西域伝の新展開

正史西域伝解釈での誤解を是正するものです。恐らく、世界初の丁寧な解釈です。

2022年11月13日 (日)

新・私の本棚 「魏略西戎伝」条支大秦の新解釈 壱 導入篇  1/4

221114romaparthia   
                             2019/10/27 2019/11/08画像更新 2022/11/14

■おことわり
 ここに掲示したのは、当記事全体の考察を、そこそこに反映した「概念図」です。
 ことさら言うまでないと思いますが、ここに掲げたのは、魏略西戎伝(以下、西戎伝)に書かれた道里をまとめた「構想概念図」(Picture)であり、方位も縮尺も大体で、あえて「地図」にしていないのです。
 それなりに論理的に書いた労作なので、どうか「イメージ」などと軽蔑しないでいただきたいものです。作図に制約のあるマイクロソフトエクセルで書いたものです。
 
*古代人の認識 Retrospective Microcosmos
 衛星写真もグーグルマップなどの情報サービスもなく、地図もコンパスもない時代、頼りは、人々の見識であり、それは、各人の行動範囲に限定された確かな土地勘と行動範囲外の伝聞なので、甘英が知恵を絞っても、せいぜいこの程度の認識しか得られなかったと思うのです。と言うことで、当時の現地での認識で書かれた西戎伝の元データは、どの程度現地事情を反映していたか、当て推量にせざるを得ないと考えた次第です。
 特に重要なのは、甘英が取材した「安息」は、ここに書いたように安息創業の地である当地域を所領としていて、東北部の交易と防衛を担っていた「小安息」の視点で描いた世界像であり、大帝国の「グローバルな」目で描いたものではないのです。

 この二重構造は、甘英以後、後漢史官にも、魚豢にも理解されず、後漢書を編纂した范曄に至っては、不確かな情報であり書くに堪えないと棄てられ、そのような不確かな情報をもたらした諸悪の根源として、甘英は臆病な卑怯者扱いされたのです。

 当記事は、そうした冤罪を、魏略西戎伝の適切な解釈で払拭するものです。

 と言うものの、要点では、前世、つまり、史記、漢書以来の先行資料も参考にして重要地点の比定に勉めたのが、計三篇に上る考察です。
 ここでは、端的に、当方、つまり、当ブログ記事筆者の当面の結論、と言うか到達点を書き残すものです。読者に読んでいただけるか、肯定していただけるか、各読者の考え次第です。

■概要
 本稿では、西戎伝の解釈に対して従来当然とされていた句点解釈に異を唱え、条支、大秦国の所在地の再確認を願うものです。定説で決まりなどと言わずに、一度見直していただければ幸いです。
 端的に言うと、史書の条支国は、当時地域大国であるアルメニア王国です。条支が接する大海はカスピ海であり、海西、海北、海東は、カスピ海周辺、しかも南部にとどまり、甘英の探査はせいぜい条支であり、地中海岸に一切近づいてないので、海を怖れたとは、後世課せられた濡れ衣、つまり冤罪です。甘英は、一世の英傑西域都護班超の副官であり、皇帝、都護から命を帯びていて、使命を放棄して帰任したとは、信じられないのです。

 「西戎伝」を読む限り、大秦は「安息に在り」とだけあって遂に位置不詳であり、諸記事の「莉軒」から、大安息内、それも、小安息付近と見られるのです。当方なりの憶測は、図の通りであり、説明は後のお楽しみです。

                                未完

新・私の本棚 「魏略西戎伝」条支大秦の新解釈 壱 導入篇  2/4

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□魚豢編纂「魏略西戎伝」(西戎伝)とは
 魚豢「魏略」は、陳寿「三国志」とほぼ同時代に編纂された史書であり、三国をほぼ並記した「三国志」と異なり、魏朝一代史であり、四百年にわたる漢を継いだ正統政権であるとして、呉、蜀を、反逆者としています。
 「魏略」は、暫時帝室書庫の所蔵書籍として厳格な写本継承が行われましたが、魏朝の正統性への評価が低下するにつれ、書庫外に押しやられ次第に散逸したようです。
 因みに、「西戎伝」とあえて銘打ったのは、班固「漢書」西域伝で、漢との交流、西域都護への帰属が表明されている西域諸国の「伝」に対して、それより西、漢の威光の及んでいない「西戎」の国情を初めて奏上するとの意であり、新来諸国が、漢を継承した曹魏の威光に服すれば、西域は西方に延びるという主旨と思われます。

*西戎伝の信頼性
 一般論として、魏略は大半が佚文であるため、信を置けないとの定評ですが、こと、「西戎伝」の評価は大変高いのです。魏志に補追された「西戎伝」は、劉宋史官裵松之が、当時帝室蔵書として管理されていた「魏略」善本を底本とてし、裵松之が責任を持った引用であり、「三国志」本文に遜色のない高い信頼性の評価をあるのです。もちろん、数カ所の明白な誤記と後年加筆らしい数行の不審記事はあるものの、全体として、大変正確な史料と見られるのです。

 因みに、二十世紀初頭にかけて中央アジア広域を探検したスウェン・ヘディン(スウェーデン)は、西戎伝を信頼すべき座右の書としたそうです。

*後漢書の虚報

 范曄「後漢書」西域伝は、「西戎伝」、ないしは、その原史料に基づく紀伝ですが、原史料の正確な要約でなく笵曄の常識と論理に基づく再構成が行われていて、特に、「大秦」関係記事は、明らかに誤伝となっています。特に、西域都護班超の副官にして安息訪問大使の甘英の大秦渡航断念事情は、根本的に虚偽記事であり、まことに不出来です。范曄と比較できる同時代史書として、袁宏「後漢紀」と魚豢「魏略」西戎伝が、今日まで継承されていなければ、笵曄の曲筆の是正ができなかったと思えば、正史といえども厳重な史料批判が必要という基本的な訓戒がわかるのです。
 いや、笵曄「後漢書」の紀伝部分は、先行諸家後漢書を参照していて、信頼できるのですが、西域伝は、他史料に基づく校訂が見えず、心許ないのであり、東夷伝は、他家後漢書に欠けている独自記事なので、不安です。

*大局的使命
 西域都護の副官甘英が、都護班超から承けた大局的な使命は、司馬遷「史記」大宛伝、班固「漢書」西域伝以来の西域探査であり、漢代は、安息、条支が西の極限ですから、それより西の世界は、未知の領域であり問題外だったのです。

 あくまで仮定の話ですが、甘英が、使命の安息、条支に至って、さらに西方の土地を耳にしたとしても、それは使命外ですから、仮に使命の延長線上の、いわば、拡張使命になり得ると考えても、その情報の信憑性を確認した上で、以後の対応については西域都護の指示を仰ぐ必要があったのです。

 班超が、仮にそのような上申を受けたとしても、甘英が更なる遠隔地に赴けば帰任が大幅に遅れ、使命報告が大幅に遅れることを大いに危惧したはずです。班超の使命は、西域の安寧確保ですから、成すべき事はその使命の成果を持ち帰り、本来の西域都護の任に就くことなのです。

*漢朝偉業の継承
 そもそも、班超が甘英に与えた使命は、西域にひろがる匈奴を駆逐する戦いを西方から支援する同盟者の発見と盟約の確立にあったのです。

 それは、かつて武帝が張騫に与えた使命でもあり、匈奴と角逐している当時と西域状勢は何ら変わっていないのです。当初、西域の覇権は、漢か匈奴かでしたが、後漢中期、かって張騫が交通を築いた大月氏後続である貴霜国が、西域都護に対し反抗を続けていて、洛陽の支援が乏しくなって西域都護が衰弱すれば、後漢の支配が崩壊する状態だったのです。班超は勇猛果敢で、諸国を睥睨していたが、引退の時が近づいていたので、低迷の相手を得て、後年の安定を期したかったのです。。

 従って、甘英は、中央アジア暑熱地帯を抜け、司馬遷「史記」大宛伝で初めて紹介された文明大国「安息」を訪ね、武帝時代以後途絶えていた交流を再構築し、低迷を提案したはずです。 それが、甘英の西域探査の端緒なのです。

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                             2019/10/27
*小安息国と安息帝国
 大宛伝に従い接触したのは、この地の守りを任されていた小安息国ですが、しばしば、イラン高原全体を支配する安息帝国と混同されたのです。
 混同と言っても、地方国と全帝国の勘違いは、それほど深刻なものではありません。小安息国は、帝国の東の守りを一任されていて、それは、東方との貿易の収益管理も含まれていたのです。商業立国の安息帝国では、国の大黒柱として強力な権限を委ねられていたのです。それは、小安息国が安息帝国創業の地として特権を有していたとも言えるのです。

*臣従あるいは同盟
 と言うことで、甘英は、小安息国の玄関に長期にわたって滞在し、締盟を図りましたが、当然、安息国は後漢への臣従は謝絶し、中央アジアの交易路に対する北方匈奴の侵略を後漢朝西域都護が阻止していることに対して感謝を示した程度に終わったようです。
 甘英が求めたのは、二萬人が常駐する安息国東方守護の軍事力の提供であり、それは謝絶されたのです。安息帝国は、小安息に東境防備のための大軍を常駐させていましたが、自ら中央アジアオアシス諸国を攻撃することはなかったのです。金の卵を生み続ける鶏は殺すなということです。


*安息査察
 次に、甘英は安息国内の査察を望んだはずですが、客人扱いとは言え、他国の軍人に国内通行を許すことはありません。従って、安息国内の取材はできなかったのです。勿論、高度に機密性のある内部情報である戸数、工数などは得られず、又、服属の際には提示される地図も得られなかったのです。服属国でない大国から取材できる情報は限られているのは常識ですから、この事態は不首尾などでは無かったのです。
 安息国は、貿易立国、商業立国ですから、使節厚遇の一環として一大見本市を催したのですが、甘英は軍人なので一覧表を取り次いだだけでした。
 その中では、安息国の近隣と思われる大秦国の物産が多彩ですが、既に、武帝時代に安息国の第一回遣使で特産物を紹介されていた莉軒の別名ということだけ意識に止めたのです。

*条支内偵
 さて、次に望んだと思われるのは、西の条支との接触ですが、安息国は、遠路であるから条支代表者を呼びつけることも、安全を保証できない条支国への行程を紹介することも控えたようです。
 とは言え、甘英の報告には、「海西」の国情が詳しく書かれていて不思議です。安息国が近隣国の国情を紹介するにしては詳しいし、安息国に不利なことも書かれていますから、これは、密かに条支に取材したと思われるのです。概念図には、甘英が、帰途、条支に向かったと見て、条支往還経路を推定してあります。憶測ですが、さほどの道草にはならないのです。
 但し、友好関係を築こうとしている相手に隠密の内偵を悟られてはならないので、婉曲な紹介記事になったと見るのです。


*大秦造影の怪
 その結果、後世史家は西戎伝各国記事の進行を見損なっているのです。
 そして、甘英が大して気にとめなかった大秦が、後世史家の創作により、まぼろしの西方大国として注目され、ついには、パルティアの大敵と見なす暴論まで台頭したのです。その端緒が、西戎伝に魚豢が注釈した数行ですが、「イリュージョン」に最も貢献したのは、范曄です。
 つまり、笵曄「後漢書」は、司馬遷「史記」、班固「漢書」と並ぶ、「三史」なる正史の最高峰となったので、影響力は絶大で、「三国志」は、言わば脇士となったので、その責任は重いのです。

                              未完

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                             2019/10/27 2022/11/13
□誤釈の起源 Origin of Speculation
 魚豢は、漢書「西域伝」安息伝の「二枚舌」を解釈できず、安息国が、数千里にわたる超大国と「誤解」したため、安息国西界、つまり、西の果ての向こうにある条支国は、メソポタミアに王都が存在する安息の西方と誤解したようです。「大秦は、既知の莉軒であって大安息内部、小安息近傍」との端的な行文を誤解釈し、余計な何ヵ月という海上所要日数を書き足したのです。
 そのため、条支、安息並記と読んで「大海」地中海の西の「海西」と見て文を閉じ、直後に開始の海西記事が大秦記事と誤解され、さらに沢山の誤解を誘発したのです。何のことはない、条支は、大海、実はカスピ海のすぐ向こう岸であり、条支の向こうは(直に見えない)黒海だったのです。

*本当の条支探査
 本来の条支行きは、当然、カスピ海の船での移動でしょう。いくら軍人でも、虎や獅子は避け、難なく便船で渡海したはずです。因みに、条支は海西にあって、大海カスピ越しに手に入れた小安息国物資を、大海「アゾフ海」、「黒海」経由で、船荷として地中海に流し、あるいは、陸路流通して、巨利を得ていたようです。黒海南岸には、かつて、ギリシャと競合したトロイアが栄えていたので、黒海経由の東西貿易は、シルクロードなどとしゃれた呼び方が生じる前から、大いに繁栄していたのです。

*使命の達成報告 Mission Complete
 それはさておき、条支国の国情を見定め、今後の交情を約したことにより、甘英は、所記の使命を達成し班超西域都護に向かって東に帰ったのです。
 当然、甘英は、堂々たる文書をもって班超に復命し、班超は、それを嘉納すると共に、洛陽の皇帝に報告文書を届けたので、文書は皇帝のもとに届いたのです。不首尾の報告まであれば、班超は譴責を承けたでしょうが、そのような記録は残っていないのです。いや、記録はなくても、班超は顕彰され西域都護の任にとどまったから、甘英の使命達成は確実なのです。

□総括
 甘英の帰任後、老いた班超は、多年の西域の激務から退任して後漢の西域経営は活力を失い、皇帝の代替わりもあって急速に退潮し、西域は匈奴の意のままになったのです。但し、匈奴は、長年の漢との衝突の多大な被害により単于独裁が崩れ、西域諸国への圧政は一時緩和されたようです。
 と言うことで、甘英は、断じて使命放棄などしていないのです。
 冤罪を報じた報いとして、范曄は史家としての不名誉を承けるべきです。
 ここは、導入篇、序論ですから、要点だけにとどまるのです。

□西戎伝道里記事の語法について
 随分手間取りましたが、魚豢が認めた用字は、概ね以下のようです。同時代の同趣旨記事ですから、特段の重みのある用例です。
 「従」は、書かれている地点から「直行」という意味です。
 「循」は、海岸線と直交する方向を言います。
 「去」は、続く地点から逆戻りすることを言います。(方角が逆転します)
 「復」は、道里の直前起点に戻ることを言います。
 「真」は、特に厳密な四分方位を言います。
 「転」は、概して直角に進路を変えることを言います。
 「歴」は、当該国の王治に公式に立ち寄ることを言います。
 「撓」は、地形に従い円弧状の経路を行くことを言います。
 「陸道」「陸行」は、人畜を労して、陸上を行くことを言います。「陸」は、平地を意味し、宿駅のある街道が整備され、騎馬移動や車輌搬送ができるのです。
 「水道」「水行」は、人畜を労せずして、河水面を行くことを言います。
 「浮」は、本来、小舟や筏で水面を移動することを言います。
 「乗船」は、便船に乗ることを言います。
 「大海」は、外洋でなく、塩水を湛えた閉水面を言います。                          
                             導入篇 完

2021年4月23日 (金)

新・私の本棚 番外 NHK特集「シルクロード第2部」第十五集~キャラバンは西へ~ 余談

                           2021/02/03
〇NHKによる番組紹介
 NHK特集「シルクロード第2部」、第十五集は「キャラバンは西へ~再現・古代隊商の旅~」。内戦前だったシリアの人々の暮らしや世界遺産・パルミラ遺跡を紹介する。

古代の隊商はどのようにして砂漠を旅したのか。 隊商都市のパルミラまで、約200kmの道のりを、ラクダのキャラバンを組織し、古代人そのままの旅を再現する。いまは激しい内戦下にあるシリア。80年代、取材当時の人々の暮らしや、破壊された世界遺産・パルミラ遺跡の在りし日の姿がよみがえる。

〇中国世界の西の果て
 この回は、中国両漢代、つまり、漢書と後漢書の西域伝の限界を超えているので、本来、注文を付ける筋合いはないのだが、シリアの探査で、何の気なしに後漢甘英を取り上げているので、異議を唱える。

 つまり、後漢書に范曄が書いた「甘英は、西の果ての海辺で、前途遼遠を怖れて引き返した」との挿話を引いて、地中海岸かペルシャ湾岸か不明というものの、どうも、取材班は、目指す地中海岸を見ているようである。

 しかし、ここまで踏破してきた旅程を思えば、後漢代に、安息国との国交を求めた甘英が、既にメルブで使命を達成していながら、これほどの苛酷な長途を旅したとは思えなかったはずである。まして、当時、この行程は、西のローマとの紛争下、大安息国、パルティアの厳戒下にあり、地中海岸に達する前に、王都クテシフォンで国王に拝謁した記録すらないのに、王都を越えて敵地である地中海岸に達したはずがない。

*笵曄の誤報~幻想の始まり
 そもそも、後漢書で笵曄は、漢使は、安息国すら尋ねてないとの見解で、それは誤解としても、数千里彼方まで行ったとの誤解は、なぜなのだろうか。
 現代人の眼で見ても、安息国東部辺境メルブの西域は、北に延びた「大海」カスピ海とその西岸、「海西」と呼ばれた條支(アルメニア)止まりである。

 後漢書の西域世界像を描いた笵曄は、一旦、小安息の隣国條支の世界観を描きながら、なぜか、数千里に及ぶ大安息国の隣国として、遠国の條支(ローマ属領シリア)と西の海(地中海)を見てしまったのではないだろうか。

 さながら、砂漠の果ての蜃気楼に甘英の道の果てを見たようである。笵曄は、後漢書西域伝の名を借りて、事実に反する一大ファンタジーを描いたのだが、以後、今日に至るまで、不朽の傑作として信奉されているのである。

*甘英英傑談~孤独な私見
 以上は、世界の定説に背く孤独な令和新説だから、NHKの番組制作者が知らなくて当然だが、取材班が、後漢人甘英の足跡を辿っているように感じたとき、一切記録がないことに感慨はなかったのかと思うだけである。

 甘英は、漢武帝代に交渉がありながら、長年、接触が絶えていた西方万里の大国安息国との盟約を再現した功労者なのである。
 当ブログ筆者は、甘英の偉業を笵曄が創作で練り固めたために、偉業として正当に評価されないことに不満で、ここに書き遺すものである。

〇まとめ
 言うまでもなく、当シリーズは、NHKの不朽の偉業であり、以上は、それこそ、天上の満月を取ってこいと命ずるものだが、僭越にも不満を記したのである。

                                以上

新・私の本棚 番外 NHK特集「シルクロード第2部」第十三集~知られざる東西交流の歴史 雑感追記 3/3

                     2021/02/02 2021/04/23

*幻の范曄原本
 先に挙げた、後漢書夷蕃列傳は「笵曄の誤解に基づく勝手な作文」満載なる私見は、魚豢が後漢朝公文書を直視した記述と笵曄が魏略を下敷きに潤色した記述とを対比して得た意見であり、先賢の評言にも見られる「定説」です。

 編者范曄が、重罪を得て嫡子共々処刑され家が断絶したため、范曄「後漢書」遺稿が、著作として決定稿であったかどうか、確実に知ることができません。陳寿「三国志」は、陳寿の手で最終稿まで仕上げられていて、没後、西晋朝の官人が、一括写本の手配を行ったことが記録されています。いわば、三国史の陳寿原本、と言うか、確定稿を、数人ならぬ数多くの関係者や読者が、つぶさに確認しているのです。

 これに対して、范曄後漢書は、いつ、誰が、遺稿を整えたのか不明です。隋唐統一以前、数世紀にわたる南北朝乱世をどのように写本、継承され、唐代に正史に列することになったのか、不明の点が多いのです。従って、范曄原本が存在したのか、関係者が体裁を整えたものなのかすらわからないのです。その意味で言うと、後漢時、范曄原本は、誰も知らないのです。

 このような事態は、史上最高の文筆家を自認したであろう范曄には大変残念な結果と思います。

*袁宏「後漢紀」西域条
 袁宏「後漢紀」は、百巻を超えて重厚な漢書、後漢書と異なり、皇帝本紀主体に三十巻にまとめた、言うならば準正史です。正史でないため、厳格な継承がされず、誤字が目立ちますが、佚文ならぬ善本が継承されています。

 列伝を持たないため、「西域伝」は存在しませんが、本紀に、西域都護班超の功績を伝える記事が残されていて、甘英派遣の成果も残されています。つまり、後漢紀は、西域伝や東夷伝を本紀内に収容したと言えます。

 魚豢「西戎伝」に続き、范曄「後漢書」西域伝の先駆となる小「班超伝」ですが、范曄が遺したおとぎ話は見えません。范曄が、魚豢に続いて、袁宏まで無視した意図は、後世人には知る由もありません。

 范曄は、「後漢書」編纂に際して、諸家の後漢書稿を換骨奪胎したと言いますが、史書として、最も参考になったのは「後漢紀」と思われるので、いわば笵曄の手口を知る手がかりとなるものもあります。

*余談の果て
 と言うことで、番組紀行がメルブを辿ったことから、種々触発された余談であり、これほど現地取材するのであれば、両漢紀の西域探査の果てという見方で、掘り下げていただければ良かったと思うのです。

 また、共和制末期、帝政初期のローマとパルティアの角逐、と言うか、ローマの侵略欲を紹介していただければ、いらぬ幻想は影を潜めていたものと思うのです。

*再取材の希望
 と言うことで、メルブは、仏教布教の西の果てという意義も重要ですが、東西に連なる三大文明世界の接点との見方も紹介して欲しかったものです。
 いや、遠い過去のことはさておき、再訪、再取材に値すると思うのです。西方は、ローマ史に造詣の深い塩野七生氏の役所(やくどころ)に思うのですが、東方は、寡聞にして、陳舜臣氏を継ぐ方に思い至らないのです。

*参考書
 塩野七生 「ローマ人の物語」 三頭政治、カエサル、アウグストゥス、そして ネロ
 司馬遷 史記「大宛伝」、班固 漢書「西域伝」、范曄 後漢書「西域伝」、魚豢「西戎伝」、袁宏「後漢紀」
 白鳥庫吉 全集「西域」
                               以上

新・私の本棚 番外 NHK特集「シルクロード第2部」第十三集~知られざる東西交流の歴史 雑感追記 2/3

                     2021/02/02 2021/04/23
*ローマ・パルティア戦記
 因みに、敗戦には必ず復仇するローマで、三頭政治末期の内戦を制して最高指揮官の地位に就いたカエサルは、パルティア遠征を企てたが暗殺に倒れ、カエサル没後の内乱期、エジプトを支配したアントニウスは、カエサル遺命として、前36年にエジプト軍と共にパルティア遠征したが敗退しています。
 アウグストゥス帝の前21年、本格的な講和が成立し捕虜返還を交渉しましたが、その間30年を要したため、捕虜は、全て世を去っていたといいます。余談ですが、初代皇帝アウグストゥスは、中国の秦始皇帝と大きく異なり、元老院の支持のもと密やかにローマの共和制に終止符を打ちましたが、表向きは、元老院の首席議員の立場にとどまり、専制君主を名乗らなかったのです。

*シリア準州駐屯軍
 ローマ-パルティア間に講和が成立しても、ローマ側では、共和制時代から維持してきたメソポタミア侵略の意図は堅持され、ローマ属州のシリアに総督を置き、四万人を常駐させたのです。

*あり得ない漢使シリア訪問~余談
 范曄は、『後漢使甘英が安息の「遙か西方の條支」まで足を伸ばした』と「創作」したので、「條支」を「シリア」(現在のレバノンか)と見る解釈がありますが、街道整備のパルティアの国土を縦走する行程は、延延百日を要する遠路であり、異国軍人のそのような長途偵察行が許されるはずはなく、まして、その果てに敵国との接触は論外でした。

 いくら、「安息」の名に恥じない専守防衛の国であって、常備軍を廃していても、侵略を撃退する軍備を擁していたのです。

 甘英の本来の使命は、安息国との締盟であって、援軍派兵を断られた以上、往復半年はかかる探査行など論外と見るべきです。西の王都まで数千里の長途であることは、武帝使節の報告で知られていたのです。
 いや、もし、実際に君命を奉じて、(范曄が安息西方と見た)厖大な日数と資金を費やして「條支」まで足を伸ばしたのなら、いかなる困難に直面しても、君命を果たすしかなかったのです。西域と塗膜の副官たる軍人甘英が、使命を果たさずに逃げ帰ったら、そのような副官に使命を与えた上官班超共々、軍律に従い厳しく処断されるのですが、そのような記録は一切残っていません。笵曄は、文官であったため、軍律の厳しさを知らなかったのでしょうが、それにしても、西域都護副官を臆病者呼ばわりするのは、非常識そのものです。
 因みに、班超は、勇猛果敢な軍人ですが、漢書を編纂した班固の実弟であり、文官として育てられたので、教養豊かな文筆家/蔵書家であり、笵曄は、そのような偉材に喧嘩をふっかけたことになるのです。
 いや、当ブログ筆者の意見では、條支は、途方もない西方の霞の彼方などではなく、甘英の視界にある巨大な塩水湖、大海(カスピ海)のほんの向こう岸と信じているので、范曄の意見は、誤解の積み重ねに無理筋を通した暴論に過ぎないのですが、なぜか、范曄の著書は俗耳に訴えるので、筋の通った正論に耳を貸す人はいないのです。

 いや、またもや、長々と余談でした。

*東西交流の接点
 と言うことで、メルブは、「ジュリアス・シーザー」が象徴する西のローマと「武帝」が象徴する東の漢の接点になったのです。さすがに、時代のずれもあって、東西両雄が剣を交えることはなく、「安息長老」(おそらく、当方安息国の国主)が、漢人の知りたがる西の果ての世界に関してローマの風聞を提供したように見えます。

*西域都護班超と班固「漢書」
 改めて言う事もない推測ですが、甘英の西域探査行の詳細にわたる報告は、西域都護班超のもとから、後漢帝都の洛陽にもたらされたものと思われます。また、先に触れたように、班超は漢書を編纂した班固の実弟であり、当然、漢書西域伝の内容は、班超のもとに届いたと思われます。つまり、漢書西域伝は班超座右の書であり、西域都護にとって無駄な探査行など意図しなかったと見ます。

 恐らく、都督府の壁には「西域圖」なる絵図を掲げていたでしょう。(魚豢西戎伝が「西域旧圖」に言及しています)

*范曄「後漢書」の「残念」~余談/私見
 西域探査功労者甘英は、笵曄に「安息にすら行っていないのにホラ話を書いた」と非難され「條支海岸まで行きながら怖じ気づいて引き返した」と軍人として刑死に値する汚名を被っていますが「後漢紀」に依れば、班超が臨んだ「西海」は、メルブにほど近い「大海」、塩水湖「裏海」です。
 よって、魚豢「魏略西戎伝」でも明らかなように、甘英の長途征西は、笵曄の作文と見ます。

 因みに、魚豢「魏略」は、諸史料所引の佚文が大半であるため、信用されない傾向があるのですが、「魏略西戎伝」は、范曄同時代の裴松之が「三国志」に全篇追加したので、三国志本文と同様に確実に継承され、紹熙本/紹興本も、当然、その全容を伝えているので、今日でも、容易に読むことができます。(筑摩書房刊の正史「三国史」にも、当然、全文が翻訳収録されています)

*笵曄の限界と突破
 魚豢、陳寿は、曹魏、西晋で、後漢以来の帝都洛陽の公文書資料の山に接する権限がありましたが、笵曄は、西晋が崩壊した後の江南亡命政権東晋の官僚だったので、参照できたのは「諸家後漢書」など伝聞記事だったのです。諸家後漢書の中で出色の袁宏後漢紀は、ほぼ完本が継承されているので、容易に全文に触れることができ、部分訳とは言え、日本語訳も刊行されています。

                               未完

新・私の本棚 番外 NHK特集「シルクロード第2部」第十三集~知られざる東西交流の歴史 雑感追記 1/3

                     2021/02/02 2021/04/23
〇NHKによる番組紹介
 NHK特集「シルクロード第2部」、第十三集は「灼(しゃく)熱・黒砂漠~さいはての仏を求めて~」。旅人が歩いた道の中で最も過酷なルート、カラクム砂漠を踏破する。
 シルクロードの旅人が歩いた道の中で最も過酷なルート、カラクム砂漠。何人も生きて越えることができないと言われた死の砂漠である。取材班はその道をトルクメンの人々の案内で踏破、チムール時代の壮大な仏教遺跡が残るメルブまでを紹介する。

〇待望の再放送~余談の山
 滅多にお目にかかれないメルブ(Merv)を見たのは貴重でしたが、漢代以来、東西を繋いだメルブの意義が見逃されているのは残念です。

 メルブは、漢書「西域伝」、後漢書「西域伝」で「西域」つまり漢の世界の西の果ての大国として紹介された「安息国」の国境要塞でした。

 そのため、漢武帝使節と後漢西域都護班超の副官甘英の97年の探検行が、西方では「パルティア」と呼ばれた「安息国」国境要塞メルブを、訪問行の西の果てとしたことの意義が見過ごされています。

 大「パルティア」首都、遙か西方メソポタミアの「王都」クテシフォンに、(強暴な)武人である漢使が詣でて、大「パルティア」国王に謁見することは論外でした。

 そのため、両代漢使はメルブで小安息国長老と会見し使命を果たしました。国都に参上せず国王に謁見しなくても、漢使の任務を果たしたのです。

 倭人伝解釈に於いて、随分参考になる前例です。

*メルブの意義
 当時、イラン高原を統轄していた大「パルティア」は、東西交易の利益を独占して当時世界一の繁栄を得ていましたが、その発祥の地でもあるメルブ(Merv)地域を最重要拠点として守備兵二万を常駐させていたのです。

 東方から急襲した大月氏騎馬戦力の猛攻により、国王親征部隊が壊滅して国王が戦死した前例があり、以後、大兵力を固定して、東方の蛮族(大月氏)の速攻に臨戦態勢で備えていたのですが、漢書「陳湯伝」で知られる匈奴郅支単于の西方侵攻のように、月氏事件は、空前でもなければ絶後でもなかったのです。

*西方捕虜到来
 因みに、大「パルティア」は、西方のメソポタミア地方では、ローマ軍の侵入に対応していて、共和制末期の三頭政治時代、シリア属州提督の地位にあった巨頭クラッスス(マルクス・リキニウス・クラッスス)の率いる四万の侵入軍を大破して一万人を超える捕虜を得て、「パルティア」は、一万の捕虜を東方国境防備に当てたとされています。(前54年)
 降伏した職業軍人は、遠からず両国和平の際に和平時に身代金と交換で送還されると信じて、数ヵ月の移動に甘んじたのです。ローマ側としては、生き残った万余の兵士を無事帰国させるために、司令官を引き渡し、捕虜をいわば人質として提供したしたものです。

 欧州側では、「東北国境」と云うことで、寒冷地を想定したようですが、メルブは、むしろ温暖なオアシスであり、何しろ、凶悪な敵を食い止める使命を課せられていて、それなりの処遇を得ていたはずです。この時、一万人の捕虜を得たおかげで、一万人の守備兵を帰宅させたので、地域社会(パルティア発祥の地)に、大きな恩恵を与えたのです。

 なお、ローマ正規軍には、ローマの中級市民兵士や巨頭ガイウス・ユリウス・カエサル(シーザー)が援軍としたガリア管区の兵士も含まれていたから、一時、メルブには、土木技術を有し、ギリシャ語に通じた教養のあるローマ人が住んでいたことになります。恐らく、両国軍人の会話は、ギリシャ語で進められたはずです。いや、まだ、アレキサンドロスか率いたギリシャ語圏の兵士や商人がいたかも知れません。
 また、漢書西域伝に依れば、安息国人は、比較に横書きで文字を書き付けていたようですから、共に、文明人だったのです。

                                未完

2021年4月15日 (木)

新・私の本棚 番外 NHK特集「シルクロード第2部」第十四集~コーカサスを越えて~ 雑感追記 3/3

               2021/02/03   追記 2021/04/15 補足 2021/11/26
閑話休題

○ローマ金貨の行方
 オアシス諸国だって「巨利」では負けてなかったはずで、二倍、三倍と重ねていたとすると、消費地ローマでの「価格」は、原産地中国の「原価」の一千倍でも不思議はありません。(世界共通通貨はなかったから、確認のしようはないのですが)

 西の大国ローマは、富豪達の絹織物「爆買い」で、金貨の流出、枯渇を怖れたようですが、厖大なローマ金貨は、パルティア、ペルシャを筆頭に行程途中の諸国、諸勢力の金庫に消え、原産地に届いていません。

 行程諸国が、山賊、掠奪国家の暴威も、死の砂漠もものともせず、東西交易を続けたわけです。何しろ、原産地と消費地が交易の鎖で繋がっていたから、さながら川の流れのように、ローマの富が絶えることなく、東に広く流れ下ったのです。

 ローマ帝国は、後年、積年の復讐として、投石機などの強力な攻城兵器を擁した大軍で、メソボタミアに侵攻し、パルティア王城クテシフォンを破壊し国庫を掠奪して、度重なる敗戦の「憂さ晴らし」としたのです。

 勝ち誇るローマ軍は、意気揚々と、当時の全世界最大と思える財宝を担いで凱旋し、一方、権力の源泉である財宝を失ったパルティア王家は、東方から興隆したペルシャ勢力に王都を追い出されて、東方の安息国に引き下がったのです。

 ローマは、地中海近くのナバテア王国を圧迫したときは、砂漠に浮かぶオアシス拠点、ペトラの「暴利」を我が物にするために「対抗する商都」を設けてペトラ経由の交通を遮断し、その財源を枯渇させましたが、イラン高原全土に諸公国を組織化していたパルティアの場合は、さすがに、代替国家を設けることはできず、また、いわば、黄金の卵を産み続ける鵞鳥は殺さず、太った鵞鳥を痛い目に遭わせるのにとどめたのです。

 ローマ帝国は、賢明にも、古代帝国アケメネス朝ペルシャを粉砕して、東西交易の利を確保しようとしなかったアレキサンドロスの「快刀乱麻」は踏襲しなかったのです。結局、ペルシャ全土に緻密に構築された「集金機構」を壊しただけで、ギリシャ/マケドニア本位に組み替える事もせず、大王の死によって武力の奔流が絶えた後は、ペルシャ後継国家が台頭しただけであり、要は、鵞鳥が代替わりしただけでした。

○まとめ
 シルクロードは、巨大な「ビジネスモデル」です。

*補足
 以上の記事の主旨を理解いただいていない読者があるようなので、若干補足します。
 
 まず、NHK特集「シルクロード第2部」は、大昔の番組ですが、最近再放送があったので、目にする方が多いと見て、注釈を加えたのです。
 「再放送」は、デジタル時代にあわせて、リマスターされたものの、内容は初回放送当時そのままであり、それ以来の時間経過を含めて、批判しておくべきと考えたものです。
 また、この地帯の再度の取材による「新シルクロード」が制作されていますが、当然、ここで展開された歴史観は踏襲されていて、依然として、大変大きな影響力を示しているので、その意味でも批判が必要と見たのです。

*第2部の偏倚
 一番、不満なのは、第1部が、中国史料と中国現地取材が結びついた堅実な時代考証に基づいていたのに対して、第2部は、ロシア、中央アジア系と思われる西寄りの史料に傾倒していて、中国史料を棄てている点です。それが、特に顕著なのは、漢書、後漢書などに見られる「安息国」及びそれ以西の世界に関する考察が無い点であり、大変不満に思えるのです。

 つまり、漢代中国史料の西域記事は、当時の中原から想像した、西の果てにある世界でさらにその西を見たおとぎ話が多く、あちこちに茶番めいた失態がありますが、この場で、それらの突き合わせをする事で、「ローマと漢を結んだ」「シルクロード」交易なる歴史浪漫の幻像が是正されると見たのですが、未だに満たされていないのです。

 また、先立つ回で無造作に描写されているマーブ要塞が、漢代、パルティア王国の東の守りであり、2万の守備兵に、一時、1万のローマ兵捕虜が加わっていたという興味ある挿話に触れていないのは、大変、大変勿体ないのです。
 また、兵士を主体に百人を要したと思われる漢の使節団が到達した「安息」は、安息国の西の王都でも無ければ、地域の居城であるカスビ海岸の旧都でもなく、マーブ要塞だったという事も、取り上げる価値があったと思うのです。突然切り捨てられた中国史料の視点が、大変残念なのです。

 確かに、当番組は、東西交易を隊商の駱駝の列が往来していたサラセン時代以降を主眼としているように見えますが、かたや、漢代シルクロード浪漫を言い立てているので、不満が募るのです。

                                以上

新・私の本棚 番外 NHK特集「シルクロード第2部」第十四集~コーカサスを越えて~ 雑感追記 2/3

               2021/02/03   追記 2021/04/15

*「條支」という国~私見連投
 「條支」は字義から「分水嶺、分岐路を占めた大国」との趣旨のようですが、地理上、北は峻嶺コーカサス山地が遮断し、南は強力なパルティアやペルシャが台頭して国境越えの交易を管制していたでしょうから、東西交易に専念した街道だったようです。パルティア時代、表立って漢と交際できなかったが、「安息は、買値の十倍で売って巨利を博している」との風聞が記録されています。こうした貴重な現地情報を残した甘英を顕彰したいものです。

 なお、「條支」も、当然、東西貿易独占で巨利を博したから、コーカサスを越える往来希な山道の密貿易も横行したようですが、あくまで、脇道です。「條支」が巨利を博したからこそ、抜け道の危険は十分報われたのです。

 当番組は、南道と見えるイラン高原経由をシルクロード本道と見て、中南道とでも言うべき、裏海~黒海道、「條支」経由を軽視したように見えます。確かに、アゼルバイジャン、アルメニア、グルジア(現ジョージア)の各地で取材はされていますが、それが、「シルクロード」の有力な支流だったとの説明は無いように思います。

 取材された事例が、後漢代から、五百年から一千年過ぎた時代の話ですから、研究者の時代感覚が違うのかも知れませんが、太古以来、商材は変わっても、有力な脇道であった事情に変わりはないのではないかと思うのです。高名な「トロイア」は、この東西交易の黒海下流で、巨利を博していたかも知れないと思うのです。もちろん、ここで述べられた歴史観は、多分、取材班が、地域の旧ソ連圏の研究者から学んだものでしょうが、中国西域としての視点が欠けているのは、何とも、残念です。

○白鳥西域史学の金字塔
 何しろ、中国側には、漢書、後漢書の盛時以降、魏代の閉塞も、北魏、北周の北朝時代に回復し、隋唐の西域進出に繋がる豊富な史料が、正史列伝に継承されていて、世界初の西域史学の創設者と言える白鳥庫吉(K. Shiratori)氏が、これら全ての西域伝を読み尽くして、労作を残しているので、欧州研究者は、まず、白鳥氏の著作を学び、次いで、原典である諸正史を学んでいます。

○魏略西戎伝の金字塔
 特に、「魏略西戎伝」は、それ自体正史ではありませんが、正史「三国志」に綴じ込まれているので、正史なみに適確に継承され、スヴェン・へディンなどの中央アジア探検行の最高の指南書とされています。それにしても、NHKが、「シルクロード」特集を重ねても、一貫して中国史料を敬遠しているのは、不可解です。

○「後生」笵曄の苦悩
 因みに、范曄は、後生の得で、袁宏「後漢紀」の本紀に挿入された西域都護班超に関わる記事と魚豢「魏略西戎伝」の大半を占める後漢代記事とを土台にして、後漢書「西域伝」をまとめ上げたのです。つまり、魏代以来、中国王朝は、西域とほぼ断交していて、魏晋朝と言うものの、西晋崩壊の際に洛陽の帝国書庫所蔵の公文書が壊滅したため、南朝劉宋高官であった笵曄は、西域伝の原史料は得られず、代々の史官ならぬ文筆家の余技であったので自家史料も乏しかったのです。

 そのため、笵曄は、魏略「西戎伝」後漢代記事の転用に際して、知識不足で史料の理解に苦しみましたが、建康に在って西域の事情を知るすべはなく、結局素人くさい誤読・誤解のあげくに、創作(虚構)の目立つ「西域伝」を書き上げた例が幾つか見られ、史料としての評価は随分落ちるのです。

 

                                未完

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