新・私の本棚 古賀達也の洛中洛外日記 第3484話 『三国志』夷蛮伝の国名表記ルール
『三国志』夷蛮伝の国名表記ルール 2025/05/13 2025/05/15
◯はじめに
今回は、「倭人伝」における蔑称論議に異議を唱えるものです。
*古田武彦『「邪馬台国」はなかった ―解読された倭人伝の謎―』 今一つの虚構の始まり
本書を「第一書」と略称します。同書は、まず、陳寿「三国志」「魏志倭人伝」の最善史料、宮内庁書陵局所蔵「紹凞本」を判断の起点としたのです。
ただし、古田氏は、行程記事の「南至邪馬壹国女王之所都…」に「女王之都」を見ますが、蕃王治所を「都」、さらには、「首都」と見る不合理を軽視されたようです。
実際は、女王は、重臣である倭大夫を滅多に引見せず、御前朝議を行わなう事もないので、行政機関を統御することはなく、稟申、諮問された議事に捌きを与えるだけなので、精々、実務の有り体は「居処」であり、「宮殿」「王都」などではなかったのは、「倭人伝」から読み取れるはずなのですが、古田氏ばかりでなく、世の諸兄姉は、至高の高みを眺めていて、足元を見ていないようです。最近のNHK教養番組で、若々しい女王が、居並ぶ家臣に檄を飛ばすのを見て、俗受け狙いのホラ話も程々にしろよと言いたかったものです。
しかし、「首都」は曹魏文帝創唱であり、西都長安、献帝居処許昌の勅命発信は否定せず、洛陽「首都」宣言したのです。してみると、蕃夷「首都」は曹魏と同等の地位となるので、陳寿は、頑として不法な尊称を与えなかったのです。
この点、古田氏が「和風」解釈を脱しなかったのは大変勿体ないのです。
以上の「都」、「首都」用語論は、古田氏提言『「邪馬壹国」が、「邪馬臺国」なる「尊称」と一線を画する穏当な国名である』に整合しないと見えます。
*細瑾の指摘
以上は、三国志の用語解釈に現代日本語を持ち込む危うさを述べたものです。これは、古田氏の見過ごしであって誤謬や錯誤と言うほどではありません。世間には三世紀論議にもっと深刻な時代錯誤が持ち込まれているのです。
*「ルール」の確認
ここで、茂山憲史氏談として、忽然と「七箇条憲法」が登場します。二重引用御免🙇
誰でも分かり、異存のなさそうなルールには適用序列があります。ルールは
1 出来るだけ発音が現地国名を写すような漢字群で考える
2 その中から国のイメージや性格を表わす用字を考える
3 イメージには当初から「夷蛮」という蔑んだ意味が含まれている
4 イメージを優先したいときは、発音を少々犠牲にすることもある
5 政治的に対立すると、さらに発音を崩しても侮蔑的な字を当てる
6 夷蛮の国が漢字に習熟して国名を自称しても、中国側の呼称が優先される
7 夷蛮の国の自称を採る場合でも、音に従い用字まで受入れることは少ない
*苦言/諫言
用字/用語の眩惑に加えて「ルール」、「イメージ」のカタカナ語はご勘弁いただきたいのです。「誰でも」と言っても陳寿、笵曄、本居宣長に理解できなかったはずです。「スルー」はインチキ語でこの場で見たくないものです。(うちわ/Privateでも、格調を保っていただきたいものです)
さて、「七箇条憲法」は、素人眼には「思い込み」に見えます。出所は不明と見えますが、これが古田史学の会内の「ルール」でしょうか。
*蔑称の斜陽
古田氏も提言したように、自称は、大抵、見つくろいの当て字で、既存国名、人名と抵触しない、常用されない文字が起用されたはずです。不明な蕃夷も、何れは中国語を学んで気づくので、蔑称は回避したと見えます。
茂山氏の命名論は、一部で支持されたでしょうが、蕃夷が背けば多大な戦費が必要であり、命名で手心を加えて辺境の安寧を買ったと見えます。
曹魏明帝は、東夷の歓心を買うために一字国名「倭」を許容し、東夷制覇の先兵とすべく大層な下賜物を与えたのであり、明帝の深意を理解した陳寿は、「倭人伝」に「蔑称」を用いなかったと見るのが、順当な見方というものです。
後生、つまり、二千年を経て、三世紀当時の教養を受け継いでいない東夷には苛立つ用字かも知れませんが、当時、そこそこの格式であったと見えます。
王莽の「下句麗」は、光武帝が復元しました。金科玉条はなかったのです。
*虚名の払拭
いや、明帝の誤解を正すべく、「倭人」諸国は、城壁のない貧弱な「国邑」に過ぎず、国力を示す「戸数」は、行程上の列国であっても、せいぜい数千戸に過ぎず、したがって兵力も収穫も乏しく、通貨がないので税を銅銭で郡に納付できず、牛馬がないので耕作が人力であって農産物が乏しく、牛馬がないので輸送力が乏しく、各戸には、老人や寡婦の扶養が多く含まれていて、実収に乏しく、到底、韓国平定の戦力にならないと念入りに書き遺したのです。
後生、つまり、二千年を経て、三世紀当時の教養を受け継いでいない東夷には苛立つ「真相」かも知れませんが、「倭人」が、途上国の境地を達するには、実に数世紀を要したのです。
以上