倭人伝の散歩道 2017 東夷伝 評の読み方 再掲
2017/09/20 補正2020/12/20 2023/01/15
◯はじめに
「評」は、倭人伝末尾に書かれていて、本来、東夷伝の一部と解すべきなのですが、大抵の倭人伝論で忘却されています。
*評釈
当方は、四十一字の字数に惑わされず、「評」として書かれた(重い)意義を伝えたいのです。
まことに、つたない解釈ですが、以下に私訳と所感を述べます。
*原文 (句読点等は、中国哲学書電子化計劃による)
評曰:史、漢著朝鮮、兩越,東京撰錄西羗。魏世匈奴遂衰,更有烏丸、鮮卑,爰及東夷,使譯時通,記述隨事,豈常也哉!
私訳:
評して言う。司馬遷「史記」と班固「漢書」は、朝鮮と両越を著し、東京(東漢 洛陽)は、西羌を撰錄した。魏の世に匈奴は遂に衰え、更わって烏丸、鮮卑があり、加えて東夷が使訳し時に通じたので事に随い変化を記述した。
*所感
ここに書かれているのは、魏による司馬懿の公孫氏討伐、遼東平定によって拓かれた東夷新知識を記録した倭人伝が、中華文明史上に燦然と輝く史書であるとの自負です。魏志掉尾の東夷伝は、画期的に意義深いので、冒頭に序文が書かれ、末尾に東夷伝に付された「評」が書かれたと見るべきです。
念のため言うと、陳寿の時代、范曄「後漢書」は百五十年先で影も形もないのですが、「東京撰録西羌」は、史記「大宛伝」、漢書「西域伝」、荀悦「漢紀」西域記事に続いて、後漢書「西羌伝」が編纂されていたということです。
魏の世に匈奴が衰え、代わって烏丸、鮮卑が書かれ、東夷から使者が来ましたが、四夷は、早足で推移するから書き留めねばならない、との慨嘆と思えます。(荀悦「漢紀」は、後漢献帝の諮問による著作ですから魏朝に継承されていたはずです)
これは、陳寿の理解では、後漢代、特に、末期には、東夷交流にさしたる事績の記録は無かったということです。また、暗黙の意見として、後漢末期から魏代にかけて、西域交流にさしたる事績の記録はなかったと言う事でもあります。
四夷来貢の度に鴻廬が歓待し礼物を渡し、印綬を施した事例は、容易に書き尽くせないほど多かったのですが、史官が「夷蕃列伝」を著するのは、帝詔公布、使節往来など大事件があったときなのです。このように、陳寿は、慎重に言葉を選んで、寸鉄言としています。
*追記
因みに、世の中には、この「評」が、倭人伝の不出来さを自認していると解する人がいるようですが、それは物知らずの勝手読みです。早々に、退場頂きたいものです。
陳寿は、史官の系譜を嗣いで「魏志」を書いた自負心を持ち、つまらない「評」を載せるはずがないのです。個人的「レポート」の締めではないのです。
史料は、先ずは、史料自身の文脈で読むべきです。後世東夷の無知、無教養で、廉恥心に欠ける視点で解釈するのは、論外です。
因みに、当記事は、神の目で見て「評」が適切な自己評価と言うのではありません。陳寿が、どういう趣旨で、何を書いたかと言っているのです。個人の意見は、当人に固有なので、以上の趣旨に同意できないとして、それは当人の勝手です。
時には、自明のことを明言したいのです。
以上