百済祢軍墓誌談義

百済祢軍墓誌に関する記事です

2021年9月23日 (木)

新・私の本棚 番外 「古賀達也の洛中洛外日記」百済人祢軍墓誌の「日夲」について (1)-(3)

「古賀達也の洛中洛外日記」第2427-2429話 2021/04/09-04/10       2021/04/12 

〇はじめに~謝辞
 古賀達也氏のブログには、ほぼ日参しているが、ここで耳慣れた話題にお目にかかった。三回連載の展開はさておき、当ブログの旧記事を適確に引用いただいたので、ここに感謝の意を表したい。

残念な新説
 「古田史学の会・東海」の会報『東海の古代』№248に掲題の論考が二件紹介され、その内、石田泉城氏の論考に、通説の「于時、日夲餘噍」(この時、日本の餘噍は)でなく、「于時日、夲餘噍」(この時日、当該の餘噍は)と解する説が提言されていて、どこかで見たと感じた次第である。(苦笑) いや、折角、先行諸論文を紹介した上で、深く掘り下げる追加記事まで書いたのに、お目にとまらなかったとすれば残念ということである。

被引用の光栄
 当ブログは、古賀氏の目には届いていたようで(3)で注意喚起いただいて光栄であった。初出記事を温存した甲斐があったのである。

追加考察
 石田氏の論考で不満なのは、本と夲が、本来別字と断じられていて、だから、「日本」は、国号ではないという趣旨だが、「夲」は、現代中国語でもむしろ常用されていて、実際上別字と見るべきではないという意見である。

 墓誌の刻字の際、「本」は、中心の字画交差部が彫りにくいので「夲」が当然であったように思う。簡牘書記でも、「本」を細かい文字で早書きすると失敗しやすいと見えるので、「夲」が主流でも不思議は無いと思う。

 この点は、見解の相違であるから、別に、そう考えろと言っているわけではない。どうして代え字したのかと詮索しただけである。

 書道の先生が言うように、大きな堂々たる文字を書くときは、時間をかけてでも「本」の字を正確に書き出して、腕の確かさと芸術性を誇るのだろうが、実務は別だと思うものである。

 なお、当ブログ記事の字句解釈は、「本余譙」は「本国」の余譙、つまり、「百済」の余譙と読めるとの意見であり、石田氏に比べて、随分丁寧に論じていると自負している。新説というなら、こうした主張点を克服して欲しいものである。

〇先行論者への謝辞
 さらに、墓誌は、古典教養を問われるのであるから、誰も知らない、できたてほやほやの蕃夷国号など書かれるはずはない、という解釈も克服されていない。この点は、東野氏の論考に啓発された気もするが、知られていないのかと思いここに蒸し返す。

〇最後に
 と言うことで、記事引用も頂いているので、被引用者として、大きな不満はない、どころか、大いに満足していると申し添えておくものである。またもや学恩を受けた以上、恩返しが必要と思う次第である。

 思うに、論文にとっての勲章は、先行論考として引用されることと思うのであり、今回は、大いに意を安んじたのである。
 いや、特許の分野では、小生の米国特許に対して、少なからぬ被引用が記録されているのは、内心大いに誇っているのである。
                 以上

2021年9月22日 (水)

私の意見 禰軍墓誌に「日本国号」はなかった 追記 1/6  序論 

                   2018/05/12 追記 2021/09/22
〇序論
 中国の古都・長安で見つかった、唐時代の高官祢軍(禰軍)の墓誌(故人の事跡を刻んで墓に叹めた石板)の拓本が1911年に公開されたが、「唐時代678年10月制作と思われる墓誌に「日本」と読める文字がある」と見て、従来、701年大宝律令公布に際して制定・公布されたとされていた「日本」国号が、先だって中国で知られていた証拠ではないかと、議論を呼んでいるものである。

 本件は、当ブログの専攻範囲(倭人伝)外だが、本件報道に疑問があり、素人考えで口を挟むものである。

*日本列島回帰
 今回記事では、「倭」「日本」が混在する微妙な記事で、思うところがあって、中国、三国(朝鮮)と対比される地域を「日本列島」と呼ぶことにした。実際は、列島西部だけが対比されるのだが、適当な表現がないので困っていた。

 今回、上田正昭氏の提言に従い、とりあえず、当記事では「日本列島」と呼ぶことにしたのである。「地域限定」とご理解いただきたい。

 従来、古代史論で「日本列島」を見たときは反発したが、そういう趣旨であれば同感である。不本意な反応が返ってくるのは、説明不足なのである。大事なのは、趣旨を正しく伝えることである。

*禰軍墓誌の「日本」
 当プログでの検討の皮切りは、NHK BSの特別番組の付けたりで、唐代墓跡の大規模盗掘事件に絡む取材として、現地西安博物館秘蔵の禰軍墓誌の撮影が許可され、手早くまとめたと思われる15分ほどの挿話が、番組告知の紹介も無く、まことの不意打ちで番組の中程に追加されていたのに触発されたのである。いや、これほど貴重な資料に通りががりにぶつかって、躓かせるというのは、どういう神経なのか、理解に苦しむのである。

 これまで、当史料に関する論考を見かけてはいたが、史料の出所、由緒が不確かで、興が乗らなかったので、真剣に見たのは初めてのことある。不勉強の言い訳はさておき、慌てて確認すると、例えば「古田史学」誌第16集で三氏が論考を重ねている。

 但し、当初の朝日新聞記事で、多少謙虚な言い方、つまり、「拓本が本物であれば」と前提付きであるものの「定説が書き替えられる」との報道以来、墓誌に「日本」と書かれているとの認識のようであった。今回、実物がNHK番組で紹介され、始めて「墓誌偽造」説は棄却されたようである。

*結論予告
 と言うことで、誌文について、すでに定説めいたものが形成されているようであるが、当方は、史料解釈の見過ごされた第一歩が見て取れるので、ここに考察を加えたものである。

 タイトルに示したように、当記事の結論は、墓誌誌文を読み取ると、そこに「日本国号」は書かれていない、と考えるものである。定説は、まず、「日本」を見て取って、それに合わせて、誌文を読み替えるものであり、本末転倒と思うものである。まあ、当世、定説は書き換えられるためにあるようで、何が「定」なのかと、苦笑するものである。

 なお、碑文読み取りについては、基本的に、テレビ画面で確認した該当部分の映像のテキストを利用しているが、当方の読解力を越えた、難解、と言うか、理解不能な美文なので、諸兄の論説を参考にしたことは言うまでもない。

 適切な扱いをしたものと思うが、失礼があれば、ご容赦頂きたい。

                           未完

私の意見 禰軍墓誌に「日本国号」はなかった 追記 2/6 日本國王并妻

                   2018/05/12 改訂 2021/09/22

*日本國王并妻還蕃(舊唐書綺譚)
 当該部分の解釈で、参考となるのが、古田武彦氏が、中華書局本舊唐書(旧唐書)の表点本の句点違い事例として紹介している旧唐書順宗紀の「日本記事」である。太字は、当ブログ筆者のもの。

 新・古代学 第三集 歴史ビッグバン 古田武彦 1998
 昨秋、ある方(古賀達也氏)からの質疑が発端となった。旧唐書に「日本国王(桓武天皇)夫妻が唐に来た」旨の記事がある。どう思うか」との問いだった。かつて聞いたことのある話だったけれど、聞きすごしていた。今回は、取り組んでみた。

「(貞元二十一年、八〇五)甲寅、釋仗内厳懐志、呂温等一十六人。(中略)至是方釋之。日本國王并妻還蕃、賜物遣之。」《旧唐書、順宗紀。(中華書局、表点本)》

 確かに「日本国王并(なら)びに妻、蕃に還る。」というのは、「八〇五」とあれば、桓武天皇の延暦二十四年だ。だが、桓武天皇夫妻の渡唐など、聞いたこともない。そこで旧唐書内の用語追跡に没頭した。判明した。何のことはない、表点本の「誤読」だった。「方(まさ)に釋(ゆる)す日、本国王(吐蕃国王)并(なら)びに妻(めと)り蕃(吐蕃)に還る。」が「正解」だった。吐蕃伝に頻出する「本国」の用例、「妻」は動詞、「妃」は名詞、の用法、吐蕃王の唐朝への女性要求(親戚関係の構築)等の史実を追う中で疑いようもなく明白となった。第一、実録性の高い続日本紀にその気配すらないのである。

 つまり、権威ある中華書局、表点本も、「日本」なる二文字にとらわれて史料読解を誤ることがあるという事例である。」

*引用終わり

 古田氏は、本件解釈に際して、舊唐書を広く検索し、吐蕃伝に頻出する「本国」の用例では「本国」が吐蕃をさしていると指摘されている。

 データを根拠にした提言であるので尊重するものである。

                       未完

私の意見 禰軍墓誌に「日本国号」はなかった 追記 3/6 本藩の由来

                   2018/05/12 改訂 2021/09/22
*本藩の由来
 当方も、中国哲学書電子化計劃データベースのテキスト検索を利用しようとしたが、残念ながら、舊唐書のデータベース収録は完了していなくて、維基文庫の全文テキスト検索を利用せざるを得なかった。(注 どうも、勘違いしたようである)

 と言うものの、舊唐書で「日本」を検索した際にヒットする「日本?」(?は、任意の一文字)の、「本?」の各種用例を確かめたところ、以下のように感じた。

  1. 「本国」とは、中国王朝に臣従する諸国王が、自領を語るときに用いられる用語である。
  2. 「本州」とは、中国王朝内、諸国王の所領、ないしは、刺史などの統轄する州を言うとき用いられる用語である。
  3. 「本藩」とは、これらの用例に類する用語である。
  4. 「藩」は、元来植え込みの垣根であり、「藩屏」とは、小国が、塀となって帝都を囲んで外敵から守る姿を現している。「藩」は公式用語でなく、それ故、正史には僅かな使用例しか出現しない。
     但し、実務上、極めてありふれた用語であり、これにならって、江戸時代、家康による幕府開闢以来、各国の大名所領は、しばしば「藩」と呼ばれていたのである。

*日本余譙は、場違い
 もし、ここに「日本余譙」と書かれていたとすると、ここまで碑文に「日本」とは何者か前触れがないから、唐突であり、読者は、一読して理解できないと予想されるのである。よく言う、「不意打ち」である。

 つまり、当該詩文の読者は、「日本」を全く知らないから、碑文に示されたような書法は、不適切極まりないなのである。詩文作者が祭祀者に提示したら。一発却下であることは間違いない。

 もし、ここに書かれているのが、「日本列島からの援軍」残党とすると、当然の疑問は、肝心の「百済」残党はどうした、というところである。

 「本藩」と書かれているのは、墓誌の主人公が仕えたが、亡国の憂き目に遭った旧「百済」であり、従って、後出の「本余譙」は、本藩「百済」の余譙と解釈するのが順当と思う。

 ここまでに「本藩」が二度書かれていて、読者は、短縮表現を理解する準備ができているのである。

*本余譙とは?
 ようやく、核心に辿り着いた。

 結局、「(于時)日夲餘噍」の六文字句は場違いで、「(于時日)夲餘噍」と解すべきなのである。

 ここでは、「本藩余譙」が、「本余譙」と省略されたと想定しているが、誌文では、しばしば字数を揃えることが要求されるので、時に短縮、時に延伸されるのである。

 こうして、「于時、夲藩餘噍」と二+四文字では、対句となっている「據扶桑以逋誅」と合わないので「于時日、夲餘噍」と三+三文字としたと見るのである。
                          未完

私の意見 禰軍墓誌に「日本国号」はなかった 追記 4/6 先行論考

                   2018/05/12 改訂 2021/09/22
*先賢の論考
 この点、墓誌に関する考察として、すでに、次の論考に於いて深い考察が行われていたので、勉強させていただいた。

 『祢軍墓誌』についての覚書 : 附録 ; 唐代百済人関連石刻の釈文 葛 継勇 2012年3月
 専修大学社会知性開発研究センター東アジア世界史研究センター年報6号掲載 

 本論文の史学論文として適切な構成にも敬服する。長い実証的論考の果てに、堅実な結論が明記されている。データを根拠にした考察と提言は、尊重すべきである。

「おわりに
 以上のように、『祢軍墓誌』について、⑴祢軍墓誌の形態、⑵中国で出土した唐代百済人墓誌、⑶祢軍の出身と官品・勲位、⑷『祢軍墓誌』に見える地名と歴史典拠、という四節に分けて考察してみた。
 ⑴では、『祢軍墓誌』の史料性について、(中略)ほかの唐人墓誌や在唐百済人の墓誌との比較を行って、(中略)検討したうえで、祢軍墓誌の信憑性が高いと指摘した。 ⑵ 、⑶ 略
 ⑷ では、(中略)また、祢軍の才能を褒める語句として使われるもので、かなり文言を駆使するだけでなく、歴史典故をモチーフとして、彼の功績を顕せる銘文を作ったと述べてみた。」

 結論として適確に総括され、まことに論文としての形式が整っていて、浅学のものとしてお手本としたいものである。

*中間報告
 遡ると、次のような貴重な見解が述べられている。太字、当ブログ筆者。

 「そして、「於(于)時、日夲餘噍、據(拠)扶桑以逋誅。風谷遺甿、負盤桃而阻固。」という典故について、すでに指摘があるように、「扶桑」は日本国の旧称呼と思われることから、「日夲」の二字についても日本国号のことを指すと見なされている(王連龍、2011年)。けれども「日夲」と対応して使われる「風谷」は国の称呼ではない。「日夲」を国号と考えるのは、文章構成上は無理があろう。」

 「無理があろう」は、端的に言うと「不可能」、「あり得ない」との断言だろう。

 つまり、墓誌作家として当代随一と思われる文筆家が、故人を顕彰する墓誌に於いて、古典書籍に範を得て、典雅な文言で、歴史典故をモチーフとした極上の言葉を選びに選んだのに、百済亡国の際に介入した東夷の国名を上げたとしたら、それは、不躾でぶち壊しであるから、その意味でも、「日本」国号が書かれるのは、あり得ないのである。

 これは、まことに論理的な意見であり、当方は、誰にも異論を挟むことはできないと考える。いや、謙虚な言い方に変えると、一考に値すると考えるのである。
                       未完

私の意見 禰軍墓誌に「日本国号」はなかった 追記 5/6  祢軍小史

                   2018/05/12 改訂 2021/09/22
◯祢軍小史 参考まで
*祢氏東遷
 祢氏は、西晋の高官であったが、永嘉(CE 307-312)の乱に始まり、建興四年(CE 316)にいたる激しい内乱と外敵侵入による帝国瓦解時に、晋朝南遷に追従せず、帯方郡故地に本拠を置く百済に移住して高級官僚として遇されたのである。

 つまり、祢氏一門は、おそらく交流のあった百済に渡海亡命したものと思う。いや、身一つで逃れるならともかく、家人と貨財を抱えて東方に逃れることになったと思うのである。

 官僚としての教養や知識を尊重され、高い地位を得ることのできる百済入りは、おそらく最善の選択であったろう。

*流亡の終わり
 その後、数世代を経たが、CE589に、南北朝の分裂を統一した隋、そして後継した唐と高句麗の数次に亘る抗争があり、遂に、唐は、高句麗征討を万全のものとするため、祢軍を初めとする漢人百済官僚に対して、高句麗を支持して唐の討伐対象となった「百済」を離れるよう勧請した。これにより、称軍(CE 613〜678)は、祢寔進(CE 615〜672)らと共に、三世紀にわたる流亡を終え中国王朝に仕官したのである。

*降伏の功
 かくして、唐顕慶五年(CE 660)、唐が新羅を従えて百済を征討し、大軍が首都泗比城に到った際、旧漢人官僚が百済王に降伏勧告したことにより、無益な攻城戦なくして、百済は降伏し滅んだ。
 
降伏により百済人は赦され、新羅は、百済遺臣、佐平の忠常、常永、達率の自簡などを高官として受け入れた。

 墓誌は、「顕慶五年官軍平夲藩日」として泗比開城時点で語っている。続いて、「于時日」とあるように、百済平定時に逃れた残党のことを言っているのである。

 なお、日本書紀には、顕慶の百済亡国の際に援軍を送ったという記事は無いようだが、唐書には、倭が高句麗と共に百済に助力したと記録している。
 その時点で、日本列島に百済王族が滞在していて、百済復興の気運が巻き起こったが、唐龍朔三年(CE 663)の白村江の戦い時点では、既に百済は滅亡して実態がない
のである。

 ともあれ、百済平定の功により、祢軍は唐の高官に任じられたが、後に、唐の半島統治に対する、新羅の激しい抵抗のため、唐は半島統治を取り下げ、旧三国が新羅に統一されることになった。

 このような三国動乱期を通じ、祢軍は、唐高官として国威発揚、事態収束に貢献したことが示されている誌文である。

 そのような不朽の勲功を顕彰するために、大唐随一の文筆家を起用して、「典雅な文言を駆使するだけでなく、歴史典故をモチーフとして、彼の(波乱に富んだ)功績(の光輝ある部分を)を顕せる銘文を作った」ものである。

                       未完

私の意見 禰軍墓誌に「日本国号」はなかった 追記 6/6 結論

                   2018/05/12 改訂 2021/09/22
*結論
 以上のブログ記事をまとめると、以下のようになる。

  1. 「日本」は、墓誌作文時点では、最新情報の東夷国号であり、故人を顕彰する墓誌の文として不適切である。従って、国号と見るべきではない。
  2. 「日本」は、国号でなく詩的字句として考えても、「扶桑」、「風谷」、「盤桃」と比肩できる典故を持たないので、墓誌の文として不適切である。従って、詩的字句と見るべきではない。
  3. 「本余譙」は、本藩たる百済の余譙(残党)と解されるべきである。
    扶桑を「日本列島」と解すると、百済亡国の際に、多数が亡命渡来した史実にも符合する。

 従って、ここに提唱する、この部分を「于時日、夲餘噍」と解する仮説は、一考に値すると思われる。
                       以上

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私の意見 禰軍墓誌に「日本国号」はなかった 付録 1 再掲 墓誌の姿形

                         2018/05/08 再掲 2020/06/20 2021/09/22
〇はじめに
 本資料は、NHK BSプレミアム番組「盗まれた長安 よみがえる古代メトロポリス」の部分紹介です。

 番組は、中国の古都で、漢以降だけを見ても、前漢、隋、唐の帝都であった長安、現在の西安の郊外で、唐代墓跡の盗掘が発見され、追究された経過のドキュメンタリーです。

 付け足しのようになっているのが、百済「祢軍墓誌」の話題なのです。2011年頃に、七世紀後半制作の墓碑銘の拓本が公開され、誌文に「日本」の国号が発見されたとして、考古学界に話題を投げかけたのですが、これまで拓本だけで議論していたのです。

 今回の番組で、所在不明だった墓誌の実物が西安博物院に所蔵されていることが明らかになったものです。

◯画面コピー紹介 墓誌全体→該当部分を指摘 (NHK番組の部分引用です)

  • Neguntomb_20210922220201
 碑文で、「日」の右下で耳の字のように伸びていますが、これは、「曰」(いわく)と区別するものです。また、「本」が、「夲」(大の下に十)となっていますが、これは、中国では普通の書き方で、別に間違って書いたわけではありません。と言うことで、優れた職人の技が見てとれます。

*補追

 と一旦褒めたのですが、拓本で確認すると、は、「曰」(いわく)と似た「日」があったり、手偏と木偏が見分けにくいのがあったりして、仕事ぶりにムラがあるのが見て取れるのが、ご愛敬です。

以上

 

私の意見 禰軍墓誌に「日本国号」はなかった 付録 2  再掲 誌文私見

                        2018/05/10 再掲 2021/09/22

〇お断り
 以下は、『祢軍墓誌』についての覚書 : 附録 ; 唐代百済人関連石刻の釈文 葛 継勇
に印刷された誌文を参考にテキスト入力したものであり、誤解、誤字などは、当ブログ筆者が責めを負うものである。
 参照した拓本は、資料大唐故右威衛将軍上柱国祢公墓誌銘并序掲示のもの。

 但し、翻案文は不使用。(全文入力後に見つけたため)

    1. 大唐故右威衛将軍上柱国祢公墓誌銘
    2. 公諱軍字温熊津嶠夷人也其先与華同祖永嘉末避乱適東因遂家焉若夫
    3. 巍巍鯨山跨青丘以東峙淼淼熊水臨丹渚以南流浸煙雲以擒英降之
    4. 沃照日月而榳惁秀之蔽虧霊文逸文高前芳七子汗馬雄武擅後異于
    5. 三韓華構增輝英材継響綿図不絶帟代有声曾祖福祖譽父善皆是夲藩
    6. 品官号佐平並緝地義以光身佩天爵而勤国忠侔鉄石操持松筠範物者道
    7. 徳有成則士者文武不墜公狼輝襲祉藤頷生姿涯濬澄陂裕光愛日干牛斗
    8. 之逸気芒照星中搏羊角之英風影征雲外去顕慶五年官軍平夲藩日見機
    9. 識変杖剣知帰似由余之出戎如金碟之入漢__聖上嘉歎擢以栄班授右
    10. 武衛漉川府折衝都尉于時日夲餘噍拠扶桑以逋誅風谷遺甿負盤桃而阻
    11. 固万騎亘野与盖馬以驚塵千艘橫波援原蛇而縱祢以公格謨海左亀鏡瀛
    12. 東特在簡帝往尸招慰公佝臣節而投命歌__皇華以載馳飛汎海之蒼鷹
    13. 翥凌山之赤雀決河訾而天具靜鑑風隧而雲路通驚鳧失侶済不終夕遂能
    14. 説暢__天威喩以驅福千秋僭帝一旦称臣仍領大首望数十人将入朝謁
    15. 特蒙__恩詔授左戎衛郎将少選遷右領軍衛中郎将兼検校熊津都督府
    16. 司馬材光千里之足仁副百城之心挙燭霊台器標於芄械懸月神府芳掩於
    17. 桂苻衣錦昼行富貴無革翟蒲夜寢字育有方去咸亨三年十一月廿一日
    18. 詔授右威衛将軍局影__彤闕飾躬紫陛亟蒙栄晋驟歴便繁方謂克壮清
    19. 猷永綏多祐豈置曦馳易往霜凋馬陵之樹川閲難留風驚龍骧之水以儀鳳
    20. 三年歳在戊寅二月朔戊子十九日景午遘疾薨於雍州長安県之延寿里第
    21. 春秋六十有六__皇情念功惟舊傷悼者久之贈絹布三百段粟三百研葬
    22. 事所須並令官給仍使弘文館学士兼検校夲衛長史王行夲監護惟公雅識
    23. 淹通温儀韶峻明珠不顏白珪無玷十歩之芳蘭室欽其臭味四鄰之彩桂嶺
    24. 尚其英華奄墜扶搖之翼遽輟連舂之景粵以其年十月甲申朔二日乙酉葬
    25. 於雍州乾封県之高陽里礼也駟馬悲鳴九原長往月輪夕駕星精夜上日落
    26. 山兮草色寒風度原兮松声響陟文榭兮可通随武山兮安仰愴清風之歇滅
    27. 樹芳名於寿像其詞曰
    28. 胄胤青丘芳基華麗脈遠遐邈会逄時済茂族淳秀帟葉相継献款夙彰隆恩
    29. 無替一其惟公苗裔桂馥蘭芬緒栄七貴乃子伝孫流芳後代播美来昆英声雖
    30. 歇令範猶存二其牖箭驚秋隙駒遄暮名将日遠徳随年故慘松吟於夜風悲薤
    31. 哥於朝露霊轜兮遽転嘶驂兮跼顧嗟陵谷之貿遷覬音徽之靡三其

校注:(原注)
   3行の「青」は、王連龍氏が「清」。「擒」は、王連竜氏が「樆」。
 4行の「扌庭 悊」は、王連龍氏が「榳惁」。
 21行の「研」は、王連龍氏が「升」。

追記:本記事の追記、校正項目
 _は、僻諱による空格
 4行の「榳惁」は、葛継勇氏が「扌庭 悊」としたものを復原。
 3,4,10行の「于」(全五箇所)は、葛継勇氏及び王連龍氏が「於」としているもの。
 但し、拓本に「於」とあるものは、そのまま。
 竜、龍の混在はそのまま。
以上

 

2020年8月 3日 (月)

新・私の本棚 松尾 光 「現代語訳 魏志倭人伝」壹 祢軍墓誌「本余譙」談義

 新人物文庫 .KADOKAWA/中経出版 Kindle版

 私の見立て ★★★★☆ 倭人伝訳文は ★★☆☆☆  2020/08/02

〇はじめに 余塵顕彰
 本書は、倭人伝現代語訳を展開しているが、ここに提示するのはその余塵である。しかして、肝心の倭人伝訳文は偉業ではあるが、定説どっぷりの凡々たる展開と見る。おまけ部分は、力作であって毀誉褒貶混沌であるが、ここでは触れない。

〇百済祢軍墓誌に関する考察
 墓誌本文については、別記事で詳報したので、当記事では省略する。ここでは、改行を追加して、氏の注記を引用する。
(2)日本の餘、扶桑に拠りて以て誅を逋がる
 
白村江の戦いに敗れた日本軍の残党ともいえるが、百済の残党とも読み取れる。

 というのは前項の『旧唐書』列伝劉仁軌伝の続きに「百済の土地を棄つるべからず。余豊は北に在り、余勇は南に在り。百済・高麗は旧より相党して援く。倭人遠しと雖も、亦相影響す【百済の土地を棄ててはならない。余豊璋は北(高句麗)におり、余勇は南(倭)にいる。百済・高句麗はもともと相党して助け合っていた。倭人は遠いとはいえ、亦おたがいに影響しあっている】」とあり「扶余勇は扶余隆之弟也。是時走れて倭国に在り、以て扶余豊の応を為す【扶余勇は扶余隆の弟である。白村江の戦いの時に戦場から逃れて倭国におり、それによって余豊璋の応援をしている】」とある。余勇はほかに見えないが、扶余隆の弟ならば余豊璋の兄か弟である。余豊璋とともに人質とされていた余禅広(善光)は日本に滞在し、帰国しないまま百済王の氏名(うじな)を得ている。この余禅広の実名が扶余勇だったのか。

 その当否はともかくとして、倭国では唐軍の侵攻を覚悟し朝鮮式山城・水城の防禦施設や烽火という情報伝達施設を造らせて本土決戦の日に備えているが、唐では高句麗と連携した倭軍による百済復興・唐軍挟撃の動きを警戒していた。


〇時代考証の試み~史料批判の第一歩
 史書の解釈で、時代考証が混乱しているのは気がかりである。

 何しろ「唐軍の侵攻を覚悟し」「本土決戦」と場違いな用語が飛び出すが、ヤマトに王都防衛施設を大挙造成したとは聞かない。また、ヤマトが、比較的近場の百済残党を差し置いて、極北の高句麗とどう連携したか、誰の懸念か不審である。全知全能の神のごとき陰謀説は、華麗で俗耳に馴染みやすいが、限りなく後世人の妄想世界と見える。

 と言うように、さまざまな時代錯誤、視点のずれが露呈している。

〇早計、浅慮の俗説への適確な異論
 重大なのは、八世紀冒頭の公開以前で誰も知らない「日本」が書かれたとの俗説である。

 舊唐書では、専ら「倭」であり、倭、倭人ないし倭国と気ままである。「日本」なぞ誰も理解できないから墓誌作者は「日本」余譙と書けず、氏の提起のように百済残党、「本藩余譙」を「本余譙」と縮めたではないか。墓誌構文としては「于時日、本余譙」と三字句に読むものだろう。

 案ずるに、墓誌は、唐代当時最高の教養人を読者として想定し、読者衆知の百済亡国後の残党の想定で書いたのであり、読者にとって典拠不明の「日本」を書くはずがないと思う。

 して見ると、本件で早計、浅慮の俗説の粉塵の中、氏が文脈を丁寧に読み取った「百済の残党」は、燦然と筋が通っていると賛辞を呈したい。「俀国ヤマト説」など「党議拘束」の範囲外では、氏は、卓越した史料解釈を示すようである。

〇先行文献調査不備
 基本的な事項であるが、祢軍墓誌解釈は未踏分野でなく、論文の数は限られているから、逐一、確認が可能と思う。

 当ブログでは、素人なりに著名な先行論考を克服して、『祢軍墓誌に「日本国号不在」』と断じている。よくよく調べて書くべきではないか。

 私の意見 禰軍墓誌に日本国号はなかった 1/6  序論

                                以上

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