新・私の本棚 前田 晴人「纒向学研究」第7号『「大市」の首長会盟と…』1/4 補充
『「大市」の首長会盟と女王卑弥呼の「共立」』 「纒向学研究」 第7号 2019年3月刊
私の見立て ★★☆☆☆ 墜ちた達人 2022/01/15 2022/05/30 2023/07/08, 12/21 2024/07/24
*加筆再掲の弁
最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。
〇はじめに
「纒向学研究センター」は、桜井市教育委員会文化財課に所属する研究機関であり、文化財課の技術職員全員がセンター研究員に任命されているということである。本記事は、「纒向学研究センター」の刊行した研究紀要『纒向学研究』第7号掲載記事の批判である。リンク先は、同誌全体のPDFであるが、個別記事へのリンクは用意されていないので、ご容赦いただきたい。また、「纏向学」は、桜井市の登録商標であるが、本稿のように、参照目的で表記するのは商標権侵害に当たらないと思量するので、特に許可を求めていない。
*総評
率直なところ、文献史学の達人が、達人芸で「墜ちる」という図式なのだろうか。とは言え、
深刻な問題は、登用史料の由来がばらばらで、用語、構文の素性が不揃いでは、考証どころか読解すら大変困難(実質上、不可能)ということである。文献解読の肝は、それを書いた人物の真意を察することであり、そのためには、その人物の語彙を知らねばならないのである。当ブログ筆者は、なんとか、陳寿の真意を知ろうとして模索するのが精一杯であり、引きこもらざるを得ないのである。
特に、国内古代史史料は、精々、倭人伝から見て数世紀後世の東夷作文であり、また、漢文として文法、用語共に破格なはず、至難な世界と思うのである。氏が、自力で読み解いて日本文で書くのは、凡人の及ばぬ神業である。言うまでもないが、中国史書の編者は、国内古代史史料を見ていないので、統一しようがないのである。
*第一歩の誤訳~取っつきの「躓き石」
たとえば、「女王卑弥呼が景初3(239)年に初めて魏王朝に使節を派遣した」と主張されているが、「原文が景初二年であるのは衆知である」から、これは端から誤訳である。氏が、中国史料を文献考証しようとされるなら、肝心なのは「揺るぎない原典の選定」である。検証無しに、世上の俗信、風説文書を引用するのは、お勧めできない「よそ見」と見える。
以下、大量の史料引用と考察であるが、大半が倭人伝論「圏外」史料であり、(中国)古代史史料以外に、大変不確かと定評のある「三国史記」と共に、真偽不明と思われる大量の国内史料が論じられているが、それぞれの文献史料は、それぞれ固有の用語で書かれているので、字面だけで「普通に」理解することなど、夢物語であるが、氏は、そのような難題に、何のこだわりも無く取り組んでいると見える。つづいて、「文字史料」との括り付けが大変困難な「纏向史蹟」出土物の考古学所見、「纏向所見」が、現代日本語と思われる用語で書かれているようである。その間には、大きな格別の異同があると見えるのだが、氏は、むしろ淡々と述べられている。
言うまでもないと思うが、「纏向史蹟」出土物に文字史料は皆無であり、墳墓には、「中国」に従属している「蛮王」の葬礼に必須かと思われる墓誌も墓碑銘もないから、異国の「文字史料」との括り付けに終始しているのであり、この点、「纏向史蹟」の時代考証に、大きな減点要素になっているのは、周知と思うのだが、滅多に言及されないので、あえて念押しするものである。
と言うことで、当ブログ筆者の見識の圏内であって当ブログで論じることのできる文献は少ないが、できる範囲で苦言を呈する。
一般論であるが、用例確認は、小数の「価値あるもの」を念入りに誠意をこめて精査するべきである。用例の捜索範囲を広げるとともに、必然的に、欠格資料が混入し、そこから浮上する不適格な「用例」が増えるにつれ、誤解、誤伝の可能性が高くなり、それにつれ、疑わしい史料を「無批判」で提示したという疑惑を獲得して、結局、意に反して論拠としての信頼性は急速に低下するのである。要するに、対象用例の「数」が増えるほどに評価が低下するので「効率」は、負の極値に向かうのである。結局、通りすがりの冷やかしの野次馬に、重要性の低い資料の揚げ足を取られて、氏が、ご不快な思いをするのである。
言い方を変えると、一群の資料に低品質のものが混入していたら、資料全体の評価が地に墜ちるのである。つまり、そのような低質の史料を採用した「論者の見識」が、容赦なく低評価されるのである。ご自愛頂きたい。
要するに、用例は、厳選、検証された高品質の「少数」にとどめるべきであり、「精選」の努力を惜しまないようにお勧めする。
論考の信頼性は、引用史料の「紙数」や「目方」で数値化される/できるものではないと思うものである。古代史では、そのような、基本的科学的な/質量的な数値評価が見失われているようである。
*パズルに挑戦
要は、「纏向所見」の壮大な世界観(歴史ロマン/神話)と確実な文献である「倭人伝」の堅実な世界観の懸隔を、諸史料の考察で懸命に埋める努力が見えるが、多年検証された「倭人伝」の遥か後世の国内史料を押しつけておいて、後段で敷衍するのは迷惑/子供だましと言わざるを得ない。まるで、子供のおもちゃ遊びである。
氏が提示された「倭人伝」の世界観は、諸説ある中で、当然、纏向説に偏した広域国家が擁立されているようである。
倭国の「乱」は、「列島の広域、長期間に亘る」と拡大解釈されている例がみられる。
「倭人伝」に明記の三十余国は、主要「列国」に過ぎず、他に群小国があったとされている拡大解釈までみられる。
しかし、事情不明、音信不通、交通絶遠の諸国であり、国名が列記されているだけで、戸数も所在地も不明の諸国が「列国」とは思えない。まして、それら『諸国が畿内に及ぶ各地に散在して、その東方は「荒れ地」だった』とは思えない。
委細不明であるが、日本列島各地に、大なり小なり聚落が存在していたはずである。「中国」の基準では、それらが「郡」に対して名乗りを上げていたら、「国邑」と認められるのであり、一切関わりなければ、無名にとどまるのである。
当時の交通事情、交信事情から見た政治経済体制で「列国」は、多分、行程上の「對海/對馬」「一大」「末羅」「伊都」止まりと思われる。名のみ艶やかな「奴国」「不彌國」「投馬国」すら、朝廷に参勤していたとは見えないのである。丁寧に言うと、諸国の「往来」、同時代語で言う「周旋」が徒歩に終始する交通事情、即ち、文書通信が存在しない交信事情としたら、と見えるのだが、その点に言及されないようである。
ジグソー「パズル」の確実な「ピース」が、全体構図の中で希薄な上に、一々、伸縮、歪曲させていては、何が原資料の示していた世界像なのかわからなくなるのではないか。他人事ながら、いたましいと思うのである。
*「邪馬台国」の漂流
先に点描した情勢であるから、私見では、「倭人伝」行程道里記事に必須なのは、対海国、一大国、末羅国、伊都国の四カ国である。
余白に、つまり、事のついでに、奴国、不弥国、そして、遠絶の投馬国を載せたと見る。「枯れ木も山の賑わい」である。
「行程四カ国」は、「従郡至倭」の直線行程上の近隣諸国であるから、万事承知であるが、他は、詳細記事がないから圏外であり、必須ではないから、地図詮索して比定するのは不要である。(時間と手間のムダである)そう、当ブログ筆者は、「直線最短行程」説であるから、投馬国行程は、論じない。
氏は、次の如く分類し、c群を「乱」の原因と断罪されるが、「倭人伝」に根も葉もない(書かれていない)推測なので意味不明である。氏の論議は、「倭人伝」から遊離した「憶測」が多いので素人はついて行けないのである。
a群 対馬国・一支国・末盧国・伊都国・奴国・不弥国
b群 投馬国
c群 邪馬台国・斯馬国・己百支国・伊邪国・都支国・弥奴国・好古都国・不呼国・姐奴国・対蘇国・蘇奴国・呼邑国・華奴蘇奴国・鬼国・為吾国・鬼奴国・邪馬国・躬臣国・巴利国・支惟国・烏奴国・奴国
「邪馬台国」を「従郡至倭」行程のa群最終と見なさず、異界c群の先頭とされたのは不可解と言うより異様である。いろいろな行きがかりから、行程記事の読み方を「誤った」ためと思われる。
以下、氏は、滔々と後漢状勢と半島情勢を関連させて、さらに滔々と劇的な「古代浪漫」を説くが、どう見ても、時代感覚と地理感覚が錯綜していると見える。そのような「法螺話」は、陳寿に代表される真っ当な史官があてにしないはずである。いや、全ては、氏の憶測と見えるから、氏の脳内心象では、辻褄が合っているのだろうが、第三者は、氏の心象を見ていないから、客観的に確認できる「文章」からは、単なる混沌しか見えない。
*混沌から飛び出す「会盟」の不思議
氏は、乱後の混沌をかき混ぜ、結果として、纏向中心の「首長会同」が創成されたと主張されているように見えるが、なぜ経済活動中心の筑紫から忽然と遠東の纏向中心の「政治的(?)」活動に走ったのか、何も語っていらっしゃらない。
本冊子で、他に掲載された遺跡/遺物に関する考古学論考が、現物の観察に手堅く立脚しているのと好対照の「空論」と見える。当論考も、「思いつき」でないことを証するには、これら、これら寄稿者の正々たる論考と同等の検証が必要ではないかと思われる。検証された論考に対して根拠無しに「空論」と言う「野次馬」がいたら、公開処刑しても許されると思うのである。
ここでは、基礎に不安定な構想を抱えて、遮二無二拡張するのは、理論体系として大きな弱点であり、「若木の傷は木と共に成長する」という寓話に従っているようであると言い置くことにする。
未完