03. 從郡至倭 読み過ごされた水行 改訂第八版 追記更新 1/3
2014/04/03 追記2018/11/23、2019/01/09, 07/21 2020/05/13, 11/02 2023/01/28, 04/23 2024/08/21, 10/11
*加筆再掲の弁
最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。
八訂 「水行曰涉」として、「循海岸水行」論の決定考を書き足しました。(2/3ページ)
五訂 またまた改訂しました。そして、更に追記しました。更に、3ページに分割しました。
注記:後日考え直すと、当初述べた「水行」行程の見方は間違っていましたので、書き足します。
改築、増築で、見通しが付きにくいのは、素人普請の限界と御容赦いただきたいのです。
*陸行水行論の整理
事態輻輳の解きほぐしを試みます。(2024/08/21)
「倭人伝」道里記事は、後漢献帝建安年間に、公孫氏が遼東の郡太守を自認したあたりに提起されたものと見えます。天子が玉座を離れて漂流するような行く手不明の時代でしたから、遼東から渡海、南下進出した青州(戦国「齊」領域)に加えて、未開の荒れ地に等しかった韓国の更に南に広大無辺と見える新世界を見出した(と速断した)公孫氏は、漢武帝創設以来、この地域を担当していた楽浪郡管内の帯方縣を強化して帯方郡とし、そのような夢の新世界である「倭人」の境地をわが物として、見失われていた東夷を広く支配する野心を抱いたのです。
それは、二百年続いた後漢帝国の天子が、宿無し状態になるような「天下大乱」の中國世界の極東にあって、自らを「天子」とする構想であり、天子の居処である王畿から、無限とみえる万二千里の極致に、倭人の居処を置いた構想(Picture)を想像したと見えます。
*岡田英弘氏の韓国観の蹉跌 (2024/08/21)
ちなみに、岡田英弘氏を初めとする幻像愛好家の方々は、漢武帝が、半島中部の朝鮮故地から「陸路南下」して小白山地を越えて竹嶺経路でさらに南下する半島最南端に至る交通路を創始して、嶺東地帯に真番郡を置いて郡体制を敷いたとか、それに応じて、万里の波濤を越えて、南海広州方面からの商人が「海路北上」して北九州に大挙来訪したとか、二色の経路を設けて神がかった「画餅」を描かれています。
しかし、「現実」は厳しい/寂しいもので、「陸路南下」は、後世三世紀に至るまで「街道」とならず、「海路北上」に至っては、中世唐代になっても、大型帆船の来航が確立されていなかったとみえるのです。
否定しがたい状況証拠として、武帝以来数世紀を経た「倭人伝」に於いてはじめて確認された行程道里は、定法に従い、(楽浪)郡を出て陸路韓国を歴て狗邪韓国の海港に至るものです。そして、そこからは、大河に見立てた「大海」に浮かぶ洲島を、軽快な手漕ぎ渡船で渡り継いで至る行程です。
つまり、岡田氏がサラサラと描いた「幻像」は、所詮、中国中原文明に知られていなかった東夷本位の願望であったとわかるのです。ちなみに、岡田氏は、戦前/戦中の日本統治下に、韓国領域を巡訪したことから、早くから、竹嶺(鳥嶺)経路を提言されているのですが、「倭人伝」道里行程論では、確立されていたはずの陸上経路を棄てて、虚構の沿岸船上移動を採用しているとみえるのは、何とも残念なのです。所詮、手前味噌の擦り付け史官に止まっていたのでしょうか。まことに勿体ないことです。
岡田氏の所説は、国境を越え時代を越えた大局的な御高説が多いので、初学者の学ぶべきところは多いのですが、こと東夷伝解釈では、時代考証を度外視した幻像史観に基礎を置いているので、御高説を其の儘受け入れることはできかねるのです。世界史に於いて広く時代と地域を普(あまね)く視察した岡田氏の言辞から読みとれるご自身の提言の趣旨を応用させていただくと、中国文明を学んでいない「二千年後生の無教養な東夷」の勝手な異説にとどまっているのは、残念なところです。
*閑話休題
「倭人伝」道里行程記事の眼目である「従郡至倭」万二千里の内、半島内狗邪韓国まで七千里と明記されたのは、この間が、街道、すなわち陸上官道であり、海上や河川の航行のように、道里、日程が不確かな、つまり、無法な行程は含まれていないと確立されていたものと判断されます。一部、無学無法な(特定の)著者が、「海路」等と無効な概念を持ちこんでいますが、長安や雒陽に中心をおく古代中原帝国は、海上交通など、国家制度に取り入れていないので、「海路」、「街道」など、痴人の夢想にしか存在しないのです。
いや、実際には、その時、その場の都合で、渡し船などで、「水」すなわち河川の「水の上」を行ったかも知れませんが、中国の制度としては、そのような規定/定義付けは、あり得ないということです。どうか、顔を洗って目を覚ましてほしいものです。
九州島上陸後は、末羅国で、わざわざ「陸行」と明記されていることもあり、専ら陸路で倭に至ると判断されます。伊都国から後、「水行」二十日とされる投馬国は、明記されているように、行程外の「脇道」であって、当然、直行道里からも所要日数からも除きます。従って、「都合水行十日+陸行一ヵ月」の膨大な四十日行程は、伊都国ないしは投馬国から倭王治に至る現地道里、日数では「無い」のです。本記事では、全体道里万二千里に相当する所要期間と見るのです。
誠に簡明で、筋の通った読み方と思うのですが、とうの昔に「**説」信奉と決めている諸兄姉は、既に「思い込み」に命/生活をかけているので、何を言われても耳に入らないのでは、仕方ないことでしょうか。
因みに、『「都合水行十日+陸行一ヵ月」の四十日行程 』とする解釈は、根拠のある一解であり、筋の通った「エレガント」な解と見ていますので、この解釈自体に、根拠の無い難癖を付けるのは、批判には当たらないヤジに過ぎません。感情的な「好き嫌い」を聞いても仕方ないので、論理的な異議に限定頂きたいものです。また、当ブログは、一部に見られるように公的機関の提灯持ちを「任務」としているものではないので、「百害あって一利なし」などと、既存権益を疎外するものと難詰されても、対応しようがないのです。
巷間喋々されるように「水行なら十日、陸行なら一月」とか、「水行十日にくわえて、陸行なら一日」とか、お気楽な改竄解読は、さらに原文から遠ざかっているので、無意味なヤジに過ぎず、確たる証拠がない限り、本稿では、論外の口出しとして門前払いするものです。
当ブログでの推定は、榎一雄師が注力した、いわゆる「放射行程説」に帰着していると見て取れるかも知れませんが、当ブログは、特定の学派/学説に追従するものでなく、あくまで『「倭人伝」記事の解釈』に基づいているのです。もちろん、特定の学派/学説を否定する意図で書いているのでもありません。敢えて、大時代な言い回しを採ると、脇道によらない「一路直行」説とでも呼ぶものでしょう。
何しろ、「放射行程説」 は、『素直に読める「直線行程」説を意固地に拒否する鬱屈、屈折した異論」と一部硬派の論客から揶揄され、いうならば「ジャンク」扱いで「ゴミ箱」に叩き込まれて、正当な評価を受けていないのですから、一度、出直した議論を提案するしかないのです。
*陳寿道里記法の確認
このような考慮に値しない雑情報を「整理」すると、全体の解釈の筋が通ります。つまり、全行程万二千里の内訳として、「陸行」は総計九千里、所要日数は都合三十日(一月)となり、『郡から狗邪韓国までの陸上街道を七千里として臨時に定義された「倭人伝」道里』によると、一日あたり三百里と、切りの良い数字になり、一気に明解になります。
一方、「従郡至倭」行程の内訳としての「水行」は、専ら狗邪韓国から末羅国までの渡海行程十日と見るべきです。「水行」三千里の所要日数を十日間とすれば、一日あたり三百里となり、「陸行」と揃うので、正史の夷蕃伝の道里・行程の説明として、そう読めば明解になるという事です。
視点を変えれば、渡海行程は、一日刻みで三度の渡海と見て、前後予備日を入れて、計十日あれば確実に踏破できるので「水行十日」に相応しいのです。勘定するのに、別に計算担当の官僚を呼ばなくても良いのです。
「倭人伝」の道里行程記事の「課題」、つまり「問題」(question)は、「従郡至倭」の所要日数の根拠を明解に与えると言うことなので、史官としては、与えられた「課題」を、与えられた史料を根拠に、つまり、改竄も無視もせずに、正史の書法で書き整えたことで大変優れた解を与えたことになります。
当時、このような編纂について、非難を浴びせていないことから、陳寿の書法は、明解なもの、妥当なものと判断されたと見るべきです。
ちなみに、陳寿は、帯方郡が、不法な里制を敷いていたと非難しているのでは無く、公孫氏が起案して曹魏皇帝が受け入れた「従郡至倭」「万二千里」と言う行程道里であるから、これが、曹魏としての公式見解であり、曹魏明帝の景初年間に実地確認された「現地まで四十日」という実務的な行程日数に当てはめた物であり、下地に上塗りした構成と絵解きすれば、するりと明解になるということです。
「倭人伝」記事を、陳寿が、成立時期も由来も異なる幾つかの原資料(Urtext)を幾つかの層で重積したものと見る史料観は、このあとも持ち出されることを予告しておきます。
*道里行程検証再開
郡からの街道を経て狗邪韓国に至った道里は、ここに到って「始めて」倭の北界である大海の北岸に立ち、海岸を循(たて)にして渡海するのです。
最終的な見解(2024/10/08)としては、河水を越える際には、渡船で「水行」するという千年ものの頑固な固定観念が形成されていて、現代風に言うと、「デフォルト」、暗黙の既定条件だったので、陳寿は、『「水行」は、古来「河水」を渉る渡船ですが、ここでは「大海」を渉る渡船なのです』と断り書きを入れているのです。一部で出回っている風聞のように、帯方郡からいきなり海岸に降りて「渡船」に乗ると、現代人の感覚では、黄海対岸の東莱に着いてしまいますが、読者として想定されている洛陽人士は、先行する「韓伝」で、韓国の東西は「海」(「かい」辺境の魔界)、残る南が「倭」、すなわち「大海」と知らされているので、そんな見当違いで無法な発想は浮かばないのです。いや、われながら無駄話が過ぎたようですが、「ここはツッコミを入れるところではないのですよ、客人。」
閑話休題
狗邪韓国から末羅国に至る行程は、「始めて」渡海し、「又」渡海し、「又」渡海すると、三段階が順次書かれていて、全体として中原で河川を渡る際と同様であり、ここでは、「大海」の中の島、州島を利用して、飛び石のように、手軽に、気軽に船を替えつつ渡るので、まるで「陸」(おか)を行くように、「水」(大海の流れ)を行くのであり、道里は、単純に、切りの良い千里を割り当てて明解に書いているのです。地の果てに行く行程は、細々書いてもしかたないのです。
ここでは、敢えて、又、又と重ねることにより、行程は、渡海の積み重ねで、末羅国迄の通過点を越え、「陸行」で伊都国に「到る」と明快です。ここが、目的地ですから、そこから先の「余傍」の国は、ほんの添え物であり、麗筆で一撫でした後、伊都国の近場に女王の「居処」があると書かれているものです。女王は、「親魏倭王」と煽(おだ)てられていますが、礼節を知らない蕃王であり、史官によって正史記事に書かれているからには、世上誤解されているような格式高い「京都」「王都」「宮都」とは、金輪際無縁なのです。それが、班固が、「漢書」西域伝で確立した語法なのです。
各渡海を一律「千里」と書いたのは、所要「三日」に相応したもので、予備日を入れて「切りの良い」数字にしています。誠に整然としています。都合、つまり、総じて、或いは、なべて「水行」は「三千里」、所要日数「十日」で、簡単な割り算で一日三百里と、明解になります。諄(くど)いようですが、この区間は「並行する街道がない」ので、『「水行」なら十日、「陸行」するなら**日』とする記法は、はなから成り立たないのです。頑固な方に対しては、「それなら、渡船と並行して、海上を騎馬で走る街道を敷くのですか」と揶揄するのですが、どうも、寓話を解しない方が多くて困っているのです。
とにかく、倭人伝道里行程記事が、範とした班固漢書「西域伝」に見られない程、細かく、明解に書いたのは、行程記事が、官用文書送達期限規定のために書かれていることに起因するのです。それ以外の「実務」では、移動経路、手段等に異なる点があるかも知れません。つまり、曹魏正始中の魏使の訪倭行程は、随分異なったかも知れませんが、「倭人伝」は、それ以前に、「倭人」の紹介記事として書かれたのであり、魏使の出張報告は、道里行程記事に反映されていないのです。
何しろ、明帝の下賜した大量、かつ、貴重な荷物を送り出すには、発進前に、「道中の所要日数の確認」と「経由地の責任者の復唱」が不可欠であり、旅立つ前に、「万二千里の彼方の果てしない旅路だ」などではなく、何日後にはどこに着くか、はっきりした見通しが立っていたのです。
もちろん、事前通告がないと、正始魏使のような多数の来訪に、宿舎、寝具、食料、水の準備ができず、又、多数の船腹と漕ぎ手の準備、対応もできないのです。どう考えても、行程上の宿泊地、用船の手配は、事前通告で完備していたし、確認済であったはずです。
また、当然、各宿泊地からは、魏使一行到着の報告が、騎馬文書使が速報していたのです。中国の文書行政を甘く見てはなりません。
「魏使が帰国報告しないと委細不明」などは、「二千年後生の無教養な東夷」の臆測に過ぎません。
これだけ丁寧に説き聞かせても、『「倭人伝」道里行程記事は、郡使の報告書に基づいている』と決め込んでいて、そのようにしか解しない方がいて、これも、苦慮しているのです。「つけるクスリがない」感じです。
誤解の仕方は、各位の教養/感性次第で千差万別ですが、本論で論じているのは、「倭人伝」道里行程記事の要点は、郡を発した文書使の行程/所要日数を規定したものであると言うだけであり、半島西岸、南岸の沿岸で、飛び石伝いのような近隣との短距離移動の連鎖で、結果として、物資が全経路を通して移動していた可能性までは完全に否定していないという事です。事実、この地域に、さほど繁盛していないものの何らかの交易が行われていた事は、むしろ当然でしょう。
ただし、この地域で日本海沿岸各地の産物が出土したからと言って、此の地域の、例えば、月一の「市」に、はるか東方の遠方から多数の船が乗り付けて、商売繁盛していた、と言う「思い付き」は、成り立ちがたいと思います。今日言う「対馬海峡」を漕ぎ渡るのは、死力を尽くした漕行の可能性があり、「重荷」を載せて、長い航路を往き来するのは、無理だったと思うからです。
ちなみに、ここでいう「重荷」は、一部無教養の野次馬が言うような「比重」(Specific Gravity)の大きい荷物ではないのです。金銀の貴金属、貴石、宝石、準宝石、珊瑚などの貴重品は、概して、比重20を越える「金」(Real Gold)を除けば、10にも及ばない比重ですが、とにかく、少量で多くの対価を得られるので、むしろ、優先して運んだものです。何しろ、漕ぎ手が感じるのは、荷物の総重量であり、かさばらない貴重な荷物は、むしろ歓迎というか、メシの種だったのです。
そして、肝心なことですが、とかく想定されやすい「米穀」は、大量に運ばないと意義がないので、渡船で運ぶのは、それこそお荷物だったのです、また、「乗客」も、嵩張って目方が張るので、海峡越えの兵馬の輸送は、手こぎの渡船では成り立たないのです。世上、三世紀当時の海峡越えに、当時地域に存在しなかった、したがって、来航もしなかった大型の帆船を想定して論議する傾向がありますが、夢想の上に仮説を構築するのは、徒労と思われます。
閑話休題
ここで問われているのは、経済活動を行い続ける「持続可能」な営みであり、冒険航海ではないのです。順当に考えるなら、「一大国」が要(かなめ)となった交易が繰り広げられていたでしょうが、それは、「倭人伝」道里行程記事の目的である「従郡至倭」審議とは別義であり、地域の一大国であったという国名に跡を留めているだけです。
「海峡を越えた交易」と言うものの、書き残されていない古代の長い年月、島から島へ、港から港を小刻みに日数をかけて繋ぐ、今日の視点で見れば、本当にか細く短い、しかし、持続的な活動を維持するという逞しい、「鎖」の連鎖が、両地区を繋いでいたと思うのです。
いや、ここでは、時代相応と見た成り行きを連ねる見方で、倭人伝の提示した「問題」に一つの明解な解答の例を提示したのであり、他の意見を徹底排除するような絶対的/排他的な意見ではないのです。
「水行」を「海」の行程(sea voyage)とする読みは、後記のように、中島信文氏が、「中国古典の語法(中原語法)として提唱し、当方も、一旦確認した解釈」とは、必ずしも一致しませんが、私見としては、「倭人伝」は、中原語法と異なる地域語法で書かれているとおもうものです。それは、「循海岸水行」の五字で明記されていて、以下、この意味で書くという「地域水行」宣言/定義です。
史官は、あくまで、それまでに経書や先行二史(「馬班」、司馬遷「史記」と班固「漢書」)に先例のある用語、用法に縛られているのですが、先例では書けない記事を書くときは、臨時に用語/用法を定義して、その文書限りの辻褄の合った記事を書かねばならないのです。念のため言い足すと、「倭人伝」は、「魏志」の巻末記事なので、ここで臨時に定義した字句は、本来、以後無効です。
「蜀志」「呉志」は、別史書なので、「魏志」の定義は及ばないのです。その意味でも、「倭人伝」が「魏志」巻末に配置されているのは、見事な編纂です。
この点は、中島氏の論旨に反していますが、今回(2019年7月)、当方が到達した境地を打ち出すことにした次第です。
教訓として、文献解釈の常道に従い、『「倭人伝」の記事は、まずは、「倭人伝」の文脈で解釈すべきであり、それで明快に読み解ける場合は、「倭人伝」外の用例、用語は、あくまで参考に止めるべきだ」ということです。
この点、中島氏も、「倭人伝」読解は、陳寿の真意を探るものであると述べているので、その点に関しては、軌を一にするものと信じます。
追記:それ以後の理解を以下に述べます。
未完