隋書俀国伝談義

隋代の遣使記事について考察します

2026年1月16日 (金)

新・私の本棚 番外 あおき てつお 邪馬台国は隠された1/2 2026

 漫画家が解く古代ミステリー~」 Kindle版 初版、改定年次不明、版元不明の野良
 私の見立て 星無し ☆☆☆☆☆ 勘違いのだまし絵 消せない悪書 2024/02/21 2025/11/16 2026/01/16

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

◯総評~出版物でない雑資料 「(改)なし単行本」2022/1/23
 本書を短評すれば、著者の頭の中が混乱していて、そのために、資料の理解もできていないし、正しい表現で書くこともできていないので、せめて、小学校に入り直していただかないと世間に誤解を振り撒きます。

◯出典不明で無礼
 「本書」は、権威ある出版社編集部の校正を経ていない上に、いつ、誰が「出版」したのか明記されていないので、単なる「紙屑」に等しいのです。確かに、ネット記事は、当ブログを含めて、根拠とできない「紙屑」ですが、本書は、出版物を擬態/標榜しているだけ、重大な紙屑です。
 因みに、出版社編集部は、自社名で世に出すので、自社の信用を維持するために、原稿内容を精査し、時に、検証/訂正を要求した上で、「助言と同意」のもとに、社名を表示して出版するのですが、本書は、一切それが無いので、商用出版物、つまり、売り物としては、詐称に近いものです。
 因みに、一流出版社の出版物であっても、著者が、強引に編集未了の不完全な書籍を出版した例がありますが、当該出版社「講談社」は、光栄/伝統ある社名に不滅の悪名を刻んでいるのです。

 すくなくとも、本書が、論説の新規性を主張したくても、日付(タイムスタンプ)無しでは、何の足しにもならないのです。

◯駆け足御免~「ダメ山塊」
 本書は、走り読みしただけでも、ほぼ各行/複数個の「迷言」乱発で、一々かかずり合っていては先に進まないので、駆け足とさせていただくので、他は、推して知るべしという事です。手元資料には、テキストに対して、ほぼ数文字毎の(?)が書き込まれていて、つまり、全体に「ゴミ」(Junk)の山ですが、当方に指導義務はないので、守備範囲である「道里」記事の限定ダメ出しを見ていただいて、無根拠の非難でないと理解いただきたいのです。
 と言いつつ、理解できていないのに、キラキラと絵解きするのは重症です。

*混乱発露の自爆発言
 断然最大の誤解は、『陳寿は”事実は書いていないが嘘も書いていない”という高等テクニックを駆使して記述した』と意味不明の迷言です。現代日本語すら正しく読み書きずに二千年前の専門家を批判するなど、千年早いのです。

*道里記事失態
 著者失態の根源は、史料の読み解きができていないことです。著者は、狗邪以南の渡海水行記事に道里は存在しないと理解していながら、全体の読み解きに失敗した混乱のツケを、陳寿に持ち込んで無様なのです。
 陳寿は、当時、天下最高の専門家であり、「倭人伝」編纂に職責/身命をかけ、先輩、上司の批判を克服していますが、著者は無責任に言い捨てます。

*概数観の混沌
 投馬道里記事で、往き来していないから不詳と明記しているのに、「里数が欠けている」、里数が日数に切り替わるのはけしからんと云う発言です。そこまでが、七千余里、千余里と千里単位で、たいへん大雑把なのに、日数は、せいぜい十日単位で明確なのを見すごしています。著者は、ずいぶん、数字に弱いようですが、自覚して修行すれば、改善されるかもしれません。

*再出発のお勧め
 先ほど、小学校に入り直すよう戯れ言したのは、今日の小学校算数には、概数が含まれているので、修行し直したらどうかというものです。
 因みに、小学校課程をお勧めするのには、もう一つ恥かきが在るからです。土地土地の南北東西は、著者も知る竹竿日時計で、立ち所に確定でき、取り違えないのです。小学校の理科実験、夏休み宿題で身につくことで、本書のように勘違いを公開することはないのです。氏は、高校生に講義する設定のようですが、精々、生徒なる後生に馬鹿にされないように勉強すべきです。

*情報審査の不備
 また、氏の欠点の「一つ」は、参考文献に散在の札付き「ゴミネタ」に見境なく食いつくことです。「倭人伝」談義は、大学「先生」まで不勉強でいい加減な発言をする例が少なくないので、検証してから他人に勧める/教えるべきです。金目当てで講釈するのに当然の義務ではないでしょうか。
 近来、一段と、読み囓り、書き飛ばしが氾濫している「倭人伝」巷説ですが、仲間受けすれば良いというものではないでしょう。
 なお、中国語で「先生」は、単に呼び捨てでない「おっさん」という意味であり、教授や教師と敬称しても、「先生」呼ばわりは、むしろ不名誉の極みです。

                               未完

新・私の本棚 番外 あおき てつお 邪馬台国は隠された2/2 2026

 漫画家が解く古代ミステリー~」 Kindle版 初版、改定年次不明
 私の見立て 星無し ☆☆☆☆☆ 勘違いのだまし絵 消せない悪書 2024/02/21 2025/11/16 2026/01/16

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*基本の見落とし 
 著者は、道里記事の大事な「分かれ道」に対して、『榎一雄先生は「倭人伝の道のりは一直線に読むのでなく、伊都国まで来たらそこを中心に放射状に読み取るべき」と主張された』と勘違いして大局を見失ったと見えます。
 要するに、中原なら、四頭立ての馬車で行く「周道倭遅」ですが、馬車も乗馬もない倭地ですから「郡道が伊都で完結」する徒歩行(輿に乗るという事)と見るものであり、以後、奴不彌投馬三国は、万二千里に無関係の脇道であり、行く必要は無いのです。これら三国とは、「余り往き来していないので、不詳」と明記しているのに、長々と論義しては、読者を混乱させるのです。あるいは、時間の無駄として読み飛ばされてしまうのです。
 「倭人伝」道里行程記事を丁寧に読み解くと、迷うことなく順当な解釈に辿り着くはずです。つまり、実態不明の脇道の後に、『伊都国の直南に女王の住まう「邪馬壹国」があり、必要日数は、[都]全て、海上十日と陸上三十日、計四十日』まことに明快です。それ以外、女王以北狗邪まで「周旋」五千里と検算していて、重ね重ね誤解できないはずですが、それでは早々に黒星が付いて敗退と決まる「定説」派が猛然と攪乱しているのです。
 そんな攪乱に対して、著者は、まれに冷静な理解をしますが、すぐに言葉が動揺して混乱するのです。

*誤解の始まり提起
 いや、本論は、著者の論旨を追うのが主目的/主題ですから、本書の狗邪韓国あたりから論義を始めていますが、ここで、始点に戻ると、著者は、早々に、分かれ道の選択を誤っていて、回復困難な破局を隠すために、無頓着に塗り重ねている「糊塗」(Cosmetic Concealer)を確認する手順となりました。
 本来、間違った分かれ道の先は、論外の屑なので、一切論義する必要は無いのですが、ここでは、著者の勘違いを正すために、あえて、無効とわかっている筋道を辿っているのです。ご容赦ください。
 さて、著者は、大抵の論者と同罪であり、勝手に早合点していますが、道里行程記事は、正始魏使(実は、帯方郡使)の道中報告などではなく、明帝が、魏使派遣に先立って把握していた行程道里なのです。前提部分で重大な錯誤があれば、即却下して出直してもらう所ですが、それでは、指導にならないので丁寧に面倒を見ているのです。
 従って、重大な懸案と見える脇道の三国は、「倭人伝」の要件と見えても、肝心な「伊都までの所要日数」に全く関係なく、従って、陳寿の関心外なのですから、陳寿が見たことも聞いたことも無い現代地図と照合して無理やり辻褄合わせしても、陳寿の知ったことではないのです。何とも、意味の無い「徒労」記事です。
 ご自分が、落とし穴に落ちたのは、ご自分の責任なのに、出題者である陳寿にツケ(あるいは、ケツ)を回すのは、大変自分勝手な落第生と見えるのです。

*箴言再生 
 当方は、高名な歴史学者岡田英弘氏の箴言をもとに、『三国志から二千年後世の無教養な東夷が、孤高の歴史書である三国志を非難するのは見当違いとしている』のです。但し「無教養」は、単に、もの知らずで読み書きができない「状態」であり、勉強で「無教養」でなくなるとの「自戒」です。
 古人曰「後生畏るべし」、先に生まれた「先生」が偉いのでなく、「後生」に乗り越えられるとの言葉があり、心ある関係者は、失礼にならないように「先生」と云わないことです。

*遣隋使談義の暇つぶし
 著者は、「隋書」を読めていない所から、何の参考にもならない後世談、余談を話し始めます。隋帝のもとに参集した蛮夷は、それぞれ「遅参はきつく処罰する」と、新規統一王朝の隋から、半ば脅されて参上していて、それを追い返すなどあり得ないのです。
 そもそも、無知、無礼は、蛮夷の真髄ですから、隋帝にしてみれば承知の上であり、そのような蛮夷を、上京道中の接待も含めて厚遇して「おもてなし」して、滞在中は手なずけるために「鴻廬寺」が設けられているのであり、下部組織として接客実務の担当として「掌客」部署があるのです。「客」は、「蕃夷」などと言う呼び方を耳にして怒り出さないように、日ごろから美称(外交辞令のリップサービス/口先だけのお愛想)しているのです。
 もし、手違いで「賓客」を追い返しなどしたら、以後、辺境に侵入、掠奪して、たんまり仕返しされるので、豪勢に歓待していたのです。いや、追い返すとなると、道中歓待した上京を、腹ぺこ、野宿で引き返すので、怒り「倍倍増」で、掠奪暴行必至です。蕃夷の機嫌を損じた「鴻廬寺掌客」は、軽くて免職、さらには、鞭打ち、大抵は、斬首/死罪のはずです。

*権威者の妄言
 そのような意味不明な後世「事情」紹介の後に続いて『この事情に関しては三国志研究の権威・早稲田大学教授の渡邉義浩先生の提唱を参考に説明します』ですが、読者は遣隋使など無関心です。
 以下、記事に戻り、魏が「倭人」記事に色を付けたのは、西方蛮族との見合いとしますが、それは無茶で、「大月氏」記事は、後漢支配下の西域に反乱と掠奪を繰り返した悪者を、西域に無力な魏が「おもてなし」した中国文飾を見すごした岡田英弘氏の「新説」に渡邉氏が追従したのに気づくべきです。加えて、こともあろうに、客観的であるべきWikipediaが、岡田氏の粗忽の粗相を推しているのは、困ったことです。
 因みに、岡田英弘氏は、後年、「大月氏」云々のこじつけを撤回して、単に、司馬懿の自己宣伝としています。資料は、拾い食いで読み囓るのでなく、広く深く読解いていただきたいものです。

 三世紀東夷談義に戻ると、景初二年六月の倭人来貢は、司馬懿の公孫氏撲滅時、来なければ同様に叩き潰すと脅されて恐懼参上したものです。司馬懿は、公孫氏一味を大量虐殺し、公文書も焼き尽くしていたので、倭人は、震え上がったはずです。

*明帝明敏 束の間の栄光
 時の明帝曹叡は、司馬懿の魔の手が伸びなかった帯方郡から倭人事情を知らされていたので、急遽持ち込まれた(仮想)帯方郡「倭人伝」が「郡から倭まで万二千里」と恰好を付けていても、片道四十日あれば、周旋/往来できると承知していたので、確実に大量のお土産を送りつけられると理解していたのです。つまり、「呉の沖合」などとは、まるっきり思っていなかったのです。
 一方、それほど近傍に七万戸の大国があるのなら、不穏な韓国の平定に起用できるとみて、大層なお土産をかき集めて、即支給したのです。もっとも、肝心の明帝曹叡が急死し、「倭人」厚遇の推進役がいなくなったので、以後、「倭人」は冷遇されたのです。

 陳寿は、西域を含めて、諸蛮夷事情を熟知していたので、子供だましにもならない戯言は書いてないのです。そうそう、陳寿は、三国史「呉志」の大部分を、東呉が降伏の際に上程され、皇帝が享受した韋昭「呉書」をそのまま採用しているので、東呉が、東夷と交通していたなどとは思ってもいなかったし、曹魏自体、そのような報告を公文書として記録していないので、史官である陳寿が、「魏志」にそのような根拠の無いウソ八百の記事は無いのです。

*不朽の失言か
 そのように、三世紀当時は、衆知であった、つまり、関係者に当たり前のことを見過ごした「権威」の与太話は困ったものです。まして、景初初頭に明帝が知っていた「倭人」事情を、随分後世、曹魏が滅びた後で、陳寿が、晋皇帝のご機嫌取りで創作したなど、見当違いも甚だしいのです。現代人でも暫く調べれば気づく迷言を言い放っているのは、ご自身を「二千年後生の無教養な東夷」と自嘲されているのかと訝しいほどです。
 因みに、当時の晋皇帝は、天下唯一の権力者と云っても、史上著名な暗君であり、「倭人伝」など意識外であり、そもそも、「魏志」自体、読めもしないので、大して気に留めていなかったのです。なにしろ、この「権力者」は、政治に無関心な上に、唯一無二の皇太子を廃嫡して死なせるのですから、名も知らない史官の編纂している「正史」など、どうでも良かったのです。

                                以上

2025年12月 4日 (木)

新・私の本棚 野田 利郎 「俀国の都、九州説批判」1/2 2025

邪馬台国の超入門 「俀国の都、九州説批判」 2023年10月19日     2025/01/25, 11/11, 12/04

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

◯はじめに
 当サイトは、高名な野田氏が、古代史初心者の啓発を目指したものと見えます。当方は一介の素人で、批判するのは僭越ですが、氏の考察は、入門者には理解困難と思います。「超入門」は、「入門」を超えた中級者対象と解され、出来れば、入門以前の衆生にも功徳を施して頂ければ幸いです。

 表題の「邪馬台国」は慣用で、正しくは「邪馬壱国」です。邪馬壱国の問題を解明することは、日本の古代史を探求する基点の設定でもあります。この超入門は、これまでの邪馬壱国に関する主要な説を魏志倭人伝の原文と照合し、その内容の適否を分析、解明することで、具体的な国々の位置を明らかにすることを目的としています。果てしない論争の各説は、ここで集合し、統合されて、新しい倭人伝の世界へと結実する広場となるでしょう。

俀国の都、九州説批判 図略 【 瀬戸内海は陸の「内海」です。】

 図示された「瀬戸内海」は、古代人には全貌が見えず、何かの勘違いと見えます。時代感覚で見ると、「瀬戸内海」は「備讃瀬戸」と「芸予諸島」瀬戸が囲む「燧灘」と見え、正史の先例として尊重すべき班固「漢書」西域伝のカスピ海のような「対岸が見えない」「大海」と見えます。現代日本人の語感では勘違いが生じます。

 『隋書』俀国伝には俀王の都までの行程は「百済→竹島.→一支国→竹斯国→秦王国→十余国…→海岸…→都」と書かれています。俀王の都は…近畿にあります。…俀王の都を九州とする説…の問題点を述べることにします。  注 ここでは耽羅→都斯麻国→大海が脱落。後出では一部回復。

1.九州説
 古田武彦氏の九州説を批判することにします。氏の論は次のようです。
 第一に、俀国は、九州にあったとします。

 「古田武彦氏の九州説」は、概して氏の読みかじりと見え、御高説に批判を加えます。書名と補足説明を望みます。古田武彦氏著書は、古代史分野で20冊超あり「古田武彦氏の九州説」は趣旨不明で、氏の自作自演とも見えます。と言って一般人が意味を読み取れない著書を買い込むわけにも行きません。

2.九州説批判
 九州説の問題点は次のとおりです。
 第一に、次の通り俀国が九州島だけにあったとは言えません。

コメント 俀国の所在は、俀国王の居処一ヵ所ですが、領域の拡がりを限定しているとも見えません。まっ先に取り上げるにしては、あいまいなものに過ぎないと思います。

①「阿蘇山あり」は裴世清の見聞記事では…ありません。

コメント 隋書が、裴世清の現地報告ではないと断定する理由が分かりません。

②前文の「都於邪靡堆」の句は「魏の時、訳を中國に通じるもの三十余國,皆自ら王と称す。…邪靡堆に都す、則ち『魏志』のいわゆる邪馬台なる者なり。古よりいう、『樂浪郡境および帶方郡を去ること並びに、一萬二千里…』…魏の倭の都…は、今(俀の時代)では…邪馬台国である…唐の李賢…は『後漢書』の「邪馬臺国」に注を入れ、「案ずるに今は邪摩惟と名づく、音の訛るなり」と云っています。…李賢は俀国の都を「邪靡堆」とは考えておらず、…邪靡堆と呼ばれたとしたら、…『後漢書』に注書きをすることはないのです。

コメント 氏は、「隋書」「俀国伝」記事を「魏志」引用と極め込んでいますが、実際は、「三十余國,皆自ら王と称す」と言うのは、「魏志」引用とは言えません。
 後漢書「倭条」が「三十許國,國皆稱王,世世傳統」と称しているものの、「魏志倭人伝」は「今使譯所通三十國」と言うだけであり、丁寧に確認すると、伊都国が「世有王」と特記していますが、それ以外は、「女王国」と「狗奴国」が王を頂いているだけです。つまり、隋書にいう「魏の時」は「魏志」と相違しています。要するに、笵曄「後漢書」東夷列伝「倭条」引用に「帯方郡」を付け足していて、安直で粗雑な偽書の類いです。

 もっとも、唐太宗勅撰の「隋書」編纂時は、笵曄「後漢書」が、唐高宗章懐太子李賢によって正史に選任される以前であり、正史「三国志」と言えども、疎略に扱われていたと言うことのようです。

                                未完

新・私の本棚 野田 利郎 「俀国の都、九州説批判」2/2 2025

邪馬台国の超入門 「俀国の都、九州説批判」 2023年10月19日     2025/01/25, 11/11, 12/04

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*引用とコメント 承前
第二に行程文です。
①主線行路とは都までの行程のことです。主線行路を秦王国までとする九州説は都までの行程文を無視しています[中略]。

コメント 氏の言う『「主線行路」は俀国王の居処までの行程』という趣旨とみると、せいぜい『「主線行路を秦王国まで」とする「九州説」』に難があると言うだけで、あくまで欠点が一個あるというに過ぎず、欠点一個で「九州説」が破綻するというのは、早計でしょう。欠点一個で一説破綻なら世は破綻ばかりです。

 ②九州説では、瀬戸内海の記載がないから、近畿説は成立しないとします。しかし、行程文には、「(俀国は)行きて…迥(はる)かに大海の中に」…俀国があると書かれています。…竹島―対馬の先にあるのは本州です。そこに俀国があると書いているのです。

コメント 「俀国伝」論に、「九州」は混乱します。「九州」は「中國」天下の意味であり、場違いです。因みに、「本州」は、中国の地域名であり、場違いです。それにしても、対馬から「本州」が視えるというのは、何かの勘違いでしょう。
 隋書「俀国伝」は、先行「魏志」「倭人伝」を踏まえ、隋使行程である黄海の船旅は、「魏志」「倭人伝」に書かれていない初出事項として、主たる寄港地を書いています。隋使行程は、街道を狗邪韓国の海港まで到着したあと、始めての渡海で出航、渡海した都斯麻国(対海国)で「倭人伝」行程に合流し、目前は「倭人伝」の(帯方東南の)「大海」であり、残る二度の渡海、上陸後、竹斯国(伊都国)を目指します。

 「倭人伝」は、三世紀「中国」人の知識として、狗邪韓国から都合三度の渡海の果てに上陸した「末羅国」と行程の終点である「伊都国」が地続きであると書くだけで、「九州島」の広がりを認識していたふしはなく、まして、「本州島」も「四国島」も、存在を認識していないのです。

 隋書「俀国伝」は、そのような「倭人伝」を補完するものですから、「倭人伝」が正しく理解できていないと、「俀国伝」を正しく理解するのは、大変困難(事実上不可能)なのです。
 「倭人伝」では渡海に先だち街道終点の狗邪韓国に到り、「その岸」つまり「大海」「海岸」に達しています。三度の渡海で至った港は書かず、末羅国で「陸行」して伊都国に到ります。

 「瀬戸内海は大海ではなく内海」とおっしゃいますが、「大海」には、班固「漢書」「西域伝」に先例がありますが、「瀬戸内海」も「内海」も先例がなく、おっしゃる意味が不明です。要するに、陸地に囲まれた塩水湖は「大海」です。

 ということで、野田氏の用語は、時代を越えて、きままに動揺していて、時代読者に意味が通りません。ちなみに、古田氏の論拠は、『隋使が「瀬戸内海」を航行していたなら、河水、江水と似た眺めを書くはずであり、隋が、不埒な俀国を討伐するときに軍船で押し寄せる構想なら、(軍事探偵に擬された)裴世清は、海況を調べて報告しなければならない』という趣旨ですから、「瀬戸内海」にしろ、俀国の内なる「大海」にしろ、そのような報告文がないということは、裴世清は、「瀬戸内海」を航行していないと判断される、ということですから、これを否定するには、相当大がかりな論議が必要です。

 それにしても、行程文に「十余国」の首長会見記録がないことも、ありえないのです。
 何しろ、「本州」は、唯一の報告である「倭人伝」が触れていない未知の世界です。
 皇帝から現地事情を見きわめよと特命されていたのに、不首尾なら馘首ですが、文林郎裴世清は、唐代まで生き延びたようです。

 第三に、挿入句です。
①「また東して秦王國に至る。その人華夏に同じ…」と、秦王国のあとに「其人」とあります。…秦王国で行程文が終わることはありません。

 コメント 氏は、ここでも、氏が想定した「九州説」を叩いていますが、「俀国伝」が秦王国を終点としたという解釈は一説に過ぎず、「秦王国で行程文が終わることはありません」とは、虚空と見えます。氏は、「俀国伝」を見切っていないので、断言するのは無理なのです。
 用例を伏せた「独り相撲」は、余程の芸がなければ笑いが取れないのです。

②「竹斯国より以東は、皆、俀に附庸する」の意味は、竹斯国を除いた秦王国と十余国は俀の属国との意味です。九州説では俀の都を竹斯国としますから、この文は「竹斯国より以東は、皆、俀(=竹斯国)に附庸する」となります。…竹斯国は九州の東の部分だけの都となり…ます。

コメント 「九州説」が、竹斯国を俀国の都としているとの不意打ちには困ります。それは、有力な解釈なのであり、これに対する異論は異論でしかないのです。
 ちなみに、「魏志倭人伝」では、対海国から伊都国に至る諸国はもちろん、名のみの諸国も女王に属すると明記され、東方倭種は不明でした。一方、南の狗奴国は、女王国に付庸しないと明記されていました。

◯まとめに代えて
 以上、当記事は、誤解と説明不足の上で、脚もとの定まらない態で諸事断定しているので、素人ながら、「不出来」と率直に批判させていただくしかないのです。
 当稿は、当記事の批判に絞っています。以上で示唆したように、氏の誤解は、既に「魏志倭人伝」の解釈(いわゆる「通説」)に始まっていると見えますが、本稿の圏外なので、深入りしません。

                                以上

2025年11月21日 (金)

私の意見 日本書紀推古紀 大唐使節来訪記事 問題と解答の試み 2025 1/6

 隋書俀国伝考察付き     2020/02/28 補充再公開 2020/06/30 2021/02/09, 12/22 2025/11/21

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

▢おことわり
 中国古代で「漢」は中原王朝の一般的呼び方で、高祖劉邦の創業した「漢」だけを言うのではありません。ということで、以下、便宜上、隋、唐、いずれについても漢使等と称します。連動して、遣隋使、遣唐使は、遣漢使と均しています。ここだけの話です。

*暫しの饒舌
 しばしば誤解されますが、古代には、夷蕃との「国際」関係は存在せず、「漢蕃関係」しか存在しなかったのです。是非是非ご留意ください。言うならば、漢にしてみると「蕃人」の取扱であり、「鴻廬」なる主要官庁の任務の一つは、蛮人をうまくあしらって、辺境に侵入しないように、適度のアメをしゃぶらせ手、大人しくさせることにあったのです。

 それにしても、「国際」とか「外交」とか、古代史談義に現代語を無造作に適用する時代錯誤が、多くの人の正史理解を妨げているのは、まことに残念です。但し、「外交」が夷人の「国」、「外国」との「交渉」を意図しているのであれば、古代にもある程度通じるものです。

 もちろん、漢と対等の国は、高祖劉邦親征の官軍と交戦して勢威で圧倒し、有意な状態で講和条約を締結した「匈奴」が唯一の例外で、「匈奴」は、「敵国」、対等の交渉相手、「敵」と尊称されたものの、他の蛮夷は、虫けらに等しい蛮族扱いだったのです。
 鴻廬も、「匈奴」が、漢語、漢制を充分に解している漢人を幕僚に入れていたので、「客」扱いしなければならなかったのです。

*敵手の座
 つまり、匈奴には教養のある漢人が仕官していて、堂々と文書交信、契約締結が可能だったのです。まさしく、盤の両側に座って、力と技を競い合う「敵手」だったのです。
 ただし、そのような蕃人扱いは、民族差別と直接には関係していないのです。漢人の信奉する信条に帰依し、先哲の古典書を真に読解したものが、華夏文明に属するのであり、それに属しない、つまり、そのような教養に欠けるものは、言うならば、「法と秩序」を知らないのであり、「盟約」を結べず、結んでも、代替わりなどで霧消し、無効になるので、それ故に人間扱いしないという事だけです。いわば、一神教教徒が、異教徒を心から信じないのと同様です。

 素朴に言えば、文字を解し、言葉を話し、書経を諳んじることが、蕃人扱いを脱するための要件なのです。

〇初めに
 本稿は、日本書紀推古紀の漢使記事の幾つかの難点への解を求めたものです。いわば、高度な史料批判(テキストクリティーク)を進めたものです。ただし、直接、隋書と突き合わせて記事のアラ探しをするのではなく、極力、当時の視点、常識に基づく、ものの理屈を貫く所存です。
(隋書視点の解釈は、別義です)

 なお、日本書紀推古紀(条)の漢使来訪挿話の編/著者を「挿話筆者」と呼ぶことにしました。
〇その壹 滞在日程の怪
 そもそも、この「漢使」(大唐使)記事の時間経過が不審です。
 漢使は、推古天皇十六年(608年)四月に筑紫に到着後、六月に難波客館に入ったとされています。ほぼ二ヵ月の期間で長距離移動は大変快速ですが、少し考えればわかるように不審なのです。
 推古紀の設定では、漢使一行は、帰国の遣漢使を引き連れて、あるいは、主客転倒で、帰国の遣漢使が漢使を引き連れて、筑紫に着いているので、俀国側は、それこそ「寝耳に水」の「サプライズ」で、腰を抜かさんばかりだったでしょう。漢使は、大振りの帆船に、百人規模の武装集団ですから、侵略者でないことを確認するまでは、それこそ、天下の一大事と軍関係者に触れ回ったことでしょう。遣漢使が下船して、身分と使命を告げて、何とか沈静化したことでしょうが、「サプライズ」で冷水を浴びせられた面々は、穏やかではなかったでしょう。
 受入体制というものの、全く予想外では、何の準備もできていなくて、漢使受け入れの客館は、既に、新羅などの蕃使のねぐらとして準備していたものを流用して準備できたのでしょうか。何の準備もしてなければ、客館新設は、材木伐採、製材、建築と多難であり、資金や人材の準備を脇に置くとして、とにかく、時間のかかるものですから、新築はあり得ず、恐らく蕃客館を改装したものと見えます。

 そのようにして予告(前触れ)なしに押しかけてきた「賓客」が、案内なしに移動したはずがないのです。当然、受付の者が漢使の到着を報告し「王」の指示を仰ぎます。「王」は、奈良盆地にいたことになっていますが、当時は、九州筑紫と奈良盆地を結ぶ街道は未整備とおもわれるので、文書使が騎馬で疾駆するのは無理というものです。とても、人馬共に全行程を完走できないので、要所要所で、文書使も乗馬も交替する陣容です。
 そのような体制ができていて、乗り継ぎで急使を飛ばしたとしても、ひいき目に見て、往復で二ヵ月所要と見ると、四月到着の報告への折り返し指示が届くのは六月です。それを受けて、漢使がすぐ筑紫の宿から発進しても、(河内なる)難波到着は八月以降と思われます。
 長距離を、一応「半分こ」の理屈であり、総行程二ヵ月で到着できるとは、到底思えないのです。
 いや、実際に移動したという記録(evidence)があれば、書けば良いのに、なぜ、大事な漢使が、整備されたばかりの街道を通過したという輝かしい行程記録を飛ばしたのか不審なのです。

*漢使移動日程の怪
 記録を見ると、筑紫到着から客館(蕃夷のねぐら)の間は二ヵ月、六十日で、三度の移動は各二十日となります。
 但し、貴人の客は、身軽で旅慣れた文書使の快速移動と同じ速度では、移動できません。文書使は、代え馬や人員交代で強行できても、漢使は、各地で饗応を受けながら、ゆったり移動するしかないのです。古来、文官と武官は別の教育、訓練を受けるものであり、隋使が、文林郎なる文官である以上、乗馬訓練などしていないし、徒歩移動などしないので、何かの乗り物で移動するしかないのです。また、乗り物移動でも、連日移動は不可能であるし、天候次第で、移動ができないこともあるので、随分日数をかけて、ゆっくり移動することを要するのです。念押しすると、街道が整備されていなければ、馬車走行は不可能だし、乗馬の蹄鉄変えもできないのです。兎に角、無い無い尽くしです。
 どの程度ゆっくりなのかは、ここでは書きませんが、とにかく、ゆっくりするしかないのです。素直で普通の日数計算に対して、二倍、三倍かかっても、特に不審はないはずです。むしろ、各地で饗応したとの記録を付して、そのままの日数を書けば良いのです。

 両地点間の道程を、現代単位五百㌔㍍(中国語で「公里」)に丸め、二十日間で踏破とすると、一日二十五公里移動が必要です。

 街道完備の中原で、所定の移動速度は、一日二十公里(普通里で五十里)程度とされているようなので、未開地に、漢使を饗応するのに相応しい街道、宿駅はあったのやらなかったのやら、つまり、途中の宿があったのやらなかったのやら、不明です。それまで、漢使が来訪することなどなかったのに、饗応に相応しい宿場があったというのも、信じがたいものがあります。
 そして、そのような未整備の旅程を、中原の整備された街道の行程を上回る移動速度を達成するのは、大変困難、つまり、不可能と思われます。
 以上、常識を働かせると、当記事は、史実でなく創作と見ざるを得ないのです。

 いや、既に東西を結ぶ街道が確立できていたなら、標準日程が確立されていたはずであり、妥当な日程が書けたはずなのですが、無理な強行日程を書かざるを得なかったのは、何か、下敷きにした史料がそうなっていたので、このような無理な日程を書かざるを得なかったのでしょう。

 「瀬戸内海航路」なる夢物語が、当然のものとして書かれていますが、漢使到来の際乗船したと推定される大型の帆船は、関門海峡、芸予諸島、備讃瀬戸、明石海峡という、難所続きの未知の海域を無事に通過することは、到底できなかったものと見えます。大型の帆船は、幅が広く舟底が深く伸びているので、地元の小振りな手漕ぎ船が通れる場合でも、難船してしまうのです。まして、大型の帆船は、手漕ぎ船のように機敏に舵が切れないので、未知の海域で安全に往来することなどできないのです。つまり、ほぼ確実に難船するのです。
 最後に、船客の問題です。筑紫までは、短期間の航行で手慣れた寄港地に入り、食料や水を補い、休養した上で船出していたのですが、当時の瀬戸内海航路は、そのような大型の帆船が寄港した前例がないので、漢使の旅は頓挫しかねないのです。
 と言うことで、難破の危険のない陸路すら、想定外の漢使の対応ができないのに、命の保証のない船の旅など、到底取りようがないのです。
 後は、原史料からの創作の見極めとなります。

*日程創作の検討
 諸般の事情を考慮し、当時として実現できない」とは断定できない漢使移動日程を推定すると、河内の難波到着は、入国以来六ヵ月経た十月、帰途の筑紫発は、当然、年越しとなりそうです。このあたりは、八世紀初頭の挿話筆者の苦心の作でしょう。

 現代感覚で言うと、無理のないように資料の日程を修正すれば良いと思いがちですが、書紀記事に見られるように、当時の日付は何月何日というものでなく、日々逓増する干支表示であり、また、公職にある暦制専門家以外には、任意の日付の干支は特定できないので、挿話筆者が日程の是正を望んでも、日程書き換えは想定しがたいのです。まして、下敷きになる資料記事があって、それに従わざるを得ないとしたら、原資料に基づく日程を書き換えることはできなかったのです。

*筑紫滞在~妥当な代案
 ということで、原史料の日付は操作されていないと見て、筋の通った、つまり、実現可能と思われる成り行きを推定すると、本来は、漢使が筑紫周辺に滞在したのを、東方に長駆移動したと創作したと見るのが、最も無理の少ない推測となります。つまり、「到底実現できないと見え見えの長駆移動がなかった」ように是正すれば、移動日程の無理は、あっさり解消するのです。
 客館が筑紫であれば、漢使の休息、検疫を見ても、二ヵ月の待機期間は十分です。

 到着報告を急報して、行幸に三ヵ月程度とっても、八月に引見できます。長期間を要する移動がなくなれば、虚構日程との批判は克服されます。また、俀国王の都の所在論議も不要です。言うまでもないでしょうが、漢使の滞在した「難波」が、河内湾沿いの低湿地の事かどうかは不明なのです。
 筑紫には、三世紀以来、帯方郡からの使者が着いていたはずであり、「客館」ならぬ迎賓館があり、接待の体制があったとしても不思議はありません。何にしろ、どこまで移動するにしろ、筑紫で一旦足をとどめて、入国検問が必要であったことは間違いないのです。防疫管理だって必要です。

*漢使下向説の怪
 漢使引見を、奈良盆地でなく筑紫の「行在所」(御旅所)で行うのは、漢使を、危険極まりない異郷の長旅を課して、遠路はるばる参上せよと「呼びつける」のに比べて、格段に「合理的」であり、礼を失しないものです。まして、俀国王の一行が、遠路を自ら筑紫に移動すれば、片道移動分の日数が節約できるのです。国王移動/行幸であれば、半年かけて準備できれば、何とかこなせるのです。食事が違い、寝床、枕が違い、言葉の通じない異人(貴人)の客一行を、準備無しに受け入れて、二ヵ月(以上)にわたり、道中各地で饗応するのより、「随分」対応しやすいのです。

 因みに、皇帝の使人、つまり、名代として蕃夷に派遣される漢使一行は、兵士を含めて百人が定例ですが、これほどの武装した一団の国内通行を許すのは、主権侵害とも見えるのです。あるいは、そのような事態を融けるために、皇帝の命を受けた漢使が、異国の指示で武装解除、つまり、降伏した敵国人同様の待遇に処せられるのは、皇帝に対して無礼そのものではないでしょうか。このあたり、さながら地雷原を踏んでいるように見えます。

*前例踏襲~漢書「西域伝」「安息国条」の教え
 漢使引見の前例として、漢書「西域伝」の「安息国」訪問記が上げられます。其国王は、漢使の到来を知って、西方数千里の国都から東の辺境拠点の要塞まで詔書を送り、現地のいわば鎮守将軍である長老に漢使を出迎えさせたと見えるのです。(正史で、夷蛮の国に「都」の麗名を与えているのは、安息国だけです)
 時に、後漢西域都督班超の派遣した漢使が、長途地中海岸まで出向いたとする夢想が語られることがありますが、どんな国家であろうと、武装した軍官を国内縦断の途に遇するのは問題外です。安息国は、かって、東方からの騎馬の侵略者大月氏に国土を蹂躙され、国王が戦死し、財宝を奪われているので、同類と見える漢人に気を許すわけはないのです。何しろ、班超は、匈奴との西域覇権争いで、第三国に滞在しているとき、匈奴の使節団が厚遇されているのを知って、夜襲をかけて全滅させ、排除した武勇談を残しているので、漢志の蛮勇は知られていたとみるのが自然です。
 ついでながら、後漢代の当時、パルティアは、西方のローマと交戦状態にあり、至近のシリア/レバノンに四万のローマ兵が駐屯していたのです。
 かつて、西方の侵略者ローマの四万の大軍を打倒し一万人の捕虜を得たパルティアは、捕虜全員を全土を縦断して、東方のマーブ要塞に移動させ、常駐二万の国境守備兵の半分をローマ兵に入れ替えたと知られています。この時代、後漢が西域都護を置いていた時代に当たりますが、西域都督の使節がローマ兵を見たかどうかは不明です。

 と言うことで、ますます、東方の夷蕃を王都クテシフォンに招聘することなどなかったのです。まして、敵国ローマの準州に赴くことを許すことはあり得ません。いや、これは、世上にある、ローマ-漢交流という子供じみた空想譚に対する反論であって、目下の漢使東征論に対して、参考にしていただきたいと思ったものです。

 つまり、蛮使の応対で、国都に招聘すべきでないときは、名代を立てるなり、国都から派遣するなりして、国境付近で引見するのは、むしろ、当然の処置であって、異例ではないのです。むしろ、中華天子の名代を、延々四ヵ月かけて、命がけで往復移動させるのは、大変非礼なのです。

*急遽の一解
 以上は、根拠のない憶測ですが、仮に、当方が当時に生きていて、献策を求められたら、この解法を提言するはずです。
 以上、第一の難点への解です。
                               未完

私の意見 日本書紀推古紀 大唐使節来訪記事 問題と解答の試み 2025 2/6

隋書俀国伝考察付き     2020/02/28 補充再公開 2020/06/30 2021/02/09, 12/22 2025/11/21

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

〇その貳 隋書「俀国伝」道里の怪
 隋書「俀国伝」を読み直すと、まずは、隋書記事の由来が問われます。
 結局、「俀国伝」の基礎は「三史」、すなわち、「史記」、「漢書」、「後漢書」の倭記事であり、次いで三国志の「魏志」倭人伝が根拠です。

*俀国伝道里考
 俀国は「新羅の南方」と書き起こし、半島南端に近い新羅から水陸三千里は、「倭人伝」の狗邪韓国からの三度の水行/渡海里数三千里が根拠でしょう。つまり、統一新羅の国城 慶州(キョンジュ)から俀国王居処までは、先行正史たる陳寿「三国志」「魏志倭人伝」の「里」を踏襲した道里ですが、九州の内陸里程は、端数として三「千里」に吸収されたとも読み取れます。「三」千里は、二「千里」きざみと見える概数で、「二」千里あたりを越え「五」千里あたりに届かない結構広い範囲ですが、そうした議論は、見たことがありません。
 俀国王治は、上陸地。ないしは竹斯国の近郊、ひょっとすると竹斯国の内部となります。この「倭人伝」道里観は、前世史書の合理的記事が、後世に継承される好例です。

*行程記事考
 それはさておき、俀国道程は竹斯国が終点とも見えますが、行程記事であって道里はありません。
 当高宗代公刊の笵曄「後漢書」は、唐文帝勅撰の「隋書」より後出なので、先行資料と出来るかどうかは微妙ですが、陳寿「魏志」に既出の行程は簡略で、初見の行程は多少丁寧という程度のようです。例えば、半島沿岸行程は前世史書(「倭人伝」)に存在しないから、百済王治(王城)泗比に立ち寄った後、未踏の西岸を南し、竹島を経て耽羅で東に進路を転じて、南岸沖合いを経由し対馬を目指す道程が。「新規に」書かれていて、伊都国後身とも見える竹斯国に至るのです。
 そして、竹斯国以降、何れかの長旅に出たとは書かれていませんから、順当に考えると、漢使は、ここを旅の終点としたことになります。

*「後漢書」の刷り込み
 三史観点に戻ると、俀国事情として、「都於邪靡堆」は、「大倭王は邪馬台国にあり」とする前世史書「後漢書」の承継でしょうか。先に書いたように、笵曄「後漢書」が章懐太子注を附されて高宗代に正史に列せられたと言っても、笵曄編纂部分は、後漢代の史書としては、南朝劉宋代以来知られていたはずであり、「隋書」編者が正史なみに重用した可能性が濃厚です。とは言え、文献考証としては、不確実と言わざるを得ません。
 それにしても、後世記述の魏志「倭人伝」の「邪馬壹国」でない理由も含め何も書かれていません。自明なのでしょうか。普通に考えると、倭の王治が移動したということのように見えます。
 なお、ここでは、俀国には「都」があったと述べているのです。魏晋代までは、蛮王の居処を「都」と呼ぶのは回避したのですが、隋書では、無造作に「都」と書いています。西晋亡国後の混乱、南朝逃避、北朝乱入の動乱を経て、もはや、太古以来の伝統的辞書は、絶対ではないのです。
 何しろ、隋は、西晋を滅ぼして漢人政権を江南に追いやった「蛮人」の後裔なので、漢蕃の意識は変化していたのです。
 竹斯国までの行程で経由するのは、対馬、壱岐だけ書かれているので、「倭人伝」で道里行程を紹介された末羅、伊都、奴、不彌、投馬、狗奴は消息不明です。倭人伝で記録済みであり、自明なので割愛したのでしょうか。

*竹斯見聞記
 魏志「倭人伝」の道里行程記事は、東方を明記していないのですが、隋書は「十国余りを過ぎ海岸に至る」とします。「倭人伝」に、倭国から東方への渡海が示唆されていても、後漢書に渡海はないので、東方に実際に移動したとすると、新規行程記事が必要なはずですが、海を渡って対岸に至ったという東方行程記事はありません。
 また、海岸に「津」、つまり、船着き場があったとも書かれていなくて、そこからどこへ行けるのかなどの詳細も略されています。因みに、「海岸」は浜辺などでなく、岸壁のある港の「陸地」なのですから、単に海が見えたとの記事とも見えます。
 して見ると、この部分の意義は、俀国の東に、渡海できそうな海港があるようだと触れただけであり、それ以前の竹斯以東の秦王国などは、悉く実見でなく未踏のようです。

 また、推古紀が想定しているように見える長い月日を待機と移動に費やしたのであれば、その経緯は、随行した書記役が記録しているはずであり、また、現地の掌客も、随時口頭なり文書なりで説明したでしょうから、これも、記録に残るのです。

 漢使は、帰国後、俀国王の国書提出もさることながら、長期の滞在中、一体何をしていて、何を見聞したのか、報告を求められ、当然、克明に報告したはずですから、漢の公文書には、裴世清の紀行文が遺ったはずです。にもかかわらず、隋書に、そのような東方紀行記録が、示唆すらされていないのは、大いに不審です。
 なお、俀国伝には、竹斯国で取材したと思われる地理風俗記事があり、文中、阿蘇山ともに有明海らしい存在を示唆していて、俀国の西に海(うみ)があると示唆しています。つまり、竹斯国は、洲島、つまり、海流の中の島という地理観でしょうか。なら、なぜ、瀬戸内紀行記事がないのでしょうか。

 裴世清は、「休暇を取って、自費で物見遊山に赴いたのではない」のです。

*創作記事考
 前節で、「書紀」記事に拘わらず、漢使が竹斯に留まったと見ると日程の筋が通ると書いたのですが、「俀国伝」の後続記事はこれと符合するのです。唐太宗勅撰による隋書」は蛮夷文書である「日本書紀」に合わせて書いていないので、隋書」は、隋にとっての史実を反映していると見るのです。逆に、隋書は、大唐の機密文書として、国外持ち出し厳禁であった時代が長いと思われるので、遣唐使が将来することは、長く実現せず、「日本書紀」編纂者は、隋書「俀国伝」を参照できなかったと思われるのです。同様に、「晋書」の将来もかなり遅くなったと見え、「書紀」神功記は、晋代の遣使の根拠として、「晋書」を起用できず、「晋起居注」なる散佚文書を起用しているのです。
 それぞれ、「書紀」の該当記事の不確かさを思わせるものです。

 説きに誤解されますが、蛮夷が「史書」を編纂するのは、私撰であって大逆罪なので、遣漢使が、「日本書紀」を「正史」として献じることはあり得ないのです。

 確認すると、挿話編者は、書紀記事に挿話を追加する際、日付の整合は不可能だったので、熟慮の末、日付創作を断念し、明らかに実施不可能な日程のままとして当否を後世の叡知に委ねたと見るものです。その主旨は、隋、唐の「誤記」を放置していることで明示されていると見るものです。

 因みに、挿話原史料は、二十五年後舒明天皇四年(CE632)到来の大唐使高表仁記事と見ます。もちろん単なる憶測ですが、他に転用可能な漢使来訪記事事例が見当たらないので。一案として提示します。

 因みに、高表仁は、遣唐使帰国と同行していて、前例を踏まえた受け入れ体制も幸いして、早々に「難波」入りしているようですが、裴世清記事のうろたえブリから見て、確かではありません。丁寧な「テキストクリティーク」が必要です。

 以上、第二の難点への解です。
                                未完

私の意見 日本書紀推古紀 大唐使節来訪記事 問題と解答の試み 2025 3/6

 隋書俀国伝考察付き     2020/02/28 補充再公開 2020/06/30 2021/02/09, 12/22 2025/11/21

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

〇その参 掌客の怪 その1
 以下に述べるのは、紙背を読む隋書考証です。

*「鴻廬掌客」の誤解
 「書紀」記事を読む限り、この時の遣漢使と漢使来訪が、初めての漢蕃交流であり、つまり、蕃夷の側は、帰国した通詞の報告で漢制を理解しようとしていた段階であって「鴻廬掌客」の深意を理解できていなかったようです。

*三名の絶大な使命
 まず目につくのは、中臣宮地連摩呂(「連(むらじ)」は、高官です)等三名の「掌客」任命です。しかし、素人目にも、これは漢使来訪接待に行き届かないと見るのです。
 前例のない「掌客」の実務は、(書紀の記事を真に受けると)筑紫、難波、大和の三箇所で大量に発生し、何も知らない各地諸部門に、期限付きの饗応指示を出し、都度進度を確認し、その際の報告上の手違いは、手早く是正する必要があり、各地に三人いても人が足りないのです。

 つまり、そのような応対は、各所、各部門の全員に、実務手順、分担とそれに基づく豊富な経験がない限り実行不可能です。何しろ、各部門に受入体制が整っていない上に、「掌客」自体が素人なので、現場でつきっきりになって指導してすら事の運びが覚束ないのですから、月日のかかる文書交信を介した遠隔指導などできないのです。
 この下りの考証は、遠距離移動を前提とした日程、地理記事に不審を感じさせる重大な要因でもあります。

*「掌客」語義考
 ということで、新任された「掌客」を復習しますが、漢制では、鴻廬なしのただの「掌客」であり、このあたり、受け入れ側に常設部門がなく、漢使到着に慌てふためいて、担当官を速成したようです。
 「掌客」は、中国古典での用語では、単に賓客を饗応すると言う意味です。つまり、挿話著者は、基礎教養が豊かであり、漢語、古典漢籍に通じていたのです。
 ただし、実務を知らなかったので、「掌客」が蕃人応接役の意味と気づかなかったのですが、漢使は、蛮夷の国に着いて「掌客」、つまり、蕃人接待役に応対されて、自分が蕃夷扱いされていることに対してどう反応したのでしょうか。
 もちろん、漢使が「客」と蕃人扱いされたのが、皇帝の耳に入れば、一同揃って、文字通り馘首です。(解雇ではなく、死刑です)

 なお、使人裴世清を「鴻廬掌客」と見たのは、渉外部門接待役の来訪と勝手に誤解した表記です。ここは、漢使の身分を知って書いたのでなく、独自に推定したものなのです。あるいは、遣漢使の長安鴻廬寺滞在中の饗応役の官名の名乗りが報告されていたのでしょうか。

 こう考えてみると、「書紀」の任命記事は、教養人が古典用語の「饗応」をにわか作りの官名に充てたのであり、鴻廬寺・典客署(煬帝時、典蕃署)・掌客(担当官)という官制に習った官僚組織階梯がなく、三人全員一律任命ということは、当時、少なくとも、鴻廬寺が司る漢蕃対応組織は存在していなかったということです。これは、「隋(大唐)に至る各代王朝と漢蕃交流が一切なかったため、物知らずである」という自認の通りだったのですが、これは、魏晋との交渉も、南朝との漢蕃交流も、何ら、記録、継承がされていなかったと感じ取れます。中国側は、漢魏西晋の継承はもちろん、撲滅された南朝側の記録も吸収していて、一貫した興隆をたどっているのと、大きく相違しています。

*漢制掌客
 かたや、漢制における「掌客」は、蛮夷受容を司る鴻廬寺の(最)下級職であって、ものを知らない蕃夷である来訪者に言葉と礼儀を教えて、上司の丞、さらには、遙か高位の鴻廬卿との面談に耐える程度の応対を仕込む、いわば窓口係官です。

 「来客」は、窓口が漢蕃関係の始まりのため、「掌客」を漢の代表者と刷り込まれたかも知れません。「掌客」は、「来客」同行の通詞と意思疎通を図り、ひいては、「来客」に漢礼を教え、滞在中は食事と宿舎を提供しよろず相談に乗るので、大変印象深いでしょうが、所詮、温順な東夷の面倒を見る役どころの下級役人です。(商売繁盛している西戎、南蛮や、喧嘩腰の北狄とは、別の扱いなのです)

 太古以来の官僚組織は精緻であり、各部門人員定員の訓練が行き届いているので、漢律に始まる規則ずくめというものの万事に整然と対応できるのです。

*鴻廬寺来歴
 高麗館の上手(かみて)に新設の迎賓館を「鴻廬館」と呼ばなかったのは、偶然としても妙策です。「鴻廬」自体、蛮夷対応を示す漢制部門名ですから、東夷の地に大唐/大隋の天子の名代を受け入れる現代風に言う「迎賓館」にそのような不法な名称は、あってはならないのです。

 漢(隋唐)制では、鴻臚寺の「長官」である鴻臚卿は、正三品の高官有司ですが、この位置付けは、恐らく、古くは秦制以来、組織名、官名は変わっても、帝国要職として維持されていたはずです。鴻臚寺は、蕃夷接待の専門部門ではないのです。
 夷蕃の「客」を応対する典客署(煬帝:典蕃署)の令(部門長)は、大きく下って正八品であり、担当者である掌客は正九品です。つまり、官人最下級の格付けです。中臣宮地連摩呂のような政府高官の職ではないのです。

 但し、そのような組織体系は、漢制に通じた者しか知らないことであり、現代に至っても、正しく理解されていない場合が多いのです。
 つまり、漢律令に書かれているのは、中華文明の天子のもとでの官制であって、東夷のものには官制が及ばないことを見逃しているのです。
                               未完

私の意見 日本書紀推古紀 大唐使節来訪記事 問題と解答の試み 2025 4/6

 隋書俀国伝考察付き     2020/02/28 補充再公開 2020/06/30 2021/02/09, 12/22 2025/11/21

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

〇その参 掌客の怪 その2
*煬帝の指示
 隋書俀国伝を復習すると、漢使裴世清派遣の成り行きは、以下の通りです。

 皇帝は、鴻廬卿が取り次いだ蕃客国書を、「天子」を僭称し皇帝に挑戦する大逆と激怒したのであり、上程した鴻廬卿は、本来、馘首される所ですから、よく、叱責だけで、命があったものです。
 これが、長らく抗争していた北の宿敵突厥の書信なら、皇帝を名指しした挑戦状、つまり、隋帝国への宣戦布告と解され、すかさず、官軍総動員、北伐の大号令が下るところです。
 もちろん、「蕃夷」は、天子の尊きことを知らない無知なものであるから、不法な文言を記していても、取り合ってはならないのであり、天子は、蕃夷を教え諭すものであると、気を取り直したのでしょう。

 しかる後、皇帝は、当然、所管外の鴻廬寺掌客でなく寧遠の才に富む官人文林郎が率いる百人規模の使節団を派遣したのです。当然、文書所管部署で異国文書にも通じた教養人裴世清を起用したのです。

 鴻廬卿馘首は大げさかも知れませんが、煬帝は、後年、帝都長安を離れて江南に長期滞在しているとき、「各地の反乱を上奏する者は斬罪に処す」と命令したとされていますから、この時期は、まだ理性が保たれていたのでしょう。

*僭称の動機推定
 思うに、問題の国書は隋朝蔑視の意図があって書かれたものと見られます。代々正統の南朝に服属した東夷には、北朝は「北狄」であり、「南朝を征服して武力で天下を取って天子と称しても、蛮夷に変わりはない。東夷天子たる俀王と同格である。」と見ていたので、そのように書き送ったのです。これは、南朝臣下として当然ですが、無謀でもあります。

 裴世清は、記録のない口頭応酬で、実力行使を示唆したのかしなかったのか、ともかく、見事に俀国王を説諭して態度を改めた国書を提出させたと見えます。何しろ、漢制として、蕃夷は、辺境の都督が対応するものであり、天子に直言するなどありえないのです。曹魏明帝は、神妙な「親魏倭王」に帝詔を賜っていますが、「俀王」は、心服、追従を示していないので、「国書」などもっての外だったのです。「書紀」推古紀は、もっともらしい国書めいた文書を掲載していますが、懸命の創作と見えます、何しろ、存在しない「国書」が齎されたと創作したので、こともあろうに、引き立て役の百済に奪われたなどと更なる創作を加えているのです。
 百済は、往年の帯方郡代わりに、新参の「大国」の保証人を自認しているので、天子の国書を奪うような真似をすれば、黄海越しに討伐を受けるのです。中国の驚異に直面している眼身で、そのような無意味な反抗を行うわけが無いのです。
 裴世清の功績に対する報奨は記録されていません。煬帝は、諸事多難で、それどころではなかったのでしょうか。

*文林郎紹介
 裴世清は、文林郎正八品であり、恐らく科挙を経た文官であり、典客署部門長と同格です。古来、文林郎は、夷蕃国書の講読役でもあったようです。ということで、最下級正九品の「掌客」とは教養が違うのです。

 案ずるに、裴世清が鴻廬寺掌客と称したというのは、掌客の際の誤解の生み出した挿話筆者創作です。つまり、鴻臚寺掌客裴裴世清」は、あくまで、「書紀」記事に書かれているだけです。つまり、皇帝名代である漢使が、わざわざ、漢制最下級の個人官職を自称するはずはないのです。

 また、推古紀にしかない、漢使の帰途に同行した小野妹子大使の持参したとされる国書への回答は、以上の経過から、前書の暴言を悔いた平身低頭(死罪頓首)の文面が相応しいのですが、当然、推古紀には、天皇の勢威を傷つけるような文面は収録されていません。わからないことはわからないのです。
 魏書「俀国伝」によれば、裴世清は、俀国王に対して国書を提示していないので、もともと、国書盗難などなかったのでしょう。そもそも、三国史記では、裴世清が、俀国往路で百済を表敬訪問したと書かれていても、俀国使が同行したとは書いていないのです。常識的に考えて、裴世清は、現地知識のない半島西岸、南岸の航行について、百済の助言と当然ながら行程諸港での応対を命じたものの、それ以上は、求めていないものと思われます。
 つまり、俀国使は、恐らく当時常用していた「新羅道」なる内陸道を通って、疾駆帰国し、漢使の来訪の先触れをしたのでしょう。
 先に述べたように、漢帝の国書を盗むなど、露見すれば、多数の重罪人が発生する大罪であり、百済がそんなつまらない、危険な火遊びをするとは思えないのです。

*誤解の起源
 ということで、以下のように推定せざるを得ないのです。

 挿話筆者は、与えられた素材を「書紀」に補注することにより、原本編纂当時不備だった推古朝の漢使交流事跡の画期的記事を創作したのですが、最善の努力をもってしても、到来していなかった「隋書」、就中「俀国伝」との資料整合が取れなかったようです。
 皮肉なのは、美しく造作された文言が実態を露呈しているということです。

 以上、第三の難点への解です。

〇まとめ 挿話記事変遷 補注から本文に
 ここまで挿話と呼んでいた推古紀記事は書紀原本のものでないのは明らかですが、誰が見ても周辺記事と整合しない挿話が、忽然と推古紀本文に挿入された経緯を推定すると、当挿話は原本に対して、何れかの時点で後年補注されたものの、その後の長年の継承のいつとも知れない時点で、補注が本文に取り込まれた可能性が高いものと見られます。
 日本書紀原本は現存せず、また日本書紀原本を実見した人も現存しないので、原本による確認は困難(不可能)ですが、日本書紀の歴代の写本過程は、それぞれどのような資格、教養の官人(官営写本工房の写本工集団)の手になったのか、無資格の素人の私的な奉仕に依ったものなのか、とにかく、一切不明なので、どこかで何かがあっても、別に可笑しくはないのです。(冗語御免)
 書紀記事解釈に未解決問題が残っているのは不思議ですが、新米の強みで先賢の考察への異論を一解としたものです。別に、唯一解でも最善解でもなく、あくまで一つの意見ですので、そのつもりで、ご一考いただければ幸いです。

〇参考資料
 古田武彦 邪馬一国への道標 ミネルヴァ書房 2016年1月刊 
 ほぼ自前の考察で完稿した後に購入、熟読しましたが、広範な課題に対して展開される論議を支える慧眼に感嘆するものの異論もあります。但し、本項は、同書書評ではないので触れません。

                              本論完

私の意見 日本書紀推古紀 大唐使節来訪記事 問題と解答の試み 2025 5/6 資料編

 資料編 参考のみ 誤記等御免   2020/02/28 補充再公開 2020/06/30 2021/02/09, 12/22 2025/11/21

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

〇日本書紀 推古紀 (出典:維基文庫。随時改行を追加)
 十六年夏四月。小野臣妹子至自大唐。唐國號妹子臣曰蘇因高。即大唐使人裴世清。下客十二人。從妹子臣至於筑紫。遣難波吉士雄成。召大唐客裴世清等。爲唐客更造新舘於難波高麗舘之上。
 六月壬寅朔丙辰。客等泊于難波津。
 是日。以餝船卅艘迎客等于江口。安置新舘。於是。以中臣宮地連摩呂。大河内直糠手船史王平爲掌客。
 爰妹子臣奏之曰。臣參還之時。唐帝以書授臣。然經過百濟國之日。百濟人探以掠取。是以不得上。
 於是羣臣議之曰。夫使人雖死之不失旨。是使矣。何怠之失大國之書哉。則坐流刑。
 時天皇勅之曰。妹子雖有失書之罪。輙不可罪。其大國客等聞之亦不良。乃赦之不坐也。
 秋八月辛丑朔癸卯。唐客入京。
 是日。遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢。額田部連比羅夫以告禮辭焉。
 壬子。召唐客於朝庭。令奏使旨。時阿倍鳥臣。物部依網連抱二人爲客之導者也。於是。大唐之國信物置於庭中。時使主裴世清親持書。兩度再拜言上使旨而立。
 其書曰。皇帝問倭皇。使人長吏大禮蘓因高等至具懷。朕欽承寶命臨仰區宇。思弘徳化覃被含靈。愛育之情無隔遐迩。知皇介居表撫寧民庶。境内安樂。風俗融和。深氣至誠。達脩朝貢。丹款之美。朕有嘉焉。稍暄比如常也。故遣鴻臚寺掌客裴世清等。稍宣徃意。并送物如別。
 時阿倍臣出庭以受其書而進行。大伴囓連迎出承書置於大門前机上而奏之。事畢而退焉。
 是時。皇子。諸王。諸臣悉以金髻華著頭。亦衣服皆用錦紫繍織及五色綾羅。〈一云。服色皆用冠色。〉
 丙辰。饗唐客等於朝。
 九月辛末朔乙亥。饗客等於難波大郡。
 辛巳。唐客裴世清罷歸。
 則復以小野妹子臣爲大使。吉士雄成爲小使。福利爲逸事。副于唐客而遺之。
 爰天皇聘唐帝。其辭曰。東天皇敬白西皇帝。使人鴻臚寺掌客裴世清等至。久憶方解。季秋薄冷。尊何如。想清悉。此即如常。今遣大禮蘓因高。大禮乎那利等徃。謹白不具。是時。遣於唐國學生倭漢直福因。奈羅譯語惠明。高向漢人玄理。新漢人大國。學問僧新漢人日文。南淵漢人請安。志賀漢人惠隱。新漢人廣齊等并八人也。
 是歳。新羅人多化來。

                        書紀史料完

私の意見 日本書紀推古紀 大唐使節来訪記事 問題と解答の試み 2025 6/6 資料編

 隋書俀国伝考察付き     2020/02/28 補充再公開 2020/06/30 2021/02/09, 12/22 2025/11/21

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

〇隋書 俀國伝 (出典:維基文庫。但し、倭を俀に復元訂正。随時改行追加)
 俀國,在百濟、新羅東南,水陸三千里,於大海之中依山島而居。魏時,譯通中國。三十餘國,皆自稱王。
 夷人不知里數,但計以日。其國境東西五月行,南北三月行,各至於海。其地勢東高西下。
 都於邪靡堆,則魏志所謂邪馬臺者也。
 古云去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里,在會稽之東,與儋耳相近。
 漢光武時,遣使入朝,自稱大夫。
 安帝時,又遣使朝貢,謂之俀奴國。
 桓、靈之間,其國大亂,遞相攻伐,歷年無主。
 有女子名卑彌呼,能以鬼道惑眾,於是國人共立為王。有男弟,佐卑彌理國。
其王有侍婢千人,罕有見其面者,唯有男子二人給王飲食,通傳言語。其王有宮室樓觀,城柵皆持兵守衞,為法甚嚴。
 自魏至于齊、梁,代與中國相通。
 開皇二十年,俀王姓阿每,字多利思比孤,號阿輩雞彌,遣使詣闕。上令所司訪其風俗。使者言俀王以天為兄,以日為弟,天未明時出聽政,跏趺坐,日出便停理務,云委我弟。
 高祖曰:「此太無義理。」於是訓令改之。
*中略*
 至隋,其王始制冠,以錦綵為之,以金銀鏤花為飾。婦人束髮於後,亦衣裙襦,裳皆有襈。攕竹為梳,編草為薦,雜皮為表,緣以文皮。有弓、矢、刀、矟、弩、䂎、斧,漆皮為甲,骨為矢鏑。雖有兵,無征戰。其王朝會,必陳設儀仗,奏其國樂。戶可十萬。
*中略*
 大業三年,其王多利思比孤遣使朝貢。使者曰:「聞海西菩薩天子重興佛法,故遣朝拜,兼沙門數十人來學佛法。」其國書曰「日出處天子致書日沒處天子無恙」云云。
 帝覽之不悅,謂鴻臚卿曰:「蠻夷書有無禮者,勿復以聞。」
明年,上遣文林郎裴清使於俀国。度百濟,行至竹島,南望耽羅國,經都斯麻國,迥在大海中。又東至一支國,又至竹斯國,
 又東至秦王國,其人同於華夏,以為夷洲,疑不能明也。又經十餘國,達於海岸。自竹斯國以東,皆附庸於俀。
 俀王遣小德阿輩臺,從數百人,設儀仗,鳴鼓角來迎。後十日,又遣大禮哥多毗,從二百餘騎郊勞。既至彼都,
 其王與清相見,大悅,曰:「我聞海西有大隋,禮義之國,故遣朝貢。我夷人,僻在海隅,不聞禮義,是以稽留境內,不即相見。今故清道飾館,以待大使,冀聞大國惟新之化。」
 清答曰:「皇帝德並二儀,澤流四海,以王慕化,故遣行人來此宣諭。」
既而引清就館。
 其後清遣人謂其王曰:「朝命既達,請即戒塗。」
 於是設宴享以遣清,復令使者隨清來貢方物。此後遂絕。

                             隋書史料完

〇補足~私見   2021/02/12
 「海西」とは、漢書/後漢書西域伝に書かれた西方の大海カスピ海の西岸「海西」であり、普通に考えると西戎「條支」(アルメニア王国)の天子と嘲ったことになります。東シナ海の向こう岸という解釈は、中国古典及び当時の俀国の世界観を知らない解釈であり、無謀というものです。

 「日沒處」とは、西王母の住まう西の果てであり、仏教思想で言うと「彼岸」の人ということになります。

 中国正史の語法から、そのように読めるはずなのですが、大抵、後世東夷の蛮人、つまり、現代日本人(後生の無教養な東夷)の物知らず丸出しの勝手な解釈が蔓延していて、正史に相応しい解釈は、余り、見たことがないので、ここに付記しました。

以上

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