2021/02/03 2025/04/19 2026/02/02
*加筆再掲の弁
最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。
〇NHKによる番組紹介
NHK特集「シルクロード第2部」、第十五集は「キャラバンは西へ~再現・古代隊商の旅~」。内戦前だったシリアの人々の暮らしや世界遺産・パルミラ遺跡を紹介する。
古代の隊商はどのようにして砂漠を旅したのか。 隊商都市のパルミラまで、約200kmの道のりを、ラクダのキャラバンを組織し、古代人そのままの旅を再現する。いまは激しい内戦下にあるシリア。80年代、取材当時の人々の暮らしや、破壊された世界遺産・パルミラ遺跡の在りし日の姿がよみがえる。
〇中国世界の西の果て
この回は、中国両漢代、つまり、漢書と後漢書の西域伝の限界を超えているので、本来、注文を付ける筋合いはないのだが、地中海東岸シリアの探査で、何の気なしに後漢甘英を取り上げているので、断固異議を唱える。
つまり、後漢書に范曄が書いた西域都護班超が派遣した副官「甘英は、西の果ての海辺で、前途遼遠を怖れて引き返した」との挿話を引いて、地中海岸かペルシャ湾岸か不明というものの、どうも、取材班は、甘英の旅路の西の果てとして、目前の地中海岸を見ているようである。
しかし、ここまで踏破してきた旅程を思えば、後漢代に、安息国との国交再開を求めた甘英が、既にメルブで使命を達成していながら、これほどの苛酷な長途を旅したとは思えなかったはずである。まして、当時、この行程は、西のローマとの紛争下、大安息国、パルティアの厳戒下にあり、地中海岸に達する前に、王都クテシフォンで国王に拝謁した記録すらないのに、パルティアが、当方の蛮夷である後漢の軍官に、国内を踏破させ、「王都」を越えて敵地である地中海岸に達することを認めたはずがない。
*後日談 2025/04/19
また、外交の秘事であるので記録されていないが、甘英は、パルティアに対して、永年西域都護班超に反抗し続けていた貴霜国/大月氏に対抗して、同盟する提言を成したものと推定されるのである。大月氏は、匈奴によって故国を追われた逃亡の西域変遷の果てに貴霜国に寄宿したとき、無警戒に近かった西方の安息国に対して掠奪行を仕掛け、騎馬兵団の威力で国王親征の国軍を壊滅させて、安息国の財宝を奪ったのである。
「この事態に応じて、隣接する波斯(ペルシャ)軍を含め、パルティア全土から大軍が駆けつけたため、大月氏の侵略軍は大破され、パルティア軍は、貴霜国に対して報復し、財宝を回復した」事件があったから、以後、メルブに二万の大軍を常駐していたのであり、後漢西域都護としては、両国が同盟すれば、大月氏を大破することができると構想したのであるが、パルティア王の許可が下りなかったようである。
何しろ、西方シリアに4万の常駐軍を置いて圧力を掛けていたローマ帝国の大軍は、「共和制末期の紛争で、ローマの派遣軍4万が大敗し、司令官クラッスス敗死、1万人捕虜の東方国境転送という大敗の失態の報復」を100年越しに画策していて、シリアに常駐軍を敷いていたのであり、そのような西方の大敵を置いて東方で戦を起こす余裕はなかったと見えるのである。
後年のことであるが、「西方の大敵ローマ帝国は、北方のアルメニアを陥落させた上で、未曽有の大軍と強力な攻城兵器を動員して王都を包囲攻撃し陥落させて世界最大級の財宝を奪った」ことから、大国パルティアは崩壊し、ペルシャの地から興ったササン朝が全土を制覇したのである。
さらに後日談であるが、往年のアケメネス朝ペルシャの覇権を再興した形のササン朝帝国は、大挙東進して、オアシス都市国家を実効支配していた大月氏騎馬軍団を擁していた大国貴霜国を滅ぼしてしまったから、後漢西域都督の撤退後に、宿願の大月氏打倒が実現したのであるが、曹魏、西晋には、その情勢好転を利用する国力も意欲もなかったのである。
*笵曄の誤報~幻想の始まり
そもそも、范曄「後漢書」では、漢使は武帝代に安息国まで到着したが、大海対岸の海西條支国すら尋ねてないとの見解であるが、それはひとつの認識としても、数千里彼方のパルティア王都、さらには、その彼方まで行ったとの誤解は、なぜなのだろうか。
現代人の眼で見ても、安息国東部辺境メルブの西域は、北に延びた「大海」カスピ海とその西岸、「海西」と呼ばれた條支(アルメニア)止まりである。
後漢書の西域世界像を描いた笵曄は、一旦、小安息の隣国で大海裏海の海西として知られていた條支(アルメニア)の世界観を描きながら、なぜか、数千里に及ぶ大安息国の隣国として、途方もない遠国の條支(ローマ属領シリア)と西海(地中海)の幻像を見てしまったのではないだろうか。
さながら、砂漠の果ての蜃気楼に甘英の道の果てを見たようである。笵曄は、後漢書西域伝の名を借りて、事実に反する一大ファンタジーを描いたのだが、以後、今日に至るまで、不朽の傑作として信奉されているのである。
お陰で、西方世界では、この時、後漢の最西端がローマ帝国に接触したとの「神話」が創造され、後漢書の「大秦」(莉軒)なる流亡の小国が、パルティアにとって、西方の侵略者にして貪欲な宿敵(ローマ帝国)と混同されてしまっているのである。どこかで聞いたような話と感じられたら、それは、空耳であるから、慷慨しない方が無難である。
*甘英英傑談~孤独な私見
以上は、世界の定説に背く孤独な令和新説だから、往年80年代のNHKの番組制作者が知らなくて当然だが、取材班が、後漢人甘英の足跡を辿っているように感じたとき、一切記録がないことに感慨はなかったのかと思うだけである。そして、新規制作の同番組でも、一向に、誤謬に近い世界観が是正されていないのは、まことに残念なのである。
甘英は、漢武帝代に交渉がありながら、長年、接触が絶えていた西方万里の大国安息国との交流を再現した功労者なのである。
当ブログ筆者は、甘英の偉業を笵曄が創作で練り固めたために、貴霜国を撲滅すべく安息国との盟約を提言した甘英の偉業が正当に評価されないことに不満で、ここに書き遺すものである。
〇まとめ
言うまでもなく、当シリーズは、NHKの不朽の偉業であり、以上は、それこそ、天上の満月を取ってこいと命ずるものだが、僭越にも不満を記したのである。
*参考書
塩野七生 「ローマ人の物語」 三頭政治、カエサル、アウグストゥス、そして ネロ
司馬遷 史記「大宛伝」、班固 漢書「西域伝」、范曄 後漢書「西域伝」、魚豢「西戎伝」 (陳寿「三国志」魏志 裴松之補追)、袁宏「後漢紀」
白鳥庫吉 全集「西域」
*追記 2025/04/27
今般の再放送で確認したのだが、NHKの時代/地理認識は大きくずれていて、甘英一行の安息訪問が長安を発していたとしていて、残念な早合点である。実際は、後漢西域都護は、西域の入口の亀茲(クチャ)に「幕府」を開いていたのであり、また、当時の帝都は洛陽であった。
番組制作者は、後世唐代の事情と混同していたようであるが、つまらない誤解を後世に伝えたのは、勿体ないところである。
既に書いたように、甘英が派遣されたのは、カスピ海東岸、オアシス都市のメルブ(Merv)であり、結果的に、安息国との旧交を温めただけで引き返しているので、カスピ海すら渡っていないのである。大秦は、風の噂に聞いただけであり、既に書いたように、西方の蛮族「ローマ」などとんでもない話である。
NHK取材班は、悪戦苦闘して地中海岸に出たのであるが、二千年近い過去の甘英がどのようにして、異境を踏破したと見たのか、興味深いところである。もちろん、遅くともパルティアの時代には、東西を結ぶ街道が整備されていたから、仮に漢使が「王都」クテシフォンに参上したとしても、ラクダの厄介になどならなかったと思う。
むしろ、現代は、イランの治安体制に阻まれて、難儀としたのかと思うのである。
*後日談~シルクロード創成紀 2026/02/02補追
ついでに言うと、隊商が東西を繋いだのは、世界帝国モンゴルが、史上初めて、東西交易を阻んでいたオアシス都市を均して、「モンゴル可汗の許可があれば、途中で過大な関税を払わず、略奪されずに往き来できる秩序を確立した」からであり、また、そのような広域交易成立の背景として、広域通貨「銀」を確立したからでもある。それまでは、各地のオアシス都市が、交易の鎖を繋いでいたのであり、それまで、一貫した隊商など存在しなかったのである。ということは、「シルクロード」は、モンゴル帝国によって創造されたと思われるのである。
かくして、ベネチア商人が元の大都に乗り込んで、アラビア商人やペルシャ商人の頭越しに、モンゴル可汗にして大元皇帝である天子と条件交渉できるようになったものである。甘英の時代から、一千年はたっていたのである。
以上