倭人伝新考察

第二グループです

2023年1月28日 (土)

06. 濵山海居 - 読み過ごされた良港と豊穣の海 再掲載

                         2014/04/26  2022/11/14 2023/01/28
 「末盧國,有四千餘戶,濵山海居,草木茂盛」

*末羅国談義

 末盧國は、山が海に迫っているため、田地、つまり、水田と限らないにしろ、農地が制約されたとしても、航海に通じた少数精鋭の国だったのでしょう。
 戸数四千戸は、國邑、つまり、隔壁集落で、千戸台となっている前後の諸国に数倍するのですが、それが、単一國邑なのか、千戸台の國邑が数カ所存在したのか、不明です。四千戸の大国の住民が、海岸近くに住んでいたのか、内陸に住居を構えた住民の大半が浜小屋住まいだったりすると、適切な課税が困難と見えますが、詳しいことは分かりません。

 また、言うまでも無く、倭は、年間通じて降雨に恵まれていたので、水田米作が維持でき、もう一つの辺境である西域の流沙、つまり、砂漠とは大違いです。更に言うと、乾燥地帯の黄土平原である中原とも寒冷の韓国とも、大きく異なるので、街道を塞ぎそうな樹木の姿が、感銘を持って特記されたようです。
 後ほど、気候の話題が出てきますが、北方の韓国のように寒冷でなく、温暖であるものの、南方の狗奴国で引き合いに出された海南島のように瘴癘ではないのです。
 要するに、玄界灘は漁獲に恵まれた豊穣の海であり、長く、沿岸諸国の国力を支えたでしょう。
 末羅国は、倭國覇者ではないにしても、国土は狭くとも、戸数は少なくとも、地域「大国」だったはずです。

 さて、以下の道里記録の評価で余り触れられていないように思うのですが、これら道里の出典は、魏使(帯方郡使)の測量した数値であるということです。 旧説を撤回 2022/11/14

*魏使の陣容
 魏使は、正使、副使程度しか知られていないものと思いますが、少なくとも、魏朝を代表して派遣され、外交以外に、軍事的な目的も担っていた以上、以下に述べる程度の構成は整っていたはずです。たとえば、副使は、正使に不測の事態が生じたときの代行者でもあり、時には分遣隊として滞在地を離れて、出動したことでしょう。

 人員は、大半が帯方郡からの派遣でしょうが、基本的に魏朝の配下とみるものです。
 正使 副使 通事 書記 記者 保安 財物 食料 救護 荷役
 ここで上げた書記は、公文書を取り扱う高官ですが、記者は、実務担当者であり、日々の任務の記録以外に、移動中の歩測測量を記録していたはずです。

 時に話題に上る「歩測」は、訓練を受けていれば、日々の移動方向と移動距離を結構高い精度で測量できたものと想像されます。全道里と所要日数の積算は、この記者の残した測量結果無くしては不可能だったはずです。 

*主要四行程~周旋五千里
 道里行程記事に書かれた狗邪韓国から倭王の王治に至る「主要行程」は、倭国内で、主要行程の道里が残されているのは、対海国~一大国~末羅国~伊都国の四行程に過ぎないし、ほぼ、南下の一路ですから、略図に書くまでもなかったようで、道里として主要四行程は「周旋五千里」、つまり直線行程を確認したものの、あくまで、全行程万二千里を按分したに過ぎず、実際の道里は正史に残されていないのです。
 史官にとっては、文章だけが「業」であり、「絵」や「図」は職人の手すさびですから、正史に居場所がなく、あったとしても捨て去られたのでしょう。どうしても、絵を残したかったら、「自画自賛」として「賛」なる詞文を付さなければならなかったのです。どの道、「東夷圖」を書いたとしても、各国間の道里が書き残せるだけであり、正史に綴じ込まれるわけでは無いので、立ち所に散佚したでしょう。

 歩測測量などの探偵技術は、外交軍事使節が未踏地に派遣される時の重要任務であり、それこそ、首をかけて達成したものと想像しますが、あくまで、後日、魏使の帰任後のことであり、以後の往来でどの程度活かされたかは不明です。とにかく、郡から倭まで万二千里の道里は、とうに、帝国公文書に刻み込まれていて、皇帝自身にも訂正のすべがなく、つまり、直接反映されていないのは明白です。もちろん、臣下が改竄するなど、実行不可能です。

*追記 2022/11/14
 よく考えてみると、誰が考えても、海上行程は測量できないし、末羅国から伊都国の行程は、市糴、つまり、交易の経路だったので、所要日数と里数は、早い段階で、帯方郡に報告されていたでしょうから、景初の遣使ー正始初頭の魏使来訪の時期、改めて魏使が歩測する必要はなかったようです。
 書き漏らしていましたが、末羅国の海港は、伊都国にしてみると、北の貿易港であり諸国物資の集積港であり、一大国などに向かう海船の母港でもあったという事です。つまり、当時、絶妙な位置にあって、海港として繁栄していたことでしょう。つまり、世上異説となっている「魏使が偶々寄港したためにここに書かれた」というという「思い込み」、「思いつき」は、論外の落第点で、真っ当な解釈として成り立たないようです。

 当然のことですが、世上、大抵無視されているので、当たり前のことを確認しておきますが、「倭人伝」の道里行程記事は、正始魏使の出発時点には、確定していて、皇帝の承認を得ていたのです。途轍もなく高価で貴重な大量の荷物を送り出すのに、道中が、どんな道筋でどれだけ日数がかかるか分から無くては、出るに出られないし、道中の宿泊地も含め、現地側から引き受けの保証が無ければ、魏使は、出発できなかったのです。

以上

05. 名曰瀚海 - 読み過ごされた絶景 補充

                        2021/09/26 補充 2023/01/28     

 又南渡一海千餘里,名曰瀚海,至一大國

 倭人傳の主眼の一つである「従郡至倭」行程、つまり、帯方郡治を出て倭王城に到る主行程には、その中心を占める三回の海越え、渡海が書かれています。陳寿が範を得た漢書西域伝では、陸上行程の連鎖で萬二千里の安息国に至っているのですが、ここに新たに書き上げようとしている「倭人伝」では、前例の無い、渡海の連鎖で、日数、里数を大量に費やしていて、これまた前例の無い「水行」と新たに定義した上で、記事をまとめています。このあたりの事情は、この場所には収まらないので、別記事を延々と書き募っていますから、ご縁があれば、お目にとまることもあるでしょう。

 そして、三度の渡海の中央部の記事に、あえて、「瀚海」と書いています。まことに、珍しいのですが、何度も書いているように、この行程は、前例の無いと思われる不思議な書き方になっているので、同時代の教養人といえども、何気なく読み飛ばすことはできなかったのです。つまり、飛ばし読みさせない工夫をしているのですから、現代の「東夷」の知識、教養では、読み解くのがむつかしい(不可能)のも当然です。

 慎重な読者は、ここで足を止めて、じっくり調べるものです。と言っても、この仕掛けは、ここが最初でもないし、最後でもないのです。子供が坂道を駆け下りるように、向こう見ずな暴走をしないようにご注意下さい。まして、転んで痛い目に遭ったのを、陳寿の書法のせいにしないでほしいものです。これまで、ほとんど二千年と言っていい、長い、長い期間に、多数の教養人が「従郡至倭」記事を読んで、「陳寿の筆法を誹っている」例は、見かけないのです。

 閑話休題
 以前から、特別な難所ではないのかと考えていたのですが、今回参照した中島氏の著作では、霍去病の匈奴討伐時の事績を参照して、この海峡を、越すに越されぬ難所として名付けられているとみています。海図や羅針盤の無い(要らない)有視界航行で、一日一渡りするだけと言えども、楽勝ではなかったと言うことです。
 まことに妥当な意見と考えます。

 こうしてみると、単に、三度海越えを繰り返したのではないのです。

 ちなみに、「倭人傳」解釈諸作が、原史料を尊重しているかどうかの試験の一つが、「一大國」がそのまま取り上げられているかどうかです。
 いきなり、「壱岐國」と書かれていたら、それだけで落第ものと思うのですがね。まあ、親亀、子亀の俗謡にあるように、子亀は上に載るだけという見方もありますが、堂々と解説書を出版する人が、「子亀」のはずがないでしょう。

以上

*随想 「翰海」と「瀚海」 2021/09/26
「票騎封於狼居胥山,禪姑衍,臨翰海而還」

 実は、史記/漢書に共通な用例「翰海」は、さんずいが無いものであり、中々意味深長なものがあります。

 漢字用例の集大成とも見える、「康熙字典」編者の見解では、もともと「瀚海」なる成語が知られていたのを、漢書「匈奴伝」などでは、あえて「翰海」と字を変えたと解しているようです。つまり、匈奴伝などでは、匈奴相手に大戦果を上げ、敵地の「漢軍未踏」領域に進軍した霍去病驃騎将軍が、山上から瀚海/翰海を見渡した後、軍を返したことになっています。因みに、ほとんど同記事が、漢書に加えても史記にも引かれていて、この一文が、当時の著述家の鑑になっていたと偲ばれます。

 そこで思うのですが、それほど珍重された「翰海」は、通俗字義である「広大」(浩翰/浩瀚)で越せない難所という意味なのか、何か「瀚」海でなく「翰」海で示すべき感慨があったのかということです。一種の「聖地」「絶景」でしょうか。

 そして、陳寿が、後に倭人伝をまとめる際に先例を踏まえて「瀚海」としたのは、どのような意味をこめたかということです。思いを巡らすのは、当人の好き好きですが、陳寿の深意を探る試みに終わりはないのです。 

 そこで、また一つ憶測ですが、「瀚」は、水面にさざ波が広がっている、羽根で掃いて模様を描いたような眺めを形容したもの(ではないか)と見たのです。

 このあたり、用字の違いが微妙ですが、霍去病の見た「翰海」が、氵(さんずい)無しと言うことは、これは「砂の海」(流沙)と思えるのです。つまり、茫々たる砂の大河の上に、羽根で掃いたような模様が広々と見えたので、大将軍も戦意をそがれて、引き返したとも見えるのです。
 もちろん、これは、よく言われるように、どこかの湖水の水面を見たのかも知れませんが、文字解釈にこだわると「砂の海」に見えるのです。

 このあたりの解釈は、洛陽で史官を務めた陳寿の教養になっていて、帯方郡から對海国に着いた使人の感慨で、目前の海面が、羽根で掃いたような模様に満たされていたとの報告を、一言で「瀚海」と氵付きで書き記したようにも思えます。

 以上、もちろん「状況証拠」なので、断定的に受け取る必要はありませんが、逆に、状況をじっくり考察に取りいれた盤石の「状況証拠」は、否定しがたい(頑として否定できない)と思うのです。何事も、はなから決め付けずに、よくよく確かめて評価するもの(ではないか)と思うのです。

 いや、「状況証拠」は、本来「法学部」の専門用語なので、当記事筆者のような素人が、偉ぶって説くべきものではないでしょうが、世間には、素人考えの勘違いの方が、もっともらしく「はびこっている」可能性があるので、一言警鐘を鳴らしただけです。言いたいのは、一刀両断の結論に飛びつくと、足元が地に着いていなくて、ケガをするかも知れないと言うだけです。

 世上、対馬-壱岐間の海峡を、波濤急流と決め込んでいる方があるようですが、対馬海峡は、全体として決して狭隘で無く、むしろ駘蕩と見える上に、中央部には、特に障害はないので、たおやかな流れが想定されるのです。特に、その日の移動を追えて海港に入ったときは、入り江と思われるので、眺めは穏やかであったろうと推定するのです。入港以前の長い漕ぎ継ぎも、さほどの難関ではなかったと見ているのです。

以上

04. 始度一海 - 読み過ごされた初めての海越え 追記補追 1/5

倭人伝再訪 4 2014-04-24  追記:2020/03/25 2022/10/17 2023/01/28
*お断り 追記の詰め込みで大変長くなったので、ページ分けしました。

「始度一海、千餘里至對海國」

*始めての渡海
 「受け売り」となりますが、『中国古典書では、「水行」が河川航行に限定される』との説の続きとして、「始度一海」についても、中島氏の論に従い、ここは、始めて(始度)の渡(度)海であるとの意味と読めます。
 ここに来て、倭人伝冒頭の「沿海岸水行」が、実行程で無く、『以下、倭人伝に限り、「水行」と言う新語を、海を渡る意味で使います』と言う宣言/定義付けだった事がわかるのです。
 ただし、三世紀当時、目前の「倭人伝」巻本の少し前の字句は、巻物を転がし戻して確認できるので、「読者」は、「倭人伝」道里行程記事の冒頭部分を見返した上で、そういう意味だったのかと「合点」できたことでしょう。

*對海國「市糴」考
 これまで、對海國が「不足する食糧を交易(市糴)で補う」との記事に対して、交易で何が代償なのか、書かれていないと不満を呈していましたが、どうも、この下りは、魏使に見落としがあったようです。交易自体は、「南」の一大國と「北」の狗邪韓國との間で、つまり「南北」に常時「船舶」が往来していたので、地産を託して利益を得て、対価として穀物を得て、辛うじて生存していたように見られがちですが、それは、途方もなく浅い考えです。

*自縛発言の怪~それとも「自爆」
 なにしろ、世上、「對海國は、不足する食糧を補うために人身売買に励んでいた」と、古代史学者の名の下に公開の場で途方も無い誣告に走る「暴漢」がいて、唖然とするのです。そりゃ、国民をどんどん人身売買で減らしていけば、急速に食糧必要量は減るでしょうが、いずれ、近い将来、国土は全て耕作者の居ない「無人の境地になれば食糧不足は解消する」ものの、それは、解決策では無いのです。まるで、子供の思いつきです。
 「古代史学会」が、学会として機能しているのであれば、そのような暴言を放置していることの是正が期待されるのですが、訂正、謝罪の記事は見かけませんから、自浄機能のない機能不全の存在になっているのです。何しろ、未検証の思いつきを、当の現地でぶち上げるのは、万死に値する暴挙です。

*對海国条の深意
 たしかに、「倭人伝」は、そのような印象/イメージを与えるように工夫されているので、普通に読んで、そのように納得してしまうのは、初学者には無理ないことですが、本来の「倭人伝」読者は、古典書に精通していて、言わば、読書の道で百戦錬磨の強者がいて、簡単に騙されないのです。単に、騙された振りをしていただけと思います。

*「南北市糴」の実相
 「南北」に往き来している「船舶」は、普通に考えれば、当然、山林に富む土地柄で地元である對海國が造船し、渡船として仕立てたものであり、併せて、造成した港に「市」を設けていて、南と北から来た船荷の取引で、相当の収益を上げていたはずです。そうで無ければ、往き来する他国の「船舶」から結構な港の利用料を得ていたはずです。

                                未完

04. 始度一海 - 読み過ごされた初めての海越え 追記補追 2/5

倭人伝再訪 4 2014-04-24  追記:2020/03/25 2022/10/17 2023/01/28

*「大航海」大幻想
 そのような前提抜きで、「後世の無教養な東夷」が、「素人考えで夢想」してしまうと、對海國人が、伊都国以遠まで南下するとか、狗邪韓国を越えて北上するとか、途方もない遠出の妄想が広がる方もいるし、果ては、半島沿岸を経めぐって山東半島まで赴いたとか、黄海を北上して渤海湾海岸に乗りつけたとか、ホラ話が止めどない方もいます。誰も三世紀当時の現場にいなかったので反論しないとは言え、言いたい放題は見苦しいのです。
 まずは、對海國の乏しい地産を運ぶとして必要な食料は、どこから得られたかと心配しないのでしょうか。

 いや、途方もないホラ話として、未だ存在しない「天津」まで乗り入れる妄想まで登場しているから、まだ、ましというものなのでしょうか。ちなみに、「天津」は、遙か後代元朝天子の住まう大都へ繋がる海港として創設されたものであり、三世紀当時、天子は洛陽に住まっていたので、「天津」は虚名の極みなのです。ものを知らない人は、何を言っても言い捨て/言い放題で、お気楽でいいなと思うのです。
 話を戻すと、時代/地域のあり方を冷静に再現し、近隣仲介交易の妙味を感じ取らないと、適確な解は得られないのです。そして、對海國が、飢餓で滅びるところか、南北の近隣と交易して、後世人の想像を絶した「潤沢な利益」を得ていたと見ないと、話の切りがつかないのです。對海國の北の取引先は、韓国の世界であり、異国との国境取引は、利幅が格段に大きいのです。何しろ、唯一の交易経路なので、値付けが通りやすいのです。

*「倭人伝」の要旨~再確認
 「倭人伝」の要旨は、韓国の領域を出た後、海上の州島を飛び石のように伝って、倭の本地に到るという未曾有の渡海行程の運びであり、現に存在するということを示している訳なのです。「倭人伝」は、中国人が、中国人のために書いた夷蕃伝なので、程良い難題になっている必要があるのであり、「對海伝」を目指しているのではないのです。

*「富国」の最善策
 さて、話を、對海國の考証に戻すと、港の利用料として誠に有意義なのは、穀物の持ち込みです。
 何しろ、対海国に立ち寄って水分食糧の補給ができる前提で、通常の渡船は、身軽にしていたわけですから、對海國の海港に備蓄が無いと、折角の交易が頓挫してしまうのです。つまり、普段、空荷の渡船に「食糧」を積んで対海国に納入していたとみるのが、賢明な「読み」でしょう。それが、筋の通った「大人」の読み方と思います。「倭人伝」の元史料は、書こうとすれば書けたでしょうが、「倭人伝」の分を過ぎているので、割愛したと見るのです。

*時代相応の独占的特権
 当然の考証として、三世紀当時の漕ぎ船では、對海国での漕ぎ手の休養や食料、水の補充を飛ばして、直接往き来することは不可能であり、代替策が無い以上、寄港地としての価値は、大変、大変高かったとみられます。食糧不足は、帯方郡に対して、納税しないことの口実であったと見えます。
 何しろ、對海國と狗邪韓國の間の直線距離は短いので、戸数相当の「税」を納めよと言われないようにに手を打っていたのです。もちろん、そのような自明事項の説明は、「倭人伝」の分を過ぎているので割愛したのです。

                                未完

04. 始度一海 - 読み過ごされた初めての海越え 追記補追 3/5

倭人伝再訪 4 2014-04-24  追記:2020/03/25 2022/10/17 2023/01/28

*對海國の恵み
 自明事項ついでに続けると、「人は食べなければ生存できない」ので、穀類不足は、海や山の幸で補い、さらには、特産物で補い、代わりに穀類を手に入れて飢餓を免れたのが、南北交易の実態であったと思われます。
 對海國が、長く健全に維持されたと言うことから、大半は、對海國の市で、あるいは、海港で、着々と行われたはずです。別に、船に乗って出かけなくても客はやってくるのです。
 本当に、飢餓状態なら、島民は、半島か一大國に逃げ出すはずですが、そのようなことの明記も示唆もない以上、島内で必要な食料は得られていたのでしょう。
 余談ですが、地産特産として有力な海産物の干物づくりには、一旦茹でてから天日干しする必要がありますが、その燃料は、最寄りの山林から得ていたのでしょうし、必要な食塩も、海水から採れたはずです。ただし、対馬で貝塚が出土したかどうか定かではないので干物交易は、仮説に過ぎないのですが。

*道里/方位談義
 ちなみに、さすがの魏使も、海上航路を精度高く測量することはできないし、また、航海の距離を報告しても、道里としての実際的な意味が乏しいので、方向と距離は、大雑把なものにとどまっているのです。目前の海島に到る渡船には、方位の精密さは不要なのです。

*時代相応の「国境」談義
 更に言うと、とかく誤

解されている「国境」は、ちゃんと時代感覚を補正しないと、検討ちがいのものになります。倭人伝では、對海國は「国」であり、「對海国の国境」は、北は、狗邪韓国の港の對海國「商館」、南は、一大国の港の對海國「商館」となります。また、「倭人」の北の国境は、狗邪韓国の港の對海國「商館」、この場合は「倭館」となります。
 これは、経済的な視点、つまり、貿易の実務からくるものであり、そのようにしないと、倭の所有する貨物を、韓に引き渡すまでの所有権が保護できないので、言わば、「治外法権」としただけであり、仮に、区域内に武力を保持したとしても、別に、倭が狗邪韓國全体を領有していたというものではありません。
 何しろ、交易相手は「お客様」であり、そのまた向こうの「お客様」とうまく商売しているから、多大な利益が得られるのであり、言わば、「金の卵を産むニワトリ」ですから、決して、「お客様」を侵略して、奪い取るものではないのです。あるいは、蜂蜜を求めて、ミツバチの巣を壊して根こそぎするのと同じで、そのあとは、枯渇なのです。

追記:2020/03/25
 現時点で、訂正を要するというほどではないのですが、思いが至らなかった点を補充します。
 まず、「一海」を渡るとしていて、以下でも、「また」と言う言い方をしていますが、これは、山国蜀の出身である史官陳寿が、帯方郡から報告された行程を、海を知らない中原、洛陽の読者に理解しやすいように、半島南岸の狗邪韓国から対馬への移動を、中原にもある大河の渡河、渡し舟になぞらえたもののように見えます。いや、史官として、原史料に手を加えることは厳に戒めていたものの、補足無しで誤解される部分に、加筆したと見えます。

                                未

04. 始度一海 - 読み過ごされた初めての海越え 追記補追 4/5

倭人伝再訪 4 2014-04-24  追記:2020/03/25 2022/10/17 2023/01/28

*大海談義ふたたび
 中原人にとって、辺境の「大海」は、西域の蒲昌海(ロプノール)や更に西の裏海(カスピ海)のような「塩水湖」なので、中原や江水沿岸にある「湖沼」混同されないように、言い方を選んでいるのです。
 また、今日の言い方で綴ると、「対馬海峡」は、東シナ海と日本海の間の「海峡」、つまり、山中の峡谷のような急流となりますが、当時、東シナ海も日本海も認識されていなかったので、「海峡」との認識は通用していなくて、単に、一つの「大海」を、土地の渡し舟で越えるとしているのです。

*「海」という名の「四囲辺境」の「壁」
 別の言い方をすると、古典書で、「海」は、中国世界の四方の辺境に存在する「壁」であり、本来、塩水の水たまりという意味では無かったのです。そのため、西域で「塩水湖」に遭遇したとき、それを「大海」と命名したものであり、四海の内、具体的に直面する東の「海」についても、漠然と、塩水のかたまりとしての意識しか無かったのです。
 その結果、帯方郡の東南方にある蛮夷の国は、東夷を具現化した「大海」と認識され、次に、「大海中山島」、つまり、「大海」中に「國邑」があるとみたようです。あくまで、『「大海」が「倭」との「地理観」』が長く蔓延って、「倭人伝」は、普通にすらすら読むことが困難なのです。
 何しろ、陳寿の手元には、さまざまな時代の「世界観」で書かれた公文書史料が参列していて、史官は、史料を是正すること無く編纂を進めるので、遙か後世の夷人は、謙虚、かつ丁寧に読み解く必要があるのです。

*「瀚海」談義
 予告すると、次の湖水は、特に「翰海」との名があるとされていて、「又」別の渡し舟で越えるとしているのです。そして、次は、無名の「一海」なる塩湖となっていて、「又」別の渡し舟で越えるとしているのです。
 「瀚海」は、広々とした流路の中央部であり、むしろ「ゆったりと流れる大河」の風情であり、古田氏の戯れ言の如く「荒浪で壱岐島を削る」ものではなかったのです。むしろ、絹の敷物のように、細かいさざ波を湛えている比類の無い眺めだったために、「瀚海」と命名されたように見受けます。これは、滅多に無い孤説ですので、聞き流していただいて結構です。

*「一海」を渡る「渡し舟」
 「渡し舟」は、中原人世界観では、身軽な小舟であって、決まった「津」と「津」を往き来して、公道(highway)である街道を繋ぐ、補助的な輸送手段です。中原の街道制度で、渡船は道里や日数に含まないのです。
 「倭人伝」の「渡し舟」は、流れの速い海を一日がかりの長丁場で乗り切るので、「倭人伝」は「渡海」とし「水行」として道里や日数に含んでいます。

*「倭人伝」用語の実相
 陳寿は、それまでの「慣用的な用語、概念を踏まえて、辺境の行程を説いている」のですから、後世の読者は、「現代人の持つ豊富な知識と普通の素直な理解」を脇に置いて、歴史的な、つまり、当時の中国、中原に於ける歴史的/慣用的な用語、概念によって理解することが求められているのです。
 「倭人伝」は、三つの塩水湖「一海」を、それぞれの渡し舟で渡るのです。行程全体の中で、難所に違いないのですが、普段から渡し舟が往き来しているとして、史記始皇帝説話などで見られる物々しい印象を避けたと見えます。

                                未完

04. 始度一海 - 読み過ごされた初めての海越え 追記補追 5/5

倭人伝再訪 4 2014-04-24  追記:2020/03/25 2022/10/17 2023/01/28

*島巡りの幻想払拭
 と言うことで、この間を、魏使の仕立てた御用船が、島巡りして継漕して末羅国まで渡るという、古田武彦氏を継承する物々しい想定は、陳寿が丁寧に噛み砕いた原記事の、時代相応の順当な解釈を外れていると見るものです。

 凡そ、専用の頑強船体で屈強漕ぎ手が難所を漕ぎ渡った後、専用船を「便船」として連漕するのは、不合理です。「便船」なら普通の漕ぎ手に交代すべきで、屈強漕ぎ手は休養し、頑強船体は折り返し行程に備えたでしょう。

 古代と言えども、合理的な操船手順のはずです。でなければ「渡船」事業は、業として成立せず速やかに破綻するのです。

*辻褄合わせのいらない概算道里
 そもそも、公式道里は、郡治から國邑までの「道のり」であり、對海国に至る道里には、途中の細かい出入りの端数は全て含まれています。そもそも、都合万二千里の総道里であり、全てせいぜい千里単位の概数計算ですから、「島廻遊」の端数里数は、はなから読み込み済みなのです。

 古田氏は、概算の概念を失念され、一里単位と見える「精密」な道里の数合わせに囚われ、端数積み上げで帳尻合わせする挙に陥ったと見えます。
 概数計算の概念では、千里単位の一桁漢数字(但し桁上がりあり)で勘定が合うことが求められ、桁違いの端数は勘定に関係ないのです。
 世上、倭人伝道里を算用数字で書く悪習が出回っていますが、そのような時代錯誤の無意味な数字を目にしたために、千里代も百里代も同格との錯覚が蔓延していたら残念です。「倭人伝」道里記事は、漢数字による概算計算の世界で、倭地内の道里以外は千里単位です。

*異次元の「方里」
 散見される「方三百里」、「方四百里」なる「方里」表現は、行程「道里」でなく面積表示と見え、ここに展開した道里と、全く、無関係、異次元です。(「異次元」は、当世、馬鹿馬鹿しい意味で転用/誤用されていますが、本項は、数学的なものであり、道里は一次元、方里は二次元で、大小比較も加減算もできないと示しているだけです。)

*脱「短里論」の契機
 当ブログでは、三世紀当時、時代独特の「里制」は、一切存在しなかったと断定しています。「倭人伝」に限定して「狗邪韓国まで七千里」と定義した「里」は、遡った高句麗伝や韓伝には適用されず、「方里」記事の「里」は、普遍の普通里、ほぼ四百五十㍍となります。ご確認頂きたいものです。
 この点は、世上「定説」めいて、誤解に基づく議論が当然のようですが、誤解に立脚した議論は、いかに支持されても誤解にほかならないのです。言い古された言葉ですが、学術的な論義は、声が大きいのが「正義」ではないし、まして、拍手の数が多ければ「正解」でもないのです。

*「倭人伝要件」の確認
 総括すると、正史蛮夷伝「倭人伝」の要件は、蛮夷管理拠点である郡から新参蛮夷倭王居処に至る主要行程の公式道里と所要日数を確定することです。
 遠隔の倭地内の地理情報や主要行程外の余傍の行程は、本来、不要なのです。当時の史官、さらに、政府要人は、悉く、基礎数学を修めていて「数字」に強く、概算計算の概念を適確に理解し誤解はしなかったものと解されます。
 「倭人伝」が裁可されたのは、自明概念を適切に述べたためと思われます。

*「早合点」の一つ
 「島巡り」なる早合点は、氏の提言の契機として著名ですが、氏の合理的論考を揺るがして提言全体を危うくし、誠に残念です。

                               以上

03. 從郡至倭 - 読み過ごされた水行 改訂第五版 追記再掲 1/3

        2014/04/03 追記2018/11/23、 2019/01/09、07/21 2020/05/13、11/02 2023/01/28

 おことわり: またまた改訂しました。そして、更に追記しました。更に、3ページに分割しました。

 注記:
 後日考え直すと、当初述べた水行行程の見方は間違っていましたので、書き足します。

 従郡至倭行程一万二千里の内、半島内狗邪韓国まで七千里と明記されたのは、この間がほぼ全て陸上官道であり、海上や河川の航行のように、道里、日程が不確かな行程は含まれていないと判断されます。いや、実際には、その時、その場の都合で、水の上を行ったかも知れませんが、国の制度としてはと言う事です。

 九州島上陸後も、末羅国で「陸行」と明記されていることもあり、専ら陸路で王治に至ると判断されます。一説に言うように、伊都国から後、「水行」二十日とされる投馬国は、脇道として除き、「都合水行十日+陸行一ヵ月」の膨大な四十日行程は、伊都国ないしは投馬国から倭王治に至る日数では無く、全体道里万二千里に相当する所要期間と見るのです。
 このような推定は、「放射行程説」に帰着していると見て取れるかも知れませんが、当ブログは、特定の学派/学説に追従するものでなく、あくまで、『「倭人伝」記事の解釈』に基づいているのです。もちろん、特定の学派/学説を否定する意図で書いているのでもありません。

 このように整理して解釈すると、全体の筋が通り、陸行は総計九千里、所要日数は都合三十日(一月)となり、郡から狗邪韓国までの陸上街道を七千里として定義された「倭人伝」道里によると、一日あたり三百里と、切りの良い数字になり、一気に明解になります。

 一方、「従郡至倭」行程の「水行」は、専ら狗邪韓国から末羅国までの渡海行程と見るべきです。そう読めば明解になるという事です。
 渡海行程は、一日刻みで三度の渡海と見て、前後予備日を入れて、計十日あれば踏破できるので、「水行十日」に相応しいのです
 郡からの街道を経て狗邪韓国に至った道里は、ここで初めて倭人の北界である大海の北岸に立ち、海岸に循して、渡海するのです。
 狗邪韓国から末羅国に至る記事は、「始めて」渡海し、「又」渡海し、「又」渡海すると、順次書かれていて、中原で河川を渡る際と同様であり、ここでは、大海の中の島、州島を利用して、飛び石のように、手軽に、気軽に船を替えつつ渡るので、まるで「陸」(おか)を行くように、「水」(大海の流れ)を行くのであり、道里は単純に千里と明解に書いているのです。
 各渡海を一律千里と書いたのは、所要一律三日に相応したもので、全体に予備日を入れて、切りの良い数字にしています。誠に整然としています。なべて水行は三千里、所要日数十日で、一日三百里と、明解になります。
 
 そのように明解に書いたのは、行程記事が、官用文書送達期限規定のために書かれていることに起因するのです。それ以外の「実務」では、移動経路、手段等に異なる点があるかも知れません。つまり、曹魏正始中の魏使の訪倭行程は、随分異なったかも知れませんが、「倭人伝」は、それ以前に、「倭人」の紹介記事として書かれたのであり、魏志の出張報告は、道里行程記事に反映していないのです。

 また、半島西岸、南岸の沿岸で、飛び石伝いのような近隣との短距離移動の連鎖で、結果として、物資が全経路を通して移動していた可能性までは、完全に否定していないという事です。事実、この地域に、さほど繁盛していないものの、交易が行われていた事は、むしろ当然でしょう。
 ただし、この地域に日本海各地の産物が出土していたからと言って、此の地域の、例えば、月一の「市」に、遠方から多数の船が乗り付けていたと言う「思い付き」は、成り立ちがたいと思います。今日言う「対馬海峡」を漕ぎ渡るのは、死力を尽くした漕行の可能性があり、多くの荷を載せて、長い航路を往き来するのは、無理だったと思うからです。

 海峡を越えた交易と言うものの、書き残されていない古代の長い年月、島から島へ、港から港を、小刻みに、日数をかけて繋ぐ「鎖」の連鎖が、両地区を繋いでいたと思うのです。

 いや、ここでは、時代相応と見た成り行きを連ねる見方で、倭人伝の提示した「問題」に一つの明解な解答の例を提示したのであり、他の意見を徹底排除するような絶対的/排他的な意見ではないのです。

 水行」を「海」の行程(sea voyage)とする読みは、後記のように、中島信文氏が、中国古典の語法(中原語法)として提唱し、当方も確認した解釈と一致しませんが、「倭人伝」は、中原語法と異なる地域語法で書かれているとおもうものです。それは、「循海岸水行」の五字で明記されていて、以下、この意味で書くという「地域水行」宣言です。
 この点、中島氏の論旨に反していますが、今回(2019年7月)、当方が到達した境地を打ち出すことにした次第です。

 教訓として、文献解釈の常道に従い、倭人伝の記事は、まずは、倭人伝の文脈で解釈すべきであり、それで明快に読み解ける場合は、倭人伝外の用例、用語は、あくまで参考に止めるべきだということです。

 この点、中島氏も、「倭人伝」読解は、陳寿の真意を探るものであると述べているので、その点に関しては、軌を一にするものと信じます。

 追記:それ以後の理解を以下に述べます。

未完

03. 從郡至倭 - 読み過ごされた水行 改訂第五版 追記再掲 2/3

        2014/04/03 追記2018/11/23、 2019/01/09、07/21 2020/05/13  2020/11/02 2023/01/28

 おことわり: またまた改訂しました。そして、更に追記しました。3ページに分割しました。

*「従郡至倭」の解釈 (追記 2020/05/13)
 魏志編纂当時、教養人に常識、必須教養であった算術書籍「九章算術」では、「従」は「縦」と同義であり、方形地形の幅方向を「廣」、縦方向を「従」としています。つまり、「従郡」とは、郡から見て、つまり、郡境を基線として縦方向、ここでは、南方に進むことを示していると考えることができます。 いきなり、街道が屈曲して、西に「海岸」に出るとは、全く書いていないのです。

 続く、「循海岸水行」の「循」は「従」と同趣旨であり、海岸を基線として縦方向、つまり、大海を渡って南方に進むことを、ここ(「倭人伝」)では、以下、特に「水行」と呼ぶという宣言、ないしは、「新規用語の定義」と見ることができます。
 つまり、「通説」という名の素人読みでは、これを実際に進むと解していますが、正史の道里行程記事で典拠に無い新規用語である「水行」を、予告無しに不意打ちで書くことは、史官の文書作法に反していて、いかにも、読者を憤慨させる不手際となります。
 順当な解釈としては、これを道里行程記事の開始部と見ずに、倭人伝独特の「水行」の定義句と見ると、不可解ではなく明解になり、道里行程記事の考察から外せるのです。

*自明当然の陸行 (追記 2020/05/13)
 と言う事で、帯方郡から狗邪韓国の行程は、中国史書として自明なので書いていませんが、明らかに郡の指定した官道を行く「陸行」だったのです。ここまで、正史に、公式の街道の水行の前例がなかったので、自明、当然の「陸行」で、狗邪韓国まで進んだと解されるのです。

 以下、「水行」という名の「渡海」行程に移り、末羅に上陸すると、「水行」の終了を明示するために、敢えて「陸行」と字数を費やしているのです。
 「倭人伝」に示されているのは、実際は、「自郡至倭」行程であり、最後に、「都合、水行十日、陸行一月(三十日)」と総括しているのです。
 ついでながら、陸行一月を一日の誤記とみる奇特な方もいるようですが、皇帝に上申する史書に「水行十日に加えて陸行一日」の趣旨で書くのは、読者を混乱させる無用な字数稼ぎであり、「陸行一日」は、十日単位で集計している長途の記事で、書くに及ばない瑣末事として抹消されるべきものです。水行十日は、当然、切りのいい日数にまとめた概算であり、桁違いのはしたなど書くものではないのです。
 結構、学識の豊富な方が、苦し紛れに、そのような言い逃れに走るのは勿体ないところです。当史料が、皇帝に上申される厖大な史書「魏志」の末尾の一伝だということをお忘れなのでしょうか。ここは、途中で投げ出されないように、くどくど言い訳するので無く、明解に書くものと思うのです。

 と言う事で、郡から倭まで、三角形の二辺を経る迂遠な「海路?」に一顧だにせず、一本道をまっしぐらに眺めた図を示します。これほど鮮明でないにしても、「倭在帯方東南」を、図(ピクチャー picture)として感じた人はいたのではないでしょうか。現代風に言う「空間認識」の絵解きです。当地図は、Googleマップ/Google Earthの利用規程に従い画面出力に追記を施したものです。漠然とした眺望なので、二千年近い以前の古代も、ほぼ同様だったと見て、利用しています。

 本図は、先入観や時代錯誤の精密な地図データで描いた画餅「イメージ」で無く、仮想視点とは言え、現実に即した見え方で、遠近法の加味された「ピクチャー」なので、行程道里の筋道が明確になったと考えています。倭人伝曰わく、「倭人在帯方東南」、「従郡至倭」。
 中原の中華文明は、「言葉で論理を綴る」ものであり、当世風の図形化など存在しなかったのです。Koreanmountainpass00
未完

*旧記事再録~ご参考まで
------------------------ 
 以下の記事では、帯方郡から狗邪韓國まで船で移動して韓国を過ぎたと書かれていると見るのが妥当と思います。
 「循海岸水行歴韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國」
 従来の読み方ではこうなります。
 「循海岸水行、歴韓國乍南乍東、到其北岸狗邪韓國」
 終始水行と読むことになります。

 しかし、当時の船は沿岸航行であり、朝出港して昼過ぎに寄港するという一日刻みの航海と思われますが、そのような航海方法で、半島西南の多島海は航行困難という反論があります。
 別見解として、水行は、帯方郡から漢城附近までの沿岸航行であり、以下、内陸行との読み方が提示されています。この読み方で著名なのは、古田武彦氏です。

 これに対して、(山東半島から帯方郡に到着したと思われる)船便が「上陸して陸行すると書かれてない」という難点と合わせて、魏使は、高貴物を含む下賜物の重荷を抱えての内陸踏破は至難、との疑問が呈されています。

 特に、銅鏡百枚の重量は、木組みの外箱を含めて相当なものであり、牛馬の力を借りるとしても、半島内を長距離陸送することは困難との意見です。

 これでは板挟みですが、中島信文 『甦る三国志「魏志倭人伝」』 (2012年10月 彩流社)によれば、次の読み方により、解決するとのことです。 
 「循海岸、水行歴韓國乍南乍東、到其北岸狗邪韓國
 つまり、帯方郡を出て、まずは西海岸沿いに南に進み、続いて、南漢江を遡上水行して半島中央部で分水嶺越えで洛東江上流に至り、ここから、洛東江を流下水行して狗耶韓国に至るという読みです。

 河川遡行には、多数の船曳人が必要ですが、それは、各国河川の水運で行われていたことであり、当時の半島内の「水行」で、船曳人は成業となっていたのでしょうか。
 同書では、関連して、色々論考されていますが、ここでは、これだけ手短に抜粋させていただくことにします。

 私見ですが、古代の中国語で「水」とは、河水(黄河)、江水(長江、揚子江)、淮水(淮河)のように、もっぱら河川を指すものであり、海(うみ)は、「海」です。これは、日本人が中国語を学ぶ時、日中で、同じ漢字で意味が違う多数の例の一つとして学ぶべきものです。
 従って、手短に言うと、「水行は河川航行」との主張は、むしろ自明であり、かつ合理的と考えます。

 ただし、中島氏が、「海行」が、魏晋朝時代に慣用句として使用されていたと見たのは、氏に珍しい早計で、提示された用例は、東呉の史官が、孫権大帝の称揚の為に書き上げた「呉志」であり、言うならば「魏志」には場違いな呉の用語が持ち込まれているのです。

 また、同用例は、「ある地点から別のある地点へと、公的に設定されていた経路を行く」という「行」の意味でも無いのです。是非、再考いただきたいものです。

未完

 

03. 從郡至倭 - 読み過ごされた水行 改訂第五版 追記再掲 3/3

        2014/04/03 追記2018/11/23、 2019/01/09、07/21 2020/05/13  2020/11/02 2023/01/28

 おことわり: またまた改訂しました。そして、更に追記しました。3ページに分割しました。

郡から狗邪韓国まで 荷物運び談義 追記 2020/11/02
 郡から狗邪韓国への行程は、騎馬文書使の街道走行を想定していますが、実務の荷物輸送であれば、並行する河川での荷船の起用は、自然なところです。
 と言う事で、倭人伝の行程道里談義を離れて、荷物輸送の「実態」を、重複覚悟で考証してみます。
 以下、字数の限られたブログ記事でもあり、現地発音を並記すべき現代地名は最小限とどめています。また、利用の難しいマップの起用も遠慮していますが、関係資料を種々参照した上での論議である事は書いておきます。

 なお、当経路は、本筋として、当時郡の主力であったと思われる遼東方面からの陸路輸送を想定していますから、素人考えで出回っているような、わざわざ黄海岸に下りて荷船で南下する事は無く、当時、最も人馬の労が少ないと思われる経路です。

 公式の道里行程とは別の実務経路として、黄海海船で狗邪韓国方面に向かう荷は郡に寄る必要は無いので、そのまま漢江河口部を越えて南下し、いずれかの海港で荷下ろしして陸送に移したものと見えます。海船は、山東半島への帰り船の途に着きます。
 当然ですが、黄海で稼ぎの多い大量輸送をこなす重厚な海船と乗組員を、このような閑散航路に就かせるような無謀な輸送はあり得ないのです。まして、南下する閑散航路は、大型の帆船の苦手とする浅瀬、岩礁が多いので、回避のために、細かく舵取りを強いられる海峡ですから、結局、帆船と言いながら、舵取りのための漕ぎ手を多数乗せておく必要があるのです。
 因みに、舵による帆船の転進は、大きく迂回はできても、小回りがきかず、船足が遅いとほとんど舵が効かないので、乳香、主津港の差異には、漕ぎ手の奮闘で転進する必要があるのです。
 つまり、連漕は効かず、細かい乗り継ぎ/漕ぎ手交代が不可欠となります。と言うことで、半島航路は、大型の帆船は採用されず、軽舟の乗り継ぎしか考えられないのであり、それでも、難破の可能性が大変高い、命がけのものと考えられます。

 一応、代案として評価しましたが、少なくとも、貴重で重量のある公用の荷物の輸送経路としては、採用されないものと見えます。

*郡から漢江(ハンガン)
 推定するに、郡治を出た輸送行程は、東に峠越えして、北漢江流域に出て、川港で荷船に荷を積むまでの陸上輸送区間があったようです。郡の近辺なので、人馬の動員が容易で、小分けした荷物を人海戦術で運ぶ、「痩せ馬」部隊や驢馬などの荷車もあったでしょう。そう、駿馬は、荷運びに向かないし、軍馬として貴重なので、荷運びは、驢馬か人手頼りだったものと思われます。とかく「駄馬」の語感が悪いのですが、重荷を運ぶのは、「荷駄馬」が必要だったのです。

 漢江河口の広大な扇状地は、天井川と見られる支流が東西に並行していて、南北経路は存在していなかったと思われます。(架橋などあり得なかったのです)つまり、郡から南下して漢江河口部に乗り付けようとしても、通れる道がなく、また、便船が乗り付けられる川港も海港もなかったのです。南北あわせた漢江は、洛東江を超えると思われる広大な流域面積を持つ大河であり、上流が岩山で急流であったことも加味されて、保水力が乏しく、しばしば暴れ川となっていたのです。
 郡からの輸送が、西に海岸に向かわず、南下もせず、東に峠越えして、北漢江上流の川港に向かう経路が利用されていたと推定する理由です。
 いや、念のため言うと、官制街道の記録があったというわけでもなく、推定/夢想/妄想/願望/思い付きの何れかに過ぎません。

*北漢江から南漢江へ
 北漢江を下る川船は、南漢江との合流部で、「山地のすき間を突き破って海へと注ぐ漢江本流への急流部」を取らずに、南漢江遡行に移り、傾斜の緩やかな中流(中游)を上り、上流部入口の川港で陸に上り、山越えの難路に臨んだはずです。

 別の発想として、漢江河口部から本流を遡行して、南北漢江の合流部まで遡ったとしても、そこは、山地の割れ目から流れ出ている急流であり、舟の通過、特に遡行が困難なのです。と言う事で、下流の川港で、陸上輸送に切り替え、小高い山地を越えたところで、南漢江の水運に復帰したものと思われます。何のことはない、陸上輸送にない手軽さを求めた荷船遡行は、急流部の難関のために、難航する宿命を持っていたのです。
 合流部は、南北漢江の増水時には、下流の水害を軽減する役目を果たしていたのでしょうが、水運の面では、大きな阻害要因と思われます。

 公式行程とは別に、郡からの内陸経路の運送は北漢江経由で水運に移行する一方、山東半島から渡来する海船は、扇状地の泥沼(後の漢城 ソウル)を飛ばして、その南の海港(後世なら、唐津 タンジン)に入り、そこで降ろされた積み荷は、小分けされて内陸方面に陸送されるなり、「沿岸」を小舟で運ばれたのでしょう。当然、南漢江経路に合流することも予想されます。
 世上、「ネットワーク」などとわけのわからない呪文が出回っていますが、三世紀当時、主要経路に、人員も船腹も集中していて、脇道の輸送量は、ほとんど存在しなかったのです。時代錯誤です。
 因みに、当時山東半島への渡海船は、大容量で渡海専用、短区間往復に専念していたはずです。遼東半島と山東半島を結ぶ、最古の経路ほどの輸送量は無かったものの韓国諸国の市糴を支えていたものと見えます。

 と言うことで、漢江遡行に戻ると、山間部から流下する多数の支流を受け入れているため、増水渇水が顕著であり、特に、南漢江上流部は、急峻な峡谷に挟まれた「穿入蛇行」(せんにゅうだこう)や「嵌入曲流」を形成していて、水運に全く適さなかったものと思われます。従って、中流からの移行部に、後背地となる平地のある適地(忠州市 チュンジュ)に、水陸の積み替えを行う川港が形成されたものと思われます。現代にいたって、貯水ダムが造成されて、渓谷の下部は、貯水池になっていますが、それでも、往時の激流を偲ぶことができると思います。

 そのような川港は、先に述べた黄海海港からの経路も合流している南北交易の中継地であり、山越えに要する人馬の供給基地として繁盛したはずです。

*竹嶺(チュンニョン) 越え
 小白山地の鞍部を越える「竹嶺」は、遅くとも、二世紀後半には、南北縦貫の街道として整備され、つづら折れの難路ながら、人馬の負担を緩和した道筋となっていたようです。何しろ、弁辰鉄山から、両郡に鉄材を輸送するには、どこかで小白山地を越えざるを得なかったのであり、帯方郡が、責任を持って、街道宿駅を設置し、維持していたものと見るべきです。後世と違い、まだまだ零細の時代ですから、盗賊が出たとは思えませんが、かといって、宿駅を維持保全するには、周辺の小国に負担がかかっていたのでしょう。ともあれ、帯方郡は、漢制の郡であったので、法と秩序は、巌として守られていたとみるべきです。

 「竹嶺」越えは、はるか後世、先の大戦末期の日本統治時代、黄海沿いの鉄道幹線への敵襲への備えとして、帝国鉄道省が、多数の技術者を動員した京城-釜山間新路線の峠越え経路であり、さすがに、頂部はトンネルを採用していますが、その手前では冬季積雪に備えた、スイッチバックやループ路線を備え、東北地方で鍛えた積雪、寒冷地対応の当時最新の鉄道技術を投入し全年通行を前提とした高度な耐寒設備の面影を、今でも、しのぶ事ができます。

 と言う事で、朝鮮半島中部を区切っている小白山地越えは、歴史的に竹嶺越えとなっていたのです。
 それはさておき、冬季不通の難はあっても、それ以外の季節は、周辺から呼集した労務者と常設の騾馬などを駆使した峠越えが行われていたものと見えます。

 言葉や地図では感じが掴めないでしょうが、今日、竹嶺の南山麓(栄州 ヨンジュ)から竹嶺ハイキングコースが設定されているくらいで、難路とは言え、難攻不落の険阻な道ではないのです。

*洛東江下り
 峠越えすると、以下の行程は、次第に周辺支流を加えて水量を増す大河洛東江(ナクトンガン)の水運を利用した輸送が役に立った事でしょう。南漢江上流(上游)は、渓谷に蛇行を深く刻んだ激流であり、とても、水運を利用できなかったので、早々に、陸上輸送に切り替えていたのですが、洛東江は、かなり上流まで水運が行われていたようなので、以下、特に付け加える事は無いようです。

 洛東江は、太古以来の浸食で、中流部まで、川底が大変なだらかになっていて、また、遥か河口部から上流に至るまでゆるやかな流れなので、あるいは、曳き船無しで遡行できたかもわかりません。ともあれ、川船は、荒海を越えるわけでもないので、軽装、軽量だったはずで、だから、遡行時に曳き船できたのです。もちろん、華奢な川船で海峡越えに乗り出すなど、とてもできないのです。適材適所という事です。

 因みに、小白山地は、冬季、北方からの寒風を屏風のように遮って、嶺東と呼ばれる地域の気候を緩和していたものと思われます。

*代替経路推定
 と言う事で、漢江-洛東江水運の連結というものの、漢江上流部の陸道は尾根伝いに近い難路を経て竹嶺越えに至る行程の山場であり、しかも、積雪、凍結のある冬季の運用は困難(不可能)であったことから、あるいは、もう少し黄海よりに、峠越えに日数を要して、山上での人馬宿泊を伴いかねない別の峠越え代替経路が運用されていたかもわかりません。何事も、断定は難しいのです。
 このあたりは、当方のような異国の後世人の素人考えの到底及ばないところであり、専門家のご意見を伺いたいところです。

以上

より以前の記事一覧

お気に入ったらブログランキングに投票してください


2023年3月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31  

カテゴリー

無料ブログはココログ