隋書俀国伝談義

隋代の遣使記事について考察します

2024年7月 1日 (月)

新・私の本棚 番外「魏志倭人伝」への旅 ブログ版 1

邪馬台国研究の基本文献「魏志倭人伝」とその関連史書を探求する Author:hyenanopapa 2024-06-28
私の見立て 当記事限定 ★★☆☆☆ 即断の書き捨て         2024/07/01

◯はじめに 古田史学論集批判のしっぽ
 当記事は、長年健筆を振るうブログ主(hyenanopapa 以下、筆者)の健在を示すが、筆勢まかせの即断に苦言を呈する。読み囓り論難批判の姿勢を示すため引用を掲載することを、くれぐれもご了解いただきたい。

 『古代に真実を求めて26集』を読む 谷本茂(前半部は、圏外として割愛)
7世紀、九州王朝説の立場から裴世清が訪れた先を九州王朝とする人々は、どういうわけか〝裴清の道行き文〟に触れようとしない。その最後に【既至彼都】と書いてある以上、この文の解釈は避けて通れないはずなのに、である。
 [中略]【又東至一支国又至竹斯国又東至秦王国】この文をどう読めば竹斯国が俀国の都と解釈できるのか?「邪馬壹国の史料批判」(松本清張編『邪馬臺国の常識』所収p162)で、『太平御覧』所引『魏志』の「又南水行・・・」の記事について「もう何の見まちがう文章に書き改められている」と。[中略]
 【又東至一支国又至竹斯国又東至秦王国】は「何の見まちがうこともな」く順次式に読むのだ!と古田氏は仰ってます。竹斯国は単なる通過国―
 よって、九州王朝の都は竹斯国にはありません!

◯コメント 乱文御免
 筆者は、古田氏の失言に執着していて「九州王朝」偏愛とも見える。ちなみに、古田氏が氏の著作外の呉越同舟松本清張編『邪馬臺国の常識』 で主張したのは史料解釈の基本原則である。『「倭人伝」道里記事解釈で文法論が言われるが、肝心なのは記事文意であり、(例えば)大部の類書「太平御覧」の編者は、自身の見識で文章を整理している』との指摘(大意)であり、これを正史蛮夷伝として編纂された「俀国伝」に押し付けるのは、古代史官ならぬ古田氏の文意を理解できていないと見える。(『邪馬臺国の常識』は、古田氏の到底賛同できないタイトルであるが、 松本清張氏の知遇により、あえて、火中の栗を拾ったものと見える)
 筆者は、古田氏の「主張」を、都合のいいところだけ読みかじりして、手頃な「読み」を造作し、自作自演で俎上両断していると見られかねない。別に古田氏に限ったことでは無いが、古代史書の解釈は、「読み」「書き」の個人の脳内への情報の入出力段階で、手違いが出るものであり、まして、脳内での理屈づけにも、勘違いはつきものであり、あまり、「思い込み」振り回されないようにしたいものである。
 何れにしろ、「俀国伝」に関する古田氏の論考批判は、古田氏が自説著作を重ねたものを批判するものであり、筆者の愛読書に偏ることなく、要するに、適切な出典・文脈を、自身の責任で選ぶべきものと思う。ここは、筆者にして、ずいぶん粗雑である。

*「竹斯国比定」の否定
 筆者は、竹斯国は単なる通過国筆者の価値判断を強引に押し付けるが、「魏志倭人伝」での伊都国「到」着との明記を通過国と読み替えるのと同様であり、とは言うものの、はなから否定はしないで、根拠不明としておく。
 筆者は、『その都が「竹斯国」にない』と断定したが、暗に初出の「秦王国」に比定したかとも見える。ともあれ、筆者は根拠を示さず結論を投げ出していて粗雑にみえるが、言わぬが花であろうか。確か、著者は「九州王朝」を否定しているはずなのだが、ここで、どんでん返ししているとも見える。

*地図の思想 Google Map利用規程遵守
 当地図の追記が不明瞭である。利用規約を遵守し、ご自愛いただきたい。

*不適切な引用作法
 地図掲示に関わらず、本論論義は断片佚文で句読点は無い。古田氏の発言ともども文脈を読みちぎって食い散らかしているので、筆者ほどの見識の方にして、誤解を避けられず、何とも不用意と見える。
 「俀国伝」で、「魏志倭人伝」公式行程の未詳部分、(山東半島東莱以降。狗邪韓国、対海国不通過)一支国以西と竹斯国以降が補充されたのであり、既出部分は「倭人伝」依拠で、重複を避けていると見える。文林郎裴世清は、職掌柄、史書書法に厳密であるが、後生読者は隋書「俀国伝」だけ読んで迷走しているように見える。いや、遡って「倭人伝」道里記事の読解にも、かなり難があると見えるが、当書評の圏外である。

◯私見披瀝
 言葉を足すと、竹斯国が「倭人伝」到達地伊都国であるのは、裴世清とその読者に自明であることから、「倭人伝」で不詳の秦王国などが、「余傍」のついでで書かれたと見える。筆者は、特段の根拠が無いままに、竹斯国を通過して東進と即断したと見える。筆者は、さらに(又)「道行き文」不記載の長途海行を図示された。要するに、いずれも「俀国伝」には書かれていないと見て取れるはずである。
 結論を急かずに、ユルユルと文意を追えば一刀両断できないのに気づいて頂けるはずである。筆者ほど博識の方が、事ごとに断定を急ぐのは、不用意と見える。
                               以上

2024年4月10日 (水)

新・私の本棚 古田史学論集 25 谷本 茂 『「鴻廬寺掌客・裴世清=隋煬帝の遣使」説の妥当性について』 再掲

 古代に真実を求めて 古代史の争点 明石書店 2022/3/31 
 私の見立て ★★★☆☆ 無用の深入りの感    2022/04/18 2024/04/10   

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。  

◯はじめに~伸びた鎖の危殆
 当論は、丁寧であるが、核心を離れ不確かな末節に囚われた感が勿体ない。
 古田武彦氏は、好著「古代は輝いていた3」で、隋書「俀国伝」/書紀「推古紀」の不整合論について、隋書原点への回帰を宣言したが、それ以降、依然として、「推古紀」の「妥当性」検証に陥っていると見える。当方は、一介の素人であるが、古田氏の趣旨に沿って、明解な判断を示そうとした。
 以下は、当ブログ過去記事に、(当然)重複するが、「俀国伝」起点の書紀「推古紀」評価により、「推古紀」の不備を露呈して、端から門前払いしてみせようというのである。

*本体部分~「推古紀」の重大な誤記と捏造
 ⑴ 「推古紀」は、「隋」を「唐」と誤記している。
 ⑵ 「俀国伝」は、隋使「文林郎」と明記し、「推古紀」は、誤記/捏造している。
 ⑶ 「俀国伝」は、隋使・遣隋使非同行とし、「推古紀」は、誤記/捏造している。
 ⑷ 「俀国伝」は、隋使は隋国書不持参とし、「推古紀」は、誤記/捏造している。
 ⑸ 「推古紀」は、遣隋使が訪百済時に、隋国書を略取されたと捏造している。
 「推古紀」記事を不当とする理由を五点に絞ったのは、諸兄姉の諾否を容易にするためである。異論があれば、以上項目に反論していただきたい。

*補足説明~「推古紀」の捏造・改竄疑惑
 説明不足とのご意見が懸念され、補足した。論証厳密でないかも知れないが、根拠ではないので、末節の揚げ足取りはご容赦いただきたい。
 書紀編纂者の手許に、隋使来訪時の公文書記録は、存在しなかったと思われる。推古天皇の使節派遣時に「唐」は存在せず、従って「隋」と記録するべきである。
 また、隋使裴世清は、皇帝/天子代理人であるから、絶対、本来の卑官を述べてはならないが、もし、何らかの事情で名乗らざるを得ないとしたら「文林郎」と名乗るべきである。これらの事項に、誤記、誤解はあり得ない。鴻廬寺「掌客」は、蛮夷渉外係の最下位であり、これを名乗ることは「客」が蛮夷に対する「外交辞令」であることを暴露するので、死罪に値する大罪を犯すことになるのである。

 先に述べたように、「日本書紀」編纂時、「推古紀」(編者)は、公文書捏造・改竄の重罪を犯しているが、勅命に従い、文書を「復原」したので、免罪となったと思われる。

 中国史官は「述べて作らず」を遵守するから、このような際には、史実をそのまま記述し「推古代公記録は存在せず」と明記した筈だが、書紀編者は中国史官でなく、創作の「不可能使命」に応じたと見える。ただし、手ぶらで創作できないから、典籍、例えば、四書五経、史記、漢書、春秋を引用したものの、肝心の隋書は入手できなかったと見える。
 先に挙げた事実関係の不具合が是正されていないという事は、「推古紀」は「俀国伝」を参照せずに創作したと見る。
 以上は、強固な物証でないが、強固な「状況証拠」であり克服困難と見たものである。「俀国伝」入手時は「書紀」公開後で訂正不可能だったと見られる。
 従って、隋使関連記事は、専ら「俀国伝」に依拠すべきである。

*古田氏の悔恨
 古田武彦氏は、自認したように、「俀国伝」と「推古紀」の融合によって、国内史書「書紀」の面目回復を図り、かえって揚げ足取りの餌食となって、本来明解な論議が混濁したのである。

 かたや、「推古紀」支持者は、『奈良盆地発の倭国東アジア「外交」』なる古代浪漫(Myth)を高々と謳歌して「推古紀」を金科玉条としている本来「古代に真実を求める」「俀国伝」考察は、これを後押ししているのである。

◯結論
 隋書「俀国伝」優先の古田氏提言は、一見、原史料尊重の古田氏信条に反すると見えるが、実は、あらゆる古代史史料は、中国史書基準で史料批判した上で、採否を決するべきである」と言う史学大原則に沿うものと思われる。
 以上は、諸兄姉に「安易」な議論と見えても、本来、真理は、核心に於いて明解、安易である。」
 史学素人の素人考えで、そう思うのである。
                               以上

2023年4月30日 (日)

新・私の本棚 松尾 光 「治部省の役割と遣外使節の派遣を巡って」~古代日本外交の謎

別冊「歴史読本」 日本古代史[謎]の最前線 1995年1月刊 新人物往来社
私の見立て ★★★★☆ 堅実。賢明な史料考察 「日本」視点の限界

*お断り
 本記事は、下記書評と重複していますが、現時点で、一から書き出したものなので、もし、ブレがあったら、ご容赦ください。
 新・私の本棚 別冊歴史読本 日本古代史[謎]最前線 1/2

〇はじめに~中国史料解釈の原点確認
 当記事は当ブログ範囲を外れるが、漢日語彙の齟齬という観点から、日本史料の視点で中国史料を考察して生じた誤解を指摘する。刊行以来25年を経て、同様の誤解が世上に散見されているので、僭越ながら苦言する。

*国内史料視点の解釈~中国史料を不備との速断
 氏は、七世紀後半から整備された国内律令は、漢(中国)律令を模倣、翻案したため、漢制を誤伝したと解している。つまり、「外交」部署が、鴻臚寺と別部署に分かれて書かれた律令を唐代官制老朽化兆候と速断しているようである。

*用語解釈の誤解~文化解釈のずれ
 本記事副題は、当時、日本に(外国との)外交が存在したと決め込んでいるが、漢律令に「外交」は存在せず、模倣ではなく一種の誤解、曲解とわかる。
 秦漢代以来、漢蕃関係であり蕃夷は対等ではない。「外国」は蕃「国」である。「国」は、本来、漢代の「国」は、劉氏一族を頂いた分国であった。対して、蕃夷の「国」は服属するが「交」は無い。群小蕃夷は、美称で「蕃客」とされたが、「客」は、よそ者を応対する渉外活動の対象と言うだけである。

*鴻臚寺の役所(やくどころ)
 要するに、鴻臚寺は、無礼な蕃夷をあしらって服属させ、手土産を与えて、次は何年後、「それまで来るな」と厳命して送り返したのが、主務であった。
 端的には、氏が末尾に感慨を述べるように、漢に対等の外国は存在しない。(例外は、漢高祖劉邦親征軍を包囲して屈従の盟約を結ばせた匈奴である)漢蕃関係は「外交」を想定してないので対応する官制は存在しない。
 要するに、中国律令の備えた理念と法制、官制が整合した制度を、「外交」が必要である日本に、無批判で写し込むことが「無理」だったのである。

*律令模倣禁止
 本来、中国律令は、国外持ち出し禁止であるが、一つには、律令にいう「天子」を蛮夷の王に書き換えると、中国が蕃夷になってしまうからである。

*日本の対外関係
 日本は、対等とみられる高句麗、百済、新羅とは「外交」が可能であったが、お手本とした中国律令に、そのような蛮夷間交際に関するお手本がなかったので、日本は、これら諸國を「蕃客」扱いし、隋唐使節をも「掌客」の手に委ねた。隋唐使が、「客」扱いに激怒しなかったら不思議である。

*使人の使命
 裴世清は、文林郎(文官)の登竜門から俀国に赴いたのであり、日本書紀が造作したようにお門違いの蕃客接待の「掌客」に任じられてはいない。(隋書俀国伝)
 要は、正体不明の蛮王への使人は生還を期せないから、低位官人から選任したのである。但し、派遣に際しては、臨時に高位に任じて皇帝名代とした。高位の使節団員は、下級官人には本末転倒で服従できないからである。

 また、皇帝の名代が、派遣先で、原職は下級官人であることを名乗ることは、あり得ない。余り顧みられることがない事情を蒸し返すのである。

〇誤解の起源と継承
 中国人が中国人を統御するための律令を、土壌の異なる日本に無理矢理移植したために不合理が生じているが、それを、現代日本人の言葉と世界観で、正確に理解はできないことに、早く気づいて欲しいものである。

                               以上

2022年7月30日 (土)

新・私の本棚 川村 明「九州王朝説批判」最新版 1/9

 ~七世紀の倭都は筑紫ではなかった サイト記事批判
2016/03/20 2018/05/05 2019/03/01 04/20 2020/06/24 2021/09/12改稿 2022/07/30

私の見立て ★★★☆☆ 賢察に潜む見過ごしの伝統

▢「九州王朝説批判」抜き書きの弁
 当記事は、書籍の批評ではなく、川村明氏の個人サイト記事の批判ですが、決して、個人攻撃でないと了解いただきたい。氏ほどの見識の方が、中国史書の書法に行き届いていないために、見過ごしによる誤解と見える発言が散見されるので、誠実、率直に指摘しているものです。
 当連載記事は、当初掲示以来、五年以上たった今、少ないとは言え、閲覧件数が維持されているので、全体の言い回しを調整の上、追記し、再読して、部分的に取りだして、9ページに分割の上、再掲示しました。以後、時に応じて、補充しています。

*「古田武彦 九州王朝説」批判の由来
 因みに、川村氏の記事は、古田武彦氏の主張の各条批判なので両大家の角逐に口は挟めないのですが、論議起点たる史料確認が不十分なまま書紀記事の吟味に没入、注力して、私見では、些末、細瑾に囚われているので、論争の原点を見直して頂きたく、ご再考を促す趣旨で筆を執っています。(古田武彦氏は、既に故人になられましたが、古田氏の後継者は健在なので、聞く耳があれば、ご一考頂きたいのです)

 ここに書きまとめた当記事は、倭人伝から隋書にいたる中国史料を基点とした考察であり、その視点から言うと、日本書紀は、「史料批判、つまり、資料としての検証を要する外部文献」です。史学の基本である史料批判抜きの「書紀」視点で進めた解釈と異なる起点から解釈を試みます。

追記:まず、ここまで言いそびれていた批判を一つ述べます。
 第2章 七世紀の倭都は筑紫ではなかった(Historical)

〇「倭都」は無かった。 追記 2021/09/12
 「中國哲學書電子化計劃」の収蔵史料の魏晋代以前の文書の全文検索で「倭都」なる漢語は見つかりません。
 つまり、古代史において「倭都」は無法であり、ここに掲示していると著者の見識を疑われるのです。
 これは氏の独断でなく、国内史学界で常用されているのでしょうが、小生は、一介の素人であって、遠慮なく正論を唱えることができるのです。

*「都」の字義
 端的に言うと、「都」の示す意味は、殷周代以来、三世紀、さらには、七世紀に向かって、変遷を重ねています。言う迄も無いのですが、この期間、中国に「世紀」の概念は無いので、本来、世紀で論じるのは無意味なのですが、便宜症、つまり、他に、適当な紀年法がないので、大勢に従うことにします。

 漢字の考証という事で言うと、「都」は、本来、つまり、殷周代の用法では、「すべて」、「つどう」の意味で、当然、以降の秦漢魏晋代にも、その意味は脈々と受け継がれています。
 後世、地域の交通、市糴の要(かなめ)を「都」と形容し、それが王城、王居の意味となったようで、時に、古代王朝の王の居所/居処を示す意味で使われたのです。
 つまり、天下形勢変動に応じ、時代、状況に即して「都」の意味が異なるので、当然、書き手と読み手の理解のずれ、つまり、誤解を招きます。例えば、唐代編纂の隋書「俀国伝」で「都於邪靡堆」と風聞に基づいて書いた趣旨は、時代、状況不明で、理解困難な事例の最たるものです。

*笵曄「後漢書」評判記の試み
 いつ、誰が書いた文献の引用なのか、知るすべがないのです。衆知の如く、笵曄「後漢書」は「邪馬臺国」であり、魏志「倭人伝」は「邪馬壹国」なので、「邪靡堆」は、無根拠の誤記と見えます。南北朝の時代を、荒廃した中原地域を支配した北朝は、手に入る中国古典資料をもとに、秦漢以来の国政を復元しようとしたはずですが、後漢、魏、西晋まで辛うじて維持されていた、歴代政権の公文書は喪われていて、西晋の公式文書であった魏志は、比較的高度な写本を獲得したようですが、南朝劉宋時、逆臣として斬首の目に遭った笵曄の遺著は、どのようにして、北朝の蔵書となったか不明です。後漢代の正史は、西晋代に到っても確立していなくて、劉宋の高官であった笵曄は、先行する「後漢書」候補を参照した上で、文章家としての贅を尽くした「後漢書」を編纂したと見えますが、あくまで、先行史書と併存する「一史書」との評価にとどまっていたと見えます。
 唐の統一政権下、旧南朝政権の蔵書を徴用して、中原政権に相応しい正史編纂の偉業を成し遂げた関係者の労苦は、大いに讃えるべきですが、記事内容に関しては、慎重な「査定」が必要と言わざるを得ません。
 と言うことで、隋唐史官の手にあった南朝編纂史書「後漢書」の素性は、大変不確かと言わざるを得ません。

 我々、遙か後世の東夷の無教養、無学な輩は、何としても、安直な受け売りを避けねばならないのです。

*日本語に残る古代語~倭人伝考
 日本語には、隋唐代の中国語が生き残っているという説が在りますが、日本語の「都」は、渡来以来、時代を経て風化し、今日、単に大きな「街」(まち)と解され、「商都」「工都」など、各地に、色とりどりの「みやこ」ならぬ「まち」が言い慣わされるため、国家元首居所は、特に「首都」と言わざるを得ないのです。この場合、「都」は最上位の「まち」、《東京》と解されても、「東京都」は、最大の地方公共団体に過ぎないのです。まずは、諸兄姉の脳内辞書を点検して、中国史書の解釈に取り組む必要があるのです。

 つまり、「都於邪靡堆」の「都」の解釈は、いずれの時代のいずれの史料を承継しているのか、精査が必要です。因みに、倭人伝の「都水行十日、陸行一月」は、未踏の倭に至る行程、道里を縷々述べた後での総括であり、ここで求められるのは、郡を発して以来の総所要期間と見るのが「普通」と見えます。つまり、「都合水行十日、陸行一月」であり、部分日程の総計日数であることを示していると見ると、自然に解釈できるのです。

*牛馬のいない倭地の事情
 「倭人伝」の編纂にあたっては、新参の東夷「倭人」に至る文書送達日数が必須事項であり、倭人の地には、中原地域と異なり、街道がない、つまり、文書使が騎馬で疾駆し、宿場ごとに馬を替えて乗り継ぐ「インフラストラクチャー」(道路、水道、宿場制度など、古代社会の基礎構造)が存在しないため、国間道里を書いても到達日数が保証されないという背景から、倭人は、「行程道里を言うとき所要日数で言う」という定見を明記したと見えるのです。

 このあたり、世上、俗耳に馴染んでいる考証の大半が、そっぽを向いて空転し、世間に混沌を広げているのではないかと、懸念しています。
 もちろん、国内史学界用語が、中国史料が書かれている語彙を、しばしば逸脱して、時代錯誤の「造語」に走っているのは、時に、中国古代史家から指摘があるのですが、これだけ蔓延していると、「つけるクスリがない」という例に、散見どころでない頻度で、おめにかかるのです。

*無理な造語
 このように、丁寧に考察を深めていくと、氏の見解は、(中国)史料に根拠の無い造語を起用しているので、はなから無効と見え、露呈した疑問点を克服すべく、考え直して頂く方が良いでしょう。

 「七世紀の倭都は筑紫ではなかった」と、今ひとつの「なかった」提言ですが、このたびは、大きな空振りと見えます。
 隋書「俀国伝」収録の裴清記には、当然「倭都」はありません。また、魏志倭人伝の従郡至倭行程に「倭都」はなく、東夷蕃国の倭に至高の「都」があったとする確たる記事があるわけでもないのです。

 以上、広く諸史料を読みふけって総括した論議で、明解な論拠が示せないので温めていたものですが、この際、言うことに決めたのです。

 氏の潤沢な考察の瑕瑾をつくようで恐縮ですが、遅まきながら、史眼のブレの可能性を指摘しておきます。

                               未完

新・私の本棚 川村 明「九州王朝説批判」最新版 2/9

 ~七世紀の倭都は筑紫ではなかった サイト記事批判
2016/03/20 2018/05/05 2019/03/01 04/20 2020/06/24 2021/09/12改稿 2022/07/30

私の見立て ★★★☆☆ 賢察に潜む見過ごしの伝統

*竹斯俀国説~竹斯放射行程説
 まず、隋使は、最終目的地として竹斯國に安着、滞在したと見えるのです。竹斯国は、倭人伝の伊都国に相当する政治、経済の中心地と見受けます。

 つまり、俀国王治(王の居所、ないしは居城)は、竹斯国そのものか、近傍と示唆/明示されています。倭人伝では、伊都国を扇の要とした「伊都中心」の放射字葉の行程解釈が最有力で、それに追随していると見えます。隋書編纂にあたっては、最有力の先行史料として、魏志倭人伝を精読したはずであり、
 俀国伝に言う「達於海岸」とは、街道行程で陸地を進んで海岸に至り、竹斯国の所在する海島の東端を確認したと言うだけであり、言わば、海を眺めたという程度でしょう。
 丁寧に言うと、そこから船出したとは書いていないのです。倭人伝で言うと、狗邪韓国の海岸に達した後、渡海して對海国に至ったと明記されていてるのです。隋書は、当然、倭人伝を熟読して書かれているわけですから、渡海に類する記事がないということは、隋使は、海岸から引き返しているのです。あるいは、東に行くと海岸に出るとの風聞を書き記しているだけかも知れません。

 因みに、倭人伝の文書としての深意が、郡から倭に向かう端的な行程に、余傍の国に関する追記が付されているとみれば、『「放射行程説」は、諸国を対等に取り上げている』と倭人伝の文意を取り違いしているとみられるのです。
 このあたり、先行史書、特に、魏志倭人伝を丁寧に解釈した上で、隋書の取り組むべきであり、間違っても、国内史書の視点で道を誤らない注意が必要です。
 この点は、国内史料に造詣が深ければ深いほど、早合点しやすいので、ご自戒いただきたいものです。
 と言うことで、中国史書の視点から、かなり深く読み解かないと、国内史学界に「普通」の文法解釈、先例踏襲に囚われて、深意を見失うことが多いようです。

 元に戻って、俀国伝の行程の意味を、もう一度、今度はゆっくり考えると、隋使滞在地の東に秦王国があって、さらに東に進めば、十余国を経て海岸に着く(達於海岸)とみられるのです。「海岸」とは、字義からして、海に臨む岸壁であり、当然、砂浜や渚などではなく、また、そこに船着き場があるかどうか述べていないのです。
 船着き場があれば、「津」と明記されるものであり、隋書編者は、正史記事に身命を賭しているので、行程の経過点である「津」を、暢気に「海岸」などと書くことはないのです。そう言えば、重要な行程道里抜きに、「津」に着いたと書くことはないのです。

 そして、「海岸」の向こうは、岩壁か浜か渚を歴て、多くの船が往き来する海だから、そこには、最早「国」はないのです。そうした、東方の諸国十余国(十余国に秦王国を一国足しても同じく十余国)が、皆、竹斯國に附庸しているというのは、倭人伝に順当に追記していることになり「明快」です。

*隋使竹斯滞在説の掘り下げ
 つまり、隋使は、到着以来竹斯国に滞在したのであって、一路東に旅したわけではないと見られるのです。
 仮に、遠路東に向かったのであれば、「循海岸水行」、海岸の港から沖に出たと書くでしょう。あるいは、「浮海」、海をゆるゆる漂ったと書くものでしょう。中原人にとって、陸路を行かない移動は想定外なので、もし、未知の国で、そのような前例のない移動をせざるを得ないとしたら、克明に書き遺すものでしょう。そうでなければ、東夷の国城を探査するべく派遣された隋使の役目を果たしていないことになるのです。

 復習すると、隋書俀国伝は、正史の東夷伝として、三世紀に書かれた倭人伝に依拠しているからこそ、後世正史としては、重複した記事を書く必要はなく、かくも簡略な記事で済むのです。

 言い換えると、倭人伝にも中原官制にもない、異例極まりない命がけの東方船舶航行が数十日に亘り続いたなら、省略が許されなかったでしょうし、初めてその境地を書いたという誇りが文面に表れたでしょう。

 以上は、ただ史料の字面を追うだけで済まない、かなり高度な文章読解になりますが、落ち着いて考えれば、以上のような堅実な読みに至るはずです。要は、史料に書かれていない、明示も示唆もされていないことは、史料には書かれていないのです。

 かくして、しばらく「客館」に滞在いただいた上で、迎えを送って隋使を歓待したものでしょう。全て、竹斯国とその周辺の出来事と見ると、記事が簡潔なことに符合します。

                               未完

新・私の本棚 川村 明「九州王朝説批判」最新版 3/9

 ~七世紀の倭都は筑紫ではなかった サイト記事批判
2016/03/20 2018/05/05 2019/03/01 04/20 2020/06/24 2021/09/12改稿 2022/07/30

私の見立て ★★★☆☆ 賢察に潜む見過ごしの伝統

*客館掌客の深意
 因みに、中国古代語法で、「客館」は、「客」と美称を得ているものの、文意としては「蛮人のねぐら」です。
 北朝が天下を取り、北狄鮮卑の血を引く皇帝が、隋唐の帝位に就いて「中世」が開幕したから、蛮夷を「客」と呼ぶ官制は変わりそうなものですが、煬帝は、鴻廬寺の「典客」を「典蕃」に改称したように、むしろ「天子」の意識が強く、裴世清も東夷を見おろす意識を堅持していたでしょう。
 と言う事で、書紀に書かれた、あっけらかんとした「掌客」任命には、曰わく言いがたい不審を感じるのです。高官から下っ端まで同格、一律の「掌客」とは、何をお手本にした創作なのか、不可解です。要するに、書紀編者には、当時、中国に長く確立されていた組織的な国家体制の認識はなく、つまり、国家には、蕃夷を接待する鴻臚が存在し、そこには、最上位から下位に至る格付けがあったと見る見識がなかったのです。

*明快な一解の提示
 以上に例示した「読み」は、言うならば、誠に端的明快ですが、氏の奉じる古代「浪漫」に整合しないので、同意はいただけないでしょう。それはそれとして、倭人伝解釈に連動した史料解釈として、意義あるものと考えます。
 以下、氏の紹介に従い隋使来訪事件の顛末を読み進めますが、真剣な提言に真剣な批判を加えるのは最高の讃辞と思い、しつこく批判する次第です。

*国内史料依存の隋書解釈
 引き続き、氏が滔々と提示する、隋書の倭国(四庫全書版隋書に従ったと言うものの、実は、日本書紀に大部分を依拠)記事に関する考察を通じて、先に提示した当ブログ提示の解釈と異なる点を指摘したいところです。

 「つまり、対馬、一支、筑紫を経て東行し、秦王国を過ぎたあと、そのまま瀬戸内海を東行して大阪湾岸に着き、俀王の出迎えを受けて都に着いた、と素直に読めるである。これは魏志倭人伝と比べると、他に解釈の余地のない、あまりにも明快な行路記事である。」

 「凡庸な論客は、自信のないときは、ことさら断言する、自信の全くないときは、断然断言する」という経験則に従うと、氏は、この部分に大分疑いを抱いているようです。そのせいか、筆の滑りも不都合になっています。
 対馬、一支、筑紫を経て東行し、秦王国を過ぎたあと、そのまま瀬戸内海を東行して大阪湾岸に着き」とは、まるで、現実感のない、夢路のようです。対馬、壱岐から筑紫に至る行程は、とても、「東行」と言えるものではありません。筑紫は、壱岐のような海島ではないので、一旦上陸して、固い寝床に安着する必要があります。又、筑紫から俀王に安着の報せを送り、歓迎の返信を待つ必要があります。俀国側も、受入体制を整える必要があるのです。
 とても、秦王国を歴て、そのまま東行とは行かないのです。隋使の乗船を秦王国の東に回付するとしたら、関門海峡の難所を突っ切り、どことも知れぬ「東の海岸」で待ち合わせる必要があります。俀国の便船が、東の海岸に待機していたとすれば、其のような大層な連絡は軽減されますが、それでも、筑紫から指示して、海港で隋使の受入をしなければなりません。以降、「瀬戸内海を東行」で片付けていますが、これだけの長い行程ですから、筑紫から指示して、港港に隋使乗船の寄港体制を作り、復唱を受けて、遙か「大阪」湾岸にまで移動可能と見通した上でないと、「東行」などできないのです。「掌客」を新任して済むものではないのです。まして、そのような大規模な移動は、過去にないのです。

 素人でも見当がつく大事業ですが、隋使一行は、魔法の絨毯か、孫悟空の觔斗雲にでも乗ったように、「秦王国を過ぎたあと、そのまま瀬戸内海を東行して大阪湾岸」 に着いています。「素直」は、国内史学者の世界観が中国史官に通じているという素朴な思い込みに流されたのではないかと懸念されます。

 因みに、朝鮮半島西岸、南岸の旅路は、倭人伝で既知の行程であれば、いきなり、対馬に着いたと書けば良いのであり、殊更、要所での停泊を書くのは、倭人伝に当該行程が書かれていなかった、つまり、実は、公式道里は、帯方郡を発して一路内陸街道を移動したと見えるのです。
 また、対馬、壱岐について特に書いていないのは、倭人伝に既に書かれているからであり、竹斯国も書くに及ばないものと見えるのです。
 
*待てば海路の日和
 冗談口を叩かれるのを望んだわけでもないのでしょうが、難所続きで、とても安楽に通過できたとは思えない「瀬戸内海」を一気に過ぎているのです。古人曰く「白河夜船」でしょうか。先に触れたように、瀬戸内海を船で通るには、「既に、各地に寄港地が整備され、難所には、場合によっては迂回路を提供して、一貫した帆船航行ができた」と仮定しても、寄港地ごとの潮待ち、風待ちで、まあ、悲惨な船酔いは緩和されたでしょうが、「海路の日和」を待ち続けて、どう思ったのでしょうか。
 とても、眠り続けては居られなかったでしょう。何しろ、ゴロゴロ船室は回り続けるし、いつ難破して海のモズク、いや、もくずになるか、怖くなかったのでしょうか。

*見えない墳丘墓の景観
 「大阪湾岸」と言っても、当時、其のような時代錯誤の地理概念は存在せず、いつ、河内平野北部が乾いて、平地に隋使を迎えられる宿舎や馬車で移動できる街道が整備されたのか、それとも、湿地帯を避けて南の古墳地帯の羽曳が丘の丘陵部から、二上山の鞍部、竹内峠(「峠」は中国語にない「国字」です)を越えたのか。これも不明です。泥濘地から勃興した河内平野の繁栄を論じるには、緻密な時代考証が必要です。

 「河内湾の船上から見えるように殊更に基礎を持ち上げた」という古墳群の勇姿/絶景が、隋書に書かれていないのは、これもまた不思議です。隋使なる悪質な蛮人に見られないように覆い隠したのでしょうか。とても、素直になれないのです。

                               未完

新・私の本棚 川村 明「九州王朝説批判」最新版 4/9

 ~七世紀の倭都は筑紫ではなかった サイト記事批判
2016/03/20 2018/05/05 2019/03/01 04/20 2020/06/24 2021/09/12改稿 2022/07/30

私の見立て ★★★☆☆ 賢察に潜む見過ごしの伝統

*接待、慰労、そして検疫
 好意的に見るならば、隋使に限らず、大陸や朝鮮半島からの来訪者は、長期の航海で、船酔いしなくても、死ぬほど疲労していたと思われます。当然、九州島に到着したら、なによりも上陸して、くつろいだと思うのです。
 また、ここまで隋使をもたらした外洋船も、食料や水の補給は当然として、長期の係留には、川港の汽水層に占めて、船腹を保護しなくてはなりません。
 受け入れる倭も、素通りさせられないはずです。海の向こうからの来訪者は、悪疫を運ぶことが想定され、接待慰労とともに検疫隔離したはずです。

*越せない難所連発
 念を押すと、筑紫を出た隋使の船が、遠路遙か、未知なる大阪湾まで航行するのであれば、いかに大型で頑丈であろうと、多島海の航路と寄港地を熟知した水先案内人の乗船が不可欠です。いや、格段の大型の船舶であれば、地元の漁船が抜けられる難関に、船腹か船底がつかえて、難船するでしょうから、とても、無事で通過できないことでしょう。
 と言うことで、いくら現地海況に通じた案内人がいても、別に、外洋航行の大型の船の舵取りを経験はないので、どのような大技で、関門海峡、芸予諸島、備讃瀬戸、明石海峡とある極めつきの難所を、無事通り抜けられたのか、そして、何の報告もないのは不可解です。
 隋煬帝が、不遜な蛮夷を討伐するために、大兵を乗せた海船を送ったとしても、難所突破の策がなければ、討伐どころか難船してしまうのです。
 ここで疑問を投げかけると、国内史料には、各地の要所の寄港地に水先案内を備え、乗り継いで瀬戸内海を一貫して船で往き来できる体制が、いつ整ったのか、史料をお持ちなのでしょうか。
 また、後世、整然たる街道が整ったとして、隋使来訪の時点で、街道往来のできない事情は何かあったのでしょうか。当時の中原人にとって、海船での長期の移動は、難破による水死の恐怖と転げ回る船室と船酔いの苦痛の渦であり、数十人の一稿と見て、一人、二人では済まない死者が出そうなものですが、なぜ、陸上移動しなかったのか、素人考えでは不可解です。
 もちろん、当時は、三世紀の倭人伝時代以来数世紀を経ても、乗馬移動も馬車移動もできなかったという事なのでしょうが、それでは、「奈良盆地」ないしは「河内湾岸」の国王は、北九州竹斯国の支配を、どのようにして維持していたのか。そぞろ疑問です。
 辻褄の合わないことを、素直に説かれると、不信感が増すだけです。

 遠路、超大国の使節が来たのに九州北部から大阪湾までの、隋使にとって未知の、しかも、長期長距離の行程を、自力で来いとはおかしな話です。書紀に従い、隋使に小野妹子一行が随行していたとしても、多数の出迎え必須でしょう。
 筑紫から大阪湾岸に連絡があって、一方では接待の体制を作りつつ、一方では出迎えの一同を送り出したのでしょうか。日帰り範囲に来たのに対して船団で出迎えているようですが、それまで放置していたのでしょうか。

*筑紫鴻廬館談義(?)
 筑紫に後年の「鴻臚館」相当の施設があったかどうかは不明ですが、順当に考えれば、どこか、適切な宿舎で待機している隋使到着の知らせを「大阪湾岸」まで伝えて、出迎えの高官を派遣するものではないでしょうか。

 「鴻臚館」は、蛮人の滞在先という意味であり、鴻臚「掌客」は野蛮人の接待役という役所(やくどころ)の最下級の役人なので、隋使が聞いたら、蕃夷扱いの上に、ぞろぞろと下っ端しか出てこないのかと憤激することでしょうが、書紀の関連記事では、そのような「賓客」の意義は全く意識されていないのです。

 そもそも、蛮人の「もてなし」と言いつつ、礼儀を躾けていた「鴻臚寺」の役所を誤解しているので、かくのごとく間違いだらけになったのでしょう。恐らく、鴻臚の組織、分掌など知らなかったのでしょう。何しろ、隋が、大使節団を送り込んでくるのだから、隋使は高官と決め込んだのでしょうか。中国の国家制度は、厖大な官職組織ですから、遣隋使の見聞では、接待役の鴻廬掌客は見知っていても、別組織の「文林郎」など聞いたこともなかったのでしょう。

 待機期間は、「大和」に至る遠距離との連絡往復であれば、文書交信の期間も含めて数ヵ月に及ぶ可能性があります。随分長期間の待機滞在だったはずなのに、何も書いていないから何もわからないのです。だからといって明解と言うことではないのです。謎を呼ぶのです。

 それにしても、書紀が正確な記録としたら、隋書は、なぜ、肝心な事項を、不正確にしたり、書き漏らししたりにしたのでしょうか。

 隋使の報告は、厳格に監査され、隋使の評価が下されたでしょうから、裴世清が処罰されたと書かれていない以上、其の報告は、妥当なものとして受忍されたとみるべきです。何しろ、後年の唐使高表仁は、刺史という高位にありながら、倭の王子と口論して、使命を達成できなかったと酷評されているので、裴世清には、其のような不始末はなかったと見るのです。

                               未完

新・私の本棚 川村 明「九州王朝説批判」最新版 5/9

 ~七世紀の倭都は筑紫ではなかった サイト記事批判
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私の見立て ★★★☆☆ 賢察に潜む見過ごしの伝統

*謁見の場
 さて、書紀を援用する氏の解釈に従うと、隋使は、恐らく半年近くたって、遠路遙か「大阪湾岸」に上陸して、宿舎で接待され、更に日を経て大和に招かれ、倭王と会見したらしいのです。

*知られざる交流史~放念された伝統
 隋書にある俀王の言葉は、「中国に大隋のあることは知っていたが、これまで、(山中に)引きこもっていたので、使いを出せなかった。先年、使節を送ったのは、大隋の恩恵に浴したいためであった」とありますが、大いに不審です。
 そもそも、隋以前、歴代王朝への長年の遣使があったのです。隋書に書かれている遣使の歴史は、俀王が、歴代蕃王の伝統の継承者であると宣言しているものであり、隋朝文林郎たる裴世清には、すべて既知であったはずです。

 長安ないしは洛陽の鴻廬には、秦漢代以来の「鴻臚」の貯えた、れっきとした公文書が保管されていたのです。もちろん、「皇帝御覧」の神聖不可侵の文書記録ですから、改竄、差替は不可能の極みです。また、各文書上申部門には、全て控えがあり、皇帝に上申した内容は、部門公文書に所蔵されています。中国史料は、そのように、改竄、変造に対して、絶大な抵抗力を持っているのです。いや、これは、度々触れるように、西晋が、匈奴などの侵略で国を喪った際に、継承が断たれたのですが、その際、侵入者は、公文書撲滅の意識は無かったので、全滅まではしなかったと見えます。

 ここで確認すると、隋使来訪は、二回目の遣隋使派遣に対する応答です。
 初回遣使で、使人は、国書での提示ともに、鴻臚の審問に応えて口頭で国情、風俗を述べています。なかには、俀王の政事について述べた下りがあって、皇帝隋文帝は、これを「道理」に反するものとして叱責し、改めるように厳命しています。
 何しろ、俀国使人は、自国が勝手に制定している官制など、「礼」に外れた蕃制を得々と語っているのです。これも、南朝と称した「賊」の認めた無礼なのかと、怒りを覚えたはずです。
 皇帝の叱責を受けた使人は、当然、帰国次第、俀王に皇帝の指示を伝え、改めさせると約束したものと思われます。

 ところが、八年後の遣使の献じた国書には、大隋の仏教興隆に感銘を受け、仏僧を留学させたいと述べていますが、俀王の政事をどのように改めたか明言がないように見えます。煬帝は、先帝の指示に対する応答がないのは、無礼と感じたものと思われます。

*海西の由来
 また、しきりに、隋帝を、「海西」の君主と称しています。当時の常識としては、西域の萬二千里の蕃国安息国の更に西、大海の向こう岸にある海西、幽冥の地に擬しているものと思われますが、東夷の蕃王天子と西戎(蕃王)天子と対等の位置付けに擬されて、無礼この上なしと怒気を発したものと思われます。そもそも、中国では、天子は、唯一不可侵であるので、このような無礼は、死に値する罪科です。
 周が殷(商)を打倒したのは、天下に天命を受けた天子は唯一で、天命を喪った天子は直ちに撲滅しなければならない、としたものであり、東夷の天子は、西戎の天子を滅ぼすと挑戦したものとも解されるのです。
 
 東夷の自称天子は、定説では、全て承知の上で、西戎天子と対等との姿勢を示したことになっていますが、世上、「夜郎自大」と言われたり、蟻が大山と背比べするようなものといわれたり、「井蛙」、つまり、井の中の蛙と言われたり、無知な蛮人の暴言は、正史に晒し者になっているのです。

 以上のような背景を見ると、隋使にして見れば、皇帝が使人に与えた指示が、代々の蕃王に継承されず、無礼の罪すら謝罪しないとしたら、互いに取り決めすることは無意味になるのです。
 礼を知らないという煬帝の非難の中には、拝謁の際の勅諚、つまり、厳命された取り決めが維持されないのは無礼である、と言う主旨も含まれていたのではないでしょうか。蛮人は物の道理を知らないから、無知による無礼の失言は直ちに咎めるべきではないという天子の寛容性は、限度に達したと見るものでしょうか。

 「礼」の中には、約束を守るという大原則が含まれているように思います。もちろん、国内史料には、そのような究極の「無礼」の自覚も反省もないのです。

*倭国紀年
 ここで、氏は、日本書紀記事の信頼性の裏付けとして、隋書と書紀の紀年の整合を言い立てます。
・部分引用(…は中略記号)
 「しかも…「明年」とは、直前(中略)に大業3年とあることから、大業4年のことであることがわかり、これは推古16年にあたる。ところがよく知られているように、『日本書紀』の推古16年条には、…中国の使者裴世清…が、大和を訪れて天皇と会見した記事があり、これらを同一事件であるとして何の矛盾もないように見える。」

 後年の書紀編纂時に、編纂部門全体としては、史記、漢書、三國志から隋書に至る正史や晋起居註などの中国史料を参照できたのは、明らかですから、書紀の史料批判に際しては、隋書記事に合うように、書紀の紀年を操作したのではないかという素朴、自然、順当、普通の議論(異論)克服の「試錬」が必要でしょう。
 「何の矛盾もないように見える」などと温厚な断定表現ですが、単なる見てくれで安心してはならないのです。

 素人考えですが、隋初まで中国と交流が無かった「ヤマト」が神功皇后紀に魏志記事を挿入したように、大変「巧妙に」紀年を中国暦と整合させたと見て取れます。素人が感じる疑念を解消していただかなくては困るのです。
 このように、(中国)史官の史書編纂は、「述べて作らず」が厳命されているので、「書紀」の度を過ごした創作志向には、(中国)「正史」に寄せる信頼と同等の信頼は置けないのです。

未完

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 ~七世紀の倭都は筑紫ではなかった サイト記事批判
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*書紀史料批判~初回遣使記事の欠落
 俀国伝には「自魏至于齊、梁、代與中國相通」とあり、「俀国」遣隋使は、魏代以来、隋が逆賊とみた齊、梁へ遣使の歴史を裏付けたことは明らかです。隋は、南朝最後の陳を滅ぼした際、公文書を徴用したが、倭国の遣使については、肯定も否定もしなかったと見えます。

 大業四年(608CE)の隋使来訪に先立ち、隋文帝の開皇二十年(600CE)に遣使して、独自の官位制など、国政概要を滔々と申告していますが、書紀には、この際の交流は何も書かれず、大業遣隋(唐)使が、初お目見えと書かれています。書紀編者は、俀国伝との食い違いに気づかなかったのでしょうか。気づいていれば、辻褄合わせは「さほど」困難でなかったと見えるのです。

 何しろ、前例がないから、漢使接待儀礼は未整備で、漢語を話す公式通詞もいないはずですから、ちょっとした見物(みもの)だったはずです。そして、文明国家は、克明な記録が必要と厳格に訓練されたはずです。
 遠隔地に報告するとしても、日々、早馬で急報したはずです。いや、船便しか無いのであれば、急使は、甲板を馬で駆けた事になります(冗談御免)。
 このように、書紀は、隋との交流に関して確認しただけでも、欠落が多く史料として信頼性を損じていることが明らかです。と言う事で、提示された隋使来訪記事は、史実の適確な反映かどうか疑問が生じます。

 この点だけに絞っても、書紀編纂時、紀年を中国史書と整合させる高度な努力を払ったから、隋使来訪の画期的事件の紀年が整合するのは当然です。そして、更なる整合がとれていないのに、疑問を呈しているのです。
 紀年整合は、ほんの初歩であり、ことさら「合致」と言い立てるものではないと思うのです。八世紀創建の「日本」側では原記録不明、継承不確実とあっては、正史史料批判に採用できないのが「普通」の考えでしょう。

*こよみの始まりと遡行
 丁寧に言うと、推古十二年(604CE)、最初の暦が開始されたと伝えられますが、要は中国暦の運用を開始したのであり、それ以前は暦が無いと読み取れるのです。

 暦では、日日、甲子、乙丑、丙寅と六十日周期の干支が充てられますが、暦の無い時代に干支を遡行させるには、月の大小に合わせた日数調整と閏月計算が必要です。隋開皇二十年は四年前ですが、高度な演算が必要です。
 つまり、書紀記事の六世紀までの記事の紀日、紀月、紀年の干支は、編纂関係者の労苦の産物であり、誤算や疎漏があっても責められないのです。
 川村氏ほど、造詣の深い方であれば、素人読者を置き去りにせずに、少なくとも、本件に関する素人の不審感を振り払っていただければ幸いです。

*書紀史料批判~誤記、誤引用放置  追記 2021/09/12
 書紀記事の欠点は諸所に露呈し、改めて指摘するのも失礼なのですが、(中国)正史隋書「俀国伝」と対照すると、次の謬りが歴然としています。
1.国名誤認
 まず、遣使先の国名を誤記しています。
 「大唐」は、遣使時点で存在していなかった後継帝国の尊称であり、書紀の原典史料にそう書かれていたはずはないのです。して見ると、根拠史料は逸失していて、書紀編者の捏造と見ざるを得ません。

 なぜ、「大隋」と書かなかったのでしょうか。なぜ、国名誤認に気づいて訂正しなかったのでしょうか。隋書「俀国伝」は、国名蔑称とみて、忌避していたのでしょうか。まことに不可解ですが、それは別儀です。

                               未完

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2.職分誤認
 隋使裴世清は「文林郎」でしたが、書紀は「鴻臚寺掌客」と誤記しています。
 あえて、論外な書紀記事の不規則発言を許すと、どちらも、官位の下辺で略同格ですが、「文林郎」は文書管理部局の散官で教養を有し、「掌客」は、蕃客接待専任部署の実務担当で、権能が異なります。書紀記事は、官制や「客」の意義に無知な者の憶測と見られます。
 書紀記事をあえて信じると、裴世清は、国書で鴻臚の蕃客接待の下級官人と紹介され、返書では、鴻臚寺掌客の使人派遣に感謝したことになり、極端な事実誤認が浮き彫りになります。まことに不合理です。

 つまり、それら記事は、書紀にとどまるものであり、隋国に対して表明されたものではないのです。言うならば、記事捏造です。

 隋使は、特任外交官、行人、使人です。そうしないで、原職としていると、随行官が服従しませんから、臨時に、高官に擬されていたことになります。蛮人への「大使」は、大抵、臨時の高官なのです。

3.国書捏造
 隋帝は、「無礼、無作法で、服属を認めない」頑冥な蕃夷に、皇帝名の国書を呈するわけはないのです。
 正使は、あくまで「表敬訪問」であり、接見の場では、余人を排した場で、口頭で非礼を叱責し、俀王に改悛を求めた筈です。
 初回の無作法に続く再犯であり、重罪と悟らせる必要があったのです。当然、そのような応酬は、国史に残せません。皇帝に大変な不面目を浴びせるからです。
 これに対し、書紀は、「存在しない国書」の物々しい文言を滔々と述べ、後世に隋帝の国書の継承がないのを言い訳してか、こともあろうに、正使は、裴世清大使と同行した(と誤認した)百済訪問時に、不法にも、百済によって国書を「盗まれた」と詐称しています。俀国正使が、隋使と同行して、百済を訪問したというのは、不合理な推定であり、採用できないものです。
 倭の正使は、少なくとも、警備を含めて、数人では済まない一団であり、それこそ、国書強奪は、血の雨が降る大事件なので、隋使に知られずには済まなかったとみられます。史料を見る限り、俀国正使は、隋使に随行せず、早々に単独帰国したと見る方が妥当です。
 (存在しなかった)国書喪失という国家重大事件は、明らかに無残な捏造で、遣隋使が親族連座の重罪を犯し、流罪に値すると裁定した上で、君主が正使を免罪したなど、無法な事態収拾に苦闘したと見受けます。

 書紀の記録を見る限り、正使は、隋使に国書喪失を知られたら不名誉との理由で寛大に赦免され、後に正使に起用されています。まことに不合理です。
 隋使は、国書を携えて来訪したのであれば、会見の際に俀王に授けるのであり、例えば、正使に渡した国書を仮のものとして、正式国書と入れ替えに回収するなどと言い出せば、応答に窮するのです。

 そもそも、百済は、長年中国政権と交信しているから、このような際に、隋と俀のやりとりを妨害したら、とんでもない懲罰を受けるのは自明であり、また、隋国書を奪っても、実質的に得るものはないことも自明であり、して見ると、国書掠奪などは意味不明な一大事なのです。
 何しろ、書紀の字面では、隋使は、倭使と同道して百済に寄港したことになっていて、言わば、隋使の鼻先で窃盗を行うなど、論外の愚行で、あり得ないことです。

 とは言え、書紀の記録に依れば、正使は流罪に値する罪科を犯したのであり、免罪されても、正使一族は消しようのない汚名を曝しています。

 綜合して評価すると、国書事件は、史実に反する、誤解に基づく捏造であり、書紀記事の信頼性を大いに損ねています。

 案ずるに、隋使来訪、応接の文書記録が一切継承されていないため、正史編纂の際に、何らかの文書をたたき台に、一連の事情を創作したと見えます。その際、隋書「俀国伝」が参照できていたら、隋使の官位取り違いなど、低次元の錯誤は是正できたはずですが、編者の手元には、隋書のそちこちの走り書きの抜き書きだけで、貴重書隋書全文は、到来していたとしても、機密文書として秘蔵されていて、容易に参照できなかったと見えます。

◯まとめ
 日本書紀には、隋使が竹斯で何をしたか、皆目書かれていないのです。隋書で目を引く阿蘇山や有明海らしき紹介記事は、初回遣隋使の提出資料に基づくようですが、だからといって、初見の東方往還記がないのは、まこと不可解です。何のために、煬帝が、巨費を投じて、不遜な蕃王の領分を探索させたか、まことに不可解です。

 「普通に」考えると、朝鮮半島や中国大陸との交信、文物交換には、九州北部に外交権限と武力、経済力を持った高官/長老が常駐していたはずです。「武力」は、外敵侵攻を阻止する兵力と推定できますが、兵力推定できる戸数、口数は提出されていないのです。つまり、使人の往き来はあっても、俀国は、隋に臣従しなかったと見えます。

 竹斯が、「単なる出先」に過ぎなかったとするのなら、急遽、「ヤマト」から、接待にふさわしい高官と実務担当者の一行を、大量の資材、機材と共に派遣したはずです。また、隋使一行(十人程度でなく、百人規模とされる)を歓待するには、恰幅の良い迎賓館の急遽新造が必要だったはずです。それにしても、遠距離支配を想定したとしても、交通どころか文書通信すら覚束ないのに、どのように国家を維持できたか大変疑問です。

*筑紫幕府説/筑紫都督説
 結局、竹斯国のような地方拠点には、十分な兵力を備え、そのために、周辺諸国から税の取り立て、兵士召集の大権と、外敵侵攻に王命を待たずして即座に反撃できる特権が必要であり、要するに、一種「幕府」(中国史用語)を開設したと見ます。
 別の言い方で「総督」に準じる「都督」なる地方官がありますが、「都」はすべての意で「郡太守」が地域の諸事を委任したので強力ではありません。
 以上は、王に諸事を報告するのに数か月を要する遠隔支配体制に必要・不可欠です。一方、竹斯に王城があれば、文書連絡ができなくても、騎馬文書使、伝令がいなくても、徒歩で良いから、伝令で王に速報でき、「幕府」、「都督」は必要ないのです。このあたり、小手先の韜晦ではやり過ごせないのではないでしょうか。

 「単なる出先」でなかったら、渉外活動の克明な文書記録があるはずですが、国内史料は、竹斯での歓迎、渉外について沈黙していると見え、不可解です。記録がなければ、後代の漢使来貢に対応する際に、より所がないという不都合な事態になるのです。いや、竹斯に「鴻臚寺」組織を設けて、国家としての対応を制度化したのなら別ですが、どうなのでしょうか。

 ちなみに、大唐の律令には、四夷の蕃使、典蕃/典客を掌客する組織規定はあっても、皇帝を上回る至高の天子の使節は、もとより対等の「敵国」(匹敵、同格の国)使節を接待する規定などないのです。

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    「魏志倭人伝」の郡から倭までの道里と行程について考えています
  • 倭人伝随想
    倭人伝に関する随想のまとめ書きです。
  • 動画撮影記
    動画撮影の裏話です。(希少)
  • 古賀達也の洛中洛外日記
    古田史学の会事務局長古賀達也氏のブログ記事に関する寸評です
  • 名付けの話
    ネーミングに関係する話です。(希少)
  • 囲碁の世界
    囲碁の世界に関わる話題です。(希少)
  • 季刊 邪馬台国
    四十年を越えて着実に刊行を続けている「日本列島」古代史専門の史学誌です。
  • 将棋雑談
    将棋の世界に関わる話題です。
  • 後漢書批判
    不朽の名著 范曄「後漢書」の批判という無謀な試みです。
  • 新・私の本棚
    私の本棚の新展開です。主として、商用出版された『書籍』書評ですが、サイト記事の批評も登場します。
  • 歴博談議
    国立歴史民俗博物館(通称:歴博)は歴史学・考古学・民俗学研究機関ですが、「魏志倭人伝」関連広報活動(テレビ番組)に限定しています。
  • 歴史人物談義
    主として古代史談義です。
  • 毎日新聞 歴史記事批判
    毎日新聞夕刊の歴史記事の不都合を批判したものです。「歴史の鍵穴」「今どきの歴史」の連載が大半
  • 百済祢軍墓誌談義
    百済祢軍墓誌に関する記事です
  • 私の本棚
    主として古代史に関する書籍・雑誌記事・テレビ番組の個人的な読後感想です。
  • 纒向学研究センター
    纒向学研究センターを「推し」ている産経新聞報道が大半です
  • 西域伝の新展開
    正史西域伝解釈での誤解を是正するものです。恐らく、世界初の丁寧な解釈です。
  • 邪馬台国・奇跡の解法
    サイト記事 『伊作 「邪馬台国・奇跡の解法」』を紹介するものです
  • 陳寿小論 2022
  • 隋書俀国伝談義
    隋代の遣使記事について考察します
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