百済祢軍墓誌談義

百済祢軍墓誌に関する記事です

2023年10月25日 (水)

新・私の本棚 古賀達也の洛中洛外日記 3141話 百済禰軍墓誌の怪

                         2023/10/25

 今回は、誠に不思議なものを目にしたのである。「古田史学の会」関西例会の発表であるが、

 「百済禰軍(でいぐん)墓誌銘」に“日本”国号はなかった! (神戸市・谷本 茂)
 が、「新発見」/「新説」として紹介されているのが、何とも奇怪、けったいなのである。
 当記事は、既出記事と齟齬しているのである。つまり、 
第2429話 2021/04/10
百済人祢軍墓誌の「日夲」について (3)
 ―対句としての「日夲」と「風谷」―
 で、一旦意義ある指摘として、認識/納得/公開されたはずなのに、今回記事では、すっ飛んでいると見えるのである。谷本氏は「古賀達也の洛中洛外日記」記事を読んでいないと思うしかないが、当の古賀氏が失念されているのは、何とも、奇怪である。

 因みに、前記過去記事では、当ブログ2018年記事が引用紹介されているので、「古田史学の会」に限定しても、公知の先行文献だと思うのだが、どうなっているのだろうか。

 ぜひ、読みなおして、再確認いただきたいものである。

以上

2023年7月 3日 (月)

新・私の本棚 榎一雄著作集 第八巻 「邪馬台国」 御覧所収魏志 増補 2/5

汲古書院    1992/5
私の見立て ★★★★★ 不朽の金字塔 必読   2019/07/13 記 2022/09/02 補充 2023/07/03

*歪んだ三国鼎立図式 個人的余談
 かくして、南朝陳と北朝齊(北斉)、周(北周)の三国鼎立と言っても、長安を中心とした関中と南方の蜀を版図とした西の大国周(北周)が巨大で、不均衡、つまり、不安定でした。

*北齊国情概観亡国の暗君
 その後、時代は急転し、「齊」は、暗君失政により、『修文殿御覧』直後のCE 577に亡国となりました。
 まずは、重鎮にして猛将の斛律光(CE 515-572)を粛正して、「齊」は中原の覇者であるから蛮勇を捨てたと宣言し、次いで、舞楽「蘭陵王」で知られる英雄であり、国軍の支柱であった従高長恭(CE 541-573)に賜毒し、軍の両翼を自らもぎ取る愚行を犯したので、強大な「周」に対抗できるはずは無く、程なく「齊」は亡んだのです。

 鼎立は、いまや、南朝領域の一部、建康周辺に収縮した「陳」と残る大半を支配する「周」の南北朝二国対立に転じたものの、幼帝に継承された「周」は、重臣楊堅に国を奪われ、北朝は隋文帝楊堅による統一「隋」を得て、弱小国「陳」の討伐に向かったのです。
 「隋」文帝は、「陳」を滅ぼし全国統一した際に、膨大な南朝文物を悉く持ち去り、中国文明の正統である北朝天子に反逆した南朝歴代の墳墓を破壊し、三世紀近い東晋・南北朝諸国の陵墓は、現存していないといいます。

 少し時代を戻すと、内外紛争の絶えない時世の「齊」の文化事業は、恐らく、漢人官僚の雄図とみて敬意を払いますが、後の統一王朝「隋」、「唐」に比べて、国力が大いに劣り、人材も遠く及ばなかったと思われます。

*西晋滅亡流亡~道草
 振り返ると、「西晋」(CE 265-316)の滅亡時、北部の異民族が大挙侵入した際に、帝都洛陽の官人、つまり、当時最高の教養人、芸術家、さらには、職人の多くは、あるいは逃亡し、あるいは略奪を恐れて身を隠し、中原が、「魏」、つまり、「後魏」ないしは「北魏」の支配下で安定し、中原国家への移行を望んだ「北魏」の中華文化振興策がこれらの隠れた文化人を呼び戻すまで、中華文明は、専ら「東晋」(CE 317-420)、および継承した歴代の南朝諸国に委ねられたのです。

*余談~百済祢軍墓誌由来
 「西晋」滅亡時、漢蛮関係を主管した鴻臚官人等が、親交のあった百済の勧誘を受け、山東半島経由で渡海亡命したようです。
 見事な墓誌で知られる百済禰氏一族は、その際に亡命、移住して、代々百済王の幕僚として重責にあり、南朝歴代との濃密な交流を進め、中華文明の導入を支えたようです。
 あくまで、個人的夢想ですが、帯方郡時代に韓国以南で敷かれていたと思われる「短里制」を廃し、再測量、土地台帳更新を歴て普通里、つまり周里制として、中国の制度に帰した大事業が行われたと無理矢理仮定すると、中核となって推進したのは、亡命西晋高官の働きと思えるのです。
 とかく、感情的な反発が懸念される話題ですが、所詮「夢想」ですから、反論されると困るので、感想にとどめて戴ければ幸いです。

 時を経て、「唐」の「百済」討伐の時、百済の高官であった「禰軍」は、「唐」の要請に応じて、先だって中原に復帰し「百済」国王に降伏を求める軍使となったようです。
 このように「百済」平定の国業に尽力した「禰軍」を顕彰する墓碑には、古典書籍に依拠した厳選の麗句を連ねた美文が綴られたのです。
 近来、墓誌に「日夲」の二字が見えることから、中国に於いて、「日本」が知られていたとする論義が見られますが、「禰軍墓誌」制作の当時、唐京師長安界隈に「日夲」を知る人もなく、また、先立つ古典用例がないことから、素性不明の「日本」国号が書かれるはずはないのです。
 そこで、「日本」の二字並びを一語と読むのは錯覚であり、墓碑を正確に読み取れば「日本」は消え失せるというのが、別記事の主題です。いや、本記事に於いては、やや道草ですが、大事なことなので再録しました。

◯唐代 『芸文類聚』『文思博要』の背景
 「西晋」瓦解(CE 316)以来三世紀近い分裂時代を経た天下は、「隋」(CE 581-618)に統一され、「隋」を継いだ「唐」(CE 618-907)が全国政権となったのです。いや、史家によると、「隋」は、北朝を統一した後、南朝「陳」を滅ぼしたものの、天下統一はできていなかったとの厳しい評価があります。
 赫々たる全国政権を確立した「唐」の諸皇帝は、京師長安を文化活動の中心として、当代随一の教養人、芸術家、職人を招集し、散逸していた諸文献を集成し、中でも、世界帝国に相応しい二類書『芸文類聚』百巻(CE 622-624)、『文思博要』千二百巻(CE 641)を編纂したのです。多大な時間を投入した類書編纂事業を核として、永久政権の基盤作りをもくろんだのでしょう。

 宮崎市定氏によると、中国は唐に於いて古代から中世に進んだようで、このような有様は、まことに中世の開幕と呼ぶに相応しい堂々たるものです。
                               未完

2023年4月30日 (日)

新・私の本棚 松尾 光 「現代語訳 魏志倭人伝」壹 祢軍墓誌「本余譙」談義 再掲

 新人物文庫 .KADOKAWA/中経出版 Kindle版
 私の見立て ★★★★☆ 倭人伝訳文は ★★☆☆☆  2020/08/02 2023/04/30

〇はじめに 余塵顕彰
 本書は、倭人伝現代語訳の労作を展開しているが、ここに提示するのはその余塵である。しかして、肝心の倭人伝訳文は偉業ではあるが、俗説/定説どっぷりの凡々たる展開と見る。おまけ部分は、力作であって毀誉褒貶混沌であるが、本稿では触れない。

〇百済祢軍墓誌に関する考察
 墓誌本文については、別記事で詳報したので、当記事では省略する。ここでは、改行を追加して、氏の注記を引用する。
(2)日本の餘、扶桑に拠りて以て誅を逋がる
 
白村江の戦いに敗れた日本軍の残党ともいえるが、百済の残党とも読み取れる。

 というのは前項の『旧唐書』列伝劉仁軌伝の続きに「百済の土地を棄つるべからず。余豊は北に在り、余勇は南に在り。百済・高麗は旧より相党して援く。倭人遠しと雖も、亦相影響す【百済の土地を棄ててはならない。余豊璋は北(高句麗)におり、余勇は南(倭)にいる。百済・高句麗はもともと相党して助け合っていた。倭人は遠いとはいえ、亦おたがいに影響しあっている】」とあり「扶余勇は扶余隆之弟也。是時走れて倭国に在り、以て扶余豊の応を為す【扶余勇は扶余隆の弟である。白村江の戦いの時に戦場から逃れて倭国におり、それによって余豊璋の応援をしている】」とある。余勇はほかに見えないが、扶余隆の弟ならば余豊璋の兄か弟である。余豊璋とともに人質とされていた余禅広(善光)は日本に滞在し、帰国しないまま百済王の氏名(うじな)を得ている。この余禅広の実名が扶余勇だったのか。

 その当否はともかくとして、倭国では唐軍の侵攻を覚悟し朝鮮式山城・水城の防禦施設や烽火という情報伝達施設を造らせて本土決戦の日に備えているが、唐では高句麗と連携した倭軍による百済復興・唐軍挟撃の動きを警戒していた。


〇時代考証の試み~史料批判の第一歩
 史書の解釈で、時代考証が混乱しているのは気がかりである。

 何しろ「唐軍の侵攻を覚悟し」「本土決戦」と、現代諸兄姉には耳に馴染まない、言うならば、古代史には場違いな「大本営」用語が飛び出すが、ヤマトに王都防衛施設を大挙造成したとは聞かない。また、ヤマトが、比較的近場の百済残党を差し置いて、極北の高句麗とどう連携したか、誰の懸念か不審である。全知全能の神のごとき陰謀説は、華麗で俗耳に馴染みやすいが、限りなく後世人の妄想世界と見える。

 と言うように、さまざまな時代錯誤、視点のずれが露呈している。

〇早計、浅慮の俗説への適確な異論
 重大なのは、八世紀冒頭の公開以前で誰も知らない「日本」が墓誌に書かれたとの「俗説」である。

 舊唐書では、専ら「倭」であり、倭、倭人ないし倭国と気ままである。「日本」なぞ誰も理解できないから墓誌作者は「日本」余譙と書けず、氏の提起のように百済残党、「本藩余譙」を「本余譙」と縮めたではないか。私見では、墓誌構文としては、「于時日、本余譙」と三字句に読むものだろう。

 案ずるに、墓誌は、唐代当時最高の教養人を読者として想定し、「読者衆知の百済亡国後の残党の想定で書いた」のであり、読者にとって典拠不明の「日本」を書くはずがないと思う。

 して見ると、本件で早計、浅慮の俗説の粉塵の中、氏が文脈を丁寧に読み取った「百済の残党」は、燦然と筋が通っていると賛辞を呈したい。「俀国ヤマト説」など「党議拘束」の範囲外では、氏は、卓越した史料解釈を示すようである。

〇先行文献調査不備
 基本的な事項であるが、「祢軍墓誌」解釈は未踏分野でなく、論文の数は限られているから、逐一、確認が可能と思う。
 当ブログでは、素人なりに著名な先行論考を克服して、『祢軍墓誌に「日本国号不在」』と断じている。よくよく調べて書くべきではないか。

 私の意見 禰軍墓誌に日本国号はなかった 1/6  序論

                                以上

2022年6月16日 (木)

新・私の本棚 古賀達也の洛中洛外日記 第2762話 『古田史学会報』170号の紹介

『古田史学会報』170号の紹介 百済祢軍墓誌の「日夲」 ―「本」「夲」、字体の変遷―
                            2022/06/16
◯はじめに
 本項は、私淑する古賀氏のブログ記事の批判でなく、随想であることは、ご理解いただきたいものです。
*引用
 … もう一つの拙稿〝百済祢軍墓誌の「日夲」 ―「本」「夲」、字体の変遷―〟も半年ほど前に投稿したもので、順番待ちのため、ようやく今号での掲載となりました。本稿は、百済祢軍墓誌に記された「日夲」の「夲(とう)」は「本」とは別字であり、「日夲」を国名の「日本」とはできないとする批判に対する反論です。七~八世紀当時の日中両国における使用例を挙げて、「夲」の字は「本」の異体字として通用していたことを実証的に証明しました。 …

*コメント

 勉強不足の初心者が見当違いの新発見を提言するのは手ぶらで書いてすむのですが、古賀氏が、丁寧に調べて実証的に反論するのは、不公平と見えます。バリバリの私見で恐縮ですが、率直に発言させていただくと、本件は、同時代の中国史料について論考を展開する程度の教養を有した人物にとっても当然、自明の事項であり、当然「不成立」なのですが、そのような当然、自明の事項を個人的に知らないからと言って、未審査の思い付きを公然と提言すべきではないと思われるのです。

 いや、このような思い付き発言は、古代史学分野では、ありふれているので、「言ったもん勝ち」だと思っている方も多いでしょうが、まずは、とこことん自己検証すべきなのです。

 素人なりに調べても、「本」の字は、十の縦横書画の交点から、左下、右下への書画が始まるので、紙面で言うと、墨がうまく流れないと、四本の書画の交わるところに墨が溜まって、にじみやすいのです。あるいは、交点の一点から、二本の書画が始まるので、書き出し位置の狂いが目立ちやすいのです。

 公文書の清書などの改まった場は、名人が時間をかけて書き進めるので、そのような不始末は出ませんが、公文書の下書きや日常の信書では、余計な心配がいらない「夲」が通用/常用されていたのです。(実証は、端から不可能ですが)

 ご参考までに言うと、知る限り、現代でも日常文書では「日夲」が、むしろ普通と見えるのです。字体は「変遷」していないのです。

 本題に還ると、墓誌は石刻であり、刻工は、墓誌全体を「ボツ」にするような手違いの出にくい「夲」と刻んだのです。
 因みに、「百済祢軍墓誌」に「日夲」をみるのは、明らかに、早とちりの勘違いですが、既報なのでここでは論じません。

 思うに、氏ほどの論客が、「七~八世紀当時の日中両国」とは、氏の見識を疑わせかねないので、ご自愛いただきたいものです。

 衆知の如く、「日本」が国号として認知されたのは、八世紀以降であり、また、当時、「中国」が国号であったかどうか、不確かと思うのです。古代史論で「日中」は、不適切と見ます。

 いやはや、言い立てる方は無造作でも、回答は、大変な苦労が伴うのです。

                               以上

2021年9月23日 (木)

新・私の本棚 番外 「古賀達也の洛中洛外日記」百済人祢軍墓誌の「日夲」について (1)-(3)

「古賀達也の洛中洛外日記」第2427-2429話 2021/04/09-04/10       2021/04/12 

〇はじめに~謝辞
 古賀達也氏のブログには、ほぼ日参しているが、ここで耳慣れた話題にお目にかかった。三回連載の展開はさておき、当ブログの旧記事を適確に引用いただいたので、ここに感謝の意を表したい。

残念な新説
 「古田史学の会・東海」の会報『東海の古代』№248に掲題の論考が二件紹介され、その内、石田泉城氏の論考に、通説の「于時、日夲餘噍」(この時、日本の餘噍は)でなく、「于時日、夲餘噍」(この時日、当該の餘噍は)と解する説が提言されていて、どこかで見たと感じた次第である。(苦笑) いや、折角、先行諸論文を紹介した上で、深く掘り下げる追加記事まで書いたのに、お目にとまらなかったとすれば残念ということである。

被引用の光栄
 当ブログは、古賀氏の目には届いていたようで(3)で注意喚起いただいて光栄であった。初出記事を温存した甲斐があったのである。

追加考察
 石田氏の論考で不満なのは、本と夲が、本来別字と断じられていて、だから、「日本」は、国号ではないという趣旨だが、「夲」は、現代中国語でもむしろ常用されていて、実際上別字と見るべきではないという意見である。

 墓誌の刻字の際、「本」は、中心の字画交差部が彫りにくいので「夲」が当然であったように思う。簡牘書記でも、「本」を細かい文字で早書きすると失敗しやすいと見えるので、「夲」が主流でも不思議は無いと思う。

 この点は、見解の相違であるから、別に、そう考えろと言っているわけではない。どうして代え字したのかと詮索しただけである。

 書道の先生が言うように、大きな堂々たる文字を書くときは、時間をかけてでも「本」の字を正確に書き出して、腕の確かさと芸術性を誇るのだろうが、実務は別だと思うものである。

 なお、当ブログ記事の字句解釈は、「本余譙」は「本国」の余譙、つまり、「百済」の余譙と読めるとの意見であり、石田氏に比べて、随分丁寧に論じていると自負している。新説というなら、こうした主張点を克服して欲しいものである。

〇先行論者への謝辞
 さらに、墓誌は、古典教養を問われるのであるから、誰も知らない、できたてほやほやの蕃夷国号など書かれるはずはない、という解釈も克服されていない。この点は、東野氏の論考に啓発された気もするが、知られていないのかと思いここに蒸し返す。

〇最後に
 と言うことで、記事引用も頂いているので、被引用者として、大きな不満はない、どころか、大いに満足していると申し添えておくものである。またもや学恩を受けた以上、恩返しが必要と思う次第である。

 思うに、論文にとっての勲章は、先行論考として引用されることと思うのであり、今回は、大いに意を安んじたのである。
 いや、特許の分野では、小生の米国特許に対して、少なからぬ被引用が記録されているのは、内心大いに誇っているのである。
                 以上

2021年9月22日 (水)

私の意見 禰軍墓誌に「日本国号」はなかった 追記 1/6 序論 

                   2018/05/12 追記 2021/09/22
〇序論
 中国の古都・長安で見つかった、唐時代の高官祢軍(禰軍)の墓誌(故人の事跡を刻んで墓に叹めた石板)の拓本が1911年に公開されたが、「唐時代678年10月制作と思われる墓誌に「日本」と読める文字がある」と見て、従来、701年大宝律令公布に際して制定・公布されたとされていた「日本」国号が、先だって中国で知られていた証拠ではないかと、議論を呼んでいるものである。

 本件は、当ブログの専攻範囲(倭人伝)外だが、本件報道に疑問があり、素人考えで口を挟むものである。

*日本列島回帰
 今回記事では、「倭」「日本」が混在する微妙な記事で、思うところがあって、中国、三国(朝鮮)と対比される地域を「日本列島」と呼ぶことにした。実際は、列島西部だけが対比されるのだが、適当な表現がないので困っていた。
 今回、上田正昭氏の提言に従い、とりあえず、当記事では「日本列島」と呼ぶことにしたのである。「地域限定」とご理解いただきたい。

 従来、古代史論で「日本列島」を見たときは反発したが、そういう趣旨であれば同感である。不本意な反応が返ってくるのは、説明不足なのである。大事なのは、趣旨を正しく伝えることである。

*禰軍墓誌の「日本」
 当プログでの検討の皮切りは、NHK BSの特別番組の付けたりであって、唐代墓跡の大規模盗掘事件に絡む取材として、現地西安博物館秘蔵の禰軍墓誌の撮影が許可され、手早くまとめたと思われる15分ほどの挿話が、番組告知の紹介も無く、まことの不意打ちで番組の中程に追加されていたのに触発されたのである。いや、これほど貴重な資料に通りががりにぶつかって、躓かせるというのは、どういう神経なのか、NHK古代番組の姿勢として、まことに理解に苦しむのである。

 と言うのも、これまで、当史料に関する論考を見かけてはいたが、史料の出所、由緒が不確かで、興が乗らなかったので、真剣に見たのは初めてのことある。不勉強の言い訳はさておき、慌てて確認すると、例えば「古田史学」誌第16集で三氏が論考を重ねている。

 但し、当初の朝日新聞記事で、多少謙虚な言い方、つまり、「拓本が本物であれば」と前提付きであるものの「定説が書き替えられる」との報道以来、『墓誌に「日本」と書かれている』との認識のようであった。今回、実物がNHK番組で紹介され、始めて「墓誌偽造」説は棄却されたようである。

*結論予告
 と言うことで、墓誌誌文について、すでに定説めいたものが形成されているようであるが、当方は、史料解釈の見過ごされた第一歩が見て取れるので、ここに考察を加えたものである。

 タイトルに示したように、当記事の結論は、墓誌誌文を読み取ると、そこに「日本国号」は書かれていない、と考えるものである。定説は、まず、「日本」を見て取って、それに合わせて、誌文を読み替えるものであり、「本末」転倒と思うものである。まあ、当世、定説は書き換えられるためにあるようで、何が「定」なのかと、苦笑するものである。

 なお、碑文読み取りについては、基本的に、テレビ画面で確認した該当部分の映像のテキストを利用しているが、当方の読解力を越えた、難解、と言うか、理解不能な美文なので、諸兄の論説を参考にしたことは言うまでもない。

 適切な扱いをしたものと思うが、失礼があれば、ご容赦頂きたい。

                           未完

私の意見 禰軍墓誌に「日本国号」はなかった 追記 2/6 日本國王并妻

                   2018/05/12 改訂 2021/09/22

*日本國王并妻還蕃(舊唐書綺譚)
 当該部分の解釈で、参考となるのが、古田武彦氏が、中華書局本舊唐書(旧唐書)の表点本の句点違い事例として紹介している旧唐書順宗紀の「日本記事」である。太字は、当ブログ筆者のもの。

 新・古代学 第三集 歴史ビッグバン 古田武彦 1998
 昨秋、ある方(古賀達也氏)からの質疑が発端となった。旧唐書に「日本国王(桓武天皇)夫妻が唐に来た」旨の記事がある。どう思うか」との問いだった。かつて聞いたことのある話だったけれど、聞きすごしていた。今回は、取り組んでみた。

「(貞元二十一年、八〇五)甲寅、釋仗内厳懐志、呂温等一十六人。(中略)至是方釋之。日本國王并妻還蕃、賜物遣之。」《旧唐書、順宗紀。(中華書局、表点本)》

 確かに「日本国王并(なら)びに妻、蕃に還る。」というのは、「八〇五」とあれば、桓武天皇の延暦二十四年だ。だが、桓武天皇夫妻の渡唐など、聞いたこともない。そこで旧唐書内の用語追跡に没頭した。判明した。何のことはない、表点本の「誤読」だった。「方(まさ)に釋(ゆる)す日、本国王(吐蕃国王)并(なら)びに妻(めと)り蕃(吐蕃)に還る。」が「正解」だった。吐蕃伝に頻出する「本国」の用例、「妻」は動詞、「妃」は名詞、の用法、吐蕃王の唐朝への女性要求(親戚関係の構築)等の史実を追う中で疑いようもなく明白となった。第一、実録性の高い続日本紀にその気配すらないのである。

 つまり、権威ある中華書局、表点本も、「日本」なる二文字にとらわれて史料読解を誤ることがあるという事例である。」

*引用終わり

 古田氏は、本件解釈に際して、舊唐書を広く検索し、吐蕃伝に頻出する「本国」の用例では「本国」が吐蕃をさしていると指摘されている。

 データを根拠にした提言であるので尊重するものである。

                       未完

私の意見 禰軍墓誌に「日本国号」はなかった 追記 3/6 本藩の由来

                   2018/05/12 改訂 2021/09/22
*「本藩」の由来
 当方も、「中国哲学書電子化計劃」データベースのテキスト検索を利用しようとしたが、残念ながら、舊唐書のデータベース収録は完了していなくて、維基文庫の全文テキスト検索を利用せざるを得なかった。(注 どうも、この点は、勘違いしたようである)

 と言うものの、舊唐書で「日本」を検索した際にヒットする「日本?」(?は、任意の一文字)の、「本?」の各種用例を確かめたところ、以下のように感じた。

  1. 「本国」とは、中国王朝に臣従する諸国王が、自領を語るときに用いられる用語である。
  2. 「本州」とは、中国王朝内、諸国王の所領、ないしは、刺史などの統轄する州を言うとき用いられる用語である。
  3. 「本藩」とは、これらの用例に類する用語である。
  4. 「藩」は、元来植え込みの垣根であり、「藩屏」とは、小国が、塀となって帝都を囲んで外敵から守る姿を現している。「藩」は公式用語でなく、それ故、正史には僅かな使用例しか出現しない。
    但し、実務上、極めてありふれた用語であり、これにならって、江戸時代、家康による幕府開闢以来、各国の大名所領は、しばしば「藩」と呼ばれていたのである。

*「日本余譙」は場違い
 もし、ここに「日本余譙」と書かれていたとすると、ここまで碑文に「日本」とは何者か前触れがないから、唐突であり、読者は、一読して理解できないと予想されるのである。よく言う「不意打ち」で、無作法である。現今言われる、冷水を浴びせるような「サプライズ」で、不愉快なものである。

 つまり、当該詩文の読者は、「日本」を全く知らないから、碑文に示されたような書法は、不適切極まりないのである。詩文作者が祭祀者に提示したら、一発却下、解雇は間違いない。

 もし、つまり、英語の[If]のように、無理に仮定して、ここに書かれているのが、「日本列島からの援軍」残党とすると、当然の疑問は、肝心の「百済」残党はどうした、というところである。

 「本藩」と書かれているのは、墓誌の主人公が仕えたが、亡国の憂き目に遭った旧「百済」であり、従って、後出の「本余譙」は、本藩「百済」の余譙と解釈するのが順当と思う。

 誌文では、ここまでに「本藩」が二度書かれていて、読者は、短縮表現を理解する準備ができているのである。

*「本余譙」とは?
 ようやく、核心に辿り着いた。ついでに、用字を訂正する。

 結局、「(于時)日夲餘噍」の六文字句と解釈するのは、場違いであり、「(于時日)夲餘噍」と解すべきなのである。

 ここでは、「夲藩余譙」が、「夲余譙」と省略されたと想定しているが、誌文では、しばしば字数を揃えることが、厳しく要求されるので、時に短縮、時に延伸されるのである。

 こうして「于時、夲藩餘噍」と二+四文字では、対句となっている「據扶桑 以逋誅」と合わないので「于時日、夲餘噍」と三+三文字としたと見るのである。
                          未完

私の意見 禰軍墓誌に「日本国号」はなかった 追記 4/6 先行論考

                   2018/05/12 改訂 2021/09/22
*先賢の論考
 この点、墓誌に関する考察として、すでに、次の論考に於いて深い考察が行われていたので、勉強させていただいた。

 『祢軍墓誌』についての覚書 : 附録 ; 唐代百済人関連石刻の釈文 葛 継勇 2012年3月
 専修大学社会知性開発研究センター東アジア世界史研究センター年報6号掲載 

 本論文の史学論文として適切な構成にも敬服する。長い実証的論考の果てに、堅実な結論が明記されている。データを根拠にした考察と提言は、尊重すべきである。

「おわりに
 以上のように、『祢軍墓誌』について、⑴祢軍墓誌の形態、⑵中国で出土した唐代百済人墓誌、⑶祢軍の出身と官品・勲位、⑷『祢軍墓誌』に見える地名と歴史典拠、という四節に分けて考察してみた。
 ⑴では、『祢軍墓誌』の史料性について、(中略)ほかの唐人墓誌や在唐百済人の墓誌との比較を行って、(中略)検討したうえで、祢軍墓誌の信憑性が高いと指摘した。 ⑵ 、⑶ 略
 ⑷ では、(中略)また、祢軍の才能を褒める語句として使われるもので、かなり文言を駆使するだけでなく、歴史典故をモチーフとして、彼の功績を顕せる銘文を作ったと述べてみた。」

 結論として適確に総括され、まことに論文としての形式が整っていて、浅学のものとしてお手本としたいものである。

*中間報告
 遡ると、次のような貴重な見解が述べられている。太字、当ブログ筆者。

「そして、「於(于)時、日夲餘噍、據(拠)扶桑以逋誅。風谷遺甿、負盤桃而阻固。」という典故について、すでに指摘があるように、「扶桑」は日本国の旧称呼と思われることから、「日夲」の二字についても日本国号のことを指すと見なされている(王連龍、2011年)。けれども「日夲」と対応して使われる「風谷」は国の称呼ではない。「日夲」を国号と考えるのは、文章構成上は無理があろう。」

 「無理があろう」は、端的に言うと「不可能」、「あり得ない」との断言だろう。

 つまり、墓誌作家として当代随一と思われる文筆家が、故人を顕彰する墓誌に於いて、古典書籍に範を得て、典雅な文言で、歴史典故をモチーフとした極上の言葉を選びに選んだのに、百済亡国の際に介入した東夷の国名を上げたとしたら、それは、不躾でぶち壊しであるから、その意味でも、「日本」国号が書かれるのは、あり得ないのである。

 これは、まことに論理的な意見であり、当方は、誰にも異論を挟むことはできないと考える。いや、謙虚な言い方に変えると、一考に値すると考えるのである。
                       未完

私の意見 禰軍墓誌に「日本国号」はなかった 追記 5/6 祢軍小史

                   2018/05/12 改訂 2021/09/22
◯祢軍小史 参考まで
*祢氏東遷
 祢氏は、西晋の高官であったが、永嘉(CE 307-312)の乱に始まり、建興四年(CE 316)にいたる激しい内乱と外敵侵入による帝国瓦解時に、晋朝南遷に追従せず、帯方郡故地付近に本拠を置く「百済」に移住して、高級官僚として遇されたのである。

 つまり、祢氏一門は、おそらく交流のあった百済に渡海亡命したものと思う。いや、身一つで逃れるならともかく、家人と貨財を抱えて東方に逃れることになったと思うのである。

 官僚としての教養や知識を尊重され、高い地位を得ることのできる百済入りは、おそらく最善の選択であったろう。

*流亡の終わり
 その後、数世代を経たが、CE589に、南北朝の分裂を統一した隋、そして後継した唐と高句麗の数次に亘る抗争があり、遂に、唐は、高句麗征討を万全のものとするため、祢軍を初めとする漢人百済官僚に対して、高句麗を支持して唐の討伐対象となった「百済」を離れるよう勧請した。これにより、称軍(CE 613〜678)は、祢寔進(CE 615〜672)らと共に、三世紀にわたる流亡を終え中国王朝に仕官したのである。

*降伏の功
 かくして、唐顕慶五年(CE 660)、唐が新羅を従えて百済を征討し、大軍が首都泗比城に到った際、旧漢人官僚が百済王に降伏勧告したことにより、無益な攻城戦なくして、百済は降伏し滅んだ。
 
降伏により百済人は赦され、新羅は、百済遺臣、佐平の忠常、常永、達率の自簡などを高官として受け入れた。

 墓誌は、「顕慶五年官軍平夲藩日」として泗比開城時点で語っている。続いて、「于時日」とあるように、百済平定時に逃れた残党のことを言っているのである。

 なお、「日本書紀」には、顕慶の百済亡国の際に援軍を送ったという記事は無いようだが、唐書には、倭が高句麗と共に百済に助力したと記録している。その時点で、日本列島に百済王族が滞在していて、百済復興の気運が巻き起こったが、唐龍朔三年(CE 663)の「白村江」の戦い時点では、既に百済は滅亡して実態がないのである。

 ともあれ、百済平定の功により、祢軍は唐の高官に任じられたが、後に、唐の半島統治に対する新羅の激しい抵抗のため、唐は半島統治を取り下げ、旧三国が新羅に統一されることになった。

 このような三国動乱期を通じ、祢軍は、唐高官として国威発揚、事態収束に貢献したことが示されている誌文である。

 そのような不朽の勲功を顕彰するために、大唐随一の文筆家を起用して、「典雅な文言を駆使するだけでなく、歴史典故をモチーフとして、彼の(波乱に富んだ)功績(の光輝ある部分を)を顕せる銘文を作った」ものである。

                       未完

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