季刊 邪馬台国

四十周年を迎え、着実に刊行を続けている「日本列島」古代史専門の史学誌です。

2022年12月 1日 (木)

新・私の本棚 張 明澄 季刊「邪馬台国」第12号 道里行程論 1/2

「一中国人の見た邪馬台国論争」 好評連載第二回 梓書院 1982年5月刊
 私の見立て ★★★★☆ 汚泥中の真珠再発見  2022/12/01 

◯始めに~珠玉の論義
 随分遅ればせの書評であるが、当分野では、かくも珠玉の論義が埋もれているので顕彰する。論義が、札付き記事に埋もれていては無理もないが。
 張明澄氏は、日本の漢字字典、辞典を読まないが、ここでは、漢字圏を通じ、漢字学の最高権威とされている白川勝師の辞書「字統」により謹んで補足させていただく。

「至」の原義は、弓で矢を射て届いたところを言う。つまり、「至」は矢が飛んで行った先であり、そこに行ったわけではない。
「到」の原義は、「至」「刂」であり、「至」で得られた行き先に実際に至ることを言う。

*混乱した解説
 張氏は、カタカナで「到」は、「リーチ」reach、あるいは「アライブ」arriveという。ただし、英単語は、この場で補足したのであり、原記事は、カタカナ語だけであるから、読者が理解できるとは思えない。
 前者は、「どこかに行き着ける」という意味だが、後者は、「アライブ」というだけでは、「到着」、つまり、「どこかからやってくる」という意味になり、「どこかに行く」と言うには、肝心の言葉が足りないので、前置詞を補って覚えるのが英語学習の常識である。
 つまり、「アライブ アット」arrive atで、「どこかに着く」という意味になる。それにしても、氏の思っているように、「リーチ」、「アライブ」は、全く同じ意味ではない。ここでは、「到」には、後者が適しているように見える。
 「至」は、「テイル」ないしは「アンテイル」というが、Tail、Untailと解しても、何を言おうとしているのか、理解できない。
 むしろ、「リーチ」reachに適しているように見える。

 このように、カタカナ語に無頓着な氏の理解は、当てにならない。これでは、読者の混乱を深めるだけで、言わずもがなである。古田武彦氏の(失敗例の)模倣であろうか。いや、うろ覚えのカタカナ語で、ご当人は明快にしたつもりで、一向に明快にならない点では、似たもの同士である。

*誤解の起源
 張氏は、戦前、戦中の日本時代の台北で、「皇民教育」を受けたはずであり、つまり、英語は敵性、使用禁止とした「日本語教育」で育ったのであるから、カタカナ語は倣ったものではなく、恐らく、成人となった後の付け焼き刃であろう。もちろん、伝統的な旧字、旧仮名遣いで育ったのであり、引き合いに出したカタカナ語を日本語として正確に理解し、表現できているとは思えない。

 と言うものの、現代日本人も、中高生時代に、英語を基礎から習ったものの、正確に履修した保証はなく、カタカナ語を見て、原点の英語を想定して理解できるとも思えない。書き手と読み手が、ともにいい加減な理解しかしていない言葉を論理の中核に据えたのでは、何がどう伝わるのか、到底確信できないと見るのである。
 張氏は、当記事を思いつきの随想として書いたわけではなく、編集部も、そのような冗句と解していないはずだから、この下りは、何とも理解に困るのである。

 本論の課題は、古代中国語文の解釈であり、そこに、うろ覚えのカタカナ語を持ち込むのは、根本的に筋が悪いのである。

◯倭人伝分析:各国「条」論義 基本的に「紹熙本」に準拠。句読随時。
 と言うことで、以下、原文に即した地道な解釈に努めるものである。
*緒条
 從郡至倭、…其北岸狗邪韓國、七千餘里。

*對海条

 度一海、 千餘里對海國。
  其大官曰卑狗、副曰卑奴母離。
  所居絕㠀、方可四百餘里、…有千餘戶、…乖船南北巿糴。
*一大条
 南渡一海、 千餘里、名曰瀚海、一大國。
  官亦曰卑狗、副曰卑奴母離。方可三百里。
 多竹木叢林。 有三千許家。差有田地、耕田猶不足食、亦南北巿糴。
*末羅条
 渡一海、 千餘里末盧國。
  有四千餘戶。濱山海居、…好捕魚鰒、水無深淺、皆沈沒取之。

*伊都条

 東南陸行五百里、伊都國。 官曰爾支、 副曰泄謨觚、柄渠觚。有千餘戶。
  丗有王、皆統、屬女王國、郡使往來常所駐。
*奴条
 東南奴國   百里。   官曰兕馬觚、副曰卑奴母離。   有二萬餘戶。
*不彌条
 東行不彌國  百里。   官曰多模、 副曰卑奴母離。   有千餘家。
*投馬条
 南投馬國   水行二十日。官曰彌彌、 副曰彌彌那利。   可五萬餘戶。

*結条

 南至邪馬壹國女王之所
 都水行十日陸行一月
  官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳鞮
 可七萬餘戶

*お断り
 以上の区分、条題、句読、小見出しなどは、本論限りの便宜的体裁である。
 版本の選択は、本件論義に影響しない。

                                未完

新・私の本棚 張 明澄 季刊「邪馬台国」第12号 道里行程論 2/2

「一中国人の見た邪馬台国論争」 好評連載第二回 梓書院 1982年5月刊
 私の見立て ★★★★☆ 汚泥中の真珠再発見  2022/12/01 

*「張明澄」提言~末羅分岐説
 各条の書き出しで、「始めて」、「又」、「又」と三度の「渡海」とわかる。
 このように、「順次行程」は、次を「又」で書き始めるのである。
 一方、末羅から先の行程は、「又」が欠け、末羅での分岐行程と見る
 卓見であるが、氏の「解法」は不徹底と見える。
 張氏は、「到」、「至」蘊蓄を傾けて個々の意義を説明したが、判じ物として不得要領であり、論ずべきは凡庸な学識の持ち主に通じる真意であり、「至」と「到」の使い分けは、想定読者にも通じる明快表現と見える。

*異論表明~伊都分岐説
 伊都以降で、伊都条は「到」であるが、以下は「至」である。
 「到」する伊都は、「丗有王、皆統、屬女王國、郡使往來常所駐」と「列国」として重んじられていて終着地と明記されたと見える。張氏も、「駐」は、偶々通りがかりに足を止めたとの意味ではないと明快である。

*「余傍」に「至る」
 それに対して、以下「至」は、伊都起点の「余傍」である。そして、掉尾の邪馬壹は、伊都からの行程・道里に欠ける。

*「至る」と「到る」
 白川師字書により、「至」は行程目的地、「到」は、行程到着地であって、爾後行程の出発点とされる。記事で、狗邪韓国と伊都国が「到」である。

*邪馬壹行程の意義 残された課題
 邪馬壹は「女王之所」であり、「結び目」を解きほぐすと、先行諸国と同列ではなく、道里行程記事結語と見えるが、最終到達地かどうかは不明である。
 正始魏使なる漢使は、「女王之所」にいたって、女王に拝謁した「蓋然性」が高いが、郡太守の文書が、すべて届けられたかどうかは不明である。
 古来、夷蕃の地で、漢使が、蕃王と接見することは必須ではない。
 諸兄姉の解釈は多様なので「一解」を強制するものではない。

◯「張明澄」提言の意義~泥の中の真珠
*里程記事新たな一解~エレガントな解釈
 以上、筋を通すと、道里行程記事は「南至邪馬壹國女王之所」で完結し、
 [道里] 都[都合]水行十日、陸行一月
 [官名] 官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳鞮
 [戸数] 可七萬餘戶
 と総括要件が示され、首尾一貫すると見える。
 要するに、郡から伊都まで、一路南下し到達する明快な行程である。
 回顧すると、張氏提言は、誠に明快、整然としていて、先行諸説の中で、榎氏の「放射行程」説と軌を一にしていて、私見ではあと一歩である。
 賛同するかどうかは読者諸兄姉次第で、本稿は論点提示に留める。

*隠れた本懐
 兎角、張氏提言をなべて非難したが、時に、氏の韜晦の陰に透徹した明解な解が披瀝される。支持者に忖度してか、当提言は、突如大きく撓むため、近来に至るも、遂に理解されていないと見えるので、謹んで素人が蒸し返す。

*余傍の深意
 本「張明澄」提言を意義あるものとみると、「畿内説」の成立の余地がなくなるので、当記事は、埋め戻し、黙殺の憂き目を見ていると懸念される。

                                以上

2022年11月20日 (日)

新・私の本棚 西村 敏昭 季刊「邪馬台国」第141号「私の邪馬台国論」再掲

  梓書院 2021年12月刊               2022/01/04 追記 2022/11/20
私の見立て ★★☆☆☆ 不用意な先行論依存、不確かな算術

〇はじめに
 当「随想」コーナーは、広く読者の意見発表の場と想定されていると思うので、多少とも丁寧に批判させていただくことにしました。
 つまり、「随想」としての展開が論理的でないとか、引用している意見の出典が書かれていないとか、言わないわけには行かないので、書き連ねましたが、本来、論文審査は、編集部の職責と思います。

▢「邪馬壹国」のこと
 「邪馬台国」誌では「邪馬壹国」は誤字であることに、触れるべきでしょう。無礼です。
 大きな難点は、「邪馬タイ国」と発音する思い込みで、これには、思い込みでなく堅固な証拠が必要です。半世紀に亘る論争に一石を投じるのは、投げやりにはできないのです。そうで無ければ、世にはびこる「つけるクスリのない病(やまい)」と混同されて、気の毒です。

 因みに、言葉に窮して「今日のEU」を引き合いにしていますが、氏の卓見に読者がついていけません。2022年1月1日現在、イングランド中心の「BRITAIN」離脱(Brexit)実行済みとは言え、連合王国として北アイルランドの動向が不明とか、域外のウクライナの加入問題などが、重大懸案ですから、とても、一口で語れるものではなく、氏が、どのような情報をもとに、どのような思索を巡らしたか、読者が察することは、到底不可能です。三世紀の古代事情の連想先としては、まことに不似合いでしょう。「よくわからないもの」を、別の「よくわからないもの」に例えても、何も見えてきません。もっと、「レジェンド」化してとうに博物館入りした相手を連想させてほしいものです。

*飛ばし読みする段落
 以下、「邪馬壹国」の国の形について推定し、議論していますが、倭人伝に書かれた邪馬壹国の時代考証は、まずは倭人伝(だけ)によって行うべきです。史料批判が不完全と見える雑史料を、出典と過去の議論を明記しないで取り込んでは、全て氏の意見と見なされます。盗作疑惑です。

▢里程論~「水行」疑惑
 いよいよ、当ブログの守備範囲の議論ですが、氏の解釈には、同意しがたい難点があって、批判に耐えないものになっています。
 氏の解釈では、帯方郡を出てから末羅国までは、一貫して「水行」ですが、里程の最後で全区間を総括した「都(すべて)水行十日、陸行三十日(一月)」から、この「水行」区間を十日行程と見るのは、「無残な勘違い」です。
 氏の想定する当時の交通手段で「水行」区間を十日で移動するのは、(絶対)不可能の極みです。今日なら、半島縦断高速道路、ないしは、鉄道中央線と韓日/日韓フェリーで届くかも知れませんが、あったかどうかすら不明の「水行」を未曾有の帝国制度として規定するのは無謀です。
 何しろ、必達日程に延着すれば、関係者の首があぶないので、余裕を見なければならないのですから、各地に海の「駅」を設けて官人を常駐させるとともに、並行して陸上に交通路を確保しなければなりません。
 「水行」として運用するに、壮大な制度設計が必要ですが、氏は、文献証拠なり、遺跡考証なり、学問的な裏付けを得ているのでしょうか。
 裏付けのない「随想」は、単なる夢想に過ぎません。場違いでしょう。

▢合わない計算
 狗邪韓国から末羅国まで、三度の渡海は、それぞれ一日がかりなのは明らかなので、休養日無しで3日、連漕はしないとすれば、多分6~10日を費やすはずです。これで、日数はほとんど残っていませんが、そもそも、600㌔㍍から800㌔㍍と思われる「水行」行程は、7日どころか、20日かかっても不思議はない難業です。潮待ち、風待ちで、不安定な船便で長途運ぶと、所要日数は、青天井ですが、向こう岸まで渡海に限れば、確実な日程が想定できるのです。この程度は、暗算でも確認できるので、なぜ、ここに載っているのか不審です。

▢古田流数合わせの盗用
 氏は、万二千里という全行程を、12,000里と勝手に読み替えて、全桁数合わせしますが、そのために、対海国、一大国を正方形と見立てて半周航行する古田説の誤謬を、丸ごと(自身の新発想として)剽窃しています。権威ある「邪馬台国」氏が、杜撰な論文審査だと歎くものです。

〇まとめ
 氏が、自力で推敲する力が無いなら、誰か物知りに読んで貰うべきです。 「訊くは一時の恥…….」です。 
 それにしても、高名であろうとなかろうと、誰かの意見を無批判で呑み込むのは危険そのものです。聞きかじりの毒饅頭を頬張らず、ちゃんと、毒味/味見してから食いつくべきです。
 以上、氏の意図は、丁寧かつ率直な批判を受けることだと思うので、このような記事になりました。頓首

                                以上

2022年11月12日 (土)

私の本棚 20 季刊「邪馬台国」 第125号 井上悦文「草書体で解く邪馬台国の謎」補充再公開

 私の見立て ★☆☆☆☆ 根拠不明の断言集 拝読辞退     2015/06/10 補充 2022/11/12

◯はじめに
 本稿は、専門的な根拠を踏まえた論説のようであるが、余程論旨に自信があるか、それとも、論旨に不安があるのか、冒頭から、強い物言いが続くこうした断定的な書き出しは、却って不信感を招くと思うが、どうだろうか。
 例えば、書き出し部で「三国志の原本は草書であったことが判明した」と声高に唱えるが、言い切る根拠は何かとみると、楷書写本は大変時間がかかるので、作業性が悪く、写本は全て草書で行われていたに違いないという説である。
 時代を隔てて、遙か彼方の現場を推定する「臆測」であり、何ら物的な証拠が無いのに断言するのは大胆である。

*考察検証
 ここで言う物的な証拠は、例えば、西晋皇帝所蔵の三国志写本の実物であるが、断簡すら残っていないし、下って、北宋までのいずれの時代でも良いが、皇帝所蔵の三国志写本が発見されたとは聞かないから、やはり、物的証拠は存在しないのである。
 それとも、噂に聞く、敦煌文書の呉志写本断簡は草書で写本されているのだろうか。もっとも、そうであったとしても、皇帝蔵書ではないので、状況証拠にしかならないのだが。

*「書の専門家」の暴言
 ここで状況証拠としている写本に使用する書体と作業効率との関係は、自称「書の専門家」の意見であるし、また、多少なりとも、書き真似してみれば納得できるので、不審ながら、一応、ご意見として伺うしかないのだが、その点を根拠に、正史の写本が全て草書で継承されていたというのは、速断に過ぎ同意しがたいものがある。

 因みに、いくら「書の専門家」のご高説とは言え、三国志の解釈に「草書の学習」が必要というのは、不可解である。三国志草書写本は現存しないのである。氏が三国志全巻を古代草書で書き起こして、仮想教材として提供するというのだろうか。それは、簡牘の巻物なのだろうか、紙冊子なのだろうか。

 いや、今回の井上氏の論説でありがたかったのは、秦漢時代にも、日常の書き留めには、手早く書ける草書めいた略字体が採用されていたと言う指摘である。してみると、草書の特性は、文書行政の発達した古代国家である秦時代からの常識であったと思うのである。
 発掘されている木簡類は草書では書かれていないようだが、日常の覚え書き類は草書だった(のだろう)との説には説得力がある。

*真書と草書
 それで思い出したのが、宮城谷昌光氏の著作「三国志外伝」の蔡琰(蔡邕の娘 蔡文姫/昭姫)の章の結末である。時の権力者、つまり、武人であり、教養人、つまり文人でもあった曹操から、蔡文姫が記憶している亡父の蔵書四百余篇を書き出して上程するようにと下問されたのに対して、「真書」で書くか、「草書」で書くか、書体を問いかけているのである。

 手早く草書で書き上げれば随分早く提出できるが、書籍として品格が低くなり、曹操ほど詩作や孫子注釈で高名な大家に失礼と思えるし、といって、厳密に真書で書くと、時間が大層かかる、いわば、二者択一であったのである。

 ここで言う真書は、言うならば、字画を全て書き出す本字であり、草書は、省略の入った略字という位置付けであろう。どちらでも、ご指示のままに書き上げますという趣旨である。

*書体の併存
 さて、古来から真書、草書の両書体が併存していたのであるから、草書が略字体であるために異字混同が(必然的に)出ることは、当時の知識人や行政官吏に知れ渡っていたはずと思うのである。氏自身も述べているように、草書の位置付けは、あくまで草稿、つまり下書き止まりであって、本当に「文書」を書くときは真書で書いたと言うことである。これは、浄書であり、清書でもある。

 ちょっと意味合いは違うかも知れないが、唐時代、公文書では、簡明な漢数字の一,二,三,,,を壱,弐,参,,,と、「大字」で書く規則があったのも、改竄防止、誤読防止の意義があれば、時間を掛けても字画の多い文字を採用していたと言うことである。ということであれば、信書(手紙)の類いは草書としても、公文書を草書で書くことはなかったはずである。
 つまり、正確さ、厳密さが至上課題である公文書類や正史写本には、後世に至っても厳として真書が採用されていたと推定するのである。

正史写本
 特に、正史写本の中でも、皇帝蔵書に当たる最高写本、これを仮に「正本」というならば、「正本」を写本して新たな「正本」を作るとすれば、そのような高度に厳密さを要求される複製写本の際には、写本に於ける速度ではなく、複製の正確さが至上命令である。
 至上命令というのは、これに違反すると、給料を減らされたり、免職になったりする程度の「処罰」にとどまらず、馘首、つまり、打ち首で死刑もあり得ると言うことである。

 それに対して、その際に経済的な要素として懸念される時間や人手は、国庫から十分以上に与えられるわけだから、真書で、しかも、予習復習を含めて、とにかく、時間と人手を惜しまずに、念には念を入れて写本するのは当然の帰結と思われるが、どうだろうか。

抜き書き・走り書き
 ただし、以上は、何よりも厳密さが求められる公文書や正史写本の話であり、一度、そのような厳密さの桎梏から解き放たれたときは、段違いに書きやすく、速度の出る草書写本が採用される可能性が高いと思うのである。特に、正史をもとに編纂された類書の原典とする抜き書き資料は、手っ取り早い草書で書かれていたものと思われる。
 類書編纂は、正確な引用でなく、飲み込みやすく消化した要旨抜粋であるので、誤字もまた発生することが避けられないのである。また、そもそも抜き書きの元となった写本が、正本と同様に真書で書かれていたかどうかも、以下で思案するように、かなりあやしいのである。

 お説に従い、これら草書写本には、異字混同がある種の「必然」となることを考慮すると、ここで延々と主張されている誤字は、こうした草書写本段階で発生し、構成されないままに継承され、最終的に、後代史書や類書に清書された際に、継承(誤伝)されたと見て良いのではないか。この辺り、論理の分水嶺というか、絵に描いたような諸刃の剣である。

 その極端な例として、翰苑写本がある。当該写本は、影印版の収録された解説書が公刊されているから、どのような書体と配置で、どんな文字が書かれているか、誰でも確認可能である。特に同意意見も、反論も出てこないブログ記事で公開された私見ではあるが、見るところは見て書いたものである。
 つまり、翰苑写本は、原本が確認不可能なので、ちゃんとした原本があったと仮定すると、写本というものの原本に忠実、正確な複写ではなく、また、その際に正確さを求めたものでもなく、とにかく、欲しい部分を、追い立てられているように、手早く抜き書き書写されていると見るものである。一番の難点は、素人目にも、校正、校閲によるダメ出しがされていないので、素人目にも明らかな錯誤が露呈していて、文字記録資料として信頼できないのである。
 いわば、書の文化財として尊重すべき「国宝」だが、史料としては、ほとんど信じられない、相当信頼性の低い文献資料と、書道の素人は見ている。

二次写本、末裔写本
 また、皇帝の指示した正史写本は、次なる正本として「厳格」に写本されるにしても、当代の正本から写本された、言わば、子写本(一次写本)から芋づる式に連鎖して写本された孫写本(二次写本)以降の末裔写本は、「厳格」の適用外であり、作業効率が優先され、草書写本となる可能性がどんどん高まるのである。地方豪族の手元に渡る頃には、多くが草書写本になっていたとも推測される。
 以前から指摘しているように、真書写本といえども、誤写の発生を食い止めるには、大変な労力と優れた職人群が必要であり、王侯貴族といえども、そのような厳格、精密な写本は、経済的な事情だけ推定しても、そう簡単にはできなかったと思われるのである。

草稿と確定稿
 また、三国志編纂過程で、陳寿と無名の補佐役が上程草稿を作成したのは草書体と思われるが、皇帝に上申する想定の三国志「確定稿」は、真書で清書していたものと思うのである。
 案ずるに、草稿といえども、文脈から推察できない異民族の固有名詞などは、おそらく、草書のただ中に真書を交えるなど、誤写を防ぐ工夫などをしていたに違いないのである。それが、俗事に屈しない史官というものである。

 井上氏の記述では、陳寿は三国志を完成することができず、草稿を残して没したようにも見えるが、60歳を過ぎた老齢であるから、自身の著作を中途半端な形で後世に遺すことがないよう、真書で書き上げた清書稿を確定稿、完本としていたと考えるのである。
 これは、皇帝から命が下ったときは、速やかに上程できるようにしておくという意味もあるのである。陳寿は、罷免されても、処断されたわけではないので、著作を続けられたと見るものである。陳寿の人柄と職掌を考えると、そう考えるのである。

余談談義
 総じて、井上氏は、業界用語を交えた不思議な言い方を、大変好むようである。
 例えば、冒頭で、何の断りも引用符くくりもなしに、「魏志倭人伝」と書いておきながら、禁じ手の後出しで、だめを入れるのである。
 曰く、『「邪馬台国」の(と言う国)名は、中国(余計である)正史(である三国志の一部である)の「魏志倭人伝」に書かれていると大方が思っている。』 ()内は当方の補充。
 何とも、見苦しい乱文であり、理解に苦しむ点は、凡百の俗説の徒と同様であり、氏の、文筆家としての未熟さを思わせる。
 それにしても、大方」とは何の意味か、よくわからない。多数の他人の「思っている」ことをどうやって調査し、どのようにして計数化して、「声なき声」の世論とも見える「大方」を見出したのだろうか。所詮、氏の見聞というものの、実は、飲み仲間の罵り合いではないだろうか。

 てっきり、季刊「邪馬台国」誌では場違いな、古田武彦説復唱かと思ったが、そうではない。「魏志倭人伝という正史はない」に始まる趣旨不明の提言が続く。どろりと「魏書の東夷伝の倭人の条」と書き写しているが、「魏書」と書かれているのはここだけで、他の箇所では全て、「魏志」である。趣旨不明である。「倭人伝」はなかった論には大方は食傷している。
 最後に、倭人伝と三国志全体の文字数が上げられているが、本稿においてどんな意義があるか、不明である。まことに、不可解である。

*成立の不思議
 以下、三国志の「成立方法」(単語明瞭、意味不明)と言う下りがある。
 「成立」を確定稿のとりまとめ時点と言うのであれば、その時点では、確定稿は、いまだ陳寿の個人的な著作なのだから、いわゆる官製史書である「正史」でないことは自明である。まして、一部厳密な言い方を打ち出す識者によれば、西晋時代に「正史」はなかったから、その後も、正史という言葉が浮上するまで、三国志は「正史」でなかったことになる。

 とかく、そのような「重隅突き」的な散漫な言葉咎めは、「大方」の読者に論旨の迷走を感じさせ、折角の文章が寄せ木細工との感を与え、箸休めの「閑話休題」以外に何の意義があるのかよくわからない。

 おそらく、ご自身の学識の範疇外なので、いずれかの公開文献から無造作に取り込んだのだろうが、身に合わない借り着は、本人の品格を落とすだけである。門外事を、うろ覚えで挟み込んで論説全体の値打ちを下げるのは、井上氏の創始した失敗ではない

写経
 遣唐使や留学僧が持ち帰った仏教経典の写本が草書体とも思えないので、唐時代でも、真書による写本も残存していたように思われる。
 奈良時代に平城京で行われた国家規模の写経事業も、また、本稿で言われる草書写本の例外と思われる。
 因みに「藤三娘」と署名した聖武天皇皇后「光明子」の残した写経は、どう見ても、草書ではない。
 と言っても、草書写経が「絶対になかった」と断言できるほど、多数の原史料を確認していないので、推測である。

◯まとめ
 当記事は、井上氏の軽率な思いつきを、「大地から掘り出した芋」と見ると、それを「泥付きのままで食卓に提供する自然食」と見える。つまり、せめて、泥を落とし、皮を剥いた上で、煮炊きして、調理提供いただきたいと思う。例えば、ウロコを取らず、はらわたも出さないサカナは、そのままでは食べられたものではないのである。自然食材は貴重であるが、だからといって、それが和食の真髄ではない。
 氏が、このように不出来な著作を公開したのは、氏にとって名誉にならないと思う。勿体ないことである。

 これでは、以下、氏の力説する新説が、忽ち、悉く「虚妄」と判断され、「ジャンク」とされるのである。世上、邪馬台国論争は、厖大な「ジャンク」所説群を産んだと「大方」が断じる理由とされるのは、それぞれの冒頭で、説得力のない、疑わしい「新説」をがなり立てるためと思うのである。「ジャンク」を悉く味わった上の評価とは見えない。
 現に、氏の著作を買って読もうという気には、到底なれないので、そのように推定する。

 仮に、氏の新著を贈呈されても、時間の無駄なので「拝読辞退」である。

以上

2022年11月11日 (金)

新・私の本棚 番外 邪馬台国の会 第404回講演 「3.邪馬台国の存在を大和地方に...」

 3.邪馬台国の存在を大和地方に認めることは出来ない                      2022/11/11
私の見立て ★★★★☆ 最重要

◯はじめに
 「邪馬台国の会」創設の「安本美典賞」の第一回受賞者関川尚功氏(先生)の贈呈式記念特別講演の細瑾であるが、重大なので敢えて公開する。

*議事次第  2022/10/16 開催
 1.第一回受賞者の関川尚功氏によせて
 2.関川尚功氏の業績[関川氏の年代論が正しい]
 3.邪馬台国の存在を大和地方に認めることは出来ない(関川尚功先生)
 以下、敬称は「氏」に留めたが、中国語で「先生」は軽い男性敬称であり、「氏」によって応分の敬意を評していることを申し添える。
 関川氏の特別講演、つまり、受賞著書の部分紹介で、遺物/遺跡に関する考古学考証は、氏の長年に亘る着実な学問研究「学究」の成果であり、全体として、纏向を含む奈良盆地中部、「中和」本拠として広範に行われてきた先賢諸兄姉の諸論考に基づいた確実な論考であり、多数の学究の叡知を結集し検証された成果であり、大いに尊重されるべきものであることに異議は無いと思うが、以下の「倭人伝」考証は、いずれの論考に基づいているのか、根拠薄弱で不適格である。
 安本美典氏は、立場上、関川氏の卓見を無遠慮に批判する「鋭利な名剣」は振るうことができないと見えるので、一介の素人が、僭越にも私見を述べる次第である。
 率直/正直な批判は、最上の賛辞と信じ、短評を試みる。

・『魏志倭人伝』は邪馬台国について、「その道里を計るに、まさに会稽(かいけい)、東冶(とうや)の東に在る」と書いてある。また、卑弥呼がなぜ親魏倭王となったのかといえば、三国時代の呉の孫権が、魏と仲の悪い高句麗や公孫氏に手を出して、東シナ海を伝わって対抗しようした。そこで魏は邪馬台国と結んで、公孫氏と呉の間に楔を打とうとした。下の地図を見れば、会稽、東冶の東は九州がせいぜいであり、公孫氏とのつながりを押さえるには北九州となり、畿内までには至らない。


*コメント
 冒頭は、「倭人伝」の改竄で、誠に不適切である。続く時代考証は、出所、論拠不明で、安易な受け売りは、氏にしては軽率の極みである。
 考証は「倭人伝」に根拠が無いので、手前味噌の「陰謀」史観創作と見え、「東治」改竄を含めた後世東夷への追従は、氏にしては誠に不用意である。
 「魏と仲の悪い高句麗」は杜撰である。公孫氏の反逆に高句麗が追従と見るのは誤解である。高句麗は公孫氏に援軍を送らず、司馬氏と結託している。また、魏が「公孫氏包囲狙い」で「未開の蛮夷である倭」と「同盟」とは論外の極みである。中原天子が、新来で、無文、つまり、古典書の文字を一切解しない蛮夷の蕃王と「盟約」など、到底、到底あり得ない。
 魏使が倭王に「親魏倭王」印綬仮授の時、公孫氏は、とうに土に埋もれていた。氏の専門外とは言え、著書として公刊している以上、これは、重大な確認不足と思われる。

 「会稽東治の東」(原文)は大局的構想であり、当時、緻密な現代地図は存在しなかったから、陳寿は漠然と「東」としたに過ぎない。また「東」の有効射程は、時代錯誤を越え奇怪である。「倭人伝」は東方に漠たる認識しか示していないから、その意味でも、かかる地図を古代史論に起用するのは、まことに罪作り、言わば「架空地図」である。
 先例では、武帝以来の漢使が、万里の彼方の西域の果ての「安息国」を大海「カスピ海」の東岸に「極めて」取材して、大海海西、さらには、さらに西の風聞を書き留めたが、皇帝に風聞、臆測、捏造を報告した「西域伝」記事は、史官にあるまじき粗略な所業として、後漢書を編纂した笵曄に罵倒されている。但し、陳寿は、正統派の史官であるから、臆測としてすら認められない事象は報告していない。

 氏は、考古学で「文字資料」の紀年と遺物、遺跡の時代比定は(現代視点で)連結してはならない』とする鉄則に反していると見える。まして、正史列伝に書かれていない背景事情、さらには、明記されていない関係者の思惑まで勝手に掘り起こして、所説の根拠として言い立てるのは、当然、史学の考察として無法である。案ずるに、「三国志」考証と言いながら、実は、「三国志演義」の創作事項に悪乗りしているのでは無いかと、真摯に懸念される。

 これら、氏に似合わぬ「倭人伝」誤解は、時代錯誤の地理観と相俟って、臆測と改竄依存の重畳と見え、氏の論考への信頼が、これに連座して崩壊しないかと懸念され、誠に、勿体ない。

◯まとめ
 かくのごとく、率直に苦言し、氏の寛恕を望んでいる。頓首。

                                以上

2022年10月 9日 (日)

私の本棚 33 笛木 亮三 「卑彌呼は殺されたか!」季刊「邪馬台国」125号 1/2 再掲

~卑弥呼以死考~ 2015年4月 梓書院
 私の見立て★★★★★ 力作にして必読 2016/03/06 分割再掲 2020/06/18 補筆 2022/10/09

◯総評
 当記事は、魏志倭人傳に於ける「卑彌呼以死」の解釈に関する論考です。
 先行する諸論考を「軒並み」採り上げて論評している本体議論に関する意見は置くとして、笛木氏が諸説について考察を加えた後、ぽろりと感慨を漏らされている点に大いに不満を感じるのです。

*世間知らずの了見違い
 第8章岡本説の検証と私見 115ページ上段です。
 『今、「三国志」にある「以死」のすべてが簡単にパソコンで検索できるらしいのです』とよそごとのように述べていますが、ちょっと意外でした。この場で論説を発表するほどの識者が、ご自身で用例検索していないし、しようともしなかったと見えるからです。続いて、「コンピューターは大したものです」と感心しますが大きな了見違いです。

*えらいのは誰か
 コンピューター(PC)がえらいのではなく、PCなどの「端末」を介して、ネットから世界中のどこかに貯蔵されているデータを確認できるのがえらいのです。更に言うなら、そういう仕掛けを作った人、従来秘蔵されていたデータを世界のどこかに貯蔵した人がえらいのです。いや、関西弁で言う「えらい」は、仕事が多いという意味ですから、二重に皮肉です。

 平たくいうと、氏が称揚されているのは、「ネット」、そして、その向こうにいる大勢の「えらい」人たちであって、PCが「えらい」のではないのです。大型コンピューターの所蔵データを端末機から閲覧した時代は去り、自宅のPCで、三国志を全文検索して、用例を全文検索できるのです。

*PCすら不要の世界
 これには、特に有償販売されているアプリケーションを購入する必要はなく、自宅のPCに導入されているWindowsに作り付けのインターネットエクスプローラーとその後継者や無償で利用できるFirefox, Google Chromeなどの「ブラウザー」を使用して、そうしたデータの貯蔵されているサイトにアクセスし、サイト作り付けの仕掛けを利用して検索を依頼するだけで、検索例を全部列挙させられる時代になりました。
 ご自宅のPCは、別にえらくないのです。使用する「機械」がMacであっても、Androidスマホであっても、大差ないのです。

*頼れる友人が肝心
 大事なのは、PCを買ってくるのではなく、だれか初心者に対して丁寧に教えてくれる人を持つことです。「困ったときに手を貸してくれる友人が本当の友人である」(A friend in need is a friend indeed)と言うことではないでしょうか。こうしてテキスト全文検索が広く普及したのは、「三国志」で言えば、刊本を自由に利用できるテキストデータとして公開している団体、ないしは、個人がいるからです。
 「三国志」を出版している出版社は、当然、使用した全テキストデータを保有していますが、かなりの人・物・金を投じて構築したデータベースで、出版社の知的財産(著作物)であり、簡単に無償公開はしてもらえないものです。

*公開データの効用
 と言うことで、WikiSourceや「中国哲学書電子化計劃」などの公開データですが、すべてボランティアが入力したものであり、時として誤読はありますが、膨大なデータ量を思えば仕方ないところです。

*見知らぬ友人
 面識も交信もなくてもこうした努力を積み重ねた人たちは、本当の友人です。

                                未完

私の本棚 33 笛木 亮三 「卑彌呼は殺されたか!」季刊「邪馬台国」125号 2/2 再掲

~卑弥呼以死考~ 2015年4月 梓書院
 私の見立て★★★★★ 力作にして必読 2016/03/06 分割再掲 2020/06/18 補筆 2022/10/09

*ユニコードの功績
 合わせて言うと、Microsoft社の英断(投書、各国文化の個性を破壊すると非難されたが)で、全世界の文字データが、共通のユニコード体系で参照できることになり、楽々中国文献の検索ができるので、Microsoft社の功績は絶大です。ここに謝辞を表しておきます。
 公開データを全文検索して用例列挙するのは、素人も追試でき、フェアです。

*先人功績の称揚
 「邪馬臺国」「邪馬壹国」論争時に、三國志全文を手作業検索した話が、匿名の風評譚となっていて怪訝に感じるのです。手作業検索を評価するなら実名顕彰すべきです。と言う事で、曲がりくねった言い回しは残念です。
 また、とうの昔に博物館入りしたはずの「レジェンド」記事が多く、笛木氏の責任ではないのですが、延々と引用紹介と解読を強いられる「論争」のあり方が、折角の労作に苦言を呈する原因となっていて、もったいない限りです。

◯書評本論~私見御免
 素人考えながら、広範な用例検索の必要性は理解しますが、文献解釈として本末転倒と思います。中国といえども、個々の文字、言葉の意味は、変動しているのであり、特に、古典典礼を踏まえない、日常用語の分野では、用例の適否判定が不可欠と見るものです。

 陳寿が採用した記事の筆者は、「以死」と書くとき、汗牛充棟の古典用例でなく、普通の教養で書いたはずです。当該文書の文脈から解釈することが、大変困難となったとき、初めて、書庫の扉を開き、台車で古典を引き出して身辺に置き、ひたすら参照すればよい、と言うか、そのような手順を常道とすべきなのです。これは、ほぼ笛木氏の趣旨でもありますが、敢えて書き立てます。

 倭人伝の書かれた真意を察するに、卑弥呼は、不徳の君主でなく敗将でもなく、天寿を全うしたと見るのです。没後に大いに冢(封土)を造営したころからもそう感じるのです。

□補足 (2020/06/18)
 初回掲示の際、氏の提示された参照史料を書き漏らした不行き届きを、ここに是正します。
⑴阿倍秀雄「卑弥呼と倭王」(1971講談社) 
⑵生田滋 「東南アジア史的日本古代史」(1975大和書房) 
⑶松本清張「清張通史 1 邪馬台国」(1976講談社) 
⑷樋口清之「女王卑弥呼99の謎」(1977産報ジャーナル・新書) 
⑸栗原朋信「魏志倭人伝にみえる邪馬台国をめぐる国際間の一面」(1964史学会) 
⑹上田正昭「倭国の世界」(1976講談社現代新書) 
⑦大林太良「邪馬台国」(1977中公新書) 
⑧三木太郎「魏志倭人伝の世界」(1979吉川弘文館) 
⑨福本正夫「巫女王・卑弥呼をめぐる諸問題」(1981大和書房) 
⑽奥野正男「「告諭」・「以死」・「百余歩」」(1981梓書院) 
⑾白崎昭一郎「卑弥呼は殺されたか」(1981梓書院) 
⑿三木太郎「倭人伝の用語の研究」(1984多賀出版) 
⒀張明澄 「一中国人の見た邪馬台国論争」(1983梓書院) 
⒁謝銘仁 「邪馬台国 中国人はこう読む」(1981立風書房) 
⒂徐堯輝 「女王卑彌呼と躬臣の人びと」(1987そしえて) 
⒃沈仁安 「倭国と東アジア」(1990六興出版) 
⒄水野祐 「評釈 魏志倭人伝」(1987雄山閣出版) 
⒅岡本健一「発掘の迷路を行く 下」(1991毎日新聞社) 
⒆井沢元彦「逆説の日本史 古代黎明編」(1993小学館) 
⒇生野真好「「倭人伝」を読む」(1999海鳥社) 
㉑藤田友治「三角縁神獣鏡」(1999ミネルヴァ書房) 
㉒佐伯有清「魏志倭人伝を読む (下)」(2000吉川弘文館) 
㉓井上筑前「邪馬台国大研究」 (2000梓書院) 
㉔武光誠 「真説 日本古代史」(2013PHP研究所)
㉕岡本健一「蓬莱山と扶桑樹」 (2008思文閣出版)
                             以上

2022年9月15日 (木)

新・私の本棚 山下 壽文 「末羅国伊都国間の道程を巡る諸説の検討」

 ~唐津平野の地形を中心として 季刊 邪馬台国 142号 投稿記事 令和四年八月一日
 私の見立て★★★★☆ 好記事     2022/09/15

◯総評
 本稿は、現代の精緻な地理識で「倭人伝」を批判する方針で丁寧に論じられたことに敬意を表するが、当方の「道里行程記事」解釈と意見が別れ、一言批判する。なお、本稿は「投稿記事」であり、編集部見解と輻輳するかも知れない。

 なお、後記するように、当稿は、氏の「道程」論本体部分に干渉するものではない。

*通説、異説の取り扱い
 「はじめに」で、「倭人伝」末羅条の「東南陸行五百里到伊都国」の道里に対して、「水行」と読む異説(風評か)が紹介されている。氏は、慎重に、「陸行」「通説」ながら「道程」に「陸行」と「水行」の両論があるとしている。

*合理的な解釈訴求
 末羅条記事は、「末羅に至る三度の渡海「水行」から、末羅で陸行に復元した」と明記しているにも拘わらず、「陸行」は改竄であるとの稚拙な思いつきであり、一考に値しないと見える。慎重な推敲を経た記事を「水行」と読む「異説」は、「説」に足りない「憶測」であり、はなから棄却である。

 「倭人伝」は、中国史書の道里記事で空前の「水行」を「大海中の洲島を渡海し伝い行く」例外的用語と定義したのであり、末羅が「伊都と隔絶した海島」と書かれていない上に、「さらに海を渡ると書いていない」以上、ここに「水行」が出る幕は金輪際無いのである。ことは、一字書換で済まないのである。「水」「陸」は、随分字形が違い、それは略字でも容易に識別されたはずであるから、素人でも誤写しないのである。

 氏は、現代日本人が「憶測」で倭人伝記事を覆すことの愚を歎いておられるので、この点以外でも、堅実な考察を進めていただけるものと思う。なお、「異説」を「さかな」にしたと見える道程地図論は、当論の圏外である。

*即決の勧め~同感と不同意
 無効な見解を即決せず審議を重ねるのは、氏の見識に勿体ないと思う。
 「おわりに」で逡巡の背景をみると、氏は、倭人伝道里を直線的と決め込んだために、いずれも不合理と頓挫、苦吟しているようである。
 率爾ながら、「伊都から女王まで水行十日陸行一月」との「不合理な通説」に固執せず、柔軟な視野で読みなおすようお勧めする。何か得るものがあるはずである。

 「倭人伝」論で、「通説」は「浅慮の旧弊」の同義語、骨董品、レジェンドなので、ちゃんと「壊れ物」扱いして頂きたいものである。

*用語の時代錯誤~定番の苦言
 因みに、氏は、「道程」と暢気に書いているが、砂浜は「道」や「禽鹿径」ではない。タイトルで、きっちり底が抜けている。因みに、「道程」は、「中国哲學書電子化計劃」のテキスト検索では、唐代「白居易」漢詩だけで、魏晋代には存在しなかったと見える。これでは、タイトル審査で落第である。

 魏志「倭人伝」は、三世紀中国人著作物であり、真意を解読するには、まずは、現代日本人の「辞書」を脇にどけて挑む必要がある。氏の一助になれば幸いである。

*「魏船」来航幻想~無視された無理難題
 氏は、魏使が、自前の船舶で末羅に来航したと決め込んでいるが、検証済みだろうか。
 山東半島から帯方郡の海津(渡し場)までは軽微な便船でも、遙か末羅まで、海図も寄港地案内も、何も頼るものもない、絶海、未踏の行程をどう解決したか、慎重に検証して欲しいものである。何しろ、「倭人伝」には、「狗邪韓国で海岸に出て、初めて海を渡った」としか書いていないのである。

                                以上

2022年9月 6日 (火)

新・私の本棚 笛木 亮三 「卑弥呼の遣使は景初二年か三年か」(2) 結論批判

 「その研究史と考察」 季刊 邪馬台国142号 投稿原稿 令和四年八月一日
 私の見立て ★★★★☆ 丁寧な労作の失墜   2022/09/06
 
〇竜頭蛇尾
 序章紹介に続いて、本稿は、結尾部分に移動する。
 氏は、延々と続く、迷い箸にも似た「煩悶」、つまり「研究史」考察の果てに、末尾で忽然と東夷伝序文に着目し、既に陳腐化、風化した解釈により「帯方郡収容」は公孫氏滅亡後と断定しているように見える。

 本稿読者には、頭から氷水を浴びる「サプライズ」、すなわち不愉快極まりない「ドッキリ」である。

*サイト記事の史料批判は、筆者批判
 氏の結尾は、某サイト主の一文に依拠しているが、同主は中国文を読解できないと自認し、翻訳文を根拠としているのだが、その過程で、原文の「又」を、自己流の「さらに」と決め込んでいるので批判するのに困る。
 後述するように、漢文の「又」は、漢文において、さまざまなな意味を持っていて、どの意味を採用するか、苦心するのだが、同主は、そのような苦心に無頓着で、翻訳文に採用された日本語の「さらに」を、自身の解釈に採用するのだが、後述するように、魏志の翻訳文で「さらに」と言うのは、日常語、現代語の「さらに」ではなく、漢文の「又」を精密に投影しようとしているのであるから、安易な断定は、禁物なのである。
 このあたりの機微は、中國古典資料の飜訳に於いて、もっとも高度な配慮が必要なものである。つまり、日本語の用語は、時代によって、意味が変動しているのは当然であるが、さらに、使用されている文脈によって異同があるため、不連続な「意訳」を行うと、滑らかな訳文のように見えて、原文との連係が喪われるのである。
 「又」を「さらに」と置き換えたのは、その際に「又」の複数の意義が喪われないことから、誤解を誘う「意訳」に陥らないものとしたように見える。ただし、読者に、そのような慎重な解釋の素養がなければ、そのような配慮は水泡に帰して、単なる「意訳」に堕したと見られてしまうのである。

*至高の飜訳
 筑摩書房刊 正史「三国志」第一巻 魏書訳文は、端倪すべからざる翻訳者の畢生の偉業であり、中国古典書の飜訳であるから、現代人がすらすら読めるものでなく、適確な読解には、相当の「勉強」を求められる。同主は無頓着だが、引用された資料展開は、翻訳者に「誤解」の責めを負わせようとしているのであり、随分、論者として無責任であり、翻訳者に失礼と思われる。
 素人でも、史料解釈には、丁寧な解釈に最善を尽くすものではないかと、愚考する次第である。それは。飜訳の解釈の錯誤/誤解に及ぶのである。「勉強」は、夜更かしを強制しているのではない。二重、三重に模索して欲しいと言っているだけである。

*辞書確認
 権威のある国語辞典「辞海」を参照すると、「さらに」、「又」の項には、これらの言葉が、『それまでの事項(甲)を受け、「それとはべつに」と新たな事項(乙)に繋ぎ、「甲乙並記」と解釈する』ことが「できる」(排除されてはいない)と明確に示唆されていて、漢文の「又」の多様な語義を忠実に引き継いでいるとわかる筈である。

 同主は、日本語解釈が世人なみに不確実で思い込みが強い筈であるから、その「個性的な」見解が適正であるかどうか、論拠として採るかどうか、氏としては、慎重に「裏」を取る必要を示している。
 本件のように、両様の解釈が成り立ちうると判断される場合、一刀両断で断定せずに、両論を考慮するのが常識と見えるのである。いや、論者が誰であれ、論拠として依存すると決める前には、慎重な検証が必要なのである。

 笛木氏が、引用された個性的な固執解釈を深く審議することなく、つまり、「辞海」などの国語辞書で追試することなく、断定的判断に追従したのは、氏としては軽率である。
 少なくとも、本稿に於いて、多数の諸兄姉の意見を審議したのであるから、それらの思索を読者に辿らせておいて、ここに来て、コロリと「どんでん返し」しては、貴稿の筋が通らないのではないかと危惧される。

 同書翻訳者は、「魏志」東夷伝が三世紀の中国人のために書かれたことに深く留意し、飜訳によって原文解釈が曲がらないように、心をこめて飜訳したのであるから、自身の限られた語感でなく、適切な辞書に従って解釈すべきである。

*後世史料観~余談
 また、別の要素として、「太平御覧」、「梁書」などの「後世資料」の「又」は、魏書の「又」と同義と断定的に解釈できないと見られるのである。要するに、資料の文脈を掘り下げて、その時代背景を考慮して、その真意を察するしか無いのである。三国志の編纂が、同時代でないにしろ、編纂時と時代的に接近し、文化背景が維持されていたのと異なり、中原文化が破壊され、南方に逃避した残党が、遂に、北方の異民族の手で、無理矢理復元された時代であるから、「後世資料」の「又」の用法が、魏書の「又」の用法と、安易に同一視できないのは、むしろ当然と思われる。いや、場違いな感慨で失礼する。

*結論の試み
 以上で、魏志東夷伝記事の「又」の翻訳文の独自解釈に依拠して、「景初二年」解釈を決定的に排除することはできないことが理解できる筈である。世の中は、そんなに甘くないのである。

◯まとめ
 笛木氏には、是非とも、本稿の結尾を、御再考いただきたいのである。氏が、膨大な資料の慎重な審議を重ねて、この解釈に到着したのであれば、このような「どんでん返し」形式を避け、読者が、安心して追従できる、着実な著作として頂きたいものである。

 因みに、「御再考頂きたい」とは、「御意見を変えて頂きたい」の趣旨であり、英語の"I would appreciate if you would kindly reconsider, Your Honor." とほぼ同義(敬語表現)である。事実上、「教育的指導」だが、深意を露骨に示さないのが礼儀というものと思うが、ここは、不躾にも「率直」に書いている。

 某サイト主は、とにかく頑冥で、思い込みに一途に固執し、他人の意見にとんと耳を貸さないので、笛木氏のご理解を願うしかないのである。

◯苦言
 氏が、十分な確認無しに、一サイト主の意見に飛びついたのは、各史料との苦闘に「鞠躬尽瘁」されたためと思える。
 不浄の可能性がある「ジャンク」史料を俎上に載せず、「清浄かつ精選」史料の核心に集中されることをお勧めする。

                              以上

2022年9月 5日 (月)

新・私の本棚 笛木 亮三 「卑弥呼の遣使は景初二年か三年か」(1)補追版

 「その研究史と考察」 季刊 邪馬台国142号 投稿原稿 令和四年八月一日
 私の見立て ★★★★☆ 丁寧な労作     2022/08/21 補追 2022/09/05~06

◯『⑴「魏志倭人伝」の記述』~単独批判の弁
 氏が総括された「研究史」の難点が、劈頭に露呈している。「主張の根拠」を丁寧、正確に明示するのは、氏の美点であり、「主張の根拠」として採用された世上の諸説に、何かと行き届いていない点が見てとれるが、それは、氏が依拠した「倭人伝観」が、大きく傾いた「通説」の視点/視線の齎したものであり、これは、第三者でないと、率直に、つまり、不躾に指摘できないものと思うので、以下、僭越を承知で苦言を呈したものである。決して、個人的な批判ではないので、ご了解いただきたい。

 「卑弥呼の遣使」は、一級史料たる倭人伝に記録されているから、とうの昔から、景初二年」と確定している。それが、出発点である。
 景初三年「説」は、信頼性で劣る雑史料「ジャンク」を根拠としているようであるが、それら雑史料の史料批判/資格審査を残さず歴た上で、ようやく「説」として評価するに足るかどうかを審議できる。事前の審査で好評を得て、審議に対して発言する資格を得ても、「倭人伝」を覆すには、さらに幾山河越えねばならないが、それは、提言者の務めである。

 「研究史」は、笛木氏が創唱、主導したのでなく、これまでの成り行きに氏に責めは帰せられないが、氏が、ほぼ無批判で、「研究史」を総括しようとされたのは勿体ない。

 要するに、「景初三年」説は、言わば土中の萌芽に過ぎず、未熟で、形を成さない異論の双葉になろうか、というものでしかないから、二者択一は、不当である。

 つまり、冒頭の「⑴「魏志倭人伝」の記述」は、論義の方向を誤っている。氏は、論拠として有力と見た史料を列挙されたが、前提が克服されていない。

 いや、そもそも、列挙資料の一端として、考証の原点となるべき「倭人伝」に、原本未確認との根拠なき予断を貼り付けていて、写本の際の誤写発生の多寡についての考証不足とともに、氏にとって重大な学恩のあると推定される、いずれかの諸兄姉に由来する深刻な「偏見」、「曲筆」、「妄説」に追従していると見えて、誠に勿体ない。当ブログ筆者は、素人、それも、完全自由な立場なので、言いたいことを言っているが、社会人が、不自由であることは承知している。

 古来信頼されてきた誠実な著作物である「倭人伝」が「罪人」扱いで、不揃いな証人/容疑者と並べて、お白州/被告席に座らされてはたまらないのである。天下の正義は、どこにあるのか。正義の女神は、目隠しされているのだろうか。

*資格審査/証人審査
 まずは、論拠とするに足る史料は、同時代、中国で史書として記事検証を歴たと思われる「史書」に限定すべきではないだろうか。後記したように、「史記」以来の断代史を総合して、「通史」を編纂するという偉業を成し遂げた「通志」が参照されないのは、不思議である。
 以下、最低限の「判断と根拠」を明示しているが、当ブログ筆者は、別に何の報酬を承けてもいない、言わば、暇人のボランティアであるが、当然、なんでも勉強させて頂くわけではない。今回は、密かに私淑して来た笛木氏の労作であるから、あえて、口を挟んだのである。

 総括すると、「魏志」の原記事を推定するための証拠資料として、全て不適格と判断される。下世話な言い方で言うと、「顔を洗って、出直しなさい」ということである。

⑴「日本書紀」は、中国史書でないので、正史同等の信頼性を有さず、不適格である。
 当該部分は、所定の校正を経た「書紀」本文でなく追補と見える。「書紀」原本で確認しない限り、「書紀」と同様の権威すら認めることができない。但し、「書紀」原本は、現存せず、「書紀」原本を読了した人物は、生存していない。(苦笑)

 氏は示していないが、「書紀」「引用」は、史書で不法な「明帝景初三年」なる字句を放置していて、引用元が、「適切な魏志写本でない」と判断される重大な錯誤のある引用資料の他の部分が正確との主張は、無効である。「不法」と言うのは、叱責どころでない、大罪であるからである。

⑵「翰苑」は、史書でないので、正史同等の信頼性を有さず、不適格である。
 そもそも、提示されているのは、出所不明の断簡、つまり、断片、佚文であり、重ねて不適格である。
 同断間の該当部分は、広範な史料から雑多な引用を連ねた記事であり、僅かな区間に「重大な誤字」が二点確認されている以上、当写本は、適切な校正を怠った「ジャンク」と断定できる。(残る部分の惨憺たる状況は、ここでは論じない)(苦笑)

 通常の史料批判では、別系統写本と比較校勘するものだが、本史料は「版本」が、一切存在せず、「紹介部分以外にも大量に存在する重大な誤写が、残らず温存された原因は不詳」であるが、史料としての評価は明確である。(諸兄姉は、そのような「ジャンク」から、発見を重ねているようであるが、とんでもない迷走てある)(国宝と認められた美術品としての文化財価値は、ここでは論じない)

⑶「太平御覧」は、史書でないので、正史同等の信頼性を有さず、不適格である。
 本質的に、厳密な校正が施された「史書」でなく、緩やかな写本を繰り返した「類書」である。氏も、現行刊本の関係記事の「景初」年に両様があると認めていらっしゃるから、考証の根拠とできないのは自明と思われる。(証明不要)

 素人目にも、「史書」資料として信頼できるのは、南宋初期、紹興年間の編纂と見える鄭樵「通志」と思われる。「景初」記事は、魏志の引用として書いてはいないので、「魏志」の原記事を推定するための証拠資料として、どのように評価するか腹をくくって頂く必要があるが、このような明白な資料候補を無視されるのは、不都合極まりないのではないかと思われる。氏の面目に関わると憶測されるので、ご一考頂きたいものである。

⑷「梁書」は、成立過程に重大な疑問が呈され、札付きの不良「正史」である。不適格である。
 南朝「梁」は、安定した治世の末期に大規模な内乱で、反乱軍に建康を長期包囲され、帝国が崩壊したから、公文書の正確な継承を信頼することができない。南朝は、「北狄」の末裔である隋に滅ぼされ、南朝文書類は撲滅されたと見えるから、公文書の正確な継承を信頼することができない。そもそも、西晋崩壊時、漢魏晋代公文書の多くは散佚したと見え、重ね重ね、梁書「東夷」記事は、信用ならない。

 「梁書」は、天下を統一したと称する唐によって、積極的に南朝の非正統性を証する「正史」として編纂されたものであり、信頼することのできない内容であることは、衆知である。
 ただし、このような「正史」は、堂々たる「フィクション」であり、一部不見識な野次馬が言うような「ウソ」ではない。(野次馬が言う「ウソ」の意味は、理解しがたいので、憶測で反駁する)

⑸「北史」は、粗忽に総括された史書であり、記事の正確さを問うべきではない。不適格である。
 対象とされる北朝諸国は、三国との交渉はあったようであるが、北部の高句麗を除けば、影響力は限定されていて、東南部、嶺東の新羅との交渉は限定され、まして、渡海の果ての「倭」とは、接触がなかったはずである。つまり、「北史」は、信頼できる「倭」伝を持っていないと見るべきである。
 従って、紹介記事は、「魏志」の適確な引用でなく、北史編纂者の作文と推定するしかない。要するに、「魏志」の原記事を推定するための証拠資料として、不適格である。

⑹「通典」⑺「玉海」が紹介されるが、史書でなく不適格である。

*告発不成立
 「倭人伝」の誤謬を告発する証左となるはずの証人/資料は、全員不適格で、排除され、審理は、不成立である。これは、本件に関する最終的な裁断であり、此の際、「無罪」と判定された以上、二度と告発されることはないのが鉄則である。

*史学の常道を怠る「通説」の決め込み~余談
 通説は、基本である史料考証を怠り、憶測によって「倭人伝」を非としたようだが、笛木氏であれば、本稿で論理的裁断を示していただけるものと期待したのであるが、実らなかったようである。

 常識として、正史に異を唱えるには、匹敵する有力史料が不可欠である。司法手続きで言うと、審理の基本は、「推定無罪」であり、この原則を覆すに足ると証される客観的な証拠を示さないと、審理は棄却されるのである。

*「減縮」~取り敢えずの提言~余談
 不確かな「ジャンク」史料は、論義から排除、減縮すべきである。「ジャンク」は、何件積み上げようと「ジャンク」であり、数は力とばかり、素人並の料簡違いで、「ジャンク」をずらずらと提示するが、却って論者の不見識が露呈している。

 以下、「誤記はいつ生じたか」と「ジャンク」を唱え、引き続き、延々と、「ジャンク」に基づく憶測が延々と述べられるが、非科学的な推移である。出発点の選定に謬りがあり、初期進路選択に誤りがあれば、いかに、適確な考証を進めても、進路の成否を問えるものではない。

 端的に言って、記事の「二」が「三」の謬り(ではないか)との「ジャンク」論に、研究者諸兄姉の多大な労力が浪費されたと見えるるのは、勿体ないのである。

*大脱線~余談の余談
 今回のように、「研究史」として抜粋列記されると、強弁するために強調を重ねたこじつけと誤解が表面化するのである。それぞれ、生煮えの一説を、闇鍋に付け足したのに過ぎないのに、決定的、排他的な断言となっているのが、後世から見ると、むしろ、子供染みて見えるのである。いや、素人の「野次馬」発言をお詫びするが、この混沌は、古人の言う「烏鷺の争い」と見え、誰が、「漁父の利」を得ているのか、思い巡らすのである。

 各公的機関の研究者」が、公務の一貫として、そのような「攪乱工作」、「焦土作戦」、「清野の上策」に取り組んでいるとしたら、それは、大変困ったことである。

 いや、またまた脱線して、笛木氏に関係ない方向に踏み込んでしまった。陳謝陳謝。

                               本項完

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