纒向学研究センター

纒向学研究センター、そして、それを「推し」ている産経新聞報道が大半です

2025年10月31日 (金)

新・私の本棚 小畑 三秋 『前方後円墳は卑弥呼の都「纒向」で誕生した』 2025

小畑 三秋 『前方後円墳は卑弥呼の都「纒向」で誕生した
産経新聞 The Sankei News 「倭の国誕生」 2022/1/20 07:00
私の見立て ★☆☆☆☆ 星一つ 不勉強な提灯担ぎ 2022/01/20 2022/11/23 2025/10/31

*加筆再掲の弁

 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

〇はじめに
 当記事は、「産経新聞」ニューズサイトの有料会員向け記事である。

*報道記事としての評価
 当記事は、一流全国紙文化面の署名記事としては、乱調で感心しない。
 先週の見出しは、『卑弥呼の都、纒向に突如出現』であるから、今回の『前方後円墳は卑弥呼の都「纒向」で誕生した』は、纏向に卑弥呼の「都」を造成し、続いて墳丘墓造成となるが、それで、づしつまが合っているのだろうか。
 卑弥呼の没年は、二百五十年前後、三世紀紀央となる。没後造成の「箸墓」墳丘墓に先立って、百㍍程度の先行二墳丘墓という設定のようである。

*ある日突然

 先週は、外部で発達した文化が、突然流入開花したという発表だったのだが、今週は、神がかりか、纏向地区で、100㍍近い規模の墳丘墓が突然開花したとしている。種まきも田植えもなし、いきなり穫り入れという主張である。

 未曾有の墳丘墓は、人海戦術だけではできない。新しい知識や技術を身につけ、大量の道具、今日で言うシャベル、ツルハシがなければ、大量の土砂を採取、輸送し、現場に積み上げられないし、荷車や騾馬が欲しいと言うだろう。生身の人間に駄馬や弩牛の役をさせては、潰してしまうのである。

 小規模な土饅頭なら、近所の住民が造成できるが、度外れた大規模では、河内方面から呼集することになる。それほど大事件があったという裏付け史料は残っているのだろうか。日本書紀には、公式史書でありながら、紀年の120年ずらしという史料改竄の大技が知られていて、信用があるのか、ないのか、素人目には、区別の付かない「二重像」が見えているように思う。記者は、そうして素朴な素人考えとは無関係なのだろうか。当記事のタイトルに示したように、後世には、記者の署名が残るのである。

*終わりの無い話
 中高生向けの説明になるが、「人材」などの資材は、陵墓諸元の規準となる半径の三乗に比例するので、在来の径10㍍の規模を、簡単に10倍して径100㍍にすると、所要量はすべて1000倍となる。労力で言うと、十人で十日の百人・日が、十万人・日となるが、例えば、千人分の宿舎と食料の百日間確保は、それ自体途方もない大事業である。
 いや、ここでは、十万人・日で済むと言っているのでは無い。径の十倍が、人・物では千倍になるということを「絵」(picture)にして見ただけである。

 人数だけ捉えても、それまで気軽に済んでいたのが、大勢の泊まり込みの「選手村」(飯場)を用意して、日々飯を食わさねばならない。留守宅も心配である。加えて、「人材」は消耗品であり酷使できない。農業生産の基幹なので、工事で農民を大量に拘束して、農業生産が低下すれば、現場への食糧供給もできない。基本的に、農閑期を利用するしかないが、纏向界隈は、飛鳥やその南ほどではないにしても、山向こうの河内と比較すると、寒冷地に属するのである。
 代替わりの度に、これ程の大動員、大事業を催すのでは、山中に閑居した纏向界隈では収まらない。

*得られない「調和」のある進歩
 普通、墳丘造営などの事業が、代替わりで、徐々に規模拡大するのなら、各組織も、徐々に収縮し、新参者を訓練して、規模を拡大し、適応できるが、短期間で爆発的な成長は、とても、適応して済む問題ではない
 貨幣がなくても大事業は「ただ」では済まない。千倍の食糧運びは千倍の労力が必要であるし、千倍増税に住民は耐えられない。結局、後代負担になる。
 かくも「超臨界」の大規模プロジェクトは、纏向地域だけでは対応できない。超広域の超大事業の同時代史料は残っているだろうか。
 この程度のことは、考古学者でなくても思いつくはずだが、記者は質問も発していない。もったいない話である。

*所長のぼやき~本当に大丈夫ですか
 纒向学研究センターの寺沢薫所長が「纒向以外に考えられない」と告白したように地位相応の見識と考察力がないなら、この任に堪える人を選ぶべきだろう。不覚の真情吐露で、産経新聞に晒し者になっていては、いたたまれないであろう。

                                以上

新・私の本棚 小畑 三秋 「卑弥呼の都、纒向に突如出現」 2025

産経新聞 The Sankei News 「倭の国誕生」「卑弥呼の都、纒向に突如出現」     2022/1/13 07:00
私の見立て ★☆☆☆☆ 星一つ 提灯担ぎ            2022/01/13 2022/11/23 2025/10/31

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

〇はじめに
 当記事は、「産経新聞」ニューズサイトの有料会員向け記事である。以下の引用は、許容範囲と見ている。

*報道記事としての評価
 当記事は、一流全国紙文化面の署名記事としては乱調で感心しない。

「邪馬台国(やまたいこく)に至る。女王の都するところなり」。中国の歴史書、魏志(ぎし)倭人伝は邪馬台国に卑弥呼(ひみこ)がいたとはっきり記す。

 大変な虚報である。中でも、魏志「倭人伝」は、中国史書であり中国語で書かれている。「事実と異なる」報道である。「はっきり」記しているとは、虚報の上塗りとの誹りを免れない。また、記者の自筆を纏向研発表と誤解させるようで感心しない。「フェイクニュース」は、ご勘弁いただきたい。

*纏向研の幻像創造
 寺沢薫所長の発言は、以下の通りと見える。
同遺跡は、卑弥呼の時代と重なる3世紀初めに突然出現した。「過疎地にいきなり大都市が建設されたイメージ」と寺沢さん。卑弥呼について魏志倭人伝は「各地の王が共立した」と記すことから、大和(奈良)をしのぐ一大勢力だった北部九州や吉備勢力が主導して擁立し、纒向に都を置いたとの説をとる。

*君子豹変
 過去の発表で、纏向は、盆地地形で外部世界から隔離され、従って、文物の流入が少なく、また、温和な集団と聞いたが、一方、随分早くから筑紫に至る広域を支配していたとの両面作戦をとっていたように思う。近来、考え直して、女王渡来幻像(イメージ)作戦に「突如」戦略転換したのだろうか。

 「突然」「突如」と言うが、これほどの大事業は、多数の関係者が、構想から建設の大量動員の年月を経て、女王入場まで、大勢が長期に携わって初めて実現できるのである。大変ゆるやかな大事業だったはずである。なぜ、ドッキリの「サプライズ」を催したのだろうか。

 以上は、最有力研究機関の研究者の「総意」で進めていることだろうから、素人がとやかく言うことではないが、「君子豹変」は正当化できるのだろうか。

*倭人伝解釈の変調
 因みに、倭人伝』には、「各地の王が共立した」と中国語で「はっきり」書かれているわけではない。各国王は、限られた一部だけだったはずである。「倭人伝」で、伊都国には、代々王がいたと書かれているが、他の「諸国」が王国であって、王位継承していたとは書いていない。
 念のため言うと、「倭人伝」記事で明記されていない「大倭」ならぬ「大和」の「一大勢力」を書いていないし、ました、「二大」か「三大」か「三十一大」かは知らないが、北部九州や吉備の勢力について、何も書いていないのである。

 総じて、「所長」は、何を見て喋っていらっとしゃるのだろうか。是非、後学のために、秘蔵、門外不出と言わずに「秘伝書」を公開頂きたいものである。

 また、担当記者には、権力に迎合しない「報道の真髄」を示して頂きたいものである。

*「所長、大丈夫ですか」
 それにしても、根拠の乏しい強調は、大抵、理論の破綻を覆い隠す常套手段である。所長は、大丈夫だろうか。いや、「大丈夫」というのは、所長のフィジカル、体躯が、三国志の関羽将軍なみにドデカいとか、言っているのではない。単なる冗句である。
 「過疎地」、「大都市」などと、時代離れした、現代日本語の冗句を飛ばすから、悪乗りしたのである。
 纏向研は、「大家族」なので、武運長久とご自愛を祈るしかない。

                                以上

新・私の本棚 小畑 三秋 「卑弥呼は北部九州や吉備主導で擁立した」 1/2 2025

産経新聞 The Sankei News 「倭の国」「卑弥呼は北部九州や吉備主導で擁立した」 1/6 07:00
私の見立て ★☆☆☆☆ 星一つ 提灯担ぎ  (★★★★☆ 堅実な時代考証)    2022/01/06 2022/11/23 2025/10/31

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

〇はじめに
 お断りしておくが、当記事は、「産経新聞」ニューズサイトの有料会員向け記事であり、当ブログ筆者は有料会員でないので、記事末尾は見えていない。但し、新聞記事の伝統に従い、当記事の要点は、冒頭に明示されている思うので、的外れな批判にはなっていないものと信じて、当記事を書き上げた。

*二段評価の説明
 当記事は、持ち込み記事の提灯持ちであり、一流全国紙文化面の署名記事として感心しない。タイトルが文法乱調で混乱しては勿体ない。
 持ち込み記事部分は、考古学の本分として、堅実な時代考証に賛辞を送る。

*適切な著作権処理
 今回の図版は、纏向研寺沢所長著作の持ち込みのようだ。個別の資料写真は、出典が明示されていて、公共研究機関の広報資料としては、まことに堅実である。また、趣旨不明の「卑弥呼」像と図版全体には署名がない、当然、寺沢所長提供と見るが、明示されていないのは、産経新聞の疎漏である。

*画餅の不備
 一見して、纏向は、「現代の西日本地図」に示された各地勢力から見て「極東辺境」である。しかも、西方勢力から長延の行程の果てとして到達困難な山中の奈良盆地の「壺中天」である。その東端の「どん詰まり」、「袋の鼠」の纏向勢力が、どうやって、これら交通至便な有力勢力を屈従させたのか、まことに不可解である。
 いや、この感想は、随分以前に「纏向」と訊いた瞬間に想定されたのだが、かくの如く図示されると、画餅の意義が見えないのである。

*あり得ない広域支配
 当時の交通事情、そして、当時は、騎馬文書使による文書通信が存在しなかったことから、纏向と諸勢力の報告連絡は、遅々たる徒歩交通の伝令の口頭連絡であり、従って、遺物が残っていないのかも知れないが、年々歳々の貢納物は、延々と徒歩搬送であり、極めつきは、互いに闘うと言っても、武装した兵士が、延々と徒歩行軍するときては、往復の行軍中の厖大な食糧の輸送・補給を含めて、消耗が激しく、遠隔地に渡海遠征など、はなっからできないのである。このあたり、肝心の足元が裸足のさまで、到底成り立たない夢想と見られても、仕方ないのである。

*一極集中の破局
 また、氏は、「各勢力貢納物が纏向に集中した」と言うようだが、九州からの貢納物は、ほぼ必然的に吉備勢力圏を通過するが、まさか、素通りできないのである。途中で割り前を取られたら、とても、纏向まで物資は届くまいと見るのである。
 ということで、纏向一極集中の無理を、九州、中国、四国の支持あっての纏向としたかったようであるが、どうも、無理のようである。

*密やかな四国「山のみち」提唱
 図は、四国山地の中央構造線沿いの「山の路」を、弥生時代の大分海港から鳴門に至る交易路としていると見える。我が孤説の支持と思うが、大変うれしいものの、何か根拠があるのだろうか。あれば、是非提示いただきたいものである。四国に古代国家を見る諸兄姉には、大変心強い支持となるのである。
 この経路は、瀬戸内海の海上交通を難く妨げていた関門海峡から鳴門海峡までの数多い海の難所が無関係となり、また、但馬勢力を飛ばすので、手ひどい収奪は避けられる但し、この経路に潤沢な交通があれば、ものの理屈として、途上に地方勢力が形成され、結局、とても纏向の壺中天まで物資は届くまいと見るのである。交易の鎖は、ひ弱いように見えても、その区間を強く支配しているので、手強いのである。

 心地良い絵が描けたら、いきなり世に曝すのではなく、どのようにして、日々運用し持続するか考えてみることである。それが、伝統的な考古学の本分と思う。

                                未完

新・私の本棚 小畑 三秋 「卑弥呼は北部九州や吉備主導で擁立した」 2/2 2025

産経新聞 The Sankei News 「倭の国」「卑弥呼は北部九州や吉備主導で擁立した」 1/6 07:00
私の見立て ★☆☆☆☆ 星一つ 提灯担ぎ  (★★★★☆ 堅実な時代考証)    2022/01/06 2022/11/23 2025/10/31

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*「倭国大乱」の幕引き
 ちなみに、寺沢氏は、考古学の実直な側面を踏まえて2世紀後半~末に大規模な戦乱の痕跡はみられない」と冷静である。
 もともと、魏志「倭人伝」は、九州北部に限定された地域事情を伝えている』のであり、海を遙か遠くに渡った東方については述べていない」(「一切」とは言っていないのに、ご注意いただきたい)その点に早期に気づいていれば、纏向派が、この時代まで早呑み込みの「恥をかき続ける」ことはなかったのである。ここまでくれば、あと一息である。せめて、史料解釈の首尾を取り違えたため存在しない史実を虚報し続けてきた、広域大乱」の創造と継承は、この辺で幕引きいただきたいものである。

*東夷管理の見違い
 因みに、寺沢氏は、一時繁栄を極めていた九州北部勢力の退勢を、中国後漢の東方管理の衰退によると決め込んでいるが、これは、勘違いであろう。後漢洛陽での政争で東夷支配の箍(たが)が外れたが、もともと、東夷支配は皇帝直轄ではなく、遼東郡など地方守護の専権事項だったのである。たとえば、後漢末期の遼東公孫氏は、遼東半島から山東半島に勢力を派遣して、勢力拡大していたが、帯方郡に任せていた南方の濊、漢両勢力の統治はともかく、「荒地」のさらに南の「倭」は、後漢皇帝に報告していないから、「後漢の東方管理」で、「倭人」は、存在していなかったのである。(後漢皇帝に報告されていなかった「倭」が、なぜ、笵曄「後漢書」の東夷列伝に書かれているのか、不可思議そのものである)

*公孫氏「遼東」支配の興隆
 かくして、皇帝支配の箍が緩んだ遼東に興隆した公孫氏は、むしろ、自立に近い形で支配の手を広げたのである。端的に言うと、地域交易経路の要(かなめ)にあって、地域交易の利を一身に集めようとしたのである。

*「一都會」の幻覚~余談
 そのような境地は、漢書では、「一に都(すべて)を會す」として、一種「成句」となっていたが、紙面に「一都會」の三字が連なっていても、「都會」なる言葉が誕生していたわけではない。時代錯誤には注意いただきたい。
 陳寿は、班固「漢書」で「一都會」を目にしていたが、「倭人伝は新語をもてあそぶ場ではない」ので、却下したものと見える。 それは、黄海を越えた山東半島領有とか、半島中部に帯方郡を新設して、南の韓を強力に支配し、半島東南端「狗邪韓国」海港に至る官道の半島中部「竹嶺」の峠越えの険路を整備させ、難所を隘路にとどめて、片手業で海を渡った倭の取り込みをも図っていたのである。
 ここで、「峠」は、中国語にない「国字」であり時代錯誤であるが、適当な言い換えがなく「峠」の字義に誤解はないと思うのでこのように書いた。

*公孫氏勢力の再確認
 後漢末期、九州勢力には強い支持があったと見るべきである。但し、公孫氏は、「倭人」の洛陽伺候を許さないどころか、その存在を報告もせず、小天子の権勢を振るったのである。
 何しろ、「公孫」氏は、その名の通り周王族の高貴な出自を誇っていたのであり、宦官養子上がりの「曹」など身分違いと見ていたのである。
 ということで、寺沢氏は、ご自身の従属する陣営の物語の筋書きに合うように、一路邁進の後漢衰退を読み込んでいるが、それは、素人の聞きかじりによる浅慮であり、端的に言うと、単なる勘違いである。つまり、冒頭の「九州勢力退勢」風説は、根拠に欠けるお仕着せに過ぎない。

〇まとめ
 産経新聞の担当記者としては、貴重なニュースソースから持ち込まれた玉稿を「提灯持ち」するしかないのだろうが、それでも、素人目にも明らかな言い逃れは、じんわり指摘すべきだと思うのである。報道機関としての矜持は、失って欲しくないものである。

 ちなみに、当ブログ記事は、文献考証の本道を行くと見せて、結構『古代浪漫』にのめり込んでいるのだが、無官無職で、一切収益を得ていないので、少々の法螺はご容赦頂きたいのである。

                                以上

新・私の本棚 小畑 三秋 『箸墓近くに「卑弥呼の宮殿」邪馬台国は纒向か』 1/2 2025

産経新聞電子版 「THE古墳」(隔週掲載コラム)   
私の見立て ☆☆☆☆☆ 星無し 虚報満載の提灯持ち記事 2021/10/27 2022/11/23 2025/10/31

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

▢お断り
 以下は、産経新聞電子版近刊署名記事に対する批判である。
 まずは、批判対象を明確にするための適法の引用で、以下、逐条めいた批判、つまり、個人の所見であり、読者諸兄姉の意見は諸兄姉の自由で、当ブログが参照先と明記の上、諸兄姉の記事に引用、論評されても、それは諸兄姉の権利範囲であるが、当記事は、当記事筆者が著作権を有しない産経新聞記事を含んでいるので、適法な処理をしていただくことをお願いする。
 合わせて、産経新聞記事閲読もお願いしたい。(全文ないしは相当部分の引用は、著作権侵害)

*産経新聞電子版記事の部分引用
箸墓近くに「卑弥呼の宮殿」邪馬台国は纒向か 2021/10/27 08:00小畑 三秋」
【邪馬台国(やまたいこく)の時代にあたる3世紀後半に築造された箸墓古墳(奈良県桜井市、墳丘長約280メートル)。当時としては最大規模の前方後円墳で、この被葬者が倭国(日本列島)を統治した「大王」とされる。この大王の都が、すぐ北側に広がる纒向(まきむく)遺跡(同市)で、邪馬台国の有力候補地。平成21年に見つかった大型建物跡は「卑弥呼の宮殿か」と話題を集め、畿内説が勢いづいた。昭和46年に始まった同遺跡の発掘は今年でちょうど50年。長年の調査の蓄積が、古代史最大の謎解明へカギを握る。


*批判本文~「提灯担ぎ」宣言
 冒頭で要約予告する手法は新聞報道の王道であるが、実質は纏向説プロパガンダ(販売促進活動)であり、全国紙の批判精神はどこにあるのか。「提灯担ぎ」であり、ほぼ、文ごとに異議噴出であり、これでは、以下の記事は、「眉唾」ものである。

 「邪馬台国」の当否は別儀として、『魏志倭人伝という確たる史料に明記された「邪馬台国」の時代は三世紀後半である』と文献解釈を特定の仮説に固定した上で、そこに、『「箸墓古墳」なる墳丘墓の建造』という、考古学視点では年代不詳とせざるを得ない大事業をくくりつけているのは、有り体に言えば個人的な「思いつき」、丁寧に言うと、(種々の仮説の結構の上に成された)作業仮説に過ぎない。

 論証がされないままに、全国紙が無批判に追従してこのような記事を書くのは、全国紙の見識を疑わせるものである。「提灯担ぎ」という由縁である。

*無造作な用語すり替え
 簡単に「当時」というが、先の時代比定が仮説で、比較対象がどの「墳丘墓」か不明では、「時代で最大」と言われても、異議の唱えようすらない。あきれかえって、声も出ない感じである。

 被葬者が、「倭国(日本列島)」を統治したというのは、一般読者の誤解を誘う(いかがわしい)ものである。全国紙の取るべき態度ではない。
 「当時」、つまり、「箸墓古墳」の建造時が不確定であるから、「当時」の「倭国」は、どのようなものか、霧の中で雲を掴んでいるようなものであり、それを、一般読者に馴染まない、誤解を誘うこと請け合いの古代史用語である「日本列島」とくくりつけるのは無法である。一般読者は、これは、北海道から九州の四大島嶼と受け止めるはずであるが、実際は、せいぜいが、「近畿」以西の西日本に過ぎないのである。四国が含まれているかどうかすら、不確かである。

 三世紀の「倭」国は、「倭人伝」にしか書かれていないから、順当に解釈すれば、北部九州にしか当てはまらないのだが、これには、纏向視点の異論があるので、当記事では不確定でしょうというしかない。
 とにかく、何と断言されても、対象地域が不明では、関心も反発もしようがない。

 素人騙しというか、専門家が入念に解説しているが、専門用語、つまり、同業者にしか通じない符牒を、十分説明しないまま、現代日常語とまぜこぜにして書き付けて、読者が(勝手に)誤解するのを想定するのは、詐話的手口であり、全国紙の権威を裏切るものであって、まことに感心しない。ただし、筆者は、産経新聞の購読者でないので「金返せ」とは言えない。

                               未完

新・私の本棚 小畑 三秋 『箸墓近くに「卑弥呼の宮殿」邪馬台国は纒向か』 2/2 2025

 産経新聞電子版 「THE古墳」(隔週掲載コラム)   
私の見立て ☆☆☆☆☆ 星無し 虚報満載の提灯持ち記事 2021/10/27 2022/11/23 2025/10/31

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*創作史観の悪乗り
 「纏向に君臨した統治者が、日本列島を統御していた」というのは、素人考えの時代錯誤の思い付きであり、産経新聞独自の新説発掘/創作と見える。

 遠慮なく言うと、「ファクトチェック」無しの「フェイクニュース」とされても仕方ない記事である。倭人伝」に「大王」はなく勝手な造語と見られる。

 かなり専門的になるが、『「大王」の「都」』も勝手な造語である。当時、中国の厳格な規則で、文化に属しない蛮夷に「都」を許してないと見られるからである。いや、後に自称したかも知れないが、三世紀後半概念では不用意と言える。要は、日本語の「都」は、中国制度の「都」と食い違っているのである。時代の異なる言葉をまぜこぜにして読者を煙に巻くのは悪質である。
 ついでながら、「宮殿」も、中国語に該当しない造語であり、「親魏倭王」の栄に浴していた卑弥呼には、ありえない濡れ衣である。

 もちろん、担当記者の自作自演とは思えないが誰の知恵かは知らないが、聞きかじりの話を、無批判に物々しく取り上げるのは、報道陣として、およそ、最低の罰当たりのように見える。記者の評判を地に落としているようで、もったいない話である。

*斜陽の焦り
 直後に、産経新聞としての報道が続く。『この大王の都が、すぐ北側に広がる纒向(まきむく)遺跡(同市)で、邪馬台国の有力候補地。平成21年に見つかった大型建物跡は「卑弥呼の宮殿か」と話題を集め、畿内説が勢いづいた。昭和46年に始まった同遺跡の発掘は今年でちょうど50年。長年の調査の蓄積が、古代史最大の謎解明へカギを握る。」 無為に終始している「宝探し」に対する全国紙の(無言の)批判だろうか。素人には、何も見えていない。

 同記事末の総括とは裏腹に、狭い地域に投入された多大な費用と労力を支えてきた集中力に敬服するものの、そのためにかくの如く非学術的なプロパガンダを必要とする「王者」の悲哀を感じる。発掘指揮者の「成果が出るまでは、全域を掘り尽くす」意気に、全国紙が無批判に唱和するのは感心しない。

 学術分野でも、国家事業は成果主義を避けられないが、そのために、虚構と見える(未だに実証されていない)「古代国家」像を担いでいるのは、傷ましいのである。

 近来、大相撲の世界で長く頂点を占めた不世出の大横綱が、頽勢に逆らって勝つために品格放棄の悪足掻きした例があるが、素人は、至高の地位に相応しい成果が示せないなら、潔く譲位するべきものと思う。「日本列島」には、意義深いが資金の乏しい発掘活動が多い。資金と人材を蟻地獄の如く吸い寄せる「纏向一点集中」に、いさぎよく幕を引くべきではないだろうか。
 横綱には、厳格なご意見番があるが、発掘事業には、止め役がいないのだろうか。

 要するに、公的な資金で運営される公的研究機関は、研究成果を、すべて国民に還元する義務を負っている」大学は、私学といえども、「義務」を負っている。
 各機関の役職員の給金は、銀行口座への振り込みだろうが、それは国民の税金であり、銀行や機関首長が払っているのではない。
 関係諸兄は、誰が真の顧客であるか、よくよく噛みしめるべきではないか。

*東京と比すべき大都会
 段落批評の後、『東京のような大都市だった」には唖然とした。担当記者が東京を知らないわけはないから、地方在住の読者を見くびってはないだろうか。この比喩は、奇妙奇天烈で当て外れである。纏向遺跡に推定される人口、面積などのどこが『東京のような』だろうか。どうか、窓を開けて、窓の外に広がる現実世界に目覚めて欲しいのである。産経新聞に編集部や校閲部はないのだろうか。

*まとめ
 当記事が担いでいるのは、当該組織の生存をかけた渾身の「古代浪漫」著作物だろう。古代史に個人的浪漫の晩節を求めて、見果てぬ一攫千金を追う姿を、率直かつ適確に批判して覚醒を促すのが、全国紙の報道の本分ではないだろうか。

 それとも、産経新聞は、俗耳に受ければそれで良しとする「報道商売」なる浪漫を追いかけているのだろうか。

                                以上

2025年10月16日 (木)

新・私の本棚 渡邉 義浩 『三國志』東夷傳の思想構造

『纒向学の最前線』 纒向学研究第10号 第三部 2022年7月刊行
私の見立て ★★★★★ 星五つ 至高の里程標      2025/10/16

◯始めに
 本稿は、三國志に関する最高の権威者である渡邊義浩氏が、その夷蕃伝として出色である東夷伝に関して、燦然たる定見を示された学術論文である。

IV. 東夷の思想 (要部引用)
(中略)『三國志』は、巻三十 烏丸・鮮卑・東夷傳が、唯一の夷狄傳である。そのうち烏丸・鮮卑が北狄に当たるため、四夷のうち南蠻・西戎を欠く。南には孫呉と蜀漢があるため、南蠻傳を欠くことはやむを得ない。陳壽が西戎傳を立てなかった理由は、大月氏國の波調王を諸葛亮の西域進出に対抗する者として、「親魏大月氏王」に封建した功績が、司馬氏の政敵である曹眞―曹爽と結びつくことにある 26)。

これに対して、東夷は…司馬懿により、中華に服属することになった。東夷の記述は、西晉の始祖の功績を宣揚することと結びつくのである。

而るに公孫淵は父祖三世を仍ねて遼東に有り、天子其れを絶域と為し、委ぬるに海外の事を以てし、遂に東夷と隔斷して、諸夏に通ずるを得ず。景初中、大いに師旅を興こし、淵を誅し、又 軍を潛めて海に浮かばせ、樂浪・帶方の郡を収む。而る後に海表謐然として、東夷 屈服す。 27)

(中略)景初二(238)年正月、明帝の命を受けた司馬懿は、都の襄平城を陥して公孫淵を滅ぼした。この間、明帝は…海路より二郡を攻略、…曹魏の直接的な支配下に置いた。…司馬懿の功績により、「東夷」は「屈服」した…

…晉の始祖である司馬懿は、東夷をその德により懐けた。ただし、武力による征服では、その「德」は表現されない。また、なるべく遠方から来貢することにより、司馬懿の德は輝く。このため、戦争とは無関係に帯方郡に来ていた卑彌呼の使者が、洛陽まで送られたのである。東夷傳の中心が、倭國となった理由はここにもある。(以下略)

【註記】
26)渡邉義浩「『三国志』東夷伝 倭人の条に現れた世界観と国際関係」…
27)(中略)景初中、大興師旅、誅淵、又潛軍浮海、收樂浪・帶方之郡、而後海表謐然、東夷屈服(『三國志』巻三十 東夷傳)。

*参考文献 筑摩書房 三國志 Ⅱ 『三國志』巻三十
烏丸鮮卑東夷伝 第30 東夷傳 小南一郎訳
景初年間(二三七―二三九)、大規模な遠征の軍を動かし、公孫淵を誅殺すると、さらに、ひそかに兵を船で運んで海を渡し、楽浪と帯方の郡を攻め取った。これ以後、…東夷の民たちは中国…の命令に従うようになった。

 率直な所、小南氏の訳文は「三國志」全譯の要部であって、特に、初学者にとって、何を置いても規範とすべき「定訳」である。
 私見では、補筆部分の用語に若干難が感じられるが、細瑾の類いである。一方、渡邉氏の訳文は、原文の文脈、さらには、時代背景を反映し、簡にして要を得ていて、賛嘆を惜しまないものである。

◯救国の妙薬
 ここで「又」を「さらに」と正しく翻訳すると、古典書初学者の誤解を招くので、「この間」と、ひと息入れて正解に導いているのである。

 あわせて、二年六月の卑弥呼使節帯方参上については、郡の通達を受けてのものでなく、偶々帯方郡に滞在していたとの意見であり、畿内説に付き纏っていた「二年六月参上は絶対不可能、三年六月すら困難」との重大な難点を解消する妙薬である。要するに、ひそかに、無用の原文改竄を遠ざけている諫言なのだが、寡聞にして支持の声を聞かない。勿体ないことである。

 これもまた、一幕の定見「黙殺」劇なのかと、嘆息するのである。

                                以上

2025年9月18日 (木)

新・私の本棚 瀧音 能之 『なぜ銅鐸は「三種の神器」に…』 1/3

なぜ銅鐸は「三種の神器」に加えられなかったのか…【邪馬台国=畿内】説から見えてくる"皮肉な事情" 東洋経済ネット 2025/09/15
私の見立て ★★☆☆☆ 纏向説の繕えぬ綻び  2025/09/18

◯はじめに
 書評ならぬ東洋経済ネット記事批判であるが、以下紹介のように、瀧音名誉教授(以下敬称略)の(宝島社新書)近刊書の抜粋が、著者了解済として批判する。

*ネット記事
 邪馬台国はいったいどこにあったのか――。…この疑問に対して「畿内説」を取る…瀧音能之氏ですが、一方で卑弥呼政権は畿内勢力によって誕生したわけではないとも指摘します。ではなぜ卑弥呼政権は、…未開…の…畿内で誕生したのでしょうか。…皮肉な背景について、…『発掘された日本神話 最新考古学が解き明かす古事記と日本書紀』から…抜粋・…考察します。

◯本体記事引用とコメント
 氏は、日本史学博士として「日本」ならぬ「倭」に関する中国史書「魏志倭人伝」は、基本的に門外漢とお見受けする。本稿用語が「魏志倭人伝」の厳格な用語から逸脱し正しい史料考察ができていないとお見受けする。

 先ずは、意味不明の「卑弥呼政権」の呈示と展開が、つぎはぎ細工で「世界観」が揺らいでいるように見える。氏の論考に、生きた流れが感じ取れないのも不満である。
 例えば、「畿内勢力」と打ち上げながら、未開の地に壮大な「遺跡」を想像したのは、地域混在の諸「遺跡」の共立ではないという。奇蹟と見える。

 卑弥呼政権の王都があった邪馬台国がどこにあったか、現在でも畿内説と九州説を主として論争が続いているが、ここでは畿内説を取ることにする。
 3世紀初頭に突如として出現した纏向…遺跡は、面積約300万平方メートルに及ぶ巨大集落であり、遺跡全体に水路が巡らされた計画都市だった。さらに発見された建造物は南北約19.2メートル、東西約12.4メートルに及び、付随する建築物の軸線をそろえた最先端かつ最大級の建築物群である。

*コメント
 勝手な造語と作り話が炸裂している。「畿内説」は、根拠の無い夢想/否定はできない可能性でしか無いのに【邪馬台国=畿内】と等号で結んでいる。「邪馬台国」ならぬ「邪馬臺国」は、後漢朝に従属し「畿内」と中国京師めいた用語は、不適切である。
 「邪馬台国」は後漢書「倭条」頼みとして、そこは、精々「卑弥呼」居室であり諸国を包含する「国家」などではない。現代語の超絶技巧は信頼できない。

 「卑弥呼政権の王都があった邪馬台国」の三連奏が派手に音を外している。
 「卑弥呼政権」は「卑弥呼力を行使した」との前提であるが、居室に籠もって朝議しないものは権力者ではない。後漢書「倭条」は、「邪馬臺国」を大倭王居処と言うが、後漢代のことであり、卑弥呼ではないと見え、また、卑弥呼が「邪馬臺国」に居たとは見えない。

 「王都」等は先人の勘違いである。蕃王に王都はない。居処、「治」である。

 初歩的な勘違いはさておき、当該「遺跡」が蕃王王城という根拠は、検証済なのだろうか。卑弥呼には、千人の奴婢(公務員)が仕えたと言うが、女王居室や官人宿舎は出土したのだろうか。建物の建材に墨書きは残っているのだろうか。大工の落書きは見つかったのだろうか。
 大金を投じて描いたと見えるCGポンチ絵は、工法、建材、縄組、屋根葺きについて、何も語らない。

 以下、氏の渾身の使命として「畿内説」を説かれているのだろうが、それは、昔年疲弊で随分ガタピシの「結構」であろう。遥か後年、日光東照宮の「結構」は、年月と労力資材を投入して現形とした。「天下り」とか「地から湧く」とされていない。
 それが、「3世紀初頭に突如として出現した纏向(まきむく)遺跡」と神がかりであるが、いくら神がかりでも、いきなり「遺跡」が出現するはずはない。

未完

新・私の本棚 瀧音 能之 『なぜ銅鐸は「三種の神器」に…』 2/3

なぜ銅鐸は「三種の神器」に加えられなかったのか…【邪馬台国=畿内】説から見えてくる"皮肉な事情" 東洋経済ネット 2025/09/15
私の見立て ★★☆☆☆ 纏向説の繕えぬ綻び  2025/09/18

*面積談議の不毛
 広大な「まだ名の無い」「巨大集落」が三世紀初頭に、一夜にして、と言いたくなるほど唐突に出現したとは、一段と大変な神がかりである。誰が、縄張りしたのか。集落に何人が居住していたのだろうか。「邪馬臺国」七万戸仮説を頼りにしているのだろうか。

 しかも、「計画都市」とは、またまたまた神がかりである。「都市」は、初献魏使の副官の官名であるが、格別の功績とも見えない一官人が、「冠」の栄に浴するとは奇特である。「都市」が主語で「計画」が動詞だろうか。
 時代に存在しない用語を発明されては、納税者として大変迷惑である。

 「遺跡全体に水路」というが、周辺水路は建設工事、行人の往来、資材運搬などに対して、「邪魔」と見える。「邪馬」(やま)と読めば大丈夫なのか。
 「建造物」と言うが、その形跡は見えない。「建築物」が付随したというのも、奇態である。「建築」といわずに「建築物」というのも、滅多に見ない。

 素人が見た限りでは、出土したのは「柱穴」であって、関係者がそのような柱穴を基礎とした建物を上手に描いたかと思われる。古来「画餅」と言うが、近来は、近代的な構造物を描いて見せるのだろうか。遺跡に不可欠と見える、建物自体の遺物は出土したのだろうか。
 極端な話、基礎工事だけで、構想が放棄された可能性も否定できない。当時の有り様を記録に留めた史料は存在しているのだろうか。土木工事と言い水路建設と言い、計画書、設計図書無しとは思えないのである。勿論素手や、石斧ではできないのである。牛馬がいない自大、大勢の人手に頼るのも必然である。

 東西南北20㍍程度とされる『建造物に「付随する建築物の軸線をそろえた最先端かつ最大級の建築物群」』が、300万平方メートルとは、方形と見て東西南北2000㍍近い領域に配置されていたと仰りたいようである。空前絶後の大事業という事なのか。
 色々、豊富な発掘実績を踏まえた考古学考察であり、実データには異議を申し立てないが、列島各地の建物の考証がないのに、「最先端」、「最大級」は非科学的と思われる。最大級と言う以上、三世紀初頭、少なくとも、列島内、できれば、三韓の建物の諸元一覧表で実証いただきたいものである。
 それにしても、纏向発掘事業すら遺跡全体の20㌫に及ばないから、他地域発掘は僅少と愚考する。科学と言うには、事実の記録が必要である。

 これほどの規模の王都…は、日本列島で卑弥呼政権以外にあり得ない…
 「卑弥呼政権以外にあり得ない」と声高に断定されるが、それは、あくまで「畿内説」の「自大」世界観の想像力不足故と見える。くり返しになるが、卑弥呼が「親魏倭王」として従属していた中國の世界観ではありえない用語である。

 畿内説のウィークポイントは、北部九州の先進性に対して、畿内の後進性が挙げられる。畿内勢力は銅鐸文化圏を形成した一大勢力ではあるが、北部九州や吉備、出雲などに対して、強力な首長は誕生せず、鉄器や銅鏡などの出土数が少ない。

*コメント
 「ウィークポイント」は、誰でもわかる言葉では「欠点」、「弱点」である。「先進性」、「後進性」と能天気に仰るが、現代風に「北部九州」は、繁栄「勝ち組」、「畿内」は、素寒貧「負け組」で、就中「纏向」は極東山砦の井蛙ではないのだろうか。纏向蛙がいかに自覚しても「後進性」は克服しようがない。

 各地首長は、誰が全首長を身体検査して、どんな体格をもって「強力」としたのだろうか。

                                未完

新・私の本棚 瀧音 能之 『なぜ銅鐸は「三種の神器」に…』 3/3

なぜ銅鐸は「三種の神器」に加えられなかったのか…【邪馬台国=畿内】説から見えてくる"皮肉な事情" 東洋経済ネット 2025/09/15
私の見立て ★★☆☆☆ 纏向説の繕えぬ綻び  2025/09/18

 卑弥呼政権は…北部九州と…吉備…勢力との連合…二重統治体制…に、…互いの本拠地を王都にするのではなく、…未開拓の畿内が…選ばれた…。

*コメント
 そこに、北部九州と畿内の二極化図式を持ち出しながら、畿内は北部九州と吉備の二大勢力の配下とは、最前の二極対比をよそに、「互いの本拠地を王都」とは、「敵の本拠を我が王都」とも見え意味不明である。混濁した図式を読者に投げているのか。途方もない古代浪漫を創造しているのだろうか。

 また、…食糧危機と人口減少に対して、四方を山に囲まれ風水害が少なく、かつ大陸の動乱の影響を受けにくい場所だったという点も指摘される。

*コメント
 「タウポ火山」云々との御託宣であるが、食料は慢性的に不足である。
 因みに、当時、零歳児から男女通算する「人口」の概念は存在しないから、「人口減少」は、時代錯誤の無意味である。所詮、人口は増殖と夭折の相克であるから、居住する井戸次第である。誰が、国勢調査したのだろうか。

 山に囲まれ風水害が少ないとは何のことか。地勢上、冬季寒冷、降水量不足で、旱魃、冷害の備えを要求される。河川が乏しくて水運が貧しい。

*地域動乱の恵み
 ついでに言うと、「大陸」「中国」の自然科学が到来したのは、西晋、帯方郡崩壊、北方大国高句麗南下による三韓時代の「地域動乱」の恩恵と見える。佛教、律令制度などの到来も、厖大な「文化」教養を必要とするので、留学生を送りこんでも習得できないのであり、客匠の大挙渡来が想定される。

 ここまで、氏の造作は神がかりで、科学的仮説と見えない。「卑弥呼政権」、「畿内説」の未検証「虚構」に「思いつき」を貼り付けても支持されない。

 これもついでであるが、「畿内」を奈良盆地というなら、当時、未開拓であったのは、氾濫原の荒れ地であった纏向と内陸湖水の干上がった西部低湿地と見える。何しろ、奈良盆地内には、多数の遺跡がひしめいているのである。おそらく、「畿内」は河内湖南岸のドロ沼では無いと思うが、確かではない。

 それにしても、地元かと見える纏向地域の地勢、地理の認識に乱れが続くのは、残念である。例えば、奈良盆地の東西は、山並みであるが、東氏は、生駒の山並みで、峠越え箇所が限られるが、精々、「片峠」で難関では無い。南は、熊野山地が延々と続いて、越すに越せない。北は、概して低山であり木津川沿いに淀川に出るのは、さほど難関では無い。東は、纏向から長谷を脱け伊勢の海岸まで、長い区間であるが、一路東西行であり、さほどの難関では無い。

*幕引きの弁
 以下は、当方の不勉強な時代、事項になり、責任を持って検証できないので、ここまでで留める。瀧音氏の武運長久を祈るだけである。

*余談 衣のたてはほころびにけり 年を経し糸のみだれの苦しさに
 もちのろん、掲げられたのは、もてはやされている華々しい凱歌なのだろうが、ことの始めから、科学的な考察を踏み外しさながら壮大な宴である。
 中國の太古に、当時天下無双の天子、殷商「紂王」の催した「長夜の宴」なる盛大で長久の宴会が語られている。「長夜」とは、夜が終わらないように、宴会場に帳(とばり)を巡らし、灯火の下で呑んで騒いだということである。
 後世人は、とっくに外界は朝なのに、陽光を逃れて堕落した催しを続けたと諷している。紂は、最後の殷王である。(司馬遷「史記」殷本紀など)。

 当著作は、氏が一員として繰り広げる終わりなき宴(うたげ)を讃えられたようだが、外界が闇夜か黎明か青天か、確かめられることをお勧めする。

 百年、千年を経て、三世紀史学を総括するとき、表に立つのは、当記事の如く風雪に耐えない無名小人の草莽風説で無く、氏の著作なのである。

                                以上

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