季刊 邪馬台国

四十周年を迎え、着実に刊行を続けている「日本列島」古代史専門の史学誌です。

2023年7月22日 (土)

新・私の本棚 番外 第410回 邪馬台国の会 安本美典「邪馬台国への里程論」

          2023/05/21講演    2023/07/22
*総評
 安本美典師の史論は知的創造物(「結構」)であるから、全般を容喙することはできないが、思い違いを指摘することは許されるものと感じる。

*明快な指針
 安本師は、本講義でも、劈頭に明快な「指針」を示して、混沌に目鼻を付ける偉業を示されているが、以下、諸家諸兄姉の諸説を羅列していて、折角の指針は、聴衆の念頭から去っていたのではないかと懸念するほどである。
 藤井氏の提言に啓示を受け、背後の地図は扨置き、郡から狗邪韓国まで一路七千里と明記し、俗に言う「沿岸水行」は、見事に排除されている。

*混迷の始まり
 倭人伝「現代語訳」で「循海岸水行」を「沿岸水行」と改訂し、後世に混乱を残したのは、何とも残念である。
 「倭人伝」解釈は、「倭人伝」自体に依拠すべきであり、確たる検証がない限り、遙か後世の東夷に従うべきではない』のではないかというのが、当ブログ筆者の意見であり、以下の諸兄姉の言説は、総じて最初の一歩を踏み間違えているので「論外」というのが率直な意見である。と言うことで、本項では、諸言説を否定も肯定もせずに進んでいる。

 安本師は、「倭人伝」道里が誇張であると称する弾劾に同意せず、地域固有の論理/法理に従って「首尾一貫している」と至当な見解であるが、続いて、後世日本での里制の乱れを紹介し、それ故に『中国に於いて「里」が動揺していた』との不合理な解に陥っている。
 これは、古代中国には無縁の曲解である。後世東夷の事情で起きた事象が、三世紀倭人伝の記述に影響を及ぼすはずがないのは、自明では無いかと思われる。
 中国は、少なくとも秦代以来、厳然たる「法と秩序」の文明国家であり、中国「里制」は、魏晋に至るまで鉄壁不変/普遍普通の鉄則と見るべきと思うのである。楽浪郡は、漢武帝創設の漢制「郡」であり、当然、郡統治は、秦漢通用の「普通里」が、厳然と適用され、帯方郡は、当然、これに従ったのである。不法な非「普通里」が横行していたというのは、とんでもない言いがかりでは無いかと思われる。

 このあたり、安本師の限界か、「倭人伝」解釈に齟齬を見てとって中国の「法と秩序」の不備に原因を求めているように見えるが、陳寿には、反論のすべがないので、素人が僭越にも代弁するものである。

 率直なところ、師の認めた「地域短里」は、秦漢魏晋の「漢制里制」、一里四百五十㍍程度の「普通里」が、『漢武帝が設立した漢制楽浪郡に於いて施行されて「なかった」』という不合理な解釈に依存しているので、残念ながら従えないのである。

*ローカルな話/明帝遺訓の万二千里
 ここで提言したいのは、師の「地域短里」は、地理的なLOCALであるが、ここは、文書内の局所定義という意味のLOCALと進路変更頂きたいというものである。
 別に述べたように、後漢末期の建安年間、遼東郡太守公孫氏は、新参の東夷である「倭人」の身上を後漢、曹魏に報告しなかったが、天子の威光の辺境外の荒地を示す「万二千里」の道里を想定したと見える。
 司馬懿の遼東征伐で公孫氏文書は破壊されたので、公孫氏の想定は明記されていないが、曹魏明帝が事前に帝詔をもって両郡を配下に移し郡文書が洛陽に回収されて、「天子から万二千里」の東夷が明帝の目にとまったと見える。斯くして曹魏皇帝が万二千里を公式に認定し、明帝遺訓となったので、史官である陳寿が金文の如く尊重し、斯くして、「倭人伝」に「ローカル」道里が記載されたと見える。
 そのように筋を通さなければ、公孫氏遼東郡時代の楽浪/帯方郡の東夷管理記録が、魏志に収容された事情がわからないのである。

*まとめ/一路邁進願望
 安本氏に期待するのは「邪馬臺国」がどうであれ、「倭人伝」道里は、最終的に九州北部(北九州)に達する、筋の通った、明快な書法であり、当時の読者が納得したものと理解して、史学論の泥沼を排水陸地化して頂きたい。

 禹后本紀は、堅固な陸地移動を「陸行」車の移動とし、河水の流れに沿う移動を「水行」船の移動としたが、介在する「泥沼」は橇で水陸間を連絡移動していると総括している。

 倭人伝の公式道里記事を、陸地なる「海岸に沿う」と称して、泥沼/海浜を「水行」させる議論は、早々に排除して頂きたいのである。もっとも、正史記事で「海岸沿い」は、陸地の街道と見るものではないかと素人なりに思量するものである。ご一考いただきたい。

                               以上

新・私の本棚 番外 第411回 邪馬台国の会 安本美典 「狗奴国の位置」

            2023/06/18講演           2023/07/22
*総評
 安本美典師の史論は知的創造物(「結構」)であるから、全般を容喙することはできないが、思い違いを指摘することは許されるものと感じる。

*後漢書「倭条」記事の由来推定
 笵曄「後漢書」は、後漢公文書が西晋の亡国で喪われたため、先行史家が編纂した諸家後漢書を集大成したが、そこには「倭条」部分は存在しなかったと見える。
 後漢末期霊帝没後、帝国の体制が混乱したのにつけいって、遼東では公孫氏が自立し、楽浪郡南部を分郡した「帯方郡」に、韓穢倭を管轄させた時期は、曹操が献帝を支援した「建安年間」であるが、結局、献帝の元には報告が届かなかったようである。
 「後漢書」「郡国志」は、司馬彪「續漢書」の移載だが、楽浪郡「帯方」縣があっても「帯方郡」はなく郡傘下「倭人」史料は欠落と思われる。

 笵曄は、「倭条」編纂に際して、止むなく)魚豢「魏略」の後漢代記事を所引したと見える。公孫氏が洛陽への報告を遮断した東夷史料自体は、司馬氏の遼東郡殲滅で関係者共々破壊されたが、景初年間、楽浪/帯方両郡が公孫氏から魏明帝の元に回収された際に、地方志として雒陽に齎されたと見える。

*魚豢「魏略」~笵曄後漢書「倭条」の出典
 と言っても、魚豢「魏略」の「倭条」相当部分は逸失しているが、劉宋裴松之が魏志第三十巻に付注した魏略「西戎伝」全文から構想を伺うことができる。
 魚豢は、魏朝に於いて公文書書庫に出入りしたと見えるが、公認編纂でなく、また、「西戎伝」は、正史夷蕃伝定型外であり、それまでの写本継承も完璧でなかったと見えるが、私人の想定を一解として提示するだけである。
 笵曄「後漢書」西域伝を「西戎伝」と対比すれば、笵曄の筆が後漢代公文書の記事を離れている事が認められるが、同様の文飾や錯誤が、「倭条」に埋め込まれていても、確信を持って摘発することは、大変困難なのである。

*狗奴国記事復原/推定
 念を入れると、陳寿「魏志」倭人伝は、晋朝公認正史編纂の一環であり、煩瑣を厭わずに郡史料を集成したと見える。史官の見識として、魚豢「魏略」は視野に無かったとも見える。魚豢は、魏朝官人であったので、その筆に、蜀漢、東呉に対する敵意は横溢していたと見えるから、史実として魏志に採用することは避けたと見えるのである。
 それはさておき、女王に不服従、つまり、女王に氏神祭祀の権威を認めなかった、氏神を異にする「異教徒」と見える狗奴国は、「絶」と思われ、女王国に通じていなかったと見えるので、正始魏使の後年、人材豊富な張政一行の取材結果と見える。

 安本師が講演中で触れている水野祐師の大著労作『評釈魏志倭人伝』(雄山閣、1987年刊)に於いては、「其南有狗奴國」に始まる記事は、亜熱帯・南方勢力狗奴国の紹介と明快である。

其南有狗奴國。男子爲王、其官有狗古智卑狗、不屬女王。[中略]男子無大小皆黥面文身。[中略]計其道里當在會稽東治之東。[中略]男子皆露紒以木綿招頭。[中略]種禾稻、紵麻、蠶桑[中略]所有無、與儋耳朱崖同。

 一考に値する慧眼・卓見と思われ、重複を恐れずに紹介する。

*本来の「倭記事」推定
 つづく[倭地溫暖]に始まる以下の記事は、冬季寒冷の韓地に比べて温暖であるが亜熱帯とまでは行かない「女王国」紹介記事と見える。

倭地溫暖、冬夏食生菜、皆徒跣。[中略]其死、有棺無槨、封土作冢。[中略]已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐。[中略]出真珠、青玉。[中略]有薑、橘、椒、蘘荷、不知以爲滋味。[中略]自女王國以北特置一大率[中略]皆臨津搜露傳送文書賜遺之物[中略]倭國亂相攻伐歷年乃共立一女子爲王。名曰卑彌呼。事鬼道能惑衆。年已長大。無夫婿。[中略]女王國東渡海千餘里復有國皆倭種。[中略]參問倭地絕在海中洲㠀之上或絕或連周旋可五千餘里。

*結論/一案
 要するに、「倭人伝」には、狗奴国は女王国の南方と「明記」されている。但し、時代を隔て、一次史料から隔絶していた笵曄が、解釈を誤ったとしても無理からぬとも言える。
 要するに、笵曄「後漢書」東夷列伝「倭条」は信頼性が証されず「推定忌避」するものではないかと愚考する。(明快な立証がない限り、取り合わない方が賢明であるという事である)

 安本師は、当講演では、断定的な論義を避けているようなので、愚説に耳を貸していただけないものかと思う次第である。

                                以上

2023年7月 7日 (金)

新・私の本棚 1 茂在 寅男 季刊 「邪馬台国」 第35号 「里程の謎」再 1/2

 1 実地踏査に基づく「倭人伝」の里程   茂在寅男
  私の見立て ★★★★★ 必読         2019/01/28 追記 2020/10/07 補充 2021/12/09 2023/07/07

*前置き
 はなからケチを付けるようですが、タイトルで謳われた「実地」とは、倭人伝時代の「実地」ではなく、論者が実際の土地と想定した土地を、二千年近い後世に歩いたという事です。近辺に足を踏み入れたことのない当方には、机上批判しかできませんが、行き届かないのは自覚しているのでご了解いただきたいのです。以下各論も同様です。

 論者たる茂在(もざい)氏は海洋学の泰斗で「九州説」に立っています。また、倭人伝に誇張や修辞の間違いが(多々)あるとの俗説は採用していません。敬服する次第です。

*冷静明快な里程論
 「二.「一里」は何メートル」では、「郡より倭に至るには、海岸にしたがいて水行し、韓国をへて、あるいは南しあるいは東し、その北岸の狗邪韓国に到る、七千余里」の書き出しの後に「初歩的算数問題」と評し「問題は着実に解明される」としていて、およそ陳寿の提示した「問題」は、必ず「解明」できるいう冷静で知的な立場に同感します。

 また、氏の理解では、郡と狗邪韓国の間、「郡狗間」は、出発・到達点が明記され、その間の行程は「航路も正確に示された航程」と談じて、海図上で大体六百五十㌔㍍と論理を重ねた上で、これが七千里と書かれているから、そこで言う一里とは大体九十三㍍であることは明白ではないか、と見事に論じています。

*渡海論復唱
 続く、三度の「渡海」、私見では、「水行三千里」について、論者は、海図から航路長を推定し、対馬まで約百㌔㍍ 、対馬から壱岐まで同じく約百㌔㍍ と、いずれも、一千里に妥当し、壱岐から到着する末羅国も、同様の航程長と推定し、ここまで、郡から一万里としています。
 いずれにしろ、ここまでの区間は一里九十三㍍で一貫と検証しています。多分、九十㍍とした方が、読者に誤解を押しつけない時代相場の概数であり、適確でしょう。

*批判

 当方が、氏の論調に賛同した上で、あえて、異を唱えているのは、まずは、以上の行程を全て「航程」、「航路」と見ている点であり、三世紀当時、そのような「航路」は言葉として存在していない、つまり、対象となる実体がない、と言うことです。概念の時代錯誤です
 参照された海図は、現代のものであり、当時、そのような行程/航程を辿ることはできなかったと感じます。現に、魏志倭人伝には、地図、海図の類いは添付されていません。つまり、当時、史官と読者は、文字だけで論義していたのです。遺憾ながら重ねて時代錯誤に陥っています。

 但し、現代的な「航程」で、総じて六百五十㌔㍍ なら、当時も大差ない行程長とみて、参考にして良いように思います。あくまで、海図もコンパスもパイロット(水先案内)も無しに、想定通りの航行ができたらの話であり、氏の論法に同意しているのではないのです。

 繰り返し力説しますが、この間の行程長の評価で、現代海図を採用しているのは、どうしても同意できません。当時海図も航路もなかったので、渡海船が何里移動したか、自身で知るすべはなかったのですから、この三回の渡海は、移動里数を想定できたにしても、全て、漠然たる推定、目算であって、「正確」とか「完全に一致」とか言うのは、見当違いと考えます。

 と言うものの、論拠明快であるから、同意するにしろ、異を唱えるにしろ話が早いのです。

                                未完

新・私の本棚 1 茂在 寅男 季刊 「邪馬台国」 第35号 「里程の謎」再 2/2

1 実地踏査に基づく「倭人伝」の里程   茂在寅男
                2019/01/28 追記 2020/10/07 補充 2021/12/09、12/11 2023/07/07
〇水行論
 「三.水行一日の距離」では、論者の豊富な航海知識を活かしつつ、史料記事を参考に考察を進めています。
 これまで同様、「倭人伝」における「水行」の取り違えには触れず、氏の用法に従って論じていることを確認しておきます。

 まず、一、二日を越える航海では、随時停泊上陸し休息を取ったと思われ、所要日数は、非航行日数も含めた全日数を採用したと思われるとして、これを「水行一日の距離」の計算に供しています。この点には大賛成です。体力勝負の漕ぎ手の疲労は当然考慮すべきですが、乗客だって、揺れ動く船室に座っているだけでも、相当体力を消耗するはずです。「随時」などと治まっている場合ではないのです。

 いや、せいぜい数日限りの渡海船に、乗客用船室があるとは限らないのです。甲板のない吹きさらしで、乗客用船室がなければ、毎日、夜間は入港、下船したと見るべきでしょう。何しろ、中原世界に波濤万里の船便移動は無く、また、海船に不慣れな魏使が「金槌」で、船酔いしていたら、連日の移動は不可能もいいところです。

 重ねて言うと、潮流が入港に適した流れならいいのですが、下手をすると港外で潮待ちでしょう。出港の潮待ちも、当然必要です。随分余裕を見ておかなければ、いざというときに期限に遅れ、「欠期」処刑にあうのです。 

 続いてあげている「フェニキア人のアフリカ回航」のヘロドトス著作は、諸般の状況が悉く異なり、全く参考にならないものと思います。また、三世記の当事者の知るところではなかったのです。よって、さっさと証拠棄却です。

 あえて参照するなら、Time and tide wait for no manなる格言であり、これは、しばしば、「歳月人を待たず」とされていますが、ここで、「歳」は、太陽が示す日々の推移、「月」は、月が示す潮の干満であり、誠に、至言の至訳と見るものです。

*帆船行程考証
 郡から帆船航程との想定は、氏も認めるように、帆船は、逆風、荒天時に多大な待機が想定されます。また、当時の帆船は順風帆走だけで、そもそも、操舵ができなかったので、入出港が大事業である上に、障害物の回避も思うに任せないのです。となると、結局、漕ぎ手を載せて操舵するしかなく、一段と重装備になるので、対象海域の多島海では運用不可能と素人考えしています。

 論者自身は現代人ですから高精度の海図で安全航路を見出せても、当時、正確な海図はなかったから、「海図に従う航行」は、不可能だったでしょう。絶対安全の確信なしに、貴重な積荷と乗客を難所に乗り入れなかったでしょうから、とても実務に採用できない事になります。

*漕ぎ船再考
 丁寧に言うと、地域で常用されていたはずの、吃水の浅い、操舵の効く手漕ぎ船なら、難所の海を漕ぎ進めたでしょうが、想定されているような、吃水の深い大振りの帆船は、同様の航路を、適確に舵取りして通過することは、まずできなかったはずです。頼りにしたい水先案内人ですが、地域標準の小船の案内はできても、寸法違いの帆船の安全な案内は、保証の限りでないことになります。と言うことは、早晩難破してしまうのであり、論外です。

 結局、山東半島からの渡海の際は、往来の、出来合の渡海用帆船ないしは往時の兵船を徴発して半島に乗りつけたにしても、南下するのに、そのような渡海船は転用できず、日頃運用している便船を起用するしかないことになります。つまり、漕ぎ船船隊の登場です。この海域に、漕ぎ船が活発に往来していたとすれば、郡の資金と意向で、必要な船腹と漕ぎ手を駆り立てることはできるでしょうが、それにしても、どの程度の行程を一貫して進めるか疑問です。
 当時の地域情勢で、遙か狗邪韓国まで、切れ目なく、闊達な運行があったとは思えません。

 と言うことで、普通に考えて、そのような漕ぎ船船隊が、実現した可能性は、相当低いものと見る次第です。(あけすけに言えば、あり得ないものです)
 学術的な時代考証であれば、実現性、持続可能性を実証する必要があったものと見ています。フィジカル、つまり、物理的、体力的な実証は、このような疑念を排する基礎検証を経た後で、蓋然性の高い設定で行うべきでしょう。

*半終止
 いや、後世にも名の残るような海港であれば、補助してくれる小船の力を借りて、入出港できたかもわかりませんが、ここに上がっているのは、「海岸沿い」、浅瀬つづきの海なのです。見くびると、即難船です。常時、帆船が往来していなければ、魏使の船は、浅瀬、岩礁の目立つ難所つづきでは、安全な航路を見いだせないのです。

 因みに、当時、東夷の世界には帆布はないので、帆船航行は、小型のものと言えども、実現不可能とみています。地場に帆布がなければ、帆船を持ち込んでも、破損の際に、修理、帆の張り替えができないのですから、定期運行もできません。いや、野性号は、力まかせの漕ぎ船の実験航海ですから、帆船の実験航海は、別に必要なのです。

 と言うことで、万事実証の論者が、辺境、未開で航路図のない倭地の水行で一日二十乃至二十三㌔と推定したのは、軽率というより無謀の感があります。

〇陸行論
 「四.陸行一日の距離」は、論者や周辺の一般人の体力を冷静に観察し、起伏のある整備不良の路の連日歩行は、一日七㌔すら困難としています。訓練不十分な一般人に、武装帯剣の上に数日分の食料を携帯したと見える唐代軍人の規定を引くのは無理との定見に賛成です。

 倭人伝で、「草木茂生し、行くに前人を見ず」とは、初夏の繁茂で任務遂行困難を言い立てていますが、定例の官道整備で困難が解消しますから、通行の障害になるはずがないのです。むしろ、切っても切っても逞しく生えてくる植生は中原では見かけないだけに、特筆したのかも知れません。いずれにしろ、官道は、市糴の荷の常用する経路であり、往来活発で、渡海便船着発時には交易物資が往来し、歩行困難の筈がないのです。いや、「街道」ならぬ「禽鹿径」と悪態をつかれるように、牛馬の車輌が通行できない、騎馬疾駆できない、人の担いの径(いなかみち)ですから、中原の街道とほど遠いとは思うのですが、地域基準の整備は当然と思う次第です。


*韓地官道論
 因みに、氏が一顧だにしていない半島内官道は、遅くとも、二世紀後半に、小白山地の難所を越える「竹嶺」越えが開通していました。つまり、魏の官制に基づき「道路」としての整備はもとより、所定の「駅」が運用されていて、休養、宿泊に加えて、給食、給水、さらには、替え馬の用意、蹄鉄の打ち替えなどの支援体制があって、必要に応じて、荷物の担い手を追加することもできたのです。もちろん、陸上行程は、足元が揺れて酔うこともなく、難船で溺死する恐怖もなく、「駅」での送り継ぎの際に人夫を入れ替えすれば、人夫の体力消耗、疲労の蓄積を考える必要がないのです。
 つまり、計画的な定時運行ができるのが、街道行程なのです。

*現地踏査の偉業
 論者は、九州島内での現地実証の提言への賛同者の多大な協力を得て踏破確認しています。ここまで率直に机上批判を呈しましたが、空前の偉業には絶大な賛辞を呈します。

 結論では、陸行一日七㌔弱の当初案を減ずる可能性が述べられていますが、夷蕃伝に書かれる日数は、郡との通信所要期間を必達の規定とするため余裕を含めるものです。何しろ、遅刻は、下手をすると処刑なので、大いに余裕を見るものです。官制の根底は、確実な厳守であり、一日、一刻を争う督励ではないのです。

*論者紹介
 末尾の論者紹介では、論者は、商船学校航海科を卒業した後、商船学校教官、商船大学教授として教鞭を執り、退任後、海洋学分野で指導的立場にあったようです。歴史系の著作多数であり、本論関係では、遣唐使船復原プロジェクト等を指導し、海と船の古代に関して該博な見識を備えていました。

 特定分野の大家や企業役員として活動した自称「専門家」の古代史著作は、突出した持論を性急に打ち出すなど、思索のバランスを失して古代実態を見過ごした著作例が珍しくありません。何しろ、倭人伝原文の真意が理解できていない上に、当時の地理、技術について、無知に近い方が多いので、批判するのもうっとうしいほど、外している例が、ままあるのです。

 と言うと誤解されそうですが、論者茂在氏による本稿は、そのような凡愚の架空の著作ではなく、対象分野に対して常に実証を目指した力作であるだけに、大きく異論を唱えることができませんでした。いろいろ難詰したのは、氏に求められる高度で綿密な技術考証が、いろいろな事情で、疎かになっていると見えるからです。
 妄言多謝。

*行きすぎた分岐点 2023/06/11 2023/07/07
 初稿時点では、まだ、模索段階でしたが、遅ればせながら、大事な誤解を指摘しておきます。
「倭人伝」の道里行程記事は、正始魏使の現地報告をもとにしたものではなく、景初早々に、楽浪/帯方両郡が、魏明帝の指揮下に入った時点での魏帝の認識であり、それは、遼東郡太守公孫氏が遺した東夷身上書(仮称)に基づいていたのであり、それが、明帝の嘉納によって魏朝公文書に残されたので、それが、陳寿の依拠したところの「史実」だったのです。史官の責務は、史実、即ち、公文書の継承だったので、そこには、後世東夷が好んで称する「誇張」は、一切ないのです。
 「倭人伝」の解釈の最初に、この点を認識しないままに進んでいる論義は、一律「行きすぎ」とも見なければならないのです。

 言うまでもないと思いますが、この指摘は、茂在氏個人に責めを負わせているものではないのですが、いずれかの場所で、と言うか、至る所で、機会あるごとに主張しないといけないので、ここにも、書き残しているのです。

                             この項完

2023年6月26日 (月)

新・私の本棚 張 明澄 季刊「邪馬台国」第12号 道里行程論 新解 1/9

「一中国人の見た邪馬台国論争」 好評連載第二回 梓書院 1982年5月刊
 私の見立て ★★★★☆ 泥中の真珠再発見 2022/12/01 部分改訂 2023/01/15 2023/06/07, 12, 19, 21, 23~26

▢余言のお断り 2023/06/23
 一言お断りすると、当初2ページの書評が9ページになったのは、当方の私見の展開が大半の余言であり、氏が責めを負うものではない。

◯始めに~珠玉の論義
 随分遅ればせの書評であるが、当分野では、かくも珠玉の論義が、泥沼に深く埋もれているので、ここに顕彰する。もっとも、好評連載されていた「札付き」記事に埋もれていては、端からそっぽを向かれても、無理もない。
 張明澄氏は、日本の漢字字典、辞典を読まないが、ここでは、漢字圏で最高権威とされている白川勝師の辞書「字統」で謹んで補足させていただく。
 「至」の原義は、弓で矢を射て届いたところを言う。つまり、「至」は矢が飛んで行った先であり、そこに射手が行ったわけではない。
 ▢「到」の原義は、「至」「刂」であり、「至」で得られた行き先に、(射手が)実際に至ることを言う。

*混乱した表記で理解困難な解説
 張氏は、カタカナで「到」は、「リーチ」reach、あるいは「アライブ」arriveという。ただし、英単語は、この場で補足したのであり、原記事は、カタカナ語だけであるから、原文を、一般読者が理解できるとは思えない。
 前者は、麻雀用語で知られていて、ここでは、それ以外の「どこかに行き着く」という意味だが、後者は、「アライブ」というだけでは、alive、つまり、生き生きとしたという意味の方が、むしろ知られていて、本来のarriveの意味と解すれば、「到着」、即ち、「どこかからやってくる」という意味になる。
 但し、「どこかに行きつく」と言うには、肝心の言葉が足りないので、前置詞を補って覚えるのが英語学習の常識である。「アライブ アット」arrive atで、始めて「どこかに着く」という意味になる。
 それにしても、氏の思っているように、「リーチ」、「アライブ」は、全く同じ意味ではない。ここでは、「到」には、後者が適しているように見える。
 『「至」は、「テイル」ないしは「アンテイル」』というが、これを、Tail、Untailと解しても、理解できない。むしろ、「リーチ」reachに適していると見える。

*古典的素養
 後で思いついたのだが、日本時代の台湾で張氏が受けた戦前の「国語教育」では、仮名交り文でカタカナ表記が普通で、今日の「ティル」が「テイル」と表記されていたのである。氏の書き癖かもしれない。『「至」は、「ティル」ないしは「アンティル」』とも解釈できるが、氏の玉稿はどっちだったのか。それなら、英語に戻すと、Till, Untilとなるが、それで、氏の日本語文の解釈としていいのかどうか。
 こうした瑕瑾は、本来、編集部の校正で是正されるべきが、随分取りこぼしているようである。

 このように、日本語に大変通暁した「中国人」である張明澄氏であるが、カタカナ語に無頓着な氏の構文は、表記が混乱していて誠に当てにならない。これでは、読者の混乱を深めるだけで、言わずもがなである。

 これは、同様の勘違いを諸書に散見する古田武彦氏の(失敗例の)模倣であろうか。それとも、さりげないパロディーで揶揄したのであろうか。いや、うろ覚えのカタカナ語で、ご当人は明快にしたつもりで、一向に明快にならない点では、似たもの同士である。

 所詮、場違い、時代違いの漫談であり、張氏の真意は、知るすべがない。

                               未完

 

新・私の本棚 張 明澄 季刊「邪馬台国」第12号 道里行程論 新解 2/9

「一中国人の見た邪馬台国論争」 好評連載第二回 梓書院 1982年5月刊
 私の見立て ★★★★☆ 泥中の真珠再発見 2022/12/01 部分改訂 2023/01/15 2023/06/07, 12, 19, 21, 23~26

*誤解の起源
 要するに、張氏は、戦前、戦中の日本時代の台北で「皇民教育」を受けたはずであり、英語は敵性、使用禁止とした「日本語教育」で育ったのであるから、カタカナ語は習ったものではなく、恐らく、成人となった後の付け焼き刃であろう。戦後の中華民国統治下では、日本語は、旧敵国語であって、むしろ排斥されていたと思えるので、氏が日本語の教養をどのように高めたかは、後世の日本人の理解を絶しているはずである。
 もちろん、氏は、伝統的な旧字旧仮名遣いで育ったのであり、引き合いに出したカタカナ語を日本語として正確に理解し、表現できているとは思えない。
 と言うものの、現代日本人も、中高生時代に、英語を基礎から習ったものの、正確に履修した保証はなく、カタカナ語を見て、原典の英単語を想定して的確に理解できるとも思えない。何しろ、現役高校生あたりでは、就職したときに実生活で必要としない「英語」は、試験に落ちない程度に流すだけだという手合いが結構多いから、そのように世に出ている書き手と張明澄氏が、ともに良い塩梅の理解しかしていない言葉を論理の中核に据えたのでは、何がどう伝わるのか到底確信できないと見るのである。

 張氏は、当記事を思いつきの随想として書いたわけではなく、編集部も、そのような冗句(ジョーク)と解していないはずだから、この下りは、何とも理解に困るのである。

 長々と余談めいたお話が続いて、さぞかし、読者諸兄姉には、退屈であったと思うが、部分的な結論としては、本論の課題は、古代中国語文の解釈であり、そこにうろ覚えのカタカナ語を持ち込むのは、根本的に筋が悪いのである。言ってしまえば、それだけである。

◯倭人伝分析:各国「条」論義 基本的に「紹熙本」に準拠。句読随時。 伊都国以降一部改善 2023/06/19~26
 と言うことで、当ブログ記事では、以下、氏の教示を、大いに参考にしつつ、原文に即した地道な解釈に努めるものである。
 と言うか、本稿は、実は、当家の道里記事論の最新集大成なのである。張氏の掲示に気づいて、書きためていた構想を形にしようとしたものである。張世澄氏が読めば、勝手に、人の発言をこね回すと言うだろうが、当方にしてみれば、氏の見解は、当方の所説の重要な要件であって、総てではないのである。無名の素人が、意見を公開する際の礎石にさせていただいたのであり、決して、尊敬の念を書いていたのではないのである。
 言い訳はさておき、ここに開通した道里論は、張氏を含め、先賢諸兄姉が一顧だにしなかった「径」(みち)を露呈した、いわば、原典回帰の意見なので、この場を借りて、批判を仰いだものである。

 この部分は、ここに置くのが適切かどうかはよくわからないが、ブログ連載記事のページ割の関係で、ここに「空き」が生じたので、急遽書き上げたものである。将来、再編成するときに、生き残るかどうか不明である。

                               未完

新・私の本棚 張 明澄 季刊「邪馬台国」第12号 道里行程論 新解 3/9

「一中国人の見た邪馬台国論争」 好評連載第二回 梓書院 1982年5月刊
 私の見立て ★★★★☆ 泥中の真珠再発見 2022/12/01 部分改訂 2023/01/15 2023/06/07, 12, 19, 21, 23~26

㈠道里記事
▢緒条(書き起こし)
 從郡至倭、…
 其北岸狗邪韓國、七千餘里。

➀對海条
 度一海、 千餘里、至對海國。
  其大官曰卑狗、副曰卑奴母離。
  所居絕㠀、方可四百餘里、… 有千餘戶、… 乖船南北巿糴。
②一大条
 南渡一海、千餘里、名曰瀚海、至一大國。
  官亦曰卑狗、副曰卑奴母離。方可三百里。
 多竹木叢林。 有三千許家。… 亦南北巿糴。
③末羅条
 渡一海、 千餘里、至末盧國。
  有四千餘戶。…

④伊都条
 東南陸行五百里、伊都國。
 官曰爾支、 副曰泄謨觚、柄渠觚。有千餘戶。
  丗有王、皆統、屬女王國、郡使往來常所駐。

 /餘旁國開始/
  ・奴条
    東南至國   百里。   官曰兕馬觚、副曰卑奴母離。有二萬餘戶。
  ・不彌条
    東行不彌國  百里。   官曰多模、副曰卑奴母離。有千餘家。
  ・投馬条
    南 投馬國  水行二十日。官曰彌彌、副曰彌彌那利。可五萬餘戶。
  ・邪馬壹条
    南 邪馬壹國 女王之所。
     *[官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳鞮]  ───┐
                                           
 /餘旁國終了/                            

▢結条(まとめ)
 都水行十日陸行一月。                                ↑ 
  官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳鞮)     ───┘

 可七萬餘戶
 自女王國以北、其戶數道里可得略載、其餘旁國遠絕、不可得詳。 
  次有……、此女王境界所盡。
 *[自郡至女王國萬二千餘里]    ───┐
                               ↑   
㈡風俗記事
狗奴条
 其南有狗奴國。……                ↑
   (自郡至女王國萬二千餘里)  ───┘
 男子無大小皆黥面文身。...... 所有無、與儋耳朱崖同。

倭地条 (倭国総論)
 倭地溫暖、冬夏食生菜、皆徒跣。......
 居處宮室樓觀、城柵嚴設、常有人持兵守衛。

*お断り

 以上の区分、条題、句読、小見出し、用字の大小は、本論限りの便宜的体裁(私見)である。
 また、道里記事結条の輻輳の復元は、当ブログ筆者の私見である。
 風俗記事の「狗奴条」、「倭地条」の区分は、水野祐氏の卓見に従ったものである。
 「東アジアの古代文化」1987秋・53号 『「魏志」倭人伝をめぐって』
 言うまでもなく、版本の選択による国名の異同は、本件論義に影響しない。

                               未完

新・私の本棚 張 明澄 季刊「邪馬台国」第12号 道里行程論 新解 4/9

「一中国人の見た邪馬台国論争」 好評連載第二回 梓書院 1982年5月刊
 私の見立て ★★★★☆ 泥中の真珠再発見 2022/12/01 部分改訂 2023/01/15 2023/06/07, 12, 19, 21, 23, 26

◯「張明澄」提言~末羅分岐説
 各条の書き出し「始めて」、「又」、「又」で、三度の「渡海」とわかる。
 このように、「順次行程」は、「又」で列挙する。
 一方、末羅から先の行程は、「又」が欠け、末羅での分岐行程と見る。

*コメント
 卓見であるが、氏の「解法」は、中途半端、不徹底と見える。
 張氏は、「到」、「至」蘊蓄を傾けて個々の意義を説明したが、判じ物として不得要領であり、論ずべきは凡庸な学識の持ち主に通じる真意であり、本来、「至」と「到」の使い分けは、同時代の想定読者にも通じる「明快」表現と見える。
 ということで、折角のご指導であるが、御趣旨は大いに援用させていただくものの、無批判に追従はできない。
 末羅国は、三度目の渡海の「対岸」の海津、つまり、単なる海港であり、行程の「要」(かなめ)と思えないからである。

*異論表明~伊都分岐説
 伊都以降の記事で、④伊都条は「到」であるが、以下は「至」である。
 「到」する伊都は、「丗有王、皆統、屬女王國、郡使往來常所駐」と「列国」として重んじられていて終着地と明記されたと見える。
 張氏も、「駐」は、偶々通りがかりに足を止めたとの意味ではないと明快である。要するに、遼東郡からの行人は、伊都国で、国王と面談していたという実績を示しているのである。

*「餘旁國」に「至る」
 それに対して、以下「至」の諸国は、伊都起点の「餘旁國」、脇道である。そして、掉尾の邪馬壹も、伊都からの行程・道里に欠けるが、順当な見方では、至近距離であって書くに及ばないという趣旨と見るものである。
 これら諸国は、「又」が存在せず、従って、行程が直線状に順次移動すると読むのは、「倭人伝」道里記法に外れている。つまり、伊都からの道里行程は、放射状に分岐していると理解される。
 これが、中国語に極めて造詣の深い張明澄氏の提言の眞意と見え、素人の東夷にしても、容易に納得できる明快な教えである。

*「至る」と「到る」
 漢字学の権威である白川静師の字書により、「至」は行程目的地、「到」は行程到着地であり、途上で爾後行程への出発点とされる。記事で、狗邪韓国と伊都国が「到」である。

*「邪馬壹」の姿~予告
 この「国」は、「国邑」であって古来の「邑」(ムラ)であり、「倭人伝」では、各国は山島に在って、周辺に城壁を設けて防備していないとされ、「邪馬壹」「国」も、城柵で守護しているに過ぎないと見える。推定するに、伊都の防壁の中に在って、伊都の支援を得ていたと見える。

                               未完

新・私の本棚 張 明澄 季刊「邪馬台国」第12号 道里行程論 新解 5/9

「一中国人の見た邪馬台国論争」 好評連載第二回 梓書院 1982年5月刊
 私の見立て ★★★★☆ 泥中の真珠再発見 2022/12/01 部分改訂 2023/01/15 2023/06/07, 12, 19, 21, 23~26

*「邪馬壹」行程の意義 残された課題
 伊都から南にあるとされている「邪馬壹」は「女王之所」であり、「結び目」を武断で断ち切らずに、丁寧に解きほぐすと、先行諸国と同列ではなく、道里行程記事の結語と見える。(改行した方が良い)
 と言うことで、郡太守の文書は、伊都で受領された時点で、倭王に届いたと見なされる。「郡使往來常所駐」とは、郡文書使は、伊都に文書送達した後、回答待ちで宿所待機したと見える。正始魏使なる漢使は、女王に拝謁した「蓋然性」が高いが、「邪馬壹」に参詣したかどうかは、不明である。尤も、漢使が蕃王治に参詣して蕃王と会見すること無しに交流した例は、班固「漢書」西域伝安息条に見え、不法ではない。

◯「張明澄」提言の意義~泥の中の真珠
*里程記事新たな一解~エレガントな解釈の提案
 以上、筋を通すと、道里行程記事は、最終的に「南至邪馬壹國女王之所」で完結し、全行程の集約として、要件が示され簡明至極、首尾一貫と見える。
 [道里] 都[都合]水行十日、陸行一月
 [官名] 官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳鞮
 [戸数] 可七萬餘戶
 その後、狗奴国記事に衍入して付け足している。
 [道里] 自郡至女王國萬二千餘里

*部分修正 2023/01/15
 当ブログ著者は、道里行程記事は、郡を発し倭に至る公式街道の明示であり、魏明帝が魏使を派遣する際に参照されたものと見ているので、世上の意見と大きく異なっていることを、再度確認する。
 その際、郡を発した文書使の目的地は、「倭人」の代表者である伊都国であり、道里行程は伊都で完結するとみている。

*行程の最終到着地再考~2023/06/21
 以前の解釈では、「邪馬壹国」が最終到達地と見たため、伊都国との間の道里・所要日数が欠落したと見えたが、修正後は、伊都国が最終目的地なので省略可能と見える。副次的な影響として、邪馬壹国の所在は広範囲に置けるので、 比定地諸説に対する排他的な判断は発生しないと言える。
 修正解釈では、郡から倭・伊都まで一路南下する行程が、明快である。続く、奴、不弥、投馬、邪馬壹を、揃って「餘旁國」に追いやってしまうのが、諸兄姉には、受入れがたいと思うが、本記事は、解釈の根拠を述べているので、ゴミ箱行きは、もう少し、ご辛抱頂きたいものである。
 文献考証の見地から、「都水行十日、陸行一月」は、郡を発し伊都に到る所要日数であるから、「都」の直前に改行を追加すべきである。

*「直線的解釈」に「とどめ」
 熟読すると、今回取り上げた張氏提言は、誠に明快、整然としていて、先行諸説の中で、実は、榎一雄師の「放射行程」説と軌を一にしていて、私見では、明解、堅固な論説と呼ぶに、あと一歩迄届いている。
 本稿では、当記事で直線的な解釈に「とどめ」が刺されているとみるが、これに賛同するかどうかは読者諸兄姉次第であり、拙稿は論点提示に留める。

                               未完

新・私の本棚 張 明澄 季刊「邪馬台国」第12号 道里行程論 新解 6/9

「一中国人の見た邪馬台国論争」 好評連載第二回 梓書院 1982年5月刊
 私の見立て ★★★★☆ 泥中の真珠再発見 2022/12/01 部分改訂 2023/01/15 2023/06/07, 12, 19, 21, 23~26

*隠れた本懐/本解
 兎角、季刊「邪馬台国」誌「好評連載」「一中国人の見た邪馬台国論争」記事における張氏提言を、当ブログにおいて、しばしば非難したが、時に氏の韜晦の陰に、透徹した明解な解が披瀝されているのに気づいたものである。
 そして、しばしば、支持者に忖度してか、当提言は、突如大きく撓むため、近来に至るも、遂に理解されていないと見えるので、謹んで素人が蒸し返す。

*「余傍」の深意
 本「張明澄」提言を意義あるものとみると、「畿内説」の成立の余地がなくなるので、当記事は、埋め戻し、黙殺の憂き目を見ていると懸念される。

*さらなる補足 2023/06/07
 再読して、説明不足に気づいて再度補足する。随分の分量であるが、当ブログで再掲が大半というものの諸兄姉に探させるのも何なので復習した。

◯倭人伝道里記事の新解 2023/06/07
*里数概数の確認~イロハのイ
 念を押すと、本記事では、以下、里数の自明の「餘」を省略しているが、それは、概して、二千里刻みの切りの良い、千里、三千里、五千里、七千里、万里、万二千里と飛び飛びの数値を示しているのであって、その際に、切り捨て操作はしていない。つまり、見たとおりの漢数字で加減算して良いのである。もちろん、多桁算用数字で書くと、どこまで意味があるのか不明になるから、漢数字論義がイロハのイである。

*「郡」と「倭」の由来
 記事は、「従郡至倭」で書き出されているが、記事原文が書かれたのは、「倭人」が、半島以南の東夷を「都督」していた遼東太守公孫氏の治世『後漢中平六年(189)霊帝没年以降』の「初見」時点と見える。(雒陽の大混乱に乗じて、自称したようである)
 帯方郡の創設は、建安九年(204年)なので、漢代以来の歴史を持つ楽浪郡から報告を受けて、いわば、画期的な判断をしたとも見える。
 よって、「倭に至る」道里の起点は、本来、遼東郡であったと解するのが合理的と思える。
 後世人は、帯方郡成立後、それも、魏使訪倭紀行記事の視点に囚われて、「従郡至倭」行程を、「帯方郡」から「邪馬壹国」と決め込んでいるが、丁寧に時代考証するとそうとは言いきれないのである。
 例えば、「倭在帯方東南」と言い切るには、帯方郡の後方(西北)に、天子としての視点を確立している必要がある。

*時代考証の第一歩
 「倭人伝」を丁寧に読むと、「初見」は後漢霊帝末期、女王共立以前である。当たり前ことで提起されなかったが、「王」は男王であり、後年「女王居所」とした「邪馬壹国」は、当然、存在しなかったと見える。それが、「従郡至倭」の起源である。これも、当然至極なので、書かれることはないが、史官は、「史実」、つまり、公文書史料遵守で、史料改竄/捏造/書き換え/上書きなどあり得ない。
 従って、「従郡至倭」の正確な解釈には、「倭人伝」に対する丁寧な時代考証が必要である。それには中国古代史書の素養が前提であることは言うまでもない。いや、「三国志」の(国内)最高権威と称揚されるほど素養があっても、基本的な理解力/知性が欠落していると、『「史官」は、史実の継承を本分としていない』などと、とんでもない暴言を吐くから、困ったものである。

*張氏の時代観の限界~唐代/中世
 張世澄氏の中国古典書の理解は、どうも、中国の中世、唐代漢詩の解釈が限界のようである。そこに絞り込んでいる限り、比較的多数の読者を期待できるのであり、豊富な見識で名声を博したのに違いないが、秦漢代史書の解釈は、手に余っているのでは無いかと思われる。「魏志倭人伝」解釈は、圏外の三世紀史料とは言え、字数が限られるので、余技として、威勢良く秘剣を振るったと見える。
 読者諸兄姉は、その限界を踏まえて、氏の庖丁の技を賞味すべきである。

                               未完

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