倭人伝新考察

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2022年11月14日 (月)

06. 濵山海居 - 読み過ごされた良港と豊穣の海 再掲載

                         2014/04/26  2022/11/14
*末羅国談義
 「末盧國,有四千餘戶,濵山海居,草木茂盛」
 末盧國は、山が海に迫っているため、田地、つまり、水田と限らないにしろ、農地が制約されたとしても、航海に通じた少数精鋭の国だったのでしょう。
 また、言うまでも無く、倭は、年間通じて降雨に恵まれていたので、水田米作が維持でき、もう一つの辺境である西域の流沙、つまり、砂漠とは大違いです。更に言うと、乾燥地帯の黄土平原である中原とも、大きく異なるので、街道を塞ぎそうな樹木の姿が特記されたようです。
 後ほど、気候の話題が出てきますが、北方の韓国のように寒冷でなく、南方の狗奴国で引き合いに出された海南島のように瘴癘ではないのです。
 要するに、玄界灘は漁獲に恵まれた豊穣の海であり、長く、沿岸諸国の国力を支えたでしょう。

 末羅国は、倭國覇者ではないにしても、国土は狭くとも、戸数は少なくとも、地域「大国」だったはずです。

 さて、以下の道里記録の評価で余り触れられていないように思うのですが、これら道里の出典は、魏使(帯方郡使)の測量した数値であるということです。 旧説を撤回 2022/11/14

*魏使の陣容
 魏使は、正使、副使程度しか知られていないものと思いますが、少なくとも、魏朝を代表して派遣され、外交以外に、軍事的な目的も担っていた以上、以下に述べる程度の構成は整っていたはずです。たとえば、副使は、正使に不測の事態が生じたときの代行者でもあり、時には分遣隊として滞在地を離れて、出動したことでしょう。

 人員は、大半が帯方郡からの派遣でしょうが、基本的に魏朝の配下とみるものです。
 正使 副使 通事 書記 記者 保安 財物 食料 救護 荷役
 ここで上げた書記は、公文書を取り扱う高官ですが、記者は、実務担当者であり、日々の任務の記録以外に、移動中の歩測測量を記録していたはずです。

 時に話題に上る「歩測」は、訓練を受けていれば、日々の移動方向と移動距離を結構高い精度で測量できたものと想像されます。全道里と所要日数の積算は、この記者の残した測量結果無くしては不可能だったはずです。 

 道里行程記事に書かれた狗邪韓国から倭王の王治に至る「主要行程」は、倭国国内であって、対海国~一大国~末羅国~伊都国~倭王王治の五カ所に過ぎないし、ほぼ、南下の一路ですから、略図に書くまでもなかったようで、道里として主要行程は「周旋五千里」と確認したものの、正史に残されていないのです。史官にとっては、文章だけが「業」であり、「絵」や「図」は職人層の手すさびですから、正史に居場所がなく、あったとしても捨て去られたのでしょう。

 歩測測量などの探偵技術は、外交軍事使節が未踏地に派遣される時の重要任務であり、それこそ、首をかけて達成したものと想像します。

*追記 2022/11/14
 よく考えてみると、海上行程は測量ができないし、末羅国から伊都国の行程は、市糴、つまり、交易の経路だったので、所要日数と里数は、早い段階で、帯方郡に報告されていたでしょうから、景初の遣使ー正始初頭の魏使来訪の時期、改めて魏使が歩測する必要はなかったようです。
 書き漏らしていましたが、末羅国の海港は、伊都国にしてみると、北の国境の貿易港であり、諸国の物資の集積港であり、一大国などに向かう海船の母港でもあったという事です。つまり、当時、絶妙な位置にあって、海港として反映していたことでしょう。つまり、世上異説となっている「魏使が偶々寄港したためにここに書かれた」というという「思い込み」、「思いつき」は、解釈として成り立たないようです。

以上

2022年11月 8日 (火)

私の意見 「卑弥呼王墓」に「径」を問う 1/2 補追

  字書参照、用例検索  2021/08/19 補記 2022/11/08

〇倭人伝の道草~石橋を叩いて渡る
 まず、倭人伝の「卑彌呼以死,大作冢,徑百餘步」の「徑」は「径」と、「步」は「歩」と同じ文字です。
 世上、ここで、『「冢」は円墓、「径百余歩」の「径」は、直径、差し渡し』との解釈が「当然」となっているようですが、(中国)古典書の解釈では、日本人の「当然」は、陳寿の「当然」とはしばしば異なるので、兎角「思い込み」に繋がりやすく、もっとも危険です。以下、概数表記は略します。
 当方は、東夷の素人であると自覚しているので、自身の先入観に裏付けを求めたのが、以下の「道草」のきっかけです。

〇用例検索の細径(ほそみち)
*漢字字書の意見
 まずは、権威のある漢字辞典で確認すると、「径」は、専ら「みち」、但し、「道」、「路」に示される街道や大通りでなく「こみち」です。時に、わざわざ「小径」と書きますが、「径」は、元から、寸足らず不定形の細道です。

 ここで語義探索を終われば、「径百余歩」は、「冢」の「こみち」の行程が百歩となります。つまり、女王の円墳への参道が、百歩(百五十㍍)となります。榊原英夫氏の著書「邪馬台国への径」の「径」は、氏の深意かと想ったものです。
 それは、早計でした。漢字字書には限界があって、時に(大きく)取りこぼすのです。

*古典書総検索
 と言うことで、念入りに「中国哲学書電子化計劃」の古典書籍検索で、以下の用例観を感じ取りました。単漢字検索で、多数の「ヒット」がありますが、それぞれ、段落全体が表示されるので、文脈、前後関係から意味を読み取れば、勘違い、早とちりは発生しにくいのです。

*「径」の二義
 総括すると、径(徑)には、大別して二つの意味が見られます。
 一に、「径」、つまり、半人前の小道です。間道、抜け道の意です。
 二に、幾何学的な「径」(けい)です。
  壱:身辺小物は、度量衡「尺度」「寸」で原則実測します。
  弐:極端な大物は、日、月ですが、当然、概念であって実測ではありません。
 流し見する限りでは、円「径」を「歩」で書いた例は見られません。愚考するに、歩(ぶ)で測量するような野外の大物は、「円」に見立てないもののようにも思えます。
 つまり、「歩」は、土地制度「検地」の単位であって、「二」の壱、弐に非該当です。史官陳寿は、原則として先例無き用語は排します。従って、「径百余歩」の語義を確定できません。

*専門用語は専門書に訊く~九章算術
 以上の考察で、「九章算術」なる算術教科書は、用例検索から漏れたようです。「専門用語は、まずは専門辞書に訊く」鉄則が、古代文献でも通用するようです。
 手早く言うと、耕作地の測量から面積を計算する「圓田」例題では、径、差し渡しから面積を計算します。当時、「円周率」は三です。農地測量で面積から課税穀物量を計算する際、円周率は三で十分とされたのです。何しろ、全国全農作地で実施することから、そこそこの精度で、迅速に測量、記帳することが必要であり、全て概数計算するので、有効数字は、一桁足らずがむしろ好都合であり、「円周率」は、三で十分だったのです。言うまでもないのですが、耕作地は、ほぼ全て「方田」であり、例外的な「圓田」は、重要ではないのです。また、円形の耕作地は、牛の引く牛犂で隈なく耕作することは不可能であり、従って、円形の面積そのまま全部耕作することは不可能でしたから、その見地からも、「円周率」は、三で十分だったのです。
 当時は、算木操作で処理できない掛け算や割り算、分数計算は、高等算術であり、実務上、不可能に近い大仕事です。

 それはさておき、古典書の用例で、「径」「歩」用例が見えないのは、「歩」で表す戸別農地面積は、古典書で議論されないと言うだけです。
 個別耕作地は、田地造成の際の周辺事情、特に、影やら窪地の取り合わせで円形になっていることもありますが、行政区画には、円形は一切ないのです。
 このあたりに、用例の偏りの由来が感じ取れます。
 上級(土木)で墳丘の底部、頂部径で盛土量計算の例題が示されています。

 以上で、「冢径百余歩」は、円形の冢の径を示したものと見て良いようです。

                                未完

私の意見 「卑弥呼王墓」に「径」を問う 2/2 補追

 幾何学的考証、「方円論」         2021/08/19 補追 2022/11/08

〇幾何学的考証
 以下、「冢径百余歩」が幾何学的「径」と仮定して、考証を進めます。

*径は円形限定
 「径」は、幾何学的に円形限定です。学術用語定義ですから、曖昧さも曲筆もありません。
 幾何学図形の形状再現は、普通は困難ですが、円形は、小学生にも可能な明解さです。五十歩長の縄一条と棒二本で、ほぼ完璧な「径百歩」円を描き、周上に杭打ち縄張りして正確な円形が実現できます。
 対して、俗説の「前方後円」複合形状は、「径」で再現可能という必須要件に欠け、明らかに「円」でないのです。
 たしか、「方円」は、囲碁で方形の盤に丸石を打つのを言うと記憶しています。

*「前方後円」談義~余談
 俗説が引き出している「前方後円」は、倭人伝どころか、中国古典書にない近代造語のようなので、本件考察には、全く無用と感じられます。
 古典書用例から推定すると、「前方後円」は、かまぼこの底面を手前にして立てたような形状と見え、位牌などで、前方、つまり手前は、方形の碑面で、後円、つまり奧は、円柱形で位牌を安定させる構造とも見えます。この場合、前方部は、参拝者の目に触れるので、高貴、高価な材料として、銘文を刻むとしても、後円部は、人目に触れにくいので、それほど高貴でないものにすることができます。
 と言うことで、目下審議中の墳丘墓の形状とは無関係なので、場違いであり、用例とならないのです。

 復習すると、「前方後円」なる熟語は、同時代には存在せず、恐らく、近現代造語であり、いかにも非幾何学用語であり、学術的に不適切なので、いずれ、廃語に処すのが至当と考えます。少なくとも、中国古代史書論義には、無用のものです。
 丁寧に言うと、「前方」部は、方形でなく台形で、通称として俗に過ぎます。

 いずれにしろ、「前方後円」形状に「径」を見る、後代東夷の解釈は不当であり、これを三国志解釈に持ち込むのは、場違いで、不当です。

*矩形用地の表現方法
 かかる墳丘墓の規模を、実務的に形容するには、まずは、用地の縦横を明示する必要があります。そうすれば、用地の占める「面積」が具体化し、造成時には、土木工事に通暁した実務担当者により、用地相応の作図がされ、古典的手法で、円部の盛り土形状と方部の形状が算定でき、これによって盛り土の所要量が算定でき、最終的に、全体の工事規模、所要労力・期間が算定できる、まことに有意義な形容です。
 「九章算術」は、矩形地の例題では、幅が「廣」、奥行きが「従」で、面積は「廣」掛ける「従」なる計算公式を残しています。
 「径百歩」では、用地の面積が不明です。「廣」を円径とした盛り土量は計算・推定できますが、「従」から「廣」を引く拡張部が形状不明では、何もわからず、結論として、「冢徑百餘步」は、ものの役に立ちません。
 結論として、円形土地を径で表すのが、定例・定式であり、これに対して、台形土地を足した土地は、径で表せないので定式を外れた無法な記述と断じられます。

*「冢」~埋葬、封土の伝統
 「倭人伝」記事から察するに、卑弥呼の冢は、封土、土饅頭なので、当然、円形であり、通説に見える「方形」部分は「虚構」、「蛇足」と見ざるを得ません。丁寧に言うと、「蛇に足を書き足すと、蛇ではなくなる」という「寓話」です。
 史料記事に無い「実際」を読むのは、不法な史料無視であり、かかる思いつき、憶測依存は、端から論考の要件に欠け、早々に却下されるべきです。箸墓墳丘墓が卑弥呼王墓との通説には、早々の退席をお勧めします。

*是正無き錯誤の疑い
 以上の素人考えの議論は、特に、超絶技巧を要しない考察なので、既に、纏向関係者には衆知と推察しますが、箸墓卑弥呼王墓説が、高々と掲げられているために、公開を憚っているものと推察します。

*名誉ある転進の勧め
 聞くところでは、同陣営は、内々に「箸墓」卑弥呼王墓比定を断念し、後継壹與王墓比定に転進しているようです。壹與葬礼は記録がなく安全です。

                                以上

2022年10月21日 (金)

16. 年已長大 - 読み過ごされた生涯 補追

                       2014/05/06 追記 2020/05/17 2022/10/20
「年已長大。無夫婿」
 ここまでに記した小論を復唱すると、卑彌呼は、(数えで)十五、六歳で即位し、魏使来訪の時は、最近十八歳を過ぎた(年已長大:すでに成人となった)と云うことになります。後の「壹与」は、十三歳の「宗女」と言うことは、巫女であっても、まだ、世人の尊敬を勝ちとるに到っていなかったかも知れませんが、間近に先例があったので、うまく行くに違いないと思わせたのでしょう。その先のことは、何も文書記録がないので、何もわからないのです。

*謎のご託宣
 下記論説によれば、中国史学界では、「倭人傳」から「わずか十五、六歳の少女卑弥呼を王として」と読み取っていると思われますが、これは、中文としての文意が明解だからだと思われます。

 「倭國と東アジア」 沈 仁安 六興出版 1990年2月発行
 ただし、124ページの以下の記事には驚きました。
 『しかし、長い間、中日両国の史学界では、次のような見方が行われている。即ち、わずか十五、六歳の少女卑弥呼を王として「共立」したのは、「古代の母権社会における女人政治の典型」あるいは「原始的民主制」であり、卑弥呼はシャーマンと開明の「二つの顔」を持つ原始的巫女王であったと思われている。これは、必ずしも倭人伝の原意を正確に理解しているとは言えないであろう。

 急遽、引用文献として挙げられている石母田正氏の「日本の古代国家」(岩波書店 日本歴史叢書 1971年刊)を購入し、内容を見ましたが、「わずか十五、六歳の少女卑弥呼を王として」と書かれている箇所は、ついに発見できませんでした。
 また、見聞の及ぶ限り、日本の史学界で長年行われている見方とは言えないようです。

 むしろ、日本国内の史学界では、卑彌呼は、「壮年で倭國王に即位し、国難の際には自ら戦陣に立つ、強いリーダーシップを持っていた」ものと見ているように思いますが、これは、文献史料に基づく妥当な推定とは思えないのです。
 諸賢には、講談や浪曲にもなりそうな「英雄譚」が、幼児期や少年期の原体験として刷り込まれているような気がします。

 その一つは、萩民謡「男なら」に歌われた「神功皇后さんの雄々しい姿が鑑」となった卑彌呼像ではないかと思われます。あるいは、女として母として、徳川政権に果敢に挑んだ「淀殿」(茶)の姿でしょうか。世間受けすることから、若々しい「卑弥呼」が躍動する物語が少なくないようですが、「倭人伝」にも後漢書「東夷伝」にも、そのような講談ネタは、一切書かれていないのです。

*取り敢えずの解釈
 そうした「通説」を脇に置き、原文から解釈を進め、以上の読み解きに従って現代語風に書き連ねると、以下のようになります。

 (この年頭で)已に成人(「数え」で十八歳)となった(という)。配偶者はいない
 因みに、当時の支配者氏族は、婚姻関係による結びつきを重視したと思われるので、成人となるまで未婚であることは、ないように見えます。但し、当ブログ筆者は、「季女不婚」、つまり、姉妹の中の選ばれた一人は、家付き娘として、嫁入りも婿取りもせず、生涯、氏族の長たる「家」の祭祀を守る「巫女」(ふじょ)を務めたという見方をしているので、むしろ、配偶者がいないのは、当然とみていますが、史官は、中原では、そのような「文化」は、喪われていると見てとって念押ししたと見えます。

 追記 2020/05/17
 丁寧に説明すると、後代資料である范曄「後漢書」が、「遅くとも霊帝代に、倭で大乱が起こり、それを収拾するために、当時成人であった卑弥呼を共立したと想定し、卑弥呼の女王時代は後漢代であった」と語っていて、後漢書「東夷列伝」で「倭」条を構成しているため、共立は、遙か以前の後漢霊帝代あたりになって、曹魏景初年代には、相当の年齢(老齢)となっていて、この「創作」が曹魏代に先立つため、本来先行して書かれていて、笵曄「後漢書」に優先すべき「倭人伝」の解釈が、大きく撓んで、ここに書いたような「若年即位」の解釈は、はなから棄てられています。因みに、後漢霊帝代から献帝に至る時代は、後漢自体が不安定な時代であり、また、韓国も、動乱の時代であった上に、「東域都督」と言うべき遼東公孫氏が自立して、洛陽に東夷、特に、韓、倭について、一切報告をしなくなっていたので、なぜ、笵曄がそのような時代の東夷事情を知ったのか不思議です。後漢献帝期に創設された帯方郡を知らないままに、「倭」の「大乱」や女王共立を知り得たのかという謎です。

 慎重に考えれば、笵曄「後漢書」東夷列伝倭条に対して無批判に追従するのは、曹魏公式記録をもとに同時代史書として書かれた倭人伝」の確固たる記事の解釈を、百五十年後の後代資料「後漢書」のあやふやな記事によって、安易に改竄する「邪道」(時代表現では、「真っ直ぐ」を言う「従」でなく、斜めを向いているという事です)であり、再考の必要がある(棄てなさいと言うこと )ように感じます。

 また、卑弥呼の壮年即位、時代を越えた老境に到る君臨は、「倭人伝」に書かれている人物像ではなく、国内史料などから編み出された古代国家君主像に由来していて、これまた、慎重に考えれば、倭人伝」の解釈を、数世紀後の別系統の国内伝承史料の解釈の「思い込み」に沿って糊塗するものであり、根拠の無い風説の類いなので、とことん再考の必要があるように感じます。

 どちらの場合も、「倭人伝」の記事を離れた「空想」業であり、当然、深意を読み過ごしているものと思われるのです。

 当記事だけでは、「長大論」を言い尽くせないので、一連の「関連記事」詳しく述べていますが、当ブログで、このように、わざわざ「定説」に異議を言い立てるのは、それなりに根拠があってのことと理解いただきたいのです。
以上

 2015年5月16日 補訂

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2022年10月17日 (月)

14a. 共立一女子 - 読み過ごされた女王の出自 増補 再掲

                       2015/05/16  2022/10/17
 「乃共立一女子爲王。名曰卑彌呼」

 魏志倭人傳で、卑弥呼を後継した壹与は、卑彌呼の宗女、すなわち、親族として紹介されていますが、卑彌呼自身にはそのような係累の記事はなく、単に「一女子」と紹介されているように見えます。
 卑彌呼は、普通に考えるように、「一女子」であり、出自不明の一女性だったのでしょうか

*「女子」の由来
 後漢魏晋時代の「女子」の語義を知るすべとして、南朝劉宋代にまとめられた逸話集「世說新語」に載せられている後漢末の蔡邕に関する「黄絹幼婦外孫虀臼」の逸話があります。
 後漢代の蔡邕が石碑に彫り残した謎かけを、一世代後の曹操が「絶妙好辭」と案じるという設定です。

 この謎は、お題の八文字「黄絹幼婦外孫虀臼」が、それぞれ二文字ごとに一文字の漢字を導くというものです。
 本稿で関係するのは、七、八文字目なので、それ以外の絵解きは割愛しますが、ネット検索すれば、容易に全体を読むことができます。

 さて、ここで「外孫」と唱えていますが、これは、「女子」、つまり、「女」(むすめ)が嫁いでできた子(そとまご)のことです。
 謎解きでは、「女子」を横につなげて「好」の字となると言うことです。
 この故事は、当時の教養ある人には、「女子」に「外孫」の語義ありとの了解が成り立っていたことをしめすもののようです。

 陳壽の書いた記事を、このような語義に従って読むと、卑彌呼は、男王の外孫であり、また、「女子」と言う形容により、せいぜい17,8歳の少女であったとの読みができます。

 男王の孫であり、かつ、嫁ぎ先の有力者の娘であるということは、広く女王として尊重されるにふさわしい根拠であり、又、兄弟姉妹のある中で、あえて、俗縁を離れて鬼神に事えることになっていたように思えるのです。
 このように、「女子」の一語で、卑弥呼の年齢と係累を書き残したのは、陳壽の渾身の寸鉄表現と考えることもできます。

 ちなみに、先ほど無造作に使った「少女」と言う形容は、蔡邕に従うと「幼婦」、つまり高い身分の幼女であり、蔡邕に従って読み訓(よみとき)すると、少女ですが、文字を前後入れ替えて、女少となり、すなわち「妙」(当時の語義では「優れている」という意味です。決して、女が少ないという意味などではありません。念のため)です。
 従って、蔡邕を典拠とすると、「少女」という形容は、15歳以上と思われる「女子」に対して使うには、不適切だとなりますが、ここでは、現代用語として使用するものです。
 こうした言葉の使い分けは、当時の人々には自明だったのでしょうが、遙か後世、かつ、異国、東夷のわれわれの目から見ると、判じがたいものがあるのです。

*「卑弥呼」のこと (廃線)
 さて、ここで、女王の「名」とされている「卑彌呼」を見直してみます。
 憶測の部類ですが、この名前は、倭國の言葉遣いでは「ひめこ」(媛子)と読むのではないかと思われます。倭國の言葉の意味は、「娘の子」であり、(王の)娘が嫁ぎ先で産んだ子供という意味と見ます。先ほど述べた、女子、すなわち外孫の中国的な読み訓と見事に符合しています。また一つの寸鉄表現です。
 おそらく、陳壽が、原資料に書かれていたであろう卑彌呼の出自を僅かな字数にはめ込んだものであり、史官として、見事な仕事ぶりと感嘆するのです。
 才人、文章家の評価が高い笵曄と比較して、陳壽は凡庸と見られているように思われますが、この一件が、以上の故事を踏まえて構成されているとすれば、陳壽の機知は、燦然たるものがあるようです。

 以上の読み解きに従って、現代語で書き連ねると、以下のようになります。

 そこで、男王の外孫である少女(15歳程度の未成年の女子)(男王家と嫁ぎ先の両家の)共同で立てて王とした。王の名は、卑彌呼(媛子 ひめこ)とした。

追記:取り下げのこと
 以上の筋書きは、現在の意見では、否定的な方向に大きく傾いています。
 つまり、「倭人伝」は、三世紀に中国人が書いた報告書を、程なく正史に収録したものであり、従って、「倭人伝」の考察に於いて、後世日本史料は、まずは、排除すべきだという意見に傾いているのです。ほぼ、撤回の弁ですが、あえて、削除していません。

*「卑字」の誹りの誤謬
 当時、倭人に漢字の知識が不足していたので、「卑弥呼」なる漢字(卑字)を押しつけられたと思い勝ちですが、支配層は、必要もあって、中国語を学んでいたものと思われるので、十分な教養のもとに、これらの文字を選んだ可能性も無視できないように思えます。どのみち、蛮夷の「王」は、本来の「王」では無く、蛮夷を懐柔するための「虚飾」ですから、何も、頭から、被害者意識に囚われる必要は無いのです。
 
 後年ですが、蕃夷を「蛮夷」などと呼ぶと、後日、漢語を解するようになった夷人から、差別表現だと責められることになったため、鴻臚寺は、接待部門鴻臚寺「掌客」のように、夷人を「客」と呼ぶようにしたのです。と言って、別に蛮夷を尊重したわけでは無く、単なる、外交儀礼だったのですが、それによって、無用の摩擦は避けたものなのでしょう。

*「臺」蔑称説の台頭
 因みに、著名な古典である「春秋左氏伝」によると、「臺」は、凡そ「人」として最下級の格付けだそうですが、「定説」では、この極めつけの悪字が、倭人の女王の居処名に使用されているとの説が根強いのです。陳寿は、当然、左氏伝を、史書編纂の典拠として熟知していて、少なくとも座右の書としていたはずですから、まさか、自身でそのような蔑称を採用するはずが無いと思われます。いや、陳寿当人に言いつけたら、「邪馬臺国」など書いていないと憤慨されるでしょうが。

 いや、「倭人伝」に同時代用語として「臺」は採用されているので、蕃夷の国名の命名は、また別儀としても、蔑称、尊称混在を否定するに足る論拠と思えないし、陳寿が命名した国名というわけでもないのですが、「邪馬臺国」説に対して、提示されたことの見えない、かなり否定的な余談でした。
 もっとも、この「臺」の由来は、「台」には全く関係無いのですが、「臺」と「壹」の混同は、字の「見かけ」に依存しているので、たまには、字の「意味」を論じたいと思っただけです。

*「卑」という「貴字」
 現に、漢字学の権威である白川勝師の字書によれば、「卑」の文字は、「天の恵み」、端的に言うと「雨水」を受けて人々に施す「柄杓」の「象形」から発した文字であり、「上方から降り注ぐ恵みを、身を低くして受ける」ことから、天の「卑」(しもべ)として仕える意味が生じたように見えます。
 そのように調べると、「弥」「呼」の二文字にも、少なくとも、特に貶(おとし) める意味は課せられていないように見えます。

*「誹(そし)り屋」稼業横行
 古代史分野では、「倭」のように光輝ある由来の文字でも、何とかケチを付けて貶(おとし)める習慣が流行っていて、初学者は、そのような「刈り込み」で、古代史に関する史眼を形成して、言うなら、目に「ウロコ」をはめられて、冷静な考証が困難となっているようですが、当ブログ筆者は、流行に動じないし、先師に阿(おもね)る必要も無いので、率直に、気づいたことを述べているのです。

*名乗りの話
 それにしても、自分で書いておきながら、無名のものが、共立の際に「卑弥呼」と名付けられたとの思いつきは、軽率な誤解であったと痛感しています。(言うまでもありませんが、「無名」とは、語るに足る「名」がないという事であり、漱石の吾輩のように「親から名が付けられていない」と言う意味ではありません)
 古代に於いても、実名は実父にしか命名できない、言うならば神聖極まりないものであり、その子は、その実名で祖先の霊と結ばれているので、改名などできないと言う、重大な取り決めを忘れていたもので、失言です。

*「実名」の話
 因みに、古代に於いて、実名を世間に曝すことを避けるために、字(あざな)などの「通称」を常用することは、むしろありふれていましたし、字すら避けて、官位、職務などで呼ぶことも、又ありふれていましたが、国書に記すのは、あくまで実名であり、天子だけは、臣下を実名で呼び捨てることができたのです。
 して見ると、親魏倭王たる卑弥呼は、国書の署名に於いて、魏皇帝に対して実名を名乗ったのであり、通称や職名などもっての外だったとみるべきです。

*当て外れの名付け
 それにしても、「卑弥呼」の名を、当時影も形もなかったと見える、恐らく没交渉の、あるいは、世紀の時を隔てた別の「国家」の言葉、習慣に沿って解釈し直すというのは、途方も無い見当違いとなる可能性を滔々と秘めていますが、世上、そうした見当違い、筋違いの当て込みが、圧倒的に数多く徘徊しているように見えるのです。当ブログの「倭人伝」論義で、後世国内史量を避けるのは、本来の論義の妨げになるからです。他意はありません。

以上

02a. 帶方東南大海 - 最初の読み過ごし ちょっと補筆改題 再補筆

                      初出:2014/11/03  補筆: 2021/11/07 2022/10/17

*02.  倭人在 -  最初の読み過ごし
 「倭人傳」の書き出しを虚心に読む限り、「倭人」の所在は明快です。

「倭人在帶方東南」
 帯方郡は、朝鮮半島西北部、後の漢城(ソウル)付近、ないしは、その北方に存在したとおもわれるので、その東南と言えば、現在の九州を指しているのは、明解そのものです。(三世紀に至っても、まだ、漢城付近の土地は乾いていなかったので、石造りの城郭に楼観を設け、郡兵を擁した「帯方郡治」はなかったと見受けます。結構、北にあったと見えます)

*「快刀乱麻」の提案
 古代史用語で定着している「日本列島」の中心部、現在本州と呼んでいる島は、帯方郡の東南方向から東北方向にかけて、長々と伸びているので「圏外」ですから、学説として「落第」です。三世紀にも、その程度の地理認識はあったでしょう。ここで、九州島以外の広大な地域を「圏外」/「落第」として却下すれば、以後、これらの地域は、倭人伝の道里記事と照合する必要はないので、女王国の比定に伴う諸考証が不要となり、労力の空費、多大な迷惑が避けられます。「快刀乱麻」、アレキサンドロスの「ゴルディアスの結び目」解決に迫る快挙ではないでしょうか。

 と言うことで、「魏志」「倭人傳」が、「倭人」の「國」を九州島のあたりと理解して書かれたことは、まことに明解です。(実際、知られていたのは、對海國「山島」、一大國「山島」とその向こうの「山島」までであり、その向こうの土地がどこまで続いているかなどの正確な知識は、伝わっていなかったのです)

*存在しなかった「倭人」地理記事
  韓傳: 韓在帶方之南
 倭人傳: 倭人在帶方東南

 「韓傳」を見ても、冒頭で、帯方郡を基準とした地理関係を明確にしています。「韓」は、帯方郡の近傍なので、行程道里は書くに及ばなかったのでしょうが、その南の「倭人」の行程道里は、なぜ明記されていなかったのか不可解と言えます。
 但し、行程道里の起点であるべき帯方郡郡治の位置は不明であり、曹魏雒陽からの「公式道里」は、正史に明記されていないから、色々議論が絶えないのです。(景初初頭に、帯方郡は、遼東郡の支配を離れ、曹魏皇帝の管轄下に入ったので、新参の東夷である「倭人」に到る行程道里は、その際に、皇帝に申告されていなければならないのです。)

 因みに、母体であった楽浪郡は、漢武帝代に創設され、その時点の東都洛陽からの「公式道里」が、笵曄「後漢書」の「郡国志」(司馬彪「続漢書」を後世に採り入れたもの)に記録されていますが、漢武帝が創始した楽浪郡が、創設以来、数世紀に亘って、一切、移動しなかったわけは無く、「公式道里」は、「実際の楽浪郡郡治の位置に関わりなくあくまで一定だった」のです。
 そのような公式道里を基準とした楽浪郡から帯方郡への道里は、表明しようがなかったものと見えます。少なくとも、西晋史官たる陳寿には、合理的な表記ができなかったと見えます。
 これに対して、後漢後期、三世紀初期に既存の楽浪郡帯方縣が昇格した帯方郡郡治の所在、雒陽からの道里が、「正史に明記されていない」のは、むしろ奇怪です。これには、後漢末期、遼東郡太守であった公孫氏が、洛陽の混乱、衰退につけ込んで、自立していた背景があり、新参の東夷、つまり、倭人の存在を隠したものと知られていましたが、後に、魏代に入って討伐されて、公式文書類が破壊されたので、曹魏洛陽の政府記録は、後漢代以来の混乱を訂正できなかったのです。何しろ、公孫氏の報告を、訂正/補充できるのは公孫氏のみであり、それができない以上、倭人伝の魏代記事は、帯方郡などの下部組織に残された地方記録に頼ったものなのです。
 と言うことで、倭人伝の道里行程記事は、普通の解釈が困難となっているのです。

 「三国志」の上申を受けた晋朝高官は、まず、新参東夷の所在を知りたがるものであり、更に関心があれば、以降を読み進めると言うことから、史官は編纂に当たって、冒頭数文字に地理情報を凝縮したのです。

以上

*補筆                  2014/11/2  追記 2022/10/17 2022/11/05
 4月2日時点では、以下の議論の歯切れが悪いので、書き落とましたが、半年たって読み返して、やはり書き留めておこうと決めたのです。
 倭人在帶方東南大海之中
 ここまで一息に読むとして、「帶方東南大海」をまとまったものと見て、これを「帯方東南の大海」と読んでしまうのは、不正確ではないかと思います。
 案ずるに、「帯方東南」とは、倭人の所在に対する形容であって、大海に関する形容ではないのです。いくら古代でも、帯方郡の政庁である帯方郡治の官吏も、西晋の史官たる陳壽も、韓半島の周囲が互いに繋がった大海であるという地理知識はあったと思います。

 この書き出し部分は、東洋文庫264「東アジア民族史 1 正史東夷伝」の三国志魏書倭人伝の項では、現代語訳として、次のように丁寧に解きほぐされています。
 「倭の人々は、帯方[郡]の東南にあたる大海の中の[島々]に住んでいて」
 「普通」に読むと、「東南にあたる大海」と「大海」が東南方向に限定されているように読めます。

 現代語訳とするときに付け足した部分が、原意から(大きく)脱線しているのではないかと感じるのです。此の際念押しすると、二千年前の中国人が皇帝を中心とした高位高官の教養人のために、誠意を尽くして書きまとめた文章が、易々と現代人、つまり、遙か後世の東夷によって、すらすら理解できるように書き換えられるはずはないのです。

 それ以外に、この現代語訳には、古文の正確な解釈を離れた現代風解釈が、多々織り込まれていて、原文の趣旨、編纂者の深意に添ったものかどうか、かなり疑問があります。(違っているよと言う意味です)
 現代人にありがちな誤解ですが、「倭人」を「倭の人々」と読み替えているため、「在」を「住んでいて」と読み替えていますが、これは、誤解を招くものと考えます。「倭の人々」 と言うためには、先だって「倭」がどこの何者か公知で無ければならないのですが、 先立つ資料はなく、だからこそ、ここで「倭人伝」を立てて、宣言する必要があったのです。「東夷伝」の諸伝記事は、各国家ないしは地域社会を語っているものであり、「倭人」伝は、「韓」伝と同列の地域概念の紹介と考えます。

 「韓伝」では、「韓」は、馬韓、辰韓などのやや下位の地域概念に分割可能なのに対して、倭人伝では、「倭人」と倭、倭種、倭国、女王国などとの上下関連が明確でないので、構成は若干異なると見られますが、少なくとも、「倭人」を「倭の人々」と書き換えることには、大いに疑問があると見るのです。(友人なら、ダメじゃないか、というところです)

 また、やや余計なお節介かも知れませんが、[島々]は中国語にも日本語にも縁の薄い複数形であり、これでは、倭人の住む国土が、まるで、フィリピンかインドネシアのような島嶼国家になってしまいます。言葉の時代観のずれでしょうか。 追記:ここだけ透徹した読みをしているのでしょうか。
 むしろ、実際は、
山島は一つだけで在り、對海国も一大国も、飛び石状に存在していた大海の中州に過ぎなかったという解釈もありうるのです。この「ずれ」は、深刻な誤解か見知れないのです。(友人なら、ぼけてんのか、というところです) 追記:ここは、当記事筆者の浅慮のようです。反省。

 いや、「大海」を現代日本語の感覚で、Ocean(太平洋)と解しているのも、「誤解」の可能性が高いのです。三世紀当時の言葉で、まずは『「大海」は、内陸の塩水湖であって、寛くて大きい「うみ」ではない』のです。
 当時、中国世界で一番有名な「大海」は、班固「漢書」「西域伝」、魚豢「魏略」西戎伝に収録された後漢西域史料(「東京西羌伝」)に書かれていた西域の果ての裏海(カスビ海)です。但し、固有名詞は付いていません。(陳寿の時代、笵曄「後漢書」は未刊のため、陳寿が述べている「東京西羌伝」の実態は不明ですが、魚豢「魏略」西戎伝に大要が収容されていると見られます)

 現代語訳は、確かに、現代人にとって読みやすく書かれていますが、それは、本来、長年の議論をもってしても、いろいろな意味に読み取れる原文を特定の解釈に固定している「勝手読み」の表れでもあります。むしろ、わかりやすい現代語訳ほど、現代語感/世界観に毒されていて、大脱線の危険が高いと見るべきです。

 倭人伝冒頭部分の解釈の課題は、世間で認知されていないらしく、専門誌である季刊「邪馬台国」103号に掲載された論考には、各筆者の筆に従い、以下の3種の解釈が収録されています。
 1. 「倭人は帯方郡の東南、大海の中に在り」
 2. 「倭人は帯方郡の東南の大海の中に在り」
 3. 「倭人は帯方の東南にあたる大海の中に在り」
 2、3は、明らかに「東南」が「大海」の形容となっていますが、1は、東南と大海を直接結びつけない読み方です。とは言え、文の解釈を曖昧にしているだけで、文の意味を解明していないので、その分、世間に、大きな迷惑をかけています。 追記:「現代語訳は、原文の過度な読み解きはすべきで無い」という原則に留めるべきでした。反省。
 なお、上に例示した現代語訳は、学界の定説を忠実に踏まえているものであり、本論の趣旨が、これらの文を含む論考について、その内容を論(あげつら)うものではないことは、ご了解頂けるものと思います。

 結局、「在」と言う動詞を、本来意味の届いていない後方まで引きずって解釈しているために文章の明解さが失われているのであり、「倭人在帶方東南」で区切り、明解にするべきであるというのが、本論筆者の主張です。

 それとも、明解に読み下してしまうと、「倭人」が九州島に限定されてしまうので、「畿内説」の絶滅を防ぐために、あえて、曖昧にしているのでしょうか。

 因みに、当記事の読みでは、「倭人」は、大海中の山島に「国邑」を成していることになりますが、これは、中原太古の世界像に従わず本来隔壁で保護されているべき集落が、山島では海を隔壁とし城壁を設けていない』という宣言です。但し、戸数数万戸の領域国家は、到底、山島に収まらないので、規定を外れるのですが、郡倭行程外の余傍の国と明記されているのに等しいのです。

以上

補注 2022/10/17
*「大海」の正体~一つの明快解釈案
 以上の考察は、その時点での最善の考察であり、特に訂正の要は認めませんが、残念ながら、現代東夷の限界で、現代普通の解釈に偏っているので、以下、別解を述べます。一部、他記事と多少重複しますが、話の勢いでそうなったと理解いただきたい。

*天下を巡る「海」
 つまり、「大海」は、現代人が当然と見ることのできる「塩水湖」と決め付ける前に、中國古典の「世界観」に思い至る必要があったのです。つまり、「海」は、塩水に満ちたものと限らず、「天下」の四囲にある異界と見えるのです。

 四方の「海」のうち、東海」は、たまたま、大変早い段階で広大な海水世界と知られているため、それが「うみ」であると「誤解」され自動的に 現代英語で言えば、Sea (英語)ないしは Ocean (米語)と見てしまいますが、本来の古典的「世界観」は、『天下」の到達可能な範囲には、南も北も、まずは、蕃夷の支配する異界があって、それを「海」の概念で括っていた』ものとも見えるので、直結、短絡的な決めつけは、控えた方が良いようです。

*新書の教え
 因みに、渡邉義浩氏は、「魏志倭人伝の謎を解く(中公新書2164)」で、陳寿が、「魏志」東夷伝序文で展開した世界観が、尚書「禹貢」篇に於いて、中国世界を、天子の支配下にある「九州」とその四周にある蛮夷の済む荒地「四海」と捉えた世界観と明記され、「九州」が「万里の世界」と絵解きされていて、先に述べた「海」の解釈は、当ブログ筆者として、これに従おうと努めたものです。
 なお、中島信文氏が、複数の近著で開示された「中国」世界観は、広大、精緻で、大いに学ぶべきですが、多岐に亘る論旨は、本稿の中で端的に要約参照することが困難なため、渡邉氏の手短な論義を利用したものです。ご了解頂きたいものです。

*現代「地図」、「世界観」の放棄
 この場の結論として、伝統的な中原文明の「世界観」、「地理観」に厳密に基づいて書かれた「魏志」では、「倭人在帶方東南大海之中」の解釈は、一歩下がって慎重に取り組んだ方が良いようです。つまり、魏志東夷伝の一部である「倭人伝」の示す世界像を「普通に」理解する手段として、現存の世界地図は、一旦、放棄すべきだという事です。

*「倭」の正体~一説提起
 取り敢えず、ここで言う「大海」は、東方の異界の一部を成すものであり、「倭人」が、帯方郡の東南、大海中に在るというのは、韓伝で予告されているように、韓の南は、「大海」に接していて、それが、即ち「倭」である』と解すれば、たちまち明快になるのです。
 そのように解すれば、ここでは、「倭人」なる「新参の東夷」は、「倭」即ち「大海」の中で、特に、大海中の山島に在ったものをいうのであり、そのように解すれば、幾つかのあいまいとされていた表現が明快になるのです。

 例えば、狗邪韓国に関して書かれている「其の北岸」は、「倭」と称されている「大海」の北岸』であり、まことに明快です。

*帯方郡官人の限界と特性
 そのように精妙な定義付けを報じた世界観は、実は、洛陽の読書人に(限り)通用するものであり、辺境にある帯方郡官人の世界観とは「ずれている」のです。陳寿は、「東夷伝」の核心部/要点では、渾身の努力で、洛陽の世界観と帯方の世界観を精妙に整合させていますが、末節部分では、原文である帯方郡公文書を温存し、素人目にも明らかな食い違いを残しているのです。

*早計の「挙げ句」
 いや、景初初頭の魏明帝特命による両郡回収以降、帯方郡が洛陽に直接提出した報告は、既に皇帝に上申され、裁可を得て、洛陽公文書になっていたので、これは、金石文に等しく至上のものであり、一介の史官、いや、後代皇帝、高官を含めて、誰であろうと是正する術はなかったのです。又、かくのごとく確固として継承された公文書を正確に後世に伝えるのが、史官が身命をかけた職業倫理でもあったので、筆を加えることは問題外だったのです。

*渡邉流「史官論」への疑問
 先に著書を引用させて頂いた渡邉氏は、テレビ番組上での談話とは言え、「史官は、史実を正確に継承する動機付けを有しなかった」という趣旨の断言/妄言を公開していて、さながら、タコ墨の如く、「ご自身の史学者としての厳正さを幻像と言う」ように目くらましして「粗忽な画像」とされたため大いに不信感を漂わせているのです。
 なにしろ、視聴者にとって、「画面に見えるのは、氏の姿」なので、素人は、ついつい、一流史学者の「自嘲的な自画像」と見てしまいがちなのです。

 とは言え、先に挙げた尚書「禹貢」篇解釈は、確たる史料の端的な解釈なので、氏の恣意はこめられていないものとして、ここに端的に依拠したものです。

以上

04. 始度一海 - 読み過ごされた初めての海越え 追記版 補追

 倭人伝再訪-4  2014-04-24  追記:2020/03/25 2022/10/17

始度一海、千餘里至對海國

*始めての渡海
 「受け売り」となりますが、『中国古典書では、「水行」が河川航行に限定される』との説の続きとして、「始度一海」についても、中島氏の論に従い、ここは、始めて(始度)の渡(度)海であるとの意味と読めます。
 ここに来て、冒頭の「沿海岸水行」が、実行程の説明などで無く、『以下、倭人伝に限り、「水行」と言う新語を、海を渡る意味で使います』と言う宣言/定義付けだった事がわかるのです。

 目前に広げている「倭人伝」の少し前に書かれている字句は、まだ容易に確認できるので、同時代の「読者」は、倭人伝道里行程記事の冒頭部分を見返した上で、そういう意味だったのかと「合点」できたことでしょう。

*對海國「市糴」考
 これまで、對海國が「不足する食糧を交易(市糴)で補う」との記事に対して、交易で何が代償なのか、書かれていないと不満を呈していましたが、どうも、この下りは、魏使に見落としがあったようです。交易自体は、「南」の一大國と「北」の狗邪韓國との間で、つまり「南北」に常時「船舶」が往来していたので、地産を託して利益を得て、対価として穀物を得て、辛うじて生存していたように見られがちですが、それは、考えが、途方もなく浅いようです。

*自縛発言の怪~ それとも「自爆」
 なにしろ、世上、對海國は、不足する食糧を補うために人身売買に励んでいた」と、古代史学者の名の下に公開の場で途方も無い誣告に走る「暴漢」がいて、唖然とするのです。そりゃ、国民をどんどん人身売買で減らしていけば、急速に食糧必要量は減るでしょうが、いずれ、近い将来、国土は全て耕作者の居ない「無人の境地になれば食糧不足は解消する」ものの、それは、解決策では無いのです。まるで、子供の思いつきです。
 「古代史学会」が、学会として機能しているのであれば、そのような暴言を放置していることの是正が期待されるのですが、訂正、謝罪の記事は見かけませんから、自浄機能のない機能不全の存在になっているのです。何しろ、未検証の思いつきを、当の現地でぶち上げるのは、万死に値する暴挙とみるのです。

*對海国条の深意
 たしかに、「倭人伝」は、そのような印象/イメージを与えるように工夫されているので、普通に読んで、そのように納得してしまうのは、初学者には無理ないことですが、本来の「倭人伝」読者は、古典書に精通していて、言わば、読書の道で百戦錬磨の強者がいて、簡単に騙されないのです。単に、騙された振りをしていただけと思います。

*「南北市糴」の実相
 「南北」に往き来している「船舶」は、普通に考えれば、当然、地元である對海國が造船し、渡船として仕立てたものであり、併せて、造成した港に「市」を設けていて、南と北から来た船荷の取引で、相当の収益を上げていたはずです。そうで無ければ、往き来する他国の「船舶」から、結構な港の利用料を得ていたはずです。

*「大航海」大幻想
 そのような前提を抜きにして夢想してしまうと、對海國の商人が、南は、伊都国以遠まで南下するとか、北は、狗邪韓国を越えて北上するとか、途方もない遠出をしたと妄想が広がる方もいるし、ひょっとすると、果ては、半島沿岸を経めぐって、帯方郡の海港から山東半島東莱まで赴いたとか、ホラ話が止めどなく広がっている方を見かけますが、まずは、對海國の乏しい地産を、延々と運んでいくのに必要な食料は、どこから得られたかと心配しないのでしょうか。いや、途方もないホラ話として、未だ存在しない「天津」まで乗り入れる妄想まで登場しているから、まだ、ましというものなのでしょうか。ちなみに、「天津」は、遙か後代に天子の住まう大都へ繋がる海港として創設されたものであり、三世紀当時、天子は、洛陽に住まっていたので、「天津」は虚名の極みなのです。知らない人は何を言っても言い捨てなので、お気楽だと思うのです。

 話を戻すと、時代/地域のあり方を冷静に再現し、近隣交易、仲介交易の妙味を感じ取らないと、適確な解は得られないのです。そして、對海國が、飢餓で滅びるところか、南北の近隣と交易して、後世人の想像を絶した「潤沢な利益」を得ていたと見ないと、話の切りがつかないのです。

*「倭人伝」の要旨~再確認
 「倭人伝」の要旨は、韓国の領域を出た後、海上の州島を飛び石のように伝って、倭の本地に到るという未曾有の渡海行程の運びであり、現に存在するということを示している訳なのです。「倭人伝」は、中国人が、中国人のために書いた夷蕃伝なので、程良い難題になっている必要があるのであり、「對海伝」を目指しているのではないのです。

*「富国」の最善策
 さて、話を、對海國の考証に戻すと、港の利用料として誠に有意義なのは、穀物の持ち込みです。
 何しろ、対海国に立ち寄って、水分食糧の補給ができる前提で、通常の渡船は、身軽にしていたわけですから、對海國の海港に備蓄が無いと、折角の交易が頓挫してしまうのです。つまり、普段、空荷の渡船に「食糧」を積んで、対海国に納入していたとみるのが、賢明な「読み」でしょう。それが、筋の通った「大人」の読み方と思います。倭人伝の元史料は、その程度のことは、書こうとすれば書けば書けたでしょうが、「倭人伝」の分を過ぎているので、割愛したと見るのです。

*時代相応の独占的特権
 当然の考証として、三世紀当時の漕ぎ船では、對海国での漕ぎ手の休養や食料、水の補充を飛ばして、直接往き来することは不可能であり、代替策が無い以上、寄港地としての価値は、大変、大変高かったとみられます。食糧不足は、帯方郡に対して、納税しないことの口実であったと見えます。
 何しろ、對海國と狗邪韓國の間の直線距離は短いので、戸数相当の「税」を納めよと言われないように、念入りに手を打っていたと言うことです。もちろん、そのような自明事項の説明は、「倭人伝」の分を過ぎているので、割愛したのです。

*對海國の恵み
 自明事項ついでに続けると、人は食べなければ生存できない」ので、穀類不足は、海や山の幸で補い、さらには、山や海の幸を送り出して、代わりに穀類を手に入れて飢餓を免れたのが、南北交易の実態であったと思われます。對海國が、長く健全に維持されたと言うことから、大半は、對海國の市で、あるいは、海港で、着々と行われたはずです。別に、船に乗って出かけなくても、客はやってくるのです。
 本当に、飢餓状態になれば、半島か一大國に逃げ出すはずですが、そのようなことが明記も示唆もされていない以上、対馬島内で、必要な食料は得られていたのでしょう。

 余談ですが、地産として有力な海産物の干物づくりには、一旦煮てから天日干しする必要がありますが、その程度の燃料は、最寄りの山林から得ていたのでしょうし、必要な食塩も、海水から採れたはずです。ただし、対馬で、貝塚が出土したかどうかは定かではないので、干物交易は、あくまで、仮説に過ぎないのですが。

*道里/方位談義
 ちなみに、さすがの魏使も、海上航路を精度高く測量することはできないし、また、航海の距離を報告しても、道里としての実際的な意味が乏しいので、方向と距離は、大雑把なものにとどまっているのです。目前の海島に到る渡船には、方位の精密さは不要なのです。

*時代相応の「国境」談義
 更に言うと、とかく誤解されている「国境」は、ちゃんと時代感覚を補正しないと、検討ちがいのものになります。倭人伝では、對海國は、「国」であり、「對海国の国境」は、北は、狗邪韓国の港の對海國「商館」、南は、一大国の港の對海國「商館」となります。また、「倭人」の北の国境は、狗邪韓国の港の對海國「商館」、この場合は「倭館」となります。

 これは、経済的な視点、つまり、貿易の実務からくるものであり、そのようにしないと、倭の所有する貨物を、韓に引き渡すまでの所有権が保護できないことになるので、言わば、「治外法権」としていただけであり、仮に、その区域内になにがしかの武力を保持していたとしても、別に、倭が狗邪韓國全体を領有していたというものではありません。何しろ、交易相手は「お客様」であり、そのまた向こうの「お客様」とうまく商売しているから、多大な利益が得られるのであり、言わば、「金の卵を産むニワトリ」ですから、決して、「お客様」を侵略して、奪い取るものではないのです。あるいは、蜂蜜を求めて、ミツバチの巣を壊して根こそぎするのと同じで、そのあとは、枯渇なのです。

以上

追記:2020/03/25
 現時点で、訂正を要するというほどではないのですが、思いが至らなかった点を補充します。

 まず、「一海」を渡るとしていて、以下でも、「また」と言う言い方をしていますが、これは、山国蜀の出身である史官陳寿が、帯方郡から報告された行程を、海を知らない中原、洛陽の読者に理解しやすいように、半島南岸の狗邪韓国から対馬への移動を、中原にもある大河の渡河、渡し舟になぞらえたもののように見えます。いや、史官の基本として、原史料に手を加えることは厳に戒めていたものの、補足無しでは誤解されるに決まっている部分には、加筆したものと見えます。
 中原人にとって、辺境の「大海」は、西域の蒲昌海(ロプノール)や更に西の裏海(カスピ海)のような「塩水湖」なので、中原や江水沿岸にある「湖沼」混同されないように、言い方を選んでいるのです。
 また、今日の言い方で綴ると、対馬海峡」は、東シナ海と日本海の間の「海峡」、つまり、山中の峡谷のような急流となりますが、当時、東シナ海も日本海も認識されていなかったので、「海峡」との認識は通用していなくて、単に、一つの名も無い塩湖、「大海」があって、それを、土地の渡し舟で越えるとしているのです。

*「海」という名の「四囲辺境」の「壁」
 別の言い方をすると、古典書で、「海」は、中国世界の四方の辺境に存在する「壁」であり、本来、塩水の水たまりという意味では無かったのです。そのため、西域で「塩水湖」に遭遇したとき、それを「大海」と命名したものであり、四海の内、具体的に直面する東の「海」についても、漠然と、塩水のかたまりとしての意識しか無かったのです。
 その結果、帯方郡の東南方にある蛮夷の国は、「大海」として認識され、次に、「大海中山島」、つまり、「大海」中に「國邑」があるとみたようです。あくまで、「大海」が「倭」であるという「地理観」』が長くはびこっていたため、それで無くても、「倭人伝」の記事は、普通にすらすら読むことが困難なのです。
 何しろ、陳寿の手元には、さまざまな時代の「世界観」で書かれた公文書史料が参列していて、史官は、史料を是正すること無く編纂を進めるので、遙か後世の夷人は、謙虚、かつ丁寧に読み解く必要があるのです。

*「瀚海」談義
 予告すると、次の湖水は、特に「翰海」との名があるとされていて、別の渡し舟で越えるとしているのです。そして、次は、また無名の塩湖となっていて、別の渡し舟で越えるとしているのです。
 「瀚海」は、広々とした流路の中央部であり、むしろ「ゆったりと流れる大河」の風情であり、古田氏の戯れ言の如く「荒浪で壱岐島を削る」ものではなかったのです。むしろ、絹の敷物のように、細かいさざ波を湛えている比類の無い眺めだったために、「瀚海」と命名されたように見受けます。これは、滅多に無い孤説ですので、聞き流していただいて結構です。

*「一海」を渡る「渡し舟」
 「渡し舟」は、中原人の世界観では、基本的に、身軽な小舟であって、決まった「津」と「津」の間を往き来して、公道(highway)である街道を繋ぐ補助的な輸送手段です。中原の街道制度でも、渡船は、道里や日数の勘定に含まないものです。
 「倭人伝」の「渡し舟」は、流れの速い海を、一日がかりの長丁場で乗り切るので、「倭人伝」は「渡海」と呼びつつ、道里行程記事としては「水行」として、道里や日数の勘定に含んでいます。

*「倭人伝」用語の実相
 陳寿は、それまでの「慣用的な用語、概念を踏まえて、辺境の行程を説いている」のですから、後世の読者は、「現代人の持つ豊富な知識と普通の素直な理解」を脇に置いて、歴史的な、つまり、当時の慣用的な用語、概念によって理解することが求められているのです。

 「倭人伝」は、そのように三つのささやかな塩水湖の「湖水」を、それぞれの渡し舟で渡って乗り切るとしています。行程全体の中で、難所であることは違いないのですが、普段から渡し舟が往き来しているとして、物々しい印象を避けたとも言えます。

*島巡りの幻想払拭
 と言うことで、この間を、魏使の仕立てた御用船が、島廻遊までして次々に、島伝いに末羅国まで渡るという、古田武彦氏に代表される学会ぐるみの物々しい想定は、陳寿が丁寧に噛み砕いた原記事の、時代相応の順当な解釈を外れていると見るものです。
 凡そ、専用の頑強な船体で屈強の漕ぎ手が死力を尽くして難所を漕ぎ渡った後普通の「便船」として、延々と漕ぎ継ぐというのは、合理的ではありません。普通の「便船」、普通の漕ぎ手に交代し、専用の漕ぎ手は暫時休養し、船体は折り返しの渡船行程に備えたとみるべきでしょう。
 古代と言えども、合理的な操船手順は確立されていたはずです。でなければ、「渡船」事業は、業として成立せず速やかに破綻するのです。

*辻褄合わせのいらない概算道里
 そもそも、公式道里は、郡治から國邑までの「道のり」であり、對海国に至る道里には、途中の細かい出入りの端数は全て含まれているのです。そもそも、万二千里の総道里であり、全ては、せいぜい千里単位の概数計算ですから、「島廻遊」の端数里数は、はなから棄てられているのです。このあたり、古田氏の念頭から、概算計算の概念が失念されていて、一里単位とも見える「精密」な道里計算に務めたため、このように端数の積み上げで帳尻合わせする挙に陥ったと見えます。概数計算の古代概念では、千里単位の一桁漢数字(但し桁上がりあり)で計算して勘定が合うことが求められ、桁違いの端数は、勘定に関係ないのです。
 世上、倭人伝道里を、算用数字で書く悪習が出回っていますが、そのような時代錯誤の無意味な数字を目にしているために、千里代も百里代も同格であるような錯覚が蔓延しているとしたら、残念なことです「倭人伝」道里記事は、漢数字による概算計算の世界であり、倭地内道里二件以外は、千里単位です。
 散見される「方三百里」、「方四百里」なる「方里」表現は、行程「道里」でなく面積表示と見えるので、ここに展開した道里計算と、全く、無関係、別次元です。取り違えた議論は山積しているので、とかく、誤解に基づく議論が当然とされていますが、誤解に立脚した議論は、いかに支持者が熱烈に支持しても、誤解にほかならないのです。
 言い古された言葉ですが、学術的な論義は、声が大きいものが「正義」ではないし、まして、拍手の数が多ければ「正解」でもないのです。

*「倭人伝要件」の確認
 総括すると、正史蛮夷伝である「倭人伝」の主務要件は、蛮夷管理拠点である郡から新参蛮夷である倭王居処に至る主要行程の公式道里と所要日数を確定することです。
 遠隔の倭地内の地理情報や主要行程外の余傍の行程は、本来、不要なのです。当時の史官、さらに、政府要人は、悉く、基礎数学を修めていて「数字」に強く、概算計算の概念を適確に理解していたので、つまらない誤解はしなかったものと解されます。

 「倭人伝」が今日の姿で裁可されたのは、当時の読者にとって自明の概念を、適切に述べていたためと思われます。

 この点に関する早合点は、折角の合理的思考の足元を揺るがして、古田氏の提言全体を危うくしていて、誠に残念です。

以上

2022年6月20日 (月)

新・私の本棚 番外 サイト記事検討 刮目天一 【驚愕!】卑弥呼の奴婢は埋葬されたのか?(@_@) 1/1

【驚愕!】卑弥呼の奴婢は埋葬されたのか?(@_@) 2022-06-16     2022/06/20

◯はじめに
 本件は、兄事する刮目天氏のブログを題材にしているが、氏のご高説に異を唱えているわけではなのは見て頂いての通りである。
 氏が応接の際に見過ごした躓き石を掘り返しただけである。ここは、第三者の発言内容の批判であり、「倭人伝」解釈で俗説がのさばっている一例を摘発するだけである。こうした勘違いの積み重ねが、混沌たる状況に繋がっている。

◯発言引用御免
卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人
卑弥呼が死に、多数の冢が作られた、径100歩に殉葬者の奴婢100余人。
とかの意味じゃないかな。
大作は漢文の用法としては大きく作るじゃなくて多数作るの意味みたい
墳ではなく冢だから小規模な墓が多数作られたんだ。

◯部外者の番外コメント
 発言者は、「改竄」記事にコメントし、刮目天氏は寛恕で黙過している。
*「徇葬」正解 
 原文は、「徇葬者」であり「殉葬者」と書いていない。改竄記事を論じるは、無意味であり、古代史分野に蔓延る「悪習」である。
 「徇葬」は、「魏志」東夷傳「扶余伝」が初出のようである。正史は、先例の無い言葉の無断使用は許されないが、「倭人伝」は、「扶余伝」で認知された用語の承継と見える。いや、実は、ほぼこれっきりの二例しか見当たらない。
 「殉葬」は、先例が非礼・無法である。とてつもなく「悪い」言葉を、陳寿が大事な「倭人伝」で、深意に反し、採用することはあり得ない。
 対して「徇葬」は、葬礼に伴い進むか、夜を徹して殯するか、あるいは、守墓人に任じられたか。「行人偏」の持つ意味は、そのような活動的なものである。いずれにしろ「徇葬者」は生き続ける。女王は讃えられる。
 「殉」一字に、「命がけで信条を奉じる」=「殉じる」との意義もあるが、「殉葬」者は、恐らく意に沿わずとも、間違いなく命を落とす。女王は、正史に恥を曝す。大違いである。意見は人さまざまで、百人の奴婢が、生きながら埋葬されたと言う見方も悲惨であるが、所定の儀式を歴てとは言え、いずれかの場所で、百人が命を奪われ、遺骸が、土坑まで運ばれたという暗黙の了解強制も悲惨である。

 これほど意味・意義の違う文字と取り違えるのは、目が点で節穴である。但し、この改竄は発言者独創とは思わない。倭人伝名物の改竄解読手法受け売りで、褒められないが非難はできない。誤解が蔓延しているのである。

 因みに、笵曄は、後漢書「東夷列伝」扶余伝で、陳寿の記事と軌を一にしつつ、「徇葬」と宿痾の誤字/誤解症例を残している。もって瞑すべし。(要するに、後漢書「東夷列伝」は、後漢代公文書を着実に参照しているので無く、范曄創作/誤解を、多々含んでいるのである。いや、他にもあるが、圏外なのでここでは論じない)

*「冢」の正解模索
 刮目天氏は、丁寧に辞書に頼るが、まずは、原史料で最前用例を探索すべきと愚考する。
 読者は、自身の語彙で解明できなければ、「魏志」第三十巻の巻子/冊子の最前を遡り、わからないときは座右の「魏志」の山を手繰る。四書五経は元より、「漢書」、「史記」など山々の大著を倉庫から荷車で引き出させるのは、陳寿の手落ちとなり不合理である。そうならないように、陳寿は、その場で確認できる用例を書き込んで、伏線を敷いている。ここで、藤堂明保氏名著「漢字源」はまだ存在しないと戯言する。

 倭人伝の「冢」は、大家の葬礼紹介で、「遺骸を地中に収めた後、冢として封土する」との趣旨で書いてあり、いかにも、身内による埋葬と思われて、近隣を動員した土木工事とは書いていない。発言者は、根拠不明の「漢文用例」を参照して、徑百歩の範囲に、「お一人様」用の「冢」を百基造成したようにも読める、あいまいな言い方で笑い飛ばしているが、土饅頭といえども百基は、途方も無い工事であるが、そのような遺跡は先例があったのだろうか。無責任な放言は、それ以上取り合わずに、ゴミ箱に棄てることにする。

 本論の女王封土の場合は大がかりであるが、奴婢百人では、到底直径百五十㍍の「円墳」は造成できない。円墳は盛り土で済まず、石積みが不可欠で「冢」にならない。もちろん、倭人伝は「墳」と云っていない。径百歩は、「普通の解釈」と合わないが、ここでは論じない。

*まとめ~用語審議の原則提言
 末筆ながら、用語解釈の基本として、原文起点とし、「最前用例 最尊重」の黄金律を提起したい。文脈の斟酌も、粗忽を避けるのに、とてつもなく重要である。倭人伝論では、失敗例が山積しているので、そう思うのである。

                  余言無礼御免 頓首頓首  以上

2022年1月21日 (金)

私の意見 倭人伝「之所都」の謎

                           2022/01/21
〇はじめに
 「倭人伝」の「之所都」解釈の通説は、陳寿の真意ではないようである。「之」に続くのは、本来一字であり、二字句を続けている例は希である。「所都」は、「都とする所」と解するかどうかは別として、二字句に見える。
 つまり、順当な解釈は、「之所都」と続けず、「之所」で区切るのである。

*魏志の権威
 但し、後世文筆家は、言わば、早とちりで魏志「倭人伝」に「之所都」用例を見て追従したようである。正史魏志の権威は絶大で、以後、「倭人伝」を典拠としたようである。
 世間には、「倭人伝」を独立した「本」(日本語)と誤解することがあるが、あくまで、魏志第三十巻掉尾であり魏志の「権威」を身に纏っているので、二千字といえども「小冊子」と侮ってはならない。「所都」の典拠となったのは、誤解であろうと何であろうと、そのような権威の故である。
 用例検索の結果、「之所都」に、精査に耐える有効な前例はなかったのである。また、「所都」の「都」は、漢魏代では、蕃王居処に不適切であり、陳寿に、そのような意図はなかったのである。後世の類書編者は、古典書に不案内で「都」の禁制などなかったから、無造作に「女王之所都」と読んだのである。太平御覧など類書の所引は、倭人伝の深意を探る「掘り下げ」など念頭に無く、ぱっと見の早呑み込みなので、当たり外れが、激しいのである。外すときは、従って、大きく外すのである。
 ここでも、倭人伝の適確な解釈は、陳寿の真意を察するのが正解への唯一の道なのである。くれぐれも、裏街道、抜け道、禽鹿の径の類いは、いくら、普通の早道に見えても、よい子は踏み込まないことである。

〇「之所都」用例談義 中国哲学書電子化計劃
 「倭人伝」以前に由来すると思われるのは、二例と見える。
*太平御覽 地部二十七 鎬
 水經注曰:鎬水上承鎬池於昆明池北,周武王之所都也
 「水経注」は、中国世界の全河川を網羅して、水源から河口までの各地の地名由来を古典書から収録している。「鎬水」水源「鎬池」が昆明池の北で「之所都」は、周武王が「都」とした意味としても史実は不明で王城名もない。他用例は「武王所都」(説文解字)で「之」を欠いている。

*太平御覧 四夷部三・東夷三 倭
 又南水行十日陸行一月至耶馬臺國戶七萬女王之所都
 「御覧所引」魏志は、読み損なって縮約している。「倭人伝」と前後して文意誤伝であり誤字も然り、と「所引」批判できる。

〇鹽鉄論談義
 通典 食貨十 鹽鐵 【抜粋】   中国哲学書電子化計劃
又屯田格:「幽州鹽屯,每屯配丁五十人,一年收率滿二千八百石以上,準營田第二等,二千四百石以上準第三等,二千石以上準第四等。(略)蜀道陵、綿等十州鹽井總九十所,每年課鹽都當錢八千五十八貫。(略)榮州井十二所,都當錢四百貫。(略)若閏月,共計加一月課,隨月徵納,任以錢銀兼納。其銀兩別常以二百價為估。其課依都數納官,欠即均徵灶戶。」以下略
 「榮州井十二所,都當錢四百貫」は、塩水井戸十二「所」、「都」は、塩水井戸課税「総計」四百貫/十二ヵ月である。(閏月は、一ヵ月分課税)

 当史料で「總」(すべて)は、「蜀道陵、綿等十州鹽井總九十所」のように、管内塩井数の総計としているので、課税総計は、「都」(すべて)と字を変えたようである。つまり、「所都」と続けての用例ではない。

 塩の専売による財政策は漢武帝代創設で、以後、後漢、魏の公文書館に順次継承され通典に所引されたと見える。つまり、倭人伝に先行と見える。因みに、先賢の説に依れば、「塩鉄専売」による徴収は、古来、国庫でなく帝室財政への収入、つまり、皇帝の私費であったものが、武帝の外征乱発や河水治水工事への大盤振る舞いのせいで、国庫が枯渇しかけたので、国庫収入に付け替えたようである。
 何にしろ、当時の経済活動の規模と成り行きは、現代人の想像を遙かに超えていて、そのくせ、当時の知識人には、当然のことなので、記録に残っていないことが多いのである。くれぐれも、現代人の良識で判断しないことである。

〇「之所都」解釈案
 本稿の結論としては、「之所都」と並んでいても、「都」が総計の意味の場合は、連続させない例として有効で、倭人伝解釈に有益ではないかと思い、本稿を残したのである。

 因みに、国内古代史学界は、「都」の大安売りであるが、三世紀時点の用語解釈すら不確かなのに、以後化石化した国内用例の解釈と敷衍には、慎重の上にも慎重であって欲しいものである。

                                以上

2021年9月26日 (日)

05. 名曰瀚海 - 読み過ごされた絶景 補充

                              補充 2021/09/26      

 又南渡一海千餘里,名曰瀚海,至一大國
 倭人傳の主眼の一つである「従郡至倭」行程、つまり、帯方郡治を出て倭の王城に到る主行程には、その中心を占める三回の海越え、渡海が書かれています。陳寿が範を得た漢書西域伝では、陸上行程の連鎖で萬二千里の安息国に至っているのですが、ここに新たに書き上げようとしている「倭人伝」では、前例の無い、渡海の連鎖で、日数、里数を大量に費やしていて、これまた前例の無い「水行」と新たに定義した上で、記事をまとめています。このあたりの事情は、この場所には収まらないので、別記事を延々と書き募っていますから、ご縁があれば、お目にとまることもあるでしょう。

 そして、三度の渡海の中央部の記事に、あえて、「瀚海」と書いています。まことに、珍しいのですが、何度も書いているように、この行程は、前例の無い、不思議な書き方になっているので、同時代の教養人といえども、何気なく読み飛ばすことはできなかったのです。つまり、飛ばし読みさせない工夫をしているのですから、現代の「東夷」の知識、教養では、読み解くのがむつかしい(不可能)のも当然です。

 慎重な読者は、ここで足を止めて、じっくり調べるものです。と言っても、この仕掛けは、ここが最初でもないし、最後でもないのです。子供が坂道を駆け下りるように、向こう見ずな暴走をしないようにご注意下さい。まして、転んで痛い目に遭ったのを、陳寿の書法のせいにしないでほしいものです。これまで、ほとんど二千年と言っていい、長い、長い期間に、多数の教養人が「従郡至倭」記事を読んで、「陳寿の筆法を誹っている」例は、見かけないのです。

 閑話休題
 以前から、特別な難所ではないのかと考えていたのですが、今回参照した中島氏の著作では、霍去病の匈奴討伐時の事績を参照して、この海峡を、越すに越されぬ難所として名付けられているとみています。海図や羅針盤の無い(要らない)有視界航行で、一日一渡りするだけと言えども、楽勝ではなかったと言うことです。
 まことに妥当な意見と考えます。

 こうしてみると、単に、三度海越えを繰り返したのではないのです。

 ちなみに、「倭人傳」解釈諸作が、原史料を尊重しているかどうかの試験の一つが、「一大國」がそのまま取り上げられているかどうかです。
 いきなり、「壱岐國」と書かれていたら、それだけで落第ものと思うのですがね。まあ、親亀、子亀の俗謡にあるように、子亀は上に載るだけという見方もありますが、堂々と解説書を出版する人が、「子亀」のはずがないでしょう。

以上

*随想 「翰海」と「瀚海」 2021/09/26
「票騎封於狼居胥山,禪姑衍,臨翰海而還」
 実は、史記/漢書に共通な用例「翰海」は、さんずいが無いものであり、中々意味深長なものがあります。

 漢字用例の集大成とも見える、「康熙字典」編者の見解では、もともと「瀚海」なる成語が知られていたのを、漢書「匈奴伝」などでは、あえて「翰海」と字を変えたと解しているようです。つまり、匈奴伝などでは、匈奴相手に大戦果を上げ、敵地の「漢軍未踏」領域に進軍した霍去病驃騎将軍が、山上から瀚海/翰海を見渡した後、軍を返したことになっています。因みに、ほとんど同記事が、漢書に加えても史記にも引かれていて、この一文が、当時の著述家の鑑になっていたと偲ばれます。

 そこで思うのですが、それほど珍重された「翰海」は、通俗字義である「広大」(浩翰/浩瀚)で越せない難所という意味なのか、何か「瀚」海でなく「翰」海で示すべき感慨があったのかということです。一種の「聖地」「絶景」でしょうか。

 そして、陳寿が、後に倭人伝をまとめる際に先例を踏まえて「瀚海」としたのは、どのような意味をこめたかということです。思いを巡らすのは、当人の好き好きですが、陳寿の深意を探る試みに終わりはないのです。 

 そこで、また一つ憶測ですが、「瀚」は、水面にさざ波が広がっている、羽根で掃いて模様を描いたような眺めを形容したもの(ではないか)と見たのです。

 このあたり、用字の違いが微妙ですが、霍去病の見た「翰海」が、氵(さんずい)無しと言うことは、これは「砂の海」かと思えるのです。つまり、茫々たる砂の上に、羽根で掃いたような模様が広々と見えたので、大将軍も戦意をそがれて、引き返したとも見えるのです。
 もちろん、これは、よく言われるように、どこかの湖水の水面を見たのかも知れませんが、文字解釈にこだわると、「砂の海」に見えるのです。

 このあたりの解釈は、洛陽で史官を務めた陳寿の教養になっていて、帯方郡から對海国に着いた使人の感慨で、目前の海面が、羽根で掃いたような模様に満たされていたとの報告を、一言で「瀚海」と氵付きで書き記したようにも思えます。

 以上、もちろん「状況証拠」なので、断定的に受け取る必要はありませんが、逆に、状況を、じっくり考察に取りいれた盤石の「状況証拠」は、否定しがたいと思うのです。何事も、はなから決め付けずに、よくよく確かめて評価するもの(ではないか)と思うのです。
 いや、「状況証拠」は、本来「法学部」の専門用語なので、当記事筆者のような素人が、偉ぶって説くべきものではないでしょうが、世間には、素人考えの勘違いの方が、もっともらしく「はびこっている」可能性があるので、一言警鐘を鳴らしただけです。言いたいのは、一刀両断の結論に飛びつくと、足元が地に着いていなくて、ケガをするかも知れないと言うだけです。

以上

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