倭人伝新考察

第二グループです

2022年6月20日 (月)

新・私の本棚 番外 サイト記事検討 刮目天一 【驚愕!】卑弥呼の奴婢は埋葬されたのか?(@_@) 1/1

【驚愕!】卑弥呼の奴婢は埋葬されたのか?(@_@) 2022-06-16     2022/06/20

◯はじめに
 本件は、兄事する刮目天氏のブログを題材にしているが、氏のご高説に異を唱えているわけではないのは見て頂いての通りである。
 氏が応接の際に見過ごした躓き石を掘り返しただけである。ここは発言内容の批判であり、倭人伝解釈で、俗説がのさばっている一例を摘発するだけである。こうした勘違いの積み重ねが、混沌たる状況に繋がっている。

◯発言引用御免
卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人
卑弥呼が死に、多数の冢が作られた、径100歩に殉葬者の奴婢100余人。
とかの意味じゃないかな。
大作は漢文の用法としては大きく作るじゃなくて多数作るの意味みたい
墳ではなく冢だから小規模な墓が多数作られたんだ。

◯部外者の番外コメント
 発言者は、「改竄」記事にコメントし、刮目天氏は寛恕で黙過している。

*「徇葬」正解 
 原文は、「徇葬者」であり「殉葬者」と書いていない。「徇葬」は、東夷傳扶余伝が初出のようである。正史は、先例の無い言葉の無断使用は許されないが、倭人伝は、扶余伝で認知された用語の承継と見える。いや、実は、ほぼこれっきりの二例しか見当たらない。
 「殉葬」は、先例が非礼・無法である。そういう、とてつもなく「悪い」言葉を、陳寿が大事な倭人伝で、深意に反し、採用することはあり得ない。
 対して「徇葬」は、葬礼に伴い進むか、夜を徹して殯するか、あるいは、守墓人に任じられたか。いずれにしろね「徇葬者」は生き続ける。女王は讃えられる。
 「殉」一字に、「命がけで信条を奉じる」=「殉じる」との意義もあるが、「殉葬」者は、恐らく意に沿わずとも、間違いなく命を落とす。女王は、正史に恥を曝す。大違いである。
 これほど意味・意義の違う文字と取り違えるのは、目が点で節穴である。

 但し、この改竄は発言者独創とは思わない。倭人伝名物の改竄解読手法受け売りで、褒められないが非難はできない。誤解が蔓延しているのである。

 因みに、笵曄は、後漢書「東夷列伝」扶余伝で、陳寿の記事と軌を一にしつつ、「徇葬」と宿痾の誤字/誤解症例を残している。もって瞑すべし。(要するに、東夷列伝は、范曄創作/誤解を、多々含んでいるのである。いや、他にもあるが、圏外なので、ここでは論じない)

*「冢」の正解模索
 刮目天氏は、丁寧に辞書に頼るが、まずは、原史料で最前用例を探索すべきと愚考する。読者は、自身の語彙で解明できなければ、魏志第三十巻の巻子/冊子の最前を遡り、わからないときは座右の魏志を手繰る。漢書、史記などを倉庫から荷車で引き出させるのは、陳寿の手落ちとなり不合理である。そうならないように、陳寿は、その場で確認できる用例を書き込んで、伏線を敷いている。ここで、藤堂明保氏名著「漢字源」はまだ存在しないと戯言する。

 倭人伝の「冢」は、大家の葬礼紹介で、遺骸を地中に収めた後、冢として封土すると書いてあり、身内による埋葬と思われて、土木工事は書いていない。
 女王の場合は大がかりであるが、奴婢百人で直径百五十㍍の円墳は造成できない。円墳は盛り土で済まず、石積みが不可欠で「冢」にならない。もちろん、倭人伝は「墳」と云っていない。径百歩は、「普通の解釈」と合わないが、ここでは論じない。

*まとめ~用語審議の原則提言
 末筆ながら、用語解釈の基本として、原文起点とし、「最前用例 最尊重」の黄金律を提起したい。文脈の斟酌も、粗忽を避けるのに、とてつもなく重要である。倭人伝論では、失敗例が山積しているので、そう思うのである。

                  余言無礼御免 頓首頓首  以上

2022年1月21日 (金)

私の意見 倭人伝「之所都」の謎

                           2022/01/21
〇はじめに
 「倭人伝」の「之所都」解釈の通説は、陳寿の真意ではないようである。「之」に続くのは、本来一字であり、二字句を続けている例は希である。「所都」は、「都とする所」と解するかどうかは別として、二字句に見える。
 つまり、順当な解釈は、「之所都」と続けず、「之所」で区切るのである。

*魏志の権威
 但し、後世文筆家は、言わば、早とちりで魏志「倭人伝」に「之所都」用例を見て追従したようである。正史魏志の権威は絶大で、以後、「倭人伝」を典拠としたようである。
 世間には、「倭人伝」を独立した「本」(日本語)と誤解することがあるが、あくまで、魏志第三十巻掉尾であり魏志の「権威」を身に纏っているので、二千字といえども「小冊子」と侮ってはならない。「所都」の典拠となったのは、誤解であろうと何であろうと、そのような権威の故である。
 用例検索の結果、「之所都」に、精査に耐える有効な前例はなかったのである。また、「所都」の「都」は、漢魏代では、蕃王居処に不適切であり、陳寿に、そのような意図はなかったのである。後世の類書編者は、古典書に不案内で「都」の禁制などなかったから、無造作に「女王之所都」と読んだのである。太平御覧など類書の所引は、倭人伝の深意を探る「掘り下げ」など念頭に無く、ぱっと見の早呑み込みなので、当たり外れが、激しいのである。外すときは、従って、大きく外すのである。
 ここでも、倭人伝の適確な解釈は、陳寿の真意を察するのが正解への唯一の道なのである。くれぐれも、裏街道、抜け道、禽鹿の径の類いは、いくら、普通の早道に見えても、よい子は踏み込まないことである。

〇「之所都」用例談義 中国哲学書電子化計劃
 「倭人伝」以前に由来すると思われるのは、二例と見える。
*太平御覽 地部二十七 鎬
 水經注曰:鎬水上承鎬池於昆明池北,周武王之所都也
 「水経注」は、中国世界の全河川を網羅して、水源から河口までの各地の地名由来を古典書から収録している。「鎬水」水源「鎬池」が昆明池の北で「之所都」は、周武王が「都」とした意味としても史実は不明で王城名もない。他用例は「武王所都」(説文解字)で「之」を欠いている。

*太平御覧 四夷部三・東夷三 倭
 又南水行十日陸行一月至耶馬臺國戶七萬女王之所都
 「御覧所引」魏志は、読み損なって縮約している。「倭人伝」と前後して文意誤伝であり誤字も然り、と「所引」批判できる。

〇鹽鉄論談義
 通典 食貨十 鹽鐵 【抜粋】   中国哲学書電子化計劃
又屯田格:「幽州鹽屯,每屯配丁五十人,一年收率滿二千八百石以上,準營田第二等,二千四百石以上準第三等,二千石以上準第四等。(略)蜀道陵、綿等十州鹽井總九十所,每年課鹽都當錢八千五十八貫。(略)榮州井十二所,都當錢四百貫。(略)若閏月,共計加一月課,隨月徵納,任以錢銀兼納。其銀兩別常以二百價為估。其課依都數納官,欠即均徵灶戶。」以下略
 「榮州井十二所,都當錢四百貫」は、塩水井戸十二「所」、「都」は、塩水井戸課税「総計」四百貫/十二ヵ月である。(閏月は、一ヵ月分課税)

 当史料で「總」(すべて)は、「蜀道陵、綿等十州鹽井總九十所」のように、管内塩井数の総計としているので、課税総計は、「都」(すべて)と字を変えたようである。つまり、「所都」と続けての用例ではない。

 塩の専売による財政策は漢武帝代創設で、以後、後漢、魏の公文書館に順次継承され通典に所引されたと見える。つまり、倭人伝に先行と見える。因みに、先賢の説に依れば、「塩鉄専売」による徴収は、古来、国庫でなく帝室財政への収入、つまり、皇帝の私費であったものが、武帝の外征乱発や河水治水工事への大盤振る舞いのせいで、国庫が枯渇しかけたので、国庫収入に付け替えたようである。
 何にしろ、当時の経済活動の規模と成り行きは、現代人の想像を遙かに超えていて、そのくせ、当時の知識人には、当然のことなので、記録に残っていないことが多いのである。くれぐれも、現代人の良識で判断しないことである。

〇「之所都」解釈案
 本稿の結論としては、「之所都」と並んでいても、「都」が総計の意味の場合は、連続させない例として有効で、倭人伝解釈に有益ではないかと思い、本稿を残したのである。

 因みに、国内古代史学界は、「都」の大安売りであるが、三世紀時点の用語解釈すら不確かなのに、以後化石化した国内用例の解釈と敷衍には、慎重の上にも慎重であって欲しいものである。

                                以上

2021年11月18日 (木)

私の意見 「倭人伝」~最初の五百五十字、最初の修行 1/6

 先を急がずに、最初に読んでいただきたい「おはなし」    2021/11/18

○はじめに
 当記事は、当ブログで展開している「倭人伝」解釈において、その冒頭を占めている道里行程記事に対して、原文から逐条解釈を試みるものである。世にあふれている「邪馬台国比定」論議に参加しようというのではない。
 但し、世上で誤解の山が堆い(うずたかい)のに対して、その誤解の部分を是正して、せめてはっきりした思い違いは直していただきたい望んでいるのである。少なくとも、「思い込み」が、倭人伝に根拠を持たない事に気づいていただければ幸いである。

 一方、史学界の常識として、史料解釈の範囲を限定する議論は好ましくないのは承知しているが、個人の努力で検討するには、対象範囲を限定するのはやむを得ない事であり、いつの日にか、本検討がまとまった折には、さらに、検討範囲を広め、倭人伝二千字の考査に至りたいものだと思っている。

 ともあれ、範囲を絞ってその範囲で全力を尽くす行き方と、そこから生まれる幾つかの提言は、ご一考の価値あるものと自負しているのである。そうでなければ、この形で発表しないのである。

○先行論考の確認
 手短に言うと、従来の倭人伝考察は、国内古代史の見地での史料批判から開始していて、すでに刷り込まれた歴史観、世界観に基づく「思い込み」が横行しているため、中国史料の考察として不適切な部分が多い(ほぼ全て)と見られる。

*「国内古代史視点」の「失念」
 従来視点に対する具体的な異議と異論については、膨大な論議につながり、しかも、大勢に対して孤軍奮闘する形勢で、議論が成り立ちがたいから、ここでは、むしろ史学の常道に立ち返って史料原文から出発する史料考察を試みたのである。
 国内で、倭人伝解釈を中国視点で説くものは少ない(ほとんどない)と思う。「倭人伝は、当時最高級の古代中国人が、最善を尽くして、古代中国人の理解できるように書き上げたものである」と考えて、読解に挑まなければその真意に至らないと思うのだが、中々、実行されているのを見かけないのである。

 この立場には、世上異議が多いのは自明であるが、視点、論点の妥当性を論議すると、肝心の話が先に進まないので、当ブログの「ポリシー」、論議無用とさせていただく。また、この場で「国内古代史視点」は「失念」させていただく。くり返しになるが、世間には、国内史の視点で、倭人伝を責め苛む論義は山積しているので、ここに取り込むつもりは無いのである。

*原史料の確認
 圏外史料「持ち込み」禁止、「思い込み」謝絶の方針を理解いただきたい。(世間には、そうした史料、思い込みで論義できる場所は山ほどあるので、ここは、例外とさせていただきたい)

*本論の出発点
 本論の考察対象たる「倭人伝」は、陳寿編纂史書に、後世の裴松之が注釈を加えた「三国志」の「魏志」第三十巻の末尾に当たる「倭人伝」の冒頭五百五十字余りであり、現在、史料として信頼されている南宋初、紹凞年間編纂「紹凞本」に、ほぼ準拠している。同様に有力な紹興年間編纂「紹興本」は、対海/一大国国名などに差異があるが、書誌学論議の場でないから同一視して、以下の「テキスト」に基づき議論するので、ここに「ない」字句の「持ち込み」は、くれぐれもご勘弁いただきたい。

 テキストは「中國哲學書電子化計劃」から引用したが、「三国志」は各「正史」と比較すると、二千年近い期間、大変良好に保存され、史料間の異同が希である。三国志の史料としての特徴を、よろしく認識いただきたいものである。
 ここで余談であるが、世上、「正史三国志」と書かれることが多いのは、別に、「正確な」歴史書と自負しているわけではなく、世上溢れている「三国志」書籍が、大抵は、「三国志演義」を土台にした浪漫溢れる時代劇小説であるのに対して、中国で、伝統的に「正史」と呼ばれている「史書」であることを明言しているものであり、『「三国志演義」に類する血湧き肉躍る「読み物」を買ったはずなのに、面白くもない記録書を掴まされた。けしからん」と、返品、返金を持ち込まれるのを怖れて、内容表示しているものなのである。
 言うまでもないが、中国基準では、「正史」は、中国史に限るので、他の東夷諸国の国史が正史を名乗るのは、僭称、誇大表示なのである。

 「三国志」テキストには、時代柄、国内出版物で常用されない文字があり、当記事の他の部分と用字か一致しない事もあるが、現在、UniCode体系が各種情報端末に「普通」なので、史料の範囲では表示に問題はなく誤解は生じないものと考える。

*「句読点なし、改行のみ追加」
 原資料に一歩近づくために、句読点のない原テキストに改行を加えたが、論拠を明快にする目的であって原文は改竄してはいない。かくして、倭人伝の1/4、五百五十二字をきりのよい五百五十字と表記したが、概数は自明なので「約」、「余」は割愛した。以下、同様の割愛をご了解いただきたい。

 なお、当記事では、冒頭の「倭人傳」に従い、後続部分を含め(魏志)「倭人伝」と言うことにしている。当記事筆者の無教養は、ご辛抱いただきたい。

 ちなみに、各項は、過去の記事の「無批判な引き写し」でなく、概ね、新たな文脈で書き起こしている。主旨は変わったものも有れば変わっていないものも有るが、大目に見て頂きたい。

 参考文献は、身辺に山積しているが、参照先は膨大なので、ここでは割愛御免である。署名、著者だけあげても、参考部が不明では、お役に立たないと思うのである。もし、書籍化することがあれば、その点で、出版社編集者のご指導の下、整備したいと考えている。

                                未完

私の意見 「倭人伝」~最初の五百五十字、最初の修行 2/6

 先を急がずに、最初に読んでいただきたい「おはなし」    2021/11/18

*本文テキスト
 対象テキストを表示する。世の「現代語訳」は、原文改竄があまりに多く、不用意に参照すると議論がずれるので、この段階では敬遠させていただいた。
□倭人傳:
①倭人在帶方東南大海之中依山島為國邑
②舊百餘國漢時有朝見者今使譯所通三十國
③從郡至倭循海岸水行歷韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國七千餘里
④始度一海千餘里至對海國
⑤其大官曰卑狗副曰卑奴母離所居絕島方可四百餘里
⑥土地山險多深林道路如禽鹿徑
⑦有千餘戶
⑧無良田食海物自活乖船南北巿糴
⑨又南渡一海千餘里名曰瀚海至一大國
⑩官亦曰卑狗副曰卑奴母離方可三百里
⑪多竹木叢林
⑫有三千許家
⑬差有田地耕田猶不足食亦南北巿糴
⑭又渡一海千餘里至末盧國
⑮有四千餘戶
⑯濵山海居草木茂盛行不見前人好捕魚鰒水無深淺皆沉沒取之
⑰東南陸行五百里到伊都國官曰爾支副曰泄謨觚柄渠觚
⑱有千餘戶
⑲世有王皆統屬女王國郡使往來常所駐
⑳東南至奴國百里
㉑官曰兕馬觚副曰卑奴母離
㉒有二萬餘戶
㉓東行至不彌國百里
㉔官曰多模副曰卑奴母離
㉕有千餘家
㉖南至投馬國水行二十日
㉗官曰彌彌副曰彌彌那利
㉘可五萬餘戶
㉙南至邪馬壹國女王之所
㉚都水行十日陸行一月
㉛官有伊支馬次曰彌馬升次曰彌馬獲支次曰奴佳鞮
㉜可七萬餘戶
㉝自女王國以北其戶數道里可得略載其餘旁國遠絕不可得詳
㉞次有斯馬國次有已百支國次有伊邪國次有都支國次有彌奴國次有好古都國次有不呼國次有姐奴國次有對蘇國次有蘇奴國次有呼邑國次有華奴蘇奴國次有鬼國次有為吾國次有鬼奴國次有邪馬國次有躬臣國次有巴利國次有支惟國次有烏奴國次有奴國此女王境界所盡
㉟其南有狗奴國男子為王其官有狗古智卑狗不屬女王
㊱自郡至女王國萬二千餘里
 以上、三十六項目が検討対象である。

                               未完

私の意見 「倭人伝」~最初の五百五十字、最初の修行 3/6

 先を急がずに、最初に読んでいただきたい「おはなし」    2021/11/18 補記 2021/11/30

①倭人在帶方東南大海之中依山島為國邑
 古来、中国人の地理観は、「世界」の四方には、幽冥境である「海」があり、その四海に囲まれて、広大な中原世界があると見ていたものである。殷周代に始まり、秦漢時代の話なので、「世界観」の「世界」、あるいは「天下」は、三国鼎立時代の東呉、蜀漢の長江(揚子江)流域は、半ば圏外であり、河水(黄河)中下流域が対象だったのである。(居住困難な河口部は除く)
 従って、ここで言う「国邑」は、せいぜい東周春秋時代に中原を埋めていた諸国の国家形態でなく、中原に、隔壁で野獣や侵略者から防衛した農村聚落が点在していた時代を想起させるものなのである。中国古代史で、そうした国家形態を、ギリシャ古代史の用語を流用して、「都市」国家と呼び習わしているが、それでは、後世の戦国諸国を想起させそうなので、個人的には、「国邑」は、「農村隔壁聚落」と呼びたいのである。(全体を書き上げて気づいたので、ここにお断りしておく)ちなみに、「都市」は、倭人伝では倭人大夫の役職、ないしは、苗字と見えるので、注意して使う必要がある。

*西域の果て~余談  
 その「四海」の中で、早々に踏査が及んだのは「西海」であるが、周知の通り、その西の果ての実態は知られる事がなかった。
 次第に到達範囲が伸びるにつれて、「西域」が広がって、漢武帝代には、一行百人とされる使節団が、長安から万二千里の果ての「大海」カスピ海に臨み、同地を支配していた「安息国」から、大海の対岸を越えた、更なる西方世界の風評を耳にしたのである。
 「安息」(Partia)は、当然、中国の「文化」に浴していなかったが、中国文化の根幹となっていた簡牘縦書きの文字とは別に、皮革紙に横書きする文字を有し、文書統治による「法と秩序」を確立し、金銀銅貨の通用する広域経済体制を持ち、その「王都」は、荒れ地を含む高原地帯を経た西方数千里の彼方にありながら、宿場の整備された街道網でつながっていて、王に対する書面報告に対して、たちどころに指示が下る文明大国だったのである。
 つまり、漢武帝の使者は、西域の更に西の果てには、漢帝国に匹敵する威容を誇る王国が存在するのを知ったのである。その認識から、西域諸国に許さなかった「王都」の尊称を与えたのである。
 何しろ、安息は、東方国境に二万の守備兵を常備した大要塞都市を構え、獰猛な大月氏を迎えた貴霜(クシャン)騎馬兵団の奇襲再来に備えていたのである。
 このあたりは、陳寿の参照した司馬遷「史記」大宛伝、及び班固「漢書」西域伝記事の要約であるから、やや道草であるのをご容赦頂きたい。

 因みに、漢武帝の国使は、安息国の王都を訪問せずに、つまり、国王と面談せずに帰投しているのである。但し、不定施設と言っても、恐らく、西域都護に相当する高官が渡西しているのであり、言わば、「全権大使」なので、安息長老という「全権大使」と面談し、「国交」を築いたのだから、別に不法な対応では無いのである。ちなみに、漢書「西域伝」は、安息国に「国都」を認めているので、いわば、「敵国」(漢と匹敵する大国との時代表現)扱いで、格別に尊重しているので、他の諸蕃夷と異なり、「国交」と呼ぶに値するのである。

*東海未踏~余談
 当時、「大海」は、内陸塩水湖である。ただし、存在したのは、もっぱら西域である。(長江流域に存在する湖水は、全て淡水湖であった)
 比較的早期に知られていたのが、当時、楼蘭王国が湖畔に佇んでいた「ロプノール」である。「ロプノール」の遥か西、「カスピ海」に臨む安息を漢使節が始めて訪問したのは、漢武帝代であり、以後、後漢代史料に散見されるだけだから、具体的な地理知識は、長安ならぬ洛陽の官人には、さほど伝わっていなかったと思われるし、まして、東夷と接する遼東郡関係者の知るところではなかったように思われる。

 とは言え、倭人伝の「大海」は、裏海(カスピ海)の「風評」を参照して書いているものと見える。長年、会稽東方に広がる「海」に阻まれて、その東方の世界の実態を知る事が無かったのに対して、倭人伝は、青洲対岸海中の山島、韓国を経由して、其の南の絶島に「倭人」を「発見」し、意気揚々と洛陽に報告した史上空前の夷蕃伝だったのである。

 そのように推定すると、「郡から万二千里」の表記は、西域諸国の「長安から万二千里」が途上諸国への道里を積算した、言わば、実測値を踏まえたものであったのに対して、単に、「絶海の孤島」観を示したものであり、それが、当時の皇帝に上申され、皇帝の御覧を得たので、以後、神聖不可侵文書になってしまったようである。

*地理観の確認
 本題、つまり、倭人伝の文書考証に戻ると、倭人伝の地理観では、この「大海」は、中原人にとって既知の韓国西の「黄海」の一部ではない。つまり、当記事が書かれた前提は、韓国東西の「海」と韓国の南の「大海」が海続きとの認識はなく、廻船往来は予定されていないと解釈される。
 ここまで短い行文であるが、史官の躍動する筆により、脇道に逸れない歯止めが、がっちり打ち込まれているのである。

 因みに、東夷伝には、半島の東方に「大海」ありとの記事が見られるが、倭人伝は、帯方郡の地理観、つまり、「韓国」を越えた南方に「大海」があるとしていて、韓国の東の「海」と区別しているので、両者には関係無しと見るべきである。

②舊百餘國漢時有朝見者今使譯所通三十國
 「倭人」が、全くの野蛮人でなく楽浪郡と交信があったと紹介している。それ以外にも、後漢初期の来貢記事もあるから、倭人伝が初見に近い書き方をしているのは、後漢代公文書から、「倭人」に関する予備知識は引き継がれていなかったという事だろう。
 念を押すと、笵曄「後漢書」の後漢初期の「倭」記事は、洛陽の帝国書庫に保管されていた後漢公文書に由来していて、陳寿も、関連文書を参照しているので、笵曄「後漢書」とほぼ情報源が共通しているはずである。

③從郡至倭循海岸水行歷韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國七千餘里
 七千里に始まる千里単位の概算道里の趣旨は判然としない事を、先ほど述べたが、深入りすると余談が際限なく長くなるので、当記事では触れない。(すでに「短里制度はなかった」と別稿で断じている)判然としない事を、個人的な見解で判然とさせるのは、史料解釈でなく、二次創作なのである。
 慎重に読めば、馴染みのない「循海岸水行」は、字義からも、「海岸」海の岸辺から「水行」すると見えるが、当然、一路沖に行くのであり岸辺を陸に沿いに行くのではない。この点は、常識的事項なので、深入りしない。

 ゆっくり読み解いていくと、「到其北岸」の「其」は、中原人常識の川岸でなく直前の「海岸」を示すものであり、当然、「海」は、韓伝に戻った西の「海」でなく、その手前、倭人伝冒頭に書いた「大海」を示すものである。外部資料、古典書を参照しなくても、「従郡至倭」行程が、郡を発した後、「一路」街道を進み「大海」北岸、「狗邪」の岸辺に着いた、と迷わず読み取れる仕掛けである。

 以上は、これまでの諸兄の論考に余り見かけないが、別に、本稿は、奇をてらって新解釈を述べているものでなく、これまで見過ごされていた、中国古文書に「普通」の解釈を提起しているだけである。

*国境の邑~余談
 以下、推測にわたるが、常識的には、交易船が対海から北上上陸する海港には、対海の倉庫や漕手宿舎があり、財貨保全のため、武装兵士が詰めたはずである。
 同様に、常識的には、狗邪韓国は、帯方郡要地であって吏人と兵士が常駐し、通行許可のない者の侵入を阻止し、通商者から関税を取り立てたはずである。
 つまり、狗邪韓国統治者は、対海国と深い連携を確立していたはずである。

 ここまでの勢いに任せて、狗邪韓国は倭の北限と見たいところであるが、狗邪が倭王に臣従、服属していたら、対海国以降の四カ国と同様に、戸数や官名、風土が書かれていたはずであり、また、韓国領域南端の国が明記されるべきである。やはり、狗邪韓国は、弁辰の一員「弁辰狗邪国」である。

*弁辰鉄山考察
 帯方郡は、倭韓穢の郡内鉄山採掘を許し、また、産鉄を両郡に納入させた。詳しく言うと、郡が置いた鉄山監督者が、近隣の三勢力に指示して採掘と輸送を運用したのだろう。東夷には、漢銭が通用しなかったから、採掘料は労力奉仕と現物納入で「徴収」していたのだろう。

 言うまでもないが、鉄山から両郡に至る「道路」は、帯方郡が設け、韓の諸国が維持した「官道」であり、人馬の列を擁する如く、宿駅、関所を備えていたのである。かつ、運送の手段であるから、当然、陸上街道によって、最短経路、最短日程を確立していたのである。

*韓地陸行の話~余談
 もし、両地の間を、長江のような大河が滔々と流れていて、大した傾斜が無いのであれば、川船に帆を立て、人馬を労せずにゆるゆると「水行」したと思われるが、両地の間には、山地が介在していて、河川は、水源に近い上流(上游)では、渓谷を蛇行する激流となり、川船の運用ができないし、山地の鞍部を越える際には、多数の人馬を動員する事から、「水行」扱いはできないのである。こうした上游の形勢は、日本列島の河川でよく見かけるものであるから、半島の形勢は、別に現地を実見しなくても、容易に推察できるのである。

 因みに、今日、広く参照されている「Google Map」の3D表示を利用すれば、現在の現地形勢を見る事ができ、「推察」がほぼ的を射ていることがわかるのである。

*不朽の新羅道~余談
 「圏外」資料による余談であるが、唐代に半島を統一した新羅(シラ)は、王城「慶州」(キョンジュ)を発した国使が大唐長安に詣でる経路を整備していたが、それは、半島東南部から北上し、小白(ソベク)山地の難関を竹嶺(チュンニョン)で峠越えした後、下山して西に唐津(タンジン)に出て、山東半島青州に「新羅船」で渡っていたのである。この経路は、新羅が国威をかけて整備したものであるが、もともと、新羅が半島西岸に進出した際にも重用された軍道であり、慶州から漢城(ソウル)に至る官道でもあったのである。

④始度一海千餘里至對海國
 最前、倭人伝は、「渡海」を「水行」と言うと宣言したとしたが、狗邪にいたって、始めて「大海」の海岸に出て船旅に直面し、対海国に至るのに際して「始めて海を渡る」と明記しているので、話の筋が明快である。
 「一海」としているのは、洛陽人が、報告された現地形勢を読んで、三度の渡海の「大海」が、一つの「大海」なのか、別の「大海」なのか、確定できなかったもののようにも見える。

 もちろん、渡し船の経路は測量できないが、一日を渡海に当てるので、公式道里として千里で十分だったのである。
 何しろ、万二千里の全体道里の一部である千里単位の概数であるから、適用できる里数は、千里、二千里と飛んでいて、千里に決まったも同然なのである。言うまでもないが、万二千里の中で、百里単位は桁違いで不適当なのである。

⑤其大官曰卑狗副曰卑奴母離所居絕島方可四百餘里
 「絶島」は、海中山島でも、中原で常識の「半島」でなく、四方を海に囲まれていると明示しているのである。
 ちなみに、朝鮮/韓国が、遼東から南下している半島であることは、太古以来知られていたが、山東青州の春秋戦国斉国人や魯国人は、朝鮮/韓国を、目前の海中山島にあり、筏で気軽に渡れる対岸の東夷と見たようである。

*「方里」の闇
 「方四百里」は東夷伝独特表現で、他史書にないのは無論として、三国志全体でも、特定政権領域の地理情報を特定する表現ではない。先の高句麗、韓国で突然起用されたが、由来も意味も不明である。
 案ずるに、この「里」は、「道里」と連携していない別種の単位であり、趣旨不明では、いくら願っても論拠とできない。当面、これで十分として、論議から除外するのである。
 いや、別史書に、東西、南北、それぞれ四百里と書いていたら、これは、「道里」の「里」で、余計な解釈の余地はないのである。ただし、万二千里の全体道里の説明で、部分道里に百里単位の里数は、本来、場違いなのである。 

                                未完

私の意見 「倭人伝」~最初の五百五十字、最初の修行    4/6

 先を急がずに、最初に読んでいただきたい「おはなし」    2021/11/18 補記 2021/11/30

⑥土地山險多深林道路如禽鹿徑
 高句麗傳と同様、農業適地が乏しい、税を緩和してほしいと切実である。
 「道路如禽鹿徑」とは、整備され幅員があって牛馬運送ができる「道路」と異なり、この径(みち)は、急峻で狭く牛馬通行困難な抜け道で、対海国中央の峠越えの間道と見るべきである。ただし、ここ以外の街道は、全体として市糴のみちで「道路」要件を満たすべく整備されていたのである。東夷の辺境であるから、馬車が対向できる官道であったとは思えないが、ここに書かれているのは、最低限度を示したとみるべきだろう。

*「禽鹿径」談義
 倭人伝は、中原人視点であり、当然の事項は書かないが、「禽鹿径」が「けものみち」かどうか、当然の評価か誇張か、よくよく調べなければ、趣旨不明と言うべきである。
 この表現(片言)から、韓地街道がすべて「けものみち」と短絡的に即断した論者がいる。郡管轄下、国主が労役動員し、宿賃関税で道路整備するから中国文明は侮れない。まして、野獣跳梁が放置されるものではない。

 宿場を備えた街道は、文明の証しである。

*地域輸送事情の示唆
 当時、倭地、つまり、末羅国以降の地続きの領域といえども、牛馬による運送はなかったから、荷運びは、頭の黒い「痩せ馬」が、背負ったのであろう。大抵の荷は、小分けできるようになっていたから、近郊の農民まで呼集した人海戦術で運んだものだろう。米何合かを渡せば、みんな喜んで運んだろうから、別に「銭」も要らなければ、強制労働も要らないのである。

 中原では、恐らく、秦始皇帝の統一行政以来、全国で官命による荷運びが規定されていて、宿場間の里程と標準日程を基準とした運賃が制定、公布されていたが、それは、街道沿いに輸送業者が組織されていたから、運賃協定が締結できたと言う事であり、街道輸送は、牛馬や車輌を随時駆使し、また、宿場ごとに担い手(牛馬と人)が交代したから、千里の輸送も所要日数が保証されたが、倭地は、魏制で統治されていなかったから、魏の国家制度は通用しないのは当然である。

*「インフラストラクチャー」談義~余談
 国家制度の前提、基礎となる要素を確認すると、道路整備のような物理的なものや輸送業者組織のような社会的なもの、つまり、合わせて、 社会の基本構造となっていた「インフラストラクチャー」が存在しないから、中原の常識は、全く通用しない。陳寿は、そのような机上の空論が起こらないように、ここでも、慎重、端的に布石したのである。

 因みに、「インフラストラクチャー」の概念は、当時、西の大国「ローマ」で常識だったという事なので、それほど時代錯誤でもないと理解いただきたい。この点は、塩野七生氏の「ローマ人の物語」で学んだものである。

 広域行政の前提として、文書管理も必須であるが、ここでは深入りしない。

⑦有千餘戶
 千戸が戸籍登録され、戸籍と土地台帳に従って耕地をあてがわれ、収穫物を税衲し、労力奉仕し、兵役に応じ、対海国を支えていたのである。
 戸数を提出するとこは、服属の証しであるから、本来、憶測で数字を述べるものではないが、千戸程度ですと概数を述べておけば、大けがはしないだろうという思惑のように見える。この際の個数は、戸籍から実数を積算したものでなく、概数で国力を申告したのであるから、千戸単位なのである。

⑧無良田食海物自活乖船南北巿糴
 「良田」は、灌漑の行き届いた農業適地(水田と限らないのが、中国語である)で課税対象である。千戸には千戸分の収穫が必須だが、「税衲どころか生存困難で、餓死者続出のところを海産物で食いつなぎ、交易で、細々と食い扶持を稼ぐ」と「泣き」である。

 実際は、一大国は、海産が豊穣であり、對海國と違っても四方の海上交通の要地を占めていたから、交易収益も潤沢だった筈である。「泣き」は、前段同様免税狙いの誇張作戦である。

⑨又南渡一海千餘里名曰瀚海至一大國
 この渡海を「瀚海」と銘打っているが、既に述べたように、洛陽人は、三度の渡海で越えた「大海」が一続きではないのかも知れないとこの部分で疑問を感じたものと思われるのである。
 私見では、この命名は、西域の広大な砂漠の眺めになぞらえたものと思われる。要は、海面が綾織りに見えたと言う事ではないか。
 既に述べたように、渡し船の経路は測量できないが、一日を渡海に当てるので、概数申告としては、千里で十分だったのである。

⑩官亦曰卑狗副曰卑奴母離方可三百里
 官は、女王直属の「置官」とも思われる。

*「方里」の闇 ふたたび
 何度でも言うが、「方里」は意味不明である。道里ではないので、農地面積の表現ではないかというのが、当ブログ筆者の意見である。但し、用例が乏しいので、どんな出旬で推定したのか不明なのである。
 まことに不思議なのだが、以後、「方里」表現は出てこない。投馬国あたりで国勢の指標として起用されそうなものなのだが何もない。

⑪多竹木叢林
 中原と比して、温暖多雨で植生が豊かで、熱帯性の竹林もあると明記している。

⑫有三千許家
 戸でないのは、服属したが戸籍未提出のためと思われる。女王統治不備である。

⑬差有田地耕田猶不足食亦南北巿糴
 食料談義は、多少農地(田地は、水田とは限らない)があっても、山島の宿命で、対海国同様、食に不自由しているからとの「節税」意図に基づくものと思われる。当時の両島の食糧事情は、知るすべがない。

⑭又渡一海千餘里至末盧國
 渡し船の経路を測量するはずはなく、一日を渡海に当てる趣旨で、百里の道里と見立てたのである。実測に基づく概算ではないので、現代の地図上で絵解きしても、何の役にも立たないのである。

⑮有四千餘戶
 単なる上陸地にしては国主居所たる国邑の戸数が多いが、冒頭の国邑仮説は綻びていたかもしれない。あるいは、一カ所百戸の国邑が四カ所あったと言う事かも知れない。わからないことはわからない。

⑯濵山海居草木茂盛行不見前人好捕魚鰒水無深淺皆沉沒取之
 街道は、草木が通行の妨げにならないように頻繁に手を入れるが、温暖多雨で、切っても切っても生える草木は、魏使にはむしろ感動的だったと見える。それにしても、この風景も、たまたまであることは言うまでもない。未開とは、文字がないことを言うのである。

*沈没談義~余談
 「海」を「水」と誤記したのは、帯方郡語法と見える。「沉沒」は古代中国語なので、上半身まで浸かる意味と思われる。当時も、「泳」で泳ぐことを言った可能性はあるが、潜水がどうだったか調べが付いていない。ただし、中原人は「金槌」で水を避けた筈であるし、もちろん、公用の官吏が、街道を行かずに、橋も渡しもない川を泳いで渡ることは、あり得ない。

⑰東南陸行五百里到伊都國官曰爾支副曰泄謨觚柄渠觚
 ことさらの「陸行」は、限定的「水行」が完了した念押しと見える。末羅国以降の百里単位の里数は、全行程万二千里をはじめとする一千里単位の概数表記と桁違いの端(はした)である。千里単位で、しかも、大まかで、千里と七千里しかない飛び飛びの概数里数に、百里単位の里数は大勢に影響しないから、数合わせの些事にはこだわらない事である。

 因みに、この五百里は、主要行程の記事を完稿した後、つまり、後日の書き足しと思われる。書かれているのは、恐らく実測だろうが、それが「行程」里数に見合う「短い」里であったとしても、官制で定まった「普通里」(450㍍)でない里を、あえて使用した由来も趣旨も不明で参考にしかならない。

 方位共々、当記事では深入りしない。

                               未完

私の意見 「倭人伝」~最初の五百五十字、最初の修行    5/6

 先を急がずに、最初に読んでいただきたい「おはなし」    2021/11/18 補記 2021/11/30

⑱有千餘戶
 伊都国は、ここまでの行程諸国と同様、冒頭の「国邑」定義に従った小規模な隔壁集落が王城であり、その意味では、千戸単位の戸数は妥当である。「国邑」は、古典的二重隔壁集落であり、外周隔壁内は戸数が多く、また、外周隔壁外の伊都領域は、さらに繁栄していたはずであるが、陳寿は、古代中原の「国邑」を描いているので、古典的構想に忠実であり、これを、万戸の誤写と解したのは、後世の素人考えである。

⑲世有王皆統屬女王國郡使往來常所駐
 今回の仮説では、伊都国の外周隔壁内に「女王国」、つまり、倭人盟主の居所を収容していたと推定している。帯方郡の見解では、倭女王との交信の宛先は、伊都国で十分と見ていたようである。両者の主従関係は、両論あり、不鮮明である。

⑳東南至奴國百里
 本論では、これは、伊都国の王城の道標に「東南 奴国~百里」と書いていただけで実測かどうかは不明であり、交易荷物運搬や使者の往来で把握されていた道里が、後日追記されたと思われるが、委細不明である。

㉑官曰兕馬觚副曰卑奴母離
㉒有二萬餘戶
 伊都国の近隣であるから、戸籍制度の整備は進んでいるものと思われる。二万戸と表記して済んでいるのは、遠隔で事情の通じていない投馬国が、「可五万余戸」と生返事で漠然たる概数を報告しているからである。

㉓東行至不彌國百里
 本論では、これは、伊都国の王城の道標に、「東 不彌国~百里」と書いていただけで、実測かどうかは不明であり、交易荷物運搬や使者の往来で把握されていた道里が、後日追記されたと思われるが、委細不明である。

㉔官曰多模副曰卑奴母離
㉕有千餘家
 戸表記でないのは、服属だけで戸籍不明と思われる。

㉖南至投馬國水行二十日
 「従郡至倭」の本筋は、既に末羅から陸行専行で水行はなく、よって、脇道と見ざるを得ない。
 渡船は大抵半日仕事で、甲板も、船室も、食事煮炊きも、寝床もない「軽舟」であり、二十日は論外というか、問題外で無茶である。つまり、投馬国記事「投馬条」は最有力国にしては粗略であり、自己申告なら深謀遠慮なしに提出され確認されなかったと見える。何しろ、水行二十日は、全行程四十日の内訳に収まらないのに関わらず風評並に放置されていると見える。

 「従郡至倭」行程は、郡との文書交信や士人往来の期限を定めるもので、慎重に書かれているが、余傍の投馬国は、成り行き任せと見えるのである。奴国、不彌国道里共々、余傍国は、後日の追記なのだろうか。
 奴国共々、万戸の国が国邑集落の筈がないのも、放置されている。

㉗官曰彌彌副曰彌彌那利
㉘可五萬餘戶
 傍路遠隔の国は事情不詳と逃げても、有力国が一万戸単位の大きな国なのに五万戸「らしい」とは不首尾である。全国七万戸中五万が不確かでは、郡も困るのである。というものの、これだけ遠隔では、納税、徴兵、労役いずれも、到達圏外であるから放置したのだろう。なお、台帳の積算に労力を費やせば、一戸単位の集計が可能なのは、史書の示すところである。
 何しろ、銭が存在しないから、投馬国から五万戸分の納税となると、大量の穀物を長期間かけて運送・納付する事になり、その間、船腹が占拠されるから、交易が停止し、一大事である。

*根拠の無い古代国家像「倭人」世界~ 余談
 中国では、秦始皇帝の創始した全国統一通貨、輸送制度のおかげで、数千里の果てから、秦都「咸陽」に銅銭の山で納税が届き、日数はかかっても長距離大量の穀物輸送が可能であったから、中央集権国家を統治できたが、倭人世界では、そのような広域統治「古代国家」は、成立不能だったのである。

                               未完

私の意見 「倭人伝」~最初の五百五十字、最初の修行    6/6

 先を急がずに、最初に読んでいただきたい「おはなし」    2021/11/18 補記 2021/11/30

㉙南至邪馬壹國女王之所
 「女王之所都」は「邪馬壹国」を王都としたも読めるが、難がある。太古以来、天子居城を「都」と称したのは、周代の「宗周」、「成周」の二例しかない。西周末、「宗周」から「成周」に遷都したが、東周は無力で、諸「王」が「王都」と称した混乱は、秦始皇帝の統一で「王都」が消失し、解消した。以後、漢代に一時「国」が復活したが、「郡」と同様皇帝の臣下であり、ただ、皇帝の親族の支配する領域と言うだけであるから、「王都」などという事はないのである。
 魏都洛陽は、天子居城「京都」と呼ばれた。一方、「王」ならぬ蛮王の居所を「都」と称するのは不遜で「邪馬壹国女王之所都」は、法外であった。
 史官たる陳寿は、そのような不遜な命名は念頭になく、いわんや、「邪馬臺国女王之所都」と二重に不遜な意識は、あり得なかったのである。
 ということで、次項冒頭の「都」を切り離す解釈を取るものである。

 ちなみに、班固「漢書」西域伝で、数ある西域諸国の中で、唯一、安息国に「王都」の栄誉を与えた点は、既に述べた。例外があるから、通則が証されるのである。

㉚都水行十日陸行一月
 この「区切り」は、見慣れないかもしれない。権威ある中国史書は、前文を「都」まで続け、しかして区切っているからである。しかし、当ブログ筆者は、提案の区切りを妥当と見たのである。これは古賀達也氏の提言によるが、氏自身は作業仮説にとどめている。一方、筆者は、前項解釈が至当と見たので、僭越にも「所説」としたのである。
 ここを「伊都~倭」行程道里で締めたと解されると、編者の本意に外れるので、あえて「都」(すべて)を前置きして、解釈を定めたというのは誠に至当である。

 史学界の至高の権威であった上田正昭氏は、古田武彦氏の提唱した説とは言わないまま、『「水行十日陸行一月」を総所要日数と解釈する』説に対して、そのような書法に前例がない、と難色を示したが、「都」を前置きとすれば、中国語で、古来「すべて」の意味で常用された、誠に普通の解釈であり、「普通の書法に前例は要しない」のである。

 これまでの句読点は、このような普通の解釈を見損ねたものであり、句読点の打ち違いによって史家を迷わせたのは罪深いのである。句読点の打ち間違いは、滅多に、本当に滅多に、滅多にないが、絶無ではないということである。(古田氏が一例指摘しているが、ここでは深入りしない)
 そうした「新解釈」を待たなくても、倭人傳の要件である「従郡至倭」所要期間というが明記されているとの解釈は、最も妥当なのである。

㉛官有伊支馬次曰彌馬升次曰彌馬獲支次曰奴佳鞮
㉜可七萬餘戶
 倭人伝に、全戸数は必須である。

*戸数談義
 奴二万、投馬五万を足すと七万になり、他国の戸数を足すと七万を越える」とは、戸数は、千戸単位以上の桁の概数である事を忘れた錯覚である。倭人傳概数で、二、五、七、十、十二万の「大まかな」感覚に、現代の精密を押しつけてはならない。また、千戸単位の諸国戸数や、戸数表示のない群小国の戸数が、計算に影響するというのは、ちょっとした勘違いである。倭人伝で肝要なのは、全国戸数は、七万戸であり、うち、奴国に二万戸、投馬国に七万戸があるという概要報告であり、それ以外は、些事であって、本来触れないのである。

 倭人伝の用語と世界観に従うと、女王居所たる王城「国邑」は、せいぜい千家の隔壁集落であり、国王と親族以外の住人は、公務員と奴婢従僕ばかりで、当然、課役も労役も兵役もないから、戸数は無意味である。

 時に、戸数を現代の核家族になぞらえたり、人口直結の数字と見る向きがあるが、それは、「戸数」の意義を理解していない錯誤である。それは、古代における人口の意義を理解していないという事でもある。ここに、少し丁寧に説明したが、それ以前の知識が欠けていたら、修行する資格に欠けているのである。

㉝自女王國以北其戶數道里可得略載其餘旁國遠絕不可得詳
 「自女王國以北」は、「従郡至倭」の主行程上の対海、一大、末羅、伊都の「行程国」四カ国であり、まずは、倭人伝に「略載」されているのであり、以外諸国は、主行程外の「余傍国」、つまり、参考に載せているに過ぎないのである。従って、戸数、道里、国情は、時に大まかで、時に不詳と位置付けが「明快」である。あるいは、諸国記事を「条」として列記し、「条」ごとに「行程国」と「余傍国」に色分けしたら、直感的に明快になるかも知れない。

*投馬国遠絶の由来推定~余談
 因みに、五万戸の投馬国の詳細を「不可得詳 」で済ませているのを言い訳するために、官道がなく不法な「水行」の二十日を要する「遠絶」としたものであり、実際は、官道が通じていて往来に十日を要しないが、事ごとに指示に応答しないので、「余傍国」に押しやったとも見えるのである。

*刺史重用の統治形態
 「自女王國以北」の「行程国」に刺史(のようなもの)を置き、月に三度の旬報による文書交換などで女王の指示を受けた刺史が、置官と組んだ持続可能な統治形態と思われる。倭人伝には、郡が文書で通達したとあり、通達に応答できたという事は、紙墨硯を使いこなす書記がいたのだろう。恐らく、結構以前から、郡は、倭人を指導していたのだろう。
 そのような成り行きは、記事の字面には明記されていないが、記事から読み取れるように示唆されているからには、明記されているのと同様に「明快」である

㉞次有斯馬國……次有奴國此女王境界所盡  ~ 中略御免
㉟其南有狗奴國男子為王其官有狗古智卑狗不屬女王
 ここに言う「女王」は、「女王国」の意である。あちこちに見る語法である。

㊱自郡至女王國萬二千餘里
 列島西部の地理から見て、「従郡至倭」道里総計として「普通里」(四百五十㍍)は過大と即断したのが、古来、性急な倭人伝論氾濫の由来と思われる。

▢倭人伝問題に明快な解を
 素人の素朴な意見を述べさせて頂くと、倭人伝「問題」は、編者が作成した「文章題」であり、題意が理解できなければ解を得る事はできない。まことに当然である。

 そもそも、二千年近い以前に著述された「倭人伝」に対して、同時代に記述が混乱して解けないという「文句」をほとんど見かけない以上、論義が騒がしくなった一千年以上「後世」の読者が、題意理解力不足で、肝心の出題意図を読み取り損ねている可能性が高いと見るのである。

 「後世」というのは、現代の中国人も含んでいるのである。これまで、「中国人」による適確な読解がほとんど無いのは、倭人伝を読み解く教養が継承されていないためであって、その点では日本人研究者と「大差ない」からであろうと見るのである。

 以上の論義は、貝塚茂樹師、宮崎市定師、平勢隆郎師、そして、白川静師のように、厖大な中国太古、古代の文字史料を読み解いた先達の瞠目すべき諸著作に、ひたすら依存しているのであって、全てを自力で解したものではない。個人的「修行」の成果と言いたいところである。

 以上でおわかりのように、現代人が一読しただけで、非常識だとか、理解に苦しむとか、声高に主張する前に読まなければならない資料が山積していると見える。

                                以上

2021年9月26日 (日)

05. 名曰瀚海 - 読み過ごされた絶景 補充

                              補充 2021/09/26      

 又南渡一海千餘里,名曰瀚海,至一大國
 倭人傳の主眼の一つである「従郡至倭」行程、つまり、帯方郡治を出て倭の王城に到る主行程には、その中心を占める三回の海越え、渡海が書かれています。陳寿が範を得た漢書西域伝では、陸上行程の連鎖で萬二千里の安息国に至っているのですが、ここに新たに書き上げようとしている「倭人伝」では、前例の無い、渡海の連鎖で、日数、里数を大量に費やしていて、これまた前例の無い「水行」と新たに定義した上で、記事をまとめています。このあたりの事情は、この場所には収まらないので、別記事を延々と書き募っていますから、ご縁があれば、お目にとまることもあるでしょう。

 そして、三度の渡海の中央部の記事に、あえて、「瀚海」と書いています。まことに、珍しいのですが、何度も書いているように、この行程は、前例の無い、不思議な書き方になっているので、同時代の教養人といえども、何気なく読み飛ばすことはできなかったのです。つまり、飛ばし読みさせない工夫をしているのですから、現代の「東夷」の知識、教養では、読み解くのがむつかしい(不可能)のも当然です。

 慎重な読者は、ここで足を止めて、じっくり調べるものです。と言っても、この仕掛けは、ここが最初でもないし、最後でもないのです。子供が坂道を駆け下りるように、向こう見ずな暴走をしないようにご注意下さい。まして、転んで痛い目に遭ったのを、陳寿の書法のせいにしないでほしいものです。これまで、ほとんど二千年と言っていい、長い、長い期間に、多数の教養人が「従郡至倭」記事を読んで、「陳寿の筆法を誹っている」例は、見かけないのです。

 閑話休題
 以前から、特別な難所ではないのかと考えていたのですが、今回参照した中島氏の著作では、霍去病の匈奴討伐時の事績を参照して、この海峡を、越すに越されぬ難所として名付けられているとみています。海図や羅針盤の無い(要らない)有視界航行で、一日一渡りするだけと言えども、楽勝ではなかったと言うことです。
 まことに妥当な意見と考えます。

 こうしてみると、単に、三度海越えを繰り返したのではないのです。

 ちなみに、「倭人傳」解釈諸作が、原史料を尊重しているかどうかの試験の一つが、「一大國」がそのまま取り上げられているかどうかです。
 いきなり、「壱岐國」と書かれていたら、それだけで落第ものと思うのですがね。まあ、親亀、子亀の俗謡にあるように、子亀は上に載るだけという見方もありますが、堂々と解説書を出版する人が、「子亀」のはずがないでしょう。

以上

*随想 「翰海」と「瀚海」 2021/09/26
「票騎封於狼居胥山,禪姑衍,臨翰海而還」
 実は、史記/漢書に共通な用例「翰海」は、さんずいが無いものであり、中々意味深長なものがあります。

 漢字用例の集大成とも見える、「康熙字典」編者の見解では、もともと「瀚海」なる成語が知られていたのを、漢書「匈奴伝」などでは、あえて「翰海」と字を変えたと解しているようです。つまり、匈奴伝などでは、匈奴相手に大戦果を上げ、敵地の「漢軍未踏」領域に進軍した霍去病驃騎将軍が、山上から瀚海/翰海を見渡した後、軍を返したことになっています。因みに、ほとんど同記事が、漢書に加えても史記にも引かれていて、この一文が、当時の著述家の鑑になっていたと偲ばれます。

 そこで思うのですが、それほど珍重された「翰海」は、通俗字義である「広大」(浩翰/浩瀚)で越せない難所という意味なのか、何か「瀚」海でなく「翰」海で示すべき感慨があったのかということです。一種の「聖地」「絶景」でしょうか。

 そして、陳寿が、後に倭人伝をまとめる際に先例を踏まえて「瀚海」としたのは、どのような意味をこめたかということです。思いを巡らすのは、当人の好き好きですが、陳寿の深意を探る試みに終わりはないのです。 

 そこで、また一つ憶測ですが、「瀚」は、水面にさざ波が広がっている、羽根で掃いて模様を描いたような眺めを形容したもの(ではないか)と見たのです。

 このあたり、用字の違いが微妙ですが、霍去病の見た「翰海」が、氵(さんずい)無しと言うことは、これは「砂の海」かと思えるのです。つまり、茫々たる砂の上に、羽根で掃いたような模様が広々と見えたので、大将軍も戦意をそがれて、引き返したとも見えるのです。
 もちろん、これは、よく言われるように、どこかの湖水の水面を見たのかも知れませんが、文字解釈にこだわると、「砂の海」に見えるのです。

 このあたりの解釈は、洛陽で史官を務めた陳寿の教養になっていて、帯方郡から對海国に着いた使人の感慨で、目前の海面が、羽根で掃いたような模様に満たされていたとの報告を、一言で「瀚海」と氵付きで書き記したようにも思えます。

 以上、もちろん「状況証拠」なので、断定的に受け取る必要はありませんが、逆に、状況を、じっくり考察に取りいれた盤石の「状況証拠」は、否定しがたいと思うのです。何事も、はなから決め付けずに、よくよく確かめて評価するもの(ではないか)と思うのです。
 いや、「状況証拠」は、本来「法学部」の専門用語なので、当記事筆者のような素人が、偉ぶって説くべきものではないでしょうが、世間には、素人考えの勘違いの方が、もっともらしく「はびこっている」可能性があるので、一言警鐘を鳴らしただけです。言いたいのは、一刀両断の結論に飛びつくと、足元が地に着いていなくて、ケガをするかも知れないと言うだけです。

以上

2021年8月19日 (木)

私の意見 「卑弥呼王墓」に「径」を問う 前編      1/2

  字書参照、用例検索  2021/08/19

〇倭人伝の道草~石橋を叩いて渡る
 まず、倭人伝の「卑彌呼以死,大作冢,徑百餘步」の「徑」は、「径」と「步」は、「歩」と同じ文字です。ここで、「冢」は円墓、「径百余歩」の「径」は、直径、差し渡しとの解釈が当然としているようですが、古典解釈では、当然は、思い込みに繋がりやすくもっとも危険です。以下、概数表記は略します。
 当方は、東夷の素人であるので、自身の先入観に裏付けを求めたのが、以下の「道草」のきっかけです。

〇用例検索の細径
*漢字字書の意見
 まずは、権威のある漢字辞典で確認すると、「径」は、専ら「みち」、但し、「道」、「路」に示される街道や大通りでなく「こみち」です。時に、わざわざ「小径」と書きますが、「径」は、元から、寸足らず不定形の細道です。

 ここで語義探索を終われば、「径百余歩」は、「冢」の「こみち」が百歩となります。女王の円墳への参道が、百歩、百五十㍍となります。
 榊原英夫氏の著書「邪馬台国への径」の深意かと想ったものです。

 それは、早計でした。漢字字書には限界があって、時に(大きく)取りこぼすのです。

*古典書総検索
 と言うことで、念入りに「中国哲学書電子化計劃」の古典書籍検索で、以下の用例観を感じ取りました。単漢字検索で、多数の「ヒット」がありますが、それぞれ、段落全体が表示されるので、文脈、前後関係から意味を読み取れ、勘違い、早とちりは発生しにくいのです。

*「径」の二義
 総括すると、径(徑)には、大別して二つの意味が見られます。
 一に、「径」、つまり、半人前の小道です。間道、抜け道の意です。
 二に、幾何学的な「径」(けい)です。
  壱:身辺小物は、度量衡「尺度」「寸」で原則実測します。
  弐:極端な大物は、日、月で、概念であって実測ではありません。
 流し見する限りでは、円「径」を「歩」で書いた例は見られません。

 「歩」は、土地制度「検地」単位で、「二」の壱、弐に非該当です。史官陳寿は、原則として先例無き用語は排します。「径百余歩」は確定できません。

*専門用語は専門書に訊く~九章算術
 探索を「九章算術」なる古典書に広げます。算数教科書で検索から漏れたようです。「専門用語は専門辞書に訊く」鉄則が古代文献でも通用するようです。

 手早く言うと、耕作地測量から面積を計算する「圓田」例題では、径、差し渡しから面積を計算します。当時、円周率は三です。農地測量で面積から課税穀物量計算の際、円周率は三で十分です。それだけでも、一仕事です。

 それはさておき、古典書の用例で、「径」「歩」用例が見えないのは、「歩」で表す戸別農地面積は、古典書で議論されないと言うだけです。
 個別耕作地は円形の可能性がありますが、行政区画に円形はないのです。
 このあたりに、用例の偏りの由来が感じ取れます。
 上級(土木)で墳丘の底部、頂部径で盛土量計算の例題が示されています。

 以上で、「冢径百余歩」は、円形の冢の径を示したものと見て良いようです。

                                未完

より以前の記事一覧

お気に入ったらブログランキングに投票してください


いいと思ったら ブログ村に投票してください

2022年7月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31            

カテゴリー

無料ブログはココログ