倭人伝新考察

第二グループです

2023年9月18日 (月)

新・私の本棚 「九章算術」新考 方田と里田~「方里の起源」1/2

 古代の教科書を辿る試み~中國哲學書電子化計劃による 2021/01/24 2023/09/18

〇はじめに
 古代中国の算数教科書を読み解いて、倭人伝「方里」の起源を探ります。
 農地測量の「方田里田」表現を確認し、「方里」は面積単位と明示します。

〇「九章算術」とは
 本書は、「東アジア」最古の数学書と紹介されますが、当時、中国周辺世界で文明があったのは「中国」だけで、西方エジプト、メソポタミア、ギリシャとは交信がなかったから「世界最古」でいいのです。当時、「アジア」はエーゲ海に面した地中海東岸の狭い世界であり、「東アジア」などなかったのです。

 古代史学者は、「東アジア」という用語を、大変注意深く使っていますが、悪乗りして混乱した世界観を持ちかけてくる論者がいるので注意が必要です。古代史に、生かじりの現代語を持ち込むのは、大抵、苦し紛れの逃げ口上です。

 それはさておき、本稿の対象は、冒頭部だけであり、かつ、「数学」論でないことをおことわりしておきます。また、目的は、古代史書、就中「魏志倭人伝」の用語、用字の解明であり、中国語独特の文法を理解しなくても読み解けるので現代語訳を付けていません。
 但し、中国の単位体系は、現代日本と異なるので、随時説明を加えます。

▢記事紹介
*「問題」山積による問答紹介、術紹介付き
㈠ 方田例題
今有田廣十五步,從十六步。問為田幾何?
 答曰:一畝。
又有田廣十二步,從十四步。問為田幾何?
 答曰:一百六十八步。
方田術曰:廣從步數相乘得積步。以畝法二百四十步除之即畝數。百畝為一頃。

 冒頭の「方田」例題です。いきなり「問」、「問題」を突きつけられて、総毛立つ「サプライズ」と勘違いしそうですが、パニックを起こさず読み進めると、すぐさま、「答」が示されるので、心の負担にはならないでしょう。大体、試験問題とは、予想外でなければ意味がないのです。
 本来、各例題は問答で完結だったのでしょうが、それでは勉強にならないので、解答に至る手順の「術」、解法が示されています。

*「歩」の起源考察
 「歩」は、農地面積単位であって、恐らく「ぶ」であり、歩幅定義でなく、耕作具の幅基準と思われます。なお、日常単位との関係は一歩六尺です。

 「廣」は農地の幅、「従」は縦、農地の奥行きです。農地を牛犂で耕すとき、歩は犂幅であり、奥で反転して引き返すので、農地は矩形で造成されます。つまり、農地の開墾・整理は、「歩」を単位に、各戸に当てて縄張り区画したと見えます。農地は、あぜ道と水路、そして、農道で区分されていたはずです。
 ここに提示された農地は一「畝」(むう)の定義で、幅十五歩、縦十六歩です。面積単位には百畝の「頃」があり、農地は「頃」-「畝」で表現されます。

*面積単位としての「歩」
 続く例では、「廣」・「従」が、「歩」、面積も「歩」で書かれています。答は、単に百六十八「歩」で、術では、周知の一畝 二百四十歩を明記します。

 方田術曰と書かれているのは、恐らく、後世の解説者の追記であり、原題には、「幅が歩、縦が歩なら、面積は積歩」とは書いていなかったはずです。

 「廣從步數相乘得積步」は、縦横の「歩」を掛けると面積の「歩」が出ると言うだけで、「九章算術」全体でも、単位「積歩」を示していないようです。

                                未完

新・私の本棚 「九章算術」新考 方田と里田~「方里の起源」2/2 増補

 古代の教科書を辿る試み~中國哲學書電子化計劃による 2021/01/24 2023/09/18

㈡「里田」例題
今有田廣一里,從一里。問為田幾何?
 答曰:三頃七十五畝。
又有田廣二里,從三里。問為田幾何?
 答曰:二十二頃五十畝。
里田術曰:廣從里數相乘得積里。以三百七十五乘之,即畝數。

 続いて、広い範囲の土地の縦横/廣従と面積の「里田」例題が提示されます。
 行政区画が県へと広がると、{頃-畝}で収まらないので里で表現します。
 一里三百歩なので、縦横一里の面積一「里」は九万「歩」、三頃七十五畝です。十進法でないのは、太古、元々別の単位系として成立したからです。

*広域集計という事
 「里田」は、頃-畝単位系から里単位系への面積換算を規定していて、これは、国家里制、度量衡により一意的なので、両制度に従います。
 以降で、一見不規則な形状の農地の「検地」が提起されますが、これは、地方吏人が測量実務で直面する可能性のある例外的な事例への対応に備えて、現代で言う「幾何学」な多様性に対応する算法を説いているものであって、国家事業として開梱された正規農地、つまり、定寸矩形の農地の面積計算には必要ないのです。
 諸賢は、「方田」関連の多様な形状の農地に関する「例題の数の多さ」に幻惑されるようですが、農地が台帳登録されると、後は数字計算です。九章算術の残る部分は、面積数字を計算するものです。重要性は、例題の数の多少で評価するものではないのです。

 冷静に見ていただければ、農地を造成するときは、矩形が常道であり、常道から多少形が崩れたとしても、農地の従横のそれぞれ平均値が把握できていれば、厳密に矩形でなく、台形でも、平行四辺形でも、歩(ぶ)単位であれば、精々、二桁の従横の掛け算で農地台帳の記載するに足る農地面積の概要は得られるという「鉄則」が書かれていると見るべきです。何しろ、厖大な件数の農地測量ですから、方法は簡便であり、計算は、並の(数字に弱い)官人でこなせる明快なものでなければならなかったのです。
 広域集計は、件数が少なく、高位の(数字に強い)計算官僚が時間をかけて実務担当するので、桁数が大きくても実行可能だったのです。

*道里の里、方里の里
 道のり、道里の単位「里」は、一里三百歩で、度量衡の「尺」と厳格に連携しますが、一方、一辺一里の方形の面積「方一里」は三百七十五「畝」であり、こちらはこちらで厳格に連携します。何しろ、長さと広さは、単位の次元が違うので、混同しないように弁別しなければならないのです。
 以上は、必ずしも史書想定読者全員に自明ではないので、陳寿は、「道里」は、百里と書くものの「面積の里」は、「方百里」と書いて混同を避けたようです。

*面積単位のあり方   (余談)
 近代メートル法国際単位が敷かれたとき、身近の面積は平方㍍、広域の面積は平方㌔㍍であっても、百万倍の違いはとてつもなく大きく、農地面積には、十㍍四方を単位とした㌃や百㍍四方を単位とした㌶が常用されています。
 面積は二次元単位なので、一次元単位を十倍にすると百倍になり、数字の桁外れが起きるので、SI単位系の例外として常用単位で埋めたのです。

*東夷伝「方里」の解釈
 東夷伝の事例で、例えば、韓国「方四千里」と一大国「方四百里」が登場しますが、一辺里数で領域面積を表現したとすると、十倍の大小関係と見えて、面積は自乗関係で百倍の大差では、読者たる高官の誤解を招くので不都合です。
 一辺里数でなく全周里数とみても、自乗関係に変化が無いので、韓国は一大国の百倍であり、実態を裏切る、無意味な比較になるのです。
 あるいは、遼東郡の北の大国高句麗が、南の小国韓国の四半分の国土と読めては、高官の判断を誤らせるので、不合理なのです。
 ということで、同時代でも通用する「合理的な解釈」が残ります。
 東夷伝で、遠隔、未開の国「方里」は、それぞれの農地測量・検地された台帳記事の集積で、収穫・徴税と直結し、国力指標として最も有効です。しかし、台帳で把握されている「耕作地」は、全土のごく一部に過ぎず、大半は、山野、渓谷、荒れ地、海浜など測量されない非耕作地です。
 過去、当記事の主張と同様な提言があったとしても、国土全域の表現と見ると、余りに狭小なので、間違いとされたことでしょう。それは、後世の世界観で、「国土の全面積が測量可能であるとか、その面積に意義があるとか、時代錯誤の先入観」を抱いていたためです。
 あるいは、「方里」と「道里」の安直な混同を招いたためです。三国志」は、現代日本人、つまり、陳寿にしてみたら未知の二千年後の無教養な東夷蕃人の先入観を満たすために書かれたものではないのです。

*まとめ 2023/09/18 補充
 ということで、陳寿が、東夷伝の道里記事に寄り添うように、「方里」記事を書き連ねた意義を理解すれば、「方里」の「里」は、「道里」の「里」と異なる次元のものであると明記した陳寿の真意を察することができるはずです。諸兄姉には、承知の事項のはずですが、所定の領域の農業生産力、即ち、「国力」を示す指標は「戸数」です。各「戸」は、所定の面積の農地の耕作を許可されていて、その代償として、所定の穀物を「納税」することで、帝国の根幹が成り立っているのです。
 但し、そのような関係が成り立つのは、各戸が、牛犂による農耕を維持していて、適正な農務を維持できるのが前提であり、所定の領域に、牛犂が存在しない場合、つまり、人力による農作業に頼っているとすれば、各「戸」が耕作可能な農地は、中原基準の面積でなく、その地域に通用する縮小された面積となり、従って、各「戸」の農業生産力は、応分に減少します。つまり、現地の「国力」は、戸数から想定されるものより縮小するのです。
 そのような事情の片鱗は、「倭人伝」の對海国記事に見えていて、同国は、良田が少ないと申告しています。つまり、中原基準で「良田」と格付けされる収穫量が得られる農地を割り当てられないという趣旨であり、つまり、戸数から計算される納税ができていないとの申告と見られるのです。
 陳寿は、東夷なる地方は、そもそも、農耕可能な土地が少なく、郡が各戸に割り当てられる土地も、各戸が労力不足で制約される、つまり、戸数から想定される国力は過大評価となることを東夷伝記事に埋め込んでいるのです。

 「倭人に牛馬がいない」というのは、現地は、夷蕃の統治する「荒地」であるから、国政の定める、農耕に必須の牛犂が整っていないという趣旨で書かれているので、誠に、万全の配慮と言えます。
 何しろ、史官は、国法を定める立法機関ではないし、そもそも、周制以来の祖法を改定することはできないので、かくのごとく「東夷伝」に要件を書き込んでいるのです。

 本稿は、論証と言うより、合理的な考証と思うものです。否定されるのなら、不確かな実証論でなく論証をいただきたいものです。

                               以上

2023年4月23日 (日)

03. 從郡至倭 - 読み過ごされた水行 改訂第六版 追記再掲 1/3

 2014/04/03 追記2018/11/23、 2019/01/09, 07/21 2020/05/13, 11/02 2023/01/28, 04/23
 おことわり: またまた改訂しました。そして、更に追記しました。更に、3ページに分割しました。

 注記:
 後日考え直すと、当初述べた「水行」行程の見方は間違っていましたので、書き足します。

*陸行水行論の整理
 倭人伝道里行程記事の眼目である「従郡至倭」万二千里の内、半島内狗邪韓国まで七千里と明記されたのは、この間が陸上官道であり、海上や河川の航行のように、道里、日程が不確かな行程は含まれていないと判断されます。いや、実際には、その時、その場の都合で、「水の上」を行ったかも知れませんが、国の制度としては、そのような定義付けは、あり得ないということです。どうか、顔を洗って目を覚ましてほしいものです。

 九州島上陸後は、末羅国で、わざわざ「陸行」と明記されていることもあり、専ら陸路で倭の王治に至ると判断されます。伊都国から後、「水行」二十日とされる投馬国は、明記されているように、行程外の「脇道」であって、当然、直行道里からも所要日数からも除き、従って、「都合水行十日+陸行一ヵ月」の膨大な四十日行程は、伊都国ないしは投馬国から倭王治に至る現地道里、日数では無く、全体道里万二千里に相当する所要期間と見るのです。
 誠に簡明で、筋の通った読み方と思うのですが、とうの昔に「**説」信奉と決めている諸兄姉は、既に「思い込み」に命/生活をかけているので、何を言われても耳に入らないのでは、仕方ないことでしょうか。

 因みに、『「都合水行十日+陸行一ヵ月」の四十日行程 』とする解釈は、根拠のある一解であり、筋の通った「エレガント」な解と見ていますので、この解釈自体に、根拠の無い難癖を付けるのは、批判には当たらないヤジに過ぎません。感情的な「好き嫌い」を聞いても仕方ないので、論理的な異議に限定頂きたいものです。また、当ブログは、一部にみられるように公的機関の提灯持ちを「任務」としているものではないので、「百害あって一利なし」などと、既存権益を疎外するものと難詰されても、対応しようがないのです。

 巷間喋々されるように「水行なら十日、陸行なら一月」とか、「水行十日にくわえて陸行なら一日」とか、気楽な改竄解読は、さらに原文から遠ざかっているので、無意味なヤジに過ぎず、確たる証拠がない限り、本稿では、論外の口出しとして門前払いするものです。

 当ブログでの推定は、榎一雄師が注力した「放射行程説」に帰着していると見て取れるかも知れませんが、当ブログは、特定の学派/学説に追従するものでなく、あくまで、『「倭人伝」記事の解釈』に基づいているのです。もちろん、特定の学派/学説を否定する意図で書いているのでもありません。敢えて、大時代な言い回しを採ると、脇道によらない「一路直行」説と呼ぶものでしょう。

*陳寿道里記法の確認
 このように、考慮に値しない雑情報を「整理」すると、全体の解釈の筋が通ります。つまり、全行程万二千里の内訳として、「陸行」は総計九千里、所要日数は都合三十日(一月)となり、郡から狗邪韓国までの陸上街道を七千里として定義された「倭人伝」道里』によると、一日あたり三百里と、切りの良い数字になり、一気に明解になります。
 一方、「従郡至倭」行程の内訳としての「水行」は、専ら狗邪韓国から末羅国までの渡海行程十日と見るべきです。「水行」三千里の所要日数を十日間とすれば、一日あたり三百里となり、「陸行」と揃うので、正史の夷蕃伝の道里・行程の説明として、そう読めば明解になるという事です。
 視点を変えれば、渡海行程は、一日刻みで三度の渡海と見て、前後予備日を入れて、計十日あれば、確実に踏破できるので、「水行十日」に相応しいのです。勘定するのに、別に計算担当の官僚を呼ばなくても良いのです。
 倭人伝の道里行程記事の「課題」、つまり「問題」は、「従郡至倭」の所要日数の根拠を明解に与えると言うことなので、史官としては、与えられた課題を、与えられた史料を根拠に、つまり、改竄も無視もせずに、正史の書法で書き整えたことで、大変優れた解を与えたことになります。
 当時、このような編纂について、非難を浴びせていないことから、陳寿の書法は、妥当なものと判断されたと見るべきです。

*道里行程検証再開
 郡からの街道を経て狗邪韓国に至った道里は、ここに到って「始めて」倭の北界である大海の北岸に立ち、海岸に循して渡海するのです。
 狗邪韓国から末羅国に至る記事は、「始めて」渡海し、「又」渡海し、「又」渡海すると、順次書かれていて、中原で河川を渡る際と同様であり、ここでは、大海の中の島、州島を利用して、飛び石のように、手軽に、気軽に船を替えつつ渡るので、まるで「陸」(おか)を行くように、「水」(大海の流れ)を行くのであり、道里は単純に千里と明解に書いているのです。
 ここでは、敢えて、又、又と重ねることにより、行程は、渡海の積み重ねで、末羅国、そして、「陸行」で伊都国に到ると明快です。

 各渡海を一律千里と書いたのは、所要三日に相応したもので、予備日を入れて「切りの良い」数字にしています。誠に整然としています。都合、つまり、総じて、或いは、なべて「水行」は「三千里」、所要日数「十日」で、簡単な割り算で一日三百里と、明解になります。諄(くど)いようですが、この区間は「並行する街道がない」ので、『「水行」なら十日、「陸行」するなら**日』とする記法は成り立たないのです。頑固な方に対しては、「それなら、渡船と並行して、海上を騎馬で走る街道を敷くのですか」と揶揄するのですが、どうも、寓話を解しない方が多くて困っているのです。
 
 とにかく、倭人伝道里行程記事が、範とした班固漢書「西域伝」に見られない程、細かく、明解に書いたのは、行程記事が、官用文書送達期限規定のために書かれていることに起因するのです。それ以外の「実務」では、移動経路、手段等に異なる点があるかも知れません。つまり、曹魏正始中の魏使の訪倭行程は、随分異なったかも知れませんが、「倭人伝」は、それ以前に、「倭人」の紹介記事として書かれたのであり、魏使の出張報告は、道里行程記事に反映していないのです。

 何しろ、明帝の下賜した大量、かつ、貴重な荷物を送り出すには、発進前に、「道中の所要日数の確認」と「経由地の責任者の復唱」が不可欠であり、旅立つ前に、「万二千里の彼方の果てしない旅路だ」などではなく、何日後にはどこに着くか、はっきりした見通しが立っていたのです。
 もちろん、事前通告がないと、正始魏使のような多数の来訪に、宿舎、寝具、食料、水の準備ができず、又、多数の船腹と漕ぎ手の準備、対応もできないのです。どう考えても、行程上の宿泊地、用船の手配は、事前通告で完備していたはずです。
 また、当然、各宿泊地からは、魏使一行到着の報告が速報されていたはずです。
 「魏使が帰国報告しないと委細不明」などは、後世の無教養な東夷の臆測に過ぎません。

 これだけ丁寧に説き聞かせても、『「倭人伝」道里行程記事は、郡使の報告書に基づいている』と決め込んでいて、そのようにしか解しない方がいて、これも、苦慮しているのです。「つけるクスリがない」感じです。
 
 誤解の仕方は、各位の教養/感性次第で千差万別ですが、本論で論じているのは、「倭人伝」道里行程記事は、郡を発した文書使の行程/所要日数を規定したものであると言うだけであり、半島西岸、南岸の沿岸で、飛び石伝いのような近隣との短距離移動の連鎖で、結果として、物資が全経路を通して移動していた可能性までは、完全に否定していないという事です。事実、この地域に、さほど繁盛していないものの、交易が行われていた事は、むしろ当然でしょう。

 ただし、この地域で日本海沿岸各地の産物が出土したからと言って、此の地域の、例えば、月一の「市」に、るか東方の遠方から多数の船が乗り付けて、商売繁盛していた、と言う「思い付き」は、成り立ちがたいと思います。今日言う「対馬海峡」を漕ぎ渡るのは、死力を尽くした漕行の可能性があり、多くの荷を載せて、長い航路を往き来するのは、無理だったと思うからです。問われているのは、経済活動を行い続ける「持続可能」な営みであり、冒険航海ではないのです。

 海峡を越えた交易」と言うものの、書き残されていない古代の長い年月、島から島へ、港から港を小刻みに日数をかけて繋ぐ、今日の視点で見れば、本当にか細く短い、しかし、持続的な活動を維持するという逞しい、「鎖」の連鎖が、両地区を繋いでいたと思うのです。

 いや、ここでは、時代相応と見た成り行きを連ねる見方で、倭人伝の提示した「問題」に一つの明解な解答の例を提示したのであり、他の意見を徹底排除するような絶対的/排他的な意見ではないのです。

 水行」を「海」の行程(sea voyage)とする読みは、後記のように、中島信文氏が、中国古典の語法(中原語法)として提唱し、当方も確認した解釈とは、必ずしも一致しませんが、私見としては、「倭人伝」は、中原語法と異なる地域語法で書かれているとおもうものです。それは、「循海岸水行」の五字で明記されていて、以下、この意味で書くという「地域水行」宣言/定義です。

 史官は、あくまで、それまでに経書や先行正史(「馬班」、つまり、司馬遷「史記」と班固「漢書」の二史)に先例のある用語、用法に縛られているのですが、先例では書けない記事を書くときは、臨時に用語/用法を定義して、その文書限りの、辻褄の合った記事を書かねばならないのです。念のため言い足すと、「倭人伝」は、「魏志」の巻末記事なので、ここで臨時に定義した字句は、以後、無効になるのです。「蜀志」、「呉志」は、別の史書なので、「魏志」の定義は及ばないのです。その意味でも、「倭人伝」が「魏志」巻末に配置されているのは、見事な編纂なのです。

 この点は、中島氏の論旨に反していますが、今回(2019年7月)、当方が到達した境地を打ち出すことにした次第です。

 教訓として、文献解釈の常道に従い、『「倭人伝」の記事は、まずは、「倭人伝」の文脈で解釈すべきであり、それで明快に読み解ける場合は、「倭人伝」外の用例、用語は、あくまで参考に止めるべきだ」ということです。

 この点、中島氏も、「倭人伝」読解は、陳寿の真意を探るものであると述べているので、その点に関しては、軌を一にするものと信じます。

 追記:それ以後の理解を以下に述べます。

未完

03. 從郡至倭 - 読み過ごされた水行 改訂第六版 追記再掲 2/3

 2014/04/03 追記2018/11/23、 2019/01/09, 07/21 2020/05/13, 11/02 2023/01/28, 04/23
 おことわり: またまた改訂しました。そして、更に追記しました。3ページに分割しました。

*「従郡至倭」の解釈 (追記 2020/05/13)
 魏志編纂当時、教養人に常識、必須教養であった算術書籍「九章算術」では、「従」は「縦」と同義であり、方形地形の幅方向を「廣」、縦方向を「従」としています。つまり、「従郡」とは、郡から見て、つまり、郡境を基線として縦方向、ここでは、南方に進むことを示していると考えることができます。 いきなり、街道が屈曲して、西に「海岸」に出るとは、全く書いていないのです。

 続く、「循海岸水行」の「循」は「従」と同趣旨であり、海岸を基線として縦方向、つまり、大海を渡って南方に進むことを、ここ(「倭人伝」)では、以下、特に「水行」と呼ぶという宣言、ないしは、「新規用語の定義」と見ることができます。
 つまり、「通説」という名の素人読みでは、これを実際に進むと解していますが、正史の道里行程記事で典拠に無い新規用語である「水行」を、予告無しに不意打ちで書くことは、史官の文書作法に反していて、いかにも、読者を憤慨させる不手際となります。
 順当な解釈としては、これを道里行程記事の開始部と見ずに、倭人伝独特の「水行」の定義句と見ると、不可解ではなく明解になり、道里行程から外せるのです。

*自明当然の陸行 (追記 2020/05/13)
 と言う事で、中国史書として自明なので書いていませんが、帯方郡から狗邪韓国の行程は、明らかに郡の指定した官道を行く「陸行」だったのです。陳寿の編纂時点まで、古典書籍、及び先行「馬班二史」に公式の街道「水行」の前例がなかったので、自明、当然の「陸行」で、狗邪韓国まで進んだと解されるのです。

 以下、臨時に採用した「水行」という名の「渡海」行程に移り、末羅国に上陸すると、限定的な「水行」の終了を明示するために、敢えて「陸行」と字数を費やしているのです。

 「倭人伝」に示されているのは、実際は、「自郡至倭」行程であり、最後に、「都合、水行十日、陸行一月(三十日)」と総括しているのです。

 ついでながら、先に言及したように陸行一月を一日の誤記とみる奇特な方もいるようですが、皇帝に上申する史書に「水行十日に加えて陸行一日」の趣旨で書くのは、読者を混乱させる無用な字数稼ぎであり、「陸行一日」は、十日単位で集計している長途の記事で、書くに及ばない瑣末事として抹消されるべきものです。水行十日は、当然、切りのいい日数にまとめた概算であり、桁違いのはしたなど書くものではないのです。
 結構、学識の豊富な方が、苦し紛れに、そのような言い逃れに走るのは勿体ないところです。当史料が、皇帝に上申される厖大な史書「魏志」の末尾の一伝だということをお忘れなのでしょうか。ここは、途中で投げ出されないように、くどくど言い訳するので無く、明解に書くものと思うのです。

 と言う事で、郡から倭まで、三角形の二辺を経る迂遠な「海路?」に一顧だにせず、一本道をまっしぐらに眺めた図を示します。これほど鮮明でないにしても、「倭在帯方東南」を、図(ピクチャー picture)として感じた人はいたのではないでしょうか。現代風に言う「空間認識」の絵解きです。当地図は、Googleマップ/Google Earthの利用規程に従い画面出力に追記を施したものです。漠然とした眺望なので、二千年近い以前の古代も、ほぼ同様だったと見て、利用しています。

 本図は、先入観や時代錯誤の精密な地図データで描いた画餅「イメージ」で無く、仮想視点とは言え、現実に即した見え方で、遠近法の加味された「ピクチャー」なので、行程道里の筋道が明確になったと考えています。倭人伝曰わく、「倭人在帯方東南」、「従郡至倭」。
 中原の中華文明は、「言葉で論理を綴る」ものであり、当世風の図形化など存在しなかったのです。Koreanmountainpass00
未完

*旧記事再録~ご参考まで
------------------------ 
 以下の記事では、帯方郡から狗邪韓國まで船で移動して韓国を過ぎたと書かれていると見るのが妥当と思います。
 「循海岸水行歴韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國」
 従来の読み方ではこうなります。
 「循海岸水行、歴韓國乍南乍東、到其北岸狗邪韓國」
 終始「水行」と読むことになります。
 しかし、当時の船は沿岸航行であり、朝出港して昼過ぎに寄港するという一日刻みの航海と思われますが、そのような航海方法で、半島西南の多島海は航行困難という反論があります。
 別見解として、『「水行」は、帯方郡から漢城附近までの沿岸航行であり、以下、内陸行』との読み方が提示されています。この読み方で著名なのは、古田武彦氏です。
 これに対して、(山東半島から帯方郡に到着したと思われる)船便が「上陸して陸行すると書かれてない」という難点と合わせて、魏使は、高貴物を含む下賜物の重荷を抱えての内陸踏破は至難、との疑問が呈されています。特に、銅鏡百枚の重量は、木組みの外箱を含めて相当なものであり、牛馬の力を借りるとしても、半島内を長距離陸送することは困難との意見です。

 このような視点は、「倭人伝」道里行程記事は、魏使、ないしは、帯方郡官人使節、正史使節の帰国報告に基づいているとする意見によるものですが、ここまで何度も説明したように、「倭人伝」道里行程記事は、明帝没後の正史使節の派遣以前に、新帝曹芳に対して、郡を発して倭に至るという「公式道里」を説明するために書かれたものであり、当然、正史使節の行程記事ではないのです。

*厳然たる訓戒
 これでは板挟みですが、中島信文 『甦る三国志「魏志倭人伝」』 (2012年10月 彩流社)は、厳然たる訓戒を提示しています。具体的には、次の読み方により、誤読は解消するのです。 
 「循海岸、水行歴韓國乍南乍東、到其北岸狗邪韓國
 つまり、帯方郡を出て、まずは西海岸沿いに南に進み、続いて、南漢江を遡上水行して半島中央部で分水嶺越えして洛東江上流に至り、ここから、洛東江を流下水行して狗耶韓国に至るという読みです。

 大前提として、中国古典書法で、「水行」は、河川航行であり、海上航行では「絶対に」ない、というとの定見が提起されていて、まさしく、「水行」を、海(うみ)に直結している諸説論者は、顔を洗って出直すべきだという、厳然たる訓戒ですが、諸兄姉には、なかなか、顔を洗わない方が多いようです。

*追記 2023/04/23:
 ここでは、「循海岸」を「沿海岸」と同義と解し、「海辺を離れて内陸の平地を、海岸と並行して街道を進む」と解釈しているのであり、海船での移動を「水行」と呼ぶという「不法な」誤読を、鮮やかに回避しています。

 河川遡行には、多数の船曳人が必要ですが、それは、各国河川の水運で行われていたことであり、当時の半島内の「水行」で、船曳人は成業となっていたのでしょうか。
 同書では、関連して、色々論考されていますが、ここでは、これだけ手短に抜粋させていただくことにします。

 私見ですが、古代の中国語で「水」とは、河水(黄河)、江水(長江、揚子江)、淮水(淮河)のように、もっぱら河川を指すものであり、海(うみ)は、「海」を指すものです。これは、日本人が中国語を学ぶ時、日中で、同じ漢字で意味が違う多数の例の一つとして学ぶべきものです。
 まして、「倭人伝」は、二千年前に書かれた高度に専門的な文書(文語文)であり、今日、通用している口語寄りの中国語文とは、大いに異なるものなのです。
 手短に言うと、古代史書において、「水行」は河川航行に決まっている』との主張は、むしろ自明であり、かつ合理的と考えます。
 

 ただし、中島氏が、「海行」が、魏晋朝時代に慣用句として使用されていたと見たのは、氏に珍しい早計で、提示された用例は、陳寿「三国志」の内容とは言え、「陳寿」が、編纂したものではない「呉志」記事なので、魏志「倭人伝」用語の先行用例とするのは、不適当と考えます。

 同用例は、「ある地点から別のある地点へと、公的に設定されていた経路を行く」という「行」の意味でも無いのです。是非、再考いただきたいものです。

*追記2 2023/04/23: 
 「呉志」(呉国志)は、東呉の史官が、東呉を創業した孫権大帝の称揚の為に書き上げた国史であり、言うならば「魏志」(魏国志)には場違いな呉の用語が持ち込まれているのです。「呉志」は、東呉降伏の際に晋帝に献上され、皇帝の認証を経て、帝国公文書に収蔵されていたものであり、「三国志」への収録の際に、孫堅~孫策~孫権三代とそれ以降の「皇帝」称号廃却は別として、改変、改竄は許されなかったのです。もちろん、「魏志」の記事に「呉志」を引用することも許されなかった、と言うか、そのような引用は、あり得なかったのです。
 つまり、「魏志」(魏国志) 倭人伝用語の先行用例検索では、「呉志」(呉国志) 、「蜀志」(蜀国志) は、除外すべきなのです。

 この点の誤解は、古来、裴松之以下の後世史家が、揃いも揃って陥った陥穽であり、後世東夷である当世国内史家が陥ったとしても、無理のないところですが、諸兄姉に於いては、原点に立ち返って冷静に考えていただければ、ことの見極めのつくものと考えます。

 そのような編纂方針が顕著なのは、後漢末、献帝建安年間の曹操南征時に生じた、俗に言う「赤壁の戦い」に関する各国志の食い違いですが、それぞれの「国志」が、各国の公文書に厳格に基づいて編纂されていて、陳寿が「三国志」を統一編纂していないことから生じたものです。

未完

03. 從郡至倭 - 読み過ごされた水行 改訂第六版 追記再掲 3/3

 2014/04/03 追記2018/11/23、 2019/01/09, 07/21 2020/05/13, 11/02 2023/01/28, 04/23
 おことわり: またまた改訂しました。そして、更に追記しました。3ページに分割しました。

*郡から狗邪韓国まで 荷物運び談義 追記 2020/11/02
 郡から狗邪韓国への行程は、騎馬文書使の街道走行を想定していますが、実務の荷物輸送であれば、並行する河川での荷船の起用は、自然なところです。
 と言う事で、倭人伝」の行程道里談義を離れて、荷物輸送の「実態」を、重複覚悟で考証してみます。
 以下、字数の限られたブログ記事でもあり、現地発音を並記すべき現代地名は最小限とどめています。また、利用の難しいマップの起用も遠慮していますが、関係資料を種々参照した上での論議である事は書いておきます。

 なお、当経路は、本筋として、当時、郡の主力であったと思われる遼東方面からの陸路輸送を想定していますから、素人考えで出回っているような、わざわざ黄海岸に下りて荷船で南下する事は無く、当時、最も人馬の労が少ないと思われる経路です。

 公式の道里行程とは別の実務経路として、黄海海船で狗邪韓国方面に向かう荷は、郡に寄る必要は無いので、そのまま漢江河口部を越えて南下し、いずれかの海港で荷下ろしして陸送に移したものと見えます。海船は、山東半島への帰り船の途に着きます。

 当然ですが、黄海で稼ぎの多い大量輸送をこなす重厚な海船と乗組員を、このような閑散航路に就かせるような無謀な輸送はあり得ないのです。まして、南下する閑散航路は、細かい舵の効かない大型の帆船の苦手とする浅瀬、岩礁が多いので、回避のために、細かく舵取りを強いられる海峡ですから、結局、帆船と言いながら、舵取りのための漕ぎ手を多数乗せておく必要があるのです。また、地域ごとの水先案内人も必須です。
 三世紀当時は、海図も羅針盤もないので、岩礁の位置はわからない、船の位置はわからないでは、岸辺に近づくのは、危険どころか、確実な破滅の道となりかねないのです。

 因みに、舵による帆船の転進は、大きく迂回はできても、小回りがきかず、特に、入出港時のように、船足が遅い状態では、ほとんど舵が効かないので、入港/出港の際には、漕ぎ手の奮闘で転進する必要があるのです。

 つまり、漕ぎ船と同様、寄港地を跨ぐ連漕は効かず、細かい乗り継ぎ/漕ぎ手交代が不可欠となります。
 と言うことで、半島航路に大型の帆船は採用されず、軽舟の乗り継ぎしか考えられないのであり、それでも、難破の可能性が大変高い、命がけのものと考えられます。

 一応、代案として評価しましたが、少なくとも、貴重で重量/質量のある公用の荷物の輸送経路としては、採用されないものと見えます。

*郡から漢江(ハンガン) へ
 推定するに、郡治を出た輸送行程は、東に峠越えして、北漢江流域に出て、川港で荷船に荷を積むまでの陸上輸送区間があったようです。郡の近辺なので、人馬の動員が容易で、小分けした荷物を人海戦術で運ぶ、「痩せ馬」部隊や驢馬などの荷車もあったでしょう。そう、駿馬は、荷運びに向かないし、軍馬として貴重なので、荷運びは驢馬か人手頼りだったものと思われます。とかく「駄馬」の語感が悪いのですが、重荷を運ぶのは、「荷駄馬」が、大量に必要だったのです。

 後世大発展した漢江河口の広大な扇状地は、天井川と見られる支流が東西に並行して黄海に流れ込み、南北経路は存在していなかったと思われます。(架橋などあり得なかったのです)つまり、郡から南下して漢江河口部に乗り付けようとしても、通れる道がなく、また、便船が乗り付けられる川港も海港もなかったのです。
 南北あわせた漢江は、洛東江を超えると思われる広大な流域面積を持つ大河であり、上流が岩山で急流であったことも加味されて、保水力が乏しく、しばしば暴れ川となっていたのです。
 郡からの輸送が、西に海岸に向かわず、南下もせず、東に峠越えして、北漢江上流の川港に向かう経路が利用されていたと推定する理由です。
 いや、念のため言うと、官制街道の記録を確認したわけでもなく、推定/夢想/妄想/願望/思い付きの何れかに過ぎません。

*北漢江から南漢江へ
 北漢江を下る川船は、南漢江との合流部で、「山地のすき間を突き破って海へと注ぐ漢江本流への急流部」を取らずに、南漢江遡行に移り、傾斜の緩やかな中流(中游)を上り、上流(上游)入口の川港で陸に上り、以下、一千㍍を超え、冬季には、積雪凍結の小白山地越えの難路に臨んだはずです。

 別の発想として、漢江河口部から本流を遡行して、南北漢江の合流部まで遡ったとしても、そこは、山地の割れ目から流れ出ている急流であり、舟の通過、特に遡行が困難です。(実際上「不可能」という意味です)
 と言う事で、下流の川港で、陸上輸送に切り替え、小高い山地を越えたところで、南漢江の水運に復帰したものと思われます。何のことはない、陸上輸送にない手軽さを求めた荷船遡行は、合流部の急流難関のために、難航する宿命を持っていたのです。
 合流部は、南北漢江の増水時には、下流の水害を軽減する役目を果たしていたのでしょうが、水運の面では、大きな阻害要因と思われます。

 公式行程とは別に、郡からの内陸経路の運送は北漢江経由で水運に移行する一方、山東半島から渡来する海船は、扇状地の泥沼(後の漢城 ソウル)を飛ばして、その南の海港(後世なら、唐津 タンジン)に入り、そこで降ろされた積み荷は、小分けされて内陸方面に陸送されるなり、「沿岸」を小舟で運ばれたのでしょう。当然、南漢江経路に合流することも予想されます。但し、それは「倭人伝」に記述された道里行程記事とは、「無縁」です。

 世上、「ネットワーク」などとわけのわからない時代錯誤の呪文が出回っていますが、三世紀当時、主要経路に人員も船腹も集中していて、脇道の輸送量は、ほとんど存在しなかったのです。
 因みに、当時山東半島への渡海船は、大容量で渡海専用、短区間往復に専念していたはずです。遼東半島と山東半島を結ぶ、最古の経路ほどの輸送量は無かったものの韓国諸国の市糴を支えていたものと見えます。

 と言うことで、漢江遡行に戻ると、山間部から流下する多数の支流を受け入れているため、増水渇水が顕著であり、特に、南漢江上流部は、急峻な峡谷に挟まれた「穿入蛇行」(せんにゅうだこう)や「嵌入曲流」を形成していて、水運に全く適さなかったものと思われます。従って、中流からの移行部に、後背地となる平地のある適地(忠州 チュンジュ)に、水陸の積み替えを行う川港が形成されたものと思われます。現代にいたって、貯水ダムが造成されて、渓谷は貯水池になっていますが、それでも、往時の激流を偲ぶことができると思います。

 そのような川港は、先に述べた黄海海港からの経路も合流している南北交易の中継地であり、山越えに要する人馬の供給基地として繁盛したはずです。

*竹嶺(チュンニョン) 越え
 小白山地の鞍部を越える「竹嶺」は、遅くとも、二世紀後半には、南北縦貫街道の要所として整備され、つづら折れの難路ながら、人馬の負担を緩和した道筋となっていたようです。何しろ、弁辰鉄山から、両郡に鉄材を輸送するには、どこかで小白山地を越えざるを得なかったのであり、帯方郡が、責任を持って、地域諸国に命じて街道宿駅を設置し、維持していたものと見るべきです。
 後世と違い、漢江流域は、「嶺東」と呼ばれる開発途上地域であり、万事零細な時代ですから、盗賊が出たとは思えませんが、かといって、宿駅を維持保全するには、周辺の小国に負担がかかっていたのでしょう。ともあれ、帯方郡は、漢制郡であったので、治安維持の郡兵を擁し、魏武曹操が確立した「法と秩序」は、辺境の地でも巌として守られていたとみるべきです。

 「竹嶺」越えは、はるか後世、先の大戦末期の日本統治時代、黄海沿いの鉄道幹線への敵襲への備えとして、帝国鉄道省が、多数の技術者を動員した京城-釜山間新路線の峠越え経路であり、さすがに、頂部はトンネルを採用していますが、その手前では冬季積雪に備えた、スイッチバックやループ路線を備え、東北地方で鍛えた積雪、寒冷地対応の当時最新の鉄道技術を投入し全年通行を前提とした高度な耐寒設備の面影を、今でも、しのぶ事ができます。
 と言う事で、朝鮮半島中部を区切っている小白山地越えは、歴史的に「竹嶺」越えとなっていたのです。
 それはさておき、冬季不通の難はあっても、それ以外の季節は、周辺から呼集した労務者と常設の騾馬などを駆使した峠越えが行われていたものと見えます。

 言葉や地図では感じが掴めないでしょうが、今日、「竹嶺」の南山麓(栄州 ヨンジュ)から「竹嶺ハイキングコース」が設定されているくらいで、難路とは言え難攻不落の険阻な道ではないのです。

*洛東江下り
 峠越えすると、以下の行程は、次第に周辺支流を加えて水量を増す大河 洛東江(ナクトンガン)の水運を利用した輸送が役に立った事でしょう。南漢江上流(上游)は、渓谷に蛇行を深く刻んだ激流であり、とても、水運を利用できなかったので、早々に、陸上輸送に切り替えていたのですが、洛東江は、かなり上流まで水運が行われていたようなので、以下、特に付け加える事は無いようです。

 洛東江は、太古以来の浸食で、中流部まで、川底が大変なだらかになっていて、また、遥か河口部から上流に至るまでゆるやかな流れなので、あるいは、曳き船無しで遡行できたかもわかりません。ともあれ、川船は、荒海を越えるわけでもないので、軽装、軽量だったはずで、だから、遡行時に曳き船できたのです。もちろん、華奢な川船で海峡越えに乗り出すなど、とてもできないのです。適材適所という事です。

 因みに、小白山地は、冬季、北方からの寒風を屏風のように遮って、嶺東と呼ばれる地域の気候を緩和していたものと思われます。

*代替経路推定
 と言う事で、漢江-洛東江水運の連結というものの、漢江上流部の陸道は尾根伝いに近い難路を経て竹嶺越えに至る行程の山場であり、しかも、積雪、凍結のある冬季の運用は困難(不可能)であったことから、あるいは、もう少し黄海よりに、峠越えに日数を要して、山上での人馬宿泊を伴いかねない別の峠越え代替経路が運用されていたかもわかりません。何事も、断定は難しいのです。
 このあたりは、当方のような異国の後世人の素人考えの到底及ばないところであり、専門家のご意見を伺いたいところです。

 因みに、当記事をまとめたあと、岡田英弘氏の著作を拝見すると、氏は、半島南北交通が竹嶺越えで確立されていたと卓見を示されているのですが、なぜか、郡使の訪倭行程を、俗説の海上行程と見立てていて、失望させられたものです。

以上

2023年4月 8日 (土)

新・私の本棚 「唐六典」「水行」批判と「倭人伝」解釈 三新 1/7 総括

 初稿 2019/07/14 改訂 2020/10/19, 2021/12/27 補充 2022/09/26 2022/11/10 2023/04/08

□「唐六典」談義
 従来、「唐六典」については、陳寿「三国志」魏志「倭人伝」に無関係とみて敬遠していましたが、今回記事を起こしたのは、当分野の真面目な論者が、この史料を的確に理解できずに振り回されて道を誤る例が多いと感じ、詳しく説明した方が良いと見たからです。

□「唐六典」とは~Wikipediaによる (正立体部は、当記事での追加)
 「唐六典」は、会典(かいてん)と呼ばれる政治書の一種で、(太古以来施行されてきた中国の)法令や典章を記録したものであり、「唐六典」は、最初の会典に当たり、唐代の中央と地方の制度の沿革を記録しています。玄宗の開元十年(722年)から編纂され、『周礼』の分類に従って、理典・教典・礼典・政典・刑典・事典の六部からなり、開元二十六年(738年)に三十巻が成立しました。

*規定確認
 「唐六典」の卷三・尚書戶部は、「倭人伝」時代(三世紀)から五世紀程後世の編纂であり、社会制度、経済事情、地域事情など、背景が大きく異なる唐律令の一環として諸貨物運送の一日の里数と運賃を規定しています。
 丁寧に言うと、「唐六典」の規定は、唐帝国の実務に供された規定であり、同時代の整備された「インフラストラクチャー」(インフラ)の上に成立していた規定でもあることは自明であり、これを、五世紀遡った三世紀の、しかも、皇帝天子の支配下を半ば外れた外国、夷蕃、辺境の倭人世界に適用するのは、無法というか、無謀というか、何重にも不合理の重なった見当違いなのですが、よく言う「俗耳」に訴えるようで、世に悪疫の如くはびこっているのです。

恐らく初めての「普通里」談義
 ここで採用されているのは、当然、国家制度として、周代以来長年に亘って運用されている「普通里」([あまね]く用する)です。
 基本的に一里三百歩(ぶ)、一歩六尺、つまり、一里千八百尺ですが、当ブログでは、概数として、切りのいい、一尺25㌢㍍、1歩150㌢㍍、即ち、1.5㍍、一里450㍍を想定していますが、あくまで、あくまで、「想定」であって、現代で言う「正確」と言うものではありません。
 何しろ、「尺」については、参照できる「原器」が配布されていたものの、450㍍に及ぶ「里」の標準は配布されていなかったし、また、里の精度については、特に追求されていなかったのです。
 実務上、数百里、数千里に及ぶ測量は、極めて困難(実際上不可能)なので、今日の感覚では大雑把と思われます。

 また、基本の「尺」が変動しても、「里」は一定と見えます。著名な拠点間の道里は、先行史書、特に、正史の「郡国志」、「地理志」などの「志」が参照する「公文書」に、恒久的に銘記されていたので、天下が継承されている限り、主要「拠点」間の道里は、一度、皇帝の確認を得て公文書に記録された公式道里であれば、不朽、不変だったのです。
 王朝が禅譲されるということは、公文書記録が、不可侵記録として、代々継承されるという事です。

 もちろん、公文書記録は生命体ではないので、記録が継承されたと言うことは、関係部局の官人が、記録文書の書庫ごと引き継がれていたものなのです。

*真面目な長談義
 具体的に言うと、例えば、「洛陽」を帝国の中枢に置いた諸王朝は、皇帝が交代し、高官が交代しても、各地の土地台帳は、そのまま継承され、それだから、皇帝が交代しても、各地から上納される「税」は、変わりなく「洛陽」に納入されたのです。いや、細かく言うと、漢代以来、各地の農民は、地区の首長に銅銭で納税していて、各地首長から順送りに支配階梯を遡って、全土各地の銅銭が「洛陽」に運ばれていただけで、別に、各地収穫の穀物が洛陽に運ばれたわけではないのです。
 いや、「関中」と尊重された京師長安も、関東、河水流域で、輸送の便に恵まれた東都洛陽も、「麦食」の食糧自給ができず、華南、長江流域からの大量の「米穀」に依存していたのですが、それは、東西の大河の流通では足りず、運河の南北槽運に依存していたのですが、それはさておき、大量の米穀の流通は、水運に依存していたため、各地の水運の納期と運賃を、全国制度として規定しなくては、帝国が成立しなかったのです。

 と言うことで、唐六典が「水行」と規定しているのは、華南の「米穀」を洛陽に運搬する「水運業」の規定だったのです。言うまでもないのですが、三世紀当時、と言うか、後世に至るまで、倭地に水行に値する河川運輸のインフラは存在せず、従って、唐六典の水行規定は、何の参考にもならないのです。
 因みに、陸行のインフラも、倭地には存在せず、何の参考にもならないのです。唐代の「米穀」陸上輸送は、当然、膨大な量なので、騾馬/驢馬を起用した荷車による輸送であり、三世紀当時、倭地には、荷車の往来できる「街道」は存在せず、また、牛馬を駆使した輸送も、存在しなかったので、何の参考にもならないのです。

 以上、概説したように、唐六典に言う「陸行」「水行」は、三世紀、倭地に存在し得ない「インフラ」を不可欠な前提にしているので、書かれている漢数字は、一切、参考にならないのです。

 因みに、倭人伝に書かれている「水行」十日、「陸行」一月の規定は、郡から倭に到る文書使の許容日数を成文化しているのであり、どのような手段を採用しているか問うものではないのです。丁寧に言うと、行程が、騎馬武官のものであるか、徒歩の飛脚のものであるか、何も求めていないので、書かれている所要日数から行程道里を問うのは、全く意味がないのです。好例は、書かれている渡海日数であり、海上に街道は存在しないので、騎馬武官の歩数を求めても無意味なのです。まさか、帯方郡の文書使は、木製の蹄板(木下駄)を履いていて、海上を疾駆したというのでもないでしょう。
 いや、当規定に関する後世東夷の解釈は、誠に放埒を極めていて、景初/正始年間の魏使の訪倭行程の報告、つまり、重荷を背負った、不慣れな一行の実績を、公式日程として集約したものとの解釈が、結構有力であり、となると、そこに、高度に機能的な「唐六典」の規定を適用するのは、誠に不合理なのですが、結構、「安直」に適用されているものと見えます。
 これぐらい絶叫すれば、たれかの耳に届くでしょうか。それとも、現代風の「ノイズキャンセラー」に雑音扱いされているのでしょうか。

 大分、余談が長引いて、目蓋の裏を眺めていた方もいたでしょうから、つまらない冗談を挟んだのですが、お目覚め頂いたでしょうか。要するに、字面だけで、論拠とする怠慢が横行しているので、警鐘を鳴らしただけですから、真面目にお怒りを頂いても、ご返事いたしかねるのです。

 なお、これは、本紀、列伝などの正史「記事」で書かれている「里」が、厳密に「公式道里」であったことを意味するものではありませんから、正史「記事」で、記事の時点の里制を検証することはできないのです。
 もともと、大抵の正史「記事」の「里」は、その際に厳密に測量したものでなく、差し支えない限り大まかな想定値なので、当てにしない方が良いのです。
 
*「公式道里」不変~「短里」制幻想の滅却
 古田武彦氏が、「度量衡」、「尺度」の体系と「里」(道里の「里」)は、連動していないと指摘されましたが、道里の「里」の「尺」に対する倍率が厳密に固定されてなかったという、言うならば「尺里非連動」提言は、一面の真実」を言い当てたと見えます。
 「度量衡」、「尺度」に関しては、秦始皇帝以来、官制の原器が各地に配布されて、それぞれ市中の商いに常用されている物差(尺)や錘、升を規正/是正/較正しましたが、「里」は、一里千八百尺の関係で、一応定義されていても、「尺」が変動するのに連動して、道里の単位である「里」が、嚴熱に規正されることはなかった(できなかった)のです。

 事情の一面だけ取り上げると、「里」には、周制を引き継いだ秦代以来、「一歩六尺」、「一里三百歩」と、一見文章定義があるように見えますが、根幹である「尺」には原器参照しか定義がないので、里」の厳格な定義はされていないに等しいのであり、従って、各地間の道里は、一度、郡国志原簿などの公文書に登記され、皇帝の上覧を得たら、「尺」の変動に関係されずに「不変」なのです。

 念のため言うと、史上言われている「尺」の変動は、たとえば、従前の九百九十尺を爾後の一千尺とするというような文章定義の「制度変更」ではないので、文書による通達はなく、新たに作成した原器の複製配布で、後は、現地実務で現物合わせするしかないのですから、これを「法改訂」とみるのは困難です。

*道里不変の原理~文明の根底
 以上の事情から、拠点間の公式道里は、太古以来、「公文書」に書き込まれていたので、「尺」の変動に連動して、換算・改定はされず、あるいは、「拠点」や蛮夷の王の居処が移動しても、「志」上の里数は維持され続けたのです。端的に言えば、「尺里非連動」 、「道里不変」と言えますが、その背景は簡単/単純ではないのです。

*舊唐書道里の謎
 一例が、「長安」~「洛陽」間の道里ですが、両地点は、太古の周代の「宗周」~「成周」以来の区間であり、宗周が、秦「咸陽」、漢「長安」と所在や名称が変わって、多少ならず天子の玉座の位置が変わっても、後世、唐で「京師」と呼ばれても、あるいは、「成周」が、後漢「洛陽」、唐「東都」などと呼ばれて、その位置も多少移動しても、道里原点としては不変であり、例えば舊唐書「地理志」でも、京師/西京~東都間は850里と古来のままに「決まっている」のです。
 重要な道里でありながら、五十里単位の概数という点で、「時代」を感じさせますが、それが「公式道里」というものです。いずれにしろ、既に登録されている「公式道里」は、不変だったので、舊唐書「地理志」に掲示されている「公式道里」は、それぞれの設定された「時代」が、うっすらとわかるのです。

*「倭人伝」道里の残照
 舊唐書「地理志」記事で、「倭国」への道里「去京師一萬四千里」は「格別」です。
 つまり、魏志「倭人伝」の公式道里「従郡至倭万二千里」が、まずは、洛陽始点道里と「誤解」されたものと見受けます。蕃王の居処までの道里は、洛陽の天子の視点であるべき」との観念が働いたものと見えます
 要するに、太古の思想が残されている「魏志倭人伝」「従郡至倭萬二千里」を、無法に時代に遡って改訂することはなく、長安「京師」から見ると、倭は「萬四千里」となると割り切っています。あえて言うなら、古来、京畿から「萬二千里」という遠絶の地のその向こうの領域は「萬四千里」と呼ぶという「格付け」が厳然と存在していたのを適用したのであり、倭人伝に書かれた「萬二千里」は、当然、東都洛陽天子起点と見ているのです。東都洛陽から、京師長安に天子の基点が変わったことを、「萬四千里」 と明示したのが、舊唐書原史料記録者の沽券とみています。明解ではないでしょうか。

 正史記事は、どのような基準に依拠しているかで、「道里」の意義が異なるので、高度な理性で解釈する必要があるのです。くれぐれも、千年、二千年後世の無教養な蛮夷の知識/見識で仕切らないことです。
 従前の諸兄姉の解釈は、時代相応の解釈という、大事な視点が欠けていたため、みすみす、底なしの誤解の淵に沈んでいるように見えるのです。

*公孫氏の無礼

 
公孫氏が、皇帝の代理として東夷を統轄する都督であれば、自身の居処、郡治を起点とする蕃夷道里を刻んでも、先例に従い許容されますが、公孫氏は、一級郡の太守として、都督気取りで、王に等しい権威を持っていたのです。
 配下に、漢武帝創設で「公式道里」を与えられていた楽浪郡を従えて「一級郡」太守気取りだったかも知れないのですが、少なくとも、帯方郡創設の画期的事跡は、洛陽に報告されていないので、洛陽から帯方郡への「公式」道里は、不明だったのです。

 「遼東郡」始点でなく、「王畿」、つまり、「天子居処」始点で「万二千里」と書いていたのかと見えるのです。公孫氏は、自ら天子気取りだったので、最後には、そのような「高貴な」言葉遣いをしていたのかも知れません。

*公孫氏の残光
 
遼東郡の公式文書類は、司馬氏によって破壊されましたが、帯方郡には遼東郡への報告に際して、太守通達の文書が回付されていて、景初初頭の皇帝直轄への移管とともに、郡志として洛陽に提出されたと見えます。

*曹魏明帝の昂揚
 公孫氏時代の帯方郡文書が、明帝の手元に届いて、「従郡至倭万二千里」の道里が、実道里として「刷り込まれてしまった」ようにも見えます。明帝は、未曾有の遠隔東夷の参上とみて、厖大な下賜物を用意して、倭人を歓待したように見えます。
 そのような明帝の意気高揚は、景初二年末の明帝病臥と景初三年元旦の明帝逝去で急速に風化しましたが、明帝遺命として魏使による下賜物送達は、実行されたものと見えます。もっとも、魏使発進時点までに「従郡至倭万二千里」が実道里でなく、所要期間が四十日程度と知れたので、魏使派遣の実務は、むしろ粛々と実行されたようです。

 以上の顛末は、景初初頭の帯方郡回収、これに応じた倭人の帯方郡参上から、正始初頭、新帝曹芳の命を承けた魏使の倭到着までの異例ずくめの経緯が、一応説明でき、また、明帝が書き立てた「熱烈対応」が、新帝に至って急速に平静化した推移が、理解しやすいとみるものです。

 特に、倭人伝道里行程記事に於いて、未曾有の「従郡至倭万二千里」を毒消しするように「都水行十日陸行一月」として、都合四十日の、実務対応可能と見える所要日数が、重ねて報告されている事情が理解できると思うのです。

*よみがえる「萬里の東夷」
 先ほどの長談義を要約してみると、そのような前代未聞の背景事情を理解してかどうか、遙か後世の唐代史官は、「倭人伝」に示された「従郡至倭」を京師/王畿(長安)遼東郡から「倭国」までの公式道里とすらすらと解して、京師/王畿たる長安基点で「萬二千里」の一つ格上の「萬四千里」と表記したと見えます。古来、「萬里」の上は「萬二千里」が辺境であり、「倭国」は、その一段外の「萬四千里」の刻みとしたと見えるのです。

*記録なき道中記
 唐代に、東夷窓口の帯方郡は最早存在せず、初期の「倭国」使節が、どのような行程で、遙か西方の京師に参上したかは不明です。
 常識的には、景初遣使と同様、對海國から渡海して狗邪韓国に接した倭館に入り、洛東江沿いに新羅道を北上して小白山地を竹嶺で越え、唐代は、道なりに東の黄海岸海港に出て、新羅の提供した船便で山東半島に渡ったものと見えます。
 帯方郡が健在の時代は、小白山地越えの後、漢江沿いに北上したと見えますが、当時、郡の管理下の街道で宿場が完備していたので、郡の指示で移動する倭人使節は、安全で、道中費用負担も無い公用扱いと見えます。因みに、帝国辺境拠点からの行程の宿所は、拠点の役人が同伴していれば、すべて無料であり、むしろ、賓客扱いで厚遇されたとされています。

 唐代になると帯方郡は存在しないので、賓客扱いは無理としても、統一新羅が唐に服従している限り、新羅道は安全であり、半島内宿所と渡船の経費は「倭国」ー「新羅」の取り決めで、無理のないものになっていたはずです。
 このような事情は、当然のものですが、あまり見かけないので、常識的な成り行きを書き残すことにしたものです。

 いずれにしろ、唐史官が、「倭」公式道里は、歴史の彼方の公孫氏が始めた、蕃夷としての格を示す「見立て」の公式道里の「伝統」を貫いたとみると、唐代に至る歴代史官の筆に一筋の光明が見えます。

 あくまで、以上の推定は、すべて「状況証拠」ですが、強固に構成された「状況証拠」は、余程堅固な「物証」で対抗しない限り、何者にも克服できないのです。一度、ゆるりと咀嚼頂いて、ご講評いただければ幸いです。

*「公式道里」と言うエレガントな解答
 今回の解答例で、公式道里が実道里の反映とみると、魏晋朝の東都洛陽/遼東郡起点の「萬二千里」と唐代京師起点の「萬四千里」の間で、数世紀の時を隔ていても、「道里」の勘定が合わないのです。一方、史官は周制を暗黙の根幹としているので、持続されていた礼制に基づく「見立て」とする解釈であれば、公式「道里」は、二千里刻みの大まかなもので実測「道里」との連係を要しないので馴染みやすいのです。

 因みに、ここで正史に「京師ー倭国萬四千里」の公式道里が公刊されたので、以後の史書はこれに拘束されるのが原則ですが、唐代には、太古以来の史官の伝統は風化していたので、保証の限りではありません、何しろ、大唐は、魏(北魏)の流れを汲む蛮夷の後裔が、江南の漢人王朝を先行する大隋が打倒した後に成立したので、伝統的な「禅譲」が成立せず、南朝の伝統は、名実共に断絶していたのです。当ブログ筆者にとって、ほぼ追随の限界の「中世」世界です。
 そして、このあたり、意味不明で粗暴な「誇張」論からは、筋の通った回答は出てこないのです。

 と言うことで、今回は、「倭人伝」考証の圏外で、頬張っても消化しきれない「道草」を啄んでしまったのです。いくら、ツメクサを噛みしめるとほんのり甘くても、ものには限度があるのです。

                                未完

新・私の本棚 「唐六典」「水行」批判と「倭人伝」解釈 三新 2/7

 初稿 2019/07/14 改訂 2020/10/19, 2021/12/27 補充 2022/09/26 2022/11/10 2023/04/08

*歩制談義~余談
 同様に、全国各地の土地台帳に書き込まれていた「歩」(ぶ)は、個別の土地に基づく「徴税」の根拠であり、土地台帳は、まずは、戸主に対して付与される「地券」証書のもとであり、全国くまなく、厖大な戸数ごとに作成されていたから、大規模な再測量、再割り当てでもしない限り、既存土地台帳の変更のしようがなかったのです。もちろん、そんなことをすれば、折角長年維持していた徴税制度が崩壊して、徴税ができなくなる可能性があるのです。(つまり、国家として破産するのです)つまり、太古以来、帝国経済の根幹は、個別の土地から生じる「税」を、漏れなく収集することにあり、根幹たる土地台帳を改編するような制度変更は、不可能だったのです。

 税収を増やしたかったら、税率を変えるのが定番であり、それ以外にも、各戸戸籍を元に、成人男子、つまり、口数に課税する「人頭税」の増税で補填すれば良いのです。もちろん、増税は、広く不評を買うので、暴動鎮圧などに関し、余程の決意が必要ですが、各戸の土地部数を水増しするのも、端的に言えば増税であり、タダでは済まないのです。

 増収手段としては、塩鉄専売の強化など種々の手口はあり、「歩」を改定して土地税制の根幹を破壊するような「無意味な」徒労に取り組む事はなかったのです。もちろん、当時の算数教育の普及状態では、全国各地の土地台帳の歩数を、定率で水増しするのは、延々と掛け算して、土地台帳を書き換える必要があり、それは到底不可能です。
 あくまでも仮定の論義ですが、そのような難事と承知の上で、「歩」の調整を行うとしても、当時、高級計算官吏にも容易でなかった「乗除」計算を伴うため、全国各地で厖大な計算実務が発生するのですから、もし、そのような国家的大事業を実施したとすれば、皇帝命令が必須、不可欠であり、完了後は、各地から報告が上程されて、総括されて記録に留められたはずです。
 つまり、明確かつ厖大な公的記録が残るのですから、当代正史魏志、晋書に、何ら明確な記録がないということは、そのような国家事業は、一切行われなかったことを歴然と証しているのです。まして、周代以来の制度を連綿と述べたと読み取れる晋書「地理志」に制度変更の記事がないということは、あり得ないのです。

*歩制改革の不可能性~余談
 「なかったことがなかった」というのを実証するのは、見かけ上至難と見えるでしょうが、当然存在すべき記録が存在しないというのは、極めて強靱な状況証拠であり、これを論破するには、「あった」ことを証する断然、確固たる証拠を提出する義務が伴うのです。なにしろ、「強靱な状況証拠」は、もっとも強固な証拠なのです。

 このあたり、「計測」に関する専門的な学問分野で、既に議論されているのでしょうが、古代史里制論義で参照されているのを見かけないので、素人がしゃしゃり出て、えらそうな口ぶりで講釈を垂れている次第です。
 つまり、魏晋朝の一時期に里制が変更となり、一「里」が、六倍程度拡張/縮小して変更されたという「仮説」は、根本的に否定されるべきものなのです。
 因みに、口ぶりがえらそうなのは、野次馬の冷やかしの混同されないために、殊更身繕いしているのであり、別に、学位も役職もないので、このような町外れで論じている次第です。当然、排他的な断言などではありません。

*「水行」の意義
 「唐六典」で言う「水行」は、『海岸を発する「渡海」』を「倭人伝」に限定的に採用した「倭人伝」語法の「水行」と異なり、古代・中世中国語の標準定義通り「河川航行」であり、翻訳には厳密な注意が必要です。当然、「倭人伝」に書かれている「道里」は、全国制度を示すものではないのです。ついでながら、太古の「禹本紀」に書かれている「水行」は、単に、「禹后」が、河川の移動手段として利用したというだけであり、後世の「水行」とは全く関係無いのです。素人受けするかも知れませんが、同じ言葉でも、時代と環境が違えば、意味も意義も、まるで違うので、引き合いに出すのはとんだ恥かきと考えるべきなのです。

 東夷伝末尾の「倭人伝」に於いて、帯方郡の管轄地域で、独特の「里」と解釈される記事があっても、当然、それは、魏の全国制度を書き換える効力を有しないのであり、むしろ、帯方郡独特の事情で、そのような「里」で道里記事が書かれた公文書が残されていたため、陳寿「魏志」倭人伝、ないしは、先行の魚豢「魏略」が「倭人伝」独特の「里」を宣言し、「倭人伝」独特の道里記事を書いたと見るのが順当でしょう。
 絶対とは言いませんが、落ち着いて、よくよく考えていただければ、これが、諸説の中で、もっとも筋の通った解釈ではないかと自負するものです。いや、わざわざこうして記事を書き上げた以上、当人としては、そうした自負を当然確立しているのですが、世の中には、反発心を論争の主食としている方も少なくないので、ちょっとだけ外しているのです。くわばら、くわばら。

 そして、陳寿が慎重に書き上げた「倭人伝」「道里記事」が、筋の通ったものであったことから、「読者」は非難を浴びせていないのです。それに対して、後世の東夷が異議を浴びせるのは、傲岸不遜、不勉強ものの愚行です。

 「唐六典」の規定は、基本的に大河の上下(溯/沿流)で、「河」は河水、黄河、「江」は江水、長江(揚子江)です。「余水」は、それ以外の淮河などの「中小」河川でしょうが、「水」と銘記された以上は、水量はほぼ通年してタップリして一定で、喫水の深い、積載量の厖大な川舟も航行できるのです。
 規定外河川は、当然、規定外なので、全て不明ですが、要するに、規定するに足る輸送量が存在しないはしたで、規定におよばなかったのです。唐代、朝鮮半島は唐の領域外なので、当然、「唐六典」の適用外ですから、漢江や洛東江の事情がどうであったか、知るすべはないのです。

                                未完

新・私の本棚 「唐六典」「水行」批判と「倭人伝」解釈 三新 3/7

 初稿 2019/07/14 改訂 2020/10/19, 2021/12/27 補充 2022/09/26 2022/11/10 2023/04/08

*「水行」の前提
 水運が行われている河川には、諸処に川港があり、荷船は荷の積み下ろしをしながら川を上下し、荒天時は、随時寄港・退避します。
 「水行」では、大船を擁した地域ごとの業者組合(幇 ぱん)が強力です。日々の船舶運行予定が十分徹底されて、事故や紛争を防いでいたのです。条件ごとに運送料が規定されていて、槽運は船腹と船員を確保し、船荷安全と日程を保証し、船荷補償や遅延償金を請け負ったはずです。
 要するに、細目が規定された「公道」であり、「水道」を避けて「水行」と定義し、「おか」である「平地」つまり「陸」を行く「陸道」も「陸行」と定義したのです。もちろん、用語は、唐代になってにわかに制定したものでなく、古代、恐らく、秦漢代から維持されていたものと見えます。

*規定の起源

 そのように、「唐六典」の規定は、中原帝国の血流にあたるものであり、早ければ周代から運用されていた政府規定が、唐代に至りここに集約されたと見えます。王朝の変転を越えて、数世紀にわたって運用されていたはずです。

*規定外の辺境事情

 五世紀遡った未開の倭は、中国の圏外であり規定はなかったのです。
 後に、統一新羅となった韓国は、帯方郡管内時代、南北漢江と嶺東の洛東江が候補ですが、郡が水運を統御したという文献は見当たりません。
 もちろん、南漢江から洛東江に通じたわけはなく、特に、南漢江上流は、渓谷に嵌入蛇行の急流で航行できないのです。南漢江船便は、早々に陸送に転じて、小白山地の鞍部「竹嶺」を人馬で越えたと見ます。因みに、この経路は、弁辰鉄山の産鉄輸送に実用されたと見えます。

 以上は、現地を実地確認した上での見解ではないのですが、着実に考察すれば、実見に等しいのです。

*「水行」規定と「海運」の無関係
 この唐六典規定を、規定のない「海運」に当てはめるのは無謀です
 数字には前提があり、無造作に流用すると大きな間違いを引き起こします。推定するに、大型の帆船を多用して安定した運行が可能な江水水運と、干満などにより、寄港ごとに中断される沿岸航行は全く異質です。

 まして、三世紀の東夷の地では、高度な造船業と運用が必要な帆船が得られず、手漕ぎ船に頼らざるを得ないと見られる半島多島海では、水運業者は成立しなかったと見えます。少なくとも、記録に残っていません。何しろ、帆船の前提である。麻の帆布や麻縄が潤沢に手に入らなくでは、帆船航行事業は成立しないのです。
 倭地で、漕ぎ船が想定されているのは、理由があってのことなのです。
 因みに、大型の帆船で、帆布や麻縄の手に入らない漕ぎ船海域に乗り入れるのは、難船で帆を喪ったときに、帆を再構築できないので、生還を期せない無謀な航海になります。まして、漕ぎ船海域の水先案内人は、帆船の操舵機能の限界を知らず、また、推進の限界も知らないので、とても、指示通りに侵入できないのです。言うまでもなく、大型の帆船が存在しない海域では、万一の難船の際に、代替の船腹は、いくら金銭を積んでも手に入らないので、生還できないのです。

*倭人伝「水行」記事の独自性
 「倭人伝」に書かれている狗邪韓~対海~一大~末羅の区間は、それぞれが一千里と里数が明示され、三度の渡海は、乗り継ぎなどの予備日を設定して都合水行十日と明記されています。いや、一字一句明記されていなくても、明快に示唆されていれば、明記に等しいのです。

 「倭人伝」の「水行」は海船による渡海であり、「唐六典」に見られる河川水運の長期間の「水行」と別です。半島に河川交通の記録はないのですが、辺境なので丁寧に説いたようです。史官は、宮廷調理人「庖丁」のように読者にあわせて「味加減」したのです。

 陳寿は、「倭人伝」道里行程記事に「唐六典」相当の「水行」規定を配慮したからこそ、正史外「水行」が、大河の槽運と混同されないように明記したと見えます。

 但し、正史道里は、悉く、当然、自明で、「陸上街道」「陸道」であり、従って、郡から倭に至る行程は、書かずとも、論証不要、自明の「陸道」ですから、道里記事の冒頭に「陸行」の断りはないのです。

 そして、道中三度の渡海は、日数計上するので、他の区間と区別するために、便宜上、渡海を「水行」と呼ぶと、倭人伝限定の例外用語を明記したのであり、対岸に渡った末羅国で上陸した本来の「陸道」を、言わずもがなの「陸行」と明記しただけです。このあたり、史官の厳格な「規律」に従ったものであり、史官「規律」の存在すら察することのできない後世東夷は沈黙すべきです。

 このあたり、中国で太古以来成立していた諸制度の例外規定として、無理なく沿わせる工夫であり、史官の苦渋の選択を、ゆるりとご理解いただきたいものです。それにしても、「例外」と明記した「例外」に、先例を要求するのは道理を知らないものにしかできない、法外な無理難題であり、くれぐれもご容赦頂きたい。

                                未完

新・私の本棚 「唐六典」「水行」批判と「倭人伝」解釈 三新 4/7

  初稿 2019/07/14 改訂 2020/10/19, 2021/12/27 補充 2022/09/27 2022/11/10 2023/04/08

*「唐六典」趣旨
 当規定は、唐朝が、軍用物資や税庸の輸送に際して、遅延を防止し、運賃高騰を抑え、一定とするために、一日行程と貨物種別の運賃基準を公布したものです。このような大規模な統制は、中原大国の「物流」の骨格ですが、この全国統制は、唐代に開始したものではなく、遅くとも漢代に確立され、以後、歴代王朝が維持してきた制度をここで総括したものです。また、漢代制度化の専売塩輸送も担当してきたでしょう。
 いや、一説によれば、専売制度は、漢武帝が、匈奴制圧のための軍費が、国庫を枯渇させかけたため、それまで、帝室が私用に当てていた専売塩収入を、国庫に移管したものと見えます。つまり、秦代にも、塩専売は行われていたが、帝室の私的な収入であったので、正史に書かれていなかった可能性があるということのようです。

*細目確認
 時代用語で言う「小舡」は、軽便小型帆船であり、時に、不審な「ジャンク」とされていて、随分古くから沿岸や川筋を帆走したとしても、ここに規定されているような、大型川船が、ほぼひっきりなしにに往来するような大河の「水行」による大量輸送には不向きで、里数、運賃の統制外となっていたと思われます。
 川船の海船転用は、安全面も関係して、困難(不可能)です。

 ちなみに、これら大河中下流には、遙か、遙か二十世紀に到る後世にも橋掛ができなかったので、南北「陸行」は、所定の渡し場、津(しん)から渡船渡河しました。もっとも、いくら大河でも、陸行日数や里程には計上しなかったものです。
 ちなみにの二乗ですが、近代的な大都市が、大河や入り江の両岸に分かれて展開していて、両岸の連絡が渡船に頼ったのは、現代になっても、各地に残っていて、オーストラリアのシドニーは、深く入り江に分断されていて、架橋が困難であったため、渡船(フェリー)交通が残っています。

時代確認
 ここで復習すると、ここで、「唐六典」規定と対比しているのは、三世紀、しかも、中原世界では無く、中華文明域外である「外国」、魏志「倭人伝」の世界、つまり、朝鮮半島とその南方の九州北部の話であり、併せて、その間、海峡を三度の渡海船で越える破格の行程も含めています。
 と言う事で、倭人伝」の視点からすると、書かれている里数や運賃の数字は、別世界のもので参考にならないのです。時代の違いだけなら、三世紀を推定することもできそうなのですが、地域事情/インフラが違うため、まるで参考にならないのです。この点、よくよく確認いただきたいものです。

 「唐六典」は、八世紀、奈良時代で、後期の遣唐使が荒れ狂う東シナ海を大型の帆船で越えて、寧波などの海港に乗り付けて上陸、入国し、官道を経て唐都長安に参上した時代ですから、まさしく隔世の感があります。
 何しろ、後期遣唐使は、目的地を外して漂着するのはざらであり、難破して着けなかった事も珍しくないのです。遡って、初期遣唐使は「新羅道」とされている内陸街道を移動した上で、最後、古来渡船が活発に往来していた半島西岸から山東半島への渡海など平穏な行程を利用し、海上移動は、せいぜい二日間程度の極めて短期間で、したがって、荒天も避けられたので、随分、随分危険が少なかったのです。何しろ、黄海は、内海も同然で、ほとんど、難船、漂流などの危険はなかったのです。まして、この区間は、帆船が早期に導入されていたので、少数の漕ぎ手がね入出港の際の操舵の役で起用されるだけであり、手軽に運用できたのです。

 安全極まりない「新羅道」を利用できなくなったのは、恐らく、百済支援で新羅を敵に回した事が、長年、切れそうで切れなかった両国の関係を、決定的に決裂させたのでしょうが、まことに、もったいない話です。この部分、一部、蒸し返しになりましたが、念のため書き留めます。

 それは、さておき、そんな風聞の聞こえる「唐六典」時代の「日本」の「水行」事情は、奈良時代の国内資料を見なければ、よくわからないのですが、「倭人伝」専攻の立場では、五世紀後の資料の考察は手に余るので、ご辞退したいのです。

                                未完

新・私の本棚 「唐六典」「水行」批判と「倭人伝」解釈 三新 5/7 資料編

 初稿 2019/07/14 改訂 2020/10/19, 2021/12/27 補充2022/09/26 2022/11/10 2023/04/08

◯資料編
▢唐六典 卷三·尚書戶部 中国哲学書電子化計劃データベース引用
(前略)物之固者與地之遠者以供軍,謂支納邊軍及諸都督、都護府。
 皆料其遠近、時月、眾寡、好惡,而統其務焉。
 凡陸行之程: 馬日七十里,步及驢五十里,車三十里。
  水行之程:
   舟之重者,溯河日三十里,江四十里,餘水四十五里,
   空舟   溯河 四十里,江五十里,餘水六十里。
 沿流之舟則輕重同制,
      河日一百五十里,江一百里,餘水七十里。
(中略)河南、河北、河東、關內等四道諸州運租、庸、雜物等腳,
  每馱一百斤,一百里一百文,山阪慮一百二十文;
  車載一千斤    九百文。
 黃河及洛水河,並從幽州運至平州,上水,十六文,下,六文。
              餘水,上 ,十五文;下,五文。
           從澧,荊等州至楊州,四文。
 其山阪險難、驢少虛,不得過一百五十文;
 平易慮,不得下八十文。其有人負處,兩人分一馱。
 其用小舡處,並運向播、黔等州及涉海,各任本州量定。

 ちなみに、「步及驢」の「歩」は、農地測量に起用される一歩(ぶ)即ち六尺(1.5㍍)などでは無く、痩せ馬、つまり、人夫の荷運びと言う輸送手段を言います。車(荷車)の里数が少ないのは、荷車自体が、大変重いためでしょう。登り坂になると、荷車の負荷が途端に大きくなるためでしょう。実務上は、後押しを入れて乗り切ったのでしょうが、後押しは、タダではないのです。

 「驢」(ろば)を規定しているのは、荷役に、主として驢馬を起用していた事を示しています。馬は、「獰猛」で荷役に適さず、また、騎馬疾駆の軍用に大変貴重であることから、荷役に、あまり向いていなかったので、専ら、従順な「驢」を利用したのです。
 このあたり、牛馬すら、満足にいなかった三世紀の倭地の東夷では、思い至らなかったでしょうが。

 「駄」、つまり本物の荷役馬(荷駄馬)、「驢」の荷は、二人で分けたようです。
 そうそう、空船の回送にも里数規定があったのです。

 と言う事で、全国一律というものの、「小舡」の利用や「渉海」(短い渡海)も含め、地域事情に応じた調整は、例外が許容されていたのです。
 何しろ、全国制度から見たら「はしたのはした」ですから、目こぼししたのです。何しろ、ほぼ全ての「河川」は、橋が架かっていなかったので、渡し舟は、当然、必要不可欠だったのですが、「はした」なので道里、つまり、行程里数に数えなかったのです。

                                未完

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