倭人伝新考察

第二グループです

2024年10月11日 (金)

03. 從郡至倭 読み過ごされた水行 改訂第八版 追記更新 1/3

 2014/04/03 追記2018/11/23、2019/01/09, 07/21 2020/05/13, 11/02 2023/01/28, 04/23 2024/08/21, 10/11

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

 八訂 「水行曰涉」として、「循海岸水行」論の決定考を書き足しました。(2/3ページ)
 五訂 またまた改訂しました。そして、更に追記しました。更に、3ページに分割しました。
 注記:後日考え直すと、当初述べた「水行」行程の見方は間違っていましたので、書き足します。
 改築、増築で、見通しが付きにくいのは、素人普請の限界と御容赦いただきたいのです。

*陸行水行論の整理
 事態輻輳の解きほぐしを試みます。(2024/08/21)
 「倭人伝」道里記事は、後漢献帝建安年間に、公孫氏が遼東の郡太守を自認したあたりに提起されたものと見えます。天子が玉座を離れて漂流するような行く手不明の時代でしたから、遼東から渡海、南下進出した青州(戦国「齊」領域)に加えて、未開の荒れ地に等しかった韓国の更に南に広大無辺と見える新世界を見出した(と速断した)公孫氏は、漢武帝創設以来、この地域を担当していた楽浪郡管内の帯方縣を強化して帯方郡とし、そのような夢の新世界である「倭人」の境地をわが物として、見失われていた東夷を広く支配する野心を抱いたのです。

 それは、二百年続いた後漢帝国の天子が、宿無し状態になるような「天下大乱」の中國世界の極東にあって、自らを「天子」とする構想であり、天子の居処である王畿から、無限とみえる万二千里の極致に、倭人の居処を置いた構想(Picture)を想像したと見えます。

*岡田英弘氏の韓国観の蹉跌 (2024/08/21)
 ちなみに、岡田英弘氏を初めとする幻像愛好家の方々は、漢武帝が、半島中部の朝鮮故地から「陸路南下」して小白山地を越えて竹嶺経路でさらに南下する半島最南端に至る交通路を創始して、嶺東地帯に真番郡を置いて郡体制を敷いたとか、それに応じて、万里の波濤を越えて、南海広州方面からの商人が「海路北上」して北九州に大挙来訪したとか、二色の経路を設けて神がかった「画餅」を描かれています。
 しかし、「現実」は厳しい/寂しいもので、「陸路南下」は、後世三世紀に至るまで「街道」とならず、「海路北上」に至っては、中世唐代になっても、大型帆船の来航が確立されていなかったとみえるのです。
 否定しがたい状況証拠として、武帝以来数世紀を経た「倭人伝」に於いてはじめて確認された行程道里は、定法に従い、(楽浪)郡を出て陸路韓国を歴て狗邪韓国の海港に至るものです。そして、そこからは、大河に見立てた「大海」に浮かぶ洲島を、軽快な手漕ぎ渡船で渡り継いで至る行程です。
 つまり、岡田氏がサラサラと描いた「幻像」は、所詮、中国中原文明に知られていなかった東夷本位の願望であったとわかるのです。ちなみに、岡田氏は、戦前/戦中の日本統治下に、韓国領域を巡訪したことから、早くから、竹嶺(鳥嶺)経路を提言されているのですが、「倭人伝」道里行程論では、確立されていたはずの陸上経路を棄てて、虚構の沿岸船上移動を採用しているとみえるのは、何とも残念なのです。所詮、手前味噌の擦り付け史官に止まっていたのでしょうか。まことに勿体ないことです。

 岡田氏の所説は、国境を越え時代を越えた大局的な御高説が多いので、初学者の学ぶべきところは多いのですが、こと東夷伝解釈では、時代考証を度外視した幻像史観に基礎を置いているので、御高説を其の儘受け入れることはできかねるのです。世界史に於いて広く時代と地域を普(あまね)く視察した岡田氏の言辞から読みとれるご自身の提言の趣旨を応用させていただくと、中国文明を学んでいない「二千年後生の無教養な東夷」の勝手な異説にとどまっているのは、残念なところです。

*閑話休題
 「倭人伝」道里行程記事の眼目である「従郡至倭」万二千里の内、半島内狗邪韓国まで七千里と明記されたのは、この間が、街道、すなわち陸上官道であり、海上や河川の航行のように、道里、日程が不確かな、つまり、無法な行程は含まれていないと確立されていたものと判断されます。一部、無学無法な(特定の)著者が、「海路」等と無効な概念を持ちこんでいますが、長安や雒陽に中心をおく古代中原帝国は、海上交通など、国家制度に取り入れていないので、「海路」、「街道」など、痴人の夢想にしか存在しないのです。
 いや、実際には、その時、その場の都合で、渡し船などで、「水」すなわち河川の「水の上」を行ったかも知れませんが、中国の制度としては、そのような規定/定義付けは、あり得ないということです。どうか、顔を洗って目を覚ましてほしいものです。

 九州島上陸後は、末羅国で、わざわざ「陸行」と明記されていることもあり、専ら陸路で倭に至ると判断されます。伊都国から後、「水行」二十日とされる投馬国は、明記されているように、行程外の「脇道」であって、当然、直行道里からも所要日数からも除きます。従って、「都合水行十日+陸行一ヵ月」の膨大な四十日行程は、伊都国ないしは投馬国から倭王治に至る現地道里、日数では「無い」のです。本記事では、全体道里万二千里に相当する所要期間と見るのです。
 誠に簡明で、筋の通った読み方と思うのですが、とうの昔に「**説」信奉と決めている諸兄姉は、既に「思い込み」に命/生活をかけているので、何を言われても耳に入らないのでは、仕方ないことでしょうか。

 因みに、『「都合水行十日+陸行一ヵ月」の四十日行程 』とする解釈は、根拠のある一解であり、筋の通った「エレガント」な解と見ていますので、この解釈自体に、根拠の無い難癖を付けるのは、批判には当たらないヤジに過ぎません。感情的な「好き嫌い」を聞いても仕方ないので、論理的な異議に限定頂きたいものです。また、当ブログは、一部に見られるように公的機関の提灯持ちを「任務」としているものではないので、「百害あって一利なし」などと、既存権益を疎外するものと難詰されても、対応しようがないのです。

 巷間喋々されるように「水行なら十日、陸行なら一月」とか、「水行十日にくわえて、陸行なら一日」とか、お気楽な改竄解読は、さらに原文から遠ざかっているので、無意味なヤジに過ぎず、確たる証拠がない限り、本稿では、論外の口出しとして門前払いするものです。

 当ブログでの推定は、榎一雄師が注力した、いわゆる「放射行程説」に帰着していると見て取れるかも知れませんが、当ブログは、特定の学派/学説に追従するものでなく、あくまで『「倭人伝」記事の解釈』に基づいているのです。もちろん、特定の学派/学説を否定する意図で書いているのでもありません。敢えて、大時代な言い回しを採ると、脇道によらない「一路直行」説とでも呼ぶものでしょう。
 何しろ、「放射行程説」 は、素直に読める「直線行程」説を意固地に拒否する鬱屈、屈折した異論」と一部硬派の論客から揶揄され、いうならば「ジャンク」扱いで「ゴミ箱」に叩き込まれて、正当な評価を受けていないのですから、一度、出直した議論を提案するしかないのです。

*陳寿道里記法の確認
 このような考慮に値しない雑情報を「整理」すると、全体の解釈の筋が通ります。つまり、全行程万二千里の内訳として、「陸行」は総計九千里、所要日数は都合三十日(一月)となり、郡から狗邪韓国までの陸上街道を七千里として臨時に定義された「倭人伝」道里』によると、一日あたり三百里と、切りの良い数字になり、一気に明解になります。
 一方、「従郡至倭」行程の内訳としての「水行」は、専ら狗邪韓国から末羅国までの渡海行程十日と見るべきです。「水行」三千里の所要日数を十日間とすれば、一日あたり三百里となり、「陸行」と揃うので、正史の夷蕃伝の道里・行程の説明として、そう読めば明解になるという事です。
 視点を変えれば、渡海行程は、一日刻みで三度の渡海と見て、前後予備日を入れて、計十日あれば確実に踏破できるので「水行十日」に相応しいのです。勘定するのに、別に計算担当の官僚を呼ばなくても良いのです。

 「倭人伝」の道里行程記事の「課題」、つまり「問題」(question)は、「従郡至倭」の所要日数の根拠を明解に与えると言うことなので、史官としては、与えられた「課題」を、与えられた史料を根拠に、つまり、改竄も無視もせずに、正史の書法で書き整えたことで大変優れた解を与えたことになります。
 当時、このような編纂について、非難を浴びせていないことから、陳寿の書法は、明解なもの、妥当なものと判断されたと見るべきです。

 ちなみに、陳寿は、帯方郡が、不法な里制を敷いていたと非難しているのでは無く、公孫氏が起案して曹魏皇帝が受け入れた「従郡至倭」「万二千里」と言う行程道里であるから、これが、曹魏としての公式見解であり、曹魏明帝の景初年間に実地確認された「現地まで四十日」という実務的な行程日数に当てはめた物であり、下地に上塗りした構成と絵解きすれば、するりと明解になるということです。
 「倭人伝」記事を、陳寿が、成立時期も由来も異なる幾つかの原資料(Urtext)を幾つかの層で重積したものと見る史料観は、このあとも持ち出されることを予告しておきます。

*道里行程検証再開
 郡からの街道を経て狗邪韓国に至った道里は、ここに到って「始めて」倭の北界である大海の北岸に立ち、海岸を循(たて)にして渡海するのです。

 最終的な見解(2024/10/08)としては、河水を越える際には、渡船で「水行」するという千年ものの頑固な固定観念が形成されていて、現代風に言うと、「デフォルト」、暗黙の既定条件だったので、陳寿は、『「水行」は、古来「河水」を渉る渡船ですが、ここでは「大海」を渉る渡船なのです』と断り書きを入れているのです。一部で出回っている風聞のように、帯方郡からいきなり海岸に降りて「渡船」に乗ると、現代人の感覚では、黄海対岸の東莱に着いてしまいますが、読者として想定されている洛陽人士は、先行する「韓伝」で、韓国の東西は「海」(「かい」辺境の魔界)、残る南が「倭」、すなわち「大海」と知らされているので、そんな見当違いで無法な発想は浮かばないのです。いや、われながら無駄話が過ぎたようですが、「ここはツッコミを入れるところではないのですよ、客人。」

閑話休題
 狗邪韓国から末羅国に至る行程は、「始めて」渡海し、「又」渡海し、「又」渡海すると、三段階が順次書かれていて、全体として中原で河川を渡る際と同様であり、ここでは、大海」の中の島、州島を利用して、飛び石のように、手軽に、気軽に船を替えつつ渡るので、まるで「陸」(おか)を行くように、「水」(大海の流れ)を行くのであり、道里は、単純に、切りの良い千里を割り当てて明解に書いているのです。地の果てに行く行程は、細々書いてもしかたないのです。
 ここでは、敢えて、又、又と重ねることにより、行程は、渡海の積み重ねで、末羅国迄の通過点を越え、「陸行」で伊都国に「到る」と明快です。ここが、目的地ですから、そこから先の「余傍」の国は、ほんの添え物であり、麗筆で一撫でした後、伊都国の近場に女王の「居処」があると書かれているものです。女王は、「親魏倭王」と煽(おだ)てられていますが、礼節を知らない蕃王であり、史官によって正史記事に書かれているからには、世上誤解されているような格式高い「京都」「王都」「宮都」とは、金輪際無縁なのです。それが、班固が、「漢書」西域伝で確立した語法なのです。

 各渡海を一律「千里」と書いたのは、所要「三日」に相応したもので、予備日を入れて「切りの良い」数字にしています。誠に整然としています。都合、つまり、総じて、或いは、なべて「水行」は「三千里」、所要日数「十日」で、簡単な割り算で一日三百里と、明解になります。諄(くど)いようですが、この区間は「並行する街道がない」ので、『「水行」なら十日、「陸行」するなら**日』とする記法は、はなから成り立たないのです。頑固な方に対しては、「それなら、渡船と並行して、海上を騎馬で走る街道を敷くのですか」と揶揄するのですが、どうも、寓話を解しない方が多くて困っているのです。
 
 とにかく、倭人伝道里行程記事が、範とした班固漢書「西域伝」に見られない程、細かく、明解に書いたのは、行程記事が、官用文書送達期限規定のために書かれていることに起因するのです。それ以外の「実務」では、移動経路、手段等に異なる点があるかも知れません。つまり、曹魏正始中の魏使の訪倭行程は、随分異なったかも知れませんが、「倭人伝」は、それ以前に、「倭人」の紹介記事として書かれたのであり、魏使の出張報告は、道里行程記事に反映されていないのです。

 何しろ、明帝の下賜した大量、かつ、貴重な荷物を送り出すには、発進前に、「道中の所要日数の確認」と「経由地の責任者の復唱」が不可欠であり、旅立つ前に、「万二千里の彼方の果てしない旅路だ」などではなく、何日後にはどこに着くか、はっきりした見通しが立っていたのです。
 もちろん、事前通告がないと、正始魏使のような多数の来訪に、宿舎、寝具、食料、水の準備ができず、又、多数の船腹と漕ぎ手の準備、対応もできないのです。どう考えても、行程上の宿泊地、用船の手配は、事前通告で完備していたし、確認済であったはずです。

 また、当然、各宿泊地からは、魏使一行到着の報告が、騎馬文書使が速報していたのです。中国の文書行政を甘く見てはなりません。
 「魏使が帰国報告しないと委細不明」などは、「二千年後生の無教養な東夷」の臆測に過ぎません。

 これだけ丁寧に説き聞かせても、『「倭人伝」道里行程記事は、郡使の報告書に基づいている』と決め込んでいて、そのようにしか解しない方がいて、これも、苦慮しているのです。つけるクスリがない」感じです。
 
 誤解の仕方は、各位の教養/感性次第で千差万別ですが、本論で論じているのは、「倭人伝」道里行程記事の要点は、郡を発した文書使の行程/所要日数を規定したものであると言うだけであり、半島西岸、南岸の沿岸で、飛び石伝いのような近隣との短距離移動の連鎖で、結果として、物資が全経路を通して移動していた可能性までは完全に否定していないという事です。事実、この地域に、さほど繁盛していないものの何らかの交易が行われていた事は、むしろ当然でしょう。
 ただし、この地域で日本海沿岸各地の産物が出土したからと言って、此の地域の、例えば、月一の「市」に、るか東方の遠方から多数の船が乗り付けて、商売繁盛していた、と言う「思い付き」は、成り立ちがたいと思います。今日言う「対馬海峡」を漕ぎ渡るのは、死力を尽くした漕行の可能性があり、「重荷」を載せて、長い航路を往き来するのは、無理だったと思うからです。

 ちなみに、ここでいう「重荷」は、一部無教養の野次馬が言うような「比重」(Specific Gravity)の大きい荷物ではないのです。金銀の貴金属、貴石、宝石、準宝石、珊瑚などの貴重品は、概して、比重20を越える「金」(Real Gold)を除けば、10にも及ばない比重ですが、とにかく、少量で多くの対価を得られるので、むしろ、優先して運んだものです。何しろ、漕ぎ手が感じるのは、荷物の総重量であり、かさばらない貴重な荷物は、むしろ歓迎というか、メシの種だったのです。

 そして、肝心なことですが、とかく想定されやすい「米穀」は、大量に運ばないと意義がないので、渡船で運ぶのは、それこそお荷物だったのです、また、「乗客」も、嵩張って目方が張るので、海峡越えの兵馬の輸送は、手こぎの渡船では成り立たないのです。世上、三世紀当時の海峡越えに、当時地域に存在しなかった、したがって、来航もしなかった大型の帆船を想定して論議する傾向がありますが、夢想の上に仮説を構築するのは、徒労と思われます。

閑話休題
 ここで問われているのは、経済活動を行い続ける「持続可能」な営みであり、冒険航海ではないのです。順当に考えるなら、「一大国」が要(かなめ)となった交易が繰り広げられていたでしょうが、それは、「倭人伝」道里行程記事の目的である「従郡至倭」審議とは別義であり、地域の一大国であったという国名に跡を留めているだけです。
 海峡を越えた交易」と言うものの、書き残されていない古代の長い年月、島から島へ、港から港を小刻みに日数をかけて繋ぐ、今日の視点で見れば、本当にか細く短い、しかし、持続的な活動を維持するという逞しい、「鎖」の連鎖が、両地区を繋いでいたと思うのです。
 いや、ここでは、時代相応と見た成り行きを連ねる見方で、倭人伝の提示した「問題」に一つの明解な解答の例を提示したのであり、他の意見を徹底排除するような絶対的/排他的な意見ではないのです。

 水行」を「海」の行程(sea voyage)とする読みは、後記のように、中島信文氏が、「中国古典の語法(中原語法)として提唱し、当方も、一旦確認した解釈」とは、必ずしも一致しませんが、私見としては、「倭人伝」は、中原語法と異なる地域語法で書かれているとおもうものです。それは、「循海岸水行」の五字で明記されていて、以下、この意味で書くという「地域水行」宣言/定義です。

 史官は、あくまで、それまでに経書や先行二史(「馬班」、司馬遷「史記」と班固「漢書」)に先例のある用語、用法に縛られているのですが、先例では書けない記事を書くときは、臨時に用語/用法を定義して、その文書限りの辻褄の合った記事を書かねばならないのです。念のため言い足すと、「倭人伝」は、「魏志」の巻末記事なので、ここで臨時に定義した字句は、本来、以後無効です。
 「蜀志」「呉志」は、別史書なので、「魏志」の定義は及ばないのです。その意味でも、「倭人伝」が「魏志」巻末に配置されているのは、見事な編纂です。

 この点は、中島氏の論旨に反していますが、今回(2019年7月)、当方が到達した境地を打ち出すことにした次第です。

 教訓として、文献解釈の常道に従い、「倭人伝」の記事は、まずは、「倭人伝」の文脈で解釈すべきであり、それで明快に読み解ける場合は、「倭人伝」外の用例、用語は、あくまで参考に止めるべきだ」ということです。

 この点、中島氏も、「倭人伝」読解は、陳寿の真意を探るものであると述べているので、その点に関しては、軌を一にするものと信じます。

 追記:それ以後の理解を以下に述べます。

未完

03. 從郡至倭 読み過ごされた水行 改訂第八版 追記更新 2/3

 2014/04/03 追記2018/11/23、2019/01/09, 07/21 2020/05/13, 11/02 2023/01/28, 04/23 2024/08/21, 10/11

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

 八訂 「水行曰涉」として、「循海岸水行」論の決定考を書き足しました。(2/3ページ)
 おことわり: またまた改訂しました。そして、更に追記しました。更に、3ページに分割しました。
 注記:後日考え直すと、当初述べた「水行」行程の見方は間違っていましたので、書き足します。
 改築、増築で、見通しが付きにくいのは、素人普請の限界と御容赦いただきたいのです。

*「従郡至倭」の解釈 (追記 2020/05/13)
 魏志編纂当時、士人である教養人に常識、必須教養であった算術書籍「九章算術」では「従」は「縦」と同義であり、「方田」で考察している「田」(農地)の「方」、つまり「広さ」を論じるとき、農地幅方向を「廣」、縦方向を「従」としています。これは、矩形に近い例であって、台形、平行四辺形の応用例題が示されていて、最後には、現代風に言う円周率を三と近似した例題も示されていますが、広く「方田」と題されているのは、ここでは、「方」は、面積の意味なのです。
 つまり、従郡」とは、郡から見て、つまり、郡境を基線として縦方向、ここでは、南方に進むことを示していると考えることができます。いきなり、街道が屈曲して西に「海岸」に出るとは、全く書いていないのです。
 「二千年後生の無教養な東夷」である現代人は、史官の必須教養を学んでいないので、トンチンカンな理解をしてしまいがちですが、いわば、古代人の小中学校に入門するつもりで、謙虚に学ぶ必要があるのです。

 続く、「循海岸水行」の「循」は「従」と同趣旨であり狗邪韓国の海岸を基線として縦方向、つまり、軽快な渡船で大海を渡って南方に、対岸に向かうことを、ここ(「倭人伝」)では、以下、特に「水行」と呼ぶという宣言、ないしは、「新規用語の定義」(definition)と見ることができます。
 追記「水行曰涉」として、「循海岸水行」論の決定考を書き足しました。ということで、趣旨が一部変更されていますが、原文を温存します。

 つまり、「通説」という名の素人読みでは、これを、いきなり進むと解していますが、正史の道里行程記事で典拠に無い新規用語である「水行」を予告無しに不意打ちで書くことは、史官の文書作法(さくほう)に反していて、いかにも、高貴な読者を憤慨させる不手際となります。
 順当な解釈としては、これを道里行程記事の不法な開始部と見ずに、倭人伝独特の「水行」の定義句と見ると、不可解ではなく明解になります。つまり、道里行程から外せるのです。

*自明当然の「陸行」 (追記 2020/05/13)
 と言う事で、中国史書として自明なので書いていませんが、帯方郡から狗邪韓国の行程は、明らかに郡の指定した官道を行く「陸行」だったのです。陳寿の編纂時点まで、古典書籍、及び先行「馬班二史」に公式の街道「水行」の前例がなかったので、自明、当然の「陸行」で、狗邪韓国まで進んだと解されるのです。
 以下、臨時に採用した「水行」という名の「渡海」行程に移り、末羅国に上陸すると、限定的な「水行」の終了を明示するために、敢えて「陸行」と字数を費やしているのです。

*「水行」用例確認 2024/08/21
 ちなみに、中国古代史の最高の権威とされる渡邊義浩氏は、「水行」を行程道里に起用した例は、太古に至るまで存在しないと事実上明言しています。いや、氏は、司馬遷「史記」夏本紀の禹の伝記記事を取り上げていますが、書かれているのは、禹后が船で河水を移動(行)したという説明に過ぎず、「陸行」は車に乗った、「泥行」は橇に乗ったというのに合わせたものであり、陸に道(街道)があったとしても、河に道はなく、まして、陸と河の間の泥に道はないので、氏にしては不用意な引用とみえます。
 また、ここでも、「水」は、河水、つまり、黄河のことであるのは明らかであり、重ねて不用意な紹介と見えます。
 或いは、氏は、実際には、正史の道里記事に、「泥行」、「陸行」、「水行」は存在しないと示唆/事実上明言しているのかも知れません。要するに、明言/断定に等しいのですが、字面だけ舐めている/読み囓っているかたには読み取れないとも思われます。要するに、史学者は、単に事実を書き綴るものではなく、いい意味で二枚舌であり、真意は文脈/行間から賢察するべきだという訓戒にもみえます。

*水行曰涉 2024/10/08
 行程記事の「水行」から視野を広げて、河川を移動する用例/定義を調べると、「太平御覽」地部二十三に引用された、漢代編纂とされる類語辞典「爾雅」によると「水行曰涉」河川を渡船で渉ることを「水行」と言うと明快です。「爾雅」は、陳寿の座右の書であったと思われるので、「倭人伝」解釈では、むしろ、必読の出典書と思われます。

 時に引き合いに出される唐六典の「水行」は、漢語の語彙が大きく乱れた後世唐代以降の文献記事ですから、雒陽教養人が健在であった西晋代に編纂された「魏志倭人伝」の解釈では、ずいぶん下位に位置するものです。

 ちなみに、「爾雅」では、同項に続いて、「逆流而上曰溯洄,順流而下曰溯游,亦曰沿流」とあり、川の流れに従う移動と逆らう移動は、それぞれ「溯洄」,「溯游」ないしは「沿流」であって、全く異なる用語です。これら「溯洄」、「溯游」ないしは「沿流」なる規定用語でなく、「水行」と書いたと言うことは、それが、河流方向の移動ではないことを明示しているものとみられます。

 してみると、禹后の「水行」は、「河水の対岸に渡る渡船移動を示した」ものとみえます。もちろん、河水に並行して街道があって、車に乗れるのであれば、不安定な川船で河水を上下して移動することなど、必要ないのです。なにしろ、司馬遷が史記を書いたのは、漢武帝代ですから、まさしく、「爾雅」の語彙が健在だったわけであり、してみると、禹后の「水行」は川に沿った移動ではないことが明快です。
 かくして、陳寿が、「循海岸水行」と書いたのは、海岸から、大河に比喩された『「大海」の流れを渉る』意味であったことが明解になるのです。従来、陳寿が、慣用句である「水行」に新たな定義を加えたという提言を述べ、中島信文氏からは、「無理」であると叱責されていましたが、話の筋として改善されたと思うので、ご了解いただけるのではないかと、愚考する次第です。
 当然、三世紀当時の読書人は、「爾雅」を典拠とする陳寿の語法を諒解したものと見え、劉宋史官裴松之も諒解したと見えます。と言うことで、二千年後生の無教養な東夷の陥る錯誤は、本来、全く関係なかったのです。

 渡邊義浩氏の隠喩に深く感謝する次第です。

*閑話休題
 本題に戻ると、「倭人伝」が実際に示している「自郡至倭」行程は、最後で「都合、水行十日、陸行一月(三十日)」と総括しているのです。

*誤解の殿堂
 ついでながら、先に言及したように陸行一月を一日の誤記とみる奇特な方もいるようですが、皇帝に上申する史書に「水行十日に加えて陸行一日」の趣旨で書くのは、読者を混乱させる無用な字数稼ぎであり、窮余の一策として、強引にこじつけられている「陸行一日」は、「十日」単位で集計している長途の記事で、書くに及ばない瑣末事、はしたとして抹消されるべきものです。一方、「水行十日」は、当然、切りのいい日数にまとめた概算であり、所用日数として、平時の文書連絡の許容日数を示すという性質からすると、最悪でも十日あれば大丈夫とする感覚が盛り込まれているはずです。でないと、しょっちゅう「失期」、遅参が発生して関係者に厳罰を科することになるので、郡として、余裕を見込んだ日程設定で避けるものなのです。このあたり、よく、数字の意義を見極めて欲しいものです。
 いずれにしろ、数字に強く、かつ、そのような実務の襞まで知り抜いている天下随一の史官は、つまらない桁違いのはしたなど書くものではないのです。

 結構、学識の豊富な方が、苦し紛れに、そのような「子供じみた」と言われかねない「言い逃れ」に走るのは勿体ないところです。当史料が、至高の皇帝に上申される厖大な史書「魏志」の末尾の一伝だということをお忘れなのでしょうか。ここは、途中で投げ出されないように、くどくど言い訳するので無く、明解に書くものと思うのです。

 と言う事で、郡から倭まで、三角形の二辺を経る迂遠な「海路?」に一顧だにせず、一本道をまっしぐらに眺めた図を示します。これほど鮮明でないにしても、「倭在帯方東南」を、図(ピクチャー picture)として感じた人はいたのではないでしょうか。現代風に言う「空間認識」の絵解きです。当地図は、Googleマップ/Google Earthの利用規程に従い画面出力に、許容されている追記を施したものです。漠然とした眺望なので、現代地名はさておき、二千年近い以前の古代も、ほぼ同様だったと見て利用しています。

 本図は、先入観や時代錯誤の精密な地図データで描いた画餅「イメージ」で無く、仮想視点とは言え、現実に即した見え方で、遠近法の加味された「ピクチャー」なので、行程道里の筋道が明確になったと考えています。「倭人伝」曰わく、「倭人在帯方東南」、「従郡至倭」。
 但し、重複を厭わずに念押しすると、中原の中華文明は、「言葉で論理を綴る」ものであり、当世風の図形化など存在しなかったのです。
Koreanmountainpass00
未完

*旧記事再録~ご参考まで
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 以下の記事では、帯方郡から狗邪韓國まで船で移動して「韓国」を歴たと書かれていると見るのが妥当と思います。
 「循海岸水行歴韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國」
 従来の読み方ではこうなります。
 「循海岸水行、歴韓國乍南乍東、到其北岸狗邪韓國」
 終始「水行」と読むことになります。
 しかし、当時の船は、渡船以外は沿岸航行であり、朝出港して昼過ぎに寄港するという一日刻みの航海と思われますが、そのような航海方法で、半島西南の多島海は航行困難(公的な行程となり得ない)という反論があります。なにしろ、陸上街道があるのに、そのように悠長で、不安定で、まして、危険な行程は、官制郵便に利用できないのは、少し説明すれば、子供にも納得させられる明白な事項と思います。

 別見解として、『「水行」は、帯方郡から漢城附近までの沿岸航行であり、以下、内陸行』との読み方が提示されています。この読み方で著名なのは、古田武彦氏です。
 これに対して、(実は、早計な誤解なのですが)曹魏明帝の下賜物の輸送経路と見た場合、(山東半島から帯方郡に到着したと思われる)船便が「上陸して陸行すると書かれてない」という難点と合わせて、魏使は、高貴物を含む下賜物の重荷を抱えての内陸踏破は至難、との疑問が呈されています。特に、銅鏡百枚の重量は、木組みの外箱を含めて相当なものであり、牛馬の力を借りるとしても、半島内を長距離陸送することは困難との意見です。
 このような視点は、「倭人伝」道里行程記事は、魏使、ないしは、帯方郡官人使節、正史使節の帰国報告に基づいているとする意見によるものですが、ここまで何度も説明したように、「倭人伝」道里行程記事は、明帝没後の正史使節の派遣以前に、新帝曹芳に対して、郡を発して倭に至るという「公式道里」を説明するために書かれたものであり、当然、正史使節の行程記事ではないのです。

 ちなみに、陸上行程は、牛馬、車輌が、必要なだけ動員できる上に、山路では、小分けして人海戦術でこなすという実務的な解法が予定されているので、輸送容量の限界は、事実上存在しないのです。また、宿駅ごとに交替して送り継ぐので、輸送距離が長いことは、否定的な要素には、全くならないのです。
 海上輸送の場合、便船は限られているので、増強することは困難であり、また、漕ぎ手の疲弊もあって、延々たる長旅になるのは、目に見えています。恐らく、論者は、別世界、後世の大型の帆船の揚々たる船便を想定しているのでしょうが、多島海続きで、しかも、船荷の乏しい海域に、大型の帆船などありえないのです。「倭人伝」の半島行程論議には、時代錯誤、実務無視のホラ話が繁昌していますが、文献無視の「遺物/遺跡考古学者」や後世の「物知らずの夢想家」が巾をきかす事態は、解消してほしいものです。(2024/08/21)

*厳然たる訓戒
 これでは板挟みですが、中島信文 『甦る三国志「魏志倭人伝」』 (2012年10月 彩流社)は、厳然たる訓戒を提示しています。具体的には、次の読み方により、誤読は解消するのです。 
 「循海岸、水行歴韓國乍南乍東、到其北岸狗邪韓國
 つまり、帯方郡を出て、まずは西海岸沿いに南に進み、続いて、南漢江を遡上水行して半島中央部で分水嶺越えして洛東江上流に至り、ここから、洛東江を流下水行して狗耶韓国に至るという読みです。

 大前提として、中国古典書法で、「水行」は、河川航行であり、海上航行では「絶対に」ない、というとの定見が提起されていて、まさしく、「水行」を、海(うみ)に直結している諸説論者は、顔を洗って出直すべきだという、厳然たる訓戒ですが、諸兄姉には、なかなか、顔を洗わない方が多いようです。

*追記 2023/04/23:
 ここでは、「循海岸」を「沿海岸」と同義と解し、「海辺を離れて内陸の平地を、海岸と並行して街道を進む」と解釈しているのであり、海船での移動を「水行」と呼ぶという「不法な」誤読を、鮮やかに回避しています。

 河川遡行には、多数の船曳人が必要ですが、それは、各国河川の水運で行われていたことであり、当時の半島内の「水行」で、船曳人は成業となっていたのでしょうか。
 同書では、関連して、色々論考されていますが、ここでは、これだけ手短に抜粋させていただくことにします。

 私見ですが、古代の中国語で「水」とは、河水(黄河)、江水(長江、揚子江)、淮水(淮河)のように、もっぱら河川を指すものであり、海(うみ)は、「海」を指すものです。これは、日本人が中国語を学ぶ時、日中で、同じ漢字で意味が違う多数の例の一つとして学ぶべきものです。
 まして、「倭人伝」は、二千年前に書かれた高度に専門的な文書(文語文)であり、今日、通用している口語寄りの中国語文とは、大いに異なるものなのです。
 手短に言うと、古代史書において、「水行」は河川航行に決まっている』との主張は、むしろ自明であり、かつ合理的と考えます。
 
 ただし、中島氏が、「海行」が、魏晋朝時代に慣用句として使用されていたと見たのは、氏に珍しい早計で、提示された用例は、陳寿「三国志」記事とは言え、「陳寿」が編纂していない「呉志」記事なので、魏志「倭人伝」用語の先行用例とするのは、不適当と考えます。

 同用例は、「ある地点から別のある地点へと、公的に設定されていた経路を行く」という「行」の意味でも無いのです。是非、再考いただきたいものです。

*追記2 2023/04/23: 
 「呉志」(呉国志)は、東呉の史官が、東呉を創業した孫権大帝の称揚の為に書き上げた国史であり、言うならば「魏志」(魏国志)には場違いな呉の用語が持ち込まれているのです。「呉志」は、東呉降伏の際に晋帝に献上され、皇帝の認証を経て、帝国公文書に収蔵されていたものであり、「三国志」への収録の際に、孫堅~孫策~孫権三代とそれ以降の「皇帝」称号廃却は別として、改変、改竄は許されなかったのです。もちろん、「魏志」の記事に「呉志」を引用することも許されなかった、と言うか、そのような引用は、あり得なかったのです。
 つまり、「魏志」(魏国志) 倭人伝用語の先行用例検索では、「呉志」(呉国志) 、「蜀志」(蜀国志) は、除外すべきなのです。このさい言い足すと、現行刊本で、三国志の陳寿原本に補追されている裵松之付注記事も、陳寿が採用したわけでは無いので、用例とすべきでは無いのです。なにしろ、陳寿が参照したかどうかすら不明なのです。

 この点の誤解は、古来、裴松之以下の後世史家が、揃いも揃って陥った陥穽であり、「二千年後生の無教養な東夷」である当世国内史家が陥ったとしても、無理のないところですが、諸兄姉に於いては、原点に立ち返って冷静に考えていただければ、ことの見極めのつくものと考えます。
 そのような編纂方針が顕著なのは、後漢末、献帝建安年間の曹操南征時に生じた、俗に言う「赤壁の戦い」に関する各国志の食い違いですが、それぞれの「国志」が、各国の公文書に厳格に基づいて編纂されていて、陳寿が「三国志」を統一編纂していないことから生じたものです。

未完

03. 從郡至倭 読み過ごされた水行 改訂第八版 追記更新 3/3

 2014/04/03 追記2018/11/23、2019/01/09, 07/21, 2020/05/13, 11/02 2023/01/28, 04/23, 2024/08/21, 08/25

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

 八訂 「水行曰涉」として、「循海岸水行」論の決定考を書き足しました。(2/3ページ)
 おことわり: またまた改訂しました。そして、更に追記しました。更に、3ページに分割しました。
 注記:後日考え直すと、当初述べた「水行」行程の見方は間違っていましたので、書き足します。
 改築、増築で、見通しが付きにくいのは、素人普請の限界と御容赦いただきたいのです。

*郡から狗邪韓国まで 荷物運び談義 追記 2020/11/02
 「魏志倭人伝」に書かれた郡から狗邪韓国への行程は、騎馬文書使の街道走行を想定して著(ちょ)していますいますが、実務の荷物輸送であれば、並行する河川での荷船の起用は、むしろ自然なところです。河川交通が並行していれば、と言うことです)
 と言う事で、倭人伝」の行程道里談義を離れて、荷物輸送の「実態」を、重複覚悟で考証してみます。
 以下、字数の限られたブログ記事でもあり、現地発音を並記すべき現代地名は最小限とどめています。また、利用の難しいマップの起用も遠慮していますが、安易な思いつきでなく、関係資料を種々参照した上での論議である事は書いておきます。

 なお、当経路は、本筋として、当時、郡の主力であったと思われる遼東方面からの陸路輸送を想定していますから、素人考えで出回っているような、わざわざ黄海岸に下りて、不確かな荷船で、沖合を南下する事は無く、当時、最も人馬の労が少ないと思われる経路です。
 公式の道里行程とは別の実務経路として、黄海海船で狗邪韓国方面に向かう荷は郡に寄る必要は無いので、そのまま漢江河口部を越えた海港で荷下ろしして陸送に移したものと見えます。黄海海船は、山東半島への帰り船の途に着きます。

 当然ですが、黄海で稼ぎの多い大量輸送をこなす重厚な海船と乗組員をこのような閑散航路に就かせるような無謀な輸送はあり得ないのです。まして、さらに南下する閑散航路は、「細かい舵の効かない大型の帆船の苦手とする浅瀬、岩礁が多い」、回避のために、水先案内を同行させた上で、細かく舵取りを強いられる海難必死の海域ですから、結局、帆船と言いながら、舵取りのための漕ぎ手を多数乗せておく必要があるのです。また、地域ごとに水先案内人が必須です。
 三世紀当時は、海図も羅針盤もないので、岩礁の位置はわからない、船の位置はわからないでは、岸辺に近づくのは、危険どころか確実な破滅の道となりかねないのです。

 因みに、舵による帆船の転進は、大きく迂回はできても、小回りがきかず、特に、入出港時のように船足が遅い状態では、ほとんど舵が効かないので、入出港の際には、漕ぎ手の奮闘で転進する必要があるのです。今日でも、大型船舶の入出港の際には、小型ながら推進力の強い曳き船(タグボート)が、船腹に頭突きでもするように船首を押し付けて、転進させるのが普通なのです。
 つまり、漕ぎ船と同様、寄港地を跨ぐ連漕は効かず、細かい乗り継ぎ/漕ぎ手交代が不可欠となります。

 と言うことで、半島航路に大型の帆船は採用されず、軽舟の乗り継ぎしか考えられないのであり、それでも、難破の可能性が大変高い、命がけのものと考えられます。
 以上、代案として評価しましたが、少なくとも、貴重で重量/質量のある公用の荷物の輸送経路として採用されないものと見えます。ちなみに、輸送の常識中の常識ですが、荷物は、人手で運べるように小分けして梱包してあるので、全体重量は、特に問題にならないのです。まして、一部素人論者がゴチャゴチャ騒いでいる荷物の「比重」など、全く関係しないのです。

*郡から漢江(ハンガン)へ
 推定するに、郡治を出た輸送行程は、東に峠越えして、北漢江流域に出て、川港で荷船に荷を積むまでの陸上輸送区間があったようです。郡の近辺なので、人馬の動員が容易で、小分けした荷物を人海戦術で運ぶ「痩せ馬」部隊や驢馬などの荷車もあったでしょう。そう、駿馬は、気が荒くて荷運びに向かないし、軍馬として貴重なので、荷運びは驢馬か人手頼りだったものと思われます。とかく「駄馬」の語感が悪いのですが、重荷を運ぶのは「荷駄馬」が、大量に必要だったのです。

 後世大発展した漢江河口の広大な扇状地は、天井川と見られる支流が東西に並行して黄海に流れ込み、南北経路は存在していなかったと思われます。(架橋などあり得なかったのです)つまり、郡から南下して漢江河口部に乗り付けようとしても、通れる道がなく、また、便船が乗り付けられる川港も海港もなかったのです。
 南北あわせた漢江は、洛東江を超えると思われる広大な流域面積を持つ大河であり、上流が岩山で急流であったことも加味されて、保水力が乏しく、しばしば暴れ川となっていたのです。
 郡からの輸送が、西に海岸に向かわず、南下もせず、東に峠越えして北漢江上流の川港に向かう経路が利用されていたと推定する理由です。
 いや、念のため言うと、官制街道の記録を確認したわけでもなく、この辺りは、現地地形、河勢を見た推定/夢想/妄想/願望/思い付きの何れかに過ぎません。

*北漢江から南漢江へ
 北漢江を下る川船は、南漢江との合流部で、「山地のすき間を突き破って海へと注ぐ漢江本流への急流部」を取らずに、南漢江遡行に移り、傾斜の緩やかな中流(中游)を上り、上流(上游)入口の川港で陸に上り、以下、一千㍍を超え、冬季には、積雪凍結の小白山地越えの難路に臨んだはずです。
 漢江河口部から本流を遡行して、南北漢江の合流部まで遡ったとしても、そこは、山地の割れ目から流れ出ている急流であり、舟の通過、特に遡行が困難です。(実際上「不可能」という意味です)
 と言う事で、途中の川港で陸上輸送に切り替え、小高い山地を越えたところで、南漢江の水運に復帰したものと思われます。何のことはない、陸上輸送にない手軽さを求めた荷船遡行は、合流部の急流難関のために難航する宿命を持っていたのです。
 合流部は、南北漢江の増水時には、下流の水害を軽減する役目を果たしていたのでしょうが、水運の面では、大きな阻害要因と思われます。

 公式行程とは別に、郡からの内陸経路の運送は北漢江経由で水運に移行する一方、山東半島から渡来する海船は、扇状地の泥沼(後の漢城 ソウル)を飛ばして、その南の海港(後世なら、唐津 タンジン)に入り、そこで降ろされた積み荷は、小分けされて内陸方面に陸送されるなり、「沿岸」を小舟で運ばれたのでしょう。当然、南漢江経路に合流することも予想されます。但し、それは「倭人伝」に記述された道里行程記事とは、「無縁」です。

 世上、「ネットワーク」などとわけのわからない時代錯誤の呪文が出回っていますが、三世紀当時、主要経路に人員も船腹も集中していて、脇道の輸送量は、ほとんど存在しなかったのですから、縦横に拡張された編み目など存在しないのです。カタカナ語を導入するというのは、付き纏っている後代概念を引きずり込むことであり、早く言えば「時代錯誤」、ゆっくり言えば、その時代なかった「画餅」を読者に押し付けているのです。要するに、読者を騙しているのではないかと、懸念されるのです。考古学界の先賢は、当時存在していなかった言葉を持ち込むのは、好ましくない(駄目だ)と戒めているのです。
 因みに、当時山東半島への渡海船は、比較的大容量ですが、渡海専用、短区間往復に専念していたはずです。つまり、船倉や甲板のない、むしろ現代人が想像する船舶というより筏に近いものであったと考えられます。遼東半島と山東半島を結ぶ最古の経路ほどの輸送量は無かったものの(半島南部にあたる)韓国諸国の市糴を支えていたものと見えます。

*南漢江上游談議
 と言うことで、南漢江上流(上游)の話題に戻ると、漢江中流部(中游)は闊達であり、山間部から流下する多数の支流を受け入れているため、増水渇水が顕著であり安定した水運が困難であり、特に、南漢江上流部は、急峻な峡谷に挟まれた「穿入蛇行」(せんにゅうだこう)や「嵌入曲流」を形成していて、水運に全く適さなかったものと思われます。
 従って、漢江中流から上流に移る移行部にあって、後背地となる平地のある適地(忠州 チュンジュ)に、水陸の積み替えを行う川港が形成されたものと思われます。現代にいたって、貯水ダムが造成されて、上流渓谷は貯水池になっていますが、それでも、往時の激流を偲ぶことができると思います。
 そのような川港は、先に述べた黄海海港からの経路も合流している南北交易の中継地であり、山越えに要する人馬の供給基地として、大いに繁盛したはずです。そのような既存の要路を避けて大きく迂回する海岸沿いの「航路」は、はなから、「画餅」にすらならず問題外なのです。

*竹嶺(チュンニョン)越え
 小白山地の鞍部を越える「竹嶺」は、遅くとも、二世紀後半には、南北縦貫街道の要所として整備され、つづら折れの難路ながら、人馬の負担を緩和した道筋となっていたようです。何しろ、弁辰鉄山から、両郡に鉄材を輸送するには、どこかで小白山地を越えざるを得なかったのであり、帯方郡が責任を持って、地域諸国に命じて街道宿駅を設置し、維持していたものと見るべきです。
 後世と違い、漢江流域は、時に蔑称とされる「嶺東」と呼ばれる開発途上地域であり万事零細な時代ですから、盗賊が出たとは思えませんが、かといって、官制宿駅を維持保全するには、周辺の小国に負担がかかっていたのでしょう。ともあれ、帯方郡は漢制郡であったので、郡治に治安維持の郡兵を擁し、魏武曹操が確立した「法と秩序」は、辺境の地でも巌として守られていたとみるべきです。

*弁辰鉄山考 2024/08/25
 ついでながら、世上、「弁辰鉄山」を重要視する意見がありますが、それなら、韓濊倭の採掘、輸送に任せていたわけはなく、然るべき担当官を置いて厳重に監督していたはずですが、そのような形跡はなく、単に、倭に向かう海津(海港)が特記されないままに狗邪韓国が書かれているだけですから、帯方郡として「倭人」に鉱山管理全般を「委託」していたものとみえます。何しろ、韓には、主体となるべき「弁韓」国は存在せず、濊は、渾然たる未開の集団だったので、「委託」できるのは、「倭人」であったとみえるのです。
 海峡を越えた「倭人」は、当時、韓国側が手漕ぎの渡船による交通/輸送の両面で隘路に近い状態なので、鉱山産物の取得に限界があり、また、軍事的にも、進出、支配が明らかに不可能だったので、実質的に、帯方郡御用達の鉱山監督の役目を果たしていたものと見えます。
 くり返しますが、「弁辰鉄山」が重要であれば、帯方郡は同地に鉄山管理を使命とした「縣」を設けなければならないのですが、竹嶺越えの経路を隔てた「遠隔縣」は、弱小帯方郡にとって維持不可能で、はなから、そのような意図はなかったと見えます。要するに、大した問題では無かったのです。また「倭人」による占拠は、問題外であったと見えるのです。

*閑話休題
 「竹嶺」越えは、はるか後世、先の大戦末期の日本統治時代、黄海沿いの鉄道幹線への敵襲への備えとして、帝国鉄道省が、多数の技術者を動員した京城-釜山間新路線(中央線)の峠越え経路であり、さすがに、頂部はトンネルを採用していますが、その手前では冬季積雪に備えた、スイッチバックやループ路線を備え、北陸・東北地方の豪雪地帯の山岳路線で鍛えた積雪、寒冷地対応の当時最新の鉄道技術を投入し、全年通行を前提とした高度な耐寒設備の面影を、今でも、しのぶ事ができます。
 と言う事で、朝鮮半島中部を𠂆(えい)状に区切っている小白山地の南北通行は、歴史的に「竹嶺」越えとなっていたのです。
 それはさておき、冬季不通の難はあっても、それ以外の季節は、周辺から呼集した労務者と常設の騾馬などを駆使した峠(日本語独特の漢字)越えが行われていたものと見えます。

*荷運びの日常
 言葉や地図では感じが掴めないでしょうが、峠と言っても南北対称ではなく「片峠」であり、南側はなだらかです。今日、「竹嶺」の南山麓(栄州 ヨンジュ)から「竹嶺ハイキングコース」が設定されています。こちら側は、難路とは言え難攻不落の険阻な道ではないのです。要するに、栄州側は、山頂までの緩やかな短い登坂であり、山頂付近で荷を交換して降りてくるので、むしろ気軽な半日仕事だったのです。

*洛東江下り
 峠越えして栄州に降りると、以下の行程は、次第に周辺支流を加えて水量を増す大河 洛東江(ナクトンガン)の水運を利用した輸送が役に立った事でしょう。南漢江上流(上游)は、渓谷に蛇行を深く刻んだ激流であり、とても水運を利用できなかったので、早々に、陸上輸送に切り替えていたのですが、洛東江は、さほど蛇行の形跡がないものの深く侵食が進んでいて、傾斜が緩やかになっていたのでかなり上流まで水運が行われていたようです。必然的に、川岸が険しい段丘なので、船荷の積み降ろしが困難であったようです。
 以下、特に付け加える事は無いようです。
 洛東江は、太古以来の浸食で、中流部まで、川底が大変なだらかになっていて、また、遥か河口部から上流に至るまでゆるやかな流れなので、あるいは、曳き船無しで遡行できたかもわかりません。ともあれ、川船は、荒海を越えるわけでもないので、軽装、軽量だったはずで、だから、遡行時に曳き船できたのです。もちろん、華奢な川船で海峡越えに乗り出すなど、とてもできないのです。適材適所という事です。

 因みに、小白山地は、冬季、北方からの寒風を屏風のように遮って、嶺東と呼ばれる地域の気候を緩和していたものと思われます。九州北部が比較的温暖なのは、長く伸びた朝鮮半島の山並みが、シベリアの冬将軍の猛威を緩和するからだと思われますが、それは、本項では余談です。

 というものの、嶺東は、洛東江が深い河谷を刻んでいたために、流域の灌漑は困難であり、大規模な水田稲作が成り立たなかったようです。寒冷な気候とあいまって、食料生産は不振だったようです。

 参考までに、日本統治時代の現地視察報告を見ると、二十世紀に到っても、嶺東では、水田稲作がほとんど普及していなかったと言う事です。つまり、先行していた高麗時代と朝鮮王朝時代に、嶺東地域は冷遇されて、十分な土木/治水工事がされていなかったため、農業生産は低迷していたようなのです。日本統治下では、途方もないと見える巨額の国費を注ぎ込んで、半島全域の鉄道、国道整備、電力電信網の確立、義務教育の普及による人的資源の振興等、近代化の前提となる「インフラストラクチャ」整備、さらには、住民福祉の向上が進んだはずですが、それまで長年放置されていたので、にわかに開発を進めることはできず、依然として地域の発展が遅れていたとみえます。義務教育の普及という点で、伝統的な漢文専科では、初頭教育が不可能なこともあって、日本語のかな文字教育を進めたのですが、蛮夷の俗の押しつけということで、識者の反感を買ったようです。また、欧米の近代科学思想の導入は、日本語教科書導入が不可欠だったのですが、これは、伝統的な中国文化の否定として、これも、識者の反感を買ったようです。こうした意見は、とかく韓国から非難されるので、ひっそり書き留めておくのに留めたいところです。

*代替経路推定
 と言う事で、漢江-洛東江水運の連結というものの、漢江上流部の陸道は尾根伝いに近い難路を経て竹嶺越えに至る行程の山場であり、しかも、積雪、凍結のある冬季の運用は困難(不可能)であったことから、あるいは、もう少し黄海よりに、峠越えに日数を要して山上での人馬宿泊を伴いかねない別の峠越え代替経路が運用されていたかもわかりません。何事も、断定は難しいのです。
 このあたりは、当方のような異国の後世人の素人(二千年後生の無教養な東夷)の愚考の到底及ばないところであり、専門家のご意見を伺いたいところです。

 因みに、当記事をまとめたあと、岡田英弘氏の著作を拝見すると、氏は、半島南北交通が竹嶺(鳥嶺)越えで確立されていたと卓見を示されているのですが、なぜか、郡使の訪倭行程を、俗説の海上行程と見立てていて、失望させられたものです。氏は、鉄道ファンなら誰もが憧れるであろう「中央線」乗車を達成できなかった「怨」を抱いていたのかも知れません。

以上

2024年7月 7日 (日)

私の意見 倭人伝「循海岸水行」審議 補追 完成版 1/1

初稿 2021/04/05 新稿 2024/07/07, 07/26

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

▢完結の弁
*古田武彦
:解釈の払拭 
 本考は、古田武彦氏の審議に異議を唱えて「循海岸水行」の更なる追求を試みたものですが、左氏伝 昭 23に用例を求め、「山に循て南す」の注を「山に依りて南行す」と解する点から出発しています。

 しかし、今般、そのような開始点が誤っていると考え、出なおしを図ったものです。要するに、これは、魏志第三十巻巻末の蛮夷伝「倭人伝」の冒頭部分の行文が不明瞭であるとして、古典書籍に典拠を求めているのですが、課題の行文が官制街道の行程を書いているのに対して、引用文例として漠たる紀行文を呼び出しているものであり、まことに、場違いで不適切な選択とみられます。
 古田氏が、そのような不適切な「用例」を摘出しているのは、要するに、多大な努力にも拘わらず、適切な引例が見いだせていなかったことを物語っているのです。

*渡邊義浩:盤石の「確信」
 ここで、盤石の用例探索を行った渡邊義浩氏の確信が続くのです。但し、()は、当ブログ筆者の補充したもの。
 氏の名著「魏志倭人伝の謎を解く」(中公新書 2164)(2012)pp.132に於いて氏は、(大意)(古代史に通暁した)中国史家(渡邊氏がその好例)が「水行」「陸行」と言う表現で想起するのは、特定の記事であり、念のため確認したところ、(晋書)陳寿伝に掲げられた陳寿の読書範囲では、史記夏本紀だけであったと述べています。 
 つまり、陳寿が「魏志倭人伝」の道里記事を書きだしたとき、『街道道里として参照できた「水行」用例は皆無であった』と証言されているのです。史官たる陳寿が、魏志蛮夷伝の倭条で道里記事を書くとき参照できる「水行」記事がなかったと言う事は、「水行」記事を創唱するには、何らかの定義を示して「水行」を予告することを求められるのです。特に、「水行」の名目で海上を行くことは、夏本紀の用例と絶対的に齟齬しているので、ますます、そのような記事は、いきなり書くことができなかったということです。と言うことで、これまで、当ブログで述べてきた「水行定義」説は、渡邊氏の権威によって確信を強めたということです。「徳不孤必有隣」(論語‐里仁)とあるように、支持者は、いつか見いだせるのです。

 ちなみに、街道道里は、当然、自明として馬車で移動するから「陸行」と明記しないのであり、後に、狗邪韓国の海岸で海船に乗り、「水行」である三度の渡海を終えて末羅国で上陸したときに「陸行」と書いたものの到着地である伊都国で、いったん決着するのであり、後に追加された三国の「わき道」の掉尾の投馬国記事で「水行」と挿入しているものの、これは投馬国記事限りです。かくして、本来の行程記事に戻った「南至邪馬壹國女王之所」は、当然、千里どころか、百里にも及ばない端(はした)と見える短距離の「陸行」であり、最終的に行程記事の結尾なのです。
 「邪馬壹國」は、曹魏成立後の女王共立の結果書き足されたと見えます。郡の文書使は、伊都国で待機し「邪馬壹國」には赴いていないように書かれていますが、郡と伊都国の間の書信のやりとりで、日数が起算/記録されるのは、伊都国の文書担当が刻字した時点であり、伊都国君主の署名はともかく、女王の御璽の必要でない交信では、この間の行程も所要日数も、実務に関係しないのです。

 渋い言い分ですが、末羅国で上陸した後の「陸行」は中国制度の「街道」でなく、そこまでの記事で明記された「禽鹿径」であって、本来の「道」ではないのです。
 そこまで精巧に組み立てられた行文を厳密に読み取れないとしても、それは、史学者として訓練されていない後生読者を咎められるものでも無いのです。

*異議提起
 ここで渡邊義浩氏が提起された下記用例について、素人考えを述べます。
 《史記》《夏本紀》 陸行乘車,水行乘船,泥行乘橇,山行乘檋
 ここに書かれた四件の「行」の解釈ですが、「陸行」、「水行」、「泥行」、「山行」の四種の街道を公的な交通手段として定義したものではなく、禹后が移動手段として、四種の労役を得たと「寓話」を示したかと愚考します。何にしろ、「陸行」は、遥かなる後年、殷(商)という征軍志向の次世代を経て、周なる「法と秩序」による文書統治に至ったとして、街道として整備されたとしても、「橇で泥を行く交通手段は絶えて制度化されなかった」と見えます。現に「倭人伝」の道里記事に「泥行」も「山行」も登場しません。ここで言う「行」は、「道」、「路」に言い替えることのできない、別種の概念と見えます。

--旧稿再掲---
〇はじめに
 「倭人伝」道里行程記事の冒頭に置かれた「循海岸水行」の追加審議です。

〇「循海岸水行」用例審議
 古田氏は、第一書『「邪馬台国」はなかった』ミネルヴァ書房版 174ページで、「倭人伝」道里行程記事の「循海岸水行」の「循」の字義解釈の典拠として左氏伝 昭 23から用例を求め、「山に循て南す」の注で「山に依りて南行す」と解しています。「循」は「依る」または「沿う」と解した上で、幾つかの用例を「三国志」に求めて暫し詮索の後、「海岸に沿う」と解しています。
 氏の解釈は、陳寿が、敢えて「循」と書いた真意を解明していない点で同意できませんが、それは別としても、旗頭とした古典典拠は、陳寿が依拠していた「左氏伝」ですから、「左氏伝」用例が妥当であれば、その一例を本命として絞るべきと考えます。

〇諸用例の参照
 「魏志」用例は、数稼ぎでもないでしょうが、用例の趣旨が明瞭でないので、揚げ足取りされるなど審議の邪魔になるだけで、まことに感心しないのです。但し、読者に対して公正な態度を示す意義はあるのかも知れません。とは言え、「枯れ木も山の賑わい」とは行かないのです。
 なお、当方は、以下のように、古田氏の「左氏伝」読解は、ずいぶん甘いと感じます。

〇字義の確認
 まず、「依」の字義は、白川静氏の辞書「字統」などの示すように「人」が「衣」を身に纏い、背に「衣」を背負っている様子を言います。
 ここで、山に「依る」は、山を「背負う」比喩と解されます。一方、「山」は、山嶺、山並みではなく屹立峰(孤峰)ですから、「山」に「沿う」経路行程は想定しがたく、山を「背負って」進む行程と察するのです。

 当用例により語義解釈すると、倭人伝の「循海岸水行」の深意は、「海岸を背負って海を渡ることを水行という」と解して無理はないと思います。何しろ、史官たるものが、わざわざ「循」を起用したのには、格別の意義があると考えたものです。端的に言うと、眼前に対岸があって、軽快な渡船で航行することを言うものです。

 別稿で、「循」は、海の崖を盾にして、つまり、前方に立てて、行くものと解釈しましたが、趣旨というか進路方向は同様なので、一票賛成票を得たものと心強くしています。

*「用例」批判について
 2024/07/26
 すこし視点を変えてみると、諸兄姉の「沿海岸水行」解釈は、少なからず、原義を外れているのではないかと懸念するものです。行程記事に前例のない「海岸」、つまり「岸」ですが、夏本紀先例で言うと、これは、あくまでも「陸」の一部であり、そこから「陸行」せずに「水」に入るには「泥」によって想到される中間部を過ぎることになります。そのように、当時通用していた地理概念を組み立てると、「海岸」に「沿って」移動するということは不可能であり、陳寿は、「循海岸水行」によって、そのような不合理な概念を説いているのでは無いことが明らかです。むしろ、字句の原点に戻り、「海岸」、即ち、陸地の端に立って、水に向かって進んでいくと述べているのであり、当時の読者の教養に反しないように言葉を選んで、後ほど現れる「渡海」を端的に予告していると読むものではないでしょうか。
 敢えて言うと、諸兄姉の「用例」解釈は、登用されている字句が、御自身の「常識」に従っているという「思い込み」に依存しているのであり、「用例」をそのように受け止めるのが合理的ではないのではないかという「用例」批判を欠かしてはならないと見るものです。

*用語定義ということ
 このように見ると、倭人伝では、「水行」は河川航行でなく、「渡海」を「水行」と明確に、但し厳密に限定的に「指定」(用語定義 definition)しています。「倭人伝」「指定」であり、巻末までの限定です。つまり、倭人伝の道里行程記事で、「水行十日」は、狗邪韓国から末羅国までの渡海、計三千里です。「水行」一日三百里と、まことに明解です。

〇用語定義の必要性~私見
 誤解されると困るのですが、当ブログで辛抱強く説明しているように、古典的な用語定義に従うと、川であろうと海であろうと、渡し舟の行程は陸行の一部ですが、はしたなので所要日数も道里も書かないと決まっているので、狗邪韓国から末羅国までの渡し舟の行程道里、数千里、数日は、勘定しようがないのです。
 つまり、「倭人伝」を正史記事とするには、適確に注釈しないと成立しないのですが、陳寿が編み出したのは、「倭人伝」記事で本来必要のない、河川航行「水行」を「渡海」に当てる「用語定義」(definition)だったのです。これは、法律文書、契約文書、コンピュータープログラム文書、特許明細書に代表される技術文書など、論理性、整合性を必須とされる文書で、挙って継承され、採用されている実務に即した文章作法であり、まことに合理的な書法と考える次第です。

*投馬国水行の検討
 余談
 因みに、当ブログの理解では、投馬国への「水行二十日」は、後日の追い書きであり、全行程万二千里、倭地周旋、つまり、伊都国から狗邪韓国にいたる五千里の圏外なので、二十日全部が渡海なのか、一部が渡海で全体が二十日なのか、何とも判定できません。脇道なので、詳しくは不明である、と言うことでしょう。
 丁寧に言うと、全国七万戸の大半を占める五万戸の大国への道程が、あやふやなのは信じがたいのです。また、それほどの大国の戸籍が不備で、全戸数が、五万戸らしいと言うのでは、郡に対して申し開きのできない失態と思われるのですが、「倭人伝」では、その点を、一大率による指導監督を怠っていて、一切追求していないのです。二万国らしい奴国と併せて、まるで、水平線に漂う蜃気楼のようです。

〇諸用例の意義~少数精鋭最上
 古田氏が追加した魏志用例は、ここで言う「海岸」と「水行」のような方位付けが明解で無いので、「循」が「沿って」の意味に使われた用法と愚考します。「背にして」と「沿って」の両義を承知で書いたのではないようです。

 思うに、三国志の魏志(魏書、魏国志とも言う)は、陳寿が全てを記述したものではなく、大筋は参照した魏朝公文書、つまり、史官が日々整備していた公式記録文書に従っているので、魏朝官人の語法で描かれています。従って、左氏伝の典拠を意識していないことも想定されるのです。
 用例は、厳選したいものです。できれば一例が最上です。

維持された収束
▢「海岸に沿って」行かない理由~再掲
 当ブログの見解では、「従郡至倭」の道里行程は明確に書かれていて、官制の通り、官道を直線的に目的地まで進むが、狗邪韓国から末羅国までは、唯一無二の移動手段である渡し舟に乗る必要があり、これを限定的に「水行」と分類し、残りは、当然の「陸行」と分類した行程としているのです。末羅国からは、「陸行」と明記されていて、傍路の投馬国行程は、この際圏外として、一路、陸行なのです。整然たるものです。話すと長いのですが、全体構想があっての独断です。

 海岸に「沿って」行くとの解釈を棄却すべき理由として、海岸陸地に沿った移動は、浅瀬や岩礁に確実に行き当たることによります。そのような危険のため、船は、ほぼ例外なく、港を出ると直ちに陸地を離れて沖合に出て、海図などで安全と確認できない限りは、陸地に近づかないのです。以上は、別に訓練経験がなくても、少し関連情報を調べるだけで、容易に理解できる安全航海の策ですが、聞く耳を持たない人が多いのです。

追加見解 2024/07/07
 先賢の言として、「海岸」とは、海の見える崖上の陸地であり、「海岸に沿って進む」街道とは、あくまで、陸上街道に決まっているとのご託宣です。河水について考えればわかるように、河岸とは、陸上の土地であり、川船に乗るには、泥をかき分けて降りていく必要があります。
 その先は、渡船に乗るのか、便船で流れにしたがうのか逆らうのかということになります。この辺り、中原の交通では常識ですが、「倭人伝」道里記事では、全く前例のない「水行」によって海船に乗るというのであれば、大量の事前説明が無いと、読者には、何のことかわからないのです。
 当ブログでは、これは、そのような途方もない記事ではなく、後段で、大河ならぬ、流沙ならぬ、大海の流れを、見なれた渡船で渡るのを予告しているという見解であり、無用の紛糾無しに「倭人伝」の行程を末羅国での上陸に繋ぐ、整然とした、滑らかな手段と見ているのです。

*結語ふたたび
 そのために、苦労して説得記事を重ねているのですが、まだ、納得された方はいないようです。その最大の障壁が、冒頭の「循海岸水行」の誤釈と思うので、一度、「自然に、滑らかに」丸呑みするのでなく、一字一字審議していただきたいと思ったものです。

                                以上

2024年7月 4日 (木)

新・私の本棚 番外 サイト記事検討 刮目天一 【驚愕!】卑弥呼の奴婢は埋葬されたのか?(@_@) 1/1

【驚愕!】卑弥呼の奴婢は埋葬されたのか?(@_@) 2022-06-16  2022/06/20 補充 2024/07/04

*加筆再掲の弁

 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

◯はじめに

 本件は、兄事する刮目天氏のブログを題材にしているが、氏のご高説に異を唱えているわけではないのは見て頂いての通りである。
 氏が応接の際に見過ごした躓き石を掘り返しただけである。ここは、第三者の発言内容の批判であり、「倭人伝」解釈で俗説がのさばっている一例を摘発するだけである。こうした勘違いの積み重ねが、混沌たる状況/ごみの山に繋がっているから、ごみを、せめて一つでも減らしたいだけであって、他意はない。

◯発言引用御免
卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人
卑弥呼が死に、多数の冢が作られた、径100歩に殉葬者の奴婢100余人。
とかの意味じゃないかな。
大作は漢文の用法としては大きく作るじゃなくて多数作るの意味みたい
墳ではなく冢だから小規模な墓が多数作られたんだ。

◯部外者の番外コメント
 発言者は、「改竄」記事にコメントし、刮目天氏は寛恕で黙過している。
*「徇葬」正解 
 原文は、「徇葬者」であり「殉葬者」と書いていない。改竄記事を論じるは、無意味であり、古代史分野に蔓延る「悪習」である。
 「徇葬」は、「魏志」東夷傳「扶余伝」が初出のようである。正史は、先例の無い言葉の無断使用は許されないが、「倭人伝」は、「扶余伝」で認知された用語の承継と見える。いや、実は、ほぼこれっきりの二例しか見当たらない。

 「殉葬」は、先例が非礼・無法である。とてつもなく「悪い」言葉を、陳寿が大事な「倭人伝」で、深意に反し、採用することはあり得ない。
 対して「徇葬」は、葬礼に伴い進むか、夜を徹して殯するか、あるいは、守墓人に任じられたか。「行人偏」の持つ意味は、そのような活動的なものである。いずれにしろ「徇葬者」は生き続ける。女王は讃えられる。
 「殉」一字に、「命がけで信条を奉じる」=「殉じる」との意義もあるが、「殉葬」者は、恐らく意に沿わずとも、間違いなく命を落とす。女王は、正史に恥を曝す。大違いである。意見は人さまざまで、百人の奴婢が、生きながら埋葬されたと言う見方も悲惨であるが、所定の儀式を歴てとは言え、いずれかの場所で、百人が命を奪われ、遺骸が、土坑まで運ばれたという暗黙の了解強制も悲惨である。当時から現代に至る読者が、そのように解釈したら、「倭人伝」は、ゴミ箱入りである。

 これほど意味・意義の違う文字と取り違えるのは、目が点で節穴である。但し、この改竄は発言者独創とは思わない。倭人伝名物の改竄解読手法受け売りで、褒められないが非難はできない。誤解が蔓延しているのである。

 因みに、笵曄は、後漢書「東夷列伝」扶余伝で、陳寿の記事と軌を一にしつつ、「徇葬」と宿痾の誤字/誤解症例を残している。もって瞑すべし。(要するに、後漢書「東夷列伝」は、後漢代公文書を着実に参照しているので無く、范曄創作/誤解を、多々含んでいるのである。いや、他にもあるが、圏外なのでここでは論じない)

*「冢」の正解模索
 刮目天氏は、丁寧に辞書に頼るが、まずは、原史料で最前用例を探索すべきと愚考する。
 読者は、自身の語彙で解明できなければ、「魏志」第三十巻の巻子/冊子の最前を遡り、わからないときは座右の「魏志」の山を手繰る。四書五経は元より、「漢書」、「史記」など山々の大著を倉庫から荷車で引き出させるのは、陳寿の手落ちとなり不合理である。そうならないように、陳寿は、その場で確認できる用例を書き込んで、伏線を敷いている。ここで、藤堂明保氏名著「漢字源」はまだ存在しないと戯言する。

 倭人伝の「冢」は、大家の葬礼紹介で、「遺骸を地中に収めた後、冢として封土する」との趣旨で書いてあり、いかにも、身内による埋葬と思われて、近隣を動員した土木工事とは書いていない。発言者は、根拠不明の「漢文用例」を参照して、徑百歩の範囲に、「お一人様」用の「冢」を百基造成したようにも読める、あいまいな言い方で笑い飛ばしているが、土饅頭といえども百基は、途方も無い工事であるが、そのような遺跡は先例があったのだろうか。無責任な放言は、それ以上取り合わずに、ゴミ箱に棄てることにする。

 本論の女王封土の場合は大がかりであるが、奴婢百人では、到底直径百五十㍍の「円墳」は造成できない。円墳は盛り土で済まず、石積みが不可欠で「冢」にならない。もちろん、倭人伝は「墳」と云っていない。径百歩は、「普通の解釈」と合わないが、ここでは論じない。

*まとめ~用語審議の原則提言
 末筆ながら、用語解釈の基本として、原文起点とし、「最前用例最尊重」の黄金律を提起したい。別に、陳寿を崇拝しているのでも無ければ、趣旨不明のおまじないを唱えているのでも無い。文書起草の不変の原則を述べているだけである。部外者で、専門家の手順を理解できない野次馬は、早々に退場する方がいいのである。
 謙虚に原点に戻ると、粗忽/粗相を避け文章の深意に至るには、文脈の斟酌も、とてつもなく重要である。「倭人伝」論では、失敗例が山積しているので、そう思うのである。

                  余言無礼御免 頓首頓首  以上

2024年4月20日 (土)

新・私の本棚 新版[古代の日本]➀古代史総論 大庭 脩 1/2 再掲

7 邪馬台国論 中国史からの視点 角川書店 1993年4月
 私の見方 ★★★★★ 「古代の日本」に曙光   2024/01/11, 04/20,05/24, 05/30

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

□はじめに
 大庭脩氏の論考は、的確な教養を有し、中国史書視点によっているが、国内史学界の潮流に流されて、氏の教養豊かな麗筆を撓めて、外交辞令に陥る例が散見され残念である。

□中国文献から見た「魏志倭人伝」~「魏志」考察
*「三国志」の版本
 氏は、写本論義を避け、話題を北宋咸平年間に帝詔により校勘、厳密な校訂が行われた「北宋刊本刊行時点以降」に集中/専念している。その際、三国志の正史テキストが統一され、それが、後年、紹興/紹熙本なる南宋刊本において復元され、今日まで継承されているのだが、それでは、史学界の飯の種である「誤記説」絶滅が危惧されるので救済を図ったと見え、「一方、厳密な校訂が行われたとしても、その判断は当時の知見の限度においてなされたものであり、刻工の作業段階で起こるケアレス・ミスの可能性を完全に否定する論理はあり得ない。」とあるが、論理錯綜で氏の苦渋がにじんでいる。

 陳寿遺稿の「三国志」原本が、西晋皇帝に上申され、皇帝蔵書として嘉納されて以来、言わば、「国宝」として最善/至高の努力で継承された史料の後生権威者集団による最善を尽くした校勘も、「三国志」原本の「完璧」な再現ではないのは当然であるが、氏は、写本継承の厳正さに触れることを避け、北宋時の刊本工程に飛び、「校勘されたテキストが一字の誤りも無しに刻本されたとは言えない」と迂遠である。

 以下2項は、大庭氏の論考に対する異議ではなく、氏の見解に触発された所見であるので、「余談」として、意識の片隅に留めて頂ければ、望外の幸甚である。

*乱世の眩惑 ~私見 余談 2024/05/30
 二千年にわたる「三国志」原本継承の怪しいのは、先ずは、南朝側から北朝側への流入であり、特に顕著なのは、南朝滅亡時の北朝への写本献上である。南朝最後の「陳」は、先行する「梁」の威勢の順当な継承でなく、まずは、半世紀に及んだ梁武帝の雄大な治世下、北朝側から侵入した侯景の建康長期包囲により、帝国の統治が瓦解した時代があり、「梁」の滅亡後、北朝の干渉により、「梁」の中核部を維持した「陳」と周辺地域を支配した「後梁」に分裂した乱世が、北朝を統一した「隋」の征服で決着したものである。陳後主が降伏時に「三国志」原本を隋皇帝に献上したかどうか不明である。何しろ北朝天子である「隋」は、建康に屯(たむろ)していた賊子を撲滅したのだから、「陳」の蔵書をいかに収納したかは、不明なのである。
 「隋」の北朝統一に前だって、北朝東方で古来の雒陽を占拠していた「北齊」は、中原天子を自負して、正史を含む古典書を集成し、後の「太平御覧」の先駆になる巨大類書を編纂したとされているから、史書集成は着々と進んだとも見える。但し、北朝の西方の「北周」は、古来の「長安」を根拠に、太古の周制の復古を目論むとともに、前世蜀漢の旧地を南朝から奪って、三国鼎立の形勢を得ていたが、西域を確保した上に「中國」の大半を支配していたので、鼎立の覇者を自負していて司馬遷「史記」、班固「漢書」、陳寿「三国志」の「三史」の確保を進めたかもしれない。
 要するに、挙国一致体制で組織的に行われた北宋刊本、南宋復刊の大事業のアラ探しをするより、暗黒時代とは言わないが、数世紀に及ぶ乱世を考慮するのが賢明である。

*笵曄「後漢書」雑考 ~私見 余談 2024/05/30
 なお、この乱世に於いて、笵曄「後漢書」が、いかにして継承されたか、滅多に論じられないので、不審である。
 笵曄は、「西晋が北方異民族の侵攻破壊で滅亡し、辛うじて、南方の建康で再興した東晋」の後継、劉宋の重臣であり、皇帝蔵書として継承した「三史」に対して、後漢代史書が不完全であるのに着目し、「三史」と並ぶ史書とすべく「後漢書」編纂に従事したものである。但し、すでに、班固「漢書」に続く「後漢書」の根拠となる雒陽公文書は散逸していたので、先行諸家後漢書を換骨奪胎して本紀、列伝部分を集成したものの、西域伝、東夷伝の集成には不備が多く、魏代に後漢代以来の記事を整えた魚豢「魏略」を起用したものとみえる。なかでも、後漢末期の桓霊帝及び三国鼎立期に入る献帝期の東夷記録、なかんずく新参の「倭条」の欠落は補填しがたかったので、陳寿「三国志」魏志「倭人伝」を加工して、後漢書の担当である後漢霊帝期にずらし込んだと見える。そのように造作された笵曄「後漢書」東夷列伝「倭条」は、世上、「偽書」とされかねないと見えるが、世上「偽書」論義は見られない。
 何しろ、偽書を根拠とする後世史書、類書の「倭」記事は、自動的に虚構となり、余りに多大な、破壊的な結果をもたらすので、明言できないものと見える。
 そうした不吉な由来はともかく、史官ならぬ文筆家であり、劉宋高官であった笵曄は、劉宋内部の紛争に連坐して斬首の刑に処せられ、嫡子も連坐したので、笵曄の家は断絶したのである。つまり、笵曄「後漢書」の完成稿は遺せず、まして、重罪人の著作は、劉宋皇帝に上程されることはなかったのである。
 南北朝の南朝側で、非公式な後漢書として継承されていた状況は不明であるが、南朝皇帝蔵書として堅持された陳寿「三国志」すら、写本継承の瑕瑾を論じられるのであるから、『笵曄「後漢書」原本を確定し、なかでも、素性・由来の疑わしい東夷列伝「倭条」の画定を図るのは、多大な論考が必要』と思われるが、寡聞にして、例を見ない。

*閑話休題
 北宋代の刊本は、東晋以降の南朝が保持していた原本と各地の蔵書家の所持していた善本の集成により、北宋が唐代文物を結集した 組織的に行われた刻本であるから、「刻工無謬」であろうとなかろうと校勘稿と試し刷りを照合する「最終校正」により逐一是正されるから、刻本行程で発生する「誤刻」は、実質上皆無と見て良い。「可能性を完全に否定する論理はあり得ない」の「二重否定」で、希有な事象を露呈させ、本筋から目を逸らさせているのではないかと危惧する。
 まして、意味不明の「ヒューマンエラー」で、善良な読者を「眩惑」して、私見を押しつけるのは「迷惑」以外の何物でもない。

*最後の難所~南宋刊本復刻~私見
 氏は、あえて論じていないと見えるが、ここで、刊本の正確さを論じる際に不可欠なのは、北宋刊本から南宋二刊本への継承であり、南宋創業期に二度、校勘刻本された紹興本、紹熙本の微妙な事情/実態を考証する必要がある。

 尾崎康氏の労作「正史宋元版の研究」で確認できるが、北宋末の金軍南進「文化」全面破壊で、国書刊本は版木諸共全壊し、南宋刊本は、損壊を免れた上質写本に基づいて復元を図ったが、最善を尽くしたとは言え、上質写本でも不可避な疎漏があったと見える。

 そのため、四書五経をはじめとする厖大な古典書籍の大挙復刻という一大挙国一致事業に於いて、陳寿「三国志」南宋刊本が、第一次として「紹興本」として復刊されたといえども、(わずか)数十年を経て、より上質な写本から再度「紹熙本」を刻本したとされている。つまり、南宋校勘の最終成果を示す意図での再刻本と見え、尾崎氏は「紹熙本」の称揚を避けざるを得ないので、明言はしていないが、氏の筆の運びからそのように見える。示唆の深意が容易に想到できるのは、明言に等しいのである。

 大庭氏の口吻は微妙で、漠たる一般論に転じて「写本ならば、その一本限り」の謬りとしたが、中国に於いて、帝室蔵書として厳格に継承された写本といえども、一度、いわば、「レプリカ」として世に出れば、最早、最善写本と言えなくなり、以後、在来写本は、順次在来継代写本になり、子が孫を生んで下方/市井に継承され、謬りは、順当に継承/蓄積され、しばしば増殖していく行くことは、世上常識であるから、氏の述解は、素人目にも的外れの難詰である。
 結論として、史料の正確さは、写本継承工程では、個々の写本の厳密さの積層/累積に依存し、固有の、自明の限界を有していたのであり、国内史学界の風潮に馴染んで、「公的校勘、写本を受けられず、写本者の個人的偉業に依存して、散発的に継承され、写本毎に個性を募らせている」国内独自事情の秘伝「写本」継承を、厳格に管理された「三国志」南宋刊本を超えて尊重するのは、誠に度しがたい本末転倒である。

〇卑弥呼の時代の東アジア~「水上交通」論への異議
 続いて、氏は、渤海湾水上交通」なる現代概念を投影しているが、氏ほどの顕学にして、「水」が河川との古典用語常識から乖離して不用意である。同時代用語がないので仕方ないが、せめて「海上交通」として、とにかく、読者の誤解を招く用語乱用は避けねばならない。「水」は、あくまで真水(clear water)である。塩水(salt water)かどうかは、口に含めば子供でもわかる。
 また、氏は、慧眼により、的確に、青州・山東半島を要(かなめ)として、遼東半島に加えて、朝鮮半島中部「長山串」との三角形の交通』を論じているが、少々異を唱えざるを得ない。両交通の要点は、短時日の軽快な渡船であり、陸上交通のつなぎである。但し、三世紀当時、帯方郡管内は、未だ「荒れ地」であったから、「長山串」交通は、言うに足る商材が無く、「海市」は閑散が想定される。いや、近隣のものが野菜や魚(ひもの)を売り買いするのは、自然のことであるが、隣村まで野菜、魚を売りに行くのは、商売にならないことが、太古以来知られている。

*瀬戸内海海上交通論

 例示されている瀬戸内海であるが、芸予・備讃島嶼部は、南北海上交通が、渡し舟同様の小船で往来可能と見えても、東西の多島海海上交通は実行困難(持続不可能)な難業であり、また、中央部は「瀬戸」でなく、島嶼のない「燧灘」(ひうちなだ)なる「大海」(塩水湖)「瀚海」(塩水の大河)で南北に懸隔されていて軽快な渡船では渡りきれないとみえ、要するに一口で言えない。氏の東西交通に集中した地理観は、後世的/巨視的であり、三世紀当時の世相から隔絶しているように見える。

                                未完

新・私の本棚 新版[古代の日本]➀古代史総論 大庭 脩 2/2 再掲

7 邪馬台国論 中国史からの視点 角川書店 1993年4月
 私の見方 ★★★★★ 「古代の日本」に曙光  2024/01/11, 04/20,05/24

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

*海上の行程
 して見ると、氏が「渤海湾」行路と見ているのは、実は、「黄海二行路」であって、いわば、海上の「橋」と見た方が時代/地域相応の見方と思われる。いや、両行路は、三世紀時点では、便船の規模、頻度に相当の差があったはずであるから、実用的には、遼東青州行路が独占していたと見えるのである。
 後世唐代には、二行路が並び立ったようであり、円仁「入唐求法巡礼行記」によれば、青州に「高句麗館」と「新羅館」が繁栄を競っていたとされているが、あくまで隔世譚である。三世紀、新羅、百済は、萌芽に過ぎず、行路と言うに足る往来はなかったと推定される。
 つまり、遼東から青州に至る「黄海海上行程」は、始点~終点に加え途上停泊地、全所要日数も決定し、並行「陸道」(陸上街道)が存在しない「海道」であったと見える。但し、公式道里ではないから、正史の郡国志、地理志などには書かれていないのである。
 と言うことで、そのような行程が、常用/公認されていても、公式道里に採用されていないから、陳寿は、いきなり「倭人伝問題」に使用して、高官有司から成る権威ある読者を「騙し討ち」することはできなかったである。精々、事前に、伏線/用語定義して、読者を納得させる必要があったのである。
 魏の領域で街道の一部が海上行程に委ねられた先例があったとしても、沿岸行程には、必ず並行陸路が存在するから、あてにならない、ひねもす模様見では、公式道里として計上されないので、ここではあてにできないのである。

□「倭人伝」水行の起源~余談
 かくして、陳寿は、現地運用の「渡海」を参考に「倭人伝」道里行程記事の用語を展開したのである。
 つまり、陳寿は、苦吟の挙げ句、海岸を循(盾)にして対岸に進む「海道」行程を、史書例のある「水行」に擬し、海岸沿いでなく「海岸を循にして進む渡海行程を、この場限りで「水行」と言う」と道里行程記事の冒頭で定義し、混迷を回避しているのである。
 深入りしないが、そのように陳寿の深意を仮定/理解すれば、当然、「倭人伝」道里行程記事の混迷が解消するはずである。
 言うまでもないが、当方が二千年前の史官の深意を理解して道里行程記事の混迷が解消する「エレガント」な解を創案した/見通した』と自慢しているのでは無い。あくまで「れば・たら」である。

□『「邪馬台国」はなかった』の最初の躓き石~余談
 古田武彦氏は、第一書『「邪馬台国」はなかった』 (1971)に於いて、当該記事を漢江河口部の泥濘を避ける迂回行程の「水行」と解釈し、以下、再上陸し半島内を陸行する行程と見たが、帯方郡を発し一路南下すべき文書使が、さほどの旅程がないとしても、迂遠で危険な行程を辿る解釈は、途方もなく不合理で、論外である。おそらく、古田氏が、海辺に親しんだ「うみの子」であったために、抵抗なく取り組んだものと思われるが、「倭人伝」の読者は、大半が、海を知らない、金槌の中原人であり、帯方郡から狗邪韓国までは、整備された街道を馬上で、あるいは、馬車で日々宿場で休みながら、一路移動すれば良いのであり、安全、安心な陸路があるのに、命がけ/必死の「水行」など、ありえないのである。

 冷徹な眼で見れば、古田氏ほどの怜悧な/論理的な論客が、第一書の核心部で、迂遠な辻褄合わせ、ボロ隠しを露呈しているのは感心しないが、在野の研究者として孤高の境地にあったことを考慮すれば、論理を先鋭化するためには無理からぬ事と思われ、また、一度、確固として論証を構築したら、後続論考で姑息な逃げ口上を付け足さなかったのは、私見では、むしろ、首尾一貫/頑固一徹と思われる。

*「景初遣使」談義
 続く遼東郡太守公孫氏の興亡記事はありがたい。但し、「倭人伝」に厳然として継承されている「景初二年」の記事を、後世改変に乗じ、留明確な論証無しに「景初三年」と改竄するのは感心しない。

 氏は、司馬懿による遼東平定の「傍ら」、楽浪・帯方両郡が魏の支配下に入ったとしつつ、さしたる根拠もないのに、三年説の「蓋然性」が高いと見るが、原文を尊重すべき二年説を「可能性」と評価を一段押し下げた挙げ句、両説を偏頗に評価しているが、誠に趣旨が不明である。つまり、史料を否定するに足るべき論証が不調であり、いわば、学術論者として醜態をさらしている。
 氏の筆致は、言葉を選んで暴論を避けているが、だからといって、「偏頗」の誹りを逃れることは、大変困難と見える。
 氏の書法で言うと、『「二年説が三年説より信頼性が高い」可能性を完全に否定する論理はあり得ない』と思われ、とんだ躓き石で足を取られている。

◯「親魏倭王」などのもつ意味
 正史「三国志」で、蛮夷称揚の例として、二例が際立つとみえるため、東夷「倭」と西戎「大月氏」の二事例を並列させる論があるが、氏によれば、史書の事例で、漢魏晋の四夷処遇では、鴻臚において『「親」(漢魏晋)某国「王」」の詔書/印綬を下賜したと指摘している。
 同様に、氏の指摘とは別に、後漢代、辺境守護に参上した蕃王一行を雒陽で歓待し、一行全てに余さず印綬を与えた記録がある。ただし、そのような漢蕃関係事例の大半は、陳腐として本紀/列伝から省略されていると見える。さらに、氏は、賢明にも、壹與遣晋使の魏印綬返納、親晋倭王綬受を示唆している。同記事が、本紀/列伝から省略されているのは、当然の儀礼だからである。
 氏も示唆しているように、晋の天子が「親魏倭王」印を放置することがないからである。

◯中郎将、校尉
 難升米、掖邪狗などに与えられた称号は、魏制になく、蕃王高官に相応しい前提である。官制官位には俸給、格式が伴うから、蛮夷には付与されないのである。
 また、新参の際に「自称」したと明記されている「大夫」は、官制のものであり、当然、蛮夷のものには許されないのだが、蛮夷の無知を示すものとして、自称したのを鴻臚が記録しているのである。正史四年の遣使では、依然「大夫掖邪狗」とあったものが、壹與の遣使に於いて、「倭大夫率善中郎將掖邪狗」と改善されているが、むしろ至当である。
 余談であるが、このように厳重な訓戒・指導を受けていながら、後年、書紀推古紀の大唐(実際は、隋)使裴世清来訪記事に於いて、「鴻臚寺掌客裴世淸等」の応対役として「掌客」を新設したと正式に記録されているのは、何とも、つまらない/重大な失態である。

*「一大率」異聞~私見
 氏は、蛮夷官名に関して、「率善」が、官制に無い蛮夷のものと明言されているが、至当である。念のため言い置くと、蛮夷の者が、官制の官名をいただくことはあり得ないのであり、それ故、後の事例では、「倭」を前置する是正を行ったものと見える。
 私見では、倭の蛮夷官位である「倭大夫率善中郎將」が転じて縮約され、「一(倭)大率」となったと見える。もちろん、単なる思いつきである。

□一点総括~「病膏肓」~つけるクスリが無い
 大庭氏は、『「倭人伝」テキストを気ままに改編して論じる安易な風潮』に釘を刺すが、かかる風潮は、通説論者の「病膏肓」で「馬耳東風」、苦言には、一切耳を貸さないと見える。「糠に釘である」。半世紀以上経っても、一向に是正が見られないのであるから、これは、最早癒やしうる病ではないようである。
 「病でない」となると、つけるクスリが無いのである。

                                以上

2024年2月 7日 (水)

倭人伝随想 9 晋書地理志に周朝短里を探る 結論 1/9 更新

               2018/10/26  2018/12/26 修正 2020/11/08 2022/06/01 2024/02/07

◯更新の弁
 当ブログも、発足以来日時を経ていて、各記事も、初稿以来、更新を重ねているものも、少数ながら存在する。但し、件数、頁数がかなり多いので、更新の手が行き届かないものも、少なくない。そこで、最近務めているのが、一般読者の方から閲覧が入ったものは、積極的に内容を見直して、改訂するという事である。
 但し、それが、字句修正や書き足しならともかく、論旨が大きく変わったものは、暫し考えたあげく、打ち消し線で削除して、以下、新規書き足すことになるのである。結構見苦しいのだが、当方は、意見が変わったことを隠す意思はないので、そのような改訂/更新もある。
 本項で言えば、当初、古田武彦師の「魏志短里説」擁護/批判/否定を辿って、現在の「倭人伝」二重記事説に至るまで、何度か意見の基調が替わっているので、ここは、恥を曝すのを覚悟で、極力、旧稿保存に努めたものである。ということで、読みにくい記事となっている点をお詫びするものである。
 端的に略記すると、当初、「倭人伝」道里記事は、「短里」で書かれているとする意見であったが、それが、「三国志短里」でも、「魏晋朝短里」でもないところから始まって、「倭人伝短里」との主張に一度立ち止まったが、現時点では、「倭人伝」道里記事は、倭人初見の際に書かれた「全行程万二千里」という決め込みで書かれていて、それが、「倭人伝」記事策定の際に、「皇帝承認記事は改訂できない」という制約に束縛された史官が、明らかに実態に即していない道里を温存せざるを得なかったことから、これを公式道里として記載し、実務の必須事項である総括「都所要日数」を記載するという、現在も伝わる道里記事になったと言うことを示したのである。
 そのような記事校正は、一種の「難問」として提示されているが、「難問には、必ず解答がある」のであり、読者は、それを解決することを予定されているのである。
 本講読者諸兄姉は、それぞれ、「難問」に対する解答をお持ちであろうが、本稿をはじめとする当ブログの「解答」を理解いただければ幸いである。

◯始めに
 本項の目的は、引き続き、「倭人伝」里制の妥当性を確認するものです。
 まず、当ブログ著者は、本記事初出の段階(2018/10/26)では、『「倭人伝」里数は、「短里」のものであり、これは、現地、つまり、帯方郡領域で実施されていた「里制」の忠実な反映である』と見ました。主たる論拠は、「倭人伝」冒頭で、帯方郡から狗邪韓国までの、帯方郡にとって既知の里程が、七千里と宣言されているということです。そのため、全体に「地域短里」、「倭人伝短里」の見方で進めています。

*「誇張」・「虚偽」説
 これに対して、倭人伝里数が、悉く「誇張」・「虚偽」と見る説は、総じて根拠のない憶測であり、正史に明記された記事を否定する力を持たないものです。そのような説自体「作業仮説」にもならない、単なる子供じみた思いつきであり、非科学的な「誇張」・「虚偽」と見えます。
 例外的に趣旨明解な松本清張氏の主張の批判は別記事です。

◯方針説明
 当記事は、魏志「倭人伝」の時代を含む歴史的な地理情報を網羅した晋書「地理志」の内容を検討し、里制に関する判断資料とするものです。
 もっとも、晋書「地理志」にも、晋書「倭人伝」にも、「倭人」領域に関する行程道里記事が無いので、「倭人」領域で短里が実施されていたことを証する記事はありません。

◯晋書紹介
 晋書は、魏志「倭人伝」の編纂された司馬晋の時代の中国王朝です。時に、その前半を特定して「西晋」と呼ばれますが、当時は、自分たちの時代が早々に幕引きになって、天子が北方異民族の虜囚になって処刑された亡国に至って、辛うじて南方で再建され「東晋」と呼ばれた後世王朝と区別するために「西晋」と呼ばれるなどとは「夢にも」思っていなかったことは言うまでもありません。

*古代の晋(春秋)
 ちなみに、「晋」は、中国古代の周王によって中原北方に封建された周代の一大国でしたが、春秋時代末期に王権が衰え重臣に権力を奪われて飾り物になった挙げ句、重臣間の抗争を歴て生き残った趙、魏、韓の三家が、遂に晋王を放逐、それぞれの姓によった趙、魏、韓の三国に分割したのです。
 晋王が、臣下に放逐されたのは画期的な大事件であり、諸国を束ねた東周の権威が失われ、各国がむき出しの抗争を行う戦国時代に移ったとされます。晋王は周の創業以来の大黒柱であり、臣下による追放から保護できなかった上に、三国から大枚の贈答を受けて不法事態を承認したから、周王に権威がない事を天下に知らせたことになるのです。以後、時代は、統一権威の存在しない「戦国時代」に移行したと見られています。

*司馬晋登場
 ともあれ、この時代の晋の創業者司馬氏は、つい先年の曹操、曹丕の天下把握の手口そのままに、曹魏皇帝から天子の権威を譲り受けるについては、先ずは、古代の晋の旧地を所領とする異姓の「晋王」に任命され、続いて、曹魏皇帝から国の譲りを受けるという「禅譲」により、魏朝を廃し、皇帝として晋朝を拓いたのです。こでは、古代とは逆に「魏」から「晋」に権力が移行したことになります。

                               未完

倭人伝随想 9 晋書地理志に周朝短里を探る 結論 2/9 更新

                2018/10/26  2018/12/26 修正 2020/11/08 2022/06/01 2024/02/06

*太平の崩壊招く愚策~司馬晋の自滅
 と言うことで、西晋崩壊の背景は、三国志の最後の呉を滅ぼして天下統一した皇帝が、太平に甘えて官兵を靡兵、解雇したために、失業した多数の元官兵が、各王の私兵となったのです。
 野心家が天下を狙うとなれば、教育、訓練の要らない、命令服従を本分とする元職業軍人は強力な武器であり、まして、帝位継承資格を持つ各王が他の王に対抗して強力な軍を組織し台頭を図ったため、乱世の幕を拓いたのです。
 さらには、兵力増強のため、北方異民族「匈奴」の部族を傘下に採り入れ、教育訓練を施して、私兵としたのですから、それは、長年討伐していた侵略者を、領内に呼び入れるものであり、程なく、内乱によって権威が失われた帝国を、内部から食い散らかす、害獣を育てたことになります。
 斯くして、司馬晋による天下統一は、束の間の天下太平であり、晋朝は、いわば自滅政策を行い、始皇帝以来の統一国家「中国」は瓦解し、以降、四世紀に亘り南北二分されたので、晋皇帝は大罪人ということになります。

*前車の轍 始皇帝の永久政権構想

 過去の歴史に学ぶとすれば、戦国諸公を滅ぼして天下統一した結果、兵力過剰に直面した秦始皇帝は、大軍を匈奴対策名目で北方に駐在させ、全国から長城や寿陵建設に農民を大量動員して、失業軍人の反乱を避けたのです。
 税収に即した緻密な動員策が必要ですが、全国地方官からの統計情報を元に、計数に強い官僚がギリギリまで民衆を絞りあげれば、中央政権を「永続」できたはずです。一方、全国から不平分子を徴用して反乱の原動力を吸い上げ、併せて事業経費を幅広く徴収して反乱の資金源を断つ戦略です。
 とは言え、後継皇帝は、そのような巨大な戦略に、全く気づかず、的外れの過酷な動員と徴税を続けたため、衆怒を買い、反乱多発の状態となったのです。

◯晋書由来

 以上、晋書の素性/対象時代を知るため、中国史を抜粋しましたが、晋書は、南方に逃避した東晋政権や後継の南朝諸国では編纂できず、北朝を滅ぼした唐朝で、太宗の重臣房玄齢の率いる錚錚たる集団によって完成したのです。

 既に、時代は、南朝を討伐して全国統一した隋が、天下太平維持に失敗したために、またもや生起した全国反乱を統一した正統たる唐の御代であり、晋書を、南北朝の乱世を生起した晋朝の不始末をうたいあげる、いわば反面教師としての正史としたため、史談とも言うべき本紀、列伝において、風評に富んだ「面白い」史書になったのです。先ほど上げた、西晋滅亡時の各王内戦は、当時の皇帝が、極めつきの暗君であったために、必然的に起こったとされています。

 但し、ここで当方が取り組んでいる「地理志」は、地理情報、統計情報を記した「志」であり、そうした演出とは関係無く、歴代政権の公文書として継承された豊富な資料を、丁寧に駆使した意義深いものです。

*「志」を欠く先行史書
 先行史書で言うと、南朝劉宋代に大成された笵曄「後漢書」は、自身の「志」を備えず、唐代に、先行していた司馬彪「続漢書」の「志」と併合されたものです。そして、三国志は、遂に「志」を持たなかったのです。
 ということで、晋書は、班固「漢書」以来久々の体裁の完成した正史となります。
 また、笵曄「後漢書」が、ほぼ笵曄単独編纂の労作であり、陳寿「三国志」も、陳寿の指導力が強く反映しているのに対して、晋書は、房玄齢以下の集団著作とされていて、厖大な数値データを参照する必要のある「志」の編纂に相応しい体制であったと思われます。もちろん、四世紀ぶりに、乱れた全国を再統一した唐王朝の国力も強く反映されています。

 つまり、晋書「地理志」は、大変信頼性の高い史料と見るものです。

                               未完

倭人伝随想 9 晋書地理志に周朝短里を探る 結論 3/9 更新

               2018/10/26  2018/12/26 修正 2020/11/08 2022/06/01 2024/02/06

*本論開始
 枕が続きましたが、題材とした資料文献の背景説明としました。
 と言うことで、晋書地理志が当記事の本題です。

▢古田武彦氏の「魏晋朝短里説」の消長
◯短里説提唱と展開
 古田武彦氏は、第一書『「邪馬台国」はなかった』で、倭人伝行程記事の郡から倭に至る里数について、詳細に考察した上で、
  これは、当時の里制を忠実に記したものである。実際の地理から、「倭人伝」の一里は一貫して75㍍程度(数値は、参照しやすく丸めた概数)の「短里」である。
 ⑵ これは、古代周朝の里制である。
 ⑶ これに対し、秦始皇帝が、天下統一にあたり、六倍、450㍍程度の「長里」に変更し漢に継承された。
 ⑷ これに対し、魏朝は全国里制を「短里」に復原し「倭人伝」に反映している
 ⑸ 「短里」は、後継した晋朝に継承されたが、晋朝南遷後東晋によって廃され、秦漢「長里」に復帰したとの趣旨で提言したものです。

 ⑴~⑸は当記事筆者による要約

◯魏晋朝里制の論証
 古田氏の論旨は、「三国志」は陳寿が統轄編纂した史書であるから、前漢に渡って、里制は統一されているべきであるとの理路により、「倭人伝」記事の小局から出発して魏晋朝全国という大局に及び、三國志全文に及ぶ実証の試みは現在も続いています。

◯魏朝里制変更の否定
 ここでは、先ほどの⑶以降の推論が成立しないことを述べるものです。

*史書に記載なし
 晋書「地理志」を根拠とすれば、魏晋朝短里の否定はむしろ自明です。晋書「地理志」は、古来の地理情報を克明に記していますが、魏晋朝において、秦漢朝と異なる里制が公布、施行されたとの記事はありません。

*里制変更の無法さ補充2022/06/01
 里制は、晋書「地理志」という公式記録/正史の根拠となるものであり、国政の根幹であると共に、各地方においても行政の根幹であり、里制を変えるという事は、国家の秩序を破壊することであるから、皇帝と言えども里制変更はできないのです。

 全国里制を、それまでの「普通里」から、「短里」に変更すると、一里三百歩の原則から、農地測量単位の「歩」(ぶ)が、それまでの、一歩六尺の関係を維持できず、一歩一尺になってしまうのです。
 言い換えると、土地台帳は、それまで、面積百歩、現代風に言えば百(平方)歩、と書いていた土地が、六倍ならぬ三十六倍の三千六百歩になるということで、全国の地籍(土地台帳)を換算して、書き替える必要がありますが、もちろん、農地の実際の面積は変わらないので、税は、同等なのですが、そのような換算計算は、読み書き計算のできない「一般人」の理解を越えているので、増税と判断されて衆怒を招きます。

 あるいは、そのような激変を避けて、尺、歩までは維持し、一里五十歩とするのでしょうか。

 通常、「歩」による農地面積管理に、「里」は関係しないのですが、ことが、県単位の世界を越えて、郡単位や全国での農地面積となると、「里」単位で計算することになり、その際、里が一/六になって、道の里「道里」が六倍の数字になるとして、それを、広域の農地面積に適用すると、「千里」四方が、三十六倍の「三万六千」里四方になってしまうので、広域方里の取扱について、明確な指示を公布する必要が生じるのです。

 「短里」制は、一片の帝詔では済まず、厖大な公文書と実務を必要とするのです。従って、そのような大量の公文書が残されていない以上、里制変更はなかったと断定できるのです。(臆測、推定ではないのにご注意下さい) 

▢結論
 そのような途轍もなく重大な制度変更が実施されていたとすれば、魏晋朝の不手際を明らかにするものとして、晋書の本紀部分に記載されるべきものであり、まして、晋書「地理志」の周以降の制度推移記録に記載されないはずがありません。

 と言うことで魏晋朝といえども、国家制度としての短里は、実施されなかった事が明らかです。実施されなかったから、記録に残らなかった」というのは、まことに、まことに明解です。
                              未完

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