古賀達也の洛中洛外日記

古田史学の会事務局長古賀達也氏のブログ記事に関する寸評です

2025年5月15日 (木)

新・私の本棚 古賀達也の洛中洛外日記 第3484話 『三国志』夷蛮伝の国名表記ルール

『三国志』夷蛮伝の国名表記ルール 2025/05/13 2025/05/15

◯はじめに
 今回は、「倭人伝」における蔑称論議に異議を唱えるものです。

*古田武彦『「邪馬台国」はなかった ―解読された倭人伝の謎―』 今一つの虚構の始まり
 本書を「第一書」と略称します。同書は、まず、陳寿「三国志」「魏志倭人伝」の最善史料、宮内庁書陵局所蔵「紹凞本」を判断の起点としたのです。
 ただし、古田氏は、行程記事の「南至邪馬壹国女王之所都…」に「女王之都」を見ますが、蕃王治所を「都」、さらには、「首都」と見る不合理を軽視されたようです。

 実際は、女王は、重臣である倭大夫を滅多に引見せず、御前朝議を行わなう事もないので、行政機関を統御することはなく、稟申、諮問された議事に捌きを与えるだけなので、精々、実務の有り体は「居処」であり、「宮殿」「王都」などではなかったのは、「倭人伝」から読み取れるはずなのですが、古田氏ばかりでなく、世の諸兄姉は、至高の高みを眺めていて、足元を見ていないようです。最近のNHK教養番組で、若々しい女王が、居並ぶ家臣に檄を飛ばすのを見て、俗受け狙いのホラ話も程々にしろよと言いたかったものです。

 しかし、「首都」は曹魏文帝創唱であり、西都長安、献帝居処許昌の勅命発信は否定せず、洛陽「首都」宣言したのです。してみると、蕃夷「首都」は曹魏と同等の地位となるので、陳寿は、頑として不法な尊称を与えなかったのです。

 この点、古田氏が「和風」解釈を脱しなかったのは大変勿体ないのです。

 以上の「都」、「首都」用語論は、古田氏提言『「邪馬壹国」が、「邪馬臺国」なる「尊称」と一線を画する穏当な国名である』に整合しないと見えます。

*細瑾の指摘
 以上は、三国志の用語解釈に現代日本語を持ち込む危うさを述べたものです。これは、古田氏の見過ごしであって誤謬や錯誤と言うほどではありません。世間には三世紀論議にもっと深刻な時代錯誤が持ち込まれているのです。

*「ルール」の確認 
 ここで、茂山憲史氏談として、忽然と「七箇条憲法」が登場します。二重引用御免🙇

誰でも分かり、異存のなさそうなルールには適用序列があります。ルールは
1 出来るだけ発音が現地国名を写すような漢字群で考える
2 その中から国のイメージや性格を表わす用字を考える
3 イメージには当初から「夷蛮」という蔑んだ意味が含まれている
4 イメージを優先したいときは、発音を少々犠牲にすることもある
5 政治的に対立すると、さらに発音を崩しても侮蔑的な字を当てる
6 夷蛮の国が漢字に習熟して国名を自称しても、中国側の呼称が優先される
7 夷蛮の国の自称を採る場合でも、音に従い用字まで受入れることは少ない

*苦言/諫言
 用字/用語の眩惑に加えて「ルール」、「イメージ」のカタカナ語はご勘弁いただきたいのです。「誰でも」と言っても陳寿、笵曄、本居宣長に理解できなかったはずです。「スルー」はインチキ語でこの場で見たくないものです。(うちわ/Privateでも、格調を保っていただきたいものです)

 さて、「七箇条憲法」は、素人眼には「思い込み」に見えます。出所は不明と見えますが、これが古田史学の会内の「ルール」でしょうか。

*蔑称の斜陽
 古田氏も提言したように、自称は、大抵、見つくろいの当て字で、既存国名、人名と抵触しない、常用されない文字が起用されたはずです。不明な蕃夷も、何れは中国語を学んで気づくので、蔑称は回避したと見えます。
 茂山氏の命名論は、一部で支持されたでしょうが、蕃夷が背けば多大な戦費が必要であり、命名で手心を加えて辺境の安寧を買ったと見えます。
 曹魏明帝は、東夷の歓心を買うために一字国名「倭」を許容し、東夷制覇の先兵とすべく大層な下賜物を与えたのであり、明帝の深意を理解した陳寿は、「倭人伝」に「蔑称」を用いなかったと見るのが、順当な見方というものです。

 後生、つまり、二千年を経て、三世紀当時の教養を受け継いでいない東夷には苛立つ用字かも知れませんが、当時、そこそこの格式であったと見えます

 王莽の「下句麗」は、光武帝が復元しました。金科玉条はなかったのです。

*虚名の払拭
 いや、明帝の誤解を正すべく、「倭人」諸国は、城壁のない貧弱な「国邑」に過ぎず、国力を示す「戸数」は、行程上の列国であっても、せいぜい数千戸に過ぎず、したがって兵力も収穫も乏しく、通貨がないので税を銅銭で郡に納付できず、牛馬がないので耕作が人力であって農産物が乏しく、牛馬がないので輸送力が乏しく、各戸には、老人や寡婦の扶養が多く含まれていて、実収に乏しく、到底、韓国平定の戦力にならないと念入りに書き遺したのです。

 後生、つまり、二千年を経て、三世紀当時の教養を受け継いでいない東夷には苛立つ「真相」かも知れませんが、「倭人」が、途上国の境地を達するには、実に数世紀を要したのです。

                                                      以上

2025年4月19日 (土)

新・私の本棚 古賀達也の洛中洛外日記 第3460話 倭人伝「万二千余里」のフィロロギー(1)-(2) 改訂

 倭人伝「万二千余里」のフィロロギー (2) ―総里程「万二千余里」の根拠は何か― 2025/03/28 初稿2025/03/31 04/19

◯はじめに ブログ記事批判の弁
 ブログ記事ながら、当記事は、古賀達也氏の公式見解と尊重した上での書評です。(1)は論義不鮮明なので本項に併合しました。

 まずは、古賀氏の語彙が学術的な語彙からずれているのが気になります。

 「概数」を、厳密な計算に基づかない「アバウトな数値」とする理解は、ある種「誤解」と思われます。まして、後に出て来る「アバウトな概数」とは、二段重ねで何のことか(😯)びっくり。

 ちなみに、今日、「がい数」は小学四年段階で教えられています。
*概数定義の確認  新興出版社啓林館サイトからの引用です。
 概数|算数用語集 「概数:およその数のことを概数といいます。概数は,日常生活の中で「およそ3000人」「約50000円」「だいたい20%」などの表現で使われます。細かな数値そのものが必要でなく,大まかに数の大きさが捉えられればよいとするときに使われます。また,人口や国の予算などの大きな数で,正確に数値を表してもあまり意味がない場合にも概数で表すことがあります」 (参照 2025年3月31日)
 古代中国史料では、実務上「おおよその数」として扱う数値にも、大抵の場合概数が使われます。(例外として、1の桁まで全桁計算することもありますが、あくまで例外中の例外です)

 古賀氏の理解は、年功を歴た大人の常識としても、本義から外れているのではないかと懸念されます。今回紹介された異論は詳細不明ですが、むしろ(小4生も同感するような)素朴な意見であり、はなから否定すべきではないと思われます。

*引用文献の不整合
 なお、ここでことさらに引用された古田氏提言に「概数」は含まれず、反論の根拠として不十分と思われます。なにしろ、本書は、一般聴衆向けの「教養セミナー」講演録であり、史学論議に耐える厳密な語彙に従っていない可能性があります。古田武彦氏著書「俾彌呼」第Ⅰ部第3章 「女王国への道」から抜粋すべきではないでしょうか。

*余談 「周旋」用例論議
 ちなみに、まずは、通説の「周旋」解釋の混乱を解決しないと、議論が成り立たないように見受けます。

 当ブログでは、「倭人伝」文意解釈に於いて有力な同時代(後漢献帝期)用例袁宏「後漢紀」卷三十孝獻皇帝紀建安十三年の孔融記事に加えて陳寿「三国志」魏志「崔琰伝」裴注(「続漢書」から引用)のほぼ同文の孔融記事を取り上げて、同時代の三用例を勘案して、「周旋」は「往来」の常用表現と画定し「倭人伝」の語義としています。これは、古田氏見解にも、見事に整合すると見えますが、野田氏も含め拡大解釈型の論者を克服するに至っていないと見えます。ちなみに、孔融は同時代人として大変高名であったものの、後漢献帝建安年間に最高権力者曹操の命により族滅されているので、陳寿は史官の見識で、孔融伝を魏志に収録しなかったと見えます。

*構文の乱れ
 古賀氏は、反論の根拠として、先だつ三項目外で末羅伊都間五百里と不詳の伊都不弥間の百里で不意打ちし、構文不明瞭と言われかねないところです。
 これは、引用記事の『「全行程一万二千里」を、既知の郡狗邪韓国の七千余里と倭地の「周旋」五千余里の合算とする』との趣旨と見える古田氏の簡潔な構想を外れ、概数概念不整合と相まって提言者を承服させるのは難しいと感じます。「倭人伝」記事に関する陳寿の真意は、三世紀時点で存在しなかった後世概念で推し量るのでなく、陳寿に理解できる論旨で想到するものであり、まずは「東夷伝」の概念で提示すべきでしょう。それは、二千年後生の(無教養な)東夷に「初耳」であっても、新説ではないのです。
 とにかく、正しい概算式の正しい概数項を解剖して、概数理念に反した端数を取り出すのは、端的に言って無法です。そのような端数は、概数計算式の埒外であり、概算式から排除されるのです。提案者は、そのような端数道里は、実測されていないのでないかとの疑念を呈していますが、これは、ここまで述べたような事態の本質を取り違えています。
 ちなみに、私見では、渡海水行の千余里は、正始使節の発進前に知られていたものであり、使節は、ここは、三回の渡海を行う水行十日と承知していたのであり、使節の報告書以前のものなのです。今回の議論の本質に関わるものではないのですが、この際、誤解を説こうとしたものです。

*持論提示 遅れてきた「定説」
 当ブログ筆者の持論では、「倭人伝」の『「郡から倭に到る万二千余里」は、公孫氏が、実際の道里が不明な時点で公式道里としたものであり、各部分の実測道里の加算(概算)で求めたものではない』(後漢献帝建安年間、帯方郡創設前後と推定)との意見ですから、食い違っています。
 なお、当然の常識として[千余里]単位概数の一桁漢数字の加算で、百里以下の端たは無視するものと思っています。

*率直な苦言
 ついでながら、+αは「プラスアルファ」なる大変不都合な(インチキ)外来語の派生表現であり、同様に不都合である「アバウト」共々、古賀氏の信用を損ないかねないので、考えなおされることをお勧めします。

                                以上

新・私の本棚 古賀達也の洛中洛外日記 第3461話 倭人伝「万二千余里」のフィロロギー (3) 改訂

倭人伝「万二千余里」のフィロロギー (3)『史記』大宛列伝、司馬遷の里程計算 2025/03/29  初稿2025/04/01, 04/19

*議論の確認
 今回の論議は、却って、古賀氏の「倭人伝」解釈の未熟さを示しているように見えます。「伊都国から奴国への百里は傍線行路であり、郡より女王国に至る一万二千余里に含まれない」としながら、伊都から不弥の行路が傍線でなく万二千余里に含まれるとするのは、承服することが困難です。まして、「倭人伝」に触れられていない「島巡り半周読法」なる新説により百里単位の追記を詰め込むのは「公理」に反すると見えますが、いかがでしょうか。

*第一法則「部分の総和は、総計に等しい」の締め
 今回蒸し返されている議論は、前回、古田師の提言として明快に示された「帯方郡治から邪馬一国までが一万二千里。帯方郡治から狗邪韓国までが七千余里、そして海上に散らばっている島々(倭地)を「周旋」(周も旋もめぐるという意味)してゆくのが、五千里なる明快な解釈に対する「蛇足」(一切ぶち壊し)になっています。まずは、ここで「第一法則」の論証を、一度締めて異議を求めるべきです。議論は小刻みに収束させるべきであり、拡大混乱させるべきでないというのは、世間一般の通則と思うのですが、古代史学は、共感していないと見えて残念です。
 ついでながら、明快解釈に茶々を入れる野田氏の解釈は、折角ですが、目下の議論の邪魔になるので、後回しにすべきです。時間は、タップリあります。

*蛇足の確認
 「蛇足」部を混乱させるのは、追加された「末羅伊都間 五百里」の解釈です。
 古来の定則の根拠は[千余里]単位概算の整合であり、古来の漢数字で、七に五を加えればピッタリ十二なので、間違いようがないのです。古来の算数には小数は無いので現代風に言う0.5[千余里]は、無法なのです。

 周知のとおり、古代中国では、[千余里]の一桁数字の算木計算で、加算結果の繰り上がりはあっても、下位桁相当の小数は排除されているのです。
 古賀氏が忌避しているようなので再確認すると、提案された異議は、[千余里]単位概算では端たの百里単位は計算しないので、島巡り半周読法など「無用」との意見でしょうから、今回も反論できていないのです。

*参問倭地、周旋
 案ずるに、古田氏の「海上に散らばっている島々」は、「參問倭地」「或絕或連周旋可五千餘里」の意味を軽視されたもので、提言として、不用意です。

 本件は、郡から倭に到る行程の当初、つまり、後漢献帝建安年間、遼東で君臨していた公孫氏の概念説明であり、狗邪韓国からの渡海以下の行程は、末羅まで洲島、中之島を渡船で水行し、上陸直ちに陸行伊都国に到り、以下の行程は書かれていないであったと見えるのです。正史行程記事の「行程」は、陸上街道で目的地まで最短で結ぶのです。
 と言うことで、追加された「不弥国」論は、「行程」外に道草し、(古田氏自身の迷い道とは言え)古田氏の明快な解釈が溶け落ちています。提言は、ここで確立すべきだったのです。

*規範の取り違い
 ちなみに、氏が「倭人伝」のお手本と見た司馬遷「史記」大宛伝は、班固「漢書」西域伝転用と推定され、議論に影響しない「雑音」の混入です。陳寿は、饒舌な史記でなく朴訥な漢書を範例としたはずです。

*算数教科書 不朽の「九章算術」
 お言葉ですが、測量実務の根幹は、あくまで「九章算術」であり、検地や初歩的な土木工事実務教科書であり、高度な理論展開の場ではないのです。流し読みするだけでも、同書の深意を察することができます。
 ちなみに、これら算術書は、おそらく、周代門外不出の「秘伝」であったものが、東周滅亡時に秦朝に献上され、同国国内で「教科書」として施行されていたものが、秦始皇帝が、秦律の一環として全国地方官吏に配布、普及して、国政の根幹として運用したと見え、以後、文官の必須教養と思われます。
 もちろん、「部分里程の和が総里程」との「公理」は基本の基本で「証明不要」であり、金銭計算にも通じるので文官全員が通暁していたと思われます。但し、金銭計算は概算しないので諸兄姉は勘違いされるかも知れません。

                               以上

新・私の本棚 古賀達也の洛中洛外日記 第3463話 倭人伝「万二千余里」のフィロロギー (4) 改訂

 「周旋五千余里」、野田利郎さんの里程案 2025/03/31  2025/04/02 改訂 2025/04/19

◯はじめに
 当連載記事は右顧左眄せず一路邁進ですから、当方も一路邁進します。
 既に泥沼化しかけていますが、懸案は「里数の概数計算において、部分里数計は総里数とピッタリ一致しなくても良い」とする「公理」の確認です。

倭人伝の里程記事「倭地周旋五千余里」は、古田説によれば次の倭国内の部分里程の合計と一致します。
 当ブログでは、古田師の第一段階提言の総括として、以下を懇望します。

 「倭人伝」に、明記も示唆もない、一切書かれてない島巡り論は、論議無用です。「方里」談議は、深くて大きい傍路に入るので割愛します。
郡狗邪韓  陸行 七[千余里] 狗邪韓対海  水行 一[千余里]
対海一大  水行 一[千余里] 一大末盧   水行 一[千余里]
末盧伊都  陸行 無[千余里](五[百余里])*切り捨て
末盧伊都  陸行 二[千余里]    差分であり、自明
 誤解を招くので、本項を改訂します。
部分行程計   十二[千余里] 全行程     十二[千余里] 

 陳寿の理路に従い時代錯誤の現代的作表でなく縦書表記したいのですが、ブログで縦書表示は大変困難です。五百余里は島巡り共々捨てます。

 部分計十[千余里]と全行程十二[千余里]の差分二[千余里]は、[千余里]単位の一桁概数の計算で生じたものなので、数学的に無視可能です。特に、「水行」は、測量不能、かつ、無意味な実際の道里でなく、所用日数を当てはめた「見なし」里数なので、辻褄合わせは不合理です。
 訂正 正しくは、差分二[千余里]は、初期段階で、末羅国~伊都国間の道里としたものであり、水行一[千余里]同様、実際の道里でなく、概念を示したものなのでした。

 陳寿の表示は、後漢献帝建安年間に、公孫氏がつけた全行程万二千余里の公式道里を熟慮案分した結果の概算差分を消す策がなかったことによります。率直に案分したものなのです。衆知の如く、概算計算の加減算で、細部の辻褄が合わないのは、むしろ当然・自明です。

 古田氏は、第一書執筆の途次で、直感・熟慮により差分解消の錯綜した論理を創唱したと見えます。何しろ、時点の氏の学識限界を承けているので、致し方ないのですが、半世紀を経て、通過点に残した瑕瑾が是正されないのは、大変残念です。僭越ながら、後生は、先生である古田氏の学説の不合理な細瑾を是正して、学説基幹を、外部からの攻撃から守るべきであり、この点是非とも慎重にご考慮いただきたいのです。


 なお、氏が創唱した「漢江河口部回避の部分的な海上移動」を「水行」の初出用例とする理窟は、「倭人伝」原文が遵守した古典史書語法による真意に反していることが見すごされ、以後、追従者が多く、不合理が拡散されているのですが、本件の論議では、別儀として極力直接言及するのを避けているのです。これまた、深くて大きい傍路なのです。

 古賀氏曰わく「野田説を『邪馬壹国の歴史学』(…2016年)に収録し、後世の研究者の判断に委ね…ました。」は、傍路と見えます。「魏使の最終目的地を侏儒国」なる見解の提示は[事実]でしょうが、未検証の思いつきと見て、検証し採否を示すのが、後生の重大な務めと感じます。ご一考ください。

 懸案の換言、蒸し返しになりそうですが、正統史官が蛮夷伝で姑息きわまりない辻褄合わせを弄すると想定するのは、不合理です。

 世にはびこる時代錯誤のほんの一例ですが、本件討議の圏外から提起の野田氏論理は、原文にない算用数字多桁表示濫用で、三世紀史官に不可解きわまりないものです。3000余里の1里単位非「概数」と[千余里]単位、「四」引く「一」の「三」の単位不揃いにお気づきでしょうか。なお、野田氏論考は、既に参照論文で確認して、当ブログでは、難点から成立しがたいと断じました。古賀氏が何故、明白な議論を先送りにしたのか、不可解です。
 以下、ますます本件の議論の傍路に入り付随論を無用に拡散させ、「倭人伝」の末梢を論じて、貴重な連載記事の進路を崩しているので、無用と断じます。傍路から本道への復帰を切望する次第です。

*用語談議
 ついでながら、用語誤解により論理階梯が乱れているのを、敢えて指摘します。

  1. 「参問倭地」は「倭地」を訪れることです。「倭人伝」では、殊更定義した上で、古典史書で前例のない「水行」、「陸行」を予告の上で導入し、狗邪韓国から末羅国まで渡船で渡り継ぐのを「水行」によって州島を渡り継ぐと概括し、区間内の陸上移動は述べず、末羅国で上陸した後「倭人伝」で初めての「陸行」と述べています。不記載事項援用は読者の怒りを買います。
  2. 「周旋」は、差分論議を避けて狗邪韓国-倭間の直線行程を復唱したものであり、直前に示された内容なので容易想到されるので、語義解釈は、野田氏の解釈と大きく異なります。
  3. [方...里]は、「道里」ではなく面積表示であり、中国古代史書の書法にならい、混同されないように単位表記を変えているので明らかなであり、取りあえず、道里論議から除外すべきです。簡明であるべき議論を、拡大、混乱させないように、最低限の確認にとどめるものです。

     ご一考いただけるまで提言しますので、御不快でも御容赦いただきたい。

                                    以上

2025年2月12日 (水)

新・私の本棚 小泉 清隆 「古代の人口と寿命」 図説検証 原像日本 1 

 人間と生業 列島の遠き祖先たち 旺文社 1988年1月 2025/02/12
 私の見立て ★★★★☆ 「人口」論の堅実な展開 細瑾ありと言えども

◯はじめに
 本書は、全5巻の叢書の11ページにわたり掲題論考が展開されている。
 「史料から見た古人口」「縄文・弥生時代の人口」「古代人の寿命」の各条において議論が呈示されているが、全体として、原データの不確かさを踏まえて小泉氏が加えた考察も併せて堅実な議論であり、傾聴すべきものである。

*「史料から見た古人口」
・「古人口学」 史料に基づく堅実な推定
 本項は、奈良・弘仁式収録の出挙記録に基づく推定であり、同史料に欠ける畿内、東海道、近江等は、平安・延喜式から補追している。ただし、これらは、口分田耕作の良民に限られ、以外の雑戸等を加えた時代人口を六百万人から八百万人と推計されている。出挙から良民を得る手法は書かれていないが、「史料から見た」推計一手法としては堅実と見える。続いて10世紀頃の各国郷名から、時代人口を、五百五十万人から五百八十万人と推定している。率直な所、信頼度に制約のある両次の推定で、想定範囲が大きく異なるのが不思議である。

 素人の素朴な意見としては、更に、遺存戸籍史料による推定を望みたい所である。

・「邪馬台国の人口」の陥穽 文献解釈の齟齬 時代考証の欠如
 「魏志倭人伝」紹興本らしき史料に基づくにもかかわらず、氏が史料にない表記を採用している「邪馬台国」及び七ヵ国』の戸数による臆測、百五十九万人の計算根拠は見えない。戸数不明諸国と狗奴国、及び氏の言う「邪馬台国」圏外込みで三百万人程度とは、大胆、不用意である。史料文献の解釈を誤って、「それぞれ、七萬餘戸、五萬餘戸、二萬餘戸の三国が存在している」との勝手な読み替えが出まわっていて、ここまでで、既に十四萬餘戸のはずであるが、本来桁下で勘定しないはずの諸国が丼勘定で一萬餘戸となっていて、無理やり足して十五萬餘戸という概数計算原則無視の粗(あら)くたい「読み」を採用したとも見えるが、なにしろ説明がないので助言しようがない。
 普通に史料解釈すると、倭人伝」の使命として総数七万戸程度が明記されていると読むしか、合理的な解はないのである。萬戸単位の一桁計算であるから、桁下の諸国戸数は当然込みである。どうしてもと言われても、書かれていない諸国の戸数は、書かれていない以上無視である。
 そのうえで、無理は承知で、一戸五口程度と仮定すれば、「口数」は、単純計算で三十五万人程度となる。概数の原則に従うと「可三十萬餘口」となる。氏の推定「人口」と大きく異なるが、とにかく氏の推定の経緯と論理が不明なので、論議しようがない。
 誠に、勿体ない欠陥であり、自動的にほとんど「誤謬」となってしまうのが痛々しいのである。氏の学識の圏外で責任を持てないのであれば、端折ってごまかすのでなく、もし、万が一どなたかの指導を仰いだのであれば、氏に責任が及ばないように、先行文献を明示すべきである。
 それが、古代史学の原則ではないだろうか。

 文献に基づく考古学思惟に拠れば、氏の言う「邪馬台国」管内は、先駆的に組織的な水田稲作が展開されていて、古来の中国制度に基づく戸籍らしきものが見え、文書行政が核心にあったと見えるので、言うならば「魏志倭人伝」の精査により、初めて、管内人口の合理的な推計が可能であるが、氏が、そうした史料精査を避けてお茶を濁しているのは、勿体ない所である。

 敢えて苦言を言うと、史料に「邪馬壹国」と明記されているのに、あえて「邪馬台国」と言うのが、史料「誤」解釈の礎(いしずえ)かもしれないと危惧する。要するに、中国史官が中国読者のために書いた正史の一端を、現代の日本人、つまり、二千年後世の無教養な東夷が解釈するというのは、大変危ういことに気付いていただきたいのである。
 一事が万事とでも言おうか、傾いた基礎の上に、楼閣を建てるのは無謀である。

 「倭人伝」の数値表記で、万戸単位は二(三)万、五万、七(八)万、十万の粗刻みなので、総数「可七万餘戸」は、五萬戸から十萬戸の範囲かもしれないのである。倭人伝が最初に書かれたのは、曹魏景初年間からみても、遠く後漢末の慶安年間であり、後漢側では、「倭人」までの行程道里も、戸数も何も不確かだったのだから、最大萬二千里、最大七萬戸という主旨で、萬二千餘里、可七万餘戸だったかもしれないのである。このあたり、その時代の後漢の東夷管理が、ほぼ壊滅していた状態であり、引き継いだ曹魏も長く手を緩めていたので、そうした時代背景を念頭に置いて、余程丁寧に考察する必要がある。
 あるいは、長々とした計算過程の何れかの段階におおざっぱな概数概念があれば、全体として、そのような概念に従うものではないだろうか。これは、氏だけの誤解ではないのだが、ここでは、氏の計算しか目に付かないので指摘しているだけで、個人攻撃しているのではない。 

 それはそれとして、当記事は、氏の論考全体の信頼性を大いに損なうのではないかと危惧する。氏の依拠する史料解釈が検証されていないことから、そのように苦慮する。

・「先史時代の人口」
 無文時代、遺跡・遺物の発掘成果からの「臆測」が述べられている。
 「縄文・弥生時代の人口」は小山修三氏労作を論じているが、原史料の不確かさの限界を認識した推計は不確かとしたものの、むしろ肯定的と見える。
 重大なのは、北部九州を端緒として展開された水田稲作が、高い生産性と安定性を有していたことが評価されていないことである。
 中国式の「戸制」は、良民を組織化して、農地開発、灌漑水路整備など環境整備を行い、暦制に基づき地域集団の稲作を推進し、収穫の半ばを邸閣に収税し備荒策として飢饉に備えたことも認められるべきである。一口に「弥生時代」と言っても、先端地域である北部九州「北九州」とそれ以外の人口は、大きく異なっていたとみるべきである。
 このあたり、考古学的には、遺物から社会制度変革を読み解く高度な思考が求められる。

 素人考えでは、水田稲作は未開地域に組織的な水田稲作事業が、着実に、平和裡に進出していったと見える。

*最後に
 氏の考察では「弥生時代」に至っても、農作業の労力に乏しい女児は成人となれない可能性が推定されている。本項では論じないが、氏は、俗論の「平均寿命」なる時代錯誤は避け、「15歳時の平均余命」を論じていらっしゃる。その際、読者に不快の念を与えないため明言していないが、言及されている「弥生時代」では、農作業の労力に乏しい高齢者は退役する可能性は、むしろ自明であり、「15歳時の平均余命」を 大きく制約しているものと見るべきである。これらの状況は、明らかに、高齢者寿考礼賛と一夫多妻賛美が見られる「倭人伝」と相容れない別世界であり、氏が、本項で評価されていないのは勿体ないことである。
 言い方を変えると、「魏志倭人伝」は、中国文明、中国官制の傘下にあった豊かな地域の記事であり、無文時代の他地域とは、風俗、習慣が異なる。また、後世の「日本」社会と異なる中国法制度の下にあったので、氏の合理的な推定が成立しないのである。

 氏は、いわゆる「邪馬台国」論議の不徹底による誤謬めいた性急な見解は、古代史上の論議に巻き込まれないように深入りを避けたと見えるが、史料の時代地域考証に労を厭うべきではない。氏の論考が、いわゆる「邪馬台国」論議 において、誤解・悪用されているのではないかと危惧する。

                                以上

2025年2月 9日 (日)

新・私の本棚 古賀達也の洛中洛外日記 第3424話 倭人伝「七万余戸」の考察 (5)

―50年逆行する「邪馬台国」畿内説― 2025/02/07   2025/02/09 

⚪はじめに
 当記事は、単なるコメントであり批評として根拠不十分と自覚しています。

*引用とコメント (減縮引用御免)
 今回のテーマ「七万余戸」に限らず、文献史学の「邪馬台国」畿内説論者たちは、倭人伝に記された里数値や行程方角、戸数などをなぜか信頼できないとします。そこで、代表的な畿内説論者の仁藤敦史さんの著書・論文(注①)を取り寄せ、読んでみました。その読後感は「倭人伝研究が古田武彦以前の状況、言わば50年逆行している」というものでした。
古田先生や谷本さんが明らかにした魏・西晋朝短里説は、「邪馬台国」畿内説にとって最も不都合な仮説なのです。その証拠に、仁藤さんや渡邉義浩さんの著書(注④)には、古田先生が50年前に提起し、当時論争が続いた短里説が全く扱われていません(注⑤)。短里説の存在を読者には絶対に知られたくないかのようでした。(つづく)

*渡邊義浩氏批判 中公新書既読
 渡邊氏は、「歴史家は、史実に忠実であるものでなく、二枚舌である」という趣旨を(NHK番組で)明言されているので、氏が、恐らく保身のために言を左右にしているのは、咎め立てはできないとみます。
 氏は、衆知の如く范曄「後漢書」の全釈を刊行し、しかも世上認められている陳寿「三国志」の最高権威でもあり、袁宏「後漢紀」の部分訳を物しているので、同時代文献学の権威と見えるのですが、氏の新書は、行程道里の解釈にしろ、「邪馬台国」のこじつけにしろ、ヒビの入った骨董品(レジェンド)である「通説」の不合理を丸抱えにしていて不審です。これでは、「文献学から有意義な解釈は得られない」と一括りで批判されても仕方ないので、巻き添えを食うものとしては、大変迷惑です。
 とはいえ、近刊の「新・古代史…」なるNHK新書は、古典的とばかり渡邊史学書を「新・古」と称揚して、何処が「あらたな歴史像」なのか不明です。人名で「新古」さんがいらっしゃるのもあって、「新・古」としています。

*仁藤敦史氏批判 冊子既読 日本史リブレット
 仁藤氏は、通称「歴博」の広報連携センター長たる幹部研究者であり、その著書は、全国で展開されている発掘事業の集成として「定説」歴史記述の広報に努めていて、古代史に於いては「邪馬台国」「畿内説」を奉じる所属機関の職責で党議拘束されているので、咎め立てできないものと見ます。
 何しろ、「古代史学界」の総意として、「邪馬台国」は畿内纏向にあったとの「実証」を絶対使命として「纏向遺跡」の悉皆発掘の長期展開を正当化するものであり、その根拠となるよう文献解釈を固定することから、「邪馬台国」の比定の邪魔になる諸説は、「百害あって一利なし」と黙殺しているのです。
 仁藤氏の研究分野を見る限り、倭人伝時代は圏外で、まして、中国史書文献解釈に通じていらっしゃらない「広報担当」役員としては、あてがい扶持で書いていると見え、その意味でも個人攻撃は感心しないのです。

*まとめ
 古賀氏は、何か勘違いしているようですが、両氏に代表される「纏向王朝」論者は、50年来醸(かも)されている年代ものの、化石化した論議を陳列棚から持ち出しているだけで、別に、時代を「逆行」しているわけではないのです。いや、御両所の著書は、15年ほど前のもので「新・古」2009/2012ですから、「新・新」2025では、進歩しているかもしれないのですが。
 無位無官の私人は、他人事とはいえ、御両所の苦境をお察しするものです。別に、古賀氏に強要するものではないですが、肥大化した組織の一員は、職を辞さない限り、本音を書けないものと御理解頂きたいのです。
                                以上
当記事の参考文献
 NHKスペシャル取材班 「新・古代史 グローバルヒストリーで迫る邪馬台国、ヤマト王権」 NHK出版新書 2025年

新・私の本棚 古賀達也の洛中洛外日記 第3423話 倭人伝「七万余戸」の考察 (4)

―戸数と面積の相関論(正木裕説)― 2025/02/06   2025/02/09 

⚪はじめに
 当記事は、単なるコメントであり批評として根拠不十分と自覚しています。

*引用とコメント (減縮引用御免)
 弥生時代の人口推計学の方法(遺跡の「発見数」を計算に使用)や推定値(弥生時代の人口約60万人)が、同分野の研究者(注①)からも「計算方法に根本的な問題がある」との疑義が出されていることから、そのような推定値を根拠として、倭人伝の「七万余戸」を否定することはできないことがわかりました。
…今回は文献史学…倭人伝…各国の戸数とその領域の平野部面積に相関があり、…信頼できることを実証的に論じた正木裕さんの研究…を紹介します。

 二重引用を避けますが、要するに、正木氏は、現代地図と現代の度量衡体系を中国正史の記事批判に持ちこんでいます。議論自体は、誠に妥当ですが、今論議しているのは、「倭人伝」記事の真意追求なので、些か不適当です。また、「倭人伝」において、諸「国」が、中原に展開している広大な「國」、「郡」でなく、太古の隔壁集落「国邑」であり、確たる領域を持たないことを軽視されています。併せて言うと、現代でも不確かな「平野部」概念を、三世紀に持ちこむのは時代錯誤です。

 戸籍を問う以上、当時、確実に把握されていたのは、各戸に割り当てられた農地「面積」なのです。古代の官人の必須教養教科書であった「九章算術」が、[方田]に於いて、たっぷり演習問題と解答を呈しているように、各戸農地は、たとえば「巾十六歩、奥行き十四歩」、(方)二百二十四歩(ぶ)単位で把握され、検地の上で、台帳管理されているので、全国集計で農地面積が得られるのです。東夷伝には、集計された農地面積が「方里」形式で与えられています。
 「高句麗伝」には、高句麗は、広大と言えども山川渓谷が多く良田が採れないと明示した上で、農地を集計すると「方二千里」、二千平方里に過ぎず、一方、「韓伝」では小国割拠ながら「方七千里」、七千平方里としているのに比べて狭小ですが、高句麗は農業国家でなく、これは生産力の「実力」と見えます。 

 と言うことで、正木氏の現代的な推計を待つまでもなく、「魏志東夷伝」には、諸国農地面積が、戸籍に基づく実数により集計、掲示されています。
 一例ですが、正木氏の検証では、冒頭の對海國をもらしていますが、同国は、南島の一部を除き、沖積平野が無いに等しく、現代地図面積に拘わらず「方四百里」であり、戸数に見あった収穫が得られないと明示しています。

 一大国平野面積ですが、全土で水田稲作が可能でないと明記されています。
 既に述べたように、邪馬壹国七萬戸は誤解で、女王居処は、細やかなものと見えます。少なくとも農地は付属していないはずです。
 ついでに言うと、事情周知の周旋四ヵ国は別として、不弥国、奴国について、当時未知の現代地理をもとに推定を展開しているのが不適当です。

 この正木さんの計算方法は簡単明瞭であり、誰でも検証可能なデータに基づいていますから、説得力があります。他方、現在の文献史学における「邪馬台国」畿内説論者たちは、倭人伝に記された里数値や行程方角、戸数などをなぜか信頼できないとします。…

*まとめ
 不合理な主張も、反駁・拒絶の論法選択を誤ると、却って正当化させてしまうので、「敵に塩を贈る」事のないよう、ご注意頂きたいものです。
 ついでながら、漢制「戸数」は、遅くとも三世紀に導入されたにも拘わらず、どうして定着せず、「日本」に継承されなかったのか不審です。

                               以上

新・私の本棚 古賀達也の洛中洛外日記 第3421話 倭人伝「七万余戸」の考察 (3)

―人口推計方法の限界― 2025/02/05    2025/02/07

◯ はじめに
 当記事は、単なるコメントであり批評として根拠不十分と自覚しています。

*引用とコメント (減縮引用御免)
 弥生時代の人口推計学の方法は本当に正しいのかという疑問をどうしても払拭できませんので、とりあえずネット上の緒論(ママ)を見てみました。…近年では、小山氏の人口推計に問題があるとする研究者は少なからずいるようです。たとえば立命館大学に縄文時代の人口研究を専門とする中村大氏がいます。氏の論文「北海道南部・中央部における縄文時代から擦文時代までの地域別人口変動の推定」(注④)の「小山推定の意義と問題点」において、「計算方法に根本的な問題がある」として、計算に使用した遺跡数が「発見数」であり、「本当の存在数」ではないと指摘しています。これこそわたしが問題視していたことの一つです。このように問題が指摘されている現代の研究者による人口推定値を根拠として、同時代史料である倭人伝の記事を否定するのは、文献史学の方法から見ても問題ではないでしょうか。

 先行文献は公開され批判を克服したもの以外は、無価値です。ご指摘は合理的な資料文献批判です。

 率直に言って、中村大氏の論旨は、大きく信頼性の持てるように見えますが、自認しておられるように、あくまで特定地域の特定資料に基づく最善推計手法であり、目下俎上の「倭人戸籍」考証には不適格と思われます。参照可能な戸籍資料は、漢書、後漢書、晋書志部統計資料、あるいは、後世、戸籍原本が確認可能な時代の戸籍となります。

 なお、漢書、後漢書戸数資料で、近隣の楽浪郡、帯方郡の数字にしても、中国の家族制度、土地制度、農耕制度に依存しているので、倭人伝に記載された「戸数」と同一基準で書かれているかどうか、たいへん不確かです。

 まして、奴国、投馬国の戸数七万戸が臆測ですから、全域に漢制が適用されてはいない「倭人」戸籍は、事実上有効と言えないのです。

◯「魏志倭人伝」の真意~余談
 「魏志倭人伝」は、後漢代以来の資料積層であり、特に、遼東公孫氏の起筆した「倭人伝」の戸数、里数が、長く尾を引いて、陳寿がこれを改竄せず「魏志倭人伝」に合理的に紡ぎ上げた超絶技巧を高く評価すべきです。

 漢制戸籍は、各戸が所定の耕地を牛犂耕する前提であり、税は銭納、収穫は牛馬で公道運搬ですから、「牛馬無し」の人力耕作、「禽鹿径」で車両輸送できない倭人では、各戸から所定の穀物が得られることはないのです。

 次いで、韓国直近の對海國と一大国は、「良田が少なく反収が低いので慢性食料不足である」と食糧輸送免除の逃げを打っています。併せて、耕地は「方四百里」四百平方里と「方三百里」三百平方里で「猫の額」と明示しています。「方里」は土地面積であり道里「里」と連動せず、一里が三百歩、一歩六尺に固定で一平方里は、約四百五十㍍四方と見えるのです。

 ということで、東夷伝は、高句麗、韓国を皮切りに、「方里」を示し、農地狭隘で領土を奪う価値がないと示しているのです。

 加えて、「倭人伝」では、各戸に農作に堪えない老人や筋力が乏しい女性が多いとの但し書きで、全戸数七万戸を素直に勘定できないと理解できるのです。
 ちなみに、夷蕃伝では、「戸数」と共に「口数」が必須ですが、それでは徴兵対象人数が表示されてしまい、不都合なので割愛したと見えます。
 以上、「魏志倭人伝」の真意を酌み取っていただければ幸いです。
                                以上

2025年2月 7日 (金)

新・私の本棚 古賀達也の洛中洛外日記 第3421話 倭人伝「七万余戸」の考察 (2)

―弥生時代に戸籍はあったか―  2025/02/04    2025/02/07

⚪はじめに
 当記事は、単なるコメントであり批評として根拠不十分と自覚しています。

*引用とコメント (減縮引用御免)
…邪馬壹国「七万余戸」…は…信頼できないとされているようです。その理由の一つに、「弥生時代に戸籍制度があったとは思われない」という意見があります。他方、当時の国家制度は中国の影響を受け…時代にふさわしい制度があったとする意見もあります。…
…倭国の「戸」制度の内容は未詳…倭人伝に次の記事が見え…ます。「…收租賦、有邸閣。…」「租賦を収む」とあるように、「租賦」…制度が記され…戸籍が不可欠です。特に労役や徴兵のためには人口や年齢構成などの把握が必要で…大規模集落、大都市遺構…造営・維持管理するための国家制度…を疑えません。

 慎重に解釈すれば、ここは、邸閣収納で貢租を倉庫に収めるのであり、形のない役務ではないことが自明です。中国では、古来、「銭納」で必ずしも倉庫は必要ないのですが「倭」には通貨がないから、貢納は「米俵」を積み上げます。これは、近隣であれば、各集落「長」が農民個々に対面指示すれば可能で、読めない「法」は必要なく、戸籍も不可欠ではないのです。でないと、戸籍施行まで課税が不可能です。
 「吉野ヶ里遺跡や比恵那珂遺跡のような大規模集落、大都市遺構」とおっしゃいますが、どの程度の規模を想定されているのか。「大都市」などと時代離れしたことをおっしゃいますが、「倭人伝」を主体とする文書史料を根拠に述べて頂きたいものです。それら遺跡から、文書行政を確実に証する遺物証拠は出土しているのでしょうか。根拠の無い「思い付き」は、慎みたいものです。前に述べたように当時の「人口」定義は不明で、「年齢構成」も不可解です。

戸制度については古田先生による考察が『倭人伝を徹底して読む』の「第七章 戸数問題」(注②)にあり、倭人伝に見える「戸」を「魏の制度としての戸」としています。そこでは『漢書』地理志の戸数…の一戸あたりの人数を計算すると概ね四人から五人で…す。…邪馬壹国の「七万余戸」は約30~35万人となります。…現代の人口推計学による弥生時代の推定人口(北海道・沖縄を除く)約60万人の半数ほどになり…両者は整合していません。…(つづく)

 ここで「倭人伝」戸数は、班固「漢書」地理志準拠ですが、本来、いの一番に確認すべきです。中国史料の解釈は、まずは、中国史料に基づくものではないでしょうか。
 前回来の仮説が頓挫しています。見直しには、「邪馬壹国が女王王都で七万戸の大国」との前提も見直していただく必要があるのです。

 邪馬壹国は、太古の「國邑」に分類されている「伊都国」南郊に女王居処として創設され、農民に支えられた独立国でないので戸数は無意味です。七萬戸は、遠隔、不詳の奴国二萬戸、投馬国五萬戸を抱え込んでいると思われます。明記の周旋四ヵ国「戸数」は、戸籍の裏付けはあるものの、総じて萬戸に及ばない程度です。一大率一行が巡回指導し、戸籍の実質は整っていたはずです。
 氏は、一大「文書行政国家」を提起されますが、その実現、維持には、「九章算術」に示された計数必須教養を備えた、農耕に従事しない成人が大量に必要です。「倭人伝」に婢千人とありますが、教養官吏が多数必要なのが文書行政の要件です。当然、紙であれ、木簡であれ、大量の教科書、規定集が必要です。戸籍自体も、十年で一新する必要があります。大量の用紙、筆墨が必要です。

 「纏向王朝」ばりの広域古代国家を、時代ずり上げして確立するのは無理です。

 史学論としては、 「戸籍」有無という字面論議でなく、文脈を踏まえた考察のもとに、後世の「戸籍」に到る発達過程の順当な確認が必要と思量します。
                                以上

2025年2月 6日 (木)

新・私の本棚 古賀達也の洛中洛外日記 第3420話 倭人伝「七万余戸」の考察 (1)

第3420話 倭人伝「七万余戸」の考察 (1)  2025/02/03
            2025/02/06

⚪はじめに
 当記事は、単なるコメントであり批評として根拠不十分と自覚しています。

*引用とコメント
 [中略]今、検討しているテーマは、『三国志』魏志倭人伝に記された邪馬壹国の人口記事「七万余戸」の信頼性についてです。当該記事は次のようです。
 「南至邪馬壹國、女王之所都。水行十日、陸行一月。官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳鞮、可七萬餘戸。」

 まずは、過去、当ブログで開示されていた古賀達也氏の見解では、当記事前半は、「南至邪馬壹國、女王之所。都水行十日、陸行一月。」とされていて、この「解」は、何処かで明言して頂く必要があると考えます。
 続いて、丁寧に説くと、「倭人伝」に「人口記事」は存在しないので、ご注意いただきたい所です。夷蕃伝に必須の「口数」記事が割愛されているのも、見過ごされては困ります。
 「一戸の人数」とは、おそらく、成人男子「壮丁」の人数「口数」でしょうか。しっかり定義して論議しないと、空振りばかりの快刀乱麻になりそうです。
 もっとも、「戸」がどのような構成かは、三世紀当時の現地戸籍を見ない限り推測すら困難です。郡官人は中國同様と見たとしても、「倭人」が、秦始皇帝の強いた核家族風「秦律」に服従したかどうか不明と言わざるを得ません。
 また、「倭人伝」には、各戸に老人が多い、一夫多妻で成人女性が多い、など特筆されているので、ますます、各戸の壮丁の推定が困難です。
 ここで「困難」とは、つまり、大変、大変やり甲斐があるという趣旨です。

 一戸の人数がどれくらいかはわかりませんが、仮に5~10人であれば「七万余戸」の邪馬壹国の人口は35~70万人になります。橘高さんから教えていただいたのですが、現代の人口推計学によると、弥生時代の列島の人口(北海道・沖縄を除く)は約60万人とのことなので(注②)、倭人伝の「七万余戸」という記事は誇張されたもので信頼できないとされています。また、弥生時代に戸籍制度があったとは思われないことも、この「七万余戸」という史料事実を歴史事実とはできない理由になっているようです。

 「誇張」とは、実数が把握されていたことであり、不穏当な発言です。

 他方、文献史学の方法からすれば、確たる根拠もなく、現代人の認識とあわないという理由で史料事実を否定してはならず、まずは書かれてあるとおりに古代中国人の認識として理解しておくということになります。[中略]
 更に、もう一つの課題である、邪馬壹国の時代に戸籍があったのか、当時の一戸は何人くらいなのかという調査も必要です。[中略](つづく)

 僭越ながら、「倭人伝」視点から指摘させていただくと、「倭人伝」道里記事で、對海國、一大国、末羅国、伊都国の「周旋四ヵ国」は、千戸(家)単位概算ながら実数が示されていますが、余傍の奴国、不弥国、投馬国は実態不詳で除され、行程外の「邪馬壹国」も戸数不明と見えます。
 実体不明の奴国、投馬国に、当てこみの七萬戸の始末が付けられていると見るべきはないでしょうか。(どのようにして実態調査するのでしょうか)

*最後に
 と言うことで、国内制度について不勉強なままの発言で恐縮ですが、論議は、出発点での確認が不可欠と思いますので、率直な意見を述べています。(過去記事で小刻みに展開している、根拠のある「意見」です)
 ちなみに、「倭人伝」の公孫氏初稿では、「周旋四ヵ国」が島嶼上無隔壁「國邑」とされ、後日追加の「邪馬壹国」共々千戸単位と見えます。「南至邪馬壹國、女王之所」と減縮した成果です。 名のみの諸国は推して知るべきです。

                                以上

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