新・私の本棚

私の本棚の新展開です。主として、商用出版された『書籍』書評ですが、サイト記事の批評も登場します。

2024年5月17日 (金)

新・私の本棚 水林 彪 「漢武帝・宣帝の半島・列島支配~ 1/3 追補

中国古代帝国主義の東夷支配:その始まり『纒向学の最前線』 「纒向学研究」 第10号
桜井市纒向学研究センター「センター設立10周年記念論集」 2022/7 
私の見立て ★★★☆☆ 未完の大器 瑕疵幾度     2024/05/13, 05/17

◯始めに
 当記事は『纒向学研究』「センター設立10周年記念論集」掲載論文です。

*予備知識 水林 彪氏の箴言再掲
水林 彪 古代天皇制における出雲関連諸儀式と出雲神話   2016/09/21 
 国立歴史民俗博物館学術情報リポジトリ:古代天皇制における : 出雲関連諸儀式と出雲神話(第1部 古代の権威と権力の研究)
 抄録冒頭抜粋:8世紀の事を論ずるには,何よりも8世紀の史料によって論じなければならない。10世紀の史料が伝える事実(人々の観念思想という意味での「心理的事実」も含む)を無媒介に8世紀に投影する方法は,学問的に無効なのである。
 しかし、氏は、同記事で、同時代には存在しなかったことが明らかな「架空地図」談議をもちだして、から騒ぎして躓いていました。

*本論
 今回は、物々しい論考が晴れの場に提示されています。とはいえ、タイトル/サブタイトルの設定が、随分、こなれが悪いのです。
 普通、タイトルは、上位概念で注意を引きつけておいて、サブタイトルで、すこし具体性を持たせた下位概念に落とし込み、読者の関心を本文に引き込むのですが、本稿では、手順前後になっています。
 改善案 中国古代帝国主義の「東夷」開闢 ~ 漢武帝・宣帝の半島・列島支配の夢
 前漢代、武帝の半島四郡設置は、ホラ話に終わって、早々に空洞化したので、「始まり」などと呼べる者ではないのです。なにしろ、漢武帝代の東夷は、ほとんど、遼東郡管轄下の高句麗、扶余だったのです。曹魏代に至っても、半島南部は、未通、未開の荒れ地だったのです。
 武帝の放漫な拡大志向は衆知として、皇太子の反乱の結果として王宮外の孤児育ちだった武帝の孫宣帝は、武帝の逝去の後、一種空位の時代を経て、民間から呼び戻されただけに、「帝国」主義の悪弊を除く堅実な思考で、帝国の拡大活動の収束、長久化を図ったものと見えます。一度、漢書をじっくり読まれることをお勧めします。

*異次元基準の乱入
 水林氏は、先に挙げた箴言を引きつづき放念されたか、欧州式の世界観を、無雑作に中国太古から国内古代に到る宏大な史論に塗りつけていると見えます。言うまでもありませんが、後世、欧州で常用された史学論議は、古代中国史に適用できないはずなので、もったいないことです。

*太古「帝国」主義の怪
 ともあれ、中国古代の漢代に「帝国主義」は存在しなかったから、論じようがないと見えるのです。まして、漢帝の威光が朝鮮半島南部に手が届いていない状態で「列島支配」は端から不可解であり、途方もなく場違いと見えます。この辺り、纏向学派に共通の「迷い」と見え、氏だけに誹りを向けられません。
 いや、実際は、岡田英弘氏の「欧風」に染まっているのかも知れませんが、何分圏外なので、良く見通せないのです。

*虚空の銅鐸「文化」
 続いて、氏は、考古学の成果である「銅鐸文化」の年代、地域比定を取り入れ、列島内の地域性を述べていますが、銅鐸によって確認できるのは、「特定の技術を有した集団が一貫した作風で銅鐸を制作していた」と言う工芸技術論であり、当時文字史料が存在していない以上、それが「文化」と呼ぶに値するかどうか不確かであることを示しています。時代錯誤と見えます。(銅鐸に金文はないものとみています)

*未開の「ゲノム」解析
 続いて、現代科学の先端である「ゲノム」解析による人種比定を取り込み、漢、韓の人種特性が捉えられて/創造されていますが、学術的な見解の支えが稀少出、未検証の遺物に依存しているという事を押し流して、「新説」崇拝の弊に陥っています。
 何しろ、氏は、長江下流域に存在していたと推定する集団に前五十(七十?)世紀の年代を比定し、その集団に、山東半島付近に前二十四(四十四?)世紀の集団を比定し、更に、半島西南部に前十一世紀を比定する大技連発のあと、当該地区で形成された「弥生人」の水田稲作集団が、大挙北九州に渡来したとしています。今一つの「時代錯誤」です。
 「新説」の(カラ)さわぎと云えば、水林氏は、毎日新聞専門編集委員までのめりこんでいた「架空地図」のホラ話から、まだ醒めていないのでしょうか。

*壮大な構想
 氏は、長江下流から山東半島までの区間を水田稲作の到来始点としていますが、山東半島が稲作技術の伝道基地となった理由はよくわかりません。水利不便とみえるのですが、水田遺構が大規模に出土しているのでしょうか。

*緩やかな移住経路~私見 
 当ブログ記事筆者の私見として、水田稲作が、 東夷の発祥地たる齊領域に展開した後、半島東南部を経由して北九州に伝播したという構想には同意します。
 ただし、以後の伝播経路には、異論があります。韓半島への集団移住には、渡海の「容易さ」が必要/必須であることから、先ずは、もっとも早期に定着していたとみえる遼東半島への渡海の可能性が高く、後に開拓されたとみえる(唐代命名とみえる)唐津(タンジン)辺りへの渡海が落とし所と見るものです。
 ともあれ、半島に渡海/定住すれば、後は、陸上の話ですから、歳月を味方に東南方に展開し、後世の狗邪韓国から筑紫に渡ることも、むしろ確実な渡海「解」と見える、というのは、「倭人伝」依存症の偏見の技でしょうか。いや、この辺りは、水林氏の触れていない当ブログ筆者の固執ですから、読み飛ばしていただいて結構です。

*「東夷」幻想~私見 
 前十世紀辺りでは、当時、半島基部の「齊」が、形成されていた時代であり、臨菑は、漢書で言う「一都會」、すなわち、人、物、金の交流の要として繁栄していたとされるから、孔子の云う「東夷」である目前の韓半島に新天地を求めたかもしれません。渡海行程は、軽微な筏で移動できたから、水田稲作に必要な農具、技術、そして、肝心な種籾を携えた集団が移動できたと思われますが、半島南部から北九州への移動は、物理的に、大変至難と見えます。
 さらりと、餅の画を描いて、それで一丁上がりではないのです。

                                未完

新・私の本棚 水林 彪 「漢武帝・宣帝の半島・列島支配~ 2/3 追補

中国古代帝国主義の東夷支配:その始まり」 『纒向学の最前線』 「纒向学研究」 第10号
桜井市纒向学研究センター「センター設立10周年記念論集」 2022/7 
私の見立て ★★★☆☆ 未完の大器 瑕疵幾度     2024/05/13, 05/17

*場違いの引用
 中国正史夷狄伝は儒教的中華思想を展開する場であるから、権力を背景とする朝貢命令のことは意図的に隠蔽し、朝貢が自発的なものであったかのように書くことを常とする。中国正史の記述を真に受けてはならない (渡邊義浩 46 頁以下・167 頁以下参照)。渡邉義浩 2012『魏志倭人伝の謎を解く』 中公新書

*原文確認
 せっかく原資料の引用位置まで書かれているので、当該印刷部の史料批判を試みます。
1. 46ページ部分
 「唯一の夷狄伝」と題されていますが、これは、先行して明記されている三国志唯一の夷狄伝「烏丸・鮮卑・東夷伝」と順当に解されます。
 「史学と儒教」として論議が進んでいますが、実際は、「三国志」に先立つ、司馬遷「史記」、班固「漢書」の史書としての精確さを論じていて、不思議なことに、「史記」の記事で、殷(商)の王位継承や殷墟の位置がほぼ正確に記録されていることを論拠として「史記」が正確であると証し、「三国志」が、曹操の墓の位置が正確に記録されているという未検証の推定を述べた後、『「三国志」も正確な部分は正確である』と述懐していますが、誠に、筋の通らない意見になっています。「史記」は、多くの部分で伝承/風聞に依存した「物語」であることは衆知であり、殷(商)の王位継承や殷墟の位置は、「物語」でなく、史実の記録、つまり、殷代文書の承継であるから、正確なのは、原史料が正確だったと云うだけです。後段で、「史記」の大部分を占める「物語」に対しては、民間で流布していた「史劇」、「講談」の類いを収録していたと述べていて、前に述べた「史記」評価は、実は、例外的な部分に過ぎないとみえます。

 渡邊氏は、「三国志」の記事も、陳寿が「史料」の承継に務めている部分は、正確であると総括していますが、誠に当然の理窟であり、少なくとも、陳寿が編纂した「魏志」の「本紀」、「列伝」部分は、西晋首都「雒陽」の公文書庫から取り出された「史実」の忠実な収録と見るものではないでしょうか、いや、これは、三国志注解を公刊されている渡邉氏には「釈迦に説法」でしょうが、氏は、何等かの意図があって、そのような当然な見解を糊塗していると見えるのです。

 さて、ここで、渡邉氏が、「魏志」夷狄伝全般に糊塗している「儒教的論理」は、まことに迂遠な見解であって、「魏志」「本紀」、「列伝」は、史実、つまり、公文書記録の正確な承継ですから正確であり、「夷狄伝」は、例外的に、陳寿の恣意によって、改竄されていると非難しているものと見えます。つまり、割愛や改変によって、正確さを喪っているとしているのです。

 ここで、典型的な史官とされている班固「漢書」すら、列伝の一例で、儒教擁護の圧力に屈して史実を改竄していると非難され、陳寿「魏志」も、夷狄伝に於いて、「当然」筆を曲げていると弾劾されているのです。

 渡邉氏は、そこまで物々しく言い募った挙げ句、魏志論に戻り、陳寿「魏志」夷狄伝が「西域伝」を欠いているのは、蜀漢が西域との交通を支配していて、曹魏の西域支配を妨げていたと示すことを憚ったためだと見ているのであり、素人目には、儒教原理に屈したものと見えないのです。

 以下、氏は、裴松之が「魏志」に補注した魚豢「西戎伝」を評して、充分「魏志」西域伝を記述するに足る内容があるのに、採用しなかったのは、陳寿の曲筆であると断じていますが、氏にしては、軽率な評価とみえます。魚豢「西戎伝」は、魏徴の西域での事績をほとんど含まず、後漢代の厖大な偉績を、禅譲により正統に承継したことを示しているものに過ぎず、陳寿は、これを、後漢西域都督の撤退を継承した曹魏の西域支配が形骸化していたことを明示するのを避けるために、全面的に割愛したのであり、裵松之は、陳寿の判断を支持する意味で、魚豢「西戎伝」を全文収録したものと見えるのです。

 以上の考察に疑問のある方は、魚豢「西戎伝」から、後漢偉績を取り除いた様を見て頂きたいものです。渡邉氏は、魚豢「西戎伝」の字数に溺れ、また、西戎伝の眼目である安息、條支の記事を、弱小部族とみえる近傍の大秦の記事と取り違えた伝統的な誤解に流されて、「列伝を立てるに相応しい」としていますが、氏は、晋朝史官ではないので、そのような判断は、あくまで局外者の私見にとどまるのです。

 当分野の論客として声望の高い岡田英弘氏は、現代日本人論客の軽薄な陳寿批判について、『陳寿は、当時最高の人材であり、その希有の人材が身命をかけ半生を費やして編纂した「魏志」「倭人伝」を(陳寿から見て)二千年後生であって、晋朝史官として要求される教養を有していない東夷が、安易に批判するのは、僭越の極みである』と云う趣旨で断罪しています。

 渡邊氏は、軽薄な陳寿批判を物している凡百の論客とは、当然格別の論者ですが、そのような世上論客に阿(おもね)るように筆が鈍(なま)っているのではないかと危惧する事態です。

                          未完

新・私の本棚 水林 彪 「漢武帝・宣帝の半島・列島支配~ 3/3 追補

中国古代帝国主義の東夷支配:その始まり」 『纒向学の最前線』 「纒向学研究」 第10号
桜井市纒向学研究センター「センター設立10周年記念論集」 2022/7 
私の見立て ★★★☆☆ 未完の大器 瑕疵幾度     2024/05/13, 05/17

*原文確認 承前
1. 46ページ部分 承前  2024/05/17
 それはさておき、このような疑問の多い「西域伝」事例をもちだして、陳寿が、曹魏の夷狄伝について、懐疑的であったと敷延した後、にもかかわらず、夷狄伝として「東夷伝」を集録したのは、明帝景初年間の司馬懿による遼東郡制覇にちなみ、それまで、東夷との交流が、遼東公孫氏によって、長年疎外されていたものが、司馬懿の軍功により、開通した功績を顕彰するためとしていますが、些か、浮評とみえます。
 司馬懿による遼東郡制覇は、明帝の遼東観、東夷観の軽薄さに基づくものであり、明帝が、勅命により、遼東/帯方両郡を承服させて、両郡の東夷教化を皇帝自身の功績としたものであり、当初、司馬懿を解任して本来の任地である西方に戻す意図であったことが、事実上明記されています。このような場合、勅命に対して不満を鳴らせば、直ちに誅伐されるから、司馬懿は、本来、雒陽に帰参せず、関中方面に帰参していたはずです。

 「はずです」というのは、明帝の急病、病臥によって、皇帝千秋の際、若年の継嗣をどのように補佐するかという重大問題が起こり、政権有力者による幼帝の傀儡化を恐れた近習が、対抗勢力として、司馬懿を招致したものとされています。この辺りは、後年政権を奪取した司馬氏を擁護する意図で、物語化されていると見て取れますが、核心は、明帝臨終の床で、継嗣曹芳の支援を依託されたとする「物語」であり、遠隔の「倭人」は、特段の意義を持たなかったと見るものではありませんか。

 ちなみに、「三国志」「蜀志」では、蜀漢創業者劉備の白帝城における臨終の場で、宰相諸葛亮に継嗣劉禅の支持を取り付けた「物語」が遺されていますが、諸葛亮が、終生、後主「劉禅」に奉仕したのに対して、司馬懿は、少帝曹芳を廃位に追い込み、曹魏終焉の道を開いたことが、「忠実」に描かれていますから、陳寿の筆が、本質的に、司馬氏に媚びることなどない、史官の筆であることが明らかです。 

2.167ページ部分 2024/05/17
 4「鋭敏な国際感覚」は、景初倭使の参上に関する考察ですが、世上、帯方郡から既に遠隔である「倭人」女王が、公孫氏滅亡の際に、すかさず、帯方郡に倭使を派遣したことを、女王の「鋭敏な国際感覚」の功名と見ているのに対して、これは、帯方郡太守の迅速な招請、督励の功績であるものとしていますが、これは、渡邉氏の慧眼と思われます。
 但し、引き続いて、そのような招請に即応したのは、女王の治世が、中国の国家制度を学んだ当時の東夷として先進の国家体制を有していたと見ているのですが、それは、「倭人伝」の真意を見逃したものと見えます。

 倭人の境地は、「牛馬がいない」ことから見て、『「街道」制度が未整備である』「「戸籍」、「地籍」が文書/計数化されていない』、さらには、『銅銭が流通していない』から、『遠隔地から「徴税」できない』『各国邑が隔壁で防御されていない』、風俗に近いものとしては、『衣服が中国のものではない』『食事が加熱調理されていない』等、中原文化に適しない蛮夷の習俗とされていて、さらには、「中國の文字を読み書きできないから、先哲の書を読んでいない」という致命的な欠格要件も明記されています。

*不可解の弁
 どうも、世上麗名の高い渡邉尊師の山成す「聖典」から、選りに選って、一般読者向けの解説本として執筆された新書から、以上に示された、迂遠な提言から、水林氏が、何故この単語難解、文言不可解の「明言」が引用されたのか、不審です。
 結局、原典の文脈から遊離した、「中国正史の記述を真に受けてはならない」なる「神託」、「神がかり」だけしか残らないのです。素人は、有効な「明言」と拝聴すべきなのか、不可解です。

*無用の参照
~閑話休題
 水林氏の本論考は、掲題のごとく、「漢武帝・宣帝の半島・列島支配」の論証を図るものですが、渡邉氏の玉稿を得て執筆したとしても、同新書は、掲題のごとく「魏志倭人伝」に関する論考であり、二十四史とも言われる全「正史」の一史である陳寿「三国志」魏志第三十巻の末尾の一条にすぎないので、新書版の軽快で、非学術的な発言内容の掲示される場なのですから、殊更、有り難がるのは不適切の極みです。当該「夷蕃伝」もまた、大鴻臚など曹魏公文書の集成/抜粋ですから、史官が、職業倫理を踏みにじって、造作できるものではありません。

 渡邉氏は、そのような「倭人伝」編纂の内実を熟知していながら、正史全体の編纂において広く述べて「明言」しているものです。
 まして、本論考は、正史記事に、ほとんど依拠しない考古学論考ですから、暴風雨に傘を押し貸ししているようなものであり、ありがたがるには及ばないのです。かくなる「明言」引用掲示は、所詮、渡邉氏の名声(被参照件数)を強化するに過ぎないのです。
 渡邉氏のために、このような無用の虚言の「害」を惜しむものです。
 世上、聞きかじり、食いかじりで、原文の文脈から切り離された「裸」の文言が、「ご神託」として出回っているのですが、渡邉氏は、このような「名声」に酔っているのでしょうか。

*データ混乱
 図4 稲作の伝播・人の移住・弥生人の形成
 本図の出典は、「藤尾慎一郎 2015『弥生時代の歴史』 講談社」のようですが、誤引用の訂正なのか資料改竄なのか、合成図の出典と制作責任者が不明で責任の所在は不明ですが、原図改竄の不手際が見えています。

 症状:山東半島部の「前24世紀」は、「前44世紀」と書いた「4」の上に「2」を重ね書きしていますもうひとつの「前50世紀」は、「前70世紀」と書いた「7」の上に「5」を重ね書きしています。それぞれ「違和感」が生じています。偽造ではないとしても、まことに胡散臭いのです。貼り付けデータの「2」と「5」は一応グループ化していますが、原図と一体化されていないので、容易に化けの皮が剥がされてしまうのです。

 手短に言うと、本図を作図する際に、藤尾氏から、原図のデータの提供を受けたのか受けなかったのか、状況は不明として、恐らく、マイクロソフトワードの作図機能を利用して合成されたのでしょうが、何故か、新作図を取り入れたPDFファイルを作成した後に、誤字に気づき、原図の修正ができなかったものか、PDFファイルの新作図の上に、二文字貼り付けたものと見えます。
 当コメントを作成する際に、図版が合成画像とわかったので引用できなくなってしまったのです。
 くれぐれも、著作権のある資料の引用は、慎重であってほしいものです。

◯まとめ
 水林彪氏は、学究の士ですが、しがらみに縛られて、足どりが揺らいでいるように見えます。
 ちなみに、当方は、素人で生活がかかっていないし、人間関係も、無頓着な性格なので、率直な批判ができるのです。

                                以上

 

2024年5月 9日 (木)

新・私の本棚 出野 正 張 莉 「魏志倭人伝を漢文から読み解く」 ⑵ 1/1

「倭人論・行程論の真実」 明石書店 2022年11月刊
 私の見立て ★★★★☆ 待望の新作 不用意な記述 2023/08/14 2024/05/09

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

◯第二章『「魏志」「倭人伝」の「倭人」とはなにか』(出野)
 異議あり:氏の日本語語彙が古代史論の標準から離脱しているのは困ったものである。
1.カタカナ語偏愛「もとのルーツ」 27ページ
   氏のカタカナ語愛好癖が不適切である。「論衡」「漢書」「倭人」の「もとのルーツは同じ」に困惑する。何の因果で奴隷制度を誹った「ルーツ」の義憤を踏みにじるのか。平明に「起源は同じ」と言わない屈折用語に、編集担当から「朱」が入らなかったのが不可解である。

2.生煮えの現代語「差別化」 57ページなど
   現代造語は意味不明になる。「差別化」乱射があって、整備されたと期待された公道に「躓き石」の散乱に困惑する。人種差別と無関係な無邪気な造語と思うが、正統的な言葉に置き換えてほしいものである。

3.不明瞭な集団評価 57ページ
   「日本の歴史学者」なる集団を、実際に世論調査した上か、『魏志の「倭」と「倭人」を同一視する人が「多い」』とするが、「多い」とは多数派なのか、一人でも多いのか、意味が通らない。7行を費やしたあげく、『「多くの歴史学者」は論証なしに自明の理としている』と自説の塹壕に逃げ込んでいると見える。
 氏は、以下、面々と「倭」と「倭人」が、同一の概念では無いと主張しているが、皮切りに冗語を連ねているので、 冷徹な指摘と見えても、信を置きがたい。

4.資料乱獲~悉皆の悪弊
   氏は、古代史「国」の意義を、確固たる「倭人伝」で足りず、茫漠たる「三国史記」、「三国遺事」で総浚えする。先賢によれば「倭人伝」すら、用語、文法の異同で複数史料に依拠した史書と評されるのであるから、隔絶文書導入は無謀である。

5.浅薄な前例批判
   氏は、古田氏等の語義解釈を「国語」「和風」と揶揄するが、古田氏は、「倭人伝」以外の資料も幅広く渉猟し、確実に史料批判しているので、氏の批判は、むしろ安直と見える。
   氏は、既に先賢諸説を雑駁に捉えて『差別化』と処断しているが、自分好みの新語で批判するのは不合理と見える。ご自愛いただきたい。
   重複するが、浅学ながら『差別化』は、『敵の短所に対して自説を盛り上げ「消費者」を「惑わす」舌先三寸の技芸』と見え、氏の使うべき言葉でないと愚考する。くれぐれも、ご自愛いただきたい。

*古代史用語談義
 言うまでもないが、「倭」と「倭人」は、異なった単語であり、恐らく、太古の「倭」が、時代の推移で二字語になったとも見えるが、不明瞭である。つまり、太古の中原諸国名は、春秋/戦国時代の「中山国」を例外として、全て一字のように見える。(「中山国」が、蛮夷の者という風評が立つくらいである)
 それが、秦始皇帝の天下統一の後世、二字の国名が増えるのは、要するに、座りのよい文字が払底したとも見えるが、東夷で云えば、韓、濊、倭が、不遜な一字である。但し、公式文書に名を連ねる際、二字の方が望ましいという事で「倭」を「倭人」と書いた可能性もある。
 但し、隣り合う「韓」は、戦国「韓」に由来しているという事で、「韓国」、「韓人」の二字国名を免れたとも見える。
 太古から秦漢、魏晋まで、歳月の経過とともに、世界観が変わっているので、二千年後生の無教養な東夷の理解を越えているようである。

 「國」は、太古、隔壁聚落を言い、次第に経済活動拡大と共に、「國」が融合して戦国時代、諸侯領域は「邦」となったが、漢高祖実名「邦」を僻諱して「國」とした際、太古の「國」を「國邑」としたと見える。時代によって文字/単語の意味は忽然と変化する。
 陳寿は、史官として太古先哲用語を学んだので、時代錯誤となりかねない「國」の氾濫は抑えたが、原史料の「國」を書き換えることは許されなかったと見える。
 案ずるに、漢代郡国制の「國」は、劉氏一族所領であり、高官郡太守は「王」と同格であるが、「倭人伝」に限らず蛮夷の「國」が蔓延したことから、史官は、漢魏本国の「國」と同格と取られないように文飾に努めたと見える。世間には、卑弥呼が「倭王」に任じられ、「倭」は帯方「郡」太守と同格と見る人までいるので釘を刺す。時の遼東郡太守公孫淵は「燕王」と自称したが、それは、曹魏の創業者魏武と尊称された曹操が最後に到達した「魏王」と同格の至高の地位を自認していたのであるから、郡太守は「王」と同格などではないのである。
 また、氏は、無頓着に「国名」と言うが、これも、自称であれば不穏な「僭称」である。

 倭使難升米は、「大夫」と自称したが、倭は、景初以前は魏に臣従したものでなく、また、蛮夷が臣従を認められても、魏官位「大夫」など、もっての外であるが、鴻臚の慣わしで蛮夷の自称がありのままに記述されたと見える。
 魏制に通じた後、官位詐称を已め「倭大夫率善中将」と、魏朝官位に存在しないことが明らかである「蛮夷官位」を名乗りつつ、通常は、縮して「倭大率」さらに「一大率」と称したと見える。(断然たる私見であるから、先例検索は無駄である)

*「大率」私考 2024/05/09
 ちなみに、班固「漢書」「百官公卿表」に「県大率方百里」とあるが、何しろ、「漢書」は、代々史官を務めていた専門家である班固が太古以来の史書書法を駆使しているので、史官の訓練を受けた陳寿は理解していたかもしれないが、二千年後生の無教養な東夷には、何とも、真意が判断できない。
 気軽に言うと、「郡」の下位である「県」は、「方百里」を「大率」、つまり「広く支配する」と読めそうなのだが、支配する「方百里」が管轄地域の広さなのか、「県」の下部組織「郷」(複数)を束ねるという概念なのか、判然としないようである。
 素人考えでは、「一大率」は、矢張り「倭大率」、つまり、「倭に属する複数の(小)国を広く支配する」の意味と解したいところである。

◯まとめ
 と言う事で、出野氏には中国史書の「沼」に浸かって脱「和臭」をお勧めする。氏は、最高の漢字学者の助言を随時得られるのであるから、国内通説/俗説に惑わされないことを期待するのである。

                               本項完

2024年5月 8日 (水)

私の所感 古賀達也の洛中洛外日記 3059話 『隋書』俀国伝に記された~都の位置情報 (1)  

古賀達也の洛中洛外日記 第3059話 ブログ記事 2023/07/02                     当ブログの初稿  2023/07/04

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

◯コメント
 本稿は、「多元的古代研究会」の会誌『多元』176号掲載の八木橋誠氏論稿に対する古田史学の会事務局長古賀達也氏の「賛成意見」と見える掲題ブログ記事に対する「賛成意見」である。あくまで、一介の素人の「所感」であるが、早いうちに表明しないと契機を逸するのではないかと懸念して、あえて、早合点覚悟で先走ったものである。
 八木橋誠氏論稿の引用は、二重引用になり、第三者著作物の取り扱いに疑義が生じることもあり、本稿からは割愛したが、あくまで、古賀達也氏の部分引用コメントに限定したものである。

*本題
 知る限り、古田武彦師の本件に関する最終的な見解は、『「隋書俀国伝」は、中国人によって、中国人のための史書として書かれているのであるから、中国史書として解釈すべきである』と解される「原則再認識」と見える。要するに、隋書編者が知るはずもない「現代日本人の地図情報や歴史認識、及び/又は『日本書紀』の記述」を参照した論義は、論外/圏外のものとして、まずは排除すべきであるとの真意と思うものである。
 つまり、当史料は、それ自体の明記事項と先行する史書、主として、「魏志倭人伝」の明記事項に基づいて、丁寧に解釈することを推奨しているものである。

*隋書「俀国伝」再確認
 「隋書」「俀国伝」は、冒頭部分で「三史」の重鎮である笵曄「後漢書」を根本として、格下の「魏志」は、一応書名に言及するだけで、内容はほぼ無視していて、「古云去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里,在會稽之東,與儋耳相近。」と、まだ、正史として認知されていない/認知されたばかりとはいえ、「古」として尊重すべき笵曄「後漢書」を、無造作に、改竄しつつ節略して述べているので、当該記事に限っての断定であるが、隋書編者の「存檔史料」が時代混濁している感じである。
 さすがに「魏志倭人伝」の「存在」は承知しているはずであるが、厳密な史料批判無しに、新作記事を捏ね上げているので、千年あまり後生の無教養な東夷読者にしてみると、編者の視線/視点が、有らぬ方にさまよっていて、いわば、宙に浮いていると見えて心許ないのだが、諸兄姉は、どう感じておられるのだろうか。

*追記(2024/05/09)
 初稿で読み過ごしていて面目ないのだが、笵曄「後漢書」が時代錯誤で書けなかった『「樂浪郡境」と「帶方郡」郡治が、行程道里上、同一の位置である』という更新定義が成されているのは軽視してはならない。恐らく、当時行われた笵曄「後漢書」補注の成果であろう。
 ただし、このような場合、楽浪郡境が昇格した帯方郡が、道里の起点として相応しいかどうかという考察がされていないのは、何とも、暢気である。


 そのような史料認識に搭載された裴世清「訪俀所感」と見えるが、それにしても、本来原史料として最も尊重すべきである「魏志倭人伝」は、九州島外の地理を一切詳記していないこと、及び「隋書俀国伝」自体が、「竹斯国から東に行けば、最終的に海の見える崖(海岸)に達する」と書くだけで、以後、「浮海」するとも「渡海」するとも書いていない以上、『「書かれていない」海津/海港で船に乗って長距離を移動する』ことは、一切予定されていないと見るべきではないかと思われる。
 当代天子である隋帝楊廣(煬帝)は、この時期は、依然意気軒昂で在ったはずであるから、魏代以来疎遠であった俀国への文林郎裴世清の「往還記」が、探索行の要点を漏らした粗雑なものと見たら、突っ返して、きつく叱責したはずである。鴻臚が上程する蛮夷「国書」は、原文無修正であるのだが、当「往還記」も、勅命の成果であるので、公文書扱いせずに原文が天子のもとに上程されたと推察される。

 それにしても、陳寿が、「魏志倭人伝」に於いて、ことさら「水行」なる行程用語を渡海行程に充てる書法を創始したことに気づけば、幸甚な先例として、「循海岸水行」と書くのは適法であるが、それも書かれていない。「魏志倭人伝」に一顧だにしていないことを重大に受け止めたい。

 もちのろん論者が「魏志倭人伝」の道里行程記事に、「島外に出て、東方に遠出する」と書いていると、根拠無しに「決め込んで」いると、さすがに「つけるクスリが無い」のだが、論義は、「決め込み」を主張することで解決することは無いのである。

*頓首/死罪の弁
 当ブログ読者諸兄姉は、古田武彦師が書かれたように、順当な文書解釈にたいして、あえて重大な異議を唱えるのであれば、正統な論拠に準拠した堅固な論証を提示する重大な義務がある」ことにご留意いただきたい。それでようやく異議が一人前と認められて審査に付されるのである。世に蔓延る「異議」僭越に対して、当然の指導とみる。

 以上の「難詰」は、「異議」を奉戴している史学界諸兄姉には、無礼極まりないと聞こえるかも知れないが、ことは、「論義」/「論証」の正道の確認であるので、ご容赦いただきたい。また、古賀達也氏に対して、頭越し/僭越の失礼であることも、よろしく御寛恕頂きたい。

以上

新・私の本棚 番外 古賀達也の洛中洛外日記 3217話

 「東西・南北」正方位遺構の年代観 (3) 2024/02/05
                                                                                        2024/02/08 公開

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

*はじめに~おことわり
 当「日記」には、古代史を巡る話題に対して、従横を極める精力的な執筆に、愛読者として毎回感服しているのですが、今回は、お話の滑り出しで「すべって」いて、首を傾げました。

 記事引用:東西方向については春分・秋分の日の、日の出と日の入りの方向を結ぶことで東西方向を確定できます。この観測により、古代人は東西方向(緯線)を求めたと思われます。南北方向(経線・子午線)はこの東西線に直角に交差した直線であり、北方向は北極星により定めたと思われます。

 コメント:
 同様な「誤解」が、結構蔓延しているので、題材にさせていただきました。

 ある地点で、簡単に東西南北を求める手順は、以下の通りです。
 まず、広場に1㍍程度の棒を立てます。言うならば、日時計です。
 晴天日に、棒の影の頂点を描いていくと、影が一番短くなる点が、南中点です。棒の根元と結べば、南北線、子午線が求められます。
 南北線決定は、晴天日で良く、春秋分を待つ必要はなく、北極星確認も必要ないのです。ちなみに、春秋分を知るのは、高級課題でしょう。
 棒の根元で南北線に直交する垂線を立てれば、東西線です。縄の両端に棒をくくってコンパス代わりにする東西線作図は初級課題です。
 地形の事情で日の出入方向が不明でも、東西南北が決定できます。

 例えば、著名な纏向では、水平線/地平線は全く見えず、日の入りの方向は、生駒の山嶺ではっきりせず、そもそも、東には三輪山が聳えていて、日の出の方向は、一段とはっきりしません。勿論、季節毎に、どの嶺に日が沈むというのは、精密に観測できるのですが、それは、日の入りではないのです。
 ちなみに、本当の「日の出」、「日の入り」が、両方とも精確に観測できる地点は、ごくごく限られています。また、日の入りの時刻に水平線付近は、霞がかかっていることが結構多いので、精確な日の入りの観測は、大変困難です。

 よろしくご一考いただければ幸いです。

                                以上

2024年5月 6日 (月)

新・私の本棚 番外・破格 西村 秀己 古田史学会報 127号「短里と景初」誰がいつ短里制度を布いたのか? 追記三掲

 古田史学会報 127号 (ネット公開)  2015/04/15
 私の見立て ★★★☆☆ 思い余って言葉足らず  2020/12/13  追記 2021/04/02, 04/12 2024/05/06

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

□はじめに
 当記事は、古賀達也氏ブログの最新記事で踏襲されているので、最新論考とみて、あえて、非礼を省みず率直な(部分)批判を試みたものである。

○論考のほころび~景初初頭短里施行の検証
 案ずるに、「景初短里」圏外の長「里」が、三国志編纂時に換算され、処理に窮した端(はした)を「数*里」表記したとの部分的仮説の検証であり、以下の引用で主旨は尽くされていると思う。

 そこで三国志の陳寿の本文から、[中略](検証に関係しない用例を除くすべての)「里」を年代別に並べてみた。(本紀はともかく、列伝は年号を明記していないものが比較的多い。特に対象の人物の若いころのエピソードははっきりどの年代なのか判別できないものも多いので、間違いがあるかも知れないが、大勢には影響がないと思われるのでご容赦願いたい)
 表をご覧戴ければお判りのように、「数〇里」の出現比率は、
 漢=二一・三%
 蜀=三三・三%
 呉=四〇・〇%
 魏の黄初?青龍=三七・五%
 ところが
 魏の景初以降=五・三%
 つまり、短里の施行は景初初頭という仮説にピタリと一致しているのである。

*過度の精密表記~速断の弊
 当記事は、「数*里」限定だから、中略部は空振りとしても、断片的データ計算結果に過度に精密な数字を提示し、「ピタリ」一致とは不合理である。穏当な漢数字表記でも、元々不確か、うろ覚えの原データの信頼性であるから、二、三、四割が妥当と思われる。有効数字として一桁も覚束ない数字に0.1㌫表現は、児戯で非科学的である。

 漢数字でも、三世紀当時は、小数のない時代なので、氏の表示は時代錯誤である。あるいは、五分の一、三分の一、五分の二とでも表現するのであろうか。
 数字表記の意義は後回しとしても、景初以降五㌫と言っても、サンプル個数と個別評価が不明なので、統計数値として意味があるだけの数なのかどうか、判定しようがない。つまり、「ピタリと一致」と言うのは、根拠の無い速断なのである。
 いずれにしろ、胡散臭い精密な数字の陳列は、古代史論には無用である。
 さらに言えば、各数字は、各サンプルの意義次第であり、数字の字面論議で済む議論ではない。言い募るほどに論者の見識を疑わせるだけである。

 以上は、偶々、当史論の批判の機会に書き立てただけで、言うまでもないことながら、西村氏個人に独特のものではなく、まして、古田史学会にだけ存在している風潮でもなく、むしろ、広く古代史論全般を見る限り大半の論者と同列の書法なので、「史学論に科学はない」と言いたくなるほどである。心ある方は、是非、古代史論は、原資料と同等の漢数字書法にしていただきたいものである。

◯場違いな用例の山積
 正史の道里表記の検証には、記録の正当性の検証が必要であり、それには、相当の立証努力、試錬を要する。(鍛冶が刀剣を鍛えるように、叩いて焼き入れして、真っ直ぐで強靱なものにするという意味である)
 つまり、偶々、何れかの記事に書かれている「道里」が、「短里」で書かれているように見えたとしても、それは、国家の制度として実施されていたことを証する効力はないので、史学論議として、無意味な徒労なのである。それは、記録の数をいたずらに増やしても、意味がないのである。これは、夙に古田武彦氏が高らかに指摘しているものであることを、書き付けるものである。

*「三国志」の個性再確認
 通常、「三国志」の構成史書は、「魏志」、「蜀志」、「呉志」と言い慣わされているが、三国志の諸志というと、紛らわしいことがあるので、本編に限っては、「魏国志」、「蜀国志」、「呉国志」と呼ぶことにしている。
 これら三篇の「国志」は、それぞれの別の書き手によって整えられた史書であるから、当然、別の方針で編纂されているので、必ずしも、三国志としての統一語法、思想で編纂されているわけではないことは、公に意見を述べる程の品格の諸兄には、周知と思う。(『「周知」と勝手に言うが、俺は知らん』などと反論しないでほしいものである)

 各国志は、それぞれの「天子」の諸制度をもとに書かれているが、仮に、魏朝が、漢朝以来の確固たる里制を変更する蛮行があっても、何よりも、曹魏を後漢帝制の不法な簒奪者、「偽/賊」と見ている蜀漢では、そのような不法な変更は、絶対に施行されない。

 つまり、「蜀国志」は、漢史稿であり、当然、採用されるのは、当然漢制であり、陳寿は、「蜀国志」を「魏国志」と峻別している以上、里制をいわゆる「魏短里」制(仮に、そのような制度が施行されたとしても、ということであって、「魏短里」制が実在したと言ってるわけではない)に書き替えたりしない。いや、蜀漢皇帝を先主、後主とし、両主に本紀を立てないが、蜀国志の細目に(無法な変改の)手を入れていない。

 東呉は、本来、後漢に服属していたが、曹魏による簒奪は、正統な継承とは見ていない。従って、「呉国志」も、東呉韋昭編纂の「呉書」が土台であり、その主旨は同様である。東呉は、時に魏に臣従表明したが、だからと言って、魏短里制を踏襲していないと思うのである。つまり、仮に「魏短里」制が、強行されたとしても、「呉国志」には、そのような不法な制度は書かれていない。
 よって、「蜀国志」、「呉国志」の三国志統一史観のもとでの史料分析は、ほぼ無意味である。

○まとめ
 当論考は、元々不確実な魏晋朝短里説の論証として、全く不十分と見える。残念ながら、魏明帝「景初初頭短里施行」仮説は、却下判定である。もちろん、ここで指摘しているのは、仮説論証過程の不備であって、仮説自体を論じたのではない。

 ただし、視点を変えて、論証批判という見地から云うと、「景初初頭短里施行」仮説は、論証以前に随分無理がある。
 国家制度としての里制変革は、具体的な実施条件まで含めた、大部の要項が必要であり、また、各地で実施したときの多大な紛糾の記録が残るものであるので、実施されたのであれば、明確な記録が残されているはずなのである。
 また、後続の「晋書」地理志に、そのような制度変更の形跡を一切とどめていないのも、実施されていない変革と思わされるのである。

 正史「晋書」は、唐代に完稿と言っても、晋代から続く各家晋書稿を集積しているので、晋代の「重大な史実」を書き漏らしてはいない
のである。また、「晋書」 は、「魏志」が備えていない「志」(范曄「後漢書」も、補追された「志」しかない)を完備しているので、魏晋代の記録を補完しているものと見える。

 そのように、安定した資料に基づいて、確実な史観を確定すれば、「陳寿の里制換算想定」の妄想は、「なかった」の一言で蛇足となり、明解である。

 古代史論で、「何かの制度変革がなかったと言うには、そのような史料がないと言うだけでは不十分だ」とする(どこか別の論議で聞いたような)抗弁が聞こえてくるが、国家制度を揺るがす制度変革が「一級史料に全く記録されていない」(明記されていない)というのは、史料批判どころか、史料の本質に反するとんでもない言いがかりであり、そのような提案には重大な立証義務が伴うと思うのである。

                               以上

2024年5月 5日 (日)

新・私の本棚 邪馬台国の会 第381回講演「邪馬台国」論争 三  1/10

 安本 美典            記2019/09/17 追記2020/10/06 2024/05/05
私の見立て ★★★☆☆ 古典的卓見の現状確認

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

〇始めに
 安本氏は、「邪馬壹国はなかった」なる好著で古田武彦氏の「邪馬壹国」主張を鋭く批判しましたが、以降、何も付け加わっていないのは残念です。

〇邪馬台国の会 第381回講演会(2019.7.28)
 当講演会に於いて、氏の「邪馬壹国」、「邪馬臺国」論の現時点での見解は次のように表明されています。
【日本古代史】「邪馬壹(壱)国」か、「邪馬薹(台)国」か論争 (2019.9.4.掲載) 
 同記事は、本来講演録なので、普通なら、文字起こしの誤記等はありえますが、分量からして氏の講演稿であり、サイト公開前に氏が目を通されているはずですから内容に齟齬は無いはずです。(薹はともかくとして)
 そして、ここには、氏の連年不変の持論が書かれているので、一般読者が参照可能な「当記事」に批判を加えても不当では無いと思うものです。
 講演の前半では、氏の持論を支える諸論客の所見が列記されていますが、「証人審査」、「所見批判」が尽くされてないのは、不備と思われます。
 以下、敬称、敬語表現に不行き届きが多いのは、当ブログ記事筆者の怠慢によるものであり、読者にご不快の念を与えることを申し訳なく思いますが、当ブログの芸風でもあり、ご容赦いただきたいものです。

〇三大中国史家 
 まず、中国諸氏の意見です。(三氏の著書は、いずれも拝読しています)

1.汪向栄事例
 冒頭の汪向栄氏は、書籍の内容紹介に「中日関係史の研究者として著名な著者が、中国の史書の性格を的確に捉えたうえで日本人研究者の論考を広く渉猟し、独自の邪馬台国論を展開」とあり、当時の政情不安定な中国における「邪馬台国」論が、多数の中国研究者の学究の集積でなく、氏独自の「弧説」であることを物語っているように見えます。
 特に、同書の骨格の一部が、日本側資料の日本側研究者の論考の渉猟の結果とされていることから見て、親交の深い日本側関係者の定説、俗説の影響を受けていることは、氏の論考の自由な展開を制約したものと見えます。
 そのような限界から、氏の労作『中国人学者の研究 邪馬台国』(風涛社刊、1983年)は、「一中国人学者の研究」と題すべきと考えます。氏の著書が全中国人研究者の研究の集成である」と判定する根拠は見当たらないようです。
 また、引用された氏の見解は、単に中国古代史書の文献解釈の一般論を述べるに過ぎず、本件課題である「邪馬壹国」解明に寄与しないと思います。

2.謝銘仁事例
 次いで示された謝銘仁氏の著『邪馬台国 中国人はこう読む』(立風書房刊、1983年)は、タイトル不適切は別として、古田氏の「倭人伝」行程解釈の不備を言うもので、その際に、「日本流」定説を踏襲したのは皮肉な発言かと思われます。
 また、この発言は、古田氏所説の誤解釈の究明の例としても、本件課題である「邪馬壹国」解明に寄与するものでなく、単なる雑音でしかありません。
 

                                未完

新・私の本棚 邪馬台国の会 第381回講演「邪馬台国」論争 三  2/10

 安本 美典            記2019/09/17 追記2020/10/06 2024/05/05
私の見立て ★★★☆☆ 古典的卓見の現状確認

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

3.張明澄事例
 最後に登場した張明澄氏は、当誌に倭人伝解釈議を延々連載したため、編集長安本美典氏の意向を忖度したと感じられて、証人資格に、重大この上ない疑義があると思われます。
 また、当誌上でしばしば展開された長広舌は、論考ならぬ雑情報や根拠不明の私見を権威めかしたものに過ぎず、論考はごく一般論に過ぎないと感じられます。疑わしければ実読いただきたいのです。それにしても、記事の最後に、時に披瀝される「本音」らしきものは、事態の真相をえぐって貴重な啓示となっているからです。ということで、氏の意見は、本件論証には寄与しないと推定されます。

 事実確認ですが、氏の経歴から、日本統治下の台湾で、少なくとも、「今日の小学校時代まで皇民教育を刷り込まれ、その世界観に染まっている」と推定されるので、「中国人史学者」として信を置くことが困難です。別に非難しているわけではありません。

 台湾が、日本統治時代の終了により「中華民国」に復帰して以来、当地に亡命した「中華民国」は、伝統的な中国文化の継承者として、歴史研究にも注力したと見え、正史二十四史の刊行などの大事業に取り組んだとみているので、氏が、以後どのような教育を受け、研鑽に励んだかは不明です。別に記したと思うのですが、「中華人民共和国」は、中国文化の継承ではなく、文化の「革命」、つまり、古典書の廃棄に邁進したと思われるので、伝統的な歴史教育は、随分疎かになり、むしろ、滅亡が危惧されたものと懸念しています。その意味では、台湾での歴史研究は、天下で唯一の中国文化の拠点が持続されていたものと推定していますが、その点は、滅多に語られないので、以上のように臆測するしかないのです。
 因みに、日本語に堪能な中国人である張氏は、執筆時日本在住であり、これまで、国交のない「本場中国人」とどう意見交換したか不明です。

 余談はさておき、氏が、季刊「邪馬台国」誌で展開した厖大な連載記事には、本件課題の「邪馬壹国」解明に寄与する議論は示されてないと思われます。長期に亘った連載記事の全体を入手してはいないので、全文照合はしていませんが、安本氏がここに引用していない以上、そのような有意義な論議はされていないと見るものです。

〇ひとくくりのスズメたち
 安本氏は、意味ありげに「中国人学者たちの、筆をそろえての批判」と言いますが、僅か三人限りで、それぞれ学識も境遇(住居国/地域は、中国、台湾、日本混在で交流不自由)も、論調も三者三様ですから、童謡の「スズメのがっこう」でもあるまいに「おくち」ならぬ「おふでをそろえて」と書かれると、センセイがムチをふったかなと思うのです。考えすぎでしょうか。

〇「芸風批判」の弊害
 以下でも言及するかも知れませんが、小生の意見では、本記事(掲載当時)で安本氏に求められているのは、本件の課題である「邪馬壹国」の「純粋に論理的解明」であり、少なくとも、「敵手古田氏の芸風批判ではなかった」のです。
 いや、張氏が、当時(氏名の文字使いが似通っているということか )若い世代に猛烈に人気の某タレントの芸風を「世界に通用しない日本だけの人気」と批判し、「古田氏はその同類」と揶揄する、誠に意味不明の「芸風」批判を垂れ流したので、そう言わされるのです。
 以下、古代史に無縁の芸風批判にあきれかえったころ、ようよう史学論めいた論議になるので、冗長、散漫の印象を招いたのは勿体ないと思うのです。

 追記:張明澄氏は、「季刊邪馬台国」連載記事の放埒な筆致を悔悟してか、後年「誤読だらけの邪馬台国」(久保書店 ジアス・ブックス 1992)なる新書版冊子に、連載記事の学術的な部分を抜粋刊行していて、まことに、市場に蔓延している軽薄な俗論を脱した好著ですが、当講演で共々言及されていないのは残念です。(2024/05/11)

                                未完

新・私の本棚 邪馬台国の会 第381回講演「邪馬台国」論争 三  3/10

 安本 美典            記2019/09/17 追記2020/10/06 2024/05/05
私の見立て ★★★☆☆ 古典的卓見の現状確認

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

〇大家の誤字ご託宣
 そのあげく、当分野で定番化している「倭人伝」誤記論議が掲示されています。どうも、ここまで誤記がある以上、「壹」もまた誤記に決まっている』という主張らしいのですが、まことに「うさん臭い」論法で、せっかく御提言いただいても、とてもとても同感できないのです。
 そこに、下記二書の誤記論が表形式で対照して引用されています。
①藤堂明保監修『倭国伝』(『中国の古典17』学習研究社昭和60年10月15日刊)
②森浩一編『日本の古代1 倭人の登場』(杉本憲司、森博達(ひろみち)訳注、中央公論社、昭和60年11月10日刊)

1.藤堂氏事例
 藤堂氏監修本は、「太平御覧」に所引された魏志である「御覧魏志」 を劈頭に「後漢書」、「梁書」、「北史」、「隋書」の「倭伝」記事を参照して、これらがなべて「臺」を採用している以上、原典である「倭人伝」は、現在原本とされている「壹」でなく、「臺」と書いていたと判断するとしている、とのことです。
 藤堂氏は、漢字学における権威者と見かけますが、少なくとも、古代史分野における文献学の権威とは思えず、また、諸史書を羅列したため、個々の史料批判や「御覧魏志」の史料批判が、適切にされていないと見える点で大いに疑問です。

2.森浩一氏事例
 森浩一氏は、古代史分野における考古学の権威であり、従って、文献解釈は専門外と見られます。そのため、史料解釈は、杉本、森博達両氏に全面的に委ねたと思われますが、同書の記事を見る限り、というか、掲表の末項、「景初二年遣使」論で見られるように、杉本、森両氏の資料誤読と思われる難点を放置して「編著」としているので、氏の考古学分野での比類無き権威は、両氏に連座して大いに疑わしいものになったと見られます。
 何しろ、本書の挿絵は、魏皇帝の玉座の前に平伏する倭使の姿が描かれていて、世上、囂々たる非難を浴びているのです。何しろ、景初二年説、景初三年説のいずれを採用するにしろ、倭使が、魏皇帝(景初三年元日逝去の明帝曹叡、或いは、景初三年元日即位の少帝曹芳)に拝謁したとの記事は存在せず、むしろ、拝謁しなかったと見える上に、明帝の勇姿を描くのか、少帝曹芳の頼りない姿を描くのか、どちらの見解を支持するのか、重大な懸案に対して、議論を尽くすことなく醸し出した、いわば未熟な早計を読者に押しつけているのであり、後生に大きな悔いを残したと見えます。

**森博達氏編著考察 **引用開始
 景初は魏の明帝の年号であるが、ここの二年とあるのは景初三年(239)の誤りと考えられる。日本書紀に引く「魏志」と「梁書」諸夷伝の倭の条では景初三年となっている。
 当時の政治情勢を見ると景初二年までの50年間、公孫氏が遼東で勢力をもち、一時は独立して燕王と称していたので、倭国の使者は魏に行けなかった。景初二年正月になって魏は公孫淵を攻撃し、八月に至ってようやく勝利を収め、遼東から楽浪・帯方に至る地域が魏の支配下に帰したのである。景初三年に遼東、楽浪などの五郡が平洲として本格的に魏の地となって、始めて倭国の卑弥呼が直接、魏に使者を派遣できるようになった。このような政治情勢からも、この景初二年が三年の誤りであることは自明のことである。
**引用終わり

 可能性のある漢数字二と三の誤認を「実態」と「決めつける」と、他の項目と比して字数が多いが故に、一段と記事著者の欠点が露呈していると見えます。

*書紀神功紀/梁書事例
 第一の論拠として引用された書紀神功紀の魏志引用は、記事自体に重大な錯誤があることでわかるように、当記事が、もともと、同時代に存在していた魏志(依拠写本)記事の正確な引用であったことは疑わしいと思われます。
 また、冷静に見て、現存書紀写本の「三」が、武家政権下で、天皇制の正当化を図る「禁書」扱いで逼塞していたため、長年の「不安定、不規則、つまびらかでない私的な書写継承」が闇とされていた間に、必然的に伝世劣化し、誤写、改竄された可能性は、何としても否定できないと思われます。いや、当ブログ筆者は、国内史書の伝世については、門外漢ですが、誤写疑惑は当分野の定番なので書いてみただけです。
 また、後世正史の中で、よりによって、編纂過程に疑問が残る「梁書」記事が採用されているのも、うさんくさいと感じられるのです。「なべて」と、どっこいどっこいです。

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