隋書俀国伝談義

隋代の遣使記事について考察します

2022年5月11日 (水)

新・私の本棚 毎日新聞「わが町にも歴史あり・知られざる大阪」 571 謝罪と訂正

 東高野街道/62 柏原市 竜田道は「国道1号」 2022/03/12 記 2022/03/27 再掲 2022/05/11

▢謝罪と訂正
 当記事は、毎日新聞の連載記事の批判であるが、後続の連載回を含めた一連の記事について、「柏原市歴史資料館安村俊史館長の説明が不出来であったために記者が誤解した」との印象になってしまって、関係者に、ご不快の念を与えたかと思うが、今般、柏原市立歴史資料館のサイトに、「館長の連載コラム」と題された一角があり、そこに2015年 「亀の瀬 こぼればなし」 (全10回・2~5月連載)として、詳しい解説が公開されていることに気づいたものである。
 同連載コラムは、読んで頂ければわかるように、専門家である「柏原市立歴史資料館の安村俊史館長」が、大変な時間をかけて、一般の読者に理解しやすく書きためたものであり、不勉強な記者は、取材を焦る余り、手ぶら、「予習復習」抜きで、勝手な記事を書いたようにみえる。報道のプロとして、もっての外の怠慢と思われる。
 いや、気づいてみれば、当然である。世間の研究者は、真面目に研究成果を還元しているのである。纏向関係者の粗雑なメディア対応は、あくまで、例外の極みなのである。
 と言うことで、以下、細かく訂正していない当記事に、安村館長に対する非難の響きが残っているとしたら、それは、見当違いであるので、深くお詫びする次第である。

 以下、当初記事に戻る。

〇始めに~記事批判の弁
 当連載は、毎日新聞大阪版の連載記事であり、概して当ブログの時代圏外を現地紀行を通じて紹介しているが、話題が古代に及んだのを機に口を挟んだ。当記事は、相談相手一辺倒でなく異論紹介が必須と見たのである。
 当記事には、担当記者 松井宏員氏の署名入りである。

◯記事引用批判
 柏原から大和川沿いに奈良県三郷町に抜け、斑鳩へと通じる竜田道が近年、見直されている。一昨年には日本遺産に認定された。なにせ、古代から奈良と大阪を結ぶルートだったのだから。そして、日本で最初の官道、今でいえば国道だったと考えられているのだ。

 コメント:
 七世紀、さらには、それ以前、「日本」「奈良」「大阪」は存在しなかったから、真面目な論議に合わない。こどもたちが、間違った言い回しを真似しないよう、正しい言葉遣いに改める必要がある。河内の古代史を語る上で、大事な「基礎」と思うものである。

 推古天皇の時代の613年、難波から京までの間に大道をもうけた、と日本書紀にある。この京は飛鳥のことだ。従来、この大道は松原、羽曳野、太子町から奈良県葛城市へ、二上山の南の竹内峠を越える竹内(たけのうち)街道だと考えられていた。

 コメント:
 交易荷物の既設経路を官道整備したと見える。「竹内街道」が「難波」から「松原、羽曳野」を通ったとは初耳で、正しくは、堺港から富田林、太子町を経て竹内峠越えの東西道と見える。
 全ての荷が、難波から飛鳥に向けて送りつけられたと決め込んでいるようだが、当時、そのような遠距離輸送が成立していた証拠はあるのだろうか。確かに、柏原に荷さばき場があって、河内湾からここまでに船で遡行した上で、一旦荷下ろししたと見えるが、それは、随分後世のことのように見えるのである。
 ここから、山向こうの飛鳥に行くのに、石川筋を遡って太子町から竹内街道を行くというのは、素人目に分の悪い経路であるが、それは、時代相応の堅実な見方ではないように見える。
 仮に藤井寺、富田林あたりに、大口の買い手、古代豪族がいれば、海港からそこまで荷が届くのであり、その買い手が、山向こうの飛鳥に荷を売りつければ、経路は竹内峠越えである。まさか、柏原まで下りて「竜田道」を行くはずはないのである。

 河内平野が、大和川と石川の合流した暴れ川の扇状地で、荷船の往来などできなかった時代が、先だって、随分長く続いたはずである。その時代は、堺に入港して、羽曳が丘の丘陵地帯に荷送りしていた時代があったのではないか。素人考えで申し訳ないが、地形図を眺めていると、東西に通じる、手短で、さほどの難路でない経路があったのではないかと見えるのである。
 事ほどさように、河路の比較対照は、時代背景を見極める必要があるのではないか。
 ついでに言うと、柏原市立歴史資料館の展示資料として、美麗な地図が引用されているが、だれが推古代の地形を正確に再現したのだろうか。素人目には、奈良盆地にも、河内平野にも、多数の「ため池」が存在しているように見えるが、それぞれの「ため池」の造営年代が、推古代以前とする証拠はあるのだろうか。

 安村さんは約10年前から「竜田道」説を唱えている。その最大の理由は高低差だ。「竜田道は高い所で標高78メートル。それに対して竹内峠は約290メートルもあります。」

 コメント:
 険しい上りの直登は、「禽鹿径」(けもの路)であり、荷道は、つづら折れが常識である。
 先読みした次回記事で道幅狭隘「隘路」とされた「竜田道」界隈は、世評によると、地盤不安定で崖崩れの不安があり、街道の通行安全が保証できないと見える。学問上の「説」をぶち上げるからには、そうした否定的な要素も考慮し、克服した上で持ち出すものではないのだろうか。
 千五百年前の交通事情考証だから、本来、先人達が諸論を出し尽くしているはずであり、古代史学界は、今さらの「新説」と独り合点してがむしゃらに言い立てて、反論無しに時間が経てば、立場が強くなる、「言ったもん勝ち」と言うことであれば、ここに示された安村氏見解の評価には、大いに疑問が投げかけられる。
 それにしても、次回記事の裴世清の使節一行百人(と推定される)は、未整備「竜田道」を、どのようにして越えたのだろうか。このあたりのダメ出しを経ていないというのは、心細いものがある。毎日新聞社は、提案者の言いなりに記事を書き出すしかしないのだろうか。
 もちろん、ここまで、どんな手段で移動したのかというのも、大変な課題である。何しろ、太古以来、九州北部から河内まで大変な難所続きで、とても、隋船は、通行できなかったと、確信されるのであるが、当記事の枠外なので、記者の回答は期待しない。

*竹内峠の評価
 竹内峠を越えたことがある。明治時代にだいぶ削って通りやすくしたが、それでもかなりの急坂だった。

 コメント:
 一方的な當麻側体験談だが、地域住民は誰でも知っていることで、近年まで、つづら折れの旧道が通じていたのを、伏せているのは、なぜだろうか。
 また、全国紙紙面で堂々と「越えた」と言うからには、当人は峠の西側まで進んで、以下、楽々下山したはずなのだが、その辺りについては、何のご意見も見せていない。太子町の側は、高低差が少ないだらだら坂で、論証の邪魔になるから、隠したのだろうか。
 この辺り、別に、荒海や瀬戸を漕ぎ渡る話ではないので、一度歩けば、誰にでもわかることであり、隠し立てしても仕方ないと思うのである。困ったものである。

 コメント:
 峠道の難関の評価指標は、登り口と頂上の「高低差」と経路の傾斜であり、氏が最初に述べたように、取り付きからの高低差が大事で、標高(海抜)差に、大した意味は無い。急坂であっても、つづら折れを繰りして、緩傾斜の長丁場にしてしまえば、「貴人が輿から転げ落ちる」など、全く問題外とわかるのである。
 このように、坂道の評価は、高低差すら大問題ではなく、つづら折りまで含めた経路傾斜が、ほぼ全てであり、「難しい」と人手と時間の泣き言は「貴人」厳命に背く理由にならない。要するに、「街道」なら、必要な通行の便が整っていたのである。

 現実の竹内街道も、河内の太子町側はダラ下がりで、上り下りに問題はないと見える。良くある「片峠」であるが、記者は河内側に足を踏み入れずに駄弁を弄したと見える。いや、この部分は、主として安村氏の発言の引用なので、記者の書き方を真に受けると、安村氏の不明によるものかとも思われるのである。
 
 コメント:
 ついでに言うと、太古以来、洋の東西を問わず、誰でも、荷を背負って峠に登り、そこで、山向こうの相手と背負い荷を交換して下山すれば「交易」できるのであり、半日ほどで往き来できれば、別に難所でもないのである。言うまでもないが、そのような往き来は、毎日のことでないので、近隣の健脚が交替で取り組んでも良いのである。

*何でも「太子」頼み
 さらに安村さんは「官道として整備したのは、聖徳太子で間違いないでしょう」と言い切る。「なぜなら、このころ太子は斑鳩宮(奈良県斑鳩町)にいて、四天王寺などと行き来してます」。斑鳩宮は竜田道沿いにあり、竜田道から北西に延びる渋川道(渋河道)が造営中の四天王寺まで通じており、その途中には先に見た渋川廃寺や、船橋遺跡(柏原市~藤井寺市)から見付かった船橋廃寺など、いくつもの寺がある。仏教に深く帰依していた聖徳太子が関わったのでは、というのだ。

 コメント:
 取り敢えずは、別の目的で往き来する二つの経路があって時代が違ったのではないか。他に、北の方に「暗峠」の難関を越える経路が利用されていたと思うのである。さらに、北に行くと、なら山越えの「木津道」が常用されていたと見えるのである。それぞれ、太古に始まり、後世まで重用されていたはずである。
 いや、別に『「竜田道」がなかった』と言っているものではない。時代相応の世界観を大事にして欲しいと言うだけである。

 いや、さすがの聖徳太子も、「廃寺」を造営するはずは無いと思うのだが、引用外となっているので、記者の錯誤となるが、まことに、その辺り無頓着である。
 それにしても、「聖徳太子」は、これほど多数の仏寺造営を指示したことになっているのだが、どうやって、必要な知識を得たのだろうか。そして、どこから資金を得たのだろうか。当然、斑鳩を離れて、現場に住み込んで逐一指示しないと、仏寺造営の新技術、大事業などできないはずなのだが、どこでそのような知識を得たのだろうか。大変な才人と見える。と言うような問いかけは、素人には、当然の疑問ではないか。
 先立つ時代、物部氏は河内にあって、外来技術をものしていたようだが、史書によれば、排仏論者であったので、仏寺の造営などしなかったはずである。このあたりの事情には、通じていないので、憶測ばかりであるが、もう少し、初学者向けに説明して欲しいものである。
 それにしても、国家として、仏教の全国布教を通じて、隋唐に迫る法治国家を形成するという豊富だったはずなのだが、これらいくつもの「廃寺」が骸を曝したのはどうしてだろう。国家が、自領を与えなかったのだろうか。あるいは、豪族が帰依せず、経済封鎖したのだろうか。もっとも、これは、当記事の枠外なので、記者の回答は期待しない。

◯結論
 以上の問いかけなしの一方的、安直な割り切りは、いかにも勿体ないのではないか。

                                以上

2022年4月20日 (水)

新・私の本棚 古田史学論集 25 谷本茂 「鴻廬寺掌客・裴世清=隋煬帝の遣使」説の妥当性について

 古代に真実を求めて 古代史の争点 明石書店 2022/3/31 
 私の見立て ★★★☆☆ 無用の深入りの感         2022/04/18 

○はじめに~伸びた鎖の危殆
 当論は、丁寧であるが、核心を離れ不確かな末節に囚われた感が勿体ない。
 古田武彦氏は、好著「古代は輝いていた3」で、隋書「俀国伝」/書紀「推古紀」の不整合論について、隋書原点への回帰を宣言したが、それ以降、依然として、「推古紀」の「妥当性」検証に陥っていると見える。当方は、一介の素人であるが、古田氏の趣旨に沿って、明解な判断を示そうとした。
 以下は、当ブログ過去記事に、(当然)重複するが、「俀国伝」起点の書紀「推古紀」評価により、「推古紀」の不備を露呈して、端から門前払いしてみせようというのである。

*本体部分~「推古紀」の重大な誤記と捏造
 ⑴ 「推古紀」は、「隋」を「唐」と誤記している。
 ⑵ 「俀国伝」は、隋使「文林郎」と明記し、「推古紀」は誤記している。
 ⑶ 「俀国伝」は、隋使・遣隋使非同行とし、「推古紀」は誤記している。
 ⑷ 「俀国伝」は、隋使は隋国書不持参とし、「推古紀」は誤記している。
 ⑸ 「推古紀」は、遣隋使が訪百済時に隋国書を略取されたと捏造している。
 「推古紀」記事を不当とする理由を五点に絞ったのは、諸兄姉の諾否を容易にするためである。異論があれば、以上項目に反論していただきたい。

*補足説明~「推古紀」の捏造・改竄疑惑
 説明不足とのご意見が懸念され、補足した。論証厳密でないかも知れないが、根拠ではないので、末節の揚げ足取りはご容赦いただきたい。
 隋使来訪時の公文書記録は、存在しなかったと思われる。推古天皇の使節派遣時に、唐は存在せず「隋」と記録する。また、隋使裴世清は「文林郎」と偽りなく名乗るしかない。これらの事項に、誤記、誤解はあり得ない。
 先に述べたように、「日本書紀」編纂時、「推古紀」(編者)は、公文書捏造・改竄の重罪を犯しているが、勅命に従い、文書を「復原」したので、免罪となったと思われる。
 中国史官は、「述べて作らず」を遵守するから、この際には、「推古代公記録は存在せず」と明記した筈だが、書紀編者は中国史官でなく、創作の「不可能使命」に応じたと見える。ただし、手ぶらで創作できないから、典籍、例えば、四書五経、史記、漢書、春秋を引用したものの、肝心の隋書は入手できなかったと見える。先に挙げた事実関係の不具合が是正されていないという事は、「推古紀」は、「俀国伝」を参照せずに創作したと見る。
 以上は、強固な物証でないが、強固な「状況証拠」で克服困難と見たものである。「俀国伝」入手時、「書紀」公開後で訂正不可能だったと見られる。
 従って、隋使関連記事は、専ら「俀国伝」に依拠すべきである。

*古田氏の悔恨
 古田武彦氏は、自認したように、史書「書紀」の面目回復を図り、かえって揚げ足取りの餌食となって、本来明解な論議が混濁したのである。
 かたや、「推古紀」支持者は、『奈良盆地発の倭国東アジア「外交」』なる古代浪漫を高々と謳歌して「推古紀」を金科玉条としている。本来「古代に真実を求める」「俀国伝」考察は、これを後押ししているのである。
 隋書「俀国伝」優先の古田氏提言は、一見、原史料尊重の古田氏信条に反すると見えるが、実は、あらゆる古代史史料は、中国史書基準で史料批判した上で、採否を決するべきである、と言う史学大原則に沿うものと思われる。

 以上は、諸兄姉に「安易」な議論と見えても、本来、真理は、核心に於いて明解、安易である。

 史学素人の素人考えで、そう思うのである。
                               以上

2021年12月22日 (水)

私の意見 日本書紀推古紀 大唐使節来訪記事 問題と解答の試み     改 1/6

 隋書俀国伝考察付き               2020/02/28 補充再公開 2020/06/30 2021/02/09, 12/22

■おことわり
 中国古代で「漢」は中原王朝の一般的呼び方で、高祖劉邦の創業した「漢」だけを言うのではありません。ということで、以下、便宜上、隋、唐、いずれについても漢使等と称します。連動して、遣隋使、遣唐使は、遣漢使と均しています。ここだけの話です。

*暫しの饒舌
 しばしば誤解されますが、古代には、夷蕃との「国際」関係は存在せず、「漢蕃関係」しか存在しなかったのです。是非是非ご留意ください。言うならば、漢にしてみると「蕃人」の取扱であり、「鴻廬」なる主要官庁の任務の一つは、蛮人をうまくあしらって、辺境に侵入しないように、適度のアメをしゃぶらせ手、大人しくさせることにあったのです。

 それにしても、「国際」とか「外交」とか、古代史談義に現代語を無造作に適用する時代錯誤が、多くの人の正史理解を妨げているのは、まことに残念です。但し、「外交」は、夷人の国、「外国」との「交渉」を意図しているのであれば、古代にもある程度通じるものです。

 もちろん、漢と対等の国は、高祖劉邦親征の官軍と交戦して勢威で圧倒し、有意な状態で講和条約を締結した「匈奴」が唯一の例外で、匈奴は、「敵国」、対等の交渉相手と尊称されたものの、他の蛮夷は、虫けらに等しい蛮族扱いだったのです。
 鴻廬も、「匈奴」は、漢人を幕僚に入れていたので、「客」扱いしなければならなかったのです。

*敵手の座
 つまり、匈奴には教養のある漢人が仕官していて、堂々と文書交信、契約締結が可能だったのです。まさしく、盤の両側に座って、力と技を競い合う「敵手」だったのです。

 ただし、そのような蕃人扱いは民族差別と直接関係していないのです。漢人の信奉する信条に帰依し、先哲の古典書を真に読解したものが、華夏文明に属するのであり、それに属しない、つまり、そのような教養に欠けるものは、言うならば、「法と秩序」を知らないのであり、「盟約」を結べず、結んでも、代替わりなどで霧消し、無効になるので、それ故に人間扱いしないという事だけです。いわば、一神教教徒が、異教徒を心から信じないのと同様です。

 素朴に言えば、文字を解し、言葉を話し、書経を諳んじることが、蕃人扱いを脱するための要件なのです。

〇初めに
 本稿は、日本書紀推古紀の漢使記事の幾つかの難点への解を求めたものです。いわば、高度な史料批判(テキストクリティーク)を進めたものです。ただし、直接、隋書と突き合わせて記事のアラ探しをするのではなく、極力、当時の視点、常識に基づく、ものの理屈を貫く所存です。
(隋書視点の解釈は、別義です)

 なお、日本書紀推古紀(条)の漢使来訪挿話の編/著者を「挿話筆者」と呼ぶことにしました。

〇その壹 滞在中日程の怪
 そもそも、この「漢使」(大唐使)記事の時間経過が不審です。
 漢使は、推古天皇十六年(608年)四月に筑紫に到着後、六月に難波客館に入ったとされています。ほぼ二ヵ月の期間で長距離移動は大変快速ですが、少し考えればわかるように、不審なのです。
 推古紀の設定では、漢使一行は、帰国の遣漢使を引き連れて、あるいは、主客転倒で、帰国の遣漢使が漢使を引き連れて、筑紫に着いているので、俀国側は、それこそ「寝耳に水」の「サプライズ」で、腰を抜かさんばかりだったでしょう。漢使は、大振りの帆船に、百人規模の武装集団ですから、侵略者でないことを確認するまでは、それこそ、天下の一大事と軍関係者に触れ回ったことでしょう。遣漢使が下船して、身分と使命を告げて、何とか沈静化したことでしょうが、「サプライズ」で冷水を浴びせられた面々は、穏やかではなかったでしょう。

 そのようにして予告(前触れ)なしに押しかけてきた「賓客」が、案内なしに移動したはずがないのです。当然、受付の者が漢使の到着を報告し、王の指示を仰ぎます。当時は、九州筑紫と奈良盆地を結ぶ街道も航路も未整備なので、急使を飛ばしたとしても、ひいき目に見て、往復で二ヵ月所要と見ると、四月到着の報告への折り返し指示が届くのは六月です。それを受けて、漢使がすぐ発進しても、難波到着は八月以降と思われます。長距離を、一応半分この理屈であり、総行程二ヵ月で到着できるとは、到底思えないのです。いや、実際に移動したという記録(evidence)があれば、書けば良いのに、なぜ、大事な行程記録を飛ばしたのか不審なのです。

*漢使移動日程の怪
 記録を見ると、筑紫到着から客館の間は二ヵ月、六十日で、三度の移動は各二十日となります。
 但し、貴人の客は、身軽で旅慣れた文書使の快速移動と同じ速度では、移動できません。文書使は、代え馬や人員交代で強行できても、漢使は、各地で饗応を受けながら、ゆったり移動するしかないのです。どの程度ゆっくりなのかは、ここでは書きませんが、とにかく、ゆっくりするしかないのです。二倍、三倍かかっても、特に不審はないはずです。むしろ、各地で饗応したとの記録があれば、そのまま書けば良いのです。

 両地点間の道程を、現代単位五百㌔㍍(公里)に丸め、二十日間で踏破とすると、一日二十五公里移動が必要です。街道完備の中原で、所定の移動速度は、一日二十公里(普通里で五十里程度)程度とされているようなので、未開地に、漢使を饗応するのに相応しい街道、宿駅はあったのやらなかったのやら、つまり、途中の宿があったのやらなかったのやら、そのような未整備の旅程を、中原の整備された街道の行程を上回る移動速度を達成するのは、大変困難、つまり、不可能と思われます。して見ると、当記事は、史実でなく創作と見ざるを得ないのです。

 いや、既に東西を結ぶ街道が確立できていたなら、標準日程が確立されていたはずであり、妥当な日程が書けたはずなのですが、無理な強行日程を書かざるを得なかったのは、何か、下敷きにした史料がそうなっていたので、このような無理な日程を書かざるを得なかったのでしょう。
 後は、原史料からの創作の見極めとなります。

*日程創作の検討
 諸般の事情を考慮し、当時として実現できそうな漢使移動日程を推定すると、難波到着は、入国以来六ヵ月経た十月、帰途の筑紫発は、当然、年越しとなりそうです。このあたりは、八世紀初頭の挿話筆者の苦心の作でしょう。

 現代感覚で言うと、無理のないように資料の日程を修正すれば良いと思いがちですが、書紀記事に見られるように、当時の日付は何月何日というものでなく、日々逓増する干支表示であり、また、公職にある暦制専門家以外には、任意の日付の干支は特定できないので、挿話筆者が日程の是正を望んでも、日程書き換えは想定しがたいのです。まして、下敷きになる資料記事があって、それに従わざるを得ないとしたら、原資料に基づく日程を書き換えることはできなかったのです。

*筑紫滞在~妥当な代案
 ということで、原史料の日付は操作されていないと見て、筋の通った、つまり、実現可能と思われる成り行きを推定すると、本来は、漢使が筑紫周辺に滞在したのを、東方に長駆移動したと創作したと見るのが、最も無理の少ない推測となります。つまり、「到底実現できないと見え見えの長駆移動がなかった」ように是正すれば、移動日程の無理は、あっさり解消するのです。
 客館が筑紫であれば、漢使の休息、検疫を見ても、二ヵ月の待機期間は十分です。

 到着報告を急報して、行幸に三ヵ月程度とっても、八月に引見できます。長期間を要する移動がなくなれば、虚構日程との批判は克服されます。また、俀国王の都の所在論議も不要です。言うまでもないでしょうが、漢使の滞在した「難波」が、河内湾沿いの低湿地の事かどうかは不明なのです。
 筑紫には、三世紀以来、帯方郡からの使者が着いていたはずであり、「客館」ならぬ迎賓館があり、接待の体制があったとしても不思議はありません。何にしろ、どこまで移動するにしろ、筑紫で一旦足をとどめて、入国検問が必要であったことは間違いないのです。防疫管理だって必要です。

*漢使下向説の怪
 漢使引見を、奈良盆地でなく筑紫の「行在所」(御旅所)で行うのは、漢使を、危険極まりない異郷の長旅を課して、遠路はるばる参上せよと「呼びつける」のに比べて、格段に「合理的」であり、礼を失しないものです。まして、俀国王の一行が、遠路を自ら筑紫に移動すれば、片道移動分の日数が節約できるのです。国王移動/行幸であれば、半年かけて準備できれば、何とかこなせるのです。食事が違い、寝床、枕が違い、言葉の通じない異人(貴人)の客一行を、準備無しに受け入れて、二ヵ月(以上)にわたり、道中各地で饗応するのより、「随分」対応しやすいのです。

 因みに、皇帝の使人、つまり、名代として蕃夷に派遣される漢使一行は、兵士を含めて千人が定例ですが、これほどの武装した一団の国内通行を許すのは、主権侵害とも見えるのです。あるいは、そのような事態を融けるために、皇帝の命を受けた漢使が、異国の指示で武装解除、つまり、降伏した敵国人同様の待遇に処せられるのは、皇帝に対して無礼そのものではないでしょうか。このあたり、さながら地雷原を踏んでいるように見えます。

*前例踏襲~漢書「西域伝」「安息国条」の教え
 漢使引見の前例として、漢書「西域伝」の「安息国」訪問記が上げられます。其国王は、漢使の到来を知って、西方数千里の国都から東の辺境拠点の要塞まで詔書を送り、現地のいわば鎮守将軍である長老に漢使を出迎えさせたと見えるのです。(夷蛮の国に「都」を許しているのは安息国だけです)時に、漢使が、長途地中海岸まで出向いたとする思い付きが語られることがありますが、どんな国家であろうと、武官を国内縦断の途に遇するのは、問題外です。安息国は、かって、東方からの侵略者に国土を蹂躙されけているので、同類と見える漢人に気を許すわけはないのです。ついでながら、当時、パルティアは、西方のローマと交戦状態にあり、至近のシリア/レバノンに四万のローマ兵が駐屯していたのです。ますます、東方の夷蕃のものを王都に招聘することなどなかったのです。いや、これは、世上にある、ローマ-漢の交流という空想譚に対する反論であって、目下の、漢使東征論に対して、参考にしていただきたいと思ったものです。

 つまり、蛮使の応対で、名代を立てるなり、あるいは、国都から行幸するなりして、短期間で引見するのは、異例ではないのです。むしろ、中華天子の名代を、延々四ヵ月かけて往復移動させるのは大変非礼なのです。

*急遽の一解
 以上は、根拠のない憶測ですが、仮に、当方が当時に生きていて、献策を求められたら、この解法を提言するはずです。
 以上、第一の難点への解です。
                               未完

私の意見 日本書紀推古紀 大唐使節来訪記事 問題と解答の試み     改 2/6

 隋書俀国伝考察付き               2020/02/28 補充再公開 2020/06/30

〇その貳 隋書「俀国伝」道里の怪
 隋書「俀国伝」を読み直すと、まずは、隋書記事の由来が問われます。
 結局、「俀国伝」の基礎は「三史」、「史記」、次いで「漢書」、最後が「後漢書」の倭記事であり、次いで三国志の「魏志倭人伝」が根拠です。

*俀国伝道里考
 俀国は「新羅の南方」と書き起こし、半島南端に近い新羅から水陸三千里は、「倭人伝」の狗邪韓国からの渡海里数三千里が根拠でしょう。つまり、慶州(キョンジュ)から俀都までは倭人伝「里」を踏襲した道里ですが、九州の内陸里程は、端数として三千里に吸収されたとも読み取れます。「三」千里は、千里概数で、「五」千里に届かない範囲なので、四千五百里程度まで見込めるからですが、そうした議論は、見たことがありません。

 俀国王治は、上陸地。ないしは竹斯国の近郊、ひょっとすると竹斯国の内部となります。この倭人伝道里観は、前世史書の合理的記事が、後世に継承される好例です。

*行程記事考
 それはさておき、俀国道程は竹斯国が終点とも見えますが、行程記事であって道里はありません。
 「後漢書」、「魏志」に既出の行程は簡略で、初見の行程は多少丁寧という程度のようです。例えば、半島沿岸行程は前世史書(「倭人伝」)に存在しないないから、百済王治泗比に立ち寄った後、西岸を南し竹島を経て耽羅で東に進路を転じて対馬を目指す道程が「新規に」書かれていて、伊都国後身とも見える竹斯国に至るのです。
 そして、竹斯国以降、何れかの長旅に出たとは書かれていませんから、順当に考えると、漢使は、ここを旅の終点としたことになります。

*後漢書の刷り込み
 三史観点に戻ると、俀国事情として、「都於邪靡堆」は、「大倭王は邪馬台国にあり」とする前世史書「後漢書」の承継でしょうか。後世記述の魏志「倭人伝」の「邪馬壹国」でない理由も含め何も書かれていません。自明なのでしょうか。普通に考えると、倭の王治が移動したということのように見えます。
 なお、ここでは、俀国には「都」があったと述べているのです。

 因みに、魏晋代までは、蛮王の居処を「都」と呼ぶのは回避したのですが、隋書では、無造作に「都」と書いています。西晋亡国後の混乱、南朝逃避、北朝乱入の動乱を経て、もはや、太古以来の伝統的辞書は、絶対ではないのです。
 何しろ、隋は、西晋を滅ぼして漢人政権を江南に追いやった「蛮人」の後裔なので、漢蕃の意識は変化していたのです。
 竹斯国まで、対馬、壱岐だけで、倭人伝で、道里行程を紹介された末羅、伊都、奴、不彌、投馬、狗奴は消息不明です。倭人伝で記録済みであり、自明なので割愛したのでしょうか。

*竹斯見聞記
 魏志「倭人伝」の道里行程記事は、東方を明記していないのですが、隋書は「十国余りを過ぎ海岸に至る」とします。倭人伝に、倭国から東方への渡海が示唆されていても、後漢書には渡海はないので、東方に実際に移動したとすると、新規行程記事が必要なはずですが、東方各地に立ち寄った記事はありません。
 また、海岸に「津」、つまり、船着き場があったとも書かれていなくて、そこからどこへ行けるのかなどの詳細も略されています。因みに、「海岸」は浜辺などでなく、岸壁のある港の「陸地」なのですから、単に海が見えたとの記事とも見えます。
 して見ると、この部分の意義は、俀国の東に、渡海できそうな海港があると確認しただけであり、それ以前の竹斯以東の秦王国などは、悉く実見でなく未踏のようです。

 また、推古紀にあるように、長い月日を待機と移動に費やしたのであれば、その経緯は、随行した書記役が記録しているはずであり、また、現地の掌客も、随時口頭なり文書なりで説明したでしょうから、これも、記録に残るのです。

 漢使は、帰国後、俀国王の国書提出もさることながら、長期の滞在中、一体何をしていて、何を見聞したのか、報告を求められ、当然、克明に報告したはずですから、漢の公文書には、裴世清の紀行文が遺ったはずです。にもかかわらず、隋書に、そのような東方紀行記録が、示唆すらされていないのは、大いに不審です。
 なお、俀国伝には、竹斯国で取材したと思われる地理風俗記事があり、文中、阿蘇山ともに有明海に触れていて、俀国の西に海があると示唆しています。つまり、竹斯国は、洲島、つまり、海流の中の島という地理観でしょうか。なら、なぜ、瀬戸内紀行記事がないのでしょうか。

 裴世清は、『休暇を取って、自費で物見遊山に赴いたのではない』のです。

*創作記事考
 前節で、「書紀」記事に拘わらず、漢使が竹斯に留まったと見ると日程の筋が通ると書いたのですが、「俀国伝」の後続記事はこれと符合するのです。隋書」が、蛮夷文書である「日本書紀」に合わせたはずはないので、「隋書」は、隋にとっての史実を反映していると見るのです。

 そもそも、蛮夷が史書を編纂するのは、私撰であって大逆罪なので、遣隋使、遣唐使が、「日本書紀」を「正史」として献じることはあり得ないのです。

 確認すると、挿話編者は、書紀記事に挿話を追加する際、日付の整合は不可能だったので、熟慮の末、日付創作を断念し、明らかに実施不可能な日程のままとして当否を後世の叡知に委ねたと見るものです。その主旨は、隋、唐の「誤記」を放置していることで明示されていると見るものです。

 因みに、挿話原史料は、二十五年後舒明天皇四年(CE632)到来の大唐使高表仁記事と見ます。もちろん単なる憶測ですが、他に転用可能な漢使来訪記事事例が見当たらないので。一案として提示します。

 因みに、高表仁は、遣唐使帰国と同行していて、前例を踏まえた受け入れ体制も幸いして、早々に「難波」入りしているようですが、裴世清記事のうろたえブリから見て、確かではありません。丁寧な「テキストクリティーク」が必要です。

 以上、第二の難点への解です。
                                未完

私の意見 日本書紀推古紀 大唐使節来訪記事 問題と解答の試み     改 3/6

 隋書俀国伝考察付き               2020/02/28 補充再公開 2020/06/30 2021/02/09

〇その参 掌客の怪 その1
 以下に述べるのは、紙背を読む隋書考証です。

*鴻廬掌客の誤解
 書記記事を読む限り、この時の献使と来訪が、初めての漢蕃交流であり、つまり、大和側は、帰国した通詞の報告で漢制を理解しようとしていた段階であって「鴻廬掌客」の深意を理解できていなかったようです。

*三名の絶大な使命
 まず目につくのは、中臣宮地連摩呂(「連(むらじ)」は高官です)等三名の掌客任命です。しかし、素人目にも、これは漢使来訪接待に行き届かないと見るのです。前例のない掌客の実務は、(書紀の記事を真に受けると)筑紫、難波、大和の三箇所で大量に発生し、何も知らない各地諸部門に、期限付きの饗応指示を出し、都度進度を確認し、その際の報告上の手違いは、手早く是正する必要があり、各地に三人いても人が足りないのです。

 つまり、そのような応対は、各所、各部門の全員に、実務手順、分担とそれに基づく豊富な経験がない限り実行不可能です。何しろ、掌客自体が素人なので、現場でつきっきりになって指導してすら事の運びが覚束ないのですから、月日のかかる交信を介した遠隔指導などできないのです。

 この下りの考証は、遠距離移動を前提とした日程、地理記事に不審を感じさせる重大な要因でもあります。

*「掌客」語義考
 ということで、新任された「掌客」を復習しますが、鴻廬なしのただの「掌客」であり、常設部門がなく、漢使到着に慌てふためいて担当官を速成したようです。
 「掌客」は、中国古典での用語では、単に賓客を饗応すると言う意味です。つまり、挿話著者は、基礎教養が豊かであり、漢語、古典漢籍に通じていたのです。
 つまり、「掌客」が蕃人応接役の意味と気づかなかったのですが、漢使は、蛮夷の国に着いて「掌客」、つまり、蕃人接待役に応対されて、自分が蕃夷扱いされていることに対してどう反応したのでしょうか。
 もちろん、漢使が「客」と蕃人扱いされたのが、皇帝の耳に入れば、一同揃って、文字通り馘首です。(解雇ではなく、死刑です)

 なお、使人裴世清を「鴻廬掌客」と見たのは、渉外部門接待役の来訪との勝手な表記です。ここは、漢使の身分を知って書いたのでなく、独自に推定したものなのです。あるいは、遣使の長安鴻廬寺滞在中の饗応役の官名の名乗りが報告されていたのでしょうか。

 こう考えてみると、「書紀」の任命記事は、教養人が古典用語の「饗応」をにわか作りの官名に充てたのであり、鴻廬寺・典客署(煬帝時、典蕃署)・掌客(担当官)という官制に習った官僚組織階梯がなく、三人全員一律任命ということは、当時、少なくとも、鴻廬寺が司る漢蕃対応組織は存在していなかったということです。これは、「隋に至る各代王朝と漢蕃交流が一切なかったため、物知らずである」という自認の通りだったのですが、これは、魏晋との交渉も、南朝との漢蕃交流も、何ら、記録、継承がされていなかったと感じ取れます。

*漢制掌客
 かたや、漢制における「掌客」は、蛮夷受容を司る鴻廬寺の(最)下級職であって、来訪者に言葉と礼儀を教えて、上司の丞、さらには、遙か高位の鴻廬卿との面談に耐える程度の応対を仕込む、いわば窓口係官です。

 「来客」は、窓口が漢蕃関係の始まりのため、「掌客」を漢の代表者と刷り込まれたかも知れません。「掌客」は、「来客」同行の通詞と意思疎通を図り、ひいては、「来客」に漢礼を教え、滞在中は食事と宿舎を提供しよろず相談に乗るので、大変印象深いでしょうが、所詮、温順な東夷の面倒を見る役どころの下級役人です。(商売繁盛している西戎、南蛮や、喧嘩腰の北狄とは、別の扱いなのです

 太古以来の官僚組織は精緻であり、各部門人員定員の訓練が行き届いているので、規則ずくめというものの万事に整然と対応できるのです。

*鴻廬寺来歴
 高麗館の上手(かみて)に新設の迎賓館を「鴻廬館」と呼ばなかったのは、偶然としても妙策です。「鴻廬」自体、蛮夷対応を示す漢制部門名ですから、東夷の地に、そのような不法な名称は、あってはならないのです。

 隋唐制では、鴻臚寺の「長官」である鴻臚卿は、正三品の高官有司ですが、この位置付けは、恐らく、古くは秦制以来、組織名、官名は変わっても、帝国要職として維持されていたはずです。
 夷蕃の「客」を応対する典客署(煬帝:典蕃署)の令(部門長)は、大きく下って正八品であり、担当者である掌客は正九品です。つまり、官人最下級の格付けです。中臣宮地連摩呂のような政府高官の職ではないのです。

 但し、そのような組織体系は、漢制に通じた者しか知らないことであり、現代に至っても、正しく理解されていない場合が多いのです。
 つまり、漢律令に書かれているのは、中華文明の天子のもとでの官制であって、東夷のものには官制が及ばないことを見逃しているのです。
                               未完

私の意見 日本書紀推古紀 大唐使節来訪記事 問題と解答の試み     改 4/6

 隋書俀国伝考察付き                   2020/02/28 追記2021/02/09, 12/22

〇その参 掌客の怪 その2
*煬帝の指示
 隋書俀国伝を復習すると、漢使裴世清派遣の成り行きは、以下の通りです。

 皇帝は、鴻廬卿が取り次いだ蕃客国書を、「天子」を僭称し皇帝に挑戦する大逆と激怒したのであり、上程した鴻廬卿は、本来、馘首される所ですから、よく、叱責だけで、命があったものです。
 これが、長らく抗争していた北の宿敵突厥の書信なら、皇帝を名指しした挑戦状、つまり、隋帝国への宣戦布告と解され、すかさず、官軍総動員、北伐の大号令が下るところです。

 しかる後、皇帝は、当然、所管外の鴻廬寺掌客でなく寧遠の才に富む官人文林郎が率いる百人規模の使節団を派遣したのです。当然、文書所管部署で異国文書にも通じた教養人裴世清を起用したのです。

 鴻廬卿馘首は大げさかも知れませんが、煬帝は、後年、帝都長安を離れて江南に長期滞在しているとき、各地の反乱を上奏する者は斬罪に処すという命令したとされていますから、この時期は、まだ理性が保たれていたのでしょう。

*僭称の動機推定
 思うに、問題の国書は隋朝蔑視の意図があって書かれたものと見られます。代々正統の南朝に服属した東夷には、北朝は北狄であり、「南朝を征服して武力で天下を取っても蛮夷に変わりはない」と見ていたので、そのように書き送ったのです。これは、南朝臣下として当然ですが、無謀でもあります。

 裴世清は、記録のない口頭応酬で、実力行使を示唆したのかしなかったのか、ともかく、見事に俀国王を説諭して態度を改めた国書を提出させたと見えますが、これに対する報奨は記録されていません。諸事多難で、それどころではなかったのでしょうか。

*文林郎紹介
 裴世清は、文林郎正八品であり、恐らく科挙を経た文官であり、典客署部門長と同格です。古来、文林郎は、夷蕃国書の講読役でもあったようです。ということで、最下級正九品の掌客とは教養が違うのです。

 案ずるに、裴世清が鴻廬寺掌客と称したというのは、掌客の際の誤解の生み出した挿話筆者創作です。つまり、「鴻臚寺掌客裴清」は、あくまで当記事に書かれているだけです。つまり、皇帝名代である漢使が、わざわざ個人官職を自称するはずはないのです。

 また、漢使の帰途に同行した小野妹子大使の持参した国書は、以上の経過から、前書の暴言を悔いた平身低頭(死罪頓首)の文面が相応しいのですが、当然、天皇の勢威を傷つけるような文面は収録されていません。わからないことはわからないのです。
 魏書「俀国伝」によれば、裴世清は、俀国王に対して国書を提示していないので、もともと、国書盗難などなかったのでしょう。そもそも、三国史記では、裴世清が俀国往路で百済を表敬訪問したと書かれていても、俀国使が同行したとは書いていないのです。常識的に考えて、裴世清は、現地知識のない半島西岸、南岸の航行について、百済の助言と当然ながら行程諸港での応対を命じたものの、それ以上は、求めていないものと思われます。
 つまり、俀国使は、恐らく当時常用していた「新羅道」なる内陸道を通って、疾駆帰国し、漢使の来訪の先触れをしたのでしょう。
 そもそも、漢帝の国書を盗むなど、露見すれば、多数の重罪人が発生する大罪であり、百済がそんなつまらない、危険な火遊びをするとは思えないのです。

*誤解の起源
 ということで、以下のように推定せざるを得ないのです。
 挿話筆者は、与えられた素材を書紀に補注することにより、原本編纂当時不備だった推古朝の漢使交流事跡の画期的記事を創作したのですが、最善の努力をもってしても資料の整合が取れなかったようです。
 皮肉なのは、美しく造作された文言が実態を露呈しているということです。

 以上、第三の難点への解です。

〇まとめ 挿話記事変遷 補注から本文に
 ここまで挿話と呼んでいた推古紀記事は書紀原本のものでないのは明らかですが、誰が見ても周辺記事と整合しない挿話が、忽然と推古紀本文に挿入された経緯を推定すると、当挿話は原本に対して、何れかの時点で後年補注されたものの、その後の長年の継承のいつとも知れない時点で、補注が本文に取り込まれた可能性が高いものと見られます。

 日本書紀原本は現存せず、また日本書紀原本を実見した人も現存しないので、原本による確認は困難(不可能)ですが、日本書紀の歴代の写本過程は、それぞれどのような資格、教養の官人(官営写本工房の写本工集団)の手になったのか、無資格の素人の私的な奉仕に依ったものなのか、とにかく、一切不明なので、どこかで何かがあっても、別に可笑しくはないのです。(冗語御免)

 書紀記事解釈に未解決問題が残っているのは不思議ですが、新米の強みで先賢の考察への異論を一解としたものです。別に、唯一解でも最善解でもなく、あくまで一つの意見ですので、そのつもりで、ご一考いただければ幸いです。

〇参考資料
 古田武彦 邪馬一国への道標 ミネルヴァ書房 2016年1月刊
 
 ほぼ自前の考察で完稿した後に購入、熟読しましたが、広範な課題に対して展開される論議を支える慧眼に感嘆するものの異論もあります。但し、本項は、同書書評ではないので詳細には触れません。
                              本論完

私の意見 日本書紀推古紀 大唐使節来訪記事 問題と解答の試み 資料編 改 5/6

 資料編 参考のみ 誤記等御免                    2020/02/28 再掲2021/02/09. 12/22

〇日本書紀 推古紀(出典:維基文庫。随時改行を追加)
 十六年夏四月。小野臣妹子至自大唐。唐國號妹子臣曰蘇因高。即大唐使人裴世清。下客十二人。從妹子臣至於筑紫。遣難波吉士雄成。召大唐客裴世清等。爲唐客更造新舘於難波高麗舘之上。
 六月壬寅朔丙辰。客等泊于難波津。
 是日。以餝船卅艘迎客等于江口。安置新舘。於是。以中臣宮地連摩呂。大河内直糠手船史王平爲掌客。
 爰妹子臣奏之曰。臣參還之時。唐帝以書授臣。然經過百濟國之日。百濟人探以掠取。是以不得上。
 於是羣臣議之曰。夫使人雖死之不失旨。是使矣。何怠之失大國之書哉。則坐流刑。
 時天皇勅之曰。妹子雖有失書之罪。輙不可罪。其大國客等聞之亦不良。乃赦之不坐也。
 秋八月辛丑朔癸卯。唐客入京。
 是日。遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢。額田部連比羅夫以告禮辭焉。
 壬子。召唐客於朝庭。令奏使旨。時阿倍鳥臣。物部依網連抱二人爲客之導者也。於是。大唐之國信物置於庭中。時使主裴世清親持書。兩度再拜言上使旨而立。
 其書曰。皇帝問倭皇。使人長吏大禮蘓因高等至具懷。朕欽承寶命臨仰區宇。思弘徳化覃被含靈。愛育之情無隔遐迩。知皇介居表撫寧民庶。境内安樂。風俗融和。深氣至誠。達脩朝貢。丹款之美。朕有嘉焉。稍暄比如常也。故遣鴻臚寺掌客裴世清等。稍宣徃意。并送物如別。
 時阿倍臣出庭以受其書而進行。大伴囓連迎出承書置於大門前机上而奏之。事畢而退焉。
 是時。皇子。諸王。諸臣悉以金髻華著頭。亦衣服皆用錦紫繍織及五色綾羅。〈一云。服色皆用冠色。〉
 丙辰。饗唐客等於朝。
 九月辛末朔乙亥。饗客等於難波大郡。
 辛巳。唐客裴世清罷歸。
 則復以小野妹子臣爲大使。吉士雄成爲小使。福利爲逸事。副于唐客而遺之。
 爰天皇聘唐帝。其辭曰。東天皇敬白西皇帝。使人鴻臚寺掌客裴世清等至。久憶方解。季秋薄冷。尊何如。想清悉。此即如常。今遣大禮蘓因高。大禮乎那利等徃。謹白不具。是時。遣於唐國學生倭漢直福因。奈羅譯語惠明。高向漢人玄理。新漢人大國。學問僧新漢人日文。南淵漢人請安。志賀漢人惠隱。新漢人廣齊等并八人也。
 是歳。新羅人多化來。

                        書紀史料完

私の意見 日本書紀推古紀 大唐使節来訪記事 問題と解答の試み 資料編 改 6/6

 資料編 参考のみ 誤記等御免                    2020/02/28 再掲2021/02/09, 12/22

〇隋書 俀國伝
 (出典:維基文庫。但し、倭を俀に復元訂正。随時改行追加)
 俀國,在百濟、新羅東南,水陸三千里,於大海之中依山島而居。魏時,譯通中國。三十餘國,皆自稱王。
 夷人不知里數,但計以日。其國境東西五月行,南北三月行,各至於海。其地勢東高西下。
 都於邪靡堆,則魏志所謂邪馬臺者也。
 古云去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里,在會稽之東,與儋耳相近。
 漢光武時,遣使入朝,自稱大夫。
 安帝時,又遣使朝貢,謂之俀奴國。
 桓、靈之間,其國大亂,遞相攻伐,歷年無主。
 有女子名卑彌呼,能以鬼道惑眾,於是國人共立為王。有男弟,佐卑彌理國。
其王有侍婢千人,罕有見其面者,唯有男子二人給王飲食,通傳言語。其王有宮室樓觀,城柵皆持兵守衞,為法甚嚴。
 自魏至于齊、梁,代與中國相通。
 開皇二十年,俀王姓阿每,字多利思比孤,號阿輩雞彌,遣使詣闕。上令所司訪其風俗。使者言俀王以天為兄,以日為弟,天未明時出聽政,跏趺坐,日出便停理務,云委我弟。
 高祖曰:「此太無義理。」於是訓令改之。
*中略*
 至隋,其王始制冠,以錦綵為之,以金銀鏤花為飾。婦人束髮於後,亦衣裙襦,裳皆有襈。攕竹為梳,編草為薦,雜皮為表,緣以文皮。有弓、矢、刀、矟、弩、䂎、斧,漆皮為甲,骨為矢鏑。雖有兵,無征戰。其王朝會,必陳設儀仗,奏其國樂。戶可十萬。
*中略*
 大業三年,其王多利思比孤遣使朝貢。使者曰:「聞海西菩薩天子重興佛法,故遣朝拜,兼沙門數十人來學佛法。」其國書曰「日出處天子致書日沒處天子無恙」云云。
 帝覽之不悅,謂鴻臚卿曰:「蠻夷書有無禮者,勿復以聞。」
明年,上遣文林郎裴清使於俀国。度百濟,行至竹島,南望耽羅國,經都斯麻國,迥在大海中。又東至一支國,又至竹斯國,
 又東至秦王國,其人同於華夏,以為夷洲,疑不能明也。又經十餘國,達於海岸。自竹斯國以東,皆附庸於俀。
 俀王遣小德阿輩臺,從數百人,設儀仗,鳴鼓角來迎。後十日,又遣大禮哥多毗,從二百餘騎郊勞。既至彼都,
 其王與清相見,大悅,曰:「我聞海西有大隋,禮義之國,故遣朝貢。我夷人,僻在海隅,不聞禮義,是以稽留境內,不即相見。今故清道飾館,以待大使,冀聞大國惟新之化。」
 清答曰:「皇帝德並二儀,澤流四海,以王慕化,故遣行人來此宣諭。」
既而引清就館。
 其後清遣人謂其王曰:「朝命既達,請即戒塗。」
 於是設宴享以遣清,復令使者隨清來貢方物。此後遂絕。

                             隋書史料完

〇補足~私見   2021/02/12
 「海西」とは、漢書/後漢書西域伝に書かれた西方の大海カスピ海の西岸「海西」であり、普通に考えると西戎「條支」(アルメニア王国)の天子と嘲ったことになります。
 「日沒處」とは、西王母の住まう西の果てであり、仏教思想で言うと「彼岸」の人ということになります。
 中国正史の語法から、そのように読めるはずなのですが、余り、見たことがないので、ここに付記しました。

以上

2021年10月 2日 (土)

新・私の本棚 松尾 光 「治部省の役割と遣外使節の派遣を巡って」~古代日本外交の謎

別冊「歴史読本」 日本古代史[謎]の最前線 1995年1月刊 新人物往来社
私の見立て ★★★★☆ 堅実。賢明な史料考察 「日本」視点の限界

*お断り
 本記事は、下記書評と重複していますが、現時点で、一から書き出したものなので、もし、ブレがあったら、ご容赦ください。
 新・私の本棚 別冊歴史読本 日本古代史[謎]最前線 1/2

〇はじめに~中国史料解釈の原点確認
 当記事は当ブログ範囲を外れるが、漢日語彙の齟齬という観点から、日本史料の視点で中国史料を考察して生じた誤解を指摘する。刊行以来25年を経て、同様の誤解が世上に散見されているので、僭越ながら苦言する。

*国内史料視点の解釈~中国史料を不備との速断
 氏は、七世紀後半から整備された国内律令は、漢(中国)律令を模倣、翻案したため、漢制を誤伝したと解している。つまり、「外交」部署が、鴻臚寺と別部署に分かれて書かれた律令を唐代官制老朽化兆候と速断しているようである。

*用語解釈の誤解~文化解釈のずれ
 本記事副題は、当時、日本に(外国との)外交が存在したと決め込んでいるが、漢律令に「外交」は存在せず、模倣ではなく一種の誤解、曲解とわかる。
 秦漢代以来、漢蕃関係であり蕃夷は対等ではない。「外国」は蕃「国」である。「国」は、本来、漢代の「国」は、劉氏一族を頂いた分国であった。対して、蕃夷の「国」は服属するが「交」は無い。群小蕃夷は、美称で「蕃客」とされたが、「客」は、よそ者を応対する渉外活動の対象と言うだけである。

*鴻臚寺の役所(やくどころ)
 要するに、鴻臚寺は、無礼な蕃夷をあしらって服属させ、手土産を与えて、次は何年後、それまで来るなと厳命して送り返したのが、主務であった。
 端的には、氏が末尾に感慨を述べるように、漢に対等の外国は存在しない。(例外は、漢高祖劉邦親征軍を包囲して屈従の盟約を結ばせた匈奴である)漢蕃関係は「外交」を想定してないので対応する官制は存在しない。
 要するに、中国律令の備えた理念と法制、官制が整合した制度を、「外交」が必要である日本に、無批判で写し込むことが「無理」だったのである。

*律令模倣禁止
 本来、中国律令は、国外持ち出し禁止であるが、一つには、律令にいう「天子」を蛮夷の王に書き換えられると中国が蕃夷になってしまうからである。

*日本の対外関係
 日本は、対等とみられる高句麗、百済、新羅とは「外交」が可能であったが、お手本とした中国律令に、そのような蛮夷間交際に関するお手本がなかったので、日本は、これら諸國を「蕃客」扱いし、隋唐使節をも「掌客」の手に委ねた。隋唐使が、「客」扱いに激怒しなかったら不思議である。

*使人の使命
 裴世清は、文林郎(文官)の登竜門から俀国に赴いたのであり、日本書紀が造作したようにお門違いの蕃客接待の「掌客」に任じられてはいない。(隋書俀国伝)
 要は、正体不明の蛮王への使人は生還を期せないから、低位官人から選任したのである。但し、派遣に際しては、臨時に高位に任じて皇帝名代とした。高位の使節団員は、下級官人には本末転倒で服従できないからである。

 また、皇帝の名代が、派遣先で、原職は下級官人であることを名乗ることは、あり得ない。余り顧みられることがない事情を蒸し返すのである。

〇誤解の起源と継承
 中国人が中国人統御するための律令を、土壌の異なる日本に無理矢理移植したために不合理が生じているが、それを、現代日本人の言葉と世界観で、正確に理解はできないことに、早く気づいて欲しいものである。

                               以上

2021年9月18日 (土)

新・私の本棚 池田 温 「裴世清と高表仁」 「日本歴史」 第280号

    1971年9月号 吉川弘文館       2021/09/18記
私の見立て ★★★★★ 堅実な史料考察 「書紀」依存に重大な疑問

〇はじめに
 本記事は、当ブログの専攻範囲「倭人伝」を外れるが、とかく等閑(なおざり)にされる中国史料本位の文献解釈という史学原点に注意を喚起するために、あえて脇道に逸れたと弁明しておく。

 本論考は、豊富な史料に基づく不朽の考察であるが、書紀記事を無批判起用して完璧を損じているのが、勿体ないところである。まずは、自説の足元を見定めて、堅固な基礎を確立し、その後、高楼を理論構築すべきではないだろうか。いや、僭越、無礼で失礼は、覚悟である。

*裴世清俀国遣使記事の検証
 本論考は、「日本史」において、中国との交流の初期事例である隋使裴世清、唐使高表仁について、中国史料をもとに深く検討する趣旨である。氏の視点では、日本書紀は、史料として確立されているため、その限りでは、史料批判、考証の手順に不合理は無いのだが、敢えて、別視点からの疑問を呈する。

 つまり、両国使は中国史事績であるから、中国史料をもとに考察すべきであり、日本史料をもとに考察するのは、本末転倒、自大錯誤と見た。(日本中心視点で進められているということである)

*概要
 豊富な史料考察の丁寧な論考に素人が口を挟むが、根本となる国内史料評価に難がある。いや、本件に関して、初見の論考をみたが、ほぼ全数が、同様の視点を取っているので、別に、氏個人の「偏見」でないのは、承知である。ようは、俗耳に馴染みやすい「俗説」となって、流布しているのである。

 基本に還って考え直すと、日本書紀(以下、時に書紀という)は、中国史料と無関係に「俀国」「日本」基準の史書として編纂されている。そのため、隋書基点、中国基点で考察すると、隋使裴世清が、書紀記事で「鴻廬掌客」と表明されているのは、隋書と齟齬して無法、無効である。

*裴世清の身元調査
 氏の調査に依れば、裴世清は、北魏(後魏)時代に台頭した名家の一員であったという。隋唐期、科挙による人材選抜が開始しても、依然として、名家の血筋にそって推薦された人材が官人として採用されたようで、とは言え、若者は、まず下級官人となるのである。
 氏は、隋代文林郎は、閑職で名目的なものと思い込んでいるようだが、根拠のほどは不明である。精々、風評、俗説と思うのである。何にしろ、氏の帰順している俗説で行くと、隋書「文林郎」から書紀「鴻臚掌客」に昇格したとみなければ、筋が通らないということなのだろうか。一種、思い込みが広く徘徊しているようである。

 隋書は、文林郎裴世清が隋国「大使」に抜擢されたと明確である。
 書紀所引隋帝国書には、卑職「鴻廬掌客」を名乗ったと書かれているが、隋書に、隋帝から俀国国主への国書の記録は存在せず、公式記録に存在しない国書は実在しようがない。また、裴世清は、皇帝特命「大使」の高官であり、隋国側が卑職を明言すべきものでない。

*隋書齟齬事態
 そうしてみると、氏の提示する諸史料から得た裴世清職歴考察で「鴻廬掌客」とあるのは、独自史料「書紀」だけであり、つまり、中国史書に裏付けはないので、書紀の孤説なのである。むしろ、隋書俀国伝の記事と齟齬しているのであるが、氏はその点に、無理筋を通そうとしているのである。と言うものの、書紀は、これ以外にも、隋書との深刻な齟齬が顕著である。

 このように、東夷史書と正史が齟齬する事態で、辻褄を合わせて東夷記事を採用しようとするするのは、中国史料の解釈として不合理である。

*鴻廬掌客の正体
 氏は、裴世清が、「文林郎」から「鴻廬掌客」を経て唐代に「江州刺史」なる顕職に就いたとみたが、全面的には同意できかねる。隋書に言う「文林郎」は、「尚書省」の卑職だが、若年出仕の昇竜の途次であり、文書管理の実務経験を積んで昇格を望むのに対して、書紀に言う「鴻廬掌客」は、蕃客接待専門職で傍路である。
 どちらも、大差ない卑職であるが、栄達という点では、大いに異なる。つまり、文林郎として、野心を持って皇帝に仕えているものに対して、「鴻廬掌客」は、例え同格の位置付けでも、左遷なのである。

〇まとめ
 本稿の起点に戻ると、隋使裴世清に関して中国史料に整合しない「書紀」記事は、隋書俀国伝に基づく考察に参加する資格が証明されない限り、謹んで傍聴席に退いて頂くのが合理的であると思うのである。俀国に至る道は、すべて、隋書から始めるべきと思うのである。

 なお、本稿を読む限り、書紀をもって隋書を書き換える根拠となる「革命的」な史料批判は、ついに明示も示唆もされていないのである。

                               以上

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