倭人伝の散歩道 2017

途中経過です

2024年7月12日 (金)

倭人伝の散歩道2017 序章・三国志の由来 1/4 再掲

                             2017/06/24  補追 2024/07/12

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

◯はじめに
 本稿執筆の契機は、「中華帝国志」  中 権謀術数篇 安能努(講談社文庫)冒頭の述解である。

 「正史「三国志」自体の記述に前後の乱れや左右の齟齬が甚だしい、ということである。例えば、あの名高い「赤壁の戦い」がそうであった。」と提起して、具体的に正史本文を引用して読み解いた上で、「以上四つの記述が明らかにした「確かな史実」は 二つだけである。
 一つは、赤壁で戦いがあった。もう一つは、曹操の魏軍が敗北したということである。曹軍が戦った相手は、劉備の蜀軍だったのか、孫権の呉軍だったのか、はたまた呉蜀の連合軍だったのかすら明らかではない。いや戦場は陸上だったか、水上だったかさえ定かではないのだ。(中略)これは正史を読む者にとっては、まことに困ったことだ。三国時代の歴史ドラマでは最大の見せ場である「赤壁の戦い」の真相が、実はよく分らないでは、まったくの興醒めである」

 「四つの記述」とは、魏書武帝(曹操)紀、呉書呉主(孫権)伝、蜀書先主(劉備)伝の三者三様の記事と、呉書周瑜伝記事である。大事なことであるが、安能氏が、「三国志」参照の際、裴注部分を除き陳寿編纂部のみ論議したのは、至当である。

 安能氏の指摘は、「三国志」なる史書は、「陳寿編纂にも拘わらず、各書の記事間に食い違いがあり、史書として不正確であるというものであり、その好例として、赤壁の戦いに関する記事間の食い違いを指摘しているものである。

 ただし、安能氏は史家でないので無理もないが、「赤壁」の戦いは三国志記事であるが、三国時代でなく、後漢(以下漢)朝事件である。赤壁時点、漢は化石(レジェンド)でなく全国政権として厳然と権勢を振るっていた。「赤壁の戦い」自体、あったのかなかったのかすら不明であるから、安能氏は不満なのである。

 後日談であるが、赤壁の十二年後、建安二十五年に漢は魏に天下を譲り、曹操の後継者曹丕が皇帝となった。これに応じて、劉備は漢を再興し、孫権は呉を興して、三国鼎立した。ここから、三国時代が始まるのである。そして、曹操は、すでに没していた。

 以下手短に述べるように、
「三国志」を構成する「魏国志」、「蜀国志」、「呉国志」は、それぞれの「国志」として独立して編纂されたものであり、最終的に「三国志」とされたものの、各国志の不整合は、史書として最低限の整合しかされていない
のである。

未完

倭人伝の散歩道2017 序章・三国志の由来 2/4 再掲

                             2017/06/24  補追 2024/07/12

*加筆再掲の弁
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*建安十三年の世界
 曹操は、漢丞相であり、臣下であった。
 孫権は、中央政権の混乱時期に、江南に勢力を確立したが、形式的には漢朝臣下であった。
 劉備は、一時、漢高官となり、皇帝親族、皇叔と厚遇されたが、反曹陰謀に巻き込まれて亡命したので、重罪人であった。

 建安十三年、丞相曹操は、荊州劉表の平定行に出た。劉表は漢の牧であったが、中央の混乱に乗じて自立し、曹操への服従を拒否したので、征討が命じられたが、同年八月に卒した。
 曹操率いる官軍、曹軍は、劉表の死に動揺した荊州を難なく支配下に収め民政を安定させ、引き続き劉備の追跡・討伐に移った。
 劉備軍は、荊州が曹操の麾下に入ったために、配下将兵とともに逃亡したが、根拠地の無い流軍だったのである。この(仮称)劉軍は、兵力をとっても、孫権麾下の有力武将周瑜、魯粛、黄蓋らの部隊と比べて、弱体であった。とても、荊州軍を加えた曹軍に対向できるものでは無かった。

 と言うことで、劉軍が曹軍に抵抗したという魏書記事を信じるのは難しいかもしれない。

 孫権は、呉の支配者であり、軍は孫軍とでも言うのだろうか。
 赤壁の戦いは、一般には曹軍と孫軍の戦闘と解され、劉軍は孫軍に与力したと思われているように思う。
 現に、蜀書は劉軍の軍功を、呉書は孫軍の軍功を誇る記録をそれぞれ残し、それ自体は寛大にも温存されている

*曹軍「不利」
 魏書を見る限り、曹軍は、劉備をつかまえ損ねた上に自軍に疫病が蔓延したので追悼を断念し、荊州制覇を嘉としてて、軍を帰したとしている。

 筑摩書房「正史三国志」の「敗れた」は軽率な誤訳である。原文は「不利」と書いていて、これは「刀剣が切れない」という意味であり、せいぜい、孫権征伐の不首尾を言うだけで、負けたとは書いていない。

 つまり、魏書では、赤壁の敗戦など無かったのである。甚だしい敗戦の時に避けられない有力武将の多数の戦死者は出ていないのを見ても、大敗はしていないらしい。

 未完

倭人伝の散歩道2017 序章・三国志の由来 3/4 再掲

                             2017/06/24  補追 2024/07/12

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*勅命と違勅
 曹操は、皇帝でなく丞相であるから、軍事行動に勅命が必要だった。つまり、荊州遠征と大罪人劉備の征討までは勅命であるが、孫権征討の勅命は受けてないから、戦えば違勅であるというものの、曹軍から孫権攻撃の勅命を仰いだ記録はないようである。

 比較すると、司馬懿が太和二年、有力武将である孟達を、蜀への内通により討伐したときは、駐屯地から急行討伐し、その後弾劾奏上する非常手段を執っているが、この独断専行は、軍令違反であり、よほどの確信がなければできない。
 と言うことで、曹操は司馬懿と異なり謹直である。

*大敗の罪
 ついでながら、官軍が大敗を喫すると、指揮官の罪は、最悪、大逆罪に等しい大罪となり、本人の死罪だけでなく、妻子、両親、兄弟姉妹に始まる三親等以内の親族全員が連座して死罪となるから、重大な戦闘には、先立って、皇帝の勅令を仰ぎ、敗戦の責任が自分だけに降りかからないように、慎重に保身するのである。

 諸般の事情から、魏書に孫権との戦闘記録は残せなかったのであろう。

*呉書記事
 呉書には、孫権の談話とは言え、「老賊」の表現があり、これは曹操の蔑称である。
 孫権は、曹丞相を「老賊」と呼んでいたのである。呉書では「曹公」とされているが、ここには孫権の肉声が収録され、温存されている。

*国志鼎立
 三国志の各国志は、それぞれの方針で編纂されていて、三国志全巻を一貫した方針で編纂したとは限らない。しかし、それは、編纂方針の不用意な乱れでなく、確たる編纂方針である。

 参考までに手早く確認すると、三国志全体を一史書と判断した例が大半だが、舊唐書経籍志と新唐書芸文志では、「魏国志」三十巻は「正史」であるが、「蜀国志」と「呉国志」は、その他史書(偽史類)とされていたと言うことであるから、少なくとも、唐時代には、三国志全体が正史として取り扱われていたとは限らないようである。

未完

倭人伝の散歩道2017 序章・三国志の由来 4/4 再掲

                             2017/06/24  補追 2024/07/12
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◯まとめ
 以上の考察は、素人考えそのものであり、文献史学や書誌学の権威からすると、素人の勝手な憶測に過ぎないと言われそうだが、素人も素人なりに調べて、懸命に考えているのである。(別に命がけではないが)
 陳寿が、三国志全体の序文などを残していないから、そのような仮説も成立すると思うのである。
 以上は、安能氏の指摘に触発されたものであるが、原史料に戻って調査確認した上の意見であるので、当方の独自の意見とみているである。
 もちろん、全論者の全論説を全て確認したわけではないので、「知る限り」の新説と言うことにしておいていただきたい。

□余談少々
*誰が負けたのか

 愚見を付け足すと、曹軍は江水(長江、揚子江)で戦える水軍を持たないので、孫水軍と対峙したのは、荊水軍の艦と兵である
 ハリウッド映画などでは、浮かぶ要塞のような巨艦が登場するが、劉表時代には、荊水軍に下流を侵略する意図はなかったようだから、そのような巨艦を造船はしていなかったと思われる。華麗なイリュージョンである。

 それにしても、もし、赤壁で水戦があったとしたら、それは、孫水軍と荊水軍の衝突である。その水戦で、荊水軍は大敗して、艦と兵の多くを失ったかも知れないが、曹軍自体は、大した損害を受けなかったのだろう。

 もし、赤壁で曹軍本体が大被害を受けたとしたら、下流の必争地である合肥の戦いで、孫軍は、大勝を博したはずであるが、実際は、あっさり押し戻されたのである。
 周知の通り、江水下流域での魏と呉の対陣で、呉の度重なる北進攻勢が阻止され続けたのは、合肥が、頑として魏の最前線を護り続けたからである。この時、合肥が陥落していれば、魏の国勢は、大きくそがれていたはずである。

いや、これは、かなりマニアックな上に、「倭人伝」論に関係のない、余談であった。

*鼎立を超えて
 当方としては、そこにくわえて、旧遼東郡管轄地域の記事も、あえて、「魏書視点」で書き直されていないことに気づいて欲しいのである。
 何しろ、「東夷伝」は、各国志に欠けている序文を持ち、一書としての構えを備えていのである。

                                      以上

2024年5月 1日 (水)

倭人伝の散歩道 2017 東夷伝 評の読み方 三掲

               2017/09/20 補正2020/12/20 2023/01/15 2024/05/01,05/03
*加筆再掲の弁
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◯はじめに
 「評」は、東夷伝「倭人伝」末尾に書かれていて、本来、東夷伝の一部と解すべきなのですが、大抵の「倭人伝」論では、忘却されています。

*評釈
 当方は、四十一字の字数に惑わされず、「評」として書かれた(重たい)意義を伝えたいのです。
 まことに、つたない解釈ですが、以下に私訳/試訳と所感を述べます。

*原文 (句読点等は、中国哲学書電子化計劃による)
 評曰:史、漢著朝鮮、兩越,東京撰錄西羗。魏世匈奴遂衰,更有烏丸、鮮卑,爰及東夷,使譯時通,記述隨事,豈常也哉!

私訳:
 評して言う。司馬遷「史記」と班固「漢書」は、朝鮮と両越を著し、東京(東漢/魏の洛陽)は西羌を撰錄した。魏の世に匈奴は遂に衰え、更わって烏丸、鮮卑があり、加えて東夷が使訳し時に通じたので事に随い変化を記述した。

*所感
 ここに書かれているのは、魏による司馬懿の公孫氏討伐、遼東平定によって拓かれた東夷新知識を記録した「倭人伝」が、中華文明史上に燦然と輝く史書であるとの自信/自負です。「魏志」掉尾の東夷伝は、画期的に意義深いので、冒頭に序文が書かれ、末尾に東夷伝に付された「評」が書かれたと見るべきです。

 念のため言うと、陳寿の時代、范曄「後漢書」は百五十年先ですから、影も形もないので、評価しようがないのですが、「東京撰録西羌」と言及しているということは、公式史書に近い存在として、史記「大宛伝」、漢書「西域伝」、そして、荀悦「漢紀」の西域記事に続く、後漢「西羌伝」が、鴻臚の文書記録から、「撰録」が編纂され、非公式に関係者に回付されていたということです。想うに、限られた分量とは言え、「蔡侯紙」(記録用紙)に恐らく、早書きの略字体で墨書した(簡牘巻物に比べて、圧倒的に細身で軽量の)読み物が存在したと思われます。
 魏の世に匈奴が衰え、代わって烏丸、鮮卑が書かれ、東夷から使者が来ましたが、四夷は早足で推移するから、都度書き留めねばならない、との慨嘆と思えます。

 陳寿の理解では、後漢代、特に、末期には、「東夷交流にさしたる事績の記録はなかった」ということです。(後漢献帝建安年間は、曹操の治世下にあったので、「魏志」の範囲と見なされているのです)また、暗黙の意見として、後漢末期から魏代にかけて、「西域交流にさしたる事績の記録はなかった」と言う事でもあります。

 後漢・魏・西晋の三世紀近い期間の洛陽三代(CE 25-316)を通じて、四夷来貢の度に鴻廬が歓待し礼物を渡し印綬を施した事例は、容易に書き尽くせないほど多かったはずですが、蛮夷応対の実務を担当した鴻臚の文書に、全て記録されていたのですが、史官が「本紀」に加えて、「夷蕃列伝」を著するのは、帝詔公布、使節往来など大事件があったときなのです。このように、陳寿は、慎重に言葉を選んで、寸鉄言としています。

*「三国志」の行程~考察追記 2024/05/04
 荀悦「漢紀」30巻は、後漢献帝(在位 CE 189-220)の諮問による正史に準じる官撰史書であるから、禅譲によって皇帝書庫を継承した魏朝に継承されていたはずであり、これに続く史書として、袁宏「後漢紀」30巻が編纂されたものと見えます。つまり、漢代四百年の「両漢紀」(全60巻)を残したものであり、言わば、漢朝最後の皇帝が、漢朝自叙伝として企劃し後に完成されたものとすれば、同代史の様式が示されているものと見えます。

 班固「漢書」は、高祖劉邦が天子となって以降二百年に及ぶ「歴史」の記録であり、歴代皇帝の伝記である「本紀」12巻に、高官有司の「列伝」70巻を加え、更に、資料集である「表」8巻・「志」10巻を追加して、「歴史記録」100巻の偉業を整えましたが、後漢献帝にして見ると、漢書を意のままに閲覧できるというものの、全巻(大量100巻の巻物)を身辺に置いて随時紐解くことなどできなかったので、座右の書を求めたものと見えるのです。

 陳寿が「三国志」の全容を構想した際に、言わば、漢朝創業者である高祖劉邦が最初に全天下を制覇し、代々伝統した、つまり、子々孫々に継承させた偉業を、最後の献帝劉協が、前後各30巻として構想したのを一つの規範としたと見えるのです。
 して見ると、陳寿は、漢書に続く史書としては、「魏書」30巻(最終的に、「本紀」4巻、「列伝」26巻)が構想の原点であったと見えるのです。以後、「列伝」に蛮夷伝をどれ程書き加えるかと模索した結果、「魏書」「西夷伝」は割愛し、「東夷伝」は、魏書の担当すべき、後漢献帝期以降、曹魏終焉に至る期間に、「評」が示唆しているように、画期的な事象が、雒陽に収蔵された公文書に記録されているので、これを、魏書巻末に「烏丸東夷伝」を設け、就中、魏朝が、東夷の極限の「倭人」を「親魏倭王」として中国の周縁に属させたという功績を明記したと見えるのです。
 ただし、魏朝「曹魏」は、遂に、天下を全て服させることができなかったことから、晋朝(西晋)に降服した東呉が公式史書として献上した韋昭「呉書」を、天子の承認を得た公文書として扱うことにより、蜀漢公式史書「蜀書」を受忍する先例を設け、最終的に、「魏志(魏書)」30巻、「蜀志(蜀書)」15巻、「呉志(呉書)」20巻の計65巻から成る「三国志」の体裁を整えたものと見えます。

 以上、あくまで、一介の素人の個人的な意見にすぎませんが、当人としては、陳寿の推敲の曲折を辿ったものと感じています。

*追記
 因みに、世の中には、この「評」が、「倭人伝」の不出来さを自認している』と解し、是を根拠として、『「魏志倭人伝」が、史書として拙劣である』と論じ立てている人がいるようですが、それは物知らずの勝手読みです。早々に、退場頂きたいものです。
 陳寿は、太古以来の史官の系譜を嗣いで「魏志」を書いた「自負心」/「使命感」を持ち、つまらない「評」を載せるはずがないのです。当世良く見られる個人的「レポート」の締めではないのです。

 史料は、先ずは、史料自身の文脈で読むべきです。二千年後生の無教養な東夷が、溢れるばかりの「無知、無教養」から廉恥心に欠ける視点で解釈するのは、論外です。

 因みに、当記事は、神の目で見て「評」が適切な評価であると言うのではありません。陳寿が、どういう趣旨で、何を書いたかと言っているのです。
 もちろん、個人の意見は、当人に固有なので、以上の趣旨に同意できないとして、それは当人の勝手です。

 時には、自明のことを明言したいのです。

                               以上

*再追記 2024/05/02
 恐らく、読者諸兄姉は了解されていると思うのですが、上記「追記」の動機は、『この「評」が、倭人伝の不出来さを自認していると解する人』と限定しているように、「何が何でも陳寿が大変不出来な文筆家だったと言い立てる」「野次馬」の「売り言葉」に対する「買い言葉」であり、当ブログ筆者が、ついつい、尊大な「陳寿像」を立ててしまったことは、コメント子の苦言を待つまでもなく、言いすぎであることは承知しています。ただし、陳寿は、当然、三国志の編纂という大事業について、「自信」というか「自負心」を抱いていたのであり、この点は、私見とは言え、別に誇張では無いと思います。
 また、コメント子が「自画自賛」の本来の意義を介しておられるかどうか不明なので、くどくど弁明すると、当ブログは「古代史」語法に還っているので、念のため説明する異にします。
 つまり、古来、「画工」は一種の職人であり、「文化」の下位に属するものなので、「画工」が、現代の観点で絶世の芸術家であっても、「画」は、経書でも、漢詩でもなければ、詩経でもなく、「文」として認められるためには、「讃」が伴わなければ、と言うか、「讃」を主役として、一歩引かなければ、世評を得られなかったという事態を、「自画自賛」に擬(なぞらえ)たものなのです。
 つまり、史書は、あくまで、記録文書の集約であり、史官は、文筆家としてでなく、文書職人としてしか評価されないので、「評」の形式で、感慨を述べたと見るのです。
 コメント子が、小文の文脈展開を軽視して、文章断片をかじりとって批評する「読みかじり」の風潮に染まっていなければ、さいわいです。

 

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