季刊 邪馬台国

四十周年を迎え、着実に刊行を続けている「日本列島」古代史専門の史学誌です。

2023年1月27日 (金)

新・私の本棚 笛木 亮三 「卑弥呼の遣使は景初二年か三年か」新版 1/3

 「その研究史と考察」 季刊 邪馬台国142号 投稿原稿 令和四年八月一日
 私の見立て ★★★★☆ 丁寧な労作 ★☆☆☆☆ ただしゴミ資料追従の失策 2023/01/26

*⑴「魏志倭人伝」の記述
 当記事に対する批判は、大小取り混ぜ、多数の指摘が絞り込めなかった。
 再挑戦である。何より、これまで、誰も、笛木氏にダメ出ししていないと見えるので、此の際、嫌われ役を買って出たのである。氏には、当然諸兄姉に義理もあってこう書いたと見え、半ば諦めつつ「教育的指導」に時間と労力を費やした。

*⑶ 景初三年説の「定説」化
 率直なところ、この項は、既に俗耳を染めているものであり、氏が、ただただ再録するのは、字数の無駄である。「定説」の公示場所の参照で十分である。小林秀雄氏著作の引用も、むしろ、先哲の限界/誤謬を公示していて、早い話が、本筋の議論に関係なくて無意味である。

*⑷「定説」への異議
 要は、「定説」は史実誤認の産物である。
 国内史学では、半島の北の遼東郡と半島中部の帯方郡の地理が理解できていない上に、帯方郡から洛陽に至る経路が渡船で山東半島に渡って、以下、街道を行く点が全く念頭に無い。景初中に、魏皇帝特命部隊が、帯方郡を洛陽直轄にしてからは、遼東郡は移動経路に関係無くなっていたのである。戦闘は地平の彼方である。
 と言うことで、「定説」の根拠は、とうに消滅していたのである。

 この点は、随分以前から、例えば、岡田英弘氏の指摘にあるが、「定説」信奉者の耳には、何か詰まっているようである。
 正史史料は景初二年であるから、これを誤謬と否定するには、正史に匹敵する確たる資料が必要である。遙か後世の無教養の東夷が、遼東形勢を何一つ知らないままにくだくだ評して、誤謬と言うのは、無謀、無法である。

*⑸ 二年説への反論
 大庭、白崎両氏の異論を引用するが、素人目には、筋の通らない/論理の見えない難癖と見える。

*⑹ 先行史書について
 氏は、「先行史書」と誤解必至の呼び方であるが、要は「後代史書」であり、正史と同等の信を置くことができない。つまり無効な意見なのである。ここで難があるのは、氏の素人臭い写本観である。何しろ、天下の「正史」陳寿「三国志」を、「原本は、存在しない」とか「誰も原本を見たことがない」とか、粗暴で稚拙な断定で誹謗する人たちの口ぶりと似ているように見えるのである。暴言は、世間の信用を無くすだけである。
 氏は、国内史書の写本を、専ら、寺社の関係者の孤高の努力による継承と見て、現存写本間の異同が目に付いているのだが、先進地である中国では、そのような不定形の写本継承はあり得ない。勝手な改訂、改変も無いし、小賢しい改善も、粗忽の取りこぼしも(滅多に)ない。
 正史写本は、各時代の国宝継承の「時代原本」から一流学者が文書校訂を行った写本原本から一流写本工が、新たな「善本」(レプリカ)を起こし、前後、一流編集者が責任校正を行うから、誤写の可能性は、絶無に近い。こと、魏志について限定すれば、明快であり、北宋代、木版印刷の際には、高度なテキストが維持されていたと見える。後世東夷の蛮夷には、想像も付かないらしく、とんでもない風評が飛び交うのである。よい子は、与太話を、やみくもに信じてはいけない。

*辺境「野良」写本考
 辺境写本の誤字指摘だが、洛陽原本からどんな写本を経たか不明である。書庫を出た瞬間から写本は低俗化し持参版の正確さは期されていない、無校正写本なので誤字が雪だるまになる。その写本の最下流で、誤字の多い「野良」写本が出回っても、遡って「帝室善本に影響を及ぼすことはない」。

 また、宋代木版印刷といっても、南宋刊本でも百部程度で僅少であり、各地有力者は手の届く刊本から高精度の写本を誇示したのであり、刊本が蔵書家に流通するのは、後年、例えば、明代以降である。

 氏が以上の説明を理解できないようなら、尾崎康氏に確認したら良いだろう。聞く相手を間違えると、誤読のDNAを注入されてしまう。「三国志」は、歴代正史の中で、格段に、異様なほどに史料の異同が少ないのである。

                               未完

新・私の本棚 笛木 亮三 「卑弥呼の遣使は景初二年か三年か」新版 2/3

 「その研究史と考察」 季刊 邪馬台国142号 投稿原稿 令和四年八月一日
私の見立て ★★★★☆ 丁寧な労作 ★☆☆☆☆ ただしゴミ資料追従の失策 2023/01/26

*⑺ 二郡平定について
 ここで、氏は、各論者の情勢批評を長長と連ねた後、突如として、筑摩本の東夷伝翻訳文に帰り、『公孫氏を誅殺すると「さらに」ひそかに兵を船で運んで』の「さらに」を「そのあとに」と決め込むが、翻訳文「曲解」である
 権威のある日本語辞書を参照して頂ければ、「さらに」には、「そのあとに」の意味と「それと別に」の二つの意味があると書かれているはずである。原文の「又」が、両様の意味を持っているから、翻訳文は、両様に解することができるように、大いに努力したと見えるが、いかんせん、無学、無教養の読者が、辞書を引かずに、先入観の思い込みで、小賢しく解釈を限定するとは見なかったようで、勿体ないことである。

*⑻ 景初中は何年
 率直なところ、氏は、本筋に関係ないところで時間を費やしているが、それを善良な読者に押しつけないで欲しいのである。魏明帝景初は二年年末で終わり、景初三年は皇帝の冠のない一年であるから、深入りしてもしょうがないのである。陳寿が景初中で済ましているのは、それで十分だからである。
 魏志は、本職の史官である、陳寿が責任を持って、全力を投じて編纂したから、つまらないヤジを入れないことである。

*⑼ 遼東征伐(年表)
 正直言って、このように空白の多い年表は、読む気になれない。

*⑽ 遼東征伐の陽動作戦と隠密作戦
 随分長々しいが、意義がよくわからない。言うべきことは、既に述べた。

*⑾ 公孫氏の死は何月か
 正直、これだけ分量を費やす意義が理解できないから、口を挟まない。

*⑿ 景初三年?の呉による遼東進出
 本項では、無理な議論が続いている。呉は、魏の暦を参考にしたのだが、明帝没後の変則運用をどこまで、理解して追従したか不明である。そもそも、東呉が、どこまで、魏明帝の景初暦の追従についても、疑問を禁じ得ない。氏は、若干混乱しているようだが、無理のないところである。他の論者も、解釈が泳いでいて、泳いだ解釋を振り回すから、困ったものなのである。
 私見では、景初三年、公孫氏の滅亡後、呉船が到来して、漁村の男女を拐帯したと見える。それとも、魏は、女性を兵としていたのだろうか。
 
*⒀ 帯方太守の更迭
 本項も、本稿における意義がよくわからないから、口を挟まない。
 末尾で、「過分な待遇」と勝手に評しているが、未曽有の大帝たらんとした明帝が、蛮族の跳梁で逼塞した西域でなく、新境地、遠隔萬里の東夷「倭人」の到来を破格に盛大に祝ったとしても何も不思議はない。

*「過分」の迷妄
 「過分」と書くのは、評者の品性が皇帝に比べて卑しいからである。(天子に比べて、品性がどうこう言うのは、絶賛なのである)
 氏は、三世紀当時の魏朝皇帝の価値観を、軽蔑しているようだが、それは、公孫氏の遼東郡に於ける東夷管理体制をぶっ潰した「司馬懿の感性」に通じる/同様に「粗野な」ものであり、明帝没後、少帝曹芳が、同様な野心を持っていたとは、到底思えないのである。(司馬懿に比べて、粗野というのも、絶賛である)
 氏の論理は、筋が通っても、明帝没後参上では平仄が合わないのである

                                未完

新・私の本棚 笛木 亮三 「卑弥呼の遣使は景初二年か三年か」新版 3/3

 「その研究史と考察」 季刊 邪馬台国142号 投稿原稿 令和四年八月一日
私の見立て ★★★★☆ 丁寧な労作 ★☆☆☆☆ ただしゴミ資料追従の失策 2023/01/26

*⒁ 遼東征伐(年表)
 ご苦労さまですが、年表記事羅列に格別の新事実は見えないようである。

*⒂ 景初二年か、三年か 結論
 氏は、盛大に「迷い箸」して、読者を引きずり回した挙げ句、後世史書を採り入れる問題事項にのめり込んでいる。
 所詮、魏志が言う「又」、日本語で言う「さらに」の解釈が、後世になって、一方に偏ったものであり、当世の軽薄な論者が悪乗りしていても、やはり、本件は、正史「魏志」に戻って、丁寧に解釈すべきと提言するものである。
 何しろ、氏が頼りにした論者は、漢文が読めず、漢字辞書を引けず、だけでなく、日本語辞典も引けない、日本語が理解できないのだから、頼りにするのが間違いなのである。
 「倭人伝」解釈で、後世史料は、評価するだけ時間の無駄だから、すかさず却下すべきである。

*送達日程の確認
 正始魏使のお土産発送が遅くなったことを手がかりにしているようだが、これほど、異例に盛大な品物が、女王の手元まで問題なく届くということは、なぜ確認できたと思うのだろうか、不思議である。送付行程に沿って、大勢の人員と大量の荷物の送達を予告して、それぞれの現地から、対応可能との保証を得てから発送したはずであり、そのような確認を得るまでに一年かかっても不思議はないのである。

 いや、いくら品物が倉庫に揃っていても、持ち運びできるように、全数の荷造りが必要である。荷造りして初めて、どれだけの荷物かわかり、何人で運ぶかわかるのである。お茶のペットボトルでも、段ボール箱に整然と入っているから、トラックの荷台に積み上げて運べるのである。今回は、途中潮風の吹く渡し舟に乗るから、貴重な宝物に飛沫もかかるだろうし、急な坂道でも、手分けして運べる工夫をしたはずである。陸上輸送なら、人海戦術が有効であるから、心配は少ないはずである。

 渡船は、便数/艘数が多いし、短い区間を担当する漕ぎ手は、日々交代すれば、大して無理にならないから、添え、心配は要らなかったのかも知れないが、そんなことは、洛陽のお役人には、分かるはずが無いのである。

*⒃ 参考文献一覧
 率直な意見は、既に述べた。本件に関して決定的な議論に絞るべきであり、これら文献を全部読まないと意見が出せないというのは、困ったものである。古来、参考文献一覧は、論者の責任逃れになっているのである。

*史官の使命
 言い漏らしたかも知れないが、念押しすると、本職の史官が正史を編纂するということは、公文書に書かれた「史実」を正確に、つまり、忠実に語り継ぐのであり、それは、後世の正史編纂、類書編纂とは、本質的に異なるのである。氏は、史料を丸写しすることを卑しんでいるようであるが、とんだ、東夷の勘違いである。

                                以上

2023年1月23日 (月)

新・私の本棚 西村 敏昭 季刊「邪馬台国」第141号「私の邪馬台国論」再掲2

 梓書院 2021年12月刊       2022/01/04 追記 2022/11/20 2023/01/23
 私の見立て ★★☆☆☆ 不用意な先行論依存、不確かな算術

〇はじめに
 当「随想」コーナーは、広く読者の意見発表の場と想定されていると思うので、多少とも丁寧に批判させていただくことにしました。
 つまり、「随想」としての展開が論理的でないとか、引用している意見の出典が書かれていないとか、言わないわけには行かないので、書き連ねましたが、本来、論文審査は、編集部の職責/重責と思います。安本美典氏は、季刊「邪馬台国」誌の編集長に就任された際は、論文査読するとの趣旨を述べられていて、時に「コメント」として、講評されていたのですが、何せ四十年以上の大昔ですから、目下は、無審査なのでしょうか。

▢「邪馬壹国」のこと
 季刊「邪馬台国」誌では、当然「邪馬壹国」は誤字であることに触れるべきでしょう。無視するのは無礼です。 
 大きな難点は、「邪馬タイ国」と発音するという合理的な根拠の無い「思い込み」であり、この場では、思い込み」でなく「堅固な証拠」が必要です。半世紀に亘る論争に、今さら一石を投じるのは、投げやりにはできないのです。パクリと言わないにしても、安易な便乗は、つつしけものではないでしょうか。
 そうで無ければ、世にはびこる「つけるクスリのない病(やまい)」と混同されて、気の毒です。

 因みに、氏は、説明の言葉に窮して「今日のEU」を引き合いにしていますが、氏の卓見に、読者の大勢はついていけないものと愚考します。(別に、読者総選挙して確認頂かなくても結構です)
 素人目にも、2023年2月1日現在、イングランド中心の「BRITAIN」離脱(Brexit)は実行済みとは言え、実務対応は懸案山積であり、連合王国(United Kingdom)としては、北アイルランドの取り扱いが不明とか、EU諸国としても、移民受入の各国負担など、重大懸案山積ですから、とても、「今日のEU」などと平然と一口で語れるものではなく、氏が、どのような情報をもとにどのような思索を巡らしたか、読者が察することは、到底不可能ですから、三世紀の古代事情の連想先としては、まことに不似合いでしょう。
 「よくわからないもの」を、別の「よくわからないもの」に例えても、何も見えてきません。もっと、「レジェンド」化して、とうに博物館入りした相手を連想させてほしいものです。

*飛ばし読みする段落
 以下、「邪馬壹国」の「国の形」について臆測、推定し、議論していますが、倭人伝」に書かれた邪馬壹国の時代考証は、まずは「倭人伝」(だけ)によって行うべきです。史料批判が不完全と見える雑史料を、出典と過去の議論を明記しないで取り込んでは、泥沼のごった煮全てが氏の意見と見なされます。「盗作疑惑」です。

▢里程論~「水行」疑惑
 いよいよ、当ブログの守備範囲の議論ですが、氏の解釈には、同意しがたい難点があって、批判に耐えないものになっています。

*前提確認の追記 2023/01/23
 ここで、追記するのですが、そもそも、氏の提言の前提には、当ブログが力説している『「倭人伝」の道里行程記事は、帯方郡から倭への文書通信の行程道里/日数を規定するもの』という丁寧な視点の評価がないように見えるのです。つまり、「必達日程」と言われても、何のことやらという心境と思います。説明不足をお詫びします。
 手短に言うと、正史読解の初級/初心事項として、『蛮夷伝の初回記事では、冒頭で、当該蛮夷への公式行程/道里を規定するのが、必須、「イロハのイ」』という鉄則です。

*前稿再録
 氏の解釈では、帯方郡を出てから末羅国まで、一貫して「水行」ですが、里程の最後で全区間を総括した「都(すべて)水行十日、陸行三十日(一月)」から、この「水行」区間を十日行程と見るのは、「無残な勘違い」です。
 氏の想定する当時の交通手段で「水行」区間を十日で移動するのは、(絶対)不可能の極みです。今日なら、半島縦断高速道路、ないしは、鉄道中央線と韓日/日韓フェリーで届くかも知れませんが、あったかどうかすら不明の「水行」を未曾有の帝国制度として規定するのは無謀です。
 何しろ、必達日程に延着すれば、関係者の首があぶないので、余裕を見なければならないのですから、各地に海の「駅」を設けて官人を常駐させるとともに、並行して陸上に交通路を確保しなければなりません。いや、海岸沿い陸路があれば、まず間違いなく、帯方郡の文書使は、騎馬で、安全、安心で、迅速、確実な「官道」を走るでしょう。
 先賢諸兄姉の論義で、海岸沿い陸路を想定した例は見かけませんが、好んで、選択肢を刈り込んだ強引な立論を慣わしとしているのです。

 前例のない「水行」を制定/運用するに、壮大な制度設計が必要ですが、氏は、文献証拠なり、遺跡考証なり、学問的な裏付けを得ているのでしょうか。裏付けのない「随想」は、単なる夢想に過ぎません。場違いでしょう。

▢合わない計算
 狗邪韓国から末羅国まで、三度の渡海は、それぞれ一日がかりなのは明らかなので、休養日無しで三日、連日連漕しないとすれば、多分六日、ないしは、十日を想定するはずです。
 これで、日数はほとんど残っていませんが、そもそも、600㌔㍍から800㌔㍍と思われる『氏が想定している遠大極まる「水行」』行程は、七日どころか、二十日かかっても不思議はない超絶難業です。潮待ち、風待ち、漕ぎ手交代待ちで、乗り心地どころか、船酔いで死にそう、いや、難破すれば確実にお陀仏、不安/不安定な船便で長途運ぶと、所要日数も危険も青天井です。諸兄姉は、そう思わないのでしょうか。

 隣近所まで、ほんの小船で往来することは、大抵の場合、無事で生還できたとしても、一貫して官道として運用するのはあり得ないのです。
 一方、「幻の海岸沿い陸路」ならぬ半島中央の縦貫官道を採用して、ほぼ確実な日程に沿って移動し、最後に、ほんの向こう岸まで三度渡海するのであれば、全体としてほぼ確実な日程が想定できるのです。えらい大違いです。
 この程度の理屈は、小学生でも納得して、暗算で確認できるので、なぜ、ここに、無謀な臆測が載っているのか不審です。

▢古田流数合わせの盗用
 氏は、万二千里という全行程を、『三世紀当時存在しなかった多桁算用数字」で12,000里と五桁里数に勝手に読み替えて、全桁「数合わせ」しますが、そのために、対海国、一大国を正方形と見立てて半周航行する古田説(の誤謬)を、丸ごと(自身の新発想として)剽窃しています。
 安本美典氏の牙城として、絶大な権威ある「邪馬台国」誌が、このような論文偽装を支持するのは、杜撰な論文審査だと歎くものです。

〇まとめ
 後出しの「必達日程』論は言わなくても、凡そ、『帯方郡が、貴重な荷物と人員の長行程移送に、不確実で危険な移動方法を採用することは、あり得ない』という議論は、通用するものと思います。
 まして、正始の魏使下向の場合、結構大量の荷物と大勢の人員を運ぶので、辺境で出来合の小船の船旅とは行かないのです。とにかく、いかに鄙にしては繁盛していても、隣村へ野菜や魚貝類を売りに行くのと、同じには行かないのです。人手も船も、全く、全く足りないので、現代世界観の塗りつけは、論外です。
 狗邪韓国近辺の鉄山で産出した「鉄」は、陸上街道で帯方郡まで直送されていたのですから、そのように、郡の基幹事業として常用している運送手段を利用しないのは、考えられないのです。と言うことで、本稿の結論は、維持されます。
 氏が、自力で推敲する力が無いなら、誰か物知りに読んで貰うべきです。 「訊くは一時の恥……」です。
 
 それにしても、高名であろうとなかろうと、誰かの意見を無批判で呑み込むのは危険そのものです。聞きかじりの毒饅頭を頬張らず、ちゃんと、毒味/味見してから食いつくべきです。
 以上、氏の意図は、丁寧かつ率直な批判を受けることだと思うので、このような記事になりました。頓首

                                以上

2023年1月15日 (日)

新・私の本棚 張 明澄 季刊「邪馬台国」第12号 道里行程論 改 1/2

「一中国人の見た邪馬台国論争」 好評連載第二回 梓書院 1982年5月刊
 私の見立て ★★★★☆ 汚泥中の真珠再発見  2022/12/01 部分改訂 2023/01/15

◯始めに~珠玉の論義
 随分遅ればせの書評であるが、当分野では、かくも珠玉の論義が、泥沼に深く埋もれているので、ここに顕彰する。もっとも、連載されていた札付き記事に埋もれていては、端からそっぽを家枯れても、無理もないが。

 張明澄氏は、日本の漢字字典、辞典を読まないが、ここでは、漢字圏を通じ漢字学の最高権威とされている白川勝師の辞書「字統」により謹んで補足させていただく。
「至」の原義は、弓で矢を射て届いたところを言う。つまり、「至」は矢が飛んで行った先であり、そこに行ったわけではない。
「到」の原義は、「至」「刂」であり、「至」で得られた行き先に実際に至ることを言う。

*混乱した解説
 張氏は、カタカナで「到」は、「リーチ」reach、あるいは「アライブ」arriveという。ただし、英単語は、この場で補足したのであり、原記事は、カタカナ語だけであるから、読者が理解できるとは思えない。
 前者は、「どこかに行き着ける」という意味だが、後者は、「アライブ」というだけでは、「到着」、つまり、「どこかからやってくる」という意味になり、「どこかに行く」と言うには、肝心の言葉が足りないので、前置詞を補って覚えるのが英語学習の常識である。
 つまり、「アライブ アット」arrive atで、「どこかに着く」という意味になる。それにしても、氏の思っているように、「リーチ」、「アライブ」は、全く同じ意味ではない。ここでは、「到」には、後者が適しているように見える。
 「至」は、「テイル」ないしは「アンテイル」というが、Tail、Untailと解しても、何を言おうとしているのか、理解できない。
 むしろ、「リーチ」reachに適しているように見える。

 このように、日本語に通暁した中国人である張明澄氏であるが、カタカナ語に無頓着な氏の理解は、当てにならない。これでは、読者の混乱を深めるだけで、言わずもがなである。古田武彦氏の(失敗例の)模倣であろうか。いや、うろ覚えのカタカナ語で、ご当人は明快にしたつもりで、一向に明快にならない点では、似たもの同士である。

*誤解の起源
 張氏は、戦前、戦中の日本時代の台北で「皇民教育」を受けたはずであり、つまり、英語は敵性、使用禁止とした「日本語教育」で育ったのであるから、カタカナ語は倣ったものではなく、恐らく、成人となった後の付け焼き刃であろう。もちろん、伝統的な旧字、旧仮名遣いで育ったのであり、引き合いに出したカタカナ語を日本語として正確に理解し、表現できているとは思えない。

 と言うものの、現代日本人も、中高生時代に、英語を基礎から習ったものの、正確に履修した保証はなく、カタカナ語を見て、原点の英語を想定して理解できるとも思えない。何しろ、就職したときに実生活で必要としない「英語」は、試験に落ちない程度に流すだけだという手合いが、結構多いのであるから、そのようにして世に出ている書き手と読み手が、ともにいい加減な理解しかしていない言葉を論理の中核に据えたのでは、何がどう伝わるのか到底確信できないと見るのである。
 張氏は、当記事を思いつきの随想として書いたわけではなく、編集部も、そのような冗句と解していないはずだから、この下りは、何とも理解に困るのである。

 本論の課題は、古代中国語文の解釈であり、そこに、うろ覚えのカタカナ語を持ち込むのは、根本的に筋が悪いのである。

◯倭人伝分析:各国「条」論義 基本的に「紹熙本」に準拠。句読随時。
 と言うことで、以下、原文に即した地道な解釈に努めるものである。
*緒条
 從郡至倭、…其北岸狗邪韓國、七千餘里。

*對海条

 度一海、 千餘里對海國。
  其大官曰卑狗、副曰卑奴母離。
  所居絕㠀、方可四百餘里、…有千餘戶、…乖船南北巿糴。
*一大条
 南渡一海、 千餘里、名曰瀚海、一大國。
  官亦曰卑狗、副曰卑奴母離。方可三百里。
 多竹木叢林。 有三千許家。差有田地、耕田猶不足食、亦南北巿糴。
*末羅条
 渡一海、 千餘里末盧國。
  有四千餘戶。濱山海居、…好捕魚鰒、水無深淺、皆沈沒取之。

*伊都条

 東南陸行五百里、伊都國。 官曰爾支、 副曰泄謨觚、柄渠觚。有千餘戶。
  丗有王、皆統、屬女王國、郡使往來常所駐。
*奴条
 東南奴國   百里。   官曰兕馬觚、副曰卑奴母離。   有二萬餘戶。
*不彌条
 東行不彌國  百里。   官曰多模、 副曰卑奴母離。   有千餘家。
*投馬条
 南投馬國   水行二十日。官曰彌彌、 副曰彌彌那利。   可五萬餘戶。

*結条

 南至邪馬壹國女王之所
 都水行十日陸行一月
  官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳鞮
 可七萬餘戶

*お断り
 以上の区分、条題、句読、小見出しなどは、本論限りの便宜的体裁である。
 版本の選択は、本件論義に影響しない。

                                未完

新・私の本棚 張 明澄 季刊「邪馬台国」第12号 道里行程論 改 2/2

「一中国人の見た邪馬台国論争」 好評連載第二回 梓書院 1982年5月刊
 私の見立て ★★★★☆ 汚泥中の真珠再発見  2022/12/01 部分改訂 2023/01/15

*「張明澄」提言~末羅分岐説
 各条の書き出しで、「始めて」、「又」、「又」と三度の「渡海」とわかる。
 このように、「順次行程」は、次を「又」で書き始めるのである。
 一方、末羅から先の行程は、「又」が欠け、末羅での分岐行程と見る
 卓見であるが、氏の「解法」は、中途半端、不徹底と見える。
 張氏は、「到」、「至」蘊蓄を傾けて個々の意義を説明したが、判じ物として不得要領であり、論ずべきは凡庸な学識の持ち主に通じる真意であり、「至」と「到」の使い分けは、想定読者にも通じる明快表現と見える。

*異論表明~伊都分岐説
 折角のご指導であるが、趣旨は、大いに援用するが、無批判に追従はできない。
 伊都以降の記事で、伊都条は「到」であるが、以下は「至」である。
 「到」する伊都は、「丗有王、皆統、屬女王國、郡使往來常所駐」と「列国」として重んじられていて終着地と明記されたと見える。張氏も、「駐」は、偶々通りがかりに足を止めたとの意味ではないと明快である。

*「余傍」に「至る」
 それに対して、以下「至」は、伊都起点の「余傍」である。そして、掉尾の邪馬壹は、伊都からの行程・道里に欠ける。
 「又」が存在しないので、相次いで、つまり、直線状に移動すると読むのは、「倭人伝」道里記事の記法に外れている。つまり、伊都国からの諸国への道里行程は、放射状に分岐していると、自動的に理解される。
 これが、中国語に極めて造詣の深い張明澄氏の提言の眞意であり、素人の東夷にしても、容易に納得できる明快な教えである。

*「至る」と「到る」
 漢字学の権威である白川静師の字書により、「至」は行程目的地であり、一方、「到」は行程到着地であって、爾後行程への出発点とされる。記事で、狗邪韓国と伊都国が「到」である。

*邪馬壹行程の意義 残された課題
 伊都国から南にあるとされている邪馬壹は「女王之所」であり、「結び目」を解きほぐすと、先行諸国と同列ではなく、道里行程記事結語と見える。(改行した方が良い)
 郡太守の文書は、伊都国で受領された時点で、倭王に届いたと見なされる。郡使往來常所駐 とは、郡の文書使は、伊都国に文書送達した後、回答待ちで宿所待機したと明記していると見える。正始魏使なる漢使は、女王に拝謁した「蓋然性」が高いが、邪馬壹に参詣したかどうかは、不明である。もっとも、古来、夷蕃の地で、漢使が、蕃王治で、蕃王と接見することは必須ではなかった。

 もちろん、諸兄姉の解釈は多様なので、当記事は、「一解」を強制するものではない。

◯「張明澄」提言の意義~泥の中の真珠
*里程記事新たな一解~エレガントな解釈
 以上、筋を通すと、道里行程記事は、最終的に「南至邪馬壹國女王之所」で完結し、全行程の集約として、
 [道里] 都[都合]水行十日、陸行一月
 [官名] 官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳鞮
 [戸数] 可七萬餘戶
 と要件項目が示され、簡明至極、首尾一貫すると見える。

*部分修正 2023/01/15
 当プログ著者は、郡を発した文書使の目的地は、倭人の代表者である伊都国であり、道里行程は、伊都国で完結するとみている。
 修正以前の解釈では、邪馬壹国が最終到達地と見ていたため、伊都国との間の道里・所要日数が欠落していると見えたが、修正後の解釈では、伊都国が最終目的地なので、省略してもよいと見えるのである。副次的な影響として、邪馬壹国 の所在は広範囲に置けるので、 比定地諸説に対する、排他的な判断は発生しないのである。
 要するに、修正された解釈では、郡から伊都まで一路南下・到達する行程が、極めて明快である。
 文献考証の見地から、「都水行十日、陸行一月」は、郡を発し伊都国に到る所要日数であるから、「都」の直前に改行を追加すべきである。

 今回、熟読すると、今回取り上げた張氏提言は、誠に明快、整然としていて、先行諸説の中で、榎氏の「放射行程」説と軌を一にしていて、私見ではあと一歩である。直線的な解釈にとどめが刺されているとみるが、これに賛同するかどうかは読者諸兄姉次第であり、本稿は論点提示に留める。

*隠れた本懐
 兎角、張氏提言をなべて非難したが、時に、氏の韜晦の陰に透徹した明解な解が披瀝される。支持者に忖度してか、当提言は、突如大きく撓むため、近来に至るも、遂に理解されていないと見えるので、謹んで素人が蒸し返す。

*余傍の深意
 本「張明澄」提言を意義あるものとみると、「畿内説」の成立の余地がなくなるので、当記事は、埋め戻し、黙殺の憂き目を見ていると懸念される。

                                以上

2022年12月25日 (日)

新・私の本棚 季刊「邪馬台国」第12号 「邪馬台国の里程」 白崎 昭一郎 再掲 1/5

 季刊「邪馬台国」第12号 梓書院 昭和五十七年五月刊(1982年)
私の見立て ★★★★☆ 理知的な解釈で、範とすべきもの 2018/09/18 追記2020/11/18 2022/01/27,11/06,12/25

*不出来な書き出し
 当記事は、本来、堅実な検証を重ねた論考ですが、冒頭の惹き句の部分で、大きく躓いて、まことにもったいないことです。

 『「魏志倭人伝」の里程記事と日程記事は、実距離に比して大きすぎる』という文は、論理的に混乱しています

 文の主語は「記事」ですから、書かれている「記事が大きい」では、ちゃんとした文になっていないのです。「実距離に比して」とおっしゃるのですが、当時、『「倭人伝」「道里行程記事」に書かれた区間道里を権限・技術のあるものが測量し公文書に記帳した』との根拠がなく、従って、「実距離」の根拠史料がないのです。
 西晋の史官陳寿は、個人的な臆測で「道里行程記事」、即ち白崎氏の主張する里程記事と日程記事 を書くことはないので、当時の公文書に書かれているままに「編纂した」のです。白崎氏は、このあたりの原理を見過ごしているように思われます。

 丁寧に言うと、陳寿が手にした公文書が、「実距離」、即ち、当時の測量手段で設定した「道里」でなく、何らかの「公式道里」で書かれたものであったことになります。氏の論理は、なにか錯誤しているようにみえます。まさか、陳寿が、現代見られる地形「地図」を持っていて、参照していたと言う事ではないでしょう。
 このように要約したのが白崎氏ご本人であれば、大いに信用を失墜しますが、続いて「該博な知識」と言うところから、まさかご自身の発言とも思えず、編集担当者の脱線と思えます。このあたり、編集部の職分を越えたと見える書き足しには、抵抗があります。
 いずれにしても、大歌手がいきなり音を外したような不吉な歌い出しです。もったいない話です。

*克服されていない画期的な著作
 それはさておき、同誌の当記事は理数系素養を備えた理知的な文献であり、今日の古代史界にあまり見かけないので四十年遡って論ずるのです。要するに、後進が、当論文を引用克服していないので、「レジェンド」として博物館に収まることができないのです。

*「長大」、「過大」の怪
 本文冒頭では、『実距離に比して長大な里数と過大な日数』と、表現が「是正」されていますが、倭人伝」で「長大」とは、物理的に長い、大きいとの(現代的な)意味でなく、女王の年齢の形容で使われているので、これは、学術的には「不注意」表現です。
 しかも、長大」の解釈は、「老齢」の意味と決め付ける不出来な「俗説」が支配的で、「成人する」という妥当な意味が損なわれていて、引き合いに出すのは、重ねて不用意、不適当です。
 周知の古田武彦氏の論説に加えて、安本美典氏が、「俗説」の是正を図っていますが、数の力で黙殺されているようです。どうも、「畿内」説と俗称されている論閥が、必死で揉み消していると見えます。

 また、勢い込んで「過大」な日数というものの、所要「日数」と「実距離」がどう対比されるのか、不明確で不用意です。先ほど論破したとおりです。

 かくのごとく、論考冒頭の不用意な書き出しは、読者を見くびったものと解されかねず、読者に不適切な先入観を与えかねないのです。くれぐれも、ご自愛頂きたいものです。

*本題 里数論三択
 さて、本論考は、倭人伝「里」は、一里九十㍍程度との認識に立ち、それは、
㈠魏朝当時の全国制度なのか、
㈡帯方郡管内の地方制度なのか、あるいは、
㈢倭人伝記事の里数が一律に定数倍されたのか、
 との三説を課題として、史書を元に論じているものです。
 この論議自体、今日に至るまで多くの論議と考察が重ねられているのは、衆知ですが、重複を避けて、ここでは取り上げず、里数を含む倭人伝の「概数」表記についての卓見を取り上げるものです。

*余里論
 ここで、白崎氏は、当時雑誌連載中の篠原俊次氏の「魏志倭人伝の里程単位」(「計量史研究」1-2, 2-1, 3-1 昭和54ー56年)をふんだんに引用して論考を加えていますが、当方の課題ではないので割愛します。

 以下、倭人伝で多用される概数表現「餘」の「余里論」を考察します。

                               未完

新・私の本棚 季刊「邪馬台国」第12号 「邪馬台国の里程」 白崎 昭一郎 再掲 2/5

 季刊「邪馬台国」第12号 梓書院 昭和五十七年五月刊(1982年)
私の見立て ★★★★☆ 理知的な解釈で、範とすべきもの 2018/09/18 追記2020/11/18 2022/01/27,11/06,12/25

*余里論
 白崎氏は、三国志の「余」用例を総括した結果、「余」は端数切り捨てという見方です。どの程度までを「端数」と見るかについて、中国古典書に明確な根拠が無いと見えて、国内論者の「感想」を引き合いに出しているのは、不適切極まりない、不用意な論法と見えます。
 そこで、「餘」について、「高木彬光氏は、15㌫程度と見たのに対して古田武彦氏は40㌫までとした」と二例の先例を述べたうえで、それらは、史料に根拠を持たない(現代人の憶測)と否定しました。このご意見自体は、誠に妥当な意見ですが、二例を何のために参照したのか、意図不明であり、どこへ話を持っていこうとしているのかすぐには見えてきません。

 白崎氏は、その上で、「余」で切り捨てた端数は、10ー70, 80㌫の範囲の数値であり得ると提唱しましたが、篠原氏は、基本的に、次の数値に繰り上がる直前までの幅に入る概数と捉えたようです。これに対して、白崎氏は、「倭人伝」執筆時には、確たる数値範囲があったはずだとしています。まことに、趣旨のわかりにくい議論なので、もう少しお付き合いするしかないようです。

*新「余里」論
 素人の意見では、以上の議論は、全て、「余」が端数切り捨てとする固定観念(思い込み)が災いして、解決から遠ざかっていると見ます。特に、当時存在しなかった「㌫」を持ち出すのは、時代錯誤です。また、「実数」に加えるとされる80㌫にのぼる「端数」は、無造作に取り込めるものではないと考えます。例えば、目前に、一丈と一丈八尺の見本を並べて、どちらも、一丈だと言われれば、古代人といえども、簡単に納得しないものと見えます。

 当方の意見は、次の通りです。
 倭人伝に多数の「余」が登場しますが、切り上げ表現である「弱」や「垂」(なんなんとする)は見られません。しかし、全数値が、基準値を超えた切り捨て対象の端数を持っていたとするのは、史料数値表現として、極めて不合理です。
 素朴な疑問として、それこそ一里単位で精測されていた里数の表示ならともかく、千里単位で把握されていた里数が、ある「切りのいい里数より多い」と判断することは、ものの理屈として不可能と見えるのです。中央集権国家として確立された秦以後、中国は統一された基準で、公式里数を設定していたのですが、合理的な、つまり、実運用可能な、明快な原則を守っていたのです。
 解決策としては、『「倭人伝」における「余」は中心値であり、後世で言う四捨五入の丸めを行った数値である』との割り切りです。

 これが、魏志全体、呉志、蜀志まで、果ては、中国全史書に敷衍できるかどうかは、当方の埒外であるのでご勘弁いただきたい。

*余里積算の弊害
 後段で、白崎氏は、里数を多桁表示の算用数字として表示した「表」について、「余」にはゼロもマイナスもないと断じ、「余」が積算されて繰り上がり上の桁に影響を及ぼす可能性を指摘しています。「余」が、桁下の端数を切り捨てると決め付ければ、そう判断して不思議はありませんが、それで納得せずに、当時の国家が、そのような不合理な数値管理をしていたはずがないと思い至るべきだと思うのですが、氏は、「騎虎の勢い」で、固執するのです。
 このように、「余」を端数切り捨てと「仮定」して始まった論考ですが、次第に不合理が集積して、無視しがたい状態になっていると見えるのですが、途次で「仮定」の当否を論議することがなかったのは、後世に、悪いお手本を残したものであり、白崎氏ほどの先賢にしては、勿体ないと考えます。

*数字に弱い史官
 氏は、論考の蹉跌に気づいたものの、その原因を、『そのような「不安定」な概数表記をした陳寿』に対して「余り数字に強い人でなかった」と一気に断罪していますが、陳寿は、単独で編纂していたのではないから、編集者集団には数字に強いものも多数いたろうし、当然、数字に関して厳重な検算は怠らなかったと見るべきです。
 また、当時の官人に必須の基礎教養として、読み書きに続いて、「九章算術」のような幾何(数学全般のこと)学習があったことは明らかであり、当時に於いて、白崎氏が直ちに不審がるような愚行はなかったと見るものです。つまり、陳寿は、厳格に資質を審査されて肝心として登用されていたのであり、「余り数字に強い人でなかった」 とは、冤罪と言うべきです。どうしても、史官に責任を押しつけたかったら、一方的な告発、断罪でなく、公正な審判を仰ぐべきです。と言うのも、今し方述べたように、陳寿の知力は、当時の官人登用制度で厳格に審査されているものなので、これを覆すには、相当確たる物証と証言が必要なのです。

 白崎氏ほどの見識の持ち主が、このように古代人に安易に付け回しするのは残念です。つまり、自身不用意に設定した、「余」は切り捨てという(儚い)仮説の再検討に至らなかったのが、いかにも残念です。まずは、当時最高の人材が、渾身の著作で示した見識を、いきなり疑うので無く、『肘掛け椅子に納まった「書斎考古学者」たるご自身』の見識を疑うべきです。
 くだけて言うと、西晋史官で随一の見識を持っていた、つまり、時世界一の陳寿と知恵比べするとは、いい度胸をしていると思うのです。同時代の当事者の見識を、軽々しく見くびるものではないと思うのです。

 まず、先人の筆運びを弾劾する前に、ご自身の解釈が「倭人伝」に適したものではないのではないかとの自問が必要と考える次第です。いえ、そうした風潮は、「倭人伝」論義で余りにありふれているので、白崎氏が、ついつい、安直に同調しているのかも知れませんが、時に、自省してみる必要があるでしょう。

 このような指摘は、言い方を変えると、古田氏が提示した「倭人伝」解釈にあたっては、編者の見識を徹底的に信じることを根幹とする』との提言と同じ事を言っているのであり、古人曰く、「七度探して人を疑え」の趣旨にも通じるものです。

 以上は、白崎氏ほどの先賢にしては、人口に膾炙している安直な主張を進めていることを歎いたものであり、恐らく、それは、古代史学会風土の怠惰、頽廃に染まっている「喪乱」によって生じたものなのでしょうが、古代史学会「風土」には人格も何もないので「喪乱」の風評は伝わらず、後世には氏の著作の無法さだけが残るのです。まことに勿体ないことです。

*余里の行き着く先
 先に述べた事に戻りますが、「余」が全てプラスであると想定するのは、古代史学界に於いて、古代史書の文献解釈の常道となっているとしても、「倭人伝」に適用すれば、二千字の範囲内で、たちどころに不都合を露呈するのだから、陳寿の、つまり、三世紀当時の編纂時点で是正されていたはずであり、言うならば、現地確認を忘れた錯誤と見えます。

                               未完

新・私の本棚 季刊「邪馬台国」第12号 「邪馬台国の里程」 白崎 昭一郎 再掲 3/5

 季刊「邪馬台国」第12号 梓書院 昭和五十七年五月刊(1982年)
私の見立て ★★★★☆ 理知的な解釈で、範とすべきもの 2018/09/18 追記2020/11/18 2022/01/27,11/06,12/25

*余里の使命
 素人考えを率直に言わして頂くと、倭人伝道里の主行程で見られる「余」里は、千里に届かない端数を「丸めた」中心値を示したものであり、プラスもマイナスもあると理解すれば、加算を重ねても端数の累積を免れます。
 また、千里の位の概数で論じる「道里行程」論に於いては、千里に満たない端数里数は、概数加算で無視できるのです。
 ただし、末羅国以降の倭地の近傍の道里は、百里単位で論じられていますが、こうした近傍の百里単位の里程は、従郡至倭万二千里の内訳と別の背景で書き足されたと見るものです。

 くれぐれも、文献解釈では、文脈を冷静に観察しなければなりません、

*新説の無礼ご免
 白崎氏は、世上に溢れる新説の大半が「山積する先賢の論考を無視する新説」であり「無礼」と断じ、およそ新説の提示に載しては、先賢所説を論破、克服した上で行うべきだとしています。
 これは、まことにもっともですが、現実には、「倭人伝」行程道里論に限っても、明確な検証が重ねられているわけではなく、世上見られる論考が、そうした正統的な論議の過程なのか、単なる思い付きなのか、素人目には、確認しがたいのです。つまり、倭人伝」論に於いて、先行論文の指摘と克服は、実行不可能な難業です。

 そのため、ここに白崎氏が述べた所説は、季刊「邪馬台国誌」という学術的な基盤に掲載された論考を批判した上に書かれたものであり、当記事で示した解釈は、力の及ぶ限り原典に密着した文献解釈から得たものですが、先賢諸兄姉は、原典解釈の段階で、根拠の無い「思い込み」に負けて、早々に異なった道を選択していることを指摘しています。

 当方には、遙か別の道を行く論考を、海山隔てて論破するすべがなく、この場で失礼するのです。

*郡志論 方針
 ということで、「倭人伝」道里行程記事の使命は、従来不明の「倭」(倭人)の所在、つまり、国王治の位置を記録し、最寄りの帯方郡を起点とした方位、所要日数、道里、城数、並びに戸数、口数を記した報告書「帯方郡志」の作成であり、「倭」の来歴、国王の実名と出自を述べて正史「志」篇と夷蕃伝としての「倭人伝」の要件を整えたと考えるものです。

・里数
 国王治までの「萬二千餘里」は、景初二年六月の倭使帯方郡参上以前に、郡太守公孫氏から皇帝への報告に、早々と明記されていたものと思われます。この道里が、皇帝の確認を経て、公文書に記載され「史実」となったため、史官たる陳寿は、この「史実」に厳格に拘束されたと見えるのです。

・日数
 海上移動の道里及び半島内部道里の所要日数は、魏の国内基準では明確ではないので、「水行」と「陸行」に大別し、最後に「都水行十日陸行一月」と総括されていて、つまり、「都」(総じて)四十日と見えます。この表記は、余り見かけないでしょうが、「倭人伝」を正直に読み進めると、こうした世界が見えてくるのです。
 ここで、「水行」日数は、海上移動の道里が不確定のため、三度の渡海で十日あれは十分としたものと見えます。渡海というと物々しいのですが、要するに、塩っぱい河川を渡って向こう岸に上がる、渡船行程を三度繰り返したとしているのです。中原街道にも、渡船はあるので、読者は、特に問題視しないのです。

 中国国内では、街道整備が、全国でほぼ完備しているので、「道里」、「道の里数」を言えば、簡単な計算で所要日数が概算できるのですが、街道未整備の上に、一回ごとに一日がかりの長丁場の渡船が三度入っていると、「道里」の意味はあまりないのです。従って、所要日数が肝心、というか、必須なのです。街道整備とは、所定の間隔で宿場があり、行人は、馬車移動であり、宿場では、自身の事は当然として、乗馬の蹄鉄を交換するなり、給水するなり、糧食を与えるなりして、淡々と旅を続けるのです。そのため、行程道里がわかれば所要日数がわかるのです。
 東夷の地には整備された街道がなく、また、牛馬を供用していないので徒歩行が想定され、街道を「行く」のに、どれだけの日数を要するか、道里では計算できないのです。

 郡から何日で倭人の王城に達するかの規定は、皇帝の威令が、最短期間で到達し、応答されることを保証するものであり、曹魏武帝曹操の確立した「国政の基幹」です。因みに、所要日数は、文書送達期限ですが、中国国内では、文書使は騎馬移動ですが、緊急文書については、疾駆移動して、日程を短縮する規定ですが、倭人に於いては徒歩移動であり、緊急文書も、同程度とされているので、文書使は、渡船上で駆け足する必要はないのです。(苦笑)

・城数

 城数は、構成諸国王治三十ヵ所と判断できます。

・戸数/口数

 戸数は、総戸数明記と見ますが、口数は、調べが付かなかったのでしょう。というものの、「戸数」は、現代風に言うと「世帯」を論じるものであり、つまり、「戸籍」の整備が前提であり、また、各戸に所定の耕作地が供されていて、収穫物の一部を税として上納する制度ですから、そのような土地制度が整備されていないと戸数の意義は怪しいのです。つまり、帯方郡は、倭人の社会では口数の意義がないのは承知の上で計上しているのです。

 世上誤解がありますが、「倭人」が魏皇帝に忠誠を誓う以上、傘下諸国の合計戸数が「明解」に示されるべきです。「明解」とは、「倭人伝」を読みながら戸数を書き留めて加算して解答を得るもので無く、「倭人伝」の紙面に明記されているべきだという事です。因みに、「倭人伝」の對海國、一大国、末羅国、伊都国の戸数は千戸台ですから、読者は、対海国に始まる諸国戸数をすべて書き留め、加算しなければならないように見えるのですが、最後に、二万戸、五万戸と桁外れの戸数が提示され、総戸数計算に「千戸台戸数は無意味」と知れるのです。
 その意味でも、読者の怒りを買わないように総戸数「七万戸」は明記しておかねばならないのです。

 このように、重要情報と言っても、それぞれ優先度があり、口数のように、遂に報告できなかったものもあるのです。

 因みに、帯方郡の戸数、口数は、笵曄「後漢書」に書かれていないものの、晋書には報告されていています。
 総じて、正式の戸数、口数 の 集計がされたときは、一戸、一人単位の数字が計上されているのです。「数字に弱い」官人のできることではないのです。

 以上、史料に根拠のない思いつきと批判されないように「倭人伝」の「方針」を論じたものです。

                               未完

新・私の本棚 季刊「邪馬台国」第12号 「邪馬台国の里程」 白崎 昭一郎 再掲 4/5

 季刊「邪馬台国」第12号 梓書院 昭和五十七年五月刊(1982年)
私の見立て ★★★★☆ 理知的な解釈で、範とすべきもの 2018/09/18 追記2020/11/18 2022/01/27,11/06,12/25

*多桁計算のとがめ
 白崎氏は、概数の有効数字について明確に理解しているのですが、奥野正男氏(「邪馬台国はここだ」 毎日新聞社 昭和五十六年)の表引用とは言え、里数表に算用数字を多桁表示したのは、ご自身の所説を外れ、まことに不用意です。
 いや、奥野氏の作表に示された考証手法は、倭人伝」道里行程談義でむしろ大勢を占めているので、白崎氏を咎める主旨は、「後世の初心者に間違ったお手本を示した」ことなので、「先覚者に課せられる重荷」と考えて頂きたいだけです。

 つまり、「七千餘里」と、歴史的に正当な表示であれば、一見して千里単位概数と見て取れますが、算用数字の7000里は、一里単位まで実数で、0.1里の桁で丸めたとの印象/誤解を与えます。つまり、当時の「実測値」有効数字が五桁と「誤解」させるのです。しかし、これが実測値としても、七千里に対して一里は0.01㌫程度であり、途方も無いホラ話になります。
 「業界」大勢は、一里単位整数どころか、小数点付きで掲載していて、誤解が山積となっています。
 科学的に正しい書き方では、7×10の3乗(10^3)とするものですが、一般読者には何のことかわからないでしょう。そして、7.0と書かずに7と書いても、普通の読み方では、意義がわからないでしょう。

 従って、歴史的に正しい、唯一正確な漢数字表現を遵守すべきと考える次第です。
 ついでに言うと、古代には、縦書きしかなかったので、算用数字の左から右への横書きは、文書に書けないので、重ね重ね場違いで無様なのです。

*時代相応の算法と記法
 当時常用していたと思われる算木による計算は、道里計算では、千里桁の数字を使うので、全行程は、桁上がりして十二「千里」、郡から末羅まで十「千里」、残り二「千里」と明確です。何しろ、三世紀当時は、算盤や筆算の多桁計算は行われてなかったのです。全桁計算は、厖大な手数がかかるので、経理計算や全国戸数集計のような、国家事業の特に行っただけなのです。

*古田氏の誤謬~いささかの余談
 古田武彦氏は、第一書『「邪馬台国」はなかった」で打ち出した「原則」の一つとして、里数計算に於いて千里単位でなく百里単位の計算を行いつつ、「部分里数の合計が全一万二千里に合う」よう幾つかの工夫を凝らしましたが、「倭人伝」編者が、「倭人伝」冒頭の道里行程記事で、郡から倭に至る公式行程において、その根幹として想定していなかった百里単位の数字を持ち込むのは、「倭人伝」の深意を求めるという本義に反するのです。

 また、古田氏の堅持する、「部分(里数)の合計は全体(里数)に等しくなければならない」とする提言は、確かに、数学的には不変の鉄則ですが、「概数計算では、部分の合計が全体と合わないのが、むしろ普通である」との、これまた不変の原則を外れています。

 つまり、概数の基準が千里単位と百里単位が混在するようでは、むしろ計算式として「不合理」だという事を意味しているのです。そのような「不合理」を避けるためには、「千里単位の概数計算に、桁違いの百里単位の里数は採り入れない」という鉄則が、「自明」の原理として通用していたように見えるのです。

 古田氏の創唱した里程計算には同意できないと明言させていただくものです。

*確定値の概数化~郡狗邪行程官道道里の検証
 白崎氏は、郡から狗邪までの七千里を「推定値」と見ていますが、まことに不用意です。
 楽浪郡時代を含めると、狗邪韓国は、長年に亘り漢・魏朝の支配下にあった事から、両地点間は官道であり測量されていたものと推定できます。しかし、既に、郡から倭まで、「全体として一万二千里」の公式道里が皇帝に承認されていたので、群から狗邪までは、一里四百五十㍍程度という「普通里」に基づく郡内道里でなく、七千里の概算道里を書くしかなかったのです。
 陳寿の言い分として、公式道里は「史実」であって「訂正」できないので、「倭人伝」道里として七千里と明記したものの、郡から狗邪 の郡内道里と対照して、以下述べる道里が、普通里に基づく道里でないことを示唆したことになります。これは、かなり「(あいまいな)数字に強い」人の書き方です。

 因みに、史官は、公式記録が存在すれば、これに拘束されますが、このように史官の意図に従って概数里数を設定したということは、帯方郡内の公式道里は、魏の景初年間に至っても、あるいは、西晋代に到っても、「公式道里」とされていなかったものと判断されます。後代正史である、宋書「州郡志」に、倭に至る道里は記録されていないのです。さらに言うなら、洛陽から帯方郡治に至る道里も、書かれていないのです。
 なぜなら、「倭人伝」の審査に於いて、「公式道里」と齟齬する記事があれば、却下されるからです。陳寿は、中国としての公式史料を参照していたので、そのように不用意/不合理な記事を書くことはなかったのです。

 ここで批判しているのは、三世紀当時、郡から狗邪まで の道里が測定可能であり測定されていた里数を、編者の怠慢で「推定」にとどめたという批判への異論です。よろしく、趣旨をご理解ください。

*有効数字再考
 ここで、白崎氏は、『里数の概数表現として「許里」が倭人伝において使用されていない』と断じています。僅か二千字ほどの範囲のことですから、その指摘自体に間違いはないのですが、やや、早計に過ぎるようです。
 戸数系の数字では、一大国の戸数表示で「有三千許家」とあり、「許」なる概数表現を倭人伝編者は知っていたことを物語っています。
 更に、投馬国戸数に見られるように「可」付きの概数もあります。
 案ずるに、それぞれ、定義に合わない数字、ないしは、一段と漠然とした数字と見るものです。
 つまり、これらの数字は、単なる山勘であると表明したものです。

 倭人伝編者は、同列扱いされがちな概数であっても、ある程度根拠を想定できる数字と丸ごと憶測の数字とは、区別を明記していたのです。現代読者は、編纂者の深意を想到して、しかるべく読み分けるものではないでしょうか。

*桁上がりの扱い
 白崎氏は、倭人伝に書かれた数字の有効数字が、一桁、ないしは、二桁のものと見なしていますが、随分盛大に過大評価しているようです。桁上がりの「万二千里」を除けば、二桁有効数字は見当たらないと見えず、せいぜい、最大一桁と見るものと考えます。

 「桁上がり」とは、区間里数が、七「千」,一「千」,一「千」,一「千」と足していって、総計は、一万二「千」、つまり、十二「千」里となるというものですが、これは、有効数字が増えたものではないと見るものです。
 算木計算でも、上の桁の算木を用意するのではなく、「一」の算木を脇に置いて桁上がりを示したと見ます。あくまで、一桁計算なのです。
 何にしろ、有効数字一桁の数字を足した結果が有効数字二桁というのは、まことに「不合理」ですから、そのように対処したと見るのです。

 以上、特に高度な数学理論でなく、実際に概数と日々直面する工学分野では、基礎教養なのです。

                              未完

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