西域伝の新展開

正史西域伝解釈での誤解を是正するものです。恐らく、世界初の丁寧な解釈です。

2024年2月26日 (月)

新・私の本棚 古田 武彦 「俾彌呼」 西域解釈への疑問 1/3

 ミネルヴァ日本評伝撰 ミネルヴァ書房 2011/9刊行   初出 2020/04/10 補充 2020/06/23 2024/02/26
 私の見立て ★★★★★ 豊穣の海、啓発の嶺

〇はじめに
 以下は、古代史における不朽の名著の裳裾の解れを言い立てているに過ぎません。多年に亘り広範な史料を渉猟し、雄大な構想のもとに展開された歴史観ですから、一介の素人は、その一部すら考証する力を有さず、たまたま、氏の学識の辺境に、思い違いを見つけて指摘するだけです。
 本記事は、単に、氏が陳寿の東夷観の由来と見た漢書西域観の勘違いを言うものです。

 いうまでもないと思いますが、巨大な山塊に蟻の穴があっても、山塊の堅固さに何の影響も無いように、ここに挙げた「突っ込み」は、氏の名著の価値をいささかも減じるものではありません。

 「余談」としたのは、氏の見解に関係しない勝手な余談論議です。

〇漢書西域観
 後漢の史官班固が編纂した漢書は、「西域伝」を設けて、高祖から王莽に至る歴代の西域交渉を、国別に、いわば小伝を立て、主要国については、小伝内に年代記として描いています。漢書「西域伝」の書法は、陳寿「三国志」のお手本であり、後世人も、大いに学ぶところがあるのは、言うまでもありません。

〇「東夷伝」序文考
 氏は、「東夷伝」序文を引用したあと、漢書「西域伝」の言として、「安息国長老」の言を漢書から引用しています。しかし、「東夷伝」序文に、魏代事績として再々奉献と列記された西域大国に「安息」の名はありません。ちぐはぐです。

 序文を少し戻ると、武帝が張騫を西域に派遣した結果、西域諸国との交通が開き、各国に百人規模の使節団を派遣して、服属ないしは通交を求めたため、得られた各国情報が漢書に記されたとしています。よくよく考えると、漢書に魏代記事があるはずは無く、陳寿の知識がどこから来たものか、一瞬戸惑います。東夷伝を見ると、当時、後漢代史官記録は、いまだ公式集成されていなかったと見えます。そんな状況で、「東夷伝」序文の出典として注目されるのが、末尾の魚豢「魏略」西戎伝です。
 劉宋史官裴松之が、陳寿「魏志」に全文を補注したのでわかるように、魚豢「魏略」は公式史書に準ずる権威が認められ、陳寿も、序文を書くに際して参照したと見られるのです。

〇印綬下賜談義 余談
 「通典」収録の漢代記録によると、漢朝は、反匈奴勢力拡大のためか、来朝使節の低位者にも印綬を下賜したと言います。ということは、漢朝を再興した後漢朝が、地域を代表する大国以外に、付随する小国にまで印綬を下賜した可能性はあり、その後継たる魏朝も、闊達に下賜したようです。
 というものの、陳寿が、「東夷伝」序文に挙げた魏代西域交流が事実なら、魏志特筆の大月氏への黄金印下賜は場違いです。漢武帝時代以来欠かさず遣使していたお馴染みが、長年ご無沙汰(絶)としていた後、忽然と洛陽に顔を出したのなら、本来過度の厚遇は不要です。

 総合すると、実は、序文記事は、史官として苦心の粉飾で、桓・霊以来、西域との音信不通、交通遮断の魏朝にとって、この来訪は干天慈雨だったのでしょうか。としても、さすがの陳寿も、この一件だけでは、魏志「西域伝」の書きようがなかったのでしょう。

*金か「金」か 余談
 多発されたのが、黄金の金印か青銅印か不明ですが、大半は、太古以来「金」と呼ばれていた青銅でしょう。皇帝付きの尚方工房は、大物も交えた精巧な青銅器を日々鋳造していたから、印面はともかく、四角四面の角棒に紐飾程度の作品は、茶飯事でしょう。材料は倉庫に山積みだったでしょうし。
 それはさておき、「陳寿は漢書を意識した」の段落には、これまで取り上げられなかった、魏略「西戎伝」の影響の再評価が必要です。何しろ、魏志「夷蕃伝」に対する裴松之付注、「裴注」の主力を成しているのですから。

                                未完

新・私の本棚 古田 武彦 「俾彌呼」 西域解釈への疑問 2/3

 ミネルヴァ日本評伝撰 ミネルヴァ書房 2011/9刊行     初出 2020/04/10 補充 2020/06/23 2024/02/26

〇安息の国「パルティア」にまつわる誤解
 先ず第一には、古田氏が、安息国を「ペルシャ」と解しているのは誤解です。「ペルシャ」は、太古以来、今日に至るまで、イラン高原のペルシャ湾岸沿い高地の一地域です。当該地域の政権が興隆して、イラン高原全体を支配したのは、古代のアケメネス朝と後世のササン朝の二度に亘っていて、それぞれ、メソポタミアからエジプトにまで勢力を広げ、東地中海にまで進出したこともあって、ギリシャ、ローマの史書に名を残していますが、安息国(パルティア)は、それとは別の地域から興隆し、一時、地域を支配した王国なのです。ペルシャなどもっての外です。
 ちなみに、中東アラブ諸国では、「ペルシャ湾」と言う事はありません。同様に、「トルココーヒー」も禁句です。現地に出向かれるときは、大事なところで口走らないように、口に巾着を掛ける必要があります。
 それはさておき、安息国、パルティアは、たしかに、西は、メソポタミアを包含して、広くイラン高原全域を支配し、後年「シルクロード」と呼ばれるようになった東西交易の要路を頑固に占拠し、交易の利益の大半を得ていたのです。
 其の国都「クテシフォン」は、大「王国」西端のメソポタミアにありましたが、漢使が五千里の彼方の国都に赴いたはずは無く、安息国内情報を取材したのは、全て、カスピ海東岸の「安息」の周辺だったのです。

 パルティアは、この地の小国(班固「漢書」西域伝で紹介され、范曄「後漢書」西域伝の言う「小安息」)から起こって、イラン高原を西に展開し、アレキサンドロスが宏大なアケメネス朝ペルシァを破壊した後、早々に没した後に、旧帝国の中心部を支配した「セレウコス」朝王国が、西方での共和政ローマの将軍ポンペイウスによって指揮された大軍の侵攻で大敗したのを受けて、同国を駆逐して、イラン高原全域を支配しましたが、西の王都クテシフォンは、バグダード付近にあったのです。当然、「安息」(パルティア)と称していたと共に、発祥の地である旧邦も引き続き「安息」(パルティア)としていたのです。

 東西両地域間には、北のメディア、南のペルシャの地方勢力の支配した地域が介在しましたが、安息(パルティア)は、中央集権で圧政を敷いていたわけではないのです。このあたり、漢/後漢は、しばしば混同していたし、西のローマは、帝制紀に入ってしばしば侵入してきましたが、こちらは、東方辺境の小安息のことなど、とんとご存じなかったのです。

*小安国の世界観 余談
 漢使の取材に応じた安息の長老は、うるさく言うと小国安息の代表者/国主であり、その世界観は、地域的なものだったのです。従って、ここで言う「西海」は、目前の「大海」、カスピ海であり、條支は、その西岸の大国、「海西」だったのですが、して見ると、そこに到るのに、「大海」を百日航海するというのは、何らかの錯誤でしょう。西戎伝で見る限り、安息西境から條支国都まで、十日とかからなかったようです。

 この際、中国から見た西域の地理認識を是正すると、古代史書に表れる「大海」は、今日想定されるような「海洋」などではなく、辺境に広がる塩水湖であったようです。最初は、ロプノールを、塩っぱい水に満ちていたことから、あえて「西海」と呼んだのですが、次第に、西方の地理が分かってくると、更に西方に、更に巨大な塩水湖があるのに気づいて、「大海」と呼ぶことになったのです。大海の東岸にあたる安息が、漢/後漢の到達した西の果てであり、安息の西の王都どころか、大海の西岸「海西」の條支すら、実見できていなかったので、噂話にとどまったのです。このあたりは、どんどん余談が広がるので、後ほど、解説できるでしょうか。
 少なくとも、後漢書、魏略西戎伝に至るまでの史書で、西の大海がカスピ海でなく、地中海、黒海、ペルシャ湾などが「大海」であったと論証するのは、大変困難(不可能)と思われます。何しろ、そのような「大海」は、中国関係者が実見したものではないので、地平の彼方の霞の世界ですから、明確に特定できるものでもないのです。

*條支の西
 條支の先は、黒海から地中海ですが、安息長老は、旅行記を取り次いだ程度と思われます。條支から西に行くには、「地中海」航路もあれば、黒海に出てアドリア海を渉る「渡船」もあり、また、その北の陸地を、コーカサスの難関を越えて渉る陸上行程も知られていたようです。圏外になりますが、ギリシャ、ローマ側の記録は、結構豊富なのです。
 ともあれ、後漢朝史官が史実の報告として史書に掲載したのは、安息、大月氏までであり、笵曄「後漢書」によれば、条支以西は実見していないので風聞の採録に止まったのです。

*謝承「後漢書」考 余談
 謝承「後漢書」なる断片史書が外夷伝を備えたと伝わっていて、その東夷伝が魏志「東夷伝」の原史料との主張が見られます。憶測の風聞が、現行刊本の信頼性を毀損するのは、無法なことです。亡失資料に関して確実なのは、謝承が後漢公文書(漢文書)を閲覧できなかったことです。謝承は、後漢末から三国の呉人であって、洛陽で史官の職に就いてないから、書庫に秘蔵の公文書は閲覧不可能でした。できたのは、先行史料の引用だけですから、本紀/列伝に関しては、なんとか史料を収集して書き上げたとしても、夷蕃伝は、公文書が不可欠なので、大したことは書けなかったのです。

*魚豢「魏略」考 余談
 魏略を編纂した魚豢は、史官ないしは準じる官職にあったと見られる魏朝官人であり、魏の首都雒陽に蓄積されていた漢代公文書を制約無しに閲覧し「魏略」に収録できたと見えます。「魏略」、特に「西戎伝」には、漢代史料が豊富に引用されていて、魚豢が漢代公文書から取り込んだものと見えます。

 因みに、古来、史書執筆の際に先行資料に依拠するのは史官の責務であったので、陳寿はじめ各編者は、魚豢「魏略」を、(必要に応じて、断り無く)利用したものと見ます。裴松之も、魚豢「魏略」が史書として適確と知っていたから、魏略「西戎伝」を丸ごと補追したのです。

 世の中には、范曄「後漢書」が、正体不明の先行史書を引用したと推定しているものがありますが、いかに、史官の責務に囚われない范曄にしても、それは無謀というものです。笵曄「後漢書」西域伝で、笵曄は、先行資料の筋の通った解釈ができない風聞は割愛したと述べているほどです。范曄なりの史料批判に怠りはなかったのです。

〇条支国行程
 古田氏は、條支に至る行程について、班固「漢書」西域伝の解釈を誤っています。
 班固「漢書」は、西域の果ての諸国の位置を書くのに、帝都長安からの距離に従い順次西漸しています。条支は、安息の東方にあったと思われる「烏弋」(うよく)山離から百日余の陸上行程であり、安息は、烏弋と條支の間なので、安息~條支間は、陸上百日よりかなり短いはずです。

 いや、以上のような批判は、よほど西域事情について考察しないと判明しないのであり、洋の東西を問わず、ほぼ、全学会が、條支行程について誤解しているので、古田氏が世にはびこる誤解に染まったとしても、無理からぬ事です。
 地中海に、中国史書における西域事情の考証は、白鳥庫吉氏が、世界に先駆けて確立したものであり、古田氏が、白鳥庫吉氏の著書を参照していないと見えるのは、まことに残念です。いや、これは、氏に限ったことではなく、兎角、国内史料に偏重している国内古代史学界に共通の認識不足です。

                                未完

新・私の本棚 古田 武彦 「俾彌呼」 西域解釈への疑問 3/3

 ミネルヴァ日本評伝撰 ミネルヴァ書房 2011/9刊行   初出 2020/04/21 補充 2020/06/23 2024/02/26

〇漢書安息記事
 「王治番兜城,去長安萬一千六百里」なる班固「漢書」西域伝の安息地理情報は、本来明解です。
 安息は、現地にいる漢使にとって、目前の番兜(ばんとう)城を治所とする「大国」であり、大月氏や烏弋山離のすぐ西の隣国となっています。ところが、それに続いて、安息は、方数千里の「超大国」であり、「国都」は西方数千里の彼方、とあるので、長安帝都の関係者は混乱したようです。この混乱は、順当に後続史書に受けつがれます。ちなみに、班固「漢書」西域伝で「王都」は、ほぼ安息国だけの敬称です。

史官の務め色々
 言いきってしまうと、誤解を招くかとも思うのですが、ここでは史官の務めを確認したいのです。史官は、手元の史書、資料に混乱があると見えても、勝手な解釈から小賢しい是正を加えてはならないということです。混乱していると見えても、是正せずに継承していれば、あるいは、後世、無理のない是正ができるかも知れないのです。棄てず作らずと言うことです。

 ただし、後世に史官の務めを知らない、小賢しい輩が現れて気に入らない原史料を棄ててしまったら、後世にはその勝手な解釈による改竄結果しか残らないのです。
 ここで言うなら、西域記事に関しては、范曄「後漢書」西域伝が、大々的な是正を加えているので、危うく歴史改竄がまかり通っていたのです。幸い、原史料が、劉宋史官裴松之によって魏書第三十巻に収録された魚豢「魏略」西戎伝に温存されているので、劉宋だの歴史家であった笵曄「後漢書」が、何を消してしまったかわかるのです。
 とすると、後漢末(桓帝、霊帝、献帝)から魏(武帝、文帝、明帝)にかけての東夷伝記事で、范曄と陳寿のどちらを信じるべきか、はっきりしてくるように思います。
 いや、このような両史家の資質評価は、古田氏の持論とも一致するので、ここに書いても許されるように思った次第です。

*混乱解決の手掛かり
 この際の混乱の由来を整理すると、安息は、大王国の国名であると同時に、王国東端の小安息で漢使を応対した「長老」にしてみたら自国の国名なのです。小安息は方千里程度なので、近隣諸国と比肩できます。

 このように認識すれば混乱は解消するのです。特に、漢使到着の時点は、大安息西方の大発展、イラン高原統一が完了した時点なので、まだまだ、安息と言えば、長年王国を維持してきた全天下の地理観、世界観が通用していたように見ます。
 と言うことで、漢使の安息到着以来、二千年を越えようかという條支比定の課題は、にわかには、 解決しないでしょう。
 それはさておき、條支は、安息から見て、国境~国境で数日程度の隣国です。

 後の魚豢「魏略」西戎伝に依れば、條支は、安息と大海カスピ海を挟んだ隣国で、大海(南部)を横断する行程と共に、南岸を経巡る訪問行程が描かれています。條支王都は、安息人が「海西」と通称するように大海の西岸ですが、そこから西に百余日河川遡行しても、西方の山地を越え、黒海なり、今日の小アジア(トルコ)に出る程度で、その認識は、今日のヨーロッパに届いていないのです。
 「條支」は、字面から言うと、分かれ道、川の支流ということのようですが、当時、東のカスピ海と西の黒海の狭間で双方と通じていた「アルメニア」王国を指すようです。今日の「アルメニア」は、カスピ海岸の「アゼルバイジャン」と黒海岸の「ジョージア」(かつての「グルジア」)に介在する内陸国ですが、当時は、両国を支配していたようです。(これは、少数意見です)
 安息を等身大に解釈するだけで、大半の混乱は解消するのです。

*「西方」観の相違 余談
 漢人の西方は、西王母の住む仙境であって、こころのふるさとなのですが、安息人には、西は交易相手の隣国が在るというだけで、格別の感興はないのです。現世の思いとして、漢人に西方諸国を知られると、安息迂回の貿易路を開設されて巨利を失う危険があることから、とぼけ通したとも見えます。

*西の狼、東の虎 余談
 現実には、メソポタミアの向こうの地中海東岸シリアには、強力な軍備のローマの大軍四万人が駐屯していて、往年のアレキサンドロス大王ばりの侵略を企てていると見られるので、安息国は、東方の大国をローマと交流させるわけにはいかなかったのです。
 何しろ、漢武帝は、東方オアシス国家を支配した北の匈奴の排斥戦略として安息の仇敵大月氏と同盟を企てた事が知られているので、せめて、「漢との同盟を拒否して敵対した」と解されないように、つまり、敵に回さないで、敬遠したかったはずです。何しろ、大月氏にこの企てが知れたら、何をするかわからないと言う危惧もあったと思われます。
 と言うことで、安息国の長老、おそらくは、小安息の国王と側近は、漢人の聞きたい西方幻想譚を示唆しただけに止めたのでしょう。

〇まとめ
 以下、率直に、本書に示された古田武彦氏の西域観の瑕瑾を指摘して、本記事を終わります。
 1.漢書西域伝から読み取った安息、條支の地理情報が誤解されています。
   そのために、漢書、後漢書の西域観を読み損ねています。
 2.東夷傳序文に示された陳寿の漢魏西域交流総括が軽視されています。
   それが、氏の東夷伝解釈に反映していて不満です。

〇謝辞
 以上の素人考えの背景は、主として、以下の諸書によるものです。

 白鳥庫吉 白鳥庫吉全集 岩波書店
  第六巻 西域史研究 上 第七巻 西域史研究 下

  史記に始まり唐書に至る正史西域伝に残された漢文明と西域との交流の歴史解明と欧州文書など大量の資料を基盤とした考察は、世界的に先進かつ最高峰として高評価を受けていて、後世の素人に、大変貴重な労作の高峰です。

 塩野七生 ローマ人の物語
 東方のペルシャ帝国を打倒したアレキサンドロス三世の偉業を慕うローマにとって、「ヨーロッパによるアジア制覇」は国民的願望として、共和制末期を飾るポンペイウスのセレウコス帝国打倒、続く、クラッススによるパルティア遠征と破綻、皇帝ネロの和平構築、等の出来事が、時に応じて丁寧に紹介され、ローマ視点のパルティア観を明らかにしていて大変貴重です。
 東西超大国の狭間でしたたかに生き続けたアルメニア王国の姿は、ここ以外では、中々読めないものです。

 本記事筆者は、西域伝/西戎伝に現れる大国「條支」は、数世紀に亘り両大国の緩衝地帯となった大国アルメニア王国に違いないと確信しています。

 なお、漢代西域展開の極致は、後漢西域都督班超が派遣した副官甘英が、長年西域支配を画策している「大月氏」(貴霜)打倒のための同盟工作を極秘裏にに展開した安息国の東方拠点であり、その隣国條支にすら、足を伸ばしていないのです。

*「大秦」の幻影払拭 2024/02/27
 魚豢「魏略」西戎伝及び笵曄「後漢書」西域伝に言及されている「大秦」記事は、疑いを挟む余地無く、「條支」、ないしは、その近辺の「小国」の風聞であり、パルティアを越えた地中海圏にまでその所在の検索を求めるのは、砂漠に蜃気楼の「逃げ水」を追い掛けているものです。
 魚豢「魏略」「西戎伝」は、参照した後漢代史料の錯簡により後世史家が誤解していますが、とかく誤解が蔓延っている「大秦」は、前世で、アラル海付近にいたと特定されている黎軒が、「海西」、つまり、大海西岸の條支国付近に移住したものであり、あくまで、近隣なのです。袁宏「後漢紀」考明帝紀は簡潔明瞭であり、康居、大月氏、安息、大秦、烏弋と並んだ諸国の中で、比較的西の方としています。

 後漢西域都督班超の派遣した副使甘英は、大海の岸辺/東岸に到達して、海西に渡ろうとしたものの、「安息の塩水の大海は渡海困難」の説明で説得されて断念したとされていますが、思うに、西方探索は、甘英の本来の使命ではないので、安息高官の説得に応じて條支、大秦の究明を断念しても、違命でも何でもなく、使命に忠実な甘英として不思議はないのです。
 
 「後漢紀」 によれば、大秦は、太古、中国「秦」の西方にいた騎馬/遊牧の民であり、大月氏同様に、何かの機会で身軽に西方に移住したのであり、転々と移住を重ねた挙げ句、安息の一隅を占めて、従って、中国由来の「大秦」を名のっていたらしいのです。
 このあと、記事は、宏大で文書行政を施された大国の風情を収めた「大秦」記事と解釈されているが、常識として、これは、安息の記事が、錯簡されたものと見えます。何しろ、当時の夷蕃伝は「其国」として書き継いでいたので、綴じ紐がちぎれて簡牘が交錯したものを臆測で復元したとみるのが自然です。
 これは、魚豢「魏略」西戎伝でも見られる交錯であり、條支について語るはずの記事が、突然、大秦国の所在とその風土、風物を語り始めているように見えるのは、「素人読み」として「普通」なのですが、少し考えれば、簡短な錯誤による取り違えと分かるのです。魚豢「魏略」「西戎伝」は、魏志第三十巻の巻末に安住していることから、写本継承の際の錯誤は最小ですが、劉宋史官裴松之が確保していた帝室蔵書の時代善本といえども、後漢公文書原史料の錯簡などに由来する誤謬は避けられないのであり、丁寧に考証することが求められるのです。いや、魚豢「魏略」「西戎伝」も、孤立している史料と見え、また、魏志本文と同様、異本が事実上存在しないので、校勘は至難ですが、それでも、文書史料自体の整合性を追求すれば、原史料の想定は可能と思われるのです。と言うことで、くわしくは、当ブログの別記事に述べているので、御参照いただきたいのです。
 端的に言うと、本来、詳細を究めるべき安息事情が希少で、初見の大秦事情が豊富であるとする解釈は、そのような誤謬を是正し損ねた、錯覚の産物に見えるのです。
 このあたり、二千年近い錯覚の継承が山を成しているので、原資料から出発する丁寧な考証が不可能になっていると見えます。いや、何処かで聞いた話のような気がしたら、それは、空耳です。

*安息の機密保持~東西交易の「中つ道」
 それはさておき、「状況証拠」として明快、かつ有力なのは、東西交易、さらには、南方交易で「ローマが羨む世界一の巨利」を博している安息としては、暴威を極めている大月氏の同類としか見えない漢の使節甘英が何と言おうと、国内事情を詳しく教えるどころか、遙か西方の敵国ローマ準州に接触を許すはずがないのです。何しろ、班超は、第三国に使者として滞在しているときに、匈奴使節団の滞在を知り、暗夜奇襲してこれを葬ったという蛮勇の持ち主であり、百人程度の少数でも、厳重警戒が必要なのです。
 何しろ、目下沈静化しているとは言え、大月氏は、東方から亡命したと称しながら、突如、騎馬軍団で、安息王都を急襲して、「国王親征軍」を大破して、王都の財宝を掠奪し尽くしたという前歴があり、西方からの援軍で、大月氏軍を押し返し報復したとは言え、以後、国境部に二万の常備兵を置いたほど、警戒しているのであり、漢月共々、一切信用できないのです。そんな物騒な輩に、国内通行を許すことは有り得ないのです。
 さらには、安息の交易ルートの北方に脇道を設けている條支と接触することすら、商売の上で、もっての外だったのです。もっとも、西戎伝には、條支商人の述懐として、安息は、東西交易で厖大な利益を得ていて、売価が、仕入れの五倍十倍は当たり前だとしていましたが、それは、大月氏制圧を、喫緊の使命としていた漢使の知ったことではないのです。

*莉軒「大秦」の比定
 というような「常識的」な考察を歴て、大秦の居住地は、かなりの可能性で現在のイランテヘラン周辺、太古の「メディア」の後裔地域であり、「メディア」の語意を得て、「中つ国」、「中国」、転じて「大秦」と名乗ったと見えるのです。ちなみに、以後、さすらいの莉軒がどうなったかは、不明です。

袁宏「後漢紀」復権
 袁宏「後漢紀」は、「黎軒」が、「印度北部のヒマラヤ中腹の細道を歴て、益州、つまり、蜀漢の地に至り、更に、交址に下りる細々としていても、確実な経路を確保していた」と見ていて、これは、張騫が西域諸国で傍見した中国物品の渡来につながるようです。
 そして、これが、後年、「ローマ皇帝」使節の漢都到達という年代物の理解/誤解につながったようです。砂漠の道、海の道以外に、細々とは言え、酷暑、瘴癘、乾燥と無縁の「山辺の道」があったのです。

 いや、魚豢「魏略」「西戎伝」の該当部分の行程記事は、常人の読み解けるものではないように見えます、見る人が見れば、要点を見抜けるものです。

 以上、どこにも飛躍やこじつけのない「エレガント」な仮説ですが、どうしても、世間さまでは、「大秦」=「ローマ」の無理やりの決め込みが解けないようである。くり返して念押ししますが、これを何処かで聞いた話と思ったら、それは、空耳です。

*ローマの残照
~帰らざる安息のローマ軍団
 西方蛮夷の風聞の源流を求めるなら、ローマ共和制末期の「クラッスス」の遠征譚であり、四万の遠征軍が、パルティア正規軍と会戦して大敗/壊滅したため、不敗のローマ軍団が全面降服を余儀なくされ、一万人の戦時捕虜がパルティアに引き渡され、「組織を保ったローマ軍団が東部国境に到達して、安息国兵士一万人とともに国境警備の任に就いた」とされているので、当該捕虜から聞いたローマの風聞が伝説化していたかもしれないのですが、それにしても、ローマ兵捕虜は、帝政以前のユリウス・カエサル時代の共和制ローマ市民であり、「国王」の執務など知りようがなかったと見えるのです。
 そして、結局、ローマとパルティアの和平が長年成立しなかったため、ローマ兵捕虜は、全員が異境の土に帰ったのです。常識的な期間内に和平が成立していれば、ローマ兵捕虜は、当時の国際法に従い、身代金と交換に帰郷できたのですが、ローマ側の混乱で、それは実現しなかったのです。
 まず、ローマは、ポンペイウスによる、ユリウス・カエサル誅滅が、カエサルの反撃によって挫折して、広範な地域でポンペイウス追悼戦が続き、ポンペイウスの死で決着したものの、カエサルが企てたパルティア遠征が、カエサル暗殺で頓挫し、以下、エジプトを支配下に置いたアントニウスのパルティア遠征は、惨敗に終わり、といった具合で、時はひたすら空転し、帝制に移行して久しい皇帝ネロの英断で、両国間に和平が成立したときには、パルティアの東北辺境、メルブのオアシスで望郷の念を紡いでいたローマ兵捕虜は、全員が自然死を遂げていたのです。
 パルティアのために弁明すると、一万の統制されたローマ兵捕虜は、一万のパルティア兵とともに、重要な国境防衛に専念していたので、それなりの厚遇をえていたものと思われるのです。そして、ローマ兵捕虜は、当然、和平による捕虜交換がいずれは実現するものと、不敗の大国、共和制ローマの再来を信じていたのです。

 いやはや、風聞、錯覚の弁護をするのは、何とも、古代ロマンの風に曝されるものです。

 この項 2024/02/26~28追記
                                以上

2023年9月 6日 (水)

新・私の本棚 番外 NHK特集「シルクロード第2部」第十三集~知られざる東西交流の歴史 再掲 1/3

                     2021/02/02 2021/04/23 2023/09/06
〇NHKによる番組紹介
 NHK特集「シルクロード第2部」、第十三集は「灼(しゃく)熱・黒砂漠~さいはての仏を求めて~」。旅人が歩いた道の中で最も過酷なルート、カラクム砂漠を踏破する。
 シルクロードの旅人が歩いた道の中で最も過酷なルート、カラクム砂漠。何人も生きて越えることができないと言われた死の砂漠である。取材班はその道をトルクメンの人々の案内で踏破、チムール時代の壮大な仏教遺跡が残るメルブまでを紹介する。

〇待望の再放送~余談の山
 滅多にお目にかかれないメルブ(Merv)を見ることができたのは、貴重でしたが、漢代以来、東西を繋いだメルブの意義が見逃されているのは残念です。
 メルブは、漢書「西域伝」、後漢書「西域伝」で「西域」つまり漢の世界の西の果ての大国として紹介された「安息国」の国境要塞でした。例えば、漢書は、番兜城(ばんとうじょう?)、後漢書は、和櫝城(わとくじょう?)と書かれています。
 そのため、漢武帝使節と後漢西域都護班超の副官甘英の97年の探検行が、西方では「パルティア」と呼ばれた「安息国」国境要塞メルブを、訪問行の西の果てとしたことの意義が見過ごされています。この地は、延々と続いた砂漠地帯を出て、カスピ海沿岸の温和な地域と見ていましたが、実際は、砂漠の中のオアシスだったようです。少なくとも、漢使甘英は、酷暑の西域都督管内ではあまり見られない冷涼の地と感じたはずです。
 とは言うものの、いくら好意的な相手としても、西域に勇名を轟かせていた西域都督班超の副官が率いる、恐らく百人規模の使節団が、 大「パルティア」首都、遙か西方メソポタミアの「王都」クテシフォンに詣でて、大「パルティア」国王に謁見することは論外でした。
 そのため、両代漢使はメルブで小安息国長老と会見し、無事に使命を果たしました。国都に参上せず国王に謁見しなくても、漢使の任務を果たしたのです。
 倭人伝」解釈に於いて、随分参考になる前例ですが、論争の際に紹介されていないのは、意外です。

*メルブの意義
 当時、イラン高原を統轄していた大「パルティア」は、東西交易の利益を独占して当時世界一の繁栄を得ていましたが、その発祥の地でもあるメルブ(Merv)地域を東方の最重要拠点として、守備兵二万を常駐させていたのです。
 安息国には、 東方から急襲した大月氏騎馬戦力の猛攻により、迎撃した国王親征部隊が壊滅して国王が戦死した経験があり、以後、大兵力を固定して、東方蛮族(大月氏)の速攻に臨戦態勢で備えていたのですが、騎馬軍団の席巻で言えば、班固「漢書」「陳湯伝」で知られる匈奴郅支単于の西方侵攻のように、月氏事件は、空前でもなければ絶後でもなかったのです。後年、欧州諸国を震撼させたフン王アッティラの由来は不明ですが、

*西方捕虜到来
 因みに、大「パルティア」は、西方のメソポタミア地方では、ローマ軍の侵入に対応していて、共和制末期の三頭政治時代、シリア属州提督の地位にあった巨頭クラッスス(マルクス・リキニウス・クラッスス)の率いる四万の侵入軍を大破して一万人を超える捕虜を得て、「パルティア」は、一万の捕虜を東方国境防備に当てたとされています。(前54年)
 降伏した職業軍人は、遠からず両国和平の際に和平時に身代金と交換で送還されると信じて、数ヵ月の移動に甘んじたのです。ローマ側としては、生き残った万余の兵士を無事帰国させるために、司令官クラッススを引き渡し、捕虜をいわば人質として提供したしたものです。クラッススは、パルティアの軍法に則して斬首されたとされています。

 欧州側では「東北国境」と云うことで寒冷地を想定したようですが、メルブは、むしろ温暖なオアシスであり、何しろ、凶悪な敵を食い止める使命を課せられていて、ローマ兵は、捕虜とは言え、それなりの処遇を得ていたはずです。この時、一万人の捕虜を得たおかげで、一万人の守備兵を帰宅させたので、地域社会(パルティア発祥の地)に、大きな恩恵を与えたのです。

 なお、ローマ正規軍には、ローマの中級市民兵士や巨頭ガイウス・ユリウス・カエサル(シーザー)が援軍として送り込んだガリア管区の兵士も含まれていたから、一時、メルブには、土木技術を有し、ギリシャ語に通じた教養のあるローマ人が住んでいたことになります。恐らく、両国軍人の会話は、ギリシャ語で進められたはずです。いや、まだ、アレキサンドロスが率いたギリシャ語圏の兵士や商人がいたかも知れません。
 また、班固「漢書」西域伝に依れば、安息国人は、皮革に横書きで文字を書き付けていたようですから、共に、文明人だったのです。

 後漢西域都督班超の副官甘英は、一大使節団を率いて安息国に至り、長老、つまり、安息東部都督に相当する高官と交渉したものの、具体的な盟約には到らなかったと思われます。甘英の使命は、最高機密事項でしたが、当時、安息国と締盟した上で、西域都督班超に執拗に反抗していた大月氏/貴霜を挟撃、西域都督の以降を高めたいとの願望を持っていたはずであり、「貴霜」(クシャン)を凶悪な侵略者と見る共通した視点をもっていたと思われますが、安息国は、本来商業立国であり、専守防衛を国是としていたので、貴霜国を攻撃して地域の平穏を破壊するなど論外であったと見えます。

 もちろん、外交/軍事は、西方王都の国王の指示を待つ必要があったのですが、国王にとって最大の懸念事項は、至近のシリアに大軍を待機させているローマであり、東方で軍事作戦を展開する気はなかったのです。また、はるか東方の大国中国は、貴霜国と戦端を開いても、大軍派兵は大変困難と理解していたので、共同軍事作戦は割に合わないと見たようです。
 最後に、安息国は、東西交易の要であり、近隣諸国と戦火を交えて、交易を阻害することを恐れたとも見えます。何しろ、東西交易は、大量の黄金の卵を齎す「にわとり」であり、これを傷つけることは、国益に反したのです。

 以上、安息国の視点から、誠に割に合わない提言であり、国王の指示に従い、友好関係を損なわない程度に謝絶したものと見えるのです。
 甘英は、帰任して、大事がならなかったと報告したのですが、これは、西域都督の独断だったので、一切公文書に残らず、また、貴霜国に機密が漏洩すると、不穏な事態になるので、固く隠蔽したものと思われます。

◯笵曄による甘英弾劾
 世上、甘英が、西方の大国「ローマ」に到達する使命を帯びていたとする俗説が執拗に唱えられていますが、何重もの誤解に基づいていて、誠に嘆かわしい事態です。
 まず第一に、後漢、魏・晋を通じ、中国の西方知識は、到達点としては安息国止まりであり、しかも、安息が、西方の敵国ローマについて、甘英に知らせることは考えられないので、精々、カスビ海の対岸であるアルメニア、條支止まりであったものと思われます。それどころか、「西方の王都クテシフォンにすら赴いていない」のとともに、王都付近メソポタミア、および、そこに到る整備された街道の有り様も、明確に伝えていない節があります。
 まして、ローマ帝国が、精兵四万を常備していたシリア準州についても、一切伝えていないものと思われます。
 要するに、「大秦」と書かれている正体不明の国家の風俗は、安息国の周辺諸侯、精々、カスピ海西岸「海西」の條支と隣国のものと見えるのです。

*西域都督の重大な使命
 後漢西域都督は、あくまで臨時の官であって、現地に「幕府」を開いて、地域の軍事、税務の権限を与えられていましたが、万事、皇帝の勅許を仰ぐ必要があり、独断専行は許されていないのです。西域都督に与えられている任務、権限は、あくまで、漢武帝代に確立した「友好国」である「安息国」までであり、安息以西の未知の領域に勝手に進出することは許されていないのです。つまり、もし、甘英が、安息を越えて西方に進出するためには、皇帝の勅許が必要なのです。
 後漢書には、そのような勅命が出されたという記録はありません。
 もし、甘英が勅命によって西方進出を使命としていたら、これを達成できないまま帰還するのは、重大な違命であり、誅殺に値します。当然、西域都督も、同罪です。もちろん、笵曄「後漢書」にも、袁宏「後漢紀」にも、魚豢「魏略」西戎伝にも、そのような誅殺の記録はありません。
 以上のように論理的に確認すると、甘英は、安息国まで使節/ 行人として派遣されただけであり、安息以西に進出する使命は帯びていなかったのです。

*不可能な使命
 当ブログ筆者は、甘英の使命に対して私案を持っていて、要するに、西域都督班超が、独断で大月氏討伐の締盟の構想を抱いていたものと見るのです。これは、かつて、漢武帝が企てた大月氏との締盟構想と同趣旨であり、掠奪国家であって後漢の西域支配に頑強に抵抗していた大月氏を、漢~安息の挟撃で撲滅しようというものであり、安息長老の了解が得られれば、皇帝に上申して、安息王~後漢皇帝の盟約とするというものであったように推定しています。そのような軍事活動は、西域都督の使命の範疇であり、上申して勅許を得ることは、十分可能と見ていたものとおもわれます。

 ただし、実際は、班固の大月氏挟撃構想は、安息国の同意を得ることができず、甘英は、安息国との友好関係を確認するにとどまったものと見えます。甘英の派遣について、特段の使命が記されていないことから、単に、友好関係の確認、強化にとどまったものであり、特に、違命がなかったため、班超も甘英も、叱責等を被っていないものと見えます。

*笵曄乱筆
 そのように、使命が秘匿されたため、笵曄の疑惑を掻き立て、甘英は、無謀な冒険を試みて不達成に終わったと粉飾されたものと見えます。
 笵曄は、後漢末、班超時代の後に西域都督が撤収した結果だけを見ていたため、後漢の威勢を維持できなかったというあらぬ譴責を加えたものと見えますが、それは、笵曄が、西域都督の武官としての沽券を見損ねていたものと見えます。
 あるいは、西域都督班超の実兄であり、漢書を編纂した史官班固に対する引け目を、班超/甘英に押しつけたものとも見えます。要するに、漢書「西域伝」は、遠隔地を実見しない捏造だと貶めたかったものかも知れません。
 ここでも、笵曄の勝手な創作が見られるのです。
 
                                未完

新・私の本棚 番外 NHK特集「シルクロード第2部」第十三集~知られざる東西交流の歴史 再掲 2/3

                     2021/02/02 2021/04/23 2023/09/06
*ローマ・パルティア戦記
 因みに、敗戦には必ず復仇するローマで、三頭政治末期の内戦を制して最高指揮官の地位に就いたカエサルは、パルティア遠征を企てたが、暗殺に倒れ、カエサル没後の内乱期、エジプトを支配したアントニウスは、カエサル遺命として、前36年にエジプト軍と共にパルティア遠征したが、あっけなく敗退しています。
 初代皇帝として、ローマ帝国を創業したアウグストゥス帝の前21年、本格的な講和が成立し捕虜返還を交渉しましたが、敗戦抑留以来30年を要したため、捕虜は、全て世を去っていたといいます。余談ですが、初代皇帝アウグストゥスは、中国の秦始皇帝と大きく異なり、元老院の支持のもと密やかにローマの共和制に終止符を打ちましたが、表向きは、元老院の首席議員の立場にとどまり、専制君主を名乗らなかったのです。

*シリア準州駐屯軍
 ローマ-パルティア間に講和が成立しても、ローマ側では、共和制時代から維持してきたメソポタミア侵略の意図は堅持され、ローマ属州のシリアに総督を置き、四万人を常駐させたのです。

*あり得ない漢使シリア訪問~余談
 范曄は、『後漢使甘英が安息の「遙か西方の條支」まで足を伸ばした』と「創作」したので、「條支」を「シリア」(現在のレバノンか)と見る解釈がありますが、街道整備のパルティアの国土を縦走する行程は、延延百日を要する遠路であり、異国軍人のそのような長途偵察行が許されるはずはなく、まして、その果てに敵国との接触は論外でした。

 いくら、「安息」の名に恥じない専守防衛の国であって、常備軍を廃していても、侵略を撃退する軍備を擁していたのです。

 甘英の本来の使命は、安息国との締盟であって、援軍派兵を断られた以上、往復半年はかかる探査行など論外と見るべきです。西の王都まで数千里の長途であることは、武帝使節の報告で知られていたのです。
 いや、もし、実際に君命を奉じて、(范曄が安息西方と見た)厖大な日数と資金を費やして「條支」まで足を伸ばしたのなら、いかなる困難に直面しても、君命を果たすしかなかったのです。西域と塗膜の副官たる軍人甘英が、使命を果たさずに逃げ帰ったら、そのような副官に使命を与えた上官班超共々、軍律に従い厳しく処断されるのですが、そのような記録は一切残っていません。笵曄は、文官であったため、軍律の厳しさを知らなかったのでしょうが、それにしても、西域都護副官を臆病者呼ばわりするのは、非常識そのものです。
 因みに、班超は、勇猛果敢な軍人ですが、漢書を編纂した班固の実弟であり、文官として育てられたので、教養豊かな文筆家/蔵書家であり、笵曄は、そのような偉材に喧嘩をふっかけたことになるのです。
 いや、当ブログ筆者の意見では、條支は、途方もない西方の霞の彼方などではなく、甘英の視界にある巨大な塩水湖、大海(カスピ海)のほんの向こう岸と信じているので、范曄の意見は、誤解の積み重ねに無理筋を通した暴論に過ぎないのですが、なぜか、范曄の著書は俗耳に訴えるので、筋の通った正論に耳を貸す人はいないのです。

 いや、またもや、長々と余談でした。

*東西交流の接点
 と言うことで、メルブは、「ジュリアス・シーザー」が象徴する西のローマと「武帝」が象徴する東の漢の接点になったのです。さすがに、時代のずれもあって、東西両雄が剣を交えることはなく、「安息長老」(おそらく、当方安息国の国主)が、漢人の知りたがる西の果ての世界に関してローマの風聞を提供したように見えます。

*西域都護班超と班固「漢書」
 改めて言う事もない推測ですが、甘英の西域探査行の詳細にわたる報告は、西域都護班超のもとから、後漢帝都の洛陽にもたらされたものと思われます。また、先に触れたように、班超は漢書を編纂した班固の実弟であり、当然、漢書西域伝の内容は、班超のもとに届いたと思われます。つまり、漢書西域伝は班超座右の書であり、西域都護にとって無駄な探査行など意図しなかったと見ます。

 恐らく、都督府の壁には「西域圖」なる絵図を掲げていたでしょう。(魚豢西戎伝が「西域旧圖」に言及しています)

*范曄「後漢書」の「残念」~余談/私見
 西域探査功労者甘英は、笵曄に「安息にすら行っていないのにホラ話を書いた」と非難され「條支海岸まで行きながら怖じ気づいて引き返した」と軍人として刑死に値する汚名を被っていますが「後漢紀」に依れば、班超が臨んだ「西海」は、メルブにほど近い「大海」、塩水湖「裏海」です。よって、魚豢「魏略西戎伝」でも明らかなように、甘英の長途征西は、笵曄の作文と見ます。

 因みに、魚豢「魏略」は、諸史料所引の佚文が大半であるため、信用されない傾向があるのですが、「魏略」西戎伝は、范曄同時代の裴松之が「三国志」に全篇追加したので、三国志本文と同様に確実に継承され、紹熙本/紹興本も、当然、その全容を伝えているので、今日でも、容易に読むことができます。(筑摩書房刊の正史「三国史」にも、当然、全文が翻訳収録されています)

*笵曄の限界と突破
 魚豢、陳寿は、曹魏、西晋で、後漢以来の帝都洛陽の公文書資料の山に接する権限がありましたが、笵曄は、西晋が崩壊した後の江南亡命政権東晋の官僚だったので、参照できたのは「諸家後漢書」など伝聞記事だったのです。諸家後漢書の中で出色の袁宏「後漢紀」は、ほぼ完本が継承されているので、容易に全文に触れることができ、部分訳とは言え、日本語訳も刊行されていて、原文を含めて確認することができます。

                               未完

新・私の本棚 番外 NHK特集「シルクロード第2部」第十三集~知られざる東西交流の歴史 再掲 3/3

                     2021/02/02 2021/04/23 2023/09/06

*幻の范曄原本
 先に挙げた、後漢書夷蕃列傳は「笵曄の誤解に基づく勝手な作文」満載なる私見は、魚豢が後漢朝公文書を直視した記述と笵曄が魏略を下敷きに潤色した記述とを対比して得た意見であり、先賢の評言にも見られる「定説」です。

 編者范曄が、重罪を得て嫡子共々処刑され家が断絶したため、范曄「後漢書」遺稿が、著作として決定稿であったかどうか、確実に知ることができません。陳寿「三国志」は、陳寿の手で最終稿まで仕上げられていて、没後、西晋朝の官人が、一括写本の手配を行ったことが記録されています。いわば、三国史の陳寿原本、と言うか、確定稿を、数人ならぬ数多くの関係者や読者が、つぶさに確認しているのです。
 これに対して、范曄後漢書は、いつ、誰が、遺稿を整えたのか不明です。隋唐統一以前、数世紀にわたる南北朝乱世をどのように写本、継承され、唐代に正史に列することになったのか、不明の点が多いのです。従って、范曄原本が存在したのか、関係者が体裁を整えたものなのかすらわからないのです。その意味で言うと、笵曄「後漢書」の范曄原本は、誰も知らないのです。また、現行刊本は、司馬彪「続漢書」の志部/資料編をとじ合わせているので、笵曄後漢書と形式が異なるものとなっています。

 このような事態は、史上最高の文筆家を自認したであろう范曄には大変残念な結果と思います。

*袁宏「後漢紀」西域条
 袁宏「後漢紀」は、百巻を超えて重厚な漢書、後漢書と異なり、皇帝本紀主体に三十巻にまとめた、言うならば準正史です。正史でないため、厳格な継承がされず、誤字が目立ちますが、佚文ならぬ善本が継承されています。
 列伝を持たないため、「西域伝」は存在しませんが、本紀に、西域都護班超の功績を伝える記事が残されていて、甘英派遣の成果も残されています。つまり、後漢紀は、西域伝や東夷伝を本紀内に収容したと言えます。

 魚豢「西戎伝」に続き、范曄「後漢書」西域伝の先駆となる小「班超伝」ですが、范曄が遺した「おとぎ話」は見えません。范曄が、魚豢に続いて袁宏まで無視した意図は、後世人には知る由もありません。

 范曄は、「後漢書」編纂に際して、諸家の後漢書稿を換骨奪胎したと言いますが、史書として、最も参考になったのは「後漢紀」と思われるので、いわば笵曄の手口を知る手がかりとなるものもあります。

*余談の果て
 と言うことで、番組紀行がメルブを辿ったことから、種々触発された余談であり、これほど現地取材するのであれば、両漢紀の西域探査の果てという見方で、掘り下げていただければ良かったと思うのです。

 また、共和制末期、帝政初期のローマとパルティアの角逐、と言うか、ローマの侵略欲を紹介していただければ、いらぬ幻想は影を潜めていたものと思うのです。

*再取材の希望
 と言うことで、メルブは、仏教布教の西の果てという意義も重要ですが、東西に連なる三大文明世界の接点との見方も紹介して欲しかったものです。
 いや、遠い過去のことはさておき、再訪、再取材に値すると思うのです。西方は、ローマ史に造詣の深い塩野七生氏の役所(やくどころ)に思うのですが、東方は、寡聞にして、陳舜臣氏を継ぐ方に思い至らないのです。

*参考書
 塩野七生 「ローマ人の物語」 三頭政治、カエサル、アウグストゥス、そして ネロ
 司馬遷 史記「大宛伝」、班固 漢書「西域伝」、范曄 後漢書「西域伝」、魚豢「西戎伝」(陳寿「三国志」魏志 裴松之補追)、袁宏「後漢紀」
 白鳥庫吉 全集「西域」


                               以上

新・私の本棚 番外 NHK特集「シルクロード第2部」第十四集~コーカサスを越えて~ 再掲 1/3

       2021/02/03   追記 2021/04/15 訂正追記 2021/11/26 2023/09/06
〇NHKによる番組紹介
NHK特集「シルクロード第2部」、第十四集は「絹と十字架~コーカサスを越えて~」。雄大なコーカサス山脈を縫いながら、絹交易のもうひとつのルートを明らかにする。
カスピ海の西岸モシチェワヤ・バルカで唐代の中国製絹が発見された。絹の出土地としては最西端にあたる。中国とローマを結ぶ絹交易は、税金の高いササン朝ペルシャを避け、カスピ海北岸をう回、コーカサス地方を縦断して行なわれていた時代がある。雄大なコーカサス山脈を縫いながら、絹交易のもうひとつのルートを明らかにする。

〇ささやかな誤解
 当番組の時代考証では、ペルシャを代名詞としているイラン高原の勢力を回避した「もう一つのルート」を考察していますが、『「交易ルート」がコーカサスの高嶺を越えた』と見ているのは、大胆な着眼としても、今回の番組で立証されたと見るのは、どうかと思います。また、南北に伸びたカスピ海の北岸は、冬季寒冷であり、通年して、交易路にならなかったのは明らかです。
 アルメニアの交易路は、カスピ海東岸中央部であり、カスピ海北岸など経由していなかったのです。
 因みに、ササン朝ペルシャはいざ知らず、古来、イラン高原の交易は、それぞれの地域勢力が仲介して多額の利益を上げる商業形態であり、通過する商人に課税したものではないのです。

*訂正
 今回再放送を確認したところ。番組が取り上げていたのは、ササン朝時代の状況であり、漢代/後漢代-バルティア時代の視点にとらわれて誤解した点をお詫びします。
 パルティア時代、当地を支配していたのは「アルメニア王国」であり、裏海-黒海の分水嶺の尾根を占拠していたアルメニア人が、東西の海港をも支配し、東西交易から収益を確保していた上に、政治的には、西のローマに対する牽制として、パルティアから親戚扱いされていた事から、こそこそ抜け道を迂回する必要はなかったのです。
 しかし、西のローマは、パルティア攻略の前提として、アルメニア王国の攻略を行い、強力な攻城兵器とシリア準州で臨戦体制を続けていた四万の常備軍に近隣諸国の援軍を加えた不敗の体制で、各地の山城をことごとく陥落させて、ローマ帝国の属国とし、パルティア東部への攻勢を見せて、メソポタミア領域の攻略に出たのです。
 結果、パルティアは、王都を攻略されて厖大な財宝を全て奪われて、全土を統制する威勢を喪い、東南方のペルシャ勢力に王国を奪われたのです。結果、ササン朝帝国が誕生しましたが、同帝国は、コンスタンティノープルの東ローマ帝国に移行した「ローマ」と対立を続け、ユーフラテス川流域の帰属を争ったために、アルメニアの黒海貿易を、高率の関税を課す事によって、厳しく規制したものと見えます。

 つまり、当番組は、西の東ローマ帝国との交易を事実上禁じられたアルメニアの苦肉の策して、コーカサス越えの「禽鹿径」交易を描いたものであり、同時代、及びそれ以後の時代考証としては正確と思われますが、交易への規制は、時代によって異なるので、何とも言えないのです。

 以上、大づかみな時代区分を誤った、見当違いの批判を書いた事をお詫びします。

*條支に至る道~魏略「西戎伝」
 ササン朝時代の前である、後漢代に安息国を訪ねた甘英は、西の大海カスピ海の中部を横断する「海路」を確認し、その報告は、三国魏の魚豢編纂の魏略「西戎伝」(陳寿「三国志」の魏書第三十巻巻末に全文収録)に記録されています。

 往年の安息(パルティア)東部要塞メルブから北上した海東の港から、大海の西岸である海西、今日のアゼルバイジャンのバクーにあたる半島(大海海中の島)に至ります。裏海(カスピ海)は塩水で水の補給が課題と言っても、帆走数日で着くので難路でもなんでもありません。

 地域の地形を確認すると、「大海」の南岸は低湿地である上に、地域勢力である「メディア」(中の国)の勢力範囲であったために、両国間の行程として常用していなかったのかも知れません。西戎伝には、「大海」南岸に安息と條支の国境があって、條支側の城から海岸沿いに遡って北に行く陸路行程が書かれているから、場合によっては、こちらを陸行したのかも知れません。

 このあたり、後漢の使節団が踏破したかどうか不明ですが、途中の渡河も含めて、行程記事は、まことに丁寧です。何しろ、目前の隣国で安息長老(公国の国王か)は、使節団を率いた甘英に対して懇切丁寧に絵解きしたはずです。

◯西域「海西」の正体~大海西岸の大国「條支」
 海西は、対外的には、「裏海」岸から「黒海」岸に至るアルメニア王国として、ギリシャ、ローマに知られていたとしても、裏海側はアゼルバイジャン民族、黒海側はグルジア(現ジョージア)民族が、それぞれ支配する高度な自治の状態だったかも知れません。イラン高原を含め、当該地域の各国は、中央集権ではなかったので、各国の内情はわかりませんが、現在の現地状勢からそう見ているのです。

 ともあれ、アルメニアは、当ブログ筆者の孤独な「新説」によれば、西域伝で安息長老が「條支」と呼んだ西の大国であり、イラン高原を含めた地域の歴史から見ると、安息国成立のはるか以前から、黒海-裏海間の要地を占めて東西交易を仕切っていたとみるのです。何しろ、北のコーカサスは、急峻な壁であり、よほどの事情がない限り、大規模な交易路とはなり得なかったと思われるのです。

 安息国は、アケメネス朝ペルシャ時代、ないしは、それ以前と見える建国の当初、條支に師事していたとの風聞が残されています。つまり、條支としては、東方物産の仕入れ先として利用したと見えるのです。
 その時点では、西方のイラン高原は、メディアないしはペルシャの巨大勢力が占拠していたので、安息は、大勢力のいいなりにならないために、條支交易を利用したものと見えます。
 西方のペルシャは、強力な支配者でしたが、西方ギリシャ勢力と地中海東部の覇権を争い、再三、陸海の大軍をもってギリシャ侵攻したため、ギリシャを糾合したマケドニアのアレキサンドロス三世軍の報復を受け、決戦に大敗して一気に壊滅し、ペルシャ地域は、大規模な破壊を被ったので、支配の緩んだ状況下で、東の小勢力、パルティアが台頭し、諸勢力の支持を集めて、アレキサンドロス亡き後のイラン高原を支配したものです。
 という事で、関係諸国の関係を概観しただけでも、支配-被支配の力関係は、時代時代のものであり、また、必ずしも、武力が国益に繋がるものでない事が見えてくるものと思います。
                                未完

新・私の本棚 番外 NHK特集「シルクロード第2部」第十四集~コーカサスを越えて~ 再掲 2/3

               2021/02/03   追記 2021/04/15 2023/09/06

*「條支」という国~私見連投
 「條支」は字義から「分水嶺、分岐路を占めた大国」との趣旨のようですが、地理上、北は峻嶺コーカサス山地が遮断し、南は強力なパルティアやペルシャが台頭して国境越えの交易を管制していたでしょうから、東西交易に専念した街道だったようです。パルティア時代、表立って漢と交際できなかったが、條支が漏らしたと見える「安息は、買値の十倍で売って巨利を博している」との風聞が記録されています。こうした貴重な現地情報を残した後漢西域都督使節甘英を顕彰したいものです。

 なお、「條支」も、当然、当該ルートでは東西貿易独占で巨利を博したから、コーカサスを越える往来希な山道の密貿易も横行したようですが、あくまで、脇道です。「條支」が巨利を博したからこそ、抜け道の危険は十分報われたのです。

 当番組は、南道と見えるイラン高原経由をシルクロード本道と見て、中南道とでも言うべき、裏海~黒海道、「條支」経由を軽視したように見えます。確かに、アゼルバイジャン、アルメニア、グルジア(現ジョージア)の各地で取材はされていますが、それが、「シルクロード」の有力な支流だったとの説明は無いように思います。

 取材された事例が、後漢代から、五百年から一千年過ぎた時代の話ですから、研究者の時代感覚が違うのかも知れませんが、太古以来、商材は変わっても、極めて有力な脇道であった事情に変わりはないのではないかと思うのです。高名な「トロイア」は、この東西交易の黒海下流で、巨利を博していたかも知れないと思うのです。もちろん、ここで述べられた歴史観は、多分、取材班が、地域の旧ソ連圏の研究者から学んだものでしょうが、中国西域としての視点が欠けているのは、何とも残念です。

◯白鳥西域史学の金字塔
 何しろ、中国側には、漢書、後漢書の盛時以降、魏晋南朝代の閉塞も、北魏、北周の北朝時代に回復し、隋唐の西域進出に繋がる豊富な史料が、正史列伝に継承されていて、世界初の西域史学の創設者と言える白鳥庫吉(K. Shiratori)師が、これら全ての西域伝を読み尽くして、一連の労作を構築されているので、欧州研究者は、まず、白鳥氏の著作を学び、次いで、原典である諸正史を学んでいます。

◯魏略「西戎伝」の金字塔
 特に、魚豢「魏略」西戎伝は、それ自体正史ではありませんが、正史「三国志」に綴じ込まれているので正史なみに適確に継承され、スヴェン・へディンなどの中央アジア探検行の最高の指南書とされています。それにしても、NHKが「シルクロード」特集を重ねても、一貫して中国史料を敬遠しているのは、不可解です。

○「後生」笵曄の苦悩
 因みに、范曄は、後生の得で、袁宏「後漢紀」の本紀に挿入された西域都護班超に関わる記事と魚豢「魏略西戎伝」の大半を占める後漢代記事とを土台にして、後漢書「西域伝」をまとめ上げたのです。つまり、魏代以来、中国王朝は、西域とほぼ断交していて、魏晋朝と言うものの、西晋崩壊の際に洛陽の帝国書庫所蔵の公文書が壊滅したため、南朝劉宋高官であった笵曄は、西域伝の原史料は得られず、代々の史官ならぬ文筆家の余技であったので自家史料も乏しかったのです。

 そのため、笵曄は、魏略「西戎伝」後漢代記事の転用に際して、知識不足で史料の理解に苦しみましたが、建康に在って西域の事情を知るすべはなく、結局素人くさい誤読・誤解のあげくに、創作(虚構)の目立つ「西域伝」を書き上げた例が幾つか見られ、史料としての評価は随分落ちるのです。

 以上の事情は、遼東郡太守公孫氏の自立による東夷関係史料の欠落にも共通していて、笵曄は、後漢末献帝期の東夷史料欠落/空白を、氏一流の創作で満たしていて、特に、「倭」に関する小伝は、俄然創作に耽っていると見えます。

                                未完

新・私の本棚 番外 NHK特集「シルクロード第2部」第十四集~コーカサスを越えて~ 再掲 3/3

               2021/02/03   追記 2021/04/15 補足 2021/11/26 2023/09/06
閑話休題

○ローマ金貨の行方
 オアシス諸国だって「巨利」では負けてなかったはずで、二倍、三倍と重ねていたとすると、消費地ローマでの「価格」は、原産地中国の「原価」の一千倍でも不思議はありません。(世界共通通貨はなかったから、確認のしようはないのですが)

 西の大国ローマは、富豪達の絹織物「爆買い」で、金貨の流出、枯渇を怖れたようですが、厖大なローマ金貨は、パルティア、ペルシャを筆頭に行程途中の諸国、諸勢力の金庫に消え、原産地中国に届いていません。

 行程諸国が、山賊、掠奪国家の暴威も、死の砂漠も、ものともせず、東西交易を続けたわけです。何しろ、原産地と消費地が交易の鎖で繋がっていたから、さながら川の流れのように、ローマの富が絶えることなく、東に広く流れ下ったのです。

 ローマ帝国は、後年、積年の復讐として、投石機などの強力な攻城兵器を擁した大軍で、メソボタミアに侵攻し、パルティア王城クテシフォンを破壊し国庫を掠奪して、度重なる敗戦の「憂さ晴らし」としたのです。
 勝ち誇るローマ軍は、意気揚々と、当時の全世界最大と思える財宝を担いで凱旋し、一方、権力の源泉である財宝を失ったパルティア王家は、東方から興隆したペルシャ勢力(ササン朝)に王都を追い出されて、東方の安息国に引き下がったのです。

 ローマは、地中海近くのナバテア王国を圧迫したときは、砂漠に浮かぶオアシス拠点、ペトラの「暴利」を我が物にするために「対抗する商都」を設けてペトラ経由の交通を遮断し、その財源を枯渇させましたが、イラン高原全土に諸公国を組織化していたパルティアの場合は、さすがに、代替国家を設けることはできず、また、いわば、黄金の卵を産み続ける鵞鳥は殺さず、太った鵞鳥を痛い目に遭わせるのにとどめたのです。

 ローマ帝国は、賢明にも、『古代帝国アケメネス朝ペルシャを粉砕して、東西交易の利を確保しようとしなかったアレキサンドロスの「快刀乱麻」』は踏襲しなかったのです。結局、アレキサンドロス三世は、ペルシャ全土に緻密に構築された「集金機構」を壊しただけで、ギリシャ/マケドニア本位に組み替える事もせず、大王の死によって武力の奔流が絶えた後は、ペルシャ後継国家が台頭しただけであり、要は、鵞鳥が代替わりしただけでした。

◯まとめ
 シルクロードは、巨大な「ビジネスモデル」です。

*補足
 以上の記事の主旨を理解いただいていない読者があるようなので、若干補足します。
 
 まず、NHK特集「シルクロード第2部」は、大昔の番組ですが、最近再放送があったので、目にする方が多いと見て、注釈を加えたのです。
 「再放送」は、デジタル時代にあわせて、リマスターされたものの、内容は初回放送当時そのままであり、それ以来の時間経過を含めて、批判しておくべきと考えたものです。
 また、この地帯の再度の取材による「新シルクロード」が制作されていますが、当然、ここで展開された歴史観は踏襲されていて、依然として、大変大きな影響力を示しているので、その意味でも批判が必要と見たのです。

 以上の批判が今後のNHKの番組制作に反映するかどうかは、当ブログ筆者、当方の知るところではないのですが、いわば「サカナ」にして当方の愚見を披瀝したものです。もちろん、読者諸兄姉の熟知していることでしたら、読み飛ばして頂ければ結構です。

*第2部の偏倚
 一番、不満なのは、第1部が、中国史料と中国現地取材が結びついた堅実な時代考証に基づいていたのに対して、第2部は、ロシア、中央アジア系と思われる西寄りの史料に傾倒していて、中国史料を棄てている点です。それが、特に顕著なのは、漢書、後漢書などに見られる「安息国」及びそれ以西の世界に関する考察が無い点であり、大変不満に思えるのです。

 つまり、漢代中国史料の西域記事は、当時の中原から想像した、西の果てにある世界でさらにその西を見たおとぎ話が多く、あちこちに茶番めいた失態がありますが、この場で、それらの突き合わせをする事で、「ローマと漢を結んだ」「シルクロード」交易なる歴史浪漫の幻像が是正されると見たのですが、未だに満たされていないのです。

 また、先立つ回で無造作に描写されているマーブ(Merv)要塞が、漢代、パルティア王国が、東の守りであり、二万の守備兵に、一時、一万のローマ兵捕虜が加わっていたという大変興味ある挿話に触れていないのは、大変、大変勿体ないのです。
 何しろ、中国涼州付近の大勢力であった大月氏騎馬兵団が、新興の匈奴に駆逐されて西への逃亡の挙げ句、貴霜国を乗っ取り、さらに、西方の安息国に侵入して、国王親征軍を大破して莫大な財宝を奪った爪痕が広く遺されていて、安息国は、西方諸侯の後援を得て再興されたものの、以後、二万の大軍を常備して、東の盗賊国家貴霜国の奇襲に備えていたのです。

 ローマ兵捕虜の由来は、不敗を誇っていた共和制ローマ軍が、三頭政治の一角であったクラッススを総帥とし、もう一人の三頭であるカエサルが援助した総勢四万人の必勝態勢で臨みながら、敵地での会戦で大敗して総帥を喪い、大軍の半ばを捕虜とされ、講和したもののローマ兵一万を戦時捕虜として貢献せざるを得なかったことは、ローマ史における屈辱の大事件であり、欧州史書に明記されているのですが、それについて何も触れていないのは、何とも、もったいないことだと思うのです。

 何しろ、東方千数百㌔㍍の彼方に一万の捕虜を護送するのは、安息国が、交渉可能な文明大国であったことを物語っていて、ローマ兵も、いずれ、ローマ本国の雪辱戦によって送還されるものと信じて、服従したものとしたものと思われます。ところが、その後、共和制ローマは、三頭政治の崩壊で、ポンペイウスとカエサルの対決、内戦状態となり、勝者カエサルは、パルティア遠征軍を組織している段階で、暗殺の刃に倒れ、と言った具合で、ローマとパルティアの交渉/交戦が成立しなかったため、ローマ兵は、帰還できないまま、マーブの地で一生を終えたと言うことです。
 なお、パルティア侵攻に踏み切れなかったローマは、地中海岸のシリアを属州化し、シリア総督の下に四万の兵を常駐し、パルティアを仮想敵としていたとのことですから、パルティアにとって、帝制に移行したローマは、巨大な仮想敵という事だったのでしょう。

 また、兵士を主体に百人を要したと思われる漢武帝使節団が到達した「安息」は、安息国の西の王都でも無ければ、地域の居城であるカスビ海岸の旧都でもなく、マーブ要塞だったという事も取り上げる価値があったと思うのです。突然切り捨てられた中国史料の視点が、大変残念なのです。

 確かに、当番組は、東西交易を隊商の駱駝の列が往来していたサラセン時代以降を主眼としているように見えますが、かたや、漢代シルクロード浪漫を言い立てているので、大変不満が募るのです。

*参考書
 塩野七生 「ローマ人の物語」 三頭政治、カエサル、アウグストゥス、そして ネロ
 司馬遷 史記「大宛伝」、班固 漢書「西域伝」、范曄 後漢書「西域伝」、魚豢「西戎伝」(陳寿「三国志」魏志 裴松之補追)、袁宏「後漢紀」
 白鳥庫吉 全集「西域」

                                以上

2022年11月13日 (日)

新・私の本棚 「魏略西戎伝」条支大秦の新解釈 壱 導入篇  1/4

221114romaparthia   
                             2019/10/27 2019/11/08画像更新 2022/11/14

■おことわり
 ここに掲示したのは、当記事全体の考察を、そこそこに反映した「概念図」です。
 ことさら言うまでないと思いますが、ここに掲げたのは、魏略西戎伝(以下、西戎伝)に書かれた道里をまとめた「構想概念図」(Picture)であり、方位も縮尺も大体で、あえて「地図」にしていないのです。
 それなりに論理的に書いた労作なので、どうか「イメージ」などと軽蔑しないでいただきたいものです。作図に制約のあるマイクロソフトエクセルで書いたものです。
 
*古代人の認識 Retrospective Microcosmos
 衛星写真もグーグルマップなどの情報サービスもなく、地図もコンパスもない時代、頼りは、人々の見識であり、それは、各人の行動範囲に限定された確かな土地勘と行動範囲外の伝聞なので、甘英が知恵を絞っても、せいぜいこの程度の認識しか得られなかったと思うのです。と言うことで、当時の現地での認識で書かれた西戎伝の元データは、どの程度現地事情を反映していたか、当て推量にせざるを得ないと考えた次第です。
 特に重要なのは、甘英が取材した「安息」は、ここに書いたように安息創業の地である当地域を所領としていて、東北部の交易と防衛を担っていた「小安息」の視点で描いた世界像であり、大帝国の「グローバルな」目で描いたものではないのです。

 この二重構造は、甘英以後、後漢史官にも、魚豢にも理解されず、後漢書を編纂した范曄に至っては、不確かな情報であり書くに堪えないと棄てられ、そのような不確かな情報をもたらした諸悪の根源として、甘英は臆病な卑怯者扱いされたのです。

 当記事は、そうした冤罪を、魏略西戎伝の適切な解釈で払拭するものです。

 と言うものの、要点では、前世、つまり、史記、漢書以来の先行資料も参考にして重要地点の比定に勉めたのが、計三篇に上る考察です。
 ここでは、端的に、当方、つまり、当ブログ記事筆者の当面の結論、と言うか到達点を書き残すものです。読者に読んでいただけるか、肯定していただけるか、各読者の考え次第です。

■概要
 本稿では、西戎伝の解釈に対して従来当然とされていた句点解釈に異を唱え、条支、大秦国の所在地の再確認を願うものです。定説で決まりなどと言わずに、一度見直していただければ幸いです。
 端的に言うと、史書の条支国は、当時地域大国であるアルメニア王国です。条支が接する大海はカスピ海であり、海西、海北、海東は、カスピ海周辺、しかも南部にとどまり、甘英の探査はせいぜい条支であり、地中海岸に一切近づいてないので、海を怖れたとは、後世課せられた濡れ衣、つまり冤罪です。甘英は、一世の英傑西域都護班超の副官であり、皇帝、都護から命を帯びていて、使命を放棄して帰任したとは、信じられないのです。

 「西戎伝」を読む限り、大秦は「安息に在り」とだけあって遂に位置不詳であり、諸記事の「莉軒」から、大安息内、それも、小安息付近と見られるのです。当方なりの憶測は、図の通りであり、説明は後のお楽しみです。

                                未完

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