季刊 邪馬台国

四十周年を迎え、着実に刊行を続けている「日本列島」古代史専門の史学誌です。

2022年5月21日 (土)

新・私の本棚 季刊「邪馬台国」第141号 巻頭言「隔てる海、つなげる海」 改訂

 編集部      梓書房 2022/1/4刊       初稿 2022/03/24 二稿  2022/05/21
私の見立て ★☆☆☆☆ 認識不足、早合点
 
〇はじめに~巻頭言の不勉強
 今回の題材は「巻頭言」であり、言わば、世間話で本号の「つかみ」としているのだろうが、見当違いの発言を正していこうというものである。

◯引用紹介と提言
 冒頭に、「富山県が平成6年に発表して以来、話題を集めた、南北を逆さまにして大陸から日本を見た地図である。この地図は、『(1)中国、ロシア等の対岸諸国に対し、日本の重心が富山県沖の日本海にあることを強調する、(2)本県(注・富山県)が本州の日本海側の中央に位置し、環日本海交流の拠点づくりを進めていることを国内にPRする』という目的で作成された」と「逆さ地図」が紹介されている。二重引用部の出典不明。
 参考 環日本海・東アジア諸国図(通称:逆さ地図)の掲載許可、販売について 
 現代の感覚では、海路は最も時間のかかるイメージであるが、古来においてはまさに「ハウェイ」(ママ)であった。車も電車も、ましてや新幹線もない陸路では、運べる荷物の量も限られ、移動スピードも海路には格段に劣っていた。それだけ「海でつながっている」ということは、地域にとっての強みであり、海路は交易の主役だったのだ。古代の人々にとっては、海とは「隔てる」ものではなく、「つなげる」ものだったのではないだろうか。

◯コメント~引用資料の時制混乱/錯誤
 氏は、富山県の著作物を口頭で紹介した上で、第三者著作物を踏み台として、自己主張しているのは、感心しない。編集子は、「最も時間のかかるイメージ」などの混乱した感覚をまき散らして、理解困難で勝手に論調を仮想してみた。

 冒頭紹介の富山県提案が、古来、日本海中部に対岸と連携する輸送交通路「航路」が形成されていたとの主旨と仮定すると、本誌守備範囲の紀元二~四世紀の時代背景で、そのような「航路」は、不可能そのものである。また、それを証する出土遺跡、遺物もないはずである。
 ただし、よくよく見ると、富山県は、明らかに「古代幻想」不関与で、引き合いに出されて大迷惑と見た。大破綻である。

*救済不可能な破綻/「海路」の時代錯誤
 編集子提示の「海路」は、出典不明の後世語で、当時、「海路」概念は一切存在せず、実体がないので評価不可能。時に見かける時代錯誤である。従って、倭人伝に「海路」なる用語はなく、当時存在したのは、対馬海峡渡海船だけである。従って、比較検討は無意味である。繰り返すと、当時、「海路」は全く存在しない上に、陸上「公道」(正解は「ハイウェイ」)は未整備で比較不成立である。

 なにしろ、編集子提言は、時代像非開示で、誠に不用意である。スピード比較を言うが、根拠不明では、検証不可能である。

 日本海中央部に輸送に値する荷物は存在しなかったと思われ、提言いただいた輸送手段は成立しないから、比較は、一段と無意味である。

*空転、空疎な提言
 してみると、両者が「海水でつながっている」と逃げずに、いつ交通可能になったか提示すべきであり、同時代外ならここに展開すべきものではない。

◯結論 苦言進上
 本誌巻頭言は、実際上編集長の執筆だろうが、編集長無謬ではないから、玉稿といえども校閲の上で掲載すべきではないだろうか。
 編集諸兄姉の顧客は、読者の筈である。雑誌の令名に恥じない巻頭言を掲載していただきたいものである。

                                以上

2022年3月 4日 (金)

新・私の本棚 第395回 邪馬台国の会 講演 安本 美典 「謎の4世紀第11代垂仁天皇時代のできごと」

 謎の4世紀第11代垂仁天皇時代のできごと(みかん物語・田道間守の話)
私の見立て ★★★★☆ 潤沢 2022/03/04

〇始めに
 当記事は、情報豊富で大変参考になるが、細瑾が見えたので、以下、私見を提示する。

⑴古墳古尺談義
 (5)永寧二年(302)の骨尺にもとづけば、晋の一尺は、二十四センチである。このものさしではかれぱ、崇神天皇陵古墳の全長240メートルは、ちょうど1000尺である。垂仁天皇陵古墳の全長は、950尺、景行天皇陵古墳の全長は1300尺である。晋のものさしを用いて、古墳の設計が行なわれているようにみえる。

 安本氏にしては、突っ込みが浅いと書いてしまった。「尺」は度量衡で、土木工事には場違いである。古代に多桁数字はなくて間尺に合わず、誤解を誘う時代錯誤である。
 古墳全長は、測量単位の歩(ぶ)、一歩六尺、1.5㍍程度が必須である。概算で、崇神陵、垂仁陵は六百歩程度、景行陵は九百歩程度となる。机上計算は精密でも、実務「縄張り」は、必然的に大まかである。

 と言うものの、多少大まかでも、魏晋「尺」基準の設計、施工を否定するものではない。先行論文を参照された方が良いように思う。
 例『「古韓尺」で作られた纏向大型建物群』 新井 宏 計量史研究 32-1 2010
   国立国会図書館デジタルコレクション ART0009530400.pdf

 表2 後漢尺、魏尺および古韓尺の纏向遺跡への適合度
 見る限り、垂仁/景行陵は25㌢㍍の「尺」、1.5㍍の「歩」で採寸されたと見える。古墳全長は土木工事分野で、万事大まかと見える。私見では、精密さを問うには、精測可能な墓室内の尺度領域を言うべきだろう。

⑵柑橘類談義
 『中国での柑橘類の「大産地」は、おもに、かつての、呉の国と、蜀の国との領域内になることがわかる。』と至当である。柑橘類は、水分に満ち、降水量が多く、気温の高い土地でないと育たない。まして、現代日本では、長年の品質改良で、多果汁、甘く、種が少ないもので参考になりにくい。
 現代日本でも、ミカンは南、林檎は北で好まれ、果物に地域性がある。

⑶「弱水」談義
 私見では、国内古代史論者に共通の古典書教養不足のようである。厖大な史料に通じた巨峰白鳥庫吉師も軽視したから、仕方ないが、漢字学泰斗白川勝師によれば、「弱」は下部に飾りのある弓で、祭壇に献げたのである。私見では、武器に無意味な「弱い弓」は「飾り弓」だからである。そして、西王母の前に、河流「弱水」が控えると見るものである。あくまで、素人の推定だから、ご一考いただくだけで幸いである。

 楊子雲は、司馬遷「史記」大宛伝や班固「漢書」西域伝の元史料を見たのか、西の最果て「西王母の住まいの裾野に弱水が在る」と述べているが、西遊記の孫悟空が達した「五本の柱」のように最果ての奇観(賛辞)である。

 「西海」が、大海「裏海」かどうか不明である。武帝使節団は安息東境木鹿城Mervに長期滞在したが、私見では、応対の安息長老、実は、二万の兵を擁する司令官が、百人級の軍使団に、不用意に内情を漏らしたとは思えない。

⑷范曄大秦夢譚~余談
 私見では、范曄「後漢書」西域伝は、安息、條支の西に「西王母」と「弱水」を仮想している。「流沙」は、西境に揺蕩う「砂の海」と見え、笵曄は大秦を雒陽官僚の落書きと明言して、筆が踊っている。いや、大秦がローマとは、古来の大「誤謬」であるが、安本氏が唱えたものではない。為念。
 私見では、笵曄は、先例の乏しい蛮夷伝では、自由な語り部になるのである。

                               以上

2022年1月27日 (木)

私の本棚 白崎 昭一郎 季刊「邪馬台国」第20号 放射線行路説批判 再掲 1/2

                         2018/09/21 2022/01/27
 私の見立て ★★★★☆

 実際のタイトルは、「張明澄・石田孝両氏に答える 『漢書』用例にもとづく放射線行路説批判」である。同誌の白崎氏論考への張明澄(17号掲載)、石田孝(18号掲載)両氏の批判に対する白崎氏の反論である。

 先に述べたように、白崎氏の論考は、概して冷静、論理的である。これに対して張氏の毒舌は批判と言えないが、白崎氏は、お粗末と見える挑発には乗らず、概して反論は丁寧である。

*張氏暴言批判
 張氏が、白崎氏の論考は、「現代日本人である白崎氏が勝手に作り上げた法則にしたがったものであり、「三国志」の著者が、そのような法則に従って文章を書くはずが無い」無責任に断じている。普通に言うと、これは、とんでもない暴言である。

*勝手にします
 しかし、本格的辞書に掲載される正しい日本語では、こうした場合、「勝手に」とは物事がうまく運ぶよう手順をこらすとの意味であり、白崎氏の論法を賞賛している事になる。もちろん。「勝手に」には、他人との関係で相手の事に構わずに自分本位に振る舞う事を言うこともあるが、白崎氏の批判では、「相手」が現実世界に存在しないので勝手にしようがない。

 して見ると、この「勝手に」は、白崎氏の手際を賞賛しているのだが、張氏は、自身の用語の不備に気づかず白崎氏を罵倒したようである。

*継承と創唱
 もちろん、白崎氏は、ご自身の文で、独自の法則を作り上げたとは書いていない、ご自身が班固「漢書」の用例に従っただけだというのである。一部重複するが、現代人が、古代人の文章を多数読みこなして、そこから、法則めいたものを見出した時、それを現代人の創作と呼ぶのは、見当違いの素人考えである。

 この点、白崎氏の言う、太古ー現代に通じる漢文語法を発明発見するのでなく、三世紀頃に知られていた文例を求めたとの意見に共感する。

*完敗の賦
 張氏の論理は、現代の一中国人、それも独特の感受性を持つ人物が、論敵の意図を無視して(悪い意味で)「勝手に」創作した「法則」であり、明らかに分が悪い。感情論では白崎氏の論理に歯が立たないのは当然である。いや、趙氏の経歴でわかるように、氏は、戦中の台湾で、日本式の皇民教育を受けて育ったのであるから、氏の日本語は、古典的に正しいと見ざるを得ない。むしろ、中華民国に戻った台湾で受けた中国語教育であるから、二カ国の言語の間で、見事に学識を整えたと尊敬するものである。

 続いての反論は、元々の張氏の批判が論考の本筋を見損なった暴言となっているのに丁寧に反駁したものであり、まことに同感である。

 張氏の好む暴言は、所詮、悉くが氏の個人的感情に根ざしているから、いかに付け焼き刃の理を尽くしても、善良な読者を納得させられないものと考える。

 別項でも述べたが、張明澄氏の「邪馬臺国 」論考は、しばしば、凡そ論理性のない感情論に陥って、脈略の無い雑言をまき散らしている。これは、安本氏の編集方針に反していると思うのだが、一連の張氏記事が、当時「好評」をえていたことに不審感すら覚えるのである。

*不同意の弁
 ただし、私見では、ここで白崎氏が強弁する、魏志編纂者が、倭人伝資料をご自身の信奉する伝統的漢文語法に合うように書き変えた」とする仮説には、同意できかねる。倭人伝は、記事全体と異なる漢文語法を採用していると、諸処で見てとれるように思うのである。これは、中日両国語に精通した張氏が認めているのだから、尊重すべきである。

 諸兄の意見は、それぞれ、ご自身の思い込みに影響されるものであるが、論考として提示する場合には、論証を求められると思うのである。

                                          未完

私の本棚 白崎 昭一郎 季刊「邪馬台国」第20号 放射線行路説批判 再掲 2/2

                         2018/09/21 2022/01/27
 私の見立て ★★★★☆

*石田氏との論戦
 続いて、石田孝氏の批判に対して反論しているが、こちらは、論敵というに相応しい敵手との「論争」と思う。

 白崎氏は漢書地理志の用例に基づき、「同一地点から同一方向の二地点への行路が続けて掲載された場合、二番目の(行程)方向は省略される」と述べ、倭人伝行程記事に伊都国を中心とした放射線行程は見いだせないと断じた。これに対する石田氏の批判に対し、再度、用例を確認した上で、石田氏の批判は成立しないと述べているのである。用例概要を再録する。

Ⅰ 同一方向二地点への行路例
 ⑴休循国 東、都護治所に至る三千一百二十一里、捐毒衍敦谷に至る二百六十里
 ⑵捐毒国 東、都護治所に至る二千八百六十一里、疏勒に至る
 ⑶危須国 西、都護治所に至る五百里、焉耆に至る百里
 ⑷狐胡国 西、都護治所に至る一千百四十七里、焉耆に至る七百七十里
 ⑸車師前国 西南、都護治所に至る一千八百十里、焉耆に至る八百三十五里
Ⅱ 同一方向三地点への行路例
 ⑹鄯善国 西北、都護治所を去る一千七百八十五里、山国に至る一千三百六十五里、西北、車に至る一千八百九十里、
 ⑺依耐国 東北、都護治所に至る二千七百三十里、莎車に至る五百四十里、無雷に至る五千四十里

 単なるぱっと見の所見であるが、漢朝の辺境管理方針では、当地域は帝国西域前線の「都護治所」が、要(かなめ)として放射状の幹線たる漢道諸道の発進中心(今日で言うハブ)を押さえていたのであり、それ以外に古来各国を結んで、それぞれ周旋、往来していた諸道が残存していたという事を示しているように思える。

*伊都国起点放射線行路について
 当方は、両氏の論争自体には関与しないので、アイデア提案を試みる。
 この点に関する議論で、素人考えで申し訳ないのだが、率直なところ、単なる思いつきとは言え、全面的に否定しがたいと思うので、当方の白崎氏の論考に対する批判・提言を一案、一説として付記する。

 伊都国は、当時の地域政経中心であり、交易物資集散地であったから、伊都国の中心部から各国に至る物資輸送、文書交信、行軍のための官道としての直行路、倭道が整備されていて、起点には、多分石柱の道案内(道しるべ)が設けられ、そこに、「東 奴国 南 不弥国 南 邪馬壹(臺)国」のように彫り込まれていて、中でも、南に二筋の道が伸びていたように思われる。
 つまり、南方二国は、大略南方向だが、完全に同一方向ではなく、どこかの追分で、道が分かれていたのである。

 伊都国から発する全ての倭道は、それぞれ直行したのか、どこかで転回したのかわからないし、最終目的地が、伊都国から見てどの方向かは不明であろう。わかるのは、起点道案内の「方向と目的地」である。全て直行路であるから、出発点以降、追分を間違えなければ、後は道なりに、「倭道倭遅」とでもしゃれながら、とろとろと進めば良いのである。

 そのような記法は、班固「漢書」以来の伝統に従わない、地域独特のものかも知れないが、倭の実情に適したものであり、帯方郡には異論の無い妥当なものであったため改訂されず、魏志編纂時も、この記法が温存されたと見る。

 という事で、ここでも、先賢諸説を論破せず、文献証拠のない、単なる所感を述べたのである。

                              以上

追記2022/01/27
 上記意見は、倭人伝道里行程記事を、直線的な行程を書いたものに違いないとする意見への所感を「アイデア」提案として述べたものであり、一案として依然有効と思うが、当ブログの主力とするものではないことを申し添えるものである。

 

2022年1月 4日 (火)

新・私の本棚 西村 敏昭 季刊「邪馬台国」第141号 「私の邪馬台国論」

  梓書院 2021年12月刊               2022/01/04
私の見立て ★★☆☆☆ 不用意な先行論依存、不確かな算術

〇はじめに
 当「随想」コーナーは、広く読者の意見発表の場と想定されていると思うので、多少とも丁寧に批判させていただくことにしました。
 つまり、「随想」としての展開が論理的でないとか、引用している意見の出典が書かれていないとか、言わないわけには行かないので、書き連ねましたが、本来、論文審査は、編集部の職責と思います。

▢「邪馬壹国」のこと
 「邪馬台国」誌では「邪馬壹国」は誤字であることに、触れるべきでしょう。無礼です。
 大きな難点は、「邪馬タイ国」と発音する思い込みで、これには堅固な証拠が必要です。半世紀に亘る論争に一石を投じるのは、投げやりにできないのです。

 因みに、言葉に窮して「今日のEU」を引き合いにしていますが、読者がついていけません。2022年1月1日現在、イングランド中心の「BRITAIN」離脱とは言え、北アイルランドの動向が不明とか、ウクライナの加入などが、重大懸案ですから、三世紀の古代事情の連漕先としては、まことに不似合いでしょう。もっと、レジェンド化して、とうに博物館入りした相手を連想させてほしいものです。

*飛ばし読みする段落
 以下、「邪馬壹国」の国の形について議論していますが、倭人伝に書かれた邪馬壹国の時代考証は、まずは倭人伝(だけ)によって行うべきです。
 史料批判が不完全と見える雑史料を、出典と過去の議論を明記しないで取り込んでは、全て氏の意見と見なされます。盗作疑惑です。

▢里程論~水行疑惑
 いよいよ、当ブログの守備範囲の議論ですが、氏の解釈には、同意しがたい難点があって、批判に耐えないものになっています。
 氏の解釈では、帯方郡を出てから末羅国までは、一貫して「水行」ですが、里程の最後に書かれている「都(すべて)水行十日、陸行三十日(一月)」から、この間を全十日行程と見ているのは無残な勘違いです。当時の交通手段で、この区間を十日で移動するのは、(絶対)不可能の極みです。今日なら、半島縦断高速道路、ないしは、鉄道中央線と韓日/日韓フェリーで届くかも知れませんが。

▢合わない計算
 狗邪韓国から末羅国まで、三度の渡海は、それぞれ一日がかりなのは明らかなので、最低3日、多分6~10日を費やすはずです。これで、日数はほとんど残っていませんが、そもそも、600㌔㍍から800㌔㍍と思われる行程は、7日どころか、20日かかっても不思議はない難業です。(潮まかせ、風まかせで不安定な船便では、所要日数は、青天井ですが)
 この程度は、暗算でも確認できるので、なぜ、ここに載っているのか不審です。

▢古田流数合わせの盗用
 氏は、万二千里という全行程を、12,000里と勝手に読み替えて、全桁数合わせしますが、そのために、対海国、一大国を正方形と見立てて半周航行する古田説を、誤謬を丸ごと(自身の新発想として)剽窃しています。

〇まとめ
 氏が、自力で推敲する力が無いなら、誰か物知りに読んで貰うべきです、 「訊くは一時の恥…….」です。 
 それにしても、高名であろうとなかろうと、誰かの意見を無批判で呑み込むのは危険そのものです。ちゃんと、毒味/味見してから食いつくべきです。
 以上、氏の意図は、丁寧かつ率直な批判を受けることだと思うので、このような記事になりました。頓首

                                以上

2021年12月24日 (金)

新・私の本棚 小澤 毅 季刊「邪馬台国」第139号 『魏志』が語る邪馬台国の位置 改 1/2

 梓書院 2020年12月刊 
私の見立て ★★★☆☆ 堅実 不偏不党、但し、未熟   2021/02/03 補充 2021/12/24

〇はじめに~「勝手に査読」の弁
 本記事は、先に公開した小澤氏の講演とほぼ重複していますが、目下天下に唯一の古代史論専門誌「邪馬台国」掲載論文として、いわば、座り直して批判するものです。
 このたび、読みなおして、補充しましたが、論旨は変わっていません。

 前稿は、既に、講演批判として行きすぎの感があったと思いますが、本論は、氏を倭人伝論において素人の論客と見立てて、査読紛いの論文審査をしてみました。失礼を顧みずに言うべきことを言うには、そうするしかないので、一種座興として聞き流していただいても結構です。

〇様式不備/用語齟齬
 当記事でも、記事タイトルに書かれている「魏志」を、広く知られている「倭人伝」の言い換えとして進めるのは、二つの意味で不法です。

 まずは、目次に明記の「魏志」のすり替えはだまし討ちです。
 先賢は、倭人伝に限定された論議を評して、「それでは、深意から遠ざかる一方である。三国志全巻を通読玩味して、三国志の書法を熟知するのが先決である。」と貴重な訓戒を垂れているので、氏ほどの高名な論者が、魏志全篇を参照した倭人伝論を展開していただけるものと、大いに期待し、拝聴、ないしは、拝読したものと思うのですが、実は、実は、では、騙されたと感じると思うのです。

 次に、臨時の言い換えで、「魏志」なる高名な史料名を、その本体部分を差し置いて、全三十巻の最終巻の末尾にある、一部と言うのが言い過ぎになるような細部である「倭人伝」に限定使用するのは、許容される論文作法の手口を、大きく外れています。読者は、ここで「魏志」を目にする度に困惑するのです。講演ならぬ本誌では、戻って読み返すことができますが、それでも、意義のない言い換えと考えます。
 これでは、論争史を通じて山積している先行論文を引用するとき、用語が輻輳します。また、当論文を引用する論者は、引用文に、都度注釈を加えなければなりません。これは、論文作法を知らない初心者の手口です。

 この手順が、古代史の先賢が、特に根拠を示さないままに、「倭人伝」なる用語を否定している言いがかりへの対応とすれば、回避でなく克服すべきと見ます。本記事で克服できないのなら、臨時に宣言すれば良いのです。混乱を助長しては、論外です。

*史料錯誤
 普通、当論文は『倭人伝から「邪馬台国」の位置を語る』論考と思われますが、原史料である倭人伝に「邪馬台国」と書かれてないという衆知で未解決の難点を克服しなければなりません。本記事で克服できないなら、臨時に宣言すべきです。基礎部分に穴が空いたままで、放置されていては、粗相の感があります。

 いや、本誌は、「邪馬台国」と銘打っているので、読者は、古代史に十分通じていて、かつ、国名問題に関して、とうに意志決定済み、解答醸成済みと速断したのかも知れませんが、それは、唯一の古代史専門誌の読者に対して、重大な先入観を持って臨んでいるのであり、まことに失礼な態度と言わねばなりません。言うまでもありませんが、いかなる分野でも、初心者、初級者は、絶えず参集しているのであり、長い学びの道のりを歩み出すときに、未検証の、根拠の無い一説を先入観として植え付けるのは、避けるべきと考える次第です。

 本論文のタイトルでもわかるように、看板は尊重すべきであり、安直な塗り替えは禁じ手ですが、だからといって、学術的な手順は見過ごすべきではないのです。読者の賢察もまた尊重すべきです。

*史料改竄
 因みに、講演では「本稿では」と前振りして、倭人伝刊本に明記されている一部用語を、氏自身が信ずるに足りないとする後世史料に従って言い換えていますが、ここでは「本稿では」が、削除され勝手な定説としています。

 学問の世界では、原史料を改竄するのは、厳に戒めるべきものと信じるので、本記事は、厳格な「ファクトチェック」のされていない風説によって原史料を改竄した「風説論文」と解されます。差異は些細ですが重大です。基礎部分に穴が空いたままで放置されていては、粗相の感があります。
 当記事をわざわざ書き上げた理由の一つが、この無造作な改編です。

 史料の校訂は「厳格に確証されない限り行うべきではない」とは、「釈迦に説法」と思えるのですが、氏は、中国古代史史料の考証においては、修行が足りないと感じ、率直に指摘するものです。他意はありません。

〇無礼御免
 以下、本誌記事に相応しい批判を展開します。前稿に比べて論調が厳しいのは、本記事が、編集部の論文審査を経た「一級論文」と見ているからです。
 言外の示唆では、読み取れないのかも知れないので、「改」公開では、子供相手のような言い方をしますが、要は、雑誌編集部/出版社校閲部門の怠慢、ないしは、失態を指摘しているのです。当分野唯一、天下最高の専門誌に対する批判は、厳しいものになるのです。

                                未完

新・私の本棚 小澤 毅 季刊「邪馬台国」第139号 『魏志』が語る邪馬台国の位置 改 2/2

 梓書院 2020年12月刊 
私の見立て ★★★☆☆ 堅実 不偏不党、但し、未熟   2021/02/03 補充 2021/12/24

1.1 はじめに
 氏は、倭人伝を「第一級史料」と見つつ「当時の日本列島のようす」を伝えていると評しますが誤解と思われます。冷静に読みなおしていただければわかるように、「ようす」、つまり、風俗や地理が書かれているのは、「従郡至倭」の示すとおり、郡~狗邪~對海~一大~末羅~伊都の行程の通過、経由地であり、特に、狗邪の大海北岸を発して以後の行程です。
 つまり、日本列島どころか、行程上の数カ国のようすに過ぎないのですが、それが『倭』の枢要部なのです。

 「倭人」伝は「倭人」領域に限られますから、郡と狗邪のようすは書いていないのです。
 かたや、奴國、不彌國、投馬國は、「倭人」領域であっても、行程道里主要国ではないので、「略記」にとどまっているのです。
 なお、伊都国、女王国は、行程の目的地なので、詳細後記として、ここには詳しく書いていないのです。

 以上は、倭人伝を虚心に読めば、自然に読み取れるはずです。

 世上、このような当然、自明の議論を封じるために、「文法」論などの口説が動員されますが、目前の史書記事を無視/軽視するのはいかがなものでしょうか。以上の素人考えは、別に、中国人学者に頼まなくても普通に読み取れるはずです。倭人伝は、中国古代人の教養と理解力に合わせて書かれていて、現代中国人にとっても理解困難な高度な古文史料ですから、よくよく、その理解力を測ってから、ご意見を拝聴するのであり、無批判な追従は、禁物です。

  そのような自然な読みをどう理解されたのか、余り通用していないと思われる古代史用語である「日本列島」、つまり、九州北部から東方までの領域の「ようす」が書かれていると、一種の思い込みで断じるのは、氏の信条を外しているように感じます。倭人伝を基礎資料として解読するなら、外部資料は後回しにすべきと感じる次第です。

 また、邪馬台(やまと)の書き方は、同様に、不本意というか、不手際です。仮に、倭人伝に書かれていない「邪馬臺」を原表記と仮定しても、「やまと」と発音したことを裏付ける一級史料は絶無です。倭人伝執筆時点で、影も形も無かった世界の「ようす」が、倭人伝に影響するはずもなく、時代倒錯と見えます。

 氏に、初学者に向かって言うように言い立てるのもどうかと思いますが、「臺」は「台」とは、根っから別の字であり、発音も意味も別物なのです。大事な点をすっ飛ばしては、不都合です。

*中国史書視点の見当違い
 冷静に考えればおわかりいただけると思いますが、魏志編者は、天下国家の正史を志したのであり、いかに魏志全三十巻の掉尾を飾る勲功としても、あらたに参詣した東夷伝の小伝である「倭人伝」を諸史料から結集するに際して、東夷の国内の小国の配置に、特別の関心を持ったわけではなく、また、各国の里程方位を題材に、読者に対して、高度な読解と解答を要求する「問題」を工夫したとも思えないのです。

 氏の言い分は、国内史料から築き上げた蒼々たる国内歴史解釈に従うように、氏の専門とされる考古学成果を積み上げたのに続いて、中国史料を読み従えようとしているように見えます。いや、それは、多くの先賢が挑んで、登攀路を見出していない高嶺に、虚心に挑もうとしている氏の所信に反しているように見えるのです。
 かくの如く出発点で誤解した以上、論考の迷走は不可避と見られます。氏が、恐らく承知の上で「定説」に流されるのは、何とも勿体ないところです。
 この後、氏の論理は、信条と定説を交えて大きく動揺します。

*二級史料の暴走
 定番とは言え、後世史書、類書、雑書を無批判で満載で、「相互の比較をつうじて、現行刊本の『魏志』の文字を校訂する」と述べます。遺稿上申とはいえ、晋帝嘉納以来、二千年近く継承された「一級史料」(依拠刊本不明)を、後世、速成抄写を重ねた「二級史料」で否定するのは見当外れです。

 後手で「二級史料」と査定し、史料として格段に低い位置付けを施すのは、逆順でちぐはぐです。それなら、前段で、倭人伝を改竄した「一刀両断」を正当化できないのです。自己矛盾が露呈していて、不思議な眺めです。
 大学教授の玉稿は、編集部査読外なのでしょうが、共々、不手際露呈で随分損をしています。

1.2 邪馬台国の位置
位置推定の材料  『魏志』に登場する国々の所在を推定するうえで最大の指標となるのは、里程記事である。当然、地理や現地の地形との対比も必要となるが、それにくわえて、地名も重要な手がかりを与えてくれる。

 ここで、二級史料はまだしも、東夷の国で、数百年語り継がれたあげくの「地名」国内史料を「重要な手がかり」と採用するのは、同意しがたいのです。
 また、事のついでのように書かれる「考古学成果」は、重要な手がかりなので、無文字の限界を明記した上で、この場で要点を紹介すべきと思われます。
 一級史料の記事を改竄するなら、ご自身の著作物として公表すべきであり、原典と異なる「史料」について論じるのは「贋作」行為です。

 ついでに言うと、俗に言う渡海の「実距離」は一切測定不可能で、誇張の基準にならないから、「水増し」は理屈の通らない単なる言いがかりなのです。どなたの口ぶりかわかりませんが、子供じみた口まねは、感心しません。
 また、数学用語が誤用された「実数」の不意打ちは、不当でしょう。まあ、合わせて、先人の科(とが)でしょうが、無批判追従は氏の沽券に関わるのではないでしょうか。

 このように念押しするのは、氏の論旨展開が、氏の信条に反して、先例の多い「推定、憶測により断定を押しつける」粗雑な暴論に陥っているからです。とかく定説に多い錯覚に染まっているのではないかと懸念しています。

 「普通」に考えれば、日数は、日常往来から検証できるので、架空のものではなく、十分信を置けます。氏の割り切りは、先賢が大きく躓いた「名所」を忠実に辿るようで、考察に掘り下げを欠き、考えの浅い見当違いとみえてしまいます。

1.3 「卑弥呼」と「卑弥弓呼」
 「邪馬台国の所在」と掲題の「位置」を外して論じていますが、「所在」は「不在」を含む主旨なのでしょうか。論考では、一語一義としたいものです。これは、編集後世段階で、真っ先に検出すべき瑕瑾です。

 いずれにしろ、本稿は、掲題にない余談には関与しません。

〇まとめ
 結局、氏の本記事は、一級史料そのものでなく、「国内史料に基づき一新された倭人伝」に基づくものであり、正直にそう書かれた方が良いのです。折角、実直な所信を打ち出しても、史料自身の考察より失敗事例の追従を優先するのは、不徹底と見えます。恐らく、先賢や助言者の提言を排除すると、無礼だと非難を浴びるので、色々忖度したのでしょうが、勿体ないことです。「木は、芽ぐむ土地を選べないが、鳥は、宿る木を選ぶ」というのが、古来の箴言です。

 率直なところ、倭人伝に関する史論は倭人伝記事に基づき展開するとの抱負から、まずは、初心者の目で史料自身の考察に取り組むべきだと思うのです。確実な一歩を踏み出すことが必要と感じます。
 「後生」の務めは、「先生」の至言と言えども、糺すべき過ちは糺し、質すべきは質し、その精髄を継ぐべきと思うのです。

〇謝辞

 以上、氏の宣言につけ込んで、無遠慮に素人扱いした無礼をお詫びします。なお、安本美典氏が本誌編集長就任時に、論文審査を編集の基幹とする旨宣言されたのと同じ方針によって、勝手に論文審査したものとご理解いただきたいものです。
                                以上

2021年12月11日 (土)

新・私の本棚 塩田 泰弘 季刊 「邪馬台国」第131号 「魏志が辿った..」改2 1/5

「魏志が辿った邪馬台国への径と国々」 2016/12刊行
私の見立て ★★★★☆ 不毛の道里論の適確な回顧 2020/04/08 改訂 ★☆☆☆☆ 無責任な投馬国道里 2020/09/03 2021/12/11,19

〇はじめに
 冒頭に「帯方郡から邪馬台国までの行程と里程の概要」と明記し、「魏志倭人伝に言う一里は現代で言う何㌔㍍かという問題を解決しておきたい」と端的です。「業界」風習に安住せず、課題(問題)を課題として取り上げ、明解な「解」を提示する困難に挑む気概は「優秀賞」の誉れを得ています。
 この姿勢に共鳴した上で、敢えて、手厳しい異論が多いのは、基本姿勢への共感の表れと見ていただきたいのです。
 改訂後の更に手厳しい批判は、投馬国道里行程論に、幻滅したからです。

*冒頭提言の空転
 先の端的な宣言は、反面、本論文の弱点を示しています。凡そ、論文は、先行諸論文を理解し克服しなければ意義がありません。つまり、長年にわたり諸兄が明解な「解」を与えられなかった未解決課題の挫折の原因を摘発、解決しなければ、また一つの誤解と解されます。工学分野では先行技術の克服が必須であり、それに馴染んだ当方は、この切り出しに賛同できません。

 そもそも、本論は、出所不明の行程文で始まっています。後になって、石原道夫編訳の岩波文庫版の文章とわかりますが、引用典拠の後出しは(著作権視点から)不法行為です。また、追って異論と対比するように(「郡から倭に至る」を置き忘れた)冒頭の狗邪韓国までの七千里の文は、同資料の解釈に無批判に追従しています。

*換算表の誤謬
 氏は、引き続いて、奥野正男氏が2010年の著書に提示した数表「里・㌔㍍換算表」の一里89㍍に独自の意見を加えたのですが、まずは、奥野氏の論考が適確に検証、批判されていないのが怪訝です。
 とは言え、掲載しているということは、趣旨賛成と見るもので、以下、その賛成票に異議を唱えるものです。

*里数談義
 素人考えでは、例示里数は、算用数字4,5桁で「余」有無もありますが、これら数字の根拠というか編者の真意を理解しないまま、「素直に」現代知識で計算するのは錯誤重積です。

 原史料の漢数字道里は、大半が千里単位と見えても、由来が異なっていて、安易に計算できないのです。まずは、松本清張氏も指摘しているように「奇数偏重」であり、その背景として、数学で言う有効数字一桁も怪しいと見て取れるのです。

 「余」と概数表明してない「里」は当然概数ですが、それでいて一律と見える「余」が、敢えて省かれているのは、別種の「里」だからでしょう。例えば、韓の「方四千里」は実測等でなく、郡が他領域と比較して、漠然と見なしたと見るのです。

 他で欠かさず「余」里とあるのは、道の「里」、つまり「道里」であり、移動所要期間に結びつくので、加算時の誤差累積を避けて中心値としたと言うことでしょう。大抵の人は早合点していますが、餘は、端数を切り捨てたという事ではないのです。

 このあたり、陳寿は、平静に、慎重に表現を選んでいるのです。現代人が、これをして、陳寿が数字に弱いというのは、物知らずの独りよがりです。結局、そんなことを書き散らすご当人が、古代数字にめっぽう弱いのを自覚していないだけです。
 古代に関すると知識に欠ける「無知」「無教養」の現代人が、古代史の世界観について陳寿と知性を競うのは、蟻が富士山と背比べしているようなもので、ご当人は勝っていると思っても、実はべらぼうな勘違いなのです。
 いや、ご当人以外の諸兄には、釈迦に説法ですが、現代は、誰でも、一人前に意見をぶてるので、こうした「屑意見」がのさばるのです。
 耳障りな余談をお詫びします。

*端数の意義 訂正追記
 当時の大抵の概数計算は、千里単位などの一桁算木計算で、平易で高速であり、桁違いの端数は無視してよいのです。また、十進法であったというものの、算用数字も0も存在しないの、横書き多桁表示は存在しないのです。

 一方、戸籍集計による戸数計算は、後漢書の楽浪郡戸数のように、何百万(口/戸)あっても、一の桁まで計算しますが、これは、多数の専門官が大変な労力を要する一大事業でした。後の「晋書」地理志では、両郡の統制が衰えたため、そのような集計が不可能となり、概数になっています。

 訂正:倭人伝の戸は、各国に戸籍があっての集計でなく、概算見積もりとみるべきです。何しろ、文字記録のない時代ですから、戸籍は未整備であり、郡から要求されたら、管内戸数を見繕いするしかなかったのです。
 因みに、戸数は、各戸の農地に直結していて、管内の収穫量を申告しているものです。つまり、戸数に応じて徴税されるのです。また、各戸に複数の想定がいるとの解釈となるので、管内で動員可能な兵数の表れともなるのです。因みに、今日言う「人口」は、特に重大な意味はなかったのです。年少者や老人、婦人の数を数えても、意味がないのです。

 末羅以降の百里単位の里数は、郡や倭人には大事であっても、全体の万二千里や、先立つ七千里、三千里から見れば、端数であり、些細なのです。

 諸兄の中には、ご不快に思われる方も多いでしょうが、倭人伝は、これら余傍の国の精密な位置付けのために書かれたものではなく、また、郡から倭に至る行程記事は、当時の中原人が読めば、すらすらと読解できるように書かれたものですから、現代でも、すらすらと正解に収束するはずなのです)

*論外の「方」表示 不可思議な島巡り 訂正追記
 さて、両島の「方」表示は、韓半島との大小比較目安なので、道里計算から外すべきです。また、「方…里」は、道里と異なる面積単位との説もあり、奥野氏は、不正確らしい数字を排除して計算精度を保持したと見えます。

 古代中国で、「方…里」は、地形を表明したものではなく、管内の耕地面積の総計を示したもので、収穫量に連動しています。つまり、この際の「里」は、領域の地形、大小を示すものでなく、まして、領域を方形で近似したものでもないのです。古代の計算方法では、農地が、正方形、長方形、台形、平行四辺形、円形、半月状など、いずれの形状であっても、計算方法が明確なので、それぞれ「方里」が計算できたのです。
 管内の集計は、各戸の「方里」を足していくので、管内の農地全体がどのような形状になるか不明であっても、徴税上、農地の形状は関係無いのです。もちろん、領域内の耕作不能な荒れ地や河川流域などは、集計から除外されています。

 對馬国、一大国は、「良田」、つまり、「徴税するのに相応しい収穫の得られる農地」が少ないという泣き言を入れていて、減税ないし免税をたくらんだものと見えます。従って、戸数を規準にした課税はご勘弁いただきたい」という事です。倭人伝に掲載された趣旨は不明ですが、一応趣旨を認めたということなのでしょう。。
 因みに、「田」は、倭地では「水田」の可能性が高いのですが、本来、中原の農地は、乾田が大勢で「水田」は、例外と見られます。要は、水田田作りするにも、水を通しやすい土質と降雨量の乏しい気候が災いして、成り立たないのです。そのため、中原農家と倭地の農家では、一戸あたりの「収量」が大きく異なりますが、その辺りの補正計算は、別儀とします。言うまでもないと思うのですが、水田稲作地帯の日射量、気温、降水量から得られる収量は、中原での穀物収量に比して、隔絶して多いのです。
 いずれにしろ、積載量の限られた渡船で、大量の米俵を運ぶのは、限りなく困難なので、郡として、両国からの徴税にこだわることはないと見えます。(韓、倭には、銭がないので、中原諸国のように、農民が産米を地域の商人に売り渡して穴あき銅銭に換金し、銭綛を納めることもできないのです)

 念のため付言すると、食糧の自給自足ができない状態では、食料輸入しない限り対海国は「持続」不可能です。実際は、対海国は、南北市糴の唯一無二の寄港地であり、当然、漕ぎ手を確保した市糴船を多数所有して運行していたので、通過する貨物から運賃なり、入出港の経費をたっぷり徴収して繁栄していたのであり、例えば、一船ごとに[米俵]を献上するようにしておけば、食料は、いつも潤沢なのです。

*市糴の話~余談 2021/12/19
 そもそも、対海国は、倭の国境であり、韓国領に荷物を売るときには、一大国のような同国人との取引で買い叩かずに手加減するのとは別で、好きなだけ値付けできるので、[国際交易]の利益は潤沢であったはずです。そのような商売をするためには、半島側の港に[上屋]海港商品倉庫を持ち、市を主催して、参集した半島内各地の買い手をあしらう、対海事務所のようなものを確立し派遣した監督者が警備の兵を雇っていたはずです。(当然、買付もしていますが、「当然」なので詳しく書きません)
 倭人伝には、対海国人は、「乗船して南北市糴する」と、要点だけを書いています、国として、市糴の利益を確保するためには、そのような組織が必須であり、それは、当然自明なので、要点のみにとどめているのです。この点、余り、倭人伝「對海国条」論議で聞かないので、素人考えを書き残すことにしました。

 また、古田氏提唱の「不思議」な島巡りの数百里は、勘定に入ってないのです。

                                未完

新・私の本棚 塩田 泰弘 季刊 「邪馬台国」第131号 「魏志が辿った..」改2 3/5

「魏志が辿った邪馬台国への径と国々」 2016/12刊行
 私の見立て ★★★★☆ 不毛の道里論の適確な回顧 2020/04/08 改訂 ★☆☆☆☆ 無責任な投馬国道里 2020/09/03 2021/12/11, 19

*異論
 前回述べたように、当塩田論文は、掲載誌 季刊「邪馬台国」には珍しく、この間の行程を陸上のものと見た古田武彦氏と中島信文氏の異論を紹介していますが、「歴韓国」の歴の解釈だけを掘り下げて、異論不採用の弁としているは不審です。両氏は、実現不可能な沿岸航行を非としてそれぞれ立論していて、「歴」は論拠の一片ですから、適否を言わなくても皮相的で軽率な評価と思われます。

 古田氏は、今や古典となっている第一書『「邪馬台国」はなかった』で、定説化していた「原始的な水行」説を否定して、正論として、郡から海岸に出て暫時水行南下した後、上陸し、以下、図式状階段状に東進、南下して、全体的に東南に陸行して狗邪に至る七千里行程を提示しています。素人目には、現地地形を無視した武断であり、信憑性を損ねていますが、塩田氏は、不同意とせず、細部に言及していないので、ここでは論議しません。
 中島氏は、基本的に同様の陸上行程と見るものの、北で北漢江、南漢江、南の嶺東で洛東江に従う河川主体の輸送と見て、狗邪に至る七千里を「水行」と分類する「異論」です。 私見では、これほどの長途を、河川航行を活用して人馬を煩わさない行程とするには、賛同しがたいのですが、塩田氏は、不同意とせず、細部に言及していないので、ここでは論議しません。

 それぞれ、誰の口から出た学説であろうと、それぞれ、堅固な見識と学識に裏付けられた頑丈で筋の通った異論なので、論理的に対峙して克服することなしに見過ごすとこはできないのです。

 蛇足、手前味噌ながら、当方は、冒頭の「循海岸水行」の「循」を魚豢「魏略西戎伝」用例を参考に『海岸を「盾として行く」渡海を水行とする』との付託宣言と見て、郡から狗邪までを河川沿いの「陸行」に止めた上で渡海三千里(だけ)を官制外の海上「水行」に分類する素人「異論」であり、両氏とは同舟ながら意見が大きく分かれます。

 論議の命は、細部に宿っているのです。よくよく、ご注意を乞うものです。

▢対馬条 以下、各国記事を「条」として見出しとする。
*范曄後漢書再評価
 氏は、素人目には魏代史料として二流の范曄後漢書が「国々皆王と称す」と倭人伝を越えたと見て「対馬に王あり」と見ますが、当方は、当初早計と断じました。

 ところが、近刊の古田史学論集第23集掲載の野田利郎氏の「伊都国の代々の王とは~世有王の新解釈~」は、豊富な古典用例に基づき後出倭人伝伊都条「丗有王皆統屬女王國」「世に有る王は、皆女王国に統属する」と読み、倭人伝列国に皆王があり女王に属したとしています。
 定説が「丗有王」を「世世有王」と改竄して、「伊都には歴代王がいる(が、他国は特記しない限り、王がいない)」と伊都特定記事と見たのが早計としているのです。いや、さすがの古田氏も、この原本改定は見逃していたようです。

 つまり、定説に無批判に依存して、「倭人伝に対馬に王在りと書いてないから、王はいなかった」と決め込んだ当方の史料解釈が「早計」かも知れません。

 野田氏は、范曄が、倭人伝の紙背を読んで明解に書き立てたと見て、素人目には倭人伝界で不評の笵曄株を上げる、一聴に値する論考としていて、小なりと言えども首尾が整っています。
 但し、素人目の魏代記事評価における「陳寿第一范曄第二」、つまり、「陳一范二」の位置付けは、一片の功で変わるものではないのです。いや、これは、あくまでも個人的な戯れ言ですが。

 古田史学会誌は、ことのほか厳しい論文査読で定評があり、ここでも精妙で画期的な論考を査読、提供しています。
 今後、当論文に関し、広く追試や批判が出て来るものと期待しています。

*異論
 対馬陸行について、榊原氏の論に言及していますが、実現不可能な長途の沿岸航行を無思慮に図示する方の意見は、簡単に採用できないと思います。

 素人目には、狗邪から対馬の北側に乗り付けた後、海流の厳しい、南北に延びた海島を「島巡り」回航、続航するのは、「渡船」の任務を食みだし、回航は、漕ぎ手に無用の消耗を強います。そんな無理、無駄をしたら、両島生命線の市糴を維持できないでしょう。

*「船越」考古学~余談 2021/12/19
 人と物を端的に陸峡越えさせて、南東側から対馬~一大渡船に乗り継ぐのが、順当な運用と思われます。
 因みに、現地地名から、陸峡部を船を担いで乗り越えた伝承が語られているようですが、軽快な渡船といえども、船体重量は、小数の労力で担えるものではなく、また、いかに丸太などで滑らかにしても、船体底部に損傷が生ずるのは避けがたく、とても、対海国の生命線を担う渡海船をそのような苛酷な陸越えに供するものではなく、何らかの誤伝と見られます。
 何しろ、現地事情を知らない奈良盆地 内陸の事務官僚が、全国地名整備の一貫として、由来をこめて造作したと思えるので、誤解を避けられないのです。
 実際面から見ると、陸峡の向こう側には、軽快な渡船が待機していて、船体を運ぶ必要がないことから、「船越」は、船荷の峠越えと見る方が理性的な見方でしょう。船荷は小分けできるので、地元自由民が分担して運べば、ちょっとした駄賃で人手に不足はないのです。こうして、誰も酷使しないので、連年実施できる合理的な輸送法なのです。
 陸上の荷担ぎは、誰でもできるので、人海戦術ができ、また、交代で取り組めるので、酷使にはならないのです。長期に亘って継続できる、合理的な運行方法と言うべきでしょう。

 ここで、塩田氏は険路数百里の移動を想定していますが、何かの勘違いでしょう。誰でも勘違いはあるので、読み返して、「検算」した論文を提出して欲しいし、論文審査も、このような勘違いは検出して、是正してほしいものです。権威ある季刊「邪馬台国」の規準は、維持されるべきだと思うのです。

*渡船の使命~「漕ぎ継ぎ」の合理性
 対馬~一大渡海は、極めつきの激流とされていて、それなら最強の漕ぎ手と船腹が必要ですが、他では、そのような重装備は大変な重荷で、舵が効きにくいので危険でさえあります。それほど苛酷でない「渡船」区間では、軽量の船体で、少数の漕ぎ手でも、運用できるはずです。その土地、海況に応じた船が、短い区間で運航したはずです。倭人伝で言う「瀚海」は、やはり、特別の意味を持つと見えるのですが、詳しくはわかりません。ということで、問題提起だけしておきます。

 渡船は、区間限定で便船に漕ぎ手を載せます。倭人伝も、区間ごとに、決まった船と漕ぎ手を運用するのは、当然、自明なので書いてないと見ます。同一の船と漕ぎ手で長途一貫なら、特筆、特記したと思うのです。

 難所を越える漕ぎ手は、力自慢とは言え、生身の人間ですから、連日、難所を漕ぎ渡ることなどできなかったのです。普通に考えれば、漕員総交代、恐らく、船ごと代えたものでしょう。各国、各地で、渡し舟はありふれていますが、力漕が必要な区間を連日漕ぎ続ける渡し舟は、まず見かけないでしょう。いや、渡船は、大抵は、軽快なものなのです。

 当方は、別に、同時代に同地で渡し舟を運航していたわけではありませんが、時代を経ても相通じると思える「人の行い」を基礎に長期にわたって、安定して持続可能な運航方法を考えるのです。

                                未完

新・私の本棚 塩田 泰弘 季刊 「邪馬台国」第131号 「魏志が辿った..」改2 4/5

「魏志が辿った邪馬台国への径と国々」 2016/12刊行
私の見立て ★★★★☆ 不毛の道里論の適確な回顧 2020/04/08 改訂 ★☆☆☆☆ 無責任な投馬国道里 2020/09/03 2021/12/11, 19

*「禽鹿徑」談義

 「禽鹿徑」は、道里行程用語ではなく、つまり、「径」は、「道」「路」と異なり、官制外であって、路面整備も宿駅もないのです。
 倭地に「道」や「路」が一切ないわけはありません。「市糴」は大小軽重交易物の搬送で道路が必須です。ここは、例外特記なのです。何しろ、対海国は、渡海して至り渡海して去るので、陸上行程は官道ではなく、道里もないのです。

 つまり、「禽鹿徑」は、恐らく峠越えの近道、間道で、例外的に路面が荒れた坂道であり、二本脚の「痩せ馬」が喘ぐような隘路との趣旨でしょう。「市糴路」とすれば、ほんの一部としか思えないのです。
 因みに、某サイトで、「けものみち」と称する写真が、無造作に掲示されていましたが、何も「みち」らしいものは映っていないので、困りました。いくらけものでも、藪が踏み分けられていなければ、通れないのです。まして、人馬といいながら、馬や騾馬の力を借りられないのでは、「痩せ馬」のお世話にならざるを得ないのです。(峠は、「漢字」ではないのですが、適当な中国語が無いの、代えられないのです)

 これまでに出てきた郡~狗邪の長途は、通い慣れた、人馬の通行を前提に整備された街道筋であり、概して「陸道」です。半島中央の小白山地の竹嶺(チュンニョン)越だけは、鹿数頭が並べる程度の山道(three deer abreast?)と見えるので、一見「禽鹿徑」のようですが、傾斜を緩和するつづら折れは人馬の路ならではの整備された姿です。と言うことで、寸鉄人を刺す史官の筆を見くびるのは損です。

 因みに、後に、末羅国でことさら「陸行」と書いたのは、そこまでの「道」のない不正規の渡海「水行」が、正規の「陸道」に戻ったと確認しているのです。別に、一貫して、渡船に乗り続けたものではないのです。(以下、「女王居処」までの行程道里で、陳寿の辞書による「水行」はないのです。つまり、投馬国への水行は別儀なのです

▢一大条~余談あり
 氏は、榊原氏の言う「一大島内陸行」を否定する論拠として、倭人伝に記述がないことを挙げますが、書記役や史官が自明と見た記事は割愛されるのです。氏は、他にも、一国で特筆されている事項は、他国でも共通と談じていますが、無断で省略して良いのは、古典、史書で自明とされた事項であり、他は、明記して省略しなければならないのです。

 一部論者は、倭人伝の悪路を、倭地の普遍的なものと見ただけでは収まらず、韓地内の状態も同様であった、即ち、韓地内の陸上移動は、危険であったと言い立てていますが、根拠のない暴論に過ぎません。韓地には、つづら折れの山道は会っても、蜀の桟道のような崖に貼り付いた官道などないのです。

 確認すると、対海条で「禽鹿径」と書かれているのは、その区間の特定の部分を述べているに過ぎないのです。また、一大国に陸上行程があったとしても、官道ではなく道里もないのです。

 倭人伝には、「南北市糴」と書かれていますから、相当量の荷物が往来していたのであり、人が背負って運ぶにしろ、ある程度の整備はされていたとみるべきです。根拠なく倭人の知恵を見くびってはなりません。

 市糴の陸上搬送は、小分けして担ぐので担い手に事欠かず、また、日程厳守の文書使等と違い、寸秒を争わないでよいので、万事ゆるゆるです。そもそも、東夷の市糴は、量が知れているのです。むしろ、弁辰産鉄の両郡納入がお荷物でしょうが、その分報われるのです。
 それにしても、一部杞憂を示されている向きがありますが、倭地を往還する魏使は士人ですから、自ら荷運びの労を担うことはないのです。正史、副使には、輿などの便が供されたはずであり、士人が、蛮地の泥に足士を置いたとは、書かれていません。

 こうした点を見過ごした論議は、「非常識」で難物です。

▢末羅条
 素人考えですが、渡船は元来直行のみであり、市糴の荷物を運ぶためには、船を大型化するのでなく、数で稼いだのです。つまり、極力便数を増やしたものと見ます。
 渡船が着くと、手近の「臨海倉庫」に荷揚げして陸送に委ね、新たに荷を積み漕ぎ手を代えて、手早く折り返しの帰り船としたと見ます。

 深入りして、他にも輸送手段のある陸地に上陸できるのに、いたずらに航路を延ばすと、漕ぎ手が多く必要となり、そんなことでは、積み荷を大して積み込めない渡船の槽運収益は出ないのです。現代風に言うと、難所の漕ぎ手という専門職、高給取りの人件費がどんどん募るのです。
 まして、荒海を漕ぎ渡るために頑丈に作られた渡海船で、内陸河川を漕ぎ上るなど無謀そのものです。まして、渡海船の山越えなど、無謀の極みです。漕ぎ手込みの全重量の大半は、船隊であり、遡行するだけでも、無謀です。非常識は、時代を越えて非常識なのです。

*草木繁茂
 書かれている「草木繁茂」ですが、酷評だけではないのです。
 各国は、市糴の運送、通行に支障ない程度に公道を整備していたはずです。それでも、ちょっと油断する目と草木が繁るのは、温暖湿潤な倭地ならではの現象です。稲作の繁盛が想定されていたのかも知れません。これは、乾燥した黄土地帯ではあり得ない景色を特筆(誇張)した賛辞かも知れないのです。

 末羅国は、山の迫った海辺ということですが、戸数から見て、結構、農地があり、農耕に勤しむ住民がいて、道路整備に人手不足は無かったはずです。古来、勤労動員は税の要素であり、荷運びにも動員できたのです。後世、律令制度で定めた租庸調と並べた税務三要素の一件なのです。

▢伊都条
*戸数談義
 翰苑所引 魚豢「魏略」引用による万戸想定は、子供じみた錯誤でしょう。

 「魏略」は、魏朝史官の手になる同時代一級史料ですが、魏志裴注での「西戎伝」全文引用が、魏志同等の最上の継承がされているのに対して、残る諸書所引の佚文は、書印された時点から史料として粗雑であり、それも、子引き、孫引きのうろ覚えと推定されます。
 就中、「翰苑」残簡に引用された魚豢「魏略」佚文は、筆写継承の過程で累積したと思われる誤記、誤写が多発していて、厳格な史料批判無しに、文献史料として依拠すべきではないのです。伊都国戸数の史料と見ると、信頼すべき史料と検証されている倭人伝に、千戸単位で書かれている以上、信頼性を検証されていない「万戸」は、誤記とみて排除すべきなのです。この点、本末転倒の議論が徘徊するのは、当分野独特なのか。国内史学会の遺風なのか、不明ですが、場外に排除すべきです。

 史料評価て言えば、「翰苑」残簡は、魚豢が責任を持った「魏略」原著の適確な引用とは見えず、そのようないい加減な資料に依存する論理のすすめ方は、粗暴、乱雑です。当ブログ筆者は、入念に「翰苑」残簡の影印本の諸処を点検した上で、史料として信ずるべきでないと提言しているのであり、勝手な印象批評で述べているのではないのです。

 それとも、諸兄の手元には、「千」と「万」とを誤写した正史異本史料が山とあるのでしょうか。

 正史を訂正するには、参照資料を厳密に史料批判するのが先決です。文献解釈を、見くびっているのではないでしょうか。

 史料としての信頼の置けない、「ごみ同然の佚文」で、正史として編纂され継承された大部の倭人伝を改竄するのは、度外れた不当な処理です。

 伊都国戸数を言うならば、倭人伝の千餘戸を断固維持するのが正論でしょう。

 それにしても、信頼性が不確かなほど、記事が極端なほど、史料として厚く信用されるというのは、どのような妖怪の仕業なのか、いや、別に取り憑かれたいというわけではないのですが。

 因みに、「戸」は、耕作地割り当て、課税、徴兵、労務動員の際の規準であり、必ずしも、成人人口の要素ではありません。

 例えば、王の居処が、国家の中枢として機能するには、多数の官奴、公務員を要し、また、公費で雇っている公務員に課税するのは無意味であり、また、公務員を勤労動員したり派兵したりすると、国家の機構が機能しなくなるから、官奴の戸を、一般世帯並みに戸数に計上して、課税、徴兵、労務動員 の義務を課してはならないのです。

 また、王の居処は、農民比率が低いので、各戸に耕作地を割り当てないかも知れないのです。と言っても、全ての官奴が、専業だったかどうかは、わかりません。

 と言うことで、伊都国は、農戸千戸程度であっても、大国、ここでは人口規模の大きい国だった可能性が、十分にあるのです。

*国邑談義~再訪
 倭人伝冒頭で予告されているのは、以下の郡倭行程上の各国は、「国邑」、つまり、殷代に中原で展開していたような隔壁集落という確認であり、伊都国は、後代の「国」としては、小規模であった可能性もあるのです。少なくとも、倭人伝は、行程上の各国、對海國、一大国、末羅国、伊都国は、せいぜい数千戸規模の国邑と統一されていて、そのような世界観に従うべきです。
 因みに、倭人伝の行程記事から見ると、奴国、不弥国、投馬国は、余傍の国であり、行程上ではないので、無造作に、数万戸と書かれているものと思われます。あるいは、風聞でしかない「レジェンド」、つまり、雲の上の「国」として書かれているのかも知れないのです。

 倭人伝の語法、世界観が理解できないために、自説となっている「思い込み」に合うように、不合理な「原典改竄」に走るのであり、虚飾を棄て、わからないことはわからないと認めるべきであり、自己中心の尺度で塗り込めるべきではないのです。

 伊都の「津」、船着場に文書や使者が来たとは、身軽な文書便等は、渡船と別仕立ての便船で脚を伸ばしたとの趣旨でしょう。道里談義は、よくよく考えれば明解ですが、現代人の勘で安直に理解できるほど単純ではありません。

▢諸国条
 以下、氏は、奴国、不彌、投馬を有力国と見て、国内後世資料や考古学所見、現代地図まで援用して滔々と論じますが、当方は、伊都~倭直行道里専攻で絞り込んでいるので、「有力国」論は圏外、無縁としていて、地理、風土、地名論、国内史料論共々、謹んで読み飛ばしました。おかげで、万事明解です。
 そもそも、これら「有力国」が、倭人伝にとって重要と見ていれば、このような書き飛ばしでは済まないのです。倭人伝が主題としている諸国は、行程上の諸国であり、他は、あくまでも余傍のなかば無名の「レジェンド」に過ぎないのです。

▢最後の道里論~根拠を隠した異様な提示
 氏の諸国道里論は、世上流布している直線行路を採らず、古田氏創唱と思われる不彌起点放射状行路に見えますが、所要期間は郡基点としています
 どうも、ぽっと出の生煮え新説に無批判に飛びついてさっさと書き抜けたのは、巷間、異議轟々予想され、論文として不用意と見えます。

 いや、文意を察するに、氏の支持する河村哲夫氏の指導に従ったものでしょうが、肝心の河村説は、どこにも示されていません。参考資料に掲載はされているのは、一般に流通していない、カルチャーセンターの講義資料であり、席上配布を受けていない、不参加の一般人には、その内容を知ることはできません。ということで、氏の帯方郡起点説提示は、大変無責任なものになっています。

 これでは、河村氏の史学者としての名声に泥を塗る形になっています。もっとも、このような大胆な論断を、川村氏自身が、参照可能な論考の形で発表していない点が事の起こりなので、河村氏は、史学者を自認していないのかも知れませんが、何しろ、氏の講義録の原文を目にしていないので、勝手な推定に過ぎません。
 いや、後日、史料を取り寄せたのですが、典拠となる記述は見当たらないので困惑しています。

 ただし、道里記事が冒頭「従郡至倭」で開始し、諸国を経た後、「女王の居処(都する)ところ」が結末となって、その後に、全行程の水行陸行期間が続いたとの解釈なら、大局的には同感できます。たたし、真理は細部に宿るので、別に大した同感ではないのかも知れません。

*「国邑」道里観~2021/12/11, 19
 私見では、倭人伝の世界観に従うと、伊都国の王城である「国邑」と女王居所の王城である「国邑」は、中国古代の聚落の定型として、共通した外部隔壁に囲まれ、同一聚落に包含されていたとも見えます。
 であれば、伊都国から先の道里は存在しないのです。この見方は、古田氏の見解と似ていますが、古田氏は、両国とも、王城はそれぞれの「広がりを持つ」支配領域内にあって、王城同士は直接隣接していないが支配領域が接しているので、道里を計上しなかったというものであり、中国古代の常識として、国間道里は、王城間の道里とすると言う定則に反していて、世界観が異なります。
 なお、千里単位の道里表記では、十里代の道里は書きようがないし、郡倭道里は里単位のものなので、本来百里単位の道里は、積算計算に乗らず、まして、十里単位の短道里は、計算に弱い読者を混乱させるので、このあたりの道里は、表記を避けているものと思われます。
 以上、この場では説明しきれないので、店仕舞いします。 

▢異様な投馬国道里
 細かく言うと、氏による有力国でありながら道里不明の傍路で済まされている投馬国行程の扱いが何とも面妖で、良くこのような形式不備の論文が、季刊「邪馬台国」誌の懸賞論文審査を通過したかと不思議です。

 氏の主張する内容は、氏の考察の結果、氏の見識の反映ですから、尊重するものですが、論文としての形式不備は、それ以前の低次元の欠点なので、ことさら「非難」するものです。

                                未完

より以前の記事一覧

お気に入ったらブログランキングに投票してください


いいと思ったら ブログ村に投票してください

2022年7月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31            

カテゴリー

無料ブログはココログ