新・私の本棚 番外 刮目天 一 「卑弥呼は公孫氏だったのか?( ^)o(^ )」
2022/12/30
◯始めに
当記事は、刮目天氏のブログ記事の批判でなく、引用記事に対する氏の批判が「ツボ」を外しているので援軍を送ったものです。氏は、専門外の中国史料の解釈に手が回っていないことがあるので、ここでは、僭越ながら愚見を述べるものです。
*本文
「卑弥呼は○○族だった!?古書から日本の歴史を学ぶ?」
論者、「古本屋えりえな」氏は、勉強不足の新参者のようです。
晋書四夷伝倭人伝 「晋書倭人伝」の解釋です。スクリプト提供あり。
其家舊以男子為主 漢末倭人亂功伐不定 乃立女子為王名曰卑彌呼 宣帝之平公孫氏也 其女王遣使至帯方
「[略]漢の末に倭人は乱れて世情が定まらなかったので、ひとりの女子を立てて王とした。名は卑弥呼という。その女王は晋の宣帝が平らぐる公孫氏なり。この女王は帯方に使者を派遣し[以下略]」
出所不明で、翻訳文責不明ですが、原文から遊離した乱調解釈で、素人目にも不出来な「誤解」です。
何しろ、原文は、宣帝司馬懿が遼東遠征平定の折、倭女王が帯方に遣使したというだけで、ここで女王出自を述べてはいないと見えるのです。
要するに、そのように「誤解」するのは、「晋書倭人伝」を読む前に、重要な基本資料である「魏志倭人伝」を読んで十分理解した上で、次いで、補足資料として、これを読むという手順を外れているのが原因です。「晋書倭人伝」は、晋が滅び、後続の南朝諸国が滅び、北朝の隋が天下を取った、そのあとの唐の時代に、すでに公式史料として定着している「魏志倭人伝」をもとに編纂されたものですから、その内容を要約しつつ多少補足するのであって、脱線して余談に嵌まることは「絶対に」ないのです。小賢しい創意を加えることは「絶対に」 ないのです。つまり、そのような解釈は、「絶対に」 物知らずの後世東夷の「誤解」なのです。
その見方を守っていると、論者の解釈は、正史の「伝」として場違いで不細工なものであり、簡単に、それは考え違いとわかるはずです。晋書編纂は、唐皇帝の勅命に基づく大規模の国家事業であり、同時代最高の人材が編纂に取り組んでいる以上、少なくとも、東夷の後裔に後ろ指をさされるような、お粗末な体裁にはなっていないとみるべきです。周囲の編纂者に、お粗末で史官の資質に欠けると断定されれば、更迭、降格され、史家としての威信を無くすのです。ほとんど命がけですから、最善を尽くすしかないのです。
そもそも、後世の「晋書倭人伝」が、公式史書として信用している「魏志倭人伝」にない風評記事を、場違いなところに書き足すはずはないのです。誰でも、史料の食い違いを発見することができるので、冷静な研究者なら、「晋書倭人伝」をそのように解釈することは大間違いとわかる筈です。あるいは、周囲の良識ある研究者が「誤解」の公開を制止するはずです。
「場違い」と言うのは、「魏志倭人伝」では、「名は卑弥呼という」までに、女王が「一女子」であったと明記しているのに続いて、男弟や城柵の話まで書いているのに、「晋書倭人伝」は、その部分を省略して、景初二年六月に相当する部分に飛んでいるから、これは、女王となった後の話であり、そこに女王が実は公孫氏の親族であったと書くのは、読者を騙したことになって失礼であり、晋書の編者が、そのような手違いを見過ごすはずがないのです。つまり、「公孫氏の親族である女性を王に擁立した」ともともと書いていないのを、飜訳したかたが、自己流で作り出されているのであるから、まことに失礼ながら、それは お客様の「誤解」ですよと言わざるをえないのです。
時代背景を確認すると、景初年間、大軍を率いて遼東に派遣された司馬懿は、魏皇帝に反逆した大罪人一族を族滅(一族皆殺し)し、洛陽の人質まで殺しています。司馬懿の遼東平定時に公孫親族がやって来れば、連座して首を飛ばしているところです。いきなり首を切られなくても一味として投獄されます。もちろん、そんな目に遭うのがわかっていて、倭人の使節がのこのこやってくるはずもないのです。だから、気軽に書き流すことはできないのです。
ここでも、論者の解釈が「誤解」だとわかるのです。
もちろん、そうしたことは、すべてが常識なのでわざわざ書いていませんが、中国の古代史料を十分勉強したものは、そんな間違いはしないものです。ぜひ、出直してほしいものです。
以下、変則的文献解釈が続きますが、勉強不足の勘違いの上に立てた「思い込み」の不出来な連鎖を読むことは、時間の無駄なので、一発「退場」です。ここでは、落第生の弁護はしないのです。
結構な時代で、時代錯誤の解釈も堂々と公開でき、うらやましい限りです。読者も手早く採決しないと、時間がいくらあっても足りません。
*脇道コメントの弁
本件、刮目天氏のブログにコメントを投書しようとすると、Gooブログの開設を要求されるので今回も直接のコメントは遠慮しました。
当ブログは身元確認などしないが、不当なものは然る可く遮断します。
*余談の弁
以下、余談ですが、背景を知らずに炎上すると不本意なので、釘を刺すものです。以下が理解できないなら、当ブログの落第生なのでお帰り頂くものです。お気に召さないとしても、それは、当方の責任ではありません。
*初めての「卑弥呼」伝
「魏志倭人伝」を普通に読む限り、卑弥呼は、男王の娘が嫁ぎ先で産んだ「女子」、つまり「外孫」であり、娘が嫁ぎ先に持ち込んだ男王の「家」と嫁ぎ先の「家」の両家の支持を得た「共立」で「女王」に立てられたものです。卑弥呼は、いわば、両家を強力に締結する「かすがい」だったのです。
本来男子継承ですから、卑弥呼は継嗣でなく、家の祖霊に傅く「巫女」として生涯不婚の身であったので、信用されたのです。年齢としても、数えで二十歳に満たない「妙」、「少女」、「未成年」であり、近年正月に「成年通過儀礼」(Rite of Passage)を受け「已に長大」と書かれています。
*笵曄「後漢書」批判
笵曄「後漢書」が、女王関連記事で、「漢末」と数十年遡らせたのは、後漢献帝期の建安年間すら、「後漢書」でなく「三国志」の領分なので、三国志にない「倭国大乱」を、桓帝・霊帝の時代のことにしていますが、根拠史料は存在せず、つまり、「魏志」に反する虚構と見えるのです。
笵曄「後漢書」は、陳寿「三国志」完成稿が、陳寿の没後、さほど年月を経ず上程され、直ちに「三国志」と公認されたのと異なり、笵曄が嫡子もろとも、謀反の大罪で斬罪に処され命を落とした後、いつ、どのようにして、笵曄「後漢書」として認定されたのか不明です。意地の悪い言い方をすると、誰も、笵曄「後漢書」の上程稿を見ていないのです。
そのほか、講師は、色々史料を読んでいますが、歴史背景理解力に乏しく大きく躓いて泥沼に墜ちていますが、個人の信念なので助けの手は出せません。まずは、古人を根拠の無い妄想で貶めるのは、感心しないものです。そして、自分で自分を窮地に追いやるのは、傍目にも感心しないのです。
*まとめ
刮目天氏は、基本的に同意見なので、これは、講師批判のみです。
以上