新・私の本棚 野田 利郎 「俀国の都、九州説批判」 1/2
邪馬台国の超入門 「俀国の都、九州説批判」 2023年10月19日 2025/01/25
◯はじめに
当サイトは、高名な野田氏が、古代史初心者の啓発を目指したものと見えます。当方は一介の素人で、批判するのは僭越ですが、氏の考察は、入門者には理解困難と思います。「超入門」は「入門」を超えた中級者対象と解され、出来れば、入門以前の衆生にも功徳を施して頂ければ幸いです。
表題の「邪馬台国」は慣用で、正しくは「邪馬壱国」です。邪馬壱国の問題を解明することは、日本の古代史を探求する基点の設定でもあります。この超入門は、これまでの邪馬壱国に関する主要な説を魏志倭人伝の原文と照合し、その内容の適否を分析、解明することで、具体的な国々の位置を明らかにすることを目的としています。果てしない論争の各説は、ここで集合し、統合されて、新しい倭人伝の世界へと結実する広場となるでしょう。
俀国の都、九州説批判 図略 【 瀬戸内海は陸の「内海」です。】
図示された「瀬戸内海」は、古代人には全貌が見えず、何かの勘違いと見えます。時代感覚で見ると、「瀬戸内海」は「備讃瀬戸」と「芸予諸島」瀬戸が囲む「燧灘」と見え、正史の先例として尊重すべき班固「漢書」西域伝のカスピ海のような「対岸が見えない」「大海」と見えます。現代日本人の語感では勘違いが生じます。
『隋書』俀国伝には俀王の都までの行程は「百済→竹島[中略]→一支国→竹斯国→秦王国→十余国[中略]→海岸[中略]→都」と書かれています。俀王の都は[中略]近畿にあります。[中略]俀王の都を九州とする説[中略]の問題点を述べることにします。 注 ここでは耽羅→都斯麻国→大海が脱落。後出では一部回復。
1.九州説
古田武彦氏の九州説を批判することにします。氏の論は次のようです。
第一に、俀国は、九州にあったとします。[中略]
「古田武彦氏の九州説」は、概して氏の読みかじりと見え、御高説に批判を加えます。書名と補足説明を望みます。古田武彦氏著書は、古代史分野で20冊超あり「古田武彦氏の九州説」は趣旨不明で、氏の自作自演とも見えます。と言って一般人が意味を読み取れない著書を買い込むわけにも行きません。
2.九州説批判
九州説の問題点は次のとおりです。
第一に、次の通り俀国が九州島だけにあったとは言えません。
俀国の所在は、俀国王の居処一ヵ所です。
①「阿蘇山あり」は裴世清の見聞記事では[中略]ありません。
隋書が、裴世清の現地報告ではないと断定する理由が分かりません。
②前文の「都於邪靡堆」の句は「魏の時、訳を中國に通じるもの三十余國,皆自ら王と称す。[中略]邪靡堆に都す、則ち『魏志』のいわゆる邪馬台なる者なり。古よりいう、『樂浪郡境および帶方郡を去ること並びに、一萬二千里[中略]』[中略]魏の倭の都[中略]は、今(俀の時代)では[中略]邪馬台国である[中略]唐の李賢[中略]は『後漢書』の「邪馬臺国」に注を入れ、「案ずるに今は邪摩惟と名づく、音の訛るなり」と云っています。[中略]李賢は俀国の都を「邪靡堆」とは考えておらず、[中略]邪靡堆と呼ばれたとしたら、[中略]『後漢書』に注書きをすることはないのです。
氏は、「隋書」「俀国伝」記事を「魏志」引用と極め込んでいますが、実際は、「三十余國,皆自ら王と称す」と言うのは、「魏志」引用とは言えません。後漢書「倭条」が「三十許國,國皆稱王,世世傳統」と称しているものの、「魏志倭人伝」は「今使譯所通三十國」と言うだけであり、丁寧に確認すると、伊都国が「世有王」と特記していますが、それ以外は、「女王国」と「狗奴国」が王を頂いているだけです。つまり、隋書にいう「魏の時」は「魏志」と相違しています。要するに、笵曄「後漢書」東夷列伝「倭条」引用に「帯方郡」を付け足していて、安直で粗雑な偽書の類いです。隋書編纂時は、笵曄「後漢書」が、李賢によって正史に選任される以前であり、正史「三国志」と言えども、疎略に扱われていたと言うことのようです。
未完