「長大」論

魏志倭人伝の「長大」に関する論義です

2026年3月 6日 (金)

新・私の本棚 浦野 文孝 2 魏志倭人伝の7つの矛盾… 1/4 2026

と「卑弥呼博多/邪馬台国大和説」
私の見立て 星二つ ★★☆☆☆ 言葉余って、意足らず 2026/02/26 2026/03/06

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

◯始めに
 当記事は、「邪馬台国」に始まり、改竄用語を多用していますが、氏に倣うと、当方が誤用同意と引用されかねないので、コメントでは、当ブログの原文尊重方針に従い、極力訂正しています。

*引用(中略あり)とコメント 
魏志倭人伝(には)…不審な個所が…素直に読み進め…ないことがあります。
魏志倭人伝では、倭国が「遠い南の大国」…と…紹介し…ました…それだけではなく、あち…こち…矛盾…が…見られます。…
この記事では、「魏志倭人伝の矛盾」…で…矛盾…を…検討します。…
魏志倭人伝現代語訳:渡邉義浩『魏志倭人伝の謎を解く』(中公新書…

目次
1.魏志倭人伝の矛盾する記述
➊伊都国の代々の王
▶伊都国に到着する。…代々王がおり、みな女王国に統属している
▶倭国は乱れて、(国々が)互いに攻撃しあうことが何年も続き、そこで一人の女性を共に立てて王とした。名を卑弥呼という
卑弥呼は倭国乱を終息させるために共立されました。伊都国…王が女王国に統属した(従った)のは卑弥呼共立後のはずです。伊都国の(昔からの)代々の王が女王国に統属していたというのは矛盾しています。

コメント 「はずです」と勝手に一説を押しつけておいて、それなら「自己矛盾」していると弾劾するのは、明らかに「自己矛盾」です。普通、伊都国が、諸国に妥協して、「一女子」を「女王」に共立し、以後、従属したと言う事ではないでしょうか。史官は、伊都国王と女王の関係を粉飾する動機がないので、わかりやすく説明しているはずです。読み取れないのは、現代東夷の独解力が不足しているからではないでしょうか。いや、ここで、浦野氏が頑張って我を張っても、何の意味もないのです。因みに、中国語で言う「一女子」とは、身分の高い、有力氏族の子女であって、未成年女子であり、「一人の女性」などと言う正体不明の怪しげな人ではないのです。

*渡邊義浩氏の託宣
 「一説」は、渡邉義浩氏新書本で提示の解釈のようです。渡邉氏は、笵曄「後漢書」、陳寿「三国志」を中心とする古代史書に関して権威者、人によっては、意味不明の第一人者の「尊号」を戴冠されています。ただし、氏は、陳寿「三国志」「倭人伝」解釈は、国内史学界で多年に亘り熟慮が尽くされているのに対して門外の初心者と自認され、史学界の権益を忖度して筆を整えていらっしゃるので、これをもって、「倭人伝」弾劾の根拠とするのは、御大に対して大変失礼です。
 同書の端々に、世上の、いわゆる「通説」を是正する指摘がありますが、紛糾を起こして疎外されないように、ひっそりと筆を舐めていらっしゃいます。そもそも、浦野氏は、御大の新書を読み通したのでしょうか。

*閑話休題
 普通に考えると、伊都国は旧来、諸国を統率をしたが女王国創設以後は、代々その指揮下と見るものでしょう。御提案は、「倭人伝」の記事に拘わらず、太古以来「女王国」が存在していたとの、途方もない決めつけで不具合です。
 滑り出しで、あからさまな誤解、曲解が多発していますが、誰も、不適切だと注意してなかったのでしょうか。先行文献は、渡邊氏の新書の読みかじりに対する、氏の解釈だけであり、渡邊氏に対して失礼極まりないでしょうが、参照が明示されずに盗用されている諸賢に比べると、まだましかもしれません。

➋2つの奴国
▶伊都国から東南に…奴国に至るまで百里
▶女王国より北は…戸数や道里は…記載できるが、その他の旁国は遠く隔たって…詳細に…できない。…つぎに奴国がある。…女王の…尽きる所である。
奴国が行程と旁国の2ヶ所に出てきます。…同じ国だと思います。行程の奴国には魏…使…は立ち寄って…、詳細にできます。しかし、旁国は詳細にできないと述べています。…重複して…異なる紹介をされています。

                                未完

新・私の本棚 浦野 文孝 2 魏志倭人伝の7つの矛盾… 2/4 2026

と「卑弥呼博多/邪馬台国大和説」
私の見立て 星二つ ★★☆☆☆ 言葉余って、意足らず 2026/02/26 2026/03/06

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*引用とコメント 承前
コメント 奴国が行程上とは一解釈とは言え、史官の真意としては、余傍の国と明記されているとみる解釈がむしろ有力です。氏の「矛盾」は、氏の解釈の齟齬が「自己矛盾」の根拠と見えます。帰謬法で、仮定の間違いが証されているようです。

➌入れ墨と朱丹
▶…男子は大人と子供の別なく、みな顔面と身体に入れ墨をしている。
▶朱や丹をその身体に塗ることは、中国で白粉…を用いるようなものである
入れ墨をして、朱丹を体に塗ることがあるでしょうか。…

コメント 子供に刺青とは、児童虐待です。大人、小人は、身分の差です。
 弥生・古墳代出土物が、三世紀倭の風俗写生とは臆測に過ぎません。正確な解釈ができていないのに、正確な判断は不可能と見えます。

➍伊都国に置いた大率
▶九州北部から南に…投馬国に至る。水…行…二十日…南に…邪馬台国に至る。女王が都を置いているところである。水…行…十日、陸…行…一月
▶女王国より北には、特別に一人の大率…を置き、諸国を監察させている。…(大率は)常に伊都国を治所とする

コメント 定番ですが、行程の果ては、女王之処たる邪馬壹国であり、また、女王の居城を「女王国」と同一との解釈は一説であり、絶対ではありません。

女王国=邪馬台国だとすると、「女王国より北」というのは対馬国・一支国・末盧国・伊都国・奴国・不弥国・投馬国の7カ国を指すはずです。そうだとすると、九州北部より南に水行20日も離れた投馬国を、伊都国に置いた大率が監察することになってしまいます。そんなことはありえません。

コメント 行程解釈が混乱しています。投馬国が女王国の北というのは、ずいぶん無理やりのこじつけでしょう。それでは、自己矛盾で頓挫するから、伊都国以降の三カ国は、伊都国起点の傍路行程と見る解釈が有力なのです。
 して見ると、「女王国以北」は、伊都国、末盧国、一大国、対海国の四ヵ国であり、道里としては、周旋、往来五千余里ですが、それぞれ、数日の日数であり、巡回指導としても何の不思議もないのです。一方、道里なし、戸数杜撰で、日常、報告連絡参上しない遠隔無縁の投馬国は監察不能です。
 また、「邪馬壹国」は、蕃夷の女王之処で無法な「王都」ではないのです。従って、続く「都水行十日陸行一月」は、行程所要日数の総括であり、都合水行十日と陸行一月(三十日)が示されていると見るものです。
 ここに到るまでに、仮説道中の分岐点があったはずなのですが、袋小路に踏みこんだために「自己矛盾」を生み出したとお気づきでは無いのでしょうか。「そんなことはありえません」などと泣き言で済むものではないのです。

➎卑弥呼の墓
▶正始八年…(狗奴国と)互いに攻撃しあっている様子を報告させた
▶卑弥呼が死去したため、大いに冢…を作った。径は百余歩(約百四十四メートル)、殉葬する者は奴婢百余人であった
▶…男王を立てたが、国中は服せず、相互に殺し合い…千余人を殺した
卑弥呼の死去は、狗奴国との戦乱中…と思われます。死後に…混乱が起きています。そんな時に大きな王墓をつくれたとは考えられません。なお、魏志倭人伝からは、卑弥呼の王墓は寿陵…とは読み取れません。

                                未完

新・私の本棚 浦野 文孝 2 魏志倭人伝の7つの矛盾… 3/4 2026

と「卑弥呼博多/邪馬台国大和説」
私の見立て 星二つ ★★☆☆☆ 言葉余って、意足らず 2026/02/26 2026/03/06

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*引用とコメント 承前
コメント 2026/03/05 補充
 世上出回っているとは言え、市井の一研究者の立場を堅持されているにしては、出典不明の「俗説」「通説」に従って、勝手に原文を改竄し、なかんずく、「倭人伝」に展開されている精緻な数値体系に関して、稚拙と言われかねない誤解の混乱を拡散するのは、残念です。

*原文改竄による誤解の拡散
 「冢」は、倭人伝に明記されているように、土饅頭、封土(盛り土)です。
 「径百余歩(ぶ)」は、この文脈では、明らかに土地の「広さ」(面積単位)です。ご先祖様以来、一族の葬られている累代墓地ですから、一辺十歩の方形「百平方歩」用地内に設けた(円形の)「冢」が至当です。略15㍍角の敷地内の掘削、埋葬、盛土なので、労役で動員されたのは、徇葬百余人とあるように奴婢、公務員の一ヵ月公務でしょう。通いの手弁当で済みので、宿舎など不要です。要するに、徇葬者は、奴婢、官奴の身分ながら、貴人葬礼に連なったのですから、名誉でもあるのです。ということで、仕事の量で言うなら、百人の短期間従事であり、公務には、支障ないのです。善良な公務員の殺戮など論外です。
 本件を、近郊に設けられない、100㍍を超える未曽有の墳丘墓と誤解し、念の入ったことに、正史に明記されている「徇葬」を、勝手に取り違えて「殉葬」と史料改竄して、途方もない「殉死」扱いとするのは、誠に無残です。
 以下、改竄解釈に従うなら、殺戮された百人の埋葬には、いくらなんでも、「冢」の数十倍の用地が必要であり、とても、従来の墓地には収容できません。そして、それだけの遺体を埋葬する労力は、どこから調達するのでしょうか。とても、通いの手弁当ではできないので、宿舎を設け、寝食を提供する必要があります。そして、「殉死」と言うものの、実際は殺戮なのです。死せる女王の名声を血塗られたものにして、後継の王は、何を勝ち得るのでしょうか。未曽有の暴君と言われるだけでしょう。そのような、「親魏倭王」にあるまじき暴挙は、倭人伝に、一切書かれていないのです。にも拘わらず、自家製の勝手な古代浪漫に整合させる史料改竄は、不朽の名声を「飾る」ものとなり、まことに勿体ないことです。

*不合理な改竄
 一部で愛好されている血なまぐさい、いわゆる「俗説」、「通説」を脇に退(ど)けて、礼制論義に戻れば、世上の大規模墳丘墓論は、魏制に無く、礼法では、地下埋葬が絶対なので、高々と盛り土した納棺は、光栄ある「親魏倭王」の葬礼に反しています。繰り返しになりますが、「倭人伝」には、そのような蕃制は描かれていないのです。纏向説論者は、史料を遮二無二改竄して、箸墓にこじつけているのです。よい子は、真似しないように。
 因みに、当時の諍(いさか)いは、力比べであり、総力戦の殺しあいではないのです。もともと氏神を共有する氏子同士であり、精々「不和」というだけで喪中の攻撃などないのです。この点、部族間の殺しあいと略奪の争いが続いていた「中国」文明の有り様と異なるのであり、中国史書に先例を求めるのは、誤解の嵐を呼び込むことになるのです。陳寿が明記しているように、「倭人」には、「中国」文明の弊風は伝わっていないのです。
 曹魏は、後漢末乱世に後漢皇帝陵墓が大々的に墓荒らしされたのを見ていて薄葬を厳命したので、十年で済まない生前造墓の巨大な王墓など論外です。

➏邪馬台国を訪れていないのに卑弥呼に拝仮
▶(不弥国から)南…投馬国に至る。水を行くこと二十日である。…南…邪馬台国に至る。水を行くこと十日、陸を行くこと一月である
▶卑弥呼は鬼道を行い、…人々を眩惑した。…年配で…夫を持たず、男…弟が…統治を助け…る。王とな…り以来、…見た…者は少ない。婢千人を…侍らせ、ただ一人…男子が…給仕し、言辞を伝え…る。…宮室は、楼観と城柵を…設け、…武器…守衛している
▶正始元(二四〇)年…梯儁…倭国に至らせ、倭王卑弥呼に拝仮…した
邪馬台国に至るまで60日…としていますが、途中国の描写はありません…

コメント 又も説明不足、意味不明です。最前示したように、郡から倭までの規定は「都合四十日」です。因みに、行程終点の伊都国から邪馬壹国は道里、日数のない至近とみると自然です。あるいは、伊都国国王治と女王之居処は、それこそ、スープの冷めない間柄だったと見えます。
 これは、景初二年六月の倭使参上以前に曹魏皇帝に報告されていた公式報告で伝聞ではありません。年代ものの勝手読みはいつ終焉するのでしょうか。

*誤読の帳尻合わせ
 なお、邪馬壹国(邪馬台国)に至るまで60日などと、自説を押し付けていますが、そのように解釈するのは、「牽強付会」そのものです。現に、辻褄が合わないのですから、無理やり前進するのは止めて、出発点である「倭人伝」原本に立ち返るのが、帰謬法を解消する唯一の正論でしょう。
 因みに、倭人伝の女王国記事は、実は、伊都国と狗奴国の記事が史官の手に至る前に継承の途中で併合されたものなのです。えらい南方の記事と見えるのは、南方狗奴国の記事なのです。 (水野 祐「評釈倭人伝」の説く所に従う)

*卑弥呼の出自推定
 なにしろ、「倭人伝」原文に忠実に従うと、卑弥呼は、共立されたとき「一女子」であり、字の通り解すると、(男王の)娘が嫁ぎ先で産んだ娘「外孫」であり、卑弥呼が十五歳で共立されたとすると、外祖父に当たる男王は五十代の壮年なので、伊都国王としては、健在だったと見えます。一方、卑弥呼の実父は、四十代とも見え、微妙な親族関係にあったと見えます。両者の妥協が成立したのは、卑弥呼が、両者にとって、子孫であったからであり、古人曰く「子は鎹(かすがい)」です。
 卑弥呼は、王族の季女であり、幼くして定めに従い終生不婚の巫女であり、若くして祖霊鬼道に事え、人の感動を誘っても眩惑などしないのです。曲解は控えたいものです。
 女王は、幼くして共立され、景初時点で、「近来、長大、成人した」と書かれているので、精々二十歳です。男性の元服は二十歳としても、女性の成人年齢は、十五歳かもしれません。
 いずれにしても、幼くして終生不婚の巫女なので、当然配偶者はいません。男王の外孫、一女子として女王に推戴されてから、朝見することは少なく、臣下は書面稟申し女王が裁可します。それ以外の場は、実家の巫女であり、俗解との交流を断つように、小山に設けた細やかな居処/祭神処で過ごしていたと見えます。「倭人伝」の公式記事には、多くの奴婢に傅かれていたというものの、そのような、古代、地域王にしては多数の人材を養うには、多大な「私財」が必要であり、私有財を有しない女王には、少数の奴婢以外は無用と見えます。

卑弥呼や王宮の描写は具体的で…詔書と印綬…を拝仮しています。

コメント 観点の違いですが、「倭人伝」に卑弥呼自身の描写は無いに等しく、居処の描写は、史書の典型につられて観念的であって具体性に欠けます。
 「王宮」など、どなたの夢想なのか、時代錯誤の見当外れです。コミックかぶれなのか、公共放送制作の戯作につられたのか、残念な錯誤です。

                                未完

新・私の本棚 浦野 文孝 2 魏志倭人伝の7つの矛盾… 4/4 2026

と「卑弥呼博多/邪馬台国大和説」
私の見立て 星二つ ★★☆☆☆ 言葉余って、意足らず 2026/02/26 2026/03/06

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*引用とコメント 承前
魏の使者は邪馬台国を訪れていないのに、卑弥呼に会っています。


コメント 後ればせながら点検すると、正始使節は、郡使です。「中国」の天子が、直接蕃王に遣使することはないのです。
 郡使は、魏使の数段格下です。郡使は女王本人と対面しなかったとしても、全権を負託された大夫と面談したと明記すべきです。でないと、梯儁は任務不達成で馘首です。
 でも、なぜ、郡使は、勅命に背いて、道半ばで引き返すのでしょうか。いくら、勅命を発した天子が他界しているにしても、遺命として下賜物を届けているのであり、中国の勅命は、厳守しなければならないのです。

*「倭人伝」道里記事の成行 2026/03/06
 そして、山成す誤解の霧を振り払うと、「倭人伝」の道里記事は、「倭人」が、「郡」に参上して、服従を誓った際に提出した身上の一部であり、まずは、郡から倭まで万二千余里は、その際に取り消し不能なものとして登録されたと見えます。但し、その時点で、「郡」は、漢武帝創設の楽浪郡であり、時点は、後漢献帝が放浪の果てに、曹操の保護下で、許昌に権力機構を再構築しようとしていた建安年間初頭なので、楽浪郡としては、「倭人」の身上を、郡の公文書である郡志に記載したものの、新参の東夷を、許昌の天子のもとに参上させることに思いが及ばなかったと見えます。なにしろ、後漢の官僚機構は、霊帝没後、献帝就職の際に生じた混乱は、国家崩壊に近いものでした。まずは、暴君董卓による長安遷都により、大半の機構は移転したのですが、一部機関は洛陽に残存したので、帝国としての機能は、東西二都構成になったのです。なにしろ、王莽が漢帝国に一旦終止符を打ち、新が長安に建国した際、帝国機構は、引きつづき全国を支配したのですが、反乱によって、新が滅亡し、後漢光武帝が漢帝国を再構築した際、荒廃した長安は放棄され、東都洛陽に漢帝国が再建されたのです。
 ということで、献帝の遷都と言っても、荒廃した旧都の建造物を再建した上で、必須の機構を移動しただけであり、董卓政権の崩壊によって、長安再建は挫折したと見えます。と言うと、内政の混乱が予想されますが、既に、帝国各地の諸侯は、自立を果たしていて、献帝の発する命令が、長安、洛陽の統治機構を経て発せられ、それぞれの命令の発信源に報告が上程されるかたちで、大帝国の両都が併存していたのです。そのような状態で、許昌を本拠とする曹操が、長安から脱出していた放浪の天子を収容したため、許昌を帝都とする統治機構が創設されたのです。とはいえ、許昌は、帝都として維持されたわけではないので、長安、洛陽の既存機構からも、皇帝の命令が発行されていたのです。
 曹操は、献帝のもと、宰相、さらには、「魏王」として、権力を行使していたのですが、最後まで、洛陽を帝都として天下に号令することは避けていたので、各地の勢力にとって、いかに権力者に追従するか、対応が別れたのです。衆知の如く、会稽の旧地に自立していた孫権は、後漢の郡太守を標榜していたために、献帝に対して忠誠を誓っても、名目上は、自身と同格に過ぎない曹操の「権力」に臣従することは拒んでいたのです。また、一時、献帝のもとで、親族中の年長者、皇叔として尊重されていた劉備は、曹操に警戒されて許都から脱出し、言わば、私兵と共に定住の地を求めていたものです。言わば、三国史の前奏状態であったのが、後漢献帝建安年間なのです。
 ということで、本題に戻ると、「倭人」が、「郡」に参上した時点で、東夷の管理を受託していた楽浪郡は、地域統括であった遼東郡太守公孫氏の支配下にあって、「倭人」の皇帝への臣従を取り次ごうにも、自立の意気を示していた公孫氏に制されていたのです。さらには、公孫氏は、東夷の中でも、漢、濊の両勢力に続いて、その南方に居住していると見える「倭人」支配は、楽浪郡の管轄から切り離した帯方郡に移管したものと見えます。
 恐らく、その背景のもと、郡から、韓国の東南部に位置する狗邪韓国に至る街道が開通し、区間の難関であった小白山地越えの竹嶺(チョンリ)越え街道が開通したものと見えます。
 街道を設定するためには、区間内の所定の箇所に、宿場を設けて、宿泊、食糧供給と替え馬の提供を義務づける必要があり、さらには、街道の補修維持を課するため、通過する諸国に対して責務を課す必要があり、そのためには、諸国に於いて戸籍に基づく農政が不可欠なのですから、帯方郡創設以前、荒れ地として、郡の管理を逃れていた地域を郡制の基礎としたものです。ちなみに、帯方郡創設時、黄海岸における交易は、楽浪郡の管理下であり、重大な収入源であったため、「馬韓」領域の開発は、漢江河口部に近い先進地域の山島半島莱州との交易に限られていたのですから、その東方に拡がっていた「嶺東」と呼ばれる宏大な地域は、東方から西方に続いた後、黄海沿岸を残して南下する高度五千尺(1,500㍍)近い小白山地の山嶺に隔てられていたのです。このため、南北の交通はさえぎられていて、街道が設けられず、長らく、文明の曙光の及ばない未開地であったのです。

*嶺東の地勢確認
 同地域は、大河洛東江の流域であったため、水利として灌漑に恵まれていたとみなされ、また、河流が高低差の少ない緩やかなもので水運に適していたとみなされているようです。しかし、洛東江は、はるか太古以来河流が大地を深く浸食して深刻な河谷を形成していたため、小白山地の水源まで、河岸と河面の高低差が大きく、農地への灌漑が困難となっていることが見て取れるはずです。つまり、広域に水田稲作を展開することが困難であり、また、陸上交通も、高地を行く細径以外は困難であったのです。二十世紀冒頭の日本統治時代初期、あらたに獲得した旧「朝鮮国」地域の内情を視察した官僚は、広大な嶺東地域の平野部にも水田稲作が展開せず、貧弱な生産高に止まっているのを見て、「朝鮮国」の権力者が、国民の福利を意図しない放漫な政権であったことを歎いたとされています。なにしろ、全国を通じて、近代化の基盤となる鉄道、道路、電信網が存在せず、義務教育制度も無く、古代王国の世界であったとしています。

*「帯方郡」の嶺東振興策
 それはそれとして、帯方郡は、嶺東地域の振興策の端緒として、地域の鉄山の振興に着目したようです。郡の事業として取り組むのでなく、地域に出入りする濊、韓、倭の東夷勢力に、鉄山事業の共存を赦(ゆる)し、産鉄を、東夷の自己負担で「郡」に搬送することを前提に、その一部を、東夷が持ち帰ることを許したのです。これにより、郡は、少数の管理者を常駐させるだけで、鉄山事業を運用することができたのです。
 これが、郡管理の管理体制とすると、管理者は、しかるべき高官で、少なからぬ部下を備えていて、組織を維持するのに必要な産鉄量を達成するために、東夷勢力を酷使することになり、略奪や反抗を統制するために警備を強化しなければならないのです。また、街道警備も、行程諸国に対して強権を発動することになり、全体として多大な「費用」を要する大事業になってしまうのです。
 さらに言うなら、地域には、中国基準である「通貨」である銅銭が通用していないので、基本的な通貨である「米穀」で運用しなければならないのですが、同地域は、農業生産の乏しい未開地であるので、結局、鉄山事業は、成立しないのです。

*「嶺東境」漢郡の幻想 
 古代史論者の中には、漢武帝の設立した「郡」の一郡を嶺東地域に仮想した方もいらっしゃいますが、以上で推定したように、当地域には、「郡」の設立に要する税収源、そして、その前提となる農産物収量が存在しないので、後漢代に至っても、嶺東は未開だったのです。
 所詮、漢武帝は、「朝鮮国」支配を没収して「郡」の管理下にしたとしても、漢が滅ぼしたのは、半島北部の「朝鮮」領域であり、韓の領域である半島南部は支配下に無かったのですから、漢武帝が野心を持ったとしても、組織化されていない未開地に「郡」を創設するのは、無謀と見えるのです。もともと、「嶺東」には、支配するに足る産物は無く、支配の根拠となる農産も無かったから、「朝鮮」国は支配していなかったのであり、そのような貧困の世界に自立できる「郡」を設立するというのは、「幻想」に過ぎないのです。

*「銕の路」の創設
 それはさておき、名のみ輝かしい東夷である濊、韓、倭の実態の貧弱さを確認した「郡」の采配により、もっぱら東夷の尽力により嶺東の産鉄を「郡」に納入する低廉な事業構造が成立したので、以後、「郡」から「大海」岸の「拘邪韓国」に至る街道が開通したのであり、その結果、大海の対岸に当たる「倭人」に至る行程の概要、所要日数が確認できたので、郡から倭まで万二千余里、その内訳けとして、郡から拘邪韓国までを七千余里とする按分が成立したものと見えるのです。

*内陸街道の確立するから、それまでは、道里の推定すらできなかったのであり、初見時の「従郡至倭万二千余里」が、書き換えの許されない不朽の公式道里となったのです。
 ということで、以上の延々たる余談は、意義のある「倭人伝」道里記事の端緒としたいものです。

➐1万2000里と水行陸行
魏志倭人伝の最大の矛盾です。魏…使…出発地…郡…から女王国(卑弥呼の都)まで1万2000里…。九州上陸の末盧国…までの里数を合計すると1万里(残り2000里)、伊都国…まで1万500里(残り1500里)ですから、残り里数を考えると、女王国は九州から出ることはありません。
※僕は魏志倭人伝の里数は誇大で、相対的にも不正確だと考えています(短里のような一定の基準はなかった)。ただし、国の順番や女王国が伊都国から離れたところにあった…と思います。
ところが、九州北部から邪馬台国までは、船で30日(20日+10日)、歩いて1ヶ月もかかると記述しています。女王国=邪馬台国だとすると、残り1500里に60日かか…りますが、そんな日数がかかるはずはありません。

コメント 重複を厭わずに指摘すると、女王国が卑弥呼の「都」というのは、正始蛮夷伝の書法に反していて、年代物の東夷錯誤です。魏使と言いながら、出発地を帯方郡とするのは、いささか混乱しています。
 先ほどまで述べたように、「従郡至倭」は、後漢代、帯方郡創設以前の記事と見えます。史料としての道里の起源は、笵曄「後漢書」東夷列伝倭条の記事ですから、否定には、感情的な陳寿誹謗以外の論拠が必要です。

 繰り返しになりますが、「倭人」の初参上時、帯方郡は存在せず、半島陸行の街道里数も未設定のため、臆測で楽浪郡の接客地「檄」から倭国治への渡海点「拘邪韓国」を七千余里としたと見えます。全行程万二千余里は、公孫氏が、郡太守権限に従い混乱の洛陽に報告せず定義し、後年史官は、事務的に内訳を試み、そこには、軽率な矛盾などなかったのです。

 氏の誤解には、錯覚と曲解が混在し、多くが先人の遺産の単調な継承ですから、今一度、貴論の論拠を再点検されることをお勧めします。論考の根拠を確証するのは、論者自身の最低の責務です。ここに示された文章は、論拠を示していないので、こりれに対して疑念を抱く善意の読者に対して、批評の立証責任を問い詰めるのは、お門違いです。

 掲載図は、出典、根拠不明ですが、伊都国以南が華麗な「自己矛盾」を呈し、提示の意図が理解できません。これでは、何の説明にもなりません。それでなくても、勝手な作図は、見るものによって解釈が大きく異なるので、議論が混乱すること請け合いです。三世紀当時、知識人は、文章によって論理を展開していたのであり、生煮えの論理が、強引に表現されている「イメージ」など、読者の「理解」にとって邪魔でしかないのです。

 現に、当図は、あちこちで混乱しています。現代地名と倭人伝国名がごった煮で、ソウル(漢城)はカタカナむき出しです。時代地名、国名に限定すべきでしょう。「唐津」は、唐代黄海岸海港「唐津」(タンジン)でしょう。これでは、行程道里が「千余里」単位であることが隠され、無残な闇なべ状態です。概念図としても、「千余里」と五「百里」が仕分けできないべたべたであり、投馬国「水行」二十日は、道里すら不明であるのに整然と書き込まれて随分不都合です。
 本図は、せいぜい無根拠、無意味、無断盗用ですが、錯誤の責任者は別なのでしょうか。

矛盾の謎解き
中略 僕の「卑弥呼博多/邪馬台国大和説」はこのように導かれました。もちろん、これで決着だと断言できるわけではありませんが、従来の九州説、大和説に加えて、この説も注目されることを願っています。

以下、ノーコメント

◯最後に
 誤解と見過ごしの上に、年代物の混沌に、寄って集(たか)って目鼻を書いた上で、新規の「矛盾」を創造された氏の弁明に触れません。
 当方の批判は、ここまででもすでに長々しいでしょうから、このへんで筆を置きますが、論理的な批判に論理的な反応を期待したもので他意はありません。当ブログ筆者たる当方の深意を理解いただきたいのです。
 ただし、大半の一般読者は、氏の論義の言葉尻を囓り取って、自説比定地に組みしていないと見て、さっさと退席されるでしょうが、これは仕方ないことです。

                                以上

2026年1月22日 (木)

新・私の本棚 番外 西村 秀己 古田史学会報 127号 「短里と景初」… 2026

…誰がいつ短里制度を布いたのか? 古田史学会報 127号 (ネット公開)  2015/04/15
私の見立て 星三つ ★★★☆☆ 思い余って言葉足らず 2020/12/13 追記 2021/04/02, 04/12 2024/05/06 2025/02/21, 06/09 2026/01/17, 01/22

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

▢はじめに
 当記事は、古賀達也氏ブログの最新記事で踏襲されているので、最新論考とみて、あえて、非礼を省みず率直な(部分)批判を試みたものである。
 今回、2026年 年初改定にあたり、身辺に雑事が続いて途中停滞し、一時的に撤回状態になったのは、不出来であったと反省しています。(2026/01/22)

◯論考のほころび~景初初頭短里施行の検証
 案ずるに、『「景初短里」圏外の長「里」が、三国志編纂時に換算され、処理に窮した端(はした)を「数*里」表記した』との部分的仮説の検証であり、以下の引用で主旨は尽くされていると思う。氏の気風で、広く論拠を求めるという趣旨は、賛辞を呈するが、公開に際して、今少し凝縮いただきたかったと思うものである。
 そこで三国志の陳寿の本文から、[中略](検証に関係しない用例を除くすべての)「里」を年代別に並べてみた。(本紀はともかく、列伝は年号を明記していないものが比較的多い。特に対象の人物の若いころのエピソードははっきりどの年代なのか判別できないものも多いので、間違いがあるかも知れないが、大勢には影響がないと思われるのでご容赦願いたい)
 表をご覧戴ければお判りのように、「数〇里」の出現比率は、
 漢=二一・三% 蜀=三三・三% 呉=四〇・〇% 魏の黄初~青龍=三七・五%
 ところが
 魏の景初以降=五・三%
 つまり、短里の施行は景初初頭という仮説にピタリと一致しているのである。

*過度の精密表記~速断の弊
 当記事は、「数*里」限定だから、中略部は空振りとしても、断片的データ計算結果に過度に精密な数字を提示し、「ピタリと一致」とは不合理である。穏当な漢数字表記でも、元々不確か、うろ覚えの原データの信頼性であるから、二、三、四割が妥当と思われる。有効数字として一桁も覚束ない数字に0.1㌫表現は、児戯で非科学的である。
 漢数字でも、三世紀当時は、小数のない時代なので、氏の表示は時代錯誤である。あるいは、五分の一、三分の一、五分の二とでも表現するのであろうか。そもそも、漢文は縦書きが大原則であり、扁額掲示のような例外では、右から、左への横書きである。

 数字表記の意義は後回しとしても、自認されているように、お手盛りの試料選択で都合の良い検討を重ねて、景初以降五㌫と言っても、試料批判ができないものでは、ついて行けないのである。
 いい方を変えてみると、サンプル個数と個別評価が不明なので、統計数値として意味があるだけの数なのかどうか、判定しようがない。つまり、「ピタリと一致」と言うのは、根拠の無い速断なのである。
 いずれにしろ、胡散臭い精密な数字の陳列は、古代史論には無用である。
 さらに言えば、各数字は、各サンプルの意義次第であり、数字の字面論議で済む議論ではない。言い募るほどに論者の見識を疑わせるだけである。
 些末であるが、「数〇里」の表記は、検索、検証が困難であるので、再考いただきたいものである。提案したいのは、「数*里」である。

 以上は、偶々、当史論の批判の機会に書き立てただけで、言うまでもないことながら、大半は、西村氏個人に独特のものではなく、まして、古田史学会にだけ存在している風潮でもなく、むしろ、広く古代史論全般を見る限り大半の論者と同列の書法なので、「史学論に科学はない」と言いたくなるほどである。

 心ある方は、是非、古代史論は、せめて原資料と同等の漢数字書法にしていただきたいものである。

◯場違いな用例の山積
 正史の道里表記の検証には、記録の正当性の検証が必要であり、それには、厖大な立証努力、試錬を要する。(鍛冶が刀剣を鍛えるように、叩いて焼き入れして、真っ直ぐで強靱なものにするという意味である)

*補追 2025/06/09
 まして、「公式道里」は、一度公文書に刻印されたら、一切、後日の変更/改竄は不可能なのである。実際、太古に設定された、西都「長安」東都「洛陽」の間の道里は、両都の実際の位置が変動しても、不変であったのである。遼東郡、楽浪郡と東都との公式道里は、それぞれ、秦始皇帝、漢武帝の創設以来、郡治の異動に拘わらず、一定なのである。因みに、後漢東都にして曹魏首都とされた洛陽から後漢末献帝建安年間に創設された帯方郡までの公式道里は、笵曄「後漢書」に補充された司馬彪「続漢紀」志部(続漢志)に、記録されていない。つまり、正史蛮夷伝である「倭人伝」に書かれている「郡」からの道里は、帯方郡を示すものでないことは自明である。
*補追完

 つまり、偶々、何れかの記事に書かれている「道里」が「短里」で書かれているように見えたとしても、それは、国家の制度として実施されていたことを証する効力はないので、科学的な史学論議として、無意味な徒労なのである。それは、記録の数をいたずらに増やしても意味がないのである。これは、夙に古田武彦氏が高らかに指摘しているものであることを、書き付けるものである。

*「三国志」の個性再確認 補追あり 2025/06/09
 通常、「三国志」の構成史書は、「魏志」、「蜀志」、「呉志」と言い慣わされているが、三国志の諸志というと、紛らわしいことがあるので、本編に限っては、「魏国志」、「蜀国志」、「呉国志」と呼ぶことにしている。
 これら三篇の「国志」は、それぞれの別の書き手によって整えられた史書の編纂であるから、当然、別の方針で編纂されているので、必ずしも、三国志としての統一語法、思想で編纂されているわけではないことは、公に意見を述べる程の品格の諸兄には、周知と思う。(『「周知」と勝手に言うが、俺は知らん』などと反論しないでほしいものである)

 各国志は、それぞれの「天子」の諸制度をもとに書かれているが、仮に、魏朝が、漢朝以来の確固たる里制を変更する蛮行があっても、何よりも、曹魏を後漢帝制の不法な簒奪者「偽/賊」と見ている蜀漢では、そのような不法な変更は、絶対に施行されない。

 「蜀国志」は、建前上、「漢史」稿であり、当然、採用されるのは、漢制であり、陳寿は、「蜀国志」を「魏国志」と峻別している以上、里制をいわゆる「魏短里」制(仮に、曹魏に置いてそのような制度が施行されたとしても、ということであって、「魏短里」制が実在したと言ってるわけではない)に書き替えたりしない。いや、蜀漢皇帝を先主、後主とし、両主に本紀を立てないが、蜀国志の細目に(無法な変改の)手を入れていない。

 「呉国志」は、東呉韋昭編纂の「呉書」が土台であり、その主旨は同様である。
 東呉は、本来、後漢に服属していたが、霊帝没後の天下大乱の際に、権力を奪った董卓に叛旗を翻して自立し、江東に地歩を築いたものであり、その後、曹操が天下の中心部を把握して、そこに、亡国の天子献帝を迎え入れて、後漢を復興した形を整えても、東呉は、曹操の覇権を全面的には受け入れなかったのである。曹操没後、曹丕が献帝から天下を譲られても、そのような茶番劇による曹魏簒奪は正統な継承とは見ていないということのようである。東呉は、後に、時に曹魏に臣従表明したが、全面的に屈従したのではない。勝手に元号を設定し、戸籍を報告することも、版図を献じることも無かったのである。何しろ、孫権は、曹操を「爺さん」として半ば敬意を表していたが、曹丕は、「長大」、つまり元服したばかりの「小僧っ子」であり、曹叡は乳臭い「ひよっこ」であったから、服従など論外であったのである。

 ということで、仮に「魏短里」制が強行されたとしても、当然、東呉は相手にしなかったのであり、当然、(仮に、曹魏に置いてそのような制度が施行されたとしても、ということであって、「魏短里」制が実在したと言ってるわけではない) 「呉国志」には、そのような不法な制度は書かれていない。
 反面、東呉皇帝は、公然と、後漢を継ぐ天子と名乗ったわけではない。東呉天下の所領の戸籍は、後漢代戸籍を継承していたが、当然、曹魏に報告したものではないから、曹魏天下の戸数は、東呉戸数を含んでいない。例えば、会稽郡を分郡して南部を建安郡としたが、別に、曹魏に報告してはいないから、魏志には、記録されていない。もっとも、魏志は、志部をもたないから、公然と、東呉の自立を認めたわけでもない。その他、呉志に地理志や郡国志があって、そのような郡制の変革を明記していたわけでも無い。
 してみると、陳寿「三国志」に「志部」が存在しないのは、根拠となる「三国を包括した公文書が整備されていなかった」からであろうと見られるのである。
 そして、東呉において、史官を設けて「国志」を記録したと言っても、例えば、東呉の「鴻臚」を設けて、蕃夷の服属を記録したものでなく、従って、呉国志に蛮夷伝は存在しないのは、むしろ順当である。

 このように、「魏国志」、「蜀国志」、「呉国志」が併存しつつ、「三国志」が編纂されたという事態であるから、安直な「三国志」統一史観のもとでの史料分析は、ほぼ無意味である。

 ついでながら、蜀漢は、後漢の正統な後継であって、曹魏を、不法な簒奪と指弾しているので、仮に、史官が「漢史」稿を編纂していたとしても、曹魏に対して降服する際に献上することは不穏であり、仮に献上しても、「蜀書」として嘉納されず、廃棄されたと推察されるのである。合わせて、蜀漢の公文書も、廃棄されたものと見えるのである。この点、韋昭「呉書」が、曹魏に対する不服従の記録と解釈されて嘉納されたのと大きく異なる点である。
 陳寿は、そのような齟齬を承知の上で、蜀漢には史官がいなかったため、「蜀書」が編纂されていなかったとの口実で、残存現地史料を渉猟して、差し障りのない「蜀国志」を補充したと見えるのである。そのような配慮を認められて、多年に亘る不法な「北伐」を史実として収録することができたと見えるから、大局的に見て陳寿の士誠は酬いられたと見えるのである。 (2026/01/22)

◯まとめ
 当論考は、元々不確実な「魏晋朝短里」説の論証として、全く不十分と見える。
 残念ながら、曹魏明帝「景初初頭短里施行」仮説は、即刻却下判定である。もちろん、本稿で指摘しているのは、仮説論証過程の不備であって、仮説自体の合理性を論じたのではない。それは別儀である。
 ただし、視点を変えて、論証批判という見地から云うと、「景初初頭短里施行」仮説は、論証以前に随分無理がある。

 国家制度としての里制変革は、具体的な実施条件まで含めた、大部の要項が必要であり、また、各地で実施したときの多大な紛糾の記録が残る。仮に実施されたと言うのであれば、それが、曹魏創業時であろうが、明帝景初時点であろうが、明確な記録が残されているはずなのである。正史に、明確な記録がないというのは、そのような制度変革は「なかった」という、堅固な証左である。

 古田武彦氏は、仮想した「短里制」の終焉として、建康で再興した東晋の復古政策によると固執しているが、長安、雒陽の公文書のほとんどを喪った後、一端、国家大業として「短里制」を施行していたのであるなら、選りに選って、反逆の徒の治世下であった蜀漢、東呉の旧地で再興/復古したとみるのは、どうであろうか。
 ちなみに、東晋創業後の国策は中原回復であり、全国は中原を含むものであるから、制度変革などとても手につかなかったと見るものである。

 また、後続の「晋書」地理志において、秦漢代以来の制度変遷を回顧している中に、そのような制度変更の形跡を一切とどめていないのも、実施されていない架空の変革と思わされるのである。

 正史「晋書」は、大唐太宗李世民が直々に房玄齢に指示して編纂されたと言っても、西晋代から続く各家晋書稿を集積しているので、晋代の「重大な史実」を書き漏らしてはいないのである。
 また「晋書」 は、「魏志」が備えていない「志」(范曄「後漢書」も、補追された「続漢志」しかない)を完備しているので、魏晋代の記録を補完しているものと見える南朝梁代に編纂された沈約「宋書」は、後漢、曹魏、東呉、蜀漢、司馬晋の史料を拾い集めた記事を「州郡志」に収録しているが、魏晋代に公式道里を改竄したとは書いていないと見える。

*笵曄「後漢書」異聞~余談
 因みに、笵曄「後漢書」李賢注が引用する沈約「宋書」謝𠑊伝によれば、第三者(謝𠑊)は、笵曄から編纂依頼されていた「志部」の完稿を用意していたが、笵曄が大逆罪に連坐して処刑され後漢書未完稿が没収されたと聞いて、連座/処刑、志部没収を避けるため死蔵したと書かれているということである。その結果、笵曄「後漢書」は、本紀、列伝の完成を見ず、また、重大な「志部」が欠落した不完全な形で、宋代以降継承された趣旨が書かれていたようである。梁代末の大乱、及び、陳代の南朝亡国の煽りで、「宋書」謝𠑊伝は、佚文となり、「宋書」現行刊本から消失したようである。確実なのは、梁代の「宋書」編纂時点で、笵曄「後漢書」は、不完全/不安定な状態で継承されていたことが推察されるということである。(2026/01/22 一部補充)

*閑話休題
 そのように、安定した資料に基づいて確実な史観を確定すれば、「陳寿の里制換算想定」は「なかった」の一言で「蛇足」となり、明解である。

 古代史論で、「何かの制度変革がなかったと言うには、そのような史料がないと言うだけでは不十分だ」とする(どこか別の論議で聞いたような)抗弁が聞こえてくるが、国家制度の根幹を揺るがす制度変革が「一級史料に全く記録されていない」(明記されていない)というのは、史料批判どころか、史料の本質に反するとんでもない言いがかりであり、そのような提案には「重大な立証義務が伴う」と思うのである。

                               以上

2025年12月13日 (土)

新・私の本棚 仁藤 敦史 「卑弥呼と台与 倭国の女王たち」 1/2 2025

 山川出版社 日本史リブレット001 2009年10月刊
 私の見立て★★★☆☆ 癒やしがたい「屈折史観」 2024/09/14 2025/08/10, 12/13

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

◯はじめに
 仁藤氏は、文学博士であり、本書刊行時には、国立歴史民俗博物館(歴博)教授であったとされている。歴博を代表する論者と見られることから、氏が推敲を尽くした本書に対して遠慮の無い批判が可能と見たものである。つまり、本書に示された同氏の見識に対して疑念を投げ掛ける批判も許されると思うのである。本書の論考は、多くの部分で陳寿「三国志」「魏志倭人伝」に基づくはずであり、氏の解釈に疑問が存在するが、氏は大半の点で付注を避けたので、氏の解釈を率直に批判する。

*年長不嫁(仮称)
 最初の例として、卑弥呼は「歳をとっても夫はもたず」と評されている。これは、年代ものの原文誤解と思われるが、氏は根拠を明示しない。また、以後の論考で、この解釈は援用されない。ちなみに、ここに勝手に掲示した「年長不嫁」(仮称)は、范曄「後漢書」東夷伝倭条の創作である。
 「一般的」には、「年已長大」「無夫婿」の解釈のようであるが、順当な解釈では「成人した」「配偶者はいない」と解すべき「事実報告」が、随分野放図に意訳されている。どうも、近作NHKテレビ番組で俗耳に訴える「卑弥呼」大王神話に不可欠な「恣意」であるから、回心しようがないようである。
 中国史料として前後文脈を解釈すと、卑弥呼は、男王の娘が嫁ぎ先で産んだ「女子」(外孫)であり、季女(末娘)であったため、幼時から「巫女」として祖霊に耳を傾け、当然、生涯不婚の身分であったと見える。
 それが、年稚(わかく)して「女王」に共立され、景初遣使に近い時期の年頭に十五歳になって成人したが、出自が、母の実家との釣り合いを保っていたために、両家にとって女王の中立性を保証していたと見える。ついでながら言うと、有力者の娘は年若くして嫁ぐものであり、成人時に未婚の可能性は無いに等しいから、生来、不婚の「巫女」として「家」を守っていと見るものではないか。

 僅かな字数であるが、氏は、組織伝来の時代考証の欠けた無教養な「読み」に依拠し、一種「職業災害」(Occupational Hazard)と言われかねないが、疾病でなく、健康保険対象外である。(つけるクスリが無い)

*「少有見者」
 「女王となってから人前に姿を現さず」というのは、一種、誤解であり、正しくは「女王として朝見することは少なかった」のである。近親と生活を共にしていたし、奴婢とも顔を合わせていたのである。
 但し、当今NHKテレビ番組が暴露した全身を曝した御前会議の獅子吼などありえない。同番組は、遺物・遺跡考古学の権威として大変高名な歴博松木教授の中国正史文書考証なる異分野史学の監修とされるが、仁藤氏は局外だろうか。組織変節に諫言しないのでは、氏の学術上の良心は何処か、と嘆くしかない。

*「屈折史観」の悲喜劇
 以下、本著は、全体としては、氏の良識が反映された快著であるが、党議拘束されているためか、倭人伝の「史料批判」が屈折していてもったいない。良識が折れたら、「火熨斗」で折り目を正すものではないかと思われる。
 三世紀当時、史書編纂は中国のみであり、蛮夷に史書はない。「優良」などと納まらず、謙虚に「倭人伝」を取り入れ、謙虚に自己批判すべきかと思われる。
 また、「三国志」で魏書にのみ東夷伝が存在する点に、年代もののもったいを付けているが、要するに曹魏にしか東夷伝の原資料が調っていなかったのである。三国鼎立と言うものの、後漢の文書管理部局を受け継いだのは、禅譲で天下を受け継いだ曹魏だけであり、東呉は、あくまで、後漢の地方政権であって、天下を有さず、蜀漢は後漢後継を謳っても、天下を把握する文書管理部局は存在せず、天子の行状を「実録」に日々書き留める史官もいなかった。当然、両国には、中国として外夷を管理する鴻廬も存在していない。すなわち、呉書、蜀書に、外夷伝がないのは当然である。曹魏の関知しない外夷公式来貢は、雒陽公文書にないから魏書に採用されることは無い。

 中国史料の解釈は、中国の常識、教養に従うべきであり、二千年後生の無教養な東夷が寄って集(たか)って「小田原評定」するものではないのではないか、と素人は愚考する。

                               未完

新・私の本棚 仁藤 敦史 「卑弥呼と台与 倭国の女王たち」 2/2 2025

 山川出版社 日本史リブレット001 2009年10月刊
 私の見立て★★★☆☆ 癒やしがたい「屈折史観」 2024/09/14 2025/08/10, 12/13

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*退路無き文献論
 氏は、苦し紛れに/戯れに、陳寿「三国志」のテキストが南宋刊本までしか遡れないと言うが、それは、素人考え、大きな考え違いである。

*時代錯誤させる「ルーツ」乱入
 氏は、古代史に何の因縁もない俗語「ルーツ」まで持ち込んで論旨を混濁させるが、「ルーツ」は、アフリカから拐帯され米国に売り飛ばされた黒人の末裔が、遥か後世になってアフリカの地を訪ね、先祖の後裔と奇跡的に邂逅した物語であり、氏のような良識の体現者が、時代環境が大いに異なる東夷談議で持ち出すべき言葉ではない。

*「ソース」談議
 ことが「ソース」、原典探索であれば、陳寿没後百五十年の南朝劉宋史官裴松之が、当時健在であった民間風評まで含めて史料考証の上、蛇足めいた冗語を、ヤボを承知で付加したことを見落としている。なにしろ、後漢書決定版を半ば以上まで完成していた范曄を、皇帝廃絶の隠謀に加担したと一家連坐して処刑し、未完稿を没収して私蔵した「取り巻き」を重用していた劉宋文帝の勅命であるから、清濁併せて、山ほど補追して、三国志完成の栄誉を望んだ皇帝の宿願を叶えて見せるしかなかったのである。
 ちなみに、范曄は、後漢書「志部」編纂を共著者に附託し「志部」は完稿状態にあったのだが、范曄受難を知ったことから、連坐を恐れて、志部完成稿を隠匿し遂(おお)せたということである。おかげで、范曄は、正史として肝要な志部編纂を怠ったとの汚名まで被ったが、それは、裴松之の三国志補追の価値を損なうものではない。裴松之注(裴注)は、劉宋時点で、西晋崩壊を越えて継承された陳寿原文と峻別できるので、原著の権威を堅持しているのである。

 さらにちなみに、北宋以前の「三国志」善本は、裴注挿入の際に改行していて、南宋以降の諸本のように、本文の一行を二分して、半分の文字で記入する「割注」はしていないようである。「割り注」は、写本工にたいへんな負担/労力をかけ、また、誤写の原因となるので、常用されていなかったと見るものである。世上、高級写本以外は、略字を常用していたとの乱暴な説が唱えられているようなので、ますます、「割注」は、南宋以後の木版による刊本時代の産物と見えるのである。
 もっとも、刊本が登場しても、地方への配付はなかったはずであり、依然として、各地に於いては、貴重な刊本を種本とした新鮮な写本による普及が行われていたものであるから、以上の理窟は、絶対的なものではないのである。

 誤解が出回っているので是正を図ると、三國志の同時代最高のものは、あくまで、写本謹製のものであり、世間に誤写本が出回っても、一切、影響を受けずに継承されたものと考えるべきである。帝国の精密写本の権威から外れた「野良写本」は、それなりの品質と価格で、西域敦煌までたどり着いていたようであるが、末端の写本の誤字、誤記は、時代最高の国宝である帝室原本に溯ることは、絶対に無いのである。

*有り得ない「同一」願望
 勿論、陳寿原本と現存刊本が完全に同一のはずはないが、心有る史学者は、テキストとしての一貫性を克明に検証すべきである。年代ものの「子供だましの冗談」は、乞われた骨董品として、黄泉に還し、世間を惑わすのは、休み休みにして欲しいものである。

*付け足しの「邪馬壹国」論
 氏は、ここまで放念していた「邪馬壹国」を論じるが、遙か後世、司馬遷「史記」、班固「漢書」と並ぶ「三史」と尊重され、時に「漢書」と合わせて、「両漢書」と尊称されたとはいえ、後漢書「邪馬臺国」を崇拝するのは、勿体ない。御自愛いただきたいものである。ちなみに、「臺與」は、魏志「倭人伝」にも後漢書「倭条」にもない「絵空事」である。
 つい先ほど、生齧りの「ルーツ」まで持ちだして、三国志「魏志倭人伝」の岩盤の如きテキストに喧嘩を売ったのに対して、一転、范曄「後漢書」東夷列伝倭条を崇拝する不当さに気が回らないのだろうか。
 ちなみに、范曄「後漢書」は、劉宋文帝が范曄を斬首してその時点の未定稿を押収したものであり、当然、確定稿でない仮普請であり、范曄原本は、もともと存在しない。氏は、なにをどう考えて、范曄「後漢書」東夷伝「倭条」を、無謬聖典と崇拝するのだろうか。
 史料考察に、原本実物の確認は要らない、氏の豊かな常識で、自覚いただけるはずである。
 ちなみに、ここで信頼性を問われているのは、范曄「後漢書」全般でなく、東夷伝の端っこの「倭条」であり、氏の史料批判を逃れているのが不思議である。

*夢幻の東夷世界
 以降、公孫氏時代を含めた遼東・東夷形勢が綴られるが、氏の限界なのか原資料の混乱なのか、楽浪郡の混乱期、東夷倭人の雒陽参上が論じられる。卑弥呼の生まれる遙か以前の後漢中平年間に「卑弥呼」の使者が参上したという仮定は、無謀と言われかねない。
 『「倭人伝」によれば』と称して、卑弥呼が二世紀後半に倭の乱を平定したしているのはとんだ神がかりである。
 「倭人伝」が確実に述べているのは、景初から正始にかけての報告であり、それ以前に年少にして女王に就職した卑弥呼が、成人(数えで十五歳か)に達したことであり、半世紀時間錯誤されている卑弥呼の出生を、はるばる遡らせているのは、むしろ滑稽である。俗に「卑弥呼」襲名説まで担がれている。そのため、「成人した」という至って普通な言葉である「年長大」を、強引に老婆説としている。やんぬるかな(已矣乎)。
 「倭奴国」の後漢光武帝参詣以後、定期的貢献の記録が乏しいのに、突如、公孫氏時代になって殺到したのが、不審ではないのだろうか。

 要するに、氏の周囲には、厳格に史料批判されていない後世史料/創作文芸がのさばっているのであり、それを担ぎ出すのは、氏の見識を疑わせるものである。「倭人伝」解釈は氏の圏外なのだろうが、氏の批判精神が休眠して、祖霊のお告げに対して口移し状態にあるのは、困ったものである。

◯結語
 以上は、あくまで当ブログの見識の限界/圏内である。NHKがはやし立てている、やたらと調子のよい『倭女王「暴れんぼう」評判記』など、部外者の知るところではない。

                                以上

2025年12月 1日 (月)

新・私の本棚 瀧音 能之 新書紹介 卑弥呼の王都は畿内以外ありえない 2025改

考古学の専門家が日本神話から読み解く「邪馬台国の誕生秘史」 プレジデントオンライン  2025/10/09
 私の見立て 部分評 ☆ 星一つ 空疎な絶叫    2025/10/10, 10/13, 12/01

瀧音 能之『発掘された日本神話 最新考古学が解き明かす古事記と日本書紀』(宝島社新書)
卑弥呼の王都は畿内以外ありえない…考古学の専門家が日本神話から読み解く「邪馬台国の誕生秘史」 アマテラスの「天岩戸神話」は火山噴火を表している

◯はじめに
 「プレジデントオンライン」の抜粋紹介であるが、原著者が承認した要約と見て苦言した。但し、これではご当人に不名誉ではないかと苦慮した。
 そもそも、「考古学」の「専門家」は「文献」史料では「門外漢」であるから、このような惹句で景気づけしても、逆効果と見える。

◯引用とコメント
卑弥呼を女王とする邪馬台国がどこにあったのか、いまだに論争が続いている。…瀧音能之さんは「北部九州連合と瀬戸内海東部・畿内連合の大連合によって誕生したのが卑弥呼政権であり、王都として未開拓の畿内が新たに選ばれたと考えられる」という――。

コメント 触れ込みが空転である。物々しい言い回しを、当ブログ流に解すと、『「纏向」地域は、当時未開の荒れ地であったが、「九州」勢力が東方に進出し、途上で「架空の地域連合勢力」を制圧して、「当時未開拓」の土地である奈良盆地東部、山麓地帯に着地した』という解釈と見える。「架空の地域連合勢力」と殊更注釈するのは、文献史料に全く根拠の無い、未検証の「思い付き」、精々、個人的な「作業仮説」と見えるからである。
 特に、古代文献に有り得ない「連合」を多用するのは、疑問の残る主張である。
 要するに、過去、現在の「論争」を卓袱台返しで一切合切放りだして、ご自身の「新説」御膳で饗応しようという近年はやりの新趣向と見える。誠に大胆不敵である。
 このあたりで、当て外れで、面目を失った「畿内説」の信奉者が、大量に途中退席するのが見える気がする。
 
 それにしても、掲載抜粋の大半が「魏志倭人伝」(以下、「倭人伝」)に無関係な現代産の物々しい創作であり、当ブログにとって圏外であるので、本来、口を挟めないのである。
 一方、以下は、最終ページの「倭人伝」の個性的な改竄/リメイクの批判であり、タイトルに全く関係無い放談に色々異議/異論がタントあるので、細かく、丁寧に苦言を呈しているものである。(詳しくは、別稿がある)

『魏志』倭人伝では、卑弥呼が立てられたのは188年頃とされる。タウポ火山の噴火から10年弱で卑弥呼政権は誕生したことになる。

コメント ここで、中国史料を持ち出してつなぎ込もうとするのだが、瀧音氏は、中国史書の権威者でなく原文を講読したとは思えないのに、なぜ、今さら、なんで、赫赫たる新解釈を主張されるのか、不審そのものである。
 一言で言えば、「倭人伝」には、タウポ火山などという記事はない。普通に/自然に解釈し卑弥呼の共立を考証すると景初二年(238年)に成人に達した、つまり、年頭に数えで18歳になったと「倭人伝」に明記されていると見えるから、生誕は220年頃、数えで15歳で共立となると、235年の即位となる。半世紀近くずり上げた188年に共立とは、何か、夕食に悪いものを食べたのだろうか。(😃)

 いや、戯れ言はさておき、氏が立論しているのは、史料原文の解釈で超絶技巧を極めた芸術的解釈の、年代もののとは言え、遙か後世、無教養な東夷が練り上げた古典文学であり、陳寿「三国志」を下敷きにした「三国志演義」が人口に膾炙しているように、「魏志倭人伝」を下敷きにした「倭人伝」演義のように見えるのである。どなたのどの論説に立脚しているのか明記していただかないと、氏は、すべての新説を創作したとして、非難/批判を浴びるのである。まことに勿体ないことである。

卑弥呼政権の王都があった邪馬台国がどこにあったか、現在でも畿内説と九州説を主として論争が続いているが、ここでは畿内説を取ることにする。

コメント 「論争」を戦争蟻の争いに例えるのは、中國古典に良く見られるが、氏の指摘は、何のことか意味不明である。その程度の位置付けなら、九州説を採られたら面白いのではないか。
 「倭人伝」には「卑弥呼政権」もなければ、「王都」もない。何の幻だろうか。
 「記紀」か出土遺物に明記されているなら、正史を無残に改竄して後世に不滅の汚名を残さなくても、日本のない「日本列島」に「日本神話」象牙の塔を確立できるのではないか。纏向に、「倭人伝」は似合わない、と言うべきか。

3世紀初頭に突如として出現した纏向遺跡は、面積約300万平方メートルに及ぶ巨大集落であり、遺跡全体に水路が巡らされた計画都市だった。

コメント 突如として出現した纏向遺跡というが、遺跡がいきなり出現することなど有り得ない。まずは、建物などが構築されたのが、放棄され、残った柱跡などが、現代になって発掘されたのが、「遺跡」と見るものではないか。当時の皆さんに、「遺跡」と問い掛けたら、まだ生きとるわい、と罵倒されそうである。(😃)
 それにしても、三世紀初頭は「考古学」の最新成果だろうか。
 「遺跡」が七桁平方㍍とは、不思議な聚落面積表示である。
 「遺跡」が「計画都市」とは、不可解な時代錯誤である。誰が十㌢㍍単位で精測、縄張りしたのか。
 地域全体に水路を巡らすなど、どう考えても不可能である。いや、仮に造作したとして、生活道路無しにどう運用したのだろうか。水路の両岸を嵩上げして掲げた橋下を、川船が追加したのだろうか。

さらに発見された建造物は南北約19.2メートル、東西約12.4メートルに及び、付随する建築物の軸線をそろえた最先端かつ最大級の建築物群である。これほどの規模の王都…は、日本列島で卑弥呼政権以外にあり得ないためだ。

コメント 確かに、南北約19.2㍍、東西約12.4㍍の建造物は、当時として無類の建築だろうが、それ以外の、300万平方㍍の遺跡は見渡す限りの荒れ地と水路だろうか。他所にそのような遺跡はないだろう。遺跡に「建築物群が出土」とは初耳である。さぞかし、見物だったであろう。

畿内説のウィークポイントは、北部九州の先進性に対して、畿内の後進性が挙げられる。畿内勢力は銅鐸文化圏を形成した一大勢力ではあるが、北部九州や吉備、出雲などに対して、強力な首長は誕生せず、鉄器や銅鏡などの出土数が少ない。
 以下略

コメント 九州説を選択していたら、惨めな泣き言は言わずに済んだのではないか。「強力な首長」とは、どんな史料に書き残されているのだろうか。
それにしても、纏向遺跡に羽振りをきかせた一大勢力であった「畿内勢力」は、どこに消えたのか。当ブログの圏外の話題なので、深入りはしない。

                               以上

2025年11月30日 (日)

新・私の本棚 邪馬台国の会 第367回講演記録~長大論 1/3 2025

        2018/04/26 2024/03/27 2025/11/30
第367回 邪馬台国の会 1 中国・後漢末の動乱 2 倭国の大乱 3 古代青銅鏡小史
私の見立て 星満票 ★★★★★ 絶賛 2倭国の大乱 の当部分に限る

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明を明らかにしない不法な進入者があり、大量に盗用していると見えるが、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

◯はじめに
 当ブログ記事は、安本美典氏主催「邪馬台国の会」が、概算で三十年を越えて、ほぼ月例で開催している講演の記録紹介と批判である。当ブログで「批判」が論点否定でないのは、いつもの通りである。
 首掲サイト記事の講演会記録は筆者紹介がなく、主催者安本氏が書かれたとしている。失礼があればご容赦いただきたい。

□長大---長大(ひととなる)
『魏志倭人伝』につぎの文がある。
卑弥呼の年齢について述べた個所である。
「年、已(すで)に長大なれども、夫壻(ふせい)無し。」


 この文のなかの「年已(すで)に長大なれども」とはどういう意味であろう。なんとなく「おばあさんであるが」という意味のような印象を受ける。「おばあさん」とはいかないまでも、「年をとっても」などと翻訳されていることが多い。
 しかし、ここの「長大」はその上よな(ママ)意味ではない。「成人したけれども」あるいは「大人になったけれども」の意味である。それは、日本の古典の使用例からも、中国の文献の使用例からも、そう言える。

*明解・堅実な論考
 上記引用部に始まる安本氏の論考は、古代史学界の泰斗にふさわしく、論拠と論旨が明快であるので、このような明言をいただき感謝すること大である。
 まず、「」で、筑摩書房版三国志魏書の日本語訳を引用され、いわゆる「定説」に対して、内外文献を根拠に合理的な「長大論」を展開される筆致は燦然たるものがある。
 「倭人伝」の「長大」の解釈を論じて、壮語を避け、着実に足場を踏み固めて論説する進め方は、論旨に同意できない方達も、物書きとして大いに参考とすべきであると考える。

*私見 2025/11/30
 但し、氏の解釈は、「年已(すで)に長大なれども」の訳文に反映されていないので、物足りないのである。愚考するに、ここは、国王の季女(すえむすめ)であったことから、幼少から生涯不婚の「巫女」として訓育されていたとの背景を察するべきであり、まずは、稚くして女王に共立されたものの最近、つまり、この新年(景初年間か)に「成人に達した」との客観的な叙述であり、(当然)「配偶者はいない」に自然につながるものと思われるのである。
 当見解は、当方のしばらく前からの持論であり、これが、初出ではない。

*豊富な古典用例
 私見では、日本の古典の用例は、後世資料であるので、参考でしかないと思うのだが、その執筆時点で継承されていた字義を示していて、数世紀遡った三世紀に典拠とされていた字義、すなわち、「長大」は、現代語でも言う「成人となる」(動詞表現)で使われていたとの用例解釈は尊重すべきである。当ブログ筆者が浅学の分野であるが、「論じ方」に賛成する。

*余言あり
 余計な素人考えかも知れないが、ここは、個別用例の学術的評価であるから、各用例の評価を怜悧に揺らさず、「文脈から、然々(しかじか)の意味で用いられていると見る」と揃えた方が、拙く(つたなく)見えても、一般読者が解釈に困らなくて良いのではないか。

                                                    未完

新・私の本棚 邪馬台国の会 第367回講演記録~長大論 2/3 2025

        2018/04/26 2024/03/27 2025/11/30
第367回 邪馬台国の会 1 中国・後漢末の動乱 2 倭国の大乱 3 古代青銅鏡小史
私の見立て 星満票 ★★★★★ 絶賛 2倭国の大乱 の当部分に限る

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明を明らかにしない不法な進入者があり、大量に盗用していると見えるが、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*余言2
 最後にあげられたのは、当ブログ筆者も検索・渉猟した中国史書用例であり、東夷伝で倭人伝に先立っている高句麗伝の用例に続いて、曹丕が帝位を継いだ西暦二百二十年、三十四歳の姿を「長大」と形容した例が示されていて、本用例については、当方からの考察を加えることができると考えた。

*呉書諸葛瑾伝
 この記事は、呉書諸葛瑾伝、即ち東呉孫権の重臣で、当時は呉王配下の左将軍の任にあり、東呉の建国と共に大将軍に上り詰めた諸葛瑾の伝の引用である。因みに、諸葛瑾は、三国鼎立時代前半に蜀漢宰相を務めた諸葛亮(孔明)の実兄として知られているが、政務に私情を交えなかったことで知られている。
 同記事は、諸葛左将軍の呉王孫権に対する進言を、東呉史官が「呉国史稿」に書き留めたものと思われ、東呉政権内部の言葉遣いそのままであって、三国志編者たる陳寿が、魏志記事に相応しい視点、用語で書き残したものではないと思われる。

*呉書と蜀書
 いや、予告無しの不意打ちで「呉国史稿」と呼んだ史料は、もちろん、実在のものではなく、東呉が、秦漢に続く国家としての呉を名乗り、皇帝を擁立した以上、必須とされる国志編纂史料/公文書を仮にそう呼んだのである。別に高度な史料でなく、後に、晋朝が発行した「晋起居註」のように、皇帝の日々の行動、発言を逐一記したものであり、書記役である史官が交替で君側に伺候して、ひたすら記録し続けるのである。

 陳寿の述懐として、蜀漢の国状は蜀漢に仕えて知っていたが、「漢の後継王朝と言いながら、先主劉備、後主劉禅の皇帝二代の君側に、然るべく史官が伺候していなかったので、正確な記録が残っていないことを歎いていた」が、呉については何も言い残していないので、史官が編纂した「呉国史稿」は残されていたのであろう。
 ただし、諸侯王は、自国の史稿を残すことを許されないので、亡国の際に廃棄されただろうが、史官の生き残りにより、密かに呉書が書き綴られたのだろう。

*補追 2024/03/27
 当記事執筆時点では、認識不足であったが、陳寿「三国志」に収録されている「呉志」の韋昭伝に明記されている韋昭編纂の「呉書」が亡国の際に西晋皇帝に献納されたと明記されていて、「呉国史稿」が、「呉志」として「三国志」に収録されたと知ることができる。
 陳寿は、史官の務めとして、「呉志」は、三国鼎立時の東呉の領分に関する所定の公文書/史実は、晋朝公文書庫に皇帝御覽文書として所蔵されていた「呉書」に依拠し、「天子ならぬ国主伝」の態を整えただけで、細部に手を加えること無しに上申したのであるから、「呉志」には、曹魏歴代君主であった曹操、曹丕、曹叡について、容赦ない形容が温存されている。
 就中、後漢建安年間、後漢宰相曹操が率いる官軍が、荊州討伐後に、余勢を駆って、東呉に対して服属を求めた際に、東呉孫権政権が敢然と対抗してこれを拒絶し、紛糾の後、漢軍が撤退したことが示されていて、曹操の面目を損なっているのだが、単に、漢軍が撤退したことに留めていて、世上風聞のある「赤壁の戦」の漢軍大敗の惨状はかかれていないのである。
 ちなみに、この事件では「呉志」の記事が不徹底であるとして、裴松之は、「呉志」周瑜伝に、東呉関係者の喧伝である「江表伝」を補追しているのであるから、誠に華麗な「蛇足」が、麗々しく出回っているのである。

*進言の背景・真意
 思うに、この進言は、在位六年で没した文帝曹丕について語ったものではなく、後継の明帝曹叡(西暦二百二十六年)が二十一歳の若輩で、実母たる皇太后の後ろ盾は無く、先帝の兄弟は、曹丕の邪魔にならないように早々に政権から排除され、また、皇帝見習いとしてむしろ酷使されていた曹丕自身と異なって、曹叡は洛陽政権から隔離、保護/温存されていたために自身の軍事、行政の実績が無く、従って武帝曹操、文帝曹丕以来の老臣の支持も乏しいという、まことに心細い曹魏皇帝の姿を評したものと思われる。
 重ねて言うが、陳寿「三国志」にあって、「呉志」に関しては、陳寿が編纂した部分は僅少で、実質上、韋昭「呉書」を蹈襲したものであり、また、採用されている戸数、道里、郡制は、東呉のものであって、曹魏に報告/承認されたものではないことを正しく認識しないと、史料としての解釈を誤るものである。まして、「呉志」に裴松之が追補した史料は、陳寿の本来知り得ない内容であるので、魏志に対する史料批判の論拠として採用できないものである。

                                        未完

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