隋書俀国伝談義

隋代の遣使記事について考察します

2021年10月 2日 (土)

新・私の本棚 松尾 光 「治部省の役割と遣外使節の派遣を巡って」~古代日本外交の謎

別冊「歴史読本」 日本古代史[謎]の最前線 1995年1月刊 新人物往来社
私の見立て ★★★★☆ 堅実。賢明な史料考察 「日本」視点の限界

*お断り
 本記事は、下記書評と重複していますが、現時点で、一から書き出したものなので、もし、ブレがあったら、ご容赦ください。
 新・私の本棚 別冊歴史読本 日本古代史[謎]最前線 1/2

〇はじめに~中国史料解釈の原点確認
 当記事は当ブログ範囲を外れるが、漢日語彙の齟齬という観点から、日本史料の視点で中国史料を考察して生じた誤解を指摘する。刊行以来25年を経て、同様の誤解が世上に散見されているので、僭越ながら苦言する。

*国内史料視点の解釈~中国史料を不備との速断
 氏は、七世紀後半から整備された国内律令は、漢(中国)律令を模倣、翻案したため、漢制を誤伝したと解している。つまり、「外交」部署が、鴻臚寺と別部署に分かれて書かれた律令を唐代官制老朽化兆候と速断しているようである。

*用語解釈の誤解~文化解釈のずれ
 本記事副題は、当時、日本に(外国との)外交が存在したと決め込んでいるが、漢律令に「外交」は存在せず、模倣ではなく一種の誤解、曲解とわかる。
 秦漢代以来、漢蕃関係であり蕃夷は対等ではない。「外国」は蕃「国」である。「国」は、本来、漢代の「国」は、劉氏一族を頂いた分国であった。対して、蕃夷の「国」は服属するが「交」は無い。群小蕃夷は、美称で「蕃客」とされたが、「客」は、よそ者を応対する渉外活動の対象と言うだけである。

*鴻臚寺の役所(やくどころ)
 要するに、鴻臚寺は、無礼な蕃夷をあしらって服属させ、手土産を与えて、次は何年後、それまで来るなと厳命して送り返したのが、主務であった。
 端的には、氏が末尾に感慨を述べるように、漢に対等の外国は存在しない。(例外は、漢高祖劉邦親征軍を包囲して屈従の盟約を結ばせた匈奴である)漢蕃関係は「外交」を想定してないので対応する官制は存在しない。
 要するに、中国律令の備えた理念と法制、官制が整合した制度を、「外交」が必要である日本に、無批判で写し込むことが「無理」だったのである。

*律令模倣禁止
 本来、中国律令は、国外持ち出し禁止であるが、一つには、律令にいう「天子」を蛮夷の王に書き換えられると中国が蕃夷になってしまうからである。

*日本の対外関係
 日本は、対等とみられる高句麗、百済、新羅とは「外交」が可能であったが、お手本とした中国律令に、そのような蛮夷間交際に関するお手本がなかったので、日本は、これら諸國を「蕃客」扱いし、隋唐使節をも「掌客」の手に委ねた。隋唐使が、「客」扱いに激怒しなかったら不思議である。

*使人の使命
 裴世清は、文林郎(文官)の登竜門から俀国に赴いたのであり、日本書紀が造作したようにお門違いの蕃客接待の「掌客」に任じられてはいない。(隋書俀国伝)
 要は、正体不明の蛮王への使人は生還を期せないから、低位官人から選任したのである。但し、派遣に際しては、臨時に高位に任じて皇帝名代とした。高位の使節団員は、下級官人には本末転倒で服従できないからである。

 また、皇帝の名代が、派遣先で、原職は下級官人であることを名乗ることは、あり得ない。余り顧みられることがない事情を蒸し返すのである。

〇誤解の起源と継承
 中国人が中国人統御するための律令を、土壌の異なる日本に無理矢理移植したために不合理が生じているが、それを、現代日本人の言葉と世界観で、正確に理解はできないことに、早く気づいて欲しいものである。

                               以上

2021年9月18日 (土)

新・私の本棚 池田 温 「裴世清と高表仁」 「日本歴史」 第280号

    1971年9月号 吉川弘文館       2021/09/18記
私の見立て ★★★★★ 堅実な史料考察 「書紀」依存に重大な疑問

〇はじめに
 本記事は、当ブログの専攻範囲「倭人伝」を外れるが、とかく等閑(なおざり)にされる中国史料本位の文献解釈という史学原点に注意を喚起するために、あえて脇道に逸れたと弁明しておく。

 本論考は、豊富な史料に基づく不朽の考察であるが、書紀記事を無批判起用して完璧を損じているのが、勿体ないところである。まずは、自説の足元を見定めて、堅固な基礎を確立し、その後、高楼を理論構築すべきではないだろうか。いや、僭越、無礼で失礼は、覚悟である。

*裴世清俀国遣使記事の検証
 本論考は、「日本史」において、中国との交流の初期事例である隋使裴世清、唐使高表仁について、中国史料をもとに深く検討する趣旨である。氏の視点では、日本書紀は、史料として確立されているため、その限りでは、史料批判、考証の手順に不合理は無いのだが、敢えて、別視点からの疑問を呈する。

 つまり、両国使は中国史事績であるから、中国史料をもとに考察すべきであり、日本史料をもとに考察するのは、本末転倒、自大錯誤と見た。(日本中心視点で進められているということである)

*概要
 豊富な史料考察の丁寧な論考に素人が口を挟むが、根本となる国内史料評価に難がある。いや、本件に関して、初見の論考をみたが、ほぼ全数が、同様の視点を取っているので、別に、氏個人の「偏見」でないのは、承知である。ようは、俗耳に馴染みやすい「俗説」となって、流布しているのである。

 基本に還って考え直すと、日本書紀(以下、時に書紀という)は、中国史料と無関係に「俀国」「日本」基準の史書として編纂されている。そのため、隋書基点、中国基点で考察すると、隋使裴世清が、書紀記事で「鴻廬掌客」と表明されているのは、隋書と齟齬して無法、無効である。

*裴世清の身元調査
 氏の調査に依れば、裴世清は、北魏(後魏)時代に台頭した名家の一員であったという。隋唐期、科挙による人材選抜が開始しても、依然として、名家の血筋にそって推薦された人材が官人として採用されたようで、とは言え、若者は、まず下級官人となるのである。
 氏は、隋代文林郎は、閑職で名目的なものと思い込んでいるようだが、根拠のほどは不明である。精々、風評、俗説と思うのである。何にしろ、氏の帰順している俗説で行くと、隋書「文林郎」から書紀「鴻臚掌客」に昇格したとみなければ、筋が通らないということなのだろうか。一種、思い込みが広く徘徊しているようである。

 隋書は、文林郎裴世清が隋国「大使」に抜擢されたと明確である。
 書紀所引隋帝国書には、卑職「鴻廬掌客」を名乗ったと書かれているが、隋書に、隋帝から俀国国主への国書の記録は存在せず、公式記録に存在しない国書は実在しようがない。また、裴世清は、皇帝特命「大使」の高官であり、隋国側が卑職を明言すべきものでない。

*隋書齟齬事態
 そうしてみると、氏の提示する諸史料から得た裴世清職歴考察で「鴻廬掌客」とあるのは、独自史料「書紀」だけであり、つまり、中国史書に裏付けはないので、書紀の孤説なのである。むしろ、隋書俀国伝の記事と齟齬しているのであるが、氏はその点に、無理筋を通そうとしているのである。と言うものの、書紀は、これ以外にも、隋書との深刻な齟齬が顕著である。

 このように、東夷史書と正史が齟齬する事態で、辻褄を合わせて東夷記事を採用しようとするするのは、中国史料の解釈として不合理である。

*鴻廬掌客の正体
 氏は、裴世清が、「文林郎」から「鴻廬掌客」を経て唐代に「江州刺史」なる顕職に就いたとみたが、全面的には同意できかねる。隋書に言う「文林郎」は、「尚書省」の卑職だが、若年出仕の昇竜の途次であり、文書管理の実務経験を積んで昇格を望むのに対して、書紀に言う「鴻廬掌客」は、蕃客接待専門職で傍路である。
 どちらも、大差ない卑職であるが、栄達という点では、大いに異なる。つまり、文林郎として、野心を持って皇帝に仕えているものに対して、「鴻廬掌客」は、例え同格の位置付けでも、左遷なのである。

〇まとめ
 本稿の起点に戻ると、隋使裴世清に関して中国史料に整合しない「書紀」記事は、隋書俀国伝に基づく考察に参加する資格が証明されない限り、謹んで傍聴席に退いて頂くのが合理的であると思うのである。俀国に至る道は、すべて、隋書から始めるべきと思うのである。

 なお、本稿を読む限り、書紀をもって隋書を書き換える根拠となる「革命的」な史料批判は、ついに明示も示唆もされていないのである。

                               以上

2021年9月14日 (火)

新・私の本棚 川村 明「九州王朝説批判」抜き書き/ページ付け 1/9

 ~七世紀の倭都は筑紫ではなかった サイト記事批判

2016/03/20 2018/05/05 2019/03/01 04/20 2020/06/24 2021/09/12改稿
私の見立て ★★★☆☆ 賢察に潜む見過ごしの伝統

▢「九州王朝説批判」抜き書きの弁
 当記事は、書籍の批評ではなく、川村明氏の個人サイト記事の批判ですが、個人攻撃でないと了解いただきたい。
 最近閲覧件数が伸びているので、全体の言い回しを調整の上、追記し、再読して、部分的に取りだして、9ページに分割の上、再掲示しました。

*「古田武彦 九州王朝説」批判の由来
 因みに、川村氏の記事は、古田武彦氏の主張の各条批判なので両大家の角逐に口は挟めないのですが、論議起点たる史料確認が不十分なまま書紀記事の吟味に没入、注力して、私見では、些末、細瑾に囚われているので、論争の原点を見直して頂きたく、ご再考を促す趣旨で筆を執っています。(古田武彦氏は、既に故人になられましたが、氏の後継者は健在なので、聞く耳があれば、ご一考頂きたいのです)

 ここに書きまとめた当記事は、倭人伝から隋書にいたる中国史料を基点とした考察であり、日本書紀は検証を要する外部文献です。史学の基本である史料批判抜きの「書紀」視点で進めた解釈と異なる起点から解釈を試みます。

追記:まず、ここまで言いそびれていた批判を一つ述べます。
 第2章 七世紀の倭都は筑紫ではなかった(Historical)

〇「倭都」は無かった。 追記 2021/09/12
 「中國哲學書電子化計劃」の収蔵史料の全文検索で「倭都」なる漢語は見つかりません。つまり、古代史において「倭都」は無法であり、ここに掲示していると著者の見識を疑われるのです。

*「都」の字義
 端的に言うと、「都」の示す意味は、殷周代以来変遷を重ねています。
 「都」は、本来、「すべて」、「つどう」の意味です。転じて、地域の交通、市糴の要(かなめ)を「都」と形容し、それが王城、王居の意味となったようで、時に、古代王朝の王の居所を示す意味で使われることはあったのです。

 但し、天下形勢変動に応じ、時代、状況に即して意味が異なるので、書き手と読み手の理解のずれ、つまり、誤解を招きます。例えば、唐代編纂の俀国伝で「都於邪靡堆」と書いた趣旨は、時代、状況不明の最たるものです。

*日本語に残る古代語
 日本語には、隋唐代の中国語が生き残っているという説が在りますが、日本語の「都」は、時代を経て風化し、今日、単に大きな「街」(まち)と解され、「商都」「工都」など、各地に、色とりどりの「みやこ」ならぬ「まち」が言い慣わされるため、国家元首居所は、特に「首都」と言わざるを得ないのです。この場合、「都」は最上位の「まち」、《東京》と解されても、「東京都」は、最大の地方公共団体に過ぎないのです。

*無理な造語
 氏の見解は、(中国)史料に根拠の無い造語を起用しているので、はなから無効であり、疑問点を克服し、考え直して頂く方が良いでしょう。

 隋書「俀国伝」収録の裴清記には、当然「倭都」はありません。また、魏志倭人伝の従郡至倭行程に「倭都」はなく、東夷蕃国の倭に至高の「都」があったとする確たる記事があるわけでもないのです。

 以上、広く諸史料を読みふけって総括した論議で、明解な論拠が示せないので温めていたものですが、この際、言うことに決めたのです。

 氏の潤沢な考察の瑕瑾をつくようで恐縮ですが、遅まきながら、史眼のブレの可能性を指摘しておきます。

                               未完

新・私の本棚 川村 明「九州王朝説批判」抜き書き/ページ付け 2/9

 ~七世紀の倭都は筑紫ではなかった サイト記事批判
2016/03/20 2018/05/05 2019/03/01 04/20 2020/06/24 2021/09/12改稿

私の見立て ★★★☆☆ 賢察に潜む見過ごしの伝統

*竹斯俀国説~竹斯放射行程説
 まず、隋使は、最終目的地として竹斯國に安着、滞在したと見えるのです。倭人伝の伊都国に相当するものと見受けます。

 つまり、俀国王治(王の居所、ないしは居城)は、竹斯国そのものか、近傍と示唆されています。倭人伝では、伊都国を扇の要とした中心の放射行程解釈が有力ですが、それに追随していると見えます。俀国伝に言う「達於海岸」とは、街道行程で陸地を進んで海岸に至り、その向こうは海という程度でしょう。

 因みに、倭人伝の文書としての深意が、郡から倭に向かう端的な行程に、余傍の国に関する追記が付されているとみれば、「放射行程説」は、諸国を対等に取り上げていると文意を取り違いしているとみられるのです。このあたり、かなり深く文意を読み解かないと、文法解釈、先例踏襲に囚われて、深意を見失うことが多いようです。

 元に戻って、俀国伝の行程の意味をゆっくり考えると、隋使滞在地の東に秦王国があって、同様に東に向かって進めば、十余国を経て海岸に着く(達於海岸)とみられるのです。

 海岸の向こうは海だから国はないのです。そうした、東方の諸国十余国(十余国に秦王国を一国足しても同じく十余国)が、皆竹斯國に附庸しているというのは、倭人伝に順当に追記していることになり「明快」です。

*隋使竹斯滞在説の掘り下げ
 つまり、隋使は、到着以来竹斯国に滞在したのであって、一路東に旅したわけではないと見られるのです。

 仮に、遠路東に向かったのであれば、「循海岸水行」、海岸の港から沖に出たと書くでしょう。あるいは、「浮海」、海をゆるゆる漂ったと書くものでしょう。中原人にとって、陸路を行かない移動は想定外なので、もし、未知の国で、そのような前例のない移動をせざるを得ないとしたら、克明に書き遺すものでしょう。

 復習すると、隋書俀国伝は、正史の東夷伝として、三世紀に書かれた倭人伝に依拠しているからこそ、後世正史としては、重複して書く必要はなく、かくも簡略な記事で済むのです。

 言い換えると、倭人伝にも中原官制にもない、異例極まりない命がけの東方船舶航行が数十日に亘り続いたなら、省略が許されなかったでしょうし、初めてその境地を書いたという誇りが文面に表れたでしょう。

 以上は、ただ史料の字面を追うだけで済まない、かなり高度な文章読解になりますが、落ち着いて考えれば、以上のような堅実な読みに至るはずです。要は、史料に書かれていない、明示も示唆もされていないことは、史料には書かれていないのです。

 かくして、しばらく「客館」に滞在いただいた上で、迎えを送って隋使を歓待したものでしょう。全て、竹斯国とその周辺の出来事と見ると、記事が簡潔なことに符合します。

                               未完

新・私の本棚 川村 明「九州王朝説批判」抜き書き/ページ付け 3/9

 ~七世紀の倭都は筑紫ではなかった サイト記事批判

2016/03/20 2018/05/05 2019/03/01 04/20 2020/06/24 2021/09/12改稿
私の見立て ★★★☆☆ 賢察に潜む見過ごしの伝統

*客館掌客の深意
 因みに、中国古代語法で、「客館」は、「客」と美称を得ているものの、文意としては「蛮人のねぐら」です。
 北朝が天下を取り、北狄鮮卑の血を引く皇帝が、隋唐の帝位に就いて「中世」が開幕したから、蛮夷を「客」と呼ぶ官制は変わりそうなものですが、煬帝は、鴻廬寺の「典客」を「典蕃」に改称したように、むしろ「天子」の意識が強く、裴世清も東夷を見おろす意識を堅持していたでしょう。
 と言う事で、書紀に書かれた、あっけらかんとした「掌客」任命には、曰わく言いがたい不審を感じるのです。高官から下っ端まで同格の「掌客」とは、何をお手本にした創作なのか、不可解です。

*明快な一解の提示
 以上に例示した「読み」は、言うならば、誠に端的明快ですが、氏の奉じる古代「浪漫」に整合しないので、同意はいただけないでしょう。それはそれとして、倭人伝解釈に連動した史料解釈として、意義あるものと考えます。

 以下、氏の紹介に従い隋使来訪事件の顛末を読み進めますが、真剣な提言に真剣な批判を加えるのは最高の讃辞と思い、しつこく批判する次第です。

*国内史料依存の隋書解釈
 引き続き、氏が滔々と提示する、隋書の倭国(四庫全書版隋書に従ったと言うものの、実は、日本書紀に大部分を依拠)記事に関する考察を通じて、先に提示した当ブログ提示の解釈と異なる点を指摘したいところです。

 「つまり、対馬、一支、筑紫を経て東行し、秦王国を過ぎたあと、そのまま瀬戸内海を東行して大阪湾岸に着き、俀王の出迎えを受けて都に着いた、と素直に読めるである。これは魏志倭人伝と比べると、他に解釈の余地のない、あまりにも明快な行路記事である。」

 「凡庸な論客は、自信のないときは、ことさら断言する、自信の全くないときは、断然断言する」という経験則に従うと、氏は、この部分に大分疑いを抱いているようです。そのせいか、筆の滑りも不都合になっています。
 隋使一行は、魔法の絨毯か、孫悟空の觔斗雲にでも乗ったように、「秦王国を過ぎたあと、そのまま瀬戸内海を東行して大阪湾岸」 に着いています。
 
*待てば海路の日和
 冗談口を叩かれるのを望んだわけでもないのでしょうが、難所続きで、とても安楽に通過できたとは思えない「瀬戸内海」を一気に過ぎているのです。瀬戸内海を船で通るには、既に、各地に寄港地が整備され、難所には、場合によっては迂回路を提供して、一貫した帆船航行ができたとしても、寄港地ごとの潮待ち、風待ちで、まあ、悲惨な船酔いは緩和されたでしょうが、「海路の日和」を待ち続けて、どう思ったのでしょうか。

*見えない墳丘墓の景観
 「大阪湾岸」と言っても、いつ、河内平野北部が乾いて、平地に隋使を迎えられる宿舎や馬車で移動できる街道が整備されたのか、それとも、湿地帯を避けて、南の古墳地帯の丘陵部から、二上山の鞍部を越えたのか。これも不明です。

 河内湾の船上から見えるように殊更に基礎を持ち上げたという古墳群の勇姿/絶景が、隋書に書かれていないのは、不思議です。

                               未完

新・私の本棚 川村 明「九州王朝説批判」抜き書き/ページ付け 4/9

 ~七世紀の倭都は筑紫ではなかった サイト記事批判
2016/03/20 2018/05/05 2019/03/01 04/20 2020/06/24 2021/09/12改稿

私の見立て ★★★☆☆ 賢察に潜む見過ごしの伝統

*接待、慰労、そして検疫
 好意的に見るならば、隋使に限らず、大陸や朝鮮半島からの来訪者は、長期の航海で、船酔いしなくても、疲労していたと思われます。当然、九州島に到着したら、なによりも上陸して、くつろいだと思うのです。また、ここまで隋使をもたらした外洋船も、食料や水の補給は当然として、長期の係留には、川港の汽水層に占めて、船腹を保護しなくてはなりません。

 受け入れる倭も、素通りさせられないはずです。海の向こうからの来訪者は、悪疫を運ぶことが想定され、接待慰労とともに検疫隔離したはずです。

*越せない難所連発
 念を押すと、筑紫を出た隋使の船が、遠路遙か、未知なる大阪湾まで航行するのであれば、いかに大型で頑丈であろうと、多島海の航路と寄港地を熟知した水先案内人の乗船が不可欠です。
 現地海況に通じた案内人がいても、別に、外洋航行の大型の船の舵取りを経験はないので、どのような大技で、関門海峡、芸予諸島、備讃瀬戸、明石海峡とある極めつきの難所を、無事通り抜けられたのか、そして、何の報告もないのは不可解です。
 隋煬帝が、不遜な蛮夷を討伐するために、大兵を乗せた海船を送ったとしても、難所突破の策がなければ、討伐どころか難船してしまうのです。

 遠路、超大国の使節が来たのに九州北部から大阪湾までの、隋使にとって未知の、しかも、長期長距離の行程を、自力で来いとはおかしな話です。書紀に従い隋使に小野妹子一行が随行しても、出迎え必須でしょう。
 筑紫から大阪湾岸に連絡があって、一方では接待の体制を作りつつ、一方では出迎えの一同を送里出したのでしょう。日帰り範囲に来たのに対して船団で出迎えているようですが、それまで放置していたのでしょうか。

*筑紫鴻廬館談義(?)
 筑紫に後年の「鴻臚館」相当の施設があったかどうかは不明ですが、順当に考えれば、どこか、適切な宿舎で待機している隋使到着の知らせを「大阪湾岸」まで伝えて、出迎えの高官を派遣するものではないでしょうか。

 「鴻臚館」は、蛮人の滞在先という意味であり、鴻臚「掌客」は野蛮人の接待役という役所(やくどころ)の最下級の役人なので、隋使が聞いたら、下っ端しか出てこないのかと憤激することでしょうが、書紀の関連記事では、そのような「賓客」の意義は全く意識されていないのです。
 そもそも鴻臚寺を誤解しているので、間違いだらけになったのでしょう。

 恐らく、鴻臚の組織、分掌など知らなかったのでしょう。何しろ、隋が、大使節団を送り込んでくるのだから、隋使は、高官と決め込んだのでしょうか。何しろ、中国の国家制度は、厖大な官職組織ですから、文林郎など聞いたこともなかったのでしょう。

 待機期間は、「大和」に至る遠距離との連絡往復であれば、文書交信の期間も含めて数ヵ月に及ぶ可能性があります。随分長期間の待機滞在だったはずなのに、何も書いていないから何もわからないのです。だからといって明解と言うことではないのです。謎を呼ぶのです。

 それにしても、隋書は、なぜ、肝心な事項を書き漏らしたのでしょうか。

                               未完

新・私の本棚 川村 明「九州王朝説批判」抜き書き/ページ付け 5/9

 ~七世紀の倭都は筑紫ではなかった サイト記事批判
2016/03/20 2018/05/05 2019/03/01 04/20 2020/06/24 2021/09/12改稿

私の見立て ★★★☆☆ 賢察に潜む見過ごしの伝統

*謁見の場
 さて、書紀を援用する氏の解釈に従うと、隋使は、恐らく半年近くたって、遠路遙か「大阪湾岸」に上陸して、宿舎で接待され、更に日を経て大和に招かれ、倭王と会見したらしいのです。

*知られざる交流史~放念された伝統
 隋書にある俀王の言葉は、「中国に大隋のあることは知っていたが、これまで、(山中に)引きこもっていたので、使いを出せなかった。専念、使節を送ったのは、大隋の恩恵に浴したいためであった」とあります。

 そもそも、隋以前、歴代王朝への長年の遣使があったのです。隋書に書かれている遣使の歴史は、俀王が、歴代蕃王の伝統の継承者であると宣言しているものであり、隋朝文林郎たる裴世清には、すべて既知であったはずです。
 長安の鴻廬には、れっきとした公文書が保管されていたのです。もちろん、「皇帝御覧」の神聖不可侵の文書記録ですから、改竄、差替は不可能の極みです。また、各文書の上申部門には、全て控えがあり、皇帝に上申した内容は、部門公文書に所蔵されています。中国史料は、そのように、改竄、変造に対して、絶大な抵抗力を持っているのです。

 隋使来訪は、二回目の遣隋使派遣に対する応答です。

 初回遣使で、使人は、国書での提示ともに、鴻臚の審問に応えて、口頭で国情、風俗を述べています。なかには、俀王の政事について述べた下りがあって、皇帝隋文帝は、これを「道里」に反するものとして叱責し、改めるように厳命しています。何しろ、俀国使人は、自国が勝手に制定している官制など、「礼」に外れた蕃制を得々と語っているのです。これも、南朝と称した「賊」の認めた無礼なのかと、怒りを覚えたはずです。
 皇帝の叱責を受けた使人は、当然、帰国次第、俀王に皇帝の指示を伝え、改めさせると約束したものと思われます。

 ところが、八年後の遣使の献じた国書には、大隋の仏教興隆に感銘を受け、仏僧を留学させたいと述べていますが、俀王の政事をどのように改めたか明言がないように見えます。煬帝は、先帝の指示に対する応答がないのは、無礼と感じたものと思われます。

 また、しきりに、隋帝を、「海西」の君主と称しています。つまり、西域の萬二千里の蕃国安息国の更に西、大海の向こう岸にある海西、幽冥の地に擬しているものと思われますが、東夷の蕃王天子と西戎(蕃王)天子と対等の位置付けに擬されて、無礼この上なしと怒気を発したものと思われます。周が殷(商)を打倒したのは、天下に天命を受けた天子は唯一であり、天命を喪った天子は、直ちに撲滅しなければならない、としたものであり、東夷の天子は、西戎の天子を滅ぼすと挑戦したものと解されるのです。
 
 以上のような背景を見ると、隋使にして見れば、皇帝が使人に与えた指示が、代々の蕃王に継承されず、無礼の罪すら謝罪しないとしたら、互いに取り決めすることは無意味になるのです。
 礼を知らないという煬帝の非難の中には、その場の取り決めが維持されないのは無礼である、と言う主旨も含まれていたのではないでしょうか。蛮人は物の道理を知らないから、無知による無礼の失言は直ちに咎めるべきではないという天子の寛容性は、限度に達したと見るものでしょうか。
 「礼」の中には、約束を守るという大原則が含まれているように思います。もちろん、国内史料には、そのような究極の「無礼」の自覚も反省もないのです。

*倭国紀年
 ここで、氏は、日本書紀記事の信頼性の裏付けとして、隋書と書紀の紀年の整合を言い立てます。
・部分引用(…は中略記号)
 「しかも…「明年」とは、直前(中略)に大業3年とあることから、大業4年のことであることがわかり、これは推古16年にあたる。ところがよく知られているように、『日本書紀』の推古16年条には、…中国の使者裴世清…が、大和を訪れて天皇と会見した記事があり、これらを同一事件であるとして何の矛盾もないように見える。」

 後年の書紀編纂時に、編纂部門全体としては、史記、漢書、三國志から隋書に至る正史や晋起居註などの中国史料を参照できたのは、明らかですから、書紀の史料批判に載しては、隋書記事に合うように、紀年を操作したのではないかという素朴な議論(異論)克服の「試錬」が必要でしょう。
 「何の矛盾もないように見える」などと温厚な断定表現ですが、見てくれで安心してはならないのです。
 素人考えですが、隋初まで中国と交流が無かった「ヤマト」が神功皇后紀に魏志記事を挿入したように、大変「巧妙に」紀年を中国暦と整合させたと見て取れます。素人が感じる疑念を解消していただかなくては困るのです。とは言え、(中国)史官の史書編纂は、「述べて作らず」が厳命されているので、「書紀」の度を過ごした創作志向には、(中国)「正史」に寄せる信頼と同等の信頼は置けないのです。

未完

新・私の本棚 川村 明「九州王朝説批判」抜き書き/ページ付け 6/9

 ~七世紀の倭都は筑紫ではなかった サイト記事批判
2016/03/20 2018/05/05 2019/03/01 04/20 2020/06/24 2021/09/12改稿

私の見立て ★★★☆☆ 賢察に潜む見過ごしの伝統

*書紀史料批判~初回遣使記事の欠落
 俀国伝には「自魏至于齊、梁、代與中國相通」とあり、「俀国」遣隋使は、魏代以来の交流の歴史を裏付けたことは明らかです。大業四年(608CE)の隋使来訪に先立ち、隋文帝の開皇二十年(600CE)に遣使して、独自の官位制など、国政概要を滔々と申告していますが、書紀には、この際の交流は何も書かれず、大業遣隋(唐)使が、初お目見えと書かれています。
 書紀編者は、俀国伝との食い違いに気づかなかったのでしょうか。気づいていれば、辻褄合わせは、「さほど」困難でなかったと見えるのです。
 何しろ、前例がないから、漢使接待儀礼は未整備で、漢語を話す公式通詞もいないはずですから、ちょっとした見物(みもの)だったはずです。
 そして、文明国家は、克明な記録が必要と厳格に訓練されたはずです。
 遠隔地に報告するとしても、日々、早馬で急報したはずです。いや、船便しか無いのであれば、急使は、甲板を馬で駆けた事になります(冗談御免)。
 このように、書紀は、隋との交流に関して確認しただけでも、欠落が多く史料として信頼性を損じていることが明らかです。と言う事で、提示された隋使来訪記事は、史実の適確な反映かどうか疑問が生じます。
 この点だけに絞っても、書紀編纂時、紀年を中国史書と整合させる高度な努力を払ったから、隋使来訪の画期的事件の紀年が整合するのは当然です。そして、更なる整合がとれていないのに、疑問を呈しているのです。
 紀年整合は、ほんの初歩であり、ことさら「合致」と言い立てるものではないと思うのです。八世紀創建の「日本」側では原記録不明、継承不確実とあっては、正史史料批判に採用できないのが「普通」の考えでしょう。

*こよみの始まりと遡行
 丁寧に言うと、推古12年(604CE)、最初の暦が開始されたと伝えられますが、要は中国暦が開始したのであり、それ以前は暦が無いのです。
 暦では、日日、甲子、乙丑、丙寅と六十日周期の干支が充てられますが、暦の無い時代に干支を遡行させるには、月の大小に合わせた日数調整と閏月計算が必要です。隋開皇20年は4年前ですが、高度な演算が必要です。
 つまり、書紀記事の六世紀までの記事の紀日、紀月、紀年の干支は、編纂関係者の労苦の産物であり、誤算や疎漏があっても責められないのです。
 川村氏ほど、造詣の深い方であれば、素人読者を置き去りにせずに、少なくとも、本件に関する素人の不審感を振り払っていただければ幸いです。
*書紀史料批判~誤記、誤引用放置  追記 2021/09/12
 書紀記事の欠点は諸所に露呈し、改めて指摘するのも失礼なのですが、中国の正史史料「隋書俀国伝」と対照すると、次の謬りが歴然としています。
1.国名誤認
 まず、遣使先の国名を誤記しています。「大唐」は、遣使時点で存在していなかった後継帝国の尊称であり、書紀の原典史料にそう書かれていたはずはないのです。根拠史料は逸失していて、書紀編者の捏造と見ざるを得ません。
 なぜ、「大隋」と書かなかったのでしょうか。なぜ、国名誤認に気づいて訂正しなかったのでしょうか。隋書「俀国伝」は、国名蔑称とみて、忌避していたのでしょうか。まことに不可解ですが、それは、別儀です。

                               未完

新・私の本棚 川村 明「九州王朝説批判」抜き書き/ページ付け 7/9

 ~七世紀の倭都は筑紫ではなかった サイト記事批判
2016/03/20 2018/05/05 2019/03/01 04/20 2020/06/24 2021/09/12改稿

私の見立て ★★★☆☆ 賢察に潜む見過ごしの伝統

2.職分誤認
 隋使裴世清は「文林郎」でしたが、書紀は「鴻臚寺掌客」と誤記しています。
 あえて、論外な書紀記事の不規則発言を許すと、どちらも、官位の下辺で略同格ですが、「文林郎」は文書管理部局の散官で教養を有し、「掌客」は、蕃客接待専任部署の実務担当で、権能が異なります。書紀記事は、官制や「客」の意義に無知な者の憶測と見られます。

 書紀記事をあえて信じると、裴世清は、国書で鴻臚の蕃客接待の下級官人と紹介され、返書では、鴻臚寺掌客の使人派遣と感謝されたことになり、極端な事実誤認が浮き彫りになります。まことに不合理です。

 隋使は特任外交官、行人、使人です。原職では随行官が服従しませんから、臨時に、高官に擬されていたことになります。蛮人への「大使」は、大抵、臨時の高官なのです。

3.国書捏造
 また、隋帝は、無礼、無作法で、服属を認めていない蕃夷に国書を呈するものではなく、単に、正使が口頭で非礼を叱責し、改悛を求めた筈です。初回の無作法に続く再犯であり、重罪と悟らせる必要があったのです。当然、そのような応酬は、国史に残せません。工程に大変な不面目を浴びせるからです。

 書紀は、「存在しない国書」の物々しい文言を滔々と述べ、後世に国書の継承がないのを言い訳してか、こともあろうに、裴世清大使と同行した正使が百済訪問時に国書を「盗まれた」と詐称しています。(存在しなかった)国書喪失という国家重大事件は、明らかに無残な捏造で、遣隋使が親族連座の重罪を犯し、流罪に値すると裁定した上で、君主が正使を免罪したなど、無法な事態収拾に苦闘したと見受けます。

 書紀の記録を見る限り、正使は、隋使に国書喪失を知られたら不名誉との理由で寛大に赦免され、後に正使に起用されています。まことに不合理です。
 隋使は、国書を携えて来訪したのであれば、会見の際に授けたはずであり、例えば、正使に渡した国書を仮のものとして、正式国書と入れ替えに回収するなどと言い出せば、応答に窮するのです。
 そもそも、百済は、長年中国政権と交信しているから、このような際に、隋と俀のやりとりを妨害したら、とんでもない懲罰を受けるのは自明であり、また、隋国書を奪っても、実質的に得るものはないことも自明であり、して見ると、国書掠奪などは意味不明な一大事なのです。

 とは言え、書紀の記録に依れば、正使は流罪に値する罪科を犯したのであり、免罪されても、正使一族は消しようのない汚名を曝しています。

 綜合して評価すると、国書事件は、史実に反する、誤解に基づく捏造であり、書紀記事の信頼性を大いに損ねています。

 案ずるに、隋使来訪、応接の文書記録が一切継承されていないため、正史編纂の際に、何らかの文書をたたき台に、一連の事情を創作したと見えます。その際、「俀国伝」が参照できていたら、隋使の官位取り違いなど、低次元の錯誤は是正できたはずですが、編者の手元には、隋使のそちこちの走り書きの抜き書きだけで、貴重書「俀国伝」全文は、深く秘蔵されていて、容易に参照できなかったと見えます。

◯まとめ
 日本書紀には、隋使が竹斯で何をしたか、皆目書かれていないのです。隋書で目を引く阿蘇山や有明海らしき紹介記事は、初回遣隋使の提出資料に基づくようですが、だからといって、初見の東方往還記がないのは、まこと不可解です。何のために、煬帝が、巨費を投じて、不遜な蕃王の領分を探索させたか、まことに不可解です。

 「普通に」考えると、朝鮮半島や中国大陸との交信、文物交換には、九州北部に外交権限と武力、経済力を持った高官/長老が常駐していたはずです。「武力」は、外敵侵攻を阻止する兵力と推定できますが、兵力推定できる戸数、口数は提出されていないのです。つまり、使人の往き来はあっても、俀国は、隋に臣従しなかったと見えます。

 竹斯が、「単なる出先」に過ぎなかったとするのなら、急遽、「ヤマト」から、接待にふさわしい高官と実務担当者の一行を、大量の資材、機材と共に派遣したはずです。また、隋使一行(十人程度でなく、百人規模とされる)を歓待するには、恰幅の良い迎賓館の急遽新造が必要だったはずです。

*筑紫幕府説/筑紫都督説
 結局、地方拠点には、兵力を備え、そのために、周辺諸国から税の取り立て、兵士召集の大権と、外敵侵攻に王命を待たずして即座に反撃できる特権が必要であり、要するに、一種「幕府」(中国史用語)を開設したと見ます。
 別の言い方で「総督」に準じる「都督」なる地方官がありますが、「都」はすべての意で「郡太守」が地域の諸事を委任したので強力ではありません。
 以上は、王に諸事を報告するのに数か月を要する体制に必要なのであり、竹斯に王城があれば、王に速報でき、「幕府」、「都督」は必要ないのです。このあたり、小手先の韜晦ではやり過ごせないのではないでしょうか。

 「単なる出先」では無かったら、渉外活動の記録があるはずですが、国内史料は、竹斯での歓迎、渉外について沈黙していると見え、不可解です。記録がなければ、後代の漢使来貢に対応する際に、より所がないという不都合な事態になるのです。いや、竹斯に「鴻臚寺」組織を設けて、国家としての対応を制度化したのなら別ですが、どうなのでしょうか。
 ちなみに、大唐の律令には、四夷の蕃使、典蕃/典客を掌客する組織規定はあっても、皇帝を上回る至高の天子の使節は、もとより対等の「敵国」(匹敵、同格の国)使節を接待する規定などないのです。

                               未完

新・私の本棚 川村 明「九州王朝説批判」抜き書き/ページ付け 8/9

 ~七世紀の倭都は筑紫ではなかった サイト記事批判
2016/03/20 2018/05/05 2019/03/01 04/20 2020/06/24 2021/09/12改稿

私の見立て ★★★☆☆ 賢察に潜む見過ごしの伝統

*「九州王朝説」の成り行き~難波東都論
 因みに、ご参考までに申し上げると、氏が否定する「九州王朝説」論は、近来、筑紫京都~難波東都論の首都~副都仮説が提言されています。
 つまり、タイトルに関して難詰した「都」の時代混乱は、川村氏独自の錯覚ではなく、国内古代史学界に普遍的なのですが、ここに説明無しに掲題している以上、用語の不見識は、氏の責任とみたのです。

 ちなみに、氏の動機は、古田武彦氏なる個人論調への攻撃なので当人がいなくなれば空振りですが、論敵は論旨を後継者に託して続いているのです。

 そう力まなくても、隋書には、俀国は、漢魏晋以来南朝の宋、斉、梁を経て、統一後の隋まで一貫して貢献していたとあり、これに耳を貸せば良いでしょう。

*避けられない時代錯誤
 氏の「浪漫」派史観の弱点は、「時代錯誤」でしょう。特に七世紀初頭の「中国人が中国人である皇帝に上申した古代史書」の実務的記事を、はるか後世、古代中国語の読み書きを知らないで育った「現代人」が、すらすら明快に読めるという決め込みに、何の抵抗も感じないところに疑問があります。

*幻の瀬戸内海一貫帆走
 ついでながら、六世紀末当時、「瀬戸内海航路」は影も形もなく、小型船舶による輸送経路が繋がっていただけで、「ヤマト」は交信・交流に厖大な時間を要する遠隔地であるため、漢倭交流から隔離されていたと見えるのです。そのため、筑紫での貴重な記録が継承できなかったのでしょう。
 言うまでもなく、隋使乗船は、百済人の助言で竹斯まで到達しても、大型の帆船の案内人がない状態で、序の口の関門海峡すら越せなかったでしょう。

*竹斯国東岸海港
 竹斯国から東に向かって海港に出るというものの、東方の芸予諸島、備讃瀬戸の多島海、明石/鳴門海峡の難関は、帆船では越せなかったでしょう。いずれにしろ、自前の船舶、船員、操船技術で航路開拓していなければ、隋船は航行できないのです。いや、開拓したとしても、元来難業なのです。

 隋使は、生還を期せない冒険航海など考えなかったという事です。使節自身はもとより、家族の生死に関わるので、殊更命を惜しんだのです。
 因みに、当記事筆者は、先の背景から、「倭の五王」の南朝遣使はもとより、後の初期遣唐使船まで、帆船航行に不安のない九州母港とみているのです。

*倭人伝解釈の確認~三世紀古代国家の構想
 ここまで書き進んで、川村氏は、倭人伝解釈に於いて「畿内説」を採用しているように見えてきました。

 私見によれば、「畿内説」は、単に「邪馬台国」比定地の一説ではなく、三世紀時点、九州北部を遠隔支配する古代国家が成立していて、当然、文書行政国家の統制を保つために、街道網が整備され、国の礎が築かれていたという壮大な巨像を、築き上げているものであり、倭人伝を根拠史料とするために、随分強引な二次創作で、お手盛りの「倭人伝」を創造しているように見えるのです。

 そのように早々に古代国家が形成されていたら、当然、東西の二大要地を周旋/往来する街道交通、文書連絡は確立済みであり、また、必然的に文書国家であったから、それから四世紀を経た七世紀には、当然、楽々、東西連携して隋使の受入ができたというお考えなのでしょうが、ここまで当記事で随時触れたように、そのような古代国家の形成は尚早と見えるのです。

 考古学の見地でいくと、国内に文書連絡があれば、それぞれの要地に厖大な文書、文書稿が生成、廃棄されねばならず、当時、木簡と帛書に頼っていたとすれば、少なくとも、厖大な木簡文書遺物が出土するはずです。であれば、不確かな推量に頼らずとも、遺物に依拠した考察が展開できるはずですが、そのような成果発表は、ほとんど見かけません。

 いや、遣唐使が、美しい紙質の手帳を駆使していたと伝えられているので、何れかの時期に、各地に製紙工房が林立したのではないでしょうか。何しろ、文書行政は、戸籍を国政の基礎としているので、萬戸の国は萬戸分、十萬戸の国は十萬戸分の戸籍を記帳、保管、集計しなければならなかったのです。

 と言うものの、それは、各人の構想の問題であり、確たる信念があっての七世紀論であれば、当記事は、単なるアラ探しにとどまるかも知れません。

 それはそれとして、ご一考頂ければ幸いと思い、自説を述べているのです。

                               未完

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