西域伝の新展開

正史西域伝解釈での誤解を是正するものです。恐らく、世界初の丁寧な解釈です。

2023年9月 6日 (水)

新・私の本棚 番外 NHK特集「シルクロード第2部」第十三集~知られざる東西交流の歴史 再掲 1/3

                     2021/02/02 2021/04/23 2023/09/06
〇NHKによる番組紹介
 NHK特集「シルクロード第2部」、第十三集は「灼(しゃく)熱・黒砂漠~さいはての仏を求めて~」。旅人が歩いた道の中で最も過酷なルート、カラクム砂漠を踏破する。
 シルクロードの旅人が歩いた道の中で最も過酷なルート、カラクム砂漠。何人も生きて越えることができないと言われた死の砂漠である。取材班はその道をトルクメンの人々の案内で踏破、チムール時代の壮大な仏教遺跡が残るメルブまでを紹介する。

〇待望の再放送~余談の山
 滅多にお目にかかれないメルブ(Merv)を見ることができたのは、貴重でしたが、漢代以来、東西を繋いだメルブの意義が見逃されているのは残念です。
 メルブは、漢書「西域伝」、後漢書「西域伝」で「西域」つまり漢の世界の西の果ての大国として紹介された「安息国」の国境要塞でした。例えば、漢書は、番兜城(ばんとうじょう?)、後漢書は、和櫝城(わとくじょう?)と書かれています。
 そのため、漢武帝使節と後漢西域都護班超の副官甘英の97年の探検行が、西方では「パルティア」と呼ばれた「安息国」国境要塞メルブを、訪問行の西の果てとしたことの意義が見過ごされています。この地は、延々と続いた砂漠地帯を出て、カスピ海沿岸の温和な地域と見ていましたが、実際は、砂漠の中のオアシスだったようです。少なくとも、漢使甘英は、酷暑の西域都督管内ではあまり見られない冷涼の地と感じたはずです。
 とは言うものの、いくら好意的な相手としても、西域に勇名を轟かせていた西域都督班超の副官が率いる、恐らく百人規模の使節団が、 大「パルティア」首都、遙か西方メソポタミアの「王都」クテシフォンに詣でて、大「パルティア」国王に謁見することは論外でした。
 そのため、両代漢使はメルブで小安息国長老と会見し、無事に使命を果たしました。国都に参上せず国王に謁見しなくても、漢使の任務を果たしたのです。
 倭人伝」解釈に於いて、随分参考になる前例ですが、論争の際に紹介されていないのは、意外です。

*メルブの意義
 当時、イラン高原を統轄していた大「パルティア」は、東西交易の利益を独占して当時世界一の繁栄を得ていましたが、その発祥の地でもあるメルブ(Merv)地域を東方の最重要拠点として、守備兵二万を常駐させていたのです。
 安息国には、 東方から急襲した大月氏騎馬戦力の猛攻により、迎撃した国王親征部隊が壊滅して国王が戦死した経験があり、以後、大兵力を固定して、東方蛮族(大月氏)の速攻に臨戦態勢で備えていたのですが、騎馬軍団の席巻で言えば、班固「漢書」「陳湯伝」で知られる匈奴郅支単于の西方侵攻のように、月氏事件は、空前でもなければ絶後でもなかったのです。後年、欧州諸国を震撼させたフン王アッティラの由来は不明ですが、

*西方捕虜到来
 因みに、大「パルティア」は、西方のメソポタミア地方では、ローマ軍の侵入に対応していて、共和制末期の三頭政治時代、シリア属州提督の地位にあった巨頭クラッスス(マルクス・リキニウス・クラッスス)の率いる四万の侵入軍を大破して一万人を超える捕虜を得て、「パルティア」は、一万の捕虜を東方国境防備に当てたとされています。(前54年)
 降伏した職業軍人は、遠からず両国和平の際に和平時に身代金と交換で送還されると信じて、数ヵ月の移動に甘んじたのです。ローマ側としては、生き残った万余の兵士を無事帰国させるために、司令官クラッススを引き渡し、捕虜をいわば人質として提供したしたものです。クラッススは、パルティアの軍法に則して斬首されたとされています。

 欧州側では「東北国境」と云うことで寒冷地を想定したようですが、メルブは、むしろ温暖なオアシスであり、何しろ、凶悪な敵を食い止める使命を課せられていて、ローマ兵は、捕虜とは言え、それなりの処遇を得ていたはずです。この時、一万人の捕虜を得たおかげで、一万人の守備兵を帰宅させたので、地域社会(パルティア発祥の地)に、大きな恩恵を与えたのです。

 なお、ローマ正規軍には、ローマの中級市民兵士や巨頭ガイウス・ユリウス・カエサル(シーザー)が援軍として送り込んだガリア管区の兵士も含まれていたから、一時、メルブには、土木技術を有し、ギリシャ語に通じた教養のあるローマ人が住んでいたことになります。恐らく、両国軍人の会話は、ギリシャ語で進められたはずです。いや、まだ、アレキサンドロスが率いたギリシャ語圏の兵士や商人がいたかも知れません。
 また、班固「漢書」西域伝に依れば、安息国人は、皮革に横書きで文字を書き付けていたようですから、共に、文明人だったのです。

 後漢西域都督班超の副官甘英は、一大使節団を率いて安息国に至り、長老、つまり、安息東部都督に相当する高官と交渉したものの、具体的な盟約には到らなかったと思われます。甘英の使命は、最高機密事項でしたが、当時、安息国と締盟した上で、西域都督班超に執拗に反抗していた大月氏/貴霜を挟撃、西域都督の以降を高めたいとの願望を持っていたはずであり、「貴霜」(クシャン)を凶悪な侵略者と見る共通した視点をもっていたと思われますが、安息国は、本来商業立国であり、専守防衛を国是としていたので、貴霜国を攻撃して地域の平穏を破壊するなど論外であったと見えます。

 もちろん、外交/軍事は、西方王都の国王の指示を待つ必要があったのですが、国王にとって最大の懸念事項は、至近のシリアに大軍を待機させているローマであり、東方で軍事作戦を展開する気はなかったのです。また、はるか東方の大国中国は、貴霜国と戦端を開いても、大軍派兵は大変困難と理解していたので、共同軍事作戦は割に合わないと見たようです。
 最後に、安息国は、東西交易の要であり、近隣諸国と戦火を交えて、交易を阻害することを恐れたとも見えます。何しろ、東西交易は、大量の黄金の卵を齎す「にわとり」であり、これを傷つけることは、国益に反したのです。

 以上、安息国の視点から、誠に割に合わない提言であり、国王の指示に従い、友好関係を損なわない程度に謝絶したものと見えるのです。
 甘英は、帰任して、大事がならなかったと報告したのですが、これは、西域都督の独断だったので、一切公文書に残らず、また、貴霜国に機密が漏洩すると、不穏な事態になるので、固く隠蔽したものと思われます。

◯笵曄による甘英弾劾
 世上、甘英が、西方の大国「ローマ」に到達する使命を帯びていたとする俗説が執拗に唱えられていますが、何重もの誤解に基づいていて、誠に嘆かわしい事態です。
 まず第一に、後漢、魏・晋を通じ、中国の西方知識は、到達点としては安息国止まりであり、しかも、安息が、西方の敵国ローマについて、甘英に知らせることは考えられないので、精々、カスビ海の対岸であるアルメニア、條支止まりであったものと思われます。それどころか、「西方の王都クテシフォンにすら赴いていない」のとともに、王都付近メソポタミア、および、そこに到る整備された街道の有り様も、明確に伝えていない節があります。
 まして、ローマ帝国が、精兵四万を常備していたシリア準州についても、一切伝えていないものと思われます。
 要するに、「大秦」と書かれている正体不明の国家の風俗は、安息国の周辺諸侯、精々、カスピ海西岸「海西」の條支と隣国のものと見えるのです。

*西域都督の重大な使命
 後漢西域都督は、あくまで臨時の官であって、現地に「幕府」を開いて、地域の軍事、税務の権限を与えられていましたが、万事、皇帝の勅許を仰ぐ必要があり、独断専行は許されていないのです。西域都督に与えられている任務、権限は、あくまで、漢武帝代に確立した「友好国」である「安息国」までであり、安息以西の未知の領域に勝手に進出することは許されていないのです。つまり、もし、甘英が、安息を越えて西方に進出するためには、皇帝の勅許が必要なのです。
 後漢書には、そのような勅命が出されたという記録はありません。
 もし、甘英が勅命によって西方進出を使命としていたら、これを達成できないまま帰還するのは、重大な違命であり、誅殺に値します。当然、西域都督も、同罪です。もちろん、笵曄「後漢書」にも、袁宏「後漢紀」にも、魚豢「魏略」西戎伝にも、そのような誅殺の記録はありません。
 以上のように論理的に確認すると、甘英は、安息国まで使節/ 行人として派遣されただけであり、安息以西に進出する使命は帯びていなかったのです。

*不可能な使命
 当ブログ筆者は、甘英の使命に対して私案を持っていて、要するに、西域都督班超が、独断で大月氏討伐の締盟の構想を抱いていたものと見るのです。これは、かつて、漢武帝が企てた大月氏との締盟構想と同趣旨であり、掠奪国家であって後漢の西域支配に頑強に抵抗していた大月氏を、漢~安息の挟撃で撲滅しようというものであり、安息長老の了解が得られれば、皇帝に上申して、安息王~後漢皇帝の盟約とするというものであったように推定しています。そのような軍事活動は、西域都督の使命の範疇であり、上申して勅許を得ることは、十分可能と見ていたものとおもわれます。

 ただし、実際は、班固の大月氏挟撃構想は、安息国の同意を得ることができず、甘英は、安息国との友好関係を確認するにとどまったものと見えます。甘英の派遣について、特段の使命が記されていないことから、単に、友好関係の確認、強化にとどまったものであり、特に、違命がなかったため、班超も甘英も、叱責等を被っていないものと見えます。

*笵曄乱筆
 そのように、使命が秘匿されたため、笵曄の疑惑を掻き立て、甘英は、無謀な冒険を試みて不達成に終わったと粉飾されたものと見えます。
 笵曄は、後漢末、班超時代の後に西域都督が撤収した結果だけを見ていたため、後漢の威勢を維持できなかったというあらぬ譴責を加えたものと見えますが、それは、笵曄が、西域都督の武官としての沽券を見損ねていたものと見えます。
 あるいは、西域都督班超の実兄であり、漢書を編纂した史官班固に対する引け目を、班超/甘英に押しつけたものとも見えます。要するに、漢書「西域伝」は、遠隔地を実見しない捏造だと貶めたかったものかも知れません。
 ここでも、笵曄の勝手な創作が見られるのです。
 
                                未完

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                     2021/02/02 2021/04/23 2023/09/06
*ローマ・パルティア戦記
 因みに、敗戦には必ず復仇するローマで、三頭政治末期の内戦を制して最高指揮官の地位に就いたカエサルは、パルティア遠征を企てたが、暗殺に倒れ、カエサル没後の内乱期、エジプトを支配したアントニウスは、カエサル遺命として、前36年にエジプト軍と共にパルティア遠征したが、あっけなく敗退しています。
 初代皇帝として、ローマ帝国を創業したアウグストゥス帝の前21年、本格的な講和が成立し捕虜返還を交渉しましたが、敗戦抑留以来30年を要したため、捕虜は、全て世を去っていたといいます。余談ですが、初代皇帝アウグストゥスは、中国の秦始皇帝と大きく異なり、元老院の支持のもと密やかにローマの共和制に終止符を打ちましたが、表向きは、元老院の首席議員の立場にとどまり、専制君主を名乗らなかったのです。

*シリア準州駐屯軍
 ローマ-パルティア間に講和が成立しても、ローマ側では、共和制時代から維持してきたメソポタミア侵略の意図は堅持され、ローマ属州のシリアに総督を置き、四万人を常駐させたのです。

*あり得ない漢使シリア訪問~余談
 范曄は、『後漢使甘英が安息の「遙か西方の條支」まで足を伸ばした』と「創作」したので、「條支」を「シリア」(現在のレバノンか)と見る解釈がありますが、街道整備のパルティアの国土を縦走する行程は、延延百日を要する遠路であり、異国軍人のそのような長途偵察行が許されるはずはなく、まして、その果てに敵国との接触は論外でした。

 いくら、「安息」の名に恥じない専守防衛の国であって、常備軍を廃していても、侵略を撃退する軍備を擁していたのです。

 甘英の本来の使命は、安息国との締盟であって、援軍派兵を断られた以上、往復半年はかかる探査行など論外と見るべきです。西の王都まで数千里の長途であることは、武帝使節の報告で知られていたのです。
 いや、もし、実際に君命を奉じて、(范曄が安息西方と見た)厖大な日数と資金を費やして「條支」まで足を伸ばしたのなら、いかなる困難に直面しても、君命を果たすしかなかったのです。西域と塗膜の副官たる軍人甘英が、使命を果たさずに逃げ帰ったら、そのような副官に使命を与えた上官班超共々、軍律に従い厳しく処断されるのですが、そのような記録は一切残っていません。笵曄は、文官であったため、軍律の厳しさを知らなかったのでしょうが、それにしても、西域都護副官を臆病者呼ばわりするのは、非常識そのものです。
 因みに、班超は、勇猛果敢な軍人ですが、漢書を編纂した班固の実弟であり、文官として育てられたので、教養豊かな文筆家/蔵書家であり、笵曄は、そのような偉材に喧嘩をふっかけたことになるのです。
 いや、当ブログ筆者の意見では、條支は、途方もない西方の霞の彼方などではなく、甘英の視界にある巨大な塩水湖、大海(カスピ海)のほんの向こう岸と信じているので、范曄の意見は、誤解の積み重ねに無理筋を通した暴論に過ぎないのですが、なぜか、范曄の著書は俗耳に訴えるので、筋の通った正論に耳を貸す人はいないのです。

 いや、またもや、長々と余談でした。

*東西交流の接点
 と言うことで、メルブは、「ジュリアス・シーザー」が象徴する西のローマと「武帝」が象徴する東の漢の接点になったのです。さすがに、時代のずれもあって、東西両雄が剣を交えることはなく、「安息長老」(おそらく、当方安息国の国主)が、漢人の知りたがる西の果ての世界に関してローマの風聞を提供したように見えます。

*西域都護班超と班固「漢書」
 改めて言う事もない推測ですが、甘英の西域探査行の詳細にわたる報告は、西域都護班超のもとから、後漢帝都の洛陽にもたらされたものと思われます。また、先に触れたように、班超は漢書を編纂した班固の実弟であり、当然、漢書西域伝の内容は、班超のもとに届いたと思われます。つまり、漢書西域伝は班超座右の書であり、西域都護にとって無駄な探査行など意図しなかったと見ます。

 恐らく、都督府の壁には「西域圖」なる絵図を掲げていたでしょう。(魚豢西戎伝が「西域旧圖」に言及しています)

*范曄「後漢書」の「残念」~余談/私見
 西域探査功労者甘英は、笵曄に「安息にすら行っていないのにホラ話を書いた」と非難され「條支海岸まで行きながら怖じ気づいて引き返した」と軍人として刑死に値する汚名を被っていますが「後漢紀」に依れば、班超が臨んだ「西海」は、メルブにほど近い「大海」、塩水湖「裏海」です。よって、魚豢「魏略西戎伝」でも明らかなように、甘英の長途征西は、笵曄の作文と見ます。

 因みに、魚豢「魏略」は、諸史料所引の佚文が大半であるため、信用されない傾向があるのですが、「魏略」西戎伝は、范曄同時代の裴松之が「三国志」に全篇追加したので、三国志本文と同様に確実に継承され、紹熙本/紹興本も、当然、その全容を伝えているので、今日でも、容易に読むことができます。(筑摩書房刊の正史「三国史」にも、当然、全文が翻訳収録されています)

*笵曄の限界と突破
 魚豢、陳寿は、曹魏、西晋で、後漢以来の帝都洛陽の公文書資料の山に接する権限がありましたが、笵曄は、西晋が崩壊した後の江南亡命政権東晋の官僚だったので、参照できたのは「諸家後漢書」など伝聞記事だったのです。諸家後漢書の中で出色の袁宏「後漢紀」は、ほぼ完本が継承されているので、容易に全文に触れることができ、部分訳とは言え、日本語訳も刊行されていて、原文を含めて確認することができます。

                               未完

新・私の本棚 番外 NHK特集「シルクロード第2部」第十三集~知られざる東西交流の歴史 再掲 3/3

                     2021/02/02 2021/04/23 2023/09/06

*幻の范曄原本
 先に挙げた、後漢書夷蕃列傳は「笵曄の誤解に基づく勝手な作文」満載なる私見は、魚豢が後漢朝公文書を直視した記述と笵曄が魏略を下敷きに潤色した記述とを対比して得た意見であり、先賢の評言にも見られる「定説」です。

 編者范曄が、重罪を得て嫡子共々処刑され家が断絶したため、范曄「後漢書」遺稿が、著作として決定稿であったかどうか、確実に知ることができません。陳寿「三国志」は、陳寿の手で最終稿まで仕上げられていて、没後、西晋朝の官人が、一括写本の手配を行ったことが記録されています。いわば、三国史の陳寿原本、と言うか、確定稿を、数人ならぬ数多くの関係者や読者が、つぶさに確認しているのです。
 これに対して、范曄後漢書は、いつ、誰が、遺稿を整えたのか不明です。隋唐統一以前、数世紀にわたる南北朝乱世をどのように写本、継承され、唐代に正史に列することになったのか、不明の点が多いのです。従って、范曄原本が存在したのか、関係者が体裁を整えたものなのかすらわからないのです。その意味で言うと、笵曄「後漢書」の范曄原本は、誰も知らないのです。また、現行刊本は、司馬彪「続漢書」の志部/資料編をとじ合わせているので、笵曄後漢書と形式が異なるものとなっています。

 このような事態は、史上最高の文筆家を自認したであろう范曄には大変残念な結果と思います。

*袁宏「後漢紀」西域条
 袁宏「後漢紀」は、百巻を超えて重厚な漢書、後漢書と異なり、皇帝本紀主体に三十巻にまとめた、言うならば準正史です。正史でないため、厳格な継承がされず、誤字が目立ちますが、佚文ならぬ善本が継承されています。
 列伝を持たないため、「西域伝」は存在しませんが、本紀に、西域都護班超の功績を伝える記事が残されていて、甘英派遣の成果も残されています。つまり、後漢紀は、西域伝や東夷伝を本紀内に収容したと言えます。

 魚豢「西戎伝」に続き、范曄「後漢書」西域伝の先駆となる小「班超伝」ですが、范曄が遺した「おとぎ話」は見えません。范曄が、魚豢に続いて袁宏まで無視した意図は、後世人には知る由もありません。

 范曄は、「後漢書」編纂に際して、諸家の後漢書稿を換骨奪胎したと言いますが、史書として、最も参考になったのは「後漢紀」と思われるので、いわば笵曄の手口を知る手がかりとなるものもあります。

*余談の果て
 と言うことで、番組紀行がメルブを辿ったことから、種々触発された余談であり、これほど現地取材するのであれば、両漢紀の西域探査の果てという見方で、掘り下げていただければ良かったと思うのです。

 また、共和制末期、帝政初期のローマとパルティアの角逐、と言うか、ローマの侵略欲を紹介していただければ、いらぬ幻想は影を潜めていたものと思うのです。

*再取材の希望
 と言うことで、メルブは、仏教布教の西の果てという意義も重要ですが、東西に連なる三大文明世界の接点との見方も紹介して欲しかったものです。
 いや、遠い過去のことはさておき、再訪、再取材に値すると思うのです。西方は、ローマ史に造詣の深い塩野七生氏の役所(やくどころ)に思うのですが、東方は、寡聞にして、陳舜臣氏を継ぐ方に思い至らないのです。

*参考書
 塩野七生 「ローマ人の物語」 三頭政治、カエサル、アウグストゥス、そして ネロ
 司馬遷 史記「大宛伝」、班固 漢書「西域伝」、范曄 後漢書「西域伝」、魚豢「西戎伝」(陳寿「三国志」魏志 裴松之補追)、袁宏「後漢紀」
 白鳥庫吉 全集「西域」


                               以上

新・私の本棚 番外 NHK特集「シルクロード第2部」第十四集~コーカサスを越えて~ 再掲 1/3

       2021/02/03   追記 2021/04/15 訂正追記 2021/11/26 2023/09/06
〇NHKによる番組紹介
NHK特集「シルクロード第2部」、第十四集は「絹と十字架~コーカサスを越えて~」。雄大なコーカサス山脈を縫いながら、絹交易のもうひとつのルートを明らかにする。
カスピ海の西岸モシチェワヤ・バルカで唐代の中国製絹が発見された。絹の出土地としては最西端にあたる。中国とローマを結ぶ絹交易は、税金の高いササン朝ペルシャを避け、カスピ海北岸をう回、コーカサス地方を縦断して行なわれていた時代がある。雄大なコーカサス山脈を縫いながら、絹交易のもうひとつのルートを明らかにする。

〇ささやかな誤解
 当番組の時代考証では、ペルシャを代名詞としているイラン高原の勢力を回避した「もう一つのルート」を考察していますが、『「交易ルート」がコーカサスの高嶺を越えた』と見ているのは、大胆な着眼としても、今回の番組で立証されたと見るのは、どうかと思います。また、南北に伸びたカスピ海の北岸は、冬季寒冷であり、通年して、交易路にならなかったのは明らかです。
 アルメニアの交易路は、カスピ海東岸中央部であり、カスピ海北岸など経由していなかったのです。
 因みに、ササン朝ペルシャはいざ知らず、古来、イラン高原の交易は、それぞれの地域勢力が仲介して多額の利益を上げる商業形態であり、通過する商人に課税したものではないのです。

*訂正
 今回再放送を確認したところ。番組が取り上げていたのは、ササン朝時代の状況であり、漢代/後漢代-バルティア時代の視点にとらわれて誤解した点をお詫びします。
 パルティア時代、当地を支配していたのは「アルメニア王国」であり、裏海-黒海の分水嶺の尾根を占拠していたアルメニア人が、東西の海港をも支配し、東西交易から収益を確保していた上に、政治的には、西のローマに対する牽制として、パルティアから親戚扱いされていた事から、こそこそ抜け道を迂回する必要はなかったのです。
 しかし、西のローマは、パルティア攻略の前提として、アルメニア王国の攻略を行い、強力な攻城兵器とシリア準州で臨戦体制を続けていた四万の常備軍に近隣諸国の援軍を加えた不敗の体制で、各地の山城をことごとく陥落させて、ローマ帝国の属国とし、パルティア東部への攻勢を見せて、メソポタミア領域の攻略に出たのです。
 結果、パルティアは、王都を攻略されて厖大な財宝を全て奪われて、全土を統制する威勢を喪い、東南方のペルシャ勢力に王国を奪われたのです。結果、ササン朝帝国が誕生しましたが、同帝国は、コンスタンティノープルの東ローマ帝国に移行した「ローマ」と対立を続け、ユーフラテス川流域の帰属を争ったために、アルメニアの黒海貿易を、高率の関税を課す事によって、厳しく規制したものと見えます。

 つまり、当番組は、西の東ローマ帝国との交易を事実上禁じられたアルメニアの苦肉の策して、コーカサス越えの「禽鹿径」交易を描いたものであり、同時代、及びそれ以後の時代考証としては正確と思われますが、交易への規制は、時代によって異なるので、何とも言えないのです。

 以上、大づかみな時代区分を誤った、見当違いの批判を書いた事をお詫びします。

*條支に至る道~魏略「西戎伝」
 ササン朝時代の前である、後漢代に安息国を訪ねた甘英は、西の大海カスピ海の中部を横断する「海路」を確認し、その報告は、三国魏の魚豢編纂の魏略「西戎伝」(陳寿「三国志」の魏書第三十巻巻末に全文収録)に記録されています。

 往年の安息(パルティア)東部要塞メルブから北上した海東の港から、大海の西岸である海西、今日のアゼルバイジャンのバクーにあたる半島(大海海中の島)に至ります。裏海(カスピ海)は塩水で水の補給が課題と言っても、帆走数日で着くので難路でもなんでもありません。

 地域の地形を確認すると、「大海」の南岸は低湿地である上に、地域勢力である「メディア」(中の国)の勢力範囲であったために、両国間の行程として常用していなかったのかも知れません。西戎伝には、「大海」南岸に安息と條支の国境があって、條支側の城から海岸沿いに遡って北に行く陸路行程が書かれているから、場合によっては、こちらを陸行したのかも知れません。

 このあたり、後漢の使節団が踏破したかどうか不明ですが、途中の渡河も含めて、行程記事は、まことに丁寧です。何しろ、目前の隣国で安息長老(公国の国王か)は、使節団を率いた甘英に対して懇切丁寧に絵解きしたはずです。

◯西域「海西」の正体~大海西岸の大国「條支」
 海西は、対外的には、「裏海」岸から「黒海」岸に至るアルメニア王国として、ギリシャ、ローマに知られていたとしても、裏海側はアゼルバイジャン民族、黒海側はグルジア(現ジョージア)民族が、それぞれ支配する高度な自治の状態だったかも知れません。イラン高原を含め、当該地域の各国は、中央集権ではなかったので、各国の内情はわかりませんが、現在の現地状勢からそう見ているのです。

 ともあれ、アルメニアは、当ブログ筆者の孤独な「新説」によれば、西域伝で安息長老が「條支」と呼んだ西の大国であり、イラン高原を含めた地域の歴史から見ると、安息国成立のはるか以前から、黒海-裏海間の要地を占めて東西交易を仕切っていたとみるのです。何しろ、北のコーカサスは、急峻な壁であり、よほどの事情がない限り、大規模な交易路とはなり得なかったと思われるのです。

 安息国は、アケメネス朝ペルシャ時代、ないしは、それ以前と見える建国の当初、條支に師事していたとの風聞が残されています。つまり、條支としては、東方物産の仕入れ先として利用したと見えるのです。
 その時点では、西方のイラン高原は、メディアないしはペルシャの巨大勢力が占拠していたので、安息は、大勢力のいいなりにならないために、條支交易を利用したものと見えます。
 西方のペルシャは、強力な支配者でしたが、西方ギリシャ勢力と地中海東部の覇権を争い、再三、陸海の大軍をもってギリシャ侵攻したため、ギリシャを糾合したマケドニアのアレキサンドロス三世軍の報復を受け、決戦に大敗して一気に壊滅し、ペルシャ地域は、大規模な破壊を被ったので、支配の緩んだ状況下で、東の小勢力、パルティアが台頭し、諸勢力の支持を集めて、アレキサンドロス亡き後のイラン高原を支配したものです。
 という事で、関係諸国の関係を概観しただけでも、支配-被支配の力関係は、時代時代のものであり、また、必ずしも、武力が国益に繋がるものでない事が見えてくるものと思います。
                                未完

新・私の本棚 番外 NHK特集「シルクロード第2部」第十四集~コーカサスを越えて~ 再掲 2/3

               2021/02/03   追記 2021/04/15 2023/09/06

*「條支」という国~私見連投
 「條支」は字義から「分水嶺、分岐路を占めた大国」との趣旨のようですが、地理上、北は峻嶺コーカサス山地が遮断し、南は強力なパルティアやペルシャが台頭して国境越えの交易を管制していたでしょうから、東西交易に専念した街道だったようです。パルティア時代、表立って漢と交際できなかったが、條支が漏らしたと見える「安息は、買値の十倍で売って巨利を博している」との風聞が記録されています。こうした貴重な現地情報を残した後漢西域都督使節甘英を顕彰したいものです。

 なお、「條支」も、当然、当該ルートでは東西貿易独占で巨利を博したから、コーカサスを越える往来希な山道の密貿易も横行したようですが、あくまで、脇道です。「條支」が巨利を博したからこそ、抜け道の危険は十分報われたのです。

 当番組は、南道と見えるイラン高原経由をシルクロード本道と見て、中南道とでも言うべき、裏海~黒海道、「條支」経由を軽視したように見えます。確かに、アゼルバイジャン、アルメニア、グルジア(現ジョージア)の各地で取材はされていますが、それが、「シルクロード」の有力な支流だったとの説明は無いように思います。

 取材された事例が、後漢代から、五百年から一千年過ぎた時代の話ですから、研究者の時代感覚が違うのかも知れませんが、太古以来、商材は変わっても、極めて有力な脇道であった事情に変わりはないのではないかと思うのです。高名な「トロイア」は、この東西交易の黒海下流で、巨利を博していたかも知れないと思うのです。もちろん、ここで述べられた歴史観は、多分、取材班が、地域の旧ソ連圏の研究者から学んだものでしょうが、中国西域としての視点が欠けているのは、何とも残念です。

◯白鳥西域史学の金字塔
 何しろ、中国側には、漢書、後漢書の盛時以降、魏晋南朝代の閉塞も、北魏、北周の北朝時代に回復し、隋唐の西域進出に繋がる豊富な史料が、正史列伝に継承されていて、世界初の西域史学の創設者と言える白鳥庫吉(K. Shiratori)師が、これら全ての西域伝を読み尽くして、一連の労作を構築されているので、欧州研究者は、まず、白鳥氏の著作を学び、次いで、原典である諸正史を学んでいます。

◯魏略「西戎伝」の金字塔
 特に、魚豢「魏略」西戎伝は、それ自体正史ではありませんが、正史「三国志」に綴じ込まれているので正史なみに適確に継承され、スヴェン・へディンなどの中央アジア探検行の最高の指南書とされています。それにしても、NHKが「シルクロード」特集を重ねても、一貫して中国史料を敬遠しているのは、不可解です。

○「後生」笵曄の苦悩
 因みに、范曄は、後生の得で、袁宏「後漢紀」の本紀に挿入された西域都護班超に関わる記事と魚豢「魏略西戎伝」の大半を占める後漢代記事とを土台にして、後漢書「西域伝」をまとめ上げたのです。つまり、魏代以来、中国王朝は、西域とほぼ断交していて、魏晋朝と言うものの、西晋崩壊の際に洛陽の帝国書庫所蔵の公文書が壊滅したため、南朝劉宋高官であった笵曄は、西域伝の原史料は得られず、代々の史官ならぬ文筆家の余技であったので自家史料も乏しかったのです。

 そのため、笵曄は、魏略「西戎伝」後漢代記事の転用に際して、知識不足で史料の理解に苦しみましたが、建康に在って西域の事情を知るすべはなく、結局素人くさい誤読・誤解のあげくに、創作(虚構)の目立つ「西域伝」を書き上げた例が幾つか見られ、史料としての評価は随分落ちるのです。

 以上の事情は、遼東郡太守公孫氏の自立による東夷関係史料の欠落にも共通していて、笵曄は、後漢末献帝期の東夷史料欠落/空白を、氏一流の創作で満たしていて、特に、「倭」に関する小伝は、俄然創作に耽っていると見えます。

                                未完

新・私の本棚 番外 NHK特集「シルクロード第2部」第十四集~コーカサスを越えて~ 再掲 3/3

               2021/02/03   追記 2021/04/15 補足 2021/11/26 2023/09/06
閑話休題

○ローマ金貨の行方
 オアシス諸国だって「巨利」では負けてなかったはずで、二倍、三倍と重ねていたとすると、消費地ローマでの「価格」は、原産地中国の「原価」の一千倍でも不思議はありません。(世界共通通貨はなかったから、確認のしようはないのですが)

 西の大国ローマは、富豪達の絹織物「爆買い」で、金貨の流出、枯渇を怖れたようですが、厖大なローマ金貨は、パルティア、ペルシャを筆頭に行程途中の諸国、諸勢力の金庫に消え、原産地中国に届いていません。

 行程諸国が、山賊、掠奪国家の暴威も、死の砂漠も、ものともせず、東西交易を続けたわけです。何しろ、原産地と消費地が交易の鎖で繋がっていたから、さながら川の流れのように、ローマの富が絶えることなく、東に広く流れ下ったのです。

 ローマ帝国は、後年、積年の復讐として、投石機などの強力な攻城兵器を擁した大軍で、メソボタミアに侵攻し、パルティア王城クテシフォンを破壊し国庫を掠奪して、度重なる敗戦の「憂さ晴らし」としたのです。
 勝ち誇るローマ軍は、意気揚々と、当時の全世界最大と思える財宝を担いで凱旋し、一方、権力の源泉である財宝を失ったパルティア王家は、東方から興隆したペルシャ勢力(ササン朝)に王都を追い出されて、東方の安息国に引き下がったのです。

 ローマは、地中海近くのナバテア王国を圧迫したときは、砂漠に浮かぶオアシス拠点、ペトラの「暴利」を我が物にするために「対抗する商都」を設けてペトラ経由の交通を遮断し、その財源を枯渇させましたが、イラン高原全土に諸公国を組織化していたパルティアの場合は、さすがに、代替国家を設けることはできず、また、いわば、黄金の卵を産み続ける鵞鳥は殺さず、太った鵞鳥を痛い目に遭わせるのにとどめたのです。

 ローマ帝国は、賢明にも、『古代帝国アケメネス朝ペルシャを粉砕して、東西交易の利を確保しようとしなかったアレキサンドロスの「快刀乱麻」』は踏襲しなかったのです。結局、アレキサンドロス三世は、ペルシャ全土に緻密に構築された「集金機構」を壊しただけで、ギリシャ/マケドニア本位に組み替える事もせず、大王の死によって武力の奔流が絶えた後は、ペルシャ後継国家が台頭しただけであり、要は、鵞鳥が代替わりしただけでした。

◯まとめ
 シルクロードは、巨大な「ビジネスモデル」です。

*補足
 以上の記事の主旨を理解いただいていない読者があるようなので、若干補足します。
 
 まず、NHK特集「シルクロード第2部」は、大昔の番組ですが、最近再放送があったので、目にする方が多いと見て、注釈を加えたのです。
 「再放送」は、デジタル時代にあわせて、リマスターされたものの、内容は初回放送当時そのままであり、それ以来の時間経過を含めて、批判しておくべきと考えたものです。
 また、この地帯の再度の取材による「新シルクロード」が制作されていますが、当然、ここで展開された歴史観は踏襲されていて、依然として、大変大きな影響力を示しているので、その意味でも批判が必要と見たのです。

 以上の批判が今後のNHKの番組制作に反映するかどうかは、当ブログ筆者、当方の知るところではないのですが、いわば「サカナ」にして当方の愚見を披瀝したものです。もちろん、読者諸兄姉の熟知していることでしたら、読み飛ばして頂ければ結構です。

*第2部の偏倚
 一番、不満なのは、第1部が、中国史料と中国現地取材が結びついた堅実な時代考証に基づいていたのに対して、第2部は、ロシア、中央アジア系と思われる西寄りの史料に傾倒していて、中国史料を棄てている点です。それが、特に顕著なのは、漢書、後漢書などに見られる「安息国」及びそれ以西の世界に関する考察が無い点であり、大変不満に思えるのです。

 つまり、漢代中国史料の西域記事は、当時の中原から想像した、西の果てにある世界でさらにその西を見たおとぎ話が多く、あちこちに茶番めいた失態がありますが、この場で、それらの突き合わせをする事で、「ローマと漢を結んだ」「シルクロード」交易なる歴史浪漫の幻像が是正されると見たのですが、未だに満たされていないのです。

 また、先立つ回で無造作に描写されているマーブ(Merv)要塞が、漢代、パルティア王国が、東の守りであり、二万の守備兵に、一時、一万のローマ兵捕虜が加わっていたという大変興味ある挿話に触れていないのは、大変、大変勿体ないのです。
 何しろ、中国涼州付近の大勢力であった大月氏騎馬兵団が、新興の匈奴に駆逐されて西への逃亡の挙げ句、貴霜国を乗っ取り、さらに、西方の安息国に侵入して、国王親征軍を大破して莫大な財宝を奪った爪痕が広く遺されていて、安息国は、西方諸侯の後援を得て再興されたものの、以後、二万の大軍を常備して、東の盗賊国家貴霜国の奇襲に備えていたのです。

 ローマ兵捕虜の由来は、不敗を誇っていた共和制ローマ軍が、三頭政治の一角であったクラッススを総帥とし、もう一人の三頭であるカエサルが援助した総勢四万人の必勝態勢で臨みながら、敵地での会戦で大敗して総帥を喪い、大軍の半ばを捕虜とされ、講和したもののローマ兵一万を戦時捕虜として貢献せざるを得なかったことは、ローマ史における屈辱の大事件であり、欧州史書に明記されているのですが、それについて何も触れていないのは、何とも、もったいないことだと思うのです。

 何しろ、東方千数百㌔㍍の彼方に一万の捕虜を護送するのは、安息国が、交渉可能な文明大国であったことを物語っていて、ローマ兵も、いずれ、ローマ本国の雪辱戦によって送還されるものと信じて、服従したものとしたものと思われます。ところが、その後、共和制ローマは、三頭政治の崩壊で、ポンペイウスとカエサルの対決、内戦状態となり、勝者カエサルは、パルティア遠征軍を組織している段階で、暗殺の刃に倒れ、と言った具合で、ローマとパルティアの交渉/交戦が成立しなかったため、ローマ兵は、帰還できないまま、マーブの地で一生を終えたと言うことです。
 なお、パルティア侵攻に踏み切れなかったローマは、地中海岸のシリアを属州化し、シリア総督の下に四万の兵を常駐し、パルティアを仮想敵としていたとのことですから、パルティアにとって、帝制に移行したローマは、巨大な仮想敵という事だったのでしょう。

 また、兵士を主体に百人を要したと思われる漢武帝使節団が到達した「安息」は、安息国の西の王都でも無ければ、地域の居城であるカスビ海岸の旧都でもなく、マーブ要塞だったという事も取り上げる価値があったと思うのです。突然切り捨てられた中国史料の視点が、大変残念なのです。

 確かに、当番組は、東西交易を隊商の駱駝の列が往来していたサラセン時代以降を主眼としているように見えますが、かたや、漢代シルクロード浪漫を言い立てているので、大変不満が募るのです。

*参考書
 塩野七生 「ローマ人の物語」 三頭政治、カエサル、アウグストゥス、そして ネロ
 司馬遷 史記「大宛伝」、班固 漢書「西域伝」、范曄 後漢書「西域伝」、魚豢「西戎伝」(陳寿「三国志」魏志 裴松之補追)、袁宏「後漢紀」
 白鳥庫吉 全集「西域」

                                以上

2022年11月13日 (日)

新・私の本棚 「魏略西戎伝」条支大秦の新解釈 壱 導入篇  1/4

221114romaparthia   
                             2019/10/27 2019/11/08画像更新 2022/11/14

■おことわり
 ここに掲示したのは、当記事全体の考察を、そこそこに反映した「概念図」です。
 ことさら言うまでないと思いますが、ここに掲げたのは、魏略西戎伝(以下、西戎伝)に書かれた道里をまとめた「構想概念図」(Picture)であり、方位も縮尺も大体で、あえて「地図」にしていないのです。
 それなりに論理的に書いた労作なので、どうか「イメージ」などと軽蔑しないでいただきたいものです。作図に制約のあるマイクロソフトエクセルで書いたものです。
 
*古代人の認識 Retrospective Microcosmos
 衛星写真もグーグルマップなどの情報サービスもなく、地図もコンパスもない時代、頼りは、人々の見識であり、それは、各人の行動範囲に限定された確かな土地勘と行動範囲外の伝聞なので、甘英が知恵を絞っても、せいぜいこの程度の認識しか得られなかったと思うのです。と言うことで、当時の現地での認識で書かれた西戎伝の元データは、どの程度現地事情を反映していたか、当て推量にせざるを得ないと考えた次第です。
 特に重要なのは、甘英が取材した「安息」は、ここに書いたように安息創業の地である当地域を所領としていて、東北部の交易と防衛を担っていた「小安息」の視点で描いた世界像であり、大帝国の「グローバルな」目で描いたものではないのです。

 この二重構造は、甘英以後、後漢史官にも、魚豢にも理解されず、後漢書を編纂した范曄に至っては、不確かな情報であり書くに堪えないと棄てられ、そのような不確かな情報をもたらした諸悪の根源として、甘英は臆病な卑怯者扱いされたのです。

 当記事は、そうした冤罪を、魏略西戎伝の適切な解釈で払拭するものです。

 と言うものの、要点では、前世、つまり、史記、漢書以来の先行資料も参考にして重要地点の比定に勉めたのが、計三篇に上る考察です。
 ここでは、端的に、当方、つまり、当ブログ記事筆者の当面の結論、と言うか到達点を書き残すものです。読者に読んでいただけるか、肯定していただけるか、各読者の考え次第です。

■概要
 本稿では、西戎伝の解釈に対して従来当然とされていた句点解釈に異を唱え、条支、大秦国の所在地の再確認を願うものです。定説で決まりなどと言わずに、一度見直していただければ幸いです。
 端的に言うと、史書の条支国は、当時地域大国であるアルメニア王国です。条支が接する大海はカスピ海であり、海西、海北、海東は、カスピ海周辺、しかも南部にとどまり、甘英の探査はせいぜい条支であり、地中海岸に一切近づいてないので、海を怖れたとは、後世課せられた濡れ衣、つまり冤罪です。甘英は、一世の英傑西域都護班超の副官であり、皇帝、都護から命を帯びていて、使命を放棄して帰任したとは、信じられないのです。

 「西戎伝」を読む限り、大秦は「安息に在り」とだけあって遂に位置不詳であり、諸記事の「莉軒」から、大安息内、それも、小安息付近と見られるのです。当方なりの憶測は、図の通りであり、説明は後のお楽しみです。

                                未完

新・私の本棚 「魏略西戎伝」条支大秦の新解釈 壱 導入篇  2/4

                             2019/10/27 2022/11/12
□魚豢編纂「魏略西戎伝」(西戎伝)とは
 魚豢「魏略」は、陳寿「三国志」とほぼ同時代に編纂された史書であり、三国をほぼ並記した「三国志」と異なり、魏朝一代史であり、四百年にわたる漢を継いだ正統政権であるとして、呉、蜀を、反逆者としています。
 「魏略」は、暫時帝室書庫の所蔵書籍として厳格な写本継承が行われましたが、魏朝の正統性への評価が低下するにつれ、書庫外に押しやられ次第に散逸したようです。
 因みに、「西戎伝」とあえて銘打ったのは、班固「漢書」西域伝で、漢との交流、西域都護への帰属が表明されている西域諸国の「伝」に対して、それより西、漢の威光の及んでいない「西戎」の国情を初めて奏上するとの意であり、新来諸国が、漢を継承した曹魏の威光に服すれば、西域は西方に延びるという主旨と思われます。

*西戎伝の信頼性
 一般論として、魏略は大半が佚文であるため、信を置けないとの定評ですが、こと、「西戎伝」の評価は大変高いのです。魏志に補追された「西戎伝」は、劉宋史官裵松之が、当時帝室蔵書として管理されていた「魏略」善本を底本とてし、裵松之が責任を持った引用であり、「三国志」本文に遜色のない高い信頼性の評価をあるのです。もちろん、数カ所の明白な誤記と後年加筆らしい数行の不審記事はあるものの、全体として、大変正確な史料と見られるのです。

 因みに、二十世紀初頭にかけて中央アジア広域を探検したスウェン・ヘディン(スウェーデン)は、西戎伝を信頼すべき座右の書としたそうです。

*後漢書の虚報

 范曄「後漢書」西域伝は、「西戎伝」、ないしは、その原史料に基づく紀伝ですが、原史料の正確な要約でなく笵曄の常識と論理に基づく再構成が行われていて、特に、「大秦」関係記事は、明らかに誤伝となっています。特に、西域都護班超の副官にして安息訪問大使の甘英の大秦渡航断念事情は、根本的に虚偽記事であり、まことに不出来です。范曄と比較できる同時代史書として、袁宏「後漢紀」と魚豢「魏略」西戎伝が、今日まで継承されていなければ、笵曄の曲筆の是正ができなかったと思えば、正史といえども厳重な史料批判が必要という基本的な訓戒がわかるのです。
 いや、笵曄「後漢書」の紀伝部分は、先行諸家後漢書を参照していて、信頼できるのですが、西域伝は、他史料に基づく校訂が見えず、心許ないのであり、東夷伝は、他家後漢書に欠けている独自記事なので、不安です。

*大局的使命
 西域都護の副官甘英が、都護班超から承けた大局的な使命は、司馬遷「史記」大宛伝、班固「漢書」西域伝以来の西域探査であり、漢代は、安息、条支が西の極限ですから、それより西の世界は、未知の領域であり問題外だったのです。

 あくまで仮定の話ですが、甘英が、使命の安息、条支に至って、さらに西方の土地を耳にしたとしても、それは使命外ですから、仮に使命の延長線上の、いわば、拡張使命になり得ると考えても、その情報の信憑性を確認した上で、以後の対応については西域都護の指示を仰ぐ必要があったのです。

 班超が、仮にそのような上申を受けたとしても、甘英が更なる遠隔地に赴けば帰任が大幅に遅れ、使命報告が大幅に遅れることを大いに危惧したはずです。班超の使命は、西域の安寧確保ですから、成すべき事はその使命の成果を持ち帰り、本来の西域都護の任に就くことなのです。

*漢朝偉業の継承
 そもそも、班超が甘英に与えた使命は、西域にひろがる匈奴を駆逐する戦いを西方から支援する同盟者の発見と盟約の確立にあったのです。

 それは、かつて武帝が張騫に与えた使命でもあり、匈奴と角逐している当時と西域状勢は何ら変わっていないのです。当初、西域の覇権は、漢か匈奴かでしたが、後漢中期、かって張騫が交通を築いた大月氏後続である貴霜国が、西域都護に対し反抗を続けていて、洛陽の支援が乏しくなって西域都護が衰弱すれば、後漢の支配が崩壊する状態だったのです。班超は勇猛果敢で、諸国を睥睨していたが、引退の時が近づいていたので、低迷の相手を得て、後年の安定を期したかったのです。。

 従って、甘英は、中央アジア暑熱地帯を抜け、司馬遷「史記」大宛伝で初めて紹介された文明大国「安息」を訪ね、武帝時代以後途絶えていた交流を再構築し、低迷を提案したはずです。 それが、甘英の西域探査の端緒なのです。

                                未完

新・私の本棚 「魏略西戎伝」条支大秦の新解釈 壱 導入篇  3/4

                             2019/10/27
*小安息国と安息帝国
 大宛伝に従い接触したのは、この地の守りを任されていた小安息国ですが、しばしば、イラン高原全体を支配する安息帝国と混同されたのです。
 混同と言っても、地方国と全帝国の勘違いは、それほど深刻なものではありません。小安息国は、帝国の東の守りを一任されていて、それは、東方との貿易の収益管理も含まれていたのです。商業立国の安息帝国では、国の大黒柱として強力な権限を委ねられていたのです。それは、小安息国が安息帝国創業の地として特権を有していたとも言えるのです。

*臣従あるいは同盟
 と言うことで、甘英は、小安息国の玄関に長期にわたって滞在し、締盟を図りましたが、当然、安息国は後漢への臣従は謝絶し、中央アジアの交易路に対する北方匈奴の侵略を後漢朝西域都護が阻止していることに対して感謝を示した程度に終わったようです。
 甘英が求めたのは、二萬人が常駐する安息国東方守護の軍事力の提供であり、それは謝絶されたのです。安息帝国は、小安息に東境防備のための大軍を常駐させていましたが、自ら中央アジアオアシス諸国を攻撃することはなかったのです。金の卵を生み続ける鶏は殺すなということです。


*安息査察
 次に、甘英は安息国内の査察を望んだはずですが、客人扱いとは言え、他国の軍人に国内通行を許すことはありません。従って、安息国内の取材はできなかったのです。勿論、高度に機密性のある内部情報である戸数、工数などは得られず、又、服属の際には提示される地図も得られなかったのです。服属国でない大国から取材できる情報は限られているのは常識ですから、この事態は不首尾などでは無かったのです。
 安息国は、貿易立国、商業立国ですから、使節厚遇の一環として一大見本市を催したのですが、甘英は軍人なので一覧表を取り次いだだけでした。
 その中では、安息国の近隣と思われる大秦国の物産が多彩ですが、既に、武帝時代に安息国の第一回遣使で特産物を紹介されていた莉軒の別名ということだけ意識に止めたのです。

*条支内偵
 さて、次に望んだと思われるのは、西の条支との接触ですが、安息国は、遠路であるから条支代表者を呼びつけることも、安全を保証できない条支国への行程を紹介することも控えたようです。
 とは言え、甘英の報告には、「海西」の国情が詳しく書かれていて不思議です。安息国が近隣国の国情を紹介するにしては詳しいし、安息国に不利なことも書かれていますから、これは、密かに条支に取材したと思われるのです。概念図には、甘英が、帰途、条支に向かったと見て、条支往還経路を推定してあります。憶測ですが、さほどの道草にはならないのです。
 但し、友好関係を築こうとしている相手に隠密の内偵を悟られてはならないので、婉曲な紹介記事になったと見るのです。


*大秦造影の怪
 その結果、後世史家は西戎伝各国記事の進行を見損なっているのです。
 そして、甘英が大して気にとめなかった大秦が、後世史家の創作により、まぼろしの西方大国として注目され、ついには、パルティアの大敵と見なす暴論まで台頭したのです。その端緒が、西戎伝に魚豢が注釈した数行ですが、「イリュージョン」に最も貢献したのは、范曄です。
 つまり、笵曄「後漢書」は、司馬遷「史記」、班固「漢書」と並ぶ、「三史」なる正史の最高峰となったので、影響力は絶大で、「三国志」は、言わば脇士となったので、その責任は重いのです。

                              未完

新・私の本棚 「魏略西戎伝」条支大秦の新解釈 壱 導入篇  4/4

                             2019/10/27 2022/11/13
□誤釈の起源 Origin of Speculation
 魚豢は、漢書「西域伝」安息伝の「二枚舌」を解釈できず、安息国が、数千里にわたる超大国と「誤解」したため、安息国西界、つまり、西の果ての向こうにある条支国は、メソポタミアに王都が存在する安息の西方と誤解したようです。「大秦は、既知の莉軒であって大安息内部、小安息近傍」との端的な行文を誤解釈し、余計な何ヵ月という海上所要日数を書き足したのです。
 そのため、条支、安息並記と読んで「大海」地中海の西の「海西」と見て文を閉じ、直後に開始の海西記事が大秦記事と誤解され、さらに沢山の誤解を誘発したのです。何のことはない、条支は、大海、実はカスピ海のすぐ向こう岸であり、条支の向こうは(直に見えない)黒海だったのです。

*本当の条支探査
 本来の条支行きは、当然、カスピ海の船での移動でしょう。いくら軍人でも、虎や獅子は避け、難なく便船で渡海したはずです。因みに、条支は海西にあって、大海カスピ越しに手に入れた小安息国物資を、大海「アゾフ海」、「黒海」経由で、船荷として地中海に流し、あるいは、陸路流通して、巨利を得ていたようです。黒海南岸には、かつて、ギリシャと競合したトロイアが栄えていたので、黒海経由の東西貿易は、シルクロードなどとしゃれた呼び方が生じる前から、大いに繁栄していたのです。

*使命の達成報告 Mission Complete
 それはさておき、条支国の国情を見定め、今後の交情を約したことにより、甘英は、所記の使命を達成し班超西域都護に向かって東に帰ったのです。
 当然、甘英は、堂々たる文書をもって班超に復命し、班超は、それを嘉納すると共に、洛陽の皇帝に報告文書を届けたので、文書は皇帝のもとに届いたのです。不首尾の報告まであれば、班超は譴責を承けたでしょうが、そのような記録は残っていないのです。いや、記録はなくても、班超は顕彰され西域都護の任にとどまったから、甘英の使命達成は確実なのです。

□総括
 甘英の帰任後、老いた班超は、多年の西域の激務から退任して後漢の西域経営は活力を失い、皇帝の代替わりもあって急速に退潮し、西域は匈奴の意のままになったのです。但し、匈奴は、長年の漢との衝突の多大な被害により単于独裁が崩れ、西域諸国への圧政は一時緩和されたようです。
 と言うことで、甘英は、断じて使命放棄などしていないのです。
 冤罪を報じた報いとして、范曄は史家としての不名誉を承けるべきです。
 ここは、導入篇、序論ですから、要点だけにとどまるのです。

□西戎伝道里記事の語法について
 随分手間取りましたが、魚豢が認めた用字は、概ね以下のようです。同時代の同趣旨記事ですから、特段の重みのある用例です。
 「従」は、書かれている地点から「直行」という意味です。
 「循」は、海岸線と直交する方向を言います。
 「去」は、続く地点から逆戻りすることを言います。(方角が逆転します)
 「復」は、道里の直前起点に戻ることを言います。
 「真」は、特に厳密な四分方位を言います。
 「転」は、概して直角に進路を変えることを言います。
 「歴」は、当該国の王治に公式に立ち寄ることを言います。
 「撓」は、地形に従い円弧状の経路を行くことを言います。
 「陸道」「陸行」は、人畜を労して、陸上を行くことを言います。「陸」は、平地を意味し、宿駅のある街道が整備され、騎馬移動や車輌搬送ができるのです。
 「水道」「水行」は、人畜を労せずして、河水面を行くことを言います。
 「浮」は、本来、小舟や筏で水面を移動することを言います。
 「乗船」は、便船に乗ることを言います。
 「大海」は、外洋でなく、塩水を湛えた閉水面を言います。                          
                             導入篇 完

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