纒向学研究センター

纒向学研究センターを「推し」ている産経新聞報道が大半です

2024年5月17日 (金)

新・私の本棚 水林 彪 「漢武帝・宣帝の半島・列島支配~ 1/3 追補

中国古代帝国主義の東夷支配:その始まり『纒向学の最前線』 「纒向学研究」 第10号
桜井市纒向学研究センター「センター設立10周年記念論集」 2022/7 
私の見立て ★★★☆☆ 未完の大器 瑕疵幾度     2024/05/13, 05/17

◯始めに
 当記事は『纒向学研究』「センター設立10周年記念論集」掲載論文です。

*予備知識 水林 彪氏の箴言再掲
水林 彪 古代天皇制における出雲関連諸儀式と出雲神話   2016/09/21 
 国立歴史民俗博物館学術情報リポジトリ:古代天皇制における : 出雲関連諸儀式と出雲神話(第1部 古代の権威と権力の研究)
 抄録冒頭抜粋:8世紀の事を論ずるには,何よりも8世紀の史料によって論じなければならない。10世紀の史料が伝える事実(人々の観念思想という意味での「心理的事実」も含む)を無媒介に8世紀に投影する方法は,学問的に無効なのである。
 しかし、氏は、同記事で、同時代には存在しなかったことが明らかな「架空地図」談議をもちだして、から騒ぎして躓いていました。

*本論
 今回は、物々しい論考が晴れの場に提示されています。とはいえ、タイトル/サブタイトルの設定が、随分、こなれが悪いのです。
 普通、タイトルは、上位概念で注意を引きつけておいて、サブタイトルで、すこし具体性を持たせた下位概念に落とし込み、読者の関心を本文に引き込むのですが、本稿では、手順前後になっています。
 改善案 中国古代帝国主義の「東夷」開闢 ~ 漢武帝・宣帝の半島・列島支配の夢
 前漢代、武帝の半島四郡設置は、ホラ話に終わって、早々に空洞化したので、「始まり」などと呼べる者ではないのです。なにしろ、漢武帝代の東夷は、ほとんど、遼東郡管轄下の高句麗、扶余だったのです。曹魏代に至っても、半島南部は、未通、未開の荒れ地だったのです。
 武帝の放漫な拡大志向は衆知として、皇太子の反乱の結果として王宮外の孤児育ちだった武帝の孫宣帝は、武帝の逝去の後、一種空位の時代を経て、民間から呼び戻されただけに、「帝国」主義の悪弊を除く堅実な思考で、帝国の拡大活動の収束、長久化を図ったものと見えます。一度、漢書をじっくり読まれることをお勧めします。

*異次元基準の乱入
 水林氏は、先に挙げた箴言を引きつづき放念されたか、欧州式の世界観を、無雑作に中国太古から国内古代に到る宏大な史論に塗りつけていると見えます。言うまでもありませんが、後世、欧州で常用された史学論議は、古代中国史に適用できないはずなので、もったいないことです。

*太古「帝国」主義の怪
 ともあれ、中国古代の漢代に「帝国主義」は存在しなかったから、論じようがないと見えるのです。まして、漢帝の威光が朝鮮半島南部に手が届いていない状態で「列島支配」は端から不可解であり、途方もなく場違いと見えます。この辺り、纏向学派に共通の「迷い」と見え、氏だけに誹りを向けられません。
 いや、実際は、岡田英弘氏の「欧風」に染まっているのかも知れませんが、何分圏外なので、良く見通せないのです。

*虚空の銅鐸「文化」
 続いて、氏は、考古学の成果である「銅鐸文化」の年代、地域比定を取り入れ、列島内の地域性を述べていますが、銅鐸によって確認できるのは、「特定の技術を有した集団が一貫した作風で銅鐸を制作していた」と言う工芸技術論であり、当時文字史料が存在していない以上、それが「文化」と呼ぶに値するかどうか不確かであることを示しています。時代錯誤と見えます。(銅鐸に金文はないものとみています)

*未開の「ゲノム」解析
 続いて、現代科学の先端である「ゲノム」解析による人種比定を取り込み、漢、韓の人種特性が捉えられて/創造されていますが、学術的な見解の支えが稀少出、未検証の遺物に依存しているという事を押し流して、「新説」崇拝の弊に陥っています。
 何しろ、氏は、長江下流域に存在していたと推定する集団に前五十(七十?)世紀の年代を比定し、その集団に、山東半島付近に前二十四(四十四?)世紀の集団を比定し、更に、半島西南部に前十一世紀を比定する大技連発のあと、当該地区で形成された「弥生人」の水田稲作集団が、大挙北九州に渡来したとしています。今一つの「時代錯誤」です。
 「新説」の(カラ)さわぎと云えば、水林氏は、毎日新聞専門編集委員までのめりこんでいた「架空地図」のホラ話から、まだ醒めていないのでしょうか。

*壮大な構想
 氏は、長江下流から山東半島までの区間を水田稲作の到来始点としていますが、山東半島が稲作技術の伝道基地となった理由はよくわかりません。水利不便とみえるのですが、水田遺構が大規模に出土しているのでしょうか。

*緩やかな移住経路~私見 
 当ブログ記事筆者の私見として、水田稲作が、 東夷の発祥地たる齊領域に展開した後、半島東南部を経由して北九州に伝播したという構想には同意します。
 ただし、以後の伝播経路には、異論があります。韓半島への集団移住には、渡海の「容易さ」が必要/必須であることから、先ずは、もっとも早期に定着していたとみえる遼東半島への渡海の可能性が高く、後に開拓されたとみえる(唐代命名とみえる)唐津(タンジン)辺りへの渡海が落とし所と見るものです。
 ともあれ、半島に渡海/定住すれば、後は、陸上の話ですから、歳月を味方に東南方に展開し、後世の狗邪韓国から筑紫に渡ることも、むしろ確実な渡海「解」と見える、というのは、「倭人伝」依存症の偏見の技でしょうか。いや、この辺りは、水林氏の触れていない当ブログ筆者の固執ですから、読み飛ばしていただいて結構です。

*「東夷」幻想~私見 
 前十世紀辺りでは、当時、半島基部の「齊」が、形成されていた時代であり、臨菑は、漢書で言う「一都會」、すなわち、人、物、金の交流の要として繁栄していたとされるから、孔子の云う「東夷」である目前の韓半島に新天地を求めたかもしれません。渡海行程は、軽微な筏で移動できたから、水田稲作に必要な農具、技術、そして、肝心な種籾を携えた集団が移動できたと思われますが、半島南部から北九州への移動は、物理的に、大変至難と見えます。
 さらりと、餅の画を描いて、それで一丁上がりではないのです。

                                未完

新・私の本棚 水林 彪 「漢武帝・宣帝の半島・列島支配~ 2/3 追補

中国古代帝国主義の東夷支配:その始まり」 『纒向学の最前線』 「纒向学研究」 第10号
桜井市纒向学研究センター「センター設立10周年記念論集」 2022/7 
私の見立て ★★★☆☆ 未完の大器 瑕疵幾度     2024/05/13, 05/17

*場違いの引用
 中国正史夷狄伝は儒教的中華思想を展開する場であるから、権力を背景とする朝貢命令のことは意図的に隠蔽し、朝貢が自発的なものであったかのように書くことを常とする。中国正史の記述を真に受けてはならない (渡邊義浩 46 頁以下・167 頁以下参照)。渡邉義浩 2012『魏志倭人伝の謎を解く』 中公新書

*原文確認
 せっかく原資料の引用位置まで書かれているので、当該印刷部の史料批判を試みます。
1. 46ページ部分
 「唯一の夷狄伝」と題されていますが、これは、先行して明記されている三国志唯一の夷狄伝「烏丸・鮮卑・東夷伝」と順当に解されます。
 「史学と儒教」として論議が進んでいますが、実際は、「三国志」に先立つ、司馬遷「史記」、班固「漢書」の史書としての精確さを論じていて、不思議なことに、「史記」の記事で、殷(商)の王位継承や殷墟の位置がほぼ正確に記録されていることを論拠として「史記」が正確であると証し、「三国志」が、曹操の墓の位置が正確に記録されているという未検証の推定を述べた後、『「三国志」も正確な部分は正確である』と述懐していますが、誠に、筋の通らない意見になっています。「史記」は、多くの部分で伝承/風聞に依存した「物語」であることは衆知であり、殷(商)の王位継承や殷墟の位置は、「物語」でなく、史実の記録、つまり、殷代文書の承継であるから、正確なのは、原史料が正確だったと云うだけです。後段で、「史記」の大部分を占める「物語」に対しては、民間で流布していた「史劇」、「講談」の類いを収録していたと述べていて、前に述べた「史記」評価は、実は、例外的な部分に過ぎないとみえます。

 渡邊氏は、「三国志」の記事も、陳寿が「史料」の承継に務めている部分は、正確であると総括していますが、誠に当然の理窟であり、少なくとも、陳寿が編纂した「魏志」の「本紀」、「列伝」部分は、西晋首都「雒陽」の公文書庫から取り出された「史実」の忠実な収録と見るものではないでしょうか、いや、これは、三国志注解を公刊されている渡邉氏には「釈迦に説法」でしょうが、氏は、何等かの意図があって、そのような当然な見解を糊塗していると見えるのです。

 さて、ここで、渡邉氏が、「魏志」夷狄伝全般に糊塗している「儒教的論理」は、まことに迂遠な見解であって、「魏志」「本紀」、「列伝」は、史実、つまり、公文書記録の正確な承継ですから正確であり、「夷狄伝」は、例外的に、陳寿の恣意によって、改竄されていると非難しているものと見えます。つまり、割愛や改変によって、正確さを喪っているとしているのです。

 ここで、典型的な史官とされている班固「漢書」すら、列伝の一例で、儒教擁護の圧力に屈して史実を改竄していると非難され、陳寿「魏志」も、夷狄伝に於いて、「当然」筆を曲げていると弾劾されているのです。

 渡邉氏は、そこまで物々しく言い募った挙げ句、魏志論に戻り、陳寿「魏志」夷狄伝が「西域伝」を欠いているのは、蜀漢が西域との交通を支配していて、曹魏の西域支配を妨げていたと示すことを憚ったためだと見ているのであり、素人目には、儒教原理に屈したものと見えないのです。

 以下、氏は、裴松之が「魏志」に補注した魚豢「西戎伝」を評して、充分「魏志」西域伝を記述するに足る内容があるのに、採用しなかったのは、陳寿の曲筆であると断じていますが、氏にしては、軽率な評価とみえます。魚豢「西戎伝」は、魏徴の西域での事績をほとんど含まず、後漢代の厖大な偉績を、禅譲により正統に承継したことを示しているものに過ぎず、陳寿は、これを、後漢西域都督の撤退を継承した曹魏の西域支配が形骸化していたことを明示するのを避けるために、全面的に割愛したのであり、裵松之は、陳寿の判断を支持する意味で、魚豢「西戎伝」を全文収録したものと見えるのです。

 以上の考察に疑問のある方は、魚豢「西戎伝」から、後漢偉績を取り除いた様を見て頂きたいものです。渡邉氏は、魚豢「西戎伝」の字数に溺れ、また、西戎伝の眼目である安息、條支の記事を、弱小部族とみえる近傍の大秦の記事と取り違えた伝統的な誤解に流されて、「列伝を立てるに相応しい」としていますが、氏は、晋朝史官ではないので、そのような判断は、あくまで局外者の私見にとどまるのです。

 当分野の論客として声望の高い岡田英弘氏は、現代日本人論客の軽薄な陳寿批判について、『陳寿は、当時最高の人材であり、その希有の人材が身命をかけ半生を費やして編纂した「魏志」「倭人伝」を(陳寿から見て)二千年後生であって、晋朝史官として要求される教養を有していない東夷が、安易に批判するのは、僭越の極みである』と云う趣旨で断罪しています。

 渡邊氏は、軽薄な陳寿批判を物している凡百の論客とは、当然格別の論者ですが、そのような世上論客に阿(おもね)るように筆が鈍(なま)っているのではないかと危惧する事態です。

                          未完

新・私の本棚 水林 彪 「漢武帝・宣帝の半島・列島支配~ 3/3 追補

中国古代帝国主義の東夷支配:その始まり」 『纒向学の最前線』 「纒向学研究」 第10号
桜井市纒向学研究センター「センター設立10周年記念論集」 2022/7 
私の見立て ★★★☆☆ 未完の大器 瑕疵幾度     2024/05/13, 05/17

*原文確認 承前
1. 46ページ部分 承前  2024/05/17
 それはさておき、このような疑問の多い「西域伝」事例をもちだして、陳寿が、曹魏の夷狄伝について、懐疑的であったと敷延した後、にもかかわらず、夷狄伝として「東夷伝」を集録したのは、明帝景初年間の司馬懿による遼東郡制覇にちなみ、それまで、東夷との交流が、遼東公孫氏によって、長年疎外されていたものが、司馬懿の軍功により、開通した功績を顕彰するためとしていますが、些か、浮評とみえます。
 司馬懿による遼東郡制覇は、明帝の遼東観、東夷観の軽薄さに基づくものであり、明帝が、勅命により、遼東/帯方両郡を承服させて、両郡の東夷教化を皇帝自身の功績としたものであり、当初、司馬懿を解任して本来の任地である西方に戻す意図であったことが、事実上明記されています。このような場合、勅命に対して不満を鳴らせば、直ちに誅伐されるから、司馬懿は、本来、雒陽に帰参せず、関中方面に帰参していたはずです。

 「はずです」というのは、明帝の急病、病臥によって、皇帝千秋の際、若年の継嗣をどのように補佐するかという重大問題が起こり、政権有力者による幼帝の傀儡化を恐れた近習が、対抗勢力として、司馬懿を招致したものとされています。この辺りは、後年政権を奪取した司馬氏を擁護する意図で、物語化されていると見て取れますが、核心は、明帝臨終の床で、継嗣曹芳の支援を依託されたとする「物語」であり、遠隔の「倭人」は、特段の意義を持たなかったと見るものではありませんか。

 ちなみに、「三国志」「蜀志」では、蜀漢創業者劉備の白帝城における臨終の場で、宰相諸葛亮に継嗣劉禅の支持を取り付けた「物語」が遺されていますが、諸葛亮が、終生、後主「劉禅」に奉仕したのに対して、司馬懿は、少帝曹芳を廃位に追い込み、曹魏終焉の道を開いたことが、「忠実」に描かれていますから、陳寿の筆が、本質的に、司馬氏に媚びることなどない、史官の筆であることが明らかです。 

2.167ページ部分 2024/05/17
 4「鋭敏な国際感覚」は、景初倭使の参上に関する考察ですが、世上、帯方郡から既に遠隔である「倭人」女王が、公孫氏滅亡の際に、すかさず、帯方郡に倭使を派遣したことを、女王の「鋭敏な国際感覚」の功名と見ているのに対して、これは、帯方郡太守の迅速な招請、督励の功績であるものとしていますが、これは、渡邉氏の慧眼と思われます。
 但し、引き続いて、そのような招請に即応したのは、女王の治世が、中国の国家制度を学んだ当時の東夷として先進の国家体制を有していたと見ているのですが、それは、「倭人伝」の真意を見逃したものと見えます。

 倭人の境地は、「牛馬がいない」ことから見て、『「街道」制度が未整備である』「「戸籍」、「地籍」が文書/計数化されていない』、さらには、『銅銭が流通していない』から、『遠隔地から「徴税」できない』『各国邑が隔壁で防御されていない』、風俗に近いものとしては、『衣服が中国のものではない』『食事が加熱調理されていない』等、中原文化に適しない蛮夷の習俗とされていて、さらには、「中國の文字を読み書きできないから、先哲の書を読んでいない」という致命的な欠格要件も明記されています。

*不可解の弁
 どうも、世上麗名の高い渡邉尊師の山成す「聖典」から、選りに選って、一般読者向けの解説本として執筆された新書から、以上に示された、迂遠な提言から、水林氏が、何故この単語難解、文言不可解の「明言」が引用されたのか、不審です。
 結局、原典の文脈から遊離した、「中国正史の記述を真に受けてはならない」なる「神託」、「神がかり」だけしか残らないのです。素人は、有効な「明言」と拝聴すべきなのか、不可解です。

*無用の参照
~閑話休題
 水林氏の本論考は、掲題のごとく、「漢武帝・宣帝の半島・列島支配」の論証を図るものですが、渡邉氏の玉稿を得て執筆したとしても、同新書は、掲題のごとく「魏志倭人伝」に関する論考であり、二十四史とも言われる全「正史」の一史である陳寿「三国志」魏志第三十巻の末尾の一条にすぎないので、新書版の軽快で、非学術的な発言内容の掲示される場なのですから、殊更、有り難がるのは不適切の極みです。当該「夷蕃伝」もまた、大鴻臚など曹魏公文書の集成/抜粋ですから、史官が、職業倫理を踏みにじって、造作できるものではありません。

 渡邉氏は、そのような「倭人伝」編纂の内実を熟知していながら、正史全体の編纂において広く述べて「明言」しているものです。
 まして、本論考は、正史記事に、ほとんど依拠しない考古学論考ですから、暴風雨に傘を押し貸ししているようなものであり、ありがたがるには及ばないのです。かくなる「明言」引用掲示は、所詮、渡邉氏の名声(被参照件数)を強化するに過ぎないのです。
 渡邉氏のために、このような無用の虚言の「害」を惜しむものです。
 世上、聞きかじり、食いかじりで、原文の文脈から切り離された「裸」の文言が、「ご神託」として出回っているのですが、渡邉氏は、このような「名声」に酔っているのでしょうか。

*データ混乱
 図4 稲作の伝播・人の移住・弥生人の形成
 本図の出典は、「藤尾慎一郎 2015『弥生時代の歴史』 講談社」のようですが、誤引用の訂正なのか資料改竄なのか、合成図の出典と制作責任者が不明で責任の所在は不明ですが、原図改竄の不手際が見えています。

 症状:山東半島部の「前24世紀」は、「前44世紀」と書いた「4」の上に「2」を重ね書きしていますもうひとつの「前50世紀」は、「前70世紀」と書いた「7」の上に「5」を重ね書きしています。それぞれ「違和感」が生じています。偽造ではないとしても、まことに胡散臭いのです。貼り付けデータの「2」と「5」は一応グループ化していますが、原図と一体化されていないので、容易に化けの皮が剥がされてしまうのです。

 手短に言うと、本図を作図する際に、藤尾氏から、原図のデータの提供を受けたのか受けなかったのか、状況は不明として、恐らく、マイクロソフトワードの作図機能を利用して合成されたのでしょうが、何故か、新作図を取り入れたPDFファイルを作成した後に、誤字に気づき、原図の修正ができなかったものか、PDFファイルの新作図の上に、二文字貼り付けたものと見えます。
 当コメントを作成する際に、図版が合成画像とわかったので引用できなくなってしまったのです。
 くれぐれも、著作権のある資料の引用は、慎重であってほしいものです。

◯まとめ
 水林彪氏は、学究の士ですが、しがらみに縛られて、足どりが揺らいでいるように見えます。
 ちなみに、当方は、素人で生活がかかっていないし、人間関係も、無頓着な性格なので、率直な批判ができるのです。

                                以上

 

2023年12月21日 (木)

新・私の本棚 前田 晴人 「纒向学研究」 第7号『「大市」の首長会盟と…』1/4 補充

『「大市」の首長会盟と女王卑弥呼の「共立」』 「纒向学研究」 第7号 2019年3月刊
私の見立て ★★☆☆☆  墜ちた達人    2022/01/15 2022/05/30 2023/07/08, 12/21

〇はじめに
 「纒向学研究センター」は、桜井市教育委員会文化財課に所属する研究機関であり、文化財課の技術職員全員がセンター研究員に任命されているということである。本記事は、「纒向学研究センター」の刊行した研究紀要『纒向学研究』第7号掲載記事の批判である。リンク先は、同誌全体のPDFであるが、個別記事へのリンクは用意されていないので、ご容赦いただきたい。また、「纏向学」は、桜井市の登録商標であるが、本稿のように、参照目的で表記するのは商標権侵害に当たらないと思量するので、特に許可を求めていない。

*総評
 率直なところ、文献史学の達人が、達人芸で「墜ちる」という図式なのだろうか。とは言え、
 深刻な問題は、用史料の由来がばらばらで、用語、構文の素性が不揃いでは、考証どころか読解すら大変困難(実質上、不可能)ということである。文献解読の肝は、それを書いた人物の真意を察することであり、そのためには、その人物の語彙を知らねばならないのである。当ブログ筆者は、なんとか、陳寿の真意を知ろうとして模索するのが精一杯であり、引きこもらざるを得ないのである。

 特に、国内古代史史料は、精々、倭人伝から見て数世紀後世の東夷作文であり、また、漢文として文法、用語共に破格なはず、至難な世界と思うのである。氏が、自力で読み解いて日本文で書くのは、凡人の及ばぬ神業である。言うまでもないが、中国史書の編者は、国内古代史史料を見ていないので、統一しようがないのである。

*第一歩の誤訳~取っつきの「躓き石」
 たとえば、「女王卑弥呼が景初3(239)年に初めて魏王朝に使節を派遣した」と主張されているが、原文が景初二年であるのは衆知である」から、これは端から誤訳である。氏が、中国史料を文献考証しようとされるなら、肝心なのは「揺るぎない原典の選定」である。検証無しに、世上の俗信、風説文書を引用するのは、お勧めできない「よそ見」と見える。

 以下、大量の史料引用と考察であるが、大半が倭人伝論「圏外」史料であり、(中国)古代史史料以外に、大変不確かと定評のある「三国史記」と共に、真偽不明と思われる大量の国内史料が論じられ、つづいて、「文字史料」との括り付けが大変困難な「纏向史蹟」出土物の考古学所見、「纏向所見」が述べられている。
 言うまでもないと思うが、「纏向史蹟」出土物に文字史料は皆無であり、墳墓に、葬礼に必須かと思われる墓誌も墓碑銘もないから、異国の「文字史料」との括り付けに終始しているのであり、この点、「纏向史蹟」の時代考証に、大きな減点要素になっているのは、周知と思うのだが、滅多に言及されないので、あえて念押しするものである。
 と言うことで、当ブログ筆者の見識の圏内であって当ブログで論じることのできる文献は少ないが、できる範囲で苦言を呈する。

 一般論であるが、用例確認は、小数の「価値あるもの」を精査するべきである。用例の捜索範囲を広げるとともに、必然的に、欠格資料が混入し、そこから浮上する不適格な「用例」が増えるにつれ、誤解、誤伝の可能性が高くなり、それにつれ、疑わしい史料を「無批判」で提示したという疑惑を獲得して、結局、意に反して論拠としての信頼性は急速に低下するのである。数が増えるほどに評価が低下するのでは、「効率」は、負の極値に向かうのである。
 つまり、通りすがりの冷やかしの野次馬に、重要性の低い資料の揚げ足を取られて、氏が、ご不快な思いをするのである。一群の資料に低品質のものが混入していたら、資料全体の評価が地に墜ちるのである。つまり、そのような低質の史料を採用した論者の見識が、容赦なく低評価されるのである。ご自愛頂きたい。

 要するに、用例は、厳選、検証された高品質の「少数」にとどめるべきであり、「精選」の努力を惜しまないようにお勧めする
 論考の信頼性は、引用史料の紙数や目方で数値化されるものではないと思うものである。古代史では、そのような、基本的科学的な数値評価が見失われているようである。

*パズルに挑戦
 要は、「纏向所見」の壮大な世界観(歴史ロマン/神話)と確実な文献である「倭人伝」の堅実な世界観の懸隔を、諸史料の考察で懸命に埋める努力が見えるが、多年検証された倭人伝」の遥か後世の国内史料を押しつけておいて、後段で敷衍するのは迷惑と言わざるを得ない。まるで、子供のおもちゃ遊びである。

 氏が提示された「倭人伝」の世界観は、諸説ある中で、当然、纏向説に偏した広域国家が擁立されている。
 倭国の「乱」は、列島の広域、長期間に亘ると、拡大解釈されている例がみられる。
 倭人伝に明記の三十余国は、主要「列国」に過ぎず、他に群小国があったとされている拡大解釈までみられる。
 しかし、事情不明。音信不通、交通絶遠の諸国であり、国名が列記されているだけで、戸数も所在地も不明の諸国が「列国」とは思えない。まして、それら諸国が畿内に及ぶ各地に散在して、その東方は「荒れ地」だった』とは思えない。委細不明であるが、日本列島各地に、大なり小なり聚落が存在していたはずである。

 当時の交通事情、交信事情から見た政治経済体制で、「列国」は、多分、行程上の「對海/對馬」「一大」「末羅」「伊都」止まりと思われる。名のみ艶やかな「奴国」「不彌國」「投馬国」すら、朝廷に参勤していたとは見えないのである。丁寧に言うと、往来が徒歩に終始する交通事情で、文書通信が存在しない交信事情としたら、至近距離の少数の「列国」以外の諸国は、実質上音信不通であり、「政治経済」と物々しく称しても、およそ連携しようがないと見えるのだが、その点に言及されないようである。

 パズルの確実なピースが、全体構図の中で希薄な上に、一々、伸縮、歪曲させていては、何が原資料の示していた世界像なのか、わからなくなるのではないか。他人事ながら、いたましいと思うのである。

*「邪馬台国」の漂流
 先に点描した情勢であるから、私見では、倭人伝」行程道里記事に必須なのは、対海国、一大国、末羅国、伊都国の四カ国である。
 余白に、つまり、事のついでに、奴国、不弥国、そして、遠絶の投馬国を載せたと見る。「枯れ木も山の賑わい」である。
 「行程四カ国」は、「従郡至倭」の直線行程上の近隣諸国であるから、万事承知であるが、他は、詳細記事がないから圏外であり、必須ではないから、地図詮索して比定するのは不要である。(時間と手間のムダである)そう、当ブログ筆者は、「直線最短行程」説であるから、投馬国行程は、論じない。

 氏は、次の如く分類し、c群を「乱」の原因と断罪されるが、倭人伝」に根も葉もない(書かれていない)推測なので、意味不明である。氏の論議は、「倭人伝」から遊離した「憶測」が多いので、素人はついて行けないのである。
a群 対馬国・一支国・末盧国・伊都国・奴国・不弥国
b群 投馬国
c群 邪馬台国・斯馬国・己百支国・伊邪国・都支国・弥奴国・好古都国・不呼国・姐奴国・対蘇国・蘇奴国・呼邑国・華奴蘇奴国・鬼国・為吾国・鬼奴国・邪馬国・躬臣国・巴利国・支惟国・烏奴国・奴国

 「邪馬台国」を、「従郡至倭」行程のa群最終と見なさず、異界c群の先頭とされたのは不可解と言うより異様である。いろいろな行きがかりから、行程記事の読み方を「誤った」ためと思われる。
 以下、氏は、滔々と後漢状勢と半島情勢を関連させて、さらに滔々と劇的な「古代浪漫」を説くが、どう見ても、時代感覚と地理感覚が錯綜していると見える。そのような「法螺話」は、陳寿に代表される真っ当な史官があてにしないはずである。いや、全ては、氏の憶測と見えるから、氏の脳内心象では、辻褄が合っているのだろうが、第三者は、氏の心象を見ていないから、客観的に確認できる「文章」からは、単なる混沌しか見えない。

*混沌から飛び出す「会盟」の不思議
 氏は、乱後の混沌をかき混ぜ、結果として、纏向中心の「首長会同」が創成されたと主張されるが、なぜ、経済活動中心の筑紫から、忽然と遠東の纏向中心の政治的活動に走ったのか、何も語っていらっしゃらない。

 本冊子で、他に掲載された遺跡/遺物に関する考古学論考が、現物の観察に手堅く立脚しているのと好対照の「空論」と見える。当論考も、「思いつき」でないことを証するには、これら、これら寄稿者の正々たる論考と同等の検証が必要ではないかと思われる。検証された論考に「空論」と言う「野次馬」がいたら、公開処刑しても許されると思うのである。

 ここでは、基礎に不安定な構想を抱えて拡張するのは、理論体系として大きな弱点であり、若木の傷は木と共に成長するという寓話に従っているようであると言い置くことにする。

                                未完

新・私の本棚 前田 晴人 「纒向学研究」 第7号『「大市」の首長会盟と…』2/4 補充

『「大市」の首長会盟と女王卑弥呼の「共立」』 「纒向学研究」 第7号 2019年3月刊
私の見立て ★★☆☆☆  墜ちた達人    2022/01/15 2022/05/30 2023/07/08, 12/21

*不可解な東偏向~ただし「中部、関東、東北不在」
 最終的に造成した全体像も、『三世紀時点に、「倭」が九州北部に集中していたという有力な仮説を変形した』咎(とが)が祟っている。いや、そもそも、それを認めたら氏の望む全体像ができないが、それは、「倭人伝」のせいでなく氏の構想限界(偏見)である。

 「魏志倭人伝」は、西晋代に、中国史官陳寿が、中国読者/皇帝のために、新参の東夷「倭人」を紹介する「伝」として書かれたのであり、中国読者の理解を越えた文書史料では無いのである。

*不朽の無理筋
 氏の構想の暗黙の前提として、「諸国」は、書面による意思疎通が可能であり、つまり、暦制、言語、法制などが共通であり、当然、街道網が完備して、「盟主が、書面で月日を指定して召集すれば、各国首長が纏向朝廷に参集する」国家制度の確立が鉄の規律と見える。
 しかし、それは「倭人伝」にない「創作」事項であり、言わば、氏の自家製(手前味噌)「倭人伝」であるが、氏は、そのような創作に耽る前提として、どのように史料批判を実行された上で、広域古代国家の結構を構築され受け入れたのであろうか。

 氏は、各国元首が纏向の庭の朝会で鳩首協議と書かれているから、これは「朝廷」と見なされるのであるが、そのような美麗な「朝廷」図式が、どのようにして実現されたとお考えなのだろうか。
 氏が昂揚している「纏向所見」は、本来、考古学所見であるから、本来、氏名も月日もない遺物の制約で、紀年や制作者の特定はできないものである。そこから、「倭人伝」を創作した過程が、素人目には、今一つ、客観的な批判に耐える立証過程を経ていないように見えるのである。

*承継される「鍋釜」持参伝説
 例によって、諸国産物の調理用土器類が、数量不特定ながら「たくさん」出土していることから、「纏向所見」は、出土物は数量不特定ながら、 「大勢」で各地から遠路持参し、滞在中の煮炊きに供したと断定しているように見えるが、それは同時代文書記録によって支持されていない以上、関係者の私見と一笑に付されても抵抗しがたいように見える。あるいは、出土物に、各地食物残渣があって、個別の原産地の実用が実証されているのだろうか。あるいは、土器に文字の書き込みがあったのだろうか。当ブログ筆者は、門外漢であるから、聞き及んでいないだけかもしれないので、おずおずと、素朴な疑問を提起するだけである。

 私見比べするなら、各国と交易の鎖がつながっていて、随時、纏向の都市(といち)に、各国の土鍋が並んだと言う事ではないのだろうか。「たくさん」が、ひょっとして、数量が「たくさん」と言うのが、千、万でも、何十年どころか、一世紀掛けて届いたとみて良いのである。良い商品には、脚がある。呼集しなくても、「王都」が盛況であれば、いずれ各地から届くのである。

*「軍功十倍」の伝統~余談
 各地で遺跡発掘にあたり、出土した遺物の評価は、発掘者、ひいては、所属組織の功績になることから、古来の軍功談義の類いと同様、常套の誇張、粉飾が絶えないと推定される。これは、纏向関係者が、テレビの古代史論議で「軍功十倍誇張」などと称しているから、氏の周辺の考古学者には常識と思い、ことさら提起しているのである。
 三国志 魏志「国淵伝」が出典で、所謂「法螺話」として皇帝が軍人を訓戒している挿話であり、まじめな論者が言うことではないのだが、「有力研究機関」教授の口から飛び出すと、「三国志の最高権威」渡邉義浩氏が、好んでテレビ番組から史書の本文に「ヤジ」、つまり、史料に根拠の無い不規則発言を飛ばすのと絡まって、結構、世間には、この手の話を真に受ける人がいて困るのである。「良い子」が真似するので、冗談は、顔だけ、いや、冗句の部分に限って欲しいものである。

*超絶技巧の達成
 と言うことで、残余の史料の解釈も、「纏向所見」の世界観と「倭人伝」の世界観の宏大深遠な懸隔を埋める絶大な努力が結集されていると思うので、ここでは、立ち入らないのである。史料批判の中で、『解釈の恣意、誇張、歪曲などは、纏向「考古学」の台所仕事の常識』ということのようなので、ここでは差し出口を挟まないのである。
 要は、延々と展開されている論議は、一見、文字資料を根拠にしているようで、実際は、纏向世界観の正当化のために文字資料を「駆使」していると思うので、同意するに至らないのである。但し、纏向発「史論」は、当然、自組織の正当化という崇高な使命のために書かれているのだから、本稿を「曲筆」などとは言わないのである。
 因みに、庖丁の技は、素材を泥付き、ウロコ付きのまま食卓に供するものではないので、下拵えなどの捌きは当然であり、それをして、「不自然」、「あざとい」、「曲筆」、「偏向」などと言うべきでは無いと思うのである。何の話か、分かるだろうか。

*空前の会盟盟約
 氏は、延々と綴った視点の動揺を利用して、卑弥呼「共立」時に、纏向にて「会盟」が挙行されたと見ていて、私案と称しながら、以下の「盟約」を創作/想定されている。史学分野で見かける「法螺話」と混同されそうである。

本稿の諸論点を加味して盟約の復原私案を提示してみることにする。
 「第一の盟約」―王位には女子を据え、卑弥呼と命名する
 「第二の盟約」―女王には婚姻の禁忌を課す
 「第三の盟約」―女王は邪馬台国以外の国から選抜する
 「第四の盟約」―王都を邪馬台国の大市に置く
 「第五の盟約」―毎年定時及び女王交替時に会同を開催する

 五箇条盟約」は、「思いつき」というに値しない、単なる「架空の法螺話」なので「復原」は勘違いとみえる。なかったものは、復元しようが無い。
 要するに、陳寿を起点にすると、「二千年後の無教養な後生東夷」による個人的な創作とされても、物証が一切無い以上、反論しがたいのである。その証拠に、各項目は、非学術的で時代錯誤の普段着の「現代語」で書き飛ばされている。勿体ないことである。古代人が、このような言葉遣いをしていたと思っておられるのだろうか。

 考古学界の先人は、学術的な古代史論議に、当時の知識人が理解できない「後世異界語」は交えるべきでないとの至言を提起されているが、どうも、氏の理解を得られていないようである。

 真顔に戻ると、当時、官界有司が盟約を文書に残したとすれば、それは、同時代の漢文としか考えられないのである。その意味でも、ご高説は、「復原」には、全くなっていないのである。困ったものだ。

                                未完

新・私の本棚 前田 晴人 「纒向学研究」 第7号『「大市」の首長会盟と…』3/4 補充

『「大市」の首長会盟と女王卑弥呼の「共立」』 「纒向学研究」 第7号 2019年3月刊
私の見立て ★★☆☆☆  墜ちた達人    2022/01/15 2022/05/30 2023/07/08, 12/21

*時代錯誤の連鎖
 氏は、想像力を極めるように、女王となった卑彌呼が、新たな王制継承体系を定めたとおっしゃるが、周知のように「倭人伝」にそのような事項は、明記も示唆もされていない。つまり、ここに書かれているのは、史料文献のない、当然、考古学の遺物考証にも関係ない、個人的な随想に過ぎないのである。本誌は、「纏向学研究」と銘打たれているから、個人的なものでなく多くの支持を集めているのだろうが、「達人」として令名をはせるのは、本稿筆者のみである。
 だれも、素人目にも明らかな当然の批判を加えていないようだから、この場で、率直に苦言を呈するのである。他意はない。

「第一の盟約」―王位には女子を据え、卑弥呼と命名する
 「命名」は、当人の実の親にしか許されない。
   第三者が、勝手に実名を命名するのは、無法である。
   卑弥呼が実名でないというのは詭弁である。皇帝に上書するのに、実名を隠すことは許されない。大罪である。
   併せて言うと、陳寿がことさらに「女子」と書いた意味が理解されていない。

「第二の盟約」―女王には婚姻の禁忌を課す

 女王の婚姻禁忌は、無意味である。
   女王は、端から、つまり、生まれながら生涯不婚の訓育を受けていた「巫女」と推定される。
   当時の上流家庭は、早婚が当然であるからそうなる。王族子女となれば、ますます、早婚である。
   ほぼ例外無しに配偶者を持っていて、恐らく、婚家に移り住んでいるから、婚姻忌避など手遅れである。

「第三の盟約」―女王は邪馬台国以外の国から選抜する

 『「邪馬台国」以外から選抜』と決め付けるのは無意味である。
   要するに、諸国が候補者を上げ総選挙するのであろうか。奇想天外である。新規独創は、史学で無価値である。
   となると、「邪馬台国」はあったのか。大変疑問である。「倭人伝」原文を冷静に解釈すると、女王共立後に、
   その居処として「邪馬壹国」を定めたと見える。
   つまり、女王「卑彌呼」が住んだから「邪馬壹国」と命名されたとも見え、女王以前、いずれかの国王が統轄
   していた時代、殊更「大倭王」の居処として「邪馬臺国」を定めていたと解される笵曄「後漢書」倭条記事
   整合しなくても、不思議はない。どのみち、笵曄は、確たる史料のない臆測を書き残したように見える。
   いずれにしても、漢制では天子に臣従を申し出たとしても「伝統持続しない王は臣従が許されない」。
   王統が確立されていなければ、単なる賊子である。代替わりして、王権が承継されなかったら前王盟約は反古
   では、「乱」「絶」で欠格である。蕃王と言えども、権威の継承が必須だったのである。
   当然、共立の際の各国候補は、厄介な親族のいない、といっても、身分、身元の確かな、つまり、
   しかるべき出自の未成年に限られていたことになる。誰が、身元審査したのだろうか。

「第四の盟約」―王都を邪馬台国の大市に置く
「王都」は、「交通の要路に存在する物資集散地」であり、交通路から隔離した僻地に置くのは奇態である。
   因みに、東夷に「王都」はあり得ない。氏は、陳寿が、「倭人伝」冒頭に「国邑」と明記した主旨がわかって
   いないのではないか。史官は蛮夷に「王都」を認めないし、読者たるうるさ型が、そのような不法な概念を
   認めることもない。
   そもそも、「大市」なる造語が不意打ちで、不審である。
   氏の造語では無いのだろうが、古代史文書で、「市」(いち)は、多くの人々が集い寄って、「売買」する
   盛り場であり、國邑にある市は天下一の盛況であったろうが、氏が想定されているような「都市町村」なる
   聚落の大小階梯で、最大の「都」(もっとも大きなまち)に次ぐ「市」(おおきなまち)とは、異なる
   言葉/概念なのである。朝、多数の庶民が集い来たり、昼には、それぞれの居宅に引いてしまう「市」は、
   王の行政の中心とはなり得ないのである。
   率直なところ、氏は、当時信頼に足る史料は、「魏志倭人伝」だけであり、そこに提示された概念を理解
   した上で、自己流の、つまり、無教養な蛮夷の言葉/概念を形成しないと、客観的に、つまり、同時代の
   中原人に理解されないという謙虚な自覚を出発点とすべきでは無いだろうか。
   言うまでもないが、このような時代錯誤の世界観は、氏の独走では無く、「多数の」「史学者」が共通の
   理解としているのだろうが、だからといって、意味不明な用語の泥沼を形成しているという指摘は、
   免れ得ないと思うのである。(2024/01/10追記)

「第五の盟約」―毎年定時及び女王交替時に会同を開催する
毎年定時(?時計はあったのか)会同は無意味である。
   筑紫と奈良盆地の連携を言うなら、遠隔地諸国からの参上に半年かかろうというのに随行者を引き連れて連年
   参上は、国力消耗の悪政である。せめて、隔年「参勤交代」とするものではないか。
   女王交替時に会同を開催すると言うが、君主は「交替」できるものではない。天子は、更迭、退位できるもの
   でもない。
   女王の生死は予定できないので、「交替」時、各国は不意打ちで参上しなければならない。
   通常、即日践祚、後日葬礼である。揃って、大半の各国国主は、遅参であろう。
   あるいは、そのような、突然の交替を避けるために女王に定年を設けるとしたら、前女王は、どう「処分」
   するのか。
   王墓が壮大であれば、突然造成するわけにはいかないから、長期計画で「寿陵」とすることになる。
   回り持ちの女王、回り持ちの女王国であれば、墓陵造成はどうするのだろうか。
   以上、ざっと疑問を呈したように、分ご大層な「結構」であるが、文書化できない時代に、どのように法制
   化し、布告し、徹底したのだろうか。どこにも、なぞり上げるお手本/ひな形はない。

*不朽の自縄自縛~「共立」錯視
 総じて、氏の所見は、先人の「共立」誤解に、無批判に追従した自縄自縛と思われる。
 「共立」は、古来、二強の協力、精々三頭鼎立で成立していたのである。両手、両足指に余る諸国が集った総選挙」など、一笑に付すべきである。陳寿は、倭人を称揚しているので、前座の東夷蛮人と同列とは不熟者の勘違いである。
 先例としては、周の暴君厲王放逐後の「共和」による事態収拾の「事例」、成り行きを見るべきである。
 「史記」と「竹書紀年」などに描かれているのは、厲王継嗣の擁立に備えた二公による共同摂政(史記)、あるいは共伯摂政(竹書紀年)である。未開の関東諸公を召集してなどいない
 陳寿は、栄えある「共和」記事を念頭に、「共立」と称したのが自然な成り行きではないか。東夷伝用例を拾って棄却するより、有意義な事例を、捜索すべきではないか。

*会盟遺物の幻影
 「会盟」は、各国への文書術浸透が、「絶対の前提」であり、「盟約」は、締盟の証しとして金文に刻されて配布され、配布された原本は、各國王が刻銘してから埋設したと見るものである。となると、纏向に限らず各国で出土しそうなものであるが、「いずれ出るに決まっている」で済んでいるのだろうか。毎年会同なら、会同録も都度埋設されたはずで、何十と地下に眠っているとは大胆な提言である。

 歴年会同なら「キャンプ」などと、人によって解釈のバラつく、もともと曖昧なカタカナ語に逃げず、「幕舎」とでも言ってもらいたいものである。数十国、数百名の幕舎は、盛大な遺跡としていずれ発掘されるのだろうか。もちろん、諸国は、「幕舎」など設けず、「纏向屋敷」に国人を常駐させ、「朝廷」に皆勤し、合わせて、不時の参上に備えるものだろう各国王は、継嗣を人質として「纏向屋敷」に常駐させざるを得ないだろう。古来、会盟服従の証しとして常識である。

*金印捜索の後継候補
 かくの如く、「会盟」「会同」説を堂々と宣言したので、当分、省庁予算は確保したのだろうか。何しろ、「出るまで掘り続けろ」との遺訓(おしえ)である。いや、先哲(レジェンド、大御所)が健在な間は、「遺訓」と言えないが、お馴染みの「まだ纏向全域のごく一部しか発掘していない」との獅子吼が聞こえそうである。

*「会盟」考察
 氏に従うと、「会盟」主催者は、古典書を熟読して各国君主を訓育教導し、羊飼いが羊を草原から呼び集めるように「会盟」に参集させ、主従関係を確立していたことになる。つまり、各国君主も、古典書に精通し、主催者を「天子」と見たことになる。かくの如き、壮大な「文化国家」は、文書通信が存在しない時代に、持続可能だったのだろうか。

 繰り返して言うので、あごがくたびれるが、それだけ壮大な遠隔統治機構が、文書行政無しに実現、維持できたとは思えない。文書行政が行われていたら、年月とともに記録文書が各地に残ったはずであるが、出土しているのだろうか。
 記録文書が継承されたのなら、なぜ、記紀は、口伝に頼ったのだろうか。

 いや、本当に根気が尽きそうである。

                              未完

新・私の本棚 前田 晴人 「纒向学研究」 第7号『「大市」の首長会盟と…』4/4 補充

『「大市」の首長会盟と女王卑弥呼の「共立」』 「纒向学研究」 第7号 2019年3月刊
私の見立て ★★☆☆☆  墜ちた達人    2022/01/15 2022/05/30 2023/07/08, 12/21 2024/01/10

*「神功紀」再考~場外「余談」による曲解例示
 俗に、『「書紀」「神功紀」追記で遣魏使が示唆されるものの本文に書かれていない理由として、魏明帝への臣従を不名誉として割愛したとされる例がある』ように仄聞するが、そのような「言い訳」は、妥当なものかどうか疑問である。素人門外漢の目には、「書紀」本文の編纂、上覧を歴た後に、こっそり追記したと見るのが順当のように思われる。何しろ、「書紀」原文は現存せず、「書紀」原文を実見した者も現存しないので、おくそくにたよらざるをえないのである。また、現存する最古の写本が、どのような承継をされたのかも、一切不明なのである。仄聞するに、武家政権である各将軍/幕府統治者は、天皇家を正当な支配者として説き聞かされている「書紀」は、幕府転覆の教義を秘めた聖典となりかねないので、固く封印していたと見えるのであり、一種の「禁書」とされていたと見えるのである。

 景初使節は、新任郡太守の呼集によって、中原天子が公孫氏を討伐する(景初二年説)/した(景初三年説)という猛威を、自国に対する大いなる脅威と知って、急遽帯方郡に馳せ参じ、幸い連座を免れ、むしろ「国賓」(番客)として遇されたから、後日、「国内」には「変事に援軍を送る」同盟関係を確立したとでも、言い繕って報告すれば、別に屈辱でもなんでもないのである。

 ここに敢えて取り上げた「割愛」説は、神功紀の現状の不具合を認識しつつ実在しない原記事を想定する改訂談義の例であり、言わば、「神功紀」の新作を図ったので、当時の状況を見過ごしてこじつけているのである。当記事外の「余談」で、前田氏にはご迷惑だろうが、世間で見かける纏向手前味噌である。
 因みに、「書紀」には、「推古紀」の隋使裴世清来訪記事は、隋書記事と要点の記述が大いに異なる、しかも、用語の誤解を詰め込んだ「創作」記事を造作した前例(?)があるので、「書紀」に書かれているからそのままに信じるわけにはいかないのである。
 いや、これは、余談の二段重ねであり、当事者でない前田氏をご不快にしたとしたら、申し訳ない。

 繰り返すが、(中国)「史書」は、「史書」用語を弁えた「読者」、教養人を対象に書かれているから、「読者」に当然、自明の事項は書かれていない。「読者」の知識、教養を欠くものは、限られた/不十分な知識、教養で、「史書」を解してはならない。
 それには、当ブログで折々触れている「東夷の漢語学習の不出来に起因する用語の乖離」も含まれているから、東夷の用語頼りで「史書」を理解するのは、錯誤必至と覚悟しなければならないのである。

*閑話休題~会盟談義
 卑弥呼擁立の際に、広大な地域に宣して「会盟」召集を徹底した由来は、せいぜいかばい立てても「不確か」である。後漢後期、霊帝以後は、「絶」、不通状態であり、景初遣使が、言わば魏にとって倭人初見なので、まずは、それ以前に古典書を賜ったという記事はない。遣使のお土産としても、四書五経と史記、漢書全巻となると、それこそ、トラック荷台一杯の分量であるから、詔書に特筆されないわけはない。
 折角、国宝ものの贈呈書でも、未開の地で古典書籍の読解者を養成するとなると、然るべき教育者が必要である。「周知徹底」には、まず知らしめ、徹底、同意、服従を得る段取りが欠かせないのである。とても、女王共立の会盟には、間に合わない。

 後年、唐代には、倭に仏教が普及し、練達の漢文を書く留学僧が現れたが、遥か以前では、言葉の通じない蕃夷を留学生として送り込まれても何も教えられない。と言うことで、三世紀前半までに大規模な「文化」導入の記録は存在しない。樹森の如き国家制度を持ち込んでも、土壌がなければ、異郷で枯れ果てるだけである。

*未開の証し
 因みに、帝詔では、「親魏倭王」の印綬下賜と共に、百枚の銅鏡を下賜し、天朝の信任の証しとして、各地に伝授せよとあり、金文や有印文書で通達せよと言っているのではない。倭に文字がないことを知っていたからである。
 蛮夷の開化を証する手段としては、重訳でなく通詞による会話が前提であり、次いで、教養の証しとして四書五経の暗唱が上げられている。この試練、試錬に耐えれば、もはや蕃夷でなく、中国文化の一員となるのである。
 と言うことで、「倭人伝」は「倭に会盟の素地がなかった」と明記している。「遣使に遥か先立つ女王擁立の会盟」は、数世紀の時代錯誤と見られる。

 もちろん、以上の判断は、氏の論考には、地区の文物出土などの裏付けがあったとは想定していないので、公知の所見を見過ごしたらご容赦頂きたい。

〇まとめ
 全体として、氏の「倭人伝」膨満解釈は、氏の職責上避けられない「拡大解釈」と承知しているが、根拠薄弱の一説を(常識を越えて)ごり押しするのは、「随分損してますよ」と言わざるを得ない。

 これまで、纏向説の念入りな背景説明は見かけなかったが、このように餡のつまった「画餅」も、依然として、口に運ぶことはできないのである。所詮、上手に餡入りの画を描いたというに過ぎない。

 諸兄姉の武運長久とご自愛を祈るのみである。 頓首。

                                以上

 追記:本記事公開後、前田 晴人氏が物故されていることを知ったが、記事全体に修正の必要はないと信じる。学問の世界で、率直な批判は、最上の賛辞と信じているからである。

2022年1月21日 (金)

新・私の本棚 小畑 三秋 『前方後円墳は卑弥呼の都「纒向」で誕生した』

小畑 三秋 『前方後円墳は卑弥呼の都「纒向」で誕生した
産経新聞 The Sankei News 「倭の国誕生」2022/1/20 07:00
私の見立て ★☆☆☆☆ 不勉強な提灯担ぎ 2022/01/20 2022/11/23

〇はじめに
 当記事は、「産経新聞」ニューズサイトの有料会員向け記事である。

*報道記事としての評価
 当記事は、一流全国紙文化面の署名記事としては、乱調で感心しない。
 先週の見出しは、『卑弥呼の都、纒向に突如出現』であるから、今回の『前方後円墳は卑弥呼の都「纒向」で誕生した』は、纏向に卑弥呼の「都」を造成し、続いて墳丘墓造成となるが、それで合っているのだろうか。
 卑弥呼の没年は、二百五十年前後、三世紀紀央となる。没後造成の「箸墓」墳丘墓に先立って、百㍍程度の先行二墳丘墓という設定のようである。

*ある日突然

 先週は、外部で発達した文化が、突然流入開花したという発表だったのだが、今週は、神がかりか、纏向地区で、100㍍近い規模の墳丘墓が突然開花したとしている。種まきも田植えもなし、いきなり穫り入れという主張である。
 未曾有の墳丘墓は、人海戦術だけではできない。新しい知識や技術を身につけ、大量の道具、今日で言うシャベル、ツルハシがなければ、大量の土砂を採取、輸送し、現場に積み上げられないし、荷車や騾馬が欲しいと言うだろう。生身の人間に駄馬や弩牛の役をさせては、潰してしまうのである。
 小規模な土饅頭なら、近所の住民が造成できるが、度外れた大規模では、河内方面から呼集することになる。それほど大事件があったという裏付け史料は残っているのだろうか。日本書紀には、公式史書でありながら、紀年の120年ずらしという史料改竄の大技が知られていて、信用があるのか、ないのか、素人目には、区別の付かない「二重像」が見えているように思う。記者は、そうして素朴な素人考えとは無関係なのだろうか。当記事のタイトルに示したように、後世には、記者の署名が残るのである。

*終わりの無い話
 中高生向けの説明になるが、「人材」などの資材は、陵墓諸元の規準となる半径の三乗に比例するので、在来の径10㍍の規模を、簡単に10倍して径100㍍にすると、所要量はすべて1000倍となる。労力で言うと、十人で十日の百人・日が、十万人・日となるが、例えば、千人分の宿舎と食料の百日間確保は、それ自体途方もない大事業である。
 いや、ここでは、十万人・日で済むと言っているのでは無い。径の十倍が、人・物では千倍になるということを「絵」(picture)にして見ただけである。
 人数だけ捉えても、それまで気軽に済んでいたのが、大勢の泊まり込みの「選手村」(飯場)を用意して、日々飯を食わさねばならない。留守宅も心配である。加えて、「人材」は消耗品であり酷使できない。農業生産の基幹なので、工事で農民を大量に拘束して、農業生産が低下すれば、現場への食糧供給もできない。基本的に、農閑期を利用するしかないが、纏向界隈は、飛鳥やその南ほどではないにしても、山向こうの河内と比較すると、寒冷地に属するのである。
 代替わりの度に、これ程の大動員、大事業を催すのでは、山中に閑居した纏向界隈では収まらない。

*得られない「調和」のある進歩
 普通、墳丘造営などの事業が、代替わりで、徐々に規模拡大するのなら、各組織も、徐々に収縮し、新参者を訓練して、規模を拡大し、適応できるが、短期間で爆発的な成長は、とても、適応して済む問題ではない
 貨幣がなくても大事業は「ただ」では済まない。千倍の食糧運びは千倍の労力が必要であるし、千倍増税に住民は耐えられない。結局、後代負担になる。
 かくも「超臨界」の大規模プロジェクトは、纏向地域だけでは対応できない。超広域の超大事業の同時代史料は残っているだろうか。
 この程度のことは、考古学者でなくても思いつくはずだが、記者は質問も発していない。もったいない話である。

*所長のぼやき~本当に大丈夫ですか
 纒向学研究センターの寺沢薫所長が「纒向以外に考えられない」と告白したように地位相応の見識と考察力がないなら、この任に堪える人を選ぶべきだろう。不覚の真情吐露で、産経新聞に晒し者になっていては、いたたまれないであろう。

                                以上

2022年1月14日 (金)

新・私の本棚 小畑 三秋 「卑弥呼の都、纒向に突如出現」

産経新聞 The Sankei News 「倭の国誕生」「卑弥呼の都、纒向に突如出現」     2022/1/13 07:00
私の見立て ★☆☆☆☆ 提灯担ぎ                          2022/01/13 2022/11/23

〇はじめに
 当記事は、「産経新聞」ニューズサイトの有料会員向け記事である。以下の引用は、許容範囲と見ている。

*報道記事としての評価
 当記事は、一流全国紙文化面の署名記事としては乱調で感心しない。
「邪馬台国(やまたいこく)に至る。女王の都するところなり」。中国の歴史書、魏志(ぎし)倭人伝は邪馬台国に卑弥呼(ひみこ)がいたとはっきり記す。

 大変な虚報である。中でも、魏志「倭人伝」は、中国史書であり中国語で書かれている。「事実と異なる」報道である。「はっきり」記しているとは、虚報の上塗りとの誹りを免れない。また、記者の自筆を纏向研発表と誤解させるようで感心しない。「フェイクニュース」は、ご勘弁いただきたい。

*纏向研の幻像創造
 寺沢薫所長の発言は、以下の通りと見える。
同遺跡は、卑弥呼の時代と重なる3世紀初めに突然出現した。「過疎地にいきなり大都市が建設されたイメージ」と寺沢さん。卑弥呼について魏志倭人伝は「各地の王が共立した」と記すことから、大和(奈良)をしのぐ一大勢力だった北部九州や吉備勢力が主導して擁立し、纒向に都を置いたとの説をとる。

*君子豹変
 過去の発表で、纏向は、盆地地形で外部世界から隔離され、従って、文物の流入が少なく、また、温和な集団と聞いたが、一方、随分早くから筑紫に至る広域を支配していたとの両面作戦をとっていたように思う。近来、考え直して、女王渡来幻像(イメージ)作戦に「突如」戦略転換したのだろうか。

 「突然」「突如」と言うが、これほどの大事業は、多数の関係者が、構想から建設の大量動員の年月を経て、女王入場まで、大勢が長期に携わって初めて実現できるのである。大変ゆるやかな大事業だったはずである。なぜ、ドッキリの「サブライズ」を催したのだろうか。

 以上は、最有力研究機関の研究者の「総意」で進めていることだろうから、素人がとやかく言うことではないが、「君子豹変」は正当化できるのだろうか。

*倭人伝解釈の変調
 因みに、倭人伝』には、「各地の王が共立した」と中国語で「はっきり」書かれているわけではない。各国王は、限られた一部だけだったはずである。「倭人伝」で、伊都国には、代々王がいたと書かれているが、他の「諸国」が王国であって、王位継承していたとは書いていない。
 念のため言うと、「倭人伝」記事で明記されていない「大倭」ならぬ「大和」の「一大勢力」を書いていないし、ました、「二大」か「三大」か「三十一大」かは知らないが、北部九州や吉備の勢力について、何も書いていないのである。
 総じて、「所長」は、何を見て喋っているのだろうか。是非、後学のために、秘蔵、門外不出と言わずに「秘伝書」を公開頂きたいものである。
 また、担当記者には、権力に迎合しない「報道の真髄」を示して頂きたいものである。

*「所長、大丈夫ですか」
 それにしても、根拠の乏しい強調は、大抵、理論の破綻を覆い隠す常套手段である。所長は、大丈夫だろうか。いや、「大丈夫」というのは、所長のフィジカル、体躯が、三国志の関羽将軍なみにドデカいとか、言っているのではない。単なる冗句である。「過疎地」、「大都市」などと、時代離れした、現代日本語の冗句を飛ばすから、悪乗りしたのである。
 纏向研は、「大家族」なので、武運長久とご自愛を祈るしかない。

                                以上

2022年1月 6日 (木)

新・私の本棚 小畑 三秋 「卑弥呼は北部九州や吉備主導で擁立した」 1/2

産経新聞 The Sankei News 「倭の国」「卑弥呼は北部九州や吉備主導で擁立した」 1/6 07:00
私の見立て ★☆☆☆☆ 安直な提灯担ぎ  (★★★★☆ 堅実な時代考証)        2022/01/06 2022/11/23

〇はじめに
 お断りしておくが、当記事は、「産経新聞」ニューズサイトの有料会員向け記事であり、当ブログ筆者は有料会員でないので、記事末尾は見えていない。但し、新聞記事の伝統に従い、当記事の要点は、冒頭に明示されている思うので、的外れな批判にはなっていないものと信じて、当記事を書き上げた。

*二段評価の説明
 当記事は、持ち込み記事の提灯持ちであり、一流全国紙文化面の署名記事として感心しない。タイトルが文法乱調で混乱しては勿体ない。
 持ち込み記事部分は、考古学の本分として、堅実な時代考証に賛辞を送る。

*適切な著作権処理
 今回の図版は、纏向研寺沢所長著作の持ち込みのようだ。個別の資料写真は、出典が明示されていて、公共研究機関の広報資料としては、まことに堅実である。また、趣旨不明の「卑弥呼」像と図版全体には署名がないが、当然、寺沢所長提供と見るが、明示されていないのは、産経新聞の疎漏である。

*画餅の不備
 一見して、纏向は、「現代の西日本地図」に示された各地勢力から見て「極東辺境」である。しかも、西方勢力から長延の行程の果てとして到達困難な山中の奈良盆地の「壺中天」である。その東端のどん詰まり」、「袋の鼠」の纏向勢力が、どうやって、これら交通至便な有力勢力を屈従させたのか、まことに不可解である。
 いや、この感想は、随分以前に「纏向」と訊いた瞬間に想定されたのだが、かくの如く図示されると、画餅の意義が見えないのである。

*あり得ない広域支配
 当時の交通事情、そして、当時は、騎馬文書使による文書通信が存在しなかったことから、纏向と諸勢力の報告連絡は、遅々たる徒歩交通の伝令の口頭連絡であり、従って、遺物が残っていないのかも知れないが、年々歳々の貢納物は、延々と徒歩搬送であり、極めつきは、互いに闘うと言っても、武装した兵士が、延々と徒歩行軍するときては、往復の行軍中の厖大な食糧の輸送・補給を含めて、消耗が激しく、遠隔地に渡海遠征など、はなっからできないのである。このあたり、肝心の足元が裸足のさまで、到底成り立たない夢想と見られても、仕方ないのである。

*一極集中の破局
 また、氏は、「各勢力貢納物が纏向に集中した」と言うようだが、九州からの貢納物は、ほぼ必然的に吉備勢力圏を通過するが、まさか、素通りできないのである。途中で割り前を取られたら、とても、纏向まで物資は届くまいと見るのである。
 ということで、纏向一極集中の無理を、九州、中国、四国の支持あっての纏向としたかったようであるが、どうも、無理のようである。

*密やかな四国「山のみち」提唱
 図は、四国山地の中央構造線沿いの「山の路」を、弥生時代の大分海港から鳴門に至る交易路としていると見える。我が孤説の支持と思うが、大変うれしいものの、何か根拠があるのだろうか。あれば、是非提示いただきたいものである。四国に古代国家を見る諸兄姉には、大変心強い支持となるのである。
 この経路は、瀬戸内海の交通を難く妨げていた関門海峡から鳴門海峡までの数多い海の難所が無関係となり、また、但馬勢力を飛ばすので、手ひどい収奪は避けられる。但し、この経路に潤沢な交通があれば、ものの理屈として、途上に地方勢力が形成され、結局、とても纏向まで物資は届くまいと見るのである。交易の鎖は、ひ弱いように見えても、その区間を強く支配しているので、手強いのである。

 心地良い絵が描けたら、どのようにして、日々運用し持続するか考えてみることである。それが、伝統的な考古学の本分と思う。

                                未完

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