倭人伝新考察

第二グループです

2021年9月26日 (日)

05. 名曰瀚海 - 読み過ごされた絶景 補充

                              補充 2021/09/26      

 又南渡一海千餘里,名曰瀚海,至一大國
 倭人傳の主眼の一つである「従郡至倭」行程、つまり、帯方郡治を出て倭の王城に到る主行程には、その中心を占める三回の海越え、渡海が書かれています。陳寿が範を得た漢書西域伝では、陸上行程の連鎖で萬二千里の安息国に至っているのですが、ここに新たに書き上げようとしている「倭人伝」では、前例の無い、渡海の連鎖で、日数、里数を大量に費やしていて、これまた前例の無い「水行」と新たに定義した上で、記事をまとめています。このあたりの事情は、この場所には収まらないので、別記事を延々と書き募っていますから、ご縁があれば、お目にとまることもあるでしょう。

 そして、三度の渡海の中央部の記事に、あえて、「瀚海」と書いています。まことに、珍しいのですが、何度も書いているように、この行程は、前例の無い、不思議な書き方になっているので、同時代の教養人といえども、何気なく読み飛ばすことはできなかったのです。つまり、飛ばし読みさせない工夫をしているのですから、現代の「東夷」の知識、教養では、読み解くのがむつかしい(不可能)のも当然です。

 慎重な読者は、ここで足を止めて、じっくり調べるものです。と言っても、この仕掛けは、ここが最初でもないし、最後でもないのです。子供が坂道を駆け下りるように、向こう見ずな暴走をしないようにご注意下さい。まして、転んで痛い目に遭ったのを、陳寿の書法のせいにしないでほしいものです。これまで、ほとんど二千年と言っていい、長い、長い期間に、多数の教養人が「従郡至倭」記事を読んで、「陳寿の筆法を誹っている」例は、見かけないのです。

 閑話休題
 以前から、特別な難所ではないのかと考えていたのですが、今回参照した中島氏の著作では、霍去病の匈奴討伐時の事績を参照して、この海峡を、越すに越されぬ難所として名付けられているとみています。海図や羅針盤の無い(要らない)有視界航行で、一日一渡りするだけと言えども、楽勝ではなかったと言うことです。
 まことに妥当な意見と考えます。

 こうしてみると、単に、三度海越えを繰り返したのではないのです。

 ちなみに、「倭人傳」解釈諸作が、原史料を尊重しているかどうかの試験の一つが、「一大國」がそのまま取り上げられているかどうかです。
 いきなり、「壱岐國」と書かれていたら、それだけで落第ものと思うのですがね。まあ、親亀、子亀の俗謡にあるように、子亀は上に載るだけという見方もありますが、堂々と解説書を出版する人が、「子亀」のはずがないでしょう。

以上

*随想 「翰海」と「瀚海」 2021/09/26
「票騎封於狼居胥山,禪姑衍,臨翰海而還」
 実は、史記/漢書に共通な用例「翰海」は、さんずいが無いものであり、中々意味深長なものがあります。

 漢字用例の集大成とも見える、「康熙字典」編者の見解では、もともと「瀚海」なる成語が知られていたのを、漢書「匈奴伝」などでは、あえて「翰海」と字を変えたと解しているようです。つまり、匈奴伝などでは、匈奴相手に大戦果を上げ、敵地の「漢軍未踏」領域に進軍した霍去病驃騎将軍が、山上から瀚海/翰海を見渡した後、軍を返したことになっています。因みに、ほとんど同記事が、漢書に加えても史記にも引かれていて、この一文が、当時の著述家の鑑になっていたと偲ばれます。

 そこで思うのですが、それほど珍重された「翰海」は、通俗字義である「広大」(浩翰/浩瀚)で越せない難所という意味なのか、何か「瀚」海でなく「翰」海で示すべき感慨があったのかということです。一種の「聖地」「絶景」でしょうか。

 そして、陳寿が、後に倭人伝をまとめる際に先例を踏まえて「瀚海」としたのは、どのような意味をこめたかということです。思いを巡らすのは、当人の好き好きですが、陳寿の深意を探る試みに終わりはないのです。 

 そこで、また一つ憶測ですが、「瀚」は、水面にさざ波が広がっている、羽根で掃いて模様を描いたような眺めを形容したもの(ではないか)と見たのです。

 このあたり、用字の違いが微妙ですが、霍去病の見た「翰海」が、氵(さんずい)無しと言うことは、これは「砂の海」かと思えるのです。つまり、茫々たる砂の上に、羽根で掃いたような模様が広々と見えたので、大将軍も戦意をそがれて、引き返したとも見えるのです。
 もちろん、これは、よく言われるように、どこかの湖水の水面を見たのかも知れませんが、文字解釈にこだわると、「砂の海」に見えるのです。

 このあたりの解釈は、洛陽で史官を務めた陳寿の教養になっていて、帯方郡から對海国に着いた使人の感慨で、目前の海面が、羽根で掃いたような模様に満たされていたとの報告を、一言で「瀚海」と氵付きで書き記したようにも思えます。

 以上、もちろん「状況証拠」なので、断定的に受け取る必要はありませんが、逆に、状況を、じっくり考察に取りいれた盤石の「状況証拠」は、否定しがたいと思うのです。何事も、はなから決め付けずに、よくよく確かめて評価するもの(ではないか)と思うのです。
 いや、「状況証拠」は、本来「法学部」の専門用語なので、当記事筆者のような素人が、偉ぶって説くべきものではないでしょうが、世間には、素人考えの勘違いの方が、もっともらしく「はびこっている」可能性があるので、一言警鐘を鳴らしただけです。言いたいのは、一刀両断の結論に飛びつくと、足元が地に着いていなくて、ケガをするかも知れないと言うだけです。

以上

2021年8月19日 (木)

私の意見 「卑弥呼王墓」に「径」を問う 前編      1/2

  字書参照、用例検索  2021/08/19

〇倭人伝の道草~石橋を叩いて渡る
 まず、倭人伝の「卑彌呼以死,大作冢,徑百餘步」の「徑」は、「径」と「步」は、「歩」と同じ文字です。ここで、「冢」は円墓、「径百余歩」の「径」は、直径、差し渡しとの解釈が当然としているようですが、古典解釈では、当然は、思い込みに繋がりやすくもっとも危険です。以下、概数表記は略します。
 当方は、東夷の素人であるので、自身の先入観に裏付けを求めたのが、以下の「道草」のきっかけです。

〇用例検索の細径
*漢字字書の意見
 まずは、権威のある漢字辞典で確認すると、「径」は、専ら「みち」、但し、「道」、「路」に示される街道や大通りでなく「こみち」です。時に、わざわざ「小径」と書きますが、「径」は、元から、寸足らず不定形の細道です。

 ここで語義探索を終われば、「径百余歩」は、「冢」の「こみち」が百歩となります。女王の円墳への参道が、百歩、百五十㍍となります。
 榊原英夫氏の著書「邪馬台国への径」の深意かと想ったものです。

 それは、早計でした。漢字字書には限界があって、時に(大きく)取りこぼすのです。

*古典書総検索
 と言うことで、念入りに「中国哲学書電子化計劃」の古典書籍検索で、以下の用例観を感じ取りました。単漢字検索で、多数の「ヒット」がありますが、それぞれ、段落全体が表示されるので、文脈、前後関係から意味を読み取れ、勘違い、早とちりは発生しにくいのです。

*「径」の二義
 総括すると、径(徑)には、大別して二つの意味が見られます。
 一に、「径」、つまり、半人前の小道です。間道、抜け道の意です。
 二に、幾何学的な「径」(けい)です。
  壱:身辺小物は、度量衡「尺度」「寸」で原則実測します。
  弐:極端な大物は、日、月で、概念であって実測ではありません。
 流し見する限りでは、円「径」を「歩」で書いた例は見られません。

 「歩」は、土地制度「検地」単位で、「二」の壱、弐に非該当です。史官陳寿は、原則として先例無き用語は排します。「径百余歩」は確定できません。

*専門用語は専門書に訊く~九章算術
 探索を「九章算術」なる古典書に広げます。算数教科書で検索から漏れたようです。「専門用語は専門辞書に訊く」鉄則が古代文献でも通用するようです。

 手早く言うと、耕作地測量から面積を計算する「圓田」例題では、径、差し渡しから面積を計算します。当時、円周率は三です。農地測量で面積から課税穀物量計算の際、円周率は三で十分です。それだけでも、一仕事です。

 それはさておき、古典書の用例で、「径」「歩」用例が見えないのは、「歩」で表す戸別農地面積は、古典書で議論されないと言うだけです。
 個別耕作地は円形の可能性がありますが、行政区画に円形はないのです。
 このあたりに、用例の偏りの由来が感じ取れます。
 上級(土木)で墳丘の底部、頂部径で盛土量計算の例題が示されています。

 以上で、「冢径百余歩」は、円形の冢の径を示したものと見て良いようです。

                                未完

私の意見 「卑弥呼王墓」に「径」を問う 後編      2/2

 幾何学的考証、「方円論」         2021/08/19

〇幾何学的考証
 以下、「冢径百余歩」が幾何学的「径」と仮定して、考証を進めます。

*径は円形限定
 「径」は、幾何学的に円形限定です。学術用語定義ですから、曖昧さも、曲筆もありません。
 液化学図形の形状再現は、普通は困難ですが、円形は、小学生にも可能な明解さです。五十歩長の縄と棒二本でほぼ完璧な径百歩円を描き、周上に杭打ち縄張りして正確な円形が実現できます。
 対して、俗説の「前方後円」複合形状は、「径」で再現可能という必須要件に欠け、明らかに「円」でないのです。
 たしか、「方円」は、囲碁で方形盤に丸石を打つのを言うと記憶しています。

*「前方後円」~不適切な伝統継承
 「前方後円」なる熟語は、同時代には存在せず、近現代造語であり、いかにも非幾何学用語であり、いずれ、廃語に処すのが至当と考えます。
 丁寧に言うと、「前方」部は、方形でなく台形で、通称として俗に過ぎます。
 いずれにしろ、「前方後円」形状に「径」を見る、後代東夷の解釈は不当であり、これを三国志解釈に持ち込むのは、場違いで、不当です。

*矩形用地の表現方法
 かかる墳丘墓の規模を、実務的に形容するには、まずは、用地の縦横を明示する必要があります。そうすれば、用地の占める「面積」が具体化し、造成時には、円部の盛り土形状と方部の形状が推定でき、盛り土の所要量が算定でき、全体としての工事規模が想定できる有意義な形容です。
 「九章算術」は、矩形地では、幅が「廣」、奥行きが「従」で、面積は廣掛ける従なる公式を残しています。「径百歩」とあるだけでは、用地の面積が不明です。「廣」を円径とした盛り土量は計算・推定できますが、「従」から「廣」を引く拡張部が形状不明では、何もわからず、結論として、「冢徑百餘步」は、ものの役に立ちません。
 結論として、円形土地を径で表すのが定式であり、対して、台形土地を足した土地は、径で表せないので定式を外れた無法な記述と断じられます。

*「冢」~埋葬、封土の伝統
 倭人伝記事から察するに、卑弥呼の冢は、封土、土饅頭なので、当然、円形であり、通説に見える「方形」部分は「虚構」。「蛇足」と見ざるを得ません。丁寧に言うと、蛇に足を書き足すと、蛇ではなくなるという「寓話」です。

 史料記事に無い「実際」を読むのは、史料無視であり、かかる思いつき、憶測依存は、端から論考の要件に欠け、早々に却下されるべきなのです。
 結果、箸墓墳丘墓が卑弥呼王墓との通説に、退席をお勧めします。

*是正無き錯誤の疑い
 以上の素人考えの議論は、特に、超絶技巧を要しない考察なので、既に、纏向関係者には衆知と推察しますが、箸墓卑弥呼王墓説が、高々と掲げられているために、公開を憚っているものと推察します。

*名誉ある転進の勧め
 聞くところでは、同陣営は、内々に「箸墓」卑弥呼王墓比定を断念し、後継壹與王墓比定に転進しているようです。壹與葬礼は記録がなく安全です。

                                以上

2021年4月 5日 (月)

私の意見 倭人伝「循海岸水行」審議 補追     1/1

〇はじめに
 倭人伝道里行程記事の冒頭に置かれた「循海岸水行」の追加審議です。

〇「循海岸水行」用例審議
 古田氏は、第一書『「邪馬台国」はなかった』ミネルヴァ書房版 174ページで、倭人伝「循海岸水行」の「循」の典拠として左氏伝 昭 23から用例を求め、「山に循て南す」の注で「山に依りて南行す」と解しています。「循」は「依る」または「沿う」と解した上で、幾つかの用例を三国志に求めて暫し詮索の後、「海岸に沿う」と解しています。

 氏の解釈は、陳寿が、敢えて「循」と書いた真意を解明していないことから、同意できませんが、それは別としても、旗頭とした古典典拠は、陳寿が依拠していた「左氏伝」ですから、「左氏伝」用例が妥当であれば、その一例を本命として絞るべきと考えます。

〇諸用例の参照
 魏志用例は、数稼ぎでもないでしょうが、用例の趣旨が明瞭でないので、揚げ足取りされるなど審議の邪魔になるだけで、まことに感心しないのです。但し、読者に対して公正な態度を示す意義はあるのかも知れません。とは言え、「枯れ木も山の賑わい」とは行かないのです。

 なお、当方は、以下のように、古田氏の「左氏伝」読解は、ずいぶん甘いと感じます。

〇字義の確認
 まず、「依」の字義は、白川静氏の辞書「字統」などの示すように「人」が「衣」を身に纏い、背に「衣」を背負っている様子を言います。
 ここで、山に「依る」は、山を「背負う」比喩と解されます。一方、「山」は、山嶺、山並みではなく弧峰ですから、山に「沿う」経路行程は想定しがたく、山を「背負って」進む行程と察するのです。

 当用例により語義解釈すると、倭人伝の「循海岸水行」の深意は、「海岸を背負って海を渡ることを水行という」と解して無理はないと思います。何しろ、史官たるものが、わざわざ「循」を起用したのには、格別の意義があると考えたものです。
 別稿で、「循」は、海の崖を盾にして、つまり、前方に立てて、行くものと解釈しましたが、趣旨というか進路方向は同様なので、一票賛成票を得たものと心強くしています。

 このように見ると、倭人伝では、「水行」は河川航行でなく、「渡海」を「水行」と明確に、但し厳密に限定的に「指定」(用語定義)しています。「倭人伝」の「指定」以下での限定です。つまり、倭人伝の道里行程記事で、「水行十日」は、狗邪韓国から末羅国までの渡海、計三千里なのです。水行一日三百里と、まことに明解です。

〇用語定義の必要性~私見
 誤解されると困るのですが、当ブログで辛抱強く説明しているように、古典的な用語定義に従うと、川であろうと海であろうと、渡し舟の行程は陸行の一部ですが、はしたなので所要日数も道里も書かないと決まっているので、狗邪韓国から末羅国までの渡し舟の行程道里、数千里、数日は、勘定しようがないのです。
 つまり、倭人伝を正史記事とするには、適確に注釈しないと成立しないのですが、陳寿が編み出したのは、倭人伝記事で必要のない、河川航行「水行」を「渡海」に当てる「用語定義」だったのです。これは、法律文書、契約文書、コンピュータープログラム文書、特許明細書に代表される技術文書など、論理性、整合性を必須とされる文書で、挙って継承され、採用されている文章作法であり、まことに合理的な書法と考える次第です。

 因みに、当ブログの理解では、投馬国への「水行二十日」は、全行程一万二千里、倭地周旋五千里の圏外なので、二十日全部が渡海なのか、一部が渡海で全体が二十日なのか、何とも判定できません。脇道なので、詳しくは不明である、と言うことでしょう。

〇諸用例の意義~少数精鋭最上
 古田氏が追加した魏志用例は、ここで言う「海岸」と「水行」のような方位付けが明解で無いので、「循」が「沿って」の意味に使われた用法と愚考します。「背にして」と「沿って」の両義を承知で書いたのではないようです。

 思うに、三国志の魏志(魏書、魏国志とも言う)は、陳寿が全てを記述したものではなく、大筋は参照した魏朝公文書、つまり、史官が日々整備していた公式記録文書に従っているので、魏朝官人の語法で描かれています。従って、左氏伝の典拠を意識していないことも想定されるのです。
 用例は、厳選したいものです。できれば一例が最上です。

〇「海岸に沿って」行かない理由~再掲
 当ブログの見解では、「従郡至倭」の道里行程は明確に書かれていて、官制の通り、官道を直線的に目的地まで進むが、狗邪韓国から末羅国までは、唯一無二の移動手段である渡し舟に乗る必要があり、これを限定的に「水行」と分類し、残りは、当然の「陸行」と分類した行程としているのです。末羅国からは、「陸行」と明記されていて、傍路の投馬国行程は、この際圏外として、一路、陸行なのです。整然たるものです。話すと長いのですが、全体構想があっての独断です。

 海岸に「沿って」行くとの解釈を棄却する理由として、海岸陸地に沿った移動は、浅瀬や岩礁に確実に行き当たることによります。そのような危険のため、船は、ほぼ例外なく、港を出ると直ちに陸地を離れて沖合に出て、海図などで安全と確認できない限りは、陸地に近づかないのです。以上は、別に訓練経験がなくても、少し関連情報を調べるだけで、容易に理解できる安全航海の策ですが、聞く耳を持たない人が多いのです。

 そのために、苦労して説得記事を重ねているのですが、まだ、納得された方はいないようです。その最大の障壁が、冒頭の「循海岸水行」の誤釈と思うので、一度、「自然に、滑らかに」丸呑みするのでなく、一字一字審議していただきたいと思ったものです。

                                以上

2021年1月25日 (月)

新・私の本棚 「九章算術」新考 方田と里田~「方里の起源」 2/2

 古代の教科書を辿る試み~中國哲學書電子化計劃による 2021/01/24

㈡「里田」例題
今有田廣一里,從一里。問為田幾何?
 答曰:三頃七十五畝。
又有田廣二里,從三里。問為田幾何?
 答曰:二十二頃五十畝。
里田術曰:廣從里數相乘得積里。以三百七十五乘之,即畝數。

 続いて、広い範囲の土地の縦横と面積の「里田」例題が提示されます。

 行政区画が県へと広がると、{頃-畝}で収まらないので里で表現します。

 一里三百歩なので、縦横一里の面積一「里」は九万「歩」、三頃七十五畝です。十進法でないのは、太古、元々別の単位系として成立したからです。

*広域集計という事
 「里田」は、頃-畝単位系から里単位系への面積換算を規定していて、これは、国家里制、度量衡により一意的なので、両制度に従います。

 以降で、不規則形農地の検地が提起されますが、これは、地方吏人が測量実務で直面する例外的な事例への対応に備えて、現代で言う「幾何学」な多様性に対応する算法を説いているものであって、国家事業として開梱された正規農地、つまり、定寸矩形の農地の面積計算には必要ないのです。諸賢は、「方田」関連の多様な形状の農地に関する「例題の数の多さ」に幻惑されるようですが、農地が台帳登録されると、後は数字計算です。九章算術の残る部分は、面積数字を計算するものです。重要性は、数の多少で評価するものではないのです。

*道里の里、方里の里
 道のり、道里の単位「里」は、一里三百歩で、度量衡の尺と厳格に連携しますが、一方、一辺一里の方形の面積「方一里」は三百七十五「畝」で厳格に連携します。

 以上は、必ずしも史書想定読者全員に自明ではないので、「道里」は、百里と書くものの面積の里は、「方百里」と書いて混同を避けたようです。

*面積単位のあり方   (余談)
 近代メートル法国際単位が敷かれたとき、身近の面積は平方㍍、広域の面積は平方㌔㍍であっても、百万倍の違いはとてつもなく大きく、農地面積には、十㍍四方を単位とした㌃や百㍍四方を単位とした㌶が常用されています。

 積は二次元単位なので、一次元単位を十倍にすると百倍になり、数字の桁外れが起きるので、SI単位系の例外として常用単位で埋めたのです。

*東夷伝方里の解釈
 東夷伝の事例で、韓国「方四千里」と一大国「方四百里」が登場しますが、一辺里数で領域面積を表現したとすると、十倍の大小関係と見えて面積は自乗関係で百倍の大差では、読者たる高官の誤解を招くので不都合です。

 一辺里数でなく全周里数とみても、自乗関係に変化が無いので、韓国は一大国の百倍であり、実態を裏切る、無意味な比較になるのです。

 あるいは、遼東郡の北の大国高句麗が、南の小国韓国の四半分の国土と読めては、高官の判断を誤らせるので、不合理なのです。

 ということで、合理的な解釈が残ります。
 東夷伝で、遠隔、未開の国「方里」は、それぞれの農地測量・検地された台帳記事の集積で、収穫・徴税と直結し、国力指標として最も有効です。
 しかし、台帳で把握されている「耕作地」は、全土のごく一部に過ぎず、大半は、山野、渓谷、荒れ地、海浜など測量されない非耕作地です。
 
過去、当記事の主張と同様な提言があったとしても、国土全域の表現と見ると、余りに狭小なので、間違いとされたことでしょう。それは、後世の世界観で、国土の全面積が測量可能であるとか、その面積に意義があるとか、時代錯誤の先入観を抱いていたためです。


 あるいは、「方里」と道里の混同を招いたためです。三国志は、現代日本人の先入観を満たすために書かれたものではないのです。

*まとめ
 本稿は、論証と言うより、合理的な考証と思うものです。
 否定されるのなら、不確かな実証論でなく論証をいただきたいものです。

                               以上

新・私の本棚 「九章算術」新考 方田と里田~「方里の起源」 1/2

 古代の教科書を辿る試み~中國哲學書電子化計劃による 2021/01/24

〇はじめに
 古代中国の算数教科書を読み解いて、倭人伝「方里」の起源を探ります。
 農地測量の「方田里田」表現を確認し、「方里」は面積単位と明示します。

〇九章算術とは
 本書は、「東アジア」最古の数学書と紹介されますが、当時、中国周辺世界で文明があったのは「中国」だけで、西方エジプト、メソポタミア、ギリシャとは交信がなかったから「世界最古」でいいのです。当時、「アジア」はエーゲ海に面した地中海東岸の狭い世界であり、東アジアなどなかったのです。

 古代史学者は、「東アジア」という用語を、大変注意深く使っていますが、悪乗りして混乱した世界観を持ちかけてくる論者がいるので注意が必要です。古代史に現代語を持ち込むのは、大抵、苦し紛れの逃げ口上です。

 それはさておき、本稿の対象は、冒頭部だけで、かつ、「数学」論でないことをおことわりしておきます。また、目的は、用語、用字の解明であり、中国語独特の文法を理解しなくても読み解けるので現代語訳を付けていません。

 但し、中国の単位体系は、現代日本と異なるので、随時説明を加えます。

▢記事紹介
*「問題」山積による問答紹介、術紹介付き
㈠ 方田例題
今有田廣十五步,從十六步。問為田幾何?
 答曰:一畝。
又有田廣十二步,從十四步。問為田幾何?
 答曰:一百六十八步。
方田術曰:廣從步數相乘得積步。以畝法二百四十步除之即畝數。百畝為一頃。

 冒頭の「方田」例題です。いきなり「問」、「問題」を突きつけられて、総毛立つ「サプライズ」と勘違いしそうですが、パニックを起こさず読み進めると、すぐさま、「答」が示されるので、心の負担にはならないでしょう。

 本来、各例題は問答で完結だったのでしょうが、それでは勉強にならないので、解答に至る手順の「術」、解法が示されています。

*「歩」の起源考察
 「歩」は、農地面積単位であって、恐らく「ぶ」であり、歩幅定義でなく、耕作具の幅基準と思われます。なお、日常単位との関係は一歩六尺です。

 廣は農地の幅、従は縦、農地の奥行きです。農地を牛犂で耕すとき、歩は犂幅であり、奥で反転して引き返すので、農地は矩形で造成されます。つまり、農地の開墾・整理は、「歩」を単位に、各戸に当て縄張り区画したと見えます。農地は、あぜ道と水路、そして、農道で区分されていたはずです。

 ここに提示された農地は一「畝」の定義で幅十五歩、縦十六歩です。面積単位には百畝の「頃」があり、農地は「頃」-「畝」で表現されます。

*面積単位としての「歩」
 続く例では、廣・従が、「歩」、面積も「歩」で書かれています。答は、単に百六十八「歩」で、術では、周知の一畝 二百四十歩を明記します。

 方田術曰と書かれているのは、恐らく、後世の解説者の追記であり、原題には、「幅が歩、縦が歩なら、面積は積歩」とは書いていなかったはずです。

 「廣從步數相乘得積步」は、縦横の「歩」を掛けると面積の「歩」が出ると言うだけで、九章算術全体でも、単位「積歩」を示していないようです。

                                未完

2020年11月 2日 (月)

03. 從郡至倭 - 読み過ごされた水行 改訂第五版   3/3

        2014/04/03 追記2018/11/23、 2019/01/09、07/21 2020/05/13  2020/11/02

 おことわり: またまた改訂しました。そして、更に追記しました。3ページに分割しました。

郡から狗邪韓国まで 荷物運び談義 追記 2020/11/02

 郡から狗邪韓国への行程は、騎馬文書使の街道走行を想定していますが、荷物輸送であれば、荷船の起用は、自然なところです。と言う事で、倭人伝の行程道里談義を離れて、荷物輸送の「実態」を考証してみます。

 以下、字数の限られたブログ記事でもあり、現地発音を並記すべき現代地名を最小限とどめています。また、利用の難しいマップの起用も遠慮していますが、関係資料を種々参照した上での論議である事は書いておきます。

 なお、当経路は、当時郡の主力であったと思われる遼東方面からの陸路輸送を想定していますから、わざわざ黄海岸に下りて、荷船で南下する事は無く、当時、最も人馬の労が少ないと思われる経路を模索しています。

 それとは別経路として、黄海海船で狗邪韓国方面に向かう荷は、郡に寄る必要は無いので、そのまま漢江河口部を越えて南下し、海港で荷下ろしして陸送に移したものと見えます。海船は、山東半島への帰り船の途に着きます。当然ですが、稼ぎの多い荒海の大量輸送をこなす重厚な海船と乗組員を、閑散航路に就かせるような無謀な輸送はあり得ないのです。

*郡から漢江(ハンガン)
 推定するに、郡治を出た輸送行程は、東に峠越えして、北漢江の川港で、荷船に荷を積むまでの陸上輸送区間があったようです。郡の近辺なので、人馬の動員が容易であり、小分けした荷物を人海戦術で運ぶ、「痩せ馬」部隊や、驢馬などの荷車もあったでしょう。

 漢江河口の扇状地は、天井川と見られる支流が東西に並行していて、南北経路は存在していなかったと思われます。(架橋などあり得なかったのです)つまり、郡から南下して漢江に乗り付けようとしても、通れる道がなく、乗り付けられる川港もなかったのです。南北あわせた漢江は、洛東江を超える広大な流域面積を持つ大河であり、上流が急流であったことも加味されて、豪雨の際の保水力が乏しく、しばしば暴れ川となっていたのです。

 郡からの輸送が、東に峠越えして、北漢江上流の川港に向かう経路が利用されていたと推定する理由です。
 いや、念のため言うと、官制街道の記録があったというわけでもなく、推定/夢想/妄想/願望/思い付きの何れかに過ぎません。

*北漢江から南漢江へ
 北漢江を下る川船は、南漢江との合流部で、山地のすき間を突き破って海へと注ぐ漢江本流への急流部を取らずに南漢江遡行に移り、傾斜の緩やかな中流(中游)を上り、上流部入口の川港で陸に上り、山越えの難路に臨んだはずです。

 漢江河口部から本流を遡行して、南北漢江の合流部まで遡ったとしても、そこは、山地の割れ目から流れ出ている急流であり、舟の通過、特に遡行が困難なのです。と言う事で、下流の川港で、陸上輸送に切り替え、小高い山地を越えたところで、南漢江の水運に復帰したものと思われます。何のことはない、陸上輸送にない手軽さを求めた荷船遡行は、急流部の難関のために、難航する宿命を持っていたのです。合流部は、南北漢江の増水時には、下流の水害を軽減する役目を果たしていたのでしょうが、水運という面では、大きな阻害要因と思われます。

 郡からの内陸経路の運送は北漢江経由で水運に移行する一方、海船は扇状地の泥沼(後の漢城 ソウル)を飛ばして、その南の海港(後世なら、唐津 タンジン)に入り、降ろされた積み荷は、そこで小分けされて、内陸方面に陸送されるなり、「沿岸」を小舟で運ばれたのでしょう。山東半島への渡海船は、大容量で渡海専用、短区間往復に専念していたはずです。

 漢江は、山間部から流下する多数の支流を受け入れているため、増水渇水が顕著であり、特に、南漢江上流部は、急峻な峡谷に挟まれた「穿入蛇行」(せんにゅうだこう)や「嵌入曲流」を形成していて、水運に、全く適さなかったものと思われます。従って、中流からの移行部に、後背地となる平地のある適地(忠州市チュンジュ)に、水陸の積み替えを行う川港が形成されたものと思われます。

 そのような川港は、黄海海港からの経路も合流している南北交易の中継地であり、山越えに要する人馬の供給基地として繁盛したはずです。

*竹嶺(チュンニョン) 越え
 小白山地の鞍部を越える「竹嶺」は、遅くとも、二世紀後半には、南北縦貫の街道として整備され、つづら折れながら、人馬の負担を緩和した道筋となっていたようです。

 「竹嶺」越えは、はるか後世、先の大戦末期の日本統治時代、黄海沿いの鉄道幹線への敵襲への備えとして、帝国鉄道省が、多数の技術者を動員した新路線敷設の際の峠越え経路であり、さすがに、頂部はトンネルを採用していますが、その手前では冬季積雪に備えた、スイッチバックやループ路線を備え、東北地方で鍛えた積雪、寒冷地対応の当時最新の鉄道技術を投入し全年通行を前提とした高度な耐寒設備の面影を、今でも、しのぶ事ができます。
 と言う事で、朝鮮半島中部を区切っている小白山地越えは、歴史的に竹嶺越えとなっていたのです。

 それはさておき、冬季不通の難はあっても、それ以外の季節は、周辺から呼集した労務者と常設の騾馬などを駆使した峠越えが行われていたものと見えます。

 言葉や地図では感じが掴めないでしょうが、今日、竹嶺の南山麓(栄州 ヨンジュ)から竹嶺ハイキングコースが設定されているくらいで、難路とは言え、難攻不落の険阻な道ではないのです。

*洛東江下り
 峠越えすると、以下の行程は、次第に周辺支流を加えて水量を増す大河洛東江(ナクトンガン)の水運を利用した輸送が役に立った事でしょう。南漢江上流(上游)は、渓谷に蛇行を深く刻んだ激流であり、とても、水運を利用できなかったので、早々に、陸上輸送に切り替えていたのですが、洛東江は、かなり上流まで水運が行われていたようなので、以下、特に付け加える事は無いようです。

 洛東江は、遥か河口部から上流に至るまでゆるやかな流れなので、あるいは、曳き船無しで遡行できたかもわかりません。ともあれ、川船は、荒海を越えるわけでもないので、軽装、軽量だったはずで、だから、遡行寺に曳き船もできたのです。もちろん、華奢な川船で海峡越えに乗り出すなど、とてもできないのです。適材適所という事です。

*代替経路推定
 と言う事で、漢江-洛東江水運の連結というものの、漢江上流部の陸道は尾根伝いに近い難路を経て竹嶺越えに至る行程の山場であり、しかも、積雪、凍結のある冬季の運用は困難であったことから、あるいは、黄海よりに、峠越えに日数を要して、山上での人馬宿泊を伴いかねない別の峠越え代替経路が運用されていたかもわかりません。何事も、断定は難しいのです。

 このあたりは、当方のような異国の後世人の考察の到底及ばないところであり、専門家のご意見を伺いたいところです。

以上

03. 從郡至倭 - 読み過ごされた水行 改訂第五版   2/3

        2014/04/03 追記2018/11/23、 2019/01/09、07/21 2020/05/13  2020/11/02

 おことわり: またまた改訂しました。そして、更に追記しました。3ページに分割しました。

*「従郡至倭」の解釈 (追記 2020/05/13)
 魏志編纂当時、教養人に常識、必須教養であった算術書籍「九章算術」では、「従」は「縦」と同義であり、方形地形の幅方向を「廣」、縦方向を「従」としています。つまり、「従郡」とは、郡から見て、つまり、郡境を基線として縦方向、ここでは、南方に進むことを示していると考えることができます。

 続く、「循海岸水行」の「循」は「従」と同義であり、海岸を基線として縦方向、つまり南方に進むことを、ここ(倭人伝)では、特に水行と呼ぶという宣言と見ることができます。

 つまり、「通説」という名の素人読みではこれを実際に進むという意味と解していますが、これを行程記事の一部と見ずに、倭人伝独特の水行の定義句と見ると、不可解ではなくなり、行程記事から外せるのです。


*自明当然の陸行 (追記 2020/05/13)

 と言う事で、帯方郡から狗邪韓国の行程は、中国史書として自明なので、わざわざ書いていませんが、郡の指定した官道を行く「陸行」だったのです。以下、水行という名の「渡海」行程に移り、末羅に上陸すると、「水行」の終了を明示するために、敢えて「陸行」と字数を費やしているのです。
 倭人伝に示されているのは、実際は、「自郡至倭」行程であり、最後に、水行十日、陸行一月(三十日)と総括しているのです。
 ついでながら、陸行一月を一日の誤記とみる方がいるようですが、皇帝に上申する史書に、「水行十日に加えて陸行一日」などと書くのは無用な字数稼ぎであり、陸行一日は書くに及ばない瑣末事として、忽ち抹消されるものです。水行十日は、当然、切りのいい日数にまとめた概算であり、一日のはしたなど書くものではないのです。

 と言う事で、郡から倭まで、三角形の二辺を経る迂遠な「海路」に一顧だにせず、一本道をまっしぐらに眺めた図を示します。これほど鮮明でないにしても、「倭在帯方東南」を、図(picture)として感じた人はいたのではないでしょうか。現代風に言う「空間認識」の絵解きです。当地図は、Googleマップ/Google Earthの利用規程に従い、画面出力に追記を施したものです。
 先入観や時代錯誤の精密な地図データで描いた画餅「イメージ」で無く、仮想視点とは言え、現実に即した見え方で、遠近法の加味された「ピクチャー」なので、行程道里の筋道が明確になったと考えています。倭人伝曰わく、「倭人在帯方東南」、「従郡至倭」。

Koreanmountainpass00
以上

*旧記事再録
------------------------ 
 以下の記事では、帯方郡から狗邪韓國まで船で移動して韓国を過ぎたと書かれていると見るのが妥当と思います。
 「循海岸水行歴韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國」
 従来の読み方ではこうなります。
 「循海岸水行、歴韓國乍南乍東、到其北岸狗邪韓國」
 終始水行と読むことになります。

 しかし、当時の船は沿岸航行であり、朝出港して昼過ぎに寄港するという一日刻みの航海と思われますが、そのような航海方法で、半島西南の多島海は航行困難という反論があります。

 別見解として、水行は、帯方郡から漢城附近までの沿岸航行であり、以下、内陸行との読み方が提示されています。この読み方で著名なのは、古田武彦氏です。

 これに対して、(山東半島から帯方郡に到着したと思われる)船便が「上陸して陸行すると書かれてない」という難点と合わせて、魏使は、高貴物を含む下賜物の重荷を抱えての内陸踏破は至難、との疑問が呈されています。

 特に、銅鏡百枚の重量は、木組みの外箱を含めて相当なものであり、牛馬の力を借りるとしても、半島内を長距離陸送することは困難との意見です。

 これでは板挟みですが、中島信文 『甦る三国志「魏志倭人伝」』 (2012年10月 彩流社)によれば、次の読み方により、解決するとのことです。 
 「循海岸、水行歴韓國乍南乍東、到其北岸狗邪韓國
 つまり、帯方郡を出て、まずは西海岸沿いに南に進み、続いて、南漢江を遡上水行して半島中央部で分水嶺越えで洛東江上流に至り、ここから、洛東江を流下水行して狗耶韓国に至るという読みです。

 河川遡行には、多数の船曳人が必要ですが、それは、各国河川の水運で行われていたことであり、当時の半島内の「水行」で、船曳人は成業となっていたのでしょうか。

 同書では、関連して、色々論考されていますが、ここでは、これだけ手短に抜粋させていただくことにします。

 私見ですが、古代の中国語で「水」とは、河水(黄河)、江水(長江、揚子江)、淮水(淮河)のように、もっぱら河川を指すものであり、海は、「海」なのです。これは、日本人が中国語を学ぶ時、日中で、同じ漢字で意味が違う多数の例の一つとして学ぶべきものです。
 従って、手短に言うと、「水行は河川航行」との主張は、むしろ自明であり、かつ合理的と考えます。

 ただし、中島氏が、「海行」が、魏晋朝時代に慣用句として使用されていたと見たのは、氏に珍しい早計で、提示された用例は、呉志であり、言うならば魏志には場違いな呉の用語が持ち込まれているのです。また、同用例は、「ある地点から別のある地点へと、公的に設定されていた経路を行く」という「行」の意味でも無いのです。是非、再考いただきたいものです。

未完

 

03. 從郡至倭 - 読み過ごされた水行 改訂第五版   1/3

        2014/04/03 追記2018/11/23、 2019/01/09、07/21 2020/05/13、11/02

 おことわり: またまた改訂しました。そして、更に追記しました。更に、3ページに分割しました。

 注記:
 後日考え直すと、当初述べた水行行程の見方は間違っていましたので、書き足します。

 従郡至倭行程一万二千里の内、半島内狗邪韓国まで七千里と明記されたのは、この間がほぼ全て陸上官道であり、海上や河川の航行のように、道里、日程が不確かな行程は含まれていないと判断されます。いや、実際には、その時、その場の都合で、水の上を行ったかも知れませんが、国の制度としてはと言う事です。

 九州島上陸後も、末羅国で「陸行」と明記されていることもあり、専ら陸路で王治に至ると判断されます。一説に言うように、伊都国から後、「水行」二十日とされる投馬国は、脇道として除き、水行十日+陸行一ヵ月の膨大な四十日行程は、伊都国ないしは投馬国から倭王治に至る日数で無く、全体道里一万二千里に相当する所要期間と見るのです。

 このように整理して解釈すると、全体の筋が通り、陸行は総計九千里、所要日数総計三十日(一月)で、一日あたり三百里と、明快になりま
す。


 一方、「従郡至倭」行程の「水行」は、狗邪韓国から末羅国までの渡海行程と見るべきです。そう読めば明解になるという事です。
 渡海行程は、一日刻みで三度の渡海と見て、前後予備日を入れて、計十日あれば踏破できるのです。
 各渡海を一律千里と書いたのは、所要一律三日に相応したもので、全体に予備日を入れて、切りの良い数字にしています。誠に整然としています。
 なべて水行は三千里、所要日数十日で、一日三百里と、明快になります。
 
 そのように明快に書いたのは、行程記事が、官用文書送達期限規定のために書かれていることに起因するのですが、それ以外の実務で、移動経路、手段等に異なる点があるかも知れません。
 
つまり、半島西岸、南岸の沿岸で、飛び石伝いのような短距離移動の連鎖で、結果として、物資が全経路を通して移動していた可能性までは、完全に否定できないという事です。事実、この地域に、さほど繁盛していないものの、交易が行われていた事は、むしろ当然でしょう。ただし、この地域から、日本海外各地の産物が出土していたからと言って、此の地域の、例えば、月一の「市」に、遠方から多数の船が乗り付けていたと言う「思い付き」は、成り立ちがたいと思います。今日言う「対馬海峡」を漕ぎ渡るのは、死力を尽くした漕行の可能性があり、多くの荷を載せて、長い航路を往き来するのは、無理だったと思うからです。
 海峡を越えた交易と言うものの、書き残されていない古代の長い年月、島から島へ、港から港を、小刻みに、日数をかけて繋ぐ「鎖」の連鎖が、両地区を繋いでいたと思うのです。
 いや、ここでは、時代相応と見た成り行きを連ねる見方で、明快な解を提示したのであり、絶対、他の意見を徹底排除するような排他的な意見ではないのです。

 水行を「海」の行程(sea voyage)とする読みは、後記のように、中島信文氏が、中国古典の語法(中原語法)として提唱し、当方も確認した解釈と一致しませんが、倭人伝は、中原語法と異なる地域語法で書かれているとおもうものです。それは、「循海岸水行」の五字で明記されていて、以下、この意味で書くという「地域水行」宣言です。
 この点、中島氏の論旨に反していますが、今回(2019年7月)、当方が到達した境地を打ち出すことにした次第です。

 教訓として、文献解釈の常道に従い、倭人伝の記事は、まずは、倭人伝の文脈で解釈すべきであり、それで明快に読み解ける場合は、倭人伝外の用例、用語は、あくまで参考に止めるべきだということです。

 この点、中島氏も、倭人伝読解は、陳寿の真意を探るものであると述べているので、軌を一にするものと信じます。

 追記:それ以後の理解を以下に述べます。

未完

2020年5月17日 (日)

16. 年已長大 - 読み過ごされた生涯

                       2014/05/06 追記 2020/05/17
「年已長大。無夫婿。」

 ここまでに記した小論を復唱すると、卑彌呼は、(数えで)15,6歳で即位し、魏使来訪の時は、最近18歳を過ぎた(年已長大:すでに成人となった)と云うことになります。

 下記論説によれば、中国史学界では、倭人傳から「わずか十五、六歳の少女卑弥呼を王として」と読み取っていると思われますが、これは、中文としての文意が明解だからだと思われます。

 「倭國と東アジア」 沈 仁安 六興出版 1990年2月発行
 ただし、124ページの以下の記事には驚きました。
 『しかし、長い間、中日両国の史学界では、次のような見方が行われている。即ち、わずか十五、六歳の少女卑弥呼を王として「共立」したのは、「古代の母権社会における女人政治の典型」あるいは「原始的民主制」であり、卑弥呼はシャーマンと開明の「二つの顔」を持つ原始的巫女王であったと思われている。これは、必ずしも倭人伝の原意を正確に理解しているとは言えないであろう。』

 急遽、引用文献として挙げられている石母田正氏の「日本の古代国家」(岩波書店 日本歴史叢書 1971年刊)を購入し、内容を見ましたが、「わずか十五、六歳の少女卑弥呼を王として」と書かれている箇所は発見できませんでした。
 また、見聞の及ぶ限り、日本の史学界で長年行われている見方とは言えないようです。

 むしろ、日本国内の史学界では、卑彌呼は、壮年で倭國王に即位したのであり、国難の際には自ら戦陣に立ち、強いリーダーシップを持っていたものと見ているように思いますが、これは、文献史料に基づく妥当な推定とは思えないのです。
 諸賢には、講談や浪曲の英雄譚が、幼児期や少年期の原体験として刷り込まれているような気がします。

 その一つは、萩民謡「男なら」に歌われた「神功皇后さんの雄々しい姿が鑑」となった、卑彌呼像ではないかと思われます。あるいは、女として母として、徳川政権に果敢に挑んだ「淀殿」(茶)の姿でしょうか。

 以上の読み解きに従って現代語風に書き連ねると、以下のようになります。

 (この年頭で)已に成人(数えで18歳)となった(という)。配偶者はいない
 追記 2020/05/17
 丁寧に説明すると、後代資料である范曄後漢書が、「遅くとも霊帝代に、倭で大乱が起こり、それを収拾するために、当時成人であった卑弥呼を共立したと想定し、卑弥呼の女王時代は、後漢代であった」と語っているため、ここに書いたような若年即位の解釈は、棄てられていますが、慎重に考えれば、後漢書に対して無批判に追従するのは、倭人伝の解釈を後代資料で改竄するものであり、再考の必要があるように感じます。
 また、卑弥呼の壮年即位、君臨は、倭人伝に書かれている人物像ではなく、国内史料などから編み出された古代国家君主像に依存していて、これまた、慎重に考えれば、倭人伝の解釈を数世紀後の別系統の伝承史料の解釈などにより糊塗するものであり、再考の必要があるように感じます。
 どちらの場合も、素人目にも、倭人伝の深意を読み過ごしているものと思われるのです。

 当記事だけでは、論拠を言い尽くせませんが、定説に異議を言い立てるのは、それなりに根拠があってのことと理解いただきたいのです。
以上

 2015年5月16日 補訂

より以前の記事一覧

お気に入ったらブログランキングに投票してください


いいと思ったら ブログ村に投票してください

2021年10月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31            

カテゴリー

無料ブログはココログ