倭人伝新考察

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2024年2月 7日 (水)

倭人伝随想 9 晋書地理志に周朝短里を探る 結論 1/9 更新

               2018/10/26  2018/12/26 修正 2020/11/08 2022/06/01 2024/02/07

◯更新の弁
 当ブログも、発足以来日時を経ていて、各記事も、初稿以来、更新を重ねているものも、少数ながら存在する。但し、件数、頁数がかなり多いので、更新の手が行き届かないものも、少なくない。そこで、最近務めているのが、一般読者の方から閲覧が入ったものは、積極的に内容を見直して、改訂するという事である。
 但し、それが、字句修正や書き足しならともかく、論旨が大きく変わったものは、暫し考えたあげく、打ち消し線で削除して、以下、新規書き足すことになるのである。結構見苦しいのだが、当方は、意見が変わったことを隠す意思はないので、そのような改訂/更新もある。
 本項で言えば、当初、古田武彦師の「魏志短里説」擁護/批判/否定を辿って、現在の「倭人伝」二重記事説に至るまで、何度か意見の基調が替わっているので、ここは、恥を曝すのを覚悟で、極力、旧稿保存に努めたものである。ということで、読みにくい記事となっている点をお詫びするものである。
 端的に略記すると、当初、「倭人伝」道里記事は、「短里」で書かれているとする意見であったが、それが、「三国志短里」でも、「魏晋朝短里」でもないところから始まって、「倭人伝短里」との主張に一度立ち止まったが、現時点では、「倭人伝」道里記事は、倭人初見の際に書かれた「全行程万二千里」という決め込みで書かれていて、それが、「倭人伝」記事策定の際に、「皇帝承認記事は改訂できない」という制約に束縛された史官が、明らかに実態に即していない道里を温存せざるを得なかったことから、これを公式道里として記載し、実務の必須事項である総括「都所要日数」を記載するという、現在も伝わる道里記事になったと言うことを示したのである。
 そのような記事校正は、一種の「難問」として提示されているが、「難問には、必ず解答がある」のであり、読者は、それを解決することを予定されているのである。
 本講読者諸兄姉は、それぞれ、「難問」に対する解答をお持ちであろうが、本稿をはじめとする当ブログの「解答」を理解いただければ幸いである。

◯始めに
 本項の目的は、引き続き、「倭人伝」里制の妥当性を確認するものです。
 まず、当ブログ著者は、本記事初出の段階(2018/10/26)では、『「倭人伝」里数は、「短里」のものであり、これは、現地、つまり、帯方郡領域で実施されていた「里制」の忠実な反映である』と見ました。主たる論拠は、「倭人伝」冒頭で、帯方郡から狗邪韓国までの、帯方郡にとって既知の里程が、七千里と宣言されているということです。そのため、全体に「地域短里」、「倭人伝短里」の見方で進めています。

*「誇張」・「虚偽」説
 これに対して、倭人伝里数が、悉く「誇張」・「虚偽」と見る説は、総じて根拠のない憶測であり、正史に明記された記事を否定する力を持たないものです。そのような説自体「作業仮説」にもならない、単なる子供じみた思いつきであり、非科学的な「誇張」・「虚偽」と見えます。
 例外的に趣旨明解な松本清張氏の主張の批判は別記事です。

◯方針説明
 当記事は、魏志「倭人伝」の時代を含む歴史的な地理情報を網羅した晋書「地理志」の内容を検討し、里制に関する判断資料とするものです。
 もっとも、晋書「地理志」にも、晋書「倭人伝」にも、「倭人」領域に関する行程道里記事が無いので、「倭人」領域で短里が実施されていたことを証する記事はありません。

◯晋書紹介
 晋書は、魏志「倭人伝」の編纂された司馬晋の時代の中国王朝です。時に、その前半を特定して「西晋」と呼ばれますが、当時は、自分たちの時代が早々に幕引きになって、天子が北方異民族の虜囚になって処刑された亡国に至って、辛うじて南方で再建され「東晋」と呼ばれた後世王朝と区別するために「西晋」と呼ばれるなどとは「夢にも」思っていなかったことは言うまでもありません。

*古代の晋(春秋)
 ちなみに、「晋」は、中国古代の周王によって中原北方に封建された周代の一大国でしたが、春秋時代末期に王権が衰え重臣に権力を奪われて飾り物になった挙げ句、重臣間の抗争を歴て生き残った趙、魏、韓の三家が、遂に晋王を放逐、それぞれの姓によった趙、魏、韓の三国に分割したのです。
 晋王が、臣下に放逐されたのは画期的な大事件であり、諸国を束ねた東周の権威が失われ、各国がむき出しの抗争を行う戦国時代に移ったとされます。晋王は周の創業以来の大黒柱であり、臣下による追放から保護できなかった上に、三国から大枚の贈答を受けて不法事態を承認したから、周王に権威がない事を天下に知らせたことになるのです。以後、時代は、統一権威の存在しない「戦国時代」に移行したと見られています。

*司馬晋登場
 ともあれ、この時代の晋の創業者司馬氏は、つい先年の曹操、曹丕の天下把握の手口そのままに、曹魏皇帝から天子の権威を譲り受けるについては、先ずは、古代の晋の旧地を所領とする異姓の「晋王」に任命され、続いて、曹魏皇帝から国の譲りを受けるという「禅譲」により、魏朝を廃し、皇帝として晋朝を拓いたのです。こでは、古代とは逆に「魏」から「晋」に権力が移行したことになります。

                               未完

倭人伝随想 9 晋書地理志に周朝短里を探る 結論 2/9 更新

                2018/10/26  2018/12/26 修正 2020/11/08 2022/06/01 2024/02/06

*太平の崩壊招く愚策~司馬晋の自滅
 と言うことで、西晋崩壊の背景は、三国志の最後の呉を滅ぼして天下統一した皇帝が、太平に甘えて官兵を靡兵、解雇したために、失業した多数の元官兵が、各王の私兵となったのです。
 野心家が天下を狙うとなれば、教育、訓練の要らない、命令服従を本分とする元職業軍人は強力な武器であり、まして、帝位継承資格を持つ各王が他の王に対抗して強力な軍を組織し台頭を図ったため、乱世の幕を拓いたのです。
 さらには、兵力増強のため、北方異民族「匈奴」の部族を傘下に採り入れ、教育訓練を施して、私兵としたのですから、それは、長年討伐していた侵略者を、領内に呼び入れるものであり、程なく、内乱によって権威が失われた帝国を、内部から食い散らかす、害獣を育てたことになります。
 斯くして、司馬晋による天下統一は、束の間の天下太平であり、晋朝は、いわば自滅政策を行い、始皇帝以来の統一国家「中国」は瓦解し、以降、四世紀に亘り南北二分されたので、晋皇帝は大罪人ということになります。

*前車の轍 始皇帝の永久政権構想

 過去の歴史に学ぶとすれば、戦国諸公を滅ぼして天下統一した結果、兵力過剰に直面した秦始皇帝は、大軍を匈奴対策名目で北方に駐在させ、全国から長城や寿陵建設に農民を大量動員して、失業軍人の反乱を避けたのです。
 税収に即した緻密な動員策が必要ですが、全国地方官からの統計情報を元に、計数に強い官僚がギリギリまで民衆を絞りあげれば、中央政権を「永続」できたはずです。一方、全国から不平分子を徴用して反乱の原動力を吸い上げ、併せて事業経費を幅広く徴収して反乱の資金源を断つ戦略です。
 とは言え、後継皇帝は、そのような巨大な戦略に、全く気づかず、的外れの過酷な動員と徴税を続けたため、衆怒を買い、反乱多発の状態となったのです。

◯晋書由来

 以上、晋書の素性/対象時代を知るため、中国史を抜粋しましたが、晋書は、南方に逃避した東晋政権や後継の南朝諸国では編纂できず、北朝を滅ぼした唐朝で、太宗の重臣房玄齢の率いる錚錚たる集団によって完成したのです。

 既に、時代は、南朝を討伐して全国統一した隋が、天下太平維持に失敗したために、またもや生起した全国反乱を統一した正統たる唐の御代であり、晋書を、南北朝の乱世を生起した晋朝の不始末をうたいあげる、いわば反面教師としての正史としたため、史談とも言うべき本紀、列伝において、風評に富んだ「面白い」史書になったのです。先ほど上げた、西晋滅亡時の各王内戦は、当時の皇帝が、極めつきの暗君であったために、必然的に起こったとされています。

 但し、ここで当方が取り組んでいる「地理志」は、地理情報、統計情報を記した「志」であり、そうした演出とは関係無く、歴代政権の公文書として継承された豊富な資料を、丁寧に駆使した意義深いものです。

*「志」を欠く先行史書
 先行史書で言うと、南朝劉宋代に大成された笵曄「後漢書」は、自身の「志」を備えず、唐代に、先行していた司馬彪「続漢書」の「志」と併合されたものです。そして、三国志は、遂に「志」を持たなかったのです。
 ということで、晋書は、班固「漢書」以来久々の体裁の完成した正史となります。
 また、笵曄「後漢書」が、ほぼ笵曄単独編纂の労作であり、陳寿「三国志」も、陳寿の指導力が強く反映しているのに対して、晋書は、房玄齢以下の集団著作とされていて、厖大な数値データを参照する必要のある「志」の編纂に相応しい体制であったと思われます。もちろん、四世紀ぶりに、乱れた全国を再統一した唐王朝の国力も強く反映されています。

 つまり、晋書「地理志」は、大変信頼性の高い史料と見るものです。

                               未完

倭人伝随想 9 晋書地理志に周朝短里を探る 結論 3/9 更新

               2018/10/26  2018/12/26 修正 2020/11/08 2022/06/01 2024/02/06

*本論開始
 枕が続きましたが、題材とした資料文献の背景説明としました。
 と言うことで、晋書地理志が当記事の本題です。

▢古田武彦氏の「魏晋朝短里説」の消長
◯短里説提唱と展開
 古田武彦氏は、第一書『「邪馬台国」はなかった』で、倭人伝行程記事の郡から倭に至る里数について、詳細に考察した上で、
  これは、当時の里制を忠実に記したものである。実際の地理から、「倭人伝」の一里は一貫して75㍍程度(数値は、参照しやすく丸めた概数)の「短里」である。
 ⑵ これは、古代周朝の里制である。
 ⑶ これに対し、秦始皇帝が、天下統一にあたり、六倍、450㍍程度の「長里」に変更し漢に継承された。
 ⑷ これに対し、魏朝は全国里制を「短里」に復原し「倭人伝」に反映している
 ⑸ 「短里」は、後継した晋朝に継承されたが、晋朝南遷後東晋によって廃され、秦漢「長里」に復帰したとの趣旨で提言したものです。

 ⑴~⑸は当記事筆者による要約

◯魏晋朝里制の論証
 古田氏の論旨は、「三国志」は陳寿が統轄編纂した史書であるから、前漢に渡って、里制は統一されているべきであるとの理路により、「倭人伝」記事の小局から出発して魏晋朝全国という大局に及び、三國志全文に及ぶ実証の試みは現在も続いています。

◯魏朝里制変更の否定
 ここでは、先ほどの⑶以降の推論が成立しないことを述べるものです。

*史書に記載なし
 晋書「地理志」を根拠とすれば、魏晋朝短里の否定はむしろ自明です。晋書「地理志」は、古来の地理情報を克明に記していますが、魏晋朝において、秦漢朝と異なる里制が公布、施行されたとの記事はありません。

*里制変更の無法さ補充2022/06/01
 里制は、晋書「地理志」という公式記録/正史の根拠となるものであり、国政の根幹であると共に、各地方においても行政の根幹であり、里制を変えるという事は、国家の秩序を破壊することであるから、皇帝と言えども里制変更はできないのです。

 全国里制を、それまでの「普通里」から、「短里」に変更すると、一里三百歩の原則から、農地測量単位の「歩」(ぶ)が、それまでの、一歩六尺の関係を維持できず、一歩一尺になってしまうのです。
 言い換えると、土地台帳は、それまで、面積百歩、現代風に言えば百(平方)歩、と書いていた土地が、六倍ならぬ三十六倍の三千六百歩になるということで、全国の地籍(土地台帳)を換算して、書き替える必要がありますが、もちろん、農地の実際の面積は変わらないので、税は、同等なのですが、そのような換算計算は、読み書き計算のできない「一般人」の理解を越えているので、増税と判断されて衆怒を招きます。

 あるいは、そのような激変を避けて、尺、歩までは維持し、一里五十歩とするのでしょうか。

 通常、「歩」による農地面積管理に、「里」は関係しないのですが、ことが、県単位の世界を越えて、郡単位や全国での農地面積となると、「里」単位で計算することになり、その際、里が一/六になって、道の里「道里」が六倍の数字になるとして、それを、広域の農地面積に適用すると、「千里」四方が、三十六倍の「三万六千」里四方になってしまうので、広域方里の取扱について、明確な指示を公布する必要が生じるのです。

 「短里」制は、一片の帝詔では済まず、厖大な公文書と実務を必要とするのです。従って、そのような大量の公文書が残されていない以上、里制変更はなかったと断定できるのです。(臆測、推定ではないのにご注意下さい) 

▢結論
 そのような途轍もなく重大な制度変更が実施されていたとすれば、魏晋朝の不手際を明らかにするものとして、晋書の本紀部分に記載されるべきものであり、まして、晋書「地理志」の周以降の制度推移記録に記載されないはずがありません。

 と言うことで魏晋朝といえども、国家制度としての短里は、実施されなかった事が明らかです。実施されなかったから、記録に残らなかった」というのは、まことに、まことに明解です。
                              未完

倭人伝随想 9 晋書地理志に周朝短里を探る 結論 4/9 更新

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◯周朝短里制への疑問
 さて、次に懸念があるのが、⑵の項です。いや、秦が「短里」を「長里」に変更したということも、議論が必要ですが、周里制がいかなるものだったか解明しなければ、秦里制を議論しようがないので、後回しとします。

*晋書「地理志」に見る周朝制度

 周は、それまで中原を支配していた殷(商)の覇権を奪って王朝交代を実現したのですが、元々、函谷関以西の「関中」を根拠とした西方の地方勢力だったので、中原を包括する統一国家を運営する組織も制度も持っていなかったのですから、殷の制度、殷の官僚組織を継承しつつ、徐々に周の国家制度を組み立てていったものです。

*口分田制度(日本)
~異邦の不法な制度 余談
 参考となる口分田は、本朝律令では、「戸籍に基づいて六年に一回、口分田として六歳以上の男性へ二段(七百二十歩=約24㌃)、女性へはその三分の二(四百八十歩=約16㌃)が支給され、その収穫から徴税(租)が行われるとされていた。口分田を給付することは、人々を一定の耕地に縛り付け、労働力徴発を確実に確保できる最良の方法であった。」Wikipedia
 1㌃は、一辺10㍍の方形の面積(百平方㍍)

 少年少女以上の男女それぞれに支給されている点が、「目覚ましい」のです。中国の制度では、「長大」、「成人(15歳程度か)となった」男性が「戸」の構成員であることが前提となっているものの、農地耕作に貢献できない年少者は、あてにしていないものですから、まったく、異質の概念で書かれている規定と見えます。
 つまり、何が目覚ましいかというと、「口分田」制度は、秦代以後の中国で一貫して施行された「戸」という家族制度をもとにした、戸籍制度、土地管理制度とは、相容れないものであり、魏代に「親魏倭王」として、漢制(中国制)に服属する蛮夷の王の法制としては、到底許されない、不法な制度と見えます。

 世上、国内で制定された「律令」(国内律令)が、唐律令に準拠した法制(模範解答)だと考えている方が少なくないようですが、仮に、遣唐使が、国内律令を献上したとすると、立ち所に「死罪」に処せられる大罪を犯したことになります。とんでもない意見ですが、在野の論者に時に見られる論義です。
 そもそも、持ち出し厳禁の唐律令を、蕃王使節が盗み出して持ち出すのは、それ自体が既に大罪です。なぜなら、唐律令には、天子に始まる諸官の規定が書かれていて、それを、蕃王が施行するのは、自身を天子と称するものであり、到底許容されるものではありません。即日、討伐軍を送り込まれても、当然の大罪なのです。
 と言うことで、先に挙げた「口分田」の制度は、服従に際して上申した「戸数」が、中国制度に背く、虚偽のものであることを白状しているので、中国の天子の耳に「絶対に」入ってはならないものです。

 つまり、掲げられている「口分田」の制度は、中国に服従する蕃王のものでなく、中国との交流のない「くに」が、いわば、勝手に制定したものだと分かるのです。

 ちなみに、中国制度の「戸数」を復習すると、夫婦二人に、子供として複数の成人男子が同居している「戸」を根拠/単位とした国家制度であり、各戸には、所定の農地が割り当てられて、耕作が許可され、その大小に所定の農作物を納税し、各戸単位で、最低一名の徴兵に応じる全国統一制度であるので、対象地域の「戸数」を言えば、税収と兵士の数が自動的に定まる、計数管理の容易な制度なのです。

*井田制
 本朝の口分田のお手本となった周朝の井田制は、「中国の古代王朝である周で施行されていたといわれる土地制度のこと。周公旦が整備したといい、孟子はこれを理想的な制度であるとした。 まず、一里四方、九百畝の田を「井」の字の形に九等分する。そうしてできる九区画のうち、中心の一区画を公田といい、公田の周りにできる八区画を私田という。私田はそれぞれ八家族に与えられる。公田は共有地として八家族が共同耕作し、そこから得た収穫を租税とした。」 Wikipedia

*尺・歩・畝・里

 少し言い足すと、(中国)畝(ムー)は、六百尺四方であり、一尺25㌢㍍とすると、一辺150㍍程度となり、およそ2.25㌃となります。
 縦横三個ずつ畝を並べた、井とも呼ばれる「里」は、一辺450㍍の正方形となります。つまり、距離としての一里は、450㍍となります。(あくまで概算です)

 「尺」は、時代によって異なったと知られていますが、多くの物差しに複製されて日常の経済活動に使用されるから、短期間に変動することはなく、長期的にも六倍に変動することは、「絶対に」あり得ないのです。

 結局、記録に見る里は、おしなべて、「普通里」であり、したがって「長里」と呼ぶのは不合理なのです。
 また、畝は、半永久的に継承される土地台帳に記載され、農地面積の基本単位は、時代によって変動することはなかったと思われます。取り敢えず、周短里は見えてこないのです。
 但し、各戸に割り当てられる耕作地の面積は、「牛犂」と呼ばれる標準的農具を牛に引かせるものであり、蛮夷の土地に農耕用の牛がいない場合は、平坦な黄土平原を前提に中国制度で定められた広さの土地は、蛮夷には到底耕作できないのであり、各戸に割り当てられる農地は、その数分の一に過ぎないから、戸数から、その領域の生産力を知ることはできないのです。

 議論の詳細は、大変長引くので、可能な範囲で説明して行きます。

                              未完

倭人伝随想 9 晋書地理志に周朝短里を探る 結論 5/9 更新

               2018/10/26  2018/12/26 修正 2020/11/08 2022/06/01 2024/02/06

□短里制再考
 以下、もう少し手前に遡って、「倭人伝短里」の由来を見極めたいと考えます。

*「地域短里」再考 旧論
 「倭人伝」里数は、短里で書かれていて、これは、現地で実施されていたことの忠実な反映のように見えます。「地域短里」と称されているものです。もっとも、晋書「地理志」には、倭人領域に関する記事が無いので、倭人領域で短里が実施されていたことを証する記事はありません。
 但し、晋書は「倭人伝」を有しているので、魏晋代「地域短里」が制度化され、帯方郡限定といえども、国家制度して運用されていたのであれば、その旨明記されたはずだと言えます。
 晋書「倭人伝」は、魏志「倭人伝」の引き写しではなく、後代史書の限界はあるものの、里制について明言できれば、明言していたはずです。

□晋書「地理志」による里制考
 と言うことで、基本に立ち返って、晋書「地理志」の「里」について考察します。参照されているのは「司馬法」で、該当部分は、「司馬法」の残簡にない逸文となっていますが、別文献で周制であることが裏付けされています。

*古制
 「廣陳三代,曰」と書き出されているのは、夏、殷、周三代の制度を述べる前触れのようですが、資料が残されているのは周朝であり、古制とは、周朝制度と思われます。もっとも、漢字によって文書が記録されるようになったのは、殷代中期以降であり、課題の公文書は存在せず、殷代も、公文書が保管されていたとは思えないのです。

 以下、「井田法」と呼ばれる土地分配の規則が記されていて、土地の広さの単位である、「歩」「畝」「里」の決め方が記されています。

 古者六尺爲步,步百爲畝,畝百爲夫,夫三爲屋,屋三爲井。井方一里,是爲九夫,八家共之。

 「井」が土地区分の単位であり、漢字の形が示すように、縦横三分割されて九個の「夫」から成り立っています。
 「井」は、「方一里」、つまり、縦横一里の正方形となっています。それぞれの「夫」は、百「畝」。つまり、縦横それぞれ十個、計百個の「畝」からなっています。それぞれの「畝」は、百「歩」、つまり、縦横それぞれ十個、計百個の「歩」からなっています。面積系単位の大系が、適確に定義されています。

*歩の起源
 そこで、基本である「歩」(ぶ)をどう決めるかという事ですが、これは、人体「尺」の六倍となっています。
 「歩」と書いていることから、人の歩幅に関連付ける解釈が見られますが、それは、後生人の早計であり、単に、六尺の言い換えとしてこの字が選ばれたとみる方が、明快に理解できるでしょう。
 史料によっては、古来、つまり、秦制で、農作に常用される牛犂の幅が、土地面積測量の単位である「歩」の基準であったと説明している例が見られます。
 後世、「歩」の字の起源がわからなくなって、一歩の幅が単位だとか、いや、二歩の幅が単位だとか、混乱しているようですが、秦制が、そのような曖昧な定義を基準として構築されていたはずはないのです。

 以上の理由から、日本語としての漢字発音は、「ぶ」とした方が、誤解がなくて良いでしょう。

*概算基準の提案
 尺は、人の腕の尺骨の長さで、ほぼ25㌢㍍と仮定します。すると、歩は、150㌢㍍、つまり、1.5㍍のようですが、併せて、一歩を一辺とする正方形の広さ/面積を言うようです。と言うことで、長さでは、一里は三百歩となり、450㍍に落ち着きます。
 このあたり、周制は、別に後世のメートル法やSI単位系を基準に制定されたわけではないのですが、時代、地域によって変動する諸単位の概略を便宜的に固定し、概算しやすい、有効桁数の誇張に到らない、切りの良い数字を採用しようとしているのです。

*長さ、距離と面積~表記の勘違い
 以上の説明で、数字に明るい方は首を傾げると思うのですが、長さの一里が三百歩であれば、「一辺一里の方形」の面積は「一辺一歩の方形」の面積の九万倍となります。一方、「面積一里」が「面積一歩」の三百倍であれば、「長さ一里」は「長さ一歩」の十七倍であり、十七倍の食い違いとなります。長さで言うと、これは、二十㍍となります。いつの間にか、つじつまが合わなくなっているのです。

 仮説推論のための推定ですが、ここで参照される一歩六尺に基づく一里450㍍が、「普通里」(標準里)として、後世まで一貫して実施されたのでしょう。
 ちなみに、「倭人伝」の道里は、「千里」が単位であり、ひょっとすると、一「千里」に始まって、三「千里」,五「千里」,七「千里」と飛び飛びであり、以下、十「千里」、十「二千里」となっていたかもしれないのです。そうであれば、道里の足し算は、算木と呼ばれる一桁計算器具で行えば良いのであり、「算用数字」も、「横書き多桁表示」も、ソロバンも、「メモ用紙」もなくても、確実に計算できるのです。
 因みに、漢文には、文書横書きの風はなく、掲題(掲額)で横書きするときは「右から左に書く」と決まっていたので、厳重に注意しないと、時代錯誤に陥るのです。(国内史料も同様なのですが、近年、古代史論説にも、時代錯誤の欧風横書きがのさばっているので、気づかない人が多いようです。いや、当ブログ記事も、他に方策がないので、しかたなく横書きで公開しているのです)

 農地面積「歩」、長距離「里」は、それぞれ、社会制度の別の局面で適用され、「尺」の変動に関係無く、固定されていたものと見ます。

                              未完

追記 尺、歩、里を、25㌢㍍、150㌢㍍、450㍍と統一しました。これは、あくまで、計算しやすい概数に丸めたものであり、絶対正確と主張しているものではありません。あくまで、提案です。
 また、時代錯誤極まりない算用数字の弊害で、桁数が多い数字であって精密と誤解されるので、有効数字を二桁弱に減らしたものです。
   2020/11/08

 いや、道里計算の場合、一里五百㍍(1/2公里)に丸めた方が、暗算しやすいのであり、そのように古代風に表記すれば、㍍の桁や、それ以下に意味がないことが明示されて、無用の誤解が無いように思われます。
   2024/02/06

倭人伝随想 9 晋書地理志に周朝短里を探る 結論 6/9 更新

               2018/10/26  2018/12/26 修正 2020/11/08 2022/06/01 2024/02/06
*井田受田
 一夫一婦受私田百畝,公田十畝,是爲八百八十畝,餘二十畝爲廬舍,出入相友,守望相助,疾病相救。

 井田制度では、農民は、二十歳で、私田百畝、公田十畝の計百十畝の「良田」(適切な灌漑状態、土壌の肥沃さを持つ適格な「田」、即ち、水田とは限らない「農作地」であり、一律の課税条件を適用される「田」であり、耕作に適さないものではないということを示す)を受け、六十歳で返納するまで、毎年の収穫時に公田からの収穫を税として上納すると書かれているようですが、それは、せいぜい一割の税率であり、古来、そのような低税率で運用された政府は無く、実際のものとは思えないのです。まして、耕作者の努力により、規定以上の収穫を得れば、それは、収穫者の取り分になるという、奨励策も含んでいたものです。(農奴が、叱咤しない限り怠慢になるのと対極です)

*軍制、地方官規定への拡張

 司馬法には、井田を基礎とした周の軍制、地方官制が書かれています。

 十井、つまり、一里方形の井を出発点に、十井を通、十通を成とし、成は、一辺十里方形とします。続いて、十成を終、十終を同とし、同は、一辺百里方形とします。続いて、十同を封、十封を畿とし、畿は一辺一千里方形としてす。
 丁寧に、一里に始まる十倍階梯で帝国の広域に結びつけています。

 令地方一里爲井,井十爲通,通十爲成,成方十里。成十爲終,終十爲同,同方百里。同十爲封,封十爲畿,畿方千里。

 これと別に、四井を邑とし、四邑を丘とし、この丘は、十六井としています。丘ごとに、戎馬一匹、牛三頭の保有が課せられています。

 故井四爲邑,邑四爲丘,丘十六井,有戎馬一匹,牛三頭。

 続いて、四丘を甸とし、田は、六十四井としています。井は、戎馬四匹、兵車一乗、つまり、四頭立ての兵車一台に加え、牛十二頭、甲士三人、卒七十二人を有します。これを、乗車の制と言い、兵車乗数の計算基準となります。(甸 ①天子直属の都周辺の土地。「甸服」「畿甸(キデン)」 ②郊外。 ③おさ(治)める。 ④農作物。 ⑤かり。狩りをする。かる。)

 四丘爲甸,甸六十四井也,有戎馬四匹,兵車一乘,牛十二頭,甲士三人,卒七十二人。是謂乘車之制。

*地方官規定への拡張
 同は、一辺百里であり、領地は一万井となります。但し、領地内には、山川、坑岸、城池、邑居、園囿、街路など、耕作地外の土地が三千六百井であり、残る六千四百井が出賦で、戎馬四百匹、兵車百乗を有します。領主である卿大夫は百乗の家と呼ばれるのです。

 一同百里,提封萬井,除山川、坑岸、城池、邑居、園囿、街路三千六百井,定出賦六千四百井,戎馬四百匹,兵車百乘,此卿大夫菜地之大者也,是謂百乘之家。

 と言うことで、里は、各地領主の軍備計算の根拠であり、兵車の乗数は領主の権威の格付けでもあります。

*魏志「東夷伝」~「方里の推定」
 因みに、以上のような拡張は、所定の領域内が、ほぼ平坦で半ば以上が耕地という前提なので、これは、中原領域では当然/自明でも、荒れ地の多い領域では、通用しないのです。
 魏志「東夷伝」では、「倭人伝」に先立つ、高句麗、韓の両地域の記事で、ともに、山谷が多くて農地(良田)が少ない土地柄が書かれていて、戸数から土地の生産力を知るという手順が成立しないことが書かれています。して見ると、魏志「東夷伝」では、対象領域の面積を知っても、意味がないことは自明であり、むしろ、対象地域の土地台帳を集計した耕地面積が重要だという認識にいたものと考えます。
 魏志「東夷伝」で起用された韓地の「方四千里」などの記法は、面積管理に努めたものと見るべきであり、「里」と書かれていても、「道里」ではないと思われます。
 このように、当時の教養を踏まえた上で、教養に外れた点を十分予告した上で、未開の荒れ地である「倭人」の道里や戸数が報告されていると見るべきなのです。
 「二千年後生の東夷の無教養な東夷」は、史官が、当時の読書人/教養人が、多少の努力で正解できるように丁寧に予告した事項/深意/真意を理解した上で、「倭人伝問題」(Question)と言う文章題の解釈、回答に挑むべきなのです。

 念のため付記すると、面積単位系の「里」、「歩」は、古代算術教科書であり、解答付き演習問題集である「九章算術」の用語から推定したものです。当ブログ筆者の独創ではありません。
                               未完

倭人伝随想 9 晋書地理志に周朝短里を探る 結論 7/9 更新

         2018/10/26  2018/12/26 2019/01/29 修正 2020/11/08 2022/06/01 2024/02/06

*天下のかたち
 司馬法は、さらに、高位の軍制を示しています。

一封三百六十六里,提封十萬井,定出賦六萬四千井,戎馬四千匹,兵車千乘,此謂諸侯之大者也,謂之千乘之國。

 封は、三百六十六里(正しくは三百十六里)で一万井となります。うち、六万四千井が出賦で、戎馬四千匹兵車千乗を有し千乗の君と呼ばれます。

天子畿內方千里,提封百萬井,定出賦六十四萬井,戎馬四萬匹,兵車萬乘,戎卒七十二萬人,故天子稱萬乘之主焉。

 天子の畿内は、方千里で、地は百万井。六十四万井が出賦で、戎馬四万匹兵車万乗を有し、天子は万乗の君と呼ばれます。
 因みに「東夷」のいう「畿内」は、かってな盗用であり、中国視点で書かれた文書であれば「畿内」は、大逆罪に当たる不法なのです。つまり、
これは、中国から蕃王として服属を認められた東夷には、あり得ない誤用なのです。

*遠大な構想
 以上のように、周制は、尺から始まって、天子の直轄領分である一辺千里(一辺四百五十㌖)に至る倍率の階梯がきっちり規定されていて、勝手に、一部をずらすことはできない仕掛けです。
 天子直轄領は、約二十万平方㌖で、 本州島面積の約二十三万平方㌖に匹敵しますが、これは、周王朝の京畿であり、諸国所領はこれを越えているものがあったと見えます。

*秦制の意義
 秦が天下統一した後、周衰亡の原因として総括したのは、このような形式的軍制が、周辺勢力への防衛にならなかったと提起され、始皇帝は、「乗」数軍制を廃棄しましたが、周制の里規定に手を加えたり、一歩六尺を新設したのではないのです。秦国として確固たる実績のある、精緻を極めた法律や度量衡制度を全国に徹底するのが、帝国の使命とみていたのです。

 また、「里」と連動した土地面積単位として「畝」「歩」が存在しているので、いかに始皇帝でも、土地検量、税の付け替えは避けたとは思うのです。

*秦朝の里制変更
 いや、当方にも意外だったのですが、司馬法のみならず、晋書地理志自体の記事にも、秦始皇帝が里制、井田制などを改めたとの記事は無いのです。
 井田制は、単に廃止されたのでしょうが、里制は廃止できないので改定すれば記録が残るはずです。特に周制の定義が延々と引用されている以上、里制の変更だけ実施することはできないのは自明です。

 と言うことで、秦始皇帝は、周制による尺、歩、畝、里から天下に至る大系に手を加えなかったと見えるのです。
 再確認すると、秦が、それまで、自国内で施行していた諸制度を文書化して、全国に徹底したと見ることができます。

*地域短里制の消滅
~旧説の終末
 ついでながら、「倭人伝」道里記事から明確に読み取れる里制は、朝鮮半島に実施されていたかも知れません。晋代に、三韓体制と楽浪郡、帯方郡支配が崩壊し、郡の確立した戸籍、地籍の台帳は、東西に勃興した新興の新羅、百済が東西が国家制度を整備する際に利用されたとも見えます。
 あるいは、隋唐の指示に従い、現地の不規則な里制を廃し、普通里による土地制度が敷かれたかとも思われます。その結果、短里制は倭独特の「倭里」として辺境に生き残ったものの、倭の消滅と共に、日本里制に置き換えられたと見えるのです。

 以上は、本記事の初期段階では、それなりに筋が通った推測とみたのですが、以降、史料を精査した結果、これは、根拠の無い憶測にすぎず、「倭人伝」道里記事の「道里」が、地域の公的な制度として実施されていたという証拠は一切ないので、旧説『「地域里制」はなかった』と訂正することになったのです。
 魏志「東夷伝」を読む限り、後漢末期の献帝建安年間、遼東郡太守となった公孫氏が、楽浪郡南部の帯方縣に「帯方郡」を設け、南方の耕地、つまり、土地制度の確定していない領域を帯方郡の管理下に置いたと言うことは、後漢の郡太守である公孫氏が、後漢の土地制度、道里を敷いたと言う事であり、それは「普通里」に決まっているのです。それ以前と言えば、遼東郡は、秦始皇帝が置いたものであり、楽浪郡は、漢武帝が置いたものですから、秦漢代の土地制度、道里制度に基づくものでしかないのです。

 斯くして、当ブログで維持していた旧説は、終止符を打たれたのです。

                               未完

倭人伝随想 9 晋書地理志に周朝短里を探る 結末 8/9 更新

               2018/10/26  2018/12/26 修正 2020/11/08 2022/06/01 2024/02/06

*周里の意義 削除
 と言うことで、距離の単位としての里が周制から六倍になったという仮説と整合させる策としては、周制の里は、尺、歩から積み上げたものでなく、別の根拠を持つ、言うならば独立した単位系でなかったかということです。

*次元の違い 削除
 井と里が合同なら、里を六倍に拡大すると、下は、歩から天子領分まで倍数で定義されている全体系が連動しますから、それは不可能というものです。 
 絨毯を敷き詰めた部屋にテーブルを置いた会場で、絨毯の一角を別の場所に移すことなど不可能なのと同じです。

*同文同軌 周秦革命 削除
 周里が長さの単位(一次元)で、井(二次元)と無関係(異次元)であり、秦朝が、何かの理由で周を井に同期したのなら、同文同軌の里制変更で里程が影響されても、日常使用の歩、畝は変動せず、混乱はなかったのです。また、些細な改定ということで、里長の変更は記録に残らなかったのでしょう。

 先ほどの例で言うと、絨毯の一角が本来別物で、縫い付けられているだけであれば、そこだけ、剥がして移動できるのです。

*結論 削除
 と言うことで、経緯は不明ですが、周里が短里としても史料に書かれている周制と矛盾しないという見方です。何しろ、秦始皇帝が周制を覆してから、陳寿の三国志編纂まで五百年、房玄齢の晋書編纂まで九百年経っていたのですから、いくら公文書類と言っても、正確な伝承には限界があったし、何事も組織的に定義するとしても、全て定義できるものでもないものです。
 
 どんなものにも欠点はあるのです

*現地里制の確認
 原点に戻って、延々と模索した結果、古田氏の第一書で提示された論考と提言は、見事に構築されていたものの、その展開に於いて、根拠に欠ける作業仮説が、基礎として起用されていたものであり、不適切な部分をそぎ落とした核心だけが、ほぼ論証されたものと思います。

 即ち、「倭人伝」里制の由来は多少不確かでも、⑴現地里制を適確に示しているとする意見を覆すものでないということです。また、別系列の史料により、⑵周朝が短里を実施していたことは、ほぼ信じて良いでしょう。 この項は撤回します。
 
 晋書「地理志」から判断すると、⑶以降については、成立しないものと思いますが、以下に、可能性に乏しくとも、別史料で覆る判断かも知れないので、意識の片隅に留めておけば良いものでしょう。

 以上、一介の素人の意見ですから、別に権威はないのですがものの理屈として、筋が通っていると思うので、ご参考まで公開したものです。
 以後、少なからぬ改訂を要しましたが、できるだけ、改訂の履歴がわかるようにとどめています。

*従郡至倭の始点/終点 2024/02/07
 最近の考察によれば、「倭人」は、後漢代、東夷の管轄であった楽浪郡に参上したものであり、従って、その際に申告された道里は、雒陽から公式道里が登録されていた楽浪郡が「始点」と見られます。また、その時点で「倭」王の居処は、伊都国の国城であったものと見られます。これは、「倭人伝」で、郡からの使者は、伊都国に滞在したと書かれている点から、伊都国が公式道里の「終点」であったことは、明らかです。

 但し、その時点では、まだ、遼東郡が、帯方郡を東夷管理拠点として「倭人」を管理させる制度は発足していたなかったものの、霊帝没後の騒動もあって、楽浪郡の報告は、雒陽に届いていなかったものと見えます。
 陳寿が、西晋代に「倭人伝」の道里行程記事を集成している段階には、「始点」は、皇帝直轄の帯方郡であり、「終点」は、女王の居城となっていたと見えますが、公式史料/公文書では、行程道里の終点、始点は、あくまで、初見段階、皇帝に報告をあげた時点のものであり、実務に応じて改定されるものではなかったのです。
 陳寿は、史観の器量で、具体的な郡名、倭王居処を書かないことによって、そうした細瑾を表明しなかったと見えます。どのみち、雒陽から、帯方郡に至る公式道里は、奏上されていなくて、遂に、後年の帯方郡消滅まで、そのような記録は残されなかったのです。ここに、公式に認知されていない帯方郡を始点とする道里を書くのは、史官として、不都合なことだったのです。 

*文書送達日数/全権都督 2024/02/07
 いずれにしろ、魏制では、「郡から倭に」送られた文書は、伊都国の文書官が受領した時点で、倭に届いたとされるので、それ以後、伊都国王が受領しようが女王が受領しようが、日程管理には関係なかったと見えるのです。
 ここで、纏向説を追い詰めないように弁明すると、一度、郡との文書更新の公式規定が承認されたら、漢制/魏制として、倭の内部体制の問題似よって、伊都国王が、「幕府」を許された西方都督/全権代理であれば、帯方郡太守に対等の立場で応答しても、何の問題も無いのですから、物理的/地理的に、伊都国王(西域都督/大宰)と纏向に仮定された「大倭王」との間が、遠隔で疎遠でも、特に問題ないのです。

                               以上

倭人伝随想 9 晋書地理志に周朝短里を探る 結末 9/9 更新

               2018/10/26  2018/12/26 修正 2020/11/08 2022/06/01 2024/02/06

*当ページは、主として史料考察のために追加されたものです。

*里の起源(「釋名」劉煕:後漢)
 参考まで、冒頭で論議した釋名の「定義」を掲げます。(中国古典書電子化計劃)

 釋名:周制,九夫為井,其制似井字也。四井為邑,邑,猶悒也,邑人聚會之稱也。四邑為丘,丘,聚也。四丘為甸,甸,乘也,出兵車一乘也。

 ここまでは、司馬法と同内容です。

五家為伍,以五為名也。又謂之鄰,鄰,連也,相接連也。又曰比,相親比也。
 五鄰為里,居方一里之中也。五百家為黨,黨,長也,一聚之所尊長也。
 萬二千五百家為郷 郷,向也,眾所向也。

 以下、少々検討を加えます。
 「釋名」は、中国の州名や国名の由来を明らかにした古典書籍、一種の辞典であり、その一部の「釋州国」に、「家」、「里」などの由来が記録されています。それらの定義は、主として周代の史料から引用して集成されたものと思われます。

*里の起源 一説
 古来、つまり夏殷周の三代で、五家を「鄰」として、五鄰(二十五家)を里とし、里の一辺を「里」としたようです。ちなみに、里の首長、里長は、里の中央に社を設けて氏神を祭祀したようです。当時は、万事小振りの商(殷)代であって、憶測ですが、里は(約)15㍍で、殷を継ぐ周はそれを維持したようです。一家は15㍍四方となります。(以下、約を省略)
 このように、里は集落であり、転じて距離単位にもなったのです。

*里の変貌 一説
 夏殷周文明の影響下にあった中原諸国に比べて、遅れて文明に浴した秦は、古制にあった距離単位の里を、自国の大家族世帯の格好に合わせて、周里の六倍の450㍍とし、統一王国を築いたときにこの長里が全土に適用されたのでしょう。
 周里を適用していたであろう各国王家が滅び、「同文同軌」と共に、秦里で一新、測量されたのでしょう。里制に限らず、社会制度の根幹が一新されるのは、史上類の無い同文同軌の一大変革の際に限られるのです。
 但し、距離単位の里が六倍となったために、集落としての里は三十六倍となり、周の時代と大きくかけ離れたものになったのですが、先に述べたように、これを周の井田制という土地支給制度の「井」と合わせたので、見かけ上、周里は、秦に引き継がれたように見えたのです。

*周制の名残り 一説 削除
 朝鮮半島東夷は鄙で秦里は及ばず、周里制を維持したのでしょう。秦漢で、下級役人となった大夫が、周と同様の高官となって、東夷に残ったのと同様と思います。

*史料の検索
 古田武彦氏は、緯度ごとの太陽高度の変化に周里の定義の裏付けを求めて、75㍍程度の概数を確認したとしていますが、当ブログは、あくまで、史料に根拠を求めたのです。

▢一説の終わり
 以上は、初稿時に捻り出した言い訳ですが、以降の検討で、半ば取り下げとしています。
 2022/06/01時点では、「倭人伝」道里は、公的里制と関係しないものであり、当時、遼東で半ば自立していた郡太守公孫氏が、「倭人」を万二千里の僻遠の蕃夷として権威付けを図ったものが、公孫氏滅亡時の混乱で、魏明帝曹叡に、文字通りに上申されたものであって、実際の道里と関係無い「見立て」であったというものです。

 2024/02/06の総括としては、次の通りです。
 公孫氏の内部文書は、司馬懿によって蹂躙され、悉く廃棄されたものですが、楽浪/帯方両郡は、司馬懿軍とは別に明帝が派遣した別働隊によって、無血回収されたので、両郡公文書は、明帝の元に届けられ、公孫氏の見立てた「従郡至倭萬二千里」記事が嘉納され、「倭人伝」記事として公文書庫に収まったため、明帝没後、「倭人」事情が明らかになっても、不可侵文書として承継されたようです。
 案ずるに、倭人伝冒頭の道里行程記事は、魏志編纂にあたって、すべての公文書を精査した結果、「従郡至倭萬二千里」を温存せざるを得なかった陳寿が、郡を発した文書使が「倭」に至る所要日数/公式日程が四十日であると明記したものであり、同時代の読者/高官が、それで良しとしたため、現在の記事が正史蛮夷伝として残ったものと見ます。

 当ブログでは、「倭人伝」道里に関する設問/問題(Question)に対して、史料を読み替える必要のない善解(Solution)が整ったものと考えています。

 補足:以上では、「従郡至倭萬二千里」 の由来を、後漢献帝建安年間に、公孫氏が、遼東郡太守となり、漢武帝設置の楽浪郡を支配下としたときに、「倭人」を絶遠の蛮夷として、新たに服属を求めたものとしていますが、これは、あくまで一解であり、あるいは、それ以前、漢制で半島南部以南の東夷の監督を担当していた楽浪郡が「倭人」を絶遠の新参東夷として台帳登録していたことも考えられます。時は、桓帝、霊帝以降ということになりますが、何しろ、「倭人」に関する記録が雒陽に報告されていなかったので、「公文書記録」が欠落したと見えます。
 因みに、公孫氏が「倭人」の存在に、早々に気づいたとしても、後漢献帝の建安年間初頭、韓国以南の領域は、街道未整備の「荒れ地」であったため、取り敢えず、楽浪郡「帯方縣」を郡に昇格させて、韓国を歴て「倭人」に到る街道行程の整備取りかかっただけだったようです。
 何しろ、「倭人」に文書を送達するにも、文書使は、並みいる韓「諸国」を歴訪した上で、ようやく、倭の在る大海の北岸狗邪韓国海岸に至るのであり、倭地行程は知る由もなく、公式道里とできる確実な行程が判明するのに年数がかかったのです。
 中でも、半島中南部で、屏風のように領域を仕切っている小白山地の彼方の半島東南部の「嶺東」領域は、面積広大とは言え、未開の「荒れ地」そのものであり、辛うじて、南方の産鉄鉱山から産出する鉄を、帯方郡に納付する任務を与えたものの、郡街道として定着するまでには、年数を要したようです。
 そんなこんなで、何とか、三世紀当時の帯方郡文書使の服務規程を察することができたのです。

                             以上

2024年2月 1日 (木)

私の意見 倭人伝「之所都」の謎 再掲

                           2022/01/21 2024/02/01
〇はじめに
 「倭人伝」の「之所都」解釈の同業各派を通じて広く信じられている「通説」は、陳寿の真意ではないようである。
 「之」に続くのは、本来一字であり、二字句を続けている例は希である。「所都」は、「都とする所」と解するかどうかは別として、二字句に見える。勘定が合わない。
 つまり、順当な解釈は、「之所都」と続けず、「之所」で区切るのである。
 正史夷蕃伝である「倭人伝」は、国王/国主の居城を明記することが求められているが、道里行程記事で行きついた後、女王居処が「邪馬壹国」であると明記され、全所要日数が確認された上で、初めて一段落できるのである。

*魏志の権威
 但し、後世文筆家は、言わば、早とちりで魏志「倭人伝」に「之所都」用例を見て追従したようである。正史「魏志」の権威は絶大で、以後、各代の史学者は、「倭人伝」を典拠としたようである。
 世間には、「倭人伝」を独立した「本」(日本語)と誤解することがあるが、あくまで、魏志第三十巻掉尾であり、魏志の一翼としての「権威」を身に纏っているので、二千字といえども「小冊子」と侮ってはならない。「所都」の典拠となったのは、誤解であろうと何であろうと、そのような権威の故である。
 用例検索の結果、「之所都」に、精査に耐える有効な前例はなかったのである。また、「所都」の「都」は、漢魏代では、蕃王居処に不適切であり、周秦漢魏と継承されていた「古典教養」を継承していた西晋に於いて史官の職に任じられていた陳寿には、当然、そのような意図は、一切なかったのである。
 「古典教養」の継承がいったん断裂した後世の類書編者は、古典書に不案内で「都」の禁制など身についていなかったから、無造作に「女王之所都」と読んだのである。太平御覧など類書の所引は、倭人伝の深意を探る「掘り下げ」など念頭に無く、ぱっと見の早呑み込みなので、当たり外れが、激しいのである。外すときは、従って、大きく外すのである。と言うことで、中国史学会の見解といえども、時にあてにしてはならないものがあるのである。まして、後世東夷の無教養な「史学者」の見解は、三度読みなおして、威儀を正すべきなのである。
 ここでも、各種字書、用例の継ぎ接ぎ細工に頼るのでなく、「倭人伝」の適確な解釈は、陳寿の真意を察するのが正解への唯一の道なのである。くれぐれも、裏街道、抜け道、禽鹿の径の類いは、いくら、普通の早道に見えても、よい子は踏み込まないことである。

〇「之所都」用例談義 中国哲学書電子化計劃
 「倭人伝」(ないしはそれ)以前に由来すると思われるのは、二例と見える。
*太平御覽 地部二十七 鎬
 水經注曰:鎬水上承鎬池於昆明池北,周武王之所都
 「水経注」は、中国世界の全河川を網羅して、水源から河口までの各地の地名由来を古典書から収録している。「鎬水」水源「鎬池」が昆明池の北で「之所都」は、周武王が「都」とした意味としても史実は不明で王城名もない。他用例は「武王所都」(説文解字)で「之」を欠いている。
 共通しているのは、後世崇拝された周武王なる無上の存在の「都」であり、東夷蕃王が、正史蛮夷伝に於いて、同列に扱われることなど到底あり得ないのである。

*太平御覧 四夷部三・東夷三 倭
 又南水行十日陸行一月至耶馬臺國戶七萬女王之所都
 「御覧所引」魏志は、読み損なって杜撰に縮約している。「倭人伝」と前後して文意誤伝であり、「耶馬臺國」は、 誤字で開始していて、信用できるものではない。「正解」は一例に収束するが、「誤解」は多様であり、また、一度誤解されたものは、拡散、迷走していくだけで、正解に復帰しない。と「所引」批判できる。

〇鹽鉄論談義
 通典 食貨十 鹽鐵 【抜粋】   中国哲学書電子化計劃
又屯田格:「幽州鹽屯,每屯配丁五十人,一年收率滿二千八百石以上,準營田第二等,二千四百石以上準第三等,二千石以上準第四等。(略)蜀道陵、綿等十州鹽井總九十所,每年課鹽都當錢八千五十八貫。(略)榮州井十二所,都當錢四百貫。(略)若閏月,共計加一月課,隨月徵納,任以錢銀兼納。其銀兩別常以二百價為估。其課依都數納官,欠即均徵灶戶。」以下略
 「榮州井十二所,都當錢四百貫」は、塩水井戸十二「所」、「都」は、塩水井戸課税「総計」四百貫/十二ヵ月である。(閏月は、一ヵ月分課税)

 当史料で「總」(すべて)は、「蜀道陵、綿等十州鹽井總九十所」のように、管内塩井数の総計としているので、課税総計は、「都」(すべて)と字を変えたようである。つまり、「所都」と続けての用例ではない。

 塩の専売による財政策は漢武帝代創設であり、以後、後漢、魏の公文書館に順次継承され通典に所引されたと見える。つまり、倭人伝に先行と見える。
 因みに、先賢の説に依れば、「塩鉄専売」収入は、この時、無から創設された制度で無く、古来、つまり、遅くとも、秦始皇帝の制度として実在したものであり、それまで帝室の収入、つまり、皇帝の私費であったものが、武帝の大規模な外征や河水治水工事への大盤振る舞いのせいで、国庫が枯渇しかけたので国庫収入に付け替えたようである。それまで、いかに、秦漢初期の帝国財政が豊かであり、帝室の私的な財産が厖大であったか、窺い知ることができるのである。

 何にしろ、当時の「経済活動」の規模と成り行きは、現代人の想像を遙かに超えていて、そのくせ、当時の知識人には、当然のことなので、記録に残っていないことが多いのである。くれぐれも、現代人の良識で判断しないことである。

〇「之所都」解釈案
 本稿の結論としては、「之所都」と並んでいても、「都」が総計の意味の場合は、連続させない例として有効で、「倭人伝」解釈に有益と考えて本稿を残したのである。

 因みに、国内古代史学界は、「都」の大安売りであるが、三世紀時点の用語解釈すら不確かなのに、以後化石化した国内用例の解釈と敷衍には、慎重の上にも慎重であって欲しいものである。先賢顕学諸兄姉が、念押しするように、中国史料は、中国人によって、中国人が解釈すべく、中国語で書かれているから、中国人ならぬ後世東夷のものは、適切な教養をもって、中国語として解釈することが、必須なのである。

                                以上

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