新・私の本棚

私の本棚の新展開です。主として、商用出版された『書籍』書評ですが、サイト記事の批評も登場します。

2025年6月16日 (月)

新・私の本棚 齋藤茂樹 技術と交通インフラを軸に古代史を再考する! 1/4 更新

 Kindle書籍 または オンデマンド出版書籍 (アマゾン扱いのみ) 2018/12/09 補充 2022/11/08 2025/06/16
 私の見方 ★★★★☆ (必読級 但し、頭痛の種多発)

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。 

*前置き~電子出版
 本書は、一般的な出版物でなく、つまり、書店に流通している「本」ではないので、本屋さん、書店では、購入どころか、立ち読みもできません。当方は、アマゾンのKindle書籍のサンプルを見て、見所ありとして購入しました。確かに、見所は沢山ありますが、読み通すのはなかなかの難業でした。

*独自用語、独自表現の氾濫、蔓延
 本書を一貫しているのは、一読で理解しがたい独自用語、独自表現の氾濫であり、当ブログで常用している「褒め言葉」、時代錯誤の眷属が、カタカナ語、現代風漢字熟語共々、花盛りです。これらは、現代ですら孤立した言葉遣いですから、古代概念に適用したら読者は付いていけません、そのような飛躍、暴走は、商用書籍として困ったものです。

 よそ事ですが、最近、一流出版社書籍でも、編集努力が見られない愚作を見かけるので、言い方に困るのですが、書籍には書籍として期待される品位があり、出版社の編集部は、読書家の信頼に背かないよう、敵前逃亡はしないでもらいたいのです。
 出版不況の昨今、弱いものいじめとも成りかねない架空の編集部いじめは余計でしたか。

*王道の反映か、旦那芸か
 著者は、会社勤めでしたが、早々に一般社員の立場を離れ、管理職から役員になられて、ご自身の主張を強い言葉で組み立てた提言にすることに努められたようで、新語、造語をちりばめた文章を綴ることが多かったように見えます。その際、高位職種にあったので、文章を賞賛されても批判はされなかったようです。一種の旦那芸ですが、これは珍しくはないのです。

 本書は、社内文書でなく、一般読者に理解されるための書籍ですから、本来、出版社の編集者が手を入れるものですが、本書は私家出版であり、いわば独演会、「書いて出し」なのでしょうか、氏の我流用語に馴染めないものには、しばしば読替えが生じて苦痛なのです。

*妥当、至到な着眼、見解
 商用書籍としての難点はさておき、肝心なのは内容ですが、基本線である、実行可能な仮説を求めるという点では、おおいに同感です。

 当ブログでしばしば語っているように、文字のない時代に、遠隔地を実効支配することは根本的に不可能であるし、基礎となるべき交通手段、輸送手段(現代カタカナ語ではインフラと言う)が、断然未完成なときに、大軍遠征は不可能です。氏は、俗論に惑わされず、定説に良くある「机上空論」をとうに脱して、大賛成なのです。
 諸兄姉には、是非この合理的な史眼をものにしていただきたくて、必読としたのです。

                                未完

新・私の本棚 齋藤茂樹 技術と交通インフラを軸に古代史を再考する! 2/4 更新

 Kindle書籍 または オンデマンド出版書籍 (アマゾン扱いのみ) 2018/12/09 補充 2022/11/08 2025/06/16
 私の見方 ★★★★☆ (必読級 但し、頭痛の種多発)

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。 

*為せば成る
 但し、見解が分かれるのは、著者は、大変な困難があってもやるべきものが「やればできる」のであれば不可能ではない、との意見であり、当方は、一般人がとてもできないことは「不可能」である、との意見です。「繰り返し繰り返し、何度も何度も失敗しても、最後に、一回でも成功したら成功」というかどうかです。

*修羅の如く
 例えば、著者は、「河川を荷船で遡行し、最後に丘越えで山向こうに移すのは、大勢の船曳と陸上の修羅引きで克服できるから、陸運、荷役として成立する」としていますが、当方は、そのような難業は、継続して行うことができないから、「業として成立しない」と見ているのです。

*受け売りの陥穽
 そうした理屈づけに、「海路」氏(『古代史の謎は「海路」で解ける』の著者、長野正孝氏をここではそう呼ぶ)の暴論に追従しているのも不審です。

 荷船の峠越えを当然視するのは、過度の可能性論です。「やればできる」論ですが、古代人は、家族共々実生活を生きていたので、持続可能な方法で無ければ生業にならないのです。飢え死にすれば、次はないのです。万に一つ、修羅で船の丘越えはできないことはないとしても、毎回それでは「人がもたないし、船ももたない」のです。

 それ以外に、労苦の果てに半島に渡れたことをふまえて大軍も渡海できると見ていますが、渡海拠点港の補給力、支援力には限界があり、白村江への大量の船舶の渡海は実行不可能な幻像に見えます。

*幻像君臨
 「海路」氏流暴論の果てが、白村江幻像であるから情けないのです。虚像は、現実のものの見え方ですから、人それぞれ勝手となりますが、幻像には実体がないから、なんとも始末に負えません。ご当人には鮮明でも、脳内の幻像は実世界に存在しないのです。
 論じられている古代で、何万人もの渡海出撃などできないのです。一端を言えば、食糧をどうしようというのか、です。そして、大敗戦で、未帰還軍兵はどうなったのか、そして、敗軍の将はどうなったのか、です。
 古来の中国の軍法では、大命を帯びた征戦で大敗し、多くの兵を失った将は、馘首、つまり、首を切り落とされる大罪となり、妻子も連座して、処刑されるのですが、そのような記録は残っていないのでないでしょうか。

*石橋を叩いて~無批判追随の愚
 著者は、「海路」氏の主張を踏み台にするについて「石橋を叩いて」いるのでしょうか。
 私見ですが、「海路」氏は、著書に多年の実見に基づく知見を齎したとしていますが、実際は、一瞥で理解したつもりの、上滑りした空論に満ちています。「新説」を無批判、無咀嚼で丸呑みするのは読者の勝手ですが、そのように罰当たりな「受け売り」は、読者にとって迷惑そのものです。

 何しろ、「海路」氏は、古代存在しなかった「海路」なる単語で古代を「解明」していて、古代里程をメートル法で半端なく割りきるような「独り合点」をまき散らしています。そのような古代になかった時代錯誤の概念による考察は、理屈から外れています。何しろ、古代史の資料は、当時の言葉で、当時の概念を綴りあげているので、まずは、それを理解して、ご自身の言葉と概念で語り直さねばならないのです。そして、ご自身の言葉が、古代史学の言葉でないときは、丁寧に紹介して、馴染まさねば、ご自身の思いが伝わらないのです。

 もちろん、ご自身の著作が、古代史分野に馴染んでいない一般読書人を目指したものなら、それはそれで結構ですが、ご理解の上で買うわからないので、申し上げている次第です。

 著者が、「海路」氏と同様の陥穽に引きずり込まれて、傍目には明らかな「泥沼」で温泉湯治の幻夢にひたっているのでなければ、幸いです。いや、全体の堅実な史眼が、ここで迷走しているから、丁寧に批判しているのです。

                                未完

新・私の本棚 齋藤茂樹 技術と交通インフラを軸に古代史を再考する! 3/4 更新

 Kindle書籍 または オンデマンド出版書籍 (アマゾン扱いのみ) 2018/12/09 補充 2022/11/08 2025/06/16
 私の見方 ★★★★☆ (必読級 但し、頭痛の種多発)

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。 

*蟻の峠越え賛歌
 私見では、そのような大層な、持続不可能トンデモ陸運など、金輪際いらないのです。周辺住人を大勢集めて、船荷を小分けして、背負子で丘越えすれば、荒海に耐える強靱で重厚で貴重な船体は、無傷で次の旅に出せるのです。小分けした船荷は、必要であれば、峠で山向うの住人に送り継ぎし、こちらの住人は、小遣いを貰って我が家に帰れるから、悦んで荷送りに参加するのです。何度でも。
 大船の山越えに必要な人夫として大勢の屈強な者達を、特に呼び集めることも要らないのです。

 著者はしきりに、一人何㌕運べるとか、現代視点で実現性を書いていますが、古代の辺境の貧乏人が、どれほどの体力を有していたか、当方は、何の資料もないので計算にお付き合いはしません。「無理は無理」というのです。要するに、無理なく運べるように小分けすれば良いのです。

 要するに、背負い運びの常識で、一人で背負えない荷は、二人、三人で分け、とにかく、日帰り行程に小分けしていけば、全体として重荷を運ぶことができます。軽量に小分けすれば、今日まで良くあったように、女性が運びます。

 どのみち、一個で重大な荷は、船腹の積み卸しができないので別儀であり、船荷は、もともと、一人分相当に小分けされていたのです。

*峠越え商売
~密かな伝統
 あり得る姿は、到着海港での荷渡しであり、荒海を運航できるような丈夫な海船は、小振りで身軽でないと務まらない川船には、到底ならないのであり、また、海船を担う船人は、川船には無用なのです。

 行程の運用を考えると、山向こうの買い手が、到着海港まで、引き取り人夫をよこしていたのでしよう。恐らく、船荷を買い取っていたのでしょう。
 川船は、中流まで小舟で漕ぎ上って引き揚げ、中流で荷下ろしして一旦休憩し、翌日、背負子で峠まで背負い登ったでしょう。峠では、山向こうの背負い手と荷を交換して引き返し、こちら側の海市まで荷を担ぎ下ろしたでしょう。これで、無理なく荷運びが続くのです。

 こうした小刻みの荷運びは、筋力が貧弱な里人でも維持可能だし、小遣いどころではない稼ぎになったと思われます。勤勉、不屈の働き蟻の姿ですが、土地がらによっては、近年まで担ぎ屋さんがいた(今もいる)のです。

 しかし、著者は、大河の如き堂々たる水陸運を構想しているので、そのような、みみっちい、春の小川の営みに目もくれないのでしょう。氏の構想を支えるのが「海路」氏の暴論では私見が食い違っても致し方ないのです。

*孤説の異説
 著者は、表紙に「通説・異説」に組みしないと力説していますが、力説しているのは姿見の前であり、著者の所説自身が孤説、異説である以上、目前の最悪の敵は、自身の反映であることを忘れているように見えます。

*出荷品質向上のお願い
 以上、商用出版として不首尾な著作を世に出さないためには、是非、「イエスマン」でなく、「旦那芸」を無遠慮、誠実に批判してくれる、古代史分野に通じた読者の意見を求めるべきです。此の際、是非とも、考え直していただけるように切望します。

*「工科脳」の実現性視点
 当方は、実現性を重んじる「工科脳」を基礎にしているので、超絶技巧を追求する理系脳と反りが合わない点があるのは、避けられないのです。

                               未完

新・私の本棚 齋藤茂樹 技術と交通インフラを軸に古代史を再考する! 4/4 更新

 Kindle書籍 または オンデマンド出版書籍 (アマゾン扱いのみ) 2018/12/09 補充 2022/11/08 2025/06/16
 私の見方 ★★★★☆ (必読級 但し、頭痛の種多発)

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。 

*批評サンプル
 具体的な批判を最後に述べます。
 Kindle書籍には、ノンブルがないが、次の場所は、『1 列島の地政学的位置と特異な地形「内陸の発展を担った河川と湖」』の一部です。(Kindle の位置No.384). DEZAINEGGU-SHA. Kindle 版]字間スペースを削除)

 その代わり交通面では、古奈良湖まわりの扇状地に河川が四通八達し、河内湖や巨椋池、琵琶湖までつながる水運が機能したのです。大和盆地が、標高三〇~一〇〇メートルと海面からさほど高くないことも水運が機能した理由です。

 「水運が機能」するは、意味不明です。つまり、要翻訳です。また、想定されている古代に「水運」なる概念は、なかったので、ないものは、機能する、しないの論外です。「交通面」は、虚辞です。「河川が四通八達」は、現代にも存在しない空辞です。
 「古奈良湖」があったとしても、ずいぶん小振りであり、奈良盆地の西部は山際で、凡そ扇状地となれなかったはずです。
 古代に壮大な幻像を見ているようですが、古代に存在しなかった言葉、概念に囚われていては、そのような幻像を読者に見せることはできないのです。
 まして、「河内湖」、「巨椋池」、「琵琶湖」と羅列された湖沼は、実際は、淀川水系であって、「古奈良湖」と、一切繋がっていないどころか、地勢的に遠隔です。奈良盆地に最寄りの淀川支流木津川との連係には、「なら山」越えの難路/けものみちが必要で、水運が繋がるはずがないのです。いや、現代に至るまで、そのような水運は、一度も存在したことはないのです。

 水運で肝心なのは、接する水面の広さでなく、船着き場を設営できる堅固な岸であり、船荷を貯蔵できる倉庫、上屋(明治新語)、そして陸送路です。後背市場がなければ買い手がなく、荷下ろししてもしょうがないのです。「水運」の原動力は、琵琶湖由来の水量に恵まれ、急流の少ない淀川です。

 「古奈良湖」について推察すれば、東方山並みから流れ込む水流は、まことにか細く、かといって、山肌を下る急流なので、降雨の激しいときはしばしば氾濫し、かくも不安定では、まるで「水運」を支え得なかったと見られます。
 つまり、浅瀬であって船着き場が常設できず、渇水時には運行できないのです。一部で、「古奈良湖」東部に運河を設け、常時運行していたとの途方もない幻像が書かれていますが、運河を利用するためには、安定した豊かな水量が不可欠であり、また、高低差のない水流とする必要があるので、高度な土木技術が前提です。
 いや、これは、氏の説くところではないようですが、地域の「泥沼」を予告しておくものです。いずれにしろ、「古奈良湖」は、西方への流出が増えたので、次第に衰退し、消滅したのです。
 「古奈良湖」周辺に古代遺跡が乏しいのも見逃してはなりません。東岸扇状地は、遠巻きにされていたようです。

*「大和盆地」の遠隔性
 大和盆地」が、海面からさほど高くないというのは、上っ面の気休めでしょう。殊更言い立てるのも僭越ですが、河内湾との往来を考えても、支障となるのは、両地点の高低差ではなく、途中の難所の高さです。

 「大和盆地」を概観すると、西方河内方面は、金剛・生駒の鉄壁に阻まれ、主要街道たる竹ノ内街道の奈良側は、延々たるつづら折れで、河内側はさほどの傾斜でない「片峠」とは言え、日毎の荷を背負って黙々と踏みしめる難路だったのです。わずか数㌖でも、峠まで往復が一日仕事でした。当時、緑茶はないものの「峠の茶屋」で、背なの荷を交換して峠から担ぎ下りる「陸運」「幹線」と思われます。
 そして、時に力説される「大和川」経由の「水運」ですが、途中に、岩の露出した急流が存在するため、安定した川船の維持が困難であり、後世になっても、河内平野から溯上した川船が、一旦、船着場で荷下ろしして、難路を陸送したと見えるのです。
 いや、「伝説」では、河内側で、川船を担ぎ上げて大和盆地に、船体ごと荷送りした事になっていますが、船体を担ぎ上げるとき、船荷の重量はほんの一部に過ぎず、御苦労様なことに重厚な船体を担ぎ上げていたことになります。そして、奈良盆地側には、「水運」を支える「古奈良湖」は、疾うに消失していた上に、残された河川は水量不足で渇水期には運用できないときては、川舟を担ぎ上げることは、無意味だったのです。そもそも、「大和盆地」に荷船が通用していたのなら、河内側から船体を担ぎ上げることは無意味だったのです。
 と言うように、「伝説」は、世間受けするための「作り話」、「虚構」であり、実際の運用と異なっていたのですが、それは、現代人にも受ける「フィクション」ですから、「嘘」などではないのです。

 それはそれとして、豪勢な後世用語を使うと、堂々たる大帝国の大水運、大陸運に見えますが、実際は、無数の草の根が支えていたのです。実に、当方が力説する時代錯誤であり、「画餅」です。一切、腹の足しにならない、大芸術(イリュージョン)なのです。
 東方は、東南部から伊勢方面に抜ける経路は古来拓けていたものの、「幹線」ではなかったようで、滅多に論じられることはありません。また、南方は、紀ノ川流域に通じているはずですが、こちらも、あまり論じられません。盆地南部が、寒冷で、冬季の往来が不自由であったことも、災いしているものと見えますが、不確かです。

 何しろ、周囲を山並みで囲まれた「まほろば」の壺中天が、列島主要部を支配していた』という一大幻想を維持しなければならないので、『「大和川」を通じて一大交通/流通路が形成されていた』という「こじつけ」の山が築かれていると、素人目にも見えるのです。先ほど上げた、「運河」ごっこも、苦肉の創造物のように見えるのです。

*旧くて新しいつづら折れ
 いや、奈良盆地と南河内の丘陵部を結び、海に至る古代街道を括り付けられている竹ノ内越え経路は、実に最近まで、このつづら折れの旧道を利用していたのであり、新道が一直線に峠越えしたのは、そんなに昔ではないのです。近来、『貴人が竹内峠を輿で登ると、急坂で転げ落ちる』などと、毎日新聞で戯画を描いている例がありますが、それは、別経路である大和川経路を隘路評から救済するものであり、実用上の問題では無いのです。

*木津川水運
 「水運」などの時代錯誤は別として、木津川が平城京物流の「幹線」であったことには、木津「淀川流域盟主」説の当方は、大いに同感です。
 是非とも、合理的で理性的な考察を重視してほしいものです。

                               完

2025年6月15日 (日)

新・私の本棚 サイト記事 塚田 敬章 「魏志倭人伝から見える日本」12/16 2025

塚田敬章 古代史レポート 弥生の興亡 1,第二章、魏志倭人伝の解読、分析
私の見立て ★★★★☆ 必読好著 2020/03/05  記2021/10/28 補充2022/08/10, 12/18 2023/01/18, 07/25 
 2024/01/20、 05/08, 08/02, 10/08, 10/30 2025/06/15

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*更なる余傍の国
 なお、里程記事などで言う女王国以というのは、道里記事の主行程諸国のことであり、南北方向に並んでいると明記されていて、奴国、不弥国、投馬国という後付けの余傍の国を除き、對海國、一大国、末羅国、伊都国の四ヵ国に限定されている」直前提示の行程は一路南下なので、逆順を正すと、伊都国から北に向かって、「伊都国、末羅国、一大国、對海國」 を示していることが自明です。自明事項は、明記されていなくても、誤解の余地なく示唆されていれば、明記と等しいのです。ちなみに、後段で、主行程上の諸国は、「周旋」、即ち、「往来」五千里途上の四ヵ国とされています。

 ということで、奴国、不弥国、投馬国に加えて、一連の名前だけ出て来るその他の諸国は、「倭人伝」の体裁を整える添え物なのです。各国名は、帯方郡に参上したときの名乗りでしょう。その証拠に、行程も道里も戸数も国情も一切書かれていません。また、当然なので書いていませんが、「国」のまとめ役「国主」はいても「国王」はいないのです。
 中国側からみると、「国王」が伝統、継承されないということは、「国」として、いくら固く約束しても、あくまで個人との約束であり、世代を超えて長続きしはないのであり、郡から見ると、水面に浮かぶ泡沫(うたかた)ということになります。

 「倭人伝」では、「王」の伝統が不確かな状態を「乱」と形容していますが、どの程度深刻な状態なのかは不明です。「倭人伝」では、「王」の権威が揺らぐ事態の深刻さを、中原基準で誇張気味に示していますが、「女王」が臣下に臨見することが希』では、大した権威は発揚できず、そのような「王位」が、戦乱で争奪されるとは見えないのです。

 倭人は、恐らく、渡来定住以来分家を重ねたとは言え、長年にわたる親戚づきあい、氏子づきあい、縁結びであり、季節の挨拶や婚姻で繋がっていて、内輪もめはあっても、小さいなりに纏まっていたものと見えます。なにしろ、三世紀当時、地域では、商業が未発達で通貨がないのでは、互いに争い、奪い合うものは、大してなかったと見えるのです。
 因みに、後ほど、女王は、もとより狗奴国王と不和と書かれていますが、推測すると、親戚づきあいしていて、遂に、互いの位置付けに合意できなかった程度とみられます。本来「時の氏神」が仲裁するべき内輪もめなのですが、狗奴国王と氏神たる女王の不和は、仲裁できる上位の権威がないので、それこそ、席次の争いが解決できなかったことになります。

 念には念を入れると、魏朝公式文書、つまり、皇帝に上申する公文書資料に必要なのは、郡から女王国に至る行程諸国であり、他は余傍、「枯れ木も山の賑わい」でいいのです。もっとも、国名だけを頼りに所在地をあて推量する趣味の方が多いので、ここは口をつぐむことにします。

《原文…其南有狗奴国 …… 不属女王

*「狗奴条」の起源
 水野祐氏の大著「評釈 魏志倭人伝」の提言によれば、この部分は、南方の狗奴国に関する記事の起源であり、九州北部に不似合いな亜熱帯風の風土、風俗描写、隣り合ったのに近い南方と見える狗奴国に関する記事と納得できるので、当ブログでは、水野氏の提言に従います。

*衍文対応
《原文…自郡至女王国 萬二千余里
 この文は、狗奴条の趣旨に適合しないので、本来、前文に先だって、道里行程記事を総括していたものと見えます。按ずるに、小国列記の末尾に狗奴国を紹介したものと見たようですが、狗奴国は、女王国に「不属」なので、「狗奴条」を起こすものです。

*狗奴条の展開
 以上に述べた理由により、この部分の南方亜熱帯めいた記事は、九州中南部の狗奴国の描写と見直します。報告者は、後年の張政一行と思われます。従来の解釈になれた方は、一度席を立って、顔を洗って、座り直して、ゆっくり読みなおすことをお勧めします。くれぐれも、画面に異物を投げつけないように、ご自制下さい。
 念のため言い添えると、後世文書である范曄「後漢書」東夷列伝「倭条」は、なにかの誤解で、「自女王國東度海千餘里至拘奴國」と誤記しているために、「倭人伝」に書かれた「狗奴国」が、東方千里の彼方に在ったと解する方がいるのですが、「誤解」「誤記」は、ゴミとして土坑に棄てるのが正しい対応です。

2、倭人の風俗、文化に関する考察
a、陳寿が倭を越の東に置いたわけ
《原文…男子無大小 皆黥面文身 自古以来 其使詣中国 皆自称大夫
《原文…夏后少康之子封於会稽……沈没捕魚蛤文身亦以厭……尊卑有差

コメント:更なる小論
 叮嚀に進めるとして、甲骨文字は「発見」されたのではなく商(殷)代に「発明」されたのです。なお、甲骨文字遺物の大量出現以前、「文字」が一切用いられていなかったとは、断定できません。
 甲骨文字のような、厖大で「複雑な形状の文字」体系が採用されるまでには、長期の試行期間があったはずであり、その間、公文書の一部に使用されていたと思われるのですが、後世に残された商代遺物は、ほぼ亀卜片のみであり、それ以外は、臆測にとどまるのです。
 要するに、亀卜片状の亀裂を記録して、意味を持った「漢字」としたものなので、千差万別であり、そのため膨大な漢字が存在しているのです。もちろん、簡明な文字も多数あって、それは、漢字の基礎として活用されたでしょうが、それでは、数万字と漢字の数が多いことを説明しきれないと思われます。いや、つまらない余談でした。

 と言うことで、初期の「漢字」は、商王が命じた亀卜によって得られた甲骨の亀裂から、得られた「神意」を読み解き、「字書」を蓄積したことから、長年を歴て形成されたものであり、人の保有する「文字」を神意に押しつけたものとは言えないのです。後代、「漢字」の形成に幾つかの法則が見出され、「説文解字」が集大成され、それが、今日常用される正字「書体」にまで反映しているとされていますが、「説文解字」編纂時に知られていなかった甲骨文字遺物の発見と解析により、「漢字」創生期の多大な労苦が、始めて解明されたと見えるのです。この部分は、漢字学権威である白川勝師の教えによるものです。

 因みに、「夏后」は後代で言う「夏王」です。夏朝では、後代で言う「王」を「后」と呼んでいたのです。商(殷)は、夏を天命に背いたものと見たので「后」を退け、「王」を発明したと見えます。以後、「后」は、「王」の配偶者となっています。当時の教養人の常識であり常識に解説はないのです。
 ついでながら、「倭人伝」に示されているのは、倭人」の境地は、禹后が会稽/会計した「会稽山」、つまり、「東治之山」なる小ぶりの「丘」の遥か東の方と言うだけであり、「越」云々は、見当違い/後世創作です。ご留意ください。

                                未完

新・私の本棚 伊藤 雅文 邪馬台国は熊本にあった! 1/7 2025

 扶桑社新書 219   2016年9月刊     
 私の見立て ★★★★☆ 力作 ただし空転/捻転散乱    2019/03/17 一部改訂 2021/03/30 2024/02/09 2025/06/15

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

*はじめに
 最初にお断りしておきますが、当ブログ筆者、以下当方は、伊藤氏の当著作は、基本的に、論理的で誠実なものと見ています。

 ただし、氏が重用する倭人伝「改ざん論」は、熱意の空転であり、云っていることは無意味(ナンセンス)と考えます。ここで無茶を言ったため、折角の好著がドブに落ちています。

*誠実な論考
 誠実は、まずは、論者としての誠実さであって、例えば、倭人伝を解くのに、まず、紹凞本(?)のテキストを元にPDF文書、当然、漢字縦書き、を作成し、その労作全体は巻末に収録しつつ、本書全体で、当該文書の一部を取り出して表示した上で論じていることです。

 当方も同様の試みに取り組んだことはありますが、何しろ、当方の主媒体であるブログは、縦書き表示が大変難しいのです。縦書き表示自体は、設定可能ですが、閲覧操作が、大変わかりにくくなるので断念しています。というものの、縦書き史料のPDF画面コピーを挟んで議論するのも、一段と難しいので足が遠のいているのです。

 この点、伊藤氏に敬服するものです。

*とんだとばっちり~余談
 また、使用図版類の原典、出典を明らかにし、これを自身の責任で編集したことを都度書き添えていることは、当然ながら中々できないことです。

 ここで殊更言い立てるのは、当方の見るところ、古代史分野の他の著者には、現代の国土地理院地図データの個人的利用が許容されているのをよいことに、カシミールなどのアプリでデータを図示したと見られる地図を千年以上前の地図と見せる悪用例が、少なからず出回っているからです。

*世上諸悪批判の弁
 ここで、氏の好著の書評で、世上の諸悪を非難するのは、氏にとってご迷惑でしょうが、殊更「悪用例」の書評を掲示するのは、氏の好著を引き立たせる効果があるとみたので、ここに開陳するものです。

 一番甚だしいのは、一時、毎日新聞夕刊の「歴史の鍵穴」とて、掲載されていたし謎解きコラムであす。
 毎日新聞社専門編集委員なる金看板の元に、例えば、奈良県の山中から愛媛県松山市の海岸まで山並と海を越えて、真一文字に直線の見通しが通っているような高精細の「地図」を載せて、自説の裏付けとしていたものでした。何しろ、毎日新聞専門編集委員なる権威のある肩書きの人物が、堂々と全国紙の紙面を飾っていたので、当ブログでは、毎回地図悪用を見る度に非難したのですが、どうも、ご当人は無視したようで、未だに、いらだちが燻ってるのです。
 もちろん、この架空地図捏造は、当該非専門家がゼロから創始したのではなく、新書歴史本などに源流があるのですが、見るからにインチキ本なので、批判はそれほどでもなかったのです。
 そのような現代地図データの「悪用」は、国土地理院、カシミールのサイトの利用条件に書かれていない筈の保証外の流用であり、よって「不法」(犯罪)なのです。誰にも、今日の地図データを、一千年前、二千年前に適用できないのも明白です。

 と言うような、ご自身には、何の責任もない地図データ悪用論のとばっちりは余計なお世話でしょうが、反面教師を出して、氏の論考を賞賛しているので了解いただきたい。

*「倭人伝」復権の時
 別に、氏の責任ではないのですが、「倭人伝」の位置付けを俗信に頼るのは感心しません。
 本書でもあるように、「倭人伝」は、魏志第三十巻の巻物から抜き書きした時代以来、独立史料として扱われていて、宋朝の叡知を反映した紹凞本は「倭人伝」と見出しを立て前段と分離しています。
 ぼちぼち「倭人条」などと格下げするのはやめるべき時が来ているように思います。

                               未完

新・私の本棚 伊藤 雅文 邪馬台国は熊本にあった! 2/7 2025

 扶桑社新書 219   2016年9月刊     
 私の見立て ★★★★☆ 力作 ただし空転/捻転散乱    2019/03/17 一部改訂 2021/03/30 2024/02/09 2025/06/15

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

*壮大な抱負
 氏は、次の三原則を抱負として打ち出しています。
 倭人伝の『「邪馬台国」位置研究』へのアプローチ法として、次の三つを念頭に置いて「魏志倭人伝」の解読に臨みたい。
㈠ 基本的に「魏志倭人伝」の記述は正しいと考え、安易な読替えは行わない。
㈡ 推論の根拠はできる限り「魏志倭人伝」の記述の中に求める。
㈢ 考古学的成果を、予断を以て「魏志倭人伝」記述と関連づけることは避ける。

*発進脱輪
 但し、氏は、忽ち『「魏志倭人伝」後世改ざん説』を提唱し、先のアプローチとの齟齬への批判の言い訳に「自身に都合の良い読替え」を卒然と否定します。つまり、アプローチと現実は別のようです。
 一応三原則で始めても、一旦予断を形成したら、忽ち自己流「倭人伝」を構成するのは、首尾一貫していません。

 帯に言う『邪馬台国の位置は「魏志倭人伝」に正確に書き記されていた!』は、結局、我流、お手盛りの「倭人伝」談義であり、通りがかりの読者には虚言です。

 以上の点は、氏の基本的な執筆姿勢に反するものと考え、減点しています。

*残念な勘違い
 「倭人伝」旅程記事の「ごく一般的な現代語訳」は、責任者不明です。
 大は「邪馬台国」なる非倭人伝用語、小は諸処に頻発する軽率な誤訳、果ては、古代にない「ゼロ」整形多桁数字までてんこ盛りで、不適切な代物です
 端的に言うと、現代語で示す概念は、三世紀に存在しなかったので、現代語訳は意味がないのです。

*誤訳が呼んだ進路錯覚
 結局、訳者不明の現代語訳の勝手な解釈が、伊藤氏の方針選定を誤らせたと見えます。最終旅程南に水行十日、陸行一ヵ月で、女王の都である邪馬台国に至るは、ごく一般的な誤訳です。
 文章明快な現代語訳が読み解けないのは、誤訳の可能性が最も高いのです。 
 まず、氏の提示する漢文は「南至邪馬台国」ですが、現行刊本は「南至邪馬壹國」です。「倭人伝」に「邪馬台国」がないのは、初学者にも周知の事実です。

 ついでながら後ほど出る「原本(陳寿のオリジナル文)」なる意味不明の語句も困ったものです。陳寿は、三国志を盗用や複写でなく「オリジナル」な著作物として書いたのです。とは言え、倭人伝「陳寿原本」はとうに消滅していて、それが自然の摂理というものです。

*旅程の終わりの始まり
 できるだけ原文の語順を保てば南して邪馬壹国に至る。女王が都するところである。水行十日、陸行一月であると読みくだすことができます。(撤回済みの誤解です)
 ここで、出発点を伊都、不弥、投馬のいずれと解釈しても、取り敢えずは、作業仮説であり、到底断定できません。

 また、水行陸行日数「計四十日」が、どこから倭都への日数と解釈しても、それは、作業仮説であり、到底断定できません。

新たな読みの提案 
2021/03/30 2025/06/15 確認
 因みに、2021年3月末現在の解釈では、
「南して邪馬壹国に至る。女王のところである。
 都(すべて)水行十日、陸行一月である」
に落ち着いていますが、これは、まだ浸透していない読みなので、提言にとどめます。
 「倭人伝」は、西晋史官陳寿が、班固「漢書」西域伝、及び、裴松之によって、魏志第三十巻に補追された魚豢「魏略」西戎伝の西域諸国記事から、蛮夷の首長の居処を「都」と公称しない原則が明らかであり、「南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月」を、「南して邪馬壹国に至る。女王が都するところである。水行十日、陸行一月である」と解釈するのは、原則に違反していて、「南して邪馬壹国に至る。女王のところである。都(すべて)水行十日、陸行一月である」と解釈すべきなのです。
 但し、そのような「正解」を認めると、諸兄姉が、倭女王の居処を、「都」(みやこ)と権威付けする世界観に反するので、一向に、認識を改めていただけない、どころか、反論も示されていないものですから、氏が、旧解釈に固執しても、それは、難詰できるものではないのです。

                               未完

新・私の本棚 伊藤 雅文 邪馬台国は熊本にあった! 3/7 2025

 扶桑社新書 219   2016年9月刊     
 私の見立て ★★★★☆ 力作 ただし空転/捻転散乱    2019/03/17 一部改訂 2021/03/30 2024/02/09 2025/06/15

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

*速断の咎め
 以上は、僅かな字数ですが、編者陳寿がどんな意味(深意)を込めたか、「二千年後生の無教養な東夷」が、勝手に決めるべきではないと考えます。

 自己流解釈で明快な「現地」像を描けないなら、まずは、その解釈を疑うべきでしょう。凡そ、いかなる分野でも、新説の九十九㌫はジャンク、錯覚です。最初の一歩の選択に無記名現代語訳を持ち出し、読者に対する説明無しに史料改竄しているのは、氏の原則に背いていて同意できません。

 まずは、いの一番に原文表示から「邪馬台国」を外し、ちゃんと読者に向かって理由付けした上で、自己流解釈と置き換えるべきではないでしょうか。

*選択肢の明記
 また、旅程解釈で強引な議論を展開する前に、課題の部分で、伊都国から倭へ「南」する読み方も、「水行陸行」を郡以南の総日数と見る読み方も、説明無しに排除するのでなく、しかるべく審議した上で却下理由を説明すべきと思います。

 不採用仮説は、別に否定も排除も必要なく、単に氏が採用しない仮説であることが示されていれば、読者に、氏の意図が適確に伝わるのです。

 以上、是非、ご一考いただきたいものです。

*不用意な比喩

 氏は、郡から倭までの行程記事に里数と日数が混在するという「予断」を採用したため、まことに不出来な比喩を上程しています。

 軽率な比喩で、東京大阪間の旅程で、名古屋まで里数表記、名古屋から日数表記と不統一では「違和感」を生じると強弁していますが、このような子供じみた感情論を持ち出すのは、氏が時代錯誤の旅程感に染まっているからです。
 万事如意の現代は忘れて、江戸時代の東海道道中を見れば、お江戸日本橋から名古屋まで、渡し舟などを「はした」として除けば「陸行」で里数がありますが、名古屋から桑名は渡し舟で里数は無意味です。以下、桑名から西して、京に至る旅程は里数が明記できます。南は、お伊勢さん、さらに、西には、やや南寄りなから大和路、難波路もあります。
 このように放射的に書くのは、別に、桑名が国都だったからではありません。交通の要路、分岐点だったからです。
 このように行程の実質が大きく異なれば、統一できないのは当然で、それを「違和感」なる生煮えの現代語で感覚的に拒否するのは現代人という名の二千年後生の無教養な東夷の我が儘というものです。
 三世紀旅程が、氏に「違和感」(水に油が浮いている様子か、それとも、筋肉に「しこり」を感じているのか)を生じる背景には、当時、最高の知性が、長期間呻吟の上で、そう書くのを最善と判断した事情があり、まずは、底の浅い現代視点を忘れて、同時代の深甚な視点の、論理的で慎重な考察が必要と考えます。

 但し、当方は、氏のお気に入りの「里数日数混在読み」を支持しているのではないのです。

*公正ならざる両説評価

 好ましくないことに、「連続説」「放射説」の比較評価が、本来、旅程出発点で評価すべき重大な話題なのに、なぜか後回しにされています。
 氏は、既に予断を固めていて、「放射説」起点を伊都とし、倭へ計四十日とした時、違和感、疑問など、解決できない「矛盾」が多いと感じたことを根拠に「連続説」を採用します。
 つまり、「水行十日、陸行一月」が、郡からの総日程であるという自然な/有力な解釈を、はなから排除しているので、その視点で、正解から遠ざかっているのです。
 早計で、予め選択肢を狭めているのは、適切な手順では無いと考えます。

                               未完

新・私の本棚 伊藤 雅文 邪馬台国は熊本にあった! 4/7 2025

 扶桑社新書 219   2016年9月刊     
 私の見立て ★★★★☆ 力作 ただし空転/捻転散乱    2019/03/17 一部改訂 2021/03/30 2024/02/09 2025/06/15

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

*「連続説」のつけ
 一応の根拠は示したものの、以下の進行で「連続説」に不合理な難点が多いのが露呈しているので、現代感覚頼りの決めつけは早計かと愚考します。

 氏は、以下、不弥ー投馬ー女王居処間旅程の「高度」な解析にかかります。
 「連続説」では、肝心な二区間が、壮大な日数表示の上に、長期の水行が含まれ、明快な解析ができないのですが、これは、「違和感」「疑問」などと、個人の感性に左右されるものではないからで、数式解法の不備などではないのです。

▢改ざん説長談義

 と言うことで、氏は、本来明快な筈の現代語文「倭人伝」の旅程記事を、「自己流解釈で解読できなかった」ため、記事が不明瞭な原因は、陳寿が書いた明快な記事が、現行記事にすり替えられたものと断じています。大変な転換点なので、少し手間をかけて審議します。

 氏は、倭までの最終旅程が水行陸行四十日だけで道里不明との理解(立証されていない仮説)に立ち、書かれていない水行、陸行の速度を捻出して、その計算に合う里数記事を「創造」したものです。氏は、ご自身の労作を本来の記事を復元した偉業と見ていますが、そのような記事は、痕跡すら残っていません。倭人伝「伊藤本」とでも称すべきであり、氏の創造物です。(現代の著作物なので、著作権が発生しています)
 要するに、氏は、氏の見た「倭人伝」里程記事の「解読困難」を「後世改ざん」の帰結と早合点し、「なかった原型の復原」という、史料に根拠がなく仮説になれない、解答とは一切言えないロマン、夢想に取り憑かれたと見えます。

 この行き方は、氏自身が冒頭で提示した原則に、真っ向から違反しています。

*「三国志」原本の旅程
 「三国志」は、陳寿没後程なく、いち早く晋の帝室書庫に収蔵されました。陳寿は上程用に脱稿していたので、未完成でなく決定版でした。
 そして、晋朝の権威の根拠として尊重され、後に「正史」として権威づけられ史記、漢書の二史に続く第三の史書として重視されたのです。要するに、歴代王朝の「国宝」として、厳重保管され、絶大な努力を傾注して、正々堂々と写本継承されたのです。決して、非合法な異端の書として闇の世界に息を潜めたのではないのです。
 晋を継いだ劉宋の裴松之が、皇帝指示により付注した際に、異本を校勘して帝室原本に付注して、体裁刷新した「決定版」としたこともあって、裴注版三国志は広く出回り、その後に改竄版を流布させるなど不可能です。
 以後、北宋に至る各王朝で連綿として「国宝」、つまり、帝室貴重書として厳格に原本管理され、北宋、南宋刊刻時の大規模校勘もあって、原本のすり替えなどできなかったと見ます。世上言われるように、「三国志」は、古来の「正史」の中で、異色と言えるほど、版による異同が少なく、安定しているのです。諸賢の中には、これでは、校訂の筆を挟む余地がなくて、「実力を発揮する余地がない、まことにけしからん」とでも言うように、歎いている方が少なくないのです。
 北宋刊刻時、「三史」の掉尾として重要視された笵曄「後漢書」は、劉宋当時に編纂されたものの、編者范曄が、劉宋文帝に対する謀反大罪で、継嗣と共に処刑され、笵曄「後漢書」未完稿は接収され、適切な保護管理の有無が不明な状態であり、南朝亡国後唐代に正史とされるまで、闇世界で低迷したものと見えますから、種々あった後漢史書の中に在って、延々と不確実/不安定な地位にあったとも言えます。

 笵曄「後漢書」が見出された唐代以降三史の地位を得たものですから、陳寿「三国志」は「正史」として四位以降の「その他」に回されたものの、「三国志」自体の評価は、依然として高かったのです。

                               未完

新・私の本棚 伊藤 雅文 邪馬台国は熊本にあった! 5/7 2025

 扶桑社新書 219   2016年9月刊     
 私の見立て ★★★★☆ 力作 ただし空転/捻転散乱    2019/03/17 一部改訂 2021/03/30 2024/02/09 2025/06/15

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

*すり替え考察~余談
 実際的な思考を試みると、劉宋時の「魏志」は紙の巻物と思われます。
 中国は広いので、簡牘の巻物は、骨董品価値も含めて長く残ったでしょうが、貴族、富豪など蔵書家は、早い段階で、嵩張らない紙巻物に移行したものと思います。陳寿「三国志」六十五巻は、班固「漢書」百巻に比べて、随分細身であり、太古以来の史書筆法に専念して、魏晋代、既に読解困難であったものと比較して、親しみやすい読み物であり、また、自大が接近しているため、登場人物に親近感が持てるというような多大な理由か好まれていて、紙巻物にすれば随分手軽であり、全巻揃えても書棚に収まる程度であるので、身近に置くことができ、あるいは、軍人であれば前線の兵舎に抜き書きを持って行けるので、急速に普及したものと見るのです。
 特に、東晋南朝の京師であった建康は、東呉時代の政治中心であり、多くの官僚、商人が、東呉史書である「呉書」を好んだことも作用しているものと思われます。

*歴博綺譚~余談
 但し、世間は広いもので、「歴博」には、三国志ならぬ、范曄「後漢書簡牘巻物の複製品」などと言う出所/由来不明の展示物があり、複製元がどんなものか、ぜひとも、お顔が見たいものです。
 おそらく、多額の複製費が国費援助で投入されたと思うので、公的研究機関の研究成果は、堂々と、納税者に対して内容展示いただきたいものです。複製品(レプリカ)は、本物と同一構成、同一技法で再現されているので、来場者が手で触れられるように配慮いただければ、笵曄「後漢書」に対する親近感が増そうというものです。
 因みに、西域、敦煌から出土している三国志の断簡は、どう見ても紙であり、東呉商人が、家宝の写しとして西域まで持参するには、紙巻物が常識となっていたように見えます。いや、分量の少ない列伝は、仏教経文にあるような折り畳み小冊子の「折本」になっていたのではないでしょうか。
 「倭人伝」は二千字程度なので、「野良写本」では小冊子になっていて、表紙には「魏志倭人伝」と書かれていたように思います。特に証拠となる文物は見かけていませんが、「なかった」と言う証拠はないように思います。

 と言うことで、南朝劉宋の史官、裴松之が、補注の際にどんな三国志を手にしていたのか、正確には今ひとつわかりません。
 袋綴じ冊子は該当二ページ単位で偽造、すり替えできないことはありません(「絶対不可能ではない」という意味であって、容易に実施可能という事ではありません)が、巻子は全巻糊接ぎ、裏打ちされていて、部分すり替えは(絶対に)できないのです。
 魏志第三十巻全体の帝室原本の良質複製品を入手し、巻末附近のつなぎを剥がし、のり付けを外し、全く同一の幅の偽造部と入れ替える、途方もなく高度なすり替えが必要です。
 つまり、時代原本同等の用紙、墨硯筆、写本工で同等写本を仕上げ、更に装幀専門家が必要です。門外不出の時代原本の取出し、返納も含め、まことに壮大な事業です。現代人が、電子データに対して、削除・追記で改竄するのとわけが違うのです。

 別案として、原本巻子を持ち出し、該当部の墨文字を削り取り書き直すのが、断然手間が少ないのですが、持ち出し、持ち込みの不可能犯罪はこの際度外視しても、そのような手軽な書き換えが、そもそも、可能かどうか判断に困ります。

*大罪連座の定め

 いや、帝室所蔵の時代原本を勝手に持ち出すだけで死刑ものですから、偽造品とすり替えるのは、露見すれば関係者残らず一家全滅です。当人は信念で本望としても、共犯者は得られず密告されるでしょう。荷担しなくても密告しなければ共犯で、共犯連坐を免れるには、密告以外に選択はないのです。

*やはり実行不可能
 一案として、帝室書庫の時代原本更新の時期、例えば、巻子から冊子への転換の際、担当部局に大金を積んで、記事の一部をすり替えて写本させるのは、うまく行けば露見せずに済みそうですが、どれほど大金が必要か空恐ろしいほどです。また、史学者が精査して改竄を指摘する危険もあります。

 と言うことで、折角苦心して編み出した「改ざん説」、「すり替え説」ですが、肝心の時代原本すり替えは、到底実行不可能と思われます。

 時代原本は、写本普及の根源であり、下流写本が根こそぎ改竄されても、根源から新写本すれば、不可能犯罪は水泡に帰するのです。時代原本のすり替えにこだわる由縁です。氏は、劉宋末期すり替えとしているので、以上の推定ができるのです。

*改竄の動機
 以上でおわかりのように、帝室の時代原本の巻子を偽造巻子とすり替えるのは、余りにも避けがたい危険が多く、また、そのような、本当の意味で「命がけ」、「必死」の大罪を犯す動機が見当たらないのです。とにかく、正史原本「改ざん」なる刑死族滅、家族皆殺しの大罪を、誰がなぜ犯すのか。道里記事すり替えは、魏志東夷記事の些細項目の改竄、すり替えです。そんな些末事に命をかけて、共犯者を含めて大金を得ても、一族処刑されれば無意味で、家族全員の命を賭けられないのです。

 結論として、氏の壮大な「連続説」難局打開の救済策は、無理のようです。
 これだけの命がけの曲芸を持ち込めば、氏がご不快に思われた「放射説」も棄却原因となった矛盾を解消できる
でしょう。

*改竄不要の提言  2021/04/12
 ここで、せめて、建設的な意見を述べさせていただくと、安本美典氏の短里説と榎一雄氏の伊都国起点の放射経路説、加えて古田武彦氏の「水行陸行郡起点説」を採り入れると、「女王之所」は、伊都国の南というものの、概数計算の本質的な限界と原資料の持つ不確かさから、そこに達するための道里は不確定であり、手堅く見ても、最短百里未満、最長千里程度のかなり広い範囲が適用可能となります。
 一部論者の言う宮崎県域は「かなり無理」と見えますが、論理的に無効ではない程度の否定です。

 「南」と言っても漠然と言うのであり、伊都国に道標が立っていれば、「南 邪馬一」と彫られていたでしょう。目前の南に向かう路を指示しているだけで、途中の東西転進は、道なりに進めば良いので始発点では言うに及ばないのです。何しろ、まともな道は他に無いので、追分(分岐点)があれば、そこで指示するだけで間違いはないのです。
 帝室蔵書改竄の大罪を犯さなくても、ある程度の範囲に誘致することはできる(否定できない)のです。

 そこで、古田武彦氏の金言が登場するのですが、「倭人伝」の文言解釈は必要だが、さらに、現地の出土物の評価が重大である、と言うことです。もちろん、筑紫地域の発掘の進展と比べて、県外地域の発掘はゆっくりしていますが、かなり有力な意見であることは間違いありません。

 と言うことで、本書を改定される際は、改竄説撤回を最優先に取り組んでいただきたいものです。要するに、当ブログ筆者の所説に同化することを提案しているのですが、この程度の手前味噌は良くあることでしょう。
 いずれにしろ、同意するしないは、氏の勝手なのです。京都のわらべ唄で言う「ほっちっち」(ほっといて)も可能です。

                                未完

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