。
 初,月氏為匈奴所滅,遂遷於大夏,分其國為休密、雙靡、貴霜、驸頓、都密,凡五部臓侯。後百餘歲,貴霜臓侯丘就卻攻滅四臓侯,自立為王,國號貴霜王。侵安息,取高附地。又滅濮達、罽賓,悉有其國。丘就卻年八十餘死,子閻膏珍代為王。復滅天竺,置將一人監領之。月氏自此之後,最為富盛,諸國稱之皆曰貴霜王。漢本其故號,言大月氏云。

 して見ると、内野氏は、引用の根拠を大きく取り違えていて、正しい出典は、陳寿「三国志」魏志明帝紀と見える。もったいないことである。

陳寿「三国志」魏志 明帝紀 (太和三年十二月)
 癸卯,大月氏王波調遣使奉獻,以調為親魏大月氏王。

 陳寿「三国志」魏志に「大月氏王」に「親魏王」印授が下賜された記録は見当たらない。
 まして、氏が謳い上げている「金印」が、古来言う「青銅印」であるか、異例の「黄金印」であるかは、正史からは、読み取れないと見える。古典的な「金印」(青銅鋳物)は、原材料が潤沢で、製造設備/技術も帝室付の製造工房である尚方に完備していたから、製造が「容易」であったため、漢代を通じ、蕃夷使節の来訪に際し、正使、副使に始まり、侯国の使人、果ては、随員に至るまで、印綬が大盤振る舞いされたとされているから、別に希少価値は無く、単に、再訪の際に、街道関所の過所(通行許可証/手形)、身分証明となったに過ぎないと見える。

 一部で、印綬は、国王代替わりの際に一旦返納するという説を唱えている諸兄姉があるようだが、万里の彼方から、あるいは、波濤を越えて、代替わりの報告に来いというのも、無理難題に属すると思うのである。近郊であれば、年々歳々時候の挨拶に来いということもあるだろうし、近郊であれば、大した下賜物もいらないだろうから、「歳貢」もあったろうが、それは、鴻臚が漢制に従って命じたものだろう。

 「貴霜」国なる国名について言うと、蕃夷来駕を受け付ける「鴻臚」の蕃夷/掌客台帳には、「貴霜」の文字は無く、その実態に拘わらず、大月氏国が王権伝統されているとして受け入れたのである。もちろん、本紀は、皇帝が受け付けた国書に従って、「貴霜」国としたであろうが、鴻臚の台帳は、漢武帝以来維持されていたので、更新も改竄もできず、「大月氏」として受け入れたことになっているようである。
 因みに、南北朝の分裂期を統一した隋唐は、北朝を展開した蕃夷の流れに属するので、その治世下、伝統的な鴻臚掌客の格付けがどのようになったか、調べる必要がある。
 どちらが正確な解釈であるかは、当方の素人判断の域を外れているので、断定は避けたい。
 
国内・国際状況 
 魏は西方の蜀と戦争状況の中、西方彼方の大国・大月氏国(クシャーナ朝)からの交易、同盟を目的にした遣使を歓迎した。
 司馬懿のライバルで西方経営を進めた曹氏の功績になった

 陳寿「三国志」魏志明帝紀記事は、儀礼記事であり「歓迎した」など冗句である。このあたり、思いつきの私見を付け足す悪習は、中々なくならないようであるが、論者の無教養と浅慮をむき出しにしていて、もったいないことである。

 魏は、関中を辛うじて勢力範囲内に保っていたものの、その西方、西域の入り口にあたる河西回廊は、涼州勢力が蜀漢と連携していたため、服従させられなかったと見える。つまり、事実上、西域への扉を閉ざされていたと見える。一方、東呉は、敦煌方面に商人を送り込んでいたことは、西域から「三国志」呉書に類する紙文書の断簡が出土していたことから、明らかである。というものの、涼州は、蜀漢に臣従していたわけではないので、涼州の帰属は不明である。
 ということで、「大月氏」が涼州勢力の目を潜って洛陽に参上したのは、あるいは、金銀玉石などの秘宝を通行料/謝礼として積んでのことかもしれない。世上、同時代の西域勢力分布が、麗々しく地図化されているのにお目にかかることがあるが、大抵は、良くある法螺話に過ぎない。

 班固「漢書」、笵曄「後漢書」に代表される正史「西域伝」記録から見ると、かつて、漢武帝使節に応対した大月氏は、匈奴同様の騎馬掠奪国家であった。涼州辺りに根拠を持って、北方に一大勢力を形成していたらしいが、匈奴の勃興で覇権を奪われ、遙か西方に夜逃げしたのである。
 但し、概して城壁国家ではなく、天幕に居住して、財貨は金銀玉石としていたから、「全財産」を携えても身軽であり、騎馬部隊として逃亡することが可能だったのである。全財産と軍馬をもとに、強力な騎馬軍団によって、亡命先のオアシス国家「大夏」を乗っ取り、周辺諸国を侵略、掠奪し猛威を振るったのである。移住当初、西の大国安息国の東方拠点を攻撃し、「国王」親征軍を大破して、国王を戦死させ、大量の財宝を奪ったと、欧州史書に記録されている。
 安息国は、西方メソポタミアにあった王都から号令して、ペルシァなどの近隣諸侯を動員して復仇したが、以後、両国境界付近のオアシス都市マーブ要塞に二万の大軍を常駐させて、大月氏/「貴霜」国の再来に備えたのである。
 貴霜国は、後漢代においても、生来の掠奪/侵略志向は健在であり、東方勢力である西域都護班超に執拗に反逆し、都度鎮圧された札付きの盗賊国家である。
 後漢後期は、西域都護の撤退に乗じて、大月氏が西域西半を支配した時代であるから、魏代に移って「交易、同盟」とは白々しいが、西域無縁の魏朝は、「金印」下賜で体面保持でき、西域都督を常設するより随分安上がりで、善哉であったろう。

 但し、三世紀当時、西域有力勢力であった貴霜国も衰退期にあり、追って、西方のペルシャ領から興隆してパルティア(安息)をイラン高原の支配から追い落としたササン朝波斯に服従したと見える。陳寿が言い残したように、蛮夷の諸族王の消長は、誠に儚いものである。

 以上、ちょっとした背景説明のはずが、字数が募ったのは、国内視点で西域を眺めている諸兄姉に、現地視点の史談を試みたものである。世の中、「一刀両断」は、歴史のほんの表層を撫でるに過ぎないのであって、何も斬れていないのである。

功労者
 魏の鎮西将軍 曹真の功績。子の曹爽と司馬懿はライバル

 蜀漢勢力に西方を阻まれた窮状からすると、まさに「棚からぼた餅」の蕃王来訪では、軍功/功績になどならない。後漢西域都護に対する反抗の数々は、明帝紀上では、云わないことにしたとしても、後漢代以来引き継いでいる鴻臚の記録には、堂々と記録されているので、この記事を持って、魏志「西域伝」を設けるなど論外に違いない。魏志第三十巻巻末に、劉宋裴松之が補追した魚豢「西戎伝」は、大部の蛮夷伝であるが、内容のほとんどすべては、西域都護が健在であった後漢代の記事を承継したものであり、後漢末期に西域都護を撤退して、「貴霜」国に西域の西半を支配された事態が魏朝に引き継がれたという魏朝の失態が明らかになるから、魏志「西域伝」は魏志から割愛されたのである。

 このあたり、劉宋当時、西域伝の欠落を難詰する批判が無視できなかったため、裴松之が、論より証拠とばかり、魚豢「西戎伝」の善本を貼り込んだのだが、二千年後生の無教養な東夷は、史料を読めないために、裴松之の注釈が陳寿の「西域伝」割愛を断固支持した意義を理解できず、無意味な批判を繰り返しているのである。いや、大抵の論客諸兄姉は、陳寿の残した三国志原本に不備があったため、裴松之が補追した裴注本が三国志完成版と見ているようだが、それは、事情ののみ込めていない二千年後生の無教養な東夷の浅慮なのである。
 裴松之は、当時の劉宋皇帝を始めとする時代読者の圧力に従いつつ屈せず、大量の「蛇足」を不備を承知で付け足したものであり、それら「蛇足」の補追されていない陳寿原本が「三国志」として完成されていると「密かに」述べているのである。いや、「密かに」と云うものの、文意を読解できる有為(うい)の読者には「自明」なので、明言したに等しいのである。
 裴注による補追の中でも、魚豢「魏略」「西戎伝」は、ほぼ原文収録されているので、一度、筑摩書房「三国志」に収録されている日本語訳を読み取っていただきたいものである。

 因みに、魚豢「魏略」「西戎伝」は「魏志」「西域伝」ではないので、当時、洛陽の書庫に収容されていた後漢/魏公文書を収録していても、正史としての厳正さに疑義が無いわけではない。魚豢の私見が無造作に書き足されている部分や錯簡、落簡らしいものはあっても、無造作な校訂、改竄の筆が加わっていないのは明らかである。
 因みに、東夷伝、特に「倭人伝」に関して、裴松之が、ほとんど「魏略」を起用していないところから明らかなように、陳寿の編纂は、粗略と見える魚豢の編纂の上位互換であったため、裴松之が黙殺したと見えるのである。

 もちろん、魚豢は、烈々たる魏の忠臣であり、蜀漢、特に、逆賊の首魁と目される(「敵」などと敬称を付することは無い)諸葛亮に対して、猛然たる反感を表明していても、「老獪な陰謀で魏の実権を握り、ついには、天下を簒奪した司馬一族に阿(おもね)ることはあり得ない」ので、魚豢「魏略」に世上言われるような「曲筆」はあり得ないのである。
 して見ると、こと「倭人伝」道里記事に関しても、魚豢「魏略」は、「郡から倭まで」「万二千里」と普通に書いていたはずである。もし、それを曲筆で普通里換算して「二千里」と書いていたら、裴松之が、すかさず付注したはずである。

 それにしても、司馬懿は、曹操、曹丕、曹叡、曹芳四代の「幹部」であり、曹爽と同列/「ライバル」視は侮辱であろう。同年代の曹真はともかく、曹爽の如き青二才は、問題外と見ていたはずである。もちろん、当時の洛陽の高官・有司は、両者の格の違いを見ていたはずである。「ライバル」が示している「川釣りの漁場争い」などとは、別次元なのである。

 因みに、史官は、周代以来、国家官制の中で、むしろ取るに足りない卑位の官人である。また、後世の形容で「正史」と言っても、「三国志」に関して言うと、三世紀当時、写本の流通は無いに等しく、まして、全巻を所蔵する愛書家は存在したとしても、全巻熟読する読書人は、取るに足りなかったから、「正史」の影響力は希少であり、現代風に言う「政治的文書」などではなかったのであり、その意味でも、「正史」編纂に「権力者」が干渉することは皆無に等しかったのである。

 それにしても、ここでも、三世紀に存在しなかった生かじりのカタカナ語は、文意を掻き乱し品格を下げるので、ご使用を控えていただいた方が良いように思える。

                                未完

新・私の本棚 番外 内野 勝弘 第413回 邪馬台国の会 補追 2/4

魏志倭人伝・考古学・記紀神話から読み解く 邪馬台国時代の年代論
私の見立て☆☆☆☆☆ ひび割れた骨董品 2023/10/24 2023/10/26 2024/04/23

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

方角
 西方シルクロードの彼方の国

 貴霜国は、後世、遙か西方「ローマ」に延びていたとされる「シルクロード」の傍路であり、西インドガンダーラ方面に勢威を振るっていた。方角違いである。因みに、古代中国に「シルクロード」の概念は無い。

人口
 都10万戸 カニシカ王時代(在位(144~171)
 倭とは比較にならないほどの大国。

 班固「漢書」西域伝、笵曄「後漢書」西域伝、共に、大月氏に「都」は無いとしているから、これは、深刻な事実誤認である。
 「王都」が認められたのは、西方の「超大国」安息国が唯一の例外である。同国は、宿場を備えた街道網を完備し、金貨、銀貨の貨幣を有し、皮革紙に横書きする「文化」を有したのであり、漢使が訪問した東方国境部から西方メソポタミアの国都まで、騎馬の文書使が往来することによって、今日で言う「軍事」「外交」の全権を与えていたのであるから、漢に勝るとも劣らない「法と秩序」の実質を認められていたのである。

 氏の云う「人口」は、西域伝「口数」のことか。「倭人伝」に「口数」は無いから、比較しようがない。また、遠隔の地の「人口」など、「国力」として評価できないのは明らかである。実体の不明な「戸数」、「口数」の数字を論じても、無意味である。

 中国古代史では、「大国」は不属の「主権国家」であるが、「大月氏」は、少なくとも一度は、戸数、口数、道里を西域都督に申告して服属したから、「大国」定義を外れ、「倭人」と同格である。それにしても、倭とは比較にならないほど」は、弱小対象物としての大月氏を予告するものである。

距離
 魏の都、洛陽より大月氏国まで1万6千370里
 記録16000里X434m=6944㌔ 実測4000㌔(長里の実数に近い)

 笵曄「後漢書」西域伝では、「大月氏國,居藍氏城,... 東去長史所居六千五百三十七里,去洛陽萬六千三百七十里」である。要するに、一万六千里は「実測」などされていない。勘違いであろう。又、当然ながら当時の概念で「距離」は、無意味である。「長里」「実数」は、意味不明である。
 明らかに、当時の「貴霜国」王の居処は、 大月氏の藍氏城とはかけ離れていて、当然、道里は異なるが、「公式道里」は、当初のままだったのである。これは、漢魏代に限らず、当然であった。

 勘違いと意味不明では、論拠にならない。いや、この「駒」の話に限ったことではない。

国力
 中央アジアの大国、クシャーナ朝・カニシカ王時代最盛期、後漢と接す。東西貿易で栄える。軍騎10万

 内野氏の云う「国力」の尺度が不明では、読者として、評価検証も、大小比較もしようがない。倭人伝に「軍騎」はない。
 笵曄「後漢書」西域伝は、「戶十萬,口四十萬,勝兵十餘萬人」と登録していて、耕作地を付与された「戸」が十万、つまり、収穫が十万戸相当に対して十万の兵としているが、これでは、常備軍とは見えない。それとも、各戸は、四人と見られる戸内から、一名の成人兵士を出しても、平然と農耕に勤しんでいたのだろうか。何れにしろ、この数字は、西域都護に対する申告/登録数であり、百年を経て、貴霜国に大成した時点では、これらの数字は現実離れしていたのであるが、更新はされていないのである。
 「後漢と接し」たと云うが、「後漢」は、武帝以来の「漢」と称していたはずである。なお、後漢は、皇帝直々でなく、西域都督に折衝させていたのであり、格落ちの相手と見なしていたのである。「接して」とは、なにを言っているのか、意味不明である。
 前記の如く、大月氏は、後漢西域都護と角逐して屈服していたのである。又、西方は、一度侵略/掠奪に成功したパルティア侵略が、以後撃退され、大きく反撃/侵入を許している。
 どの時点の国力を評価するかと言えば、貴霜国の盛時であろうが、それは、後漢書に記録されていないし、いずれにしても、儚いものである。
 「貴霜」国繁栄の起源は、インダス川流域文明を活用した南方の商材を多としていたはずであり、「東西貿易」で栄えたとは、浅慮と見える。

 本当に貿易立国であれば、大量の軍騎は不要である。西方の安息国は、自衛のために二万人を境界部に貼り付けていたが、貿易相手を侵略して、掠奪する意志/意義は皆無であったから、常備軍は、僅少であった。国内各国も、常備軍を持たなかったから、内乱が生じにくかったのである。

 三世紀当時、どこにも「中央アジア」の概念は無い。また一つの時代錯誤である。ギリシャ流に云えば、「アジア」は、地中海東岸地域である。勘違いしてはいけない。

距離・説
 ほぼ実数に近い

 この「駒」も、何の話やら、皆目分からない。各駒が意味不明では、表にして対照する意味が無いように思われる。古来、史学論で、作表して、読者を煙に巻く手法は、学問的に無法と見える。なにしろ、もともと簡得に縦書きしていた文書であるから、作表など存在しなかったのである。読者が、一定の理解をしない提言は、眩惑志向であり、学術的に無意味である。

 以上、大変な不勉強で、ここに「仮説」を提示できるものではないと見える。

◯倭国・女王国
記録
 [魏志倭人伝]倭人の条「239年倭の女王卑弥呼に「親魏倭王」金印を仮綬する」(過分なる恩賞、好意的)

 「魏志倭人伝」と書いて「倭人の条」は、無意味である。「」内に引用されている記事の根拠は、見当たらない。正史に西暦年数が算用数字で書かれているはずはない。二千年後生の無教養な東夷が、正史の記録文に、「過分」とか「好意的」とか、私見を書き足すのは、稚拙と言われかねない。

 遼東の大国・公孫淵には「楽浪王」のみ。

 「遼東の大国」と虚名を課されている公孫淵(国名でなく、人名である)は、後漢/魏の遼東郡太守である。「大国」など、見当違いである。
 漢制の郡太守は、帝国の根幹をなす大身で、国王に等しい高官である。国王は、漢・魏代、皇族にしか許されない臣下として至上の格別の称号である。因みに、「親魏倭王」は、漢制の王などではない「蕃王」であり、単なる髪飾りである。

                                未完

新・私の本棚 番外 内野 勝弘 第413回 邪馬台国の会 補追 3/4

魏志倭人伝・考古学・記紀神話から読み解く 邪馬台国時代の年代論
私の見立て☆☆☆☆☆ ひび割れた骨董品 2023/10/24 2023/10/26 2024/04/23

*加筆再掲の弁

 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

国内・国際状況
 司馬懿は朝貢した倭を呉の背後と位置し、皇帝に呉の海上支配に対抗する大国と報告し司馬懿自らの功績を高めるために金印を仮綬させた。  

 司馬懿は、遼東郡を撲滅した際に、郡太守の誅滅は当然として、官吏、公文書もろとも、破壊し尽くしていて、とても、「東夷管理」の継続、拡大を志していたとは見えない。また、その時点で、司馬懿は、魏の最高権力者ではなかった。

 帯方郡平定は、司馬懿遼東征伐とは別に実行されていて、明帝の勅命で、公孫氏の任じた郡太守は更迭され、新任太守のもと、帯方郡は、平和裏に皇帝指揮下に回収され、倭人に対して「すぐさま」参上を指示したと考えるのが、自然な成り行きではないか。

 郡の太守弓遵と使者梯儁は大月氏國に匹敵する同等な国とすべく距離、人口を報告した。

 帯方郡太守にとって、関心の的は、洛陽の意向であり、西方の大月氏などは無縁で、何も知らされていない/分からないから、「匹敵」など考えようもない。とんだ白日夢である。
 「倭人伝」に、距離・人口は書かれていない。史料にない事項を言い立てるのは、内野氏の白日夢であろうか。誰か、覚醒してあげないのか。

 郡太守と官人使者(行人)は、身分違いで対等ではないから、結託して策動することは不可能である。つまらない法螺話は、止しにした方が良い。新参の蛮夷への使者は、時として、いきなり斬首されるから、大臣の官人は任用されないものである。

 そもそも、新任の郡太守には、使節団の現地報告を「捏造」する動機は、全く無い。「こと」が露見すれば、一族皆殺しである。また、雒陽での評価を上げようにも、当然、このようなつまらない事項に、命をかけるはずがない。つまらない法螺話は、止しにした方が良い。
 官人使者にしても、行人の大命を受けて、艱難辛苦の果てに大過なく往還したのに加えて、意味不明な指示を受けて報告を捏造して、それが功名になるのかどうか、皆目不明だから、命をかけるはずがない。つまらない法螺話は、止しにした方が良い。

 何しろ、いくら粉飾しても、何れは、郡倭の間で使者か往来するから、「道里」「戸数」は、知れるのであり、この時点で、ことさら必死で粉飾しても、早晩露見するのは、明らかである。郡太守は、子供ではないから、その程度の分別は有していたはずである。つまらない法螺話は、止しにした方が良い。

 それにしても、明帝の手元には、生前に帯方郡の「倭人公文書」が、大挙将来されていたのであるから、「倭人」の身上は、とうに知れていたのである。公孫氏のもとで、長年東夷管理に従事していた郡太守が更迭され、新米に入れ替わっていたから、史料継承に難があったにしても無理のないところだが、最終的に、使節団派遣までには、倭までの行程は四十日程度と知れたのである。
 経過を振り返ってみると、「道里」「戸数」は、公孫氏の公文書遺物が、明帝に無批判で採り入れられた結果と見るのが、もっとも自然であろう。そうではないと主張するのであれば、半仮睡の臆測で無く、具体的な根拠を示すべきである。 

 どう考えても、内野氏の提案は、とんでもない言いがかりでは無いかと思われる。それとも、現代の古代史研究機関は、そのような捏造が日常茶飯事なのだろうか。とんだ、時代錯誤の幻想である。

功労者
 魏の大将軍 司馬懿の東方経営を進めた功績とすべく皇帝に強く上奏した。

 創作された司馬懿の「東方経営」は、時代錯誤の無意味な概念である。従来、司馬懿は、西方の蜀漢侵攻に対する「抑え」であったから、遼東方面に関する知識は白紙に近かったと見える。もちろん、何の功績も立ててはいない。
 仮に、司馬懿が「東夷」情勢を評価したとしても、地域の「交易」は、遼東半島から山東半島を往き来する渡海船が主力であり、また、遼東郡太守公孫氏は、勢力拡大に際しては、南方/西方との交易が盛んであった山東半島青州地域の支配に尽力したのであり、帯方郡の管轄する「荒地」は、意識の片隅にしかなかったのである。
 司馬懿の意識した「東方」は、高句麗の支配地域であったと見えるのである。氏の意見は、随分方向感覚が、ずれているように見える。

 帯方郡の管理した韓、穢、倭は、札付きの貧乏諸国/荒地であり、経営しようがない。漢武帝が朝鮮国撲滅後に、強引に四郡を創設したが、半島東南部諸郡「嶺東」は、一段と貧乏な荒地であり、漢制の郡が設立されたとしても、郡太守の粟(俸給)の出所がなく、忽ち「経営破綻」して引き払っているのである。残ったのは、半島中部以北の楽浪郡、そして、玄菟郡である。
 それにしても、誰がどのように「強く上奏」した証拠があれば提示いただきたい。内野氏の私見では、当時、司馬懿が最高権力者だったのだから、別に誇張の必要は無く単に上奏すれば良いのである。

 因みに、半島の三韓諸国は、晋代以降、高句麗が公孫氏の軛を免れて大挙南下したこともあって、百済と新羅の自立に進んで、高句麗共々帯方郡の支配を跳ね返し、帯方郡は、楽浪郡共々撤退したのである。ことは、司馬懿が、遼東郡の東夷管理体制を丸ごと破壊して、「東方経営」など放念したことから来ているのである。

方角
 東南の大海の中、会稽東冶の東、呉の背後の国。南方的記述。

 どこの「東南」か、意味不明である。「大海」の方角ではないはずである。恐らく、氏の語彙にある「大海」は、倭人伝の説く「大海」と大きくずれていると思われるが、氏は明言しないので、何も伝わらないままである。
 当時の中原人の世界観で、「呉の背後」 は、交址(ベトナム)、緬甸(ミャンマー)と思われる。
 「南方」も、どこから見て南方なのか不明である。「帯方郡から見て南方」と言うなら、狗邪韓国も、壱岐、対馬も「南方」である。とんだ呪文である。
 時の皇帝は、恐らく少帝曹芳であろう。さらに疑問を掻き立てる「呉の背後」については、後述する。

人口
 女王国の都7万戸(35万人)倭国15万戸(75万人)日本人口(鬼頭宏)59~75万人。あまりに少ない数字。
 推測200~300万人と多めに見て九州30~45万人、倭国15万人)

 三世紀当時「人口」は、無意味な概念である。とんだ時代錯誤である。戸数」から、現代流の「人口」を換算するのは、各戸の内情が不明である以上、無謀である。戸数が想定しているのは、夫婦と子供のようだが、人口に子供をどう数えるのか、不明であれば、不明と唱えるべきである。

 当時、倭人に戸籍簿はなく、従って、「人口」を数える制度はなく、精々、推測/臆測した「戸数」集計である。ただし、戸籍が記帳されていた証拠はない。存在したのは、各戸に対する耕作地割り当ての記録程度であり、これは、国制の根幹であるから、厳重に維持されたが、各戸構成は、維持されていたと見えない。当時、早世、夭逝はざらであり、各戸の内実を調べ立てる口数、「人口」に大した意味は無いから、これを言い立てるのは、二千年後生の無教養な東夷が、自身の先祖である三世紀「倭人」世界の情勢を知らないことを露呈している。

 蕃王に「都」はないから、「女王国の都」は錯誤/空文である。女王居処「國邑」は数千戸規模と見えるが、当然、「直轄地は無税が常識であり、官人、奴婢が多数を占めていれば、農民は希少であった」ろうから、ことさら「戸数」を言うのは不遜である。
 倭国15万戸は、倭人伝に根拠の無い憶測である。二千年後生の無教養な東夷の「世界観」の呪縛を振り払って、三世紀人の「世界観」まで降りていかないと、「倭人伝」の描いている「世界」は、わからないのである。「人口」論は、氏の白日夢であろう。
 三世紀時点未生の「日本」の「人口」は、重ね重ね、時代不明、根拠/対象領域不明の「ごみ情報」である。後世、恐らく、八世紀あたりで戸籍制度が確立されて、以後、少なからぬ紙情報が残存しているのだろうが、「鬼頭宏」なる「専門家」の立論手法は不明である。提言、仮説、断言の何れにしろ、前提や条件付けが欠落して、数字だけが、ポツンと一人歩きしていては、単なる法螺話とされかねない、個人攻撃になっているのである。
 恐らく、八世紀近辺の時点の豊富な史料を根拠とした折角の推計情報を、根拠とできる情報が一切存在しない三世紀に転用されて、「あまりに少ない」などと手厳しく批判/非難されるのは、当人にして見ると、妄想と云われかねない「濡れ衣」ものであり、そのような悪名は、圏外に排除いただきたいと願っているはずである。

距離
 都洛陽から帯方郡まで5000里 帯方郡より女王国1万2千余里 計1万7千里。
 記録12000里×434m=5200㌔ インドネシア方面まで行ってしまう。短里80m 960㌔実数相当 九州圏内

 帯方郡は、後漢末建安年間の設立であり、笵曄「後漢書」に収容された司馬彪「郡国志」には、洛陽からの公式道里は記録されていない。「魏志」に公式道里記事は無く、後年の宋書にも無く、晋書にもない。内野氏は、何を根拠に存在しない公式道里を標榜しているのか、不審で、不合理である。
 「基本的」確認であるが、「倭人伝」が明記しているのは「郡から倭まで」「万二千里」であり、「帯方郡より女王国」とは書いていない。魏志に書かれていない数字を、臆測で足し合わせても、臆測の段積みでは、「虚妄に過ぎない」と言われそうである。誠に不合理である。

 ついでながら、「倭人伝」に「郡から狗邪韓国まで七千里」と起用されている里数の根拠が、誤解の余地無く明示されているのを無視して、単純に、二千年後生の無教養な東夷の臆測で、全行程普通里で目的地を想定するのは、非科学的で、不合理である。非科学的な思考は、早く一掃していただきたいものである。傍証であるが、「倭人伝」道里に対して、魏、晋、南北朝、隋、唐、宋に到る期間、伝統的に何ら公式の異議は立てられていないのである。
 現代で云えば、安本美典師も、伝統的な解釈に従っているのである。一度、教えを請うべきでは無いか、と愚考する。

 ついでながら、当時どころか、秦漢魏晋の歴代王国で、「公的制度としての短里」など、「どこにも存在しなかった」とみるべきである。内野氏が、「短里説」を支持するのは、如何なものか。当然、意義の成り立たない「長里」も、存在しないのである。単に、普通「里」と云えば済むのである。現に、正史には、そのような「里」が書かれているのであり、ほぼ唯一の例外は、「倭人」に関する万二千里由来の記事である。

                                未完

新・私の本棚 番外 内野 勝弘 第413回 邪馬台国の会 補追 4/4

魏志倭人伝・考古学・記紀神話から読み解く 邪馬台国時代の年代論
私の見立て☆☆☆☆☆ ひび割れた骨董品 2023/10/24 2023/10/26 2024/04/23

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

国力
 東の果ての小国、海外(呉)への武力攻撃などの能力はない。小国30か国の連合体

 「国力」が正体不明、その評価は不可能である以上、資料に忠実に解釈を進めるべきである。
 当時、現代紛いの「連合体」など存在し得ない。「国」の態を成していたのは、対海、一大、末羅、伊都の4国であり、それ以外の名のみの「国」の事情を論じるのは「白日夢」であろう。

 因みに、「倭人伝」は、「更に東」の諸国を描いているので、倭人は、「東の果て」などではない。何かの錯覚であろうか。因みに、「倭人」が、三十ヵ国の連合であるとすれば、それは「小国」などではない。何しろ、「倭人」の領域は、把握されていないのだから、領域の広さは論じられないのである。海外(呉)とくると、東呉孫権も、蛮族の王となってしまう。まことに尊大である。
 因みに、当時の中国に「海外」の概念は無い。またもう一つの時代錯誤であろうか。それとも、氏の視点が錯乱していて、ここは、二千年後生の無教養な東夷の眼で見ているのであろうか。読者に超人的な理解力を要求するような「無理/難題」を言ってはならないと思うのである。

距離・説
 ①古い時代の短里説 ②誇張説 ③政治的忖度説

 無意味な列記である。「古い時代」とは、殷周代のことだろうか。太古の制度など幻影である。「誇張」は、計算の根拠が必要である。まして、当時「政治的忖度」などあり得ない。全て、虚偽/虚妄である。

◯内野説(5倍説)
 魏から外国に贈られた金印は大月氏国と倭国の二国のみであるが、大月氏国と倭国との国力は大きく違うのに金印付与されたのが謎とされる。

 当時「国力」は無意味で、ここで問われるのは、新参蛮夷の格付けである。当時の天子の評価は、当時の天子にしかわからないのであり、二千年後生の無教養な東夷に分かるはずが無い。最善の努力を払っても、誰にも解答が出せないのは、「問題」でも「謎」でも無い。
 天子が蕃王に「金印」を送るなど論外である。そもそも、なぜ、それぞれの国に「金印」を贈ったのか。貴霜国に対しては、武力を抑えるための懐柔であろうが、「倭人」は暴虐でないので、全く異なった意義を持っていたと思われるが、いくら2000年後生の無教養な東夷が考えても、わかるはずはないから、「回答」を要求した「謎」ではないと見るものではないか。
 
 卑弥呼は司馬懿が公孫氏を滅亡させた翌年の239年にすぐさま使者を魏に送った。倭からの朝貢は司馬懿の功績を宣伝するためには格好であった。

 「格好」「すぐさま」と云いつつ、景初2年と書かれていても、「翌年」と正史を改竄し、一年をおいておもむろに遣使とは、不審である。そのような解釈は、たいへんな勘違いと自覚するべきである。陳寿「三国志」魏志によれば、「倭人」は、景初二年六月に帯方郡に到着したのであり洛陽に参上したのではない。と言うか、内野氏は、大胆にも、洛陽到着は景初三年という主張であろうか。
 景初二年中は、魏明帝が生存していたが、景初三年元旦に逝去しているから、景初二年中に上洛したかどうかは、大問題である。記録されている皇帝詔書は、明帝のものか、少帝曹芳のものか、本来、文献考証上の大問題を孕んでいるのである。陳寿「三国志」魏志倭人伝には、倭人使節の洛陽到着の年次は書かれていないが、魏明帝の逝去の際の、それこそ「画期的な事情」を無視していては、臆測/創作/改竄の類いとされて、反論できないのではないか。

 翌240年官吏梯儁は倭国に派遣され倭国に至るまでの行程、国情、政治など詳細に調査し報告した。

 無造作に「官吏」だが、下級吏人の筈はなく、帯方郡官人建中校尉梯儁である。
 魏帝が、国情/行程不明のまま下賜のお荷物を担いだ遣使を送り出すとは不審である。子供の近所へのお使いにしても不都合である。当然、使節団の発進以前に「郡から倭まで万二千里」と知れていたし、さらには、実務的に必須の所要日数四十日程度というのも知れていたはずである。

*反射的なダメ出し
 因みに、翌240年とは、不可思議である。「倭人伝」に書かれているのは、明帝景初二年の帯方郡訪問、同年十二月の皇帝詔書であり、翌景初三年の記事はなく、一年余を経た少帝曹芳の「正始元年」である。内野氏の臆測では、景初三年の帯方郡訪問、同年十二月の皇帝詔書であり、翌正始元年に下賜物を担いだ遣使が発進したという強行日程であり、明帝没後の喪中の六ヵ月諸事自粛を思うと、信じがたい「特急処理」である。
 下賜物を発送するためには、道中諸国からの受入確認連絡が必須であり、即答が来るはずはないので、相当の期間を要したと見るものではないか。「特急処理」など、有りえないのではないか。素人の反射的なダメ出しであるから、読者諸兄姉には、かえってわかりやすいと見て、一通り書いたのである。

*論評総括
 内野氏が、どのような検証で、ここに提議されたような短縮/強行/特急日程を支持したのか不明であるから、とても、信用できないのである。
 要するに、当然の事項なので、「倭人伝」から割愛されていても、当然の手順は、当然執り行われているはずである。またもや当然であるが、要するに、発進以前に、行程各地に使節団の到着予定を通達し、各地責任者から、確認を得ていたはずである。当然、そのような交信の所要日数は、使節団の所要日数設定の参考となったはずである。
 以上は、魏帝国という「法治国家」では、当然の手順であるから、「倭人伝」から割愛されているとしても「行われなかった」と主張するには、相当確固たる反証が必要である。

 帰国後、太守弓遵等は司馬懿の功績を高めるため距離、人口、位置は呉の背後の会稽東冶の東で1万7千里(5000里+12000里)大月氏国に匹敵する遠方の国で数十万の大国として報告を作成した。ゆえに朝鮮半島と倭国は人口と距離が5倍ほど水増しされた。陳寿や魚豢(魏略)はその記録を踏襲した。

 その時期、不遇であった「司馬懿の功績」なぞ、どうでも良かったはずである。
 繰り返しになるが、「倭人伝」に、「距離」「人口」は、一切書かれていない。「位置」は、初耳であるから返事に窮する。それにしても「数十万の大国」は、冗談がきつい。戸数のことなのか、何のことなのか。
 因みに、洛陽/帯方両郡の戸数、口数は、一戸、一人まで正確に集計されていて、五倍誇張など無意味である。そう言えば、郡管内の道里の水増しも、本来無意味である。
 ついでながら、魚豢は曹魏の忠臣であり、逆臣司馬懿の功績を高める粉飾など、死んでも行わないのである。

 「呉の背後」と言い切っているが、「会稽」は呉の中心部であり、その南部の東冶は、ほんの裏庭に過ぎない。氏は、漢数字が読めないのだろうか。二千年後生の無教養な東夷の地理感覚を、根こそぎ洗い直して、せめて、洛陽人の世界観で史料解釈に臨んで欲しいものである。別に「中国語が自力で発音できなくても」、つまり「読めなくても」関係ない。当時の実務を想定すれば、史官の深意は、行間や紙背から読み取れるはずである。
  
 因みに、公孫淵と孫権は、数次の書簡往復があり、実務として、遼東公孫氏の臣下「倭人」の素性は、東呉に既知であったと見える。

 それにしても、帰還して万里捏造」は、時代錯誤である。皇帝報告後に報告「作成」は不可能であろう。「万里」往復に要する日数は、氏の臆測の五分の一程度であろうから整合しない。古代史の泰斗である岡田英弘氏は、既に、「万二千里」を後世西晋代の「陳寿の創作」と断じていて、それはそれで、無根拠、臆測の随分軽率な断言であるが、内野氏は、高名な岡田氏の提言を、無断で改竄しているのだろうか。それとも、盗用、パクリの際の手違いなのだろうか。

 端的に言うと、陳寿は、「魏志倭人伝」の編纂にあたって、史官の「職務に殉じる」覚悟で、洛陽の各部門に所蔵されていた公文書の記載内容を遵守したが、無謬の天子である明帝が犯したと見える「道里」に関する「錯誤」を、文書交信の所要日数によって「事実上」是正し、当時の高官諸賢の同意/正解を得たのだが、二千年後生の無教養な東夷は、偏見に満ちているため、「魏志」に書かれていない風評/裏話を、寄って集(たか)ってでっち上げて、挙(こぞ)って誤読/誤解していると見えるのである。反論があるなら、文書史料を提示して、反駁していただきたいものである。

 因みに、少帝曹芳の最初の十年間、司馬懿はむしろ逼塞し、老妄を擬態して最高権力から遠ざかっていたから、もし、曹爽が司馬懿の野心を察知して、大権を駆使して司馬懿一族を誅殺するとなると、司馬懿に阿諛追従した報告者一族も、自動的に連座して皆殺しだから、ヘタな策謀はしなかったと見える。何しろ、漢書を編纂した班固は、史官として中立的な立場にありながら、絶対的な最高権力者であった大将軍竇憲が、時の皇帝によって誅伐された際に連座/刑死していて、有力者に追従するのは、ときに、死に至る近道だったのである。
 因みに、陳寿の司馬懿評価は冷徹で、司馬懿は、多年の功労で列侯とされながら、「魏志」に「伝」を立てられていない「不名誉」に浴している。

 一方、明帝没後、司馬一族の専横に抵抗した毋丘儉は、司馬懿が尊重することを誓約した曹芳を廃位するに及んで、反乱蹶起/敗死し、一族は全滅したが、「魏志」に伝を設けられていて、制約のある伝の真意を読み取れば、明帝曹叡の信任が格別に厚かった毋丘儉が、当時、遼東を管轄する幽州刺史として、公孫淵の上位者であり、「西方戦線から臨時に起用されて与力した、現地事情に通じていない司馬懿」と並ぶ副将として遼東平定に大きな功績を果たしたと理解できる。特に、公孫氏滅亡後の遼東の空白を突いて南下しようとした高句麗を、玄菟郡太守王頎に命じて長駆大破した功績は明らかであるが、西晋政権下で編纂された「魏志」には、明記できなかったのである。

 ついでに言うと、帯方郡太守弓遵は、いわば「国王」に等しい高貴な身分であり、「等」で括り付けられるような同格の人物は、登場していない。軽率である。それとも、内野氏は、玄菟郡太守王頎が「黒子」として参画したというのだろうか。

◯まとめ
 総括すると、内野氏は、世上流布しているらしい、不出来な/理解できない元史料を、不出来に切り刻み、逐一味見しないままに盛り付けた俗説を、席上に提示しているが、実際は、一場の「ごみ史料」と化しているから、とても、食するわけには行かないのである。当方は、そのような率直な指摘を言いがかりと言われないように、大量の根拠を示して批判している。文句があれば、キッチリ反論して欲しいものである。
 総括すると、氏は、中国史料を、適確に読解する能力が不足しているのに、それを周囲に対して認められないままでいるようである。周囲は、氏を適切に支援する努力をしていないようである。困ったものである。

 内野氏の発表が素人ブログの片隅であれば雑情報として見過ごせるが、安本美典師主宰講演会の資料は、「邪馬台国の会」会長の絶大な権威もあって、世間の注目と信頼を集めるので、年代物の誤解の伝播を防ぐために公開書評せざるを得ないのである。
 ここに示されたような「誤解放置」は、氏の玉稿をだれも真剣に批評していないのが原因と危惧される。おかげで、部外者の素人が、憎まれ役を引き受けざるを得ない。

 ぜひ一度、ご自身の思考過程を、一歩一歩確認/ご自愛いただきたいものである。一度、公開してしまえば、それは、不滅の業績なのである。是非とも、自重いただきたいものである。

 冒頭に「ひび割れた骨董品」と悪態をついているが、ひび割れた焼き物は、「金継ぎ」すれば、ひび割れる前より遥かに高い価値を得ることができるのである。ぜひ、ご自愛頂きたいものである。

                                以上

2024年4月21日 (日)

新・私の本棚 安本 美典「狗奴国の位置」邪馬台国の会 第411回 講演 再掲

 2023/06/18講演 付 水野祐「評釈 魏志倭人伝」狗奴国記事復原 2023/07/22 2024/04/21

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

*総評
 安本美典師の史論は知的創造物(「結構」)であるから、全般を容喙することはできないが、思い違いを指摘することは許されるものと感じる。

*後漢書「倭条」記事の由来推定
 笵曄「後漢書」は、雒陽に所蔵されていた後漢公文書が西晋の亡国で喪われたため、致し方なく先行史家が編纂した諸家後漢書を集大成したが、そこには東夷伝「倭条」部分は存在しなかったと見える。
 後漢末期霊帝没後、帝国の体制が混乱したのにつけいって、遼東では公孫氏が自立し、楽浪郡南部を分郡した「帯方郡」に、韓穢倭を管轄させた時期は、曹操が献帝を支援した「建安年間」であるが、結局、献帝の元には報告が届かなかったようである。
 「後漢書」「郡国志」は、司馬彪「續漢書」の移載だが、楽浪郡「帯方」縣があっても「帯方郡」はなく郡傘下「倭人」史料は欠落と思われる。

 笵曄は、「倭条」編纂に際して、止むなく)魚豢「魏略」の後漢代記事を所引したと見える。公孫氏が洛陽への報告を遮断した東夷史料自体は、司馬氏の遼東郡殲滅で関係者共々破壊されたが、景初年間、楽浪/帯方両郡が公孫氏から魏明帝の元に回収された際に、地方志として雒陽に齎されたと見える。

*魚豢「魏略」~笵曄後漢書「倭条」の出典
 と言っても、魚豢「魏略」の後漢書「東夷伝」「倭条」相当部分は逸失しているが、劉宋裴松之が魏志第三十巻に付注した魏略「西戎伝」全文から構想を伺うことができる。
 魚豢は、魏朝に於いて公文書書庫に出入りしたと見えるが、公認編纂でなく、また、「西戎伝」は、正史夷蕃伝定型外であり、それまでの写本継承も完璧でなかったと見えるが、私人の想定を一解として提示するだけである。
 笵曄「後漢書」西域伝を「西戎伝」と対比すれば、笵曄の筆が、随所で後漢代公文書の記事を離れている事が認められるが、同様の文飾や錯誤が、「倭条」に埋め込まれていても、確信を持って摘発することは、大変困難なのである。

*「魏志倭人伝」狗奴国記事復原
 念を入れると、陳寿「三国志」「魏志」倭人伝は、晋朝公認正史編纂の一環であり、煩瑣を厭わずに、両郡の郡史料を集成したと見える。史官の見識として、魚豢「魏略」は視野に無かったとも見える。魚豢は、魏朝官人であったので、その筆に、蜀漢、東呉に対する敵意は横溢していたと見えるから、史実として魏志に採用することは避けたと見えるのである。
 それはさておき、女王に不服従、つまり、女王に氏神祭祀の権威を認めなかった、氏神を異にする「異教徒」と見える狗奴国は、「絶」と思われ、女王国に通じていなかったと見えるので、「倭人伝」の狗奴国風俗記事は、正始魏使の後年、人材豊富な張政一行の取材結果と見える。

 安本師が講演中で触れている水野祐師の大著労作『評釈 魏志倭人伝』(雄山閣、1987年刊)に於いては、「其南有狗奴國」に始まる記事は、亜熱帯・南方勢力狗奴国の紹介と明快である。

其南有狗奴國。男子爲王、其官有狗古智卑狗、不屬女王。[中略]男子無大小皆黥面文身。[中略]計其道里當在會稽東治之東。[中略]男子皆露紒以木綿招頭。[中略]種禾稻、紵麻、蠶桑[中略]所有無、與儋耳朱崖同。

 一考に値する慧眼・卓見と思われ、ここに重複を恐れずに紹介する。

*本来の「倭記事」推定
 つづく[倭地溫暖]に始まる以下の記事は、冬季寒冷の韓地に比べて温暖であるが亜熱帯とまでは行かない「女王国」紹介記事と見える。

倭地溫暖、冬夏食生菜、皆徒跣。[中略]其死、有棺無槨、封土作冢。[中略]已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐。[中略]出真珠、青玉。[中略]有薑、橘、椒、蘘荷、不知以爲滋味。[中略]自女王國以北特置一大率[中略]皆臨津搜露傳送文書賜遺之物[中略]倭國亂相攻伐歷年乃共立一女子爲王。名曰卑彌呼。事鬼道能惑衆。年已長大。無夫婿。[中略]女王國東渡海千餘里復有國皆倭種。[中略]參問倭地絕在海中洲㠀之上或絕或連周旋可五千餘里。

*結論/一案
 要するに、「倭人伝」には、狗奴国は女王国の南方と「明記」されている。主要国行程は、對海國、一大国、末羅国、伊都国、そして、「邪馬壹国」と一貫して南下しているから、ここも、「邪馬壹国」の南方であることに疑いは無いと言うべきである。
 但し、西晋亡国、東晋南遷の動乱の時代を隔てて、雒陽公文書という一級一次史料から隔絶していた笵曄が、風聞に惑わされて、その点の解釈を誤ったとしても無理からぬとも言える。
 要するに、笵曄「後漢書」東夷列伝「倭条」は、「倭人伝」と対比しうるだけの信頼性が証されないので、「推定忌避」するものではないかと愚考する。(明快な立証がない限り、取り合わない方が賢明であるという事である)

 安本師は、当講演では、断定的な論義を避けているようなので、愚説に耳を貸していただけないものかと思う次第である。

                                以上

2024年4月15日 (月)

新・私の本棚 西村 敏昭 季刊「邪馬台国」第141号 随想「私の邪馬台国論」三掲

 梓書院 2021年12月刊
 私の見立て ★★☆☆☆ 不用意な先行論依存、不確かな算術 2022/01/04 追記 2022/11/20 2023/01/23 2024/04/15

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

〇はじめに
 当「随想」コーナーは、広く読者の意見発表の場と想定されていると思うので、多少とも丁寧に批判させていただくことにしました。
 つまり、「随想」としての展開が論理的でないとか、引用している意見の出典が書かれていないとか、言わないわけには行かないので、書き連ねましたが、本来、論文審査は、編集部の職責/重責と思います。安本美典氏は、季刊「邪馬台国」誌の編集長に就任された際は、寄稿に対して論文査読を実施するとの趣旨を述べられていて、時に「コメント」として、講評されていたのですが、何せ四十年以上の大昔ですから、目下は、無審査なのでしょうか。

▢「邪馬壹国」のこと
 季刊「邪馬台国」誌では、当然『「邪馬壹国」は誤字である』ことに触れるべきでしょう。無視するのは無礼です。 
 大きな難点は、「邪馬タイ国」と発音するという合理的な根拠の無い「思い込み」であり、この場では、思い込み」でなく「堅固な証拠」が必要です。半世紀に亘る論争に、今さら一石を投じるのは、投げやりにはできないのです。パクリと言わないにしても、安易な便乗は、つつしむものではないでしょうか。
 そうで無ければ、世にはびこる「つけるクスリのない病(やまい)」と混同されて、気の毒です。

 因みに、氏は、説明の言葉に窮して「今日のEU」を引き合いにしていますが、氏の卓見に、読者の大勢はついていけないものと愚考します。(別に、読者総選挙して確認頂かなくても結構です)
 素人目にも、2023年2月1日現在、イングランド中心の「BRITAIN」離脱(Brexit)は実行済みとは言え、実務対応は懸案山積であり、連合王国(United Kingdom)としては、北アイルランドの取り扱いが不明とか、EU諸国としても、移民受入の各国負担など、重大懸案山積ですから、とても「今日のEU」などと平然と一口で語れるものではないので、氏が、どのような情報をもとにどのような思索を巡らしたか、読者が察することは、到底不可能ですから、三世紀の古代事情の連想先としては、まことに不似合いでしょう。

 「よくわからないもの」を、別の「よくわからないもの」に例えても、何も見えてきません。もっと、「レジェンド」化して、とうに博物館入りした相手を連想させてほしいものです。

*飛ばし読みする段落
 以下、「邪馬壹国」の「国の形」について臆測、推定し、議論していますが、倭人伝」に書かれた邪馬壹国の時代考証は、まずは「倭人伝」(だけ)によって行うべきです。史料批判が不完全と見える雑史料を、出典と過去の議論を明記しないで取り込んでは、泥沼のごった煮全てが氏の意見と見なされます。「盗作疑惑」です。

▢里程論~「水行」疑惑
 いよいよ、当ブログの守備範囲の議論ですが、氏の解釈には同意しがたい難点があって、批判に耐えないものになっています。

*前提確認の追記 2023/01/23
 ここで、追記するのですが、そもそも、氏の提言の前提には、当ブログが力説している『「倭人伝」の道里行程記事は、帯方郡から倭への文書通信の行程道里/日数を規定するもの』という丁寧な視点の評価がないように見えるのです。つまり、「必達日程」と言われても、何のことやらという心境と思います。説明不足をお詫びします。
 手短に言うと、正史読解の初級/初心事項として、『蛮夷伝の初回記事では、冒頭で、当該蛮夷への公式行程/道里を規定するのが、必須、「イロハのイ」』という鉄則です。

*前稿再録
 氏の解釈では、『帯方郡を出てから末羅国まで、一貫して「水行」』ですが、里程の最後で全区間を総括した「都(すべて)水行十日、陸行三十日(一月)」から、この「水行」区間を十日行程と見るのは、どうにも計算の合わないも、途方もない「無残な勘違い」です。
 氏の想定する当時の交通手段で「水行」区間を十日で移動するのは、(絶対)不可能の極みです。今日なら、半島縦断高速道路、ないしは、鉄道中央線と韓日/日韓フェリーで届くかも知れませんが、あったかどうかすら不明の「水行」を未曾有の帝国制度として規定するのは無謀です。

 何しろ、必達日程」に延着すれば、関係者の首があぶないので、余裕を見なければならないのですから、氏の説く「水行」を官制、つまり、曹魏の国家制度として施行/維持するには、各地に海の「駅」を設けて官人を常駐させるとともに、並行して陸上に交通路を確保しなければなりません。いや、海岸沿い陸路があれば、まず間違いなく、帯方郡の文書使は、騎馬で、安全、安心で、迅速、確実な「官道」を走るでしょう。
 先賢諸兄姉の論義で、海岸沿い陸路を想定した例は見かけませんが、好んで、選択肢を刈り込んだ強引な立論を慣わしとしているのです。

 前例のない「水行」を制定/運用するに、壮大な制度設計が必要ですが、氏は、文献証拠なり、遺跡考証なり、学問的な裏付けを得ているのでしょうか。裏付けのない「随想」は、単なる夢想に過ぎません。場違いでしょう。

▢合わない計算
 狗邪韓国から末羅国まで、三度の渡海は、それぞれ一日がかりなのは明らかなので、休養日無しで三日、連日連漕しないとすれば、多分六日、ないしは、十日を想定するはずです。
 誤解を好む人が多いので念押しすると、当時、一日の行程は、夜明けに出発して、午後早々に着く設定なのです。各地の宿駅/関所は、当然、隔壁に囲まれていて、厳重に門衛があり、日が沈めば厳重に閉門、閉扉するのです。門外野営など、無謀であり、特に、冬季に厳寒の事態となる半島では、冬場の野営は凍死必至です。従って、行人は、一日の行程に十分に余裕を見て、早々に宿場に入るのです。渡海水行の場合は、さらに顕著で、便船に乗らなければ対岸に渡れないのです。そして、早々に着いて次の渡海を急いでも、そのような便船がないのが普通ですから、渡海が、半日かからないとしても、それで一日と数えるのです。

 そもそも、氏の想定を臆測すると半島西岸~南岸を600㌔㍍から800㌔㍍進むと思われる『氏が想定している遠大極まる「水行」』行程は、七日どころか、二十日かかっても不思議はない超絶難業です。潮待ち、風待ち、漕ぎ手交代待ちで、乗り心地どころか、船酔いで死にそう、いや、難破すれば確実にお陀仏、不安/不安定な船便で長途運ぶと、所要日数も危険も青天井です。
 諸兄姉は、そう思わないのでしょうか。聞くのは、陸上街道は、盗賊がでるとか言う「おとぎ話」/風評であり、なぜ、船が安全、安楽で良いのかという議論は聞きません。
 隣近所までほんの小船で往来することは、大抵の場合、無事で生還できたとしても、数百㌖を一貫して官道として運用するのはあり得ないのです。
 一方、「幻の海岸沿い陸路」ならぬ半島中央の縦貫官道を採用して、ほぼ確実な日程に沿って移動し、最後に、ほんの向こう岸まで三度渡海するのであれば、全体としてほぼ確実な日程が想定できるのです。えらい大違いです。

 この程度の理屈は、小学生でも納得して、暗算で確認できるので、なぜ、ここに無謀な臆測が載っているのか不審です。

▢古田流数合わせの盗用
 氏は、万二千里という全行程を、『三世紀当時存在しなかった多桁算用数字」で12,000里と五桁里数に勝手に読み替えて、全桁「数合わせ」しますが、そのために、対海国、一大国を正方形と見立てて半周航行する古田説(の誤謬)を丸ごと(自身の新発想として)剽窃しています。
 安本美典氏の牙城として、絶大な権威ある「邪馬台国」誌が、このような論文偽装を支持するのは、杜撰な論文審査だと歎くものです。

〇まとめ
 後出しの「必達日程」論は言わなくても、凡そ、『帯方郡が、貴重な荷物と人員の長行程移送に、不確実で危険な移動方法を採用することは、あり得ない』という議論は、絶対的に通用するものと思います。
 まして、正始の魏使下向の場合、結構大量の荷物と大勢の人員を運ぶので、辺境で出来合の小船の船旅とは行かないのです。とにかく、いかに鄙(ひな)にしては繁盛していても、隣村へ野菜や魚貝類を売りに行くのと同じには行かないのです。人手も船も、全く、全く足りないので、現代世界観の塗りつけは、論外です。

 弁辰狗邪韓国近辺の鉄山で産出した「鉄」は、陸上街道で帯方郡まで直送されていたのですから、そのように、郡の基幹事業として常用している運送手段を利用しないのは、考えられないのです。と言うことで、本稿の結論は、維持されます。
 氏が、自力で推敲する力が無いなら、誰か物知りに読んで貰うべきです。「訊くは一時の恥……」です。
 
 それにしても、高名であろうとなかろうと、誰かの意見を無批判で呑み込むのは危険そのものです。聞きかじりの毒饅頭を頬張らず、ちゃんと、毒味/味見してから食いつくべきです。
 以上、氏の意図は、丁寧かつ率直な批判を受けることだと思うので、このような記事になりました。頓首

                                以上

2024年4月14日 (日)

新・私の本棚 笛木 亮三 季刊 邪馬台国142号「卑弥呼の遣使は景初二年か三年か」(1)補追 史料群批判 再掲

「その研究史と考察」 季刊 邪馬台国142号 投稿原稿 令和四年八月一日
私の見立て ★★★★☆ 丁寧な労作 ★☆☆☆☆ ただしゴミ資料追従の失策
2022/08/21, 09/05~06 2023/01/26, 08/30 2024/04/14

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

⑴「魏志倭人伝」の記述
 氏が総括された「研究史」の難点が、劈頭に露呈している。「主張の根拠」を丁寧、正確に明示するのは、氏の美点であり、「主張の根拠」として採用された世上の諸説に、何かと行き届いていない点が見てとれるが、それは、氏が依拠した「倭人伝観」が、大きく傾いた「通説」の視点/視線の齎したものであり、これは、第三者でないと、率直に、つまり、不躾に指摘できないものと思うので、以下、僭越を承知で苦言を呈したものである。決して、個人的な批判ではないので、ご了解いただきたい。

 卑弥呼の遣使」は、一級史料たる倭人伝に記録されているから、とうの昔から、景初二年」と確定している。それが、出発点である。
 氏の信奉する景初三年「説」は、信頼性で劣る雑史料「ジャンク」を根拠としているようであるが、それら雑史料の史料批判/資格審査を残さず歴た上で、ようやく「説」として評価するに足るかどうかを審議できるのが、当然の手順である。事前の審査で好評を得て、審議に対して発言する資格を得ても、「倭人伝」を覆すには、さらに幾山河越えねばならないが、それは、提言者の務めである。

 「研究史」は、笛木氏が創唱、主導したのでなく、これまでの成り行きに氏に責めは帰せられないが、氏が、ほぼ無批判で、「研究史」を総括しようとされたのは勿体ない。また、季刊「邪馬台国」氏は、安本編集長の就任時の抱負では、掲載論文を査読するという意気込みが示されていたが、いつしか、ただの雑論文誌になったようである。

 要するに、「景初三年」説は、言わば土中の萌芽に過ぎず、未熟で、形を成さない異論の双葉になろうか、というものでしかないから、二者択一は、不当である。

 つまり、冒頭の「⑴「魏志倭人伝」の記述」は、論義の方向を誤っている。で、氏は、論拠として有力と見た史料を列挙されたが、前提が克服されていない。

 いや、そもそも、列挙資料の一端として、考証の原点となるべき「倭人伝」に、原本未確認の根拠なき予断を貼り付けていて、写本の際の誤写発生の多寡についての認識不足、考証不足とともに、氏にとって重大な学恩のあると推定される「いずれかの諸兄姉」に由来する、つまり、義理がからんだ不自由なもののようだが、深刻な「偏見」、「曲筆」、「妄説」に追従していると見えて、誠に勿体ない。当ブログ筆者は、素人、それも、完全自由な立場なので、言いたいことを言っているが、社会人が不自由であることは承知している。

 古来信頼されてきた誠実な著作物である「倭人伝」が「罪人」扱いで、不揃いな証人/容疑者と並べて、お白州/被告席に座らされてはたまらないのである。天下の正義は、どこにあるのか。正義の女神は、目隠しされているのだろうか。

⑵誤記はいつ生じたか
*資格審査/証人審査
 まずは、論拠とするに足る史料は、同時代、中国で史書として記事検証を歴たと思われる「史書」に限定すべきではないだろうか。また、後記したように、「史記」以来の断代史を総合して「通史」を編纂するという偉業を成し遂げた「通志」が参照されないのは、不思議である。
 以下、最低限の「判断と根拠」を明示しているが、当ブログ筆者は、別に何の報酬を承けてもいない、言わば、暇人のボランティアであるが、当然、なんでも勉強させて頂くわけではない。今回は、密かに私淑して来た笛木氏の労作であるから、あえて、口を挟んだのである。

 総括すると、「魏志」の原記事を推定するための証拠資料として、提出諸資料は、全て不適格と判断される。下世話な言い方で言うと、「顔を洗って、出直しなさい」ということである。

⑴「日本書紀」は、中国史書でないので、正史同等の信頼性を有さず、不適格である。
 「日本書紀」は、中国の権威ある査読者によって校訂された史料ではないから、ここに提示されるのは、不当である。この一点で、棄却され、それで退場である。
 あくまで、非公式の参考意見であるが、当該部分は、所定の校正を経た「書紀」本文でなく追補と見える。「書紀」原本で確認しない限り、「書紀」と同様の権威すら認めることができない。但し、「書紀」原本は現存せず、「書紀」原本を読了した人物は生存していない。(苦笑)

 氏は示していないが、「書紀」の魏志「引用」は、史書で不法な「明帝景初三年」なる字句を放置していて、引用元が「適切な魏志写本でない」と判断される重大な錯誤のある引用資料の他の部分が正確との主張は、無効である。「不法」と言うのは、叱責どころでない、大罪であるからである。

⑵「翰苑」は、史書でないので、正史同等の信頼性を有さず、不適格である。
 既に以上の判断で当史料は棄却され、それで退場である。

 そもそも、提示されているのは、出所不明の断簡、つまり、断片、佚文であり、重ねて不適格である。
 同断間の該当部分は、広範な史料から雑多な引用を連ねた記事であり、僅かな区間に「重大な誤字」が二点確認されている以上、当写本は、 適切な校正を怠った「ジャンク」と断定できる。(残る部分の惨憺たる状況は、ここでは論じない)(苦笑)
 わかりやすく言うと、冒頭に「魏志」でなく「禾鬼」めいた嘘字を書いているのが、書いたなりで継承されているのでも、同写本の史料としてのお粗末さは、明らかである。当方は、該当部分の全体を確認しているので、此は、同写本の実態を示す適例と断言する。要するに、「ジャンク」であり、論外である。
 因みに、氏が図3で紹介されているのは、太宰府天満宮所蔵の国宝、「翰苑」断簡写本の影印のコピーのようであるが、氏は、これを「在来版本」と見ているのだろうか。何とも、暢気なものである。
 通常の史料批判では、別系統写本と比較校勘するものだが、本史料は「版本」が、一切存在せず、「紹介部分以外にも大量に存在する重大な誤写が、残らず温存された原因は不詳」であるが、史料としての評価は明確である。(諸兄姉は、そのような「ジャンク」から、発見を重ねているようであるが、とんでもない迷走てある)(国宝と認められた美術品としての文化財価値は、ここでは論じない)

⑶「太平御覧」は、史書でないので、正史同等の信頼性を有さず、不適格である。
 本質的に、厳密な校正が施された「史書」でなく、緩やかな写本を繰り返した「類書」、つまり、権威ある専門店でなく、大盛りを売りにする雑貨屋/総合スーパーである。氏も、現行刊本の関係記事の「景初」年に両様があると認めていらっしゃるから、考証の根拠とできないのは自明と思われる。(証明不要)

*比較すべき資料
 素人目にも、「史書」資料として信頼できるのは、南宋初期、紹興年間の編纂と見える鄭樵「通志」と思われる。「景初」記事は、魏志の引用として書いてはいないので、「魏志」の原記事を推定するための証拠資料として、どのように評価するか腹をくくって頂く必要があるが、このような明白な資料候補を無視されるのは、不都合極まりないのではないかと思われる。氏の面目に関わると憶測されるので、ご一考頂きたいものである。

⑷「梁書」は、成立過程に重大な疑問が呈され、札付きの不良「正史」である。不適格である。
 南朝「梁」は、安定した治世の末期に大規模な内乱が発生し、反乱軍に帝都建康を長期包囲され、帝国が崩壊したから、公文書の正確な継承を信頼することができない。南朝は「北狄」の末裔である隋に滅ぼされ、南朝文書類は撲滅されたと見えるから、公文書の正確な継承を信頼することができない。そもそも、西晋崩壊時、漢魏晋代公文書の多くは散佚したと見え、重ね重ね、梁書「東夷」記事は、信用ならない。

 「梁書」は、天下を統一したと称する唐によって、積極的に南朝の非正統性を証する「正史」として編纂されたものであり、信頼することのできない内容であることは、衆知である。(食べると中毒するジャンクである)

 この一点で、棄却され、それで退場である。

 このような「正史」は、堂々たる「フィクション」であり、一部不見識な野次馬が言うような「ウソ」ではない。(野次馬が言う「ウソ」の意味は理解しがたいので憶測で反駁する)
 因みに、先行する劉宋の正史「宋書」は、直後の南齊、梁年間に、本職の史官が、梁末の破壊に先立って、東晋以来の建康に蓄積された南朝公文書を元に編纂したので、「梁書」と異なる誠実な正史と見る。

 どちらが新しいの古いのと言うのは、史学者がもっとも避けるべき軽率の論義である。ご自愛頂きたい。

⑸「北史」は、粗忽に総括された史書であり、記事の正確さを問うべきではない。不適格である。
 対象とされる北朝諸国は、朝鮮半島三国との交渉はあったようであるが、北部の高句麗を除けば、影響力は限定されていて、東南部、嶺東の新羅との交渉は、更に限定され、まして、渡海の果ての「倭」とは、接触がなかったはずである。つまり、「北史」は、信頼できる「倭」伝を持っていないと見るべきである。
 従って、紹介記事は、陳寿「三国志」「魏志」の適確な引用でなく、北史編纂者の作文と推定するしかない。要するに、陳寿「三国志」「魏志」の原記事を推定するための証拠資料として、不適格である。(食べると中毒するジャンクである)
 この一点で、棄却され、それで退場である。


 どちらが新しいの古いのと言うのは、史学者がもっとも避けるべき軽率の論義である。ご自愛頂きたい。

⑹「通典」⑺「玉海」が紹介されるが、史書でなく不適格である。
 この一点で、棄却され、それで退場である。

 
「正史」は、本職の史官が、「史実」、つまり、国庫に収蔵された公文書記録」を、正確に後世に伝える使命を持って、身命を賭して書き遺したものであり、「正史」の子引き、孫引きの(いい加減な)資料とは、比較できないのである。

*告発不成立
 「倭人伝」の誤謬を告発する証左となるはずの証人/資料は、全員不適格で排除され、審理は不成立である。これは、本件に関する最終的裁断であり、此の際「無罪」と判定された以上、二度と告発されることはないのが鉄則である。

*史学の常道を怠る「通説」の決め込み~余談
 通説は、基本である史料考証を怠り、憶測によって「倭人伝」を非としたようだが、笛木氏であれば、本稿で論理的裁断を示していただけるものと期待したのであるが、実らなかったようである。
 常識として、正史「三国志」に異を唱えるには、匹敵する有力史料が不可欠である。司法手続きで言うと、審理の基本は、「推定無罪」であり、この原則を覆すに足ると証される客観的な証拠を示さないと、審理は棄却されるのである。

*「減縮」~取り敢えずの提言~余談
 不確かな「ジャンク」史料は、論義から排除、減縮すべきである。「ジャンク」は、何件積み上げようと「ジャンク」であり、数は力とばかり、素人並の料簡違いで「ジャンク」をずらずらと提示するのは、却って論者の不見識が露呈している。

 以下、「誤記はいつ生じたか」新たな「ジャンク」を唱え、引き続き、延々と、「ジャンク」に基づく憶測が延々と述べられるが、非科学的な推移である。出発点の選定に謬りがあり、初期進路選択に誤りがあれば、いかに、適確な考証を進めても、進路の成否を問えるものではない。
 ぜひ、原史料に立ち戻って、丁寧に審議して頂きたいものである。

 端的に言って、記事の「二」が「三」の謬り(ではないか)との「ジャンク」論に、研究者諸兄姉の多大な労力が浪費されたと見えるのは、勿体ないのである。

*大脱線~余談の余談
 今回のように、「研究史」として抜粋列記されると、強弁するために強調を重ねたこじつけと誤解が表面化するのである。それぞれ、生煮えの一説を、闇鍋に付け足したのに過ぎないのに、決定的、排他的な断言となっているのが、後世から見ると、むしろ、子供染みて見えるのである。いや、素人の「野次馬」発言をお詫びするが、この混沌は、古人の言う「烏鷺の争い」と見え、誰が、「漁父の利」を得ているのか、思い巡らすのである。
 各公的機関の研究者」が、公務の一貫として、そのような「攪乱工作」、「焦土作戦」、「清野の上策」に取り組んでいるとしたら、それは、大変困ったことである。
 いや、またまた脱線して、笛木氏に関係ない方向に踏み込んでしまった。陳謝陳謝。

                               未完

新・私の本棚 笛木 亮三 季刊 邪馬台国142号「卑弥呼の遣使は景初二年か三年か」(2) 結論批判 再掲

 「その研究史と考察」 投稿原稿 令和四年八月一日
 私の見立て ★★★★☆ 丁寧な労作の失墜  2022/09/06 2024/04/14

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。
 
〇竜頭蛇尾
 序章紹介に続いて、本稿は、結尾部分に移動する。
 氏は、延々と続く、迷い箸にも似た「煩悶」、つまり「研究史」考察の果てに、末尾で忽然と東夷伝序文に着目し、既に陳腐化、風化した解釈により「帯方郡収容」は公孫氏滅亡後と断定しているように見える。

 本稿読者には、頭から氷水を浴びる「サプライズ」、すなわち不愉快極まりない「ドッキリ」である。

*サイト記事の史料批判は、筆者批判
 氏の結尾は、某サイト主の一文に依拠しているが、同主は中国文を読解できないと自認し、翻訳文を根拠としているのだが、その過程で、原文の「又」を、『自己流の「さらに」と決め込んでいる』ので批判するのに困る。
 後述するように、漢文の「又」は、漢文において、さまざまなな意味を持っていて、どの意味を採用するか、苦心するのだが、同主は、そのような苦心に無頓着で、翻訳文に採用された日本語の「さらに」を、自身の解釈に採用するのだが、後述するように、陳寿「三国志」魏志の翻訳文で「さらに」と言うのは、日常語、現代語の「さらに」ではない。漢文の「又」を精密に投影しようとしているのであるから、安易な断定は、禁物なのである。
 このあたりの機微は、中國古典資料の飜訳に於いて、もっとも高度な配慮が必要なものである。つまり、日本語の用語は、時代によって、意味が変動しているのは当然であるが、さらに、使用されている文脈によって異同があるため、不連続な「意訳」を行うと、滑らかな訳文のように見えて、原文との連係が喪われるのである。
 「又」を「さらに」と置き換えたのは、その際に「又」の複数の意義が喪われないことから、誤解を誘う「意訳」に陥らないものとしたように見える。ただし、読者に、そのような慎重な解釋の素養がなければ、そのような配慮は水泡に帰して、単なる「意訳」に堕したと見られてしまうのである。

*至高の飜訳
 筑摩書房刊 正史「三国志」第一巻 魏書訳文は、端倪すべからざる翻訳者の畢生の偉業であり、中国古典書の飜訳であるから、現代人がすらすら読めるものでなく、適確な読解には、相当の「勉強」を求められる。同主は無頓着だが、引用された資料展開は、翻訳者に「誤解」の責めを負わせようとしているのであり、随分、論者として無責任であり、翻訳者に失礼と思われる。
 素人でも、史料解釈には、丁寧な解釈に最善を尽くすものではないかと、愚考する次第である。それは。飜訳の解釈の錯誤/誤解に及ぶのである。「勉強」は、夜更かしを強制しているのではない。二重、三重に模索して欲しいと言っているだけである。

*辞書確認
 権威のある国語辞典「辞海」を参照すると、「さらに」、「又」の項には、これらの言葉が、『それまでの事項(甲)を受け、「それとはべつに」と新たな事項(乙)に繋ぎ、「甲乙並記」と解釈する』ことが「できる」(排除されてはいない)と明確に示唆されていて、漢文の「又」の多様な語義を忠実に引き継いでいるとわかる筈である。

 同主は、日本語解釈が世人なみに不確実で思い込みが強い筈であるから、その「個性的な」見解が適正であるかどうか、論拠として採るかどうか、氏としては、慎重に「裏」を取る必要を示している。
 本件のように、両様の解釈が成り立ちうると判断される場合、一刀両断で断定せずに、両論を考慮するのが常識と見えるのである。いや、論者が誰であれ、論拠として依存すると決める前には、慎重な検証が必要なのである。

 笛木氏が、「引用された個性的な固執解釈を深く審議することなく、つまり、「辞海」などの国語辞書で追試することなく、断定的判断に追従した」のは、氏としては軽率である。
 少なくとも、本稿に於いて、「ここに到るまでに慎重に多数の諸兄姉の意見を審議した」のであるから、それらの思索を読者に辿らせておいて、ここに来てコロリと「どんでん返し」しては、貴稿の筋が通らないのではないかと危惧される。

 同書翻訳者は、「魏志」東夷伝が三世紀の中国人のために書かれたことに深く留意し、飜訳によって原文解釈が曲がらないように、心をこめて飜訳したのであるから、自身の限られた語感でなく、適切な辞書に従って解釈すべきである。

*後世史料観~余談
 また、別の要素として、「太平御覧」、「梁書」などの「後世資料」の「又」は、魏書の「又」と同義と断定的に解釈できないと見られるのである。要するに、資料の文脈を掘り下げて、その時代背景を考慮して、その真意を察するしか無いのである。陳寿「三国志」の編纂が、同時代でないにしろ、編纂時と時代的に接近し文化背景が維持されていたのと異なり、中原文化が破壊され南方に逃避した残党が、遂に北方の異民族の手で無理矢理復元された時代であるから、「後世資料」の「又」の用法が、陳寿「三国志」魏志の「又」の用法と、安易に同一視できないのは、むしろ当然と思われる。いや、場違いな感慨で失礼する。

*結論の試み
 以上で、魏志東夷伝記事の「又」の翻訳文の独自解釈に依拠して、「景初二年」解釈を決定的に排除することはできないことが理解できる筈である。世の中は、そんなに甘くないのである。

◯まとめ
 笛木氏には、是非とも、本稿の結尾を、御再考いただきたいのである。氏が、膨大な資料の慎重な審議を重ねて、この解釈に到着したのであれば、このような「どんでん返し」形式を避けて頂き、読者が安心して追従できる、着実な著作として頂きたいものである。

 因みに、「御再考頂きたい」とは、「御意見を変えて頂きたい」の趣旨であり、英語の"I would appreciate if you would kindly reconsider, Your Honor." とほぼ同義(敬語表現)である。事実上、「教育的指導」だが、深意を露骨に示さないのが礼儀というものと思うが、ここは、不躾にも「率直」に書いている。

 某サイト主は、とにかく頑冥で、思い込みに一途に固執し、他人の意見にとんと耳を貸さないので、笛木氏のご理解を願うしかないのである。

◯苦言
 氏が、十分な確認無しに、一サイト主の意見に飛びついたのは、各史料との苦闘に「鞠躬尽瘁」されたためと思える。
 不浄の可能性がある「ジャンク」史料を紹介しても、決して俎上に載せず、「清浄かつ精選」史料の核心の考察に集中されることをお勧めする。そうしていただければ、善良な読者は、荒海に灯台の明かりを見出す思いで、漸(ようや)く安堵できるのである。

                              以上

2024年4月 9日 (火)

新・私の本棚 藤田 三郎 季刊「邪馬台国」第138号 唐古・鍵遺跡から見た邪馬台国 1/3 再掲

 吉野ヶ里遺跡指定30周年記念シンポジウム 梓書院 2020年7月刊
 私の見立て ★★★★☆ 良心的で開明的 考古学の王道を示すもの  2020/11/07記 2024/04/09

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

◯はじめに~唐古・鍵遺跡概要紹介
 藤田 三郎氏は、奈良県磯城郡田原本町の田原本町教育委員会埋蔵文化センターセンター長であり、以下、氏による同遺跡の紹介を引用します。

 同遺跡は、史跡指定以来二十年を経過し、史跡公園とミュージアムを備えていて、近畿地方を代表する史跡であり、弥生時代前、中、後期を経て古墳時代前期まで続いた大集落という事です。

 奈良盆地は、南北三十㌔㍍東西十五㌔㍍であり、同遺跡は、中央部に位置しています。盆地の遺跡地域は、北の「北和」、その南の「南和」、最南部の「葛城」の三地区が示されています。同遺跡は、南和のやや北寄りで、纏向は、同遺跡南方であり、大和川支流を同遺跡を去ること四㌔㍍遡った位置です。

◯明晰な解説
 肝心なのは、この講義で、奈良盆地内の古代状勢について、時間的にも、地理的にも、十分な考察が払われていることです。

 本誌読者各位も、初耳と思いますが、本講義の視点で語られた「畿内説」は、初物です。本講義冒頭の述解で、氏は、同地域遺跡の考古学考察に専念/注力し、「邪馬台国」纏向説の考察に余り関わっていなかったとのことです。

 ただし、ここで説かれるのは、同遺跡と纏向遺跡が「南和」の近傍/隣同士でありながら、互いに服属とも闘争とも見えない状態で、両者併存/共立の意見です。一世紀以来三世紀程度の間、互いに干渉し合わなかったとの意見です。

◯大和川水運考
 ここで異論を挟むのは、唐子から大和川を経て上下往来する船舶とか集落環濠を運河としたとか、学界通念かも知れない後世概念への大疑問です。
 氏は同意されないかも知れませんが、当時残存の湖沼をもってしても、大和川本流、特に河内側は、抑制の効かない暴れ川と見ます。
 また、大和川が河内方面に出る渓谷に沢道は無く、峠越えの山道は、人力の担い仕事と見えます。ただし、細やかな物流なので間に合っていたのです。
 この点、纏向に九州を統轄する古代国家を見る諸兄に異議はあるでしょうが、二~三世紀の壮大な水運は夢想に見えます。

 いや、鉄製農工具、製材具がない時代、山道整備も、丸太舟造船も、不自由だったはずであり、水運や山越え輸送は、困難と見るのです。

 私見を挟むなら、氏の触れていない淀川水系から木津川に移行し、木津の川港を経た「なら山」越えで奈良盆地に入り「北和」に至る経路が、時代相応の主力輸送経路と推定しているので、ご評価いただきたいものです。

◯「環濠の使命」考~思考実験
 同様に、当ブログ筆者は、ここで足を止め、素人考えの思考実験を展開しました。当然、氏の論考で説明されていますが、ご参考まで書き連ねます。
 集落を囲む環濠は、集落への野獣侵入を防ぐ実用性があり、さらに、決して多雨地帯でない同地域の水田稲作を支える「ため池」と思います。
 言うまでもありませんが、運河が施工/運用されていたと仮定すると、時代を越えた土木技術集団が、想定されますが、それにしても、運河全長に亘り、高精度の設計/施工が必須であり、運河全長に亘り水平を保つように等高線沿いに水路掘削する必要がありますが、それほどの土木技術はあったのでしょうか。尚且つ、傾斜水路の水位保持は、とてつもなく大変だったと思うのです。

 恐らく、運河の基本機能、構造をご存じない方の戯れと思います。

                               未完

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