陳寿小論 2022

2020年6月 5日 (金)

陳壽(中国史)小論- 7 (2013) 男弟佐治國

                              2013/09/21  追記 2020/06/05 2022/06/09
〇男弟記事
 「有男弟佐治國自爲王以來少有見者」

 ここまでに書いた私の説では、魏使到着時、女王はせいぜい20歳前後と若いのです。

 政治実務を担当するとされている男弟は、「弟」ですから成人になるかならずかの若さと示唆されていることになりまます。
 しかも、女王は、引きこもっていて男弟政権の実力者であると思われる大臣たちと会見することはほとんどない。
 ここまでの記事は、読み方によれば、「鬼道に事えて衆を惑わし」ていたを見込んで女王に立てたのですが、人前に出なくては惑わしようがない、それなら、別に誰でもいいじゃないか、と言いたくなります。

 魏使の目から見て、そんなやり方で、二人の若い指導者が、総人口二十万人と推定される大「女王国」を、難なく統治しているとは、何とも浮き世離れした国だ、と言うおもしろさを秘めているように思います。

 文書統治と官僚制の進んだ中国本土やその地方官庁である帯方郡治で、統治者は、日々膨大な文書を読んで申請内容を決裁ないしは否決し、統治者の威令を轟かすべく、指示通達を発行し、また、多くの官吏を駆使して行政するので、権力者ほど文書処理、事務処理に忙殺されます。
 同時代、蜀漢の宰相であった諸葛亮は、北伐して大軍を率いていながら、日々、成都から届く厖大な裁可上申に全て目を通し、熟慮し、裁決を下していたため、過労で健康を損じたものと思われます。

 また、実世界の統治者のつとめとして、多くの手紙を読んだり書いたりするし、書類申請以外にも、申請事項の面談裁決、時には、紛争当事者の意見を聞いて、調停斡旋することも伴います。

 というものの、女王国が文書統治しているはずはないので、女王は書類の山に埋もれることはなく、また、臨見せずに引きこもっているので、面談に追われることももなく、俗世から孤立している女王が、無事に女王国を統治しているというのは、国のあり方として誠にのどかであり、陳壽にとって、ある種の夢物語であったのでしょうか。

 陳壽は、こうした記事を不審の目では書いていないので、倭人の振る舞いを書くことによって、政治のあり方を正そうとする「春秋の筆法」なのかなとも思いますが、結局は、よくわからないのです。

以上

陳壽(中国史)小論- 6 (2013) 年長大

                                 2013/09/20  追記 2020/06/05  2022/06/08
◯「年長大」の架ける橋
 中国語の「長」という漢字には、二つの独立した意味があります。
 一つの意味は、「長短」の度合いで、長いという意味(形容詞)です。
 もう一つの意味は、成長する、年齢が長じるという意味(動詞)です。

 それぞれの意味で、中国語の発音は少し違うのですが、文字は同じなので文脈で区別することになります。

 これに従い「長大」には大別して二つの意味があります。
 一つは、我々日本人にもなじみの深い、何かが大きいという意味(形容詞)
です。
 もう一つは、日本人にはなじみのない、人が成人(18歳)に達する、大人になる、という意味(動詞)
です。

 ここでは、「年長大」としているので、年齢の意味(動詞)
であることが明示されています。ただし、ここでも、大人であるという意味(形容詞)ではないのです。

 前に「已」が付くと、そう遠くない過去に成人に達したという現在完了の意味が読み取れれます。私の推定と異なって、女王共立がかなり昔であり、女王が成人をとうに過ぎていると現地で周知だったら陳壽は別の言い回しをしたはずです。

 後ほど、笵曄という大家の誤解の例が出てきますから、見過ごしても仕方ないのですが、それにしても、笵曄が、「年長大」は、「年長」+「大」、つまり年がいっていると読み解いたのは、元々の意味と変わってしまっている(逸脱)と思われます。

 陳壽は、丁寧に「年」を追加して「已年長大」と書き、体格の話でないことを明らかにするとともに、「已」で成人に達して間もないと示唆しているのです。一字の過不足もない見事な書き方です。

 なお、「長大」は、随分古典的な成句であり、中国語事典には、三国志(ということは、発生したのはそれ以前の歴史時代)から、近代・現代まで用例が収集されています。
 また、古典的な意味なので日本語の古典表現として国語辞典(例:広辞苑)にも載っています。

 「長大」の詳しい意味と使い分けは中国語の辞典/事典(例:百度百科)に出ているので、興味のある方はご確認ください。なお、現代中国語ではありふれた用語のようです。

 私の以上の論点から見ると、魏志倭人傳の「已年長大」という言葉は、これまで誤解され続けたようです。

 古田武彦氏は、近著「俾弥呼」でも、女王老齢の風評に反対して「長大」を30代と論じていますが、これは、魏朝皇帝曹丕の就任記事の用例に基づく解釈であり、百度百科にも小論の「成人になる」に続いて収録されている合理的な解釈です。

追記: 古田氏の早合点
 正確に言うと、当用例は、「呉志」であり「魏志」ではありません。また、孫権と臣下の問答の引用であり、当時、呉の宮廷で語られていた言葉遣い(地域用語)と言うだけであり、古典書本文ではないのです。ここでは、文章解釈はしていませんが、別記事で精査しています。一言で言うと、「老い耄れ」曹操の跡継ぎ曹丕を、「ケツの青い若造」と言っているのであり、曹丕の実年齢を正確に形容しているものではないのです。このあたり、古田氏にしては、速断・早計でもったいないのです。と言うものの、人は、「しめた」と悦んだときに、色々見落としをするのです。

*引例失当
と言う事で、三国史編者が、古典書に照らして適切と認めたものはないので、用例審査をすれば不適格と言えます。用例を早のみこみするのは、古田氏の史家としての限界と言えます。いや、大抵の史家は、大抵の場合、早のみこみで、しばしば誤解するので、どうという事はないのですが。

 しかし、それでは、字句を吟味して、未成年一女子として共立された女王が、今や成人に達したという倭人「長老」の感慨が失われ、陳壽の本意ではないと思います。陳壽は、なかなか味のある記事を書いているのです。
 因みに、魏使の取材に答えている「長老」は、別に、唯の年寄りではなく、倭人の最高指導者ということです。何れか有力氏族の元老なのです。

 私は、現に目で確認できる資料はそのまま読み取る主義ですから、魏志倭人傳の内容を紹介しています。また、以上は、中国語の解釈として、普通の手順なので、特に根拠を示していないことが多いのです。

以上

陳壽(中国史)小論- 5 (2013) 女子王

                              2013/09/19 確認 2020/06/05 2022/06/08  
〇女王国の由来
 陳壽の面白みについて、次の例を挙げます。
 魏志倭人傳は、この国「倭人」が女王国となった経緯と初代女王の人となりが述べられています。

 「乃共立一女子爲王名曰卑彌呼(-6字略-)年已長大無夫婿」

 案ずるに、元来、倭国は統一国家でない国家連合とはいえ、国の数で言えば小規模な村落国家と思われます。
 国家連合の盟主として男性の王を担いでいたら、あるとき国同士の喧嘩が収まらなくなった。卑彌呼という名の若い娘(一女子)を王に立てたところ、みんな仲良くなった。女王は、成年(十八歳)になった(年長大)。女王故に配偶者(夫婿)を持たない。
 政治を担当しているのは男弟である。女王は、人と会見することはほとんどない。

*「女子」の自然な解釈
 今回の私の読み解きは、一般的な理解と異なっています。
 当ブログ記事の発端は、ごく最近「一女子」が若い娘ではないかと思いついたことにあります。
 この意見の先例を調べたところ、随分以前に木佐敬久氏が、添付資料に出てくる対談で提示しているとわかりました。明らかに前例のある意見と言うことです。
 一般には、魏志倭人傳の記事で「一女子」は、成人女性と解されています。しかし、それなら婦人など別の言い方があります。ここは、素直に「女の子」と解したらいいのではないでしょうか。
 さらに年少なら「女児」「女孩」とか言いそうなものです。

 中国では、伝統的に18歳成年(数え)であり、中国語で年齢を形容するときには、これに従ったであろうということで、「一女子」の年齢は15歳程度(数え)となるのではではないでしょうか。

 因みに、若干ややこしいのは、中国語で「男子」と言うときは、伝統的に成人男性を指すことが多く、「女子」「男子」と対になっていても、簡単に類推できないのです。

 私が、共立時の卑弥呼を若い娘と見たのは、一呼吸置いた直後の「已年長大」との関連です。

*「長大」の自然な解釈
 「長大」は、幼いものが長じて(年齢を加えて)大(大人)になる意味ではないのかと、ある日思いついたのです。そう思って、魏志倭人傳を読み直して、直前の「一女子」に引っかかったのが、実際の検討手順です。

 「長大」論議が続きます。

以上

陳壽(中国史)小論- 4 (2013) 食い物のうらみ

                                     2013/09/18 2022/06/08

 ここまで読んでいただけた方は、辛抱強い読者と思いますので、ここからは、なるべく短く区切るようにします。
 陳壽の史官としての資質を明らかにするために、魏志倭人傳記事の面白みについていくつか例を挙げます。

 魏志倭人傳は、前半部分の記事では、魏朝正始年間に女王国に派遣された魏使の出張報告書を利用していると思われます。

 その中に、倭人は、韓半島に比べて温暖な土地で食料に恵まれているはずなのに、味気ない生菜を食べている、と言う記事に続いて、野生の薑(はじかみ)や椒(山椒かな)のような香辛料類や酸っぱい橘(酢橘かな)が採れるのに、それを食べ物に振りかけて、味を引き立てようとしない、という記事を採用しています。

 「倭地溫暖冬夏食生菜」 「有薑橘椒蘘荷不知以爲滋味」
 魏使は、帯方郡治から北九州に到達するまでの韓半島内の行程で、寒い思いをしたのでしょうか、海峡を越えて北九州に来たら温々して、毎日過ごしやすかったのでしょう。

 ただ食に関しては、「毎天百五」(今日も寒食、明日も寒食)とでも嘆いたのでしょうか。寒食でもあるまいに、来る日も来る日も、火を通さない生ものの味気ない食事ばかり、という嘆きが聞こえそうです。ご苦労様というところでしょう。
 寒食(かんじき)とは、春秋時代の介士推を偲ぶと言われ、冬至から百五日目の寒食節の日、火を通さない食事するものです。

 古来、食い物の恨みは恐ろしいと言います。魏志倭人傳は皇帝の目にも触れる公文書なので、不平不満を生の形で書いていませんし、魏使がそれをどう克服したかは書かれていませんが、倭人に依頼して食事の味付けを中国人好みに改善したのでしょうか。

 ひょっとすると、懐から香辛料の包みを出して、どさっと振りかけるようにしたのでしょうか。倭人が、使節の不作法に眉をひそめ、強い匂いから身を遠ざけるのが見えそうです。
 そうしてでも食事を改善しなければ、食の不満から強烈なホームシックにとりつかれて、長期滞在は大変な苦痛になったでしょう。

 陳寿は、このように味のある記事を書いているのです。

 私は、現に目で確認できる資料はそのまま読み取る主義ですから、魏志倭人傳の内容を紹介していきます。

以上

陳壽(中国史)小論- 3 (2013) 擁護論

                          2013/09/18  更新 2020/06/05 2022/06/08
*妄説横行
 インターネットサイトの記事や各種フォーラムで、陳壽が編纂した魏志倭人傳の記事が不正確と非難する人が結構多いのには驚きます。

 こういう発言をする人は、魏志倭人傳という、現に目で確認できる史料について、何を基準に不正確だと批評しているのか根拠を明言しないで所感を述べ立てる例まであり、また、根拠となる別資料が示されていても、一般人には参照困難な場合も多いので、議論の手順として大変不思議なのです。英語で言うフェイク「fake」ジャンク「junk」と呼ばれる塵芥の類いと思います。

 また、別の論法では、魏志倭人傳はこうだが、別の複数の権威ある資料には、そう書いてないから、魏志倭人傳記事は信用できない、との論法がありますが、元資料の内容を誰かが引用紹介している資料を根拠に、魏志倭人傳記事を否定することは、子供じみていて、大変不合理ではないかと感じています。
 実際、大抵の発言は、決めつけに終わって、他者を納得させるに至っていないのです。

 陳壽は、自分では非難に対して反論できないので、私が代弁しないといけないものと感じています。

*陳寿概要
 陳壽は、三国時代の後半を生き、自身の体験として記憶している同時代人であり、成人に達してから、西晋朝の三国志編纂任務を課されましたが、任務を果たすために、洛陽に帝都を置いていた後漢朝、魏朝の各種公文書を、任務のために参照することができました。

 古来、史書編纂を公務としている史官以外のものは、公文書を調査することは厳禁されていて、後漢代に漢書を編纂した班固は、当初、史官であっても、公務として指示されていない史書編纂を行ったとして、処刑されかけたのですが、班固が、正史編纂にふさわしい史官であることが認められて、命拾いしたとされています。

 少なくとも、西晋に至る各王朝では、部外者が、長安、ないしは、洛陽の公文書機密資料を渉猟することは、厳重に禁止されていたから、史官ではない素人が、史書を編纂するには、先行史書を引用するしかなかったのです。

 公務であれば、資材、人員が付与されるので、必要があれば、弟子などに指示して深く調査することができたし、あるいは、存命中の関係者に手紙で問い合わせたりすることも許されたのだから、史実と資料に大変近い足場で三国志を編纂たはずです。

 言い方を変えれば、陳壽は西晋朝でただ一人、三国志編纂で同時代史を書いたのです。

*中原喪失
 以下の時代の史官達は、陳壽と同等の立場に立てないことになっています。
 陳壽の存命中にはさほど目立っていないのですが、三国を統一して無敵となったと思われた晋朝が内乱で凋落して、戦乱の谷間に墜落していったのです。

 とば口は、晋朝王族であって各地に領地と兵力を持った王族間の権力争いである八王の乱(AD291-311)です。
 晋王朝の中央政府は、三国統一後の平和を祝うように、大幅に軍縮していたので、国内の統制力がなくなったにもかかわらず、各王は、独自に兵力を募って首都に進軍することが可能なほどの寛大な自治を許されていて、徒党を組んで首都を攻撃したのです。
 歴代王朝で農民反乱などで首都を攻撃された例はあっても、王族が堂々と首都攻撃を行ったのし珍しいのです。

 このように深刻な内戦で西晋朝は弱体化しましたが、各王族が互いに傷つけ合って、国内の軍事力が消耗する果てに、匈奴などの北方民族が傭兵として導入され、内外の戦力が逆転した果てに、北方民族の軍が侵入する永嘉の乱 (CE311-316)が起こり、ついに首都洛陽が蹂躙され、皇帝、皇妃を始め、八王の乱を生き残った王族まで連れ去られて、西晋朝は崩壊し亡国の憂き目を見ています。

 このように、ほぼ25年に及ぶ大乱 (CE291-316)で、首都洛陽が壊滅したことにより、大規模な資料散逸・消失が起こりました。

 辛うじて脱出に成功した王族によって、長江(揚子江)流域に東晋朝が復興しましたが、王朝が継承し蓄えてきた後漢代以来の公文書などの貴重な資料は、ほとんど取り戻せなかったのです。

 東晋朝と後継宋朝(南朝劉宋)が、後漢書編纂に懸命に取り組んだとしても、陳壽が、健在だった頃の西晋朝の豊富な公文書資料を駆使して同時代史を編纂した編纂環境の充実度には、到底、到底及ばないのです。従って、このような大変動の後に書かれた正史が、魏志倭人伝にない原資料を駆使して、より、正確に当時の現地事情を期日したとする意見には、賛成しかねるのです。普通に言うと、嘘は言うな、と言うことです。

 魏志倭人傳に不確かさがあっても、後発の正史や記録文書は、魏志倭人傳と同時代、同地域に関して書く時に伴う不確かさよりは、随分少ないとみるのが合理的な推定であり、そのような違いを考慮することなく比較議論するのは、合理的な論証手順ではないと思われます。

 以降、根拠のない陳壽批判を批判するのは、時間の無駄なので、陳壽擁護論を提案し高評を仰ぐことにします。

 私は、現に目で確認できる資料はそのまま読み取る主義ですから、魏志倭人傳の内容を紹介しています。

以上

陳壽(中国史)小論- 2 (2013) 魏志倭人傳

                                    2013/09/16   更新 2020/06/05
◯倭人伝という名の史料
 「魏志倭人傳」(倭人伝)に関する議論で、時々驚かされるのが、「魏志倭人傳」は通称であって正しい呼称でない、と言う大変強い指摘です。
 驚いたのは、権威のある歴史学者が、特に論拠も示さずにそのように発言していることです。

 しかし、中国正史「三国志」の現存版本(木版印刷出版物)である「紹熙本」(しょうき)の写真版(影印版)をみると、そこには、本文に先立つ行に「倭人傳」と見出しが書かれています。発言者は、紹熙本の史料を見ているのかいないのか、と不思議に思えると言うことです。
 権威者の発言でも、証拠の裏付けがなければ採用できないのが常識です。
 私は、現に目で確認できる資料はそのまま読み取る主義ですから、以下、「倭人傳」と読んで内容を紹介します。

 上に名前の出た「紹熙本」は、南宋紹熙年間(CE1190-1194)に出版された、ないしは、出版の指示が出た)版本であり、上で触れたように「三国志」の現存版本で、有力な資料とされているものですが、それ以外に紹興年間(CE1131-1162)版本「紹興本」が有力とされています。またも余談ですが、紹興年号は、同年間に命名された都市名である「紹興」と当地の地酒から発展したとされる紹興酒に名をとどめています。

 ともあれ両版本は、三国志執筆以来九百年にわたって営々と写本で継承されてきた史書を、木版印刷出版業の興隆したこの時期に、大々的に印刷発行したもので、おそらく正史史書として空前の普及を示し、後年版本の典拠とされたと見られます。

 数千年に渡る歴史を綴った正史史書は、本来の中原を追われて難局にある中国人に、過去、難局に立ち向かって乗り越えた先人の事績を知らせることにより、大きな勇気と自信を与えたのでしょう。

 ただし、近接して発行された両版本の倭人傳には、一部文字に違いがあり、引用参照する際には、慎重に比較確認して、利用した版本と所蔵先を明らかにするものです。

 なお、紹熙本は、靖康の変(CE1127)による宋朝南遷(晋王朝の二の舞でした)に先立つ北宋時代版本の復刻版で、現存最古の内容を保つと言われています。

 とはいえ、(大々的に)印刷発行されたはずの北宋版本は残存せず、確たる証拠に欠けた推定にとどまっています。結局、.北宋時代の木版印刷では、小部数発行されたにとどまり、大半が宋朝高官の手元に留まったのではないかと推定しています。

 北宋(AD960建国)は、戦乱に備えて内部まで隔壁城塞化した長安や洛陽でなく、運輸交通に便利で、城塞化もほとんどされていない開封に首都を置き、軍縮による軍事費縮小と兵力削減による人材民間活用を目指して、国内移動や商業活動をほぼ自由化したので、中国史上初めて市民階級の経済活動が本格化したと言われています。

 とはいえ、製紙技術定着以来千年を経ても、まだまだ紙の価格は高く、従って手ごろな価格の書籍を大量流通させる体制も整っていなかったので、書籍の中でも、分量が嵩張って、内容が専門的な正史史書の普及には至らなかったのでしょう。

 皮肉なことに、開封など めざましく繁栄した大都市を含む、黄河流域の中原を大きく取り囲む国土北半分を失い、長江(揚子江)流域に追いやられた南宋で、むしろ経済が発展して商工業が一段と拡大し、三国志版本の大量印刷販売が実現したのです。これにより、正史史書は富裕な市民階級まで普及し、幾度かの大乱を超えて生き残ったのです。

 いや、ご存じのように、三国志南宋刊本は、海を越えて「日本」に齎され、今日に至っているのです。中国本土は、王朝交代時の戦乱などによる損壊も多く、最後は、日本軍の空爆で、上海図書館が全壊したなどの戦災もあって、三国史南宋刊本の善本は、中国全土には希であり、むしろ、宮内庁書陵部に継承されている三国史南宋紹凞本など、徳川幕府や江戸時代有力大名の蔵書頼りなのです。

 今回、色々知を尽くして紹興本写真版を確認すると、「倭人傳」の見出しはないようで、これは、両版本間の相違点の一例です。

 とはいえ、現に紹熙本に倭人傳の見出しがあるので、「三国志魏書」のこの部分を「倭人傳」と呼ぶ根拠としたいと思います。現物確認主義は、手間がかかるのです。

 「魏志倭人傳」に対する否定的意見の根拠を案ずるに、史書の構成として、倭人に関する記事の段落は、「東夷傳」などの「傳」の一段下であり、これを「東夷傳」と同列に見せるような「倭人傳」扱いは、おかしいとの指摘なのでしょうが、三国志版本の見出し付けに対して、後世の文書管理論を元に否定し去るのは、過剰な介入ではないかと考えます。

 ということで、紹熙本を見る限り、「三国志-魏書-倭人傳」の構成が読み取れるのです。
 紹熙本「東夷傳」の他記事も「傳」の見出しがあるので「倭人傳」見出しは三国志紹熙本の原則通りであり順当かつ合理的な読みです。

 最後に、三国志の魏朝記事を、本来の書名である「魏書」でなく「魏志」と通称する理由は、以下のようなものと考えます。
 正史には、南北朝時代の魏(北魏)の正史である「魏書」があり、両者の混同を避けるには「三国志魏書」と呼ぶ事になり煩わしいのです。

 北朝の魏の通称である北魏は、三国時代の魏との混同を避けるために、便宜的に「北」と付けて呼んでいるだけで、国名は魏であり、正史は魏書なので、この正史を「北魏書」、「後魏書」と呼ぶのは、本来間違いなのです。

 結局、「魏志倭人傳」の通称は、以上の実際的な理由から工夫された通称であり、広く通じています。この呼称は、大きな間違いではないし何より簡便なのがありがたいのです。ということで、私は、以下、通称である「魏志倭人傳」で呼ぶことにします。

以上

陳壽(中国史)小論- 1 (2020) 序文

                                  2013/09/15 更新 2020/06/05 2022/06/08

〇はじめに
 陳壽(ちんじゅ CE233-297 陳寿)は、中国の歴史家と言うより、当時の晋(西晋)王朝の史官であり、紀元二-三世紀の中国三国分裂時代(CE184-280)の歴史書「三国志」の編纂者/筆者として名を残しています。

 私の見るところ、なかなか誠実な歴史家であり、自らも生きた三国時代の歴史、いわば同時代史を、蜀人としての個人的な意見や晋吏としての公的な立場をあまり表に出さずに、客観的な筆致で書き残しています。

 注目すべきは、晋朝の許可を得て、三国角逐の旧敵国である蜀宰相諸葛亮(CE181-234)の著作全集を編纂発行しています。

 特に、日本では、現在の日本に相当する地域、「日本列島」の一角にあった女王国が魏朝に貢献したことに始まる史上始めての「日中交流」を、漢字二千文字程度の紹介記事として、魏朝の公式歴史書である正史「三国志」に書き留めてくれたことが知られています。

*山成す風評被害
 しかし、陳壽とその著作である「三国志」に対して、多大な疑問と不満が提示されているのは、まことに残念なことです。それぞれの言い分を調べてみると、大半は、根拠の無いこじつけであり、

 私は、今や、10年以上以前に現役を引退した一介の民間人であり、もともと工学系の教育を受け、工学系の仕事に長年専念した者ですが、退職後暇になって、手薄な文系教養を掻き立てつつ関係資料を眺めた所、魏志の編者である陳寿に関して、素人目にも残念な意見が多いので、ここに、ささやかながら異論を呈したいと思います。

 ここまで、慎重に論争の種を避けた言い方をしてきましたが、私の意見の根幹は、陳壽の書き残した記事を、まずは、そのまま読み解く立場であり、これは、理工系分野では正統的な態度であるので、この立場から、世間に流布している陳壽記事に対する疑問と不満について、出来るだけ筋道を立てて擁護したいと考えます。

 もちろん、ここで開示するのは、一介の素人の意見(素人考えの私見)であり、文章の体裁上、出来るだけ留保を避けるものの、本来、こうした意見を他人に押しつけるつもりはないので、冷静に受け止めていただければ幸いです。

 なお、話題の性質上、一般読者に説明不足で理解困難でしょうし、論文気取りで根拠を示そうとすると膨大になり一個人の暇つぶしでできることではないの、不親切であることはご容赦ください。

 最低限の参考資料を後ほど開示したいと思いますが、逐一私見の典拠を書き出せないことを、あらかじめお断りします。

 また、先輩諸氏の発表内容を幅広く確認することは大変困難なので、見落としや漏れは、ご容赦ください。

以上

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