西域伝の新展開

正史西域伝解釈での誤解を是正するものです。恐らく、世界初の丁寧な解釈です。

2021年4月23日 (金)

新・私の本棚 番外 NHK特集「シルクロード第2部」第十五集~キャラバンは西へ~ 余談

                           2021/02/03
〇NHKによる番組紹介
 NHK特集「シルクロード第2部」、第十五集は「キャラバンは西へ~再現・古代隊商の旅~」。内戦前だったシリアの人々の暮らしや世界遺産・パルミラ遺跡を紹介する。

古代の隊商はどのようにして砂漠を旅したのか。 隊商都市のパルミラまで、約200kmの道のりを、ラクダのキャラバンを組織し、古代人そのままの旅を再現する。いまは激しい内戦下にあるシリア。80年代、取材当時の人々の暮らしや、破壊された世界遺産・パルミラ遺跡の在りし日の姿がよみがえる。

〇中国世界の西の果て
 この回は、中国両漢代、つまり、漢書と後漢書の西域伝の限界を超えているので、本来、注文を付ける筋合いはないのだが、シリアの探査で、何の気なしに後漢甘英を取り上げているので、異議を唱える。

 つまり、後漢書に范曄が書いた「甘英は、西の果ての海辺で、前途遼遠を怖れて引き返した」との挿話を引いて、地中海岸かペルシャ湾岸か不明というものの、どうも、取材班は、目指す地中海岸を見ているようである。

 しかし、ここまで踏破してきた旅程を思えば、後漢代に、安息国との国交を求めた甘英が、既にメルブで使命を達成していながら、これほどの苛酷な長途を旅したとは思えなかったはずである。まして、当時、この行程は、西のローマとの紛争下、大安息国、パルティアの厳戒下にあり、地中海岸に達する前に、王都クテシフォンで国王に拝謁した記録すらないのに、王都を越えて敵地である地中海岸に達したはずがない。

*笵曄の誤報~幻想の始まり
 そもそも、後漢書で笵曄は、漢使は、安息国すら尋ねてないとの見解で、それは誤解としても、数千里彼方まで行ったとの誤解は、なぜなのだろうか。
 現代人の眼で見ても、安息国東部辺境メルブの西域は、北に延びた「大海」カスピ海とその西岸、「海西」と呼ばれた條支(アルメニア)止まりである。

 後漢書の西域世界像を描いた笵曄は、一旦、小安息の隣国條支の世界観を描きながら、なぜか、数千里に及ぶ大安息国の隣国として、遠国の條支(ローマ属領シリア)と西の海(地中海)を見てしまったのではないだろうか。

 さながら、砂漠の果ての蜃気楼に甘英の道の果てを見たようである。笵曄は、後漢書西域伝の名を借りて、事実に反する一大ファンタジーを描いたのだが、以後、今日に至るまで、不朽の傑作として信奉されているのである。

*甘英英傑談~孤独な私見
 以上は、世界の定説に背く孤独な令和新説だから、NHKの番組制作者が知らなくて当然だが、取材班が、後漢人甘英の足跡を辿っているように感じたとき、一切記録がないことに感慨はなかったのかと思うだけである。

 甘英は、漢武帝代に交渉がありながら、長年、接触が絶えていた西方万里の大国安息国との盟約を再現した功労者なのである。
 当ブログ筆者は、甘英の偉業を笵曄が創作で練り固めたために、偉業として正当に評価されないことに不満で、ここに書き遺すものである。

〇まとめ
 言うまでもなく、当シリーズは、NHKの不朽の偉業であり、以上は、それこそ、天上の満月を取ってこいと命ずるものだが、僭越にも不満を記したのである。

                                以上

新・私の本棚 番外 NHK特集「シルクロード第2部」第十三集~知られざる東西交流の歴史 雑感追記 3/3

                     2021/02/02 2021/04/23

*幻の范曄原本
 先に挙げた、後漢書夷蕃列傳は「笵曄の誤解に基づく勝手な作文」満載なる私見は、魚豢が後漢朝公文書を直視した記述と笵曄が魏略を下敷きに潤色した記述とを対比して得た意見であり、先賢の評言にも見られる「定説」です。

 編者范曄が、重罪を得て嫡子共々処刑され家が断絶したため、范曄「後漢書」遺稿が、著作として決定稿であったかどうか、確実に知ることができません。陳寿「三国志」は、陳寿の手で最終稿まで仕上げられていて、没後、西晋朝の官人が、一括写本の手配を行ったことが記録されています。いわば、三国史の陳寿原本、と言うか、確定稿を、数人ならぬ数多くの関係者や読者が、つぶさに確認しているのです。

 これに対して、范曄後漢書は、いつ、誰が、遺稿を整えたのか不明です。隋唐統一以前、数世紀にわたる南北朝乱世をどのように写本、継承され、唐代に正史に列することになったのか、不明の点が多いのです。従って、范曄原本が存在したのか、関係者が体裁を整えたものなのかすらわからないのです。その意味で言うと、後漢時、范曄原本は、誰も知らないのです。

 このような事態は、史上最高の文筆家を自認したであろう范曄には大変残念な結果と思います。

*袁宏「後漢紀」西域条
 袁宏「後漢紀」は、百巻を超えて重厚な漢書、後漢書と異なり、皇帝本紀主体に三十巻にまとめた、言うならば準正史です。正史でないため、厳格な継承がされず、誤字が目立ちますが、佚文ならぬ善本が継承されています。

 列伝を持たないため、「西域伝」は存在しませんが、本紀に、西域都護班超の功績を伝える記事が残されていて、甘英派遣の成果も残されています。つまり、後漢紀は、西域伝や東夷伝を本紀内に収容したと言えます。

 魚豢「西戎伝」に続き、范曄「後漢書」西域伝の先駆となる小「班超伝」ですが、范曄が遺したおとぎ話は見えません。范曄が、魚豢に続いて、袁宏まで無視した意図は、後世人には知る由もありません。

 范曄は、「後漢書」編纂に際して、諸家の後漢書稿を換骨奪胎したと言いますが、史書として、最も参考になったのは「後漢紀」と思われるので、いわば笵曄の手口を知る手がかりとなるものもあります。

*余談の果て
 と言うことで、番組紀行がメルブを辿ったことから、種々触発された余談であり、これほど現地取材するのであれば、両漢紀の西域探査の果てという見方で、掘り下げていただければ良かったと思うのです。

 また、共和制末期、帝政初期のローマとパルティアの角逐、と言うか、ローマの侵略欲を紹介していただければ、いらぬ幻想は影を潜めていたものと思うのです。

*再取材の希望
 と言うことで、メルブは、仏教布教の西の果てという意義も重要ですが、東西に連なる三大文明世界の接点との見方も紹介して欲しかったものです。
 いや、遠い過去のことはさておき、再訪、再取材に値すると思うのです。西方は、ローマ史に造詣の深い塩野七生氏の役所(やくどころ)に思うのですが、東方は、寡聞にして、陳舜臣氏を継ぐ方に思い至らないのです。

*参考書
 塩野七生 「ローマ人の物語」 三頭政治、カエサル、アウグストゥス、そして ネロ
 司馬遷 史記「大宛伝」、班固 漢書「西域伝」、范曄 後漢書「西域伝」、魚豢「西戎伝」、袁宏「後漢紀」
 白鳥庫吉 全集「西域」
                               以上

新・私の本棚 番外 NHK特集「シルクロード第2部」第十三集~知られざる東西交流の歴史 雑感追記 2/3

                     2021/02/02 2021/04/23
*ローマ・パルティア戦記
 因みに、敗戦には必ず復仇するローマで、三頭政治末期の内戦を制して最高指揮官の地位に就いたカエサルは、パルティア遠征を企てたが暗殺に倒れ、カエサル没後の内乱期、エジプトを支配したアントニウスは、カエサル遺命として、前36年にエジプト軍と共にパルティア遠征したが敗退しています。
 アウグストゥス帝の前21年、本格的な講和が成立し捕虜返還を交渉しましたが、その間30年を要したため、捕虜は、全て世を去っていたといいます。余談ですが、初代皇帝アウグストゥスは、中国の秦始皇帝と大きく異なり、元老院の支持のもと密やかにローマの共和制に終止符を打ちましたが、表向きは、元老院の首席議員の立場にとどまり、専制君主を名乗らなかったのです。

*シリア準州駐屯軍
 ローマ-パルティア間に講和が成立しても、ローマ側では、共和制時代から維持してきたメソポタミア侵略の意図は堅持され、ローマ属州のシリアに総督を置き、四万人を常駐させたのです。

*あり得ない漢使シリア訪問~余談
 范曄は、『後漢使甘英が安息の「遙か西方の條支」まで足を伸ばした』と「創作」したので、「條支」を「シリア」(現在のレバノンか)と見る解釈がありますが、街道整備のパルティアの国土を縦走する行程は、延延百日を要する遠路であり、異国軍人のそのような長途偵察行が許されるはずはなく、まして、その果てに敵国との接触は論外でした。

 いくら、「安息」の名に恥じない専守防衛の国であって、常備軍を廃していても、侵略を撃退する軍備を擁していたのです。

 甘英の本来の使命は、安息国との締盟であって、援軍派兵を断られた以上、往復半年はかかる探査行など論外と見るべきです。西の王都まで数千里の長途であることは、武帝使節の報告で知られていたのです。
 いや、もし、実際に君命を奉じて、(范曄が安息西方と見た)厖大な日数と資金を費やして「條支」まで足を伸ばしたのなら、いかなる困難に直面しても、君命を果たすしかなかったのです。西域と塗膜の副官たる軍人甘英が、使命を果たさずに逃げ帰ったら、そのような副官に使命を与えた上官班超共々、軍律に従い厳しく処断されるのですが、そのような記録は一切残っていません。笵曄は、文官であったため、軍律の厳しさを知らなかったのでしょうが、それにしても、西域都護副官を臆病者呼ばわりするのは、非常識そのものです。
 因みに、班超は、勇猛果敢な軍人ですが、漢書を編纂した班固の実弟であり、文官として育てられたので、教養豊かな文筆家/蔵書家であり、笵曄は、そのような偉材に喧嘩をふっかけたことになるのです。
 いや、当ブログ筆者の意見では、條支は、途方もない西方の霞の彼方などではなく、甘英の視界にある巨大な塩水湖、大海(カスピ海)のほんの向こう岸と信じているので、范曄の意見は、誤解の積み重ねに無理筋を通した暴論に過ぎないのですが、なぜか、范曄の著書は俗耳に訴えるので、筋の通った正論に耳を貸す人はいないのです。

 いや、またもや、長々と余談でした。

*東西交流の接点
 と言うことで、メルブは、「ジュリアス・シーザー」が象徴する西のローマと「武帝」が象徴する東の漢の接点になったのです。さすがに、時代のずれもあって、東西両雄が剣を交えることはなく、「安息長老」(おそらく、当方安息国の国主)が、漢人の知りたがる西の果ての世界に関してローマの風聞を提供したように見えます。

*西域都護班超と班固「漢書」
 改めて言う事もない推測ですが、甘英の西域探査行の詳細にわたる報告は、西域都護班超のもとから、後漢帝都の洛陽にもたらされたものと思われます。また、先に触れたように、班超は漢書を編纂した班固の実弟であり、当然、漢書西域伝の内容は、班超のもとに届いたと思われます。つまり、漢書西域伝は班超座右の書であり、西域都護にとって無駄な探査行など意図しなかったと見ます。

 恐らく、都督府の壁には「西域圖」なる絵図を掲げていたでしょう。(魚豢西戎伝が「西域旧圖」に言及しています)

*范曄「後漢書」の「残念」~余談/私見
 西域探査功労者甘英は、笵曄に「安息にすら行っていないのにホラ話を書いた」と非難され「條支海岸まで行きながら怖じ気づいて引き返した」と軍人として刑死に値する汚名を被っていますが「後漢紀」に依れば、班超が臨んだ「西海」は、メルブにほど近い「大海」、塩水湖「裏海」です。
 よって、魚豢「魏略西戎伝」でも明らかなように、甘英の長途征西は、笵曄の作文と見ます。

 因みに、魚豢「魏略」は、諸史料所引の佚文が大半であるため、信用されない傾向があるのですが、「魏略西戎伝」は、范曄同時代の裴松之が「三国志」に全篇追加したので、三国志本文と同様に確実に継承され、紹熙本/紹興本も、当然、その全容を伝えているので、今日でも、容易に読むことができます。(筑摩書房刊の正史「三国史」にも、当然、全文が翻訳収録されています)

*笵曄の限界と突破
 魚豢、陳寿は、曹魏、西晋で、後漢以来の帝都洛陽の公文書資料の山に接する権限がありましたが、笵曄は、西晋が崩壊した後の江南亡命政権東晋の官僚だったので、参照できたのは「諸家後漢書」など伝聞記事だったのです。諸家後漢書の中で出色の袁宏後漢紀は、ほぼ完本が継承されているので、容易に全文に触れることができ、部分訳とは言え、日本語訳も刊行されています。

                               未完

新・私の本棚 番外 NHK特集「シルクロード第2部」第十三集~知られざる東西交流の歴史 雑感追記 1/3

                     2021/02/02 2021/04/23
〇NHKによる番組紹介
 NHK特集「シルクロード第2部」、第十三集は「灼(しゃく)熱・黒砂漠~さいはての仏を求めて~」。旅人が歩いた道の中で最も過酷なルート、カラクム砂漠を踏破する。
 シルクロードの旅人が歩いた道の中で最も過酷なルート、カラクム砂漠。何人も生きて越えることができないと言われた死の砂漠である。取材班はその道をトルクメンの人々の案内で踏破、チムール時代の壮大な仏教遺跡が残るメルブまでを紹介する。

〇待望の再放送~余談の山
 滅多にお目にかかれないメルブ(Merv)を見たのは貴重でしたが、漢代以来、東西を繋いだメルブの意義が見逃されているのは残念です。

 メルブは、漢書「西域伝」、後漢書「西域伝」で「西域」つまり漢の世界の西の果ての大国として紹介された「安息国」の国境要塞でした。

 そのため、漢武帝使節と後漢西域都護班超の副官甘英の97年の探検行が、西方では「パルティア」と呼ばれた「安息国」国境要塞メルブを、訪問行の西の果てとしたことの意義が見過ごされています。

 大「パルティア」首都、遙か西方メソポタミアの「王都」クテシフォンに、(強暴な)武人である漢使が詣でて、大「パルティア」国王に謁見することは論外でした。

 そのため、両代漢使はメルブで小安息国長老と会見し使命を果たしました。国都に参上せず国王に謁見しなくても、漢使の任務を果たしたのです。

 倭人伝解釈に於いて、随分参考になる前例です。

*メルブの意義
 当時、イラン高原を統轄していた大「パルティア」は、東西交易の利益を独占して当時世界一の繁栄を得ていましたが、その発祥の地でもあるメルブ(Merv)地域を最重要拠点として守備兵二万を常駐させていたのです。

 東方から急襲した大月氏騎馬戦力の猛攻により、国王親征部隊が壊滅して国王が戦死した前例があり、以後、大兵力を固定して、東方の蛮族(大月氏)の速攻に臨戦態勢で備えていたのですが、漢書「陳湯伝」で知られる匈奴郅支単于の西方侵攻のように、月氏事件は、空前でもなければ絶後でもなかったのです。

*西方捕虜到来
 因みに、大「パルティア」は、西方のメソポタミア地方では、ローマ軍の侵入に対応していて、共和制末期の三頭政治時代、シリア属州提督の地位にあった巨頭クラッスス(マルクス・リキニウス・クラッスス)の率いる四万の侵入軍を大破して一万人を超える捕虜を得て、「パルティア」は、一万の捕虜を東方国境防備に当てたとされています。(前54年)
 降伏した職業軍人は、遠からず両国和平の際に和平時に身代金と交換で送還されると信じて、数ヵ月の移動に甘んじたのです。ローマ側としては、生き残った万余の兵士を無事帰国させるために、司令官を引き渡し、捕虜をいわば人質として提供したしたものです。

 欧州側では、「東北国境」と云うことで、寒冷地を想定したようですが、メルブは、むしろ温暖なオアシスであり、何しろ、凶悪な敵を食い止める使命を課せられていて、それなりの処遇を得ていたはずです。この時、一万人の捕虜を得たおかげで、一万人の守備兵を帰宅させたので、地域社会(パルティア発祥の地)に、大きな恩恵を与えたのです。

 なお、ローマ正規軍には、ローマの中級市民兵士や巨頭ガイウス・ユリウス・カエサル(シーザー)が援軍としたガリア管区の兵士も含まれていたから、一時、メルブには、土木技術を有し、ギリシャ語に通じた教養のあるローマ人が住んでいたことになります。恐らく、両国軍人の会話は、ギリシャ語で進められたはずです。いや、まだ、アレキサンドロスか率いたギリシャ語圏の兵士や商人がいたかも知れません。
 また、漢書西域伝に依れば、安息国人は、比較に横書きで文字を書き付けていたようですから、共に、文明人だったのです。

                                未完

2021年4月15日 (木)

新・私の本棚 番外 NHK特集「シルクロード第2部」第十四集~コーカサスを越えて~ 雑感追記 3/3

               2021/02/03   追記 2021/04/15
閑話休題

○ローマ金貨の行方
 オアシス諸国だって「巨利」では負けてなかったはずで、二倍、三倍と重ねていたとすると、消費地ローマでの「価格」は、原産地中国の「原価」の一千倍でも不思議はありません。(世界共通通貨はなかったから、確認のしようはないのですが)

 西の大国ローマは、富豪達の絹織物「爆買い」で、金貨の流出、枯渇を怖れたようですが、厖大なローマ金貨は、パルティア、ペルシャを筆頭に行程途中の諸国、諸勢力の金庫に消え、原産地に届いていません。

 行程諸国が、山賊、掠奪国家の暴威も、死の砂漠もものともせず、東西交易を続けたわけです。何しろ、原産地と消費地が交易の鎖で繋がっていたから、さながら川の流れのように、ローマの富が絶えることなく、東に広く流れ下ったのです。

 ローマ帝国は、後年、積年の復讐として、投石機などの強力な攻城兵器を擁した大軍で、メソボタミアに侵攻し、パルティア王城クテシフォンを破壊し国庫を掠奪して、度重なる敗戦の「憂さ晴らし」としたのです。

 勝ち誇るローマ軍は、意気揚々と、当時の全世界最大と思える財宝を担いで凱旋し、一方、権力の源泉である財宝を失ったパルティア王家は、東方から興隆したペルシャ勢力に王都を追い出されて、東方の安息国に引き下がったのです。

 ローマは、地中海近くのナバテア王国を圧迫したときは、砂漠に浮かぶに浮かぶオアシス、ペトラの「暴利」を我が物にするために「対抗する商都」を設けてペトラ経由の交通を遮断し、その財源を枯渇させましたが、イラン高原全土を組織化していたパルティアの場合は、さすがに、代替国家を設けることはせず、また、いわば、黄金の卵を産み続ける鵞鳥は殺さず、太った鵞鳥を痛い目に遭わせるのにとどめたのです。
 古代帝国アケメネス朝ペルシャを粉砕して、東西交易の利を確保しようとしなかったアレキサンドロスの「快刀乱麻」は、踏襲しなかったのです。結局、鵞鳥の代替わりになっただけでした。

○まとめ
 シルクロードは、巨大な「ビジネスモデル」です。
                                以上

新・私の本棚 番外 NHK特集「シルクロード第2部」第十四集~コーカサスを越えて~ 雑感追記 2/3

               2021/02/03   追記 2021/04/15

*「條支」という国~私見連投
 「條支」は字義から「分水嶺、分岐路を占めた大国」との趣旨のようですが、地理上、北は峻嶺コーカサス山地が遮断し、南は強力なパルティアやペルシャが台頭して国境越えの交易を管制していたでしょうから、東西交易に専念した街道だったようです。パルティア時代、表立って漢と交際できなかったが、「安息は、買値の十倍で売って巨利を博している」との風聞が記録されています。こうした貴重な現地情報を残した甘英を顕彰したいものです。

 なお、「條支」も、当然、東西貿易独占で巨利を博したから、コーカサスを越える往来希な山道の密貿易も横行したようですが、あくまで、脇道です。「條支」が巨利を博したからこそ、抜け道の危険は十分報われたのです。

 当番組は、南道と見えるイラン高原経由をシルクロード本道と見て、中南道とでも言うべき、裏海~黒海道、「條支」経由を軽視したように見えます。確かに、アゼルバイジャン、アルメニア、グルジア(現ジョージア)の各地で取材はされていますが、それが、「シルクロード」の有力な支流だったとの説明は無いように思います。

 取材された事例が、後漢代から、五百年から一千年過ぎた時代の話ですから、研究者の時代感覚が違うのかも知れませんが、太古以来、商材は変わっても、有力な脇道であった事情に変わりはないのではないかと思うのです。高名な「トロイア」は、この東西交易の黒海下流で、巨利を博していたかも知れないと思うのです。もちろん、ここで述べられた歴史観は、多分、取材班が、地域の旧ソ連圏の研究者から学んだものでしょうが、中国西域としての視点が欠けているのは、何とも、残念です。

○白鳥西域史学の金字塔
 何しろ、中国側には、漢書、後漢書の盛時以降、魏代の閉塞も、北魏、北周の北朝時代に回復し、隋唐の西域進出に繋がる豊富な史料が、正史列伝に継承されていて、世界初の西域史学の創設者と言える白鳥庫吉(K. Shiratori)氏が、これら全ての西域伝を読み尽くして、労作を残しているので、欧州研究者は、まず、白鳥氏の著作を学び、次いで、原典である諸正史を学んでいます。

○魏略西戎伝の金字塔
 特に、「魏略西戎伝」は、それ自体正史ではありませんが、正史「三国志」に綴じ込まれているので、正史なみに適確に継承され、スヴェン・へディンなどの中央アジア探検行の最高の指南書とされています。それにしても、NHKが、「シルクロード」特集を重ねても、一貫して中国史料を敬遠しているのは、不可解です。

○「後生」笵曄の苦悩
 因みに、范曄は、後生の得で、袁宏「後漢紀」の本紀に挿入された西域都護班超に関わる記事と魚豢「魏略西戎伝」の大半を占める後漢代記事とを土台にして、後漢書「西域伝」をまとめ上げたのです。つまり、魏代以来、中国王朝は、西域とほぼ断交していて、魏晋朝と言うものの、西晋崩壊の際に洛陽の帝国書庫所蔵の公文書が壊滅したため、南朝劉宋高官であった笵曄は、西域伝の原史料は得られず、代々の史官ならぬ文筆家の余技であったので自家史料も乏しかったのです。

 そのため、笵曄は、魏略「西戎伝」後漢代記事の転用に際して、知識不足で史料の理解に苦しみましたが、建康に在って西域の事情を知るすべはなく、結局素人くさい誤読・誤解のあげくに、創作(虚構)の目立つ「西域伝」を書き上げた例が幾つか見られ、史料としての評価は随分落ちるのです。

 

                                未完

新・私の本棚 番外 NHK特集「シルクロード第2部」第十四集~コーカサスを越えて~ 雑感追記 1/3

               2021/02/03   追記 2021/04/15
〇NHKによる番組紹介
NHK特集「シルクロード第2部」、第十四集は「絹と十字架~コーカサスを越えて~」。雄大なコーカサス山脈を縫いながら、絹交易のもうひとつのルートを明らかにする。
カスピ海の西岸モシチェワヤ・バルカで唐代の中国製絹が発見された。絹の出土地としては最西端にあたる。中国とローマを結ぶ絹交易は、税金の高いササン朝ペルシャを避け、カスピ海北岸をう回、コーカサス地方を縦断して行なわれていた時代がある。雄大なコーカサス山脈を縫いながら、絹交易のもうひとつのルートを明らかにする。

〇ささやかな誤解
 当番組の時代考証では、ペルシャを代名詞としているイラン高原の勢力を回避した「もう一つのルート」を考察していますが、コーカサスの高嶺を越えたと見ているのはどうかと思います。

*條支に至る道~魏略「西戎伝」
 ササン朝時代の前である、後漢代に安息国を訪ねた甘英は、西の大海カスピ海の中部を横断する「海路」を確認し、その報告は、三国魏の魚豢編纂の魏略「西戎伝」(陳寿「三国志」の魏書第三十巻巻末に全文収録)に記録されています。

 往年の安息(パルティア)東部要塞メルブから北上した海東の港から、大海の西岸である海西、今日のアゼルバイジャンのバクーにあたる半島(大海海中の島)に至ります。裏海(カスピ海)は塩水で水の補給が課題と言っても、数日で着くので難路でもなんでもありません。

 地域の地形を確認すると、「大海」の南岸は低湿地である上に、地域勢力である「メディア」(中の国)の勢力範囲であったために、両国間の行程として常用していなかったのかも知れません。西戎伝には、「大海」南岸に安息と條支の国境があって、條支側の城から海岸沿いに遡って北に行く陸路行程が書かれているから、場合によっては、こちらを陸行したのかも知れません。

 このあたり、後漢の使節団が踏破したかどうか不明ですが、途中の渡河も含めて、まことに丁寧です。何しろ、目前の隣国で安息長老(公国の国王か)は、使節団を率いた甘英に対して、懇切丁寧に絵解きしたはずです。

○西域「海西」の正体~條支
 海西は、対外的には、「裏海」岸から「黒海」岸に至るアルメニア王国として、ギリシャ、ローマに知られていたとしても、裏海側はアゼルバイジャン、黒海側はグルジア(現ジョージア)が高度な自治の状態だったかも知れません。イラン高原を含め、当該地域の各国は、中央集権だったわけではないので、内情はわかりませんが、現在の現地状勢からそう見ているのです。

 ともあれ、ここは、当ブログ筆者の孤独な「新説」によれば、西域伝で安息長老が「條支」と呼んだ西の大国であり、イラン高原を含めた地域の歴史から見ると、安息国成立のはるか以前から、黒海裏海間の要地を占めて東西交易を仕切っていたのです。

 安息国は、当初、條支に師事していたとの風聞が残されていますが、まだ、安息が弱小地方勢力だった時代のことと思われます。

                                未完

2019年10月27日 (日)

新・私の本棚 「魏略西戎伝」条支大秦の新解釈 参 史料篇   5/5

                             2019/10/27
【屬大秦】 承前 列記されたのは、大秦属国であり、安息近隣でもある。
 且蘭王屬大秦。從思陶國直南渡河,乃直西行之且蘭三千里。道出河南,乃西行,從且蘭復直西行之汜復國六百里。

 且蘭王は、大秦に属す。思陶国から真南に河を渡り、乃ち直西に三千里行くと且蘭である。道を河南に出て乃ち西に行き、且蘭からまた真西に六百里行くと汜復国である。


 南道會汜復,乃西南之賢督國。

 南道は汜復に会い、乃ち西南して賢督国である。

 且蘭、汜復直南,乃有積石,積石南乃有大海,出珊瑚,真珠。

 旦蘭、汜復の南に乃ち積石が有る。積石の南に乃ち大海があり、珊瑚と真珠を出す。

 且蘭、汜復、斯賓、阿蠻,北有一山,東西行。大秦、海西,東各有一山,皆南北行。

 且蘭、汜復、斯賓、阿蛮は、北に一山があって東西に行く。大秦、海西は、それぞれ東に一山があって、皆南北に行く。

 賢督王屬大秦,其治東北去汜復六百里。

 賢督王は大秦に属する。其治は汜復を東北に去る六百里である。

 汜復王屬大秦,其治東北去于羅三百四十里渡海也。

 汜復王は大秦に属する。其治は于羅を東北に去る三百四十里で渡海する。

 于羅屬大秦,其治在汜復、東北渡河,從于羅東北又渡河,斯羅東北又渡河。

 于羅は大秦に属する。其治は汜復に在る。東北に渡河し。于羅から東北し又渡河し、斯羅から又東北し渡河する。

 斯羅國屬安息,與大秦接也。

 斯羅国は安息に属し大秦と接している。
 注 方向付き「去」の方向は、目的国から逆算のようである。でないと、
   方角が錯綜する。ここでも、大秦は安息に接している。

【大秦西】 とってつけたような西の果て記事で中道記事の結尾である。
 大秦西有海水,海水西有河水,河水西南北行有大山,西有赤水,赤水西有白王山,
 白玉山有西王母,西王母西有脩流沙,流沙西有大夏國、堅沙國、屬繇國、月氏國、四國西有黑水,所傳聞西之極矣。

 大秦の西に海水が有り、海水の西に河水が有る。河水の西に南北に行く大山が有る。西に赤水が有り、赤水の西に白王山が有る。(白玉山ではない)
 白玉山には西王母が有る。西王母の西は流沙が有る。流沙の西に、大夏国、竪沙国、属繇国、月氏国が有る。四国の西に黒水が有る。所伝は(世界の)西の果てと聞く。(別記事の衍文か) 以下略

 注 白玉山、西王母、流沙、大夏国、竪沙国、属繇国、月氏国、黒水は、
   白王山から白玉山の連想で中国世界の「西の果て」を大秦幻影の西に
   投影したのであり、甘英の証言ではない。因みに、赤水は紅海か。
総じて、各国記事が入り乱れているようだが、ここでは追求しない。

 以下、北新道、つまり、匈奴に近い北道諸国記事が続き、魚豢短評で終わる。残念ながら、冒頭部の記事共々今回の記事の主題を外れるので割愛した。
 日本文作成に際して筑摩書房刊「三国志」魏書巻三十の訳文を参考にした。
 当方の所感としては、このように比類無き記事を後世に伝えてくれた班超、甘英、魚豢、裴松之、そして、范曄の諸先哲に深く感謝する次第である。

                             史料篇 完

新・私の本棚 「魏略西戎伝」条支大秦の新解釈 参 史料篇   4/5

                             2019/10/27
【大秦多金】 独立国でないので、前置きは略式である。
 「大秦國一號犁靬,在安息」、大秦多金、銀、銅、鐵、鉛、錫、神龜、白馬、硃髦、駭雞犀、玳瑁、玄熊、赤螭、辟毒鼠、大貝、車渠、瑪瑙、南金、翠爵、羽翮、象牙、符采玉、明月珠、夜光珠、真白珠、虎珀、珊瑚、赤白黑綠黃青紺縹紅紫十種流離、璆琳、琅玕、水精、玫瑰、雄黃、雌黃、碧、五色玉、黃白黑綠紫紅絳紺金黃縹留黃十種氍毹、五色毾㲪、五色九色首下毾㲪、金縷繡、雜色綾、金塗布、緋持布、發陸布、緋持渠布、火浣布、阿羅得布、巴則布、度代布、溫宿布、五色桃布、絳地金織帳、五色鬥帳、一微木、二蘇合、狄提、迷迷、兜納、白附子、薰陸、郁金、芸膠、薰草木十二種香。

 {大秦国は一名犁靬であり、安息に在る}金、銀、銅、鉄、鉛、錫、神亀、白馬、赤髦、駭雞犀、髭髧、玳瑁、玄熊、赤螭、辟毒鼠、大貝、車渠、瑪瑙、南金、翠爵、羽翮、象牙、符采玉、明月珠、夜光珠、真白珠、虎珀、珊瑚、赤・白・黒・緑・黄・青・紺・縹・紅・紫の十種流離、璆淋、瑯玕、水精、玫瑰、雄黄、雌黄、碧、五色玉、黄・白・黒・緑・紫・紅・絳・紺・金・黄・縹留黃の十種氍毹、五色毾㲪、五色九色首下毾㲪、金縷繍,雑色綾、金塗布、緋持布、発陸布、緋持渠布、火浣布、阿羅得布、巴則布、度代布、温宿布、五色桃布、絡地金織帳、五色鬥帳、一微木、二蘇合、狄提、迷迷、兜納、白附子、薰陸、郁金、芸膠、薫草木十二種香を多く産する。

【大秦道】 陸道と水道
 大秦道既從海北陸通,又循海而南,與交趾七郡外夷比,又有水道通益州、永昌、故永昌出異物。前世但論有水道,不知有陸道,今其略如此,其民人戶數不能備詳也。

 大秦道は、既に海北から陸通しているが、海に循して南(に陸通)すると、交趾七郡の外夷と比し、また、水の道は、益州永昌に通じ、それゆえ永昌から異物が出る。前世は(益州へ)水の道が有るとだけ論じて、陸の道は知らなかった。今其の略は此の如くである。其の民の人戸数は詳らかでない。

 注 益州、永昌へは、インド北部に通商路が通じていたとされている。
   交趾へは永昌経由と思われる。物資の量は少なく、移動速度は低いが、
   交易路の鎖は存在していたということである。

 自蔥領西,此國最大,置諸小王甚多,故錄其屬大者矣。
 葱嶺の西では此国が最大であり、諸小王を甚だ多く置いている。よって、其属の大なる者を録する。

【屬大秦】 大秦属国であるが、安息近隣国でもある。
 澤散王屬大秦,其治在海中央,北至驢分,[水行半歲,風疾時一月到],最與安息安穀城相近,西南詣大秦都不知里數。
 沢散王は大秦に属す。その治は海(大海ではない)の中央にある。北して驢分に至る{水行半年である。風疾ければ一カ月で到る}。安息安穀城が最も近い。西南大秦都に詣でる里数はわからない。
 注 []内は衍文。半年航行は法外である。西南に大秦都があると云うが、
   道里がわからないほど疎遠なのに、属しているというのも不可解。
 驢分王屬大秦,其治去大秦都二千里。從驢分城西之大秦渡海,飛橋長二百三十里,渡海道西南行,繞海直西行。
 驢分王は、大秦に属す。その治は大秦都を去る二千里にある。驢分城から西して大秦に海を渡るかけ橋が二百三十里長ある。海道を渡り西南に行き、海を撓めて真西に行く。(大秦に行くというのか)
 注 架橋は、ローマの得意技である。

                                未完

新・私の本棚 「魏略西戎伝」条支大秦の新解釈 参 史料篇   3/5

                             2019/10/27
【置三十六將】 上院(元老院)の理想化した姿かも知れないが、趣旨不明。
 置三十六將,每議事,一將不至則不議也。
 三十六将を置き事を議するに、一将が至らない時は議しない。
 王出行,常使從人持一韋囊自隨,有白言者受其辭投囊中,還宮乃省爲決理。
 王の外出時、常に一韋囊を持った従者を伴い、白言の者があれば、その辞を受けて囊中に投じ、宮に還って省に理を決させる。
 以水晶作宮柱及器物。作弓矢。
 水晶で宮柱や器物を作り。弓の矢を作る。(装飾はガラス細工ではないか)
 其別枝封小國,曰澤散王,曰驢分王,曰且蘭王,曰賢督王,曰汜復王,曰于羅王,其餘小王國甚多,不能一一詳之也。
 其別枝を小国に封ずる。曰く沢散王、曰く驢分王、曰く且蘭王、曰く賢督王、曰く汜復王、曰く于羅王。其以外の小王国は甚だ多く一一書けない。

【國出細絺】 羊毛絨毯、壁掛け(タペストリー)などが特産である。
 國出細絺。作金銀錢金錢一當銀錢十。有織成細布,言用水羊毳名曰海西布。
 (其)国は目の細かい絺(くずぬの)を出する。金銀銭を作り、金銭一枚が銀銭十枚に當る。細かい布(きれ)を織成し、「水羊毳」(羊和毛)を用いると言う。海西布と名付けている。
 中国と異なり、金貨、銀貨が普及しているのは、交易世界だからであろう。
 此國六畜皆出。水羊毳,或云非獨用羊毛也,亦用木皮或野繭絲作,織成氍毹、毾㲪、罽帳之屬皆好,其色又鮮于海東諸國所作也。(二字脱字)
 此国は六畜みな産する。一説には、水羊毳は、羊毛だけではなく木皮や野繭糸を用いると云う。氍毹(毛氈)も毾㲪(毛織敷物)や罽帳(毛織几帳)の属を織成し皆好ましい。其色も海東諸国の作るものより鮮やかである。
 注 古来、当地方は、毛織カーペットが大の特産であったと思われる。
   「此國六畜皆出水或云」は、二字脱字と思われるので補充した。
 又常利得中國絲,解以爲胡綾,故數與安息諸國交市於海中。海水苦不可食,故往來者希到其國中。
 また、手に入った中国の絹を解して胡綾にして利を得ている。故にしばしば安息の諸国と海上交市する。海水は苦く飲めないため、往来者は其国中に到ることを希む。
 注 (交市が波打ち際で飲料水が無いとの意と思われる。
   海は、塩水湖である。大海のことかどうか不詳。
   甘英は、地中海沿岸のローマ領に着いていない。因みに、アルメニア
   は有力国であるのに中国名が無く、條支には現地名がない。

【山出次玉石】 西域名産和田玉や青金石(ラピスラズリ 瑠璃)はどうか。
 山出九色次玉石,一曰青,二曰赤,三曰黃,四曰白,五曰黑,六曰綠,七曰紫,八曰紅,九曰紺。今伊吾山中有九色石,即其類。
 山から九色の「次玉石」を出する。一は青、二は赤、三は黄色、四は白、五は黒、六は緑、七は紫、八は紅、九は紺である。今伊吾山中に九色石が有るが其類である。(本物の玉石は出ない、ということのようである)

【陽嘉三年】 条支記事の末尾である。
 陽嘉三年時,疏勒王臣槃獻海西青石、金帶各一。又今西域舊圖云罽賓、條支諸國出琦石,即次玉石也。
 陽嘉三年(一三四)、疏勒王臣槃が海西青石と金帯各一を献上した。今『西域旧図』では罽賓條支の諸国は琦玉を産すると云うが、次玉石のことである。
 注 「西域旧図」は、必需品の西域諸国地図かも知れない。

                                未完

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