季刊 邪馬台国

四十年を越えて着実に刊行を続けている「日本列島」古代史専門の史学誌です。

2026年2月 9日 (月)

新・私の本棚 山下 壽文 「末羅国伊都国間の道程を巡る諸説の検討」2026増補

 ~唐津平野の地形を中心として 季刊 邪馬台国 142号 投稿記事 令和四年八月一日
 私の見立て  星二つ ★★☆☆☆ 好記事といえど、難多し     2022/09/15 改訂 2023/08/30

◯総評
 本稿は、現代の精緻な地理識で「倭人伝」を批判する方針で丁寧に論じられたことに敬意を表するが、当方の「道里行程記事」解釈と意見が別れ、一言批判する。なお、本稿は「投稿記事」であり、編集部見解と輻輳するかも知れない。
 なお、後記するように、当稿は、氏の「道程」論本体部分に干渉するものではない。

*通説、異説の取り扱い
 「はじめに」で、「倭人伝」末羅条の「東南陸行五百里到伊都国」の道里に対して、「水行」と読む異説(風評か)が紹介されている。氏は、慎重に、「陸行」「通説」ながら「道程」に「陸行」と「水行」の両論があるとしている。
 この際の「通説」は、「倭人伝」原史料に基づく、厳正な「定説」であり、これに「異説」を唱えるには、厳格な自己検証が不可欠なのである。
 にもかかわらず、山下氏は、出典を明らかにしない風聞を提示して、論義を開始している。これは、論考の根底を踏み外しているが、季刊「邪馬台国」氏は、安本美典氏の「誌是」に反して、無審査で掲載しているようである。もったいないことである。これでは、山下氏が、児戯に類する雑文を投稿したことになり、氏の名声を損なうと見える。

*合理的な解釈訴求
 末羅条記事は、『末羅に至る三度の渡海「水行」から、末羅で陸行に復元した』と明記しているにも拘わらず、「陸行」は改竄であるとの、誠に稚拙極まりない思いつきであり、一考に値しないと見える。西晋史官陳寿が、慎重な推敲を経た「倭人伝」 記事を「水行」と読む「異説」は、「説」に足りない「憶測」であり、はなから棄却である。
 「倭人伝」は、中国史書の道里記事で空前の「水行」を「大海中の洲島を渡海し伝い行く」例外的用語と定義したのであり、末羅が「伊都と隔絶した海島」と書かれていない上に、「さらに海を渡ると書いていない」以上、ここに「水行」が出る幕は金輪際無いことは、一字書換で済まないのである。「水」「陸」は、随分字形が違い、それは略字でも容易に識別されたはずであるから、子供でない限り、誤写しないのである。

 氏は、現代日本人が「憶測」で倭人伝記事を覆すことの愚を歎いておられるので、この点以外では、堅実な考察を進めていただけるものと思う。なお、「異説」を「さかな」にしたと見える道程地図論は、山下氏を非難するためではないので、当論の圏外である。

*即決の勧め~同感と不同意
 無効な見解を即決せず審議を重ねるのは、氏の見識に勿体ないと思う。
 「おわりに」で逡巡の背景をみると、氏は、倭人伝道里を直線的と決め込んだために、いずれも不合理と頓挫、苦吟しているようである。
 率爾ながら、「伊都から女王まで水行十日陸行一月」との素人目にも「不合理な通説」に固執せず、柔軟な視野で読みなおすようお勧めする。何か得るものがあるはずである。
 「倭人伝」論で、「通説」は「浅慮の旧弊」の同義語、骨董品、「レジェンド」なので、ちゃんと「壊れ物」扱いして頂きたいものである。

*用語の時代錯誤~定番の苦言
 因みに、氏は、「道程」と暢気に書いているが、砂浜は「道」や「禽鹿径」ではない。タイトルで、きっちり底が抜けている。因みに、「道程」は、「中国哲學書電子化計劃」のテキスト検索では、唐代「白居易」漢詩だけで、魏晋代には存在しなかったと見える。これでは、タイトル審査で落第、ゴミ箱直行である。

 魏志「倭人伝」は、三世紀中国人著作物であり、真意を解読するには、まずは、現代日本人の「辞書」を脇にどけて挑む必要がある。氏の一助になれば幸いである。

*「魏船」来航幻想~無視された無理難題
 氏は、魏使が、自前の船舶で末羅に来航したと決め込んでいるが検証済みだろうか。
 山東半島から帯方郡の海津(渡し場)までは、騙し騙し軽微な便船でこなしたとしても、遙か末羅まで、海図も寄港地案内も、何も頼るものもない、絶海、未踏の行程をどう解決したか、慎重に検証して欲しいものである。もちろん、「騙し騙し」は、冗談であって、迚も迚も、「自前の船舶」、つまり、海域に不似合いで、水先案内の着いていない異国の船舶は、死にに行くようなものである。

 何しろ、「倭人伝」には「狗邪韓国の海岸に出て、初めて海を渡った(水行した)」としか書いていないのである。何か、夢でも見ているのだろうか。

                                以上

追記:2023/08/30
 今回読みなおして、氏の真意を探り直したのであるが、所詮、氏の素人考えを古来の「素人考え」なる「通説」と対比して論じているようにしか見えないのである。当ブログは、「通説」を世上俗耳に訴えている「俗説」と同義語扱いしていて、本来の「定説」が霞んでいるが、依拠文献である「倭人伝」の正当な解釈が、「俗説」と同列に扱われているのは、何とももったいないのである。

 つまり、倭人伝の冒頭に展開されている「道里行程」記事は、中原政権である魏が、麾下の帯方郡から、新参の東夷である倭に至る行程を公認したものであり、世上誤解されているように、魏使の訪倭記を書き留めたものではないのは、明らかである。要するに、「道里行程」記事の主部は、魏明帝が派遣した魏使について、所要日数を明示したものであり、六倍にも達しようという道里の誇張など、本来あり得ないのであるし、所要日数の見積もりは、最大この程度かかる、という想定であり、これは、帯方郡に確認させれば、せいぜい数ヵ月で確認できるので、大幅な誇張などあり得ないのである。誇張して露見すれば、関係者一同、馘首死罪であるから、妥当な日数なのである。

 また、道中で、狗邪韓国から三度の渡海が特記されているが、この間は、並行した陸上街道がないので、それぞれ、陸上街道で一千里と見立てたものまで有るから、末羅国から、始めて「陸行」された以上、伊都国までは、陸続きなのが明記されているのである。この点を偽っても、何の効用もないから、偽りないものと見るべきなのである。

 さて、氏は、そのように確定した末羅国~伊都国行程に関して、なぜか「倭人伝」記事に反する「水行」を想定し、海面上昇などの異次元要素を持ち込んで「倭人伝」の誤記だとする「異説」の支持を図っているのである。しかし、これは、論証の存在しない「思いつき」に反応しているものであり、方向違いなのである。つまり、資料解釈を覆すには、採りよう、つまり「倭人伝」を克服する確定知りようがなければならないのである。そうでなければ、そのような思いつきは、門前払いして、却下すべきなのである。まして、「定説」の否定に走るべきではないのである。
 肝心なのは、問われるべきは「倭人伝」の文献考証であり、編者である陳寿が、「倭人伝」編纂の際に知るはずもない、倭地の地形は、お呼びでないのである。
 「倭人伝」は、三国志「魏志」の一部分であり、当時の皇帝以下の高官を読者として想定し、明快な読み物としたのであるから、氏が論じているような現地事情は、関係無いのである。逆に、当時読者が、即座に理解できたような明解な記事であるから、高度な計算を強いたり、面倒な謎解きを書き込んだりすることは、あり得ないのである。現代人が題意を読み取れないのは、所詮、東夷で、古代人の常識である教養を持たないから、理解できないだけなのである。
 誠に単純明快だと思うのだが、適切な指導/助言を得られていないようなので、氏の玉稿の批判をサカナに、ここでも説いているのである。氏は、明らかに、古代史論の論客ではない、いわば門外漢なので、以上の批判に特段の他意はない。
 本誌掲載までに、然るべき助言がなかったのを残念に思うのである。

*再考の試み 2026/02/09
 新たな試みとして、初出から三年半を経た現時点で、完全に白紙から批判記事を構築したが、視点を切り替えた記事を原記事末尾に付け足してみたのである。何かのご参考になれば、幸いである。

新・私の本棚 山下 壽文 季刊「邪馬台国」142号 末羅国・伊都国間の道程をめぐる諸説の検討
 唐津平野の地形を中心として    梓書院 2022年8月
私の見立て ★★☆☆☆ 未熟な習作修作、多難    2026/02/09 新規寄稿

◯始めに 資格審査不調
 本稿はご自身の古代史関係の学識の背景について何も述べていない。自己紹介で、会計・経理分野で博士号取得とみえるが、試練を経ていない古代史素人の限界は、論考冒頭で率直に触れるべきと愚考する。

*はじめに
 というのは、いきなり、「倭人伝」に「東南陸行五百里到伊都国」と引用しながら出典を示さないのは不都合である。また、「魏使は末盧国から陸路伊都国に向かった」なる意訳の不当さが不適当である。
 まず、同記事を「魏使」記事との即断は根拠の無い憶測である。皇帝使節派遣は責任者たる郡太守を飛ばして不当で郡使であり、前代未聞の重荷を負った輸送部隊記録が、正史記事となることはありえない。非常識である。
 「東南陸行五百里」と明記の考証抜きに、仮想古代地形で「魏使」経路を臆測している。五百里解釈が、六倍の差異があることを蒸ししている。
 というように、同誌が必須としている学術的な、先行文献考察を、まるごと怠っていて、同氏の編集方針が随分簡要になったと長嘆息するものである。
 それはさておき肝心の考察抜きに「陸行」経路を海岸沿いのみちと山々の尾根みちに二分し、並列して原本にない「水行」は不法な史料改竄である。
 氏が、決定的な論考に不可欠な知識・素養に欠けているのは、一介の素人でも指摘できるから、同誌編集部が論文審査出していないのに長嘆息する。
 古代地形論は、その道の専門家の最善考察に素人は口出ししない。

*末羅国・伊都国間陸行説
 ここで、突然、先人の考察を引用して海岸線を進んだとするが、街道となりうる「海岸線」を郡使一行が通行できたかという論議に入るのである。
 尾根みちで馬車行前提陸行は、「険しい」山道に宿驛街道は信じられない。ここで、突如素人の「宮崎氏」の学術的でない著書を引き合いにするが、未開の倭地で一日五十里(20㌔㍍余)は無謀である。唐六典は、整備街道で、起伏の少ない荷車行程が前提である。山路越え荷役の困難さは極まると思う。

*末羅国・伊都国間水行説
 氏が「通説」の「水行」無知に取り込まれて、勿体ないことである。
 中国古代史の権威である渡邉義浩氏は、陳寿「三国志」魏志に先行する正史に「水行」行程記事は存在しないと明言されている。字典に於いて「水行」は、河川を「渉る」と明記されている。つまり、「倭人伝」で、新たに、水行とは『海岸から「大海」を渉ると定義されている』と定義されているのであり、「河川」を上下するものではない。つまり、二重の意味で、沖合いを舟で移動するものではないのであるから、ここは、行程を書いたものではありえない。
 伝統的に誤解していたため、初学者には無理ないとは言え、漫然と読み過ごされている。
 「倭人伝」では、
狗邪韓国で始めて海岸に到り、対岸である「対海国」に始めて渡海すると明記され、末盧国で、水行を終え、陸行に復帰すると明記されているので、氏が何気なく追従されている「沿岸」「水行」説は、端から無効である。

 氏は、選りに選って、「勝手に原文改竄している不都合で場違いな宮崎説の末盧国非上陸」説を、わざわざことさら否定しているのは、徒(いたずら)に奇を衒(てら)うものと誤解されやすく、くれぐれも勿体ないところである。

◯最後に
 倭人伝の記事の氏一流の解釈では適切に比定できないと自認し、いわゆる「通説」派の常習手段とは言え、本来許容されない記事改竄に、安易に臨んだのは、不穏で本末転倒である。是非、ご再考いただきたい。
 また、氏ご自身の不明は、早急に解消し、むしろ専門的見識を生かしていただきたいものである。

*付け足し

 関連事項の書き漏らしに気づいたので、ここに付記する。
 末盧国条に、「濱山海居草木茂盛行不見前人好捕魚鰒水無深淺皆沈沒取之」と特筆されているのを、正体不明の誤訳依拠が災いして、連れもって誤解している。
 衆知の如く、中国語で「水」は河川と決まっている。従って、「好捕魚鰒」は川漁であり、「倭人」が、簗や鰻籠で魚鰒を捕らえるのを観察したものである。決して、釣っていたのではない。
 「水無深淺皆沈沒取之」とは、浅瀬に限らず、ひざ上までも水に浸かって取っているのを、当時の中国語では「沈没」、「潜」というのである。魚籠などの竹細工は容易にできるので、寄って集(たか)って川漁していたと見える。世上、これを、玄界灘での海士、海女の生業とみる人がいるが、仮に素潜りで、短時間潜水できたとしても、潜水メガネもシュノーケルもない時代、とても、魚や鰻、アナゴを、手で捕らえるなどできるものではない。まして、頑丈な漁船のない時代、沖に出て、潜水漁業など、ありえないのである。遠浅の砂浜で、安全な潮干狩り程度であったと見える。鉄製品の無い三世紀当時、釣り糸、釣り竿、釣り針などの釣り具は、無いに等しく、また、大麻の栽培が見えなかったようであるから、魚網はなく、帆船(ほぶね)もなかったと見えるから、海漁は成り立ちがたかったと見える。
 「倭人伝」記事は、末盧国から伊都国に向かって山道を行くと、河川漁をしている様子が見えたと思われる。
 よろしく、二百年来の誤解を、率先して是正いただきたいものである。

                                以上




 


                              以上

2026年1月 3日 (土)

新・私の本棚 井上 悦文 邪馬台国の会 講演 第426回 卑弥呼の墓を掘る 2026

卑弥呼の墓を掘る (2025.1.26 開催)   初掲 2025/04/08 改訂 2025/05/17(誤記訂正) 補充2026/01/03
私の見立て 本項 星二つ ★★☆☆☆ 選外佳作 前途遼遠

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

◯はじめに
 本稿は、近年九州説陣営に参戦した随分粗雑な新説ですが、氏の著書・動画講演の影響が絶大なようなので、当ブログの守備範囲を半ば外れていますが、敢えて批判しました。
 「氏にして疎略」と「空耳」の混在です。
 1.1―1.3の書道家蘊蓄については、本編では口を挟まないことにしましたから、話は、当方の縄張りなのです。

*引用とコメント
1.4.魏志倭人伝の邪馬台国
 ...「邪馬台国」は、魏志倭人伝には「邪馬壹国」と表記されています。ところが、この邪馬壹国は、...「魏略」「魏志」「梁書」「後漢書」その他をもとに分析すれば、...「壹」...は魏志倭人伝だけです。中略「邪馬台国」...は「耶馬臺国」が正表記で ...す。

コメント 随分手馴れた捌きの口調ですが、内容は、受け売りの固まりです。受け売りなら、ご自分の自前の「分析」で得た見識だと肩肘を張らず、どの家元のご託宣か書くものです。

 それにしても、「その他の ...その他」は「魏志」自体を「その他」と錯綜です。「魏略」、「梁書」は級外史料です。骨董ものの言い訳ですから、ぼちぼち、割愛してもいい頃です。
 ということで、論理的に通用するのは、同時代の史料として信用するに足るのは、唯一「魏志倭人伝」だけということです。唯一の一級史料に、「邪馬壹国」と明記されていて、南宋刊本以降、揃って、同表記である以上、一も二もなく、ひたすら「邪馬壹国」を採用すべきなのです。
 氏は、門外漢の初心者であった時点で、どなたかの指示に従って、このような意見を擦り込まれたようですが、受け売り一辺倒では、氏の意見とは言えないとみられます。当コメントの書き出しは、そういう意味です。

 
*魚豢「魏略」の意義確認 追記 2025/05/17
 丁寧に言うと魚豢「魏略」は、史料としては大半が散逸していて、今気軽に「魏略」とおっしゃっているのは、魏略「東夷伝」そのものでなく、大変粗忽に所引された、つまり、「間違いだらけ」の引用として太宰府天満宮に「残簡」が所蔵された「翰苑」に書かれている断片であり、信頼に足る史料ではないのです。言わば、「ジャンク」であり、井上氏ほどの書家なら、正確な引用が継承されていないと瞬時に見て取れるはずなのです。

 因みに、魚豢「魏略」西戎伝は、陳寿の百五十年ほど後生の劉宋史官裴松之の三国志付注の際に、魚豢「魏略」善本が健全に継承されていたのは、「魏略」西戎伝が、裴松之附注「魏志」の第三十巻「魏志倭人伝」に続いて収容されいることで確認できます。
 つまり、魚豢「魏略」西戎伝は、当時編纂中で未公刊の范曄「後漢書」の西域伝の基幹となるべき史書稿であり、後に公刊された范曄「後漢書」の西域伝と併せて読むことにより、「魏略」の史書としての抱負を知ることができます。

*「倭人伝」「倭条」の屈折した関係 2026/01/03
 因みに、裴松之は、「魏志倭人伝」で割愛されている事項は、しばしば、風評に近い「ジャンク」まで付注に採用していますが、実際は、「倭人伝」にたいして皆目附注と言うに足る附注は書き残していないので、魚豢「魏略」の倭人伝相当記事は、特に書くに足るものはなかったと証されているのです。部分的に不一致があっても、陳寿の編纂推敲の結果である「魏志倭人伝」を採用したと言うことかもしれません。
 そのように。岩盤とも言える一級史料から、所引、抜粋、盗用などによって、転記された史料が複数存在しますが、原本の転記の際に誤写したという定番の非難は考えられても、転写史料が、時代時代の王朝の国宝として厳格に保管、継承されていた陳寿「三国志」に影響を及ぼすことはありえないのです。むしろ、転写先の二級史料側で、再転写、所引の際の誤記の可能性は、無視できないはずです。
 たまたまですが、「翰苑」残簡が引き合いに出されますが、誤字、誤解、構成の失調などが多発していて、とても、高名な「翰苑」の原型を忠実に伝えているとは見えないのです。つまり、いくら、資料作成時代が古くて、原本からの転写の回数/字数が少ないと期待されても、一度の無法な写本によって、破壊的な被害が出ることが、明確なのです。
 それほどでなくても、南朝劉宋で、裴松之と同時代に後漢書を集成したとされる笵曄による「後漢書」東夷列伝「倭条」の例でも、曹魏の自大から劉宋までの百五十年の期間に、西晋の首都洛陽は、北方から侵入した蕃夷の軍に攻略されて、皇帝以下の高官が連衡され、西京長安まで破壊されたため、秦漢代以来蓄積されていた政府公文書が壊滅し、東晋として、江南建康で再興されたとは言え、最低限の公文書だけ救済されたに過ぎないとみられるのです。
 ということで、笵曄が、先発の後漢書を利用して編纂した際、主要な部分である本紀、列伝は大半が流用できたとしても、列伝の一伝である東夷列伝「倭条」は、先行記事がないために流用しようがなくて、苦慮したと思われます。特に、後漢末期、霊帝没後の混乱は深刻で、曹魏武帝と称せられる曹操が、京師長安からほとんど身一つで逃亡して、苦闘の果てに東都洛陽に辿り着いたものの、帝都の残骸で孤立していた後漢最後の皇帝献帝を、亡国の廃帝と見捨てることもできず包括したときも、破壊が広範囲に及んでいた洛陽でなく、曹操の本拠地であった許都に献帝を呼び寄せたものです。
 「倭人伝」考証で肝心なのは、献帝建安年間と呼ばれる許都仮住まいの期間、遼東郡は、実質的に自立状態にあり、霊帝没後の期間以来、新来の東夷の報告をしていなかったのです。つまり、本来、後漢霊帝、献帝の期間、後漢には、「倭人」の参上、東夷諸事情の申告などが伝わっていなかったのです。
 つまり、笵曄は、存在しなかった後漢代の「倭人」記事を、もっともらしく「復元」して見せたと見えます。まるで、考古学で良くある不完全な遺物の「復元」ですが、この場合、なかった記録を「復元」したので、実は、創造的な芸術作品なのです。それは、史官なら死んでも忌避するものですが、笵曄は、陳寿と異なって、史官としての訓練を受けていない文筆家なので、創造的な「復元」に対する禁忌は持ち合わせていなかったものと見えます。
 ということで、当時唯一の史料であった「倭人伝」を素材に復元されたのが「倭条」と見えますから、いかに美文が凝らされていても、手っ取り早いレプリカである「倭条」を基準として、正史本文として、最善の公式史料をもとに記述された「倭人伝」記事の当否を論じるのは、本末転倒ということです。

 但し、笵曄「後漢書」は、後に、班固「漢書」とともに「両漢書」として、正史の基幹とされたので、「倭条」が「倭人伝」の基本史料と速断して優越させているように見受けられるのです。笵曄「後漢書」は、劉宋の期間中に、皇帝の蔵書に収容され、限定された閲覧が可能であって、類書への所引が可能であったと見えます。そのように見るのは、笵曄「後漢書」が、現在知られている形態で「正史」に列せられたのは、大唐高帝章懐太子李賢の編纂によるものであり、それは、随分後世になるからです。

 閑話休題
 按ずるに、陳寿が、「魏志倭人伝」に収録した原資料は、曹魏明帝が、楽浪/帯方郡を景初初頭に接収した際に齎された、言わば、「原始倭人伝」と言うべき郡志史料であり、端的に言うと、公孫氏に上申した報告書の控えであったと見えます。もっとも、当時、遼東郡に届いて郡公文書庫に収容されていたと見られる公孫氏時代の遼東郡志は、司馬懿の征討軍が、景初二年の戦捷時に根こそぎ破壊殺戮したので失われたものと見えます。司馬懿は、公孫氏の帯方郡設置による貧弱な東夷管理の深謀遠慮には、全く関心が無かったと見えるのです。
 司馬氏が曹魏の権力を掌握した時代、「倭人」は、数多い蕃夷来訪記事に埋もれて、特段の事件になっていないのです。それどころか、公孫氏が、燦然と確保していた遼東郡、楽浪郡、帯方郡の東夷管理は、朽ち果てるの任せたのです。

 ということで、「魏志倭人伝」は、陳寿とその支援者(優秀な書生)によって、一次史料である「原始倭人伝」を忠実に収録したのであって、当然、別系統の史官であった魚豢の「魏略」倭人伝も、特に疎略に扱う動機も無かったであろう事から、「魏志倭人伝」と同等の正確さで書かれていたものと見えます。但し、「翰苑」残簡に残された所引は、史料の意義を知らない粗雑な所引者による魚豢「倭人伝」からの粗雑な引用であり、陳寿が専門史官として精魂を込めた引用を否定する効力を持たないものなのです。
 御理解いただけたでしょうか。

 笵曄「後漢書」東夷列伝倭条は、大分玄人っぽい解釈がついて回るので、素人さんは手を出さない方がいいでしょう。とにかく、書かれているのは、別時代・別「国」を示し、難ありです。

 それにしても、困惑させられる「その他」重複は、なにかの取り違えでしょう。失笑連発です。

 倭人伝に曰わく、「南邪馬壹国に至る」「女王之所である」が正解で、ここに、後漢末に荒廃した洛陽の復旧に勤しんでいた曹魏天子も顔負けの「都」(みやこ)は、見当外れのこじつけです。なかなか、ここまで掘り下げる人はいないので、毎回、難癖をつけざるを得ないのです。

 氏が、文献解釈に疎いのか、勿体振った「蓋然性」評価は、まことに非科学的で、力み返った「本来」「推察」は、根拠皆無で、空転しています。「倭人伝」は、すらすら読めるから楽勝だ、要するに、陳寿がペテン師なんだとでも言いたいような、やじうま論議が巾をきかせているのですが、幸い、氏は、圏外のようです。

1.5.卑弥呼の墓 中略 
 「径百歩」は正確な引用ですが、文書考証すると女王「冢」の規模、敷地広さで、「歩」(ぶ)は、長さでなく面積単位であり、現代風「平方歩」です。
 これは、なかなか理解できる人が少ないので、歎いているのですが、氏も自認されているように、実務を想定すると、墳丘墓「直径」は、現地測量不可能です。陵墓規模は、測量可能な敷地面積で示すものです。当方の中国算術史料「九章算術」研究の成果で、「径百歩」は、常用の面積「方百歩」を「一辺十歩(15㍍)の敷地で冢が円形」と、異例の「径百歩」で明示したものです。

*古代算数の勉強
 円形図形の専有面積は、「直径」がわかっていれば、「直径」の二乗、「直径」掛ける「直径」に、「3」を掛ければ概数として正しいのですが、「直径」が測れない場合は、「外周」の測量値「歩」を「3」で割れば「直径」(の正しい概算)が得られるので、先の計算式に持ち込んでもいいのですが、一度3で割ってから3を掛けるのは、いかにもムダなので、「外周」の二乗を「3」で割っても、正しい結果が得られるのです。「3」は、円周率であり、諸兄姉は、3.141592…と記憶されているでしょうが、取り扱うのは、概数ですから、小数部分を省いて、「3」とすることにより、整数計算になるので随分簡単に計算できるのです。この際、古代中国の「算数」を見直して欲しいものです。以上は、「九章算術」なる必須教養を学んでいる、漢魏晋官人には、概数計算の常識なのですが、諸兄姉は、ご存じだったでしょうか。

 因みに、墓制に昏(くら)い諸兄姉は、これを「直径 百歩≒一五〇㍍」の「円墳」とそそくさと解釈して「大規模墳丘墓」の原型/ひな形としたのでしょうか。多分、「九章算術」を学んでいない、「二千年後生の無教養な東夷」なのでしょうが、無教養は、教養を学べばいいのです。
 それとも、卑弥呼ー壹輿の後継王が、帯方郡滅亡時の亡命造墓集団に「大規模墳丘墓」を課したのでしょうか。
 伝統は、大抵、いつかどこかどこかで断絶するものです。だからといって、卑弥呼の不朽の偉業は、些かも光芒を失うものではないのです。

 ということで、名もない「倭人」の後継者達は、「中国」の衰退により、既に支援、指導を受けていた土木工学技術を強化して、独自の「けもの径」を進んだとも見えます。このあたり、所説が錯綜して、当方の乏しい知識では、何とも、判別できないのです。

 ところで、直後の安本美典氏の講演は、漢魏晋墓制を、遺物/遺跡考古学の見地から広範多岐に亘って論じますが、「客」の顔を潰さない配慮か、蘊蓄豊富でも、漢魏王墓は地下に複数墓室を設けた方形との明言を、大人の知恵で避けていると見えます。

*円丘・方丘の隔絶
 「円丘」は、頂部演壇で三六〇度全周で、時日に応じた方位で天に礼を示す「天丘」は、祭礼であり、葬礼、墳墓など見当違いです。対照の「方丘」は、葬礼であり、別紀日に地下祖霊を弔い、「円丘」と遠く隔離しています。造語するなら、「方円絶遠」です。

 要するに、「中国」王侯墓に大規模円墳など存在しなかったことは明らかであり、帯方郡から長期駐在した大宰張昭」は、「親魏倭王」に葬礼に反する大規模円墳など許さないのです。また、西晋史官であった陳寿は、当然、葬礼墓制に通暁していて、無法な大規模円墳など記録することは有り得ないのです。それが、史官の真意というものです。

 無学、無教養の素人である当方の無上の「知恵蔵」である、殷周代以来の太古漢字史料を深く極めた白川勝師の詳説では、太古東夷と称された周代齊魯領域では、棺を埋葬し封土する「冢」の型式が整っていて、神社祭礼に属すると見える「鳥居」共々、「倭人伝」前段に略記された葬礼墓制は、渡来ものと見えます。
 伝統を破壊し、中国「文化」を拒否したいわゆる「前方後円墳」墳墓の繁栄は、一方で、神社がはるか後世に継承されているのを見ると、一介の素人の理解を越えて、不可解と言わざるを得ません。

閑話休題   訂正 2025/05/17 150㍍と誤記していたのを訂正したものです。
 当方の行きついた理解は、「倭人伝」に丹念に書き込まれている卑弥呼の「冢」は、「径百歩」規模、すなわち、「十歩(15㍍)角の敷地中央に納棺、封土した円形「冢」である」と端的です。整地、掘削、納棺、埋設、封土、一本植樹の墓碑等の力仕事は、近隣、近在の百人程度の「徇葬者」の一ヵ月程度の通い仕事だったはずです。簡にして要を得た記事です。
 中国葬礼では、必ず、石刻墓誌を設けますが、葬儀薄葬令もあり、また、先祖以来の墓地に月々墓参するので、墓碑も墓地も必要なかったのです。また、伝来墓地であらたな守墓人は不要です。蛮習「殉死」等、もっての外です。(字を変えているのに誤解するとは、失笑ものです)

 諸兄姉の思考には干渉できませんが、よそごとながら、随分不合理な「歴史ロマン」を死守されているのだなあと、感嘆するものです。

 この通り、氏が見習っているらしい世上の雑駁な論議は、悉く空を切っています。

 それにしても、前半部を飛ばし読みしても、全般にアラ散在の講義であり、このさい、昭和百年を契機と捉えて、時代物のレジュメを、編集校正し、晩節を整えていただいた方がいいでしょう。

                                以上

2025年12月30日 (火)

新・私の本棚 13 道家 康之助 季刊 「邪馬台国」 第35号 「里程の謎」 1/1 2025

13 「黄道修正説」は誤りである      道家康之助
  私の見立て 星四つ ★★★★☆ 堅実、確実な論考   2019/01/29 追記 2020/10/07 補充 2021/12/09 改訂 2025/12/30

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*序論
 一読理解しがたいタイトルですが、我慢して読むと、本論は、一部「トンデモ」倭人伝論ですが、
 『古代人は、太陽観測によって方位測定し、地軸の傾きの角度だけ「黄道」の修正を行っていたため、倭人伝の「東」は、現在言う東北東の方位だったとする理不尽な「黄道修正説」』
 への反論です。ついつい、氏の論旨を誤解させてしまいそうで、恐縮です。

*結論
 当方も時々力説するように、正確な方位は、簡単な太陽観測により容易に検出でき、太古、稲作集団の君主の任務として、春分、秋分を含む二十四節気の精度高い宣言が求められていたことから、当然、日々の太陽南中を観測し、南北方向の劃定、付随して東西方向の劃定を行っていたのです。
 太陽観測というと大層に思えますが、少し噛み砕いて言い直すと、日時計を立てて、影を見るだけでも「南中」が観測できて、南北が確定し、後は、南北線に垂線を立てれば、東西が得られるのです。別に、壮大な石造建築は不要であり、また、高度な科学技術も不要なので、特に高度な技術を要せず実現できたのです。
 精度を高めるために、大規模にするとか、長期間の記録を残すとか、状況に応じた努力が注がれていたはずですが、日常の用に適した程度であれば、一㍍程度の棒があれば良く、周辺の建物に、東西南北の表示を木札などで示せば、十分なのです。もちろん、それは、首長の所在でしか示せないのですが、方法さえ呑み込めば、どんな遠隔地でも実施できる物なのです。
 例えば、遠来の使節であっても、滞在地で、木の棒を入手すれば、たちどころに方位を知ることができるのです。初見の地ですから、随員が、たちどころに四方方位を確定したでしょう。
 因みに、手っ取り早い方法としては、日の出~日の入りの方角を直結すれば、それが、東西線であり、東西線に直行する線を引けば、それが南北線なので、大まかに四方を知ることができるのです。大まかというのは、その地で、地平線、水平線が見えないときは、山並みに接する方角しかわからないと言うことですが、それで十分であれば、そのような四方を知ることができるのです。

 つまり、天動説を知らなくても、日時計のある場所の東西南北は明白だったのであり、「黄道修正説」など無用なのです。

 それにしても、理不尽な一説にも理路整然たる反論を行うというのは、素人には徒労と見えるのですが、本論は、労を厭っていないので絶賛するのです。これで、とどめが刺せているものと信じます。

                             この項完

*追記 改訂の確認 2025/12/30
 本稿執筆当時は、「日の出」「日の入り」の方角を根拠とすることに囚われていたが、早計であった。「日の出」「日の入り」の方角は、観測できない土地の方がはるかに多いので、不適切な意見であった。
 正確な観測法は、以下の通りである。
 一㍍程度の棒」の影を観測して、もっとも、影が短くなるのが、「南」なのである。棒の立っている場所と「南」の方角の影を結べは、南北の線が欠けるから、その南北の線、線分に垂線を立てれば、東西の線が得られるのである。
 と書くと難しく見えるかもしれないが、別にコンパスも分度器も要らない。短い棒二本を紐で結んでおいて、一㍍程度の棒」の足元と天辺を中心に線分の半分より少し長い半径で円弧を二回描いて、線分の両側に発生した交点を結べは、東西方向に垂線が成立するのである。小学校高学年程度の理科課題である。何も、むつかしいことはないのだった。
 以上、本稿とは別系列の記事に書き募ったのであるが、本稿の改訂が漏れていたので、不明と軽率への反省を込めて、更新するのである。

 いや、当記事は、当記事の時点の意見として保存すべきであるが、近来、こうした不明と軽率を含む旧記事を「収集」している向きがあるので、仕方なく追記したのである。

以上

 

2025年12月18日 (木)

新・私の本棚 10 谷本 茂 季刊 「邪馬台国」 第35号 「里程の謎」 1/1 2025

10 「周髀算経」の里単位について      谷本 茂
  私の見立て 星4つ ★★★★☆ 議論明快 関連不明      2019/01/31 追記 2020/10/07 補充 2021/12/09 2025/12/18

*序論
 冒頭の断定は、丁寧に言うと二段階に別れています。(丁寧に言うしかないように思うのですが、他人の趣味には干渉しません)
 ⑴「周髀算経」に記されている一里は、七十六㍍から七十七㍍である。
 ⑵ 倭人伝に記されている一里は、(これとほぼ同じ)七十六㍍から七十七㍍である。
 して見ると、一括して断定するのでなく、それぞれ独立して提唱された⑴,⑵の仮説が必然的に連動していると論証するか、それぞれの仮説、特に後者が自立して論証できるかの何れかが急務と思われます。

*結論

 途中の学術的議論は、当方の手の届くところではなく、推論過程に口を挟めるものではないので、本項は、大変簡潔にとどめます。
 率直なところ、本論は、倭人伝里程論とは別世界のものであり、氏が文献から算定した仮称「周里」と古田武彦氏が提言した「倭人伝短里」、ないしは、「魏晋朝短里」が、仮に「ほぼ同一長」であったと主張されたとしても、両者の間に論理的な連続性が見られない以上、そのような関連性が論証されるまでは、偶然の一致とするしかないものと思われます。つまり、「周髀算経」に記されている一里が、周朝において採用されていたという証拠となる史料はもとより、魏晋朝において採用されていたとする証拠となる史料が提示されない限り、何の保証にもならないということです。

 論理的には、まずは、「周髀算経」なる算数/幾何理論書は、計算問題として明解にたどれるような数字や計算式を設定したのであり、実際に国家制度として実施されていた「里」を保証するものではないと思われます。そして、魏晋朝代に、同等の「里」が国家制度として普(あまね)く行われていたことを語るものではないのです。
 後者を言い換えると、「魏晋朝短里説」の論拠は何も得られていないことがわかるのです。

 氏には、周朝に於いて、そのような短里が、どのように成文化定義され、各国に徹底されていたものか、また、晋書「地理志」に代表される史書に見られる「周制」に定義された「普通里」といかなる関係があって、あるいは、両者併存していたと仮定できるのか、丁寧に究明する必要/責務があると考えます。

                          この項完

2025年12月16日 (火)

新・私の本棚 番外 内野 勝弘 第413回 邪馬台国の会 補追 1/4 2025

魏志倭人伝・考古学・記紀神話から読み解く 邪馬台国時代の年代論
私の見立て☆☆☆☆☆ ひび割れた骨董品 殿堂入りの逸品 2023/10/24 補追2023/11/01, 02 2024/04/23 2025/12/16

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

◯はじめに
 以下、本稿で批判する付表は、前稿に続く一部に過ぎないが、内野氏が、会長の立場で「倭人伝」道里の諸説を集約したと見えるので、まとめて批判を加えた。多様な誤謬は俗耳に膾炙していると見え、本稿は、卑(柄杓)の一振りで、些細な撒水を試みているのだが、広く燎火を鎮めることができれば幸せである。
 ともあれ、掲載された表は、疑問点満載で、批判内容を表内に書き込めないので、誰でも読解可能な平文に展開して逐条審議している。要するに、氏の提示した表は、混乱を掻き立てるだけで、何の役も果たしていないのである。

 と言うことで、以下、紙数を費やして、まるで初心者の論稿を添削指導しているようで、大変心苦しいのだが、氏が長年に亘って、このような論稿を公開し続けていると思われるのに、誰も、率直に指摘しなかったことを見ると、この際、赤の他人が、無礼を覚悟の上で、無遠慮に/率直に/誠実に指摘するしか無いように思うのである。遠慮して指摘を甘くすることは、氏にとって、百害あって一利がないものと思われるので、あえて、斟酌していないことをご理解頂きたいものである。

*本論
大月氏国と倭国・女王国から見る魏の国内・国際情勢
◯大月氏国
記録
 「後漢書」西域伝・大月氏国の条「229年12月 明帝は大月氏波調王(ヴフースデーヴァ王)」に「親魏大月氏王」の金印

 范曄「後漢書」西域伝には、以下の記事があるのみである。後漢は220年に魏に天下を譲ったから229年は、場違いである。

笵曄「後漢書」西域伝 中国哲學書電子化計劃
 大月氏國居藍氏城,西接安息,四十九日行,東去長史所居六千五百三十七里,去洛陽萬六千三百七十里。戶十萬,口四十萬,勝兵十餘萬人。
 初,月氏為匈奴所滅,遂遷於大夏,分其國為休密、雙靡、貴霜、驸頓、都密,凡五部臓侯。後百餘歲,貴霜臓侯丘就卻攻滅四臓侯,自立為王,國號貴霜王。侵安息,取高附地。又滅濮達、罽賓,悉有其國。丘就卻年八十餘死,子閻膏珍代為王。復滅天竺,置將一人監領之。月氏自此之後,最為富盛,諸國稱之皆曰貴霜王。漢本其故號,言大月氏云。

 して見ると、内野氏は、引用の根拠を大きく取り違えていて、正しい出典は、陳寿「三国志」魏志明帝紀と見える。もったいないことである。

陳寿「三国志」魏志 明帝紀 (太和三年十二月)
 癸卯,大月氏王波調遣使奉獻,以調為親魏大月氏王。

 陳寿「三国志」魏志に「大月氏王」に「親魏王」印授が下賜された記録は見当たらない。
 まして、氏が謳い上げている「金印」が、古来言う「青銅印」であるか、異例の「黄金印」であるかは、正史からは、読み取れないと見える。古典的な「金印」(青銅鋳物)は、原材料が潤沢で、製造設備/技術も帝室付の製造工房である尚方に完備していたから、製造が「容易」であったため、漢代を通じ、蕃夷使節の来訪に際し、正使、副使に始まり、侯国の使人、果ては、随員に至るまで、印綬が大盤振る舞いされたとされているから、別に希少価値は無く、単に、再訪の際に、街道関所の過所(通行許可証/手形)、身分証明となったに過ぎないと見える。

 一部で、印綬は、国王代替わりの際に一旦返納するという説を唱えている諸兄姉があるようだが、万里の彼方から、あるいは、波濤を越えて、代替わりの報告に来いというのも、無理難題に属すると思うのである。近郊であれば、年々歳々時候の挨拶に来いということもあるだろうし、近郊であれば、大した下賜物もいらないだろうから、「歳貢」もあったろうが、それは、鴻臚が漢制に従って命じたものだろう。

 「貴霜」国なる国名について言うと、蕃夷来駕を受け付ける「鴻臚」の蕃夷/掌客台帳には、「貴霜」の文字は無く、その実態に拘わらず、大月氏国が王権伝統されているとして受け入れたのである。もちろん、本紀は、皇帝が受け付けた国書に従って、「貴霜」国としたであろうが、鴻臚の台帳は、漢武帝以来維持されていたので、更新も改竄もできず、「大月氏」として受け入れたことになっているようである。
 因みに、南北朝の分裂期を統一した隋唐は、北朝を展開した蕃夷の流れに属するので、その治世下、伝統的な鴻臚掌客の格付けがどのようになったか、調べる必要がある。
 どちらが正確な解釈であるかは、当方の素人判断の域を外れているので、断定は避けたい。
 
国内・国際状況 
 魏は西方の蜀と戦争状況の中、西方彼方の大国・大月氏国(クシャーナ朝)からの交易、同盟を目的にした遣使を歓迎した。
 司馬懿のライバルで西方経営を進めた曹氏の功績になった

 陳寿「三国志」魏志明帝紀記事は、儀礼記事であり「歓迎した」など冗句である。このあたり、思いつきの私見を付け足す悪習は、中々なくならないようであるが、論者の無教養と浅慮をむき出しにしていて、もったいないことである。

 魏は、関中を辛うじて勢力範囲内に保っていたものの、その西方、西域の入り口にあたる河西回廊は、涼州勢力が蜀漢と連携していたため、服従させられなかったと見える。つまり、事実上、西域への扉を閉ざされていたと見える。一方、東呉は、敦煌方面に商人を送り込んでいたことは、西域から「三国志」呉書に類する紙文書の断簡が出土していたことから、明らかである。というものの、涼州は、蜀漢に臣従していたわけではないので、涼州の帰属は不明である。
 ということで、「大月氏」が涼州勢力の目を潜って洛陽に参上したのは、あるいは、金銀玉石などの秘宝を通行料/謝礼として積んでのことかもしれない。世上、同時代の西域勢力分布が、麗々しく地図化されているのにお目にかかることがあるが、大抵は、良くある法螺話に過ぎない。

 班固「漢書」、笵曄「後漢書」に代表される正史「西域伝」記録から見ると、かつて、漢武帝使節に応対した大月氏は、匈奴同様の騎馬掠奪国家であった。涼州辺りに根拠を持って、北方に一大勢力を形成していたらしいが、匈奴の勃興で覇権を奪われ、遙か西方に夜逃げしたのである。
 但し、概して城壁国家ではなく、天幕に居住して、財貨は金銀玉石としていたから、「全財産」を携えても身軽であり、騎馬部隊として逃亡することが可能だったのである。全財産と軍馬をもとに、強力な騎馬軍団によって、亡命先のオアシス国家「大夏」を乗っ取り、周辺諸国を侵略、掠奪し猛威を振るったのである。移住当初、西の大国安息国の東方拠点を攻撃し、「国王」親征軍を大破して、「国王」を戦死させ、大量の財宝を奪ったと、欧州史書に記録されている。
 安息国は、西方メソポタミアにあった王都から号令して、ペルシャなどの近隣諸侯を動員して復仇したが、以後、両国境界付近のオアシス都市マーブ要塞に二万の大軍を常駐させて、大月氏/「貴霜」国の再来に備えたのである。
 貴霜国は、後漢代においても、生来の掠奪/侵略志向は健在であり、東方勢力である西域都護班超に執拗に反逆し、都度鎮圧された札付きの盗賊国家である。
 後漢後期は、西域都護の撤退に乗じて、大月氏が西域西半を支配した時代であるから、魏代に移って「交易、同盟」とは白々しいが、西域無縁の魏朝は、「金印」下賜で体面保持でき、西域都督を常設するより随分安上がりで、善哉であったろう。
 但し、三世紀当時、西域有力勢力であった貴霜国も衰退期にあり、追って、西方のペルシャ領から興隆してパルティア(安息)をイラン高原の支配から追い落としたササン朝「波斯」に服従したと見える。陳寿が言い残したように、蛮夷の諸族王の消長は、誠に儚いものである。

 以上、ちょっとした背景説明のはずが、字数が募ったのは、国内視点で西域を眺めている諸兄姉に、現地視点の史談を試みたものである。世の中、「一刀両断」は、歴史のほんの表層を撫でるに過ぎないのであって、何も斬れていないのである。

功労者
 魏の鎮西将軍 曹真の功績。子の曹爽と司馬懿はライバル

 蜀漢勢力に西方を阻まれた窮状からすると、まさに「棚からぼた餅」の蕃王来訪では、軍功/功績になどならない。後漢西域都護に対する反抗の数々は、明帝紀上では、云わないことにしたとしても、後漢代以来引き継いでいる鴻臚の記録には、堂々と記録されているので、この記事を持って、魏志「西域伝」を設けるなど論外に違いない。魏志第三十巻巻末に、劉宋裴松之が補追した魚豢「西戎伝」は、大部の蛮夷伝であるが、内容のほとんどすべては、西域都護が健在であった後漢代の記事を承継したものであり、後漢末期に西域都護を撤退して、「貴霜」国に西域の西半を支配された事態が魏朝に引き継がれたという魏朝の失態が明らかになるから、魏志「西域伝」は魏志から割愛されたのである。

 このあたり、劉宋当時、西域伝の欠落を難詰する批判が無視できなかったため、裴松之が、論より証拠とばかり、魚豢「西戎伝」の善本を貼り込んだのだが、二千年後生の無教養な東夷は、史料を読めないために、裴松之の注釈が陳寿の「西域伝」割愛を断固支持した意義を理解できず、無意味な批判を繰り返しているのである。いや、大抵の論客諸兄姉は、陳寿の残した三国志原本に不備があったため、裴松之が補追した裴注本が三国志完成版と見ているようだが、それは、事情ののみ込めていない二千年後生の無教養な東夷の浅慮なのである。
 裴松之は、当時の劉宋皇帝を始めとする時代読者の圧力に従いつつ屈せず、大量の「蛇足」を不備を承知で付け足したものであり、それら「蛇足」の補追されていない陳寿原本が「三国志」として完成されていると「密かに」述べているのである。いや、「密かに」と云うものの、文意を読解できる有為(うい)の読者には「自明」なので、明言したに等しいのである。
 裴注による補追の中でも、魚豢「魏略」「西戎伝」は、ほぼ原文収録されているので、一度、筑摩書房「三国志」に収録されている日本語訳を読み取っていただきたいものである。
 因みに、魚豢「魏略」「西戎伝」は「魏志」「西域伝」ではないので、当時、洛陽の書庫に収容されていた後漢/魏公文書を収録していても、正史としての厳正さに疑義が無いわけではない。魚豢の私見が無造作に書き足されている部分や錯簡、落簡らしいものはあっても、無造作な校訂、改竄の筆が加わっていないのは明らかである。
 因みに、東夷伝、特に「倭人伝」に関して、裴松之がほとんど「魏略」を起用していないところから明らかなように、陳寿の編纂は、粗略と見える魚豢の編纂の上位互換であったため裴松之が黙殺したと見えるのである。

 もちろん、魚豢は、烈々たる魏の忠臣であり、蜀漢、特に、逆賊の首魁と目される(「敵」などと敬称を付することは無い)諸葛亮に対して、猛然たる反感を表明していても、「老獪な陰謀で魏の実権を握り、ついには、天下を簒奪した司馬一族に阿(おもね)ることはあり得ない」ので、魚豢「魏略」に世上言われるような「曲筆」はあり得ないのである。
 して見ると、こと「倭人伝」道里記事に関しても、魚豢「魏略」は、「郡から倭まで」「万二千里」と普通に書いていたはずである。もし、それを曲筆で普通里換算して「二千里」と書いていたら、裴松之が、すかさず付注したはずである。

 それにしても、司馬懿は、曹操、曹丕、曹叡、曹芳四代の「幹部」であり、曹爽と同列/「ライバル」視は侮辱であろう。同年代の曹真はともかく、曹爽の如き青二才は、問題外と見ていたはずである。もちろん、当時の洛陽の高官・有司は、両者の格の違いを見ていたはずである。「ライバル」が示している「川釣りの漁場争い」などとは、別次元なのである。

 因みに、史官は、周代以来、国家官制の中で、むしろ取るに足りない卑位の官人である。また、後世の形容で「正史」と言っても、「三国志」に関して言うと、三世紀当時、写本の流通は無いに等しく、まして、全巻を所蔵する愛書家は存在したとしても、全巻熟読する読書人は、取るに足りなかったから、「正史」の影響力は希少であり、現代風に言う「政治的文書」などではなかったのであり、その意味でも、「正史」編纂に「権力者」が干渉することは皆無に等しかったのである。

 それにしても、ここでも、三世紀には、明らかに存在しなかった「生かじりのカタカナ語」は、文意を掻き乱し、貴稿の品格を下げるので、ご使用を控えていただいた方が良いように思える。

                                未完

新・私の本棚 番外 内野 勝弘 第413回 邪馬台国の会 補追 2/4 2025

魏志倭人伝・考古学・記紀神話から読み解く 邪馬台国時代の年代論
私の見立て☆☆☆☆☆ ひび割れた骨董品 殿堂入りの逸品 2023/10/24 補追2023/11/01, 02 2024/04/23 2025/12/16

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

方角
 西方シルクロードの彼方の国

 貴霜国は、後世、遙か西方「ローマ」に延びていたとされる「シルクロード」の傍路であり、西インドガンダーラ方面に勢威を振るっていた。方角違いである。因みに、古代中国に「シルクロード」の概念は無い。
 言うまでもないが、当時、西方のギリシャ、ローマにも、「Silk Road」 などという概念は存在しない。
 敢えて言うなら、後世概念の「シルクロード」は、ローマまで延びていたので、其の彼方となると、大西洋に出てしまうのである。
 方向違いの時代錯誤である。

人口
 都10万戸 カニシカ王時代(在位(144~171)
 倭とは比較にならないほどの大国。

 班固「漢書」西域伝、笵曄「後漢書」西域伝、共に、大月氏に「都」は無いとしているから、これは、深刻な事実誤認である。
 「王都」が認められたのは、西方の「超大国」安息国が唯一の例外である。同国は、宿郵を備えた街道網を完備し、金貨、銀貨の貨幣を有し、皮革紙に横書きする「文化」を有したのであり、漢使が訪問した東方国境部から西方メソポタミアの国都クテシフォンまで、騎馬の文書使が往来することによって、言わば「東域都護」である長老に対して、今日で言う「軍事」「外交」の全権を与えていたのであるから、漢に勝るとも劣らない「法と秩序」の実質を認められていたのである。

 氏の云う「人口」は、西域伝「口数」のことか。「倭人伝」に「口数」は無いから、比較しようがない。また、遠隔の地の「人口」など、「国力」として評価できないのは明らかである。実体の不明な「戸数」、「口数」の数字を論じても、無意味である。

 中国古代史では、「大国」は不属の「主権国家」であるが、「大月氏」は、少なくとも一度は、戸数、口数、道里を西域都督に申告して服属したから、「大国」定義を外れ「倭人」と同格である。それにしても、倭とは比較にならないほど」は、弱小対象物としての大月氏を予告するものである。

距離
 魏の都、洛陽より大月氏国まで1万6千370里
 記録16000里X434m=6944㌔ 実測4000㌔(長里の実数に近い)

 笵曄「後漢書」西域伝では、「大月氏國,居藍氏城,... 東去長史所居六千五百三十七里,去洛陽萬六千三百七十里」である。要するに、一万六千里は「実測」などされていない。勘違いであろう。又、当然ながら当時の概念で「距離」は、無意味である。「長里」「実数」は、意味不明である。
 明らかに、当時の「貴霜国」王の居処は、大月氏の藍氏城とはかけ離れていて、当然、道里は異なるが、「公式道里」は、当初のままだったのである。これは、漢魏代に限らず、当然であった。

 勘違いと意味不明では、論拠にならない。いや、この「駒」の話に限ったことではない。

国力
 中央アジアの大国、クシャーナ朝・カニシカ王時代最盛期、後漢と接す。東西貿易で栄える。軍騎10万

 内野氏の云う「国力」の尺度が不明では、読者として、評価検証も、大小比較もしようがない。「倭人伝」に「軍騎」はない。
 笵曄「後漢書」西域伝は、「戶十萬,口四十萬,勝兵十餘萬人」と登録していて、耕作地を付与された「戸」が十万、つまり、収穫が十万戸相当に対して十万の兵としているが、これでは、常備軍とは見えない。それとも、各戸は、四人と見られる戸内から、一名の成人兵士を出しても、平然と農耕に勤しんでいたのだろうか。何れにしろ、この数字は、西域都護に対する申告/登録数であり、百年を経て、貴霜国に大成した時点では、これらの数字は現実離れしていたのであるが、更新はされていないのである。
 「後漢と接」したと云うが、「後漢」は、武帝以来の「漢」と称していたはずである。なお、後漢は、皇帝直々でなく、西域都督に折衝させていたのであり、格落ちの相手と見なしていたのである。「接して」とは、なにを言っているのか、意味不明である。

 前記の如く、大月氏は、後漢西域都護と角逐して屈服していたのである。又、西方は、一度侵略/掠奪に成功したパルティア侵略が、以後撃退され、大きく反撃/侵入を許している。
 どの時点の国力を評価するかと言えば、貴霜国の盛時であろうが、それは、後漢書に記録されていないし、いずれにしても、儚いものである。

 「貴霜」国繁栄の起源は、インダス川流域文明を活用した南方の商材を多としていたはずであり、「東西貿易」で栄えたとは、浅慮と見える。
 本当に貿易立国であれば、大量の軍騎は不要である。西方の安息国は、自衛のために二万人を境界部に貼り付けていたが、貿易相手を侵略して、掠奪する意志/意義は皆無であったから、常備軍は、僅少であった。国内各国も、常備軍を持たなかったから、内乱が生じにくかったのである。

 三世紀当時、どこにも「中央アジア」の概念は無い。また一つの時代錯誤である。ギリシャ流に云えば、「アジア」は、地中海東岸地域である。勘違いしてはいけない。

距離・説
 ほぼ実数に近い

 この「駒」も、何の話やら、皆目分からない。各駒が意味不明では、表にして対照する意味が無いように思われる。古来、史学論で、作表して、読者を煙に巻く手法は、学問的に無法と見える。なにしろ、もともと、短冊状の「簡牘」に縦書きしていた文書であるから、作表など存在しなかったのである。読者が、一定の理解をしない提言は、眩惑志向であり、学術的に無意味である。

 以上、大変な不勉強で、ここに「仮説」を提示できるものではないと見える。

◯倭国・女王国

記録
 [魏志倭人伝]倭人の条「239年倭の女王卑弥呼に「親魏倭王」金印を仮綬する」(過分なる恩賞、好意的)

 「魏志倭人伝」と書いておいて「倭人の条」は、無意味である。
 「」内に引用されている記事の根拠は、見当たらない。正史に西暦年数が算用数字で書かれているはずはない。
 二千年後生の無教養な東夷が、正史の記録文に、「過分」とか「好意的」とか、私見を書き足すのは、稚拙と言われかねない。倭人伝は、中原天子の視点で書かれているのである。
 当時の明帝曹叡が、一定の期待を込めて褒賞したのであるから、天子にとって、適切なものであったと理解すべきである。
 明帝が、「倭人」を。韓の南方の七万戸の大国として、韓平定の戦力として期待したとしても、それは、明帝の勝手な思い込みであり、二千年後生の無教養な東夷が、はやし立てるのは、時代錯誤である。

 遼東の大国・公孫淵には「楽浪王」のみ。

 「遼東の大国」と虚名を課されている公孫淵(国名でなく、人名である)は、後漢/魏の遼東郡太守である。「大国」など、見当違いである。また、自称したのは「燕王」である。

 漢制の郡太守は、帝国の根幹をなす大身で、国王に等しい高官である。国王は、漢・魏代、皇族にしか許されない臣下として至上の格別の称号である。因みに、「親魏倭王」は、漢制の王などではない「蕃王」であり、単なる髪飾りである。

                                未完

新・私の本棚 番外 内野 勝弘 第413回 邪馬台国の会 補追 3/4 2025

魏志倭人伝・考古学・記紀神話から読み解く 邪馬台国時代の年代論
私の見立て☆☆☆☆☆ ひび割れた骨董品 殿堂入りの逸品 2023/10/24 補追2023/11/01, 02 2024/04/23 2025/12/16

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

国内・国際状況
 司馬懿は朝貢した倭を呉の背後と位置し、皇帝に呉の海上支配に対抗する大国と報告し司馬懿自らの功績を高めるために金印を仮綬させた。  

 司馬懿は、遼東郡を撲滅した際に、郡太守の誅滅は当然として、官吏、公文書もろとも、破壊し尽くしていて、とても、「東夷管理」の継続、拡大を志していたとは見えない。また、その時点で、司馬懿は、魏の最高権力者ではなかった。誤解・誤認連発である。
 帯方郡平定は、司馬懿遼東征伐とは別に実行されていて、明帝の勅命で、公孫氏の任じた郡太守は更迭され、新任太守のもと、帯方郡は、平和裏に皇帝指揮下に回収され、倭人に対して「すぐさま」参上を指示したと考えるのが、自然な成り行きではないか。

 郡の太守弓遵と使者梯儁は大月氏國に匹敵する同等な国とすべく距離、人口を報告した。

 帯方郡太守にとって、関心の的は、雒陽の意向であり、西方の大月氏などは無縁で、何も知らない/分からないから、「匹敵」など考えようもない。とんだ白日夢である。
 「倭人伝」に、距離・人口は書かれていない。史料にない事項を言い立てるのは、内野氏の白日夢であろうか。誰か、覚醒してあげないのか。
 郡太守と官人使者(行人)は、身分違いで対等ではないから、結託して策動することは不可能である。つまらない法螺話は、止しにした方が良い。新参の蛮夷への使者は、時として、いきなり斬首されるから、大身の官人は任用されないものである。

 そもそも、新任の郡太守には、使節団の現地報告を「捏造」する動機は、全く無い。「こと」が露見すれば、一族皆殺しである。また、雒陽での評価を上げようにも、当然、このようなつまらない事項に、命をかけるはずがない。つまらない法螺話は、止しにした方が良い。
 官人使者にしても、行人の大命を受けて、艱難辛苦の果てに大過なく往還したのに加えて、意味不明な指示を受けて報告を捏造して、それが功名になるのかどうか、皆目不明だから、命をかけるはずがないつまらない法螺話は、止しにした方が良い

 何しろ、いくら粉飾しても、何れは、郡倭の間で使者が往来するから、「道里」「戸数」は、知れるのであり、この時点で、ことさら必死で粉飾しても、早晩露見するのは明らかである。郡太守は、子供ではないから、その程度の分別は有していたはずである。つまらない法螺話は、止しにした方が良い。

 それにしても、明帝の手元には、生前に帯方郡の「倭人公文書」が、大挙将来されていたのであるから、「倭人」の身上は、とうに知れていたのである。公孫氏のもとで、長年東夷管理に従事していた郡太守が更迭され、新米に入れ替わっていたから、史料継承に難があったにしても無理のないところだが、最終的に、使節団派遣までには、倭までの行程は四十日程度と知れたのである。
 経過を振り返ってみると、「道里」「戸数」は、公孫氏の公文書遺物が、明帝に無批判で採り入れられた結果と見るのが、もっとも自然であろう。そうではないと主張するのであれば、半仮睡の臆測で無く、具体的な根拠を示すべきである。 

 どう考えても、内野氏の提案は、とんでもない言いがかりでは無いかと思われる。それとも、現代の古代史研究機関は、そのような捏造が日常茶飯事なのだろうか。とんだ、時代錯誤の幻想である。

功労者
 魏の大将軍 司馬懿の東方経営を進めた功績とすべく皇帝に強く上奏した。

 創作された司馬懿の「東方経営」は、時代錯誤の無意味な概念である。従来、司馬懿は、西方の蜀漢侵攻に対する「抑え」であったから、遼東方面に関する知識は白紙に近かったと見える。もちろん、何の功績も立ててはいない。
 仮に、司馬懿が「東夷」情勢を評価したとしても、地域の「交易」は、遼東半島から山東半島を往き来する渡海船が主力であり、また、遼東郡太守公孫氏は、勢力拡大に際しては、南方/西方との交易が盛んであった山東半島青州地域の支配に尽力したのであり、帯方郡の管轄する「荒地」は、意識の片隅にしかなかったのである。
 司馬懿の意識した「東方」は、高句麗の支配地域であったと見えるのである。氏の意見は、随分方向感覚が、ずれているように見える。

 帯方郡の管理した韓、穢、倭は、札付きの貧乏諸国/荒地であり、経営しようがない。漢武帝が朝鮮国撲滅後に、強引に四郡を創設したが、半島東南部諸郡「嶺東」は、一段と貧乏な荒地であり、漢制の郡が設立されたとしても、郡太守の粟(俸給)の出所がなく、忽ち「経営破綻」して引き払っているのである。残ったのは、半島中部以北の楽浪郡、そして、玄菟郡である。

 それにしても、誰がどのように「強く上奏」した証拠があれば提示いただきたい。内野氏の私見では、当時、司馬懿が最高権力者だったのだから、別に誇張の必要は無く単に上奏すれば良いのである。

 因みに、半島の三韓諸国は、晋代以降、高句麗が公孫氏の軛を免れて大挙南下したこともあって、百済と新羅の自立に進んで、高句麗共々帯方郡の支配を跳ね返し、帯方郡は、楽浪郡共々撤退したのである。ことは、司馬懿が、遼東郡の東夷管理体制を丸ごと破壊して「東方経営」など放念したことから来ているのである。

方角
 東南の大海の中、会稽東冶の東、呉の背後の国。南方的記述。

 どこの「東南」か、意味不明である。「大海」の方角ではないはずである。恐らく、氏の語彙にある「大海」は、倭人伝の説く「大海」と大きくずれていると思われるが、氏は明言しないので、何も伝わらないままである。
 当時の中原人の世界観で、魏から見た「呉の背後」 は、交址(ベトナム)、緬甸(ミャンマー)と思われる。
 「南方」も、どこから見て南方なのか不明である。「帯方郡から見て南方」と言うなら、狗邪韓国も、壱岐、対馬も「南方」である。とんだ呪文である。
 時の皇帝は、恐らく少帝曹芳であろう。さらに疑問を掻き立てる「呉の背後」については、後述する。

人口
 女王国の都7万戸(35万人)倭国15万戸(75万人)日本人口(鬼頭宏)59~75万人。あまりに少ない数字。
 推測200~300万人と多めに見て九州30~45万人、倭国15万人)

 三世紀当時「人口」は無意味である。とんだ時代錯誤である。戸数」から、現代流の「人口」を換算するのは、各戸の内情が不明である以上、無謀である。戸数が想定しているのは、夫婦と子供のようだが、人口に子供をどう数えるのか、不明であれば、不明と唱えるべきである。
 当時、倭人に戸籍簿はなく、従って、「人口」を数える制度はなく、精々、推測/臆測した「戸数」集計である。ただし、戸籍が記帳されていた証拠はない。存在したのは、各戸に対する耕作地割り当ての記録程度であり、これは、国制の根幹であるから、厳重に維持されたが、各戸構成は、維持されていたと見えない。当時、早世、夭逝はざらであり、各戸の内実を調べ立てる口数、「人口」に大した意味は無いから、これを言い立てるのは、二千年後生の無教養な東夷が、自身の先祖である三世紀「倭人」世界の情勢を知らないことを露呈している。

 蕃王に「都」はないから、「女王国の都」は錯誤/空文である。女王居処「國邑」は、精々数千戸規模と見えるが、当然、「直轄地は無税が常識」であり、「官人、奴婢が多数を占めていれば、農民は希少であった」ろうから、ことさら「戸数」を言うのは不遜である。
 倭国15万戸は、倭人伝に根拠の無い憶測である。二千年後生の無教養な東夷の「世界観」の呪縛を振り払って、三世紀人の「世界観」まで降りていかないと、「倭人伝」の描いている「世界」は、わからないのである。「人口」論は、氏の白日夢であろう。
 三世紀時点未生の「日本」の「人口」は、重ね重ね、時代不明、根拠/対象領域不明の「ごみ情報」である。後世、恐らく、八世紀あたりで戸籍制度が確立されて、以後、少なからぬ紙情報が残存しているのだろうが、「鬼頭宏」なる「専門家」の立論手法は不明である。提言、仮説、断言の何れにしろ、前提や条件付けが欠落して、数字だけが、ポツンと一人歩きしていては、単なる法螺話とされかねない、個人攻撃になっているのである。
 恐らく、八世紀近辺の時点の豊富な史料を根拠とした折角の推計情報を、根拠とできる情報が一切存在しない三世紀に転用されて「あまりに少ない」などと手厳しく批判/非難されるのは、ご当人にして見ると妄想と云われかねない「濡れ衣」ものであり、そのような悪名は圏外に排除いただきたいと願っているはずである。

距離
 都洛陽から帯方郡まで5000里 帯方郡より女王国1万2千余里 計1万7千里。
 記録12000里×434m=5200㌔ インドネシア方面まで行ってしまう。短里80m 960㌔実数相当 九州圏内

 帯方郡は、後漢末建安年間の設立であり、笵曄「後漢書」に収容された司馬彪「郡国志」には、洛陽からの公式道里は記録されていない。「魏志」に公式道里記事は無く、後年の宋書にも無く、晋書にもない。内野氏は、何を根拠に存在しない公式道里を標榜しているのか、不審で、不合理である。

 「基本的」確認であるが、「倭人伝」が明記しているのは「郡から倭まで」「万二千里」であり、「帯方郡より女王国」とは書いていない。「魏志」に書かれていない数字を、臆測で足し合わせても、臆測の段積みでは、「虚妄に過ぎない」と言われそうである。誠に不合理である。

 ついでながら、「倭人伝」に「郡から狗邪韓国まで七千里」と起用されている里数の根拠が、誤解の余地無く明示されているのを無視して、単純に、二千年後生の無教養な東夷の臆測で、全行程普通里で目的地を想定するのは、非科学的で、不合理である。非科学的な思考は、早く一掃していただきたいものである。傍証であるが、「倭人伝」道里に対して、魏、晋、南北朝、隋、唐、宋に到る期間、伝統的に何ら公式の異議は立てられていないのである。
 現代で云えば、安本美典師も、伝統的な解釈に従っているのである。一度、教えを請うべきでは無いか、と愚考する。

 さらについでながら、当時どころか、秦漢魏晋の歴代王国で、「公的制度としての短里」など、「どこにも存在しなかった」とみるべきである。内野氏程の方が「短里説」を支持するのは、如何なものか。当然、意義の成り立たない「長里」も、存在しないのである。単に、普通「里」と云えば済むのである。現に、正史には、そのような「里」が書かれているのであり、ほぼ唯一の例外は、「倭人」に関する万二千里由来の記事である。

追記: 2024/05/12
 正史たる隋書の「俀国伝」は「古云去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里」と称しているが、肝心の笵曄「後漢書」東夷列伝に、そのような記事は、一切存在しないのは先に書いた通りである。
 雒陽から帯方郡の道里が不明なのは、依然として解明されていない。誠に、趣旨不明で、不可解である。

                                未完

新・私の本棚 番外 内野 勝弘 第413回 邪馬台国の会 補追 4/4 2025

魏志倭人伝・考古学・記紀神話から読み解く 邪馬台国時代の年代論
私の見立て☆☆☆☆☆ ひび割れた骨董品 殿堂入りの逸品 2023/10/24 補追2023/11/01, 02 2024/04/23 2025/12/16

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

国力
 東の果ての小国、海外(呉)への武力攻撃などの能力はない。小国30か国の連合体

 「国力」が正体不明、その評価は不可能である以上、資料に忠実に解釈を進めるべきである。
 当時、現代紛いの「連合体」など存在し得ない。「国」の態を成していたのは、対海、一大、末羅、伊都の4国であり、それ以外の名のみの「国」の事情を論じるのは「白日夢」であろう。

 因みに、「倭人伝」は、「更に東」の諸国を描いているので、「倭人」は、「東の果て」などではない。何かの錯覚であろうか。
 因みに、「倭人」が「小国」三十ヵ国の「連合」であるとすれば、それは「小国」などではない。氏の用語は、混乱していると見える。
 何しろ、「倭人」の領域は、把握されていないのだから、領域の広さは不明であり、殊更、領域の広さで国の大小は論じられないのである。
 海外(呉)とくると、東呉孫権も、蛮族の王となってしまう。まことに尊大である。
 因みに、当時の中国に「海外」の概念は無い。またもう一つの時代錯誤であろうか。それとも、氏の視点が錯乱していて、ここは、二千年後生の無教養な東夷の眼で見ているのであろうか。読者に超人的な理解力を要求するような「無理/難題」を言ってはならないと思うのである。

距離・説
 ①古い時代の短里説 ②誇張説 ③政治的忖度説

 無意味な列記である。「古い時代」とは、殷周代のことだろうか。太古の制度など幻影である。「誇張」は、計算の根拠が必要である。まして、当時「政治的忖度」などあり得ない。全て、虚偽/虚妄である。

◯内野説(5倍説)
 魏から外国に贈られた金印は大月氏国と倭国の二国のみであるが、大月氏国と倭国との国力は大きく違うのに金印付与されたのが謎とされる。

 当時「国力」は無意味で、ここで問われるのは、新参蛮夷の格付けである。当時の天子の評価は、当時の天子にしかわからないのであり、二千年後生の無教養な東夷に分かるはずが無い。最善の努力を払っても、誰にも解答が出せないのは、「問題」でも「謎」でも無い。
 天子が蕃王に「金印」を贈るなど論外である。そもそも、なぜ、それぞれの国に「金印」を贈ったのか。貴霜国に対しては、武力を抑えるための懐柔であろうが、「倭人」は暴虐でないので、全く異なった意義を持っていたと思われるが、いくら二千年後生の無教養な東夷が考えても、わかるはずはないから、「回答」を要求した「謎」ではないと見るものではないか。
 
 卑弥呼は司馬懿が公孫氏を滅亡させた翌年の239年にすぐさま使者を魏に送った。倭からの朝貢は司馬懿の功績を宣伝するためには格好であった。

 「格好」「すぐさま」と云いつつ、景初二年を踏み潰したまま「翌年」と正史を改竄し、一年をおいておもむろに遣使したとは不審である。そのような解釈は、たいへんな勘違いと自覚するべきである。陳寿「三国志」魏志によれば、「倭人」は、景初二年六月に帯方郡に到着したのであり洛陽に参上したのではない。と言うか、内野氏は、大胆にも、洛陽到着は、明帝没後、少帝曹芳の就位した景初三年という主張であろうか。
 景初二年中は、魏明帝が生存していたが、景初三年元旦に逝去しているから、景初二年中に上洛したかどうかは、大問題である。記録されている皇帝詔書は、明帝のものか、少帝曹芳のものか、本来、文献考証上の大問題を孕んでいるのである。陳寿「三国志」魏志倭人伝には、倭人使節の洛陽到着の年次は書かれていないが、魏明帝の逝去の際の、それこそ「画期的な事情」を無視していては、臆測/創作/改竄の類いとされて、反論できないのではないか。

 翌240年官吏梯儁は倭国に派遣され倭国に至るまでの行程、国情、政治など詳細に調査し報告した。

 無造作に「官吏」だが、下級吏人の筈はなく、帯方郡官人建中校尉梯儁である。
 魏帝が、国情/行程不明のまま下賜のお荷物を担いだ遣使を送り出すとは不審である。子供の近所へのお使いにしても不都合である。当然、使節団の発進以前に「郡から倭まで万二千里」と知れていたし、さらには、実務的に必須の所要日数四十日程度というのも知れていたはずである。
 「国情、政治など詳細に調査し報告した」と現代風におっしゃるが、蕃夷の世界に「政治」は存在しないから、調査しようが無い。「国情」は、意味不明であるが、当然、「風俗」、すなわち、法制と俗習は、報告されている。
 ここまでにも、折々に指摘しているように、「倭人伝」の用語は、三世紀中原の教養人の用語であり、しばしば、二千年後生の無教養な東夷の理解を越えているのであるから、丁寧に、厳密に考証していただく必要がある。
 要するに、内野氏は、「倭人伝」原文を理解していなくて、いずれかの助言者の怪しげな「飜訳」を頼りにしているようである。善良な聴衆に、氏の誤解を蔓延させないように、ご注意/ご自愛いただきたいものである。

*反射的なダメ出し
 因みに、翌240年」とは、不可思議である。正史に西暦紀年など存在しない。「倭人伝」に書かれているのは、明帝景初二年の帯方郡訪問、同年十二月の皇帝詔書であり、翌景初三年の記事はなく、一年余を経た少帝曹芳の「正始元年」である。
 内野氏の「臆測」では、景初三年六月の帯方郡訪問、追って上洛、同年十二月の皇帝曹芳詔書であり、翌正始元年に下賜物を担いだ遣使が発進したという強行日程であり、明帝没後の喪中の景初三年の六ヵ月諸事自粛を思うと、信じがたい「特急処理」である。
 下賜物を発送するためには、道中諸国からの受入確認連絡が必須であり、未曽有の大事に関して、現地から即答が来るはずはないので、一年かかっても不思議ではない、「相当の期間」を要したと見るものではないか。そして、全地点からの確認が必要であるから、蕃王の配下から来る応答は、随分遅々としたもので在ったはずである。いや、遣使した難大夫、都市大夫が帰国して指示したとしても、ということである。
 「特急処理」など、有りえないのではないか。素人の反射的なダメ出しであるから、読者諸兄姉には、かえってわかりやすいと見て、一通り書いたのである。

*論評総括
 内野氏が、どのような検証で、ここに提議されたような短縮/強行/特急日程を支持したのか不明であるから、とても、信用できないのである。
 要するに、当然の事項なので、「倭人伝」から割愛されていても、当然の手順は、当然執り行われているはずである。またもや当然であるが、要するに、発進以前に、行程各地に使節団の到着予定を通達し、各地責任者から、確認/確約を得ていたはずである。当然、そのような交信の所要日数は、使節団の所要日数設定の参考となったはずである。
 以上は、魏帝国という「法治国家」では、当然の手順であるから、「倭人伝」から割愛されているとしても「行われなかった」と主張するには、相当確固たる反証が必要である。

 帰国後、太守弓遵等は司馬懿の功績を高めるため距離、人口、位置は呉の背後の会稽東冶の東で1万7千里(5000里+12000里)大月氏国に匹敵する遠方の国で数十万の大国として報告を作成した。ゆえに朝鮮半島と倭国は人口と距離が5倍ほど水増しされた。陳寿や魚豢(魏略)はその記録を踏襲した。

 その時期、不遇であった「司馬懿の功績」なぞ、どうでも良かったはずである。
 繰り返しになるが、「倭人伝」に、「距離」「人口」は、一切書かれていない。「位置」は、初耳であるから返事に窮する。それにしても「数十万の大国」は、冗談がきつい。戸数のことなのか、何のことなのか。
 因みに、洛陽/帯方両郡の戸数、口数は、一戸、一人まで正確に集計されていて、五倍誇張など無意味である。そう言えば、郡管内の「朝鮮半島」道里の水増しも、本来無意味である。
 ついでながら、魚豢は曹魏の忠臣であり、逆臣司馬懿の功績を高める粉飾など死んでも行わないのである。
 
 「呉の背後」と言い切っているが、「会稽」は呉の中心部であり、その南部の東冶は、ほんの裏庭に過ぎない。氏は、漢数字が読めないのだろうか。二千年後生の無教養な東夷の地理感覚を、根こそぎ洗い直して、せめて、洛陽人の世界観で史料解釈に臨んで欲しいものである。別に「中国語が自力で発音できなくても」、つまり「読めなくても」関係ない。当時の実務を想定すれば、史官の深意は、行間や紙背から読み取れるはずである。
  
 因みに、公孫淵と孫権は、数次の書簡往復があり、実務として、遼東公孫氏の臣下「倭人」の素性は、東呉に既知であったと見える。

 それにしても、帰還して万里捏造」は、時代錯誤である。皇帝報告後に報告「作成」は不可能であろう。「万里」往復に要する日数は、氏の臆測の五分の一程度であろうから整合しない。古代史の泰斗である岡田英弘氏は、既に、「万二千里」を後世西晋代の「陳寿の創作」と断じていて、それはそれで、無根拠、臆測の随分軽率な断言であるが、内野氏は、高名な岡田氏の提言を、無断で改竄しているのだろうか。それとも、盗用、パクリの際の手違いなのだろうか。

*「岡田」氏の不朽化された「至言」- 誤謬の継承
 2025/12/16
 因みに、未だに、Wikipediaにまで書き立てられている岡田氏の提言は、実は、氏が、「倭人伝」考察に新規参入した際の、言わば、初見に基づく未熟な所見であり、後年、氏の理解が深まった時点には、「万二千里」を景初三年、ないしは、正史元年に遼東戦勝を報告した際に、司馬懿が公称したとされていて、言わば、岡田氏自身が、同提言を放棄しているのである。
 ただし、氏の提言は、旧著公刊の際の見解として、言わば「永久保存」されているのであるが、氏の史学者としての見解は、後年の最終見解を採用すべきと思われる。目下、岡田氏は、言わば、天下に恥を曝されていることになるのであるが、多分、Wikipediaが訂正されることは無いだろうと思うのである。

*閑話休題
 端的に言うと、陳寿は、「魏志倭人伝」の編纂にあたって、史官の「職務に殉じる」覚悟で、洛陽の各部門に所蔵されていた公文書の記載内容を遵守したが、無謬の天子である明帝が犯したと見える「道里」に関する「錯誤」を、文書交信の所要日数によって「事実上」是正し、当時の高官諸賢の同意/正解を得たのだが、二千年後生の無教養な東夷は、偏見に満ちているため、「魏志」に書かれていない風評/裏話を、寄って集(たか)ってでっち上げて、挙(こぞ)って誤読/誤解していると見えるのである。反論があるなら、文書史料を提示して、反駁していただきたいものである。

 因みに、少帝曹芳の最初の十年間、司馬懿はむしろ逼塞し、老妄を擬態して最高権力から遠ざかっていたから、もし、曹爽が司馬懿の野心を察知して、大権を駆使して司馬懿一族を誅殺するとなると、司馬懿に阿諛追従した報告者一族も、自動的に連座して皆殺しだから、ヘタな策謀はしなかったと見える。何しろ、漢書を編纂した班固は、史官として中立的な立場にありながら、絶対的な最高権力者であった大将軍竇憲が、時の皇帝によって誅伐された際に連座/刑死していて、有力者に追従するのは、ときに、死に至る近道だったのである。
 因みに、陳寿の司馬懿評価は冷徹で、司馬懿は、多年の功労で列侯とされながら、「魏志」に「伝」を立てられていない「不名誉」に浴している。

 一方、明帝没後、司馬一族の専横に抵抗した毋丘儉は、司馬懿が尊重することを誓約した曹芳を廃位するに及んで、反乱蹶起/敗死し、一族は全滅したが、「魏志」に伝を設けられている。制約のある伝の真意を読み取れば、明帝曹叡の信任が格別に厚かった毋丘儉が、当時、遼東を管轄する幽州刺史として公孫淵の上位者であり、「西方戦線から臨時に起用されて与力した、現地事情に通じていない司馬懿」と並ぶ副将として遼東平定に大きな功績を果たしたと理解できる。特に、公孫氏滅亡後の遼東の空白を突いて南下しようとした高句麗を、玄菟郡太守王頎に命じて長駆大破した功績は明らかである。当然、西晋政権下で編纂された「魏志」には、明記できなかったのである。

 ついでに言うと、帯方郡太守弓遵は、いわば「国王」に等しい高貴な身分であり、「等」で括り付けられるような同格の人物は登場していない。軽率である。それとも、内野氏は、玄菟郡太守王頎が「黒子」として参画したというのだろうか。

◯まとめ
 総括すると、内野氏は、世上流布しているらしい、不出来な/理解できない元史料を、不出来に切り刻み、逐一味見しないままに盛り付けた俗説を、席上に提示しているが、実際は、一場の「ごみ史料」と化しているから、とても、食するわけには行かないのである。当方は、そのような率直な指摘を言いがかりと言われないように、大量の根拠を示して批判している。文句があれば、キッチリ反論して欲しいものである。
 総括すると、氏は、中国史料を、適確に読解する能力が不足しているのに、それを周囲に対して認められないままでいるようである。周囲は、氏を適切に支援する努力をしていないようである。困ったものである。

 内野氏の発表が素人ブログの片隅であれば、野次馬の雑情報として見過ごせるが、安本美典師主宰講演会の資料は、「邪馬台国の会」会長の絶大な権威もあって、世間の注目と信頼を集めるので、年代物の誤解の伝播を防ぐために公開書評せざるを得ないのである。
 ここに示されたような「誤解放置」は、氏の玉稿をだれも真剣に批評していないのが原因と危惧される。おかげで、部外者の素人が、憎まれ役を引き受けざるを得ない。

 ぜひ一度、ご自身の思考過程を、一歩一歩確認/ご自愛いただきたいものである。一度、公開してしまえば、それは、不滅の業績なのである。是非とも、自重いただきたいものである。

 冒頭に「ひび割れた骨董品」と悪態をついているが、ひび割れた焼き物は、「金継ぎ」すれば、ひび割れる前より遥かに高い価値を得ることができるのである。ぜひ、ご自愛頂きたいものである。

                                以上

2025年12月 5日 (金)

新・私の本棚 小澤 毅『魏志』が語る邪馬台国の位置 1/2 2025

季刊「邪馬台国」第139号 梓書院 2020年12月刊 
私の見立て ★★★☆☆ 堅実 不偏不党、但し、未熟   2021/02/03 補充 2021/12/24,  2025/12/05

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

〇はじめに~「勝手に査読」の弁
 本記事は、先に公開した小澤氏の講演とほぼ重複していますが、目下天下に唯一の古代史論専門誌「邪馬台国」掲載論文として、いわば、座り直して批判するものです。
 このたび、読みなおして、補充しましたが、論旨は変わっていません。

 前稿は、既に、講演批判として行きすぎの感があったと思いますが、本論は、氏を倭人伝論において素人の論客と見立てて、査読紛いの論文審査をしてみました。失礼を顧みずに言うべきことを言うには、そうするしかないので、一種座興として聞き流していただいても結構です。

〇様式不備/用語齟齬
 当記事でも、記事タイトルに書かれている「魏志」を、広く知られている「倭人伝」の言い換えとして進めるのは、二つの意味で不法です。
 まずは、目次に明記の「魏志」のすり替えはだまし討ちです。
 先賢は、倭人伝に限定された論議を評して、「それでは、深意から遠ざかる一方である。三国志全巻を通読玩味して、三国志の書法を熟知するのが先決である。」と貴重な訓戒を垂れているので、氏ほどの高名な論者が、魏志全篇を参照した倭人伝論を展開していただけるものと、大いに期待し、拝聴、ないしは、拝読したものと思うのですが、実は、実は、では、騙されたと感じると思うのです。

 次に、臨時の言い換えで、「魏志」なる高名な史料名を、その本体部分を差し置いて、全三十巻の最終巻の末尾にある、一部と言うのが言い過ぎになるような細部である「倭人伝」に限定使用するのは、許容される論文作法の手口を、大きく外れています。読者は、ここで「魏志」を目にする度に困惑するのです。講演ならぬ本誌では、戻って読み返すことができますが、それでも、意義のない言い換えと考えます。
 これでは、論争史を通じて山積している先行論文を引用するとき、用語が輻輳します。また、当論文を引用する論者は、引用文に、都度注釈を加えなければなりません。これは、論文作法を知らない初心者の手口です。

 この手順が、古代史の先賢が、特に根拠を示さないままに、「倭人伝」なる用語を否定している言いがかりへの対応とすれば、回避でなく克服すべきと見ます。本記事で克服できないのなら、臨時に宣言すれば良いのです。混乱を助長しては、論外です。

*史料錯誤
 普通、当論文は『倭人伝から「邪馬台国」の位置を語る』論考と思われますが、原史料である倭人伝に「邪馬台国」と書かれてないという衆知で未解決の難点を克服しなければなりません。本記事で克服できないなら、臨時に宣言すべきです。基礎部分に穴が空いたままで、放置されていては、粗相の感があります。

 いや、本誌は、「邪馬台国」と銘打っているので、読者は、古代史に十分通じていて、かつ、国名問題に関して、とうに意志決定済み、解答醸成済みと速断したのかも知れませんが、それは、唯一の古代史専門誌の読者に対して、重大な先入観を持って臨んでいるのであり、まことに失礼な態度と言わねばなりません。言うまでもありませんが、いかなる分野でも、初心者、初級者は、絶えず参集しているのであり、長い学びの道のりを歩み出すときに、未検証の、根拠の無い一説を先入観として植え付けるのは、避けるべきと考える次第です。

 本論文のタイトルでもわかるように、看板は尊重すべきであり、安直な塗り替えは禁じ手ですが、だからといって、学術的な手順は見過ごすべきではないのです。読者の賢察もまた尊重すべきです。

*史料改竄
 因みに、講演では「本稿では」と前振りして、「倭人伝」刊本に明記されている一部用語を、氏自身が信ずるに足りないとする後世史料に従って言い換えていますが、ここでは「本稿では」が、削除され勝手な定説としています。

 学問の世界では、原史料を改竄するのは、厳に戒めるべきものと信じるので、本記事は、厳格な「ファクトチェック」のされていない風説によって原史料を改竄した「風説論文」と解されます。差異は些細ですが重大です。基礎部分に穴が空いたままで放置されていては、粗相の感があります。
 当記事をわざわざ書き上げた理由の一つが、この無造作な改編です。

 史料の校訂は「厳格に確証されない限り行うべきではない」とは、「釈迦に説法」と思えるのですが、氏は、中国古代史史料の考証においては、修行が足りないと感じ、率直に指摘するものです。他意はありません。

〇無礼御免
 以下、本誌記事に相応しい批判を展開します。前稿に比べて論調が厳しいのは、本記事が、編集部の論文審査を経た「一級論文」と見ているからです。
 言外の示唆では、読み取れないのかも知れないので、「改」公開では、子供相手のような言い方をしますが、要は、雑誌編集部/出版社校閲部門の怠慢、ないしは、失態を指摘しているのです。当分野唯一、天下最高の専門誌に対する批判は、厳しいものになるのです。

                                未完

新・私の本棚 小澤 毅 『魏志』が語る邪馬台国の位置 2/2 2025

季刊「邪馬台国」第139号 梓書院 2020年12月刊 
私の見立て 星三つ ★★★☆☆ 堅実 不偏不党、但し、未熟   2021/02/03 補充 2021/12/24,  2025/12/05

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

1.1 はじめに
 氏は、倭人伝を「第一級史料」と見つつ「当時の日本列島のようす」を伝えていると評しますが誤解と思われます。冷静に読みなおしていただければわかるように、「ようす」、つまり、風俗や地理が書かれているのは、「従郡至倭」の示すとおり、郡~狗邪~對海~一大~末羅~伊都の行程の通過、経由地であり、特に、狗邪の大海北岸を発して以後の行程です。
 つまり、「日本列島」、つまり、西日本全般どころか、行程上の数カ国のようすに過ぎないのですが、それが『倭』の枢要部なのです。
 「倭人」伝は「倭人」領域に限られますから、郡と狗邪のようすは書いていないのです。
 かたや、奴國、不彌國、投馬國は、「倭人」領域であっても、行程道里主要国ではないので、「略記」にとどまっているのです。
 なお、伊都国、女王国は、行程の目的地なので、詳細後記として、ここには詳しく書いていないのです。

 以上は、「倭人伝」を虚心に読めば、自然に読み取れるはずです。

 世上、このような当然、自明の議論を封じるために、「文法」論などの口説が動員されますが、目前の史書記事を無視/軽視するのはいかがなものでしょうか。以上の素人考えは、別に、中国人学者に頼まなくても普通に読み取れるはずです。「倭人伝」は、中国古代人の教養と理解力に合わせて書かれていて、現代中国人にとっても理解困難な高度な古文史料ですから、よくよく、その理解力を測ってから、ご意見を拝聴するのであり、無批判な追従は、禁物です。
  そのような自然な読みをどう理解されたのか、余り通用していないと思われる古代史用語である「日本列島」、つまり、九州北部から東方までの領域の「ようす」が書かれていると、一種の思い込みで断じるのは、氏の信条を外しているように感じます。倭人伝を基礎資料として解読するなら、外部資料は後回しにすべきと感じる次第です。
 また、邪馬台(やまと)の書き方は、同様に、不本意というか、不手際です。仮に、倭人伝」に書かれていない「邪馬臺」を原表記と仮定しても、「やまと」と発音したことを裏付ける一級史料は絶無です。「倭人伝」執筆時点で、影も形も無かった世界の「ようす」が、「倭人伝」に影響するはずもなく、時代倒錯と見えます。

 氏に、初学者に向かって言うように言い立てるのもどうかと思いますが、「臺」は「台」とは、根っから別の字であり、発音も意味も別物なのです。大事な点をすっ飛ばしては、不都合です。

*中国史書視点の見当違い
 冷静に考えればおわかりいただけると思いますが、魏志編者は、天下国家の正史を志したのであり、いかに魏志全三十巻の掉尾を飾る勲功としても、あらたに参詣した東夷伝の小伝である「倭人伝」を諸史料から結集するに際して、東夷の国内の小国の配置に特別の関心を持ったわけではないのです。また、各国の里程方位を題材に、読者に対して、高度な読解と解答を要求する「問題」(Question)を工夫したとも思えないのです。
 氏の言い分は、国内史料から築き上げた蒼々たる国内歴史解釈に従うように、氏の専門とされる考古学成果を積み上げたのに続いて、中国史料を読み従えようとしているように見えます。いや、それは、多くの先賢が挑んで、登攀路を見出していない高嶺に虚心に挑もうとしている氏の所信に反しているように見えるのです。
 かくの如く出発点で誤解した以上、論考の迷走は不可避と見られます。氏が、恐らく承知の上で「定説」に流されるのは、何とも勿体ないところです。
 この後、氏の論理は、信条と定説を交えて大きく動揺します。

*二級史料の暴走
 定番とは言え、後世史書、類書、雑書を無批判で満載で、「相互の比較をつうじて、現行刊本の『魏志』の文字を校訂する」と述べます。遺稿上申とはいえ、晋帝嘉納以来、二千年近く継承された「一級史料」(依拠刊本不明)を、後世、速成抄写を重ねた「二級史料」で否定するのは見当外れです。
 後手で「二級史料」と査定し、史料として格段に低い位置付けを施すのは、逆順でちぐはぐです。それなら、前段で、倭人伝」を改竄した「一刀両断」を正当化できないのです。自己矛盾が露呈していて、不思議な眺めです。
 大学教授の玉稿は、編集部査読外なのでしょうが、共々、手軽な不手際の露呈で随分損をしています。

1.2 邪馬台国の位置
位置推定の材料  『魏志』に登場する国々の所在を推定するうえで最大の指標となるのは、里程記事である。当然、地理や現地の地形との対比も必要となるが、それにくわえて、地名も重要な手がかりを与えてくれる。

 ここで、二級史料はまだしも、東夷の国で、数百年語り継がれたあげくの「地名」国内史料を「重要な手がかり」と採用するのは、同意しがたいのです。元々の「地名」が、後年、門司資料として収集され、いずことも知れぬ中枢部に収集され、最終的に、国内資料に反映され、後世に承継されるまでの、長い曲がりくねった道で、どのように変化したか、わかるはずはないのです。正史記事は、歴代王朝の国宝として厳重に管理され、極めて安定していたと見えるので、同列に扱うのは、無謀と言うべきです。
 また、事のついでのように書かれる「考古学成果」は、重要な手がかりなので、無文字の限界を明記した上で、この場で要点を紹介すべきと思われます。
 一級史料の記事を改竄するなら、ご自身の著作物として公表すべきであり、原典と異なる「史料」について論じるのは「贋作」行為です。

 ついでに言うと、俗に言う渡海の「実距離」は一切測定不可能で、誇張の基準にならないから、「水増し」は理屈の通らない単なる言いがかりなのです。どなたの口ぶりかわかりませんが、子供じみた口まねは、感心しません。
 また、数学用語が誤用された「実数」の不意打ちは、不当でしょう。まあ、合わせて、先人の科(とが)でしょうが、無批判追従は氏の沽券に関わるのではないでしょうか。

 このように念押しするのは、氏の論旨展開が、氏の信条に反して、先例の多い「推定、憶測により断定を押しつける」粗雑な暴論に陥っているからです。とかく定説に多い錯覚に染まっているのではないかと懸念しています。

 「普通」に考えれば、日数は、日常往来から検証できるので、架空のものではなく、十分信を置けます。氏の割り切りは、先賢が大きく躓いた「名所」を忠実に辿るようで、考察に掘り下げを欠き、考えの浅い見当違いとみえてしまいます。

1.3 「卑弥呼」と「卑弥弓呼」
 「邪馬台国の所在」と掲題の「位置」を外して論じていますが、「所在」は「不在」を含む主旨なのでしょうか。論考では、一語一義としたいものです。これは、編集校正段階で、真っ先に検出すべき瑕瑾です。
 いずれにしろ、本稿は、掲題にない余談には関与しません。

〇まとめ
 結局、氏の本記事は、一級史料そのものでなく、「国内史料に基づき一新された倭人伝」に基づくものであり、正直にそう書かれた方が良いのです。折角、実直な所信を打ち出しても、史料自身の考察より失敗事例の追従を優先するのは、不徹底と見えます。恐らく、先賢や助言者の提言を排除すると、無礼だと非難を浴びるので、色々忖度したのでしょうが、勿体ないことです。「木は、芽ぐむ土地を選べないが、鳥は、宿る木を選ぶ」というのが、古来の箴言です。
 率直なところ、倭人伝」に関する史論は「倭人伝」記事に基づき展開するとの抱負から、まずは、初心者の目で史料自身の考察に取り組むべきだと思うのです。確実な一歩を踏み出すことが必要と感じます。
 「後生」の務めは、「先生」の至言と言えども、糺すべき過ちは糺し、質すべきは質し、その精髄を継ぐべきと思うのです。

〇謝辞

 以上、氏の宣言につけ込んで、無遠慮に素人扱いした無礼をお詫びします。なお、安本美典氏が本誌編集長就任時に、論文審査を編集の基幹とする旨宣言されたのと同じ方針によって、勝手に論文審査したものとご理解いただきたいものです。

                                以上

より以前の記事一覧

お気に入ったらブログランキングに投票してください


2026年2月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28

カテゴリー

  • YouTube賞賛と批判
    いつもお世話になっているYouTubeの馬鹿馬鹿しい、間違った著作権管理に関するものです。
  • 「周旋」論
    魏志倭人伝の「周旋」に関する論義です
  • 「長大」論
    魏志倭人伝の「長大」に関する論義です
  • ファンタジー
    思いつきの仮説です。いかなる効用を保証するものでもありません。
  • フィクション
    思いつきの創作です。論考ではありませんが、「ウソ」ではありません。
  • 今日の躓き石
    権威あるメディアの不適切な言葉遣いを,きつくたしなめるものです。独善の「リベンジ」断固撲滅運動展開中。
  • 倭人伝の散歩道稿
    「魏志倭人伝」に関する覚え書きです。
  • 倭人伝道里行程について
    「魏志倭人伝」の郡から倭までの道里と行程について考えています
  • 動画撮影記
    動画撮影の裏話です。(希少)
  • 卑弥呼の墓
    倭人伝に明記されている「径百歩」に関する論義です
  • 古田史学の会
    古田武彦師の流れを汲む史学の会です。着実に刊行されている会報記事の建設的な批判です。
  • 古賀達也の洛中洛外日記
    古田史学の会事務局長古賀達也氏のブログ記事に関する寸評です
  • 名付けの話
    ネーミングに関係する話です。(希少)
  • 囲碁の世界
    囲碁の世界に関わる話題です。(希少)
  • 季刊 邪馬台国
    四十年を越えて着実に刊行を続けている「日本列島」古代史専門の史学誌です。
  • 将棋雑談
    将棋の世界に関わる話題です。
  • 後漢書批判
    不朽の名著 范曄「後漢書」の批判という無謀な試みです。
  • 新・私の本棚
    私の本棚の新展開です。主として、商用出版された『書籍』書評ですが、サイト記事の批評も登場します。
  • 最初の「倭人伝」
    倭人伝に関する随想のまとめ書きです。
  • 歴博談議
    国立歴史民俗博物館(通称:歴博)は、広大な歴史学・考古学・民俗学研究機関です。「魏志倭人伝」および関連資料限定です。
  • 歴史人物談義
    主として古代史談義です。
  • 毎日新聞 歴史記事批判
    毎日新聞夕刊の歴史記事の批判です。「歴史の鍵穴」「今どきの歴史」連載が大半
  • 産経新聞古代史記事批判
    全国紙の一角を占める産経新聞の古代史記事の批判です
  • 百済祢軍墓誌談義
    百済祢軍墓誌に関する記事です
  • 私の本棚
    主として古代史に関する書籍・雑誌記事・テレビ番組の個人的な読後感想です
  • 纒向学研究センター
    纒向学研究センターの紹介です
  • 西域伝の新展開
    正史西域伝解釈での誤解を是正するものです。恐らく、世界初の丁寧な解釈です
  • 資料倉庫
    主として、古代史関係資料の書庫です
  • 邪馬台国・奇跡の解法
    サイト記事『伊作 「邪馬台国・奇跡の解法」』の紹介
  • 隋書俀国伝談義
    隋代の遣使記事について考察します
  • NHK歴史番組批判
    近年、娯楽番組化している公共放送古代史番組の論理的な批判です
無料ブログはココログ