後漢書批判

不朽の名著 范曄「後漢書」の批判という無謀な試みです。

2023年9月 6日 (水)

新・私の本棚 番外 NHK特集「シルクロード第2部」第十三集~知られざる東西交流の歴史 再掲 1/3

                     2021/02/02 2021/04/23 2023/09/06
〇NHKによる番組紹介
 NHK特集「シルクロード第2部」、第十三集は「灼(しゃく)熱・黒砂漠~さいはての仏を求めて~」。旅人が歩いた道の中で最も過酷なルート、カラクム砂漠を踏破する。
 シルクロードの旅人が歩いた道の中で最も過酷なルート、カラクム砂漠。何人も生きて越えることができないと言われた死の砂漠である。取材班はその道をトルクメンの人々の案内で踏破、チムール時代の壮大な仏教遺跡が残るメルブまでを紹介する。

〇待望の再放送~余談の山
 滅多にお目にかかれないメルブ(Merv)を見ることができたのは、貴重でしたが、漢代以来、東西を繋いだメルブの意義が見逃されているのは残念です。
 メルブは、漢書「西域伝」、後漢書「西域伝」で「西域」つまり漢の世界の西の果ての大国として紹介された「安息国」の国境要塞でした。例えば、漢書は、番兜城(ばんとうじょう?)、後漢書は、和櫝城(わとくじょう?)と書かれています。
 そのため、漢武帝使節と後漢西域都護班超の副官甘英の97年の探検行が、西方では「パルティア」と呼ばれた「安息国」国境要塞メルブを、訪問行の西の果てとしたことの意義が見過ごされています。この地は、延々と続いた砂漠地帯を出て、カスピ海沿岸の温和な地域と見ていましたが、実際は、砂漠の中のオアシスだったようです。少なくとも、漢使甘英は、酷暑の西域都督管内ではあまり見られない冷涼の地と感じたはずです。
 とは言うものの、いくら好意的な相手としても、西域に勇名を轟かせていた西域都督班超の副官が率いる、恐らく百人規模の使節団が、 大「パルティア」首都、遙か西方メソポタミアの「王都」クテシフォンに詣でて、大「パルティア」国王に謁見することは論外でした。
 そのため、両代漢使はメルブで小安息国長老と会見し、無事に使命を果たしました。国都に参上せず国王に謁見しなくても、漢使の任務を果たしたのです。
 倭人伝」解釈に於いて、随分参考になる前例ですが、論争の際に紹介されていないのは、意外です。

*メルブの意義
 当時、イラン高原を統轄していた大「パルティア」は、東西交易の利益を独占して当時世界一の繁栄を得ていましたが、その発祥の地でもあるメルブ(Merv)地域を東方の最重要拠点として、守備兵二万を常駐させていたのです。
 安息国には、 東方から急襲した大月氏騎馬戦力の猛攻により、迎撃した国王親征部隊が壊滅して国王が戦死した経験があり、以後、大兵力を固定して、東方蛮族(大月氏)の速攻に臨戦態勢で備えていたのですが、騎馬軍団の席巻で言えば、班固「漢書」「陳湯伝」で知られる匈奴郅支単于の西方侵攻のように、月氏事件は、空前でもなければ絶後でもなかったのです。後年、欧州諸国を震撼させたフン王アッティラの由来は不明ですが、

*西方捕虜到来
 因みに、大「パルティア」は、西方のメソポタミア地方では、ローマ軍の侵入に対応していて、共和制末期の三頭政治時代、シリア属州提督の地位にあった巨頭クラッスス(マルクス・リキニウス・クラッスス)の率いる四万の侵入軍を大破して一万人を超える捕虜を得て、「パルティア」は、一万の捕虜を東方国境防備に当てたとされています。(前54年)
 降伏した職業軍人は、遠からず両国和平の際に和平時に身代金と交換で送還されると信じて、数ヵ月の移動に甘んじたのです。ローマ側としては、生き残った万余の兵士を無事帰国させるために、司令官クラッススを引き渡し、捕虜をいわば人質として提供したしたものです。クラッススは、パルティアの軍法に則して斬首されたとされています。

 欧州側では「東北国境」と云うことで寒冷地を想定したようですが、メルブは、むしろ温暖なオアシスであり、何しろ、凶悪な敵を食い止める使命を課せられていて、ローマ兵は、捕虜とは言え、それなりの処遇を得ていたはずです。この時、一万人の捕虜を得たおかげで、一万人の守備兵を帰宅させたので、地域社会(パルティア発祥の地)に、大きな恩恵を与えたのです。

 なお、ローマ正規軍には、ローマの中級市民兵士や巨頭ガイウス・ユリウス・カエサル(シーザー)が援軍として送り込んだガリア管区の兵士も含まれていたから、一時、メルブには、土木技術を有し、ギリシャ語に通じた教養のあるローマ人が住んでいたことになります。恐らく、両国軍人の会話は、ギリシャ語で進められたはずです。いや、まだ、アレキサンドロスが率いたギリシャ語圏の兵士や商人がいたかも知れません。
 また、班固「漢書」西域伝に依れば、安息国人は、皮革に横書きで文字を書き付けていたようですから、共に、文明人だったのです。

 後漢西域都督班超の副官甘英は、一大使節団を率いて安息国に至り、長老、つまり、安息東部都督に相当する高官と交渉したものの、具体的な盟約には到らなかったと思われます。甘英の使命は、最高機密事項でしたが、当時、安息国と締盟した上で、西域都督班超に執拗に反抗していた大月氏/貴霜を挟撃、西域都督の以降を高めたいとの願望を持っていたはずであり、「貴霜」(クシャン)を凶悪な侵略者と見る共通した視点をもっていたと思われますが、安息国は、本来商業立国であり、専守防衛を国是としていたので、貴霜国を攻撃して地域の平穏を破壊するなど論外であったと見えます。

 もちろん、外交/軍事は、西方王都の国王の指示を待つ必要があったのですが、国王にとって最大の懸念事項は、至近のシリアに大軍を待機させているローマであり、東方で軍事作戦を展開する気はなかったのです。また、はるか東方の大国中国は、貴霜国と戦端を開いても、大軍派兵は大変困難と理解していたので、共同軍事作戦は割に合わないと見たようです。
 最後に、安息国は、東西交易の要であり、近隣諸国と戦火を交えて、交易を阻害することを恐れたとも見えます。何しろ、東西交易は、大量の黄金の卵を齎す「にわとり」であり、これを傷つけることは、国益に反したのです。

 以上、安息国の視点から、誠に割に合わない提言であり、国王の指示に従い、友好関係を損なわない程度に謝絶したものと見えるのです。
 甘英は、帰任して、大事がならなかったと報告したのですが、これは、西域都督の独断だったので、一切公文書に残らず、また、貴霜国に機密が漏洩すると、不穏な事態になるので、固く隠蔽したものと思われます。

◯笵曄による甘英弾劾
 世上、甘英が、西方の大国「ローマ」に到達する使命を帯びていたとする俗説が執拗に唱えられていますが、何重もの誤解に基づいていて、誠に嘆かわしい事態です。
 まず第一に、後漢、魏・晋を通じ、中国の西方知識は、到達点としては安息国止まりであり、しかも、安息が、西方の敵国ローマについて、甘英に知らせることは考えられないので、精々、カスビ海の対岸であるアルメニア、條支止まりであったものと思われます。それどころか、「西方の王都クテシフォンにすら赴いていない」のとともに、王都付近メソポタミア、および、そこに到る整備された街道の有り様も、明確に伝えていない節があります。
 まして、ローマ帝国が、精兵四万を常備していたシリア準州についても、一切伝えていないものと思われます。
 要するに、「大秦」と書かれている正体不明の国家の風俗は、安息国の周辺諸侯、精々、カスピ海西岸「海西」の條支と隣国のものと見えるのです。

*西域都督の重大な使命
 後漢西域都督は、あくまで臨時の官であって、現地に「幕府」を開いて、地域の軍事、税務の権限を与えられていましたが、万事、皇帝の勅許を仰ぐ必要があり、独断専行は許されていないのです。西域都督に与えられている任務、権限は、あくまで、漢武帝代に確立した「友好国」である「安息国」までであり、安息以西の未知の領域に勝手に進出することは許されていないのです。つまり、もし、甘英が、安息を越えて西方に進出するためには、皇帝の勅許が必要なのです。
 後漢書には、そのような勅命が出されたという記録はありません。
 もし、甘英が勅命によって西方進出を使命としていたら、これを達成できないまま帰還するのは、重大な違命であり、誅殺に値します。当然、西域都督も、同罪です。もちろん、笵曄「後漢書」にも、袁宏「後漢紀」にも、魚豢「魏略」西戎伝にも、そのような誅殺の記録はありません。
 以上のように論理的に確認すると、甘英は、安息国まで使節/ 行人として派遣されただけであり、安息以西に進出する使命は帯びていなかったのです。

*不可能な使命
 当ブログ筆者は、甘英の使命に対して私案を持っていて、要するに、西域都督班超が、独断で大月氏討伐の締盟の構想を抱いていたものと見るのです。これは、かつて、漢武帝が企てた大月氏との締盟構想と同趣旨であり、掠奪国家であって後漢の西域支配に頑強に抵抗していた大月氏を、漢~安息の挟撃で撲滅しようというものであり、安息長老の了解が得られれば、皇帝に上申して、安息王~後漢皇帝の盟約とするというものであったように推定しています。そのような軍事活動は、西域都督の使命の範疇であり、上申して勅許を得ることは、十分可能と見ていたものとおもわれます。

 ただし、実際は、班固の大月氏挟撃構想は、安息国の同意を得ることができず、甘英は、安息国との友好関係を確認するにとどまったものと見えます。甘英の派遣について、特段の使命が記されていないことから、単に、友好関係の確認、強化にとどまったものであり、特に、違命がなかったため、班超も甘英も、叱責等を被っていないものと見えます。

*笵曄乱筆
 そのように、使命が秘匿されたため、笵曄の疑惑を掻き立て、甘英は、無謀な冒険を試みて不達成に終わったと粉飾されたものと見えます。
 笵曄は、後漢末、班超時代の後に西域都督が撤収した結果だけを見ていたため、後漢の威勢を維持できなかったというあらぬ譴責を加えたものと見えますが、それは、笵曄が、西域都督の武官としての沽券を見損ねていたものと見えます。
 あるいは、西域都督班超の実兄であり、漢書を編纂した史官班固に対する引け目を、班超/甘英に押しつけたものとも見えます。要するに、漢書「西域伝」は、遠隔地を実見しない捏造だと貶めたかったものかも知れません。
 ここでも、笵曄の勝手な創作が見られるのです。
 
                                未完

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                     2021/02/02 2021/04/23 2023/09/06
*ローマ・パルティア戦記
 因みに、敗戦には必ず復仇するローマで、三頭政治末期の内戦を制して最高指揮官の地位に就いたカエサルは、パルティア遠征を企てたが、暗殺に倒れ、カエサル没後の内乱期、エジプトを支配したアントニウスは、カエサル遺命として、前36年にエジプト軍と共にパルティア遠征したが、あっけなく敗退しています。
 初代皇帝として、ローマ帝国を創業したアウグストゥス帝の前21年、本格的な講和が成立し捕虜返還を交渉しましたが、敗戦抑留以来30年を要したため、捕虜は、全て世を去っていたといいます。余談ですが、初代皇帝アウグストゥスは、中国の秦始皇帝と大きく異なり、元老院の支持のもと密やかにローマの共和制に終止符を打ちましたが、表向きは、元老院の首席議員の立場にとどまり、専制君主を名乗らなかったのです。

*シリア準州駐屯軍
 ローマ-パルティア間に講和が成立しても、ローマ側では、共和制時代から維持してきたメソポタミア侵略の意図は堅持され、ローマ属州のシリアに総督を置き、四万人を常駐させたのです。

*あり得ない漢使シリア訪問~余談
 范曄は、『後漢使甘英が安息の「遙か西方の條支」まで足を伸ばした』と「創作」したので、「條支」を「シリア」(現在のレバノンか)と見る解釈がありますが、街道整備のパルティアの国土を縦走する行程は、延延百日を要する遠路であり、異国軍人のそのような長途偵察行が許されるはずはなく、まして、その果てに敵国との接触は論外でした。

 いくら、「安息」の名に恥じない専守防衛の国であって、常備軍を廃していても、侵略を撃退する軍備を擁していたのです。

 甘英の本来の使命は、安息国との締盟であって、援軍派兵を断られた以上、往復半年はかかる探査行など論外と見るべきです。西の王都まで数千里の長途であることは、武帝使節の報告で知られていたのです。
 いや、もし、実際に君命を奉じて、(范曄が安息西方と見た)厖大な日数と資金を費やして「條支」まで足を伸ばしたのなら、いかなる困難に直面しても、君命を果たすしかなかったのです。西域と塗膜の副官たる軍人甘英が、使命を果たさずに逃げ帰ったら、そのような副官に使命を与えた上官班超共々、軍律に従い厳しく処断されるのですが、そのような記録は一切残っていません。笵曄は、文官であったため、軍律の厳しさを知らなかったのでしょうが、それにしても、西域都護副官を臆病者呼ばわりするのは、非常識そのものです。
 因みに、班超は、勇猛果敢な軍人ですが、漢書を編纂した班固の実弟であり、文官として育てられたので、教養豊かな文筆家/蔵書家であり、笵曄は、そのような偉材に喧嘩をふっかけたことになるのです。
 いや、当ブログ筆者の意見では、條支は、途方もない西方の霞の彼方などではなく、甘英の視界にある巨大な塩水湖、大海(カスピ海)のほんの向こう岸と信じているので、范曄の意見は、誤解の積み重ねに無理筋を通した暴論に過ぎないのですが、なぜか、范曄の著書は俗耳に訴えるので、筋の通った正論に耳を貸す人はいないのです。

 いや、またもや、長々と余談でした。

*東西交流の接点
 と言うことで、メルブは、「ジュリアス・シーザー」が象徴する西のローマと「武帝」が象徴する東の漢の接点になったのです。さすがに、時代のずれもあって、東西両雄が剣を交えることはなく、「安息長老」(おそらく、当方安息国の国主)が、漢人の知りたがる西の果ての世界に関してローマの風聞を提供したように見えます。

*西域都護班超と班固「漢書」
 改めて言う事もない推測ですが、甘英の西域探査行の詳細にわたる報告は、西域都護班超のもとから、後漢帝都の洛陽にもたらされたものと思われます。また、先に触れたように、班超は漢書を編纂した班固の実弟であり、当然、漢書西域伝の内容は、班超のもとに届いたと思われます。つまり、漢書西域伝は班超座右の書であり、西域都護にとって無駄な探査行など意図しなかったと見ます。

 恐らく、都督府の壁には「西域圖」なる絵図を掲げていたでしょう。(魚豢西戎伝が「西域旧圖」に言及しています)

*范曄「後漢書」の「残念」~余談/私見
 西域探査功労者甘英は、笵曄に「安息にすら行っていないのにホラ話を書いた」と非難され「條支海岸まで行きながら怖じ気づいて引き返した」と軍人として刑死に値する汚名を被っていますが「後漢紀」に依れば、班超が臨んだ「西海」は、メルブにほど近い「大海」、塩水湖「裏海」です。よって、魚豢「魏略西戎伝」でも明らかなように、甘英の長途征西は、笵曄の作文と見ます。

 因みに、魚豢「魏略」は、諸史料所引の佚文が大半であるため、信用されない傾向があるのですが、「魏略」西戎伝は、范曄同時代の裴松之が「三国志」に全篇追加したので、三国志本文と同様に確実に継承され、紹熙本/紹興本も、当然、その全容を伝えているので、今日でも、容易に読むことができます。(筑摩書房刊の正史「三国史」にも、当然、全文が翻訳収録されています)

*笵曄の限界と突破
 魚豢、陳寿は、曹魏、西晋で、後漢以来の帝都洛陽の公文書資料の山に接する権限がありましたが、笵曄は、西晋が崩壊した後の江南亡命政権東晋の官僚だったので、参照できたのは「諸家後漢書」など伝聞記事だったのです。諸家後漢書の中で出色の袁宏「後漢紀」は、ほぼ完本が継承されているので、容易に全文に触れることができ、部分訳とは言え、日本語訳も刊行されていて、原文を含めて確認することができます。

                               未完

新・私の本棚 番外 NHK特集「シルクロード第2部」第十三集~知られざる東西交流の歴史 再掲 3/3

                     2021/02/02 2021/04/23 2023/09/06

*幻の范曄原本
 先に挙げた、後漢書夷蕃列傳は「笵曄の誤解に基づく勝手な作文」満載なる私見は、魚豢が後漢朝公文書を直視した記述と笵曄が魏略を下敷きに潤色した記述とを対比して得た意見であり、先賢の評言にも見られる「定説」です。

 編者范曄が、重罪を得て嫡子共々処刑され家が断絶したため、范曄「後漢書」遺稿が、著作として決定稿であったかどうか、確実に知ることができません。陳寿「三国志」は、陳寿の手で最終稿まで仕上げられていて、没後、西晋朝の官人が、一括写本の手配を行ったことが記録されています。いわば、三国史の陳寿原本、と言うか、確定稿を、数人ならぬ数多くの関係者や読者が、つぶさに確認しているのです。
 これに対して、范曄後漢書は、いつ、誰が、遺稿を整えたのか不明です。隋唐統一以前、数世紀にわたる南北朝乱世をどのように写本、継承され、唐代に正史に列することになったのか、不明の点が多いのです。従って、范曄原本が存在したのか、関係者が体裁を整えたものなのかすらわからないのです。その意味で言うと、笵曄「後漢書」の范曄原本は、誰も知らないのです。また、現行刊本は、司馬彪「続漢書」の志部/資料編をとじ合わせているので、笵曄後漢書と形式が異なるものとなっています。

 このような事態は、史上最高の文筆家を自認したであろう范曄には大変残念な結果と思います。

*袁宏「後漢紀」西域条
 袁宏「後漢紀」は、百巻を超えて重厚な漢書、後漢書と異なり、皇帝本紀主体に三十巻にまとめた、言うならば準正史です。正史でないため、厳格な継承がされず、誤字が目立ちますが、佚文ならぬ善本が継承されています。
 列伝を持たないため、「西域伝」は存在しませんが、本紀に、西域都護班超の功績を伝える記事が残されていて、甘英派遣の成果も残されています。つまり、後漢紀は、西域伝や東夷伝を本紀内に収容したと言えます。

 魚豢「西戎伝」に続き、范曄「後漢書」西域伝の先駆となる小「班超伝」ですが、范曄が遺した「おとぎ話」は見えません。范曄が、魚豢に続いて袁宏まで無視した意図は、後世人には知る由もありません。

 范曄は、「後漢書」編纂に際して、諸家の後漢書稿を換骨奪胎したと言いますが、史書として、最も参考になったのは「後漢紀」と思われるので、いわば笵曄の手口を知る手がかりとなるものもあります。

*余談の果て
 と言うことで、番組紀行がメルブを辿ったことから、種々触発された余談であり、これほど現地取材するのであれば、両漢紀の西域探査の果てという見方で、掘り下げていただければ良かったと思うのです。

 また、共和制末期、帝政初期のローマとパルティアの角逐、と言うか、ローマの侵略欲を紹介していただければ、いらぬ幻想は影を潜めていたものと思うのです。

*再取材の希望
 と言うことで、メルブは、仏教布教の西の果てという意義も重要ですが、東西に連なる三大文明世界の接点との見方も紹介して欲しかったものです。
 いや、遠い過去のことはさておき、再訪、再取材に値すると思うのです。西方は、ローマ史に造詣の深い塩野七生氏の役所(やくどころ)に思うのですが、東方は、寡聞にして、陳舜臣氏を継ぐ方に思い至らないのです。

*参考書
 塩野七生 「ローマ人の物語」 三頭政治、カエサル、アウグストゥス、そして ネロ
 司馬遷 史記「大宛伝」、班固 漢書「西域伝」、范曄 後漢書「西域伝」、魚豢「西戎伝」(陳寿「三国志」魏志 裴松之補追)、袁宏「後漢紀」
 白鳥庫吉 全集「西域」


                               以上

新・私の本棚 番外 NHK特集「シルクロード第2部」第十四集~コーカサスを越えて~ 再掲 1/3

       2021/02/03   追記 2021/04/15 訂正追記 2021/11/26 2023/09/06
〇NHKによる番組紹介
NHK特集「シルクロード第2部」、第十四集は「絹と十字架~コーカサスを越えて~」。雄大なコーカサス山脈を縫いながら、絹交易のもうひとつのルートを明らかにする。
カスピ海の西岸モシチェワヤ・バルカで唐代の中国製絹が発見された。絹の出土地としては最西端にあたる。中国とローマを結ぶ絹交易は、税金の高いササン朝ペルシャを避け、カスピ海北岸をう回、コーカサス地方を縦断して行なわれていた時代がある。雄大なコーカサス山脈を縫いながら、絹交易のもうひとつのルートを明らかにする。

〇ささやかな誤解
 当番組の時代考証では、ペルシャを代名詞としているイラン高原の勢力を回避した「もう一つのルート」を考察していますが、『「交易ルート」がコーカサスの高嶺を越えた』と見ているのは、大胆な着眼としても、今回の番組で立証されたと見るのは、どうかと思います。また、南北に伸びたカスピ海の北岸は、冬季寒冷であり、通年して、交易路にならなかったのは明らかです。
 アルメニアの交易路は、カスピ海東岸中央部であり、カスピ海北岸など経由していなかったのです。
 因みに、ササン朝ペルシャはいざ知らず、古来、イラン高原の交易は、それぞれの地域勢力が仲介して多額の利益を上げる商業形態であり、通過する商人に課税したものではないのです。

*訂正
 今回再放送を確認したところ。番組が取り上げていたのは、ササン朝時代の状況であり、漢代/後漢代-バルティア時代の視点にとらわれて誤解した点をお詫びします。
 パルティア時代、当地を支配していたのは「アルメニア王国」であり、裏海-黒海の分水嶺の尾根を占拠していたアルメニア人が、東西の海港をも支配し、東西交易から収益を確保していた上に、政治的には、西のローマに対する牽制として、パルティアから親戚扱いされていた事から、こそこそ抜け道を迂回する必要はなかったのです。
 しかし、西のローマは、パルティア攻略の前提として、アルメニア王国の攻略を行い、強力な攻城兵器とシリア準州で臨戦体制を続けていた四万の常備軍に近隣諸国の援軍を加えた不敗の体制で、各地の山城をことごとく陥落させて、ローマ帝国の属国とし、パルティア東部への攻勢を見せて、メソポタミア領域の攻略に出たのです。
 結果、パルティアは、王都を攻略されて厖大な財宝を全て奪われて、全土を統制する威勢を喪い、東南方のペルシャ勢力に王国を奪われたのです。結果、ササン朝帝国が誕生しましたが、同帝国は、コンスタンティノープルの東ローマ帝国に移行した「ローマ」と対立を続け、ユーフラテス川流域の帰属を争ったために、アルメニアの黒海貿易を、高率の関税を課す事によって、厳しく規制したものと見えます。

 つまり、当番組は、西の東ローマ帝国との交易を事実上禁じられたアルメニアの苦肉の策して、コーカサス越えの「禽鹿径」交易を描いたものであり、同時代、及びそれ以後の時代考証としては正確と思われますが、交易への規制は、時代によって異なるので、何とも言えないのです。

 以上、大づかみな時代区分を誤った、見当違いの批判を書いた事をお詫びします。

*條支に至る道~魏略「西戎伝」
 ササン朝時代の前である、後漢代に安息国を訪ねた甘英は、西の大海カスピ海の中部を横断する「海路」を確認し、その報告は、三国魏の魚豢編纂の魏略「西戎伝」(陳寿「三国志」の魏書第三十巻巻末に全文収録)に記録されています。

 往年の安息(パルティア)東部要塞メルブから北上した海東の港から、大海の西岸である海西、今日のアゼルバイジャンのバクーにあたる半島(大海海中の島)に至ります。裏海(カスピ海)は塩水で水の補給が課題と言っても、帆走数日で着くので難路でもなんでもありません。

 地域の地形を確認すると、「大海」の南岸は低湿地である上に、地域勢力である「メディア」(中の国)の勢力範囲であったために、両国間の行程として常用していなかったのかも知れません。西戎伝には、「大海」南岸に安息と條支の国境があって、條支側の城から海岸沿いに遡って北に行く陸路行程が書かれているから、場合によっては、こちらを陸行したのかも知れません。

 このあたり、後漢の使節団が踏破したかどうか不明ですが、途中の渡河も含めて、行程記事は、まことに丁寧です。何しろ、目前の隣国で安息長老(公国の国王か)は、使節団を率いた甘英に対して懇切丁寧に絵解きしたはずです。

◯西域「海西」の正体~大海西岸の大国「條支」
 海西は、対外的には、「裏海」岸から「黒海」岸に至るアルメニア王国として、ギリシャ、ローマに知られていたとしても、裏海側はアゼルバイジャン民族、黒海側はグルジア(現ジョージア)民族が、それぞれ支配する高度な自治の状態だったかも知れません。イラン高原を含め、当該地域の各国は、中央集権ではなかったので、各国の内情はわかりませんが、現在の現地状勢からそう見ているのです。

 ともあれ、アルメニアは、当ブログ筆者の孤独な「新説」によれば、西域伝で安息長老が「條支」と呼んだ西の大国であり、イラン高原を含めた地域の歴史から見ると、安息国成立のはるか以前から、黒海-裏海間の要地を占めて東西交易を仕切っていたとみるのです。何しろ、北のコーカサスは、急峻な壁であり、よほどの事情がない限り、大規模な交易路とはなり得なかったと思われるのです。

 安息国は、アケメネス朝ペルシャ時代、ないしは、それ以前と見える建国の当初、條支に師事していたとの風聞が残されています。つまり、條支としては、東方物産の仕入れ先として利用したと見えるのです。
 その時点では、西方のイラン高原は、メディアないしはペルシャの巨大勢力が占拠していたので、安息は、大勢力のいいなりにならないために、條支交易を利用したものと見えます。
 西方のペルシャは、強力な支配者でしたが、西方ギリシャ勢力と地中海東部の覇権を争い、再三、陸海の大軍をもってギリシャ侵攻したため、ギリシャを糾合したマケドニアのアレキサンドロス三世軍の報復を受け、決戦に大敗して一気に壊滅し、ペルシャ地域は、大規模な破壊を被ったので、支配の緩んだ状況下で、東の小勢力、パルティアが台頭し、諸勢力の支持を集めて、アレキサンドロス亡き後のイラン高原を支配したものです。
 という事で、関係諸国の関係を概観しただけでも、支配-被支配の力関係は、時代時代のものであり、また、必ずしも、武力が国益に繋がるものでない事が見えてくるものと思います。
                                未完

新・私の本棚 番外 NHK特集「シルクロード第2部」第十四集~コーカサスを越えて~ 再掲 2/3

               2021/02/03   追記 2021/04/15 2023/09/06

*「條支」という国~私見連投
 「條支」は字義から「分水嶺、分岐路を占めた大国」との趣旨のようですが、地理上、北は峻嶺コーカサス山地が遮断し、南は強力なパルティアやペルシャが台頭して国境越えの交易を管制していたでしょうから、東西交易に専念した街道だったようです。パルティア時代、表立って漢と交際できなかったが、條支が漏らしたと見える「安息は、買値の十倍で売って巨利を博している」との風聞が記録されています。こうした貴重な現地情報を残した後漢西域都督使節甘英を顕彰したいものです。

 なお、「條支」も、当然、当該ルートでは東西貿易独占で巨利を博したから、コーカサスを越える往来希な山道の密貿易も横行したようですが、あくまで、脇道です。「條支」が巨利を博したからこそ、抜け道の危険は十分報われたのです。

 当番組は、南道と見えるイラン高原経由をシルクロード本道と見て、中南道とでも言うべき、裏海~黒海道、「條支」経由を軽視したように見えます。確かに、アゼルバイジャン、アルメニア、グルジア(現ジョージア)の各地で取材はされていますが、それが、「シルクロード」の有力な支流だったとの説明は無いように思います。

 取材された事例が、後漢代から、五百年から一千年過ぎた時代の話ですから、研究者の時代感覚が違うのかも知れませんが、太古以来、商材は変わっても、極めて有力な脇道であった事情に変わりはないのではないかと思うのです。高名な「トロイア」は、この東西交易の黒海下流で、巨利を博していたかも知れないと思うのです。もちろん、ここで述べられた歴史観は、多分、取材班が、地域の旧ソ連圏の研究者から学んだものでしょうが、中国西域としての視点が欠けているのは、何とも残念です。

◯白鳥西域史学の金字塔
 何しろ、中国側には、漢書、後漢書の盛時以降、魏晋南朝代の閉塞も、北魏、北周の北朝時代に回復し、隋唐の西域進出に繋がる豊富な史料が、正史列伝に継承されていて、世界初の西域史学の創設者と言える白鳥庫吉(K. Shiratori)師が、これら全ての西域伝を読み尽くして、一連の労作を構築されているので、欧州研究者は、まず、白鳥氏の著作を学び、次いで、原典である諸正史を学んでいます。

◯魏略「西戎伝」の金字塔
 特に、魚豢「魏略」西戎伝は、それ自体正史ではありませんが、正史「三国志」に綴じ込まれているので正史なみに適確に継承され、スヴェン・へディンなどの中央アジア探検行の最高の指南書とされています。それにしても、NHKが「シルクロード」特集を重ねても、一貫して中国史料を敬遠しているのは、不可解です。

○「後生」笵曄の苦悩
 因みに、范曄は、後生の得で、袁宏「後漢紀」の本紀に挿入された西域都護班超に関わる記事と魚豢「魏略西戎伝」の大半を占める後漢代記事とを土台にして、後漢書「西域伝」をまとめ上げたのです。つまり、魏代以来、中国王朝は、西域とほぼ断交していて、魏晋朝と言うものの、西晋崩壊の際に洛陽の帝国書庫所蔵の公文書が壊滅したため、南朝劉宋高官であった笵曄は、西域伝の原史料は得られず、代々の史官ならぬ文筆家の余技であったので自家史料も乏しかったのです。

 そのため、笵曄は、魏略「西戎伝」後漢代記事の転用に際して、知識不足で史料の理解に苦しみましたが、建康に在って西域の事情を知るすべはなく、結局素人くさい誤読・誤解のあげくに、創作(虚構)の目立つ「西域伝」を書き上げた例が幾つか見られ、史料としての評価は随分落ちるのです。

 以上の事情は、遼東郡太守公孫氏の自立による東夷関係史料の欠落にも共通していて、笵曄は、後漢末献帝期の東夷史料欠落/空白を、氏一流の創作で満たしていて、特に、「倭」に関する小伝は、俄然創作に耽っていると見えます。

                                未完

新・私の本棚 番外 NHK特集「シルクロード第2部」第十四集~コーカサスを越えて~ 再掲 3/3

               2021/02/03   追記 2021/04/15 補足 2021/11/26 2023/09/06
閑話休題

○ローマ金貨の行方
 オアシス諸国だって「巨利」では負けてなかったはずで、二倍、三倍と重ねていたとすると、消費地ローマでの「価格」は、原産地中国の「原価」の一千倍でも不思議はありません。(世界共通通貨はなかったから、確認のしようはないのですが)

 西の大国ローマは、富豪達の絹織物「爆買い」で、金貨の流出、枯渇を怖れたようですが、厖大なローマ金貨は、パルティア、ペルシャを筆頭に行程途中の諸国、諸勢力の金庫に消え、原産地中国に届いていません。

 行程諸国が、山賊、掠奪国家の暴威も、死の砂漠も、ものともせず、東西交易を続けたわけです。何しろ、原産地と消費地が交易の鎖で繋がっていたから、さながら川の流れのように、ローマの富が絶えることなく、東に広く流れ下ったのです。

 ローマ帝国は、後年、積年の復讐として、投石機などの強力な攻城兵器を擁した大軍で、メソボタミアに侵攻し、パルティア王城クテシフォンを破壊し国庫を掠奪して、度重なる敗戦の「憂さ晴らし」としたのです。
 勝ち誇るローマ軍は、意気揚々と、当時の全世界最大と思える財宝を担いで凱旋し、一方、権力の源泉である財宝を失ったパルティア王家は、東方から興隆したペルシャ勢力(ササン朝)に王都を追い出されて、東方の安息国に引き下がったのです。

 ローマは、地中海近くのナバテア王国を圧迫したときは、砂漠に浮かぶオアシス拠点、ペトラの「暴利」を我が物にするために「対抗する商都」を設けてペトラ経由の交通を遮断し、その財源を枯渇させましたが、イラン高原全土に諸公国を組織化していたパルティアの場合は、さすがに、代替国家を設けることはできず、また、いわば、黄金の卵を産み続ける鵞鳥は殺さず、太った鵞鳥を痛い目に遭わせるのにとどめたのです。

 ローマ帝国は、賢明にも、『古代帝国アケメネス朝ペルシャを粉砕して、東西交易の利を確保しようとしなかったアレキサンドロスの「快刀乱麻」』は踏襲しなかったのです。結局、アレキサンドロス三世は、ペルシャ全土に緻密に構築された「集金機構」を壊しただけで、ギリシャ/マケドニア本位に組み替える事もせず、大王の死によって武力の奔流が絶えた後は、ペルシャ後継国家が台頭しただけであり、要は、鵞鳥が代替わりしただけでした。

◯まとめ
 シルクロードは、巨大な「ビジネスモデル」です。

*補足
 以上の記事の主旨を理解いただいていない読者があるようなので、若干補足します。
 
 まず、NHK特集「シルクロード第2部」は、大昔の番組ですが、最近再放送があったので、目にする方が多いと見て、注釈を加えたのです。
 「再放送」は、デジタル時代にあわせて、リマスターされたものの、内容は初回放送当時そのままであり、それ以来の時間経過を含めて、批判しておくべきと考えたものです。
 また、この地帯の再度の取材による「新シルクロード」が制作されていますが、当然、ここで展開された歴史観は踏襲されていて、依然として、大変大きな影響力を示しているので、その意味でも批判が必要と見たのです。

 以上の批判が今後のNHKの番組制作に反映するかどうかは、当ブログ筆者、当方の知るところではないのですが、いわば「サカナ」にして当方の愚見を披瀝したものです。もちろん、読者諸兄姉の熟知していることでしたら、読み飛ばして頂ければ結構です。

*第2部の偏倚
 一番、不満なのは、第1部が、中国史料と中国現地取材が結びついた堅実な時代考証に基づいていたのに対して、第2部は、ロシア、中央アジア系と思われる西寄りの史料に傾倒していて、中国史料を棄てている点です。それが、特に顕著なのは、漢書、後漢書などに見られる「安息国」及びそれ以西の世界に関する考察が無い点であり、大変不満に思えるのです。

 つまり、漢代中国史料の西域記事は、当時の中原から想像した、西の果てにある世界でさらにその西を見たおとぎ話が多く、あちこちに茶番めいた失態がありますが、この場で、それらの突き合わせをする事で、「ローマと漢を結んだ」「シルクロード」交易なる歴史浪漫の幻像が是正されると見たのですが、未だに満たされていないのです。

 また、先立つ回で無造作に描写されているマーブ(Merv)要塞が、漢代、パルティア王国が、東の守りであり、二万の守備兵に、一時、一万のローマ兵捕虜が加わっていたという大変興味ある挿話に触れていないのは、大変、大変勿体ないのです。
 何しろ、中国涼州付近の大勢力であった大月氏騎馬兵団が、新興の匈奴に駆逐されて西への逃亡の挙げ句、貴霜国を乗っ取り、さらに、西方の安息国に侵入して、国王親征軍を大破して莫大な財宝を奪った爪痕が広く遺されていて、安息国は、西方諸侯の後援を得て再興されたものの、以後、二万の大軍を常備して、東の盗賊国家貴霜国の奇襲に備えていたのです。

 ローマ兵捕虜の由来は、不敗を誇っていた共和制ローマ軍が、三頭政治の一角であったクラッススを総帥とし、もう一人の三頭であるカエサルが援助した総勢四万人の必勝態勢で臨みながら、敵地での会戦で大敗して総帥を喪い、大軍の半ばを捕虜とされ、講和したもののローマ兵一万を戦時捕虜として貢献せざるを得なかったことは、ローマ史における屈辱の大事件であり、欧州史書に明記されているのですが、それについて何も触れていないのは、何とも、もったいないことだと思うのです。

 何しろ、東方千数百㌔㍍の彼方に一万の捕虜を護送するのは、安息国が、交渉可能な文明大国であったことを物語っていて、ローマ兵も、いずれ、ローマ本国の雪辱戦によって送還されるものと信じて、服従したものとしたものと思われます。ところが、その後、共和制ローマは、三頭政治の崩壊で、ポンペイウスとカエサルの対決、内戦状態となり、勝者カエサルは、パルティア遠征軍を組織している段階で、暗殺の刃に倒れ、と言った具合で、ローマとパルティアの交渉/交戦が成立しなかったため、ローマ兵は、帰還できないまま、マーブの地で一生を終えたと言うことです。
 なお、パルティア侵攻に踏み切れなかったローマは、地中海岸のシリアを属州化し、シリア総督の下に四万の兵を常駐し、パルティアを仮想敵としていたとのことですから、パルティアにとって、帝制に移行したローマは、巨大な仮想敵という事だったのでしょう。

 また、兵士を主体に百人を要したと思われる漢武帝使節団が到達した「安息」は、安息国の西の王都でも無ければ、地域の居城であるカスビ海岸の旧都でもなく、マーブ要塞だったという事も取り上げる価値があったと思うのです。突然切り捨てられた中国史料の視点が、大変残念なのです。

 確かに、当番組は、東西交易を隊商の駱駝の列が往来していたサラセン時代以降を主眼としているように見えますが、かたや、漢代シルクロード浪漫を言い立てているので、大変不満が募るのです。

*参考書
 塩野七生 「ローマ人の物語」 三頭政治、カエサル、アウグストゥス、そして ネロ
 司馬遷 史記「大宛伝」、班固 漢書「西域伝」、范曄 後漢書「西域伝」、魚豢「西戎伝」(陳寿「三国志」魏志 裴松之補追)、袁宏「後漢紀」
 白鳥庫吉 全集「西域」

                                以上

2023年7月22日 (土)

新・私の本棚 番外 第411回 邪馬台国の会 安本美典 「狗奴国の位置」

            2023/06/18講演           2023/07/22
*総評
 安本美典師の史論は知的創造物(「結構」)であるから、全般を容喙することはできないが、思い違いを指摘することは許されるものと感じる。

*後漢書「倭条」記事の由来推定
 笵曄「後漢書」は、後漢公文書が西晋の亡国で喪われたため、先行史家が編纂した諸家後漢書を集大成したが、そこには「倭条」部分は存在しなかったと見える。
 後漢末期霊帝没後、帝国の体制が混乱したのにつけいって、遼東では公孫氏が自立し、楽浪郡南部を分郡した「帯方郡」に、韓穢倭を管轄させた時期は、曹操が献帝を支援した「建安年間」であるが、結局、献帝の元には報告が届かなかったようである。
 「後漢書」「郡国志」は、司馬彪「續漢書」の移載だが、楽浪郡「帯方」縣があっても「帯方郡」はなく郡傘下「倭人」史料は欠落と思われる。

 笵曄は、「倭条」編纂に際して、止むなく)魚豢「魏略」の後漢代記事を所引したと見える。公孫氏が洛陽への報告を遮断した東夷史料自体は、司馬氏の遼東郡殲滅で関係者共々破壊されたが、景初年間、楽浪/帯方両郡が公孫氏から魏明帝の元に回収された際に、地方志として雒陽に齎されたと見える。

*魚豢「魏略」~笵曄後漢書「倭条」の出典
 と言っても、魚豢「魏略」の「倭条」相当部分は逸失しているが、劉宋裴松之が魏志第三十巻に付注した魏略「西戎伝」全文から構想を伺うことができる。
 魚豢は、魏朝に於いて公文書書庫に出入りしたと見えるが、公認編纂でなく、また、「西戎伝」は、正史夷蕃伝定型外であり、それまでの写本継承も完璧でなかったと見えるが、私人の想定を一解として提示するだけである。
 笵曄「後漢書」西域伝を「西戎伝」と対比すれば、笵曄の筆が後漢代公文書の記事を離れている事が認められるが、同様の文飾や錯誤が、「倭条」に埋め込まれていても、確信を持って摘発することは、大変困難なのである。

*狗奴国記事復原/推定
 念を入れると、陳寿「魏志」倭人伝は、晋朝公認正史編纂の一環であり、煩瑣を厭わずに郡史料を集成したと見える。史官の見識として、魚豢「魏略」は視野に無かったとも見える。魚豢は、魏朝官人であったので、その筆に、蜀漢、東呉に対する敵意は横溢していたと見えるから、史実として魏志に採用することは避けたと見えるのである。
 それはさておき、女王に不服従、つまり、女王に氏神祭祀の権威を認めなかった、氏神を異にする「異教徒」と見える狗奴国は、「絶」と思われ、女王国に通じていなかったと見えるので、正始魏使の後年、人材豊富な張政一行の取材結果と見える。

 安本師が講演中で触れている水野祐師の大著労作『評釈魏志倭人伝』(雄山閣、1987年刊)に於いては、「其南有狗奴國」に始まる記事は、亜熱帯・南方勢力狗奴国の紹介と明快である。

其南有狗奴國。男子爲王、其官有狗古智卑狗、不屬女王。[中略]男子無大小皆黥面文身。[中略]計其道里當在會稽東治之東。[中略]男子皆露紒以木綿招頭。[中略]種禾稻、紵麻、蠶桑[中略]所有無、與儋耳朱崖同。

 一考に値する慧眼・卓見と思われ、重複を恐れずに紹介する。

*本来の「倭記事」推定
 つづく[倭地溫暖]に始まる以下の記事は、冬季寒冷の韓地に比べて温暖であるが亜熱帯とまでは行かない「女王国」紹介記事と見える。

倭地溫暖、冬夏食生菜、皆徒跣。[中略]其死、有棺無槨、封土作冢。[中略]已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐。[中略]出真珠、青玉。[中略]有薑、橘、椒、蘘荷、不知以爲滋味。[中略]自女王國以北特置一大率[中略]皆臨津搜露傳送文書賜遺之物[中略]倭國亂相攻伐歷年乃共立一女子爲王。名曰卑彌呼。事鬼道能惑衆。年已長大。無夫婿。[中略]女王國東渡海千餘里復有國皆倭種。[中略]參問倭地絕在海中洲㠀之上或絕或連周旋可五千餘里。

*結論/一案
 要するに、「倭人伝」には、狗奴国は女王国の南方と「明記」されている。但し、時代を隔て、一次史料から隔絶していた笵曄が、解釈を誤ったとしても無理からぬとも言える。
 要するに、笵曄「後漢書」東夷列伝「倭条」は信頼性が証されず「推定忌避」するものではないかと愚考する。(明快な立証がない限り、取り合わない方が賢明であるという事である)

 安本師は、当講演では、断定的な論義を避けているようなので、愚説に耳を貸していただけないものかと思う次第である。

                                以上

2023年6月12日 (月)

私の意見 范曄「後漢書」筆法考 孔融伝を巡って 1/3 総論 改訂版

                    2021/03/08 補充2021/09/15 2023/06/12
〇はじめに
 当記事で論じているのは、范曄「後漢書」の史料批判にあたって、編者范曄が、原典史料にどのような編集を加えたか、推定するということである。そのために、後漢献帝期の著名人であった孔融の「伝」をどのようにまとめたか、同時代を記録した他の史書と比較したものである。

 孔融は、聖人孔子の子孫の中でも、同時代では、随一の位置付けであった。名門、名家の中でも、格別の偉材であった。

 范曄「後漢書」は、列伝において「孔融」伝を立てている。袁宏「後漢紀」は、列伝を持たないが、献帝紀に孔融が処刑されたとの記事を書くに際して、孔融の小伝を書き起こしている。それぞれ、孔融なる偉才に、伝記を書き残す価値があるとみたことがわかる。因みに、袁宏「後漢紀」は、東晋期に編纂されたものであり、范曄「後漢書」に先行している。つまり、笵曄の執筆時に参照されたことは確実である。

 一方、陳寿「三国志」「魏志」は、「孔融」伝を持たない。つまり、陳寿は、「孔融は著名人であったが、伝を立てるに及ばない」と見たものと思われる。これに対して、裴松之は、「魏志」崔琰伝に司馬彪「續漢書」から引用、付注 している。
 つまり、南朝劉宋の時代の視点で、魏志に孔融伝がないのは、欠落と見なされていたので、衆望に応えて補完したとみられるが、「魏志」に「孔融伝」を追加すると改竄になるので、「崔琰伝」に補注する形式を採用したとみられる。つまり、「魏志」は改変されていないのである。
 言うまでもないが、裴松之の補注、裴注は、陳寿の編纂したものではないので、陳寿「三国志」の史料批判に起用することはできない。参考になるとすれば、司馬彪「續漢書」の孔融記事は、陳寿が否決したものなのである。
 因みに、范曄「後漢書」編纂時に、司馬彪「續漢書」が参照されたことは確実である。

 素人読者が范曄「後漢書」孔融伝を通読して感じるのだが、笵曄は、先行する諸家「後漢書」を熟読した上で、自身の文筆家としての沽券にかけて、熱意を持って執筆したことは確実である。その際、江南圏教養人には、周秦漢の中原で通用していた古代語、古典用語が、十分理解できないと見て、随分手心を加えたと思われる。范曄「後漢書」が、唐代に流麗な文章と賞賛された由縁と思われる。

 以下、范曄「後漢書」の特徴を示すと思われる用例を見出して、用語、構文を対照する。因みに、袁宏「後漢紀」の該当部は、日本語訳が刊行されているので参考にした。陳寿「三国志」魏志の該当部分は、筑摩書房刊の『正史「三国志」』所収の日本語訳を参考にした。
 また、当記事は、笵曄の筆の冴えを賞味することにあるので、續漢書、後漢紀が、原資料/史実に忠実な、保守的なものとして、それを基準に、范曄『後漢書』の用語を批判している。

〇用語、文例比較
*十余歳~十歳
 范曄「後漢書」は、まずは、原史料の「十余歳」を「十歳」としている。
 つまり、笵曄は、年齢表記で「余」概数を避けたのである。今日でも、中国古代史書の語法を解しない人は、「十余」歳を、本来の七,八歳から十二,三歳程度の範囲と見ないで、十歳から十五歳までの範囲と解釈(誤解)する人が大変多いから、誤解を避けて賢明である。 
 言うまでもなく、十歳は、キッチリ十歳という断言でなく、八歳から十二歳程度としても、孔融は後に十三歳で父を亡くしたとあるので、整数ないしは所数で十歳とした方が字面が滑らかである。どのみち、孔融が、一歳単位まで正確に何歳であったかは、従容ではない。
 結お、中原では、太古以来、戸籍が整備されていたから、およそ、子供に正式に「命名」する程の名家では、それぞれの子供の名前と年齢は、確実に知られていたのである。

 言うまでもないが、当時は、日本で言う「数え」年齢であるから、現代風に「満」年齢と見ると、一,二歳若くなるのである。
 当時、現代の日本のように小学校はなかったし、どの道、四月から学年開始するのではないが、まあ、今日で言う、小学生高学年か、という程度である。

*周旋~「恩舊」(古い付き合い)
 当記事の筋書きでは、孔融少年が、しかるべき紹介者を通じてではなく、一介の無名人として、河南尹李膺に面会を申し込んだのに対して、当然、門前払いになるところを、気の効いた口上でしゃしゃり出たのである。(偉人伝の冒頭を飾る挿話である)

 李姓の李膺は、少年の口上で、老子「李耳」の末裔と扱われて気を良くしたので、孔子「孔丘」の子孫孔融との両家交流を、あっさり認めている。つまり、紹介者の要らない旧知の間柄と強弁したのである。

 ここで、原史料に見られる「周旋」は、古典用語であるため、当時の教養人に理解されない可能性があるので、笵曄は、「恩舊」(古い付き合い)と言い換えた。普通、周旋とは、二地点、あるいは、両家の間の交遊、往来という意味なのである。
 正体不明の領域をぐるぐる巡るという意味でないことは確かである。

*長大~(言い換え放棄)
 「高明長大、必為偉器」でも、同時代人に「長大」は理解されない可能性があると見たようだが、適当な言い換えが見つからないで省略したようである。大差ないとも言えるが、「この小僧、成人すれば、大物になるぞ」の意味が消されている。
 因みに、「長大」は、陳寿「魏志」「倭人伝」にも見られる表現であるが、現代中国語にも伝えられていて、さらには、現代の有力辞書である「辞海」(三省堂)にも収録されているから、日本でも、教養人の語彙として継承されているようである。
 当時成人が十八歳とすると、十余歳は「数年中」となるので、ぼかしたのだろうか。「末恐ろしい」というには、微妙である。

 また、今日に至るまで、「長大」に老齢の意味は見られないように思う。

*早熟談義~笵曄の本領
 笵曄の真骨頂は、『陳煒後至,曰「夫人小而聰了,大未必奇。」』、つまり、「小才の利いた子供は、大抵、大した大人にならないものだ」と評されて、すかさずこたえた名セリフを「書き換えている」所にある。

 先行史料は、「さぞかし早熟だったのでしょうね」と激しく切り返しているが、笵曄は「お話を聞くと、高明なる貴兄は、神童ではなかったのですね」(觀君所言,將不早惠乎) とやんわりこなしている。「早恵」は、同音の「早慧」と同義で、早熟の意味であるが、ここでは、「不早惠」と否定されているので、後漢紀、續漢書と逆の意味であると思う。つまり、神童などではなく長じて智者になったという尊敬の趣旨である。

 本来は、孔融が生意気な皮肉で高名な官人に反駁したことになっていたが、笵曄は、衆人の前で高官の面子を潰したら「ただで済まない」から、如才のない受け答えをしたはずだと解したのである。

 孔融は、晩年、献帝の建安年間、時の最高権力者曹操に楯突いて、きつい諫言を度々奏したため、遂に刑死しているから、巷では、少年時代の毒舌伝説と語られても、当時河南尹の李膺が、生意気な子供の肩を持って賓客の顔を潰すはずはないと言う、賢明な解釈を採用しているのである。

 笵曄は、「不」の一字で毒消しし、李膺は、孔融少年の爪を隠すことを知っている才覚に感嘆したとしている。話の筋は滑らかであるが、史料に忠実でなく創作である。笵曄の「本領」とは、そういう意味もこめたのである。

*陳寿の孔融観
 因みに、三国志の孔融関連記事は、むしろ乏しい。
 魏志「太祖本紀」(曹操本紀)では、時に、高官としての行状/言行が語られるが、最後は、先に書いたように、時の権力者曹操に、しばしば反抗したとして、誅殺、族滅の憂き目に遭っている。孔子の子孫であり、随分高名でありながら、「魏志」に列伝はない。
 「魏志」の孔融記事は、大半が裴注によるものであり、子供まで連座して孔融の家系は絶えていたから、裴松之が、孔子子孫の孔融を殺したのは曹操の大失態との「世評」にこたえて、十分に補追したようである。と言って、このように補注されるように、敢えて「孔融伝」を採用しなかったのは、陳寿の見識を示すものであり、また、裴松之は、決して陳寿を誹っているのでは無いのである。

 孔融十歳時の逸話は、「魏志」崔琰伝に司馬彪「續漢書」が付注されていたので、袁宏「後漢紀」、笵曄「後漢書」と比較したが、陳寿が認めた記事ではない。
 むしろ、陳寿が、「魏志」に無用として排除した一連の孔融記事の中でも、最悪と見なしていた記事と思えるのである。

 このような扱いに、陳寿の史官としての判断が厳然と示されているのである。「孔融伝」を立てると、不本意な記事も、加筆、訂正できないまま収録することになるから、陳寿の史官としての志(こころざし)が曲がるのである。もちろん、陳寿は、儒教を信奉していたわけではないし、曹操も、同様である。
 と言うことで、陳寿は、孔融の記事を「割愛」したのである。

*不本意な引用
 結局、三国志に孔融伝は無いにもかかわらず、世上の孔融神童(異童子)挿話に、三国志本文ならともかく、裴注記事が引用されているのは、割愛した陳壽の身になっても、労作を物した笵曄の身になっても、大変不本意であり勿体ないことだと思うのである。

*范曄の「脱史官」宣言
 総じて、司馬彪「續漢書」と袁宏「後漢紀」の書きぶりには大差がない。古来の史官は、忠実な引用を旨としていたためと思われる。
 そして、范曄「後漢書」は、三国志が提起した確実に歴史を語るという提言を離れて、また別の一つの正史像を示したものである。

                                未完

私の意見 范曄「後漢書」筆法考 孔融伝を巡って 2/3 対照篇 再掲

                    2021/03/08 確認 2021/09/15 2023/06/12

〇史料対照篇 笵曄「後漢書」に「孔融列伝」あり。續漢書は、陳寿「三国志」「魏志」崔琰伝の裴注に収録
【後漢書】孔融字文舉,魯國人,孔子二十世孫也。
【後漢紀】融字文舉,魯國人,孔子二十世孫。
【續漢書】融,孔子二十世孫也。

【後漢書】融幼有異才。年十歲,隨父詣京師。
【後漢紀】幼有異才,年十餘歲,隨父詣京都。
【續漢書】融幼有異才。融年十餘歲,

【後漢書】時河南尹李膺以簡重自居,不妄接士賓客,敕外自非當世名人及與通家,皆不得白。
【後漢紀】時河南尹李膺有重名,敕門通簡,賓客非當世英賢及通家子孫,不見也。
【續漢書】時河南尹李膺有重名,勑門下簡通賔客,非當世英賢及通家子孫弗見也。

【後漢書】融欲觀其人,故造膺門。語門者曰:「我是李君通家子弟。」門者言之。膺請融,
【後漢紀】融欲觀其為人,遂造膺門,曰:「我是李君通家子孫。」門者白膺,請見,
【續漢書】欲觀其為人,遂造膺門,語門者曰:「我,李君通家子孫也。」

【後漢書】問曰:「高明祖父嘗與僕有恩舊乎?」
【後漢紀】曰:「高明父祖嘗與仆[僕]周旋乎?」
【續漢書】膺見融,問曰:「高明父祖,甞與僕周旋乎?」

【後漢書】融曰:「然。先君孔子與君先人李老君同德比義,而相師友,則融與君累世通家。」眾坐莫不歎息。
【後漢紀】融曰:「然。先君孔子與君李老君同德比義、而相師友,則仆[僕]累世通家也。」眾坐莫不歎息,僉曰:「異童子也。」
【續漢書】融曰:「然。先君孔子與君先人李老君,同德比義、而相師友,則融與君累世通家也。」衆坐奇之,僉曰:「異童子也。」

【後漢書】太中大夫陳煒後至,坐中以告煒。煒曰:「夫人小而聰了,大未必奇。」
【後漢紀】太中大夫陳禕後至,同坐以告禕。[煒]曰:「小時了了者,至大亦未能奇也。」
【續漢書】太中大夫陳煒後至,同坐以告煒,煒曰:「人小時了了者,大亦未必奇也。」

【後漢書】融應聲曰:「觀君所言,將不早惠乎?」
【後漢紀】融曰:「如足下幼時豈嘗〔常〕惠乎?」
【續漢書】融荅曰:「即如所言,君之幼時,豈實慧乎!」

【後漢書】膺大笑曰:「高明必為偉器。」
【後漢紀】膺大笑,謂融曰:「高明長大、必為偉器。」
【續漢書】膺大笑,顧謂曰:「高明長大,必為偉器。」

【後漢書】年十三,喪父,哀悴過毀,扶而後起,州里歸其孝。
【後漢紀】年十三,喪父,哀慕毀瘠,杖而後起,州裏稱其至孝。
【續漢書】該当記事なし
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私の意見 范曄「後漢書」筆法考 孔融伝を巡って 3/3 原典篇 再掲

                    2021/03/08 確認2021/09/15 2023/06/12

〇原典史料 出典 中国哲學書電子化計劃 維基文庫

范曄「後漢書」鄭孔荀列伝

孔融字文舉,魯國人,孔子二十世孫也。
七世祖霸,為元帝師,位至侍中。父宙,太山都尉。
融幼有異才。年十歲,隨父詣京師。時河南尹李膺以簡重自居,不妄接士賓客,敕外自非當世名人及與通家,皆不得白。融欲觀其人,故造膺門。
語門者曰:「我是李君通家子弟。」門者言之。膺請融,
問曰:「高明祖父嘗與僕有恩舊乎?」
融曰:「然。先君孔子與君先人李老君同德比義,而相師友,則融與君累世通家。」眾坐莫不歎息。
太中大夫陳煒後至,坐中以告煒。煒曰:「夫人小而聰了,大未必奇。」
融應聲曰:「觀君所言,將不早惠乎?」
膺大笑曰:「高明必為偉器。」
年十三,喪父,哀悴過毀,扶而後起,州里歸其孝。
性好學,博涉多該覽。

袁宏「後漢紀」卷三十 孝獻皇帝紀 建安十三年

融字文舉,魯國人,孔子二十世孫。
幼有異才,年十餘歲,隨父詣京都。時河南尹李膺有重名,敕門通簡,賓客非當世英賢及通家子孫,不見也。融欲觀其為人,遂造膺門,
曰:「我是李君通家子孫。」門者白膺,請見,
曰:「高明父祖嘗與仆[僕]周旋乎?」
融曰:「然。先君孔子與君李老君同德比義、而相師友,則仆累世通家也。」眾坐莫不歎息,僉曰:「異童子也。」
太中大夫陳禕後至,同坐以告禕。曰:「小時了了者,至大亦未能奇也。」
融曰:「如足下幼時豈嘗惠乎?」
膺大笑,謂融曰:「高明長大必為偉器。」
年十三,喪父,哀慕毀瘠,杖而後起,州裏稱其至孝。

 司馬彪「續漢書」:「魏志」崔琰傳 裴松之付注

融,孔子二十世孫也。高祖父尚,鉅鹿太守。父宙,太山都尉。
融幼有異才。
時河南尹李膺有重名,勑門下簡通賔客,非當世英賢及通家子孫弗見也。
融年十餘歲,欲觀其為人,遂造膺門,
語門者曰:「我,李君通家子孫也。」
膺見融,問曰:「高明父祖,甞與僕周旋乎?」
融曰:「然。先君孔子與君先人李老君,同德比義而相師友,則融與君累世通家也。」衆坐奇之,僉曰:「異童子也。」
太中大夫陳煒後至,同坐以告煒,煒曰:「人小時了了者,大亦未必奇也。」
融荅曰:「即如所言,君之幼時,豈實慧乎!」
膺大笑,顧謂曰:「高明長大,必為偉器。」 

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