後漢書批判

不朽の名著 范曄「後漢書」の批判という無謀な試みです。

2025年4月19日 (土)

新・私の本棚 番外 NHK特集「シルクロード第2部」第十五集~キャラバンは西へ~ 余談

                   2021/02/03  2025/04/19
*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが来訪して、当ブログの記事を読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。

〇NHKによる番組紹介
 NHK特集「シルクロード第2部」、第十五集は「キャラバンは西へ~再現・古代隊商の旅~」。内戦前だったシリアの人々の暮らしや世界遺産・パルミラ遺跡を紹介する。

古代の隊商はどのようにして砂漠を旅したのか。 隊商都市のパルミラまで、約200kmの道のりを、ラクダのキャラバンを組織し、古代人そのままの旅を再現する。いまは激しい内戦下にあるシリア。80年代、取材当時の人々の暮らしや、破壊された世界遺産・パルミラ遺跡の在りし日の姿がよみがえる。

〇中国世界の西の果て
 この回は、中国両漢代、つまり、漢書と後漢書の西域伝の限界を超えているので、本来、注文を付ける筋合いはないのだが、シリアの探査で、何の気なしに後漢甘英を取り上げているので、異議を唱える。

 つまり、後漢書に范曄が書いた西域都護班超が派遣した副官「甘英は、西の果ての海辺で、前途遼遠を怖れて引き返した」との挿話を引いて、地中海岸かペルシャ湾岸か不明というものの、どうも、取材班は、目指す地中海岸を見ているようである。

 しかし、ここまで踏破してきた旅程を思えば、後漢代に、安息国との国交再開を求めた甘英が、既にメルブで使命を達成していながら、これほどの苛酷な長途を旅したとは思えなかったはずである。まして、当時、この行程は、西のローマとの紛争下、大安息国、パルティアの厳戒下にあり、地中海岸に達する前に、王都クテシフォンで国王に拝謁した記録すらないのに、王都を越えて敵地である地中海岸に達したはずがない。

*後日談 2025/04/19
 また、外交の秘事であるので記録されていないが、永年西域都護班超に反抗し続けていた貴霜国/大月氏に対抗して、同盟する提言を成したものと推定されるのである。大月氏は、西域変遷の果てに、貴霜国に寄宿したとき、西方の安息国に対して、掠奪行を仕掛け、騎馬兵団の威力で、国王親征の国軍を壊滅させて、安息国の財宝を奪ったのである。

 「この事態に応じて、隣接する波斯(ペルシャ)軍を含め、パルティア全土から大軍が駆けつけたため、大月氏の侵略軍は大破され、パルティア軍は、貴霜国を大破して、領土を奪い、財宝を回復した」事件があったから、以後、メルブに二万の大軍を常駐していたのであり、後漢西域都護としては、両国が同盟すれば、大月氏を大破することができると構想したのであるが、パルティア王の許可が下りなかったようである。何しろ、西方では、シリアに4万の常駐軍を置いて圧力を掛けていたローマ帝国の大軍は、共和制末期のクラッスス敗死、一万人捕虜の東方国境転送という大敗の報復を100年越しに画策していて、東方で戦を起こす余裕はなかったと見えるのである。

 後年のことであるが、「西方の大敵ローマ帝国は、北方のアルメニアを陥落させた上で、未曽有の大軍と強力な攻城兵器を動員して王都を包囲攻撃し陥落させて世界最大級の財宝を奪った」ことから、大国パルティアは崩壊し、ペルシャの地から興ったササン朝が全土を制覇したのである。

 さらに後日談であるが、ササン朝帝国は、大挙東進して、大国貴霜国を滅ぼしてしまったから、後漢西域都督の撤退後に、宿願の大月氏打倒が実現したのであるが、曹魏、西晋には、その情勢好転を利用する国力はなかったのである。

*笵曄の誤報~幻想の始まり
 そもそも、范曄「後漢書」では、漢使は武帝代に安息国まで到着したが、大海対岸の海西條支国すら尋ねてないとの見解であるが、それはひとつの認識としても、数千里彼方のパルティア王都、さらには、その彼方まで行ったとの誤解は、なぜなのだろうか。

 現代人の眼で見ても、安息国東部辺境メルブの西域は、北に延びた「大海」カスピ海とその西岸、「海西」と呼ばれた條支(アルメニア)止まりである。

 後漢書の西域世界像を描いた笵曄は、一旦、小安息の隣国で大海裏海の海西として知られていた條支(アルメニア)の世界観を描きながら、なぜか、数千里に及ぶ大安息国の隣国として、途方もない遠国の條支(ローマ属領シリア)と西海(地中海)の幻像を見てしまったのではないだろうか。
 さながら、砂漠の果ての蜃気楼に甘英の道の果てを見たようである。笵曄は、後漢書西域伝の名を借りて、事実に反する一大ファンタジーを描いたのだが、以後、今日に至るまで、不朽の傑作として信奉されているのである。

 お陰で、西方世界では、この時、後漢の最西端がローマ帝国に接触したとの「神話」が創造され、後漢書の「大秦」(莉軒)なる流亡の小国が、パルティアにとって、西方の侵略者にして貪欲な宿敵(ローマ帝国)と混同されてしまっているのである。どこかで聞いたような話と感じられたら、それは、空耳であるから、慷慨しない方が無難である。


*甘英英傑談~孤独な私見
 以上は、世界の定説に背く孤独な令和新説だから、往年80年代のNHKの番組制作者が知らなくて当然だが、取材班が、後漢人甘英の足跡を辿っているように感じたとき、一切記録がないことに感慨はなかったのかと思うだけである。そして、新規制作の同番組でも、一向に、誤謬に近い世界観が是正されていないのは、まことに残念なのである。

 甘英は、漢武帝代に交渉がありながら、長年、接触が絶えていた西方万里の大国安息国との交流を再現した功労者なのである。
 当ブログ筆者は、甘英の偉業を笵曄が創作で練り固めたために、貴霜国を撲滅すべく安息国との盟約を提言した甘英の偉業が正当に評価されないことに不満で、ここに書き遺すものである。

〇まとめ
 言うまでもなく、当シリーズは、NHKの不朽の偉業であり、以上は、それこそ、天上の満月を取ってこいと命ずるものだが、僭越にも不満を記したのである。

*参考書
 塩野七生 「ローマ人の物語」 三頭政治、カエサル、アウグストゥス、そして ネロ
 司馬遷 史記「大宛伝」、班固 漢書「西域伝」、范曄 後漢書「西域伝」、魚豢「西戎伝」(陳寿「三国志」魏志 裴松之補追)、袁宏「後漢紀」
 白鳥庫吉 全集「西域」

*追記 2025/04/27
 今般の再放送で確認したのだが、NHKの時代/地理認識は大きくずれていて、甘英一行の安息訪問が長安を発していたとしていて、残念な早合点である。実際は、後漢西域都護は、西域の入口の亀茲(クチャ)に「幕府」を開いていたのであり、また、当時の帝都は洛陽であった。制作者は、後世唐代の事情と混同していたようであるが、つまらない誤解を後世に伝えたのは、勿体ないところである。

 既に書いたように、甘英が派遣されたのは、カスピ海東岸、オアシス都市のMervであり、安息国との旧交を温めただけで引き返しているので、カスピ海すら渡っていないのである。大秦は、風の噂に聞いただけであり、既に書いたように、西方の蛮族「ローマ」などとんでもない話である。

 NHK取材班は、悪戦苦闘して地中海岸に出たのであるが、二千年近い過去の甘英がどのようにして、異境を踏破したと見たのか、興味深いところである。もちろん、パルティアの時代には、東西を結ぶ街道が整備されていたから、ラクダの厄介になどならなかったと思う。
 現代は、イランの治安体制に阻まれて、難儀としたのかと思うのである。

 ついでに言うと、隊商が東西を繋いだのは、モンゴルが東西交通を阻んでいたオアシス都市を均して、モンゴル可汗の許可があれば、途中で過大な関税を払わず、略奪されずに往き来できるように秩序を確立したからであり、ベネチア商人が、元の大都に乗り込んで、皇帝と条件交渉できるようになったものである。甘英の時代から、一千年はたっていたのである。

                                以上

2024年12月21日 (土)

新・私の本棚 牧 健二 「魏志倭人伝における前漢書の道里書式の踏襲」

「史料」第45巻第5号 昭和37年9月 「邪馬台国研究総覧」三品 彰英 200
私の見立て ★★★☆☆ 画期的解釈        2024/08/29, 09/03, 12/22 

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

◯はじめに
 本書は、不朽の大著「邪馬台国研究総覧」に収録されているが、余り、参照されていないようなので、ここに顕彰する。

*概要
 当抜粋紹介記事では、以下の二点が目覚ましい指摘と考える。
⒈ 「列挙式」の常識
 前漢書西域伝の記事から、伊都国以降の記事は「列挙式」記載と見られる。
 まことに至当、順当である。と言うのは、陳寿の魏志編纂時点で、先行する/先例として尊重する正史は、司馬遷「史記」と班固「漢書」の二史であり、「倭人伝」道里記事の典拠とすべき史書として「漢書」は唯一無二であったのである。

 魏志読者には漢書西域伝記事が「普通」であり、蕃王居城に至る道里の後に周辺侯国への行程を列挙する。俗に言う直線式なる「単純」解釈は「無教養な後生蕃夷の誤謬」と言えば論議完結のはずが、いわゆる「通説」を奉じる「纏向遺跡史学派」に政策的に黙殺されていると見える。

⒉ 非常識な「海路」

 杜祐「通典」「州郡」「日南郡」記事を「倭人伝」道里「水行十日陸行一月」の解釈に援用する。当記事は好例であり、諸郡も同様書式で書かれている。
 「通典」は、唐代史料である。日南郡は「ベトナム」であり、三国東呉の領域である。
 氏は、慧眼を駆使して「日南郡」記事で「倭人伝」の「水行十日、陸行一月」を処断するが、率直なところ、いわゆる国内史学界でしか通用しない「勘違い」と言わざるを得ない。正史の解釈という見地から云うと、氏ほどの碩学にしては、軽率の誹(そし)りは免れない。
 同記事の取り扱う地域は、三国東呉孫権政権の統治下であり、三国曹魏の圏外であったから、陳寿が「魏志」編纂で対処する「史実」、すなわち、曹魏「公文書」にないので、当然、「魏志」に援用されない。見当違いであろう。

 さらに、氏は、「水路」と「水行」とを同義と誤断し、更に、「水行」を「海路」と読み替える。正史を、国内史学の見識で「曲解」するのは、国内史学の積年の悪弊であるから、その責めを牧氏一人に負わせるのは酷である。いや、世上には、「正史」の語義を知らずに、中国における正史の伝統を堅持した陳寿「三国志」と「無学、無教養な文章家」が草した「読み物」である国内史料を同列視して一刀両断する武闘派が声を上げているから、中々、正論が通らないのだが、蕃夷に「正史」とは笑止と言うべきなのである。
 ただし、中国史料初学者の務めとして、中国史書解釈は中国史書語法に従うべきである。「水」は、河川であり海洋でないことは自明である西京長安、東京洛陽が並記されるが両「京都」に「海路」で到ることはありえない。「倭人伝」にも、提示された史料にも「海路」はない。

*史料引用 杜祐「通典」「州郡」 伝統的書法堅持
 日南郡東至福祿郡界一百里。南至羅伏郡界一百五十里。西至環王國界八百里。北至九真郡界六百里。東南到海百五十里。西南到當郡界四百里。西北到靈跋江四百七十里。東北到陵水郡五百里。去西京陸路一萬二千四百五十里,水路一萬七千里。去東京陸路一萬五百九十五里,水路一萬七千二百二十里。戶九千六百一十九,口五萬三千八百一十八。
 南海郡東至海豐郡四百里。南至恩平郡五百里。西至高要郡二百四十里。北至始興郡八百里。東南到恩平郡四百里。西南到高要郡界二百三十里。西北到連山郡九百里。東北到海豐郡界三百五十里。去西京五千四百四十七里,去東京四千九百里。戶五萬八千八百四十,口二十萬一千五百。

 「通典」が採用した唐代史料は、中世唐代の潤沢な用紙、用材を承けて、志部に字数を費やすことができたので、「郡治に至る道里」と「郡界に至る道里」が並記されている。「道里」は実地踏査、一里単位、「戸口」は、緻密な戸籍台帳を駆使して、一人単位で把握されている。古代の事情は不明だが、中世唐代には、「算盤」による会計、統計人材(官吏)が、中国全土に展開していたとも思われる。

*苦言 余談 追記2024/09/03
 以下、権威ある「史料」誌の審査に応えて掲載された本論に於いて「論文」形式を確実に踏まえた牧氏に対する批判ではない。先行諸論を克服する点で、不備があったわけではない。

*陳寿「三国志」不備論の不備
 陳寿「三国志」が「志部」をもたないのは、「魏志」は、あくまで、「曹魏」公文書に依拠していたから、存在しない文書は採用できなかったのである。正史を構成するに足る原史料がなければ、史官は割愛せざるを得ない。
 南朝梁の史官沈約は、先行する劉宋の正史「宋書」「州郡志」編纂にあたり、劉宋代に到るも、正史として志部を備えた後漢書は未刊であり、陳寿「三国志」が志部を欠いているため、後漢代以来の諸郡地理が不明である点が多いと歎いている。「魏志倭人伝」会稽東治談議でよくいわれる、東呉会稽郡の分郡、建安郡創設などにしても、東呉が亡国時に西晋皇帝に遺贈した「呉書」の列伝記事に全面的に依存しているほどであり、道里記事は、収録されていないのであるから、「三国志」において「地理志」、「州郡志」は、編纂しようがなかったのである。

*失われた范曄後漢書「志部」
 ちなみに、笵曄「後漢書」曹皇后紀に付された李賢注は、沈約「宋書」謝𠑊伝(佚文)を引用して笵曄「後漢書」に収録される構想であった後漢書「志部」十巻の顛末を述べている。同伝によると謝𠑊は、後漢書「志部」十巻の編纂をほぼ完了していたが、時の劉宋文帝が、皇帝謀殺の隠謀という大逆罪に連坐したとして「范曄を斬罪に処し編纂中の後漢書を接収した」との報を受けて、編纂中の後漢書「志部」の私家稿を隠匿し、秘匿したので、ついに、范曄「後漢書」「志部」は世に出ることは無かったということである。ちなみに、笵曄「後漢書」として伝世されている范曄「遺稿」は、劉宋文帝が、言わば、不法に没収したものであり、范曄自身が上申したものでないので、范曄の著作として取り扱うべきではないという意見も、成立しうるものと思われる。ちなみに、笵曄「後漢書」現存刊本の志部は、先行して上程されていた司馬彪「続漢紀」の志部を併呑したものであり、唐代以前、笵曄「後漢書」は志部を欠いていたのであり、以降追加された志部は范曄の承知していないものであった。

*散乱した沈約「宋書」、未完成な范曄「後漢書」
 ちなみに、李賢注が依拠した沈約「宋書」謝𠑊伝は、沈約「宋書」現行刊本に収録されていない逸文である。南朝梁代に編纂された沈約「宋書」に散逸が多いのは、南北朝分裂期を、北朝側の隋が統一した際に、南朝諸国が賊として軽視されたためである。
 沈約「宋書」は、隋唐代に散佚状態から回復を図り、唐代に「正史」に新参したといえども、古来正史として認定されていた陳寿「三国志」の承継の確実さに遙かに及ばない。また、李賢によってにわかに正史に認定された范曄「後漢書」も、李賢がことさらに補注したように、范曄によって完成されたものでない、いわば「未完成」であったことも、史料批判に於いて、丁寧に審議すべきであると思われる。

*唐代全国統治の精華 「通典」「州郡」道里記事
 おそらく、唐代、全国統治の権威の裏付けとして、実地測量に基づく全国地理調査を行ったと見え、「通典」「州郡」は、古来の道里記事の存在しなかった当該地域の精読に絶える道里記事を完成したものと見える。いうまでもなく、先行する正史に於いて既に記述された公式道里記事は不可侵であったし、「倭人伝」道里記事に略記された以外の地域道里は、既に知るすべがなかったので、「通典」「州郡」の手が及ばなかったのである。
 ということで、「通典」「州郡」の記事を元に、「魏志倭人伝」の道里行程記事の解釈を図るのは、労多くして報われることが少なく、意義に乏しいと言わざるを得ない。

*余談の余談
 これも、牧氏には関係のない余談であるが、ことのついでに一言述べると、世に蔓延(はびこ)るあまたの俗耳に訴えたいからと言って、自説補強と勘違いして、あることないこと不平不満を募らせて、陳寿編纂を誹謗しないことである。仲間受けをよいことに、お手盛りの不合理を積み上げて、声高に罵っても、後世に至るまで乱暴な俗論として無視される原因となるだけである。ご自愛いただきたい。

                                以上

2024年9月13日 (金)

新・私の本棚 KATS.I ブログ =水行20日、水行10日...  2稿 完

陸行1月の呪縛= 後漢書東夷傳(その2)-禾稻麻紵ー(ママ) 2024-09-08
私の見立て ★★★★☆ 前途遼遠  2024/09/13

◯逐条審議辞退の弁
 前回記事は、異議の随時提起でしたが、今回は総論とします。
 当方の范曄「後漢書」東夷伝倭条范書(以下、范書「倭条」)観は既に述べていますが、重複を承知で書き留めてみます。

*結論予告
 当方は、范書「倭条」は、全虚報であり、陳寿「三国志」魏志倭人伝(以下、陳書「魏志倭人伝」)と対峙させるべきではないと主張します。

*史料欠落の弥縫策~年代ずらしの秘法
 范曄は、後漢書掉尾に范書「倭条」を構想したが、原史料の欠落のため、献帝建安年間以降の「魏志倭人伝」原資料を、年代移動して創造的に埋めたと見えます。

*時代史料の欠落
 念のため言うと、范書「倭条」の光武帝、安帝本紀「倭」記事は、別史書袁宏「後漢紀」にも記載があるので、当記事の対象外です。
 同時代、まだ、後漢洛陽の東夷管理が健在であり、楽浪郡から鴻臚に万二千里の東夷から貢献があったとの報告があれば皇帝から賞されますが、そのような画期的な記事は、孝霊帝本紀、考献帝本紀から欠落しています。要するに、范書「倭条」は「虚報」なのです。

*露呈した欠落事項
 蕃夷は、中国辺境郡太守治所に身上書を上程し服属を申し出ます。必要事項は、国名、国王名、国王居城名、居城に至る行程道里、戸数、口数、国内城数であり、粗品で誠意を見せれば、相当の手土産と印綬をもらえます。
 行程道里は、郡太守発文書が何日で蕃夷の王の手元に届くかという実務上重要な規定であり、服属の証しであって、誇張などありえないのです。
 范書「倭条」には、国王居城名だけであり、国王名不明、戸数不明、行程道里も公式申告無しであり、後漢末期に「倭」は、正式参上していないと分かるのです。
 して見ると、范書「倭条」に物々しく書かれた「倭国大乱」とか「女王共立」は、「おとぎ話」です。出所は、百五十年以前の陳書「魏志倭人伝」の不出来な節略であり、范書「倭条」は、史料として考慮すべきでない「ジャンク」として、はなから排除されるべきなのです。

*検証の方法―精読あるのみ
 たとえば、今回論じられた范書「倭条」民俗記事ですが、明らかに、陳書「魏志倭人伝」帯方官人現地報告の節略、当世流行りの「読みかじり」であり、深意を解しないまま、やっつけ仕事で短縮しています。これを、要件を取り出した「要約」というなら、それは、とんでもない勘違いと言わざるを得ません。

*結論 范書「倭条」廃絶の時 再挑戦の勧め
 貴兄の集中力をもってすれば、今少しの点検で拙速さが読み取れるはずです。もっとも、そのような范書「倭条」考察は、上田正昭氏以来、諸兄姉が上程しているので、貴兄が復習する意義は疑問です。
 貴兄の掲げる考察は、先ずは不確かな史料を排除して、原点と言うべき、「魏志倭人伝」解釈の第一歩から再挑戦されることをお勧めします。

*「後漢書倭条聖典主義」の妖怪
 併せて、一部論者が、范書「倭条」の瑕疵を新規事項と見誤る「後漢書倭条聖典主義」の妖怪に踊らされないように、ご注意申し上げる次第です。
 以上、敢えて、心ないとも言われかねない苦言を申し上げました。

                                以上

*追記
 前回記事でも述べましたが、当記事だけ取り出して、范曄「後漢書」について、全面的に否定的であると解釈されると不本意なので、少々補足します。
 笵曄は、史官としての訓練を受けたわけではないので、史官の職業倫理に縛られていない文筆家だったのです。
 と言うものの、既に世に出ている諸家後漢書の史書としての品格に疑問を持ったので、いわば、身命を賭して、あるべき「後漢書」の実現を図ったのですが、ご承知の通り、後漢二百年の厖大な公文書は北方異民族の侵入で洛陽が陥落したために失われ、笵曄は、先行後漢書と民間史書の山から、范曄「後漢書」の完成を目指したのです。その成果が、今日読むことのできる明晰、流麗な范曄「後漢書」となったのです。
 惜しいことに、完成以前に、笵曄が時の皇帝の排除を企てたとする陰謀に連坐し、一族連座して刑死したので、ついに完成に至らなかったのです。未完成の顕著な原因として、范曄が「志」部編纂を委嘱した文筆家に対して、劉宋皇帝側近が提出を命じたが、范曄「後漢書」に無関係として、シラを切り通して隠匿したため、范曄「後漢書」は、南朝梁の劉昭が 別史書で補填するまで志」部を欠く未完成の史書だったのです。
 つまり、范曄「後漢書」は、まだまだ未完成であり、諸処に不備が想定されているのです。なかでも、先行諸「後漢書」に欠けていたと思われる蛮夷伝は、西域、東夷ともども、范曄にしては不出来な物になっていますが、これも、当人に責めを負わせるべきでなく、いわば、穴あきの残った仮普請、二級品であったとしても責められないのです。

 この点で見ると、陳寿「三国志」は、「権力者」なる妖怪から干渉を受けることなく、史官として最善の推敲を尽くして、完成稿としたものです。存命中に上程の機会を得られなかったものの、史書の完成度では、范曄「後漢書」と別格の一級品なのです。

以上

新・私の本棚 KATS.I ブログ =水行20日、水行10日...  1/3

陸行1月の呪縛= 後漢書東夷傳(その1)-會稽東冶ー(ママ) 2024-07-27
私の見立て ★★★★☆ 前途遼遠  2024/09/09-13

□はじめに
 范曄「後漢書」(以下、范書)東夷列伝「倭条」飜訳の根拠は不明ですが、素人目にも誤訳と勘違いが多いので、背景説明を惜しまずに指摘します。
 飜訳は、渡邊義浩氏訳等を参照された方が良いと思います。

◯本文質疑 傍線は、原ブログ記事引用
倭在韓東南 大海中依山島為居 凡百餘國 自武帝滅朝鮮 使驛通於漢者三十許國 (劉攽曰使驛按當作譯説巳見上)
*倭は韓の東南にある。広大な海の中の山深い島によりそって居住している。

◯誤解の起源 (「よりそって居住??」)
 「倭」は、漢代東夷管轄楽浪郡から「韓」の東南に在るのでしょう。漢武帝「朝鮮」討伐時、韓国は未形成ですからこれは後漢末情勢です。ただし、魏武曹操が統治した後漢献帝建安年間を除外するので、遼東郡太守に公孫氏の時代、帯方郡を設けて韓濊倭を管轄した時期は書かれていない(はず)です。

◯魏志倭人伝「大海」・「水行」考
 記事解釈で、氏は、おそらく、現代辞書を優先しているため、早々に、大きく脱輪しますが、現代研究者の大半に共通した思い違いです。
 班固「漢書」(以下、班書)西域伝により「大海」は内陸塩水湖です。班固、陳寿の知識外の現代語「瀬戸内海」は、本来、中四国、備讃瀬戸、芸予諸島が囲む、現在燧灘と呼ばれる海域の「内海」であり、「大海」と見えます。

 余談はさておき、陳寿は、陳寿「三国志」(以下、陳書)「魏志倭人伝」の郡から倭に至る「従郡至倭」行程を読書人向けに書きこなして、塩水海流と言えども、「大河」(河水、黄河中流)渡船同様と示して、無用の警戒心を解いています。この比喩は、西域で言えば、途上の沙漠「流沙」、「砂の川」の中洲(オアシス)が浮かんでいるのと同様で、共に「瀚海」を有しています。

 古典書の用語、用例を極めた中島信文氏は、「海」は、現代的地理概念「うみ」(英語Sea,米語Ocean)でなく、「中国」四囲の異界「海」(かい)と峻烈ですが、陳書は至近の班書に従い「大海」は塩水湖と見えます。

 また、陳書で、韓の東西は「海」ですが南は「倭」即ち「大海」と峻別し、韓倭間は、塩水大河の洲島を、順次渡り継ぐとの解釈が順当と愚考します。

*「水行」の有り得ない不正解
 「陳書」では、「従郡至倭」で、並行陸路のない狗邪・対海軽舟渡船を河水渡船に見立てた上で、史記禹后記事まで遡っても官道行程記事に用例皆無である「水行」を、新たに「魏志倭人伝」限定で定義したのです。
 以上、陳寿は、「魏志倭人伝」道里行程記事で、未聞の用語を不意打ち起用して読書人の不信を買わないように長途の官道行程を規定したのであり、就中、安全な陸上路程が並行・確立しているのに、危険無類の海船行程など、到底有り得ないのですが、後生東夷は、苦し紛れに妄想を巡らすのです。

◯范曄なる偉大な井蛙
 陳寿の没後、「西晋」は、内乱の果てに北方異民族に天子を誅され、亡命王族が東呉旧地建康に「東晋」を再建しましたが、漢代由来公文書庫が散佚して、後生范曄は半人前の教養であり、范書「倭条」不都合は斟酌すべきです。

 范曄中文解釈は、陳寿と異なり、史官訓練を受けず、史官教養に富む老師も得られず、太古以来の史官用語で書かれた「班書」読解は困難と見えます。

                                未完

新・私の本棚 KATS.I ブログ =水行20日、水行10日...  2/3

陸行1月の呪縛= 後漢書東夷傳(その1)-會稽東冶ー(ママ) 2024-07-27
私の見立て ★★★★☆ 前途遼遠  2024/09/09-13

◯現代風地理観の危殆
 ということで、「大海」を「広大な海」と解するのは、現代風地理観の押し付けであり、「倭人伝誤解症候群」の兆候とも言える重大な時代錯誤です。
 ちなみに、「山島」は、山が島となって「大海」中に在り、漢代、戦国齊領域の山島半島から対岸朝鮮半島をみたものです。以下、この調子です。

◯東夷変遷
 太古以来の「東夷」が中国(華夏)文化に属して「齊」となって以降、「東夷」は東方異境に放逐され、魯の偉人孔子が筏で浮海しようとしたのも、秦始皇帝が「東海」の果てに見たのも山東半島対岸の朝鮮半島と見えるのです。
 歴史的に、朝鮮は「燕」に続く半島北部で、同南部は「齊」の影響下です。

*凡そ100國である。
*武帝が衛氏朝鮮を滅ぼしてから(紀元前108年)、漢の都に通じる宿駅に使者を派遣したのはおおおそ30國であった。

 ここで「漢」は、東夷を管轄していた楽浪郡(宿驛)であり、「倭」は、後漢代東京雒陽まで遣使したわけではありません。范書で廃都長安は無意味です。

*(劉攽(1019年ー1068年)曰く、使譯を使驛と記述したのは他にも見られる。)

 「作譯」とは、考証の上、「驛」字を「譯」に書き換えたという事です。

◯世世傳統の怪
國皆稱王 世世傳統 其大倭王居邪馬臺國 (按今名邪摩堆音之訛也)
樂浪郡徼 去其國萬二千里 去其西北界拘邪韓國七千餘里也
其地大較在會稽東冶之東 與朱崖儋耳相近 故其法俗多同
*すべての國には王と称するものがいる。王は代々受け継がれている。
*その大倭王は、邪馬臺國に居住している。

 范曄は、原史料を読解できず迷走しています。漢制王自称は論外で、正史東夷伝倭条に書くと史官が断罪されます。世襲国主だけが「蕃王」なのです。

◯「邪馬臺国」創世
 漢(楽浪郡)の通達先は大倭王「邪馬臺国」城ですが、粗雑な所引の国名が正確とは考えにくいのです。併せて、「大倭」の由来は不明です。

◯「国邑」の由来
 「城」は、字形通り、四周土壁城郭の集落であり、「國」と書く以上、「国王」は常備軍を擁しますが、そのような王制の根拠は与えられていません。
 陳書は「倭人」居処は「國」ならぬ太古「国邑」は島嶼で城郭は無くとも無法でなく、戸数は万戸に及ばないとしています。國王伝統は数国のみです。

 時代考証すると、范書は、史料に、全く忠実でなく、現代風に言うと、「創造的」と見えます。(倭条に限ったはなしです)

 陳寿原本が皇帝至宝となり、時代最高の人材による綿密な校正が重ねられた「陳書」に対して、劉宋皇帝が、刑死范曄の未定稿を接収したため唐代まで閑却された「范書」は、全く、同列で評価することはできないのです。

〇范曄不遇
 以上、范曄は、史官基礎教養に欠け、綿密な史料解読を謬り、西晋滅亡時、基本資料の多くが失われたため、范書「倭条」は、依拠資料のない臆測を続けますが、范書西域/東夷伝が、仮普請で乱れているのは范曄の責任ではないのです。後生読者は、未完の紙書を遺した范曄の無念を忖度すべきです。

                                未完

新・私の本棚 KATS.I ブログ =水行20日、水行10日...  3/3

陸行1月の呪縛= 後漢書東夷傳(その1)-會稽東冶ー(ママ) 2024-07-27
私の見立て ★★★★☆ 前途遼遠  2024/09/09-13

*(これは今の名である邪摩堆の音の訛りである。)
 これは、范書原文でなく付注です。後出史料で、原本否定など無法です。

◯「万二千里」のホントウの起源
*楽浪郡の境界からその國(邪馬臺國)へ行くには12、000里である。

 楽浪郡檄(つまり、大倭王と交信する帯方縣)は、大倭王居城を去る万二千里との公式定義です。
 范書によれば楽浪郡(帯方縣)倭間の公式道里万二千里(余里無し)は後漢代規定で、「陳書」はこれを踏襲したので、責任はないのです。
 范書倭条は、陳寿の知り得なかった何らかの原史料に依拠しているとの解釈になります。蕃夷は、服属の際に、王名、国名、城名、城数、道里、戸数、口数を申告する義務があるので、文書通信の所要日数が不明とは途方もないことです。ちなみに、新規参上、服属の蕃夷は、金印(青銅印)とふんだんな下賜物をいただくのですが、何も書かれていないのは、不審です。

*楽浪郡の境界からその國(邪馬臺國)の西北の境界である拘邪韓國へ行くには7、000里である。

 正確には、楽浪郡檄(大倭王と交信する帯方縣)は、其の国の西北境である拘邪韓國を去る七千余里ですが、拘邪韓國(誤写)は韓国でなく倭です。
 帯方郡成立は後漢献帝建安年間で、范書には書かれていません。随分、いい加減ですが、無校正の書き飛ばしだったのでしょうか。

*その地(倭)は概ね會稽東冶の東にある。
*倭、會稽東冶と朱崖儋耳(海南島にあった珠崖郡、儋耳郡)はそれぞれ近いので、この3箇所の規律や風習は多くが同じである。

◯范書錯乱
 この部分は意味不明です。「魏志倭人伝」では、夏王族が亡命先で蕃夷の習俗に染まったと嘆じたとして、「会稽東治」、読者に衆知の禹后故事と結びつけますが、范書「倭条」は、無意味な「会稽東冶」を唱えます。
 「陳書」「魏志倭人伝」は「その地」風俗の後、海南島に近いと記しますが、これは南方の狗奴国紹介と見えます。後ほど倭地は(寒冷な帯方郡と比して)温暖と述べ、別地域と分かります。それにしても、范曄は原史料の所引で、記事の要点をごっそり取りこぼしています。

 范曄は史料誤解の上、「東治」を会稽「東冶」と作ったのですが、会稽郡の遙か南方に「東冶」のない後漢期であり、笵曄は、時代錯誤に陥っています。

 范書は、意味不明な「会稽東冶」の後、「海南島」に近いから法俗は似たものと言い放って、原文と乖離して雒陽ならぬ建康風に書き換えたと見えます。
 このあたり、范書は原史料文意を理解できないまま、後日を期していたのでしょうが、其の急死によって(不本意な)未完稿が遺されたと見えます。

 陳書では、禹后故事の会稽東治之山「会稽山」であり、陳寿は、三国東呉の内部で曹魏の知らない会稽郡東冶縣を知るはずもなく、従って錯解しなかったのです。范曄は陳寿の百五十年後生(後生まれ)で、「魏志倭人伝」の抜き書き/所引を元に書いたので、走り書きに伴う抜けや誤写が発生したと見えます。この推測は誰にも否定できません。(教養ある諸兄姉に向かって、賛成しろと言っているのではないのです)

 范書「東夷伝倭条」を「倭伝」と無謬聖典視しても、誤写誤解は不可避です。信奉者から天誅を受けそうですが、恐れてばかりいられないのです。

 ご指摘の「魏志」王朗伝「東冶」は、禹后会稽「東治」故事に関係ないゴミで、どさ回りの范曄ならともかく、東京雒陽官人の陳寿の知ったことではないのです。「大行は細瑾を顧みず」
 陳寿は、「魏志」編纂に「呉書」を参照せず、「魏志倭人伝」論議で、「呉書」は「参考」に留めるべきです。

◯最後に
 掲載地図は、端的に言うと時代錯誤の悪用であって、読者に偏見を押し付け、学術的に無意味です。善良な読者の誤解を誘うので撤回をお勧めします。

                               以上

2024年4月30日 (火)

新・私の本棚 番外 刮目天 一 「卑弥呼は公孫氏だったのか?( ^)o(^ )」 再掲

                        2022/12/30 再掲 2024/04/30

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

◯始めに
 当記事は、かねがね瞠目している刮目天氏のブログ記事の批判でなく、引用記事に対する氏の批判が「ツボ」を外しているので、身のほど知らずに援軍を送ったものです。氏は、専門外の中国史料の解釈に手が回っていないことがあるので、ここでは、僭越ながら愚見を述べるものです。

*本文
「卑弥呼は○○族だった!?古書から日本の歴史を学ぶ?」

 論者にして講師である「古本屋えりえな」氏は、勉強不足の新参者のようです。

晋書四夷伝倭人伝 「晋書倭人伝」の解釋です。スクリプト提供あり。
其家舊以男子為主 漢末倭人亂功伐不定 乃立女子為王名曰卑彌呼 宣帝之平公孫氏也 其女王遣使至帯方

「[略]漢の末に倭人は乱れて世情が定まらなかったので、ひとりの女子を立てて王とした。名は卑弥呼という。その女王は晋の宣帝が平らぐる公孫氏なり。この女王は帯方に使者を派遣し[以下略]」


 出所不明で、翻訳文責不明ですが、ここに書き出されているのは、飜訳などではなく、原文から遊離した乱調解釈で、素人目にも不出来な「誤解」です。「其女王 」を、挿入された「公孫氏」の女王と言うのは、子供の粘土細工のようで、話にも何にもなっていないのです。 公孫氏は、遼東郡太守であって、「女王」に属していたのではないのですから、「公孫氏女王」は、話の筋が壊れています。とんだ落第生です。

 何しろ、原文は、宣帝司馬懿が、魏明帝景初年間、遼東遠征平定の折、倭女王が帯方に遣使したというだけで、ここで女王出自を述べてはいないのです。

 要するに、そのように「誤解」するのは、「晋書倭人伝」を読む前に、重要な基本資料である「魏志倭人伝」を読んで十分理解した上で、次いで、補足資料として、これを読むという手順を外れているのが原因です。「晋書倭人伝」は、晋が滅び、後続の南朝諸国が滅び、北朝の隋が天下を取った、そのあとの唐の時代に、すでに公式史料として定着している「魏志倭人伝」を不朽の原典として編纂されたものですから、その内容を要約しつつ多少補足するのであって、脱線して余談に嵌まることは「絶対に」ないのです。小賢しい創意を加えることは「絶対に」 ないのです。つまり、そのような解釈は、「絶対に」 物知らずの後世東夷の「誤解」なのです。

 その見方を守っていると、論者の解釈は、正史の「伝」として、とんでもなく場違いで不細工なものであり、簡単に、それは「考え違い」とわかるはずです。
 晋書編纂は、唐皇帝の勅命に基づく大規模の国家事業であり、同時代最高の人材が編纂に取り組んでいる以上、少なくとも、二千年後生の無教養な東夷に後ろ指をさされるような、お粗末な体裁にはなっていないとみるべきです。周囲の編纂者に、お粗末で史官の資質に欠けると断定されれば、更迭、降格され、史家としての威信を無くすのです。ほとんど命がけですから、最善を尽くすしかないのです。

 そもそも、後世の「晋書倭人伝」が、公式史書として信用している「魏志倭人伝」にない風評記事を、場違いなところに書き足すはずはないのです。誰でも、史料の食い違いを発見することができるので、冷静な研究者なら「晋書倭人伝」をそのように解釈することは大間違いとわかる筈です。あるいは、周囲の良識ある研究者が「誤解」の公開を制止するはずです。

 「場違い」と言うのは、「魏志倭人伝」では、「名は卑弥呼という」までに、女王が「一女子」であったと明記しているのに続いて、男弟や城柵の話まで書いているのに、「晋書倭人伝」は、その部分を既知として省略して、景初二年六月に相当する部分に飛んでいるから、これは、女王となった後の話であり、そこに女王が実は公孫氏の親族であったと書くのは、読者を騙したことになって失礼であり、晋書の編者が、そのような手違いを見過ごすはずがないのです。つまり、「公孫氏の親族である女性を王に擁立した」ともともと書いていないのを、飜訳したかたが、自己流で作り出されているのであるから、まことに失礼ながら、それは お客様の「誤解」ですよと言わざるをえないのです。

 時代背景を確認すると、景初年間、大軍を率いて遼東に派遣された司馬懿は、魏皇帝に反逆した大罪人一族を族滅(一族皆殺し)し、洛陽の人質まで殺しています。司馬懿の遼東平定時に公孫親族がやって来れば、連座して首を飛ばしているところです。いきなり首を切られなくても一味として投獄されます。もちろん、そんな目に遭うのがわかっていて、(公孫氏の縁者を堂々と女王として担いでいる)倭人の使節が、魏明帝の直轄となっている帯方郡にのこのこやってくるはずがないのです。だから、気軽に書き流すことはできないのです。
 ここでも、論者の解釈が「誤解」だとわかるのです。

 もちろん、そうしたことは、すべてが常識なのでわざわざ書いていませんが、中国の古代史料を十分勉強したものは、そんな間違いはしないものです。ぜひ、出直してほしいものです。

 以下、変則的文献解釈が続きますが、勉強不足の勘違いの上に立てた「思い込み」の不出来な連鎖を読むことは、時間の無駄なので、一発「退場」です。ここでは、落第生の弁護はしないのです。

 結構な時代で、時代錯誤の解釈も堂々と公開でき、うらやましい限りです。読者も手早く採決しないと、時間がいくらあっても足りません。

*脇道コメントの弁
 本件、刮目天氏のブログにコメントを投書しようとすると、Gooブログの開設を要求されるので今回も直接のコメントは遠慮しました。
 当ブログは身元確認などしないが、不当なものは然る可く遮断します。

*余談の弁
 以下、余談ですが、背景を知らずに炎上すると不本意なので、釘を刺すものです。以下が理解できないなら、当ブログの落第生なのでお帰り頂くものです。お気に召さないとしても、それは、当方の責任ではありません。

*初めての「卑弥呼」伝
 魏志倭人伝」を普通に読む限り、卑弥呼は、男王の「女」ここでは「娘」が嫁ぎ先で産んだ「女子」(娘の子)、つまり「外孫」(そとまご)であり、娘」が嫁ぎ先に持ち込んだ男王の「家」と嫁ぎ先の「家」の両家の「共立」で「女王」に立てられたものです。卑弥呼は、いわば、両家を強力に締結する「かすがい」だったのです。
 本来男子継承ですから、卑弥呼は継嗣でなく、季女(末娘)の伝統的な役目として、生まれながらにして家の祖霊に傅く「巫女」であり、生涯不婚の身であったことを、誰もが承知していたので、氏神の第一の巫女として広く信用されていたのです。年齢としても、数えで二十歳に満たない「妙」、「少女」、「未成年」であり、近年正月に「成年通過儀礼」(Rite of Passage)を受け「已に長大」と書かれています。

*笵曄「後漢書」批判
 笵曄「後漢書」が、女王関連記事で、「漢末」と数十年遡らせたのは、後漢献帝期の建安年間すら、「後漢書」でなく「三国志」の領分なので、三国志にない「倭国大乱」を、献帝に先立つ桓帝・霊帝の時代のことにして創作していますが、根拠史料は「一切」存在せず、つまり、「魏志」に反する虚構の創作と見えるのです。
 笵曄「後漢書」は、陳寿「三国志」完成稿が、『陳寿の没後、さほど年月を経ず上程され、直ちに「三国志」と公認された』のと異なり、笵曄が劉宋皇帝に対する謀反に加担した大罪で嫡子もろとも斬罪に処され命を落とした後、誰が、いつ、どのようにして、笵曄「後漢書」を南朝高官の手元に届け、後に、正史として認定されたのか不明です。現に蔓延している意地の悪い言い方をすると、誰も笵曄「後漢書」の上程稿を見ていないのです。

 そのほか、講師は、色々史料を読んでいますが、歴史背景理解力に乏しく大きく躓いて泥沼に墜ちていますが、個人の信念なので助けの手は出せません。まずは、古人を根拠の無い妄想で貶めるのは、感心しないものです。そして、自分で自分を窮地に追いやるのは、傍目にも感心しないのです。世間には、同様の論法を好む論者が氾濫していますが、「良い子」は「悪い子」の真似をしないで欲しいものです。

*まとめ
 刮目天氏は、基本的に当方と同意見なので、これは、講師批判のみです。

                                以上

2024年4月21日 (日)

新・私の本棚 安本 美典「狗奴国の位置」邪馬台国の会 第411回 講演 再掲

 2023/06/18講演 付 水野祐「評釈 魏志倭人伝」狗奴国記事復原 2023/07/22 2024/04/21

*加筆再掲の弁
*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*総評
 安本美典師の史論は知的創造物(「結構」)であるから、全般を容喙することはできないが、思い違いを指摘することは許されるものと感じる。

*後漢書「倭条」記事の由来推定
 笵曄「後漢書」は、雒陽に所蔵されていた後漢公文書が西晋の亡国で喪われたため、致し方なく先行史家が編纂した諸家後漢書を集大成したが、そこには東夷伝「倭条」部分は存在しなかったと見える。
 後漢末期霊帝没後、帝国の体制が混乱したのにつけいって、遼東では公孫氏が自立し、楽浪郡南部を分郡した「帯方郡」に、韓穢倭を管轄させた時期は、曹操が献帝を支援した「建安年間」であるが、結局、献帝の元には報告が届かなかったようである。
 「後漢書」「郡国志」は、司馬彪「續漢書」の移載だが、楽浪郡「帯方」縣があっても「帯方郡」はなく郡傘下「倭人」史料は欠落と思われる。

 笵曄は、「倭条」編纂に際して、止むなく)魚豢「魏略」の後漢代記事を所引したと見える。公孫氏が洛陽への報告を遮断した東夷史料自体は、司馬氏の遼東郡殲滅で関係者共々破壊されたが、景初年間、楽浪/帯方両郡が公孫氏から魏明帝の元に回収された際に、地方志として雒陽に齎されたと見える。

*魚豢「魏略」~笵曄後漢書「倭条」の出典
 と言っても、魚豢「魏略」の後漢書「東夷伝」「倭条」相当部分は逸失しているが、劉宋裴松之が魏志第三十巻に付注した魏略「西戎伝」全文から構想を伺うことができる。
 魚豢は、魏朝に於いて公文書書庫に出入りしたと見えるが、公認編纂でなく、また、「西戎伝」は、正史夷蕃伝定型外であり、それまでの写本継承も完璧でなかったと見えるが、私人の想定を一解として提示するだけである。
 笵曄「後漢書」西域伝を「西戎伝」と対比すれば、笵曄の筆が、随所で後漢代公文書の記事を離れている事が認められるが、同様の文飾や錯誤が、「倭条」に埋め込まれていても、確信を持って摘発することは、大変困難なのである。

*「魏志倭人伝」狗奴国記事復原
 念を入れると、陳寿「三国志」「魏志」倭人伝は、晋朝公認正史編纂の一環であり、煩瑣を厭わずに、両郡の郡史料を集成したと見える。史官の見識として、魚豢「魏略」は視野に無かったとも見える。魚豢は、魏朝官人であったので、その筆に、蜀漢、東呉に対する敵意は横溢していたと見えるから、史実として魏志に採用することは避けたと見えるのである。
 それはさておき、女王に不服従、つまり、女王に氏神祭祀の権威を認めなかった、氏神を異にする「異教徒」と見える狗奴国は、「絶」と思われ、女王国に通じていなかったと見えるので、「倭人伝」の狗奴国風俗記事は、正始魏使の後年、人材豊富な張政一行の取材結果と見える。

 安本師が講演中で触れている水野祐師の大著労作『評釈 魏志倭人伝』(雄山閣、1987年刊)に於いては、「其南有狗奴國」に始まる記事は、亜熱帯・南方勢力狗奴国の紹介と明快である。

其南有狗奴國。男子爲王、其官有狗古智卑狗、不屬女王。[中略]男子無大小皆黥面文身。[中略]計其道里當在會稽東治之東。[中略]男子皆露紒以木綿招頭。[中略]種禾稻、紵麻、蠶桑[中略]所有無、與儋耳朱崖同。

 一考に値する慧眼・卓見と思われ、ここに重複を恐れずに紹介する。

*本来の「倭記事」推定
 つづく[倭地溫暖]に始まる以下の記事は、冬季寒冷の韓地に比べて温暖であるが亜熱帯とまでは行かない「女王国」紹介記事と見える。

倭地溫暖、冬夏食生菜、皆徒跣。[中略]其死、有棺無槨、封土作冢。[中略]已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐。[中略]出真珠、青玉。[中略]有薑、橘、椒、蘘荷、不知以爲滋味。[中略]自女王國以北特置一大率[中略]皆臨津搜露傳送文書賜遺之物[中略]倭國亂相攻伐歷年乃共立一女子爲王。名曰卑彌呼。事鬼道能惑衆。年已長大。無夫婿。[中略]女王國東渡海千餘里復有國皆倭種。[中略]參問倭地絕在海中洲㠀之上或絕或連周旋可五千餘里。

*結論/一案
 要するに、「倭人伝」には、狗奴国は女王国の南方と「明記」されている。主要国行程は、對海國、一大国、末羅国、伊都国、そして、「邪馬壹国」と一貫して南下しているから、ここも、「邪馬壹国」の南方であることに疑いは無いと言うべきである。
 但し、西晋亡国、東晋南遷の動乱の時代を隔てて、雒陽公文書という一級一次史料から隔絶していた笵曄が、風聞に惑わされて、その点の解釈を誤ったとしても無理からぬとも言える。
 要するに、笵曄「後漢書」東夷列伝「倭条」は、「倭人伝」と対比しうるだけの信頼性が証されないので、「推定忌避」するものではないかと愚考する。(明快な立証がない限り、取り合わない方が賢明であるという事である)

 安本師は、当講演では、断定的な論義を避けているようなので、愚説に耳を貸していただけないものかと思う次第である。

                                以上

2024年3月25日 (月)

私の意見 范曄「後漢書」筆法考 孔融伝を巡って 1/3 総論 三訂

          2021/03/08 補充2021/09/15 2023/06/12 2024/03/25

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

〇はじめに
 当記事で論じているのは、范曄「後漢書」の史料批判にあたって、編者范曄が、原典史料にどのような編集を加えたか、推定するということである。そのために、後漢献帝期の著名人であった孔融の「伝」をどのようにまとめたか、同時代を記録した他の史書と比較したものである。

 孔融は、聖人孔子の子孫の中でも、同時代では、随一の位置付けであった。名門、名家の中でも、格別の偉材であった。

 范曄「後漢書」は、列伝において「孔融」伝を立てている。袁宏「後漢紀」は、列伝を持たないが、献帝紀に孔融が処刑されたとの記事を書くに際して、孔融の小伝を書き起こしている。それぞれ、孔融なる偉才に、伝記を書き残す価値があるとみたことがわかる。因みに、袁宏「後漢紀」は、東晋期に編纂されたものであり、范曄「後漢書」に先行している。
 范曄「後漢書」編纂時に、袁宏「後漢紀」が 参照されたことは確実である。

 一方、陳寿「三国志」「魏志」は、「孔融」伝を持たない。つまり、陳寿は、「孔融は著名人であったが、伝を立てるに及ばない」と見たものと思われる。これに対して、裴松之は、「魏志」崔琰伝に司馬彪「續漢書」から引用、付注 している。
 つまり、南朝劉宋の時代の視点で、魏志に孔融伝がないのは、欠落と見なされていたので、衆望に応えて補完したとみられるが、「魏志」に「孔融伝」を追加すると改竄になるので、「崔琰伝」に補注する形式を採用したとみられる。つまり、「魏志」は改変されていないのである。
 言うまでもないが、裴松之の補注、裴注は、陳寿の編纂したものではないので、陳寿「三国志」の史料批判に起用することはできない。参考になるとすれば、司馬彪「續漢書」の孔融記事は、陳寿が否決したものなのである。
 范曄「後漢書」編纂時に、司馬彪「續漢書」が参照されたことは確実である。

 素人読者が范曄「後漢書」孔融伝を通読して感じるのだが、笵曄は、先行する諸家「後漢書」を熟読した上で、自身の文筆家としての沽券にかけて、熱意を持って執筆したことは確実である。その際、江南圏教養人には、周秦漢の中原で通用していた古代語、古典用語が、十分理解できないと見て、随分手心を加えたと思われる。范曄「後漢書」が、唐代に流麗な文章と賞賛された由縁と思われる。

 以下、范曄「後漢書」の特徴を示すと思われる用例を見出して、用語、構文を対照する。因みに、袁宏「後漢紀」の該当部は、日本語訳が刊行されているので参考にした。陳寿「三国志」魏志の該当部分は、筑摩書房刊の『正史「三国志」』所収の日本語訳を参考にした。
 また、当記事は、笵曄の筆の冴えを賞味することにあるので、續漢書、後漢紀が、原資料/史実に忠実な、保守的なものとして、それを基準に、范曄「後漢書」の用語を批判している。

〇用語、文例比較
*十余歳~十歳
 范曄「後漢書」は、まずは、原史料の「十余歳」を「十歳」としている。
 つまり、笵曄は、年齢表記で「余」概数を避けたのである。今日でも、中国古代史書の語法を解しない人は、「十余」歳を、本来の七,八歳から十二,三歳程度の範囲と見ないで、十歳から十五歳までの範囲と解釈(誤解)する人が大変多いから、誤解を避けて賢明である。 
 言うまでもなく、十歳は、キッチリ十歳という断言でなく、八歳から十二歳程度としても、孔融は後に十三歳で父を亡くしたとあるので、整数ないしは所数で十歳とした方が字面が滑らかである。どのみち、孔融が、一歳単位まで正確に何歳であったかは、全く重要ではない。
 なお、中原では、太古以来、戸籍が整備されていたから、およそ、子供に正式に「命名」する程の名家では、それぞれの子供の名前と年齢は、確実に知られていたのである。
 言うまでもないが、当時は、日本で言う「数え」年齢であるから、現代風に「満」年齢と見ると、一,二歳若くなるのである。
 当時、現代の日本のように小学校はなかったし、どの道、四月から学年開始するのではないが、まあ、今日で言う、小学生高学年か、という程度である。

*周旋~「恩舊」(古い付き合い)
 当記事の筋書きでは、孔融少年が、しかるべき紹介者を通じてではなく、一介の無名人として河南尹李膺に面会を申し込んだのに対して、当然、門前払いになるところを、気の効いた口上でしゃしゃり出たのである。(偉人伝の冒頭を飾る挿話である)

 李姓の李膺は、少年の口上で、老子「李耳」の末裔と扱われて気を良くしたので、孔子「孔丘」の子孫孔融との両家交流を、あっさり認めている。つまり、紹介者の要らない旧知の間柄と強弁したのである。

 ここで、原史料に見られる「周旋」は、古典用語であるため、当時の教養人に理解されない可能性があるので、笵曄は、「恩舊」(古い付き合い)と言い換えた。普通、周旋とは、二地点、あるいは、両家の間の交遊、往来という意味なのである。
 ここでは、正体不明の領域をぐるぐる巡るという意味でないことは確かである。

*長大~(言い換え放棄)
 「高明長大、必為偉器」でも、同時代人に「長大」は理解されない可能性があると見たようだが、適当な言い換えが見つからないで省略したようである。大差ないとも言えるが、「この小僧、成人すれば、大物になるぞ」の意味が消されている。
 因みに、「長大」は、陳寿「魏志」「倭人伝」にも見られる表現であるが、二千年を経た現代中国語にも伝えられていて、さらには、東夷世界でも、現代の有力辞書である「辞海」(三省堂)にも収録されているから、日本でも、教養人の語彙として継承されているようである。
 当時成人が十八歳とすると、十余歳は「数年中」となるので、ぼかしたのだろうか。「末恐ろしい」というには、微妙である。
 また、今日に至るまで、「長大」に老齢の意味は見られないように思う。

*早熟談義~笵曄の本領
 笵曄の真骨頂は、『陳煒後至,曰「夫人小而聰了,大未必奇。」』、つまり、「小才の利いた子供は、大抵、大した大人にならないものだ」と評されて、すかさずこたえた名セリフを「書き換えている」所にある。

 先行史料は、「さぞかし早熟だったのでしょうね」と激しく切り返しているが、笵曄は「お話を聞くと、高明なる貴兄は、神童ではなかったのですね」(觀君所言,將不早惠乎) とやんわりこなしている。「早恵」は、同音の「早慧」と同義で、早熟の意味であるが、ここでは、「不早惠」と否定されているので、後漢紀、續漢書と逆の意味であると思う。つまり、神童などではなく長じて智者になったという尊敬の趣旨である。

 本来は、孔融が生意気な皮肉で高名な官人に反駁したことになっていたが、笵曄は、衆人の前で高官の面子を潰したら「ただで済まない」から、如才のない受け答えをしたはずだと解したのである。

 孔融は、晩年、献帝の建安年間、時の最高権力者曹操に楯突いて、きつい諫言を度々奏したため、遂に刑死しているから、巷では、少年時代の毒舌伝説と語られても、当時河南尹の李膺が、生意気な子供の肩を持って賓客の顔を潰すはずはないと言う、賢明な解釈を採用しているのである。

 笵曄は、「不」の一字で毒消しし、李膺は、孔融少年の爪を隠すことを知っている才覚に感嘆したとしている。話の筋は滑らかであるが、史料に忠実でなく創作である。笵曄の「本領」とは、そういう意味もこめたのである。

*陳寿の孔融観
 因みに、三国志の孔融関連記事は、むしろ乏しい。
 陳寿「三国志」魏志「太祖本紀」(曹操本紀)では、時に、高官としての行状/言行が語られるが、最後は、先に書いたように、時の権力者曹操に、しばしば反抗したとして、誅殺、族滅の憂き目に遭っている。孔子の子孫であり随分高名でありながら、陳寿「三国志」魏志に列伝はない。
 陳寿「三国志」魏志の孔融記事は、大半が裴注によるものであり、子供まで連座して孔融の家系は絶えていたから、裴松之が、孔子子孫の孔融を殺したのは曹操の大失態との「世評」にこたえて、十分に補追したようである。と言って、このように補注されるように、敢えて「孔融伝」を採用しなかったのは、陳寿の見識を示すものであり、また、裴松之は、決して陳寿を誹っているのでは無いのである。

 孔融十歳時の逸話は、「魏志」崔琰伝に司馬彪「續漢書」が付注されていたので、袁宏「後漢紀」、笵曄「後漢書」と比較したが、陳寿が認めた記事ではない。
 むしろ、陳寿が、「魏志」に無用として排除した一連の孔融記事の中でも、最悪と見なしていた記事と思えるのである。

 このような扱いに、陳寿の史官としての判断が厳然と示されているのである。「孔融伝」を立てると、不本意な記事も、加筆、訂正できないまま収録することになるから、陳寿の史官としての志(こころざし)が曲がるのである。もちろん、陳寿は儒教を信奉していたわけではないし、曹操も同様である。と言うことで、陳寿は、孔融の記事を「割愛」したのである。

*不本意な引用
 結局、陳寿「三国志」魏志に孔融伝は無いにもかかわらず、世上の孔融神童(異童子)挿話に、「三国志」本文ならともかく、裴注記事が引用されているのは、割愛した陳壽の身になっても、労作を物した笵曄の身になっても、大変不本意であり勿体ないことだと思うのである。

*范曄の「脱史官」宣言
 総じて、司馬彪「續漢書」と袁宏「後漢紀」の書きぶりには大差がない。古来の史官は、忠実な引用を旨としていたためと思われる。
 そして、范曄「後漢書」は、陳寿「三国志」が提起した確実に歴史を語る」という提言を離れて、また別の一つの正史像を示したものである。

                                未完

私の意見 范曄「後漢書」筆法考 孔融伝を巡って 2/3 対照篇 三訂

          2021/03/08 補充2021/09/15 2023/06/12 2024/03/25

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

*原典史料出典 中国哲學書電子化計劃 維基文庫
〇史料対照篇
 「中国哲學書電子化計劃」及び「維基文庫」による
 笵曄「後漢書」「孔融列伝」。司馬彪「續漢書」は、陳寿「三国志」「魏志」崔琰伝の裴注に収録。袁宏「後漢紀」考献帝紀・
【後漢書】孔融字文舉,魯國人,孔子二十世孫也。
【後漢紀】融字文舉,魯國人,孔子二十世孫。
【續漢書】融,孔子二十世孫也。

【後漢書】融幼有異才。年十歲,隨父詣京師。
【後漢紀】幼有異才,年十餘歲,隨父詣京都。
【續漢書】融幼有異才。融年十餘歲,

【後漢書】時河南尹李膺以簡重自居,不妄接士賓客,敕外自非當世名人及與通家,皆不得白。
【後漢紀】時河南尹李膺有重名,敕門通簡,賓客非當世英賢及通家子孫,不見也。
【續漢書】時河南尹李膺有重名,勑門下簡通賔客,非當世英賢及通家子孫弗見也。

【後漢書】融欲觀其人,故造膺門。語門者曰:「我是李君通家子弟。」門者言之。膺請融,
【後漢紀】融欲觀其為人,遂造膺門,曰:「我是李君通家子孫。」門者白膺,請見,
【續漢書】欲觀其為人,遂造膺門,語門者曰:「我,李君通家子孫也。」

【後漢書】問曰:「高明祖父嘗與僕有恩舊乎?」
【後漢紀】曰:「高明父祖嘗與仆[僕]周旋乎?」
【續漢書】膺見融,問曰:「高明父祖,甞與僕周旋乎?」

【後漢書】融曰:「然。先君孔子與君先人李老君同德比義,而相師友,則融與君累世通家。」眾坐莫不歎息。
【後漢紀】融曰:「然。先君孔子與君李老君同德比義、而相師友,則仆[僕]累世通家也。」眾坐莫不歎息,僉曰:「異童子也。」
【續漢書】融曰:「然。先君孔子與君先人李老君,同德比義、而相師友,則融與君累世通家也。」衆坐奇之,僉曰:「異童子也。」

【後漢書】太中大夫陳煒後至,坐中以告煒。煒曰:「夫人小而聰了,大未必奇。」
【後漢紀】太中大夫陳禕後至,同坐以告禕。[煒]曰:「小時了了者,至大亦未能奇也。」
【續漢書】太中大夫陳煒後至,同坐以告煒,煒曰:「人小時了了者,大亦未必奇也。」

【後漢書】融應聲曰:「觀君所言,將不早惠乎?」
【後漢紀】融曰:「如足下幼時豈嘗〔常〕惠乎?」
【續漢書】融荅曰:「即如所言,君之幼時,豈實慧乎!」

【後漢書】膺大笑曰:「高明必為偉器。」
【後漢紀】膺大笑,謂融曰:「高明長大、必為偉器。」
【續漢書】膺大笑,顧謂曰:「高明長大,必為偉器。」

【後漢書】年十三,喪父,哀悴過毀,扶而後起,州里歸其孝。
【後漢紀】年十三,喪父,哀慕毀瘠,杖而後起,州裏稱其至孝。
【續漢書】該当記事なし

                    未完          

より以前の記事一覧

お気に入ったらブログランキングに投票してください


2025年5月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31

カテゴリー

  • YouTube賞賛と批判
    いつもお世話になっているYouTubeの馬鹿馬鹿しい、間違った著作権管理に関するものです。
  • ファンタジー
    思いつきの仮説です。いかなる効用を保証するものでもありません。
  • フィクション
    思いつきの創作です。論考ではありませんが、「ウソ」ではありません。
  • 今日の躓き石
    権威あるメディアの不適切な言葉遣いを,きつくたしなめるものです。独善の「リベンジ」断固撲滅運動展開中。
  • 倭人伝の散歩道稿
    「魏志倭人伝」に関する覚え書きです。
  • 倭人伝道里行程について
    「魏志倭人伝」の郡から倭までの道里と行程について考えています
  • 倭人伝随想
    倭人伝に関する随想のまとめ書きです。
  • 動画撮影記
    動画撮影の裏話です。(希少)
  • 卑弥呼の墓
    倭人伝に明記されている「径百歩」に関する論義です
  • 古賀達也の洛中洛外日記
    古田史学の会事務局長古賀達也氏のブログ記事に関する寸評です
  • 名付けの話
    ネーミングに関係する話です。(希少)
  • 囲碁の世界
    囲碁の世界に関わる話題です。(希少)
  • 季刊 邪馬台国
    四十年を越えて着実に刊行を続けている「日本列島」古代史専門の史学誌です。
  • 将棋雑談
    将棋の世界に関わる話題です。
  • 後漢書批判
    不朽の名著 范曄「後漢書」の批判という無謀な試みです。
  • 新・私の本棚
    私の本棚の新展開です。主として、商用出版された『書籍』書評ですが、サイト記事の批評も登場します。
  • 歴博談議
    国立歴史民俗博物館(通称:歴博)は、広大な歴史学・考古学・民俗学研究機関です。「魏志倭人伝」および関連資料限定です。
  • 歴史人物談義
    主として古代史談義です。
  • 毎日新聞 歴史記事批判
    毎日新聞夕刊の歴史記事の不都合を批判したものです。「歴史の鍵穴」「今どきの歴史」の連載が大半
  • 百済祢軍墓誌談義
    百済祢軍墓誌に関する記事です
  • 私の本棚
    主として古代史に関する書籍・雑誌記事・テレビ番組の個人的な読後感想です。
  • 纒向学研究センター
    纒向学研究センターを「推し」ている産経新聞報道が大半です
  • 西域伝の新展開
    正史西域伝解釈での誤解を是正するものです。恐らく、世界初の丁寧な解釈です。
  • 資料倉庫
    主として、古代史関係資料の書庫です。
  • 邪馬台国・奇跡の解法
    サイト記事 『伊作 「邪馬台国・奇跡の解法」』を紹介するものです
  • 隋書俀国伝談義
    隋代の遣使記事について考察します
  • NHK歴史番組批判
    近年、偏向が目だつ「公共放送」古代史番組の論理的な批判です。
無料ブログはココログ