後漢書批判

不朽の名著 范曄「後漢書」の批判という無謀な試みです。

2021年9月15日 (水)

私の意見 范曄「後漢書」筆法考 孔融伝を巡って 1/3 総論 改訂版

                             2021/03/08 補充2021/09/15
〇はじめに
 当記事で論じているのは、范曄「後漢書」の史料批判にあたって、編者范曄が、原典史料にどのような編集を加えたか、推定するということである。そのために、後漢献帝期の著名人であった孔融の「伝」をどのようにまとめたか、同時代を記録した他の史書と比較したものである。
 孔融は、聖人孔子の子孫の中でも、同時代では、随一の位置付けであった。名門、名家の中でも、格別の偉材であった。

 范曄「後漢書」は、列伝において「孔融」伝を立てている。袁宏「後漢紀」は、列伝を持たないが、献帝紀に孔融が処刑されたとの記事を書くに際して、孔融の小伝を書き起こしている。それぞれ、孔融なる偉才に、伝記を書き残す価値があるとみたことがわかる。因みに、袁宏「後漢紀」は、東晋期に編纂されたものであり、范曄「後漢書」に先行している。つまり、笵曄の執筆時に参照されたことは確実である。

 一方、陳寿「三国志」「魏志」は、「孔融」伝を持たない。つまり、陳寿は、孔融が著名人であったが、伝を立てるに及ばないと見たものと思われる。これに対して、裴松之は、崔琰伝に司馬彪「續漢書」から引用、付注 している。つまり、南朝劉宋の時代、魏志に孔融伝が欠落していると見なされていたので、衆望に応えて補完したとみられるが、魏志に孔融伝を追加すると原著を改竄したことになるので、崔琰伝に補注する形式を採用したとみられる。つまり、魏志は改変されていないのである。
 言うまでもないが、裴松之の補注、裴注は、陳寿の編纂したものではないので、陳寿「三国志」の史料批判に起用することはできない。参考になるとすれば、司馬彪「續漢書」の孔融記事は、陳寿が否決したものなのである。
 因みに、范曄「後漢書」編纂時に司馬彪「續漢書」が参照されたことは確実である。

 素人読者が范曄「後漢書」孔融伝を通読して感じるのだが、笵曄は、先行する諸家「後漢書」を熟読した上で、自身の文筆家としての沽券にかけて、熱意を持って執筆したことは確実である。その際、江南圏教養人が、周秦漢の古代語、古典用語が、十分理解できないと見て、手心を加えたと思われる。范曄「後漢書」が、唐代に流麗な文章と賞賛された由縁と思われる。

 以下、范曄「後漢書」の特徴を示すと思われる用例を見出して、用語、構文を対照する。因みに、袁宏「後漢紀」の該当部は、日本語訳が刊行されているので参考にした。陳寿「三国志」魏志の該当部分は、筑摩書房刊の『正史「三国志」』所収の日本語訳を参考にした。
 また、当記事は、笵曄の筆の冴えを賞味することにあるので、續漢書、後漢紀が、原資料に忠実な、保守的なものとして、それを基準に、范曄『後漢書』の用語を批判している。

〇用語、文例比較
*十余歳~十歳
 范曄「後漢書」は、まずは、「十余歳」を「十歳」としている。

 つまり、笵曄は、年齢表記で「余」概数を避けたのである。今日でも、中国古代史書の語法を解しない人は、「十余」歳を、本来の七,八歳から十二,三歳程度の範囲と見ないで、十歳から十五歳までの範囲と解釈(誤解)する人が大変多いから、誤解を避けて賢明である。 
 十歳は、キッチリ十歳という断言でなく、八歳から十二歳程度としても、孔融は後に十三歳で父を亡くしたとあるので、成数ないしは所数で、十歳とした方が字面が滑らかである。
 太古以来、戸籍は整備されていたから、およそ、子供に正式に「命名」する程の名家では、それぞれの子供の名前と年齢は、確実に知られていたのである。

 言うまでもないが、当時は、日本で言う「数え」年齢であるから、現代風に「満」年齢で言うと、一,二歳若くなるのである。
 当時、現代の日本のように小学校はなかったし、どの道、四月から学年開始するのではないが、まあ、今日で言う、小学生という程度である。

*周旋~「恩舊」(古い付き合い)
 当記事の筋書きでは、孔融少年が、しかるべき紹介者を通じてではなく、一介の無名人として面会を申し込んだのに対して、当然、門前払いになるところを、気の効いた口上でしゃしゃり出たのである。(偉人伝の冒頭を飾る挿話である)

 李姓の李膺は、少年の口上で、老子「李耳」の末裔と扱われて気を良くしたので、孔子「孔丘」の子孫孔融との両家交流を、あっさり認めている。つまり、紹介者の要らない旧知の間柄と強弁したのである。

 ここで、「周旋」は、古典用語であるため、当時の教養人に理解されない可能性があるので、笵曄は、「恩舊」(古い付き合い)と言い換えた。普通、周旋とは、二地点、あるいは、両家の間の交遊、往来という意味なのである。
 正体不明の領域をぐるぐる巡るという意味でないことは確かである。

*長大~(言い換え放棄)
 「高明長大、必為偉器」で、同時代人に「長大」は理解されない可能性があると見たようだが、適当な言い換えが見つからないで省略したようである。大差ないとも言えるが、「この小僧、成人すれば、大物になるぞ」の意味が消されている。
 因みに、魏志倭人伝にも見られる表現であるが、現代中国語にも伝えられていて、さらには、現代の有力辞書である「辞海」(三省堂)にも収録されているから、日本でも、教養人の語彙として継承されているようである。
 当時成人が十八歳とすると、十余歳は「数年中」となるので、ぼかしたのだろうか。「末恐ろしい」というには、微妙である。

 また、今日に至るまで、「長大」に老齢の意味は見られないように思う。

*早熟談義~笵曄の本領
 笵曄の真骨頂は、『陳煒後至,曰「夫人小而聰了,大未必奇。」』、つまり、「小才の利いた子供は、大抵、大した大人にならないものだ」と評されて、すかさずこたえた名セリフを「書き換えている」所にある。

 先行史料は、「さぞかし早熟だったのでしょうね」と激しく切り返しているが、笵曄は「お話を聞くと、高明なる貴兄は、神童ではなかったのですね」(觀君所言,將不早惠乎) とやんわりこなしている。「早恵」は、同音の「早慧」と同義で、早熟の意味であるが、ここでは、「不早惠」と否定されているので、後漢紀、續漢書と逆の意味であると思う。つまり、神童などではなく長じて智者になったという尊敬の趣旨である。

 本来は、孔融が生意気な皮肉で高名な官人に反駁したことになっていたが、笵曄は、衆人の前で高官の面子を潰したら「ただで済まない」から、如才のない受け答えをしたはずだと解したのである。

 孔融は、晩年、権力者曹操に楯突いてきつい諫言を度々奏したため、遂に刑死しているから、巷では、少年時代の毒舌伝説と語られても、当時河南尹の李膺が、生意気な子供の肩を持って賓客の顔を潰すはずはないと言う、賢明な解釈を採用しているのである。

 笵曄は、「不」の一字で毒消しし、李膺は、孔融少年の爪を隠すことを知っている才覚に感嘆したとしている。話の筋は滑らかであるが、史料に忠実でなく創作である。笵曄の「本領」とは、そういう意味もこめたのである。

*陳寿の孔融観
 因みに、三国志の孔融関連記事は、むしろ乏しい。
 「太祖本紀」では、時に、高官としての行状が語られるが、最後は、先に書いたように、時の権力者曹操に、しばしば反抗したとして、誅殺の憂き目に遭っている。孔子の子孫という事もあって、随分高名でありながら、魏志に列伝はない。
 魏志の孔融記事は、大半が裴注によるものであり、子供まで連座して孔融の家系は絶えていたから、裴松之が、孔子子孫の孔融を殺したのは曹操の大失態との「世評」にこたえて、十分に補追したようである。と言って、このように補注されるように敢えて孔融伝を採用しなかったのは、陳寿の見識を示すものであり、また、裴松之は、決して陳寿を誹っているのでは無いのである。

 孔融十歳時の逸話は、魏志崔琰伝に司馬彪「續漢書」が付注されていたので、後漢紀、後漢書と比較したが、陳寿が認めた記事ではない。
 むしろ、陳寿が、魏志に無用として排除した一連の孔融記事の中でも、最悪と見なしていた記事と思えるのである。

 このような扱いに、陳寿の史官としての判断が厳然と示されているのである。孔融伝を収録するとしたら、裴注で補充されているような、不本意な記事も、加筆、訂正できないまま収録することになるから、陳寿の史官としての志(こころざし)が曲がるのである。もちろん、陳寿は、儒教を信奉していたわけではないし、曹操も、同様である。
 と言うことで、陳寿は、孔融の記事を「割愛」したのである。

*不本意な引用
 結局、三国志に孔融伝は無いにもかかわらず、世上の孔融神童(異童子)挿話に、三国志本文ならともかく、裴注記事が引用されているのは、割愛した陳壽の身になっても、労作を物した笵曄の身になっても、大変不本意であり勿体ないことだと思うのである。

*范曄の「脱史官」宣言
 総じて、續漢書と後漢紀の書きぶりには大差がない。古来の史官は、忠実な引用を旨としていたためと思われる。

 そして、范曄「後漢書」は、三国志が提起した確実に歴史を語るという提言を離れて、また別の一つの正史像を示したものである。

                                未完

私の意見 范曄「後漢書」筆法考 孔融伝を巡って 2/3 対照篇 再掲

                              2021/03/08 確認 2021/09/15

〇史料対照篇 後漢書に「孔融列伝」あり。續漢書は、魏志崔琰伝裴注
【後漢書】孔融字文舉,魯國人,孔子二十世孫也。
【後漢紀】融字文舉,魯國人,孔子二十世孫。
【續漢書】融,孔子二十世孫也。

【後漢書】融幼有異才。年十歲,隨父詣京師。
【後漢紀】幼有異才,年十餘歲,隨父詣京都。
【續漢書】融幼有異才。融年十餘歲,

【後漢書】時河南尹李膺以簡重自居,不妄接士賓客,敕外自非當世名人及與通家,皆不得白。
【後漢紀】時河南尹李膺有重名,敕門通簡,賓客非當世英賢及通家子孫,不見也。
【續漢書】時河南尹李膺有重名,勑門下簡通賔客,非當世英賢及通家子孫弗見也。

【後漢書】融欲觀其人,故造膺門。語門者曰:「我是李君通家子弟。」門者言之。膺請融,
【後漢紀】融欲觀其為人,遂造膺門,曰:「我是李君通家子孫。」門者白膺,請見,
【續漢書】欲觀其為人,遂造膺門,語門者曰:「我,李君通家子孫也。」

【後漢書】問曰:「高明祖父嘗與僕有恩舊乎?」
【後漢紀】曰:「高明父祖嘗與仆[僕]周旋乎?」
【續漢書】膺見融,問曰:「高明父祖,甞與僕周旋乎?」

【後漢書】融曰:「然。先君孔子與君先人李老君同德比義,而相師友,則融與君累世通家。」眾坐莫不歎息。
【後漢紀】融曰:「然。先君孔子與君李老君同德比義、而相師友,則仆[僕]累世通家也。」眾坐莫不歎息,僉曰:「異童子也。」
【續漢書】融曰:「然。先君孔子與君先人李老君,同德比義、而相師友,則融與君累世通家也。」衆坐奇之,僉曰:「異童子也。」

【後漢書】太中大夫陳煒後至,坐中以告煒。煒曰:「夫人小而聰了,大未必奇。」
【後漢紀】太中大夫陳禕後至,同坐以告禕。[煒]曰:「小時了了者,至大亦未能奇也。」
【續漢書】太中大夫陳煒後至,同坐以告煒,煒曰:「人小時了了者,大亦未必奇也。」

【後漢書】融應聲曰:「觀君所言,將不早惠乎?」
【後漢紀】融曰:「如足下幼時豈嘗〔常〕惠乎?」
【續漢書】融荅曰:「即如所言,君之幼時,豈實慧乎!」

【後漢書】膺大笑曰:「高明必為偉器。」
【後漢紀】膺大笑,謂融曰:「高明長大、必為偉器。」
【續漢書】膺大笑,顧謂曰:「高明長大,必為偉器。」

【後漢書】年十三,喪父,哀悴過毀,扶而後起,州里歸其孝。
【後漢紀】年十三,喪父,哀慕毀瘠,杖而後起,州裏稱其至孝。
【續漢書】該当記事なし
                    未完          

私の意見 范曄「後漢書」筆法考 孔融伝を巡って 3/3 原典篇 再掲

                             2021/03/08 確認2021/09/15

〇原典史料 出典 中国哲學書電子化計劃 維基文庫

范曄「後漢書」鄭孔荀列伝

孔融字文舉,魯國人,孔子二十世孫也。
七世祖霸,為元帝師,位至侍中。父宙,太山都尉。
融幼有異才。年十歲,隨父詣京師。時河南尹李膺以簡重自居,不妄接士賓客,敕外自非當世名人及與通家,皆不得白。融欲觀其人,故造膺門。
語門者曰:「我是李君通家子弟。」門者言之。膺請融,
問曰:「高明祖父嘗與僕有恩舊乎?」
融曰:「然。先君孔子與君先人李老君同德比義,而相師友,則融與君累世通家。」眾坐莫不歎息。
太中大夫陳煒後至,坐中以告煒。煒曰:「夫人小而聰了,大未必奇。」
融應聲曰:「觀君所言,將不早惠乎?」
膺大笑曰:「高明必為偉器。」
年十三,喪父,哀悴過毀,扶而後起,州里歸其孝。
性好學,博涉多該覽。

袁宏「後漢紀」卷三十 孝獻皇帝紀 建安十三年

融字文舉,魯國人,孔子二十世孫。
幼有異才,年十餘歲,隨父詣京都。時河南尹李膺有重名,敕門通簡,賓客非當世英賢及通家子孫,不見也。融欲觀其為人,遂造膺門,
曰:「我是李君通家子孫。」門者白膺,請見,
曰:「高明父祖嘗與仆[僕]周旋乎?」
融曰:「然。先君孔子與君李老君同德比義、而相師友,則仆累世通家也。」眾坐莫不歎息,僉曰:「異童子也。」
太中大夫陳禕後至,同坐以告禕。曰:「小時了了者,至大亦未能奇也。」
融曰:「如足下幼時豈嘗惠乎?」
膺大笑,謂融曰:「高明長大必為偉器。」
年十三,喪父,哀慕毀瘠,杖而後起,州裏稱其至孝。

魏志崔琰傳 裴松之付注
司馬彪「續漢書」:

融,孔子二十世孫也。高祖父尚,鉅鹿太守。父宙,太山都尉。
融幼有異才。
時河南尹李膺有重名,勑門下簡通賔客,非當世英賢及通家子孫弗見也。
融年十餘歲,欲觀其為人,遂造膺門,
語門者曰:「我,李君通家子孫也。」
膺見融,問曰:「高明父祖,甞與僕周旋乎?」
融曰:「然。先君孔子與君先人李老君,同德比義而相師友,則融與君累世通家也。」衆坐奇之,僉曰:「異童子也。」
太中大夫陳煒後至,同坐以告煒,煒曰:「人小時了了者,大亦未必奇也。」
融荅曰:「即如所言,君之幼時,豈實慧乎!」
膺大笑,顧謂曰:「高明長大,必為偉器。」 

                                以上

2021年6月23日 (水)

新・私の本棚 「魏略西戎伝」にみる魏の西域経営と范曄後漢書誤謬 4/4 補充

                            2019/12/13 補充 2021/06/23
*補充の弁
 最近、当記事について批判した刮目天一氏の記事が、特に訂正もなく再公開されたので、氏が読み過ごされたと見える点を補筆したのである。

*大秦探索幻想の払拭~余談
 安息の東の入り口から西の果て、さらには、ローマ領域の地中海沿岸までは、道里として二千㌔㍍に及ぼうかという途方もない遠路であり、軍事使節団の出張予算を遙かに越える巨費を要するから、その理由でも、甘英の任務と与えられた権限を遙かに越えていて、直ちに断念されるべきである。

 安息帝国は、広大な領地を街道網で結んでいたから、旅費が続けば、数カ月に上るであろう長距離旅程を移動できないことは無いだろうが、異国の軍事使節にかくも遠大な国内通行が許されるはずが無いのである。カスビ海東岸の安息国は、かって、東方からの騎馬部隊の侵入に晒されたことがあり、国王戦死の事態も経験している。そのため、東方諸国との間に、二万が常駐する大要塞を設けていて、厳戒態勢であるから、みすみす異国兵通過を見過ごすことは無い。

 当時、パルティアは、過去二度に亘り、万余の大軍で侵入したのを都度撃退したローマと半世紀に亘る休停戦が続いたが、二国間に和平は成立していないので、シリアには属州総督麾下のローマ軍四万が駐在し、甘英使節団が訪問できる状態に無かったのも無視できない。

 後漢書記事否定論を根拠の無い妄想と見られては心外なので、ことさら、時間と労力をかけた時代考証を重ねた。画餅を書く方は、舌先三寸の戯れで気楽だが、食えないことを証するのに往生するのである。

*范曄虚構賦~西域伝、東夷伝限定
 当時の情勢をどう考えても、甘英が地中海岸に赴いて、西方遙かな異郷を目指すとは思えないので、本件は范曄の虚構である。先人未踏の偉業を達成した甘英は、功労者として偉功を賞されることはなく、武人としての本分まで無残に踏みにじられて、無法な汚名を背負わされたのである。後世人の暴威であるから、筆は剣より強いなどとしゃれてはいられないのである。

 范曄が、どうして、西戎伝に残された綿密な史実を廃棄して、そのような途方もないおとぎ話を考えついたか知ることはできないが、范曄が、何者にも命じられること無く、自主的に、そのような夢想談を史書に書き残したという嫌疑は、当人の確たる信念に基づくから弁護しがたいのである。

 范曄は、史実の記録者である史官ではなく、また、史官たろうともしてないので、遺された夷蛮傳は、時に華麗なおとぎ話となるのであろう。

〇結論
 范曄後漢書夷蛮傳は、このように特定された范曄独自の編纂方針により、原資料の忠実な継承を抛棄した、自主的な創作であるから、厳重な資料批判の後でのみ、資料として利用することができるのである。
 一部誤解している読者もあるので念押しすると、当記事で糾弾しているのは、後漢書西域伝及び東夷伝に限った話であり、正史の中核をなす、本紀、列伝については、ここでは何ら批判していないのである。(別記事あり)

 何しろ、范曄が後漢書編纂に取り組んだとき、後漢書公文書そのものは、落城した洛陽に取り残されて、以後、懸命に回復を図ったものの、大半は、華北で朽ちたものと思われるのである。従って、編纂に於いて参照できたのは、今日も、ほぼ完本が残存している袁宏「後漢紀」程度であり、しばしば無造作に列記される諸後漢書は、引用価値ありとされたのは、散漫な佚文程度であり、つまり、利用できたのは、本紀・列伝に属する主要部分だけだったのである。(先に挙げた西域旧圖は、笵曄の手元に届いていなかったと思われるので、西域諸国の地理関係について、正確に理解できなかったのも、無理はないと思われる)

 因みに、袁宏「後漢紀」は、年代記形式としていて、魏志などでは列伝とする記事を、適切と思われる年代記に書き込んでいるので、以上で論議した、班超西域都護の安息国探索は、主要部が書き残されているのである。

 渡邉義浩氏(三国志学会事務局長)が、以前のテレビ番組で、歴史家は「しばしば」勝手なことを書くから信用するな、との趣旨を述べられていたが、自爆発言の当否は別として、こと「史官ならぬ文筆家である」范曄に関しては、それなりの根拠ありと見える。ご明察と言いたいが、緩く広く網を打てば、時には、何か獲れるという事である。

□参考資料 略記御免
 魚豢「魏略西戎伝」、司馬遷「史記大宛伝」、班固「漢書西域伝」、范曄「後漢書西域伝」、後代史書西域伝、袁宏「後漢紀」、そして、陳寿「魏志」

Wikitionaryの諸項目
安息国(パルティア)、アルメニア、シリア、ローマ、メディア、ペルシャ

ローマ人の物語(Ⅴ~Ⅸ) 塩野七生 ローマ~パルティア記事を参照
 時宜を得た記事に加え、ローマ軍敗戦時、兵一万人が安息国東北境に移送され防衛に付いた記述は、貴重であるが、任地が寒冷地とは誤解であり、酷暑の中央アジア諸国とイラン高原の間にあって、むしろ過ごしやすい土地と思われる。元々、パルティアは、兵二万人を配置して、半世紀以上に亘って、東方騎馬勢力の侵略に備えたことから、施設、兵站は整って不自由は無かったと推察される。いや、40㌔㌘の装備を背負って毎日6時間、30㌔㍍行軍し続けられるよう鍛練を重ねた屈強なローマ兵一万人を虐待することなど不可能であり、むしろ、守備と工兵の即戦力に対して適度の処遇を与えたと推定される。余談である。
                               以上

新・私の本棚 「魏略西戎伝」にみる魏の西域経営と范曄後漢書誤謬 3/4 補充

                            2019/12/13 補充 2021/06/23, 26
*補充の弁
 最近、当記事について批判した刮目天一氏の記事が、特に訂正もなく再公開されたので、氏が読み過ごされたと見える点を補筆したのである。末尾に追記あり。

*范曄後漢書の評価
 ここで、魏略西戎伝のありがたいところは、後漢朝の西域経営の姿が、細かく描かれていることである。特に、漢書で記載された西域諸国のさらなる情報と共に、安息西方に得られた「西戎」新領域、つまり、カスピ海西岸方面の事情が知れたと言うことである。

 ところが、范曄は、後漢書西域伝編纂にあたって、西戎伝の齎した後漢朝西域情報の大半を単なる風聞として棄却し、以下に説明するように、自身の創作した「おとぎ話」で埋めているのである。つまり、范曄は、魏晋朝の政治情勢に影響されていないが、自身の創作意欲に促されて史官ならぬ文筆家の才能を発揮したのである。いや、実際の所、笵曄の深意は知るすべもない。
 范曄が、政府高官の要職の傍ら、片手仕事で既存の後漢史料を切り貼りして、本紀/列伝部分を再構成したので、その範囲では、大過なく書き終えたとしても、それ以外の部分、つまり、今日まで、良質な史料が継承されている袁宏「後漢紀」、魚豢「魏略」西戎伝を覆す西域伝を書いている以上、笵曄の手元には、適確な史料は存在せず、憶測を持って確たる史料を改竄したと思えるのである。
 従来、范曄の真意を忖度して、間違いだらけの先行史書を是正するために、誰でも創作とわかる「おとぎ話」を描き込んだと書いたのだが、とことん言い立てないと理解できないという評があるので、厳しい言い方にしたのである。笵曄の著作全体を貶める意図はないことを、念のため、言い置く。

 以上、明確な根拠史料はないが、素人としては、理性の力で推定するしかないのである。

 范曄後漢書を史実の忠実な記録と見るのは、誤解そのものなのである。

*范曄のおとぎ話紹介

 具体的に、事の成り行きを述べると、こういうことである。
 まず、間違いの無い史実として、後漢西域都護班超は、副官甘英を、西方諸国の探査に派遣したのである。探査の対象は、漢書に紹介されている大宛、條支、安息、烏弋山離の四大国の現状確認であった。探査隊は、他の事例に準じて、百人の大部隊と思われる。
 当時、西域都護班超は、其の拠点に幕府を開き、周辺諸国の服属を得て、自立して税務、軍務、労役を統括していたと思われる。事実上、大郡の郡太守ないしはそれ以上の軍事力、経済力をもっていたと思われる。

 つまり、西域経営とは、そのように強力な拠点を設け、北方の匈奴勢力を退け諸国の服従を確保するものであった。
 このようなことを言い立てるのは、西域都護が西方に軍務使節を派遣する時、与えた使命を理解するためである。趣味の探検隊などではないのである。つまり、四大国を軍事的な盟約下に置き、西方からの進入を防止すると共に、匈奴の復活などで、領域内諸国鎮圧の派兵を確保したかったのである。

 交渉の目的は限定的だが難航必至である。西域諸国の中には、漢使を殺す国まであったのである。逆に使節が蕃王を威嚇した例もある。帰国後使節が処刑された例もある。かくして、使節団の百人には威圧も含まれている。

*范曄法廷の断罪

 さて、そのような軍事使節団の成果は、後漢書には、素っ気なく書かれている。

 甘英は、條支海辺で遙か大秦に赴こうとしたが、船人の脅しに怯えて引き返したとしている。しかし、これは、幾重にも不首尾な話である。そもそも、西戎伝には、そのような記事は存在しない。

 勇猛果敢な軍人たる甘英の使命は、領域西端の安息、條支との「外交」であり、初見で接触皆無の「大秦」への渡航など命じられていない。なにより、言明された任務の限界を越えて、見通しの立てられない西に行くのは、背命である。
 仮に、都護班超の密命があって、西方渡航を企てたのなら、途上で、怯懦にして使命を勝手に断念して帰途に就くのも背命である。

 前者は、独断専行、後者は、敵前逃亡の大罪である。帰任後、都護副官は、使節任務の不備も含め、軍法に従い処刑/処罰されるがその記録は無い。
 西戎伝には、虚構の使命もなければ、虚構の背命もない。
 所期の任務は達成され班超は甘英を称揚したはずであるが、甘英ほどのものとしては、条支、安息の西域都護への服従を得たというような特筆に値する画期的な成果でなく、旧友好国との友好関係を確認したという程度の順当な成果であったということである。少なくとも、成果をまとめた後漢朝史官にはそのように判断されたのであろう。西戎伝は、史実の忠実な記録なのである。

 つまり、後漢書西域伝には、史実ではなく虚構が書かれているのである。これが、最前、「おとぎ話」と書いた内容であり、是非読み飛ばさないでいただきたいものである。

*挿話 後漢書倭伝造作疑惑の話
 念のため、箸置き、箸休め代わりとして言い置くと、後漢書「東夷列伝」は、根拠となるべき袁宏「後漢書」に、後漢初期の倭使来貢記事を除けば、「東夷列伝」相当の記事は存在せず、また、魏略東夷伝は伝わっていないので、范曄が、漢霊帝代以降の後漢末の「倭」記事の根拠としては、魏志倭人伝しか見当たらないのである。倭人伝が魏略に依拠しているとしても、多様な改竄の手が加わっているので、笵曄の「倭伝」の由来がわからないのである。
 西域伝での「創作」の手口からすると、笵曄は、文筆家としての高度な魏領をふるって、倭人伝記事から改竄、創作したのではないかとする嫌疑が拭えないのである。
 陳寿「三国志」の権威として大変高名であり、また、范曄「後漢書」全訳者であり、袁宏「後漢紀」の抜粋訳も公刊している渡邉義浩氏は、同時代史書について、至高の解釈者と思うのが、傍ら、「史官は、みな、真実を語る動機を持たず」、つまり、勝手気ままに書き残していると公言しているので、氏の権威に従うと、范曄もまた、創作派史官なのだろう。

*虚構の西行談 西戎伝による考証

 そもそも、西戎伝には、カスピ海西岸の「海西」條支(アルメニア)までの皇帝道里は書かれていても、遙か彼方の地中海岸は一切書かれていない。アルメニア西方の黒海が示唆されているだけである。

 安息から條支は、指呼の間であり、また所期の任務の一環でもあるから、甘英隊は、当然両国を訪問し、都護への服属を折衝したと思われる。(西方の地中海岸付近で、大国ローマと互角に張り合っていた安息帝国ほどの超大国が、西域都護に、易々と服属するとは思えないのだが、ここでは、後漢朝が夜郎自大になっているのである)

*犁靬西遷 西戎伝による考証

 西戎伝では、初見の「大秦」は、前世、つまり、漢書記事でアラル海付近にあったと思われる小勢力「犁靬」(りけん。用字は数種あり)が、カスピ海南岸「メディア」(「中の国」の意あり。現テヘラン付近)が合流した安息帝国内の「小国」だが、地理的には、「安息」と指呼の間であり、「西域」諸国と比較して名実ともに大国であるが、それはさておき、甘英隊が條支往還の過程で寄り道で訪問しても、十分任務の範囲内である。因みに、メディアは、イラン高原を最初に全面支配した超大国「メディア」王国の残照であり、安息帝国の東西有力拠点に挟まれた有力勢力であった。

*莉軒ペトラ説の奇怪~莉軒余談 (追記)
 因みに、最近制作されたナパティア王国ペトラ談義で、最後に、それまで欧州系史料に依存していた番組が、突然、漢書、後漢書系の西域伝史料を取り上げて、欧州発の新説として、ペトラは、「莉軒」の発音と似ていると取り上げていたのは、何とも、愚劣であった。

 しばしば書いているように、漢、後漢代の西域探査は、安息国の東方拠点が限界であり、目前の裏海すら越えていないと思われるのに、死海近辺のペトラにいて言及したと推定するのは、よほど物知らずの妄想である。言う方も阿呆たが。そんな「ジャンク」新説を、「裏」も取らずに鵜呑みにして、大事な取り上げるのは、公共放送が、受信料を取ってまで世に広めるべきものとは、到底思えない。近年、NHKの文化教養番組制作が、安普請のやっつけ仕事に見えて、大変残念なのだが、受信料を値下げするより先に、制作の手寝紀を進めているとしたら。まことに遺憾である。

 先に書いたように、莉軒は、前漢代アラル海近辺にいた遊牧系の小国が、世紀を経た後漢代に到って安息中部に寄宿したのに過ぎないから、さらに、厖大な荒野を越えて、死海近郊まで移動できるはずがないのである。
 欧州系論者は、中国史料の原文を見ていないし、時代勘/土地勘が欠けているから、字面だけ、いや、不確かな発音推定だけで、とんでもない妄想を述べるのである。NHKほどの知識・見識のある報道機関が、無学な素人でもできる「ファクトチェック」を怠って、「フェイクニュース」を公開するのはどうしたものか。重ねて言うが、分野を限らす、新説は、大抵「ジャンク」なのである。この際、自分たちの制作した番組が「ジャンク」かどうか、十分内部確認した上で、世に出す手順を守ってもらいたいものである。一般視聴者は、無批判に、NHK番組の示唆に従うものなのである。
 それにしても、NHKも、老朽化したのだろうか。
                                未完

新・私の本棚 「魏略西戎伝」にみる魏の西域経営と范曄後漢書誤謬 2/4 補充

                            2019/12/13 補充 2021/06/23
*補充の弁
 最近、当記事について批判した刮目天一氏の記事が、特に訂正もなく再公開されたので、氏が読み過ごされたと見える点を補筆したのである。

*裴松之の視点
 裴松之は、立場上、魏略西戎伝を補追せざるを得なかったが、当記事を割愛した陳寿の編纂方針を非としてはいない。つまり、両者ともに、西戎伝に魏朝の西域事跡は認めなかったのであり、両史官の意見は尊重すべきである。また、裴松之は、本文補注が任であるから、西戎伝には考証を加えていない。

 つまり、西戎伝は、陳寿、裴松之ともに、その内容を正史の一伝に値する史料として支持していないのである。まことに公正な姿勢であり史官の本分に従ったものなのである。一方、裴松之は、西戎伝としてほぼ完全収録したように、魏略の価値を認めているのであり、史官魚豢の真骨頂を示すものである。

*陳寿の西域観
 また、後漢の西域経営は、高名な桓帝、霊帝の悪政で撤退してから久しく、献帝期に僅かに再開したとしても、続く魏には何も手掛かりがなかったのである。

 陳寿は、蜀漢出自で、一時仕官していたから、蜀漢は、西域への同盟工作で入口の涼州等を鉄壁に封鎖していたから、洛陽の曹魏は西域から遮断されていたと知っていたのである。
 むしろ、敦煌遺物に呉書稿の残簡が伝わっているように、孫権政権以来の東呉が、西域と交易のつながりを持っていたと見えるが、呉書に西域伝はない。蜀書西域伝なら幾ばくかの記事が書けたであろうが、一つには、蜀には、官制史書の基礎となる起居註を書き溜めて年刊する体制がなく、そのため、記事根拠となる蜀書(稿)もなかったので、蜀都成都の反乱勢力は、公式西域記事を残せなかったのである。

 陳寿が、三国志を各国国志の統一された形式で編纂するのを諦めた原因は、主として、蜀書の不備によるものなのである。

*存在しない曹魏西域記事
 曹魏が、涼州の壁を越えて西方の大月氏と連携しようにも、大月氏は、蜀漢親密の各国に挟まれて身動きできなかったのである。曹魏が、涼州の壁を打破して、蜀漢北伐を牽制するなど痴人の夢想だった。密使交換がせいぜいである。

*倭人道里陰謀の起源
 いや、世の中には、奇特な御仁がいて、史料にそのような形跡が見て取れるとして、誰も知らない曹爽の功績を貶めるために、東夷倭人伝の道里一万二千里が創出されたと、とてつもない仮説を立てたようだが、想像力の豊かさに敬服するものの、資料に明示ないしは示唆された根拠のない思いつき、作業仮説を、権威を笠に着てやたらと高言するのは、勿体ないことだと思うのである。

*道里のままごと
 道里ごっこ好きであれば、西域最遠交流先は、裏海(カスピ海)東岸付近の安息であり、前世の漢武帝時代に百人規模の使節が往還している大月氏、康居、烏孫、大宛とは、爾来交渉が続いていて、何を今更大月氏である。

 大月氏は、武帝が匈奴挟撃を目論んで派遣した、後の博望侯張騫率いる最初の百人隊の目的地で、苦難の果てに張騫と従僕二名が生還、復命した燦然たる金字塔である。但し、大月氏は、亡命先の大夏地域で、諸勢力を制覇して大勢力を築いたので、その成果に満足して、故郷に帰る気をなくしていたのである。
 と言うことで、武帝は、大月氏との同名策を放棄したのである。
 魏代、大月氏の支配下から、貴霜(クシャン)なる新勢力が登場し、漢代の交流の再現を図って、はるか東方に使節を派遣したものである。当時、魏の本拠は、関東の洛陽であり、西域支配の拠点がなかったため、中央アジアの砂漠地帯を抜け関中の長安古城を経て必要があるなど、延々洛陽に至る必要があったのである。皇帝は、普通里で一萬二千里(六千公里(㌔㍍))に達するので、確かに偉業ではあるが、その間に魏の拠点が皆無なので、魏の西域経営など、何の意義もなかったのである。
 因みに、関中の長安古城領域は、関東回復を図った蜀漢の侵攻先であり、実際上、魏の安定した支配は成立していなかったのである。
 と言うことで、この意味でも、一蕃国の使節が、敵中を潜行して来訪したとしても、魏としては、印綬を与えて、後世に備える程度でしかないのである。
 魏の官人であった魚豢が、魏略西戎伝で、貴霜国来訪の件を大書していないのは、何の意義もない細事であり、書かない方が、魏朝の西域経営の恥をさらさないと見たものと思われる。陳寿が、魏志西域伝を編纂しなかったのは、この点に関しては、魚豢と同意見であったと言う事であり、裴松之が、貴霜国来訪記事を補注しなかったのは、同感だったことを示している。

*魏西域伝の幻影
 つまり、大月氏との再交流は、空前でも画期的でも無く、些事なのである。
 魏志西域伝はないから東夷伝で凌駕する必要はない。東夷来朝の意義を貶めるなら、史官として書きようが多々あるから、露見して不朽の汚名を着る「無様な改竄」をするはずがない。まして、誰も意図に気付かない深遠な改竄を青史に残しても、華麗に正装して闇夜を行くのでは野蛮の極みと誹(そし)られるだけである。陳寿が、史官の責務をどう感じていたか察していないのは悲惨なものである。

*改竄か死罪か
 自明、当然で、改めて言うのも恥ずかしいが、史官たる陳寿は、故事に精通し、記録改竄に応じず処刑されて名声を残した先人を尊敬し、その立場に立てば死を受け容れる決意をしていたのである。

 蜀書諸葛亮伝所収の定型句をご覧頂きたい。
「臣壽誠惶誠恐,頓首頓首,死罪死罪」

 ここで、頓首は、謀反人諸葛亮の伝を立てるのは、死罪にあたる大罪であると知っていて、ここに自首し、首切り人の前に首を差し伸べているという意味である。

*范曄頓首・族滅
 後漢書編纂者笵曄は、劉宋皇帝への反逆陰謀に連座して死罪となり、三親等内の親族、さし当たっては、成人となっていた嫡子共々、斬首、つまり、首を落とされたから、単なる冗談ではないのである。重罪人として処刑され、跡を継ぐ者のいない笵曄の著作後漢書が、唐代に公然のものとなるまで、どのように継承されたか、まことに不思議なのである。このあたり、後漢書を論ずる方は、承知と思ったが、結構知られていないようなので、この際補充したのである。

 この結語は、蜀書諸葛亮伝が、陳寿自身の手になるものであることを雄弁に語っている。
                                未完

新・私の本棚 「魏略西戎伝」にみる魏の西域経営と范曄後漢書誤謬 1/4 補充

                                            2019/12/13 補充 2021/06/23
*補充の弁
 最近、当記事について批判した刮目天一氏の記事が、特に訂正もなく再公開されたので、氏が読み過ごされたと見える点を補筆したのである。

□はじめに
*史書の相互確認
 古代史の一分野である魏志倭人伝の記事考証は、時に、比較検証資料が乏しいために、信頼性に欠けると難詰されている。これは、原編纂者陳寿の責任ではなく、後世人の勝手な結果論に過ぎないが、通説と呼ばれる風評では、結果論を正当化するために、陳寿が編纂時の司馬氏政権に阿(おもね)る曲筆を行ったに違いないと弾劾されている。史官として屈辱極まりない難詰であろう。

 その際に、弾劾側の証拠として提示されるのが、范曄「後漢書」である。笵曄は、三国志編纂時の西晋朝が南遷した後、これを継承した南朝宋、劉宋の官人であったから、司馬氏への阿(おもね)りのない客観的な編纂が行われたと断じているものである。当人が聞いたら爆笑する阿諛追従だろう。

 確かに、夏殷周三代以来連綿として、中原天下を支配していたのが、華夏文明不滅の証しであったのに、司馬氏の晋王朝は、北方異民族に国を奪われ、中原天下を文明を知らない蕃人に明け渡したのだから、劉宋が、司馬氏を弾劾する風潮に満たされていてもむしろ当然であるが、後漢朝は、秦漢と続いた偉大な中原政権の掉尾をなすものであり、一介の文書家が、亡国の賊である司馬氏を礼賛するはずはないのである。

*「カンガルーコート」の試み
 当方は、陳寿、笵曄のどちらにも偏しない視点を試みているから、倭人伝に対して注がれた批判に等しい批判を後漢書倭伝に与えるべきと考える。

 しかし、倭人伝と倭伝の共通部分は僅少で、意味のある相互確認は至難である。ここでは、笵曄の編纂姿勢を、陳寿と同時代の史官魚豢の編纂姿勢と比較して偏向の具合を見ることとした。いわば、私刑の場である。

*西戎伝の裁き
 検証対象は、魏略西戎伝(西戎伝)の西域記事であり、これを、范曄後漢書西域伝の記事と比較、検証しようというものである。幸い、西戎伝は、三千字に亘っているので有意義な比較検証ができる可能性が高いと見た。ご承知の通り、倭人伝は、二千字程度であり、確かに、列伝諸国の数と勢域の広さを考えると、不足はあるものの、魚豢は、正史を書こうとしたのではなく、魏略の西戎伝を書こうとしたので、これで十分とみたのだろう。

*西戎伝史料評価
 ここに上げた「魏略西戎伝」は、埋没史料の発掘では無く、三国志魏志第三十巻の巻末、倭人伝の補注として、裴松之によって収録された史料であり、三千字近い堂々たる「引用」である。末尾には、魚豢による結辞が記されていて、ほぼ完全な、原典部分引用とわかる。

 この引用記事は、いわゆる「佚文」、つまり、粗忽で不正確保証付きの手軽な抜き書きで無く、当時健在であった魏略の善本から、裴松之が史官としての最善の努力を払って引用しているので、魏略そのものと言っても良く、古代史の同時代史料として、三国志本文と同様の高い信頼の置けるものである。

〇西戎伝考証の始まり
 といいつつ、当史料の記事内容は、厳密には、魏朝の西域伝とは言いがたい。つまり、記事の大半は、先行する後漢朝の西域史料であり、散在する魏朝記事を除けば、後漢朝西域伝と呼ぶべきものである。

 ただし、魏略編者たる魚豢は、魏朝の史官にあって、魏朝の正当性を確信していたので、後漢朝史料は、当然後漢朝を正当に承継した魏朝史料と見ていた節があるが、これは、後世人には当否を論じられないと思われる。

*西域旧圖
 念のため、確認すると、魏の時代に、後漢代を記録した史書は未刊であり、魚豢は、恐らく、後漢の担当部局である鴻臚の公文書を収録したものと思われる。西戎伝中には、「西域旧圖」なる地図らしきものに言及されていて、恐らく、帛書、つまり、絹地に西域諸国の位置関係を書き記した資料が存在したようである。また、「旧圖」と言うからには、期間をおいて更新されていたと見えるのである。何しろ、大変高価であるから、鴻臚に控えがあっても、それ以外には数えるほどの枚数しか無かったはずである。
 言うまでもなく、正史にも、正史に準ずる資料にも、そのような図は添付されていない。どうやら、後漢の鴻臚官人や魚豢が実見したらしいと言うだけである。

 つまり、当記事は、前代(後漢)遺産などではなく、当代(魏代)かすべて受け継いだ「資産」である、と言う視点であるから、後世人としては聞き置くしか無いのである。それが、魚豢の「偏向」である。

*魏朝事跡評価
 端的に言うと、魚豢の史料観は、陳寿の賛同を得ていない。魏志に、西域伝がなく、従って、魏略西戎伝の魏代記事に相当する内容が収録されていないのは、陳寿が、関連史料、おそらく、魏略西戎伝を熟読吟味した上で、魏志西域伝を書くに足る事跡は無いと判断したと言うことである。こと、魏志編纂に関しては、陳寿が最高責任者であったから、いくさの際の司令官と同様、君命と雖も、従わないことがある、と言う程度の史官としての自負心は持っていたはずである。

                                未完

2021年4月23日 (金)

新・私の本棚 番外 NHK特集「シルクロード第2部」第十五集~キャラバンは西へ~ 余談

                           2021/02/03
〇NHKによる番組紹介
 NHK特集「シルクロード第2部」、第十五集は「キャラバンは西へ~再現・古代隊商の旅~」。内戦前だったシリアの人々の暮らしや世界遺産・パルミラ遺跡を紹介する。

古代の隊商はどのようにして砂漠を旅したのか。 隊商都市のパルミラまで、約200kmの道のりを、ラクダのキャラバンを組織し、古代人そのままの旅を再現する。いまは激しい内戦下にあるシリア。80年代、取材当時の人々の暮らしや、破壊された世界遺産・パルミラ遺跡の在りし日の姿がよみがえる。

〇中国世界の西の果て
 この回は、中国両漢代、つまり、漢書と後漢書の西域伝の限界を超えているので、本来、注文を付ける筋合いはないのだが、シリアの探査で、何の気なしに後漢甘英を取り上げているので、異議を唱える。

 つまり、後漢書に范曄が書いた「甘英は、西の果ての海辺で、前途遼遠を怖れて引き返した」との挿話を引いて、地中海岸かペルシャ湾岸か不明というものの、どうも、取材班は、目指す地中海岸を見ているようである。

 しかし、ここまで踏破してきた旅程を思えば、後漢代に、安息国との国交を求めた甘英が、既にメルブで使命を達成していながら、これほどの苛酷な長途を旅したとは思えなかったはずである。まして、当時、この行程は、西のローマとの紛争下、大安息国、パルティアの厳戒下にあり、地中海岸に達する前に、王都クテシフォンで国王に拝謁した記録すらないのに、王都を越えて敵地である地中海岸に達したはずがない。

*笵曄の誤報~幻想の始まり
 そもそも、後漢書で笵曄は、漢使は、安息国すら尋ねてないとの見解で、それは誤解としても、数千里彼方まで行ったとの誤解は、なぜなのだろうか。
 現代人の眼で見ても、安息国東部辺境メルブの西域は、北に延びた「大海」カスピ海とその西岸、「海西」と呼ばれた條支(アルメニア)止まりである。

 後漢書の西域世界像を描いた笵曄は、一旦、小安息の隣国條支の世界観を描きながら、なぜか、数千里に及ぶ大安息国の隣国として、遠国の條支(ローマ属領シリア)と西の海(地中海)を見てしまったのではないだろうか。

 さながら、砂漠の果ての蜃気楼に甘英の道の果てを見たようである。笵曄は、後漢書西域伝の名を借りて、事実に反する一大ファンタジーを描いたのだが、以後、今日に至るまで、不朽の傑作として信奉されているのである。

*甘英英傑談~孤独な私見
 以上は、世界の定説に背く孤独な令和新説だから、NHKの番組制作者が知らなくて当然だが、取材班が、後漢人甘英の足跡を辿っているように感じたとき、一切記録がないことに感慨はなかったのかと思うだけである。

 甘英は、漢武帝代に交渉がありながら、長年、接触が絶えていた西方万里の大国安息国との盟約を再現した功労者なのである。
 当ブログ筆者は、甘英の偉業を笵曄が創作で練り固めたために、偉業として正当に評価されないことに不満で、ここに書き遺すものである。

〇まとめ
 言うまでもなく、当シリーズは、NHKの不朽の偉業であり、以上は、それこそ、天上の満月を取ってこいと命ずるものだが、僭越にも不満を記したのである。

                                以上

新・私の本棚 番外 NHK特集「シルクロード第2部」第十三集~知られざる東西交流の歴史 雑感追記 3/3

                     2021/02/02 2021/04/23

*幻の范曄原本
 先に挙げた、後漢書夷蕃列傳は「笵曄の誤解に基づく勝手な作文」満載なる私見は、魚豢が後漢朝公文書を直視した記述と笵曄が魏略を下敷きに潤色した記述とを対比して得た意見であり、先賢の評言にも見られる「定説」です。

 編者范曄が、重罪を得て嫡子共々処刑され家が断絶したため、范曄「後漢書」遺稿が、著作として決定稿であったかどうか、確実に知ることができません。陳寿「三国志」は、陳寿の手で最終稿まで仕上げられていて、没後、西晋朝の官人が、一括写本の手配を行ったことが記録されています。いわば、三国史の陳寿原本、と言うか、確定稿を、数人ならぬ数多くの関係者や読者が、つぶさに確認しているのです。

 これに対して、范曄後漢書は、いつ、誰が、遺稿を整えたのか不明です。隋唐統一以前、数世紀にわたる南北朝乱世をどのように写本、継承され、唐代に正史に列することになったのか、不明の点が多いのです。従って、范曄原本が存在したのか、関係者が体裁を整えたものなのかすらわからないのです。その意味で言うと、後漢時、范曄原本は、誰も知らないのです。

 このような事態は、史上最高の文筆家を自認したであろう范曄には大変残念な結果と思います。

*袁宏「後漢紀」西域条
 袁宏「後漢紀」は、百巻を超えて重厚な漢書、後漢書と異なり、皇帝本紀主体に三十巻にまとめた、言うならば準正史です。正史でないため、厳格な継承がされず、誤字が目立ちますが、佚文ならぬ善本が継承されています。

 列伝を持たないため、「西域伝」は存在しませんが、本紀に、西域都護班超の功績を伝える記事が残されていて、甘英派遣の成果も残されています。つまり、後漢紀は、西域伝や東夷伝を本紀内に収容したと言えます。

 魚豢「西戎伝」に続き、范曄「後漢書」西域伝の先駆となる小「班超伝」ですが、范曄が遺したおとぎ話は見えません。范曄が、魚豢に続いて、袁宏まで無視した意図は、後世人には知る由もありません。

 范曄は、「後漢書」編纂に際して、諸家の後漢書稿を換骨奪胎したと言いますが、史書として、最も参考になったのは「後漢紀」と思われるので、いわば笵曄の手口を知る手がかりとなるものもあります。

*余談の果て
 と言うことで、番組紀行がメルブを辿ったことから、種々触発された余談であり、これほど現地取材するのであれば、両漢紀の西域探査の果てという見方で、掘り下げていただければ良かったと思うのです。

 また、共和制末期、帝政初期のローマとパルティアの角逐、と言うか、ローマの侵略欲を紹介していただければ、いらぬ幻想は影を潜めていたものと思うのです。

*再取材の希望
 と言うことで、メルブは、仏教布教の西の果てという意義も重要ですが、東西に連なる三大文明世界の接点との見方も紹介して欲しかったものです。
 いや、遠い過去のことはさておき、再訪、再取材に値すると思うのです。西方は、ローマ史に造詣の深い塩野七生氏の役所(やくどころ)に思うのですが、東方は、寡聞にして、陳舜臣氏を継ぐ方に思い至らないのです。

*参考書
 塩野七生 「ローマ人の物語」 三頭政治、カエサル、アウグストゥス、そして ネロ
 司馬遷 史記「大宛伝」、班固 漢書「西域伝」、范曄 後漢書「西域伝」、魚豢「西戎伝」、袁宏「後漢紀」
 白鳥庫吉 全集「西域」
                               以上

新・私の本棚 番外 NHK特集「シルクロード第2部」第十三集~知られざる東西交流の歴史 雑感追記 2/3

                     2021/02/02 2021/04/23
*ローマ・パルティア戦記
 因みに、敗戦には必ず復仇するローマで、三頭政治末期の内戦を制して最高指揮官の地位に就いたカエサルは、パルティア遠征を企てたが暗殺に倒れ、カエサル没後の内乱期、エジプトを支配したアントニウスは、カエサル遺命として、前36年にエジプト軍と共にパルティア遠征したが敗退しています。
 アウグストゥス帝の前21年、本格的な講和が成立し捕虜返還を交渉しましたが、その間30年を要したため、捕虜は、全て世を去っていたといいます。余談ですが、初代皇帝アウグストゥスは、中国の秦始皇帝と大きく異なり、元老院の支持のもと密やかにローマの共和制に終止符を打ちましたが、表向きは、元老院の首席議員の立場にとどまり、専制君主を名乗らなかったのです。

*シリア準州駐屯軍
 ローマ-パルティア間に講和が成立しても、ローマ側では、共和制時代から維持してきたメソポタミア侵略の意図は堅持され、ローマ属州のシリアに総督を置き、四万人を常駐させたのです。

*あり得ない漢使シリア訪問~余談
 范曄は、『後漢使甘英が安息の「遙か西方の條支」まで足を伸ばした』と「創作」したので、「條支」を「シリア」(現在のレバノンか)と見る解釈がありますが、街道整備のパルティアの国土を縦走する行程は、延延百日を要する遠路であり、異国軍人のそのような長途偵察行が許されるはずはなく、まして、その果てに敵国との接触は論外でした。

 いくら、「安息」の名に恥じない専守防衛の国であって、常備軍を廃していても、侵略を撃退する軍備を擁していたのです。

 甘英の本来の使命は、安息国との締盟であって、援軍派兵を断られた以上、往復半年はかかる探査行など論外と見るべきです。西の王都まで数千里の長途であることは、武帝使節の報告で知られていたのです。
 いや、もし、実際に君命を奉じて、(范曄が安息西方と見た)厖大な日数と資金を費やして「條支」まで足を伸ばしたのなら、いかなる困難に直面しても、君命を果たすしかなかったのです。西域と塗膜の副官たる軍人甘英が、使命を果たさずに逃げ帰ったら、そのような副官に使命を与えた上官班超共々、軍律に従い厳しく処断されるのですが、そのような記録は一切残っていません。笵曄は、文官であったため、軍律の厳しさを知らなかったのでしょうが、それにしても、西域都護副官を臆病者呼ばわりするのは、非常識そのものです。
 因みに、班超は、勇猛果敢な軍人ですが、漢書を編纂した班固の実弟であり、文官として育てられたので、教養豊かな文筆家/蔵書家であり、笵曄は、そのような偉材に喧嘩をふっかけたことになるのです。
 いや、当ブログ筆者の意見では、條支は、途方もない西方の霞の彼方などではなく、甘英の視界にある巨大な塩水湖、大海(カスピ海)のほんの向こう岸と信じているので、范曄の意見は、誤解の積み重ねに無理筋を通した暴論に過ぎないのですが、なぜか、范曄の著書は俗耳に訴えるので、筋の通った正論に耳を貸す人はいないのです。

 いや、またもや、長々と余談でした。

*東西交流の接点
 と言うことで、メルブは、「ジュリアス・シーザー」が象徴する西のローマと「武帝」が象徴する東の漢の接点になったのです。さすがに、時代のずれもあって、東西両雄が剣を交えることはなく、「安息長老」(おそらく、当方安息国の国主)が、漢人の知りたがる西の果ての世界に関してローマの風聞を提供したように見えます。

*西域都護班超と班固「漢書」
 改めて言う事もない推測ですが、甘英の西域探査行の詳細にわたる報告は、西域都護班超のもとから、後漢帝都の洛陽にもたらされたものと思われます。また、先に触れたように、班超は漢書を編纂した班固の実弟であり、当然、漢書西域伝の内容は、班超のもとに届いたと思われます。つまり、漢書西域伝は班超座右の書であり、西域都護にとって無駄な探査行など意図しなかったと見ます。

 恐らく、都督府の壁には「西域圖」なる絵図を掲げていたでしょう。(魚豢西戎伝が「西域旧圖」に言及しています)

*范曄「後漢書」の「残念」~余談/私見
 西域探査功労者甘英は、笵曄に「安息にすら行っていないのにホラ話を書いた」と非難され「條支海岸まで行きながら怖じ気づいて引き返した」と軍人として刑死に値する汚名を被っていますが「後漢紀」に依れば、班超が臨んだ「西海」は、メルブにほど近い「大海」、塩水湖「裏海」です。
 よって、魚豢「魏略西戎伝」でも明らかなように、甘英の長途征西は、笵曄の作文と見ます。

 因みに、魚豢「魏略」は、諸史料所引の佚文が大半であるため、信用されない傾向があるのですが、「魏略西戎伝」は、范曄同時代の裴松之が「三国志」に全篇追加したので、三国志本文と同様に確実に継承され、紹熙本/紹興本も、当然、その全容を伝えているので、今日でも、容易に読むことができます。(筑摩書房刊の正史「三国史」にも、当然、全文が翻訳収録されています)

*笵曄の限界と突破
 魚豢、陳寿は、曹魏、西晋で、後漢以来の帝都洛陽の公文書資料の山に接する権限がありましたが、笵曄は、西晋が崩壊した後の江南亡命政権東晋の官僚だったので、参照できたのは「諸家後漢書」など伝聞記事だったのです。諸家後漢書の中で出色の袁宏後漢紀は、ほぼ完本が継承されているので、容易に全文に触れることができ、部分訳とは言え、日本語訳も刊行されています。

                               未完

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