倭人伝新考察

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2024年4月20日 (土)

新・私の本棚 新版[古代の日本]➀古代史総論 大庭 脩 1/2 再掲

7 邪馬台国論 中国史からの視点 角川書店 1993年4月
 私の見方 ★★★★★ 「古代の日本」に曙光   2024/01/11, 04/20,05/24, 05/30

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

□はじめに
 大庭脩氏の論考は、的確な教養を有し、中国史書視点によっているが、国内史学界の潮流に流されて、氏の教養豊かな麗筆を撓めて、外交辞令に陥る例が散見され残念である。

□中国文献から見た「魏志倭人伝」~「魏志」考察
*「三国志」の版本
 氏は、写本論義を避け、話題を北宋咸平年間に帝詔により校勘、厳密な校訂が行われた「北宋刊本刊行時点以降」に集中/専念している。その際、三国志の正史テキストが統一され、それが、後年、紹興/紹熙本なる南宋刊本において復元され、今日まで継承されているのだが、それでは、史学界の飯の種である「誤記説」絶滅が危惧されるので救済を図ったと見え、「一方、厳密な校訂が行われたとしても、その判断は当時の知見の限度においてなされたものであり、刻工の作業段階で起こるケアレス・ミスの可能性を完全に否定する論理はあり得ない。」とあるが、論理錯綜で氏の苦渋がにじんでいる。

 陳寿遺稿の「三国志」原本が、西晋皇帝に上申され、皇帝蔵書として嘉納されて以来、言わば、「国宝」として最善/至高の努力で継承された史料の後生権威者集団による最善を尽くした校勘も、「三国志」原本の「完璧」な再現ではないのは当然であるが、氏は、写本継承の厳正さに触れることを避け、北宋時の刊本工程に飛び、「校勘されたテキストが一字の誤りも無しに刻本されたとは言えない」と迂遠である。

 以下2項は、大庭氏の論考に対する異議ではなく、氏の見解に触発された所見であるので、「余談」として、意識の片隅に留めて頂ければ、望外の幸甚である。

*乱世の眩惑 ~私見 余談 2024/05/30
 二千年にわたる「三国志」原本継承の怪しいのは、先ずは、南朝側から北朝側への流入であり、特に顕著なのは、南朝滅亡時の北朝への写本献上である。南朝最後の「陳」は、先行する「梁」の威勢の順当な継承でなく、まずは、半世紀に及んだ梁武帝の雄大な治世下、北朝側から侵入した侯景の建康長期包囲により、帝国の統治が瓦解した時代があり、「梁」の滅亡後、北朝の干渉により、「梁」の中核部を維持した「陳」と周辺地域を支配した「後梁」に分裂した乱世が、北朝を統一した「隋」の征服で決着したものである。陳後主が降伏時に「三国志」原本を隋皇帝に献上したかどうか不明である。何しろ北朝天子である「隋」は、建康に屯(たむろ)していた賊子を撲滅したのだから、「陳」の蔵書をいかに収納したかは、不明なのである。
 「隋」の北朝統一に前だって、北朝東方で古来の雒陽を占拠していた「北齊」は、中原天子を自負して、正史を含む古典書を集成し、後の「太平御覧」の先駆になる巨大類書を編纂したとされているから、史書集成は着々と進んだとも見える。但し、北朝の西方の「北周」は、古来の「長安」を根拠に、太古の周制の復古を目論むとともに、前世蜀漢の旧地を南朝から奪って、三国鼎立の形勢を得ていたが、西域を確保した上に「中國」の大半を支配していたので、鼎立の覇者を自負していて司馬遷「史記」、班固「漢書」、陳寿「三国志」の「三史」の確保を進めたかもしれない。
 要するに、挙国一致体制で組織的に行われた北宋刊本、南宋復刊の大事業のアラ探しをするより、暗黒時代とは言わないが、数世紀に及ぶ乱世を考慮するのが賢明である。

*笵曄「後漢書」雑考 ~私見 余談 2024/05/30
 なお、この乱世に於いて、笵曄「後漢書」が、いかにして継承されたか、滅多に論じられないので、不審である。
 笵曄は、「西晋が北方異民族の侵攻破壊で滅亡し、辛うじて、南方の建康で再興した東晋」の後継、劉宋の重臣であり、皇帝蔵書として継承した「三史」に対して、後漢代史書が不完全であるのに着目し、「三史」と並ぶ史書とすべく「後漢書」編纂に従事したものである。但し、すでに、班固「漢書」に続く「後漢書」の根拠となる雒陽公文書は散逸していたので、先行諸家後漢書を換骨奪胎して本紀、列伝部分を集成したものの、西域伝、東夷伝の集成には不備が多く、魏代に後漢代以来の記事を整えた魚豢「魏略」を起用したものとみえる。なかでも、後漢末期の桓霊帝及び三国鼎立期に入る献帝期の東夷記録、なかんずく新参の「倭条」の欠落は補填しがたかったので、陳寿「三国志」魏志「倭人伝」を加工して、後漢書の担当である後漢霊帝期にずらし込んだと見える。そのように造作された笵曄「後漢書」東夷列伝「倭条」は、世上、「偽書」とされかねないと見えるが、世上「偽書」論義は見られない。
 何しろ、偽書を根拠とする後世史書、類書の「倭」記事は、自動的に虚構となり、余りに多大な、破壊的な結果をもたらすので、明言できないものと見える。
 そうした不吉な由来はともかく、史官ならぬ文筆家であり、劉宋高官であった笵曄は、劉宋内部の紛争に連坐して斬首の刑に処せられ、嫡子も連坐したので、笵曄の家は断絶したのである。つまり、笵曄「後漢書」の完成稿は遺せず、まして、重罪人の著作は、劉宋皇帝に上程されることはなかったのである。
 南北朝の南朝側で、非公式な後漢書として継承されていた状況は不明であるが、南朝皇帝蔵書として堅持された陳寿「三国志」すら、写本継承の瑕瑾を論じられるのであるから、『笵曄「後漢書」原本を確定し、なかでも、素性・由来の疑わしい東夷列伝「倭条」の画定を図るのは、多大な論考が必要』と思われるが、寡聞にして、例を見ない。

*閑話休題
 北宋代の刊本は、東晋以降の南朝が保持していた原本と各地の蔵書家の所持していた善本の集成により、北宋が唐代文物を結集した 組織的に行われた刻本であるから、「刻工無謬」であろうとなかろうと校勘稿と試し刷りを照合する「最終校正」により逐一是正されるから、刻本行程で発生する「誤刻」は、実質上皆無と見て良い。「可能性を完全に否定する論理はあり得ない」の「二重否定」で、希有な事象を露呈させ、本筋から目を逸らさせているのではないかと危惧する。
 まして、意味不明の「ヒューマンエラー」で、善良な読者を「眩惑」して、私見を押しつけるのは「迷惑」以外の何物でもない。

*最後の難所~南宋刊本復刻~私見
 氏は、あえて論じていないと見えるが、ここで、刊本の正確さを論じる際に不可欠なのは、北宋刊本から南宋二刊本への継承であり、南宋創業期に二度、校勘刻本された紹興本、紹熙本の微妙な事情/実態を考証する必要がある。

 尾崎康氏の労作「正史宋元版の研究」で確認できるが、北宋末の金軍南進「文化」全面破壊で、国書刊本は版木諸共全壊し、南宋刊本は、損壊を免れた上質写本に基づいて復元を図ったが、最善を尽くしたとは言え、上質写本でも不可避な疎漏があったと見える。

 そのため、四書五経をはじめとする厖大な古典書籍の大挙復刻という一大挙国一致事業に於いて、陳寿「三国志」南宋刊本が、第一次として「紹興本」として復刊されたといえども、(わずか)数十年を経て、より上質な写本から再度「紹熙本」を刻本したとされている。つまり、南宋校勘の最終成果を示す意図での再刻本と見え、尾崎氏は「紹熙本」の称揚を避けざるを得ないので、明言はしていないが、氏の筆の運びからそのように見える。示唆の深意が容易に想到できるのは、明言に等しいのである。

 大庭氏の口吻は微妙で、漠たる一般論に転じて「写本ならば、その一本限り」の謬りとしたが、中国に於いて、帝室蔵書として厳格に継承された写本といえども、一度、いわば、「レプリカ」として世に出れば、最早、最善写本と言えなくなり、以後、在来写本は、順次在来継代写本になり、子が孫を生んで下方/市井に継承され、謬りは、順当に継承/蓄積され、しばしば増殖していく行くことは、世上常識であるから、氏の述解は、素人目にも的外れの難詰である。
 結論として、史料の正確さは、写本継承工程では、個々の写本の厳密さの積層/累積に依存し、固有の、自明の限界を有していたのであり、国内史学界の風潮に馴染んで、「公的校勘、写本を受けられず、写本者の個人的偉業に依存して、散発的に継承され、写本毎に個性を募らせている」国内独自事情の秘伝「写本」継承を、厳格に管理された「三国志」南宋刊本を超えて尊重するのは、誠に度しがたい本末転倒である。

〇卑弥呼の時代の東アジア~「水上交通」論への異議
 続いて、氏は、渤海湾水上交通」なる現代概念を投影しているが、氏ほどの顕学にして、「水」が河川との古典用語常識から乖離して不用意である。同時代用語がないので仕方ないが、せめて「海上交通」として、とにかく、読者の誤解を招く用語乱用は避けねばならない。「水」は、あくまで真水(clear water)である。塩水(salt water)かどうかは、口に含めば子供でもわかる。
 また、氏は、慧眼により、的確に、青州・山東半島を要(かなめ)として、遼東半島に加えて、朝鮮半島中部「長山串」との三角形の交通』を論じているが、少々異を唱えざるを得ない。両交通の要点は、短時日の軽快な渡船であり、陸上交通のつなぎである。但し、三世紀当時、帯方郡管内は、未だ「荒れ地」であったから、「長山串」交通は、言うに足る商材が無く、「海市」は閑散が想定される。いや、近隣のものが野菜や魚(ひもの)を売り買いするのは、自然のことであるが、隣村まで野菜、魚を売りに行くのは、商売にならないことが、太古以来知られている。

*瀬戸内海海上交通論

 例示されている瀬戸内海であるが、芸予・備讃島嶼部は、南北海上交通が、渡し舟同様の小船で往来可能と見えても、東西の多島海海上交通は実行困難(持続不可能)な難業であり、また、中央部は「瀬戸」でなく、島嶼のない「燧灘」(ひうちなだ)なる「大海」(塩水湖)「瀚海」(塩水の大河)で南北に懸隔されていて軽快な渡船では渡りきれないとみえ、要するに一口で言えない。氏の東西交通に集中した地理観は、後世的/巨視的であり、三世紀当時の世相から隔絶しているように見える。

                                未完

新・私の本棚 新版[古代の日本]➀古代史総論 大庭 脩 2/2 再掲

7 邪馬台国論 中国史からの視点 角川書店 1993年4月
 私の見方 ★★★★★ 「古代の日本」に曙光  2024/01/11, 04/20,05/24

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

*海上の行程
 して見ると、氏が「渤海湾」行路と見ているのは、実は、「黄海二行路」であって、いわば、海上の「橋」と見た方が時代/地域相応の見方と思われる。いや、両行路は、三世紀時点では、便船の規模、頻度に相当の差があったはずであるから、実用的には、遼東青州行路が独占していたと見えるのである。
 後世唐代には、二行路が並び立ったようであり、円仁「入唐求法巡礼行記」によれば、青州に「高句麗館」と「新羅館」が繁栄を競っていたとされているが、あくまで隔世譚である。三世紀、新羅、百済は、萌芽に過ぎず、行路と言うに足る往来はなかったと推定される。
 つまり、遼東から青州に至る「黄海海上行程」は、始点~終点に加え途上停泊地、全所要日数も決定し、並行「陸道」(陸上街道)が存在しない「海道」であったと見える。但し、公式道里ではないから、正史の郡国志、地理志などには書かれていないのである。
 と言うことで、そのような行程が、常用/公認されていても、公式道里に採用されていないから、陳寿は、いきなり「倭人伝問題」に使用して、高官有司から成る権威ある読者を「騙し討ち」することはできなかったである。精々、事前に、伏線/用語定義して、読者を納得させる必要があったのである。
 魏の領域で街道の一部が海上行程に委ねられた先例があったとしても、沿岸行程には、必ず並行陸路が存在するから、あてにならない、ひねもす模様見では、公式道里として計上されないので、ここではあてにできないのである。

□「倭人伝」水行の起源~余談
 かくして、陳寿は、現地運用の「渡海」を参考に「倭人伝」道里行程記事の用語を展開したのである。
 つまり、陳寿は、苦吟の挙げ句、海岸を循(盾)にして対岸に進む「海道」行程を、史書例のある「水行」に擬し、海岸沿いでなく「海岸を循にして進む渡海行程を、この場限りで「水行」と言う」と道里行程記事の冒頭で定義し、混迷を回避しているのである。
 深入りしないが、そのように陳寿の深意を仮定/理解すれば、当然、「倭人伝」道里行程記事の混迷が解消するはずである。
 言うまでもないが、当方が二千年前の史官の深意を理解して道里行程記事の混迷が解消する「エレガント」な解を創案した/見通した』と自慢しているのでは無い。あくまで「れば・たら」である。

□『「邪馬台国」はなかった』の最初の躓き石~余談
 古田武彦氏は、第一書『「邪馬台国」はなかった』 (1971)に於いて、当該記事を漢江河口部の泥濘を避ける迂回行程の「水行」と解釈し、以下、再上陸し半島内を陸行する行程と見たが、帯方郡を発し一路南下すべき文書使が、さほどの旅程がないとしても、迂遠で危険な行程を辿る解釈は、途方もなく不合理で、論外である。おそらく、古田氏が、海辺に親しんだ「うみの子」であったために、抵抗なく取り組んだものと思われるが、「倭人伝」の読者は、大半が、海を知らない、金槌の中原人であり、帯方郡から狗邪韓国までは、整備された街道を馬上で、あるいは、馬車で日々宿場で休みながら、一路移動すれば良いのであり、安全、安心な陸路があるのに、命がけ/必死の「水行」など、ありえないのである。

 冷徹な眼で見れば、古田氏ほどの怜悧な/論理的な論客が、第一書の核心部で、迂遠な辻褄合わせ、ボロ隠しを露呈しているのは感心しないが、在野の研究者として孤高の境地にあったことを考慮すれば、論理を先鋭化するためには無理からぬ事と思われ、また、一度、確固として論証を構築したら、後続論考で姑息な逃げ口上を付け足さなかったのは、私見では、むしろ、首尾一貫/頑固一徹と思われる。

*「景初遣使」談義
 続く遼東郡太守公孫氏の興亡記事はありがたい。但し、「倭人伝」に厳然として継承されている「景初二年」の記事を、後世改変に乗じ、留明確な論証無しに「景初三年」と改竄するのは感心しない。

 氏は、司馬懿による遼東平定の「傍ら」、楽浪・帯方両郡が魏の支配下に入ったとしつつ、さしたる根拠もないのに、三年説の「蓋然性」が高いと見るが、原文を尊重すべき二年説を「可能性」と評価を一段押し下げた挙げ句、両説を偏頗に評価しているが、誠に趣旨が不明である。つまり、史料を否定するに足るべき論証が不調であり、いわば、学術論者として醜態をさらしている。
 氏の筆致は、言葉を選んで暴論を避けているが、だからといって、「偏頗」の誹りを逃れることは、大変困難と見える。
 氏の書法で言うと、『「二年説が三年説より信頼性が高い」可能性を完全に否定する論理はあり得ない』と思われ、とんだ躓き石で足を取られている。

◯「親魏倭王」などのもつ意味
 正史「三国志」で、蛮夷称揚の例として、二例が際立つとみえるため、東夷「倭」と西戎「大月氏」の二事例を並列させる論があるが、氏によれば、史書の事例で、漢魏晋の四夷処遇では、鴻臚において『「親」(漢魏晋)某国「王」」の詔書/印綬を下賜したと指摘している。
 同様に、氏の指摘とは別に、後漢代、辺境守護に参上した蕃王一行を雒陽で歓待し、一行全てに余さず印綬を与えた記録がある。ただし、そのような漢蕃関係事例の大半は、陳腐として本紀/列伝から省略されていると見える。さらに、氏は、賢明にも、壹與遣晋使の魏印綬返納、親晋倭王綬受を示唆している。同記事が、本紀/列伝から省略されているのは、当然の儀礼だからである。
 氏も示唆しているように、晋の天子が「親魏倭王」印を放置することがないからである。

◯中郎将、校尉
 難升米、掖邪狗などに与えられた称号は、魏制になく、蕃王高官に相応しい前提である。官制官位には俸給、格式が伴うから、蛮夷には付与されないのである。
 また、新参の際に「自称」したと明記されている「大夫」は、官制のものであり、当然、蛮夷のものには許されないのだが、蛮夷の無知を示すものとして、自称したのを鴻臚が記録しているのである。正史四年の遣使では、依然「大夫掖邪狗」とあったものが、壹與の遣使に於いて、「倭大夫率善中郎將掖邪狗」と改善されているが、むしろ至当である。
 余談であるが、このように厳重な訓戒・指導を受けていながら、後年、書紀推古紀の大唐(実際は、隋)使裴世清来訪記事に於いて、「鴻臚寺掌客裴世淸等」の応対役として「掌客」を新設したと正式に記録されているのは、何とも、つまらない/重大な失態である。

*「一大率」異聞~私見
 氏は、蛮夷官名に関して、「率善」が、官制に無い蛮夷のものと明言されているが、至当である。念のため言い置くと、蛮夷の者が、官制の官名をいただくことはあり得ないのであり、それ故、後の事例では、「倭」を前置する是正を行ったものと見える。
 私見では、倭の蛮夷官位である「倭大夫率善中郎將」が転じて縮約され、「一(倭)大率」となったと見える。もちろん、単なる思いつきである。

□一点総括~「病膏肓」~つけるクスリが無い
 大庭氏は、『「倭人伝」テキストを気ままに改編して論じる安易な風潮』に釘を刺すが、かかる風潮は、通説論者の「病膏肓」で「馬耳東風」、苦言には、一切耳を貸さないと見える。「糠に釘である」。半世紀以上経っても、一向に是正が見られないのであるから、これは、最早癒やしうる病ではないようである。
 「病でない」となると、つけるクスリが無いのである。

                                以上

2024年2月 7日 (水)

倭人伝随想 9 晋書地理志に周朝短里を探る 結論 1/9 更新

               2018/10/26  2018/12/26 修正 2020/11/08 2022/06/01 2024/02/07

◯更新の弁
 当ブログも、発足以来日時を経ていて、各記事も、初稿以来、更新を重ねているものも、少数ながら存在する。但し、件数、頁数がかなり多いので、更新の手が行き届かないものも、少なくない。そこで、最近務めているのが、一般読者の方から閲覧が入ったものは、積極的に内容を見直して、改訂するという事である。
 但し、それが、字句修正や書き足しならともかく、論旨が大きく変わったものは、暫し考えたあげく、打ち消し線で削除して、以下、新規書き足すことになるのである。結構見苦しいのだが、当方は、意見が変わったことを隠す意思はないので、そのような改訂/更新もある。
 本項で言えば、当初、古田武彦師の「魏志短里説」擁護/批判/否定を辿って、現在の「倭人伝」二重記事説に至るまで、何度か意見の基調が替わっているので、ここは、恥を曝すのを覚悟で、極力、旧稿保存に努めたものである。ということで、読みにくい記事となっている点をお詫びするものである。
 端的に略記すると、当初、「倭人伝」道里記事は、「短里」で書かれているとする意見であったが、それが、「三国志短里」でも、「魏晋朝短里」でもないところから始まって、「倭人伝短里」との主張に一度立ち止まったが、現時点では、「倭人伝」道里記事は、倭人初見の際に書かれた「全行程万二千里」という決め込みで書かれていて、それが、「倭人伝」記事策定の際に、「皇帝承認記事は改訂できない」という制約に束縛された史官が、明らかに実態に即していない道里を温存せざるを得なかったことから、これを公式道里として記載し、実務の必須事項である総括「都所要日数」を記載するという、現在も伝わる道里記事になったと言うことを示したのである。
 そのような記事校正は、一種の「難問」として提示されているが、「難問には、必ず解答がある」のであり、読者は、それを解決することを予定されているのである。
 本講読者諸兄姉は、それぞれ、「難問」に対する解答をお持ちであろうが、本稿をはじめとする当ブログの「解答」を理解いただければ幸いである。

◯始めに
 本項の目的は、引き続き、「倭人伝」里制の妥当性を確認するものです。
 まず、当ブログ著者は、本記事初出の段階(2018/10/26)では、『「倭人伝」里数は、「短里」のものであり、これは、現地、つまり、帯方郡領域で実施されていた「里制」の忠実な反映である』と見ました。主たる論拠は、「倭人伝」冒頭で、帯方郡から狗邪韓国までの、帯方郡にとって既知の里程が、七千里と宣言されているということです。そのため、全体に「地域短里」、「倭人伝短里」の見方で進めています。

*「誇張」・「虚偽」説
 これに対して、倭人伝里数が、悉く「誇張」・「虚偽」と見る説は、総じて根拠のない憶測であり、正史に明記された記事を否定する力を持たないものです。そのような説自体「作業仮説」にもならない、単なる子供じみた思いつきであり、非科学的な「誇張」・「虚偽」と見えます。
 例外的に趣旨明解な松本清張氏の主張の批判は別記事です。

◯方針説明
 当記事は、魏志「倭人伝」の時代を含む歴史的な地理情報を網羅した晋書「地理志」の内容を検討し、里制に関する判断資料とするものです。
 もっとも、晋書「地理志」にも、晋書「倭人伝」にも、「倭人」領域に関する行程道里記事が無いので、「倭人」領域で短里が実施されていたことを証する記事はありません。

◯晋書紹介
 晋書は、魏志「倭人伝」の編纂された司馬晋の時代の中国王朝です。時に、その前半を特定して「西晋」と呼ばれますが、当時は、自分たちの時代が早々に幕引きになって、天子が北方異民族の虜囚になって処刑された亡国に至って、辛うじて南方で再建され「東晋」と呼ばれた後世王朝と区別するために「西晋」と呼ばれるなどとは「夢にも」思っていなかったことは言うまでもありません。

*古代の晋(春秋)
 ちなみに、「晋」は、中国古代の周王によって中原北方に封建された周代の一大国でしたが、春秋時代末期に王権が衰え重臣に権力を奪われて飾り物になった挙げ句、重臣間の抗争を歴て生き残った趙、魏、韓の三家が、遂に晋王を放逐、それぞれの姓によった趙、魏、韓の三国に分割したのです。
 晋王が、臣下に放逐されたのは画期的な大事件であり、諸国を束ねた東周の権威が失われ、各国がむき出しの抗争を行う戦国時代に移ったとされます。晋王は周の創業以来の大黒柱であり、臣下による追放から保護できなかった上に、三国から大枚の贈答を受けて不法事態を承認したから、周王に権威がない事を天下に知らせたことになるのです。以後、時代は、統一権威の存在しない「戦国時代」に移行したと見られています。

*司馬晋登場
 ともあれ、この時代の晋の創業者司馬氏は、つい先年の曹操、曹丕の天下把握の手口そのままに、曹魏皇帝から天子の権威を譲り受けるについては、先ずは、古代の晋の旧地を所領とする異姓の「晋王」に任命され、続いて、曹魏皇帝から国の譲りを受けるという「禅譲」により、魏朝を廃し、皇帝として晋朝を拓いたのです。こでは、古代とは逆に「魏」から「晋」に権力が移行したことになります。

                               未完

倭人伝随想 9 晋書地理志に周朝短里を探る 結論 2/9 更新

                2018/10/26  2018/12/26 修正 2020/11/08 2022/06/01 2024/02/06

*太平の崩壊招く愚策~司馬晋の自滅
 と言うことで、西晋崩壊の背景は、三国志の最後の呉を滅ぼして天下統一した皇帝が、太平に甘えて官兵を靡兵、解雇したために、失業した多数の元官兵が、各王の私兵となったのです。
 野心家が天下を狙うとなれば、教育、訓練の要らない、命令服従を本分とする元職業軍人は強力な武器であり、まして、帝位継承資格を持つ各王が他の王に対抗して強力な軍を組織し台頭を図ったため、乱世の幕を拓いたのです。
 さらには、兵力増強のため、北方異民族「匈奴」の部族を傘下に採り入れ、教育訓練を施して、私兵としたのですから、それは、長年討伐していた侵略者を、領内に呼び入れるものであり、程なく、内乱によって権威が失われた帝国を、内部から食い散らかす、害獣を育てたことになります。
 斯くして、司馬晋による天下統一は、束の間の天下太平であり、晋朝は、いわば自滅政策を行い、始皇帝以来の統一国家「中国」は瓦解し、以降、四世紀に亘り南北二分されたので、晋皇帝は大罪人ということになります。

*前車の轍 始皇帝の永久政権構想

 過去の歴史に学ぶとすれば、戦国諸公を滅ぼして天下統一した結果、兵力過剰に直面した秦始皇帝は、大軍を匈奴対策名目で北方に駐在させ、全国から長城や寿陵建設に農民を大量動員して、失業軍人の反乱を避けたのです。
 税収に即した緻密な動員策が必要ですが、全国地方官からの統計情報を元に、計数に強い官僚がギリギリまで民衆を絞りあげれば、中央政権を「永続」できたはずです。一方、全国から不平分子を徴用して反乱の原動力を吸い上げ、併せて事業経費を幅広く徴収して反乱の資金源を断つ戦略です。
 とは言え、後継皇帝は、そのような巨大な戦略に、全く気づかず、的外れの過酷な動員と徴税を続けたため、衆怒を買い、反乱多発の状態となったのです。

◯晋書由来

 以上、晋書の素性/対象時代を知るため、中国史を抜粋しましたが、晋書は、南方に逃避した東晋政権や後継の南朝諸国では編纂できず、北朝を滅ぼした唐朝で、太宗の重臣房玄齢の率いる錚錚たる集団によって完成したのです。

 既に、時代は、南朝を討伐して全国統一した隋が、天下太平維持に失敗したために、またもや生起した全国反乱を統一した正統たる唐の御代であり、晋書を、南北朝の乱世を生起した晋朝の不始末をうたいあげる、いわば反面教師としての正史としたため、史談とも言うべき本紀、列伝において、風評に富んだ「面白い」史書になったのです。先ほど上げた、西晋滅亡時の各王内戦は、当時の皇帝が、極めつきの暗君であったために、必然的に起こったとされています。

 但し、ここで当方が取り組んでいる「地理志」は、地理情報、統計情報を記した「志」であり、そうした演出とは関係無く、歴代政権の公文書として継承された豊富な資料を、丁寧に駆使した意義深いものです。

*「志」を欠く先行史書
 先行史書で言うと、南朝劉宋代に大成された笵曄「後漢書」は、自身の「志」を備えず、唐代に、先行していた司馬彪「続漢書」の「志」と併合されたものです。そして、三国志は、遂に「志」を持たなかったのです。
 ということで、晋書は、班固「漢書」以来久々の体裁の完成した正史となります。
 また、笵曄「後漢書」が、ほぼ笵曄単独編纂の労作であり、陳寿「三国志」も、陳寿の指導力が強く反映しているのに対して、晋書は、房玄齢以下の集団著作とされていて、厖大な数値データを参照する必要のある「志」の編纂に相応しい体制であったと思われます。もちろん、四世紀ぶりに、乱れた全国を再統一した唐王朝の国力も強く反映されています。

 つまり、晋書「地理志」は、大変信頼性の高い史料と見るものです。

                               未完

倭人伝随想 9 晋書地理志に周朝短里を探る 結論 3/9 更新

               2018/10/26  2018/12/26 修正 2020/11/08 2022/06/01 2024/02/06

*本論開始
 枕が続きましたが、題材とした資料文献の背景説明としました。
 と言うことで、晋書地理志が当記事の本題です。

▢古田武彦氏の「魏晋朝短里説」の消長
◯短里説提唱と展開
 古田武彦氏は、第一書『「邪馬台国」はなかった』で、倭人伝行程記事の郡から倭に至る里数について、詳細に考察した上で、
  これは、当時の里制を忠実に記したものである。実際の地理から、「倭人伝」の一里は一貫して75㍍程度(数値は、参照しやすく丸めた概数)の「短里」である。
 ⑵ これは、古代周朝の里制である。
 ⑶ これに対し、秦始皇帝が、天下統一にあたり、六倍、450㍍程度の「長里」に変更し漢に継承された。
 ⑷ これに対し、魏朝は全国里制を「短里」に復原し「倭人伝」に反映している
 ⑸ 「短里」は、後継した晋朝に継承されたが、晋朝南遷後東晋によって廃され、秦漢「長里」に復帰したとの趣旨で提言したものです。

 ⑴~⑸は当記事筆者による要約

◯魏晋朝里制の論証
 古田氏の論旨は、「三国志」は陳寿が統轄編纂した史書であるから、前漢に渡って、里制は統一されているべきであるとの理路により、「倭人伝」記事の小局から出発して魏晋朝全国という大局に及び、三國志全文に及ぶ実証の試みは現在も続いています。

◯魏朝里制変更の否定
 ここでは、先ほどの⑶以降の推論が成立しないことを述べるものです。

*史書に記載なし
 晋書「地理志」を根拠とすれば、魏晋朝短里の否定はむしろ自明です。晋書「地理志」は、古来の地理情報を克明に記していますが、魏晋朝において、秦漢朝と異なる里制が公布、施行されたとの記事はありません。

*里制変更の無法さ補充2022/06/01
 里制は、晋書「地理志」という公式記録/正史の根拠となるものであり、国政の根幹であると共に、各地方においても行政の根幹であり、里制を変えるという事は、国家の秩序を破壊することであるから、皇帝と言えども里制変更はできないのです。

 全国里制を、それまでの「普通里」から、「短里」に変更すると、一里三百歩の原則から、農地測量単位の「歩」(ぶ)が、それまでの、一歩六尺の関係を維持できず、一歩一尺になってしまうのです。
 言い換えると、土地台帳は、それまで、面積百歩、現代風に言えば百(平方)歩、と書いていた土地が、六倍ならぬ三十六倍の三千六百歩になるということで、全国の地籍(土地台帳)を換算して、書き替える必要がありますが、もちろん、農地の実際の面積は変わらないので、税は、同等なのですが、そのような換算計算は、読み書き計算のできない「一般人」の理解を越えているので、増税と判断されて衆怒を招きます。

 あるいは、そのような激変を避けて、尺、歩までは維持し、一里五十歩とするのでしょうか。

 通常、「歩」による農地面積管理に、「里」は関係しないのですが、ことが、県単位の世界を越えて、郡単位や全国での農地面積となると、「里」単位で計算することになり、その際、里が一/六になって、道の里「道里」が六倍の数字になるとして、それを、広域の農地面積に適用すると、「千里」四方が、三十六倍の「三万六千」里四方になってしまうので、広域方里の取扱について、明確な指示を公布する必要が生じるのです。

 「短里」制は、一片の帝詔では済まず、厖大な公文書と実務を必要とするのです。従って、そのような大量の公文書が残されていない以上、里制変更はなかったと断定できるのです。(臆測、推定ではないのにご注意下さい) 

▢結論
 そのような途轍もなく重大な制度変更が実施されていたとすれば、魏晋朝の不手際を明らかにするものとして、晋書の本紀部分に記載されるべきものであり、まして、晋書「地理志」の周以降の制度推移記録に記載されないはずがありません。

 と言うことで魏晋朝といえども、国家制度としての短里は、実施されなかった事が明らかです。実施されなかったから、記録に残らなかった」というのは、まことに、まことに明解です。
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倭人伝随想 9 晋書地理志に周朝短里を探る 結論 4/9 更新

               2018/10/26  2018/12/26 修正 2020/11/08 2022/06/01 2024/02/06

◯周朝短里制への疑問
 さて、次に懸念があるのが、⑵の項です。いや、秦が「短里」を「長里」に変更したということも、議論が必要ですが、周里制がいかなるものだったか解明しなければ、秦里制を議論しようがないので、後回しとします。

*晋書「地理志」に見る周朝制度

 周は、それまで中原を支配していた殷(商)の覇権を奪って王朝交代を実現したのですが、元々、函谷関以西の「関中」を根拠とした西方の地方勢力だったので、中原を包括する統一国家を運営する組織も制度も持っていなかったのですから、殷の制度、殷の官僚組織を継承しつつ、徐々に周の国家制度を組み立てていったものです。

*口分田制度(日本)
~異邦の不法な制度 余談
 参考となる口分田は、本朝律令では、「戸籍に基づいて六年に一回、口分田として六歳以上の男性へ二段(七百二十歩=約24㌃)、女性へはその三分の二(四百八十歩=約16㌃)が支給され、その収穫から徴税(租)が行われるとされていた。口分田を給付することは、人々を一定の耕地に縛り付け、労働力徴発を確実に確保できる最良の方法であった。」Wikipedia
 1㌃は、一辺10㍍の方形の面積(百平方㍍)

 少年少女以上の男女それぞれに支給されている点が、「目覚ましい」のです。中国の制度では、「長大」、「成人(15歳程度か)となった」男性が「戸」の構成員であることが前提となっているものの、農地耕作に貢献できない年少者は、あてにしていないものですから、まったく、異質の概念で書かれている規定と見えます。
 つまり、何が目覚ましいかというと、「口分田」制度は、秦代以後の中国で一貫して施行された「戸」という家族制度をもとにした、戸籍制度、土地管理制度とは、相容れないものであり、魏代に「親魏倭王」として、漢制(中国制)に服属する蛮夷の王の法制としては、到底許されない、不法な制度と見えます。

 世上、国内で制定された「律令」(国内律令)が、唐律令に準拠した法制(模範解答)だと考えている方が少なくないようですが、仮に、遣唐使が、国内律令を献上したとすると、立ち所に「死罪」に処せられる大罪を犯したことになります。とんでもない意見ですが、在野の論者に時に見られる論義です。
 そもそも、持ち出し厳禁の唐律令を、蕃王使節が盗み出して持ち出すのは、それ自体が既に大罪です。なぜなら、唐律令には、天子に始まる諸官の規定が書かれていて、それを、蕃王が施行するのは、自身を天子と称するものであり、到底許容されるものではありません。即日、討伐軍を送り込まれても、当然の大罪なのです。
 と言うことで、先に挙げた「口分田」の制度は、服従に際して上申した「戸数」が、中国制度に背く、虚偽のものであることを白状しているので、中国の天子の耳に「絶対に」入ってはならないものです。

 つまり、掲げられている「口分田」の制度は、中国に服従する蕃王のものでなく、中国との交流のない「くに」が、いわば、勝手に制定したものだと分かるのです。

 ちなみに、中国制度の「戸数」を復習すると、夫婦二人に、子供として複数の成人男子が同居している「戸」を根拠/単位とした国家制度であり、各戸には、所定の農地が割り当てられて、耕作が許可され、その大小に所定の農作物を納税し、各戸単位で、最低一名の徴兵に応じる全国統一制度であるので、対象地域の「戸数」を言えば、税収と兵士の数が自動的に定まる、計数管理の容易な制度なのです。

*井田制
 本朝の口分田のお手本となった周朝の井田制は、「中国の古代王朝である周で施行されていたといわれる土地制度のこと。周公旦が整備したといい、孟子はこれを理想的な制度であるとした。 まず、一里四方、九百畝の田を「井」の字の形に九等分する。そうしてできる九区画のうち、中心の一区画を公田といい、公田の周りにできる八区画を私田という。私田はそれぞれ八家族に与えられる。公田は共有地として八家族が共同耕作し、そこから得た収穫を租税とした。」 Wikipedia

*尺・歩・畝・里

 少し言い足すと、(中国)畝(ムー)は、六百尺四方であり、一尺25㌢㍍とすると、一辺150㍍程度となり、およそ2.25㌃となります。
 縦横三個ずつ畝を並べた、井とも呼ばれる「里」は、一辺450㍍の正方形となります。つまり、距離としての一里は、450㍍となります。(あくまで概算です)

 「尺」は、時代によって異なったと知られていますが、多くの物差しに複製されて日常の経済活動に使用されるから、短期間に変動することはなく、長期的にも六倍に変動することは、「絶対に」あり得ないのです。

 結局、記録に見る里は、おしなべて、「普通里」であり、したがって「長里」と呼ぶのは不合理なのです。
 また、畝は、半永久的に継承される土地台帳に記載され、農地面積の基本単位は、時代によって変動することはなかったと思われます。取り敢えず、周短里は見えてこないのです。
 但し、各戸に割り当てられる耕作地の面積は、「牛犂」と呼ばれる標準的農具を牛に引かせるものであり、蛮夷の土地に農耕用の牛がいない場合は、平坦な黄土平原を前提に中国制度で定められた広さの土地は、蛮夷には到底耕作できないのであり、各戸に割り当てられる農地は、その数分の一に過ぎないから、戸数から、その領域の生産力を知ることはできないのです。

 議論の詳細は、大変長引くので、可能な範囲で説明して行きます。

                              未完

倭人伝随想 9 晋書地理志に周朝短里を探る 結論 5/9 更新

               2018/10/26  2018/12/26 修正 2020/11/08 2022/06/01 2024/02/06

□短里制再考
 以下、もう少し手前に遡って、「倭人伝短里」の由来を見極めたいと考えます。

*「地域短里」再考 旧論
 「倭人伝」里数は、短里で書かれていて、これは、現地で実施されていたことの忠実な反映のように見えます。「地域短里」と称されているものです。もっとも、晋書「地理志」には、倭人領域に関する記事が無いので、倭人領域で短里が実施されていたことを証する記事はありません。
 但し、晋書は「倭人伝」を有しているので、魏晋代「地域短里」が制度化され、帯方郡限定といえども、国家制度して運用されていたのであれば、その旨明記されたはずだと言えます。
 晋書「倭人伝」は、魏志「倭人伝」の引き写しではなく、後代史書の限界はあるものの、里制について明言できれば、明言していたはずです。

□晋書「地理志」による里制考
 と言うことで、基本に立ち返って、晋書「地理志」の「里」について考察します。参照されているのは「司馬法」で、該当部分は、「司馬法」の残簡にない逸文となっていますが、別文献で周制であることが裏付けされています。

*古制
 「廣陳三代,曰」と書き出されているのは、夏、殷、周三代の制度を述べる前触れのようですが、資料が残されているのは周朝であり、古制とは、周朝制度と思われます。もっとも、漢字によって文書が記録されるようになったのは、殷代中期以降であり、課題の公文書は存在せず、殷代も、公文書が保管されていたとは思えないのです。

 以下、「井田法」と呼ばれる土地分配の規則が記されていて、土地の広さの単位である、「歩」「畝」「里」の決め方が記されています。

 古者六尺爲步,步百爲畝,畝百爲夫,夫三爲屋,屋三爲井。井方一里,是爲九夫,八家共之。

 「井」が土地区分の単位であり、漢字の形が示すように、縦横三分割されて九個の「夫」から成り立っています。
 「井」は、「方一里」、つまり、縦横一里の正方形となっています。それぞれの「夫」は、百「畝」。つまり、縦横それぞれ十個、計百個の「畝」からなっています。それぞれの「畝」は、百「歩」、つまり、縦横それぞれ十個、計百個の「歩」からなっています。面積系単位の大系が、適確に定義されています。

*歩の起源
 そこで、基本である「歩」(ぶ)をどう決めるかという事ですが、これは、人体「尺」の六倍となっています。
 「歩」と書いていることから、人の歩幅に関連付ける解釈が見られますが、それは、後生人の早計であり、単に、六尺の言い換えとしてこの字が選ばれたとみる方が、明快に理解できるでしょう。
 史料によっては、古来、つまり、秦制で、農作に常用される牛犂の幅が、土地面積測量の単位である「歩」の基準であったと説明している例が見られます。
 後世、「歩」の字の起源がわからなくなって、一歩の幅が単位だとか、いや、二歩の幅が単位だとか、混乱しているようですが、秦制が、そのような曖昧な定義を基準として構築されていたはずはないのです。

 以上の理由から、日本語としての漢字発音は、「ぶ」とした方が、誤解がなくて良いでしょう。

*概算基準の提案
 尺は、人の腕の尺骨の長さで、ほぼ25㌢㍍と仮定します。すると、歩は、150㌢㍍、つまり、1.5㍍のようですが、併せて、一歩を一辺とする正方形の広さ/面積を言うようです。と言うことで、長さでは、一里は三百歩となり、450㍍に落ち着きます。
 このあたり、周制は、別に後世のメートル法やSI単位系を基準に制定されたわけではないのですが、時代、地域によって変動する諸単位の概略を便宜的に固定し、概算しやすい、有効桁数の誇張に到らない、切りの良い数字を採用しようとしているのです。

*長さ、距離と面積~表記の勘違い
 以上の説明で、数字に明るい方は首を傾げると思うのですが、長さの一里が三百歩であれば、「一辺一里の方形」の面積は「一辺一歩の方形」の面積の九万倍となります。一方、「面積一里」が「面積一歩」の三百倍であれば、「長さ一里」は「長さ一歩」の十七倍であり、十七倍の食い違いとなります。長さで言うと、これは、二十㍍となります。いつの間にか、つじつまが合わなくなっているのです。

 仮説推論のための推定ですが、ここで参照される一歩六尺に基づく一里450㍍が、「普通里」(標準里)として、後世まで一貫して実施されたのでしょう。
 ちなみに、「倭人伝」の道里は、「千里」が単位であり、ひょっとすると、一「千里」に始まって、三「千里」,五「千里」,七「千里」と飛び飛びであり、以下、十「千里」、十「二千里」となっていたかもしれないのです。そうであれば、道里の足し算は、算木と呼ばれる一桁計算器具で行えば良いのであり、「算用数字」も、「横書き多桁表示」も、ソロバンも、「メモ用紙」もなくても、確実に計算できるのです。
 因みに、漢文には、文書横書きの風はなく、掲題(掲額)で横書きするときは「右から左に書く」と決まっていたので、厳重に注意しないと、時代錯誤に陥るのです。(国内史料も同様なのですが、近年、古代史論説にも、時代錯誤の欧風横書きがのさばっているので、気づかない人が多いようです。いや、当ブログ記事も、他に方策がないので、しかたなく横書きで公開しているのです)

 農地面積「歩」、長距離「里」は、それぞれ、社会制度の別の局面で適用され、「尺」の変動に関係無く、固定されていたものと見ます。

                              未完

追記 尺、歩、里を、25㌢㍍、150㌢㍍、450㍍と統一しました。これは、あくまで、計算しやすい概数に丸めたものであり、絶対正確と主張しているものではありません。あくまで、提案です。
 また、時代錯誤極まりない算用数字の弊害で、桁数が多い数字であって精密と誤解されるので、有効数字を二桁弱に減らしたものです。
   2020/11/08

 いや、道里計算の場合、一里五百㍍(1/2公里)に丸めた方が、暗算しやすいのであり、そのように古代風に表記すれば、㍍の桁や、それ以下に意味がないことが明示されて、無用の誤解が無いように思われます。
   2024/02/06

倭人伝随想 9 晋書地理志に周朝短里を探る 結論 6/9 更新

               2018/10/26  2018/12/26 修正 2020/11/08 2022/06/01 2024/02/06
*井田受田
 一夫一婦受私田百畝,公田十畝,是爲八百八十畝,餘二十畝爲廬舍,出入相友,守望相助,疾病相救。

 井田制度では、農民は、二十歳で、私田百畝、公田十畝の計百十畝の「良田」(適切な灌漑状態、土壌の肥沃さを持つ適格な「田」、即ち、水田とは限らない「農作地」であり、一律の課税条件を適用される「田」であり、耕作に適さないものではないということを示す)を受け、六十歳で返納するまで、毎年の収穫時に公田からの収穫を税として上納すると書かれているようですが、それは、せいぜい一割の税率であり、古来、そのような低税率で運用された政府は無く、実際のものとは思えないのです。まして、耕作者の努力により、規定以上の収穫を得れば、それは、収穫者の取り分になるという、奨励策も含んでいたものです。(農奴が、叱咤しない限り怠慢になるのと対極です)

*軍制、地方官規定への拡張

 司馬法には、井田を基礎とした周の軍制、地方官制が書かれています。

 十井、つまり、一里方形の井を出発点に、十井を通、十通を成とし、成は、一辺十里方形とします。続いて、十成を終、十終を同とし、同は、一辺百里方形とします。続いて、十同を封、十封を畿とし、畿は一辺一千里方形としてす。
 丁寧に、一里に始まる十倍階梯で帝国の広域に結びつけています。

 令地方一里爲井,井十爲通,通十爲成,成方十里。成十爲終,終十爲同,同方百里。同十爲封,封十爲畿,畿方千里。

 これと別に、四井を邑とし、四邑を丘とし、この丘は、十六井としています。丘ごとに、戎馬一匹、牛三頭の保有が課せられています。

 故井四爲邑,邑四爲丘,丘十六井,有戎馬一匹,牛三頭。

 続いて、四丘を甸とし、田は、六十四井としています。井は、戎馬四匹、兵車一乗、つまり、四頭立ての兵車一台に加え、牛十二頭、甲士三人、卒七十二人を有します。これを、乗車の制と言い、兵車乗数の計算基準となります。(甸 ①天子直属の都周辺の土地。「甸服」「畿甸(キデン)」 ②郊外。 ③おさ(治)める。 ④農作物。 ⑤かり。狩りをする。かる。)

 四丘爲甸,甸六十四井也,有戎馬四匹,兵車一乘,牛十二頭,甲士三人,卒七十二人。是謂乘車之制。

*地方官規定への拡張
 同は、一辺百里であり、領地は一万井となります。但し、領地内には、山川、坑岸、城池、邑居、園囿、街路など、耕作地外の土地が三千六百井であり、残る六千四百井が出賦で、戎馬四百匹、兵車百乗を有します。領主である卿大夫は百乗の家と呼ばれるのです。

 一同百里,提封萬井,除山川、坑岸、城池、邑居、園囿、街路三千六百井,定出賦六千四百井,戎馬四百匹,兵車百乘,此卿大夫菜地之大者也,是謂百乘之家。

 と言うことで、里は、各地領主の軍備計算の根拠であり、兵車の乗数は領主の権威の格付けでもあります。

*魏志「東夷伝」~「方里の推定」
 因みに、以上のような拡張は、所定の領域内が、ほぼ平坦で半ば以上が耕地という前提なので、これは、中原領域では当然/自明でも、荒れ地の多い領域では、通用しないのです。
 魏志「東夷伝」では、「倭人伝」に先立つ、高句麗、韓の両地域の記事で、ともに、山谷が多くて農地(良田)が少ない土地柄が書かれていて、戸数から土地の生産力を知るという手順が成立しないことが書かれています。して見ると、魏志「東夷伝」では、対象領域の面積を知っても、意味がないことは自明であり、むしろ、対象地域の土地台帳を集計した耕地面積が重要だという認識にいたものと考えます。
 魏志「東夷伝」で起用された韓地の「方四千里」などの記法は、面積管理に努めたものと見るべきであり、「里」と書かれていても、「道里」ではないと思われます。
 このように、当時の教養を踏まえた上で、教養に外れた点を十分予告した上で、未開の荒れ地である「倭人」の道里や戸数が報告されていると見るべきなのです。
 「二千年後生の東夷の無教養な東夷」は、史官が、当時の読書人/教養人が、多少の努力で正解できるように丁寧に予告した事項/深意/真意を理解した上で、「倭人伝問題」(Question)と言う文章題の解釈、回答に挑むべきなのです。

 念のため付記すると、面積単位系の「里」、「歩」は、古代算術教科書であり、解答付き演習問題集である「九章算術」の用語から推定したものです。当ブログ筆者の独創ではありません。
                               未完

倭人伝随想 9 晋書地理志に周朝短里を探る 結論 7/9 更新

         2018/10/26  2018/12/26 2019/01/29 修正 2020/11/08 2022/06/01 2024/02/06

*天下のかたち
 司馬法は、さらに、高位の軍制を示しています。

一封三百六十六里,提封十萬井,定出賦六萬四千井,戎馬四千匹,兵車千乘,此謂諸侯之大者也,謂之千乘之國。

 封は、三百六十六里(正しくは三百十六里)で一万井となります。うち、六万四千井が出賦で、戎馬四千匹兵車千乗を有し千乗の君と呼ばれます。

天子畿內方千里,提封百萬井,定出賦六十四萬井,戎馬四萬匹,兵車萬乘,戎卒七十二萬人,故天子稱萬乘之主焉。

 天子の畿内は、方千里で、地は百万井。六十四万井が出賦で、戎馬四万匹兵車万乗を有し、天子は万乗の君と呼ばれます。
 因みに「東夷」のいう「畿内」は、かってな盗用であり、中国視点で書かれた文書であれば「畿内」は、大逆罪に当たる不法なのです。つまり、
これは、中国から蕃王として服属を認められた東夷には、あり得ない誤用なのです。

*遠大な構想
 以上のように、周制は、尺から始まって、天子の直轄領分である一辺千里(一辺四百五十㌖)に至る倍率の階梯がきっちり規定されていて、勝手に、一部をずらすことはできない仕掛けです。
 天子直轄領は、約二十万平方㌖で、 本州島面積の約二十三万平方㌖に匹敵しますが、これは、周王朝の京畿であり、諸国所領はこれを越えているものがあったと見えます。

*秦制の意義
 秦が天下統一した後、周衰亡の原因として総括したのは、このような形式的軍制が、周辺勢力への防衛にならなかったと提起され、始皇帝は、「乗」数軍制を廃棄しましたが、周制の里規定に手を加えたり、一歩六尺を新設したのではないのです。秦国として確固たる実績のある、精緻を極めた法律や度量衡制度を全国に徹底するのが、帝国の使命とみていたのです。

 また、「里」と連動した土地面積単位として「畝」「歩」が存在しているので、いかに始皇帝でも、土地検量、税の付け替えは避けたとは思うのです。

*秦朝の里制変更
 いや、当方にも意外だったのですが、司馬法のみならず、晋書地理志自体の記事にも、秦始皇帝が里制、井田制などを改めたとの記事は無いのです。
 井田制は、単に廃止されたのでしょうが、里制は廃止できないので改定すれば記録が残るはずです。特に周制の定義が延々と引用されている以上、里制の変更だけ実施することはできないのは自明です。

 と言うことで、秦始皇帝は、周制による尺、歩、畝、里から天下に至る大系に手を加えなかったと見えるのです。
 再確認すると、秦が、それまで、自国内で施行していた諸制度を文書化して、全国に徹底したと見ることができます。

*地域短里制の消滅
~旧説の終末
 ついでながら、「倭人伝」道里記事から明確に読み取れる里制は、朝鮮半島に実施されていたかも知れません。晋代に、三韓体制と楽浪郡、帯方郡支配が崩壊し、郡の確立した戸籍、地籍の台帳は、東西に勃興した新興の新羅、百済が東西が国家制度を整備する際に利用されたとも見えます。
 あるいは、隋唐の指示に従い、現地の不規則な里制を廃し、普通里による土地制度が敷かれたかとも思われます。その結果、短里制は倭独特の「倭里」として辺境に生き残ったものの、倭の消滅と共に、日本里制に置き換えられたと見えるのです。

 以上は、本記事の初期段階では、それなりに筋が通った推測とみたのですが、以降、史料を精査した結果、これは、根拠の無い憶測にすぎず、「倭人伝」道里記事の「道里」が、地域の公的な制度として実施されていたという証拠は一切ないので、旧説『「地域里制」はなかった』と訂正することになったのです。
 魏志「東夷伝」を読む限り、後漢末期の献帝建安年間、遼東郡太守となった公孫氏が、楽浪郡南部の帯方縣に「帯方郡」を設け、南方の耕地、つまり、土地制度の確定していない領域を帯方郡の管理下に置いたと言うことは、後漢の郡太守である公孫氏が、後漢の土地制度、道里を敷いたと言う事であり、それは「普通里」に決まっているのです。それ以前と言えば、遼東郡は、秦始皇帝が置いたものであり、楽浪郡は、漢武帝が置いたものですから、秦漢代の土地制度、道里制度に基づくものでしかないのです。

 斯くして、当ブログで維持していた旧説は、終止符を打たれたのです。

                               未完

倭人伝随想 9 晋書地理志に周朝短里を探る 結末 8/9 更新

               2018/10/26  2018/12/26 修正 2020/11/08 2022/06/01 2024/02/06

*周里の意義 削除
 と言うことで、距離の単位としての里が周制から六倍になったという仮説と整合させる策としては、周制の里は、尺、歩から積み上げたものでなく、別の根拠を持つ、言うならば独立した単位系でなかったかということです。

*次元の違い 削除
 井と里が合同なら、里を六倍に拡大すると、下は、歩から天子領分まで倍数で定義されている全体系が連動しますから、それは不可能というものです。 
 絨毯を敷き詰めた部屋にテーブルを置いた会場で、絨毯の一角を別の場所に移すことなど不可能なのと同じです。

*同文同軌 周秦革命 削除
 周里が長さの単位(一次元)で、井(二次元)と無関係(異次元)であり、秦朝が、何かの理由で周を井に同期したのなら、同文同軌の里制変更で里程が影響されても、日常使用の歩、畝は変動せず、混乱はなかったのです。また、些細な改定ということで、里長の変更は記録に残らなかったのでしょう。

 先ほどの例で言うと、絨毯の一角が本来別物で、縫い付けられているだけであれば、そこだけ、剥がして移動できるのです。

*結論 削除
 と言うことで、経緯は不明ですが、周里が短里としても史料に書かれている周制と矛盾しないという見方です。何しろ、秦始皇帝が周制を覆してから、陳寿の三国志編纂まで五百年、房玄齢の晋書編纂まで九百年経っていたのですから、いくら公文書類と言っても、正確な伝承には限界があったし、何事も組織的に定義するとしても、全て定義できるものでもないものです。
 
 どんなものにも欠点はあるのです

*現地里制の確認
 原点に戻って、延々と模索した結果、古田氏の第一書で提示された論考と提言は、見事に構築されていたものの、その展開に於いて、根拠に欠ける作業仮説が、基礎として起用されていたものであり、不適切な部分をそぎ落とした核心だけが、ほぼ論証されたものと思います。

 即ち、「倭人伝」里制の由来は多少不確かでも、⑴現地里制を適確に示しているとする意見を覆すものでないということです。また、別系列の史料により、⑵周朝が短里を実施していたことは、ほぼ信じて良いでしょう。 この項は撤回します。
 
 晋書「地理志」から判断すると、⑶以降については、成立しないものと思いますが、以下に、可能性に乏しくとも、別史料で覆る判断かも知れないので、意識の片隅に留めておけば良いものでしょう。

 以上、一介の素人の意見ですから、別に権威はないのですがものの理屈として、筋が通っていると思うので、ご参考まで公開したものです。
 以後、少なからぬ改訂を要しましたが、できるだけ、改訂の履歴がわかるようにとどめています。

*従郡至倭の始点/終点 2024/02/07
 最近の考察によれば、「倭人」は、後漢代、東夷の管轄であった楽浪郡に参上したものであり、従って、その際に申告された道里は、雒陽から公式道里が登録されていた楽浪郡が「始点」と見られます。また、その時点で「倭」王の居処は、伊都国の国城であったものと見られます。これは、「倭人伝」で、郡からの使者は、伊都国に滞在したと書かれている点から、伊都国が公式道里の「終点」であったことは、明らかです。

 但し、その時点では、まだ、遼東郡が、帯方郡を東夷管理拠点として「倭人」を管理させる制度は発足していたなかったものの、霊帝没後の騒動もあって、楽浪郡の報告は、雒陽に届いていなかったものと見えます。
 陳寿が、西晋代に「倭人伝」の道里行程記事を集成している段階には、「始点」は、皇帝直轄の帯方郡であり、「終点」は、女王の居城となっていたと見えますが、公式史料/公文書では、行程道里の終点、始点は、あくまで、初見段階、皇帝に報告をあげた時点のものであり、実務に応じて改定されるものではなかったのです。
 陳寿は、史観の器量で、具体的な郡名、倭王居処を書かないことによって、そうした細瑾を表明しなかったと見えます。どのみち、雒陽から、帯方郡に至る公式道里は、奏上されていなくて、遂に、後年の帯方郡消滅まで、そのような記録は残されなかったのです。ここに、公式に認知されていない帯方郡を始点とする道里を書くのは、史官として、不都合なことだったのです。 

*文書送達日数/全権都督 2024/02/07
 いずれにしろ、魏制では、「郡から倭に」送られた文書は、伊都国の文書官が受領した時点で、倭に届いたとされるので、それ以後、伊都国王が受領しようが女王が受領しようが、日程管理には関係なかったと見えるのです。
 ここで、纏向説を追い詰めないように弁明すると、一度、郡との文書更新の公式規定が承認されたら、漢制/魏制として、倭の内部体制の問題似よって、伊都国王が、「幕府」を許された西方都督/全権代理であれば、帯方郡太守に対等の立場で応答しても、何の問題も無いのですから、物理的/地理的に、伊都国王(西域都督/大宰)と纏向に仮定された「大倭王」との間が、遠隔で疎遠でも、特に問題ないのです。

                               以上

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