後漢書批判

不朽の名著 范曄「後漢書」の批判という無謀な試みです。

2024年4月21日 (日)

新・私の本棚 安本 美典「狗奴国の位置」邪馬台国の会 第411回 講演 再掲

 2023/06/18講演 付 水野祐「評釈 魏志倭人伝」狗奴国記事復原 2023/07/22 2024/04/21

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

*総評
 安本美典師の史論は知的創造物(「結構」)であるから、全般を容喙することはできないが、思い違いを指摘することは許されるものと感じる。

*後漢書「倭条」記事の由来推定
 笵曄「後漢書」は、雒陽に所蔵されていた後漢公文書が西晋の亡国で喪われたため、致し方なく先行史家が編纂した諸家後漢書を集大成したが、そこには東夷伝「倭条」部分は存在しなかったと見える。
 後漢末期霊帝没後、帝国の体制が混乱したのにつけいって、遼東では公孫氏が自立し、楽浪郡南部を分郡した「帯方郡」に、韓穢倭を管轄させた時期は、曹操が献帝を支援した「建安年間」であるが、結局、献帝の元には報告が届かなかったようである。
 「後漢書」「郡国志」は、司馬彪「續漢書」の移載だが、楽浪郡「帯方」縣があっても「帯方郡」はなく郡傘下「倭人」史料は欠落と思われる。

 笵曄は、「倭条」編纂に際して、止むなく)魚豢「魏略」の後漢代記事を所引したと見える。公孫氏が洛陽への報告を遮断した東夷史料自体は、司馬氏の遼東郡殲滅で関係者共々破壊されたが、景初年間、楽浪/帯方両郡が公孫氏から魏明帝の元に回収された際に、地方志として雒陽に齎されたと見える。

*魚豢「魏略」~笵曄後漢書「倭条」の出典
 と言っても、魚豢「魏略」の後漢書「東夷伝」「倭条」相当部分は逸失しているが、劉宋裴松之が魏志第三十巻に付注した魏略「西戎伝」全文から構想を伺うことができる。
 魚豢は、魏朝に於いて公文書書庫に出入りしたと見えるが、公認編纂でなく、また、「西戎伝」は、正史夷蕃伝定型外であり、それまでの写本継承も完璧でなかったと見えるが、私人の想定を一解として提示するだけである。
 笵曄「後漢書」西域伝を「西戎伝」と対比すれば、笵曄の筆が、随所で後漢代公文書の記事を離れている事が認められるが、同様の文飾や錯誤が、「倭条」に埋め込まれていても、確信を持って摘発することは、大変困難なのである。

*「魏志倭人伝」狗奴国記事復原
 念を入れると、陳寿「三国志」「魏志」倭人伝は、晋朝公認正史編纂の一環であり、煩瑣を厭わずに、両郡の郡史料を集成したと見える。史官の見識として、魚豢「魏略」は視野に無かったとも見える。魚豢は、魏朝官人であったので、その筆に、蜀漢、東呉に対する敵意は横溢していたと見えるから、史実として魏志に採用することは避けたと見えるのである。
 それはさておき、女王に不服従、つまり、女王に氏神祭祀の権威を認めなかった、氏神を異にする「異教徒」と見える狗奴国は、「絶」と思われ、女王国に通じていなかったと見えるので、「倭人伝」の狗奴国風俗記事は、正始魏使の後年、人材豊富な張政一行の取材結果と見える。

 安本師が講演中で触れている水野祐師の大著労作『評釈 魏志倭人伝』(雄山閣、1987年刊)に於いては、「其南有狗奴國」に始まる記事は、亜熱帯・南方勢力狗奴国の紹介と明快である。

其南有狗奴國。男子爲王、其官有狗古智卑狗、不屬女王。[中略]男子無大小皆黥面文身。[中略]計其道里當在會稽東治之東。[中略]男子皆露紒以木綿招頭。[中略]種禾稻、紵麻、蠶桑[中略]所有無、與儋耳朱崖同。

 一考に値する慧眼・卓見と思われ、ここに重複を恐れずに紹介する。

*本来の「倭記事」推定
 つづく[倭地溫暖]に始まる以下の記事は、冬季寒冷の韓地に比べて温暖であるが亜熱帯とまでは行かない「女王国」紹介記事と見える。

倭地溫暖、冬夏食生菜、皆徒跣。[中略]其死、有棺無槨、封土作冢。[中略]已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐。[中略]出真珠、青玉。[中略]有薑、橘、椒、蘘荷、不知以爲滋味。[中略]自女王國以北特置一大率[中略]皆臨津搜露傳送文書賜遺之物[中略]倭國亂相攻伐歷年乃共立一女子爲王。名曰卑彌呼。事鬼道能惑衆。年已長大。無夫婿。[中略]女王國東渡海千餘里復有國皆倭種。[中略]參問倭地絕在海中洲㠀之上或絕或連周旋可五千餘里。

*結論/一案
 要するに、「倭人伝」には、狗奴国は女王国の南方と「明記」されている。主要国行程は、對海國、一大国、末羅国、伊都国、そして、「邪馬壹国」と一貫して南下しているから、ここも、「邪馬壹国」の南方であることに疑いは無いと言うべきである。
 但し、西晋亡国、東晋南遷の動乱の時代を隔てて、雒陽公文書という一級一次史料から隔絶していた笵曄が、風聞に惑わされて、その点の解釈を誤ったとしても無理からぬとも言える。
 要するに、笵曄「後漢書」東夷列伝「倭条」は、「倭人伝」と対比しうるだけの信頼性が証されないので、「推定忌避」するものではないかと愚考する。(明快な立証がない限り、取り合わない方が賢明であるという事である)

 安本師は、当講演では、断定的な論義を避けているようなので、愚説に耳を貸していただけないものかと思う次第である。

                                以上

2024年3月25日 (月)

私の意見 范曄「後漢書」筆法考 孔融伝を巡って 1/3 総論 三訂

          2021/03/08 補充2021/09/15 2023/06/12 2024/03/25

*加筆再掲の弁
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〇はじめに
 当記事で論じているのは、范曄「後漢書」の史料批判にあたって、編者范曄が、原典史料にどのような編集を加えたか、推定するということである。そのために、後漢献帝期の著名人であった孔融の「伝」をどのようにまとめたか、同時代を記録した他の史書と比較したものである。

 孔融は、聖人孔子の子孫の中でも、同時代では、随一の位置付けであった。名門、名家の中でも、格別の偉材であった。

 范曄「後漢書」は、列伝において「孔融」伝を立てている。袁宏「後漢紀」は、列伝を持たないが、献帝紀に孔融が処刑されたとの記事を書くに際して、孔融の小伝を書き起こしている。それぞれ、孔融なる偉才に、伝記を書き残す価値があるとみたことがわかる。因みに、袁宏「後漢紀」は、東晋期に編纂されたものであり、范曄「後漢書」に先行している。
 范曄「後漢書」編纂時に、袁宏「後漢紀」が 参照されたことは確実である。

 一方、陳寿「三国志」「魏志」は、「孔融」伝を持たない。つまり、陳寿は、「孔融は著名人であったが、伝を立てるに及ばない」と見たものと思われる。これに対して、裴松之は、「魏志」崔琰伝に司馬彪「續漢書」から引用、付注 している。
 つまり、南朝劉宋の時代の視点で、魏志に孔融伝がないのは、欠落と見なされていたので、衆望に応えて補完したとみられるが、「魏志」に「孔融伝」を追加すると改竄になるので、「崔琰伝」に補注する形式を採用したとみられる。つまり、「魏志」は改変されていないのである。
 言うまでもないが、裴松之の補注、裴注は、陳寿の編纂したものではないので、陳寿「三国志」の史料批判に起用することはできない。参考になるとすれば、司馬彪「續漢書」の孔融記事は、陳寿が否決したものなのである。
 范曄「後漢書」編纂時に、司馬彪「續漢書」が参照されたことは確実である。

 素人読者が范曄「後漢書」孔融伝を通読して感じるのだが、笵曄は、先行する諸家「後漢書」を熟読した上で、自身の文筆家としての沽券にかけて、熱意を持って執筆したことは確実である。その際、江南圏教養人には、周秦漢の中原で通用していた古代語、古典用語が、十分理解できないと見て、随分手心を加えたと思われる。范曄「後漢書」が、唐代に流麗な文章と賞賛された由縁と思われる。

 以下、范曄「後漢書」の特徴を示すと思われる用例を見出して、用語、構文を対照する。因みに、袁宏「後漢紀」の該当部は、日本語訳が刊行されているので参考にした。陳寿「三国志」魏志の該当部分は、筑摩書房刊の『正史「三国志」』所収の日本語訳を参考にした。
 また、当記事は、笵曄の筆の冴えを賞味することにあるので、續漢書、後漢紀が、原資料/史実に忠実な、保守的なものとして、それを基準に、范曄「後漢書」の用語を批判している。

〇用語、文例比較
*十余歳~十歳
 范曄「後漢書」は、まずは、原史料の「十余歳」を「十歳」としている。
 つまり、笵曄は、年齢表記で「余」概数を避けたのである。今日でも、中国古代史書の語法を解しない人は、「十余」歳を、本来の七,八歳から十二,三歳程度の範囲と見ないで、十歳から十五歳までの範囲と解釈(誤解)する人が大変多いから、誤解を避けて賢明である。 
 言うまでもなく、十歳は、キッチリ十歳という断言でなく、八歳から十二歳程度としても、孔融は後に十三歳で父を亡くしたとあるので、整数ないしは所数で十歳とした方が字面が滑らかである。どのみち、孔融が、一歳単位まで正確に何歳であったかは、全く重要ではない。
 なお、中原では、太古以来、戸籍が整備されていたから、およそ、子供に正式に「命名」する程の名家では、それぞれの子供の名前と年齢は、確実に知られていたのである。
 言うまでもないが、当時は、日本で言う「数え」年齢であるから、現代風に「満」年齢と見ると、一,二歳若くなるのである。
 当時、現代の日本のように小学校はなかったし、どの道、四月から学年開始するのではないが、まあ、今日で言う、小学生高学年か、という程度である。

*周旋~「恩舊」(古い付き合い)
 当記事の筋書きでは、孔融少年が、しかるべき紹介者を通じてではなく、一介の無名人として河南尹李膺に面会を申し込んだのに対して、当然、門前払いになるところを、気の効いた口上でしゃしゃり出たのである。(偉人伝の冒頭を飾る挿話である)

 李姓の李膺は、少年の口上で、老子「李耳」の末裔と扱われて気を良くしたので、孔子「孔丘」の子孫孔融との両家交流を、あっさり認めている。つまり、紹介者の要らない旧知の間柄と強弁したのである。

 ここで、原史料に見られる「周旋」は、古典用語であるため、当時の教養人に理解されない可能性があるので、笵曄は、「恩舊」(古い付き合い)と言い換えた。普通、周旋とは、二地点、あるいは、両家の間の交遊、往来という意味なのである。
 ここでは、正体不明の領域をぐるぐる巡るという意味でないことは確かである。

*長大~(言い換え放棄)
 「高明長大、必為偉器」でも、同時代人に「長大」は理解されない可能性があると見たようだが、適当な言い換えが見つからないで省略したようである。大差ないとも言えるが、「この小僧、成人すれば、大物になるぞ」の意味が消されている。
 因みに、「長大」は、陳寿「魏志」「倭人伝」にも見られる表現であるが、二千年を経た現代中国語にも伝えられていて、さらには、東夷世界でも、現代の有力辞書である「辞海」(三省堂)にも収録されているから、日本でも、教養人の語彙として継承されているようである。
 当時成人が十八歳とすると、十余歳は「数年中」となるので、ぼかしたのだろうか。「末恐ろしい」というには、微妙である。
 また、今日に至るまで、「長大」に老齢の意味は見られないように思う。

*早熟談義~笵曄の本領
 笵曄の真骨頂は、『陳煒後至,曰「夫人小而聰了,大未必奇。」』、つまり、「小才の利いた子供は、大抵、大した大人にならないものだ」と評されて、すかさずこたえた名セリフを「書き換えている」所にある。

 先行史料は、「さぞかし早熟だったのでしょうね」と激しく切り返しているが、笵曄は「お話を聞くと、高明なる貴兄は、神童ではなかったのですね」(觀君所言,將不早惠乎) とやんわりこなしている。「早恵」は、同音の「早慧」と同義で、早熟の意味であるが、ここでは、「不早惠」と否定されているので、後漢紀、續漢書と逆の意味であると思う。つまり、神童などではなく長じて智者になったという尊敬の趣旨である。

 本来は、孔融が生意気な皮肉で高名な官人に反駁したことになっていたが、笵曄は、衆人の前で高官の面子を潰したら「ただで済まない」から、如才のない受け答えをしたはずだと解したのである。

 孔融は、晩年、献帝の建安年間、時の最高権力者曹操に楯突いて、きつい諫言を度々奏したため、遂に刑死しているから、巷では、少年時代の毒舌伝説と語られても、当時河南尹の李膺が、生意気な子供の肩を持って賓客の顔を潰すはずはないと言う、賢明な解釈を採用しているのである。

 笵曄は、「不」の一字で毒消しし、李膺は、孔融少年の爪を隠すことを知っている才覚に感嘆したとしている。話の筋は滑らかであるが、史料に忠実でなく創作である。笵曄の「本領」とは、そういう意味もこめたのである。

*陳寿の孔融観
 因みに、三国志の孔融関連記事は、むしろ乏しい。
 陳寿「三国志」魏志「太祖本紀」(曹操本紀)では、時に、高官としての行状/言行が語られるが、最後は、先に書いたように、時の権力者曹操に、しばしば反抗したとして、誅殺、族滅の憂き目に遭っている。孔子の子孫であり随分高名でありながら、陳寿「三国志」魏志に列伝はない。
 陳寿「三国志」魏志の孔融記事は、大半が裴注によるものであり、子供まで連座して孔融の家系は絶えていたから、裴松之が、孔子子孫の孔融を殺したのは曹操の大失態との「世評」にこたえて、十分に補追したようである。と言って、このように補注されるように、敢えて「孔融伝」を採用しなかったのは、陳寿の見識を示すものであり、また、裴松之は、決して陳寿を誹っているのでは無いのである。

 孔融十歳時の逸話は、「魏志」崔琰伝に司馬彪「續漢書」が付注されていたので、袁宏「後漢紀」、笵曄「後漢書」と比較したが、陳寿が認めた記事ではない。
 むしろ、陳寿が、「魏志」に無用として排除した一連の孔融記事の中でも、最悪と見なしていた記事と思えるのである。

 このような扱いに、陳寿の史官としての判断が厳然と示されているのである。「孔融伝」を立てると、不本意な記事も、加筆、訂正できないまま収録することになるから、陳寿の史官としての志(こころざし)が曲がるのである。もちろん、陳寿は儒教を信奉していたわけではないし、曹操も同様である。と言うことで、陳寿は、孔融の記事を「割愛」したのである。

*不本意な引用
 結局、陳寿「三国志」魏志に孔融伝は無いにもかかわらず、世上の孔融神童(異童子)挿話に、「三国志」本文ならともかく、裴注記事が引用されているのは、割愛した陳壽の身になっても、労作を物した笵曄の身になっても、大変不本意であり勿体ないことだと思うのである。

*范曄の「脱史官」宣言
 総じて、司馬彪「續漢書」と袁宏「後漢紀」の書きぶりには大差がない。古来の史官は、忠実な引用を旨としていたためと思われる。
 そして、范曄「後漢書」は、陳寿「三国志」が提起した確実に歴史を語る」という提言を離れて、また別の一つの正史像を示したものである。

                                未完

私の意見 范曄「後漢書」筆法考 孔融伝を巡って 2/3 対照篇 三訂

          2021/03/08 補充2021/09/15 2023/06/12 2024/03/25

*加筆再掲の弁
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*原典史料出典 中国哲學書電子化計劃 維基文庫
〇史料対照篇
 「中国哲學書電子化計劃」及び「維基文庫」による
 笵曄「後漢書」「孔融列伝」。司馬彪「續漢書」は、陳寿「三国志」「魏志」崔琰伝の裴注に収録。袁宏「後漢紀」考献帝紀・
【後漢書】孔融字文舉,魯國人,孔子二十世孫也。
【後漢紀】融字文舉,魯國人,孔子二十世孫。
【續漢書】融,孔子二十世孫也。

【後漢書】融幼有異才。年十歲,隨父詣京師。
【後漢紀】幼有異才,年十餘歲,隨父詣京都。
【續漢書】融幼有異才。融年十餘歲,

【後漢書】時河南尹李膺以簡重自居,不妄接士賓客,敕外自非當世名人及與通家,皆不得白。
【後漢紀】時河南尹李膺有重名,敕門通簡,賓客非當世英賢及通家子孫,不見也。
【續漢書】時河南尹李膺有重名,勑門下簡通賔客,非當世英賢及通家子孫弗見也。

【後漢書】融欲觀其人,故造膺門。語門者曰:「我是李君通家子弟。」門者言之。膺請融,
【後漢紀】融欲觀其為人,遂造膺門,曰:「我是李君通家子孫。」門者白膺,請見,
【續漢書】欲觀其為人,遂造膺門,語門者曰:「我,李君通家子孫也。」

【後漢書】問曰:「高明祖父嘗與僕有恩舊乎?」
【後漢紀】曰:「高明父祖嘗與仆[僕]周旋乎?」
【續漢書】膺見融,問曰:「高明父祖,甞與僕周旋乎?」

【後漢書】融曰:「然。先君孔子與君先人李老君同德比義,而相師友,則融與君累世通家。」眾坐莫不歎息。
【後漢紀】融曰:「然。先君孔子與君李老君同德比義、而相師友,則仆[僕]累世通家也。」眾坐莫不歎息,僉曰:「異童子也。」
【續漢書】融曰:「然。先君孔子與君先人李老君,同德比義、而相師友,則融與君累世通家也。」衆坐奇之,僉曰:「異童子也。」

【後漢書】太中大夫陳煒後至,坐中以告煒。煒曰:「夫人小而聰了,大未必奇。」
【後漢紀】太中大夫陳禕後至,同坐以告禕。[煒]曰:「小時了了者,至大亦未能奇也。」
【續漢書】太中大夫陳煒後至,同坐以告煒,煒曰:「人小時了了者,大亦未必奇也。」

【後漢書】融應聲曰:「觀君所言,將不早惠乎?」
【後漢紀】融曰:「如足下幼時豈嘗〔常〕惠乎?」
【續漢書】融荅曰:「即如所言,君之幼時,豈實慧乎!」

【後漢書】膺大笑曰:「高明必為偉器。」
【後漢紀】膺大笑,謂融曰:「高明長大、必為偉器。」
【續漢書】膺大笑,顧謂曰:「高明長大,必為偉器。」

【後漢書】年十三,喪父,哀悴過毀,扶而後起,州里歸其孝。
【後漢紀】年十三,喪父,哀慕毀瘠,杖而後起,州裏稱其至孝。
【續漢書】該当記事なし

                    未完          

私の意見 范曄「後漢書」筆法考 孔融伝を巡って 3/3 原典篇 三訂

          2021/03/08 補充2021/09/15 2023/06/12 2024/03/25

*加筆再掲の弁
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*原典史料出典 中国哲學書電子化計劃 維基文庫

 下線、太字は、当ブログにて付加

范曄「後漢書」鄭孔荀列伝

孔融字文舉,魯國人,孔子二十世孫也。
七世祖霸,為元帝師,位至侍中。父宙,太山都尉。
融幼有異才。年十歲,隨父詣京師。時河南尹李膺以簡重自居,不妄接士賓客,敕外自非當世名人及與通家,皆不得白。融欲觀其人,故造膺門。
語門者曰:「我是李君通家子弟。」門者言之。膺請融,
問曰:「高明祖父嘗與僕有恩舊乎?」
融曰:「然。先君孔子與君先人李老君同德比義,而相師友,則融與君累世通家。」眾坐莫不歎息。
太中大夫陳煒後至,坐中以告煒。煒曰:「夫人小而聰了,大未必奇。」
融應聲曰:「觀君所言,將不早惠乎?」
膺大笑曰:「高明必為偉器。」
年十三,喪父,哀悴過毀,扶而後起,州里歸其孝。
性好學,博涉多該覽。

袁宏「後漢紀」卷三十 孝獻皇帝紀 建安十三年

融字文舉,魯國人,孔子二十世孫。
幼有異才,年十餘歲,隨父詣京都。時河南尹李膺有重名,敕門通簡,賓客非當世英賢及通家子孫,不見也。融欲觀其為人,遂造膺門,
曰:「我是李君通家子孫。」門者白膺,請見,
曰:「高明父祖嘗與仆[僕]周旋乎?」
融曰:「然。先君孔子與君李老君同德比義、而相師友,則仆累世通家也。」眾坐莫不歎息,僉曰:「異童子也。」
太中大夫陳禕後至,同坐以告禕。曰:「小時了了者,至大亦未能奇也。」
融曰:「如足下幼時豈嘗惠乎?」
膺大笑,謂融曰:「高明長大必為偉器。」
年十三,喪父,哀慕毀瘠,杖而後起,州裏稱其至孝。

 司馬彪「續漢書」:「魏志」崔琰傳 裴松之付注

融,孔子二十世孫也。高祖父尚,鉅鹿太守。父宙,太山都尉。
融幼有異才。
時河南尹李膺有重名,勑門下簡通賔客,非當世英賢及通家子孫弗見也。
融年十餘歲,欲觀其為人,遂造膺門,
語門者曰:「我,李君通家子孫也。」
膺見融,問曰:「高明父祖,甞與僕周旋乎?」
融曰:「然。先君孔子與君先人李老君,同德比義而相師友,則融與君累世通家也。」衆坐奇之,僉曰:「異童子也。」
太中大夫陳煒後至,同坐以告煒,煒曰:「人小時了了者,大亦未必奇也。」
融荅曰:「即如所言,君之幼時,豈實慧乎!」
膺大笑,顧謂曰:「高明長大,必為偉器。」 

                                以上

2024年3月24日 (日)

新・私の本棚 番外 范曄後漢書倭伝 史料批判の試み 1 逐条審議 1/6 再掲

 私の見立て ★★★★☆ 必読好著、但し倭伝(倭条)は虚構濃厚  初出 2020/02/17 再掲 2024/03/24

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

〇逐条審議ということ
 当記事は、後漢書倭伝記事批判において、まずは、正史の中核三史の掉尾を為す後漢書との視点から、手早く審議していくものです。

【倭在】 以下、参照の便に供するために冒頭二字を条題としています。
倭在韓東南、大海中依、山島為居,凡百餘國。
大意:倭は、韓の東南に在る。大海中に依り、山島居を為す。百国程度ある。

*時代観
 韓伝に続いて後漢朝末期の「現状」と思われます。歴史背景と地理情報で説き起こす韓伝と異なり、唐突で根拠不明です。
 漢書に至る先行史書には「倭」伝、ないし、条が登場していないから、ここが初出の詳解であり、この書き出しは史書条として唐突の感を免れません。
 朝鮮半島に韓が成立したのは、漢武の楽浪郡設置後であり、断り無く時代が前後しているのは不用意です。と言うものの韓伝には、武帝の朝鮮討伐の故事はなく、依然として説明不足です。
 別解は、倭在韓東南大海中依山島為居。凡百餘國。
 つまり、「倭は、韓の東南大海中にあり、山島により居を為す」と読めば、「倭は、韓の向こうの大海中の山島に在る」であり、幾分筋が通って見えます。

*地理観
●韓地地理情報
 脇道ですが、韓伝地理観は、その時点の形勢を整然明解としています。

 三韓同居の韓地は、地勢で東西二分され、西方は、馬韓が占め、北方は楽浪郡と接し、南方は倭と接します。東方は、辰韓があり北方は濊と接します。すなわち、楽浪郡は、韓地北方の西方のみであり、東方には濊が在ります。これは、半島中央部の東方寄りに山塊がある地理を反映しています。

 三韓最後の弁辰は、辰韓の南方であり、その南方で倭と接します。すなわち、倭は、韓地の南方にあって弁辰と接しています。

 以上は、笵曄の理解であり、誠に単純明快です。また、韓地は東西「海」と明解です。南の「倭」が、何者でどのような地理にあるか、韓伝に書かれていません。書かれていないことに先入観は禁物です。
 ただし、特に倭の事情を書いていない以上、この倭は、直後の「倭」であるから倭として一体で地続きと解するのが順当です。つまり、笵曄は、そのように読者が解するように書いているのです。

●漢書地理志談義
 漢書地理志の「倭」関連は燕地記事ですが、「樂浪海中有倭人,分為百餘國」とあり、「倭人」は、樂浪海、すなわち楽浪西の黄海を隔てた山東半島方面とも読めます。
 当記事は、西漢、つまり、長安帝都時の土地勘がない帝室史官が書いたため不明確になったと思えます。当記事では倭人への道は方向不明です。

 最後に、唐代顔師古の付注(641年(貞観15年))で「師古曰 今猶有倭國 魏略云 倭在帶方東南大海中 依山島爲國 度海千里 復有國 皆倭種」
 今、つまり、唐代に倭国はあるとした後に、魏略により「倭在帯方東南大海中..」と書いています。顔師古注は後世ですが、魏略自体は、魏志とほぼ同時代の編纂なので、笵曄の知識となっていたも思われます。「倭国」と称したのは、東晋以降のようですが、范曄が倭をどう呼んだかは不確かです。

 まずは、漢書編者の手元に「倭」の所在、素性を示す地理情報がなかったと見えます。先に書いたように、次項で武帝の朝鮮征覇が書かれていますから、時代が前後しますが、漢武帝による楽浪郡創設前、長安が「倭人」の詳細な情報を得ていたとは思えません。情報源は、蛮夷の上申ですが、朝鮮が健在な間は朝鮮王の手元にとどまり、燕に属した遼東郡太守の地方官の手元に倭人情報は届いていなかったのでしょう。

                                未完

新・私の本棚 番外 范曄後漢書倭伝 史料批判の試み 1 逐条審議 2/6 再掲

 私の見立て ★★★★☆ 必読好著、但し倭伝(倭条)は虚構濃厚  初出 2020/02/17 再掲 2024/03/24

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

●黄海渡海談義

 因みに、漢書に詳解されている武帝の朝鮮征覇は、山東半島から黄海を渡って朝鮮王都を攻撃した渡海部隊が書かれていて、当時、この経路が航行容易であったため、大船を造船して、大軍の輸送に動員することができたと思われます。この間は、精々二、三日の行程であり、特に難所がないことから、大船というものの、当時市糴に採用されていた帆走船舶で対応できたと思われます。つまり、周辺に造船所があったはずであり、新規の設計は不要であったことから、皇帝の号令一下、短期間で造船できたとみるのです。また、市糴で便船が往来していたということは、新規造船にも海域に通じた船員が起用できたということです。
 後漢代の航行記録が乏しいのですが、山東半島の青州東莱からの行路として、遼東半島に至る経路とともに、帯方郡治の海津に到る経路と更に漢江河口部を避けて南方の後世唐津(タンジン)と呼ばれた海津に到る経路が並行して起用されていたと見えます。後者は、後漢書にことさら示された馬韓伯済国(後、つまり、劉宋時の百済)が海上交易を営むに到ったと見えます。
 但し、西晋が滅び、中原が北方民族の支配下に墜ちたとき、山島半島周辺の青州が北方民族の支配下にあっては、東晋、南朝諸国の勢力下を離れたため、そのような交易は低迷した可能性があります。
 なお、その際、洛陽有司が百済に亡命し、新興国家の体制構築に大いに貢献したと伝えられています。

●冒頭条解釈
 本条を、唐代刊本の句読点に従い読むと、韓の東南の大海と進みそうですが、冒頭句の要件は、「倭」の所在を明らかにするので、「韓の東南」と読まねばなりません。独断で「倭」主語の後に四字句連続としました。
 ただし、「韓」つまり三韓全体の国主の所在が不明確なので、東南方向という起点が不明です。何とも、不用意であり、史官の筆致であれば、後漢朝を通じ存在した楽浪の東南とすべきです。

●大海談義
 魏略「西戎伝」に延々と収録されている後漢朝西域記事で、「大海」は西域でしばしば見られる内陸塩水湖であり、まして、長安帝都時代には、現代で言う「海」(うみ)の認識は薄かったでしょう。語彙は、時代だけでなく、地域でも、大きく異なるのです。

 武帝以前、西域の入り口にあたる楼蘭付近の蒲昌海(ロプノール)が「西海」とされていたかと思われますが、漢使安息国到達後は、裏海(カスピ海)が「西海」となり、其の海西に条支があると西方に拡張された可能性もあります。時代地理観です。

●山島談義
 続いて「海中山島」と言いますが、古代語彙では、「海中」はも必ずしも、海に浮かんだという意味でなく、従って、離島という確証はありません。編者の意図は、後世で言う朝鮮半島に連なる半島かも知れず、海中は入り江に挟まれた丘陵かも知れません。後続記事でも地理情報は不明確なままです。
 但し、笵曄は、魚豢「魏略」西戎伝の地理記事、道里記事を理解できなかったようですから、劉宋地理観で捉えていて、「朝鮮半島」の南の離島と見ていたのかも知れませんが、笵曄の地理観と後漢時代との地理観の相違が解き明かされていないので、わからないことは、いくら考えてもわかりません。

【自武】
自武帝滅朝鮮,使驛通於漢者三十許國,國皆稱王,世世傳統。
大意:武帝が朝鮮を滅して以来、使驛の漢に通じるものは、三十国程度である。国はみな王と称し、代々継承しているという。

*時代観
 本条は、漢武帝以降、漢代の状況であり、後漢書の時代外と読めます。国みな王を称したとしますが、以降、後漢末の建安年間まで、およそ二百五十年にわたる長大な期間の何れかの時に、合わせて三十国が長安ないし洛陽に参詣した際の申告を集計して、代々国王が継承していますと申告したとしても、それは、何か意味のあることでしょうか。
 武帝は、朝鮮討伐後、四郡を置いたとしていますが、後世、帯方郡が置かれたとき、その管轄すべき南方の領域は未整備の「荒地」だったとされています。帯方郡すらない時代、どのようにして、海峡の彼方から使節を迎えていたのでしょうか。漢代の帝都は、遙か西方の長安なのです。

 笵曄は、魏朝に接収された帯方郡の事情を述べているのでしょうか。それにしても、帯方郡の創設は、後漢献帝の建安年間、曹操の「君臨」していた時代は、魏志の時代であり、笵曄「後漢書」の圏外です。と言って、公孫氏健在の時代、東夷の貢献は遼東郡止まりだったのです。そして、公孫氏時代の記録は、司馬懿の討伐の際に廃棄されていて、不明なのです。どういう経緯で、笵曄の手にこのような情報が届いたのでしょうか。わからないことだらけです。

 そして、陳寿「三国志」魏志倭人伝の説くところでは、王統が継承されていたのは、ほんの数カ国に留まっているのです。「倭人伝」にすら、名のみ記載の小国が、悉く王制を維持していたとする根拠は何なのでしょうか。それとも、「倭人伝」は、陳寿の曲筆の産物で、笵曄の倭条記事の方が正しいのでしょうか。
 
                                未完

新・私の本棚 番外 范曄後漢書倭伝 史料批判の試み 1 逐条審議 3/6 再掲

 私の見立て ★★★★☆ 必読好著、但し倭伝(倭条)は虚構濃厚  初出 2020/02/17 再掲 2024/03/24

*加筆再掲の弁
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【其大】
[今]其大倭王居邪馬臺國。
大意:今、倭の大倭王は、邪馬台国に居するという。

*時代観
 さすがに後漢代の記事と見ます。それにしても、蛮夷の王を、天子を差し置いてでもないでしょうか、「大倭王」と至高の尊称で呼ぶのは無法です。後出しの交流事跡には倭[奴]国しかありません。諸国盟主の意とするのは、意味不明です。
 漢に「邪馬臺国」国号に意味はなく、唐突な自称と見えますが、小国、つまり、倭の三十国との関係が不明では、記事として不合理です。
 魚豢「魏略」西戎伝によれば、遙か西方に「大秦」と呼ばれた国が存在したようですが、西方の「無法」な国号を東夷に敷衍したとしても意図が不明です。
 それとも、「今」を補って、笵曄は劉宋視点で書いたのでしょうか。つまり、劉宋時に大倭が存在したのでしょうか。誠に不可解です。

【楽浪】
樂浪郡徼,去其國萬二千里,去其西北界拘邪韓國七千餘里。
大意:楽浪郡の徼は、其の国、邪馬臺国を去ること一万二千里。其の国の西北界である拘邪韓國を去ること七千里程度である。

*地理観
 其國とは、書いたばかりの邪馬臺國王の居処、居城でしょうが、楽浪郡界までの道里が一万二千里とする根拠が不明で、明らかに実測ではありません。
 ちなみに、「樂浪郡徼 」は、楽浪郡の領域の南方にあった帯方縣のことなのでしょうか。いずれにしろ、楽浪郡から蛮夷に文書を送達するとき、問われるのは、楽浪郡治から蛮夷の王の居処の間の所要日数であって、「郡檄」に特段の意義は無いのです。
 冒頭記事で、倭は韓の東南とされていて、楽浪郡との関係には触れていません。大倭王の居処は、楽浪郡治の東南に在ると見るべきなのでしょうか。

●絶遠一万二千里
 なお、この一万二千里は、当然「普通里」であり、絶遠一万二千里は、一日五十里行くとして、二百四十日、八ヵ月を要する道里であり、茫漠として地理情報になりません。郡が洛陽に紹介する際の義務が果たせていません。誠に不可解です。
 次に、初出の拘邪韓国までの道里七千里が表明されていますが、この区間だけで、百四十日、五ヵ月近くを要します。其国共々、絶遠です。
 拘邪韓国は、倭の西北界、つまり、倭の領域であり、郡管轄外ですが、そこに到るまでの大半の行程は、帯方郡管轄下であって、もはや荒地ではなく、街道制をしいた筈であるから、行程を明記する責任があるように見えます。(魏志韓伝には、弁辰の鉄を両郡に運んだと伝えられているが、後漢書に漏れている)
 先立つ三韓記事では、同様に「普通里」で「地合方四千餘里」としています。倭記事の全道里には「餘」がないのできっちり里数と読めます。史官なら、記法を首尾一貫させるはずです。
 正体不明の拘邪韓国は、其国の西北国境、つまり、其国と地続きと見てとれますが、正体不明の「国」までの韓地道里を七千里とする根拠は不明です。或いは、范曄は、朝鮮半島が遙か南に延伸していると見ているかも知れません。繰り返しますが、韓地内行程は不明です。

●倭人伝参照
 ここで、本考察では圏外の陳寿「三国志」魏志倭人伝を、この場限りの参考例として想起すると、まず、先立つ辰韓記事で郡管轄下と明記した既知の「狗邪韓国」まで街道道里で七千余里として地域独特の「里」を確立し、全区間一万二千「里」の提起は後ほどですから、それぞれ地域独特の「里」と想定した上で妥当な位置に比定できる点が、当然とは言え用意周到で着実であるのと大いに異なります。つまり、倭人伝の狗邪韓国は、帯方郡と頻繁に文書連絡し、歳事に応じて国使が到来する程度の手近さなのです。
                                未完

新・私の本棚 番外 范曄後漢書倭伝 史料批判の試み 1 逐条審議 4/6 再掲

 私の見立て ★★★★☆ 必読好著、但し倭伝(倭条)は虚構濃厚  初出 2020/02/17 再掲 2024/03/24

*加筆再掲の弁
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●倭条復帰
 圏外の倭人伝をどけて、後漢書考証に戻ると、[今]が省略されて不用意ですが、延々二世紀に及ぶ後漢代の中でも、時代は、遼東郡太守公孫氏の支配期であり、それも帯方郡分郡以前なのでしょうか。分郡時、帯方郡領域は荒地とされ、後漢代早期に街道整備され道里計測されていたとは思えません。
 残る五千里は、一切不明です。全体として、根拠不明です。

【其地】
其地大較在會稽東冶之東,與朱崖、儋耳相近,故其法俗多同
大意:其の地、すなわち、倭の領域は、会稽東冶の東に中るようである。朱崖、儋耳と近いので、倭の法俗は同じ点が多いようである。

*地理観
 「其地」とは、倭王居処なのか、倭の全土なのか不明です。倭王居処まで拘邪韓国から五千里程度であり、「邪馬臺国」が南限としても、倭地は南北五千里に広がっていたと見えます。いくら、「大較」でも随分いい加減です。
 東冶が、朱崖、儋耳と近いと言いますが、これも随分いい加減です。
 会稽東冶の地は、後漢時代の洛陽視点から見ますと、遠隔不通、公道を設定できない難路の果てですから、後漢公文書で参照するのは無法です。笵曄は、会稽付近の出生であり、長く、建康で官人として過ごしたから、東冶を、ちょっとした田舎と感じたでしょうが、時代錯誤、地理錯誤です。
 朱崖、儋耳は、地理だけ言うと、東冶の更に南方ですが、却って、内陸交通の便がよく、風俗、地理が知られていた可能性が高いです。いずれにしろ、東晋の京都建康から、会稽郡東冶県に到る行程は、峨々たる福建産地に阻まれて陸路街道が通じていなかったので水路だけの記載であり、江州に至るには「去京都水一千四百」と後年の「宋書」「州郡志」に描かれているのです。後漢代の交通事情は、不明です。
 以上のように、この二条の記事は、史官として不熟の劉宋文筆家の感想であって、後漢書記事として不適当です。

【土宜】
土宜禾稻、麻紵、蠶桑,知織績為縑布。出白珠、青玉。其山有丹土。氣溫鹏,冬夏生菜茹。無牛馬虎豹羊鵲。其兵有矛、楯、木弓,竹矢或以骨為鏃。男子皆黥面文身,以其文左右大小別尊卑之差。其男衣皆橫幅結束相連。女人被髮屈紒,衣如單被,貫頭而著之;並以丹朱坋身,如中國之用粉也。有城柵屋室。父母兄弟異處,唯會同男女無別。飲食以手,而用籩豆。俗皆徒跣,以蹲踞為恭敬。人性嗜酒。多壽考,至百餘歲者甚眾。國多女子,大人皆有四五妻,其餘或兩或三。女人不淫不妒。又俗不盜竊,少爭訟。犯法者沒其妻子,重者滅其門族。其死停喪十餘日,家人哭泣,不進酒食,而等類就歌舞為樂。灼骨以卜,用決吉凶。行來度海,令一人不櫛沐,不食肉,不近婦人,名曰「持衰」。若在塗吉利,則雇以財物;如病疾遭害,以為持衰不謹,便共殺之。
大意:省略

 逐条というものの明細批判はしません。
 このように詳細な風俗記事は、博識の漢人が長期現地探査しなければ得られません。漢の使節が百人に及ぶ大所帯なのは、一つには現地事情を精確に収集するためですが、そのような後漢使節団が、東夷の倭に派遣されたという記録は絶無です。
 よって、現地の物知りが書き送った、と言い逃れするしかありませんが、そもそも、鄙にまれな博物学者は、都合よくいるはずがありません。

 といって、文献を取り寄せて学習しようにも、汗牛充棟であり、到底、絶遠の地に輸送できないのです。
 先賢諸兄姉が考証したように、当記事は、陳寿「三国志」魏志倭人伝記事の盗用と見えます。盗用というのは、本来、後漢書の収容すべきで無い、時代錯誤だからです。

                                未完

新・私の本棚 番外 范曄後漢書倭伝 史料批判の試み 1 逐条審議 5/6 再掲

 私の見立て ★★★★☆ 必読好著、但し倭伝(倭条)は虚構濃厚  初出 2020/02/17 再掲 2024/03/24

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【建武】
建武中元二年,倭奴國奉貢朝賀,使人自稱大夫,倭國之極南界也。光武賜以印綬。
[本紀]光武帝紀曰:建武中元二年(57)春正月,東夷倭奴國王遣使奉獻。
大意:後漢光武帝の建武中元二年、倭奴国が奉貢朝賀した。使人は大夫と自称した。倭奴国は倭国の極南界という。光武帝は印綬を下賜した。

*時代観
 本紀は、東夷「倭奴国」です。印綬下賜に渡る記事の裏付けが見られません。正月朝賀と言うから、年始の挨拶に参上したものでしょう。
 倭奴国は、邪馬臺國の更に南と見ます。光武帝が印綬下賜したものの以後交信がありません。二十年一貢を課したはずですが、再訪不明に過ぎません。
 漢代、「大夫」は、「庶民」の位置付けであり、貴人どころか下級官人ですらないので、ここは、倭人の無知を揶揄していると見えます。或いは、蛮夷に過ぎないのに、後漢の官位を自称するのは、何事かという非難を秘めているとも見えます。何とも、肝要なのは、大乱を平定した勢いに任せた寛容さかも知れません。

【安帝】
安帝永初元年,倭國王帥升等獻生口百六十人,願請見。
[本紀]孝安帝紀曰:永初元年(107)冬十月,倭國遣使奉獻。
大意:安帝永初元年、倭国王帥升等が生口百六十人を献じ、拝謁を願った。

*時代観
 本紀記事によれば、初見以来五十年を経た遣使です。笵曄「後漢書」東夷伝倭伝(倭条)は、生口百六十人の献を申請したとしますが、大集団の洛陽参上は書いていません。なぜ、殊更に書いたか不審です。
 少し考えれば分かりますが、文字を知らず、言葉の一切通じない百六十人の生口は、官奴としての献上であれば、天子は受け入れ不可能であり、言下に拒絶したはずです。光武帝に奴隷解放勅命があり、当貢献は違勅で、倭使の無知を揶揄していると見えます。

【桓霊】
桓、靈閒,倭國大亂,更相攻伐,歷年無主。
大意:後漢桓帝、霊帝の期間、倭国は全国が内乱の攻防に包まれ、その間、国王が定まらなかったという。

*時代観
 「倭国大乱」は、夷蕃王が天子として倭を治めたという前提であり、後漢朝史書として、漢朝天子に不敬です。数千里に散在しての内戦も不審です。
 桓霊間は、韓の騒乱、漢朝乱脈で、交信が断絶し、献帝期は、遼東公孫氏が東夷の交通を壟断したから、当字句は根拠不明で范曄創作の可能性濃厚です。

【有一】
有一女子名曰卑彌呼,年長不嫁,事鬼神道,能以妖惑眾,於是共立為王。
大意:一人の女子が有った。名を卑弥呼という。年長で嫁がず、鬼神道に事えて、衆を妖惑した。ここに、共立して王とした。

*時代観
 出自不明の王の共立は、冒頭の説明で漢朝が重んじた王統の断絶です。女王が蛮習である上に、年長非婚では王位継承に不安があるから、かかる承継が遼東に報告されても、洛陽には報告されないものです。
 公孫氏が遼東郡志を書いていたとしても、曹魏明帝景初の討伐により関係者皆伐、郡史料絶滅と思われ、後漢代記事の根拠が不明です。

                                未完

新・私の本棚 番外 范曄後漢書倭伝 史料批判の試み 1 逐条審議 6/6 再掲

 私の見立て ★★★★☆ 必読好著、但し倭伝(倭条)は虚構濃厚  初出 2020/02/17 再掲 2024/03/24

*加筆再掲の弁
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【侍婢】
侍婢千人,少有見者,唯有男子一人給飲食,傳辭語。居處宮室樓觀城柵,皆持兵守衛。法俗嚴峻。
大意:侍婢千人。接見は少なく、男子一名が飲食を供し言辞を伝えた。宮室に居し、楼観城柵があり、みな武器を持ち守衛した。法俗厳峻であった。

*時代観
 倭の政治機構、官僚体系に関して適確な報告がされていません。全権大使たる「大夫」の位置づけが示されていません。郡の監督不行き届きです。
 女王に奉仕する大勢の「侍婢」が不明です。「見る者少なし」では臣下奏上を裁可する国王責務が成されないので、漢朝の信頼を危うくします。倭国の堅実さ、漢への忠誠を伝える字句を集積せずに冗語連発で逆効果です。
 蛮夷の様を揶揄しているのでしょうか。

【自女】拘奴國条
自女王國東度海千餘里至拘奴國,雖皆倭種,而不屬女王。
大意:女王国から東渡海一千里拘奴国に至る。皆倭種なるも女王に属しない。

*時代観
 「女王国」の意味が不明です。後漢代を通じて女王が統治していたわけではないのだから「其国」とすべきでしょう。

*地理観
 忽然と「渡海」とありますが、中原の渡河同様、大河をさっさと渡り街道を行くのでしょうか。何しろ、一千里渡海は、一日五十里として二十日を要する前代未聞の途方もない「渡海」なのです。それでは、根拠不明のホラ話でしょう。
 「倭奴国」を南の果てとしたため、東に渡海して、別の島に移るしか女王[国]に属さない国の置き場所がなかったのでしょうか。なんとも、不可解です。

 王の居処から、西北界拘邪韓国まで五千里の勘定に比較すると、拘奴国は わずか一千里にある近傍国扱いです。見方によっては、極南界の倭奴国より国都に近いと見えるのです。
 倭奴国と似た国名は、同格の意味でしょうか。拘邪、拘奴と「狗」(食用家畜たる犬)を避けているのは、笵曄の嗜好によるのでしょうか。
 高度に政治的な曲筆ではないでしょうが、こうして見て取れるように、筆が随分泳いでいるのは、史官としての適性を欠いているものです。
 倭伝において三十国の女王への属・不属が書かれていないのに、此の国が、特段に女王に不属という記事にどんな意義があるのか不明です。

【自女】朱儒國条
自女王國南四千餘里至朱儒國,人長三四尺。自朱儒東南行船一年,至裸國、黑齒國,使驛所傳,極於此矣。
大意:女王国から南四千里で朱儒国に至る。人長三,四尺である。朱儒から東南に船で行くと一年で裸国、黒歯国に至る。使驛所伝の限界である。

*地理観
 南の果ての「倭奴国」が、実は「矮奴国」であって、こびとの国というしゃれなのでしょうか。意義不明です。邪馬臺国から見て、北方に五千里で狗邪韓国、南方に四千里で朱儒国とは、まことに漠たる倭人世界観です。

〇まとめ
 以上の逐条審議は、後漢書の三史としての位置づけを重視したものであり、意図して、陳寿「三国志」魏志の後漢朝時期の部分を流用/盗用したとの視点を避けています。その上で、倭条記事は、正当な根拠を有しない推測、創作と断じています。

 そのように審議したのは、後世史家が、まず、後漢書によって時代認識、地理認識を形成し、その認識を前提として魏志を批判する手順を辿っていることを意識したものです。言い換えるなら、笵曄「後漢書」東夷伝倭伝(倭条)が、適切な史料批判を受けないままに、崇拝/追従されている風聞風潮を批判したものです。

                                以上

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