新・私の本棚 NHKBS「古代史ミステリー 第2集 ヤマト王権 空白の世紀」1/2 更新
私の見方 ☆☆☆☆☆ 果てし無い浪費の泥沼 豪勢な金継ぎ骨董 2024/03/27 2024/04/02 2025/03/24
*加筆再掲の弁
最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。
◯番組紹介引用
詳細
古代史の謎を解くカギ「空白の4世紀」に何が!?“国宝級の発見”東アジア最大の「蛇行剣」や前例なき「盾形銅鏡」が明かす驚きの技術革新。史上初の統一国家「ヤマト王権」の力の秘密は?韓国で見つかった“謎の前方後円墳”。風雲急を告げる東アジアの動乱。危機に挑む「倭の五王」の秘策は?宿敵・高句麗との激闘の行方は?最新科学や実験でダイナミックな戦略を徹底検証。私たちの国のルーツに迫る壮大なミステリーの幕が開く
◯はじめに
毎度の苦言だが、「ルーツ」なるカタカナ語は深刻な誤解を抱えている。
この語句をタイトルに綴った名作文学は、アフリカで平和な暮らしをしていた男性が、邪悪な奴隷商人に拐帯されて家族から切り離され、アメリカ南部の綿花プランテーションの奴隷労働を終生強制されたが、その子孫が、アフリカの土地で先祖の故郷を発見し、親族の子孫と会合する大きな物語であり、アメリカの奴隷制度の忌まわしい歴史を伝えているから、安直な転用は「不適切」と言える。
それとも「私たちの国」は、異境から誘拐され到来したとしているのか。
*淡白の弁
前回の第一集は、陳寿「三国志」なる確実な中国史料の一角である「魏志倭人伝」のあからさまな否定作戦(Negative Campaign)で3l、無理なこじつけがやたらと目立って、批判の甲斐があったが、今回は、対象年代の中国史料が乏しく内容空疎で有るため、言いたい放題になっていると見える。当方も、当時代は、史料不足で圏外となっているので、熱が入っていない点はお詫びする。何しろ、前回批判した後が、黙認/容認と取られると不本意なので、批判論調を維持したものである。
*継ぎ接ぎ細工
それはそれとして、今回のお話は「空白の四世紀」と称して史料の無い事態であって、空白のキャンバスに大胆な絵図を描いているから、せいぜい、夢物語なのだが、乏しい遺物証拠に、新作を大胆に継ぎ接ぎして、大層な絵物語を提供しているが、制作者の想像力貧困/無教養が眼について寒々とした。
*劉宋幻想
言い古された南北風土差であるが、南朝領域では騎馬疾駆できないので、高句麗蛮族が南下しても戦力にならない。また、北魏は高句麗の西にあり、長年抗争の果てに、高句麗が臣従したから、とても友好関係とは言えない。
東呉孫権政権は、大型海船で数千の兵を遼東半島まで送ったが、劉宋は、中原の長安、洛陽の奪還を図った北伐で国力を消耗していて、百済救援どころではなかった。ちなみに、西晋滅亡時、百済に遺臣が亡命して、政権高官となっていたから、百済は「法と秩序」が整った、東夷随一の文明国になりつつあった。
番組から隠されていたが、倭国は、宋朝に百済支配権を請求して拒否された。百済は、司馬晋を継承する中原政権と自認していた劉宋に取って、親交の深い重要属臣でもあり、倭国の支配圏を認めるなど論外だった。
西晋滅亡の際に、多数の官人が百済に亡命して、格別に厚遇されていたから、さながら「小中華」であり、曹魏に優遇されながら臣従を維持しないで、帯方郡を援護することもなかった「倭人」は、むしろ、百済の臣下であり、同列にならないのである。
*高句麗南下の戯画
高句麗は、黄海岸「制海権」を握って、遼東半島から中国東莱への交易を独占しようとしたらしいが、と言って、嶺東の荒れ地、新羅領域制覇を目指したのではない。そもそも、小白山地に遮られているので「東アジア動乱」など夢でしか無い。
なお、高句麗は、楽浪/帯方郡の滅亡後、半島南部、韓半島に進出しようとしたとは言え、小白山地を越えた「嶺東」は、弁韓の地とは言え、平地が乏しく、また、洛東江の流れが深いために灌漑が困難であったため、水田稲作が展開できず農作が低調であるため、駐屯維持ができず早々に撤退したはずである。確実な史料がないため、考察が困難であるが、四世紀当時、高句麗に南下の意志は乏しかったと見える。また、倭国としても、小白山地を越えて西方に転じて黄海岸に出る行程は、百済と紛糾するために、維持できなかったと見えるのである。
もとより、高句麗は、北朝を形成した魏(北魏)に服属していたので、南朝に追従していた百済と対抗していたのである。
当方において、地域、時代において圏外であるため避けられない「臆測」はさておき、当番組の描いた図式は、地図錯誤とあわせて、無残な時代錯誤と言える。
*「倭讃」談議
それにしても、中国の天子に対して「倭讃」と称するからには、「親魏倭王」金印か同等の印綬を提示したはずである。常識的には、既に南方で再興した司馬晋、東晋に遣使していたはずである。その時点では、新羅道内陸行と旧帯方郡と山東東莱の渡船が健在で、さほど困難な遣使では無かったようである。
このような前提から、古田武彦氏は、「邪馬壹国」王統が「倭国」に順当に継承されたとみて、「九州王朝」の基礎としたものである。すくなくとも、中国史書の論理から、そのような推定を否定するのは相当困難(実質上、不可能)と見えるが、当番組は、素知らぬ顔でとぼけているのである。勿体ないことである。
未完