卑弥呼の墓

倭人伝に明記されている「径百歩」に関する論義です

2025年5月17日 (土)

新・私の本棚 井上 悦文 邪馬台国の会 講演 第426回 卑弥呼の墓を掘る

卑弥呼の墓を掘る (2025.1.26 開催)   初掲 2025/04/08 改訂 2025/05/17(誤記訂正)

◯はじめに
 氏の著書・動画講演の影響が絶大なので敢えて批判しました。

*引用とコメント
 「氏にして疎略」と「空耳」の混在です。
 1.1―1.3の書道家蘊蓄については、本編では口を挟まないことにしましたから、話は、当方の縄張りなのです。

1.4.魏志倭人伝の邪馬台国
 ...「邪馬台国」は、魏志倭人伝には「邪馬壹国」と表記されています。ところが、この邪馬壹国は、...「魏略」「魏志」「梁書」「後漢書」その他をもとに分析すれば、...「壹」...は魏志倭人伝だけです。中略「邪馬台国」...は「耶馬臺国」が正表記で ...す。

 随分手馴れた捌きの口調ですが、内容は、大分受け売りの固まりです。受け売りなら、ご自分の見識だと肩肘を張らず、どの家元のご託宣か書くものです。
 それにしても、「その他の ...その他」は「魏志」自体を「その他」と錯綜です。「魏略」、「梁書」は級外史料です。ぼちぼち、割愛してもいい頃です。

*魚豢「魏略」の意義確認 追記 2025/05/17
 丁寧に言うと魚豢「魏略」は、史料としては大半が散逸していて、今気軽に「魏略」とおっしゃっているのは、魏略「東夷伝」そのものでなく、大変粗忽に所引された、つまり、間違いだらけの引用として太宰府天満宮に残簡が所蔵されていた「翰苑」に書かれている断片であり、信頼に足る史料ではないのです。言わば、「ジャンク」であり、井上氏ほどの書家なら、正確な引用が継承されていないと瞬時に見て取れるはずなのです。
 因みに、魚豢「魏略」西戎伝は、陳寿の百五十年ほど後生の劉宋史官裴松之の三国志付注の際に、魏略善本が健全に継承されていたのは、「魏略」西戎伝が、裴松之附注「魏志」の第30巻「魏志倭人伝」に続いて収容されいることで確認できます。
 つまり、魚豢「魏略」西戎伝は、当時編纂中で未公刊の范曄「後漢書」の西域伝の基幹となるべき史書稿であり、後に公刊された范曄「後漢書」の西域伝と併せて読むことにより、「魏略」の史書としての抱負を知ることができます。因みに、裴松之は、「魏志倭人伝」で割愛されている事項があれば、附注していますが、実際は、皆目附注と言うに足る附注は書き残していないので、魚豢「魏略」の倭人伝相当記事は、特に書くに足るものではなかったと証されているのです。

 按ずるに、陳寿が魏志倭人伝に収録した原資料は、曹魏明帝が、楽浪/帯方郡を景初初頭に接収した際に齎された、言わば、「原始倭人伝」と言うべき郡志史料であり、端的に言うと、公孫氏に上申した報告書の控えであったと見えます。もっとも、当時、遼東郡に届いて郡公文書庫に収容されていたと見られる公孫氏時代の遼東郡志は、司馬懿の征討軍が、景初二年の戦捷時に根こそぎ破壊殺戮したので、失われたものと見えます。司馬懿は、公孫氏の帯方郡設置による貧弱な東夷管理の深謀遠慮には、全く関心が無かったと見えるのです。

 ということで、「魏志倭人伝」は、陳寿とその支援者(優秀な書生)によって、一次史料である「原始倭人伝」を忠実に収録したのであって、当然、別系統の史官であった魚豢の「魏略」倭人伝も、特に疎略に扱う動機も無かったであろう事から、「魏志倭人伝」と同等の正確さで書かれていたものと見えます。但し、翰苑の所引は、史料の意義を知らない粗雑な所引者による魚豢「倭人伝」からの粗雑な引用であり、陳寿が、専門史官として、精魂込めた引用を否定する効力を持たないものなのです。
 御理解いただけたでしょうか。

 笵曄「後漢書」東夷列伝倭条は、大分玄人っぽい解釈がついて回るので、素人さんは手を出さない方がいいでしょう。とにかく、書かれているのは、別時代・別「国」を示し、難ありです。

 それにしても、困惑させられる「その他」重複は、なにかの取り違えでしょう。失笑連発です。

 倭人伝に曰わく、「南邪馬壹国に至る」「女王之所である」が正解で、ここに、後漢末に荒廃した洛陽の復旧に勤しんでいた曹魏天子も顔負けの「都」(みやこ)は、見当外れのこじつけです。なかなか、ここまで掘り下げる人はいないので、毎回、難癖をつけざるを得ないのです。

 氏が、文献解釈に疎いのか、勿体振った「蓋然性」評価は、まことに非科学的で、力み返った「本来」「推察」は、根拠皆無で、空転しています。「倭人伝」は、すらすら読めるから楽勝だ、要するに、陳寿がペテン師なんだとでも言いたいような、やじうま論議が巾をきかせているのですが、幸い、氏は、圏外のようです。

1.5.卑弥呼の墓 中略 
 「径百歩」は正確な引用ですが、文書考証すると女王「冢」の規模、敷地広さで、「歩」(ぶ)は、長さでなく面積単位であり、現代風「平方歩」です。
 これは、なかなか理解できる人が少ないので、歎いているのですが、氏も自認されているように、実務を想定すると、墳丘墓「直径」は、現地測量不可能です。陵墓規模は、測量可能な敷地面積で示すものです。当方の中国算術史料「九章算術」研究の成果で、「径百歩」は、常用の面積「方百歩」を「一辺十歩(15㍍)の敷地で冢が円形」と、異例の「径百歩」で明示したものです。

*古代算数の勉強
 円形図形の専有面積は、「直径」がわかっていれば、「直径」の二乗、「直径」掛ける「直径」に、「3」を掛ければ概数として正しいのですが、「直径」が測れない場合は、「外周」の測量値「歩」を「3」で割れば「直径」(の正しい概算)が得られるので、先の計算式に持ち込んでもいいのですが、一度3で割ってから3を掛けるのは、いかにもムダなので、「外周」の二乗を「3」で割っても、正しい結果が得られるのです。「3」は、円周率であり、諸兄姉は、3.141592などと記憶されているでしょうが、小数を省いて、「3」とすることにより、整数計算になるので、随分簡単に計算できるのですから、古代中国の「算数」を見直して欲しいものです。以上は、「九章算術」なる必須教養を学んでいる、漢魏晋官人には、概数計算の常識なのですが、諸兄姉は、ご存じだったでしょうか。

 因みに、墓制に昏(くら)い東方は、これを「直径 百歩≒一五〇㍍」「円墳」とそそくさと解釈して「大規模墳丘墓」の原型/ひな形としたのでしょうか。多分、「九章算術」を学んでいない、「二千年後生の無教養な東夷」なのでしょうが、無教養は、教養を学べばいいのです。
 それとも、卑弥呼ー壹輿の後継王が、帯方郡滅亡時の亡命造墓集団に「大規模墳丘墓」を課したのでしょうか。
 伝統は、大抵、いつかどこかどこかで断絶するものです。だからといって、卑弥呼の不朽の偉業は、些かも光芒を失うものではないのです。

 ということで、名もない「倭人」の後継者達は、「中国」の衰退により、既に支援、指導を受けていた土木工学技術を強化して、独自の「けもの径」を進んだとも見えます。このあたり、所説が錯綜して、当方の乏しい知識では、何とも、判別できないのです。

 ところで、直後の安本美典氏の講演は、漢魏晋墓制を、遺物/遺跡考古学の見地から広範多岐に亘って論じますが、「客」の顔を潰さない配慮か、蘊蓄豊富でも、漢魏王墓考証では、地下に複数墓室を設けた方形との明言を、大人の知恵で避けていると見えます。

*円丘・方丘の隔絶
 「円丘」は、頂部演壇で三六〇度全周で、時日に応じた方位で天に礼を示す「天丘」は、祭礼であり、葬礼、墳墓など見当違いです。対照の「方丘」は、葬礼であり、別紀日に地下祖霊を弔い、「円丘」と隔離しています。造語するなら、「方円絶遠」です。

 要するに、「中国」王侯墓に大規模円墳など存在しなかったことは明らかであり、帯方郡から長期駐在した大宰張昭」は、「親魏倭王」に葬礼に反する大規模円墳など許さないのです。また、西晋史官であった陳寿は、当然、葬礼墓制に通暁していて、無法な大規模円墳など記録することは有り得ないのです。それが、史官の真意というものです。

 無学、無教養の素人である当方の無上の「知恵蔵」である、殷周代以来の太古漢字史料を深く極めた白川勝氏の詳説では、太古東夷と称された周代齊魯領域では、棺を埋葬し封土する「冢」の型式が整っていて、神社祭礼に属すると見える「鳥居」共々、「倭人伝」前段に略記された葬礼墓制は、渡来ものと見えます。
 伝統を破壊し、中国「文化」を拒否したいわゆる「前方後円墳」墳墓の繁栄は、一方で、神社がはるか後世に継承されているのを見ると、一介の素人の理解を越えて、不可解と言わざるを得ません。

閑話休題   訂正 2025/05/17 150㍍と誤記していたのを訂正したものです。
 当方の行きついた理解は、「倭人伝」に丹念に書き込まれている卑弥呼の「冢」は、「径百歩」規模、すなわち、「十歩(15㍍)角の敷地中央に納棺、封土した円形「冢」である」と端的です。整地、掘削、納棺、埋設、封土、一本植樹の墓碑等の力仕事は、近隣、近在の百人程度の「徇葬者」の一ヵ月程度の通い仕事だったはずです。簡にして要を得た記事です。
 中国葬礼では、必ず、石刻墓誌を設けますが、葬儀薄葬令もあり、また、先祖以来の墓地に月々墓参するので、墓碑も墓地も必要なかったのです。また、伝来墓地であらたな守墓人は不要です。蛮習「殉死」等、もっての外です。(字を変えているのに誤解するとは、失笑ものです)

 諸兄姉の思考には干渉できませんが、よそごとながら、随分不合理な「歴史ロマン」を死守されているのだなあと、感嘆するものです。

 この通り、氏が見習っているらしい世上の雑駁な論議は、悉く空を切っています。

 それにしても、前半部を飛ばし読みしても、全般にアラ散在の講義であり、このさい、昭和百年を契機と捉えて、時代物のレジュメを、編集校正し晩節を整えていただいた方がいいでしょう。

                                以上

2025年4月11日 (金)

新・私の本棚 安本 美典 「卑弥呼の墓はすでに発掘されている!?」 1/2

●福岡県平原王墓に注目せよ● 季刊「邪馬台国」第129号  梓書院  2016年5月
私の見方 ★★★★☆ 広汎堅実な老舗の見識 細瑾確認 2025/04/11, 05/02

◯はじめに
 本稿は、「邪馬台国全国大会in福岡」特集号の基幹記事であり、卑弥呼の墓の候補である平原王墓論の講義録の中心部に対する論議です。

クリアしなければならない諸問題
 平たく言うと、以下の4「問題」(Question)に対して、悉く解答(Answer)を提出して、総合的に審査し、適否を判定すべきとの趣旨と思われます。古代史学に確固たる令名を有する安本氏の意見を拝聴するもので、野次馬の気まぐれではありません。
 本件は、平原王墓審査であるが、当然、全候補への「問題」である。当ブログの好みで、10文字程度の小見出しとしています。お目汚しまで。
 1 造営年代考証    2 径百歩の検証   「徇葬」百余人の検証   位置比定の検証

 安本氏の論議の原点は陳寿「三国志」魏志「倭人伝」であり、氏は、「邪馬台国」とし、朝倉比定を持論としていることを、承知しておく必要があります。誤解されると困るのですが、べつに、当方の愚考に承服せよと言っているのではないのです。念のため。

1.造営年代考証
 安本氏は、「倭人伝」にある「卑弥呼」の死は、西暦(CE)表示で、247ないし248との判断であり、当方は、これに異を唱えるものではありません。
 安本氏は、考古学権威森浩一氏の見解として、『遺跡考古の見地から、特定「古墳」の造営年代の考証では、古墳自体と出土遺物には、年代を確定する文字資料が同時に出土していない以上、同一地域の他の古墳であれば、相互の関連から、造営問題を考証することになるが、年代の特定では、ある程度の「誤差」、許容範囲を伴うべきである』との主旨紹介であり、記事中の長文引用は、安本氏が遵守される「文脈」重視の堅持とみえます。
 安本氏は、考古学考証により、平原王墓の造営年代は、「倭人伝」から想到される「卑弥呼の歿年」と重なる可能性は十分にあるので、本項によって、欠格とされないという判断と見えます。

2.径百歩の検証
 安本氏は、本項では、考古学的な発掘成果はもとより、国内史料「延喜式」に記載された天皇墓陵の「町」単位「矩形域」記録を複数考証しています。
*第一推定
 「第一推定」では、「倭人伝」の「径百歩」は径150㍍程度の領域と見ています。この点については、異議を保留し、論議は後述します。

*第二推定
 「第二推定」では、「径百歩」を墳墓の外形でなく墓域を示すとしています。
 文武天皇夫人の陵墓の天皇陵と趣(おもむき)の異なった表記紹介ですが、お話はそこまでです。
 安本氏は、卑弥呼の「親魏倭王」号について、漢代以来の中国制度、漢制の「王」とされているように見えますが、早計と思われます。蕃夷「王」が、漢制「王」と同等でないのは確かです。ただし卑弥呼「冢」が、漢制によると見ること自体は可能とされているように見えます。

 安本氏は、慎重に、「倭人伝」先行記事の大人「冢」が、単に「封土」であり、高塚などで無いとされています。当座の議論の収束として妥当です。

 安本氏は、平原王墓は、卑弥呼の「冢」を外れていないという結論です。

*「第一推定」への異議
 安本氏は、「冢」の漢制にもとづくと 判定される「歩」表記に対して、後年の「延喜式」が、漢制と全く別体系の「町」表記である点を、特段考慮されていないと見えます。
 安本氏は、「倭人伝」から数世紀後世と見られる国内史書に関して、広く、堅実に渉猟された上の提言であり、「延喜式」論議は謹んで拝聴します。
                               未完

新・私の本棚 安本 美典 「卑弥呼の墓はすでに発掘されている!?」 2/2

●福岡県平原王墓に注目せよ● 季刊「邪馬台国」第129号  梓書院  2016年5月
私の見方 ★★★★☆ 広汎堅実な老舗の見識 細瑾確認 2025/04/11, 05/02

*中国史書の世界観
 以下述べるのは、「倭人伝」は、三世紀中原人の編纂した公式史書であり、解釈に際しては、編纂した史官である陳寿の見識による斟酌が優先するとの趣旨です。つまり、陳寿が教育、訓練を受けた基礎教養を理解することが前提と見えるのですが、いかがでしょうか。
 曹魏臣従の「邪馬台国」の「冢」は、漢制律令の中国里制、度量衡、戸籍/地籍制度に従うのに対して、「延喜式」は、日本律令に従う点に議論が生じます。
 端的に言うと、臣従蕃夷は漢制律令に従い、独自律令制定施行は厳重に禁止されていました。蕃夷律令が制定されるとすると、そこでは、必然的に、天子は蕃王であり、それは「天子」にたいする大逆となるからです。
 すなわち、後世国内史料である「延喜式」に記録された天皇陵は、漢制に従った尺度に従っていないので、漢制で記録されている卑弥呼の「冢」に類推することは論外です。かりに、造営の際に漢制に基づいたとしても、そのような文書記録はないので、記録されたのは漢制に基づく測量でないことは明らかです。ちなみに、円丘の盛土の直径を測量するのは、実際上不可能であるので、記録されたのは、墳丘の直径でなく墓域の外形を残すものと見えます。ついでながら、漢制で、円丘は頂部で拝天する、祭礼のためのものであり、埋葬するための墳丘でないと見えます。中国では、貴人の墓所は、死者の世界である黄泉、つまり、地下に穿つものであり、地上に盛り土して埋めるものではないのです。
 もちろん、祭礼の場である円丘に、葬礼の場である方丘を連結する造墓は、法外です。
 あわせて、天皇陵が漢制に基づくものではないとする傍証です。

*漢制「径百歩」の考証
 して見ると、「径百歩」真意は、漢制造墓の基礎となる「算数」理解なしに知ることはできません。 端的に言うと、「径百歩」が墓域広さ/面積表示とすれば、自動的に「方百歩」、辺十歩、六十尺領域の面積表示です。官人に必須の基礎教養ですから、「方…歩」と面積表示を明示しなくても「冢」記事文脈から自明であり、さらに、「径」を頭書して「冢」が円形であると、史官及び史書読者に対して明確に示唆したと見えます。
 明確な示唆は、明示に等しいものです。史官は、一字一句疎かにしないのは明らかです。
 この際、「九章算術」の面積「歩」(ぶ)を、ご一考いただきたいものです。

*従来候補の一括欠格
 とはいえ、この解釈に従うと、卑弥呼の墓と比定されている各地の候補墳墓が、軒並み欠格となるので、大利に反するとして黙殺されるでしょうが、理論的に考慮いただけるものとして、あえて、安本美典氏に異を唱えるものです。

3.「徇葬」百余人の検証
 安本氏は、「徇」が「殉」と同義であるとしているので異議を提起します。

*「徇」の字義
 「徇葬」の「徇」は、部首から「行く」「行う」の意義であり、卑弥呼「冢」造営に尽力したと見るのが順当です。先に示したように、縦横十歩、15㍍の墓域の陵墓造営は、百人程度の専従で十分と見るものです。

*殉死、殉葬考察
 かたや、「倭人伝」にない「殉死」は、東夷伝で蛮習とされますが、「倭人」は礼節を知るものとして格別なので、「親魏倭王」の葬礼で蛮習を行ったとするのは筆誅に近いものであり、「倭人伝」の文脈に沿わないものです。
 ただし、「殉死」ならぬ「殉葬」は、「徇葬」と類義の葬礼の一環とすれば穏当と見えます。それにしても、無教養な読み替え、書き換えが蔓延して居るのは、何とも、勿体ないことです。
 是非、ご一考賜りたいと、伏して懇願するものです。

4.位置比定の検証
 本項は、当ブログの圏外であり、何も異論を唱えるものではありません。

◯最終結論
 当ブログ筆者の意見では、平原王墓は、卑弥呼「冢」の寸法十倍、面積百倍、用土千倍の隔絶規模ですので、この一点だけで不適格と断定できます。

◯まとめ
 以上、安本氏に対して、敢然と異を唱えるために、断定的な文飾が見られますが、もちろん、無礼を覚悟でご賢察を仰いでいるものです。
 同誌巻頭の「時事古論」第3回「卑弥呼の宮殿はどこにあったか」は、縦横広汎の論議であり、多々異論があるので、手に負えていないのです。決して、黙殺しているのではありません。
 なお、本項の参考史料は、既知のものであり、逐一言及すると随想が膨張することもあり、また、大半が衆知公知のものなので、ここからは割愛しています。機会があれば、「論文」なみに表記したいと考えます。

                                以上

2024年4月 8日 (月)

新・私の本棚 榊原 英夫「邪馬台国への径」 5/6 増補

 「魏志東夷伝から邪馬台国を読み解こう」(海鳥社)2015年2月刊 
私の見立て ★★★★★ 総論絶賛、細瑾指摘のみ  2021/10/08 補追 2022/10/19 2024/04/08, 04/25, 07/05

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

〇「卑弥呼伝」仮称)の面影~女王共立
 倭人伝内に、当時の君主「卑弥呼」の小伝らしい様子が見えます。いや、「条」でも良いのですが。
 女王共立の考証では、記事所引が並んでいますが、なぜか二番目に並んでいる「倭人伝」記事だけが信ずるに足るものであり、後は、ご多分に漏れず范曄「後漢書」の脚色追従で不都合です。氏は文書考証が不得手なのでしょうか。氏の権威では、受け売りでは済まないと思うのですが。

 後世史家と違い、陳寿は、ほぼ同時代ですから、根も葉もない「天下大乱」と書かなかったのです。後漢の桓霊献帝期の混乱、楽浪/帯方郡、韓の混乱で、洛陽に定期報告が来なかったため、笵曄は、適確な記事が書けなかったと思われます。
 そもそも、遼東太守公孫氏は、小天子気取りで、お手盛りの粉飾報告を洛陽に届けたのでしょうか。皇帝の討伐を受けないように、要所の高官/有司に「賄賂」をはずんでいたと見えますが、霊帝没後の混乱で、後漢帝国の中核部が瓦解したので、折角の人脈が破壊されたものと見えます。
 そのあと、「賄賂」で転ばない曹操が、献帝代の末期に国政を握ったので、後漢の衰退を感じ取って自立の挙に出て、結局、景初の滅亡を招いたと見えます。もっとも、公孫氏は、魏代に入って、洛陽に人質を入れ、自身も、大司馬の顕官に就いていたので、端から、叛意を抱いていたわけではないようです。

 因みに、女王共立に、全国集会「総選挙」めいた「戯画」が提示されるのは、学問と言えない無責任な思い付き発散に見えます。常識から見て、共立は、恐らく姻戚関係にあったせいぜい三頭政治の産物でしょう。主要国は、もともと縁続きだったから、構成する有力氏族の間で、合意が成立したのでしょう。
 多くの小国は、別に、全体の指揮に一々従っていたわけでなく、まして、女王の擁立に際して、参集して発言する気はなかったはずです。

*長大論
 卑弥呼「已年長大」解釈に後世史書の「後漢書」まで動員し、「整合的に勘案」とおっしゃいますが、「倭人伝」に比して、信頼できない「後漢書」追従が災いして時代考証が撓んでいます。私見では、卑弥呼共立年代が無理矢理引きあげられていて、納得できません。
 笵曄「後漢書」の用語を、同時代を記述した袁宏「後漢紀」と陳寿「三国志」魏志の裴注記事も併せて、権威の感じられる後漢献帝期の史書記事と照合すると、笵曄は、同時代どころか、西晋崩壊の公文書喪失に影響された魏代史料枯渇の時代にあって、「長大」「周旋」と言ったありふれた語彙の解釈に困憊しつつ、倭条創作に勤(いそ)しんだと見え、未曽有の造作を残しているのです。お陰で、真っ当な「魏志倭人伝」が、巻き添えを食らって、転落しているように見えて、傷ましいのです。

 笵曄「後漢書」の大看板に義理立てしてか、卑弥呼が、奇想天外の「景初で八十才」と比定されていますが、ありふれた言葉である「長大」の解釈が非常識なのは本末転倒でしょう。ガラスの靴に合わせて、足を切り刻むような無残さです。
 笵曄が取りこぼした「長大」は、中国語の日常表現で、今日も「成人する」、「大人になる」と同義の「動詞」表現とされています。「大人である」との無難な曲解に始まり、坂道を駆け下りるような「いい年」、「年かさ」、「年寄り」との盛大な「形容詞」表現とみるのは、誤解、曲解です。

 普通に見ると、当時、祖先の霊と交流する巫女は、王族の子女であって、生涯不婚、生涯独身であるから、配偶者の影響が排されていて、身元は確かであり、したがって、未成年でも女王に推戴されたのです。もちろん、父母の影響は絶大ですが、出自として「女子」つまり男王の「女(むすめ)の子」、即ち「外孫」であり、男王が実母の実父と見えるので、実父との二大家系の鎹(かすがい)、安定要素になっていたと見えます。
 いずれにしろ、女王は、政治に参加しない最後の纏め役「時の氏神」としての存在だったので、朝見しなくても、紛争は起きなかったのです。
 太古以来の用語で、「女子」は、男王の親族、爵位身分とも見えます。

 女王共立は、笵曄「後漢書」東夷列伝倭条の造作につられてか、大昔と感じている方が多いようですが、冷静に見れば、つい先年、数年前ではないでしょうか。「已年長大」は、女王在位で「今や成人した」と読めるのです。ありふれた「俗説」と比べて、まだ、二十代の初めなのです。えらい違いでしょう。寄って集(たか)って、解釈に無理を重ねて、船が山に登っているのですが、誰も、気にしないのでしょうか。

〇「径」百余歩~封土考 補充2024/07/06
 氏自身も本書タイトルに使っているように、「径」は、こみちです。先賢は、卑弥呼の墓は、壮大であるに違いないとか、いや、それは誇張だとか述べていますが、「径百歩」の解釈を安易に決めてかかる前に色々調べる必要があるでしょう。
 一歩(ぶ)六尺の定義に従い、これを円形の幾何学表現と見て、「直径百五十㍍」としても、「冢」は東夷伝では「封土」、土饅頭であり、女王を浅く土中に埋葬した後、前例になく盛大に盛り土して深く埋めたことになります。それまでは、盛り土に歩み寄って触れることもできたのですが、それで、済むのでしょうか。国内で発掘例の多い墳丘墓では、異なっていて、高々と盛り土した中に埋葬したと見えますが、氏は、何も書いていないのです。
 それにしても、寿陵(生前造成)でない陵墓の突発的、未曾有の大工事であれば、関係者一同、準備不足となり、設計施工の全段階で混乱したはずです。とにかく、筋が通らないのです。

 盛り土だけで石積み無しの直径百五十㍍墳丘墓は、風雨厳しい風土で崩壊せず、また、幾度かの地震にも耐えて、二千年残ったでしょうか。俗説の箸墓は形状が「冢」でなく複雑至極で、土木技術、つまり、設計と施工の両方で、大々的に進歩し、つまり、多数の人材を養成し、石積みが可能であったと推定され、途方もなく規模拡大ができた随分後世の墳墓でしょう。
 それにつけても、魏武曹操以下の歴代魏朝皇帝は、薄葬で地上に目印を残さなかったとされます。
 いや、ついつい筆が滑りましたが、魏武と敬称された曹操は、あくまで、後漢献帝の宰相であって、天子ではなかったのであり、その遺志で没後に造成された慎ましい墓陵に薄葬されたのであり、近年に至るまで、その墓域は知られていなかったのです。曹魏文帝曹丕は、皇帝として「寿陵」、つまり、生前造墓を指示したので、自身の指示通りの薄葬としていたものです。
 そして、「卑弥呼」は、「親魏倭王」なる格別の称号を受けたので、当然、従前に無い、魏制に適(かな)う墓陵を造成したはずであり、それは「倭人伝」に予め書かれている「封土」であったと考えるしかないのです。
 つまり、整地した土中に遺骸を収め、盛り土して「冢」としたと見るべきなのです。「径百歩」は、造成の土地面積を明示したものであり、在世中の居処からさほど遠からぬ所に設定した「方百歩」の正方形の土地に、径で示される円丘を設けたものであり「封土」の精神から、石積みなどで固めたものではないと見えます。
 石積みなどするには、石材の切り出しと運送が伴うことから、農民の大量動員を必要とし、「薄葬」の精神を逸脱するものであり、そのような時代錯誤は実行されなかったものと見えます。毎度登場する形容ですが、「倭人」には、牛馬の労役がなかったので、大規模な土木工事は、農民に苦役を強いるものであり、当時の時代風潮にそぐわないものと見えるのです。言うまでもなく、鉄鋼製工具の普及無しには、土木工事の前提となる樹木伐採、製材が不可能であり、ともども、文字教養、計算技術の普及無しには、想定されているような大規模な建物の構築はありえなかったのです。
 世上、原因不明の膨張主義が横行し、「卑弥呼」の治世に、数世紀後と思える巨大帝国の画像を投影している例がありますが、牛馬労役の不在にはじまる社会基礎構造の不備を見て明らかなように、根拠の無い過度の誇張が蔓延っているのは、業界振興のためとは言え、傷ましいものがあります。

*「径百歩の真相」
 夢想でなく、時代考証をもとに想定すると、「方百歩」は、一辺一歩(ぶ)(1.5㍍)の面積単位「方歩」によって計量したものであり、現代風に言えば、「百平方歩」と言うべきものと考えますが、漢代以来士人の基礎教養とされていた「九章算術」では、字順を整えて、長さの単位である「歩」と、専門外の分野での著作で混同/混用されることを避けたものと見えます。
 以上、榊原氏に相応しい理詰めの説明で字数を費やしましたが、結論を言うと、用地を示す「方百歩」は、面積単位の「歩」をもとにすると、一辺十歩(15㍍)の方形と見え、その内部に、盛り土を設けることから、「冢」の墳丘自体は、直径15㍍を下回る形状が想定されます。要するに、時代相応の想定では、卑弥呼は「大家」といえども、墓制は、大層な規模ではなかったと想定されるのです。
 後年、牛馬、鉄鋼製工具、文字教養、計算技術などが順次整う時代になって、石積みを伴う大規模な墳丘墓が造成される時代が来たと想定されますが、それは、「冢」でなく「大塚」とでも呼ばれたものと推定されますが、当方の圏外でもあるので、推定に留めます。

*「卑弥呼伝」の終わり~私見御免
 陳寿が、あえて史官の信条を越えて「倭人伝」「卑弥呼条」を「書き上げた」背景を推定すると、年若くして女王になった「卑弥呼」の生涯の主要部を書かずして、老齢に話が及ぶはずはないのです。陳寿は、「伝」を立てるにあたって、入念に取材し、女王を顕彰すべく記述したはずで不似合いです。むしろ、思いがけない「夭折」で、諸人に悼まれ、簡潔で、速やかな葬礼が行われたと見えます。
 奴婢の「徇葬」百名と書くのは、身分の低い者達が、多数葬列に参加し喪に服したと見えるのです。なにしろ、行人偏の「徇」ですから、何か行動を起こしたと見えるのです。一番「常識的」なのは服喪です。あるいは、用地を整備し、女王を埋葬し、土盛りして封土するのが、「徇葬」だったとも考えられます。

 世上の通説派の愚行ですが、勝手に「徇葬」を「殉葬」と改竄して、更に、「殉死」と誇張して、女王の埋葬時に、百人を巻き添えにしたと解している例があるのは、通説派の史書改竄の手口の一例となっていて、まことに嘆かわしいものです。当時、中国では、君主の埋葬の際に殉死させるのは蛮習の極みであって、陳寿が、女王の死に際して、そのように汚名を着せる記事を書くことはあり得ないのです。

*思い込まれた女王像
 榊原氏は、伊都国博物館館長の立場上、「卑弥呼が、長く権力の座にあって、広く列島の諸国を、神がかりで支配した」と俗耳に馴染んだ、ありふれた「説話」/「おとぎ話」を支持せざるを得ないのでしょうが、それは倭人伝」文献解釈を超えた「憶測」、「創作」と見えます。
 「倭人伝」には、共立後の女王在位中の威勢は、何も書かれていないのです。

                                未完

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