纒向学研究センター

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2024年7月24日 (水)

新・私の本棚 前田 晴人「纒向学研究」第7号『「大市」の首長会盟と…』1/4 補充

『「大市」の首長会盟と女王卑弥呼の「共立」』 「纒向学研究」 第7号 2019年3月刊
私の見立て ★★☆☆☆ 墜ちた達人 2022/01/15 2022/05/30 2023/07/08, 12/21 2024/07/24

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

〇はじめに
 「纒向学研究センター」は、桜井市教育委員会文化財課に所属する研究機関であり、文化財課の技術職員全員がセンター研究員に任命されているということである。本記事は、「纒向学研究センター」の刊行した研究紀要『纒向学研究』第7号掲載記事の批判である。リンク先は、同誌全体のPDFであるが、個別記事へのリンクは用意されていないので、ご容赦いただきたい。また、「纏向学」は、桜井市の登録商標であるが、本稿のように、参照目的で表記するのは商標権侵害に当たらないと思量するので、特に許可を求めていない。

*総評
 率直なところ、文献史学の達人が、達人芸で「墜ちる」という図式なのだろうか。とは言え、
 深刻な問題は、用史料の由来がばらばらで、用語、構文の素性が不揃いでは、考証どころか読解すら大変困難(実質上、不可能)ということである。文献解読の肝は、それを書いた人物の真意を察することであり、そのためには、その人物の語彙を知らねばならないのである。当ブログ筆者は、なんとか、陳寿の真意を知ろうとして模索するのが精一杯であり、引きこもらざるを得ないのである。

 特に、国内古代史史料は、精々、倭人伝から見て数世紀後世の東夷作文であり、また、漢文として文法、用語共に破格なはず、至難な世界と思うのである。氏が、自力で読み解いて日本文で書くのは、凡人の及ばぬ神業である。言うまでもないが、中国史書の編者は、国内古代史史料を見ていないので、統一しようがないのである。

*第一歩の誤訳~取っつきの「躓き石」
 たとえば、「女王卑弥呼が景初3(239)年に初めて魏王朝に使節を派遣した」と主張されているが、原文が景初二年であるのは衆知である」から、これは端から誤訳である。氏が、中国史料を文献考証しようとされるなら、肝心なのは「揺るぎない原典の選定」である。検証無しに、世上の俗信、風説文書を引用するのは、お勧めできない「よそ見」と見える。

 以下、大量の史料引用と考察であるが、大半が倭人伝論「圏外」史料であり、(中国)古代史史料以外に、大変不確かと定評のある「三国史記」と共に、真偽不明と思われる大量の国内史料が論じられているが、それぞれの文献史料は、それぞれ固有の用語で書かれているので、字面だけで「普通に」理解することなど、夢物語であるが、氏は、そのような難題に、何のこだわりも無く取り組んでいると見える。つづいて、「文字史料」との括り付けが大変困難な「纏向史蹟」出土物の考古学所見、「纏向所見」が、現代日本語と思われる用語で書かれているようである。その間には、大きな格別の異同があると見えるのだが、氏は、むしろ淡々と述べられている。
 言うまでもないと思うが、「纏向史蹟」出土物に文字史料は皆無であり、墳墓には、「中国」に従属している「蛮王」の葬礼に必須かと思われる墓誌も墓碑銘もないから、異国の「文字史料」との括り付けに終始しているのであり、この点、「纏向史蹟」の時代考証に、大きな減点要素になっているのは、周知と思うのだが、滅多に言及されないので、あえて念押しするものである。
 と言うことで、当ブログ筆者の見識の圏内であって当ブログで論じることのできる文献は少ないが、できる範囲で苦言を呈する。

 一般論であるが、用例確認は、小数の「価値あるもの」を念入りに誠意をこめて精査するべきである。用例の捜索範囲を広げるとともに、必然的に、欠格資料が混入し、そこから浮上する不適格な「用例」が増えるにつれ、誤解、誤伝の可能性が高くなり、それにつれ、疑わしい史料を「無批判」で提示したという疑惑を獲得して、結局、意に反して論拠としての信頼性は急速に低下するのである。要するに、対象用例の「数」が増えるほどに評価が低下するので「効率」は、負の極値に向かうのである。結局、通りすがりの冷やかしの野次馬に、重要性の低い資料の揚げ足を取られて、氏が、ご不快な思いをするのである。
 言い方を変えると、一群の資料に低品質のものが混入していたら、資料全体の評価が地に墜ちるのである。つまり、そのような低質の史料を採用した「論者の見識」が、容赦なく低評価されるのである。ご自愛頂きたい。

 要するに、用例は、厳選、検証された高品質の「少数」にとどめるべきであり、「精選」の努力を惜しまないようにお勧めする
 論考の信頼性は、引用史料の「紙数」や「目方」で数値化される/できるものではないと思うものである。古代史では、そのような、基本的科学的な/質量的な数値評価が見失われているようである。

*パズルに挑戦
 要は、「纏向所見」の壮大な世界観(歴史ロマン/神話)と確実な文献である「倭人伝」の堅実な世界観の懸隔を、諸史料の考察で懸命に埋める努力が見えるが、多年検証され倭人伝」の遥か後世の国内史料を押しつけておいて、後段で敷衍するのは迷惑/子供だましと言わざるを得ない。まるで、子供のおもちゃ遊びである。
 氏が提示された「倭人伝」の世界観は、諸説ある中で、当然、纏向説に偏した広域国家が擁立されているようである。
 倭国の「乱」は、「列島の広域、長期間に亘る」と拡大解釈されている例がみられる。
 倭人伝」に明記の三十余国は、主要「列国」に過ぎず、他に群小国があったとされている拡大解釈までみられる。
 しかし、事情不明、音信不通、交通絶遠の諸国であり、国名が列記されているだけで、戸数も所在地も不明の諸国が「列国」とは思えない。まして、それら諸国が畿内に及ぶ各地に散在して、その東方は「荒れ地」だった』とは思えない。
 委細不明であるが、日本列島各地に、大なり小なり聚落が存在していたはずである。「中国」の基準では、それらが「郡」に対して名乗りを上げていたら、「国邑」と認められるのであり、一切関わりなければ、無名にとどまるのである。

 当時の交通事情、交信事情から見た政治経済体制で「列国」は、多分、行程上の「對海/對馬」「一大」「末羅」「伊都」止まりと思われる。名のみ艶やかな「奴国」「不彌國」「投馬国」すら、朝廷に参勤していたとは見えないのである。丁寧に言うと、諸国の「往来」、同時代語で言う「周旋」が徒歩に終始する交通事情、即ち、文書通信が存在しない交信事情としたら、と見えるのだが、その点に言及されないようである。

 ジグソー「パズル」の確実な「ピース」が、全体構図の中で希薄な上に、一々、伸縮、歪曲させていては、何が原資料の示していた世界像なのかわからなくなるのではないか。他人事ながら、いたましいと思うのである。

*「邪馬台国」の漂流
 先に点描した情勢であるから、私見では、倭人伝」行程道里記事に必須なのは、対海国、一大国、末羅国、伊都国の四カ国である。
 余白に、つまり、事のついでに、奴国、不弥国、そして、遠絶の投馬国を載せたと見る。「枯れ木も山の賑わい」である。
 「行程四カ国」は、「従郡至倭」の直線行程上の近隣諸国であるから、万事承知であるが、他は、詳細記事がないから圏外であり、必須ではないから、地図詮索して比定するのは不要である。(時間と手間のムダである)そう、当ブログ筆者は、「直線最短行程」説であるから、投馬国行程は、論じない。

 氏は、次の如く分類し、c群を「乱」の原因と断罪されるが、倭人伝」に根も葉もない(書かれていない)推測なので意味不明である。氏の論議は、「倭人伝」から遊離した「憶測」が多いので素人はついて行けないのである。
a群 対馬国・一支国・末盧国・伊都国・奴国・不弥国
b群 投馬国
c群 邪馬台国・斯馬国・己百支国・伊邪国・都支国・弥奴国・好古都国・不呼国・姐奴国・対蘇国・蘇奴国・呼邑国・華奴蘇奴国・鬼国・為吾国・鬼奴国・邪馬国・躬臣国・巴利国・支惟国・烏奴国・奴国

 「邪馬台国」を「従郡至倭」行程のa群最終と見なさず、異界c群の先頭とされたのは不可解と言うより異様である。いろいろな行きがかりから、行程記事の読み方を「誤った」ためと思われる。
 以下、氏は、滔々と後漢状勢と半島情勢を関連させて、さらに滔々と劇的な「古代浪漫」を説くが、どう見ても、時代感覚と地理感覚が錯綜していると見える。そのような「法螺話」は、陳寿に代表される真っ当な史官があてにしないはずである。いや、全ては、氏の憶測と見えるから、氏の脳内心象では、辻褄が合っているのだろうが、第三者は、氏の心象を見ていないから、客観的に確認できる「文章」からは、単なる混沌しか見えない。

*混沌から飛び出す「会盟」の不思議
 氏は、乱後の混沌をかき混ぜ、結果として、纏向中心の「首長会同」が創成されたと主張されているように見えるが、なぜ経済活動中心の筑紫から忽然と遠東の纏向中心の「政治的(?)」活動に走ったのか、何も語っていらっしゃらない。
 本冊子で、他に掲載された遺跡/遺物に関する考古学論考が、現物の観察に手堅く立脚しているのと好対照の「空論」と見える。当論考も、「思いつき」でないことを証するには、これら、これら寄稿者の正々たる論考と同等の検証が必要ではないかと思われる。検証された論考に対して根拠無しに「空論」と言う「野次馬」がいたら、公開処刑しても許されると思うのである。
 ここでは、基礎に不安定な構想を抱えて、遮二無二拡張するのは、理論体系として大きな弱点であり、「若木の傷は木と共に成長する」という寓話に従っているようであると言い置くことにする。

                                未完

新・私の本棚 前田 晴人「纒向学研究」第7号『「大市」の首長会盟と…』2/4 補充

『「大市」の首長会盟と女王卑弥呼の「共立」』 「纒向学研究」 第7号 2019年3月刊
私の見立て ★★☆☆☆ 墜ちた達人 2022/01/15 2022/05/30 2023/07/08, 12/21 2024/07/24

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*不可解な東偏向~ただし「中部、関東、東北不在」
 最終的に造成した全体像も、『三世紀時点に、「倭」が九州北部に集中していたという有力な仮説を変形した』咎(とが)が祟っている。いや、そもそも、それを認めたら氏の望む全体像ができないが、それは、「倭人伝」のせいでなく氏の構想限界(偏見)である。

 「魏志倭人伝」は、西晋代に、中国史官陳寿が、中国読者/皇帝のために、新参の東夷「倭人」を紹介する「伝」として書かれたのであり、中国読者の理解を越えた文書史料では無いのである。

*不朽の無理筋
 氏の構想の暗黙の前提として、「諸国」は、書面による意思疎通が可能であり、つまり、暦制、言語、法制などが共通であり、当然、街道網が完備して、「盟主が、書面で月日を指定して召集すれば、各国首長が纏向朝廷に参集する」国家制度の確立が鉄の規律と見える。
 しかし、それは「倭人伝」にない「創作」事項であり、言わば、氏の自家製(手前味噌)「倭人伝」であるが、氏は、そのような創作に耽る前提として、どのように史料批判を実行された上で、広域古代国家の結構を構築され受け入れたのであろうか。

 氏は、各国元首が纏向の庭の朝会で鳩首協議と書かれているから、これは「朝廷」と見なされるのであるが、そのような美麗な「朝廷」図式が、どのようにして実現されたとお考えなのだろうか。
 氏が昂揚している「纏向所見」は、本来、考古学所見であるから、本来、氏名も月日もない遺物の制約で、紀年や制作者の特定はできないものである。そこから、「倭人伝」を創作した過程が、素人目には、今一つ、客観的な批判に耐える立証過程を経ていないように見えるのである。

*承継される「鍋釜」持参伝説
 例によって、諸国産物の調理用土器類が、数量不特定ながら「たくさん」出土していることから、「纏向所見」は、出土物は数量不特定ながら、 「大勢」で各地から遠路持参し、滞在中の煮炊きに供したと断定しているように見えるが、それは同時代文書記録によって支持されていない以上、関係者の私見と一笑に付されても抵抗しがたいように見える。あるいは、出土物に、各地食物残渣があって、個別の原産地の実用が実証されているのだろうか。あるいは、土器に文字の書き込みがあったのだろうか。当ブログ筆者は、門外漢であるから、聞き及んでいないだけかもしれないので、おずおずと、素朴な疑問を提起するだけである。

 私見比べするなら、各国と交易の鎖がつながっていて、随時、纏向の都市(といち)に、各国の土鍋が並んだと言う事ではないのだろうか。「たくさん」が、ひょっとして、数量が「たくさん」と言うのが、千、万個でもでも、何十年どころか、一世紀、二世紀掛けて届いたとみて良いのである。良い商品には、脚がある。呼集しなくても、「王都」が盛況であれば、いずれ各地から届くのである。

*「軍功十倍」の伝統~余談
 各地で遺跡発掘にあたり、出土した遺物の評価は、発掘者、ひいては、所属組織の功績になることから、古来の軍功談義の類いと同様、常套の誇張、粉飾が絶えないと推定される。これは、年功を歴たと見える纏向関係者が、テレビの古代史論議で「軍功十倍誇張」などと称しているから、氏の周辺の考古学者には常識と思い、ことさら提起しているのである。
 三国志 魏志「国淵伝」が出典で、所謂「法螺話」として皇帝が軍人を訓戒している挿話であり、まじめな論者が言うことではないのだが、「有力研究機関」教授の口から飛び出すと、「三国志の最高権威」渡邉義浩氏が、好んでテレビ番組から史書の本文に「ヤジ」、つまり、史料に根拠の無い不規則発言を飛ばすのと絡まって、結構、世間には、この手の話を真に受ける人がいて困るのである。「良い子」が真似するので、冗談は、顔だけ、いや、冗句の部分に限って欲しいものである。

*超絶技巧の達成
 と言うことで、残余の史料の解釈も、「纏向所見」の世界観と「倭人伝」の世界観の宏大深遠な懸隔を埋める絶大な努力が結集されていると思うので、ここでは、立ち入らないのである。史料批判の中で、『解釈の恣意、誇張、歪曲などは、纏向「考古学」の台所仕事の常識』ということのようなので、ここでは差し出口を挟まないのである。
 要は、延々と展開されている論議は、一見、文字資料を根拠にしているようで、実際は、纏向世界観の正当化のために文字資料を「駆使」していると思うので、同意するに至らないのである。但し、纏向発「史論」は、当然、自組織の正当化という崇高な使命のために書かれているのだから、本稿を「曲筆」などとは言わないのである。
 因みに、庖丁の技は、素材を泥付き、ウロコ付きのまま食卓に供するものではないので、下拵えなどの捌きは当然であり、それをして、「不自然」、「あざとい」、「曲筆」、「偏向」などと言うべきでは無いと思うのである。何の話か、分かるだろうか。

*空前の会盟盟約
 氏は、延々と綴った視点の動揺を利用して、卑弥呼「共立」時に、纏向にて「会盟」が挙行されたと見ていて、私案と称しながら、以下の「盟約」を創作/想定されている。史学分野で見かける「法螺話」と混同されそうである。

本稿の諸論点を加味して盟約の復原私案を提示してみることにする。
 「第一の盟約」―王位には女子を据え、卑弥呼と命名する
 「第二の盟約」―女王には婚姻の禁忌を課す
 「第三の盟約」―女王は邪馬台国以外の国から選抜する
 「第四の盟約」―王都を邪馬台国の大市に置く
 「第五の盟約」―毎年定時及び女王交替時に会同を開催する

 五箇条盟約」は、「思いつき」というに値しない、単なる「架空の法螺話」なので「復原」は勘違いとみえる。なかったものは、復元しようが無い。
 要するに、陳寿を起点にすると、「二千年後生の無教養な東夷」による個人的な創作とされても、物証が一切無い以上、反論しがたいのである。その証拠に、各項目は、非学術的で時代錯誤の普段着の「現代語」で書き飛ばされている。勿体ないことである。古代人が、このような言葉遣いをしていたと思っておられるのだろうか。

 考古学界の先人は、学術的な古代史論議に、当時の知識人が理解できない「後世異界語」は交えるべきでないとの至言を提起されているが、どうも、氏の理解を得られていないようである。

 真顔に戻ると、当時、官界有司が盟約を文書に残したとすれば、それは、同時代の漢文としか考えられないのである。その意味でも、ご高説は、「復原」には、全くなっていないのである。困ったものだ。

                                未完

新・私の本棚 前田 晴人「纒向学研究」第7号『「大市」の首長会盟と…』3/4 補充

『「大市」の首長会盟と女王卑弥呼の「共立」』 「纒向学研究」 第7号 2019年3月刊
私の見立て ★★☆☆☆ 墜ちた達人 2022/01/15 2022/05/30 2023/07/08, 12/21 2024/07/24

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*時代錯誤の連鎖
 氏は、想像力を極めるように、女王となった卑彌呼が、新たな王制継承体系を定めた」とおっしゃるが、周知のように「倭人伝」にそのような事項は、明記も示唆もされていない。つまり、ここに書かれているのは、史料文献のない、当然、考古学の遺物考証にも関係ない、個人的な随想に過ぎないのである。

 真剣に考えればわかるはずなのだが、卑弥呼は、「一女子」、即ち、男王と「男王の娘が嫁いだ婚家での外孫」という親族関係の絆が明記されていて、氏の夢想するような「新たな王制継承体系」など、示唆すらされていないのである。そもそも、巫女、つまり、祖霊に仕える「墓守」として不婚の身分であった卑弥呼が、何故、後継者を選ぶ体制を築いたのか、不可解もいいところである。
 「共立」すら、男王の家男王の娘が嫁いだ婚家の妥協から自然に生み出されたものと見えるから、それを持って画期的とするのは、大変な考え違いであろう。要するに、氏は、根拠とすべき「倭人伝」を適確に解釈するのに不可欠な「教養」を有さず、自前の、お手盛り物語を創作しているのではないかと危惧されるのである。
 本誌は、「纏向学研究」と銘打たれているから、前田氏の示された創作は、個人的なものでなく多くの支持を集めているのだろうが、「纏向学の達人」として令名を馳せるのは、前田氏である。

 だれも、ここに示された前田氏の提言に対して、素人目にも明らかな当然の批判を加えていないようだから、この場で、率直に苦言を呈するのである。他意はない。

 以下、前田氏の提言として、「盟約」が提起されているが、現下に、「コメント」として異議提示できるのは、困ったものである。

「第一の盟約」―王位には女子を据え、卑弥呼と命名する
 コメント 「命名」は、当人の実の親にしか許されない。
   第三者が、勝手に実名を命名するのは、無法である。
   卑弥呼が実名でないというのは詭弁である。皇帝に上書するのに、実名を隠すことは許されない。大罪である。
   併せて言うと、陳寿がことさらに「女子」と書いた意味が理解されていない。
   古典的には、「女子」とは、国王のむすめ(女)が、嫁ぎ先で産んだ孫娘(子)、つまり、「外孫」である。
   中国古代史では、常識であるが、氏は、ご存知ないようである。

「第二の盟約」―女王には婚姻の禁忌を課す

 コメント 女王の婚姻禁忌は、無意味である。
   女王は、端から、つまり、生まれながら生涯不婚の訓育を受けていた「巫女」と推定される。
   当時の上流家庭は、早婚が当然であるからそうなる。王族子女となれば、ますます、早婚である。
   ほぼ例外無しに配偶者を持っていて、恐らく、婚家に移り住んでいるから、婚姻忌避など手遅れである。
   中国古代史では、常識であるが、氏は、ご存知ないようである。

「第三の盟約」―女王は邪馬台国以外の国から選抜する

 コメント 『「邪馬台国」以外から選抜』と決め付けるのは無意味である。
   要するに、諸国が候補者を上げ「総選挙」するのであろうか。奇想天外である。
   新規独創は、史学で無価値である。
   となると、「邪馬台国」はあったのか。大変疑問である。「倭人伝」原文を冷静に解釈すると、女王共立後に、
   その居処として「邪馬壹国」を定めたと見える。
   つまり、天下第一の巫女である女王「卑彌呼」が住んだから「邪馬壹国」と命名されたとも見え、女王以前、
   いずれかの国王が統轄していた時代、殊更「大倭王」の居処として「邪馬臺国」を定めていたと解される
   笵曄「後漢書」倭条記事と整合しなくても、不思議はない。
   どのみち、笵曄は、「倭条」を「根拠となる確たる史料のない臆測」として書き残したように見える。
   いずれにしても、漢制では天子に臣従を申し出たとしても「伝統持続しない王は臣従が許されない」
   王統が確立されていなければ、単なる賊子である。代替わりして、王権が承継されなかったら前王盟約は反古
   では、「乱」「絶」で欠格である。蕃王と言えども、権威の継承が必須だったのである。
   当然、共立の際の各国候補は、厄介な親族のいない、といっても、身分、身元の確かな、つまり、
   しかるべき出自の未成年に限られていたことになる。誰が、身元審査したのだろうか。
   

「第四の盟約」―王都を邪馬台国の大市に置く
コメント 「王都」は、「交通の要路に存在する物資集散地」であり、交通路から隔離した僻地に置くのは奇態である。
   因みに、東夷に「王都」はあり得ない。氏は、陳寿が「倭人伝」冒頭に「国邑」と明記した主旨がわかって
   いないのではないか。史官は蛮夷に「王都」を認めないし、読者たるうるさがたが、そのような不法な概念を
   認めることもない。
   そもそも、「大市」なる造語が不意打ちで、不審である。
   氏の造語では無いのだろうが、古代史文書で、「市」(いち)は、多くの人々が集い寄って「売買」する
   盛り場であり、國邑にある市は天下一の盛況であったろうが、氏が想定されているような「都市町村」なる
   聚落の大小階梯で最大の「都」(もっとも大きなまち)に次ぐ「市」(おおきなまち)とは、異なる
   言葉/概念なのである。
   朝、多数の庶民が集い来たり、昼には、それぞれの居宅に引いてしまう「市」は、王の行政の中心とは
   なり得ないのである。

   率直なところ、氏は、『当時信頼に足る史料は「魏志倭人伝」だけである』と理解した上で、『そこに提示
   された概念を理解し、その基礎の上に、自己流、つまり、無教養な蛮夷の言葉/概念を形成しないと、
   客観的に、つまり、同時代「中国」人に理解されない』という謙虚な自覚を出発点とすべきでは無いだろうか。

   言うまでもないが、氏が依存している時代錯誤の世界観は、氏の独創では無く、「多数の」「史学者」に
   共通の理解だろうが、だからといって、意味不明な用語の泥沼を形成しているという指摘は
免れ得ないと思う。
   (2024/01/10追記)


「第五の盟約」―毎年定時及び女王交替時に会同を開催する
コメント 毎年定時(?時計はあったのか)会同は無意味である。
   筑紫と奈良盆地の連携を言うなら、遠隔地諸国からの参上に半年かかろうというのに随行者を引き連れて連年
   参上は、国力消耗の悪政である。せめて、隔年「参勤交代」とするものではないか。
   女王交替時に会同を開催すると言うが、君主は「交替」できるものではない。天子は、更迭、退位できるもの
   でもない。
   女王の生死は予定できないので、「交替」時、各国は不意打ちで参上しなければならない。
   通常、即日践祚、後日葬礼である。揃って、大半の各国国主は、遅参であろう。
   あるいは、そのような、突然の交替を避けるために女王に定年を設けるとしたら、前女王は、どう「処分」
   するのか。
   王墓が壮大であれば、突然造成するわけにはいかないから、長期計画で「寿陵」とすることになる。
   回り持ちの女王、回り持ちの女王国であれば、墓陵造成はどうするのだろうか。
   以上、ざっと疑問を呈したように、随分ご大層な「結構」であるが、文書化できない時代に、どのように法制
   化し、布告し、徹底したのだろうか。どこにも、なぞり上げるお手本/ひな形はない。

*不朽の自縄自縛~「共立」錯視
 総じて、氏の所見は、先人の「共立」誤解に、無批判に追従した自縄自縛と思われる。
 「共立」は、古来、二強の協力、精々三頭鼎立で成立していたのである。両手、両足指に余る諸国が集った総選挙」など、一笑に付すべきである。陳寿は、倭人を称揚しているので、前座の東夷蛮人と同列とは、「倭人伝」の深意を解しない、無教養な不熟者の勘違いである。
 先例としては、周の暴君厲王放逐後の「共和」による事態収拾の「事例」、成り行きを見るべきである。
 「史記」と「竹書紀年」などに描かれているのは、厲王継嗣の擁立に備えた二公による共同摂政(史記)あるいは、共伯摂政(竹書紀年)である。未開の関東諸公を召集してなどいない
 陳寿は、栄えある「共和」記事を念頭に「共立」と称したのが自然な成り行きではないか。東夷伝用例を漁りまくって手に馴染む事例を拾い食いするでは無く、真に有意義な事例を、捜索すべきではないか。

*会盟遺物の幻影
 「会盟」は、各国への文書術浸透が「絶対の前提」であり「盟約」は、締盟の証しとして金文に刻されて配布され、配布された原本は、各國王が刻銘してから埋設したと見るものである。となると、纏向に限らず各国で出土しそうなものであるが、「いずれ出るに決まっている」で済んでいるのだろうか。毎年会同なら、会同録も都度埋設されたはずで、何十と地下に眠っているとは大胆な提言である。

 歴年会同なら「キャンプ」などと、人によって解釈のバラつく、もともと曖昧なカタカナ語に逃げず、「幕舎」とでも言ってもらいたいものである。数十国、数百名の幕舎は、盛大な遺跡としていずれ発掘されるのだろうか。それとも、強制収容所に収監したのだろうか。
 もちろん、諸国は、「幕舎」など設けず、「纏向屋敷」に国人を常駐させ、「朝廷」に皆勤し、合わせて、不時の参上に備えるものだろう各国王は、継嗣を人質として「纏向屋敷」に常駐させざるを得ないだろう。古来、会盟服従の証しとして常識である。

*金印捜索の後継候補
 かくの如く、「会盟」「会同」説を堂々と宣言したので、当分、宝捜しの大規模発掘作戦の省庁予算は確保したのだろうか。何しろ、「出るまで掘り続けろ」との遺訓(おしえ)である。いや、先哲(レジェンド、大御所)が健在な間は「遺訓」と言えないが、お馴染みの「まだ纏向全域のごく一部しか発掘していない」との獅子吼が聞こえそうである。

*「会盟」考察
 氏に従うと、「会盟」主催者は、古典書を熟読して各国君主を訓育教導し、羊飼いが羊を草原から呼び集めるように「会盟」に参集させ、主従関係を確立していたことになる。つまり、各国君主も、古典書に精通し、主催者を「天子」と見たことになる。
 かくの如き、壮大な「文化国家」は、文書記録も文書通信も存在しない時代に、持続可能だったのだろうか。

 繰り返して言うので、あごがくたびれるが、それだけ壮大な遠隔統治機構が、文書行政無しに実現、維持できたとは思えない。文書行政が行われていたら、年月とともに記録文書が各地に残ったはずであるが、出土しているのだろうか。記録文書が継承されたのなら、なぜ、記紀は、口伝に頼ったのだろうか。

 いや、本当に根気が尽きそうである。

                              未完

新・私の本棚 前田 晴人「纒向学研究」第7号『「大市」の首長会盟と…』4/4 補充

『「大市」の首長会盟と女王卑弥呼の「共立」』 「纒向学研究」 第7号 2019年3月刊
私の見立て ★★☆☆☆ 墜ちた達人 2022/01/15 2022/05/30 2023/07/08, 12/21 2024/07/24

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*「神功紀」再考~場外「余談」による曲解例示
 俗に、『「書紀」「神功紀」追記で遣魏使が示唆されるものの本文に書かれていない』理由として、「魏明帝への臣従を不名誉として割愛したとされる例がある」ように仄聞するが、そのような「言い訳」は、妥当なものかどうか疑問である。
 素人門外漢の目には、「書紀」本文の編纂、上覧を歴た後に、こっそり追記したと見るのが順当のように思われる。何しろ、「書紀」原文は現存せず、「書紀」原文を実見した者も現存しないので、臆測に頼らざるを得ないのである。また、現存する写本が武家政権の監視下、どのような承継をされたのかも、一切不明なのである。仄聞するに、武家政権である各将軍/幕府統治者は、天皇家を正当な支配者として説き聞かされている「書紀」は、幕府転覆の教義を秘めた聖典となりかねないので、固く封印していたと見えるのであり、一種の「禁書」とされていたと見えるのである。

 景初使節は、新任郡太守の呼集によって、中原天子が公孫氏を討伐する(景初二年説)/した(景初三年説)という猛威を、自国に対する大いなる脅威と知って、急遽帯方郡に馳せ参じ、幸い連座を免れ、むしろ「国賓」(番客)として遇されたから、後日、「国内」には「変事に援軍を送る」同盟関係を確立した』とでも、美しく言い繕って報告すれば、別に屈辱でもなんでもないのである。

 ここに敢えて取り上げた「割愛」説は、神功紀の現状の不具合を認識しつつ実在しない原記事を想定する改訂談義の例であり、言わば「神功紀」の新作を図ったので、当時の状況を見過ごしてこじつけているのである。当記事外の「余談」で前田氏にはご迷惑だろうが、世間で見かける纏向手前味噌である。
 因みに、「書紀」には、「推古紀」の隋使裴世清来訪記事で、隋書記事と要点の記述が大いに異なる、しかも、用語の誤解をドッサリ詰め込んだ「創作」記事を造作した前例(?)があるので、「書紀」に書かれているからそのままに信じるわけにはいかないのである。
 いや、これは、余談の二段重ねであり、当事者でない前田氏をご不快にしたとしたら、申し訳ない。

 繰り返すが、(中国)「史書」は、「史書」用語を弁えた「読者」、教養人を対象に書かれているから、「読者」に当然、自明の事項は書かれていない。「読者」の知識、教養を欠くものは、限られた/不十分な知識、教養で、「史書」を解してはならない。
 それには、当ブログで折々触れている「東夷の漢語学習の不出来に起因する用語の乖離」も含まれているから、東夷の新作用語頼りで「史書」を理解するのは、錯誤必至と覚悟しなければならないのである。

*閑話休題~会盟談義
 卑弥呼擁立の際に、広大な地域に宣して「会盟」召集を徹底した由来は、せいぜいかばい立てても「不確か」である。後漢後期、霊帝以後は、「絶」、不通状態であり、景初遣使が、言わば魏にとって倭人初見なので、まずは、それ以前に古典書を賜ったという記事はない。遣使のお土産としても、四書五経と史記、漢書全巻となると、それこそ、トラック荷台一杯の分量であるから、詔書に特筆されないわけはない。
 折角、国宝ものの贈呈書でも、未開の地で古典書籍の読解者を養成するとなると、然るべき教育者が必要である。「周知徹底」には、まず知らしめ、徹底、同意、服従を得る段取りが欠かせないのである。とても、女王共立の会盟には、間に合わない。

 後年、唐代には、倭に仏教が普及し、練達の漢文を書く留学僧が現れたが、遥か以前では、言葉の通じない蕃夷を留学生として送り込まれても何も教えられない。と言うことで、三世紀前半までに大規模な「文化」導入の記録は存在しない。樹森の如き国家制度を持ち込んでも、土壌がなければ、異郷で枯れ果てるだけである。

*未開の証し
 因みに、帝詔では、「親魏倭王」の印綬下賜と共に、百枚の銅鏡を下賜し、天朝の信任の証しとして各地に伝授せよとあり、「金文や有印文書で通達せよと言っているのではない」倭に文字がないことを知っていたからである。
 蛮夷の開化を証する手段としては、重訳でなく通詞による会話が前提であり、次いで、教養の証しとして四書五経の暗唱が上げられている。この「火と水の試錬」に耐えれば、もはや蕃夷でなく、中国文化の一員となるのである。
 と言うことで、「倭人伝」は「倭に会盟の素地がなかった」と明記している。「遣使に遥か先立つ女王擁立の会盟」は、数世紀の時代錯誤と見られる。

 もちろん、以上の判断は、氏の論考に地区の文物出土などの裏付けがあったとは想定していないので、公知の所見を見過ごしたらご容赦頂きたい。

〇まとめ
 全体として、氏の「倭人伝」膨満解釈は、氏の職責上避けられない「拡大解釈」と承知しているが、根拠薄弱の一説を(常識を越えて)ごり押しするのは、「随分損してますよ」と言わざるを得ない。
 これまで、纏向説の念入りな背景説明は見かけなかったが、このように餡のつまった「画餅」も、依然として、口に運ぶことはできないのである。所詮、上手に餡入りの画を描いたというに過ぎない。

 諸兄姉の武運長久とご自愛を祈るのみである。 頓首。

                                以上

 追記:本記事公開後、前田 晴人氏が物故されていることを知ったが、記事全体に修正の必要はないと信じる。学問の世界で、率直な批判は、最上の賛辞と信じているからである。

2024年5月24日 (金)

新・私の本棚 水林 彪 「漢武帝・宣帝の半島・列島支配 1/6 再構成

中国古代帝国主義の東夷支配:その始まり」 『纒向学の最前線』 「纒向学研究」 第10号
桜井市纒向学研究センター「センター設立10周年記念論集」 2022/7 
私の見立て ★★★☆☆ 未完の大器 瑕疵幾度  2024/05/13, 05/17, 06/17

◯始めに
 当記事は『纒向学研究』「センター設立10周年記念論集」掲載論文です。

*予備知識 水林 彪氏の箴言再掲
水林 彪 古代天皇制における出雲関連諸儀式と出雲神話   2016/09/21 
 国立歴史民俗博物館学術情報リポジトリ:古代天皇制における : 出雲関連諸儀式と出雲神話(第1部 古代の権威と権力の研究)
 抄録冒頭抜粋:8世紀の事を論ずるには,何よりも8世紀の史料によって論じなければならない。10世紀の史料が伝える事実(人々の観念思想という意味での「心理的事実」も含む)を無媒介に8世紀に投影する方法は,学問的に無効なのである。
 しかし、氏は、同記事で、同時代には存在しなかったことが明らかな「架空地図」談議をもちだして「から騒ぎ」して躓いていました。

*本論
 今回は、物々しい論考が晴れの場に提示されています。とはいえ、タイトル/サブタイトルの設定が、随分、こなれが悪いのです。
 普通、タイトルは、上位概念で注意を引きつけておいて、サブタイトルで、具体性を持つ下位概念に落とし読者を本文に引き込むのですが、本稿では、手順前後になっています。
 改善案 中国古代帝国主義の「東夷」開闢 ~ 漢武帝・宣帝の半島・列島支配の夢

 前漢代、武帝の半島四郡設置は、ホラ話に終わって早々に空洞化したので、「始まり」などと呼べる者ではないのです。なにしろ、漢武帝代の「東夷」は、ほとんど、遼東郡管轄下の高句麗、扶余だったのです。曹魏代に至っても、半島南部は、未通、未開の「荒れ地」だったのです。

 武帝の放漫な拡大志向は衆知として、皇太子反乱の結果、王宮外の孤児育ちだった公孫宣帝は、武帝逝去後の混乱時代を経て民間から呼び戻され、「帝国」主義の悪弊、放漫財政、その結果巻き起こった苛税/過酷な塩鉄専売を除くという堅実な思考であり、帝国拡大活動の収束、長久化を図ったものと見えます。一度、班固「漢書」をじっくり読まれることをお勧めします。

*異次元基準の乱入
 水林氏は、先に挙げた箴言を引きつづき放念されたか、欧州式の世界観を、無雑作に中国太古から国内古代に到る宏大な史論に塗りつけていると見えます。言うまでもありませんが、後世、欧州で常用された史学論議は、古代中国史に適用できないのは自明なのでもったいないことです。

*太古「帝国」主義の怪
 ともあれ、中国古代の漢代に、近代欧州の産物である「帝国主義」は存在しなかったから、論じようがないと見えるのです。まして、漢帝の威光が朝鮮半島南部に手が届いていない状態で「列島支配」は端から不可解で、途方もなく場違いと見えます。この辺り、纏向学派に共通の「迷い」と「見栄張り」だけに誹りを向けられません。
 いや、実際は、岡田英弘氏の「欧風」に染まっているのかも知れませんが、何分圏外なので、良く見通せないのです。

                                未完

 

新・私の本棚 水林 彪 「漢武帝・宣帝の半島・列島支配 2/6 再構成

中国古代帝国主義の東夷支配:その始まり」 『纒向学の最前線』 「纒向学研究」 第10号
桜井市纒向学研究センター「センター設立10周年記念論集」 2022/7 
私の見立て ★★★☆☆ 未完の大器 瑕疵幾度  2024/05/13, 05/17, 06/17

*虚空の銅鐸「文化」
 続いて、氏は、考古学の成果である「銅鐸文化」の年代、地域比定を取り入れ、列島内の地域性を述べていますが、銅鐸によって確認できるのは、「特定の技術を有した集団が一貫した作風で銅鐸を制作していた」と言う工芸技術論であり、当時文字史料が存在していない以上、それが「文化」と呼ぶに値するかどうか不確かであることを示しています。時代錯誤と見えます。(「銅鐸に金文はない」ものとみています)

*未開の「ゲノム」解析
 続いて、現代科学の先端である「ゲノム」解析による人種比定を取り込み、漢、韓の人種特性が捉えられて/創造されていますが、学術的な支えが稀少で未検証遺物に依存との難点を押し流して「新説」崇拝の弊に陥っています。
 何しろ、氏は、長江下流域に存在していたと推定する集団に前五十(七十?)世紀の年代を比定し、その後、山東半島付近に前二十四(四十四?)世紀の集団を比定し、更に、半島西南部に前十一世紀を比定する大技連発のあと、当該地区で形成された「弥生人」の水田稲作集団が、大挙北九州に渡来したとしています。今一つの「時代錯誤」です。
 「新説」の(カラ)さわぎと云えば、水林氏は、毎日新聞専門編集委員までのめりこんでいた「架空地図」のホラ話の悪疫から醒めていないのでしょうか。

*壮大な構想
 氏は、長江下流から山東半島までの区間を水田稲作の到来始点としていますが、山東半島が稲作技術の伝道基地となった理由はよくわかりません。水利不便とみえるのですが、水田遺構が大規模に出土しているのでしょうか。

*緩やかな移住経路~私見 
 当ブログ記事筆者の私見として、水田稲作が、 東夷の発祥地たる戦国齊領域に展開した後、半島東南部経由で北九州に伝播したという構想に同意します。
 ただし、以後の伝播経路には、異論があります。韓半島への集団移住には、渡海の「容易さ」が必要/必須であることから、先ずは、もっとも早期に定着していたとみえる遼東半島への渡海の可能性が高く、後に開拓された(唐代命名とみえる)唐津(タンジン)辺りへの渡海が落とし所と見るものです。
 ともあれ、半島に渡海/定住すれば、後は、陸上の話ですから、歳月を味方に東南方に展開し、後世の狗邪韓国から筑紫に渡ることも、むしろ確実な渡海「解」と見える、というのは、「倭人伝」依存症の偏見の技でしょうか。いや、この辺りは、水林氏の触れていない当ブログ筆者の固執ですから、読み飛ばしていただいて結構です。

*「東夷」幻想~私見 
 前十世紀辺りでは、当時、半島基部の戦国「齊」が形成されていた時代であり、臨菑は、漢書で言う「一都會」、すなわち、人、物、金の交流の要として繁栄していたとされるから、孔子の云う「東夷」である目前の韓半島に新天地を求めたかもしれません。渡海行程は、軽微な筏で移動できたから、水田稲作に必要な農具、技術、そして、肝心な種籾を携えた集団が移動できたと思われますが、半島南部から北九州への移動は、大変至難と見えます。

 さらりと、餅の画を描いて、それで一丁上がりではないのです。

                                未完

新・私の本棚 水林 彪 「漢武帝・宣帝の半島・列島支配 3/6 再構成

中国古代帝国主義の東夷支配:その始まり」 『纒向学の最前線』 「纒向学研究」 第10号
桜井市纒向学研究センター「センター設立10周年記念論集」 2022/7 
私の見立て ★★★☆☆ 未完の大器 瑕疵幾度  2024/05/13, 05/17, 06/17

*場違いの引用
 ここで、以下の断言が登場して、読者は、突然、水林氏の中国正史一括断罪に加担するかどうか、身を引き締めざるを得ないのです。なにしろ、このような「神がかり」を、検証無しに受け入れると申告した覚えはないのです。「纒向学研究」の忠実な読者は、ここまでに、水林氏に対して終生不変の忠誠を誓っているのでしょうが、当論考は、資格限定のない一般研究者に定して開放されているので、異論を唱えることは、許されるとみているものです。
 中国正史夷狄伝は儒教的中華思想を展開する場であるから、権力を背景とする朝貢命令のことは意図的に隠蔽し、朝貢が自発的なものであったかのように書くことを常とする。中国正史の記述を真に受けてはならない (渡邊義浩 46頁以下・167頁以下参照)2012『魏志倭人伝の謎を解く』 中公新書

*原文確認
 ことは、渡邊義浩氏が、当該著書で開示したと見える「託宣」ですから、一般人読者としては、折角の原資料、渡邊義浩 2012『魏志倭人伝の謎を解く』の引用位置を参考に、当該部の史料批判を試みます。
1.「46頁以下」
 同書では、「唯一の夷狄伝」と題されていますが、これは、先行して明記されている三国志唯一の夷狄伝「烏丸・鮮卑・東夷伝」と順当に解されます。当方は、無学無教養で、正史列伝の件数の数え方に通じていないので、お説に従います。
 渡邊氏は、「史学と儒教」として論議を進めていますが、実際は、「三国志」に先立つ、司馬遷「史記」、班固「漢書」の史書としての精確さを論じていて、不思議なことに「史記」の記事で、殷(商)の王位継承や殷墟の位置がほぼ正確に記録されていることを論拠として「史記」が正確であると証し「三国志」が、曹操の墓の位置が正確に記録されているという未検証の推定を述べた後、『「三国志」も正確な部分は正確である』と述懐されていて、筋の通らない意見になっています。
 「史記」は、多くの部分で伝承/風聞/果ては、巷間で演じられていたと見える在来戯作に依存した「物語」であることは衆知であり、一方、殷(商)の王位継承や殷墟の位置は、そうした「物語」でなく、「史実」の記録、つまり、殷代文書の承継であるから、正確なのは、原史料が正確だったと云うだけです。後段で、「史記」の大部分を占める「物語」に対しては、民間で流布していた「史劇」、「講談」の類いを収録していたと述べていて、前に述べた「史記」評価は、例外部分に過ぎないとみえます。
 渡邊氏は、「三国志」の記事も、陳寿が「史料」承継に務めた部分は正確であると誠に当然の総括です。陳寿編纂「魏志」の「本紀」、「列伝」部分は、西晋首都雒陽の公文書庫由来の「史実」の忠実な収録でしょう。これは、三国志注解を公刊されている渡邉氏には「釈迦に説法」でしょうが、氏は、何等かの意図で、その当然な見解を糊塗していると見えるのです。

 さて、ここで、渡邉氏が「魏志」夷狄伝全般に糊塗している「儒教的論理」は、まことに迂遠であって、「魏志」「本紀」、「列伝」は、史実、つまり、公文書記録の正確な承継であって正確であり、「夷狄伝」は、例外的に陳寿の恣意の割愛や改変によって正確さを喪っているとしているのです。水林氏は、渡邊氏の論考のこの部分を先行する文脈から隔離して「読み囓って」、前に引用した意見をとりだしたようですが、それが、渡邊氏の本意かどうか不確かと言わざるを得ません。

 渡邉氏は、ことのついでに、典型的な史官とされている班固「漢書」すら「列伝の一例で儒教擁護の圧力に屈して史実を改竄している」と非難した筆の勢いで、陳寿「魏志」も夷狄伝に於いて「当然」筆を曲げていると弾劾しているのですが、素人としては、「それは渡邊氏の意見でしょう」と呟くしかないのです。何しろ、後漢朝史官たる班固にとって、何が真っ直ぐであったかわからないでは、漢書が曲がったか曲がってないか、どうすれば、真っ直ぐになるのか理解できないのです。

 渡邉氏は、そこまで物々しく、司馬遷「史記」、班固「漢書」なる、それこそ巨峰の如く聳え立つ大部の二大正史について、高々とした視点から言い募った挙げ句、突然、至近の「魏志」論の局地的な論議に舞い下り、『陳寿「魏志」夷狄伝が「西域伝」を欠いているのは、「蜀漢が西域との交通を支配していて、曹魏の西域支配を妨げていた」と示すことを憚った』ためだと断じているのですが、素人目には、それが儒教原理に屈した」とは、とても見えません。

 以下、渡邊氏は、裴松之が「魏志」に補注した魚豢「魏略」「西戎伝」を評して、『充分「魏志」西域伝とするに足る内容があるのに採用しなかったのは、曲筆である』と断じていますが、これは、氏にしては軽率な評価とみえます。
 何しろ、氏は、三世紀の史官ではないので、魚豢「魏略」「西戎伝」のテキストを魏志「西域伝」として収録すべきかどうか、職掌として判断する見識も権限もない二千年後生の無教養な東夷の一員なのですから、論拠を求めるのであれば、素人にもわかるように、魏志「西域伝」の復原を試みて、東夷と対比できるる傑物であると証していただきたいものです。論より証拠です。
 氏ほどの高潔な歴史学者が、史料に根拠を確保できない独断を公表するのは、もったいないことです。

                                未完

新・私の本棚 水林 彪 「漢武帝・宣帝の半島・列島支配 4/6 再構成

中国古代帝国主義の東夷支配:その始まり」 『纒向学の最前線』 「纒向学研究」 第10号
桜井市纒向学研究センター「センター設立10周年記念論集」 2022/7 
私の見立て ★★★☆☆ 未完の大器 瑕疵幾度  2024/05/13, 05/17, 06/17

1.「46頁以下」(承前)
 素人目には、『魚豢「西戎伝」は、魏朝西域事績をほとんど含まず、後漢事績を曹魏が禅譲により全て承継したとした』が、陳寿は「後漢西域都督の撤退を継承した曹魏の西域支配の形骸化を明示するのを避ける」ために「西域伝」を割愛し裵松之は陳寿の判断の裏付けとして魚豢「西戎伝」全文収録したと見えます。疑問の方は、魚豢「西戎伝」から後漢事績を取り除いて再読頂きたいものです。

 渡邉氏は、魚豢「西戎伝」の字数を重視し、「西戎伝」眼目の大国「安息」記事を近傍の弱小な浮草「大秦」記事と取り違えた前世誤解に流されて「列伝に相応しい」としますが、遺憾ながら、渡邊氏は晋朝史官でないので、あくまで局外者の私見です。

 渡邊氏は、凡百論客の「軽薄な陳寿批判」と当然格別ですが、本新書は、何しろ「邪馬台国」論の新書/文庫版分野でのベストセラーを目指しているので、学術書の厳密さを離れ、数多い凡百論客に阿(おもね)り、時に筆が鈍(なま)り、時に筆が撓(たわ)んでいるのではないかと危惧する事態です。
 それかあらぬか、渡邊氏は、一旦下した「推測」の裏付けにもう一つ「推測」を括り付けたために、二人三脚で共倒れする一種自損行為かと危惧します。
 論拠の数を増やすと、それぞれに内在する瑕疵が堆積し斜陽の途をたどるものです。史学分野は、論考裏付けは数量/質量頼り「多多益益弁ず」(項羽)が最後の隠れ家のようですが、鉄壁ならぬ紙と藁の小屋では、いくら壁を増やしても、「隠れ家」になっていないとみえるのです。
 渡邊氏は、当然、かかる悪習に無縁であり、魚豢「西戎伝」論を、言わば急場の援軍、奥の手として起用したようですが、敗勢反転の援軍なら、先鋒に立てて快刀乱麻とすれば良いのにと思うものです。
 渡邊氏は、疑問の多い「西域伝」事例で、「陳寿が曹魏夷狄伝に懐疑的」と敷延した後、にも拘わらず「東夷伝」を集録したのは、明帝景初年間の司馬懿遼東制覇で「それまで遼東公孫氏が長年阻止していた東夷制御が開通した功績」を顕彰するためとしていますが、些か浮評とみえます。司馬懿の遼東制覇は、明帝の遼東/東夷観に命じられた軍事的なものであり、明帝自身は、勅命による遼東/帯方両郡回収で、両郡の東夷教化を皇帝自身の功績としたものであり、以後、用済みの司馬懿を任地に戻す意図であったと事実上明記されています。勅命に即応しなければ誅伐であり司馬懿は即座に関中に帰任していたはずです。
 ところが、明帝病臥により、皇帝千秋の際、有力者による幼帝傀儡化を抑止するために対抗する司馬懿が招致されたとされます。ここには、さすがに司馬氏正当化の造作が見て取れますが、明帝臨終の床で継嗣曹芳を遺託された感動的な「物語」であり、遠隔の「倭人」は意義のないものと見るものではありませんか。

 ちなみに、「三国志」「蜀志」では、蜀漢創業者劉備先主が、白帝城における臨終の場で宰相諸葛亮に遺孤劉禅への忠誠を取り付けた「物語」が遺されていますが、諸葛亮が、終生、後主「劉禅」に奉仕したのに対して、司馬懿は、少帝曹芳を廃位に追い込み曹魏終焉の道を開いたと「忠実」に描かれていますから、陳寿の筆は、司馬氏に媚びない史官の筆であることが明らかです。

 当分野の論客として声望の高い岡田英弘氏は、「現代日本人論客」の軽薄な陳寿批判について、『陳寿は、当時最高の人材であり、その希有の人材が身命をかけ半生を費やして編纂した「魏志倭人伝」を(陳寿から見て)二千年後生であって、(晋朝史官として要求される必須の)教養を有しない東夷が「安易に」批判するのは僭越の極みである』と云う趣旨で、小声で毒消ししています。
 要するに、「半人前の野次馬が、寝間着で表に出て、当時最高の専門家に喧嘩を吹っかけるのは、了見違いも甚だしい」とも受け取れる、誠に順当な指摘と思われます。「死人に口なし」。野次馬が売った喧嘩に、陳寿から一切反撃はないから安心でしょうが。

 先賢の警句に拘わらず、凡百論客の「軽薄な陳寿批判」は、水たまりのボウフラの如く、後から後からざわめいていますが、当節、新参者の意欲を削がないようにと言うことか、無粋な警句は流行らないようです。

                                未完

新・私の本棚 水林 彪 「漢武帝・宣帝の半島・列島支配 5/6 再構成

中国古代帝国主義の東夷支配:その始まり」 『纒向学の最前線』 「纒向学研究」 第10号
桜井市纒向学研究センター「センター設立10周年記念論集」 2022/7 
私の見立て ★★★☆☆ 未完の大器 瑕疵幾度  2024/05/13, 05/17, 06/17

2.「167頁以下」(承前)
 4「鋭敏な国際感覚」は、景初倭使参上の考察ですが、世上、帯方郡から遠隔の「倭人」女王が、公孫氏滅亡に即応して帯方郡に倭使を派遣したことを、女王の「鋭敏な国際感覚」の功名と見るのに対して、これは「帯方郡太守の迅速な招請、督励の功績」であるとの裁定は、渡邉氏の慧眼/比類なき卓見と思われます。
 但し、引き続いて、招請に即応したのは、女王の治世が、中国の国家制度を学んで「当時の辺境東夷が先進の国家体制を有していた」と読み解いていらっしゃるのですが、これは、「魏志倭人伝」の真意を見逃したものと見えます。当時、半島東南部、後世新羅が出た「嶺東」地域以南は「荒れ地」の境地でした。漢武帝が、朝鮮討伐後に朝鮮の支配地域を管轄するものとして四郡を置いたとしているのですが、この地域は、際付きの「荒れ地」であり、三世紀に至っても「荒れ地」であったと明記されているのですから、漢制の最高峰に位置する郡太守を任じて、高額の俸給(粟)を給付しようにも、地域に水田稲作を展開する素地はなく、つまり、朝鮮時代以来、耕地を割り当てられる「戸」はなく、朝鮮王の居処であった王険城にいたる官道は存在せず、要するに「郡」の構築が不可能であったことは明確であり、
 さらに従って、郡/県が設けられることはなく、従って、数世紀を経た後漢献帝建安年間にも、無法の「荒れ地」であったから、ことさら、地域振興のために、公孫氏が帯方郡を設けたと見えるのです。その結果、景初年間には、韓国南境である狗邪韓国から帯方郡治に至る官道が整備されていて、ともあれ郡の体を成したようですが、そこは、あくまで「韓国」であり帯方郡管轄下の地方組織である縣や郷は設けられていないように見受けます。つまり、漢武帝時代以来、当該地域には、漢の制度は及んでいなかったと判断されるのです。
 遼東郡太守であった公孫氏の「治世」は、当然、「法と秩序」に基づく文書行政であったことから、管理に伴う公文書が蓄積されていたものであり、公孫氏自体は、司馬懿の撲滅によって、配下の官吏と公文書もろとも、灰塵に帰したと見られますが、実務を行っていた樂浪、帯方両郡は、景初年間早々に、曹魏明帝の特命によって、密かに、つまり、平和裏に官吏と公文書を温存したままで皇帝直轄郡への変換が行われたため、郡公文書は健在であり、公孫氏統轄時代の帯方郡の東夷管理の実務は確認されたと見えます。
 「倭人」の境地には「牛馬がいない」ことから、『「街道」制度が未整備である』、『「戸籍」「地籍」が文書未整備』、さらには、『銅銭流通無し』であって『遠隔「徴税」できない』、『国邑が隔壁防御無し』、風俗は『衣服が非礼』『食事は非加熱生食で非礼』等、中原文化不適合の蛮夷であって、とどめとして「中國文字を知らないので先哲の書を読めない」との欠格要件も事実上明記されています。陳寿には、「倭人」に阿(おもね)り筆を踊らせる動機は、全く無かったのです。
 以上、素人の無軽薄な考察を提供したのは、渡邊氏があえて表明していない時代認識を呈示して、ご高評を仰いだものであり、「釈迦に説法」の愚考であることは、了解しているものです。

 渡邊氏は、軽薄な陳寿批判の「現代日本人論客」とは当然格別の論者ですが、新書版解説書に於いては、そのような「現代日本人論客」に席を並べて、調子を合わせていると懸念されます。御不快でしょうが、無用の誤解を防ぐために、敬意の最大の表現として率直な苦言を述べているのです。

*「不可解」の弁
 水林氏程の大家が、なぜ、世上麗名の高い渡邉氏の山成す著書から一般向け新書本を選び、そこに展開されている陳寿「三国志」魏志論の渦巻く中から、どんな読み方で、由来不明の「中国正史の記述を真に受けてはならない」なる「神託」「神がかり」を取り出されたのか不可解です。所詮、新書版の好む軽快で非学術的な発言内容ですから、もともと、有り難がるのは不適切なのです。

 水林氏の本論考は、掲題のごとく「漢武帝・宣帝の半島・列島支配」の論証ですが、同新書は「魏志倭人伝」論考であり、二十四史なる全「正史」の一史、陳寿「三国志」魏志第三十巻の末尾一条に専念しているのは自明です。なぜ、端から明らかに見当違いの本新書に、「纏向学研究」誌の精華たる玉稿の論拠を求めたのか不可解です。また、以上のように、出典新書の特定された箇所を精読しましたが、素人読者には、そのような文脈は読み取れず、水林氏の聞きかじり、食いかじりで、原文の文脈から切り離されて生成された文言が「ご神託」と珍重されているのではないかと危惧されます。水林氏は、群鳩の中の俊鷹(A Hawk among the Pigeons)に気づいていないのでないか、と言うと、失礼に当たるのでしょうか。
 按ずるに、渡邉氏は「倭人伝」編纂の内実を熟知していながら、正史全体の編纂において広く述べて「明言」しているものでしょうから、せいぜい、不適切な解読に過ぎず、本稿は考古学論考ですから、水林氏は、暴風雨に借り物の日傘を差しているようなものです。水林氏のためにも、渡邉氏のためにも、このような「誤解」引用を惜しむものです。

                                未完

新・私の本棚 水林 彪 「漢武帝・宣帝の半島・列島支配 6/6 再構成

中国古代帝国主義の東夷支配:その始まり」 『纒向学の最前線』 「纒向学研究」 第10号
桜井市纒向学研究センター「センター設立10周年記念論集」 2022/7 
私の見立て ★★★☆☆ 未完の大器 瑕疵幾度  2024/05/13, 05/17, 06/17

◯重大な不手際への苦言
 本稿は、論文として見て、些末とは言いがたい、重大な不手際が残されています。

*データ混乱
 図4 稲作の伝播・人の移住・弥生人の形成
 本図の出典は、「藤尾慎一郎 2015『弥生時代の歴史』講談社」のようですが、誤引用の訂正なのか資料改竄なのか、合成図の出典と制作責任者が不明で責任の所在は不明ですが、原図改竄の重大な不手際が露呈しています。

*症状:
 山東半島部の「前24世紀」は、「前4世紀」と書いた上の桁の「」の上に「2」を重ね書きしています。
 もうひとつの「前50世紀」は、「前0世紀」と書いた上の桁の」の上に「5」を重ね書きしています。
 貼り付けデータの「2」と「5」は一応「グループ」化されていますが、原図と一体化されていないので、容易に化けの皮が剥がされてしまうのです。誠に、不可解ですが、要するに、原資料を「改竄」しているのです。これによって、年代比定が二千年後世となるように改竄されています。
 動機も意図も不明ですが、改竄は改竄です。
 当ブログで、当コメントを作成する際に、図版が合成画像とわかったので、責任者不明で引用できなくなってしまったものです。

 本来、原データ引用部は、水林氏の著作部分と明確に区分して、水林氏が著作権を主張し得ない『第三者著作物の「引用」』と明記する義務があるのですが、現状は、区分を明記せずに一体化していて図全体が氏の著作物と見なされているようにみえます。
 それとも、貼り付けている「2」と「5」は、下敷きで一部隠れている藤尾氏の著作物でない、水林氏の創作という事でしょうか。

 くれぐれも、著作権のある資料の引用は、慎重であってほしいものです。いや、著作権の存在しない著作物には、その旨の明記が必要です。桜井市纒向学研究センターは、奈良県桜井市教育委員会の研究機関、つまり、地方公共団体の一部局であることから、桜井市の業務基準に従って運用されて知るものと思われますから、 その刊行物である「纒向学研究」誌は、繁雑などと言っていられないものです。誌の「コンプライアンス」遵守体制が問われると言うことは、桜井市の「コンプライアンス」 が問われているものと思います。

◯まとめ
 水林彪氏は、(遺跡/遺物)考古学の分野で深奥を極めた学究の士とおもわれますが、柵(しがらみ)のためにか、本稿では、足どりが揺らいで見えます。つまり、水林氏は、文献史学論考著述の定則に通じていないために、諸処に専門外の素人考えが露呈していて、強引なこじつけと受け取られ、不出来なものと思われます。特に、中国正史の信頼性を、対象となる膨大な資料を精読するという論証を経ずして、全面的に否定するかのような主張は、氏の見識/権限を越えた不法なものと見られるので、然るべき論文審査を経て公開されるべきものと思われます。

 巻末に[参考文献]に於いて、水林氏の専門である[考古学]分野はさておき、「文献史学など」とした括りで、氏の自著以外では、学術誌以外、一般向け解説書が記載されていますが、渡邊氏の新書以外についても、引用、依拠の際の氏の読解が適切なものであるかどうか、疑われてしまいます。更に言うならば、本稿の渡邊氏新書参照が、渡邉氏の斯界泰斗としての見識に疑義を投げ掛けると共に、水林氏の本領分野の名声を傷付けなければ幸いです。
 ちなみに、当方は、素人であり、生活がかかっていないし、史学分野での人間関係にも無頓着なので、率直な批判ができるのです。

                                以上

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