古賀達也の洛中洛外日記

古田史学の会事務局長古賀達也氏のブログ記事に関する寸評です

2026年2月 9日 (月)

新・私の本棚 古賀達也の洛中洛外日記 第3460話 倭人伝「万二千余里」のフィロロギー(1)-(2) 2026

 倭人伝「万二千余里」のフィロロギー (2) ―総里程「万二千余里」の根拠は何か― 2025/03/28 初稿2025/03/31 04/19 2026/02/09

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

◯はじめに ブログ記事批判の弁
 ブログ記事ながら、当記事は、古賀達也氏の公式見解と尊重した上での書評です。(1)は論義不鮮明なので本項に併合しました。

 まずは、古賀氏の語彙が学術的な語彙からずれているのが気になります。

 「概数」を、厳密な計算に基づかない「アバウトな数値」とする理解は、ある種「誤解」と思われます。まして、後に出て来る「アバウトな概数」とは、二段重ねで何のことか(😯)びっくり。

 ちなみに、今日、「がい数」は小学四年段階で教えられています。

*概数定義の確認  新興出版社啓林館サイトからの引用です。
 概数|算数用語集 「概数:およその数のことを概数といいます。概数は,日常生活の中で「およそ3000人」「約50000円」「だいたい20%」などの表現で使われます。細かな数値そのものが必要でなく,大まかに数の大きさが捉えられればよいとするときに使われます。また,人口や国の予算などの大きな数で,正確に数値を表してもあまり意味がない場合にも概数で表すことがあります」 (参照 2025年3月31日)

 古代中国史料では、実務上「おおよその数」として扱う数値にも、大抵の場合概数が使われます。(例外として、1の桁まで全桁計算することもありますが、あくまで例外中の例外です)

 古賀氏の理解は、年功を歴た大人の常識としても、本義から外れているのではないかと懸念されます。今回紹介された異論は詳細不明ですが、むしろ(小4生も同感するような)素朴な意見であり、はなから否定すべきではないと思われます。

*引用文献の不整合
 なお、ここでことさらに引用された古田氏提言に「概数」は含まれず、反論の根拠として不十分と思われます。なにしろ、本書は、一般聴衆向けの「教養セミナー」講演録であり、史学論議に耐える厳密な語彙に従っていない可能性があります。古田武彦氏著書「俾彌呼」第Ⅰ部第3章 「女王国への道」から抜粋すべきではないでしょうか。

*余談 「周旋」用例論議
 ちなみに、まずは、通説の「周旋」解釋の混乱を解決しないと、議論が成り立たないように見受けます。

 当ブログでは、「倭人伝」文意解釈に於いて有力な同時代(後漢献帝期)用例袁宏「後漢紀」卷三十孝獻皇帝紀建安十三年の孔融記事に加えて陳寿「三国志」魏志「崔琰伝」裴注(「続漢書」から引用)のほぼ同文の孔融記事を取り上げて、同時代の三用例を勘案して、「周旋」は「往来」の常用表現と画定し「倭人伝」の語義としています。これは、古田氏見解にも、見事に整合すると見えますが、野田氏も含め拡大解釈型の論者を克服するに至っていないと見えます。ちなみに、孔融は同時代人として大変高名であったものの、後漢献帝建安年間に最高権力者曹操の命により族滅されているので、陳寿は史官の見識で、「孔融伝」を三国志「魏志」に収録しなかったと見えます。裴松之は、陳寿の孔融伝割愛の趣旨を理解した上で、続漢書から蛇足を付記したものと見えます。

*構文の乱れ
 古賀氏は、反論の根拠として、先だつ三項目外で末羅伊都間五百里と不詳の伊都不弥間の百里で不意打ちし、構文不明瞭と言われかねないところです。
 これは、引用記事の『「全行程一万二千里」を、既知の郡狗邪韓国の七千余里と倭地の「周旋」五千余里の合算とする』との趣旨と見える古田氏の簡潔な構想を外れ、概数概念不整合と相まって提言者を承服させるのは難しいと感じます。「倭人伝」記事に関する陳寿の真意は、三世紀時点で存在しなかった後世概念で推し量るのでなく、陳寿に理解できる論旨で想到するものであり、まずは「東夷伝」の概念で提示すべきでしょう。それは、二千年後生の(無教養な)東夷に「初耳」であっても、新説ではないのです。(古田氏は、初期著書では、「周旋」を諸国領域の周遊とみていて、意義が輻輳するのですが、ここでは、あえて、「周旋」論を述べていないのです)
 とにかく、正しい概算式の正しい概数項を解剖して、概数理念に反した端数を取り出すのは、端的に言って無法です。そのような端数は、概数計算式の埒外であり、概算式から排除されるのです。
 提案者は、そのような端数道里は実測されていないのでないかとの疑念を呈していますが、これは、ここまで述べたような事態の本質を取り違えています。
 ちなみに、私見では、渡海水行の千余里は、正始使節の発進前に知られていたものであり、使節は、ここは、三回の渡海を行う水行十日と承知していたのであり、要するに、使節の報告書以前のものなのです。今回の議論の本質に関わるものではないのですが、この際、誤解を説こうとしたものです。

*持論提示 遅れてきた「定説」
 当ブログ筆者の持論では、「倭人伝」の『「郡から倭に到る万二千余里」は、公孫氏が、実際の道里が不明な時点で公式道里としたものであり、各部分の実測道里の加算(概算)で求めたものではない』(後漢献帝建安年間、帯方郡創設前後と推定)との意見ですから、食い違っています。
 なお、当然の常識として[千余里]単位概数の一桁漢数字の加算であるから、百里以下の端たは、当然無視するものと思っています。

*率直な苦言
 ついでながら、+αは「プラスアルファ」なる大変不都合な(インチキ)外来語の派生表現であり、同様に不都合である「アバウト」共々、古賀氏の信用を損ないかねないので、考えなおされることを強くお勧めします。

                                以上

新・私の本棚 古賀達也の洛中洛外日記 第3461話 倭人伝「万二千余里」のフィロロギー (3) 2026

倭人伝「万二千余里」のフィロロギー (3)『史記』大宛列伝、司馬遷の里程計算 2025/03/29  初稿2025/04/01, 04/19 2026/02/09

*議論の確認
 今回の論議は、却って、古賀氏の「倭人伝」解釈の未熟さを示しているように見えます。「伊都国から奴国への百里は傍線行路であり、郡より女王国に至る一万二千余里に含まれない」としながら、伊都から不弥の行路が傍線でなく万二千余里に含まれるとするのは、承服することが困難です。まして、「倭人伝」に触れられていない「島巡り半周読法」なる「古田新説」により百里単位の追記を詰め込むのは、「公理」に反すると見えますが、いかがでしょうか。

*第一法則「部分の総和は、総計に等しい」の締め
 今回蒸し返されている議論は、前回、古田師の提言として明快に示された「帯方郡治から邪馬一国までが一万二千里。帯方郡治から狗邪韓国までが七千余里、そして海上に散らばっている島々、洲島上の(倭地)を「周旋」(周も旋もめぐるという意味)してゆくのが、五千里」なる明快な解釈に対する「蛇足」(一切ぶち壊し)になっています。まずは、ここで「第一法則」の論証を、一度締めて異議を求めるべきです。議論は小刻みに収束させるべきであり、拡大混乱させるべきでないというのは、世間一般の通則と思うのですが、古代史学は、共感していないと見えて残念です。
 ついでながら、明快解釈に茶々を入れる野田氏の解釈は、折角ですが、目下の議論の邪魔になるので、後回しにすべきです。時間は、タップリあります。

*蛇足の確認
 「蛇足」部を混乱させるのは、追加された「末羅伊都間 五百里」の解釈です。
 古来の定則の根拠は[千余里]単位概算の整合であり、古来の漢数字で、七に五を加えればピッタリ十二なので、間違いようがないのです。古来の算数には小数は無いので現代風に言う0.5[千余里]は、無法なのです。

 周知のとおり、古代中国では、[千余里]の一桁数字の算木計算で、加算結果の繰り上がりはあっても、下位桁相当の小数は排除されているのです。
 古賀氏が忌避しているようなので再確認すると、提案された異議は、[千余里]単位概算では端たの百里単位は計算しないので、島巡り半周読法など「無用」との意見でしょうから、今回も反論できていないのです。

*参問倭地、周旋
 案ずるに、古田氏の「海上に散らばっている島々」は、「參問倭地」「或絕或連周旋可五千餘里」の意味を軽視されたもので、提言として不用意です。

 本件は、郡から倭に到る行程の当初、つまり、後漢献帝建安年間、遼東で君臨していた公孫氏の概念説明であり、狗邪韓国からの渡海以下の行程は、末羅まで洲島、中之島を渡船で水行し、上陸直ちに陸行伊都国に到り、以下の行程は書かれていないであったと見えるのです。正史行程記事の「行程」は、陸上街道で目的地まで最短で結ぶのです。
 と言うことで、古田氏によって追加された「不弥国」論は、「行程」外に道草し、(古田氏自身の迷い道とは言え)古田氏の明快な解釈が溶け落ちています。提言は、追加なしに確立すべきだったのです。

*規範の取り違い
 ちなみに、氏が「倭人伝」のお手本と見た司馬遷「史記」大宛伝は、班固「漢書」西域伝転用と推定され、議論に影響しない「雑音」の混入です。陳寿は、饒舌な史記でなく朴訥な漢書を範例としたはずです。

*算数教科書 不朽の「九章算術」
 お言葉ですが、測量実務の根幹は、あくまで「九章算術」であり、検地や初歩的な土木工事実務教科書であり、高度な理論展開の場ではないのです。流し読みするだけでも、同書の深意を察することができます。
 ちなみに、これら算術書は、おそらく、周代門外不出の「秘伝」であったものが、東周滅亡時に秦朝に献上され、同国国内で「教科書」として施行されていたものが、秦始皇帝が、秦律の一環として全国地方官吏に配布、普及して、国政の根幹として運用したと見え、以後、文官の必須教養と思われます。

 もちろん、「部分里程の和が総里程」との「公理」は基本の基本で「証明不要」であり、金銭計算にも通じるので文官全員が通暁していたと思われます。但し、金銭計算は概算しないので諸兄姉は勘違いされるかも知れません。

                               以上

新・私の本棚 古賀達也の洛中洛外日記 第3463話 倭人伝「万二千余里」のフィロロギー (4) 2026

 「周旋五千余里」、野田利郎さんの里程案 2025/03/31  2025/04/02 改訂 2025/04/19

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

◯はじめに
 当連載記事は右顧左眄せず一路邁進ですから、当方も一路邁進します。
 既に泥沼化しかけていますが、懸案は「里数の概数計算において、部分里数計は総里数とピッタリ一致しなくても良い」とする「公理」の確認です。

倭人伝の里程記事「倭地周旋五千余里」は、古田説によれば次の倭国内の部分里程の合計と一致します。
 当ブログでは、古田師の第一段階提言の総括として、以下を懇望します。

 「倭人伝」に、明記も示唆もない、一切書かれてない島巡り論は、論議無用です。「方里」談議は、深くて大きい傍路に入るので割愛します。
郡狗邪韓  陸行 七[千余里] 狗邪韓対海  水行 一[千余里]
対海一大  水行 一[千余里] 一大末盧   水行 一[千余里]
末盧伊都  陸行 二[千余里] 差分であり、自明 誤解を招くので、本項を改訂します。
部分行程計   十二[千余里] 全行程     十二[千余里] 

 陳寿の理路に従い時代錯誤の現代的作表でなく縦書表記したいのですが、ブログで縦書表示は大変困難です。末羅伊都間の五百里は、いったん島巡り共々捨てます。

 部分計十[千余里]と全行程十二[千余里]の差分二[千余里]は、[千余里]単位の一桁概数の計算で生じたものなので、数学的に無視可能です。特に、「水行」は、測量不能、かつ、無意味な実際の道里でなく、所用日数を当てはめた「見なし」里数なので、辻褄合わせは不合理です。
 訂正 正しくは、差分二[千余里]は、初期段階で、末羅国~伊都国間の道里としたものであり、水行一[千余里]同様、実際の道里でなく、概念を示したものなのでした。

 陳寿の表示は、後漢献帝建安年間に、公孫氏がつけた全行程万二千余里の公式道里を率直に案分したものなのです。衆知の如く、概算計算の加減算で、細部の辻褄が合わないのは、むしろ当然・自明です。

 古田氏は、第一書執筆の途次で、直感・熟慮により差分解消の錯綜した論理を創唱したと見えます。何しろ、時点の氏の学識限界を承けているので、致し方ないのですが、半世紀を経て、通過点に残した瑕瑾が是正されないのは、大変残念です僭越ながら、後生は、先生である古田氏の学説の不合理な細瑾を是正して、学説基幹を外部からの攻撃から守るべきであり、この点是非とも慎重にご考慮いただきたいのです。


 なお、氏が創唱した「漢江河口部回避の部分的な海上移動」を「水行」の初出用例とする理窟は、「倭人伝」原文が遵守した古典史書語法による真意に反していることが見すごされ、以後、追従者が多く、不合理が拡散されているのですが、本件の論議では、別儀として極力直接言及するのを避けているのです。これまた、深くて大きい傍路なのです。

 古賀氏曰わく「野田説を『邪馬壹国の歴史学』(…2016年)に収録し、後世の研究者の判断に委ね…ました。」は、傍路と見えます。「魏使の最終目的地を侏儒国」なる見解の提示自体は[事実]でしょうが、未検証の思いつきと見て、検証し採否を示すのが、後生の重大な務めと感じます。ご一考ください。

 懸案の換言、蒸し返しになりそうですが、正統史官が、巻末の蛮夷伝で姑息きわまりない辻褄合わせを弄すると想定するのは、不合理です。

 世にはびこる時代錯誤のほんの一例ですが、本件討議の圏外から提起の野田氏論理は、原文にない算用数字多桁表示濫用で、三世紀史官に不可解きわまりないものです。3000余里の1里単位非「概数」と[千余里]単位、「四」引く「一」の「三」の単位不揃いにお気づきでしょうか。なお、野田氏論考は、既に参照論文で確認して、当ブログでは、難点から成立しがたいと断じました。古賀氏が何故、明白な議論を先送りにしたのか、不可解です。

 以下、ますます本件の議論の傍路に入り付随論を無用に拡散させ、「倭人伝」の末梢を論じて、貴重な連載記事の進路を崩しているので、無用と断じます。傍路から本道への復帰を切望する次第です。

*用語談議
 ついでながら、用語誤解により論理階梯が乱れているのを、敢えて指摘します。

  1. 「参問倭地」は「倭地」を訪れることです。「倭人伝」では、殊更定義した上で、古典史書で前例のない「水行」、「陸行」を予告の上で導入し、狗邪韓国から末羅国まで渡船で渡り継ぐのを「水行」によって州島を渡り継ぐと概括し、区間内の陸上移動は述べず、末羅国で上陸した後「倭人伝」で初めての「陸行」と述べています。不記載事項援用は、当時の高貴な読者の怒りを買います。
  2. 「周旋」は、差分論議を避けて狗邪韓国-倭間の直線行程を復唱したものであり、直前に示された内容なので容易想到されるので、語義解釈は、野田氏の解釈と大きく異なります。(同時代用例に不足はなく、袁宏「後漢紀」、裴松之補注にみられるので、むしろ、当時の洛陽知識人の常識と見えます)
  3. [方...里]は、「道里」ではなく面積表示であり、中国古代史書の書法にならい、混同されないように単位表記を変えているので明らかなであり、取りあえず、道里論議から除外すべきです。簡明であるべき議論を、拡大、混乱させないように、最低限の確認にとどめるものです。

 ご一考いただきたく提言しますので、御不快でも御容赦いただきたい。

                                以上

*追記 2026/02/09
 書き漏らしているのに気づいたので、「倭地」道里について説明します。
 「倭人伝」で、「従郡至倭」を郡から倭までの「郡倭道里」なる公式道里とみた場合、本来、千余里単位の概数となるべきものが、末羅国から伊都国への「陸行」五百里が、里数記法の秩序を乱していることに気づかれるはずです。また、概数里数の計算からみて、ここは、二千余里となるべきものが、大きく齟齬しているように見えることが、不審でしょう。
 案ずるに、当初、この区間は、伊都国狗邪韓国間の「周旋」、すなわち、往還五千余里から、三回の渡海の小計三千余里を引いた二千余里となることが予定された上で、差分自明として未記入になっていたものと見えます。そのような里数記事に、後年、帯方郡行人が、伊都国から公式に聴取した倭地行程が追記されたものと見えます。つまり、末羅国から伊都国の最終行程五百里、加えて、脇道行程として、伊都國から奴国百里、不弥国百里、そして、投馬国水行二十日の事項が追加されたものと見えます。公式記録は、上書き改竄ができないので、資料が追加継承されたと見えます。
 史官は、「倭人伝」編纂にあたって、洛陽の帝室書庫所蔵の「倭人」関連公文書史料を通観した上で、この際は、千余里を単位とした「郡倭道里」と異なる百里単位で「余」を含まない、明らかに異質な記法として、現地実測に基づく地域道里明示したと見えます。千里単位の概数道里にも百里単位の道里を追記するのは、概数道里記法の原則に明らかに反するので、これは明示したとみるものです。
 してみると、地域道里は、「郡倭道里」を万二千里とする不正規な「里」でなく、秦制以来の「普通里」四百五十㍍程度に基づくものと見られます。これは、便宜的に「郡倭道里」に通用させるには、六倍するものと思われます。
 よって、末羅国から伊都国の最終行程は、三千余里、脇道行程は、伊都國から奴国千余里、不弥国千余里(それぞれ繰り上げ)と見ないと、整合しないことになります。
 さしあたって、郡倭行程万二千余里の検算ですが、区間道里を加算すると、郡狗邪韓国間七千余里、三度の渡海小計三千余里、末盧国伊都国間三千余里の計は、万三千余里となりますが、これは、概数として整合するものであり、適合していると確認できます。
 以上の確認を指示されるかどうかは、「倭人伝」道里記事の考証に拘わりますので、当記事の見解を強要するものではありません。寡聞にして、以上の議論は、見かけなかったので、念のため提起したものです。
 また、当記事は、伊都国国治、ないしは国城の南に隣接、ないしは、伊都国領域内に包含、収容されていたと推定される「邪馬壹国」、すなわち、「王国」、「宮都」ならぬ端正な女王居処である「国邑」の比定の任に無いので、口を挟むものではありません。

以上

 

2025年11月19日 (水)

新・私の本棚 「古賀達也の洛中洛外日記」 第2310~4話 1/2 2025

 明帝、景初元年(237)短里開始説の紹介(1)~(5) 2020/12/05
 私の見立て ★★★☆☆ 思い余って..言葉足らず   2020/12/13 2024/05/08, 10/15 2025/11/19

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

□はじめに
 ここに紹介したのは、もともと古賀達也氏が「新古代学の扉」サイトに掲載した記事ですが、本来、同名ブログからの転載であり、ここではブログ記事を参照しています。ということで、批判は、両者共通のものと見ていただいて結構です。
 当ブログでは、非商用ブログの書評は、極力控えていますが、当記事は読者の批判を期待して公開されているものと思うので、率直な批判を掲載します。

倭人伝短里説の流れ~補足の試み
 当記事のタイトル「明帝、景初元年(CE 237)短里開始説」の課題は、古田武彦氏が、第一書『「邪馬台国」はなかった』において、先行する「倭人伝短里説」に対して「三国志短里制」を説いたことから発しています。

*論争の開闢の回顧
 「倭人伝短里説」は、当時、安本美典氏が、埋もれていた「倭人伝道里記事は、帯方郡から狗邪韓国までを七千里とする里長に基づいて書かれていた」との提言を発掘しましたが、古田氏の「短里説」は、「三国志が、公式史書として編纂された以上、全巻統一里制を採用していたに違いない」との信念をもって提唱したものであり、後に、範囲を魏晋朝に限定し、それも、魏の初代文帝曹丕、後に第二代明帝曹叡が施行したとする「魏晋朝短里説」を提唱しました。

 私見では、魏朝の正史記録である陳寿「三国志」魏志に、そのような里制変更を明示した帝詔は記録されていないため、説得力に欠けるとみられています。

*実証模索~論争山積
 反面、陳寿「三国志」を全面的に用例検索して、記録上にある具体的な地名間の里数を、現在の地図上の相応する地点間の道のりと比較して、それが、普通里(四百五十㍍程度)か、1/6の短里(七十五㍍程度)かの悉皆検証が試みられていますが、論議を重ねても種々の事情で確定的な判断はできません。
 私見では、そのような検証は、地点の不確かさと記録の不確かさが重なり、六倍の差異があってすら、いずれとも言い難い状態と見えるのです。

*最新情勢2020~提言の基準
 という事で、短里制実証は、行き詰まり(cul de sac)のようです。関西でいう「箱」の底の「地獄」のように、どん詰まり、袋小路です。
 古賀氏ブログの当記事では、魏朝における里制変更は、明帝曹叡の最後の元号「景初」の冒頭と見ています。明帝は、初代皇帝文帝曹丕の漢制継承の方針を嗣ぎましたが、景初改暦に当たって、礼制、暦制を殷制に変更する帝詔を発した際に、里制を秦以前の古制に変えたとしています。
 明帝は、維新画期の「烈祖」を目論んだもののご自身の早世で水泡に帰したのです。

*消えた周制~殷暦・殷制の覚醒
 私見では、短里の議論に於いて、従来、「短里」は、殷周革命で天下の覇権を得て、封建制度で各国を統率していた周の設定した周制であり、秦始皇帝は、周制を廃して「普通里」を全帝国に統一施行したとの見解がありましたが、「晋書」地理志などによれば、秦里制は、周里制を継承したものなので、周制に復古しても里制は変わらないと見えます。
 そのため、短里は殷(商)里制との見解が生じています。但し、三世紀当時参照できたらしい殷里制史料は、今や、痕跡すら見当たりません。

 以上に紹介した古賀氏の当記事は、最新見解に基づく新見解の確立を図ったものです。氏は、「魏晋朝短里説」推進論者なので、史料の解釈、記述が撓(たわ)んでいますが、まあ、この世界は、「絶対平面」ではないので、真っ直ぐな史料解釈などないのです。その方向付けを確認するためだけに諸解釈が書かれているものと見えます。つまり、信じがたいのです。

                               未完

新・私の本棚 「古賀達也の洛中洛外日記」 第2310~4話 2/2 2025

 明帝、景初元年(237)短里開始説の紹介(1)~(5) 2020/12/05
 私の見立て ★★★☆☆ 思い余って..言葉足らず   2020/12/13 2024/05/08, 10/15 2025/11/19

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

◯「三国志」の成り立ち~私見
 陳寿「三国志」は、三篇の国志、「魏国志」、「呉国志」、「蜀国志」をまとめたものですが、陳寿の編纂方針として、各国志の編纂方針を温存しているので、原則として、里制の統一はしていないものと見られます。

 「魏国志」(魏志)の「里」ですが、魏の明帝景初年間の記事は、当然、その時点で施行されていた里制、ここでは、当座の仮説として魏制と仮想された「短里」に基づいて書かれたと仮定されます。(当記事筆者は、「短里」と断定しているのではありません)

 その伝で行くと、後漢代の魏武曹操の記事は「普通里」のはずです。魏朝創業後、文帝曹丕の治世と景初以前の明帝曹叡の治世は、「普通里」で書かれていて、これを遡って「短里」で書くべきだとなりますが、「呉志」、「蜀志」すら是正を控えた陳寿が、たかが「道のり」表記で緻密な書き換えをしたかどうか不明です。(そんなことはなかったとの断言です)

*換算改訂の想定
 別稿に、換算書き換え仮説が提示され、その副作用として、切りの悪い計算結果を「数…里」という曖昧表現をしたと論じられています。換算の証拠として、換算されたと見られる記事は「数…里」が多く、換算不要の景初記事は「数…里」が少ないと提示されていますが、私見では、元々の概数数字を計算可能な整数で逓倍するなら、大抵の場合、概数を切りの良い数字に丸められると見えます。当時の算木を用いる計算は、一桁の加算にほぼ特化していて、整数倍は、至難の苦行であり、整数除算は、一般の吏人には、不可能な高等数学なので、いくら、大量の人員を投入可能としても、意義の無い労苦は、徹底的に可否すると見えます。

 批評記事には書きませんでしたが、信頼できる統計推定には、有意と言えるだけの件数が必要で、更に、何よりも内容確認が必要です。提起されたものでは、断定的な結論どころか推定すら困難なものと思量します。
 ということで、提言は憶測に見えるのですが、いつも慎重な古賀氏は、そのような換算は、時と場合で適用しなかったこともあるとしています。
 そのように、とても論証と思えない憶測と決めつけの羅列ですが、古賀氏が、そのような論議に賛同しているのは共感できません。

*難詰 その一 土地制度改訂の難題
 当方の思い付きですが、里制を触ると、一里(三百歩)四方の土地、古法で言う「方一里」を、三頃七十五畝の面積とする秦漢代以来の(九章算術)計算公式を破壊するのです。加えて、そのような改訂は、耕作地の計量で採用される「歩」(ぶ)を、一/六に短縮し、つまり、土地台帳の記事を六倍に逓倍することを必要とするので、全国で土地台帳の全面書き換えを要するから、全土混乱どころか、実行不可能です。

*難詰 その二 里数・運賃規定改訂の難題
 また、全国運送制度の体系に干渉します。唐六典規定集には、全国各地の河川水運と付随陸運で、一日の到達里数と規定運賃が規定されていますが、これは秦漢代来の全国規定の唐代最新形です。
 魏朝体系で、それまでの一里を六里とするように里制改訂したと、敢えて仮定すると、当然、各地点は固定であるから、所要日数と運賃は維持されますが、規定表は書き換えなければなりません。書き換えには、厖大な計算、つまり、算数官吏人員動員と長期間の専従が必要であり、大変な労力を伴い、かつ、本務を途絶させて、官僚機構の運用を壊滅させますが、達成しても、税収は増えない制度変更によって、全土混乱するのです。そんなことするはずがないのです。

*不思議な記録不在
 どちらも、もし、強行実施されたとすると、全国の官吏、つまり、高官から小役人に至る面々に、大変な厄介ごとを招くから、記録にも記憶にもとどまり、西晋代、陳寿の取材に、ぞろぞろと不平不満の報告が入るはずです。新朝王莽は、官僚組織や地名を復古させたための混乱を、反乱、亡国の要因とされていますが、魏志には、そのような大事件は書かれていません。
 陳寿自身は、曹魏首都洛陽にとどまって公文書に没頭していたとしても、必要なら「取材班」を各地に送り出すことはできるのですから、大事件の痕跡があれば把握していたはずです。それまで、何も、気づいていなかったとしてのことですが。

 周知のように、明帝曹叡は、景初年間の大規模な新宮殿造営で、人件費を節約するために洛陽官人を「通い」で大量動員し、囂々たる不平を買いました。大変な不名誉にあたるのですが、本紀には没後の工事中止を言うとともに、君子不徳の極みとする重臣の諫言を収録しています。
 里制改訂という有害無益な皇帝命令があったと仮定しても、そのような帝詔と不都合極まりない帰結について、陳寿が一切書かず、時に辛辣な付注を加える裴松之が、何も語っていないのは不審の極みです。
 つまりは、そのような天下を揺るがす暴挙はなかったから何も書かれていないのです。

 ついでながら、万事網羅する「晋書」地理志にも、「通典」にも、そのような大事件は記録されていないのです。

◯甲斐なき熱弁
 古賀氏の熱弁に拘わらず、「魏晋朝短里」説は論証されてないのです。
 論証の筋の通らない話では、人は納得しないのです。

                                以上

新・私の本棚 番外「古賀達也の洛中洛外日記」第2642~8話 1/2 2025

『旧唐書』倭国伝「去京師一萬四千里」⑴~⑺ 2020/12/21~
 私の見立て★★★★☆ 堅実な考証の貴重な公開   2021/12/29 2024/10/15 2025/11/19

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

〇はじめに
 掲題の古賀氏ブログ記事は、連載の態をとっているものの単一記事と見られるので、ここでは、一括して批判します。
 古賀氏は、古田史学会の重鎮として新説提言に対する審査役を務めているものと見受けます。そして、審査の際の考証内容を公開しているので、論議の信頼を高めています。
 ここでは、題目が、当ブログで展開している「倭人伝道里行程記事」論議に関係しているので、以下の如く「丁寧」に批判するものです。

〇仮説不成立の提案
 ここでは、舊唐書「倭国伝」の「去京師一萬四千里」の「京師」を山東半島東莱に誘致する新説に批判を下しているものです。
 当ブログ筆者たる当方の見解では、新説の論者野田利郎氏は、史書解読の際の原則を踏み外しているのであり、その点を指摘して棄却すべきと考えます。つまり、「京師」は、本来、周代の「王都」に該当する「厳密」な用語であり、これを持論に合わせて「誤解」することは論外です。要するに、「都」に「王都」限定の意義が失われたために、あらたに「京師」なる特別な用語を定義したものですから、そのように解すべきです。

 古田史学会では、「フィロロジー」をもって論ずれば、重大な権威があるのでしょうが、ここは、(中国)古代史書の用語解釈には、古来の語彙を適用すべきであるというのが、史学の当然、普遍の原理であり、論者は、この原則を克服する論証を歴て、新説を提示すべきでしょう。

 古賀氏が、陳寿が想定していた三国志上申に際して、当時の中原読書人の語彙に反する用語を採用した場合、それだけで、全三国志が却下される危険があることを述べていますが、当方の年来の持論であり、茲に同意します。

*無意味な曲解擁護
 古賀氏は、新説の論理的な棄却を怠り、提案者の擁護を試みていますが、「友達を無くさない」配慮は感心しないので、部外者として、憎まれ役を買って出ます。
 その際、「唐代二都制」なる「風説」を誤解して、「東都」洛陽を「京師」と解釈できるように取り扱っていますが論外の曲解です。
 要するに、唐代「東都」は、後漢代の「東京」であり、京師東方の大都市](現代日本語を承知の上で使います)であり、王都」(周代用語)の権威を有しないのです。「都」のように時代ごとの変遷が激しい言葉については、時代に応じた厳正な語義解釈が望まれます。もちろん、「都」を「すべて」と読む原義は、不朽、普遍なので、第一に尊重しなければなりません。

*点と線
 古賀氏は、「高麗」への道里について概論していますが、あくまで、「高麗」は、高麗王の居城であり、国境を意味するものではありません。同様に、卞州、徐州も、州の境界でなく、[州都](現代日本語です)を言うのです。
 言うならば、厳密に「点」として定義されているものに対して、根拠不明の国境線を持ち出すのは、論理の混濁を招いているものと考えます。
 以上、「古田史学」の名にかけて、厳正な論文審査をお願いしたいものです。
 以下、もっともですが、同意しがたい難点を述べます。

                                未完

新・私の本棚 番外「古賀達也の洛中洛外日記」第2642~8話 2/2 2025

『旧唐書』倭国伝「去京師一萬四千里」⑴~⑺ 2020/12/21~
 私の見立て★★★★☆ 堅実な考証の貴重な公開   2021/12/29 2024/10/15 2025/11/19

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*里数論の不毛
 新唐書までの史書の道里記事を無造作に一括考証されていますが、「正史」の特別な地位を見逃しているように思います。陳寿「三国志」以来、笵曄「後漢書」(司馬彪「続漢志」)、唐代官撰「晋書」等の道里記事は、それぞれ、何れかの帝国の権威を持って承認、公開されているので、後世史書は、これを無視することも、改訂することもできないのです。つまり、それぞれの記事は、それぞれの時点の編者の認識を示しているのであり、言うならば、「データ校正」されていない測定値です。従って、これらの里数をもとに、それぞれの一里を㍍単位で計算することは、無意味です。

 史書の里数記事をもって、その時点の国家が制定していた里数値を「実地検証」するのは、無意味と理解いただきたいものです。

〇鶴亀論
 一つ、例え話でお耳汚しとします。
 古来、「鶴亀算」という、誠に古典的な「問題」であって、現代まで語り継がれている算数「問題」があり、鶴亀混在した一群の頭の数と足の数から、二足の鶴の数と四足の亀の数を得るという、現代風に言うと、連立方程式の解法による「正解」を要求されています。この「問題」は、既に「正解」と「解法」が公知なので、不正解でも、絶望しなくても大丈夫なのです。

 ただし、実世界で国家制度として、そのような数え方を運用することはあり得ないし、実務としてそのような計算をしていたとも思えません。単に、計算の技術向上を促す例題なのです。
 いくら「頭の数」、「脚の数」と、学術的に括っても、「鶴亀」問題に、現実的な意義があるわけではありません。

 提案いただいている古典史書の里数記事論議は、鶴と亀が混在しているものを、強引に「鶴か亀か」決めるものであり、どちらが勝っても、史学に貢献しないものと愚考します。思考実験として参考とするだけで十分であり「鶴亀論」の追求は、感心しないと見えます。

〇新唐書地理志「入四夷之路」
 正史道里行程の考察に必要なので、当ブログで公開記事を抜粋再掲します。
 漢書以来の歴代正史にある四夷「公式」行程は、しばしば実行程と異なり、従って、「公式」道里は不正確でした。唐代玄宗皇帝時に実地検証の命が下り、東夷は朝鮮半島まで実地踏査されていますが、古典史書の公式記事は訂正されていないのです。当然、京師」からの行程、道筋は、秦漢代以来の「公式行程」と食い違っていると判明したのですが、訂正されていないのです。

 その結果、京師から「倭」への公式行程は、依然として、漢代以来の遼東、楽浪経由の陸上経路であり、山東「東莱」ならぬ登州経由の渡海は認知されなかったのです。新説は、さらに根拠の無いものとなります。

 玄宗期の東夷官路と里程ですが、登州から渡海上陸後、唐恩浦口(仁川 インチョン)から新羅王城慶州(キョンジュ)までの「東南陸行七百里」は、現代地図では五百公里(㌔㍍)と思われます。「海行」発進地登州府は、山東半島管轄の登州[州都]です。「海行」は、倭人伝「水行」同様、渡海であって沿岸航行でないのは、断然明らかです。

 提案の東莱は、春秋時代の東の超大国「齊」以来の海港ですが、この時代、半島先端の登州が興隆し、東莱は退勢にあったと見えますが、詳しい事情は不明です。

                                以上

新・私の本棚 古賀達也の洛中洛外日記 第3217話 「東西・南北」正方位遺構の年代観 2025

 「東西・南北」正方位遺構の年代観 (3) 2024/02/05        当ブログ公開 2024/02/0, 12/08 2025/11/19

*加筆再掲の弁
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◯はじめに~おことわり
 当「日記」には、古代史を巡る話題に対して、従横を極める精力的な執筆に、愛読者として毎回感服しているのですが、今回は、お話の滑り出しで「すべって」いて、首を傾げました。

 記事引用:東西方向については春分・秋分の日の、日の出と日の入りの方向を結ぶことで東西方向を確定できます。この観測により、古代人は東西方向(緯線)を求めたと思われます。南北方向(経線・子午線)はこの東西線に直角に交差した直線であり、北方向は北極星により定めたと思われます。

 コメント:
 同様な「誤解」が、結構蔓延しているので、題材にさせていただきました。
 ある地点で、簡単に東西南北を求める手順は、以下の通りです。(恐らく、中学理科程度の問題でしょう)
 まず、広場に1㍍程度の棒を立てます。言うならば、日時計です。
 晴天日に、棒の影の頂点を描いていくと、影が一番短くなる点が、南中点です。棒の根元と結べば、南北線、子午線が求められます。
 南北線決定は、晴天日で良く、春秋分を待つ必要はなく、北極星確認も必要ないのです。ちなみに、春秋分を知るのは、高級課題でしょう。
 棒の根元で南北線に直交する垂線を立てれば、東西線です。縄の両端に棒をくくってコンパス代わりにする東西線作図は初級課題です。

 地形の事情で日の出入方向が不明でも、東西南北が決定できます。

 例えば、著名な纏向では、水平線/地平線は全く見えず、「日の入り」の方向は、生駒の山嶺ではっきりせず、そもそも、東には三輪山が聳えていて、「日の出」の方向は、一段とはっきりしません。勿論、季節毎に、どの嶺に日が沈むというのは、観測場所さえ固定できれば、そこそこ精密に観測できるのですが、それは、「日の入り」ではないのです。

 ちなみに、本当の「日の出」、「日の入り」が、両方とも精確に観測できる地点は、ごくごく限られています。また、日の入りの時刻に水平線付近は、霞がかかっていることが結構多いので、精確な日の入りの観測は、大変困難です。

 よろしくご一考いただければ幸いです。

                                以上

2025年11月 5日 (水)

私の意見 ブログ記事 倭人伝「南至邪馬壹国女王之所都」の異論異説 ⑴~⑶ 2025 改

古賀達也の洛中洛外日記 第2150話 2020/05/11
私の見立て ★★★★★ 論理的考察のお手本  2020/05/16, 2024/12/07, 2025/11/04

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

〇はじめに
 提示されているのは、倭人伝道里記事の終着点の解釈です。と言っても、当ブログ記事筆者の提案ではなく、古田武彦氏と古賀達也氏の意見です。そして、ここであげるのは、別の視点です。

*異論異説紹介
原文 南至邪馬壹国女王之所都水行十日陸行一月

 通常、「南至邪馬壹国女王之所都、水行十日陸行一月」 と句点を打っていますが、「…女王之所、都水行…」と句点する提案です。

 従来、「水行…陸行…」は「全行程通算日数」との古田氏提唱の自然な読みと畿内説の命綱の「最終通過点からの所要日数」との絶妙な読みが角逐していましたが、「都水行…陸行…」ならば、全行程通算とできるという見方です。

 衆知の如く、倭人伝原文は句読点なしにべったり書き連ねていて、これでは、日本人だけでなく現代中国人も解釈に苦しむので、古来、多数の碩学者が、長年苦吟の上で句読点を打っていて、中国史学会で伝統的に採用されている解釈ですから、絶対的な支持を得ていますが、素人の乏しい経験ながら、句読点の打ち間違いで深意を取り違えている例は、いくつか見つかっています。
 句点に関する異議は、新説提起に慎重な古田氏が「決定的論証が不足している」と提言を控え、その衣鉢を継ぐ古賀氏も、辛抱強く補強策を求めていますが、当方は、微力ながら背中を押したいのです。

〇「女王之所都」の不合理
 冷静に見ると、「女王の都とする所」とする解釈には多々難があります。
 「王都」は、二字熟語として、中国史書で言う「周王の都」と決まっていて、夷蕃王の治所に使うべき言葉ではありません。そして「王之所都」は、類似した意味のようですが、公式史書の定型文を外れた、変則的な言い回しです。
 いや、正確に言うと、漢代に至るまでは、「所都」は、堯、舜、禹の聖帝、殷(商)后紂王、周文王、武王と連なる太古以来の諸天子にのみ許されていて、天子の権威が稀釈化した後漢代以降でも、ほぼ、例外的に書かれていたのです。
 陳寿の奉職した西晋は、後漢後期、献帝期の乱世のために、天子の権威が衰徴していますが、それでも、洛陽に形成されていた公文書庫は、太古以来の書法を高官有司に守られていたので、大きく崩れることは無かったのです。

*班固「漢書」の教え
 先行する班固「漢書」西域伝で「王都」は、唯一西域の超大国安息だけであり、多数の小国は、「治」、「居」、「在」です。安息は、東西数千里の超大国パルティアであり、文字記録、金銀銅貨幣、全国街道の整った、漢と対等の文明国ですから、両漢は、例外として「王都」と呼んでいたのです。
 因みに、漢代に参詣した各国の来貢使節は、ほぼ例外なく、正史、副使、書記官、護衛官と上下揃って印綬を受領して帰国しています。

 「王都」は、郡国制で王をいただく国にだけ適用され、特別な例外を除けば、国王は皇帝同族の劉氏です。
 と言う事で、新来の蕃夷で外藩の蛮夷の王に過ぎない女王の居処に「王都」なる尊称は与えられません。まして、この時点は、景初遣使事績に触れる以前ですから、「女王」は由緒も何もない蕃王であり「所都」とは言えません。

*范曄「後漢書」の教え
 范曄「後漢書」東夷列伝「倭条」は、「其大倭王居邪馬臺國」として「王都」と言わず、個別の小国「倭」と全体を束ねた「大倭」を書き分けている点も、絶妙です。また、大部の笵曄「後漢書」西域伝も、夷蛮の国に関して適確です。世上、笵曄が史家として至高の存在であると「崇拝」している向きがあるので、あえて一言を述べたものです。
 笵曄「後漢書」は、劉宋代の編纂であり、長く、諸家後漢書の群雄に埋もれていたものであり、大唐高宗章懐太子李賢が、あえて正史として抜擢して以降、広く認知された史書ですが、本紀諸伝は、先行する諸家後漢書が洛陽公文書庫に所蔵されていた公文書から抜擢した記事が連ねられていたものであり、笵曄は、それら先行史書の語法、筆法を参考として、自身の行文を創出したものであるから、必ずしも典拠が明確でない東夷伝「倭条」も、「王都」用法については、先例に従っていたと見えるのです。

 ということで、陳寿は、笵曄「後漢書」自体は、一切見ていないのですが、後漢から天下を継承した曹魏の正史を編纂する際に典拠とすべき後漢代の公文書は、魏武と敬称される曹操の年代記を編纂する上で不可欠なこともあって、熟読していたのですから、後漢代の公式史料は、熟知していたと見るものです。
 
*付言 後漢書成立史 2025/11/04
 念のため付言すると、笵曄「後漢書」は、五世紀劉宋代に、笵曄によって編纂されたというものの、志部編纂を委嘱していた史家からの貢献以前に、笵曄が皇帝に対する反逆という大罪に連座して馘首処刑されたため、笵曄の未完稿は接収され、共同編纂者の志部を合本するどころか、本紀、列伝すら、編者の手の届かない未完稿のまま、時の皇帝劉宋文帝に没収されたのですから、笵曄「後漢書」は、笵曄原本の無いまま、一部で愛読されていたと見えるのです。

 笵曄「後漢書」が、そのような「野史」に近い扱いを脱したのは、唐高宗の指示を受けた章懐太子李賢が、当時継承されていた笵曄「後漢書」流通本に注釈を加えたお陰で、笵曄「後漢書」は、班固「漢書」を継ぐ、堂々たる正史と認知されたものであり、この時点で、初めてようやく「成立」したものです。これは、五世紀半ばの笵曄本完結以来二世紀を経た七世紀後半になるのです。その時点で、喪われた「笵曄」「後漢書」「志部」は、西晋司馬彪の後漢史書「続漢紀」の「志部」である司馬彪「続漢志」によって補填されていたのであり、事の是非を言うならば、これは、笵曄の与り知らぬ原本改竄です。
 なお、司馬彪は、西晋代の史家であり、三世紀末まで生存していたとは言え、実質上は、陳寿と同時代人と見えます。と言うことで、「続漢志」は、後漢代の記録として、原史料に近い良質な史書と見えますが、何しろ、笵曄「後漢書」志部は、完全に喪われているので、その当否を問うことはできません。

 また、高宗の皇子であった李賢は、皇太子の地位に就きながら、時の権力者である女帝武則天によって廃された流罪地で死を賜り、正史の編纂に携わるものが苛酷な運命を辿った一例となっています。後漢光武帝によって取り立てられた高句麗が、後漢どころか魏晋南北朝を越えた凡そ五世紀に余る長命な大国であったものの、武則天の怒りを買って亡国の憂き目を見たのは、何の符合であるのか不明です。

 但し、笵曄「後漢書」が、めでたく正史に列せられたとは言え、当時の唐の正史統制は厳格で、写本の拡散は、極めて限定されていたので、勅撰であった隋書、晋書共々、遣唐使による将来は、かなりの月日を経てのものと思われます。


〇論証の重み
 以上は、証拠の山に支えられたものでなく、論理で構築した仮説です。

〇猫に小判
 所詮、本説を受け入れられない論法の方には、「猫に小判」と思うだけです。

                                以上

2025年9月11日 (木)

私の意見 ブログ記事 倭人伝「南至邪馬壹国女王之所都」の異論異説 2025

古賀達也の洛中洛外日記 第2150話 2020/05/11 などによる随想  2020/06/03, 06/06 2024/12/08 2025/09/11

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

〇はじめに 課題の明解
 今回は、前記事に続いて端的な課題の明解を模索します。提言者である古賀達也氏は、広大な中国古典書籍の用例を網羅して、堂々たる解析を進めていますが、当方(一人称単数)は、何分、浅学非才なので、直近の文脈を解析するところから出発し、文意の結論が出せたら脚を止めるので、道が異なるのです。
 当方は、電気工学技術者で、文系/理系の教養に乏しく、また、体系的に漢文解釈を学んだわけでなくて白川静師の漢字学著書や「字通」の教えを自分なりに展開します。史料の文献記事解釈は、素人なりに一歩一歩刻んでいく地道を進みます。権威者から主観的と叱責されかねないのは覚悟していますが、部外者による常道外れの異論提示が、当方の本分と見ているのです。

 当方の行き方では、古典用例は直近の文脈に関連が薄いので重きを置かないのです。一種の遠近法であり、間近の用例は読者の意識に訴えるのでどこか書庫の奥の山成す古典書の用例より理解されやすいというものです。もちのろん、比較して優先度が低いだけで、排除しているわけではありません。蟻が富士山と背比べするような無謀さは、持ち合わせていないのです。

〇本論
 白川静師の「字通」、「字統」によれば、「王之所」は、それ自体「王の居城」を示す古典語法であり、「王之所都」と連ねるのは不自然と見ます。班固「漢書」西域伝では、数ある蛮夷の居処は、大概して「治」なのです。因みに、「所」は「ところ」を言う名詞です。
 史書は、古典語法を遵守すると共に、平易、明解に務めることから、ここは「女王之所」で句切るのが、順当な解釈ではないでしょうか。蛮夷の王の居城を記録するのに、変則的な語法を起用するはずがないのです。

*「中華」思想の誤伝 余談として
 つまり、陳寿「三国志」魏志東夷伝記事を「王之所都」と思い込むのは、時代観を見失っています。
 余談ですが、四百年後世の七世紀、国内史料(日本書紀)は、中国天子の行人(隋使 文林郎 裴世清)を迎えたとき、急遽任じられた「鴻廬掌客」が蕃客接待したとしていますが、これは、中国古典を全く知らない別の東夷の粗忽の筆でしょう。

*「都」は「すべて」の意に落着
 以上に従うと、この部分の後半は「都水行十日陸行一月」となり、「都」は、辞書に掲示される代表的な定義の通り、「すべて」の意であり、全所要日数を示すと解するのが、文脈から、順当、妥当と思われます。そのため、当用例は、唯一無二でしょう。

*倭人伝記事の落着
 ここは、「従郡至倭」で始まった道里記事の総括として、全道里万二千里に相応の全所要日数が明記されたと見るのが、妥当と思われます。
 帯方新太守が、東域都護気取りでもないでしょうが、急遽雒陽に上申したと思われる東夷銘々伝の中の「倭人身上書」の要件を端的に明示するため、「女王之所」と「都水行十日陸行一月」が繋がって解釈されない行文としたと見ます。

 以上は素人考えの仮説ですが、一考に値すると感じています。

 ちなみに、一部で頑固に唱えられている骨董品(レジェンド)異説では、『「倭人伝」道里行程記事を「普通に」端的に読み解くと、行程の終着点伊都国に到り、女王之居処は近傍とする解釈が固定されてしまう』ので、これを回避するために、倭人伝二千字の冒頭部を「ちゃぶ台返し」でぶっ壊す解釈が当然とされているようですが、「纏向」至高主義の党利党略最優先の勝手読みは、困ったものです。

*積年の弊を是正する偉業
 それにしても、古来、史官の体得していた規律に従った行文を、後世の文献学者が句読を謬り文意を誤解させた可能性がある、との古賀氏の指摘は卓見です。こうして見ると、先入観に囚われた史料誤読は、現代日本人の特技ではないのです。

*高句麗「丸都」の悲劇 余談として
 古賀氏が類似用例とされた「丸都」は、高句麗の創世記神話に由来するものであり、天下りした高麗天子の治所を「都」と自称したのでしょうが、中国から見ると蛮夷の僭称であり、いずれ打倒されるべき「賊」なのです。
 一方、高句麗の世界観では、隋唐の皇帝は、高貴なる高句麗に敵対し、時に臣従したとも思われる蛮夷(鮮卑 慕容部、拓跋部など)の「俗人」が勝手に天子を名乗ったに過ぎないから相克します。
 どこかで聞いたような話ですが、それは、当記事とは無関係な空耳です。

                                以上

 

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