古賀達也の洛中洛外日記

古田史学の会事務局長古賀達也氏のブログ記事に関する寸評です

2024年8月 2日 (金)

新・私の本棚 古田 武彦 九州王朝の歴史学 「国都方数千里」談義 四訂 1/2

 第四章 新唐書日本伝の史料批判  ミネルヴァ書房 2013年3月刊
私の見立て ★★★☆☆ 当記事範囲 功罪相半ばの卓見 2020/11/09
 改定2021/01/11 再訂 2021/01/12、01/31、07/22、2022/09/26 2024/04/13, 08/02

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

□はじめに
 本書は、章末に[注]、巻末に人名、事項索引を備え、専門書の体が整っています。学術書として十分な校訂を経ているという事です。なお、本稿は、1991年4月刊原著の復刊、確定稿の資料批判です。

◯一字の解釈考
 新唐書「日本伝」は、改国号記事の後、次のように書きます。(句点一部解除)
 使者不以情故疑焉又妄夸 其国都方数千里
 「東アジア民族史 2」(平凡社 東洋文庫 小林秀雄他 訳注)は「国都は、数千里四方であると誇大に偽っている」としていて、定説めいています。対して古田氏の読みは、(其国)「都(すべて)方数千里なり」で画期的です。

*誤解の是正 [概数表記割愛御免]
 (後世人にとって)自然に読めてしまう「国都」「方数千里」解釈は、すぐわかるように、文としての意味が通らず、途方もないのです。
 何しろ、正史として編纂された新唐書「日本伝」で、「国都」の所在地も城名も書かずに「方数千里」と広大さを語るのは、正史たる史書として法外です。「新唐書」は、個人の思いつきの産物でなく、衆知の結集ですから、本来、そのような不体裁はあり得ないのです。つまり、後世中国史家の句読が、「都」(すべて)錯誤に陥っているのです。
 加えて、東夷夷蛮の国の王の居処を、「国都」と尊称するのは、唐代としても、不敬の極みで、ここでも、解釈が齟齬しています。
 古典書を、「先入観に囚われて軽率に誤読する」のは、千年後生の無教養な東夷だけの特技ではないのです。

 是正は、「其国都」「方数千里」とする誤解を止め、「其国」「都方数千里」と正解します。つまり、「其国都」が「方数千里」』ではなく、『「其国」が「都(すべて)方数千里」』と読みなおすのが妥当で、以下、意味が通るのです。比較的意味の通りやすい「日本語」に飜訳するなら、「都合」とするところですが、「読み下し」では、限界を超えた感じもします。
 とはいえ、東夷が「国都」などと自称するのは、「自国」が「大唐」と対等だと反っくり返っていることになり、叱責を受けるべきものですが、中国側の鴻廬、つまり、異人受け入れ部門は、蛮夷の文書を取り次ぐ際には、原文のまま取り次げという指示でもあるようで、中国史書としては、異様に見えます。

 あえて、蛮夷が自称した「国都」を、国内史料風に国の「京都」(けいと)と解すると、例えば、平城京が、一辺数千里の正方形を満たしているという意味であり、鴻廬からすると、「おまえ、自分の言っている意味がわかっているのか」と言う事になりますが、来訪している行人、使節は、ただの子供の使いですから、返事のしようがないのです。まして、いや、これは、「国土」の書き間違いなどと言い逃れはできないのです、何しろ、国書には、国王の印璽が押されているから、一切、訂正できないのです。
 先賢諸兄姉から、その辺りの事情について、説明がないので、当否はともかく、素人考えでそのように解するしかないのです。

 何しろ、千年後生無教養な東夷と自覚して、その本能のままに「自然に」読むのでなく、丁寧に、其の「深意」を読み解く、高度に知性的な努力が必要なのです。

 そして、古田氏の採用した『「方里」が正方形一辺の里数を示している』とする「方里」解釈には、難があります。但し、話が長いので、別稿に譲ります。

◯舊唐書記事参照
 「舊唐書倭国伝」の「日本国条」は、「又云其国界、東西南北各数千里」であり、「方里」も「国都」も書かず、順当な記述です。編纂者の古典教養が偲ばれます。いくら、「蕃人の国書をそのまま取り次ぐべし」と言われても、物には限界があるのです。

 「舊唐書」を是正したと言う触れ込みの「新唐書」の「日本」伝が、冒頭の「東西五月行、南北三月行」の記事で矩形/方形領域を描きながら、天皇系譜記事と「日本」国号起源報告の後、面積表現として「方里」を申告したとしたら意図不明です。因みに、隋書では、俀国は道里を知らないと書いているのです。

*古典史書用語の復旧
 ここまで確認した限りでは、新唐書は、『漢魏晋の「方里」と「都」の規律を復旧した』と見えますが、理解した上で適確に再現したかどうかは、不明です。何しろ、後世句読で、時代最高の権威者が其の原則を失念しているのですから、あくまで、勝手とは言え、有力な仮説という事です。

*藩王に国都なし
 漢書以来の正統派正史は、漢蕃関係古制として、蕃王の居を「都」と称しません。
 国内の「王」治所を「都」と呼ぶことすらないから、遥か格下の蕃王、藩王が、其の居処を「都」と称するのは、死に値する僭越です。

 但し、西晋滅亡、中原喪失以降、つまり、漢蕃関係崩壊以後、北方蛮族から出て中原を占有した北魏、東魏、西魏、北周、北齊の北朝系王朝は、四夷は、ことごとく蛮夷たる自身の輩(ともがら)、共に「客」であったもの同士という共感からか、蕃王の居を「都」と称しましたが、全土を統一した隋、唐は、中華正統意識から、漢蕃関係を古制に復旧したようです。
 語義は著者の世界観に左右されるのです。従って、新唐書は、漢魏晋の「方里」と「都」で書かれているものと見えます。

*おことわり
 以上は、大変高度な審議なので、国内史料に長年慣れ親しんでいる方々には、俄に信じがたいかも知れませんが、当ブログ筆者たる当方は、こじつけや飛躍のない、順当な論考と考えています。また、後述するように、「倭人伝」の道里行程記事の明快な解釈に繋がるものです。

 以上、九章算術」及び関係論考、さらには、正史、ないしは準ずる史書である司馬遷「史記」大宛伝、班固「漢書」西域伝、袁宏「後漢紀」、魚豢「魏略」西戎伝、そして、范曄「後漢書」西域伝の関連記事を一応通読した上での「素人考え」の意見ですので、ご理解の上、反論があれば、具体的に指摘いただければ幸いです。

                                       未完

新・私の本棚 古田 武彦 九州王朝の歴史学 「国都方数千里」談義 四訂 2/2

 第四章 新唐書日本伝の史料批判  ミネルヴァ書房 2013年3月刊
私の見立て ★★★☆☆ 当記事範囲 功罪相半ばの卓見 2020/11/09
 改定2021/01/11 再訂 2021/01/12、01/31、07/22、2022/09/26 2024/04/13,08/02

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*短里制実施例と解釈
 古田氏は、
 『「方数千里」は、「日本」の領域(面積)を示す幾何学的な矩形/方形の表現であり、現在知れている日本列島の地形から判断して、一里四百五十㍍の「普通里」、つまり、古来通用している「里」でなく、魏晋代に通用していた(と古田氏が提起している)「普通里」の六分の一の「短里」七十五㍍が整合する
 と説きました。(四百五十㍍、七十五㍍は、当ブログの発案した概数値)
 古田氏の所説で魏晋朝限りだったはずの「短里」が、遙か後世の新唐書に援用されたとの主旨ですが、以下の通り、論拠が整っていないものと見えます。

 古田氏の論考に従って、考察を進めるとするとして、なぜ「倭」継承を嫌った「日本」が、中国魏晋代独特の古制と見なされている「短里」を持ちだしたか、まことに不可解です。漠然とした国界だけで国の形が不確かなのに、「方数千里」を「数千里四方」と解するのも不可解であり、これを、単に「誇大」と見たのは古典知識に欠けた鴻廬寺掌客の浅慮、短慮と思うのですが、史官は、史実の記録として、公文書記録の通りに書いたのでしょう。
 何しろ、当時、どこにも、現代知られているような地形、道里の見て取れる「地図」は存在しないので、「国界」、つまり、国の形と広がりは、知りようがなかったのです。

 因みに、魏志「烏丸東夷伝」の数カ国記事の「方里」は、いずれも、中原の土地制度の通用しない、また、地形不明な辺境国の国力を表示したものであり、いずれにしろ、それぞれの「国」の正確な領域、形と広がりは知られていなかったのです。
 かといって、領域の知られていそうな比較的近隣の諸国に「方里」を適用した記事は、三国志でも、韓伝、倭人伝以外に無いので、「方里」の検証は、不可能なのです。
 と言うことで、不可能な検証の論議は無駄なので、一旦は、「理解不能」を暫定的結論として先に進みます。

 因みに、魏志「東夷伝」の関係記事は、後漢末期から魏明帝景初年間まで、遼東太守として、「小天子」の威光を展開していた公孫氏の「郡志」(郡公文書) の反映と見えるので、同時代他地域に同様の事例を見出すのは、困難(不可能)なはずです。景初年間、司馬懿の討滅で遼東郡文書は全滅したのですが、いち早く、皇帝命で楽浪、帯方両郡が、平和裏に接収され公孫氏時代、両郡に控えとして収蔵されていた郡志が魏帝のもとに回収できたものと見えます。

*「倭」に対する誤解払拭~余談
 少し離れますが、正史記事とは言え、「倭」が悪い文字と解するのは、東夷蛮人の誤解、と言うか、勝手なこじつけであり、今さら、古代人を教え諭す術はないのですが、それにしても、現代論者各兄姉の通説、風説追従の様(さま)は、安直に過ぎると考えます。

 もともと、無教養な「倭の言い立て」を記録したのでしょうが、後に正史記事を書くに際して、史官は、鴻廬寺掌客の受け答えが不合理、不正確と見えても、訂正はできず、そのまま正史記事にしたと見えます。
 東夷の後裔の素人でも、中国語の古典書では、倭はめでたい文字と解されていたと知っているので、ここでも、「上覧を経た公式記録文書は(明らかに誤伝でも)訂正できない」という、厳格な正史編纂方針が窺えるのです。むしろ、古典書以来の定則に反する「反則」となる蛮人の意見を「蛮人の不見識を示すために」ことさら記したものと見えます。世上好まれている「春秋の筆法」とまで言うものではないでしょうが。
 このように、正史に書かれているからと言って、史官が「正しい」と確認した内容でないことはあり得るのです。ちゃんと、文脈、前後関係から、真意を読み取るべきです。一度、考えてみていただきたいのです。 

*「方里」解釈への異議
 『「方*里」を、「正方形一辺*里」の幾何学図形と見なす』とする解釈例がありますが、そのような面積数値の使われた由来、根拠が不明です。面積は、辺の自乗で読者の理解を超えて増倍し収拾が付かなくなるのです。その仮説に従うと「方四千里」は、「方四百里」の両辺を十倍しているので面積は「方四百里」の百倍になるのです。
 私見では、「方里」は、国内戸籍/土地台帳情報に基づく「農地面積総計」であり、また、「数千里」は、少なくとも、東夷伝の概数語法の定則から「二、三千里」と見ています。
 基本的に、「五千里」は、一万里に到る千里代の十進範囲を四分割する程度の概数で「五千里」程度と思います。つまり、(「千」)、「二/三千」、「五千」、「七/八千」、「一万」という感じです。現代では、あまり見かけない大雑把な概数観ですが、それが時代相応とする合理的な意見に対して、現代人の「素直」な感情的な解釈を適用していては、時代人の真意を知ることはできないでしょう。

 こうした概数表示の初歩的な常識からして、数千里は 二,三千里の意です。その倍に当たる五千里程度を、無造作に数千里とするのは、流石に、余りに大まかすぎます。五千里に近ければ、「常識的」には「五千余里」と書くものでしょう。
 恣意で概数表記解釈を撓めるのは、古代史学界の因習の一つに見えます。

 つまり、各地方の検地担当者が、一戸ずつの農地面積を「頃、畝」で書き留めたものを集計して得た「頃、畝」を、四百五十㍍程度と見られる「普通里」に即して、一里四方の面積である「方里」に換算した統計数字と見えます。

*追記:2022/09/26
 最新の見解として、魏志「東夷伝」の「方里」は、当時の遼東郡太守公孫氏が、後漢、魏の統制が及ばないのを良いことに自立していた時代に、勝手に各国列伝を編纂したものと思われる「独自制度」であり、そのため、中原諸国、諸郡制度と異なる東夷諸国の国力指標として運用していたものであり、帯方郡にその写しが残されていたものが、早期に魏帝の命で帯方郡が接収された際に、新任太守から魏帝に提出されたと見えます。皇帝御覧を得て公文書に綴じ込まれたら、以後、訂正できないのです。
 それ故、陳寿が、高句麗、韓、対海、一大の列伝に於いて、魏帝の公文書を参照したものと思われるのです。

 例題は、国(農地)としては、魏志東夷伝の韓国(方四千里)より狭く/弱小であり、高句麗(方二千里)より少々広く/富裕であることになります。もっとも、以上の解釈は「倭人伝」基準ですから、魏晋朝史官の文法(書法のこと)を継承したかどうか不確かな唐代文書が、これを正しく継承したかどうか、それが、「新唐書」に正しく継承されたかどうか、やや/かなり不安が残ります。

*試算の試み
 領域農地を「方二千五百里」(二千五百平方里)と見れば、一辺五十里、二十五㌔㍍四方の範囲であり、その程度の戸籍整備範囲と見えます。
 「方二千五百里」は、常用単位で万畝(ムー)程度であり、一戸あたり五十畝と見ると(あくまで憶測です)二万戸に相当しますが、どの程度の領域がわからないので、それが多いとも少ないとも言えないのです。
 はっきりしているのは、戸数や方里と収穫量や動員可能兵力は、堅固な相関関係があるということだけです。一方、未開地、荒れ地の面積など、何の意味もないのですから、「方里」等と正史が記録するわけはないのです。

 ついでながら、「戸数」が通用するのは、倭に於いて、中国の戸籍制度に基づき各戸に所定の農地が割り当てられていたとの前提に沿うものであり、既に、「魏志倭人伝」において、倭地には牛馬がないので、「各戸の耕作面積は、中国の制度に沿うものではない、つまり、戸数から、税収は計算できないと明記している」ものです。いや「明記」というものの、それは、訓練を受けた史官だけが読み取れるものであり、新唐書の編纂史観も、原史料の報告者も、そのような高度に専門的な事項を、もはや承知していなかったとも思えます。
 要するに、「倭人伝」の常識は「新唐書」の非常識かも知れないということです。正史における「用語一貫」という安易な楽天的志向による用例依拠は、避けねばならないのです。 

〇倭人伝道里記事への波及
 本記事は、近来、古賀達也氏が提起した『「南至邪馬壹國女王之所 都水行十日陸行一月」を「女王之所都」と解するのは誤解であり、「都云々」は、(「都合云々」、)つまり「すべて水行十日陸行一月」の意と解すべきであるとの倭人伝」解釈を支持する一件と思われます。なお「都合云々」 は、当ブログの追記。
 倭人伝」道里行程論、里程論の長年の論議に於いて、大変意義深い、画期的な提言と思うのですが、余り反響がないのが残念です。目立たない提言ですが、実は、この提言を認めると行程記事の目的地が、九州島内から出られなくなるのであり、いわば、畿内説に引導を渡す議論なので、いわば「命がけ」で黙殺されるのでしょうか。
 いや、国内史学界では、古田氏の著書を始め、中国史学界で無法な「倭都」「王都」が氾濫しているので、「都水行十日陸行一月」は表面化を許されず、長く潜伏しているのかも知れません。
 因みに、古代史の泰斗であり、当ブログ筆者が深く尊崇する上田正昭師は(今般の「都」の新解釈は抜きで)「水行十日陸行一月」は総日数表示という解釈/提言に対して、史学に於いて、自身の論議を進めるのに都合がよいと言うだけで肯定的に評価するのは、正しい態度ではない。用例、前例の確保が不可欠であると苦言を呈されていたように思います。当解釈を加味して、それでも、証拠不十分と仰るかどうか、上田師のご意見をお伺いしたかったところです。

 因みに、このような定則の提言に対して、散発の例外用例を指摘して異議とする向きがありますが、特に、人文科学、歴史学の分野では、いかなる定則にも例外は存在する(例外があるのが、定則の正しい根拠である)というのが古来の常識であり、また、用例解釈は、厳密に文献批判して考証してから取り上げるべきだということも、手抜きしてはならないと考えるものです。
 むしろ、唐代の常識が、遙かに歴史を遡上する魏晋代に、既に常識であったかどうかの「時代考証」が先行すべきでしょう。

 倭人伝「南至邪馬壹国女王之所都」の異論異説(1)
                                以上

2024年5月 8日 (水)

私の所感 古賀達也の洛中洛外日記 3059話 『隋書』俀国伝に記された~都の位置情報 (1)  

古賀達也の洛中洛外日記 第3059話 ブログ記事 2023/07/02                     当ブログの初稿  2023/07/04

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

◯コメント
 本稿は、「多元的古代研究会」の会誌『多元』176号掲載の八木橋誠氏論稿に対する古田史学の会事務局長古賀達也氏の「賛成意見」と見える掲題ブログ記事に対する「賛成意見」である。あくまで、一介の素人の「所感」であるが、早いうちに表明しないと契機を逸するのではないかと懸念して、あえて、早合点覚悟で先走ったものである。
 八木橋誠氏論稿の引用は、二重引用になり、第三者著作物の取り扱いに疑義が生じることもあり、本稿からは割愛したが、あくまで、古賀達也氏の部分引用コメントに限定したものである。

*本題
 知る限り、古田武彦師の本件に関する最終的な見解は、『「隋書俀国伝」は、中国人によって、中国人のための史書として書かれているのであるから、中国史書として解釈すべきである』と解される「原則再認識」と見える。要するに、隋書編者が知るはずもない「現代日本人の地図情報や歴史認識、及び/又は『日本書紀』の記述」を参照した論義は、論外/圏外のものとして、まずは排除すべきであるとの真意と思うものである。
 つまり、当史料は、それ自体の明記事項と先行する史書、主として、「魏志倭人伝」の明記事項に基づいて、丁寧に解釈することを推奨しているものである。

*隋書「俀国伝」再確認
 「隋書」「俀国伝」は、冒頭部分で「三史」の重鎮である笵曄「後漢書」を根本として、格下の「魏志」は、一応書名に言及するだけで、内容はほぼ無視していて、「古云去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里,在會稽之東,與儋耳相近。」と、まだ、正史として認知されていない/認知されたばかりとはいえ、「古」として尊重すべき笵曄「後漢書」を、無造作に、改竄しつつ節略して述べているので、当該記事に限っての断定であるが、隋書編者の「存檔史料」が時代混濁している感じである。
 さすがに「魏志倭人伝」の「存在」は承知しているはずであるが、厳密な史料批判無しに、新作記事を捏ね上げているので、千年あまり後生の無教養な東夷読者にしてみると、編者の視線/視点が、有らぬ方にさまよっていて、いわば、宙に浮いていると見えて心許ないのだが、諸兄姉は、どう感じておられるのだろうか。

*追記(2024/05/09)
 初稿で読み過ごしていて面目ないのだが、笵曄「後漢書」が時代錯誤で書けなかった『「樂浪郡境」と「帶方郡」郡治が、行程道里上、同一の位置である』という更新定義が成されているのは軽視してはならない。恐らく、当時行われた笵曄「後漢書」補注の成果であろう。
 ただし、このような場合、楽浪郡境が昇格した帯方郡が、道里の起点として相応しいかどうかという考察がされていないのは、何とも、暢気である。


 そのような史料認識に搭載された裴世清「訪俀所感」と見えるが、それにしても、本来原史料として最も尊重すべきである「魏志倭人伝」は、九州島外の地理を一切詳記していないこと、及び「隋書俀国伝」自体が、「竹斯国から東に行けば、最終的に海の見える崖(海岸)に達する」と書くだけで、以後、「浮海」するとも「渡海」するとも書いていない以上、『「書かれていない」海津/海港で船に乗って長距離を移動する』ことは、一切予定されていないと見るべきではないかと思われる。
 当代天子である隋帝楊廣(煬帝)は、この時期は、依然意気軒昂で在ったはずであるから、魏代以来疎遠であった俀国への文林郎裴世清の「往還記」が、探索行の要点を漏らした粗雑なものと見たら、突っ返して、きつく叱責したはずである。鴻臚が上程する蛮夷「国書」は、原文無修正であるのだが、当「往還記」も、勅命の成果であるので、公文書扱いせずに原文が天子のもとに上程されたと推察される。

 それにしても、陳寿が、「魏志倭人伝」に於いて、ことさら「水行」なる行程用語を渡海行程に充てる書法を創始したことに気づけば、幸甚な先例として、「循海岸水行」と書くのは適法であるが、それも書かれていない。「魏志倭人伝」に一顧だにしていないことを重大に受け止めたい。

 もちのろん論者が「魏志倭人伝」の道里行程記事に、「島外に出て、東方に遠出する」と書いていると、根拠無しに「決め込んで」いると、さすがに「つけるクスリが無い」のだが、論義は、「決め込み」を主張することで解決することは無いのである。

*頓首/死罪の弁
 当ブログ読者諸兄姉は、古田武彦師が書かれたように、順当な文書解釈にたいして、あえて重大な異議を唱えるのであれば、正統な論拠に準拠した堅固な論証を提示する重大な義務がある」ことにご留意いただきたい。それでようやく異議が一人前と認められて審査に付されるのである。世に蔓延る「異議」僭越に対して、当然の指導とみる。
 以上の「難詰」は、「異議」を奉戴している史学界諸兄姉には、無礼極まりないと聞こえるかも知れないが、ことは、「論義」/「論証」の正道の確認であるので、ご容赦いただきたい。また、古賀達也氏に対して、頭越し/僭越の失礼であることも、よろしく御寛恕頂きたい。

以上

新・私の本棚 番外 古賀達也の洛中洛外日記 3217話

 「東西・南北」正方位遺構の年代観 (3) 2024/02/05
                                                                                        2024/02/08 公開

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

*はじめに~おことわり
 当「日記」には、古代史を巡る話題に対して、従横を極める精力的な執筆に、愛読者として毎回感服しているのですが、今回は、お話の滑り出しで「すべって」いて、首を傾げました。

 記事引用:東西方向については春分・秋分の日の、日の出と日の入りの方向を結ぶことで東西方向を確定できます。この観測により、古代人は東西方向(緯線)を求めたと思われます。南北方向(経線・子午線)はこの東西線に直角に交差した直線であり、北方向は北極星により定めたと思われます。

 コメント:
 同様な「誤解」が、結構蔓延しているので、題材にさせていただきました。

 ある地点で、簡単に東西南北を求める手順は、以下の通りです。
 まず、広場に1㍍程度の棒を立てます。言うならば、日時計です。
 晴天日に、棒の影の頂点を描いていくと、影が一番短くなる点が、南中点です。棒の根元と結べば、南北線、子午線が求められます。
 南北線決定は、晴天日で良く、春秋分を待つ必要はなく、北極星確認も必要ないのです。ちなみに、春秋分を知るのは、高級課題でしょう。
 棒の根元で南北線に直交する垂線を立てれば、東西線です。縄の両端に棒をくくってコンパス代わりにする東西線作図は初級課題です。
 地形の事情で日の出入方向が不明でも、東西南北が決定できます。

 例えば、著名な纏向では、水平線/地平線は全く見えず、日の入りの方向は、生駒の山嶺ではっきりせず、そもそも、東には三輪山が聳えていて、日の出の方向は、一段とはっきりしません。勿論、季節毎に、どの嶺に日が沈むというのは、精密に観測できるのですが、それは、日の入りではないのです。
 ちなみに、本当の「日の出」、「日の入り」が、両方とも精確に観測できる地点は、ごくごく限られています。また、日の入りの時刻に水平線付近は、霞がかかっていることが結構多いので、精確な日の入りの観測は、大変困難です。

 よろしくご一考いただければ幸いです。

                                以上

2023年10月25日 (水)

新・私の本棚 古賀達也の洛中洛外日記 3141話 百済禰軍墓誌の怪

                         2023/10/25

 今回は、誠に不思議なものを目にしたのである。「古田史学の会」関西例会の発表であるが、

 「百済禰軍(でいぐん)墓誌銘」に“日本”国号はなかった! (神戸市・谷本 茂)
 が、「新発見」/「新説」として紹介されているのが、何とも奇怪、けったいなのである。
 当記事は、既出記事と齟齬しているのである。つまり、 
第2429話 2021/04/10
百済人祢軍墓誌の「日夲」について (3)
 ―対句としての「日夲」と「風谷」―
 で、一旦意義ある指摘として、認識/納得/公開されたはずなのに、今回記事では、すっ飛んでいると見えるのである。谷本氏は「古賀達也の洛中洛外日記」記事を読んでいないと思うしかないが、当の古賀氏が失念されているのは、何とも、奇怪である。

 因みに、前記過去記事では、当ブログ2018年記事が引用紹介されているので、「古田史学の会」に限定しても、公知の先行文献だと思うのだが、どうなっているのだろうか。

 ぜひ、読みなおして、再確認いただきたいものである。

以上

2021年12月29日 (水)

新・私の本棚 番外「古賀達也の洛中洛外日記」第2642~8話 1/2

『旧唐書』倭国伝「去京師一萬四千里」⑴~⑺ 2020/12/21~
 私の見立て★★★★☆ 堅実な考証の貴重な公開   2021/12/29

〇はじめに
 掲題の古賀氏ブログ記事は、連載の態をとっているものの単一記事と見られるので、ここでは、一括して批判します。
 古賀氏は、古田史学会の重鎮として、新説提言に対する審査役を務めているものと見受けます。そして、審査の際の考証内容を公開しているので、論議の信頼を高めています。
 ここでは、題目が、当ブログで展開している「倭人伝道里行程記事」論議に関係しているので、以下の如く「丁寧」に批判するものです。

〇仮説不成立の提案
 ここでは、舊唐書「倭国伝」の「去京師一萬四千里」の「京師」を山東半島東莱に誘致する新説に批判を下しているものです。

 当ブログ筆者たる当方の見解では、新説の論者野田利郎氏は、史書解読の際の原則を踏み外しているのであり、その点を指摘して棄却すべきと考えます。つまり、「京師」は、周代の「王都」に該当する「厳密」な用語であり、これを持論に合わせて「誤解」することは論外です。要するに、「都」に「王都」限定の意義が失われたために、あらたに「京師」なる特別な用語を定義したものですから、そのように解すべきです。

 古田史学会では、「フィロロジー」をもって論ずれば、重大な権威があるのでしょうが、ここは、(中国)古代史書の用語解釈には、古来の語彙を適用すべきであるというのが、史学の当然、普遍の原理であり、論者は、この原則を克服する論証を歴て、新説を提示すべきでしょう。

 古賀氏が、陳寿が想定していた三国志上申に際して、当時の中原読書人の語彙に反する用語を採用した場合、それだけで、全三国志が却下される危険があることを述べていますが、当方の年来の持論であり、茲に同意します。

*無意味な曲解擁護
 古賀氏は、新説の論理的な棄却を怠り、提案者の擁護を試みていますが、「友達を無くさない」配慮は感心しないので、憎まれ役を買って出ます。
 その際、「唐代二都制」なる「風説」を誤解して、「東都」洛陽を「京師」と解釈できるように取り扱っていますが、論外の曲解です。
 要するに、唐代「東都」は、後漢代の「東京」であり、京師東方の大都市](現代日本語を承知の上で使います)であり、「王都」(周代用語)の権威を有しないのです。「都」のように時代ごとの変遷が激しい言葉については、時代に応じた厳正な語義解釈が望まれます。もちろん、「都」を「すべて」と読む原義は、不朽、普遍なので、第一に尊重しなければなりません。

*点と線
 古賀氏は、「高麗」への道里について概論していますが、あくまで、「高麗」は、高麗王の居城であり、国境を意味するものではありません。同様に、卞州、徐州も、州の境界でなく、[州都](現代日本語です)を言うのです。
 言うならば、厳密に「点」として定義されているものに対して、根拠不明の国境線を持ち出すのは、論理の混濁を招いているものと考えます。
 以上、「古田史学」の名にかけて、厳正な論文審査をお願いしたいものです。
 以下、もっともですが、同意しがたい難点を述べます。

                                未完

新・私の本棚 番外「古賀達也の洛中洛外日記」第2642~8話 2/2

『旧唐書』倭国伝「去京師一萬四千里」⑴~⑺ 2020/12/21~
 私の見立て★★★★☆ 堅実な考証の貴重な公開   2021/12/29

*里数論の不毛
 新唐書までの史書の道里記事を無造作に一括考証されていますが、「正史」の特別な地位を見逃しているように思います。三国志以来、後漢書、晋書等の道里記事は、それぞれ、何れかの帝国の権威を持って承認、公開されているので、後世史書は、これを無視することも、改訂することもできないのです。つまり、それぞれの記事は、それぞれの時点の編者の認識を示しているのであり、言うならば、「データ校正」されていないのです。従って、これらの里数をもとに、それぞれの一里を㍍単位で計算することは、無意味です。

 史書の里数記事をもって、その時点の国家が制定していた里数値を「実地検証」するのは、無意味と理解いただきたいものです。

〇鶴亀論
 一つ、例え話でお耳汚しとします。
 古来、「鶴亀算」という、誠に古典的な「問題」であって、現代まで語り継がれている算数「問題」があり、鶴亀混在した一群の頭の数と足の数から、二足の鶴の数と四足の亀の数を得るという、現代風に言うと、連立方程式の解法による「正解」を要求されています。この「問題」は、既に「正解」と「解法」が公知なので、不正解でも、絶望しなくても大丈夫なのです。

 ただし、実世界で国家制度として、そのような数え方を運用することはあり得ないし、実務としてそのような計算をしていたとも思えません。単に、計算の技術向上を促す、例題なのです。

 いくら「頭の数」、「脚の数」と、学術的に括っても、「鶴亀」問題に、現実的な意義があるわけではありません。

 提案いただいている古典史書の里数記事論議は、鶴と亀が混在しているものを、強引に「鶴か亀か」決めるものであり、どちらが勝っても、史学に貢献しないものと愚考します。思考実験として参考とするだけで十分であり「鶴亀論」の追求は、感心しないと見えます。

〇新唐書地理志「入四夷之路」
 正史道里行程の考察に必要なので、当ブログで公開記事を抜粋再掲します。
 漢書以来の歴代正史にある四夷「公式」行程は、しばしば実行程と異なり、従って、「公式」道里は不正確でした。唐代玄宗皇帝時に実地検証の命が下り、東夷は朝鮮半島まで実地踏査されていますが、古典史書の公式記事は訂正されていないのです。当然、京師」からの行程、道筋は、秦漢代以来の「公式行程」と食い違っていると判明したのですが、訂正されていないのです。

 その結果、京師から「倭」への公式行程は、依然として、漢代以来の遼東、楽浪経由の陸上経路であり、山東「東莱」ならぬ登州経由の渡海は認知されなかったのです。新説は、さらに根拠の無いものとなります。

 玄宗期の東夷官路と里程ですが、登州から渡海上陸後、唐恩浦口(仁川 インチョン)から新羅王城慶州(キョンジュ)までの「東南陸行七百里」は、現代地図では五百公里(㌔㍍)と思われます。「海行」発進地登州府は、山東半島管轄の登州[州都]です。「海行」は、倭人伝「水行」同様、渡海であって、沿岸航行でないのは、断然明らかです。

 提案の東莱は、春秋時代の東の超大国「斉」以来の海港ですが、この時代、半島先端の登州が興隆し、東莱は退勢にあったと見えますが、詳しい事情は不明です。

                                以上

2021年9月23日 (木)

新・私の本棚 番外 「古賀達也の洛中洛外日記」百済人祢軍墓誌の「日夲」について (1)-(3)

「古賀達也の洛中洛外日記」第2427-2429話 2021/04/09-04/10       2021/04/12 

〇はじめに~謝辞
 古賀達也氏のブログには、ほぼ日参しているが、ここで耳慣れた話題にお目にかかった。三回連載の展開はさておき、当ブログの旧記事を適確に引用いただいたので、ここに感謝の意を表したい。

残念な新説
 「古田史学の会・東海」の会報『東海の古代』№248に掲題の論考が二件紹介され、その内、石田泉城氏の論考に、通説の「于時、日夲餘噍」(この時、日本の餘噍は)でなく、「于時日、夲餘噍」(この時日、当該の餘噍は)と解する説が提言されていて、どこかで見たと感じた次第である。(苦笑) いや、折角、先行諸論文を紹介した上で、深く掘り下げる追加記事まで書いたのに、お目にとまらなかったとすれば残念ということである。

被引用の光栄
 当ブログは、古賀氏の目には届いていたようで(3)で注意喚起いただいて光栄であった。初出記事を温存した甲斐があったのである。

追加考察
 石田氏の論考で不満なのは、本と夲が、本来別字と断じられていて、だから、「日本」は、国号ではないという趣旨だが、「夲」は、現代中国語でもむしろ常用されていて、実際上別字と見るべきではないという意見である。

 墓誌の刻字の際、「本」は、中心の字画交差部が彫りにくいので「夲」が当然であったように思う。簡牘書記でも、「本」を細かい文字で早書きすると失敗しやすいと見えるので、「夲」が主流でも不思議は無いと思う。

 この点は、見解の相違であるから、別に、そう考えろと言っているわけではない。どうして代え字したのかと詮索しただけである。

 書道の先生が言うように、大きな堂々たる文字を書くときは、時間をかけてでも「本」の字を正確に書き出して、腕の確かさと芸術性を誇るのだろうが、実務は別だと思うものである。

 なお、当ブログ記事の字句解釈は、「本余譙」は「本国」の余譙、つまり、「百済」の余譙と読めるとの意見であり、石田氏に比べて、随分丁寧に論じていると自負している。新説というなら、こうした主張点を克服して欲しいものである。

〇先行論者への謝辞
 さらに、墓誌は、古典教養を問われるのであるから、誰も知らない、できたてほやほやの蕃夷国号など書かれるはずはない、という解釈も克服されていない。この点は、東野氏の論考に啓発された気もするが、知られていないのかと思いここに蒸し返す。

〇最後に
 と言うことで、記事引用も頂いているので、被引用者として、大きな不満はない、どころか、大いに満足していると申し添えておくものである。またもや学恩を受けた以上、恩返しが必要と思う次第である。

 思うに、論文にとっての勲章は、先行論考として引用されることと思うのであり、今回は、大いに意を安んじたのである。
 いや、特許の分野では、小生の米国特許に対して、少なからぬ被引用が記録されているのは、内心大いに誇っているのである。
                 以上

2020年12月13日 (日)

新・私の本棚 番外 「古賀達也の洛中洛外日記」 第2310~4話 2/2

 明帝、景初元年(237)短里開始説の紹介(1)~(5) 2020/12/05
 私の見立て ★★★☆☆ 思い余って..言葉足らず   2020/12/13 2024/05/08

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

○「三国志」の成り立ち~私見
 陳寿「三国志」は、三篇の国志、「魏国志」、「呉国志」、「蜀国志」をまとめたものですが、陳寿の編纂方針として、各国志の編纂方針を温存しているので、原則として、里制の統一はしていないものと見られます。

 「魏国志」(魏志)の里で、魏の明帝景初年間の記事は、当然、その時点で施行されていた里制、ここでは、魏制と仮想された「短里」に基づいて書かれたと仮定されます。(当記事筆者は、「短里」と断定しているのではありません)

 その伝で行くと、後漢代の魏武曹操の記事は「普通里」のはずです。魏朝創業後、文帝曹丕の治世と景初以前の明帝曹叡の治世は、「普通里」で書かれていて、これを遡って「短里」で書くべきだとなりますが、「呉志」、「蜀志」すら是正を控えた陳寿が、たかが「道のり」表記で緻密な書き換えをしたかどうか不明です。

*換算改訂の想定
 別稿に換算書き換え仮説が提示され、その副作用として、切りの悪い計算結果を「数*里」という曖昧表現をしたと論じられています。換算の証拠として、換算されたと見られる記事は「数*里」が多く、換算不要の景初記事は少ないとされていますが、私見では、元々の概数数字を計算可能な整数で逓倍するなら、大抵の場合、概数を切りの良い数字に丸められると見えます。
 批評記事には書きませんでしたが、信頼できる統計推定には、有意と言えるだけの件数が必要で、更に、何よりも内容確認が必要です。提起されたものでは、断定的な結論どころか推定すら困難なものと思量します。
 ということで、提言は憶測に見えるのですが、いつも慎重な古賀氏は、そのような換算は、時と場合で適用しなかったこともあるとしています。
 そのように、とても論証と思えない憶測と決めつけの羅列ですが、古賀氏が、そのような論議に賛同しているのは共感できません。

*難詰 その一 土地制度改訂の難題
 当方の思い付きですが、里制を触ると、一里(三百歩)四方の土地を、三頃七十五畝の面積とする、秦漢代以来の(九章算術)計算公式を破壊するのです。加えて、全国で土地台帳の全面書き換えを要するから、全土混乱どころか、実行不可能です。

*難詰 その二 里数・運賃規定改訂の難題
 また、全国運送制度の体系に干渉します。唐六典規定集には、全国各地の河川水運と付随陸運で、一日の到達里数と規定運賃が規定されていますが、これは秦漢代来の全国規定の唐代最新形です。魏朝体系で里制改訂すると、各地点は固定で所要日数と運賃は維持されますが、規定表は書き換えです。書き換えには、厖大な計算、つまり、人員動員と長期間の専従が必要であり、大変な労力を伴い、かつ、本務を途絶させて、官僚機構を壊滅させますが、達成しても、税収は増えない制度変更であり、全土混乱するのです。

*不思議な記録不在
 どちらも、全国の官吏、つまり、高官から小役人に至る面々に、大変な厄介ごとを招くから、記録にも記憶にもとどまり、西晋代、陳寿の取材に、ぞろぞろと不平不満の報告が入るはずです。新朝王莽は、官僚組織や地名を復古させたための混乱を、反乱、亡国の要因とされていますが、魏志には、そのような大事件は書かれていません。
 陳寿自身は雒陽にとどまっても、必要なら「取材班」を各地に送り出すことはできるのですから、大事件の痕跡があれば把握していたはずです。それまで、何も、気づいていなかったとしてのことですが。
 周知のように、明帝曹叡は、景初年間の大規模な新宮殿造営で、人件費を節約するために洛陽官人を「通い」で大量動員し、囂々たる不平を買いました。不名誉にあたるので、本紀には没後の工事中止を言うとともに、君子不徳の極みとする重臣の諫言を収録しています。
 里制改訂という有害無益な皇帝命令があったのに、それについて陳寿が書かず、時に辛辣な付注を加える裴松之が、何も語っていないのは不審の極みであり、つまりは、そのような天下を揺るがす暴挙はなかったから、何も書かれていないのです。

 ついでながら、万事網羅する「晋書」地理志にも、「通典」にも、そのような大事件は記録されていないのです。

○甲斐なき熱弁
 古賀氏の熱弁に拘わらず、「魏晋朝短里」説は論証されてないのです。
 論証の筋の通らない話では、人は納得しないのです。

                                以上

新・私の本棚 番外 「古賀達也の洛中洛外日記」 第2310~4話 1/2

 明帝、景初元年(237)短里開始説の紹介(1)~(5) 2020/12/05
 私の見立て ★★★☆☆ 思い余って..言葉足らず   2020/12/13 2024/05/08

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

□はじめに
 ここに紹介したのは、もともと古賀達也氏が「新古代学の扉」サイトに掲載した記事ですが、本来、同名ブログからの転載であり、ここではブログ記事を参照しています。ということで、批判は、両者共通のものと見ていただいて結構です。
 当ブログでは、非商用ブログの書評は、極力控えていますが、当記事は読者の批判を期待して公開されているものと思うので、率直な批判を掲載します。

○倭人伝短里説の流れ~補足の試み
 当記事のタイトル「明帝、景初元年(237)短里開始説」の課題は、古田武彦氏が、第一書『「邪馬台国」はなかった』において、先行する「倭人伝短里説」に対して「三国志短里制」を説いたことから発しています。

*論争の開闢の回顧
 「倭人伝短里説」は、当時、安本美典氏が、埋もれていた「倭人伝道里記事は、帯方郡から狗邪韓国までを七千里とする里長に基づいて書かれていた」との提言を発掘しましたが、古田氏の「短里説」は、「三国志が、公式史書として編纂された以上、全巻統一里制を採用していたに違いない」との信念をもって提唱したものであり、後に、範囲を魏晋朝に限定し、それも、魏の初代文帝曹丕、後に第二代明帝曹叡が施行したとする「魏晋朝短里説」を提唱しました。
 私見では、魏朝の正史記録である陳寿「三国志」魏志に、そのような里制変更を明示した帝詔は記録されていないため、説得力に欠けるとみられています。

*実証模索~論争山積
 反面、陳寿「三国志」を全面的に用例検索して、記録上にある具体的な地名間の里数を、現在の地図上の相応する地点間の道のりと比較して、それが、普通里(四百五十㍍程度)か、1/6の短里(七十五㍍程度)かの検証が試みられていますが、論議を重ねても種々の事情で確定的な判断はできません。
 私見では、そのような検証は、地点の不確かさと記録の不確かさが重なり、6倍の差異があってすら、いずれとも言い難い状態と見えるなのです。

*最新情勢2020~提言の基準
 という事で、短里制実証は、行き詰まりのようです。

 当記事では、魏朝における里制変更は、明帝曹叡の最後の元号「景初」の冒頭と見ています。明帝は、初代皇帝文帝曹丕の漢制継承の方針を嗣ぎましたが、景初改暦に当たって、礼制、暦制を殷制に変更する帝詔を発した際に、里制を秦以前の古制に変えたとしています。
 明帝は、維新画期の「烈祖」を目論んだものの早世で水泡に帰したのです。

*消えた周制~殷暦・殷制の覚醒
 私見では、短里の議論に於いて、従来、「短里」は、殷周革命で天下の覇権を得て、封建制度で各国を統率していた周の設定した周制であり、秦始皇帝は、周制を廃して「普通里」を全帝国に統一施行したとの見解がありましたが、「晋書」地理志などによれば、秦里制は、周里制を継承したものなので、周制に復古しても里制は変わらないと見えます。
 そのため、短里は殷(商)里制との見解が生じています。但し、三世紀当時参照できたらしい殷里制史料は、今や、痕跡すら見当たりません。

 以上に紹介した古賀氏の当記事は、最新見解に基づく新見解の確立を図ったものです。氏は、魏晋朝短里説推進論者なので、史料の解釈、記述が撓(たわ)んでいますが、まあ、この世界には、真っ直ぐな史料解釈などないので、その向付けを確認するためだけに諸解釈が書かれているものと見えます。つまり、信じがたいのです。

                               未完

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