新・私の本棚

私の本棚の新展開です。主として、商用出版された『書籍』書評ですが、サイト記事の批評も登場します。

2026年2月10日 (火)

新・私の本棚 関川 尚功「考古学から見た邪馬台国大和説」 1/3 2026

 「畿内ではありえぬ邪馬台国」 梓書房 2020年9月刊
私の見立て 星四つ ★★★★☆ 自明事項の貴重な再確認 2021/10/06 補充 2022/03/13 2024/04/15 2026/02/10

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

◯はじめに
 本書は、長年、奈良県立橿原考古学研究所(以下、橿考研)で、纏向遺跡などの古代史蹟の古学研究に尽力された著者が、退職後上梓されたものです。
 本書は、従来、古代史学界において世上権威を有していた「邪馬台国」「纏向説」の背景を詳細に述べています。当説は、しばしば「畿内説」、「大和説」と称されますが、要は、いわゆる「邪馬台国」が、奈良盆地中部、中和纏向地区に、突如勃興、繁栄したとの独特の主張であり、本稿では「纏向説」と言う事にします。

*素人書評の弁
 本書に関しては、古田史学の会の古賀達也氏が、主催ブログに短評を付していますが、古賀氏の堅持している古田武彦師氏提唱の「九州説」視点から書かれているので、ここでは、なるべく「素人」の視点から論じてみます。
 なお、以下、特に付記しない限り、諸論見解は、本書に触発された素人意見で、当然、独善覚悟であり、諸兄に押しつける意図はないので、予めご承知頂きたい。当ブログが素人論断なのは自明ですが、とかく、罵倒のネタになるので、特に念押しするものです。
 なお、余談が長いのは、当ブログの基本方針(ポリシー)によります。ポリシー批判は、もしあっても「ご意見無用」とするので、了解頂きたい。

*橿考研理論背景の推定
 本書の核心となっている「橿考研」ですが、歴年の堅実、整然たる考察が、近年、一部の暴論の攪乱を受けていびつになった経緯が読み取れます。端的に言えば奈良盆地諸遺跡の発掘成果をもとに築き上げられた、精妙なペルシャ絨毯の如き壮麗な「世界像」を構築した比類なき考古学の業績は賛嘆すべきですが、それを述べると本書書評に入れないので割愛しました。
 考古学的議論において、庄内式土器の年代比定に伴う纏向遺跡の年代比定の動揺が、箸墓の年代比定に関する論議を巻き起こしたのは、「世界像」の一部、箸墓年代比定という特異点を、三世紀にずり上げたため、壮大な「世界像」全体に破綻を招いたと見え、それが一種の動乱と活写されています。あるいは、古代史論で人口に膾炙した「120年ずらし」を逆用したとも見え、大変、不吉な響きを禁じ得ません。

 もちろん、著者は、そうした動乱を通じて、「橿考研」所員、つまり、一方当事者でしたから、在職当時は、いわゆる「党議拘束」に縛られて、機関決定以外は外部に発言できなかったろうし、退職後の機関決定批判にも限界があるのでしょうが、関わり合いのない素人からすると不可解な点が多いのです。

*破綻の元凶~余談
 ここで、問題にしたいのは、かかる議論が、田中琢氏なる個人の提議によるものであり、橿考研が個人の強弁で変節したと思われる点です。
 別稿でも述べたように、高名と思われる田中琢氏は、石野博信氏の主催する講演会において、自身の専攻分野ではない中国史書の文献批判におて、根拠の無い、場違いな批判を強引に展開して「橿考研」が基礎としている「倭人伝」の信頼性を損壊する議論を進め、遺物考古学が文献考古学を破壊する「新説」を推進しています。
 さらには、講演会の主催者である石野氏を公開の場で罵倒したことが明記されています。

 当ブログ記事筆者の意見では、権威ある橿考研が、そのような錯綜した思考の持ち主の提言による箸墓年代比定説は、取り上げるべきではなかったと思われます。案ずるに、田中琢氏は、氏に求められている専攻分野の学説の確立に失敗していながら、「ブレない」強弁によって議論の結尾を撓めたようです。
 仄聞するところでは、陰の声として「橿考研」が「伏魔殿」などと後ろ指される原因であり、公的研究機関として、審問に曝されるべきです。
 いや、ここで述べた意見は、関川氏に向けたものでないことは、ご理解頂きたいものです。

                                未完

新・私の本棚 関川 尚功「考古学から見た邪馬台国大和説」2/3 2026

 「畿内ではありえぬ邪馬台国」 梓書房 2020年9月刊
私の見立て 星四つ ★★★★☆ 自明事項の貴重な再確認 2021/10/06 補充 2022/03/13 2024/04/15 2026/02/10

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*鍋釜論の低迷
 関連して、「鍋釜論」が解明されていません。纏向に全国各地の土器が、若干量集積されているようですが、これらは、各地からの移住者が持参したに違いないという決め込みです。私見では、「纏向」が、削り込み技法で製作した「鍋釜」を、高効率を売り物に各方面に交易品として送り出したのに対して、現地土器が環流したと見ます。
 個人的に好む表現として、好まれる「物」は足が生えていて、一人歩きすると見ています。つまり、各地の市で物々交換をくり返しながら、順送りで遠距離まで届けられたと見えるのです。月日がかかるにしても、別に納期が限られているわけではないし、賞味期限があるわけでもありません。それこそ、何年かけても「ダンナイ」、全く問題ないのです。

*無理な持参仮説
 いや、橿考研定説では、纏向出土の各地土器は、纏向に参上した各地行人が長い道中を持参したと見ていて、主従交流の証拠とみているようですが、これほど大柄で重く、また、纏向特産の薄肉土器と比べて、格別の特色もない各地土器が、いわば、海山越えて将来されたとは、信じがたいのです。また、身軽であることを信条とする行商人が、土器を担いで、海山越えて旅する図は戯画にもなりませんが、遠国からの旅人が、鍋釜を担いでやってくる戯画とどっこいどっこいです。

*時代錯誤の風潮
 後年、遠隔地から白布や干しアワビが税納されたようですが、それは、古代街道整備で道中安寧が保証されてからのことで、各地に大和への供物が徹底して地方官人が務めとして送り出す文書行政の制度が完備してからのことです。

 律令国家が成立した時代は、一片の木簡を荷札として隠岐のアワビが税衲されたと知られていますが、四百年の過去、文書も、律令法制もなく、古代街道もない時代、有力者が出向かないと献納を指示できなかった時代に、どのようなカラクリで土器収集ができたか、重大な謎ではないでしょうか。
 これもまた、遺物自体については異論はありません。考察があれこれ曲がるのは、一も二もなく(仮想)「古代国家」に、こじつけるからです。

 筋の通った(reasonableな)仮説として、各地特産物の上納の初期例として、纏向製薄肉土器の交換として、各地土器に特産物を詰めて還送したと見えるのですが、どうでしょうか。いずれの「物々交換」でも、対面取引で互いに等価だと合意/納得して、初めて物々交換が行われたはずです。何もないのに、各地産物が一人歩きしてくるとみるより筋の通った(reasonableな)仮説 でしょう。

*庄内式土器私論
 以下、本書で提言されている庄内式土器の年代記を見ると、同形式の特徴である内面研ぎ上げによる薄壁、丸底の薄肉土器は、奈良盆地内で創出されたものではないようです。西方、恐らく吉備圏から到来した土器技術者が、まず、河内湾岸から南河内丘陵部で窯元となって、薄肉土器を周辺に送り出して、その特性によって、天下[当時で言うと、精々、吉備、河内、中和(大和中部)程度]銘品との定評を勝ちえたようです。
 その後、有力な技術者が分家して奈良盆地内に移住し、そこで、盆地内の諸集落に薄肉土器を送り出したが、初期は、周辺地域に限られ、長年を経て、何かの契機で、奈良盆地を要とした東の伊勢方面、西の河内平野、そして北の淀川水系への送り出しが増加したと見えます。何しろ、クチコミしかないのですから、売り込みできる範囲は、大変限定されていたのです。

 特に、当初、纏向を発した「もの」は、盆地北部に偏在していたため、なら盆地の在地勢力を超えて、なら山を越えた木津水系を経て淀川の河川運送にいたる主力経路に届かなかったため、盆地壺中天に囚われたと見えます。

*年代鑑定「お手盛り」疑惑
 因みに、庄内式土器の年代比定は、かの田中琢氏の本業であるから、本来は、正当な学問の成果と思いますが、以後の「橿考研」年代解釈が大分撓んでいるので、起点部分にまで疑いの目を向けたくなるのです。

                                未完

新・私の本棚 関川 尚功「考古学から見た邪馬台国大和説」 3/3 2026

 「畿内ではありえぬ邪馬台国」 梓書房 2020年9月刊
私の見立て 星四つ ★★★★☆ 自明事項の貴重な再確認 2021/10/06 補充 2022/03/13 2024/04/15 2026/02/10

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*試行錯誤の伝説
 一体に、「考古学」の諸兄姉は、どこかで「技術革新」が発生したら、たちまち「全国」に模倣追随が広がると決め込んでいますが、そのような安直な発想は、氏ほどの名声の方にふさわしくない、重大な時代錯誤であり、つまらない事実誤認です。

 土器内面を削る庄内土器の斬新な技法と雖も、完成までに失敗例が山積した過程があり、厖大な失敗から学んだ技術者が、土器技法を完成したはずです。後世、「失敗を乗り越えた成功技法」を「ノウハウ」と珍重しましたが、要は、試行錯誤を無用なものとするから「ノウハウ」伝授は貴重なのです。そのような「ノウハウ」は五年や十年では習得できず、長期の徒弟修行を経て口伝で習得するから、分家して別天地で開業するには、随分随分、年月を要するのです。
 と言うことで、画期的、革新的な新技術が広がるには、とても大変な時間がかかるのです。橿考研が空論を広げているのは、実務寄りの考察を進める人材に欠けるためだと見て苦言するのです。史料の素人解釈だけが祖伝ではないのです。

*文書考証の欠落
 続いて、国内古代史「考古学」の分野で軽んじられている中国史料の考証です。氏の専門分野外なのか、「倭人伝」解釈が風説引用に陥っているのは残念です。特に、無理やりのこじつけが目立つのに、疑問を呈していないのは、残念です。
 いわゆる「史料批判」なる手順は、中国史料自体の信頼性や具体的な記事の信頼性を問う手法ですが、国内では、関川氏もとらわれている「誤解」「思い込み」が出回っていて、本書でも、肝心の考察をはなから取り崩しているのです。

 「史料批判」の前提としては、検証済みの基本資料、いわば、測定原器があって、当該史料の内容をこれに当てて審議していくはずなのですが、橿考研が一翼を担っている国内史学界の「定説」、「通説」論義では、そのような前提は一切確立されていないと見えるのです。つまり、その場その場の場当たりの「感想」で、言ったもん勝ちの議論を推し進めていると見えるのです。

*文献否定の不調~晩節の課題
 本題に入ると、氏を含む先賢諸兄姉は、「魏志倭人伝」(倭人伝)なる中国史料に、学問的な意義のない、単に、無節操な「批判のための批判」を浴びせます。大抵は、先人の「一刀両断」の蛮勇に無批判で追従しているのですから、何も新たな知見が付け加えられているものでなく、素人目にも、「倭人伝」は当時唯一無二の史料として尊重すべきであるにも拘わらず、素人考え並みに、明確な根拠無しに否定論を述べ立てる発言者に対しては、信頼を置くことができないのです。

 端から行くと、一級史料たる「倭人伝」に「邪馬壹国」と明記されているにも拘わらず、根拠不十分な異論を言い立てて「邪馬臺国」と無法にも改竄しています。根拠なき改竄は学会ぐるみの悪習であり、史料偽造に等しい暴挙であり、氏は、かかる非学問的な学会風俗に同調しています。
 従って、「倭人伝」不信論調に従い、原文改竄、後代創作している第Ⅷ章には、全く信を置けません。
 氏は、文献史料に基づく「考古」をどう捉えているのか、大変歯切れが悪いのですが、「邪馬壹国」否定論は、厳しい反論を避けて通れないと思います。見てみないふりの「逃げるが勝ち」は、論争敗者の最後の隠れ家であって、現場から逃れてもしっぽが見えています。いや、以上は、関川氏の職歴上、不可侵なのでしょうが、そのために氏の考古学「晩節」は、浄められていないのです。

*史学における本末転倒
 纏向論者は、纏向論者向け特製「倭人伝」を用い、他人事ならず、心地良いほど纏向論に合っているとご自慢と見えます。所詮、「倭人伝」は、纏向論にしては、枝葉末節史料であり、その程度の自己完結で結構として、本当にそれでいいのでしょうか。
 古来、名刀は、鎚に打たれ、火と水の試錬を経て、名刀になるのであり、小手先でこね上げて温存される安直な造形物ではありません。
 氏が、田中琢氏の本末転倒『「倭人伝」全否定論』に毒されてなければ幸いです。

*まとめ
 以上、氏の著書の書評は、ほんの切り口であって、氏が、専門外の文書考証で、杜撰な先賢諸兄姉に無批判に追随したことは、ここでは、主たる批判対象ではありません。ご自身が気づいてご自身が姿勢を正すべきなのです。

以上

2026年2月 9日 (月)

新・私の本棚 番外 NHK BSP「邪馬台国サミット2021」 1/3 2026

[BSプレミアム]2021年1月1日 午後7:00, 【再放送】 5月30日 午後0:00,12月27日 午前9:14
私の見立て 星一つ ★☆☆☆☆ 公共放送の浪費と徒労 諸行無常~百年河清を待つ 2021/05/24 補充 2021/12/27 2023/01/16 2024/12/11 2026/02/09

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*NHK番組紹介引用 2021/12/27現在
番組内容 日本史最大の謎のひとつ邪馬台国。どこにあったのか?卑弥呼とは何者か?第一線で活躍する研究者が一堂に会し、最新の証拠や資料をもとに自説をぶつけ合う歴史激論バトル。
出演者ほか 【司会】爆笑問題,【解説】本郷和人,【出演】石野博信,上野祥史,片岡宏二,倉本一宏,佐古和枝,高島忠平,寺沢薫,福永伸哉,柳田康雄,渡邉義浩
「NHKオンデマンドで配信中」

*追記:
 当番組は、2021年12月27日に再放送されたので、再確認の上で、「異論」編を補充とし、「新総集」として公開しました。

*はじめに~重複御免
 NHKの古代史(三世紀)番組の前作は、司会者が揃って素人風で、加えて素人論者の乱暴なコメント連発で幻滅したのです。その後、民間放送の番組が、広く取材した司会者のコメントに感心したものです。一方、NHKの当番組は、年々歳々の使い回しでげんなりしていましたが、このたび、ようやく新作にお目にかかりました。

 今回の番組も、毎度ながら、背景に倭人伝刊本を見せつつ「邪馬壹国」、「壹与」を「邪馬台国」、「台与」と、ほぼ無断で決め付ける陳腐な手口に幻滅します。また、魏使来訪が海上大迂回で、時代考証は大丈夫かと思うのです。基礎固めが、毎度疎(おろそ)かで、出だしから脚もと乱雑では、前途多難です。

 番組は、こうした不吉な序奏から意外に冷静な論議となり順当な展開でした。前作は、纏向広報担当風で、当ブログの批判がきつくなっていたのです。と言いつつ、以下書き連ねていったところが、別稿の速報記事とかなり重複してしまったのは、反省していますが、今となっては、改善しようがないので記事重複は、ご勘弁ください。

*総評
 纏向論への異論の大方は、誇大で独善的な纏向論がそう言わせるのです。
 論者の意見が順次提示されましたが、九州説は、ゆったり無理なく紹介されていて、堅実な考察と思わせ、ことさら批判するに及ばないと思ったのです。これに対して、纏向論者は、前作を越えた強引な論法で、そんなに無理するなよと言う感じでした。

 論者の提言に噛みついて、(私見に過ぎない)「卑弥呼」、「箸墓」、「台与」の年代比定は既に確立されているとの高言(虚言)は、むしろ滑稽でした。そもそも、一応、倭人伝記事から、ある程度の期間内に推測/憶測できる「卑弥呼」はともかくとして、「箸墓」は「倭人伝」に於いて、何ら特定されていない「亡霊」であり、「台与」は、「邪馬臺国」にこじつけて、勝手に改竄した人名でしかありません。
 纏向説論者は、そのように、手前勝手に書き換えた「倭人伝」を奉じているから、そう言い切れるのでしょうが、それは、史学の道を外れています。

 それにしても、纏向論が学術的に確立/尊敬されていたら、この場で今さら高言する必要はないのです。議論で声を荒げるのは、大抵「窮鼠猫を噛む」局面なので、ここでもあからさまに自滅しているのです。

 「考古学の財産は、遺物、遺跡の考証に基づく堅実な考察であり、遺跡、遺物に文字記録を伴わないから、時代比定は、大変不確実であり、不用意に文書資料を取り込むと学術考証に歪みが生じる」というのが、先賢の戒めと思うのですが、ここは、自説絶対で、外野の干渉は許さない」という唯我独尊では、論争にならず、子供の口喧嘩のようなバトルです。何しろ、同時代唯一の文書記録「倭人伝」を、纏向説に合うように、自在に書き換えているのですから、天下無敵の確信でもって、強弁できると過信しているのでしょう

 素人目には、「我田引水」の「倭人伝」解釈に引き摺られて考古学の考察を撓めている感じが拭えません。『纏向風「倭人伝」』は、かつては、古代史学界の先哲の築いた基礎に選りすぐりの英傑が築き上げた楼閣/結構だったのですが、今や、転進を許されない不退転/頑迷な道標と化しているようです。

*高価なイリュージョン展開
 今回、NHKご自慢の子供だましの「ビジュアル」は控え目で、填め込まれた纏向遺跡の「再現」動画を見ましたが、伝統的画餅「イリュージョン」(詐話)蒸し返しと見えます。自説の図式を押し通すに急で、背景考証なしに眩術を駆使するのに、健全な納税者/視聴者としては賛成できないのです。そんな費用があったら、高給取りの関係者に引退いただいて、其の分、地道な時代考証に努めてほしいものです。

*運河曳き船の戯画
 例えば、堂々たる運河で両岸から荷船を曳く図は、実質のない画餅です。海岸からここまでの長い道中、船体もろとも、大量の船荷をどうやって運び上げたのか、どのように船荷を捌いたのか、帰り船には何を積んだのか、実質を語る丁寧な考察の裏付けが無ければ、結局、児戯、画餅です。多額の国費を費やして虚構を捏造して、誰に何を訴えたいのでしょうか。大して国家財政に貢献できていない少額納税者ですが、この有り様を見ると、勿体ない出費と歎くのです。

 丁寧に言うと、河内湾岸から纏向まで、描かれたような荷船を乗り入れる術は、一切なかったと思われます。特に、大和川の蛇行した急流を、どんな手立てで漕ぎ上がったのか、実質のある動画で拝見したいものです。河内湾岸に、どこから、どんな手段で、大量の船荷が届いたのかも不審です。当時、瀬戸内海航路は、至る所難所だらけで、大型の帆船で往来するなど到底できなかったと見るものです。
 最後に、どうにも説明のつかない難点で止めを刺すと、奈良盆地内の山際の傾斜地に堂々たる「運河」を引いて、降水量の乏しい地で、荷船をたたえるだけの水流を確保しつつ、特に何のしかけもなく川船が上下するのも、極めて高度な土木技術の産物と見えるのですが、何も表現されていなくて、これらの詰めがされていないままに、ポンチ「絵」を公開するのは、見当違いの技術投資でしょう。
 念のため言うと、「運河」は、高低差のない地点を、僅かな傾斜を維持した水路で結ぶものであり、高低差のある地点間を結ぶものではないのです。当然、水路の掘削にあたっては、精密な水準器を用意して、所定の傾斜を維持する必要があるのです。
 灌漑用水路と兼用するなら、分水の仕掛けが必要ですが、それは、運河用水の保水目的に反するのです。そんな、高度の水路設計、施工が、どうして、奈良盆地に一時的に実現したのか、不可解です。
 運河は、実験航海しなくても、無理とわかる不可能使命なので、誰も止めなかったのが不思議です。

*「都会」幻想
 言い方を少し変えると、文書行政が確立され、街道網が構築された、七,八世紀の「古代国家」ならともかく、三世紀当時、市糴、交易で物資を移動していたとすると、どんな仕掛けで海港から山中まで運ばせたのでしょうか。
 古代とは言え、「経済的」に、物流、交通の要(かなめ)で無ければ、国の市は繁栄しないのです。
 中国でも、繁栄した市(都会)は、河川、海岸沿いか、陸上交通の要路か、さらには、両者の得失を兼ね備えた土地です。
 漢書で言う「一都会」は、一つに「都」(すべて)「会」するとの趣旨ですが、山間の壺中天であった纏向は、交通の要路ではないので、「一都会 」として栄えたと聞いたことはありません。

 大量の物資が集散したのなら、大量の遺物が残っているはずであり、そもそも、そのような運河まで敷いた「一都會」を棄てて、船便の成立していない飛鳥や平城宮に、王の居所が移動するはずがないのです。
 

                                未完

新・私の本棚 番外 NHK BSP「邪馬台国サミット2021」 2/3 2026

[BSプレミアム]2021年1月1日 午後7:00, 【再放送】 5月30日 午後0:00,12月27日 午前9:14
私の見立て 星一つ ★☆☆☆☆ 公共放送の浪費と徒労 諸行無常~百年河清を待つ 2021/05/24 補充 2021/12/27 2023/01/16 2024/12/11 2026/02/09

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*「自虐論」始末記
 ここで言う「自虐」論は、纏向論者が纏向絶倫と認めない九州論者に浴びせた罵倒、自爆です。というものの、勝てない論争で不敗の戦略として通用している「挑発して相手の感情を刺激し、泥仕合の罵り合いに持ち込む子供の口喧嘩戦法」に、大人は乗らないのです。
 「自爆」は、論議に窮した焦りを暴露するのです。箴言をもじると「暴言は無能な論者の最後の隠れ家」。自滅の手前と言えます。
 視聴者が、このような乱暴な決めつけに賛成すると見くびっているのでしょうか。

*文学表現の曲解
 続いて提出された、乱暴でくたびれた俗説「白髪三千里」は、無風流な浅知恵です。

 李白は、漢詩三千年の史上最高の詩人であり、気宇壮大な比喩は、現実を大きく離れ感動を誘うのです。白髪三尺などと、陳腐な戯言と次元が違うのです。それとも、評者は、李白の上を行く芸術家でしょうか。奇特です。
 普通、そのような芸術性を「誇張」と感じるのは、「感性の貧困」です。李白と現代の俗物の背比べなど、見たくもありません。

 いや、どんな俗物でも、「この表現は明らかに詩的比喩であり史学的発言でない」位は、それなりに理解できるはずです。とことん場違いでしょう。古代史学の先賢が、中国文化蔑視のために、無理矢理理屈を捻り出した言い出したことで、いくら師匠直伝の伝家の宝刀でも、無批判に追従しない方が良いでしょう。先賢の恥を蒸し返すのは、恥の上塗りで引き倒しているのであり、勿体ないと見えます。

*軍人功名談の愚例
 「戦果十倍誇張」は史書表現ですが、史書では、論外の愚行としてあげられていて、参考にも何にもなりません。これは、曹魏皇帝文帝曹丕の警鐘であって、「軍人の手柄話では騙されないぞ」と釘を刺しているのです。

 軍功はクビの数ですから、十倍誇張で十倍の褒賞が帰ってきますが、新来蛮夷に関して、道里、戸数を誇張して、何の報いがあるのでしょうか。直にばれるウソなど、悪くすると、虚言の廉で(本当に)「首が飛ぶ」のです。軍人は、多くの試練を経て将たる地位を得るから、安直な誇張はしないのです。まして、魏使/帯方郡使は、一切戦果を求められていないから、この手の誇張はあり得ないのです。

 特に、文帝曹丕は、武帝曹操の布いた厳格な軍規を継いでいて、なまくらな皇帝ではありませんから、薄汚い功名稼ぎのおおぼらは通用しないのです。あるいは、論者は、遼東公孫氏を郡高官もろとも殺戮した司馬懿に筆誅を加えているつもりかも知れませんが、司馬懿は、現地に、遼東郡の死者の「京観」を築いて軍功を公開したのですから、方向違いと言うべきでしょう。

*くたびれた「定番」の去るべき時
 この二件は、纏向説論者の好む、「定番」の古典的罵倒表現でしょうが、外界で通用するものではないので、何れかの世代で棄却すべき負の遺産でしょう。同学の先師の旧説の中で、安直な比喩(大抵は誤解)余談は、学問の世界では進歩に取り残された遺物、「レジェンド」となりかねないので更新されるべきです。

 子供に言い聞かせるようで恐縮なのですが、倭人に至る道里と倭人の戸数は、景初倭使を帯方郡に呼びつけ、洛陽に参上せよと指示する前提として、洛陽鴻臚寺が、時の皇帝曹叡に報告したものであり、正始魏使の帰国報告など無関係です。また、司馬懿は帯方郡の回収、皇帝直属配置に関与しなかったので、これまた無関係です。まして、西晋の陳寿の知るところでもありません。
 纏向関係者は、文献解釈、魏志文献読解に、とことん疎いので、改竄し放題なのでしょうが、NHK関係者が気づかないでいるために、事ごとに「定番」として蒸し返しされるのは、何とも情けないところです。

 と言うことで、当番組では、新証拠が展開されると期待したのですが、使い古した年代物の詭弁連発でした。回の纏向論は、先進の気概の乏しい人材編成で随分損をした感じです。こうした前世紀定番の蒸し直ししか出せないのであれば、番組の時間浪費と思うのです。NHKが「とどめ」を刺してあげるのが、武士の情けというものでしょう。
 早急に「纏向邪馬台国」の存亡をかけて、世に問うべき「新説」を創出すべきではないでしょうか。それが、「纏向邪馬台国」の晩節を飾るものと思います。定番抗弁が「絶滅危惧種」に名を連ねないうちに、潔くすべきです。

 因みに、当ブログ筆者は、倭人伝が正確無比な記録文書だと言っているのではないのです。むしろ、入念極まる推敲を重ねた高度な「創作」文書であると信じています。

 この点は、登場した渡邉氏の表現が正鵠を得ています。陳寿は、読者たる西晋皇帝などの当代知識人に理解できる用語、表現を凝らして「倭人」伝を書き上げたのであり、そのために現代人には理解できない婉曲な表現になっても、それは「倭人伝」の本質なので、現代人が文句を言っても仕方ないのです。陳寿の綴った「設問」の真意を理解できない「落第者」が、門前山を成しているようですが、このように簡単に「降参」して、二千年を経た「問題集」を「落第者」流に書き換えるのは、視聴者に醜態をさらしていることになるのです。
 何とか、「思い込み」を棄て虚心で「倭人伝」世界に入門してほしいものです。

*闇談合露呈
 まして、収録終了後「オフレコで言いたい放題言い合おう」などとは、闇談合で抱き込もうとの、さもしい根性でもないのでしょうが、「歴史を夜作る」のは、良い加減にしてもらいたいものです。視聴者が見ているのです。

 それにしても、「爆問」が最後に小声で漏らした総括は「史料の原文に戻って、最初から丁寧に考えなおした方が良い」という趣旨のようで、冷静で控え目でした。それが、入門を目指す「倭人伝素人」の採るべき(唯一の)道なのです。

 纏向論者は、抜群の知性と豊富な学識を正しい方向に駆使して、陳寿が「倭人伝」で描いた「倭人」世界像の理解に勉めるのが本務であり、視聴者、納税者に対する義務のように思うのです。

                              未完

新・私の本棚 番外 NHK BSP「邪馬台国サミット2021」 3/3 2026

[BSプレミアム]2021年1月1日 午後7:00, 【再放送】 5月30日 午後0:00,12月27日 午前9:14
私の見立て 星一つ ★☆☆☆☆ 公共放送の浪費と徒労 諸行無常~百年河清を待つ 2021/05/24 補充 2021/12/27 2023/01/16 2024/12/11 2026/02/09

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*殿、ご乱心~出所不明史料の怪、また怪
 今回の番組で、何とも重症なのは、三国志学首魁渡邊義浩氏の「暴挙とも見える」「ご教授」です。折角、新説の疎漏を指摘する至言があったのに、このたびは、愚劣な発言になっています。勿体ないことです。

 正史の一章であり、文書史料として、この上なく良質に維持されている「倭人伝」の史料考証で、正史どころか、史書でもない、佚文と云うより、文書としての質が劣悪な断簡しかない後代文芸書である「翰苑」を持ち出すのは、度しがたい場違いです。

 そして、この場では、論義されている「会稽東治東」ならぬ「会稽東冶東」の史料影印が、出所不明で投げ出されたのです。
 紹興本、紹熙本、汲古閣本、武英殿本、さらには、書陵部所蔵本まで確認しても「会稽東冶」と書いた魏志刊本は存在しないのです。それぞれ、刊本、つまり、それぞれ木版印刷本(刊本)ですから、個体差はなく、全て「東治」です。氏の提示史料は、どこで見つけたのか、その場では不明です。(不意打ち、闇討ちという事です)

 もっとも、このような異論の持ち出しは、「爆笑問題」ならぬ、古田武彦氏ばりの渡邊義浩氏「爆弾発言」で、これはまことに勿体ないことです。氏は、太鼓持ち気質なのでしょうか。

 因みに、「会稽東治」でなく「会稽東冶」だと主張しても、何一つ変わらないのです。

*「中華書局本」の闇討ち
 散々調べた後で、『諸刊本で「東治」と一致して明示されている「東治」が「中華書局本」で、なぜか「東冶」と「改竄」された』らしいとわかったのです。しかし、現代新作の異本ですから、それ以前は誰も知らないのです。

 また、部分拡大されると、何のことかわからないのです。たかが一史料にその通り書かれていると、このような低次元の提示を頂かなくても、氏がそのように主張すれば十分なのです。

 ともあれ、素人論者は、番組の流れで、不意打ちで表示されたら、史料出所に気づかないので、新発見かと思うのです。それにしても、史料の選択、表示に関する渡邉氏の判断は、どうなっているのでしょうか。
 NHKの制作方針も、一段と不審です。出演者の発言は、「ファクトチェック」無しで、言いたい放題にさせるのでしょうか。まるで、闇仕合です。

*「翰苑」史料批判の齟齬
 私見では、当時存在の「魏志」写本に会稽「東治」と明記されたものを、「翰苑」編者が単に「会稽」としたのは、世上、「東冶」に誤解する読者があって、無用な誤解を排除するため「東治」を削除したとも見えます。
 いや、単に、「翰苑」編者の手元に、誤写された所引が届いた可能性が濃厚です。そもそも、「翰苑」現存写本が、どの程度、「翰苑」原本を再現しているのかも、不明です。何しろ古代史学界で蔓延している「戯言」に追従すると、『「翰苑」原本は現存せず、「翰苑」原本を見た人間も、現存していない』のです。そして、「翰苑」現存断簡は、誤写、誤記、書き間違いが多発している「札付きのダメ史料」なのです。 

 「東治之山」の由来と見える「水経注」などの記事でも、禹后が会稽した山である会稽「東治之山」が、しばしば「東冶之山」と誤記されている史料があるから、古来、誤解の的です。

 ということで、「翰苑」は「東冶」「東治」のいずれかを正当化する史料ではありません。渡邉氏は、現代史料である「中華書局本」を持ち出して南宋刊本に反する「東冶」を正当化したのですが、本件は、一級史料と確立されている「倭人伝」を、不良資料で覆すという論外の暴挙であり、渡邉氏ほどの史学者としては、とびきりの愚行と思われます。

 氏は、陳寿「三国志」と袁宏「後漢紀」以外の史書は、本気で読み込んでいないのでしょうか。いや、筆が滑りましたが、渡邉氏は、范曄「後漢書」の権威でもあります。

*ついでの話
 別件ですが、氏の「黥面文身」解釈は、軽薄で的外れと見えます。「黥面」「文身」は、それぞれ、切り分けて慎重に考証する必要があります。図版の無い倭人伝の解釈に対して、出所不明の図版や年代、地域で繋がらない遺物を起用するのは不審です。
 当ブログ筆者は、一次資料に基づく仮説は、それなりに尊重しますが、出所、根拠不明の風説資料に基づく思い付きには、疑問を呈するものです。
 氏が堂々とぶち上げる論議が、不審を感じさせます。例えば、三世紀当時、倭で広く行われた黥面が、日本史で蔑視されているのは、どういうことでしょうか。因みに、中国で、顔面に黥するのは、罪人の徴とされていたのです。
 何れかの時点で、制度が変わったのなら、旧制の貴人が罪人となるので、歴史的画期的大事件ですが、そのような記録は残っているのでしょうか。まことに、不審です。

 また、倭人伝記事にある黥面文身の「水人」は、纏向では存在し得ないと思います。内陸の奈良盆地で、大量の魚鰻をどうやって捕らえたのか。いや、別に、氏が畿内説と決め付けてはありませんが、それほど力を入れるのであれば、説明が必要と思うのです。

 それとも、氏は、中国史書専任で、国内史書には一切言及しないと談合していたのでしょうか。うさん臭い話です。

 と言うことで、氏の問題発言としては、「史官嫌い」の次は、「お手盛り史料」ですが、世人が、渡邉氏に求めているのは、「香具師」紛いのはったりではないのです。視聴者は、氏ほどの学識・知識は持っていませんが、素人を侮るのは感心しないのです。

〇お仕舞い
 今回の「バトル」に直接関係はしないのですが、論争に適確な審判役がいないのも、この分野に泥沼の「バトル」が持続する原因と思えるのです。

*碩学の晩節~取りこぼし補充 2023/01/16
 一番印象に残っているのは、最後に、纏向博士の石野御大(石野博信師)が「レジェンド」(博物館財貨)の立場から、静謐な託宣を垂れていたことです。
 当コメントは、氏の晩節を飾る明言と思うので、さらりと紹介すると、『「倭人伝」に書かれているという「邪馬台国」の所在について論議するのはこの辺にして、歴史を語ろうではないか』というものだと思うのです。
 纏向出土の土器も、「全国各地から持参された」などの年代物のこじつけ議論を去って、吉備から持参、あるいは、将来されたかと、穏当な推定はありがたいのです。

 それまで、「談合」とか「大乱」とか、それこそ、治にあって乱を求める議論が漂っていましたが、氏の齎した柄杓一杯の水で、全て鎮火した感じです。ただし、後進の方は、石野氏の木鐸を担うのは、自分たちだと自負して新たな火種を掻き立てていたようです。

 後継者諸兄姉も、三世紀における倭国広域連合「古代国家」の白日夢を卒業して時代相応の考察を進めるべきではないでしょうか。今からでも遅くないと思うのです。もっとも、ただの素人がここでいくら提唱しても、何の効果もないのでしょうが

*悔いのない報道
 それにしても、NHKがなぜ当番組を「サミット」と呼んだのかも不審です。素人目には、「倭人伝」に関しては、「原典派」と「改竄派」の二派しかないように見えるのです。そして、一見与党、実は野党の「改竄派」は、『「邪馬臺国」と書かれた「倭人伝」が絶無である』という負の物証が、鉄壁のように聳えているものを、変則的な文献史料考証という「超絶技巧」で迂回してみせる必要があるのです。
 これに対して、一見野党の「原典派」は、確たる史料である「倭人伝」に立脚しているから、特に「超絶技巧」は必要ないのです。

 端から勝負は決まっているのに、理屈の通らない異論を唱えて、これを覆そうとするのは、どこぞの世界の寓話のようです。

 NHKは、長年、「変則的な」「超絶技巧」に荷担していますが、それで報道機関として、公共放送として、何の悔いもないのでしょうか。勿体ないことです。
                             この項完

*追記 2026/02/09
 近来のNHK古代史番組を見ると、「歴博」教授などの強力な圧力に屈して、大きく撓んでいるように見えます。聞くところでは、NHK内部では、「邪馬台国」 偏向に同意していない方もいらっしゃるようですが、トップダウンの流れなのか、恥知らずとも見える造作が目立つようです。

 どうか、濁流が世に蔓延る「ブラック」事態は、自然消滅してほしいものです。当方の支払う受信料は、微々たるものですが、自己の信念・意見を表明する権利は放棄できないのです。

以上

新・私の本棚 山下 壽文 「末羅国伊都国間の道程を巡る諸説の検討」2026増補

 ~唐津平野の地形を中心として 季刊 邪馬台国 142号 投稿記事 令和四年八月一日
 私の見立て  星二つ ★★☆☆☆ 好記事といえど、難多し     2022/09/15 改訂 2023/08/30

◯総評
 本稿は、現代の精緻な地理識で「倭人伝」を批判する方針で丁寧に論じられたことに敬意を表するが、当方の「道里行程記事」解釈と意見が別れ、一言批判する。なお、本稿は「投稿記事」であり、編集部見解と輻輳するかも知れない。
 なお、後記するように、当稿は、氏の「道程」論本体部分に干渉するものではない。

*通説、異説の取り扱い
 「はじめに」で、「倭人伝」末羅条の「東南陸行五百里到伊都国」の道里に対して、「水行」と読む異説(風評か)が紹介されている。氏は、慎重に、「陸行」「通説」ながら「道程」に「陸行」と「水行」の両論があるとしている。
 この際の「通説」は、「倭人伝」原史料に基づく、厳正な「定説」であり、これに「異説」を唱えるには、厳格な自己検証が不可欠なのである。
 にもかかわらず、山下氏は、出典を明らかにしない風聞を提示して、論義を開始している。これは、論考の根底を踏み外しているが、季刊「邪馬台国」氏は、安本美典氏の「誌是」に反して、無審査で掲載しているようである。もったいないことである。これでは、山下氏が、児戯に類する雑文を投稿したことになり、氏の名声を損なうと見える。

*合理的な解釈訴求
 末羅条記事は、『末羅に至る三度の渡海「水行」から、末羅で陸行に復元した』と明記しているにも拘わらず、「陸行」は改竄であるとの、誠に稚拙極まりない思いつきであり、一考に値しないと見える。西晋史官陳寿が、慎重な推敲を経た「倭人伝」 記事を「水行」と読む「異説」は、「説」に足りない「憶測」であり、はなから棄却である。
 「倭人伝」は、中国史書の道里記事で空前の「水行」を「大海中の洲島を渡海し伝い行く」例外的用語と定義したのであり、末羅が「伊都と隔絶した海島」と書かれていない上に、「さらに海を渡ると書いていない」以上、ここに「水行」が出る幕は金輪際無いことは、一字書換で済まないのである。「水」「陸」は、随分字形が違い、それは略字でも容易に識別されたはずであるから、子供でない限り、誤写しないのである。

 氏は、現代日本人が「憶測」で倭人伝記事を覆すことの愚を歎いておられるので、この点以外では、堅実な考察を進めていただけるものと思う。なお、「異説」を「さかな」にしたと見える道程地図論は、山下氏を非難するためではないので、当論の圏外である。

*即決の勧め~同感と不同意
 無効な見解を即決せず審議を重ねるのは、氏の見識に勿体ないと思う。
 「おわりに」で逡巡の背景をみると、氏は、倭人伝道里を直線的と決め込んだために、いずれも不合理と頓挫、苦吟しているようである。
 率爾ながら、「伊都から女王まで水行十日陸行一月」との素人目にも「不合理な通説」に固執せず、柔軟な視野で読みなおすようお勧めする。何か得るものがあるはずである。
 「倭人伝」論で、「通説」は「浅慮の旧弊」の同義語、骨董品、「レジェンド」なので、ちゃんと「壊れ物」扱いして頂きたいものである。

*用語の時代錯誤~定番の苦言
 因みに、氏は、「道程」と暢気に書いているが、砂浜は「道」や「禽鹿径」ではない。タイトルで、きっちり底が抜けている。因みに、「道程」は、「中国哲學書電子化計劃」のテキスト検索では、唐代「白居易」漢詩だけで、魏晋代には存在しなかったと見える。これでは、タイトル審査で落第、ゴミ箱直行である。

 魏志「倭人伝」は、三世紀中国人著作物であり、真意を解読するには、まずは、現代日本人の「辞書」を脇にどけて挑む必要がある。氏の一助になれば幸いである。

*「魏船」来航幻想~無視された無理難題
 氏は、魏使が、自前の船舶で末羅に来航したと決め込んでいるが検証済みだろうか。
 山東半島から帯方郡の海津(渡し場)までは、騙し騙し軽微な便船でこなしたとしても、遙か末羅まで、海図も寄港地案内も、何も頼るものもない、絶海、未踏の行程をどう解決したか、慎重に検証して欲しいものである。もちろん、「騙し騙し」は、冗談であって、迚も迚も、「自前の船舶」、つまり、海域に不似合いで、水先案内の着いていない異国の船舶は、死にに行くようなものである。

 何しろ、「倭人伝」には「狗邪韓国の海岸に出て、初めて海を渡った(水行した)」としか書いていないのである。何か、夢でも見ているのだろうか。

                                以上

追記:2023/08/30
 今回読みなおして、氏の真意を探り直したのであるが、所詮、氏の素人考えを古来の「素人考え」なる「通説」と対比して論じているようにしか見えないのである。当ブログは、「通説」を世上俗耳に訴えている「俗説」と同義語扱いしていて、本来の「定説」が霞んでいるが、依拠文献である「倭人伝」の正当な解釈が、「俗説」と同列に扱われているのは、何とももったいないのである。

 つまり、倭人伝の冒頭に展開されている「道里行程」記事は、中原政権である魏が、麾下の帯方郡から、新参の東夷である倭に至る行程を公認したものであり、世上誤解されているように、魏使の訪倭記を書き留めたものではないのは、明らかである。要するに、「道里行程」記事の主部は、魏明帝が派遣した魏使について、所要日数を明示したものであり、六倍にも達しようという道里の誇張など、本来あり得ないのであるし、所要日数の見積もりは、最大この程度かかる、という想定であり、これは、帯方郡に確認させれば、せいぜい数ヵ月で確認できるので、大幅な誇張などあり得ないのである。誇張して露見すれば、関係者一同、馘首死罪であるから、妥当な日数なのである。

 また、道中で、狗邪韓国から三度の渡海が特記されているが、この間は、並行した陸上街道がないので、それぞれ、陸上街道で一千里と見立てたものまで有るから、末羅国から、始めて「陸行」された以上、伊都国までは、陸続きなのが明記されているのである。この点を偽っても、何の効用もないから、偽りないものと見るべきなのである。

 さて、氏は、そのように確定した末羅国~伊都国行程に関して、なぜか「倭人伝」記事に反する「水行」を想定し、海面上昇などの異次元要素を持ち込んで「倭人伝」の誤記だとする「異説」の支持を図っているのである。しかし、これは、論証の存在しない「思いつき」に反応しているものであり、方向違いなのである。つまり、資料解釈を覆すには、採りよう、つまり「倭人伝」を克服する確定知りようがなければならないのである。そうでなければ、そのような思いつきは、門前払いして、却下すべきなのである。まして、「定説」の否定に走るべきではないのである。
 肝心なのは、問われるべきは「倭人伝」の文献考証であり、編者である陳寿が、「倭人伝」編纂の際に知るはずもない、倭地の地形は、お呼びでないのである。
 「倭人伝」は、三国志「魏志」の一部分であり、当時の皇帝以下の高官を読者として想定し、明快な読み物としたのであるから、氏が論じているような現地事情は、関係無いのである。逆に、当時読者が、即座に理解できたような明解な記事であるから、高度な計算を強いたり、面倒な謎解きを書き込んだりすることは、あり得ないのである。現代人が題意を読み取れないのは、所詮、東夷で、古代人の常識である教養を持たないから、理解できないだけなのである。
 誠に単純明快だと思うのだが、適切な指導/助言を得られていないようなので、氏の玉稿の批判をサカナに、ここでも説いているのである。氏は、明らかに、古代史論の論客ではない、いわば門外漢なので、以上の批判に特段の他意はない。
 本誌掲載までに、然るべき助言がなかったのを残念に思うのである。

*再考の試み 2026/02/09
 新たな試みとして、初出から三年半を経た現時点で、完全に白紙から批判記事を構築したが、視点を切り替えた記事を原記事末尾に付け足してみたのである。何かのご参考になれば、幸いである。

新・私の本棚 山下 壽文 季刊「邪馬台国」142号 末羅国・伊都国間の道程をめぐる諸説の検討
 唐津平野の地形を中心として    梓書院 2022年8月
私の見立て ★★☆☆☆ 未熟な習作修作、多難    2026/02/09 新規寄稿

◯始めに 資格審査不調
 本稿はご自身の古代史関係の学識の背景について何も述べていない。自己紹介で、会計・経理分野で博士号取得とみえるが、試練を経ていない古代史素人の限界は、論考冒頭で率直に触れるべきと愚考する。

*はじめに
 というのは、いきなり、「倭人伝」に「東南陸行五百里到伊都国」と引用しながら出典を示さないのは不都合である。また、「魏使は末盧国から陸路伊都国に向かった」なる意訳の不当さが不適当である。
 まず、同記事を「魏使」記事との即断は根拠の無い憶測である。皇帝使節派遣は責任者たる郡太守を飛ばして不当で郡使であり、前代未聞の重荷を負った輸送部隊記録が、正史記事となることはありえない。非常識である。
 「東南陸行五百里」と明記の考証抜きに、仮想古代地形で「魏使」経路を臆測している。五百里解釈が、六倍の差異があることを蒸ししている。
 というように、同誌が必須としている学術的な、先行文献考察を、まるごと怠っていて、同氏の編集方針が随分簡要になったと長嘆息するものである。
 それはさておき肝心の考察抜きに「陸行」経路を海岸沿いのみちと山々の尾根みちに二分し、並列して原本にない「水行」は不法な史料改竄である。
 氏が、決定的な論考に不可欠な知識・素養に欠けているのは、一介の素人でも指摘できるから、同誌編集部が論文審査出していないのに長嘆息する。
 古代地形論は、その道の専門家の最善考察に素人は口出ししない。

*末羅国・伊都国間陸行説
 ここで、突然、先人の考察を引用して海岸線を進んだとするが、街道となりうる「海岸線」を郡使一行が通行できたかという論議に入るのである。
 尾根みちで馬車行前提陸行は、「険しい」山道に宿驛街道は信じられない。ここで、突如素人の「宮崎氏」の学術的でない著書を引き合いにするが、未開の倭地で一日五十里(20㌔㍍余)は無謀である。唐六典は、整備街道で、起伏の少ない荷車行程が前提である。山路越え荷役の困難さは極まると思う。

*末羅国・伊都国間水行説
 氏が「通説」の「水行」無知に取り込まれて、勿体ないことである。
 中国古代史の権威である渡邉義浩氏は、陳寿「三国志」魏志に先行する正史に「水行」行程記事は存在しないと明言されている。字典に於いて「水行」は、河川を「渉る」と明記されている。つまり、「倭人伝」で、新たに、水行とは『海岸から「大海」を渉ると定義されている』と定義されているのであり、「河川」を上下するものではない。つまり、二重の意味で、沖合いを舟で移動するものではないのであるから、ここは、行程を書いたものではありえない。
 伝統的に誤解していたため、初学者には無理ないとは言え、漫然と読み過ごされている。
 「倭人伝」では、
狗邪韓国で始めて海岸に到り、対岸である「対海国」に始めて渡海すると明記され、末盧国で、水行を終え、陸行に復帰すると明記されているので、氏が何気なく追従されている「沿岸」「水行」説は、端から無効である。

 氏は、選りに選って、「勝手に原文改竄している不都合で場違いな宮崎説の末盧国非上陸」説を、わざわざことさら否定しているのは、徒(いたずら)に奇を衒(てら)うものと誤解されやすく、くれぐれも勿体ないところである。

◯最後に
 倭人伝の記事の氏一流の解釈では適切に比定できないと自認し、いわゆる「通説」派の常習手段とは言え、本来許容されない記事改竄に、安易に臨んだのは、不穏で本末転倒である。是非、ご再考いただきたい。
 また、氏ご自身の不明は、早急に解消し、むしろ専門的見識を生かしていただきたいものである。

*付け足し

 関連事項の書き漏らしに気づいたので、ここに付記する。
 末盧国条に、「濱山海居草木茂盛行不見前人好捕魚鰒水無深淺皆沈沒取之」と特筆されているのを、正体不明の誤訳依拠が災いして、連れもって誤解している。
 衆知の如く、中国語で「水」は河川と決まっている。従って、「好捕魚鰒」は川漁であり、「倭人」が、簗や鰻籠で魚鰒を捕らえるのを観察したものである。決して、釣っていたのではない。
 「水無深淺皆沈沒取之」とは、浅瀬に限らず、ひざ上までも水に浸かって取っているのを、当時の中国語では「沈没」、「潜」というのである。魚籠などの竹細工は容易にできるので、寄って集(たか)って川漁していたと見える。世上、これを、玄界灘での海士、海女の生業とみる人がいるが、仮に素潜りで、短時間潜水できたとしても、潜水メガネもシュノーケルもない時代、とても、魚や鰻、アナゴを、手で捕らえるなどできるものではない。まして、頑丈な漁船のない時代、沖に出て、潜水漁業など、ありえないのである。遠浅の砂浜で、安全な潮干狩り程度であったと見える。鉄製品の無い三世紀当時、釣り糸、釣り竿、釣り針などの釣り具は、無いに等しく、また、大麻の栽培が見えなかったようであるから、魚網はなく、帆船(ほぶね)もなかったと見えるから、海漁は成り立ちがたかったと見える。
 「倭人伝」記事は、末盧国から伊都国に向かって山道を行くと、河川漁をしている様子が見えたと思われる。
 よろしく、二百年来の誤解を、率先して是正いただきたいものである。

                                以上




 


                              以上

新・私の本棚 古賀達也の洛中洛外日記 第3460話 倭人伝「万二千余里」のフィロロギー(1)-(2) 2026

 倭人伝「万二千余里」のフィロロギー (2) ―総里程「万二千余里」の根拠は何か― 2025/03/28 初稿2025/03/31 04/19 2026/02/09

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

◯はじめに ブログ記事批判の弁
 ブログ記事ながら、当記事は、古賀達也氏の公式見解と尊重した上での書評です。(1)は論義不鮮明なので本項に併合しました。

 まずは、古賀氏の語彙が学術的な語彙からずれているのが気になります。

 「概数」を、厳密な計算に基づかない「アバウトな数値」とする理解は、ある種「誤解」と思われます。まして、後に出て来る「アバウトな概数」とは、二段重ねで何のことか(😯)びっくり。

 ちなみに、今日、「がい数」は小学四年段階で教えられています。

*概数定義の確認  新興出版社啓林館サイトからの引用です。
 概数|算数用語集 「概数:およその数のことを概数といいます。概数は,日常生活の中で「およそ3000人」「約50000円」「だいたい20%」などの表現で使われます。細かな数値そのものが必要でなく,大まかに数の大きさが捉えられればよいとするときに使われます。また,人口や国の予算などの大きな数で,正確に数値を表してもあまり意味がない場合にも概数で表すことがあります」 (参照 2025年3月31日)

 古代中国史料では、実務上「おおよその数」として扱う数値にも、大抵の場合概数が使われます。(例外として、1の桁まで全桁計算することもありますが、あくまで例外中の例外です)

 古賀氏の理解は、年功を歴た大人の常識としても、本義から外れているのではないかと懸念されます。今回紹介された異論は詳細不明ですが、むしろ(小4生も同感するような)素朴な意見であり、はなから否定すべきではないと思われます。

*引用文献の不整合
 なお、ここでことさらに引用された古田氏提言に「概数」は含まれず、反論の根拠として不十分と思われます。なにしろ、本書は、一般聴衆向けの「教養セミナー」講演録であり、史学論議に耐える厳密な語彙に従っていない可能性があります。古田武彦氏著書「俾彌呼」第Ⅰ部第3章 「女王国への道」から抜粋すべきではないでしょうか。

*余談 「周旋」用例論議
 ちなみに、まずは、通説の「周旋」解釋の混乱を解決しないと、議論が成り立たないように見受けます。

 当ブログでは、「倭人伝」文意解釈に於いて有力な同時代(後漢献帝期)用例袁宏「後漢紀」卷三十孝獻皇帝紀建安十三年の孔融記事に加えて陳寿「三国志」魏志「崔琰伝」裴注(「続漢書」から引用)のほぼ同文の孔融記事を取り上げて、同時代の三用例を勘案して、「周旋」は「往来」の常用表現と画定し「倭人伝」の語義としています。これは、古田氏見解にも、見事に整合すると見えますが、野田氏も含め拡大解釈型の論者を克服するに至っていないと見えます。ちなみに、孔融は同時代人として大変高名であったものの、後漢献帝建安年間に最高権力者曹操の命により族滅されているので、陳寿は史官の見識で、「孔融伝」を三国志「魏志」に収録しなかったと見えます。裴松之は、陳寿の孔融伝割愛の趣旨を理解した上で、続漢書から蛇足を付記したものと見えます。

*構文の乱れ
 古賀氏は、反論の根拠として、先だつ三項目外で末羅伊都間五百里と不詳の伊都不弥間の百里で不意打ちし、構文不明瞭と言われかねないところです。
 これは、引用記事の『「全行程一万二千里」を、既知の郡狗邪韓国の七千余里と倭地の「周旋」五千余里の合算とする』との趣旨と見える古田氏の簡潔な構想を外れ、概数概念不整合と相まって提言者を承服させるのは難しいと感じます。「倭人伝」記事に関する陳寿の真意は、三世紀時点で存在しなかった後世概念で推し量るのでなく、陳寿に理解できる論旨で想到するものであり、まずは「東夷伝」の概念で提示すべきでしょう。それは、二千年後生の(無教養な)東夷に「初耳」であっても、新説ではないのです。(古田氏は、初期著書では、「周旋」を諸国領域の周遊とみていて、意義が輻輳するのですが、ここでは、あえて、「周旋」論を述べていないのです)
 とにかく、正しい概算式の正しい概数項を解剖して、概数理念に反した端数を取り出すのは、端的に言って無法です。そのような端数は、概数計算式の埒外であり、概算式から排除されるのです。
 提案者は、そのような端数道里は実測されていないのでないかとの疑念を呈していますが、これは、ここまで述べたような事態の本質を取り違えています。
 ちなみに、私見では、渡海水行の千余里は、正始使節の発進前に知られていたものであり、使節は、ここは、三回の渡海を行う水行十日と承知していたのであり、要するに、使節の報告書以前のものなのです。今回の議論の本質に関わるものではないのですが、この際、誤解を説こうとしたものです。

*持論提示 遅れてきた「定説」
 当ブログ筆者の持論では、「倭人伝」の『「郡から倭に到る万二千余里」は、公孫氏が、実際の道里が不明な時点で公式道里としたものであり、各部分の実測道里の加算(概算)で求めたものではない』(後漢献帝建安年間、帯方郡創設前後と推定)との意見ですから、食い違っています。
 なお、当然の常識として[千余里]単位概数の一桁漢数字の加算であるから、百里以下の端たは、当然無視するものと思っています。

*率直な苦言
 ついでながら、+αは「プラスアルファ」なる大変不都合な(インチキ)外来語の派生表現であり、同様に不都合である「アバウト」共々、古賀氏の信用を損ないかねないので、考えなおされることを強くお勧めします。

                                以上

新・私の本棚 古賀達也の洛中洛外日記 第3461話 倭人伝「万二千余里」のフィロロギー (3) 2026

倭人伝「万二千余里」のフィロロギー (3)『史記』大宛列伝、司馬遷の里程計算 2025/03/29  初稿2025/04/01, 04/19 2026/02/09

*議論の確認
 今回の論議は、却って、古賀氏の「倭人伝」解釈の未熟さを示しているように見えます。「伊都国から奴国への百里は傍線行路であり、郡より女王国に至る一万二千余里に含まれない」としながら、伊都から不弥の行路が傍線でなく万二千余里に含まれるとするのは、承服することが困難です。まして、「倭人伝」に触れられていない「島巡り半周読法」なる「古田新説」により百里単位の追記を詰め込むのは、「公理」に反すると見えますが、いかがでしょうか。

*第一法則「部分の総和は、総計に等しい」の締め
 今回蒸し返されている議論は、前回、古田師の提言として明快に示された「帯方郡治から邪馬一国までが一万二千里。帯方郡治から狗邪韓国までが七千余里、そして海上に散らばっている島々、洲島上の(倭地)を「周旋」(周も旋もめぐるという意味)してゆくのが、五千里」なる明快な解釈に対する「蛇足」(一切ぶち壊し)になっています。まずは、ここで「第一法則」の論証を、一度締めて異議を求めるべきです。議論は小刻みに収束させるべきであり、拡大混乱させるべきでないというのは、世間一般の通則と思うのですが、古代史学は、共感していないと見えて残念です。
 ついでながら、明快解釈に茶々を入れる野田氏の解釈は、折角ですが、目下の議論の邪魔になるので、後回しにすべきです。時間は、タップリあります。

*蛇足の確認
 「蛇足」部を混乱させるのは、追加された「末羅伊都間 五百里」の解釈です。
 古来の定則の根拠は[千余里]単位概算の整合であり、古来の漢数字で、七に五を加えればピッタリ十二なので、間違いようがないのです。古来の算数には小数は無いので現代風に言う0.5[千余里]は、無法なのです。

 周知のとおり、古代中国では、[千余里]の一桁数字の算木計算で、加算結果の繰り上がりはあっても、下位桁相当の小数は排除されているのです。
 古賀氏が忌避しているようなので再確認すると、提案された異議は、[千余里]単位概算では端たの百里単位は計算しないので、島巡り半周読法など「無用」との意見でしょうから、今回も反論できていないのです。

*参問倭地、周旋
 案ずるに、古田氏の「海上に散らばっている島々」は、「參問倭地」「或絕或連周旋可五千餘里」の意味を軽視されたもので、提言として不用意です。

 本件は、郡から倭に到る行程の当初、つまり、後漢献帝建安年間、遼東で君臨していた公孫氏の概念説明であり、狗邪韓国からの渡海以下の行程は、末羅まで洲島、中之島を渡船で水行し、上陸直ちに陸行伊都国に到り、以下の行程は書かれていないであったと見えるのです。正史行程記事の「行程」は、陸上街道で目的地まで最短で結ぶのです。
 と言うことで、古田氏によって追加された「不弥国」論は、「行程」外に道草し、(古田氏自身の迷い道とは言え)古田氏の明快な解釈が溶け落ちています。提言は、追加なしに確立すべきだったのです。

*規範の取り違い
 ちなみに、氏が「倭人伝」のお手本と見た司馬遷「史記」大宛伝は、班固「漢書」西域伝転用と推定され、議論に影響しない「雑音」の混入です。陳寿は、饒舌な史記でなく朴訥な漢書を範例としたはずです。

*算数教科書 不朽の「九章算術」
 お言葉ですが、測量実務の根幹は、あくまで「九章算術」であり、検地や初歩的な土木工事実務教科書であり、高度な理論展開の場ではないのです。流し読みするだけでも、同書の深意を察することができます。
 ちなみに、これら算術書は、おそらく、周代門外不出の「秘伝」であったものが、東周滅亡時に秦朝に献上され、同国国内で「教科書」として施行されていたものが、秦始皇帝が、秦律の一環として全国地方官吏に配布、普及して、国政の根幹として運用したと見え、以後、文官の必須教養と思われます。

 もちろん、「部分里程の和が総里程」との「公理」は基本の基本で「証明不要」であり、金銭計算にも通じるので文官全員が通暁していたと思われます。但し、金銭計算は概算しないので諸兄姉は勘違いされるかも知れません。

                               以上

新・私の本棚 古賀達也の洛中洛外日記 第3463話 倭人伝「万二千余里」のフィロロギー (4) 2026

 「周旋五千余里」、野田利郎さんの里程案 2025/03/31  2025/04/02 改訂 2025/04/19

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

◯はじめに
 当連載記事は右顧左眄せず一路邁進ですから、当方も一路邁進します。
 既に泥沼化しかけていますが、懸案は「里数の概数計算において、部分里数計は総里数とピッタリ一致しなくても良い」とする「公理」の確認です。

倭人伝の里程記事「倭地周旋五千余里」は、古田説によれば次の倭国内の部分里程の合計と一致します。
 当ブログでは、古田師の第一段階提言の総括として、以下を懇望します。

 「倭人伝」に、明記も示唆もない、一切書かれてない島巡り論は、論議無用です。「方里」談議は、深くて大きい傍路に入るので割愛します。
郡狗邪韓  陸行 七[千余里] 狗邪韓対海  水行 一[千余里]
対海一大  水行 一[千余里] 一大末盧   水行 一[千余里]
末盧伊都  陸行 二[千余里] 差分であり、自明 誤解を招くので、本項を改訂します。
部分行程計   十二[千余里] 全行程     十二[千余里] 

 陳寿の理路に従い時代錯誤の現代的作表でなく縦書表記したいのですが、ブログで縦書表示は大変困難です。末羅伊都間の五百里は、いったん島巡り共々捨てます。

 部分計十[千余里]と全行程十二[千余里]の差分二[千余里]は、[千余里]単位の一桁概数の計算で生じたものなので、数学的に無視可能です。特に、「水行」は、測量不能、かつ、無意味な実際の道里でなく、所用日数を当てはめた「見なし」里数なので、辻褄合わせは不合理です。
 訂正 正しくは、差分二[千余里]は、初期段階で、末羅国~伊都国間の道里としたものであり、水行一[千余里]同様、実際の道里でなく、概念を示したものなのでした。

 陳寿の表示は、後漢献帝建安年間に、公孫氏がつけた全行程万二千余里の公式道里を率直に案分したものなのです。衆知の如く、概算計算の加減算で、細部の辻褄が合わないのは、むしろ当然・自明です。

 古田氏は、第一書執筆の途次で、直感・熟慮により差分解消の錯綜した論理を創唱したと見えます。何しろ、時点の氏の学識限界を承けているので、致し方ないのですが、半世紀を経て、通過点に残した瑕瑾が是正されないのは、大変残念です僭越ながら、後生は、先生である古田氏の学説の不合理な細瑾を是正して、学説基幹を外部からの攻撃から守るべきであり、この点是非とも慎重にご考慮いただきたいのです。


 なお、氏が創唱した「漢江河口部回避の部分的な海上移動」を「水行」の初出用例とする理窟は、「倭人伝」原文が遵守した古典史書語法による真意に反していることが見すごされ、以後、追従者が多く、不合理が拡散されているのですが、本件の論議では、別儀として極力直接言及するのを避けているのです。これまた、深くて大きい傍路なのです。

 古賀氏曰わく「野田説を『邪馬壹国の歴史学』(…2016年)に収録し、後世の研究者の判断に委ね…ました。」は、傍路と見えます。「魏使の最終目的地を侏儒国」なる見解の提示自体は[事実]でしょうが、未検証の思いつきと見て、検証し採否を示すのが、後生の重大な務めと感じます。ご一考ください。

 懸案の換言、蒸し返しになりそうですが、正統史官が、巻末の蛮夷伝で姑息きわまりない辻褄合わせを弄すると想定するのは、不合理です。

 世にはびこる時代錯誤のほんの一例ですが、本件討議の圏外から提起の野田氏論理は、原文にない算用数字多桁表示濫用で、三世紀史官に不可解きわまりないものです。3000余里の1里単位非「概数」と[千余里]単位、「四」引く「一」の「三」の単位不揃いにお気づきでしょうか。なお、野田氏論考は、既に参照論文で確認して、当ブログでは、難点から成立しがたいと断じました。古賀氏が何故、明白な議論を先送りにしたのか、不可解です。

 以下、ますます本件の議論の傍路に入り付随論を無用に拡散させ、「倭人伝」の末梢を論じて、貴重な連載記事の進路を崩しているので、無用と断じます。傍路から本道への復帰を切望する次第です。

*用語談議
 ついでながら、用語誤解により論理階梯が乱れているのを、敢えて指摘します。

  1. 「参問倭地」は「倭地」を訪れることです。「倭人伝」では、殊更定義した上で、古典史書で前例のない「水行」、「陸行」を予告の上で導入し、狗邪韓国から末羅国まで渡船で渡り継ぐのを「水行」によって州島を渡り継ぐと概括し、区間内の陸上移動は述べず、末羅国で上陸した後「倭人伝」で初めての「陸行」と述べています。不記載事項援用は、当時の高貴な読者の怒りを買います。
  2. 「周旋」は、差分論議を避けて狗邪韓国-倭間の直線行程を復唱したものであり、直前に示された内容なので容易想到されるので、語義解釈は、野田氏の解釈と大きく異なります。(同時代用例に不足はなく、袁宏「後漢紀」、裴松之補注にみられるので、むしろ、当時の洛陽知識人の常識と見えます)
  3. [方...里]は、「道里」ではなく面積表示であり、中国古代史書の書法にならい、混同されないように単位表記を変えているので明らかなであり、取りあえず、道里論議から除外すべきです。簡明であるべき議論を、拡大、混乱させないように、最低限の確認にとどめるものです。

 ご一考いただきたく提言しますので、御不快でも御容赦いただきたい。

                                以上

*追記 2026/02/09
 書き漏らしているのに気づいたので、「倭地」道里について説明します。
 「倭人伝」で、「従郡至倭」を郡から倭までの「郡倭道里」なる公式道里とみた場合、本来、千余里単位の概数となるべきものが、末羅国から伊都国への「陸行」五百里が、里数記法の秩序を乱していることに気づかれるはずです。また、概数里数の計算からみて、ここは、二千余里となるべきものが、大きく齟齬しているように見えることが、不審でしょう。
 案ずるに、当初、この区間は、伊都国狗邪韓国間の「周旋」、すなわち、往還五千余里から、三回の渡海の小計三千余里を引いた二千余里となることが予定された上で、差分自明として未記入になっていたものと見えます。そのような里数記事に、後年、帯方郡行人が、伊都国から公式に聴取した倭地行程が追記されたものと見えます。つまり、末羅国から伊都国の最終行程五百里、加えて、脇道行程として、伊都國から奴国百里、不弥国百里、そして、投馬国水行二十日の事項が追加されたものと見えます。公式記録は、上書き改竄ができないので、資料が追加継承されたと見えます。
 史官は、「倭人伝」編纂にあたって、洛陽の帝室書庫所蔵の「倭人」関連公文書史料を通観した上で、この際は、千余里を単位とした「郡倭道里」と異なる百里単位で「余」を含まない、明らかに異質な記法として、現地実測に基づく地域道里明示したと見えます。千里単位の概数道里にも百里単位の道里を追記するのは、概数道里記法の原則に明らかに反するので、これは明示したとみるものです。
 してみると、地域道里は、「郡倭道里」を万二千里とする不正規な「里」でなく、秦制以来の「普通里」四百五十㍍程度に基づくものと見られます。これは、便宜的に「郡倭道里」に通用させるには、六倍するものと思われます。
 よって、末羅国から伊都国の最終行程は、三千余里、脇道行程は、伊都國から奴国千余里、不弥国千余里(それぞれ繰り上げ)と見ないと、整合しないことになります。
 さしあたって、郡倭行程万二千余里の検算ですが、区間道里を加算すると、郡狗邪韓国間七千余里、三度の渡海小計三千余里、末盧国伊都国間三千余里の計は、万三千余里となりますが、これは、概数として整合するものであり、適合していると確認できます。
 以上の確認を指示されるかどうかは、「倭人伝」道里記事の考証に拘わりますので、当記事の見解を強要するものではありません。寡聞にして、以上の議論は、見かけなかったので、念のため提起したものです。
 また、当記事は、伊都国国治、ないしは国城の南に隣接、ないしは、伊都国領域内に包含、収容されていたと推定される「邪馬壹国」、すなわち、「王国」、「宮都」ならぬ端正な女王居処である「国邑」の比定の任に無いので、口を挟むものではありません。

以上

 

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