古賀達也の洛中洛外日記

古田史学の会事務局長古賀達也氏のブログ記事に関する寸評です

2023年10月25日 (水)

新・私の本棚 古賀達也の洛中洛外日記 3141話 百済禰軍墓誌の怪

                         2023/10/25

 今回は、誠に不思議なものを目にしたのである。「古田史学の会」関西例会の発表であるが、

 「百済禰軍(でいぐん)墓誌銘」に“日本”国号はなかった! (神戸市・谷本 茂)
 が、「新発見」/「新説」として紹介されているのが、何とも奇怪、けったいなのである。
 当記事は、既出記事と齟齬しているのである。つまり、 
第2429話 2021/04/10
百済人祢軍墓誌の「日夲」について (3)
 ―対句としての「日夲」と「風谷」―
 で、一旦意義ある指摘として、認識/納得/公開されたはずなのに、今回記事では、すっ飛んでいると見えるのである。谷本氏は「古賀達也の洛中洛外日記」記事を読んでいないと思うしかないが、当の古賀氏が失念されているのは、何とも、奇怪である。

 因みに、前記過去記事では、当ブログ2018年記事が引用紹介されているので、「古田史学の会」に限定しても、公知の先行文献だと思うのだが、どうなっているのだろうか。

 ぜひ、読みなおして、再確認いただきたいものである。

以上

2023年7月 4日 (火)

私の所感 古賀達也の洛中洛外日記 第3059話 『隋書』俀国伝に記された~都の位置情報 (1)  

古賀達也の洛中洛外日記 第3059話 ブログ記事 2023/07/02                     当ブログの初稿  2023/07/04

◯コメント
 本稿は、「多元的古代研究会」の会誌『多元』176号掲載の八木橋誠氏論稿に対する古田史学の会事務局長古賀達也氏の「賛成意見」と見える掲題ブログ記事に対する「賛成意見」である。あくまで、一介の素人の「所感」であるが、早いうちに表明しないと契機を逸するのではないかと懸念して、あえて、早合点覚悟で先走ったものである。
 八木橋誠氏論稿の引用は、二重引用になり、第三者著作物の取り扱いに疑義が生じることもあり、本稿からは割愛したが、あくまで、古賀達也氏の部分引用コメントに限定したものである。

*本題
 知る限り、古田武彦師の本件に関する最終的な見解は、『「隋書俀国伝」は、中国人によって、中国人のための史書として書かれているのであるから、中国史書として解釈すべきである』と解される「原則再認識」と見える。要するに、隋書編者が知るはずもない「現代日本人の地図情報や歴史認識、及び/又は『日本書紀』の記述」を参照した論義は、論外/圏外のものとして、まずは排除すべきであるとの真意と思うものである。
 つまり、当史料は、それ自体の明記事項と先行する史書、主として、「魏志倭人伝」の明記事項に基づいて、丁寧に解釈することを推奨しているものである。

*隋書俀国伝再確認
 「隋書俀国伝」は、冒頭部分で「三史」の重鎮である笵曄「後漢書」を根本として、格下の「魏志」は、一応書名に言及するだけで、内容はほぼ無視していて、「古云去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里,在會稽之東,與儋耳相近。」と、「古」として尊重する笵曄「後漢書」を、無造作に節略して述べているので、当該記事に限っての断定であるが、隋書編者の「存檔史料」が、時代混濁している感じである。
 さすがに「魏志倭人伝」の「存在」は承知しているはずであるが、厳密な史料批判無しに、新作記事を捏ね上げているので、後世東夷の無教養な素人読者にしてみると、編者の視線/視点が、有らぬ方にさまよっていて、いわば、宙に浮いていると見えて心許ないのだが、諸兄姉は、どう感じておられるのだろうか。

 その程度の史料認識に搭載された裴世清「訪俀所感」と見えるが、それにしても、本来原史料として最も尊重すべきである「魏志倭人伝」は、九州島外の地理を一切詳記していないこと、及び「隋書俀国伝」自体が、「竹斯国から東に行けば、最終的に海の見える崖(海岸)に達する」と書くだけで、以後、「浮海」するとも「渡海」するとも書いていない以上、「書かれていない」海津/海港で船に乗って長距離を移動することは、一切予定されていないと見るべきではないかと思われる。天子である隋帝楊廣(煬帝)は、この時期は、以前意気軒昂で在ったはずであるから、魏代以来疎遠であった俀国への往還記が、探索行の要点を漏らした粗雑なものと見たら、突っ返して、きつく叱責したはずである。

 それにしても、陳寿が、「魏志倭人伝」に於いて、ことさら「水行」なる行程用語を渡海行程に充てる書法を創始したことに気づけば、幸甚な先例として、「循海岸水行」と書くのは適法であるが、それも書かれていない。「魏志倭人伝」に一顧だにしていないことを重大に受け止めたい。

 もちのろん、論者が「魏志倭人伝」の道里行程記事に、「島外に出て、東方に遠出する」と書いていると、根拠無しに「決め込んで」いると、さすがに「つけるクスリが無い」のだが、論義は、「決め込み」を主張することで解決することは無いのである。

*頓首/死罪の弁
 古田武彦師が書かれたように、順当な文書解釈にたいして、あえて重大な異議を唱えるのであれば、正統な論拠に準拠した堅固な論証を提示する重大な義務がある」ことにご留意いただきたい。それでようやく異議が一人前と認められて審査に付されるのである。世に蔓延る「異議」僭越に対して、当然の指導とみる。

 以上の「難詰」は、「異議」を奉戴している史学界諸兄姉には、無礼極まりないと聞こえるかも知れないが、ことは、「論義」/「論証」の正道の確認であるので、ご容赦いただきたい。また、古賀達也氏に対して、頭越し/僭越の失礼であることも、よろしく御寛恕頂きたい。

以上

2021年12月29日 (水)

新・私の本棚番外「古賀達也の洛中洛外日記」第2642~8話 1/2

『旧唐書』倭国伝「去京師一萬四千里」⑴~⑺ 2020/12/21~
 私の見立て★★★★☆ 堅実な考証の貴重な公開   2021/12/29

〇はじめに
 掲題の古賀氏ブログ記事は、連載の態をとっているものの単一記事と見られるので、ここでは、一括して批判します。
 古賀氏は、古田史学会の重鎮として、新説提言に対する審査役を務めているものと見受けます。そして、審査の際の考証内容を公開しているので、論議の信頼を高めています。
 ここでは、題目が、当ブログで展開している「倭人伝道里行程記事」論議に関係しているので、以下の如く「丁寧」に批判するものです。

〇仮説不成立の提案
 ここでは、舊唐書「倭国伝」の「去京師一萬四千里」の「京師」を山東半島東莱に誘致する新説に批判を下しているものです。

 当ブログ筆者たる当方の見解では、新説の論者野田利郎氏は、史書解読の際の原則を踏み外しているのであり、その点を指摘して棄却すべきと考えます。つまり、「京師」は、周代の「王都」に該当する「厳密」な用語であり、これを持論に合わせて「誤解」することは論外です。要するに、「都」に「王都」限定の意義が失われたために、あらたに「京師」なる特別な用語を定義したものですから、そのように解すべきです。

 古田史学会では、「フィロロジー」をもって論ずれば、重大な権威があるのでしょうが、ここは、(中国)古代史書の用語解釈には、古来の語彙を適用すべきであるというのが、史学の当然、普遍の原理であり、論者は、この原則を克服する論証を歴て、新説を提示すべきでしょう。

 古賀氏が、陳寿が想定していた三国志上申に際して、当時の中原読書人の語彙に反する用語を採用した場合、それだけで、全三国志が却下される危険があることを述べていますが、当方の年来の持論であり、茲に同意します。

*無意味な曲解擁護
 古賀氏は、新説の論理的な棄却を怠り、提案者の擁護を試みていますが、「友達を無くさない」配慮は感心しないので、憎まれ役を買って出ます。
 その際、「唐代二都制」なる「風説」を誤解して、「東都」洛陽を「京師」と解釈できるように取り扱っていますが、論外の曲解です。
 要するに、唐代「東都」は、後漢代の「東京」であり、京師東方の大都市](現代日本語を承知の上で使います)であり、「王都」(周代用語)の権威を有しないのです。「都」のように時代ごとの変遷が激しい言葉については、時代に応じた厳正な語義解釈が望まれます。もちろん、「都」を「すべて」と読む原義は、不朽、普遍なので、第一に尊重しなければなりません。

*点と線
 古賀氏は、「高麗」への道里について概論していますが、あくまで、「高麗」は、高麗王の居城であり、国境を意味するものではありません。同様に、卞州、徐州も、州の境界でなく、[州都](現代日本語です)を言うのです。
 言うならば、厳密に「点」として定義されているものに対して、根拠不明の国境線を持ち出すのは、論理の混濁を招いているものと考えます。
 以上、「古田史学」の名にかけて、厳正な論文審査をお願いしたいものです。
 以下、もっともですが、同意しがたい難点を述べます。

                                未完

新・私の本棚番外「古賀達也の洛中洛外日記」第2642~8話 2/2

『旧唐書』倭国伝「去京師一萬四千里」⑴~⑺ 2020/12/21~
 私の見立て★★★★☆ 堅実な考証の貴重な公開   2021/12/29

*里数論の不毛
 新唐書までの史書の道里記事を無造作に一括考証されていますが、「正史」の特別な地位を見逃しているように思います。三国志以来、後漢書、晋書等の道里記事は、それぞれ、何れかの帝国の権威を持って承認、公開されているので、後世史書は、これを無視することも、改訂することもできないのです。つまり、それぞれの記事は、それぞれの時点の編者の認識を示しているのであり、言うならば、「データ校正」されていないのです。従って、これらの里数をもとに、それぞれの一里を㍍単位で計算することは、無意味です。

 史書の里数記事をもって、その時点の国家が制定していた里数値を「実地検証」するのは、無意味と理解いただきたいものです。

〇鶴亀論
 一つ、例え話でお耳汚しとします。
 古来、「鶴亀算」という、誠に古典的な「問題」であって、現代まで語り継がれている算数「問題」があり、鶴亀混在した一群の頭の数と足の数から、二足の鶴の数と四足の亀の数を得るという、現代風に言うと、連立方程式の解法による「正解」を要求されています。この「問題」は、既に「正解」と「解法」が公知なので、不正解でも、絶望しなくても大丈夫なのです。

 ただし、実世界で国家制度として、そのような数え方を運用することはあり得ないし、実務としてそのような計算をしていたとも思えません。単に、計算の技術向上を促す、例題なのです。

 いくら「頭の数」、「脚の数」と、学術的に括っても、「鶴亀」問題に、現実的な意義があるわけではありません。

 提案いただいている古典史書の里数記事論議は、鶴と亀が混在しているものを、強引に「鶴か亀か」決めるものであり、どちらが勝っても、史学に貢献しないものと愚考します。思考実験として参考とするだけで十分であり「鶴亀論」の追求は、感心しないと見えます。

〇新唐書地理志「入四夷之路」
 正史道里行程の考察に必要なので、当ブログで公開記事を抜粋再掲します。
 漢書以来の歴代正史にある四夷「公式」行程は、しばしば実行程と異なり、従って、「公式」道里は不正確でした。唐代玄宗皇帝時に実地検証の命が下り、東夷は朝鮮半島まで実地踏査されていますが、古典史書の公式記事は訂正されていないのです。当然、京師」からの行程、道筋は、秦漢代以来の「公式行程」と食い違っていると判明したのですが、訂正されていないのです。

 その結果、京師から「倭」への公式行程は、依然として、漢代以来の遼東、楽浪経由の陸上経路であり、山東「東莱」ならぬ登州経由の渡海は認知されなかったのです。新説は、さらに根拠の無いものとなります。

 玄宗期の東夷官路と里程ですが、登州から渡海上陸後、唐恩浦口(仁川 インチョン)から新羅王城慶州(キョンジュ)までの「東南陸行七百里」は、現代地図では五百公里(㌔㍍)と思われます。「海行」発進地登州府は、山東半島管轄の登州[州都]です。「海行」は、倭人伝「水行」同様、渡海であって、沿岸航行でないのは、断然明らかです。

 提案の東莱は、春秋時代の東の超大国「斉」以来の海港ですが、この時代、半島先端の登州が興隆し、東莱は退勢にあったと見えますが、詳しい事情は不明です。

                                以上

2021年9月23日 (木)

新・私の本棚 番外 「古賀達也の洛中洛外日記」百済人祢軍墓誌の「日夲」について (1)-(3)

「古賀達也の洛中洛外日記」第2427-2429話 2021/04/09-04/10       2021/04/12 

〇はじめに~謝辞
 古賀達也氏のブログには、ほぼ日参しているが、ここで耳慣れた話題にお目にかかった。三回連載の展開はさておき、当ブログの旧記事を適確に引用いただいたので、ここに感謝の意を表したい。

残念な新説
 「古田史学の会・東海」の会報『東海の古代』№248に掲題の論考が二件紹介され、その内、石田泉城氏の論考に、通説の「于時、日夲餘噍」(この時、日本の餘噍は)でなく、「于時日、夲餘噍」(この時日、当該の餘噍は)と解する説が提言されていて、どこかで見たと感じた次第である。(苦笑) いや、折角、先行諸論文を紹介した上で、深く掘り下げる追加記事まで書いたのに、お目にとまらなかったとすれば残念ということである。

被引用の光栄
 当ブログは、古賀氏の目には届いていたようで(3)で注意喚起いただいて光栄であった。初出記事を温存した甲斐があったのである。

追加考察
 石田氏の論考で不満なのは、本と夲が、本来別字と断じられていて、だから、「日本」は、国号ではないという趣旨だが、「夲」は、現代中国語でもむしろ常用されていて、実際上別字と見るべきではないという意見である。

 墓誌の刻字の際、「本」は、中心の字画交差部が彫りにくいので「夲」が当然であったように思う。簡牘書記でも、「本」を細かい文字で早書きすると失敗しやすいと見えるので、「夲」が主流でも不思議は無いと思う。

 この点は、見解の相違であるから、別に、そう考えろと言っているわけではない。どうして代え字したのかと詮索しただけである。

 書道の先生が言うように、大きな堂々たる文字を書くときは、時間をかけてでも「本」の字を正確に書き出して、腕の確かさと芸術性を誇るのだろうが、実務は別だと思うものである。

 なお、当ブログ記事の字句解釈は、「本余譙」は「本国」の余譙、つまり、「百済」の余譙と読めるとの意見であり、石田氏に比べて、随分丁寧に論じていると自負している。新説というなら、こうした主張点を克服して欲しいものである。

〇先行論者への謝辞
 さらに、墓誌は、古典教養を問われるのであるから、誰も知らない、できたてほやほやの蕃夷国号など書かれるはずはない、という解釈も克服されていない。この点は、東野氏の論考に啓発された気もするが、知られていないのかと思いここに蒸し返す。

〇最後に
 と言うことで、記事引用も頂いているので、被引用者として、大きな不満はない、どころか、大いに満足していると申し添えておくものである。またもや学恩を受けた以上、恩返しが必要と思う次第である。

 思うに、論文にとっての勲章は、先行論考として引用されることと思うのであり、今回は、大いに意を安んじたのである。
 いや、特許の分野では、小生の米国特許に対して、少なからぬ被引用が記録されているのは、内心大いに誇っているのである。
                 以上

2020年12月13日 (日)

新・私の本棚 番外 「古賀達也の洛中洛外日記」 第2310~4話 2/2

 明帝、景初元年(237)短里開始説の紹介(1)~(5) 2020/12/05

 私の見立て ★★★☆☆ 思い余って..言葉足らず   2020/12/13

○三国志の成り立ち~私見
 三国志は、三篇の国志、魏国志、呉国志、蜀国志をまとめたものですが、陳寿の編纂方針として、各国志の編纂方針を温存しているので、原則として、里制の統一はしていないものと見られます。

 魏国志、魏志の里制は、魏の明帝景初年間の記事は、当然、その時点で施行されていた里制、ここでは、魏制と仮想された「短里」に基づいて書かれたと仮定されます。(当記事筆者は、「短里」と断定しているのではありません)

 その伝で行くと、後漢代の魏武曹操の記事は「普通里」のはずです。魏朝創業後、文帝曹丕の治世と景初以前の明帝曹叡の治世は、遡って「短里」で書くべきだとなりますが、呉志、蜀志すら是正を控えた陳寿が、たかが「道のり」表記で緻密な書き換えをしたかどうか不明です。

*換算改訂の想定
 別稿に換算書き換え仮説が提示され、その副作用として、切りの悪い計算結果を「数*里」という曖昧表現をしたと論じられています。換算の証拠として、換算されたと見られる記事は「数*里」が多く、換算不要の景初記事は少ないとされていますが、私見では、元々の概数数字を計算可能な整数で逓倍するなら、大抵の場合、概数を切りの良い数字に丸められると見えます。

 批評記事には書きませんでしたが、信頼できる統計推定には、有意と言えるだけの件数が必要で、更に、何よりも内容確認が必要です。提起されたものでは、断定的な結論どころか推定すら困難なものと思量します。

 ということで、提言は憶測に見えるのですが、いつも慎重な古賀氏は、そのような換算は、時と場合で適用しなかったこともあるとしています。

 そのように、とても論証と思えない憶測と決めつけの羅列ですが、古賀氏が、そのような論議に賛同しているのは共感できません。

*難詰 その一 土地制度改訂の難題
 当方の思い付きですが、里制を触ると、一里(三百歩)四方の土地を、三頃七十五畝の面積とする、秦漢代以来の(九章算術)計算公式を破壊するのです。加えて、全国で土地台帳の全面書き換えを要するから、全土混乱どころか、実行不可能です。

*難詰 その二 里数・運賃規定改訂の難題
 また、全国運送制度の体系に干渉します。唐六典規定集には、全国各地の河川水運と付随陸運で、一日の到達里数と規定運賃が規定されていますが、これは秦漢代来の全国規定の唐代最新形です。魏朝体系で里制改訂すると、各地点は固定で所要日数と運賃は維持されますが、規定表は書き換えです。書き換えには、厖大な計算、つまり、人員動員と長期間の専従が必要であり、大変な労力を伴い、かつ、本務を途絶させて、官僚機構を壊滅させますが、達成しても、税収は増えない制度変更であり、全土混乱するのです。

*不思議な記録不在
 どちらも、全国の官吏、つまり、高官から小役人に至る面々に、大変な厄介ごとを招くから、記録にも記憶にもとどまり、西晋代、陳寿の取材に、ぞろぞろと不平不満の報告が入るはずです。新朝王莽は、官僚組織や地名を復古させたための混乱を、反乱、亡国の要因とされていますが、魏志には、そのような大事件は書かれていません。

 陳寿自身は、洛陽にとどまっても、必要なら「取材班」を各地に送り出すことはできるのですから、大事件の痕跡があれば把握していたはずです。それまで、何も、気づいていなかったとしてのことですが。

 周知のように、明帝は、景初年間の大規模な新宮殿造営で、人件費を節約するために洛陽官人を「通い」で大量動員し、囂々たる不平を買いました。不名誉にあたるので、本紀には没後の工事中止を言うだけであり、君子不徳の極みとする重臣の諫言を収録しています。

 里制改訂という有害無益な皇帝命令があったのに、それについて陳寿が書かず、時に辛辣な付注を加える裴松之が、何も語っていないのは不審の極みであり、つまりは、そのような天下を揺るがす暴挙はなかったから、何も書かれていないのです。

 ついでながら、万事網羅する晋書地理志にも通典にも、そのような大事件は記録されていないのです。

○甲斐なき熱弁
 古賀氏の熱弁に拘わらず、魏晋朝短里説は論証されてないのです。

 論証の筋の通らない話では、人は納得しないのです。

                                以上

新・私の本棚 番外 「古賀達也の洛中洛外日記」 第2310~4話 1/2

 明帝、景初元年(237)短里開始説の紹介(1)~(5) 2020/12/05

 私の見立て ★★★☆☆ 思い余って..言葉足らず   2020/12/13

□はじめに
 ここに紹介したのは、もともと古賀達也氏が「新古代学の扉」サイトに掲載した記事ですが、本来、同名ブログからの転載であり、ここではブログ記事を参照しています。ということで、批判は、利用者共通のものと見ていただいて結構です。
 当ブログでは、非商用ブログの書評は、極力控えていますが、当記事は読者の批判を期待して公開されているものと思うので、率直な批判を掲載します。

○倭人伝短里説の流れ~補足の試み
 当記事のタイトル「明帝、景初元年(237)短里開始説」の課題は、古田武彦氏が、第一書『「邪馬台国」はなかった』において、先行する「倭人伝短里説」に対して「三国志短里制」を説いたことから発しています。

*論争の開闢の回顧
 「倭人伝短里説」は、当時、安本美典氏が、埋もれた「倭人伝道里記事は、帯方郡から狗邪韓国までを七千里とする里長に基づいて書かれていた」との提言を発掘しましたが、古田氏は、「三国志が、公式史書として編纂された以上、全巻統一里制を採用していたに違いない」との信念をもって提唱したものであり、後に、範囲を魏晋朝に限定し、それも、魏の初代文帝曹丕、後に第二代明帝曹叡が施行したとする「魏晋朝短里説」を提唱しました。

 但し、魏朝の正史記録である魏志に、そのような里制変更を明示した帝詔は記録されていないため、説得力に欠けるとみられています。

*実証模索~論争山積
 反面、三国志を全面的に用例検索して、記録上にある具体的な地名間の里数を、現在の地図上の相応する地点間の道のりと比較して、それが、普通里(四百五十㍍程度)か、1/6の短里(七十五㍍程度)か検証が試みられていますが、論議を重ねても種々の事情で確定的な判断はできません。
 私見では、そのような検証は、地点の不確かさと記録者の感覚の不確かさが重なり、6倍の差異があってもいずれとも言い難い状態なのです。

*最新情勢2020~提言の基準
 という事で、短里制実証は、行き詰まりのようです。

 魏朝における里制変更は、明帝曹叡の最後の元号景初の冒頭と見ています。明帝は、文帝の漢制継承の方針を嗣ぎましたが、景初、礼制、暦制を殷制に変更する帝詔を発した際に、里制を秦以前の古制に変えたとしています。

 明帝は、維新画期の「烈祖」を目論んだものの早世で水泡に帰したのです。

*消えた周制~殷暦・殷制の覚醒
 短里の議論に於いて、従来、「短里」は、封建制度で各国を統率していた周の制であり、秦始皇帝は、周制を廃して「普通里」を全帝国に統一施行したとの見解がありましたが、晋書地理志などによれば、秦里制は、周里制を継承したものなので、周制に復古しても里制は変わらないと見えます。

 そのため、短里は、殷(商)里制との見解が生じています。但し、三世紀当時参照できたらしい殷里制史料は、今や、痕跡すら見当たりません。

 古賀氏の当記事は、最新見解に基づく新見解の確立を図ったものです。氏は、魏晋朝短里説推進論者なので、史料の解釈、記述が撓(たわ)んでいますが、まあ、真っ直ぐな史料解釈などないので、そ方向付けを確認するためだけに諸解釈が書かれているものと見えます。つまり、信じがたいのです。

                               未完

2020年6月 6日 (土)

私の意見 ブログ記事 倭人伝「南至邪馬壹国女王之所都」の異論異説 <補追記事>

古賀達也の洛中洛外日記 第2150話 などによる随想             2020/06/03, 06/06

〇はじめに 課題の明解
 今回は、前記事に続いて端的な課題の明解を模索します。提言者である古賀達也氏は、広大な中国古典書籍の用例を網羅して、堂々たる解析を進めていますが、当方(一人称単数)は、何分、浅学非才なので、直近の文脈を解析するところから出発し、文意の結論が出せたら脚を止めるので、道が異なるのです。

 当方は、電気工学技術者で、文系/理系の教養に乏しく、また、体系的に漢文解釈を学んだわけでなくて白川静師の漢字学著書や「字通」の教えを自分なりに展開します。史料の文献記事解釈は、素人なりに一歩一歩刻んでいく地道を進みます。権威者から主観的と叱責されかねないのは覚悟していますが、部外者による常道外れの異論提示が、当方の本分と見ているのです。

 当方の行き方では、古典用例は直近の文脈に関連が薄いので重きを置かないのです。勿論、優先度が低いだけで、排除しているわけではありません。蟻が富士山と背比べするような無謀さは、持ち合わせていないのです。

〇本論
 白川静師の「字通」、「字統」によれば、「王之所」は、それ自体「王の居城」を示す古典語法であり、「王之所都」と連ねるのは不自然と見ます。漢書西域伝で、数ある蛮夷の居処は「治」なのです。因みに、「所」は「ところ」を言う名詞です。

 史書は、古典語法を遵守すると共に、平易、明解に務めることから、ここは「女王之所」で句切るのが、順当な解釈ではないでしょうか。蛮夷の王の居城を記録するのに、変則的な語法を起用するはずがないのです。

*「中華」思想の誤伝 余談として
 つまり、東夷伝記事を「王之所都」と思い込むのは、時代観を見失っています。

 余談ですが、四百年後世の七世紀、国内史料は、中国天子の行人(隋使 文林郎 裴世清)を迎えたとき、急遽任じられた鴻廬掌客が、蕃客接待しますが、これは、中国古典を知らない別の東夷でしょう。

*「都」は「すべて」の意に落着
 以上に従うと、この部分の後半は「都水行十日陸行一月」となり、「都」は、辞書に掲示される代表的な定義の通り、「すべて」の意であり、全所要日数を示すと解するのが、文脈から、順当、妥当と思われます。そのため、当用例は、唯一無二でしょう。

*倭人伝記事の落着
 ここは、「従郡至倭」で始まった道里記事の総括として、全道里万二千里に相応の全所要日数が明記されたと見るのが、妥当と思われます。
 帯方新太守が、東域都護気取りでもないでしょうが、急遽洛陽に上申したと思われる東夷銘々伝の中の「倭人身上書」の要件を端的に明示するため、「女王之所」と「都水行十日陸行一月」が繋がって解釈されない行文としたと見ます。

 以上は素人考えの仮説ですが、一考に値すると感じています。

*積年の弊を是正する偉業
 それにしても、古来、史官の規律に従った行文を、後世の文献学者が句読を謬り、文意を誤解させた可能性がある、との古賀氏の指摘は卓見です。こうして見ると、先入観に囚われた史料誤読は、現代日本人の特技ではないのです。

*高句麗「丸都」の悲劇 余談として
 古賀氏が類似用例とされた「丸都」は、高句麗の創世記神話に由来するものであり、天下りした天子の治所を「都」と自称したのでしょうが、中国から見ると蛮夷の僭称であり、いずれ打倒されるべき「賊」なのです。
 一方、高句麗の世界観では、隋唐の皇帝は、かって高句麗に敵対し、時に臣従したとも思われる蛮夷(鮮卑 慕容部、拓跋部など)の「俗人」が、勝手に天子を名乗ったに過ぎないから相克します。
 どこかで聞いたような話ですが、それは、当記事とは無関係な空耳です。

                                以上

 

2020年5月17日 (日)

私の意見 ブログ記事 倭人伝「南至邪馬壹国女王之所都」の異論異説 ⑴~⑶ 1/1

古賀達也の洛中洛外日記 第2150話 2020/05/11
私の見立て ★★★★★ 論理的考察のお手本       2020/05/16

〇はじめに
 提示されているのは、倭人伝道里記事の終着点の解釈です。と言っても、当ブログ記事筆者の提案ではなく、古田武彦氏と古賀達也氏の意見です。ここであげるのは、別の視点です。

*異論異説紹介
原文 南至邪馬壹国女王之所都水行十日陸行一月

 通常、「南至邪馬壹国女王之所都、水行十日陸行一月」 と句点を打っていますが、..女王之所、都水行十日陸行一月」と句点する提案です。

 従来、「水行..陸行」は、古田氏提唱の「全行程通算日数」との読み畿内説の命綱の「最終通過点からの所要日数」との読みが角逐していましたが、「都水行..陸行」ならば、全行程通算とできるという見方です。

 衆知の如く、倭人伝原文は句読点なしにべったり書き連ねていて、これでは、日本人だけでなく中国人も解釈に苦しむので、古来、多数の碩学者が、長年苦吟の上で句読点を打っていて、中国史学会で伝統的に採用されている解釈ですから、絶対的な支持を得ていますが、素人の乏しい経験ながら、句読点の打ち間違いで、深意を取り違えている例は、いくつか見つかっています。

 句点に関する異議は、新説提起に慎重な古田氏が、決定的論証不足と提言を控え、その衣鉢を継ぐ古賀氏も、辛抱強く補強策を求めていますが、当方は、微力ながら背中を押したいのです。

〇「女王之所都」の不合理
 冷静に見ると、「女王の都とする所」とする解釈には多々難があります。
 「王都」は、二字熟語として、中国史書で言う「王の都」と決まっていて、夷蕃王の治所に使うべき言葉ではありません。そして「王之所都」は、類似した意味のようですが、公式史書の定型文を外れた、変則的な言い回しです。

*班固「漢書」の教え
 先行する班固「漢書」西域伝でも、「王都」は、唯一、西域の超大国、安息だけであり、多数の小国は、「治」、「居」、「在」です。安息は、東西数千里の超大国パルティアであり、文字記録、金銀貨幣、全国街道の整った、漢と対等の文明国ですから、両漢は、例外として「王都」と呼んでいたのです。因みに、漢代に参詣した各国の来貢使節は、ほぼ例外なく、正史、副使、書記官、護衛官と上下揃って印綬を受領して帰国しています。

 「王都」は、漢の国内でも、郡国制で王をいただく国にだけ適用され、特別な例外を除けば、国王は皇帝同族の劉氏です。

 と言う事で、新来で、精々外藩の王に過ぎない女王の居処に、「王都」なる尊称は与えられません。まして、この位置は、景初遣使事績に触れる以前ですから、「女王」は由緒も何もない蕃王であり「所都」とも言えません。

*范曄「後漢書」の教え
 范曄「後漢書」は、「其大倭王居邪馬臺國」として「王都」と言わないし、個別の小国である「倭」と全体を束ねた「大倭」を書き分けて絶妙です。

 また、大部の笵曄「後漢書」西域伝も、夷蛮の国に関して、適確です。

〇論証の重み
 以上は、証拠の山に支えられたものでなく、論理で構築した仮説です。

〇猫に小判
 所詮、本説を受け入れられない論法の方には、猫に小判と思うだけです。

                                以上

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