新・私の本棚

私の本棚の新展開です。主として、商用出版された『書籍』書評ですが、サイト記事の批評も登場します。

2024年9月 6日 (金)

新・私の本棚 番外 毎日新聞 【松井宏員】散歩日和 奈良凸凹編 大倭/1 1/3

散歩日和 奈良凸凹編 大倭/1(奈良県桜井市)「歴史の鍵穴、纒向遺跡」毎日新聞大阪夕刊4版[特集ワイド]2024/9/4
私の見立て ★★★☆☆  場違いな力作 前途遼遠  2024/09/05-09

◯はじめに 「歴史の鍵穴」の遺産
 大見出しで「歴史の鍵穴」とあって、往年の専門編集委員が連発したトンデモ記事を引き継いでいるのかと一瞬身構えた。どん詰まりには、吉野山金峯山寺に吉野宮があって、厳冬・極寒にめげずに、持統天皇ご一行が行幸を重ねたと途方もないホラ話に墜ちていた。今日ロープウェイしかない登山路を、女帝を担いだ一行が駆け下りて韋駄天帰館、そして...という次第であきれ果てたものであった。

 当時、典型的な老害で、誰も専門編集委員にだめ出ししなかったと見える。天下の毎日新聞が、墜ちたものだと呆れた。同記事だけでなく、継続記事の「カシミール3D」権利侵害も、未解決である。ちなみに、「7」と書いているように、同様の不合理な地図妄想は、毎日新聞の記事として、延々と続いていたのである。当時も今も、その点では、なんの進歩もないのである。一蓮のブログ記事は削除していないから、興味のある方は、検索で発見できるはずである。
 毎日新聞 歴史の鍵穴 地図幻想批判 7 吉野宮の悲劇 1/2 再掲
 それにしても、素人目にも明らかな、曰く付きの粗雑な比喩が、堂々と継承されるとは、もったいないことである。

 なお、今回の記事に、罰当たりな吉野宮談義は出てこないし、掲示されている地図は、今日の国土地理院データに基づく現代地図としているので、重大な侵害は回避しているように見える。但し、れでは、古代の地形、特に河川の水脈が不明であるから、古代遺跡の解説図の用をなしていない。当たり前の話しだが、JR桜井線や国道169号の路線は、特に参考にならない。むしろ、梅林氏が確固たる信念としていると見える「東海方面」への交通を強く示唆する近鉄大阪線が割愛されているのは不審である。

 紙面掲載された桜井市立埋蔵文化財センター提供の立体地図は、同記事を見る限り、データ出典など一切不明であり、方位、縮尺、高度が不明である。掲示されているのは、立体画像ではないので、高低差の見て取れないものの役に立たない単なる参考イメージである。それにしても、折角の立体図が、作りっぱなしで埋もれているのは、税金の無駄遣いと言われかねない。まことに勿体ないことである。

 同地図は、毎日新聞サイトのウェブ記事からは割愛されていて、ここで述べた批判は空振りである。要するに、桜井市立埋蔵文化財センターの諒解のない無断掲示だったようである。全国紙の報道として、もっての外ではないか。
 とはいえ、折角多額の公費を投じた地図が、世に知られないまま埋もれているのは、公費の浪費である。それとも、いずれかの場で公開されて居ねるのだろうか。そうであれば、無礼をお許しいただきたいものである。

*本文批判
 ヤマト王権発祥の地はどこか? 有力視されているのは纒向(まきむく)遺跡(奈良県桜井市)だ。弥生時代後期に、奈良盆地南東部に突如出現する大規模遺跡で、しかも一角には最初の巨大前方後円墳の箸墓(はしはか)古墳を擁する。[中略]三輪山の西に位置する遺跡や古墳を訪ねる。
 [中略]築造年代がぴったりはまることから、卑弥呼の墓とみる研究者は多い。ただし、纒向には箸墓より古い前方後円墳がいくつもある。[中略]

*揺動する論旨
 「ヤマト王権」は当ブログ圏外で、いつどこの発祥か知るところでない。また、「纏向遺跡」の定義が、記事の末尾に至るも不明である。現代考古遺跡ではないのか。二世紀に「遺跡」だったと言うことか。墳丘墓を含むのか。その場その場で表現が揺らぐ。
 出典不明の地図で「遺跡」の範囲が明示されるが、誰が、どのようにして範囲の境界を見定めたか示されていない。ここまでの連載記事で、東海方面への交通路を示唆するように示されていた近鉄大阪線が図示されていないのも、首尾一貫せず、記事趣旨に背を向けているのも、いかがわしいと言われそうである。
 どうやら、通称「纏向遺跡」の一部が「史跡指定」されているようである。もっと、その辺りを公知のものとすべきでは無いかと思われる。

*根拠不明の古墳築造年代推定
 「2009年に国立歴史民俗博物館が放射性炭素年代測定により、箸墓古墳の築造年代を240~260年代と発表した。」と言うが、「歴博」は、何の根拠と権威で「発表」したのだろうか。いずれかの公的機関に委託して「年代測定」報告を得たというのだろうが、それは、二千年過去の二十年範囲に限定できる信頼性を確証されているのか。「築造年代」は、どんな根拠で特定されたのか。科学技術の分野で当然の検証が、すっぽり抜けているように見えるのは、どんなものか。そして、毎日新聞が、そのような杜撰な考古学界活動を支持しているように見えるのは、どんなものか。善良な一介の納税者としては、多額の国費の費消について、克明な会計監査を御願いしたいものである。

 比較対照されている「魏志倭人伝」は、二千年を経て、綿密に年代考証されているが、「歴博」は、どんな確証で、卑弥呼の「冢」、小ぶりな土饅頭が、所謂「巨大前方後円墳」であったと主張しているのか。まことに、不審である。それとも、「魏志倭人伝」誤記説にこだわっているのだろうか。「魏志倭人伝」に信を置かないのであれば、卑弥呼の実在すら疑わしく、没後の葬礼も信じがたいとなる。笵曄「後漢書」東夷列伝倭条の簡牘巻物「レプリカ」に続いて、陳寿「三国志」魏志倭人伝の国産化に挑むのであろうか。

*果てし無き風評論議
 記事は、「ぴったりはまる」とするが、ドロ沼にはまっているのではないか。
 賛同している研究者が「多い」とは、百人か、千人か。箸墓より古いとは、どうやって年代測定したのか。いくつもとは、何個のことか。ドロ沼である。以上、権威ある全国紙として、責任を持てるご説明をいただきたいものである。野次馬古代史マニアの言いたい放題の私見ではないのである。

                                未完

新・私の本棚 番外 毎日新聞 【松井宏員】散歩日和 奈良凸凹編 大倭/1 2/3

散歩日和 奈良凸凹編 大倭/1(奈良県桜井市)「歴史の鍵穴、纒向遺跡」毎日新聞大阪夕刊4版[特集ワイド]2024/9/4
私の見立て ★★★☆☆  場違いな力作 前途遼遠  2024/09/05-09

 ただ、大型建物群や箸墓をはじめとする古墳群を持つ纒向遺跡[中略]

 大型建物群や古墳群を持つ「纒向遺跡」』とは、錯綜・混乱している。ここは、「遺跡」論議ではなかったか。「特徴」は出ず、遺跡大小が問われて見える。

纒向遺跡の範囲
 (1)弥生後期に突然出現
 100年代末~200年代初めに現れ、[中略]4世紀前半に消滅する。

 意味不明の紀年である。普通に考えると、100年代は、101年から110年であるから、100年代末は110年であるが、当時、誰が、キリスト教紀元(ユリウス暦か)を、そこまで精密に知っていたのだろうか。西暦を、古代史に持ち込まざるを得ないとして、普通に書くとすると、二世紀中に出現し四世紀に入ってほどなく消滅したということか。なにも文書記録はないのだから、五十年、百年程度でも過剰な精度かもしれない。
 「範囲出現」は、ペンの滑りとして、遺跡構造物は、一日にして出現しない。多くの人々の労苦の成果である。廃墟となっても消滅はしない。活発な扇状地なら世紀を経ずして堆積土砂に埋もれるだろうが、ここは、そのような大河、奔流の流域ではないのである。埋もれるまでに随分な年月を要したはずである。だれか、地形変動の記録をとっていたのだろうか。それにしても、墳丘墓は、「消滅」などしていない。用語の混乱で、錯乱したのだろうか。

 (2)とにかく大きい
 東西約2キロ[中略]にわたり、後の藤原宮、平城宮、平安宮より大きい。

 定義が混乱している「遺跡」の範囲と比較したのは、平地に整地された条坊構造の城市の内部の一角である。山麓の扇状地で大規模墳墓を包含する(とも言われている)「纏向遺跡」(領域範囲が皆目不明だが)の面積とは、まるで別物/異次元であり、子供の口げんか(賈孺争言)でもないから、どっちが大きいか比べられない。つまらない御国自慢に付き合っていられない。

 (3)外来系(大和以外)の土器が多い
 出土土器の約15~30%にのぼり、[中略]外来系土器の49%が東海で、山陰・北陸17%▽河内10%▽吉備7%――と続く。

 「範囲」談議と見えない。真意不明の「ヤマト」を持ちだして、内外を仕切っているが、これら地区名は、随分後世に定義されたはずであるから、三世紀当時には、意味を持たないのである。要するに、纏向集落の権力者にとって、これらの地域は、権力圏外、異国だったと主張しているのだろうか。

*内外区分の不確かさ 2024/09/09
 ちなみに、素人考えをお許しいただけるなら、纏向遺跡の「大王」が、「東海」系の出自であったとしたら、歴史上のその時点で、「東海」は「纏向遺跡」に包含されていた、あるいは、その逆で、この地は、「東海」と言うことになるから、どちらの見方をしても、「外来」の定義を外れているように見られる。そのような形勢では、当然、東海系の土器制作技術が渡来しているだろうから、その場合も、「外来」の定義を外れているように見られる。

 (4)農耕の形跡がない
 弥生集落は鍬(くわ)や鋤(すき)が出土し、中でも田畑を耕す鍬が多いが、纒向は土木工事に使う鋤が圧倒的に多く、田畑はほぼなかった。

 「範囲」談議と見えない。弥生集落は、水田稲作で生計を立てたと理解している。論者は、「纏向遺跡」は弥生集落遺跡ではないと決め付けて、農地らしき場所を避けて発掘しているのではないか。長年に亘り、卑弥呼金印発掘に身命を賭したから無理ないと思うが、「農耕の形跡がない」と断定していいものか。

*にわか扇状地と潤沢な纏向渓流の幻想
 「纒向遺跡は、纒向川の扇状地に[中略]全く前触れもなく出現するんです」。[中略]纒向の立体地図を見ると、幾筋もの川と川の間の微高地を利用しているのがわかる。

 何の根拠があって、太古のことを物々しく断定しているのか不明である。基本的な考察に立ち返ると、「扇状地」は、河川分流の砂礫堆積物の積層であり、本来、堅固な地盤を要する大形建物の造成は困難である。また、河流に交差する「径」が造成困難であり、物資の輸送/人員の移動が困難である。現地は、三輪山山麓の扇状地なら砂礫が多く保水できず灌漑が困難である。ついでに言うと、現地は、雨季の河川氾濫で知られている。ため池兼用の環濠無しでは灌漑も治水もならない。大規模聚落は、極めて困難である。
 むしろ、纒向川は三輪山麓に扇状地など形成せず、既存の平地を削って渓谷を形成して流下していたように見える。それなら、西方の沼地が次第に埋まって、今日の盆地西部の低地帯に至ったと見える。
 弱㋒するに、太古、前史時代以来、長期間を要した地形形成のはずであるが、3世紀時点でもどのように形成されたかという根拠はあるのだろうか。全域で、出土物の放射性炭素法検定を実施した上で言っているのだろうか。それとも、現代巫女に頼った神がかりなのだろうか。

 提示の現代地図からは、纒向川がJR巻向駅方面に北流していたと見て取れない。物の役に立っていない。

*「纒向の立体地図」公開回避の怪 2024/09/06, 07
 「纒向の立体地図」は、紙面掲載されたもののウェブ記事に表示されていないので、多額の費用を投じたと思われる「立体地図」の単なる紹介画像を評価しようがない。夕刊紙面の(不出来な)画像から判断すると、氾濫蛇行の果てに形成されたとみえる、河流に遮られた中洲状の堆積地に、どのようにして、かくも壮大な「遺跡」が造成されたか、想像を絶している。通常、地盤が不安定な、災害多発地域に「大型建物」など構想しないはずである。
 常識的に考えて、渓流の浸食、扇状地の堆積何れにしろ、タップリした水量で、滔々たる流速が無ければ、形成されないものであり、表示されているような、湿原とも見える「水郷」風景は、大河淀川の中下流を見ている感がある。
 ということで、紙面から見て取れる水郷地帯を「復元」した根拠を伺いたいと思うものである。

 根拠が確かと思えない「立体地図」 に多額の公費を投じる以上は、多年の宏大な発掘成果に基づいた考証が提案されたものと見えるのである。是非、御公開頂きたいものである。

 ちなみに、別の機関で別途作成された動画では、堂々たる大運河の水運が描かれている。絵を描いて誤魔化すのは、不合理である。

                                未完

新・私の本棚 番外 毎日新聞 【松井宏員】散歩日和 奈良凸凹編 大倭/1 3/3

散歩日和 奈良凸凹編 大倭/1(奈良県桜井市)「歴史の鍵穴、纒向遺跡」毎日新聞大阪夕刊4版[特集ワイド]2024/9/4
私の見立て ★★★☆☆  場違いな力作 前途遼遠  2024/09/05-09

纒向はどんな遺跡だった?  大型建物群、ホケノ山古墳、箸墓古墳

 「どんな遺跡だった」かは、文法、時制無視の悪文である。二千年前「纏向」は「遺跡」でなく、かくかくたる建物と墳墓であったと見える。一方、現地に大形建物群は現存/遺存せず、柱穴から画餅が描かれている。墳丘墓は、或いは復元され、或いは、放置されていて、「遺跡」と呼べるかもしれない。

*「都市」無き世界の「性格」不良
 「田畑がないということは、食料は外から供給されていた。[中略]大和以外の地域の人々が恐らく定住しており、列島規模で纒向を目指していた。多種多様な人が集まる都市的性格が強かったと思いますね」

 氏は、恐らく、人々の「性格」分析を図ったのではなく、現代で言う「都市」(とし)の性格(意味不明)をうかがわせる地域聚落(とは言っていないが)を臆測したのだろうが、どうも、「都市」(「とし」は、とても大きなまち。例えば、100万都市)なる時代錯誤の代物が当時存在したと主張しているわけではないようである。この部分は、別人の妄想のようである。「魏志倭人伝」の叡知に頼るなら、迷うことなく、普通に「纏向国邑」と呼べるのだが、中国語を解せず新語を発明する習性が、国内古代史の用語を錯綜させているから、普通の理解は通らないのかもしれない。

 当時、電話も高速道路も電車も学校もない。食糧供給機構など存在しない。水道も、新聞、テレビもない。「多種多様」とは、今日言う「多様性」の事か。

 それにしても、「纏向国邑」に、食料や薪炭の集散市場(いちば)「都市」(といち)なるライフラインはあったのか。なかったとしたら、飢餓が蔓延するのは避けられない。傷ましいことである。ともあれ、氏は、別人の新書の悪例のように墳丘上の「公設市場」の幻影は見ていない。ここは、悪例と比較すると健全である。

 都市と共に、箸墓という巨大前方後円墳が[中略]突如出現する。[中略]

 それにしても、「大和以外の地域の人々が恐らく定住しており、列島規模で纒向を目指」すとは、夢想より妄想に近いと言われそうである。いや、当時の人口統計は、一切存在しないから、何処の人が住んでいたか知る方法はない。「恐らく」などと呪文を振らなくても、否定されることはないのは明らかである。ちなみに、ここまで、「大和」がどこを指すのか不明であるから、一段と、なんの「恐れ」もないのである。それにしても、食料供給源と想定されている「外」も、「以外」も、意味不明である。言うまでもなく、記者が書き上げた地の部分はともかく、「発言引用」は、この発言にとどまらず、その場限りのものと思われるから、全体として、場当たりな憶測であるのは明らかである。ことさら「恐らく」と逃げを打つ意図が不穏である。

 列島規模」と言う方(かた)も言う方(かた)だが、担当記者先生が、口頭でレクチャーを受けて、問いかえしもせずに玉稿として、堂々と天下の毎日新聞の紙面に書かれると、目が眩んで朦朧としてくる。古代纏向に人口爆発があったという御高説の根拠も不明である。言うまでもないが、当時、「箸墓」などという名付けなどされていなかった。原稿推敲どころか、ホロ酔い「酔稿」なのだろうか。

 「いずれの要素も弥生時代の奈良盆地には見られず、[中略]一気にジャンプしています。その要因は外部の力だったのかもしれません」

 ここで乱入している「弥生時代の奈良盆地」も、趣旨不明である。現代で言う「奈良盆地」なる地形は、湖沼の枯渇などは関係なく、時代を通じて不変と見える。その場その場で、言い替えるのは、口から出任せの印象を与え、信用を無くすだけである。
 既存の文章を囓り取りしているため、「要素」、つまり、必須の構成要件が明言されてないのは、たいへん胡散臭い。「ジャンプ」しようにも、踏切板が不明ではどうしようもない。まして、「外部」陰謀説は、けったいである。

 結局、氏の持説らしい「ヤマト王権東海起源」説の捏ね上げであるが、根拠は、遺跡遺物の「土器」に東海由来と見えるものが多いという事なのである。
 日用「土器」は、雑貨「商品」であるから「ある」ところから「ない」ところに、自然に流れ着いたと見る方が自然ではないか。それとも、東海勢力の兵団が、大挙進入して纏向に居着いたのか。もっと、普通の言い方で、わかりやすく主張できないものか。

 同様の言い方で言うと、楯築の特殊器台は、雑貨「商品」なのか聖器/祭器なのかはともかくとして、何とか渡来したかもしれないし、楯築の集団が大挙進入したとも見える。拘わっていたのは、先ほどまで氏が述べていた「地域勢力」であって、地理概念である「地域」などでないのは当然である。用語を動揺させて、読者の眩暈(めまい)を誘うのでなく、口を慎むべきである。

【松井宏員】

 ■人物略歴 梅林秀行(うめばやし・ひでゆき)さん
 京都高低差崖会崖長。京都ノートルダム女子大非常勤講師。フィールドワークを通じて都市の歴史を研究する。[中略]

◯まとめ
 要するに、本記事は、考古学者ならぬ博物学者である梅林氏の素人考古学談議を、素人ならぬ新聞記者が、専門家としての技巧を尽くして、一般読者向けに文書化したものと見える、全体を通じた視点、用語の動揺は、梅林氏の「私見」のうろ覚えの口頭発言の用語、論理の乱れによるものなのか、複数の別人の個性的な所見の混入したものなのか、松井記者の見識に基づく勝手な書換なのか、善良な読者を苦しめるものである。

 例えば、目前の「遺跡」と古代の「地域集落」が、どう関連するのか、その場その場で動揺し、混濁しているのでは、眩暈が生じて卒読に堪えない。

*ご注意 2024/09/06
 当初、紙面掲示された「纏向遺跡の立体地図」について論評していたが、ウェブ版では削除されているので、記事本文に対してコメントしている。当然、取材時に撮影許可を得ていたはずなのだが、なぜ削除されたか趣旨不明である。多額の公費を投資して制作された「立体地図」の単なる紹介の公開を憚る意図が不明である。

                                以上

2024年8月29日 (木)

新・私の本棚 牧 健二 「魏志倭人伝における前漢書の道里書式の踏襲」

「史料」第45巻第5号 昭和37年9月 「邪馬台国研究総覧」三品 彰英 200
私の見立て ★★★☆☆ 画期的解釈        2024/08/29,09/03 

◯はじめに
 本書は、不朽の大著「邪馬台国研究総覧」に収録されているが、余り、参照されていないようなので、ここに顕彰する。

*概要
 当抜粋紹介記事では、以下の二点が目覚ましい指摘と考える。
⒈ 「列挙式」の常識
 前漢書西域伝の記事から、伊都国以降の記事は、「列挙式」記載と見られる。
 まことに至当、順当である。と言うのは、陳寿の魏志編纂時点で、先行する正史は、司馬遷「史記」と班固「漢書」の二史であり、「倭人伝」道里記事の典拠とすべき史書として「漢書」は唯一無二であったのである。

 魏志読者には漢書西域伝記事が「普通」であり、蕃王居城に至る道里の後に周辺侯国への行程を列挙する。俗に言う直線式なる「単純」解釈は「無教養な後生蕃夷の誤謬」と言えば論議完結のはずが、「纏向遺跡史学派」に政策的に黙殺されていると見える。

⒉ 非常識な「海路」

 杜祐「通典」「州郡」「日南郡」記事を「倭人伝」道里「水行十日陸行一月」の解釈に援用する。当記事は好例であり、諸郡も同様書式で書かれている。
 「通典」は、唐代史料である。日南郡は「ベトナム」であり、三国東呉の領域である。
 氏は、慧眼を駆使して「日南郡」記事で「倭人伝」の「水行十日、陸行一月」を処断するが、率直なところ、いわゆる国内史学界でしか通用しない勘違いと言わざるを得ない。正史の解釈という見地から云うと、氏ほどの碩学にしては、軽率の誹(そし)りは免れない。
 同記事の取り扱う地域は、三国東呉孫権政権の統治下であり、三国曹魏の圏外であったから、陳寿が「魏志」編纂で対処する「史実」、すなわち、曹魏「公文書」にないので、当然、「魏志」に援用されない。見当違いであろう。

 さらに、氏は、「水路」と「水行」とを同義と誤断し、更に、「水行」を「海路」と読み替える。正史を、国内史学の見識で「曲解」するのは、国内史学の積年の悪弊であるから、その責めを牧氏に負わせるのは酷である。いや、世上には、「正史」の語義を知らずに、中国における正史の伝統を堅持した陳寿「三国志」と「無学、無教養な文章家」が草した「読み物」である国内史料を同列視して一刀両断する武闘派が声を上げているから、中々、正論が通らないのだが、蕃夷に「正史」とは笑止と言うべきなのである。
 ただし、中国史料初学者の務めとして、中国史書解釈は中国史書語法に従うべきである。「水」は、河川であり海洋でないことは自明である西京長安、東京洛陽が並記されるが両「京都」に「海路」で到ることはありえない。「倭人伝」にも、提示された史料にも「海路」はない。

*史料引用 杜祐「通典」「州郡」 伝統的書法堅持
 日南郡東至福祿郡界一百里。南至羅伏郡界一百五十里。西至環王國界八百里。北至九真郡界六百里。東南到海百五十里。西南到當郡界四百里。西北到靈跋江四百七十里。東北到陵水郡五百里。去西京陸路一萬二千四百五十里,水路一萬七千里。去東京陸路一萬五百九十五里,水路一萬七千二百二十里。戶九千六百一十九,口五萬三千八百一十八。
 南海郡東至海豐郡四百里。南至恩平郡五百里。西至高要郡二百四十里。北至始興郡八百里。東南到恩平郡四百里。西南到高要郡界二百三十里。西北到連山郡九百里。東北到海豐郡界三百五十里。去西京五千四百四十七里,去東京四千九百里。戶五萬八千八百四十,口二十萬一千五百。

 「通典」が採用した唐代史料は、中世唐代の潤沢な用紙、用材を承けて、志部に字数を費やすことができたので、「郡治に至る道里」と「郡界に至る道里」が並記されている。「道里」は実地踏査、一里単位、「戸口」は、緻密な戸籍台帳を駆使して、一人単位で把握されている。古代の事情は不明だが、中世唐代には、「算盤」による会計、統計人材(官吏)が、中国全土に展開していたとも思われる。

*苦言 余談 追記2024/09/03
 以下、権威ある「史料」誌の審査に応えて掲載された本論に於いて「論文」形式を確実に踏まえた牧氏に対する批判ではない。先行諸論を克服する点で、不備があったわけではない。

*陳寿「三国志」不備論の不備
 陳寿「三国志」が「志部」をもたないのは、「魏志」は、あくまで、「曹魏」公文書に依拠していたから、存在しない文書は採用できなかったのである。正史を構成するに足る原史料がなければ、史官は割愛せざるを得ない。
 南朝梁の史官沈約は、選考する劉宋の正史「宋書」「州郡志」編纂にあたり、劉宋代に到るも、正史として、志部を備えた後漢書は未刊であり、陳寿「三国志」が志部を欠いているため、後漢代以来の諸郡地理が不明である点が多いと歎いている。「魏志倭人伝」会稽東治談議でよくいわれる、東呉会稽郡の分郡、建安郡創設などにしても、東呉が亡国時に西晋皇帝に遺贈した「呉書」の列伝記事に全面的に依存しているほどであり、道里記事は、収録されていないのであるから、「三国志」において「地理志」、「州郡志」は、編纂しようがなかったのである。

*失われた范曄後漢書「志部」
 ちなみに、笵曄「後漢書」曹皇后紀に付された李賢注は、沈約「宋書」謝𠑊伝(佚文)を引用して笵曄「後漢書」に収録される構想であった後漢書「志部」十巻の顛末を述べている。同伝によると謝𠑊は、後漢書「志部」十巻の編纂をほぼ完了していたが、時の劉宋文帝が、皇帝謀殺の隠謀という大逆罪に連坐したとして「范曄を斬罪に処し編纂中の後漢書を接収した」との報を受けて、編纂中の後漢書「志部」の私家稿を隠匿し、秘匿したので、ついに、范曄「後漢書」「志部」は世に出ることは無かったということである。ちなみに、笵曄「後漢書」として伝世されている范曄「遺稿」は、劉宋文帝が、言わば、不法に没収したものであり、范曄自身が上申したものでないので、范曄の著作として取り扱うべきではないという意見も、成立しうるものと思われる。ちなみに、笵曄「後漢書」現存刊本の志部は、先行して上程されていた司馬彪「続漢紀」の志部を併呑したものであり、唐代以前、笵曄「後漢書」は志部を欠いていたのであり、以降追加された志部は范曄の承知していないものであった。

*散乱した沈約「宋書」、未完成な范曄「後漢書」
 ちなみに、李賢注が依拠した沈約「宋書」謝𠑊伝は、沈約「宋書」現行刊本に収録されていない逸文である。南朝梁代に編纂された沈約「宋書」に散逸が多いのは、南北朝分裂期を、北朝側の隋が統一した際に、南朝諸国が賊として軽視されたためである。
 沈約「宋書」は、散佚状態から回復を図り、唐代に「正史」に新参したといえども、古来正史として認定されていた陳寿「三国志」の承継の確実さに遙かに及ばない。また、李賢によってにわかに正史に認定された范曄「後漢書」も、李賢がことさらに補注したように、范曄によって完成されたものでない、いわば「未完成」であったことも、史料批判に於いて、丁寧に審議すべきであると思われる。

*唐代全国統治の精華 「通典」「州郡」道里記事
 おそらく、唐代、全国統治の権威の裏付けとして、実地測量に基づく全国地理調査を行ったと見え、「通典」「州郡」は、古来の道里記事の存在しなかった当該地域の精読に絶える道里記事を完成したものと見える。いうまでもなく、先行する正史に於いて既に記述された公式道里記事は不可侵であったし、「倭人伝」道里記事に略記された以外の地域道里は、既に知るすべがなかったので、「通典」「州郡」の手が及ばなかったのである。
 ということで、「通典」「州郡」の記事を元に、「魏志倭人伝」の道里行程記事の解釈を図るのは、労多くして報われることが少なく、意義に乏しいと言わざるを得ない。

*余談の余談
 これも、牧氏には関係のない余談であるが、ことのついでに一言述べると、世に蔓延(はびこ)るあまたの俗耳に訴えたいからと言って、自説補強と勘違いして、あることないこと不平不満を募らせて、陳寿編纂を誹謗しないことである。仲間受けをよいことに、お手盛りの不合理を積み上げて、声高に罵っても、後世に至るまで乱暴な俗論として無視される原因となるだけである。ご自愛いただきたい。

                                以上

2024年8月19日 (月)

新・私の本棚 岡 將男 季刊邪馬台国 第140号 吉備・瀬戸内の古代文明

 「吉備邪馬台国東遷説と桃核祭器・卑弥呼の鬼道」 2021年7月
 私の見立て ★★★★★ 考古学の王道を再確認する力作  記 2021/07/13 2024/08/19

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

◯はじめに
 著者は、フェイスブック「楯築サロン」代表と自称している。吉備地方の「楯築」墳丘墓の在野研究者と拝察する。要領を得ないが、本誌で示された実直な研究活動には賛嘆を惜しまないものである。

◯私見~纏向と吉備 桃種異聞
 以下、当記事の一端を端緒として、他地域遺跡の発掘事例の瑕疵を考察したものであり、岡氏の著作を批判したものではない。よろしくご了解いただきたい。
 当ブログ筆者は、纏向遺跡出土の桃種のNHK/毎日新聞報道が提灯持ち報道(もどき)と批判したので、当記事での事実確認に、まずは歓迎の意を表したい。

*纏向大型建物「事件」
 敢えて付け加えるなら、現在もNHKオンデマンドで視聴可能である「邪馬台国を掘る」で公開されている「桃種」出土時の学術対応について指摘したい。
 画面では、「桃種」が、纏向遺跡の土坑、一種のゴミ捨て穴から出土したとき、無造作に水洗いして付着物を除き、シート上で陰干ししたように見える。個々の桃種の出土位置と深さを記録していないのも難点だが、別に「非難」しているのではない。考古学関係者も、一般視聴者も、何とも思わなかったはずである。
 他の考古学的な発掘では、有力な遺物については、前後左右上下関係を記録した上で取り出し、発見時の位置が再現できるものと考えるが、今回の事例では、後日、桃種サンプルを年代鑑定したものの、出土位置不明では、新旧不明と見える。建物建設との前後関係も不明。歴年か一括かも不明である。後悔は尽きないと思うのである。

*遺物蒸し返しの愚
 近年になって、それらしいサンプル(数個)の年代鑑定を行ったようであるが、もともと、考古学的に適切な発掘、保存がされていなかった以上、莫大な経費を投じた悪足掻きになっている。何しろ、三千個の攪拌された母集団から、ランダムに数個取り出して鑑定しても、統計的に全く意味がないと見えるのである。

*纏向式独占発表の愚
 他の考古学的発掘の「桃のタネ」事例を調べることなく未曾有としたのは不用意である。想定外の大当たりを自嘲している暇があれば、大規模墳墓の出土地域に、前例の有無を、謙虚に問い合わせれば良かったのではないか。
 学会発表であれば、論文審査で疑義が呈されて克服するから粗忽を示すことはないが、実際は、NHK、全国紙など一部「報道機関」に成果発表を独占的/特権的に開示し、真に受けて追従した「報道機関」に誤報の負の資産を課した。NHKなどは、勝手な「古代」浪漫を捏造し、懲りずに継承している。懲りて改めなければ、負のレジェンドとして、"Hall of Shame"の「裏殿堂」に永久保存されるだけである。

 以上の批判は、別に素人が勝手な思い込みで記事を公開したわけでなく、大筋は、前後はあっても、当誌の泰斗である安本美典氏が、誌上で論難していることは、読者諸氏には衆知であろう。一方、「報道機関」は、毒を食らえばなんとやら、纏向桃種の「奇蹟」は、多数の努力と巨費を空費して、まことに国費の浪費であり、勿体ないのである。会計検査院は、監査しないのだろうか。

 岡氏は、別に、纏向遺跡の桃種について「非難」しているわけではなく、土坑出土の桃種の年代鑑定に疑義を淡々と提示しているが、当ブログ筆者は、素人で行きがかりも影響力もないので、率直、真摯に論難した。直諌は耳に痛いが、社交辞令にすると、大抵無視されてしまうのである。

◯まとめ

 因みに、当記事で説かれている「吉備邪馬台国」は、各遺跡で出土した万余の桃種の年代鑑定に依存してはいない。門司史料の伴わない遺物の宿命であり、遺物考古学論考の限界で「倭人伝」記事との連携はこじつけと見えるが、遺跡遺物考証に基づく世界観は、盤石と感じる。

 余言であるが、近来、本誌の刊行について「邪馬台国の会」ホームページに、予定どころか刊行の告知も、とんと見かけない。論敵「古田史学の会」が、古賀達也氏のブログで、細かく進度報告を公開しているのと大違いである。学ぶべき所は、謙虚に学ぶべきではないか。

                                以上

2024年8月17日 (土)

私の本棚 図説検証 原像日本 2 大地に根づく日々 水野 正好 更新 1/2

 古代人と神々 水野 正好 (第5段に相当 表記なし) 旺文社 1988年
 私の見立て★☆☆☆☆ 神がかりの荒技 2017/02/10 補充再掲 2020/06/27 教育的指導追加 2024/08/17

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

◯はじめに
 「図説検証原像日本」シリーズは、編集委員として、陳舜臣、門脇禎二、佐原眞と大物を据えた意欲的な取り組みであり、豊富な図版と多くの筆者の論考をを大型本五冊に収容した大著です。
 今回、古書店から購入したとは言え、図版資料としての重要性は絶大です。
 但し、記事部分は担当者の見識で書かれているので、しばしば躓かされます。今回は、丁寧に考え違いを教え諭しているので、

*「倭人伝」談義に重大な異議あり
 ということで、目下関心を持って読み進んでいるのは、古代記事なのですが、当段筆者の古代世界観の一端が、次の段落に明示されています。

 政治を反映する青銅器
 翻って『三国志』の魏志東夷伝倭人条によれば、日本は倭国(わ)、王都は邪馬台国(やまと)とされる。そして、九州の対馬(つしま)・一支(いき)・末廬(まつら)・伊都(いと)・奴(な)・不弥(ふみ)の諸国を統轄し、魏使等と倭国王、王都間の連繋をとる機構として「大率」が置かれている。言うまでもなく邪馬台国は大和であり、大は後世の太宰府に相当する機構である。こうした倭国の機構に対応する形で、青銅器の世界が展開している。倭国中枢の邪馬台国が直接統轄する範囲に銅鐸が分布し、大率なり率に統轄を委ねている範囲に銅矛が分布するのである。

 つまり、著者は、文献資料である「魏志倭人伝」の自分流の解釈、言い方によれば、手前勝手なこね回し、に合わせて、青銅器の分布を解釈するという態度をとっていますが、要するに、自分流の青銅器分布解釈に合わせて、文書資料を読みこなしているのですから、これは、遺物考古学者の論考の進め方として「本末転倒」でしょう。
 按ずるに、所属組織の機関決定をなぞっているのでしょうが、それは、ご自身とご家族の平安のために余儀なく辿っている天下御免の「禽鹿径」(裏道)としても、学門の本道を大きく逸脱しているのではないかと、懸念するものです。

*教育的指導
 2024/08/18
 僅かな行数字数に、重大な文献史料誤解の連発であり、どこのどなたの創作なのか、念の入った「落第答案」がさらし者になっているのは、創刊というか悲惨というか、何とも、言いつくろいに苦労するのです。せめて、原文を提示して、そこに解釈を自己責任で塗りつけたという形式にすれば、「思いつき」の素朴な発露と見てあげることが出来るのですが、改竄文書を立て付けの悪い素人普請で投げ出されては、是正のすべがありません。
 冒頭の一文を例にすると、中国で三世紀に書かれた陳寿「三国志」「魏志」東夷伝には、「倭人伝」と明記された一伝がありますから、これを「倭人条」と呼ぶのは、一種の仮説に過ぎません。魏志倭人伝によれば、三世紀に「日本」は存在しない、東夷倭人に「王都」は存在しない、まして、「邪馬臺国」、ならぬ「邪馬台国」は、一切存在しないのは、天下周知の事実ですから、ここに書かれているのは、二千年後生の無教養な東夷に二次創作と見るものではないでしょうか。
 以下、勢いに任せて難詰します。
 勝手に「大率」なる官人を創造して、それは、後世の太宰府に相当すると、気軽に断定していますが、太宰府は、数世紀後世に設けられた地方組織・機構であり、その時点で、成文法が成立、公布されていたものであり、文書送達の街道が完成していたとみなされます。して見ると、そのような体制整備が影も形もない時代に、近隣諸国に対して運用されていた官である、「倭人伝」に書かれている「一大率」なる官名とは不釣り合いです。勿論、「倭人伝」の編者は、太宰府など知ったことではないので、つじつまが合わないのは、不勉強で取りこぼしたのか、承知の上で道を外したのか、とにかく後世東夷の責任です。
 転じて、「言うまでもなく」と同族でだけ通じるお呪いをして、「邪馬台国」が倭であると、大胆な神懸かっている創作を進めていますが、当時の氏神に帰依していない部外者にも理解できる論証を必要としています。これでは、「カルト」教義のようだと書きかけたら、陰の声でもないのですが、「敬意」を示せと空耳がしたので、ちゃんと、「お」を付けて、『お「カルト」』のようだと言い直したいところです。

*遠隔統治の夢物語 2024/08/18
 北九州視点から蜃気楼の彼方の位置不詳の『「邪馬台国」は「倭人伝」に登場しないが、日本列島西部を包括支配していた』との言いのがれは絶妙好辞ですが、現代風に言うと、遠隔の地に在って、外交、軍事、租税、祭事の大権を保持している機構は、主権国家であり、文書行政の整った「太宰府」体制とは、全く異なった独立国と見るものでしょう。
 ちなみに、班固「漢書」西域伝に依れば、漢武帝代に派遣された百人の漢使節は、カスピ海東岸の「安息国」居城で、長老と折衝したところ、長老は、二万の常設軍を供えた要塞で、東方の大月氏の侵掠に備えているが、漢との「外交」については、西方数千里の国都の指示を仰ぐ必要があるとの回答を得て待機し、國王の親書を受けた長老が、漢使、つまり、漢帝の代理人である西域都督の使者と締盟したと明記されているのです。
 安息国は、法制と文書使制度が完備していて、東方辺境の軍事都督は、外交権限はもっていなかったが、文書で「王都」の勅許を求め、国王代理として締盟できたわけです。(漢書西域伝で、安息国は、唯一、漢に匹敵する文明国と認められていて、「王都」の呼称を与えられているのです)
 魏志倭人傳を編纂した陳寿は、当然、班固「漢書」西域伝安息条を知悉していたわけですから、伊都国王が、遠隔の「倭王」から委任された西方都督であったのなら、そのように、権限委任の手続きを明記した上で、従って、伊都国王に信書を提示した上で、代理人と締盟したと書くものです。そのような記事は一切ありませんから、伊都国王は、帯方郡から見て、所定の権力を保持している統治者であり、外交代権を行使する際に必要とされている女王の信任は、対面、面談で確認していたと明記されているのに等しいのです。

 素直に考えればわかるはずですが、班固「漢書」に示された安息国のように、成文法に基づく文書行政が確立されていれば、一片の書面で、遠隔地の代表者に指令を送り、必要があれば、馘首することが出来ますが、全て対面、口頭の世界で、そんなことはできるはずがないのです。せめて、中国太古のように、金石文として盟約を交わすことが出来れば、印綬の公布で、身分証明ができれば、全権を委任した使者の派遣で、強権を振るうことができるでしょうが、ないないづくしの三世紀に、どのような神業で広域支配できたか、論証は、至難ではないでしょうか。

 古来曰わく、言うのはタダ、言ったもん勝ちと言うことでしょうか。まるで、無学な野次馬の放言と誤解されかねない不用意な書きぶりであり、であり、「夜郎自大」でもないでしょうが、痛々しいものがあります。
 
*閑話休題
 それにしても、著者の脳裏に反映されている「政治」は、どの時代のどの国の言葉なのでしょうか。ちと、時代錯誤丸出しの粗雑な言い回しです。

 以前、自身が盆栽と化した著者が、資料を丹精して盆栽を仕立てていると揶揄しましたが、本記事もその一例です。「自縄自縛」と言いかけるのですが、少しは、趣(おもむき)のある言い回しを採ったものです。

 倭人伝を持ち出す以上、勝手な解釈を展開すべきではありません。まずは、独善を押しつける「日本」表記です。三世紀当時どころか、はるか後世の八世紀冒頭まで、「日本」は存在しなかったのです。また、当時蛮夷の王は、「王都」と称することを許されてなかったのです。勿論、地理概念の大和も存在せず、青銅器世界の展開も、手前味噌の概念なのです。

*文献史料の操作
 もし、ご自身の学究の手順として、文献を優先・先行させるのなら、各地で出土した青銅器を、先入観のない客観的な目でつぶさに観察、計測、分析したのと同じ客観的な目で文献を読み、科学的な目で史料批判すべきです。

*独自解釈の押しつけ
 古田武彦氏の古典的指摘を確認するまでもなく、「倭人伝」の倭王の居処は邪馬壹国であり、邪馬台国は後漢書由来です。その国が、僻遠のヤマトという説も有力ですが、九州北部にあったとする有力な学説が存在しています。
 文献解釈が分かれている中、一方にのみ依拠して自分流の解釈に固執し、文献に書かれている文字を自身解釈で書き換え、それに基づいて青銅器に反映されているとする「政治」を説くのは、科学的な態度といえないのです。

 つまり、ここに書かれた自己流倭国構造は一つの仮説であり、不確かな世界観に基づく文献解釈、不安定な仮説に基づいて、青銅器の意義づけを解釈するのは、仮説の正否以前の問題として学問の正しい手順を外れています。
 そのような不適切な論法を、原文献を参照できない一般読者に押しつけるべきではないと思うのです。

*Mythの剽窃
 よく見かける悪弊なので、個人的な意見ではないのでしょうが、中国で書かれた資料を、二千年後世の無教養な東夷の見当違いの解釈にこじつけて書き換えて、それを、もっともらしく著作にするのは、同時代人、後世人に対して、重大な悪弊を残しているものと見えます。考古学者として、恥じることのない、適確な著作を期待したいのです。
 既に、いずれかの組織の決定事項になっているので、異議を挟むことが許されていないのでしょうか。それなら、せめて、このような「Myth」(一神教信者が、異教の教義に対して投げつける蔑称)を誰が提唱したのか、功績を明らかにすべきでしょうか。「剽窃」は、創唱者の知的財産権を侵害する重罪だと思うのです。

                              未完

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私の本棚 図説検証 原像日本 2 大地に根づく日々 水野 正好 更新 2/2

 古代人と神々 水野 正好 (第5段に相当 表記なし) 旺文社 1988年
 私の見立て★☆☆☆☆  2017/02/10 補充再掲 2020/06/27 2024/08/17

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*戦国難民考
 ちなみに、水野氏は、中国の戦国時代のおそらく末期、秦による全国統一の際、中国北部の燕から、亡国から逃れた多数の人々が朝鮮半島を南下し、大海の彼方の日本列島に渡来したとみています。不明瞭なので、個人責任で明確化しています。
 燕が滅んだのは、BCE222年ですが、すでに他の諸国は、悉く秦に侵略されているので、燕の王族や貴族が逃げるなら、選択肢は、いずれも夷蕃で、北方の匈奴の世界でなく、温和な朝鮮半島を選んでも不思議はないのです。それにしても、家族一同移住できたのは貴族階級であり、従って、単なる逃亡でなく、中原世界で通用していた中国文化を持ち込んだ亡命と見ているのでしょう。

*遺らなかった文化資産
 それなら、定着地で中国語を語り、漢文を書き記し、中国「文化」の種をまいたものと思うのです。そのためには、木や竹から簡牘を作り、筆と墨を作り、持ち込んだ豊富な書籍に親しみ、時に応じて文筆活動したはずです。衣類も、中国のものとして、麻などの種子を栽培したはずです。
 断髪、文身、黥面は論外です。生食は禁忌です。牛肉、狗肉が必要です。
 祭礼として、家族の祖先をまつることも当然です。これは、中国文化の根幹です。家を守るという事は、「姓」を墨守します。中国の暦から切り離されても、月日の経過を年代記に書き綴り、また、墓碑や家系図を残したはずです。
 「文化」とは、固持すべき必須要件を持ち、かつ、それを支える多くの要素を持つものです。単なる民俗、習慣の集合体ではないのです。

 それにしても、古代遺跡で、中国南方の影響は、稲作や氏神祭礼などが多く継承されていて、北方風俗の伝播は、まことに目立たないように見えますが、素人の錯覚でしょうか。
 燕の「文化」は、大地に溶け込んで、伝来風物なる微かな断片だけが遺ったのでしょうか。

*文化幻想
 著者は、「縄文文化が消え弥生文化が広がった」と無造作に言い放つのですが、文字なき社会に文化も文明もないのです。「文化」は、確固たる漢語であり、後世日本人が、勝手に言い崩すのは、ありふれた、無教養の語彙錯誤です。
 亀卜談義がありますが、「筆者は、「亀卜の趣旨がわからないと逃げます」しかし、占いたい趣旨を書き込んだ上で亀卜し、神の回答である割れ目解釈するのが、亀卜であり、託宣には、確立された解釈法があったはずです。
 そのためには、亀卜文字の大系が必要です。殷(商)は、卜辞の解釈に適用するために漢字を創出したと言われています。ついでに言うと、易の筮竹も、易経に基づく解釈がなければ、託宣できません。いずれも、文化の一部です。

*憶測の集成
 「弥生文化」の開花に、「中国文化」の流入を説く割には、「文化」に即した具体的な物証、論証が欠けているのです。遺物考古学にしては、域外の話題なのでしょうが、ちと、不勉強に過ぎます。なお、記事に於いて依拠した文献史料も、明示されていません。憶測の堆積でないでしょうが、かなり疑問に感じます。

◯まとめ
 念のため言うと、不満の対象は、不確かな文献解釈への無批判の依存であり、遺跡、遺物の実見による「純然たる」考古学的考察に、素人が口を挟むものではないのです。文献解釈を、時代同定に持ち込まざるを得ないとしたら、安易に俗耳に訴える「定説」に無批判に追従するのではなく、自律的な史料批判を怠るべきではありません。

 もし、遺物考古学が、定説に追従して定見としたら、逆に、そのような遺物考古学定見を根拠として定説が強化され、混迷が深まるのです。
 いや、現に深まっているのですが、その責任の過半は、遺物考古学界の無定見な追従姿勢にあるのです。
 本書に署名されている諸賢は、後世に名声を残したいと思われているのでしょうが、これでは、後世の批判を浴びる標的となっていると言わざるを得ません。

 毎度のことですが、以上は、一個人、素人の意見ですから、断言調で展開していても、別に絶対視されるべきと確信しているわけではないのです。ひたすら、晩節を穢すことが無いよう、ご一考いただきたいというだけです。

                               以上

新・私の本棚 刮目天ブログ 春秋二倍年歴?つじつま合わせの空想  1/2

 春秋二倍年歴?つじつま合わせの空想・妄想だよ!(;^ω^) 2024-08-15  古代史 2024/08/16, 8/19 

◯はじめに
 かねて私淑している刮目天氏ですが、概して、「日本古代史」論議なので、口を挟まないようにしていますが、今回は、当方が専念している「倭人伝」解釈の補足説明が必要と見えるので、ご高説に異議を唱えるということで、無礼にも氏のご高説に対し講釈を垂れさしていただいています。

◯都度対応
 「春秋二倍年歴?」から混乱します。誰がいつ言い出したのか調べようもない「トンデモ」タイトルです。存在しない新説の否定は不可能です。

日本書紀が春秋二倍年歴説をはっきりと否定していますよ。
春と秋で2年とかぞえるなら天皇紀は1年おきに春・夏の記事と秋・冬の記事になるはずですが、そうはなっていませんよ。1年は12ケ月としています。

 主旨不明瞭ですが、普通の言い方とすると、「書紀」編者は「二倍年暦」を否定してないと見受けます。裴注版「倭人伝」を承知で否定するなら、明解に書いたはずです。「春秋二倍年歴」は、現代新説であり、書紀編者の知ったことではないのです。
 「倭人伝」は三世紀筑紫であり、ご提案は、数世紀後の「纏向史蹟」新説であり、辻褄が合わないのは、全て「後世」側の責任です。
 ちなみに、当時の暦には閏月があり、一年十二ヵ月とは限らないのです。

「魏志倭人伝」裴松之注に「魏略ニ曰ク、其ノ俗正歳四節ヲ知ラズ、但、春耕秋収ヲ計ツテ年紀ト為ス」とあります。

 要するに、裴松之が魚豢「魏略」を所引したのですが、陳寿が棄却した意見が陳寿の真意を示すとは、凡愚の素人には、とんと見当がつきません。

「正歳四節」つまり、中国最初の夏王朝に起源のある「正月から始まる四季のまつり」のことを倭人は知らず、四季のある日本では人々の活動は春耕秋収がひとつのサイクルですから、「倭人は春と秋の祭祀によって一年としている」という話なのです。

 「倭人」の者が中国太古の制度を知らないのは、当然ではないでしょうか。
 「春秋農暦」は、中国由来の水田稲作の基本なので、南朝劉宋の裴松之は承知で窘(たしな)めたのでしょうが、稲作地帯の蜀漢育ちの陳寿は知っていても、雒陽人には、通じないと見て割愛したと見えます。
 中国で制定・運用されていた太陰太陽暦は、大変複雑で、正歳、つまり、月の満ち欠けを刻んで作られた太陰暦の二十四ヵ月のどの月を「正月」にするかは、以後、殷暦、周暦を、秦始皇帝も変え、天子の公布についていくしか無いのです。定期的に、閏月を追加しないと正月の位置がずれてしまうので、これも高度な計算の産物なのです。繰り返しますが、一年は、十二ヵ月ではないのです。特に、景初から正始にかけての改暦は複雑怪奇です。そして、当時、遙か西方のローマで採用されていた「ユリウス暦」(ユリウス・カエサルが指導したとされる)なる太陽暦は、全く知られていなかったのです。但し、二十四節気は、中国太古以来の太陽観測に基づき、日食予測までできた高精度の「天文学」の成果であり、そのような科学を知らない東夷の知るところではないのです。

 ということで、「二十四節気」は、太陽の運行に従って、毎年定義されるものであり、春分、秋分、夏至、冬至を始め、年間二十四回の節目を太陰暦の月々に重複しないように配置するのは、難題でしたから、東夷の知るところではなかったのです。要するに、「正月」と「二十四節気」は、連動していないのです。丁寧に言うと、「正月」は、太陰暦であり、これに対して、「二十四節気」は、太陽の運行に基づく、言わば「太陽暦」のものなのですが、当時、太陽暦が運用されていたわけではないのです。

*水分(みずわけ)~余談
 ということで、「二十四節気」は、年間の農作業を、太陽の運行に従って決めるという合理的、崇高な制度です。遙か遙か後世の「日本」でも、太陰暦の世界に「八十八夜」、「二百十日」(にひゃくとおか)が継承されているので、月日で伝えることのできない農事暦(こよみ)に関して尊重されていたとわかるのです。何しろ、地域集団が揃って行うのであり、年に二回、聚落総会で日程徹底するのは、もっともなことです。
 特に、田植えの際の「水分」は、集落間の諒解が無いと大事件になるので、各集落が集う氏子総会の場で、一日刻みで決定する必要があるのです。全くの私見ですが、「卑弥呼」の「卑」は、天からの恵みの雨粒を受けて「水分」する「柄杓」であり、巫女である卑弥呼の「水分」は、全集落に支持されていたように「倭人伝」から読み取れます。してみると、卑弥呼は水神に事(つか)えていたのであり、太陽神とは別のおつとめとなりますが、余り強調すると粛正されかねないので、ここでひっそり呟くだけにしておきます。

それに対して、倭人は春と秋でそれぞれ一年と数える二倍年歴を使用しているというのは、書かれたものが正しいはずなので、つじつま合わせで発明された全くの珍解釈なのです。

                               未完

新・私の本棚 刮目天ブログ 春秋二倍年歴?つじつま合わせの空想  2/2

 春秋二倍年歴?つじつま合わせの空想・妄想だよ!(;^ω^) 2024-08-15  古代史   2024/08/16

[承前]

 「書かれたものが正しい」、つまり、陳寿の記事が正しいとの御意見ですが、ここで罵倒されているのは、纏向遺跡派を含めた現代人の「発明」であって、それを、三~五世紀人にケツを回すのは、見当違いです。纏向遺跡派を含めた現代「発明者」の間で話を付けるべきでしょう。

弥生時代の水田稲作は春に田植え、秋に収穫するわけで四季のある日本ですから一年を春と秋で二年と数えるなどあり得ません(詳細は 富永長三「不知正歳四節但計春耕秋収為年紀」について」参照)。

 高邁な御意見はともかく、三世紀の筑紫には、「弥生時代」も「日本」も存在しないので、そのような風習が「なかった」とするのは、誰にもできません。何故、神ならぬ現代人が、確信を持って断言できるのか意味不明です。

ですから倭人が二倍年歴を採用しているなどと言う妄説は、初期の古代天皇の崩年を半分にして実在天皇と考えたい現代日本人が言い出した珍解釈なのですから、逆に、記紀で異常に長命な天皇は実在しない天皇だということが分かりますよ。

 氏の「陰謀」説は、三世紀筑紫の「倭人」の知ったことではなく、纏向遺跡派の内部事情なので、そちらで解決して頂くしかありません。(書き飛ばされたのでしょうが、混乱していて、用語が混乱していて、論理が錯綜しているので、筋が通らず、壮大な古代史世界を構築している氏の論考としては、もったいない感じがします)

◯うらばなし/ホントウのはなし
 原点に戻ると、「倭人伝」に対する裴松之追記は、魚豢「魏略」の引用であり、『郡への報告が、農暦「春秋報」であり「四季報」でない』というものです。
 [裴松之曰 (魚豢)]魏略曰:其俗不知正歲四節,但計春耕秋收為年紀。
 官制は四季報であるのに、「俗」(民俗)は春秋農暦報としています。

 このあとに、人の寿命と婚姻のはなしが続いています。
 見大人所敬,但搏手以當跪拜。其人壽考,或百年,或八九十年。其俗,國大人皆四五婦,下戶或二三婦。
 単に、戸籍に少なからぬ年寄りが存在し、人寿と称して百歳まで書かれている例があるという風評(「倭人」戸籍は、発展途上なので、八十年以上遡及できない)に過ぎません。ちなみに、裴注に類似した「其俗,國大人皆四五婦」とする言い回しは、恐らく、魚豢「魏略」を引用したものなのでしょう。そして、元々は、秦代以来の遼東郡の下部機関に当然蓄積されていた「帯方郡志」の引用でしょう。何しろ、原史料は一つしか無いのです。

 参考かどうか、中世地方戸籍で、各戸に老人が多く、壮者が少ない事例があり、「倭人」でも、壮者を老人として人頭税、徴兵を免れた可能性があります。
 同様に、婦人が長大(成人)して別戸を構えると、耕地を割り当てられ納税義務が生じるので、大人の第二夫人以降として節税した可能性があります。
 陳寿は、史官として、公文書記事を「史実」として継承していますが、その真意は、紙背/行間から読み取るべきであり、後世東夷の辞書など引いても、窺い知ることなどできないのです。渡邊義浩氏に言わせると、史官は、全て二枚舌ということですが、素人としては、精々、古典文例に潜む真意を探ることしかできないのです。

◯倭人伝の真意推定
 「倭人」の国風と民俗は中国と異なり、もっともらしく書いていますが、実際は、よくわからないのです。

 私見ですが、「倭人伝」全体は、戸数、道里、方里の各記事で、中原基準で「倭人」を評価してはならないという教えに満ちていますから、ここも、そのような意図で書かれていると見るのが合理的な解釈と見えます。
 世上、新奇(古代史では絶賛)解釈で騒ぐかたが多いのですが、「思い込み」、「思いつき」ばかりで、信じるに足りないものばかりと推定しています。

◯失言回避の勧め
 刮目天氏は、正史の一篇、僅か二千字の「倭人伝」後半部の些細な記事から棒大空想を展開している論者が多いのに呆れているでしょうが、氏ほどの大家は、史料を理解できない野次馬を相手に、現代若者口調に同調しない方が良いと思います。

 せめて、揚げ足を取られないように、ご自愛いただきたい。

              臣隆誠惶誠恐,頓首頓首,死罪死罪。

                               以上

2024年8月 2日 (金)

新・私の本棚 古田 武彦 九州王朝の歴史学 「国都方数千里」談義 四訂 1/2

 第四章 新唐書日本伝の史料批判  ミネルヴァ書房 2013年3月刊
私の見立て ★★★☆☆ 当記事範囲 功罪相半ばの卓見 2020/11/09
 改定2021/01/11 再訂 2021/01/12、01/31、07/22、2022/09/26 2024/04/13, 08/02

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

□はじめに
 本書は、章末に[注]、巻末に人名、事項索引を備え、専門書の体が整っています。学術書として十分な校訂を経ているという事です。なお、本稿は、1991年4月刊原著の復刊、確定稿の資料批判です。

◯一字の解釈考
 新唐書「日本伝」は、改国号記事の後、次のように書きます。(句点一部解除)
 使者不以情故疑焉又妄夸 其国都方数千里
 「東アジア民族史 2」(平凡社 東洋文庫 小林秀雄他 訳注)は「国都は、数千里四方であると誇大に偽っている」としていて、定説めいています。対して古田氏の読みは、(其国)「都(すべて)方数千里なり」で画期的です。

*誤解の是正 [概数表記割愛御免]
 (後世人にとって)自然に読めてしまう「国都」「方数千里」解釈は、すぐわかるように、文としての意味が通らず、途方もないのです。
 何しろ、正史として編纂された新唐書「日本伝」で、「国都」の所在地も城名も書かずに「方数千里」と広大さを語るのは、正史たる史書として法外です。「新唐書」は、個人の思いつきの産物でなく、衆知の結集ですから、本来、そのような不体裁はあり得ないのです。つまり、後世中国史家の句読が、「都」(すべて)錯誤に陥っているのです。
 加えて、東夷夷蛮の国の王の居処を、「国都」と尊称するのは、唐代としても、不敬の極みで、ここでも、解釈が齟齬しています。
 古典書を、「先入観に囚われて軽率に誤読する」のは、千年後生の無教養な東夷だけの特技ではないのです。

 是正は、「其国都」「方数千里」とする誤解を止め、「其国」「都方数千里」と正解します。つまり、「其国都」が「方数千里」』ではなく、『「其国」が「都(すべて)方数千里」』と読みなおすのが妥当で、以下、意味が通るのです。比較的意味の通りやすい「日本語」に飜訳するなら、「都合」とするところですが、「読み下し」では、限界を超えた感じもします。
 とはいえ、東夷が「国都」などと自称するのは、「自国」が「大唐」と対等だと反っくり返っていることになり、叱責を受けるべきものですが、中国側の鴻廬、つまり、異人受け入れ部門は、蛮夷の文書を取り次ぐ際には、原文のまま取り次げという指示でもあるようで、中国史書としては、異様に見えます。

 あえて、蛮夷が自称した「国都」を、国内史料風に国の「京都」(けいと)と解すると、例えば、平城京が、一辺数千里の正方形を満たしているという意味であり、鴻廬からすると、「おまえ、自分の言っている意味がわかっているのか」と言う事になりますが、来訪している行人、使節は、ただの子供の使いですから、返事のしようがないのです。まして、いや、これは、「国土」の書き間違いなどと言い逃れはできないのです、何しろ、国書には、国王の印璽が押されているから、一切、訂正できないのです。
 先賢諸兄姉から、その辺りの事情について、説明がないので、当否はともかく、素人考えでそのように解するしかないのです。

 何しろ、千年後生無教養な東夷と自覚して、その本能のままに「自然に」読むのでなく、丁寧に、其の「深意」を読み解く、高度に知性的な努力が必要なのです。

 そして、古田氏の採用した『「方里」が正方形一辺の里数を示している』とする「方里」解釈には、難があります。但し、話が長いので、別稿に譲ります。

◯舊唐書記事参照
 「舊唐書倭国伝」の「日本国条」は、「又云其国界、東西南北各数千里」であり、「方里」も「国都」も書かず、順当な記述です。編纂者の古典教養が偲ばれます。いくら、「蕃人の国書をそのまま取り次ぐべし」と言われても、物には限界があるのです。

 「舊唐書」を是正したと言う触れ込みの「新唐書」の「日本」伝が、冒頭の「東西五月行、南北三月行」の記事で矩形/方形領域を描きながら、天皇系譜記事と「日本」国号起源報告の後、面積表現として「方里」を申告したとしたら意図不明です。因みに、隋書では、俀国は道里を知らないと書いているのです。

*古典史書用語の復旧
 ここまで確認した限りでは、新唐書は、『漢魏晋の「方里」と「都」の規律を復旧した』と見えますが、理解した上で適確に再現したかどうかは、不明です。何しろ、後世句読で、時代最高の権威者が其の原則を失念しているのですから、あくまで、勝手とは言え、有力な仮説という事です。

*藩王に国都なし
 漢書以来の正統派正史は、漢蕃関係古制として、蕃王の居を「都」と称しません。
 国内の「王」治所を「都」と呼ぶことすらないから、遥か格下の蕃王、藩王が、其の居処を「都」と称するのは、死に値する僭越です。

 但し、西晋滅亡、中原喪失以降、つまり、漢蕃関係崩壊以後、北方蛮族から出て中原を占有した北魏、東魏、西魏、北周、北齊の北朝系王朝は、四夷は、ことごとく蛮夷たる自身の輩(ともがら)、共に「客」であったもの同士という共感からか、蕃王の居を「都」と称しましたが、全土を統一した隋、唐は、中華正統意識から、漢蕃関係を古制に復旧したようです。
 語義は著者の世界観に左右されるのです。従って、新唐書は、漢魏晋の「方里」と「都」で書かれているものと見えます。

*おことわり
 以上は、大変高度な審議なので、国内史料に長年慣れ親しんでいる方々には、俄に信じがたいかも知れませんが、当ブログ筆者たる当方は、こじつけや飛躍のない、順当な論考と考えています。また、後述するように、「倭人伝」の道里行程記事の明快な解釈に繋がるものです。

 以上、九章算術」及び関係論考、さらには、正史、ないしは準ずる史書である司馬遷「史記」大宛伝、班固「漢書」西域伝、袁宏「後漢紀」、魚豢「魏略」西戎伝、そして、范曄「後漢書」西域伝の関連記事を一応通読した上での「素人考え」の意見ですので、ご理解の上、反論があれば、具体的に指摘いただければ幸いです。

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